富士門徒の沿革と教義

 

松本佐一郎

 

「富士門徒の沿革と教義」を読んだところで、編者の関心の高かったところを以下にピックアップして紹介いたしましょう!

 

序論

撰述の理由・・・ごもっとも。

門徒史略記

第1篇 血脈相承

二箇相承抜粋・・・「仏弟子たるのねうちは正しく仏法を知る処に在るので、譲状に依って其がきまるものではない。」ということでしょう。

口伝相承・・・松本説にも一理ありとの心証を強くした。富士門徒の談所に裏付け・補強を大いに期待したい。

両巻血脈・・・本因妙鈔の研究・解析手法などはまるで品位の高い推理小説でも読んでいるような気がして、すっかり引き込まれてしまいました。面白い!!

第2篇 本尊妙法漫荼羅

妙法大曼荼羅所顕法門・・・曼陀羅の考察を御書、口伝より研究 大変勉強になりました 

第3篇 相伝法門と富士門徒

血脈相承をめぐつて

弘安二年大漫荼羅・・・色々と議論が湧き出る課題です

日蓮本佛論・・・この章は本当に学ぶことが沢山あります。お陰で引用が長いですよ。

結論・・・・・・一寸あっけないのではと思うが。

あとがき・・・・感動しました。

 

 

 

 

 

 

 撰述の理由  

 

学徒が研究の結果を公表することは当然のことであって何も事々しくその理由を説明する必要は無いとも言へるが、本書に於てはこれをしなければならない特殊性があるので、前以てそれを申上げておきたい。

元来、宗教と科学は一体のものである。キリスト教ではこれが相違背するものであると考へられて過去に於て色々とうるさい問題が起ったことは周知の事で、今更ここで数へあげる必要も無い。しかし、仏教では本来この事は問題になるべきものでないことを、法華経法師功徳品に

以是 清浄 意根 乃至聞一偈一句 通達無量無辺之義――諸所説法 随其義趣 皆興実相 不相違背 若説俗間経書 治世語言資生業等 皆順正法

(編者注記)この清浄の意根を以て、乃至一偈一旬を聞くに、無量無辺の義を通達せん。――もろもろの説く所の法、其の義趣に随って皆実相と相違背せず。若し俗間の経書、治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん。

と説かれて、意根清浄に至った仏弟子は、科学に於ても正しい判断を為し得るとされる。この文の解釈は天台では相似即の位で始めて得られる力だとされるが、日蓮宗では名字即位で成仏すると立てるから意清浄に至るなどは理在絶言で仏弟子は正しく法を受持すれば必ず世間法に於ても正しい判断を為し得、相似の高位(天台大師さへ一段下の観行即だったといふ)に至らないでも、凡夫地に於て正しい科学的判断も為し得ると立てる。科学といへども毘盧舎那遍一切所の仏身の一部なのだから、其が仏法と背馳する事は有り得ない。食違ふとすれば其は科学の研究法が誤ってゐるか、叉は仏法の方が為実施権の方便の説法であるかどちらかで、其は但令用実の実相の法から照したとき、その誤も当然見出されなければならぬ。唯、科学は眼耳鼻舌身の五根を通して意根が活動して究められるものだから、九識心王の根本心の発動に対して沙汰し得るものではない。科学は九識を対照とする研究方法を持ち合はないのだから、ここまでを甲乙したら科学性そのものを失ってしまふ。それでは九識は科学を無視して自由勝手に振舞ふかといふとさうではない。前八識を超越して働くのだから、超科学とは言へるが反科学ではない。九識と六識が喧嘩したら人格の統一は失はれてしまふ。さういふ気狂は今の所談ではない。故に仏教史を科学によって取扱うことは何等差支えの無いことである。

しかし、宗教史には、哲学史芸術史と同様、他の文化史と異る困難さがある。其れは一般文化史は完全に六根認識の範囲に在って、其の点では科学と同一線上に在る為、客観性を保持し易いのに芸術、哲学、宗教等は七末那識以上の所感に属するものがあり(それ以下の低級なものもあるが)、科学的認識が不可能な点があることである。たとへば科学は理論としては虚数や第四次元、点、線、面等を思惟し得るが、これを認識することはできないのに、哲学や芸術は不連続の連続、味、さび、などを認識し得る。それだから哲学史や芸術史を研究する場合「さびとはかやうなものだと言はれてゐる」といふことはできるが、芭蕉の「さび」と虚子の「さび」を徹底的に比較することはできないし、又、文楽の「味」のわからない人の書いた摂津大掾伝は「頬貫の上からかゆきを掻く」如きこととなってしまふ。これに反して科学史ならば、「人間野口英世」の書けない人でも、「科学者野口博士」の伝なら、筆者がその学説や医学に就いての充分な知識と、史学の方法を知ってさへゐれば立派に書ける。「人間野口英世」を書くことは、野口氏や世界観や人生観がわからないと書けないから、此れは博士の哲学と、同一観点に立ちうる人でなければだめである。

宗教史もこれと同じ、といふよりはモット大きた困難を伴ふ。歴史家がある偉大な宗教家を伝することは、その人を理解しうる人であることを要し、而て多くの場合、といふより、あらゆる場合に於て、筆者は所述者と同等以上の宗教家である事は困難である。たとへ同等の力をもった人でも、能述者は既に史学者として修練しなければならなかったといふ立ちおくれがある。その上に相手は深層心理の活動する人で、あたり前の人間ではない。あたり前の人間として説くならそれも意味のない事とは言はれないが、それだけでは唯の偉人伝にたってしまって、それだけでも済む商人や武士の伝記に比べて、却って薄っぺらなものになる(1)。

教団史でもこれと同しで、唯、寺領の変遷や、僧綱の任叙を追廻したり、権力者との結び付きや貧民との交渉を叙述するだけでは、肉も魂も無い骸骨然たるものに終る。その教団の思想、戒律、宗論などを扱ふには、いやでもその教義を充分に理解することが必要で、そのためには教団の貫主と同等の知識が要求される事になり、教団史家は聖賢ででもなければなれないといふ、袋小路につき当ってしまふ。従って宗教史を論ずる時は次善の策として、ある程度教義の分った人がするより外いたし方なく、その場合教団外の人が手をつけると、とかく通り一遍のものしかできない事が多い。

歴史を書くとき、内部の人が書くとこまかい事情を知ってゐる事はプラスになるが、都合の悪い事は書きにくい。吾妻鑑が頼朝義経兄弟喧嘩の事情を詳述できなかったやうなものである。それだから内部の人が材料を提供して、外の人がまとめれば良いものが得られ易い。所が宗教史では記述者自身の教義に対する理解が外部の人では不充分な事が多い。充分理解したら信者になってしまふ。充分理解しなから教団外に在るなどといふことは、よほどの低劣宗教ででもなければありえない。この点、日本人でもドイツ医学史の書ける科学者とは趣を異にする。

外部の人で良いものを書くではないかと言はれるか知れないが、さういふのはたいてい教学の知識の足りない眼や、宗教的体験の充分でない人が見た時のみ立派に見えるものであって、教学眼から見れば何も分ってはゐないと思はれるやうなのが大部分だ。

大宗教家といはれるやうな人は多く第八識第九識といふ深層精神の活動する人だから、通常の人間の心理で扱ふと虎を描いて猫にする危険がある。有難や有難やで猫を虎と見る信徒史家も危険だが、通常人の枠に入り切らぬ聖者を、通常の学者や教育家なみに扱っても虎と猫の混同は変らない。日蓮が諸宗を攻撃したのは、さうしなければ新宗派を造れないからだとか、天台宗の復古運動の邪魔になったからだとか、なるべく平凡に平凡にと扱ったら一見科学的な論文ができるだらうが、真実の歴史はケシ飛んでしまふ。

日蓮の運動が初期――仏の爾前の経と思召せと自ら言って準備期にすぎないと定めた鎌倉の諸宗折伏期――に於て、天台宗復古運動の様相を呈したことは周知の通りであるが、その態度がそのままで終生保たれたのではない。

私はこの本で、佐渡以後の活動が、従来あまり明かにされてゐなかった仏教史の大転換であることを証明しえたと思ってゐる。それは唯、天台宗の慧解脱を信解脱に転換したとか、真言宗の大日如来を釈迦にとり入れて、釈迦報身の三世常住を立て、大日法身の空想性を現実のものとしたとか、念仏宗の弥陀念仏を釈迦念仏の題目に切り換へて此土成仏を立てたとかいふやうたものではない。実は右に述べた三項目さへ門外学者のナカナカこなし得る処ではないので、門外の学者は精々国家改造論に著眼する位な所なのだ。日蓮宗の大特徴はその仏身論に在る。これに依って大乗の特色たる菩薩信仰が最後の発展を見せて、菩薩仏が提唱され法先仏後の通説がひっくり返されて法仏同体の根本仏が示され、月氏の仏法が日本の仏法となり、遥かに大乗非仏説に対する伏線さへ張られてしまふのである(2).かういふ仏教史上の大事実は、既に宗門人の間では良く知られてゐたことであるにも拘はらず、其は全く教学の枠の中にとぢこめられて来た。その理由は一つにはこれを科学の立場から明かにする必要を認めなかった為でもあらうが、又、其をするに必要な科学者としての知識や、科学の場に展開する為の材料が乏しかった為でもあらう。然るに最近に至って日蓮宗宗学全書、富士宗学要集、本尊論資料、御本尊写真集等が出揃って資料は可成りの程度裕になった。

私は富士門徒の家に生れたから、親代々の信仰を無条件で受け継ぐことを嫌って方々を見て廻り、日蓮宗以外にはそれほど魅力を感じなかったが、国柱会の田中智学、山川智応、志村智鑑三居土や、慈龍窟の清水梁山居土などには大に傾倒して教を乞ひ、慈龍窟に住み込んだり、山川博士の松楓居学室同人に加へられたりして色々研鑚した後に、再び富士に戻って信乗院日淳上人の教を受けて今の領解に至った者であって、生えぬきの富士門徒で居ながら他門徒も知ってゐるし、日蓮宗門にゐながら他宗の寺でも教を受けた者で、富士門徒を最も良く理解してゐながら、しかも最も客観性を保ちうる立場に在る。

史学界で日蓮宗関係を扱ふ人は最近相当ふえてゐて、特に立正大学なとは良い論文の量産工場といった趣があるが、事富士門徒に関してはまことに暁天の星であり、それも創価学会の活動に刺戟されて出した、昔乍らの宗内問答的なものが殆ど全部といって良い。

本論で示すやうに、富士門徒には独自な法門が有って、其は仏教史上の重大問題を提供してゐる。然るに学界はその存在を知らず、論ずる者は有っても問答口になるのでトカク客観性を失った水の掛合になる。これはまことに仏教史界の「大缼点ニアラズヤ」で、私として、この存在を知った以上そっぽを向いてみることができないのである。

しかし、その法門の内容は甚だ高遠であって、科学の枠内に止めうるやうなものではない。さうかといって私としては自分の唯一の手持手段である史学に依って、引張り込めるだけは科学の領域に引きこまねばならぬ。それだからこの小論を書くに当っては、乏しきに鞭うって客観性の完壁を期した。われ乍ら神経質過ぎる位に石橋を叩いたつもりである。それでも従来の仏教学界の常識を破るやうな結論が次々と飛出して来る。其は当然といへば当然だが、そのために立論の客観性を疑はれることのないやうに、万全の策を講じたつもりであるが上手、ではない下手の手から水が漏ったら其は私の態度が悪かった為ではない。今まで宗門史家の誰もが手をつけなかった新路線の開拓をした者の、凡夫なるが為の手ぬかりであって、さういふ缼陥を科学者としての立場に立って批判される方からは、素直に御叱正をいただきたいと思ふ。若し其れ、宗論問答の渦中に史学を引張りこんで、富士門徒を叩く為や日蓮宗を殴る為、乃至は色眼鏡を掛けて見た為に私の言ふ事が分らなかったり、始めから自分前提を釘付けにしておいてその枠内だけで批判しようとするやうな人が若し有れば、そこまでは沙汰の限りではない。重ねて言ふ。これは史学論文であって、且それ以外の何物でもないのである。

史学論文ではあるが、対照は宗教だから、時には史学の枠を出て宗教そのものを論じなければならない時も有る。歴史家の宗教史が時にあまりにも史学的すぎて宗教学的価値が乏しなるのは、あまりにも頑固に史学の枠を守りすぎて――、或は宗教の理解不足の為に止むを得ず――宗教の域内に入りこまない為である。私が時に宗教の中に入りこむのはさうした缼陥を補ふ為であるが、その為に実証主義の足場を崩さないやうに、前以て充分な足場固めをした上で飛び上るやうにした。飛上った所だけを見て足場固めを見落としたり、足場だけ見て飛上った宗教史らしいサワリを見落されぬやう前以ってお願ひしておく。

これは私の富士門徒研究の序論である。私はこの論文に於て富士門徒上古の諸問題中、主とし口伝相承にあらはれた独特な法門と、それと関聯した教団内の動きにのみピントを合せた。其はこの問題が富士門徒を論ずる要となるものだからである。

(1)仏教一般又は大台宗を良く知ってゐても日蓮教学が不充分だと完全なものは書けないといふ例を、良い論文の中から少し挙げておく。

 相葉伸博士の『日蓮』に、「法然を謗法者として否認することを生涯の行願とした25」大学三郎女房が南無妙法蓮華経といふ代りに南無一乗妙典と唱へたのを「不可とするだけの強い根拠が無かった53」などとある。前者は本文の内に説いた。後者も後に本文中で明かになるが、南無一乗妙典では、三国四師の外用相承の線からも外れるが、それよりも文底の法華経を表現するのに都合が悪いから取らなかったので、南無妙法蓮華経で文底法華と本仏無作三身如来を表現しやうといふ計画が有ったから、八巻法華の異名にすぎない南無一乗妙典ではいけないのだが、それを教へてよい段取がまだついてないから言葉を濁したのである。

 大野達之助氏の『日蓮』には、地涌上行は仏陀の機用を擬人化したもので「蓮長自ら上行菩薩の再誕であると信じたように考へているが、経意は全く違っているー法華経述作者の原意と全く無関係40」。田辺池の祈雨で「甘雨がしとしとと降り出したといふ。勿論附会の捏造に過ぎない111」。竜口法難で「頸を法華経に捧げるとか、その功徳を父母に回向するとかいうことは、殉教思想から出てゐるのではあろうが、全くナンセンスで、法華経の根本思想とは何の関係もなく、況んや釈尊の教えとは雲泥萬里である124」。佐渡から赦免を得なければ「鎌倉に留ることは望ましいが、そうでなければ佐渡に留まって法華経を弘通し、死後霊鷺山の釈尊の許に趣くこそ本望であると覚悟していたに違いない151」。などと言って居られる。上行が仏陀の機用をあらはしたものだといふ法門などは相伝にあり、相伝を史料として用ひなかった大野氏が日蓮が之を知らなかったと考へられたのも無理とはいへぬが、叡山名与の学匠だった口蓮が其を知らなかったのではなく、新しい解釈を与へたのだ。既に新しい解釈を与へたものを天台流の法華経観や本田義英博士などに見られるやうな守文的解釈の枠に入れようとする方が間違ってゐる。大野氏の考へる「法華経の根本思想」や「釈尊の教え」が正しくて、日蓮のは勝手な解釈だといふやうな頑な態度でなく、日蓮が如何に法華経を活釈して現実の救ひの経となし得たかを見てゆくのが宗教史家の取るべき態度ではないのか。若し日蓮は法華をへし曲げたと言ふなら、それはそれで良いから論拠を明示すべきだ。結論だけ述べるのは実証的とはいはれない。田辺池の祈雨にしても、竜ノロの光物、星下りなどの奇蹟も、唯自分の経験から言って附会の捏造だと言ふなら、さうした奇蹟の伴ふ宗教史などは始からやらないが良い。そんなことを言ったら只管打座で真理を証得する禅宗や、三密加持の真言宗は奇蹟の連続だ。甘雨が降ったと伝へられてゐるが私には納得できないといふ位に止めなければ正しい記述とは言はれまい。日蓮が祈雨に失敗したとなったら当時の反対党は黙ってゐなかったらう。門下の人でもおとなしくはしてゐなかったらう事は同し御振舞妙の阿弥陀堂法印祈雨の条に見えてゐる。佐渡から鎌倉に帰れる見通しがあったことは、最蓮坊にも書き送ってゐるし、私も前に史学会大会で発表したことがある。当時法華の持経聖を遠流するなどといふことは大変な罰当り所為と考へられてゐたので、流した方が及び腰だったのだ。日蓮の赦免運動は非常に巧妙である、このことは何れ機会を得て詳論したい。

 相葉氏は非常に同情的であるが深く突こみ得ず、大野氏は客観的に実証的にと心掛けたあまり、大物を小さな枠に押しこんだ嫌が有る。佐木秋夫氏の『日蓮』に至ってはできるだけ凡人と見ようとした為に、枠は益々小さく、論述の無理益々甚だしい。

 

(2)大乗非仏説が起るだろうと日蓮が前以て伏線を布いておいたといふのではない。純教学的解釈では「大聖人の兼知未萌の妙智によって、兼て斯くあらんと察せられたのでもらう」と言っても差支無いが、私のはさうではない。日蓮の法門立てが、任運に大乗非仏説に対する処置になってゐた、といふので、かうした行き方は既に大乗家一般にそれが見えてゐる。即ち仏身論に於いて小乗の劣応を捨てて大乗の勝応、他受用、自受用、法身等を立てたことは、歴史上の悉達多を捨てることを意味し、悉達多のみを仏とする狭い見解から脱してゐるのだから、若し仏を劣応にのみ限局すれば大乗非仏説は古代判教家の既に言ってゐることである。それでも猶かつ釈迦を印度出現の釈尊とのみ限局すれば、大乗が釈迦の説ではないといふ説に若干の影響を受けるが、日蓮は久遠元初の釈尊といふ時空を超越した三身即一の仏を本仏として、その本果を表とし本因を裏とした垂迹を法華寿量文上の釈迦とし、本因を表とし本果を裏とした垂述を上行後身たる自分だとし。末法の説法は本因を主とすると立てたから、仏法は印度出現の釈尊と密接な関連をもちながら、しかも其を離れて日本末法の几夫形の菩薩仏に中心が移される。かうなれば悉達多の劣応は完全に問題にならない。従って大乗非仏説も歴史学上の判断として価値をもちながら仏法の本流からは外れてしまふ。

 この法門は本論に於てゆっくり論じるから今は結論だけ述べておいた。

 

 

 

 

 

 

 門徒史略記 

  富士門徒の歴史を、門徒に伝べられる所に従って略記すれば次の如きものである。

 正応2年10月13日、日蓮聖人の付弟白蓮阿闍梨日興師は、駿河国富士郡上野の大石ケ原に新しく建てられた六壷の草堂に、身延から随従したお弟子方と共に入られた。堂こそ小さけれ、これが後の日蓮宗富士派、現在の日蓮正宗総本山大石寺の始まりであり、これ以来師の弟子分に連なる人々を富士門徒、又は日興門徒、略して興門と呼ぶやうになった。

 これより先、日蓮聖人は滅後の大導師として日興師を挙げ、法華本門宗の全権と身延山久遠寺の別当職を与へ、日興師は命を奉じて身延に住持せられたが、地頭波木井実長が謗法甚だしく、聖人の法門を立て通す事が困難になったので、南條時光の招請を受けて身延を出で、本門戒壇の御本尊共他大導師として授けられた宗宝を持って、今下之坊と呼ばれる南條氏の持仏堂に入り、領内大石ケ原に堂を建て、原の名を以って仮に大石の寺(おおいしのてら)と呼んだのが後いつしか大石寺(たいせきじ)と音読されるやうにたった。

この寺名の読み方は寺の伝説でもあるが私の新発見の史料があるから、この部分だけは必しも寺伝そのままの記述とは言へない。その史料は後に出す。

 弘安5年池上鶴林の時6人の上足の弟子が定められたが、日興師を除く5人は何れも当局の弾圧に屈して天台沙門と名告った為に輿師の弾呵を受け、所謂五一の異目が生じたが、その内日昭師は永く鎌倉に在り、日朗師は後悔して富士に登られたが門徒を率いて興師に従ふといふでもない儀に下山され、日向師は一時は興師を師と仰いで身延の学頭となったが、地頭波木井にへつらつて謗法の指導をした為に興師の厳責を受け、興師退出の後は身延の別当職を横領した。日頂師は常忍師と泣銀杏の事有って後富士に退隠し、高弟寂仙房日澄師とその弟子三位房日順師は興師の会下に参じた。独り日持師は海外布教の途に上ってその行く所を知らずと伝べられるが、最近に至って蒙古皇帝の知遇を得たとする史料が発見されたと言はれる。

斯く五一の異目が生じた原因は、5人の観解が興師に及ばず、天台宗との違ひを良く理解して居なかった為と見られ、輿師独り日蓮宗の旗を明かに立てたのは聖人から深秘の相伝が有り、最も良く日蓮宗の奥義に達してゐたからで、その相伝の今日に公開されたものが本因妙抄、百六箇抄(種脱血脈鈔)等である。叉興師に大導師職を伝へられた証拠は身延池上二箇相承これである。

興師はこれを日目師に譲り、以来法水写瓶、丑寅の勤行解怠無く、今日にその法水を伝へてゐる。

この間に於て目師遷化の後、蔵人阿闍梨日代師は西山本門寺を建て、日妙師は興師の学問所たる重須談所に拠って北山本門寺の基を開き、日尊師は京に上行院、今の要法寺を開き、目郷師は房州保田に妙本寺を、日仙師は讃岐に高瀬大坊を起す等、諸師別立の形勢を致した為、諸山に若干の立義の差を生むことになったが、富士門徒全体の特質は失はれること無く今日に至った。

右は主として大石寺の所伝により、諸山にも承認される程度で公約数的にまとめたものである。唯、持師外化に関する蒙古関係のものは曾て大日蓮華誌に載せられ、未だ史料批判の便を得ぬが珍しい話だから紹介した。

 従来伝へられて来たのは斯の如 きものである。ここから若干の問題が提供される。

1 日興師が大導師職を与へられたといふのは本当か。

2 師を延山二代目の別当とする所伝は正しいか。現在延山では日興師を歴代に数へてゐないが、これは除歴した のではなく、始から身延の別当は輪番制で興師は唯、輪番がそのまま一人に任せ切りにされた迄で正式の貫首とは言へないと言ってゐる。

叉、西山の由比日光師の談では、戦争中政府の強引な勧誘に屈して身延と合同する時、興師を二祖に入れる事を条件としたが其が守られなかったのが、今日西山が身延を脱して独立した一つの原因だったと言ふ。さうすると身延では興師二祖を承認したと言へるわけだがこの辺はどんなものであらうか。何はともあれ、興師の身延別当説が成立するならばこの論も亀毛兎角に終るが、実際はどんなことにたっていたのだらうか。

3  本門戒壇の御本尊とは何か。

 正しく聖人の真蹟か、後世の如上の為に造った偽作か。

4  興師付法の内容如何。

5  六老定置の理由如何。

若し六老が平等の譲ならば興師は大導師でないが、六老定置と大導師職とが別の意味をもってみれば六上足の一人であり且大導師であるといふことも可能であらう。

6  日興師離延山の理由如何。

7  頂師が真間から追出され、銀杏の樹の下でかたみの衣をもらって、並々立去ったのが、富士に行ったのは何故か。

六上足擯出も大事件なら、親類でも無い法兄興師の所を、特に目指したのは理由がある筈だ。

8  果して五人の観解は興師に及ばなかったか。天台宗とのちがひがわからないやうで上足に加へられたのはおかしくはないか。

9  相伝の法門とは信用して良いものか。

10  二箇相承は今日本書が失はれてゐるが果して本物か。

11  諸師別立の原因如何。

12  富士門徒全体の特質とは何か。

  

 これらの問題の全部に就いて解明することは是非必要であり、私も将来しっくり取組んで行かうと考へてゐるが、本書はその全体に就いての詳述を避け、最も要中の要を取って重点的に問題を解決する。

その唯一の大理由は、右の12箇条の大部分が、これまで宗内問答の対象とされ、論難応対の対象になってゐるといふことである。これに依って可成りの程度に事は明るみに出て居り、問題に依っては今更取り上げる程の事はないと言って良い位史実がわかったものもあり、ここで扱ぶのは重複の嫌がある。しかも再びこれを扱ぶことに依って、宗内問答のむし直しをするのは面白くない。

宗内問答にはまじめな論究も多いが、感情的政治的な叩き合ひや、結論は誤ってゐないが諭理が通らないとか、論理整然として途中で腰砕けになるとかいふ類のものも相当交ってゐる。さやうなものを一々取上げて批判したり、検討したりしてゐては徒に紙数のみ貸すことになり、肝心の所がお留守にたる危険をはらむ。

即ち、これまでに明かになった所はそのままにして為き、変な議論を一々追駈け廻さずに正面から核心にぶち当る。核心さへ解決されれば富士門徒の全望は一挙に得られることになる。枝葉の問題やこんぐらかった論争はその上で解決すれば良く、又自ら刀をまたずして解けるものもあらう。

核心とは富土門徒の相伝法門である。本書はこの問題を中心として右の十二箇条の、要を取って解決して行くといふ方法を取る。既に出た論文は一々検討することはしないが、読者は自ら其等に対する批評の参考を得られるであらう。

 

 

 

 

 

 

 二箇相承抜粋 

 

(1)日蓮宗に於ける血脈相承

釈氏往来に「伝代々之血脈、授嫡々之印璽」と言はれる血脈相承は、禅に西天二十八祖を立て、真言に鉄塔相承を言ふが如く、日蓮宗に於ても重要な法門として扱はれる。その源は法華経宝塔品の「付嘱有在」の仏勅に発し、神力品の「如説修行」に結する。日蓮聖人が過去に上行菩薩として法華経の会座に連なり、釈尊から親しく四句の要法に給して末法弘通の大導師の任を与へられたとする観心釈(三秘鈔 日向記)を内相承とし、法華経嘱累品に於て像法の弘通を許された薬王菩薩の後身、天台大師の血脈を受付、同しく薬王の再誕とされる伝教大師の法水を、円頓坊蓮長として叡山に受けられたのを外相承とする(顕仏未来記)。これまでは諸門通同の説であって特に富士門徒の特長とすべきものではない。もっとも宗門の上古に於ては外相承の一面を強調する人(1) や内相承の分らない人(2)があったが、現在は内相承を正意とするのが宗門の公論になってゐる。

 (1)  五人一同云日蓮聖人法門者天台宗(富士一跡門徒存知事) 夫日蓮聖人者忝クモ上行菩薩之再誕本門弘経大権化――何指地涌菩薩苟称天台末弟哉(五人所破抄)

 (2 ) 摧邪立正抄

しかし、聖人から先の血脈がどうなったかに関しては、富士門徒は日興師に其が与へられたとして鋭く他門徒と対立する。他門にも類似の事を言ふ所が無いでもないが、富士の如き強い主張では無い。富士の主張が強いのは、相承に総別の両箇を立てるからである。

1  既に上行菩薩釈迦如来より妙法の智水を受で末代悪世の枯樵の衆生に流れかよはし給 是智慧の義也釈尊より上行菩薩へ譲与へ給 然るに日蓮又日本国にして此法門を弘 叉是には総別の二義あり総別の二義少も相そむけば成仏思もよらず(曾谷殿御返事)

 別は上行菩薩が釈尊から与へられた大導師の大権 総は上行以外の三大菩薩 以下地涌六万恒沙の大菩薩衆とその眷属に与へられた付嘱である。末法に入って題目を唱へうる者は悉く地涌の流類とされるから(諸法実相鈔)日蓮宗の者は皆総付嘱を受けた人であると言ふのは問題ではないが、唯一人だけ、大導師たる別付を受けたとするかしないかで、富土門徒の主張が分れるのである。

2 末法にして妙法蓮華経の五字を弘む者は、男女はきらふべからず皆地涌の菩薩の出現に非んば唱へがたき題目也(諸法実相鈔)

 諸門徒はこの御妙判によって別相承の存在を否定する。しかし、

3  日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか(同)

 といふ限定を無視することはできない。在世は「日蓮と同意」にすることはやさしくても滅後は誰に向って「同意」になりうるのか。ここに於て什門のやうな経巻相承(3)の思想も起って来るが、富士では血脈の法主がその人であり、日蓮聖人の代官であると主張する。

 

(3) 爰日什上人仰云大聖人直弟御代カラ相迭ニ是非相諭有ト聞ユ――所詮大聖人直弟御事ハ是非共実証難知故是非沙汰申難シ但其末学達化儀ニ付ヶ法理付ケカタチガイテル事誤多多聞左様諸門跡ニハ同心不レ申但仰大聖人御内証ヨリ垂玉覧御慈悲ヲ信用シテ高祖御心中ヨリ直法水可レ奉レ酌――曾上代直弟御影達モ正直ワタラセ玉ハン程内証ニハ悦バレ参セコソセズラソメ曾上代直弟ヲバ実証不知而是非難申サテハツベキニ非レバ中絶法水大聖人自御内証続キ可奉是則経巻相承一分化(門徒古事)

什師が経巻相承を立てたのは六門跡に満足出来ず、且どれが正嫡であるか決定する極め手が無かった為で、好んで独立したわけでない。それだから自分のあとは日仁師に血脈相承を与へて、経巻相承は日蓮聖人から自分までで打切ってゐる。(法華本門戒血脈)経巻相承だけでは立ち行かないのだ。

 

 

<中略>

 

 

 

富士戒壇説は興師の門徒存知事にも聖人の意向として示され、三時弘経次第にもある。国立戒壇説とまで拡げれば三大秘法鈔にある。これらは偽書だとか、興師の作では無いとか、色々雑音は有るが、後に言ふやうに、取り立てて有力な反論とは言はれない。

 

上述の如く、二箇相承は唯一の、最も確実と見られる相承文書である。これに言及した人で、一番古い処では聖滅九九年康暦二天授六年に下條眼師の五人所破抄見聞が有る。これには「爰先師聖人親受大聖之付雖為末法之主早表無常之相帰入円寂之刻為五字紹継定六人遺弟 日昭 日朗 日興 日向 日頂 日持」の文を訳して、

 

日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日同十三日御人滅の時御判形分明也……一瓶法水を日興に御付属あり…六老僧雖在法主白蓮阿闍梨奉限也在世唯我一人大導師釈尊也末代上行菩薩本門別付唯我一人也争違背告唯我一人法花経六人マテニ御付属あらん乎六人の上首日興上人也

 

広宜流布の事は本国本山本門本戒壇先聖の御本意ノ修行可待時而巳ノ御相承今の御妙判経文等義を以て可意得也

日蓮聖人為万年救護定六人遺弟中日興一人付弟の上首也例せば四大菩薩の中には上行菩薩上首なる如シ六老僧の中には尤日興上人也

この本の要集に使っ底本は甚だひどい本だと編者雪仙日亨師が歎じて居られるので、色々異本有るやうだが、トニカク眼師となると興師大導師の説を、二箇相承をあげて主張してゐる。文中「可待時而巳」は完全に身延相承の文である。身延相承の本文に日付がないのに眼師が九月の「十二日」としてあるのは、何かさういふ伝承が有ったのだらう。まだ眼師と同時代の順師にも、興師大導師論の詳説があるが、これは二箇相承に言及する事眼師の如くでないから引用を略す。

 本書は聖滅九九年のものだからそれまでの間に二箇相承が偽作され、眼師がその提灯を持ったのではないかと考へ得ないでもないから其に就いて一言しておく。

眼師の没年は下條塔中心教坊の過去帳に依れば至徳元(聖減103)年であるが、年齢の記載は無い。この人は大石寺の開基檀那南條時光の六男であると伝へられる。時光は延慶2(聖滅28、西暦1309)年に上野郷を嫡子時忠に譲って隠居し、正慶元(元弘2、聖域51、1332)に卒してゐる。享年も生年も記録が無いが、弟七郎五郎が弘安3年(1280)に夭死してゐることが上野殿母御前御返事にみえ、七郎五郎懐妊中に父南條七郎が壮年で死去したと言って居られるのに照応して文永元(1264)年12月13日に七郎は重病であった事が記され(南條兵衛七郎殿御書)てゐるから七郎の死は大体文永2年の始めの頃であらう。さうすればそれから弘安3年は15年目であり、14,5年子を育てて暮したといふ記事にも合ふ。さうすれば七郎五郎が生れたのは文永二年であり、その夭死した時、子は一人しか残らなかったとあるから其が七郎次郎時で、この間に三郎四郎と二人の夭死者がある筈だが、その上七郎太郎も有るべきで、少くとも男だけで五人の子持である。七郎壮年死去として30才位では20才で結婚したとして隔年一人の男子出生では少々多すぎるから40死去3年1人と仮定すれば時光は康元元(1256)年頃に生れ、10才の時父死去の為家督、隠居は54才となる。60隠居とすれば建長2(1250)年の出生だ。

眼師は男子六人の末っ子で、外に女子も居たからさう早い出生では無い筈。時光50才の時の子とすれば正安2(聖滅19、1300)年から徳治元(聖域24、1306)年の間、55才の子とすれば徳治元年から延慶3年の間の出生で、寂日房日華師に従学して師の帰寂に逢った建武元(五三、1334)年には35才から41才の間である。そして兄であり且妙蓮寺先代の相師帰寂は貞治6(正平22、聖滅86、1367)年だから44から68才の間で晋山し、本書を造ったのは67から81才の間、遷化の至徳元(元中元、聖滅103、1356)年には71から85の間である。

さうすると五人所破抄草案のできた嘉暦3(聖滅47、1328)年には16から30才、興師寂の正慶2(元弘3 聖滅52 1332)年には21から35、順師が念真摧破抄を造った延文元(正平11 聖滅75 1356)年には四十四から五十八の間となる。それならば師は少年時代に晩年の興師を知ってゐる筈で、興師遷化の時は既に一人前であり、三位順師より稍若かった筈である。

さて、二箇相承が偽作されたものだとすると興師の目が光ってゐる間は駄目、そして興師寂の時師は11から35才の間だ。これから康暦2(天授6 聖滅99 1380)年までの間に何者かが偽作して眼師の目をゴマカシたか、或は眼師自身が偽作して自分で太鼓を叩いたか、どっちかだとなる。眼師は南條時光の子で妙蓮寺の後薫に擬せられてゐた人だったとすれば、たとへ21の若年でも、興師の滅後に変な事を始めた者を放って置く筈がない。当時21才といへば立派な一人前で、殊に地頭の子だ。眼師の目をかすめて事もあらうに大聖人の遺言を偽作できるとは思はれない。又、眼師が偽作者と腹を合せたか、又は自身偽作したとすれば全文を紹介して盛に宣伝をしたくなるのが人情だのに引用は甚だぶっきら棒である。殊に身延相承に日付だけが缺けてゐるのを承知で9月12日などと日まで入れる筈がない。弘安5年9月12日とまで自著に日を入れて、シカモ肝心の身延相承に日を入れない、乃至は偽作者が日を入れなかったのにウッカリ著書に日を書きこむ程の呆太郎に、妙蓮寺の貫主がつとまる位に当時の富士門徒が間延びしてゐたとは考へられない。後に記すやうに北山日代師さへ法門が間違ってゐるとなれば居られなくなる位、激しい様相を呈してゐたのが富士門徒上古の風だったのである。

二箇相承は偽書といふ疵も無く、上古の記にも見えてゐるから最も信用がおける。しかし何としても本書を勝頼が持ち出してなくしてしまったのだから文献学的には何か言へても、古文書学的には極め手がない。

昭師や朗師の時には師の自覚の有無、弟子への譲状を引いたのに、與師の場合に其をしないでは公平でない。実は興師には材料が沢山有るので一節に入れるには大きくなりすぎるのだ。そこで、筆を改めて興師の自任と、補処日目師への相承の次第を迫ることとしょう。

 

 

(6) 結語

二箇相承に就いては古来富士門徒はこれに依って激しく日興師が大導師にだったことを主張し、五老門徒はその不存在乃至は偽書説をこれまた猛烈に主張して来たものである。とどのつまりお互に間答口になって相手の言ふことはろくに聞かず、自らの言ひたい放題ばかり並べるといふやうな、見苦しい有様まで演じてゐる。曾てこの姿をいさぎよしとしないで北山の早川一三氏が『富士日興上人身延離山の研究』を出されたが、随分客観的に述べられたつもりではあらうけれど、いささか富士の主張に辛過ぎる結論であった。即ち富士の記録は私の引用した擢邪立正抄を言葉が明瞭でないからといって採用してゐない。それに対して越後本成寺日現師の、

(41) 一向御正筆ニアラズ偽書謀判也文日興ノ筆跡ニアラズ蔵人阿闍梨日代ト云筆二似タリト承及也若御付弟状必定ナルニ於テハ何ゾ六老中老下輩御存知無カル可キヤ(五人所破抄折 学七 182)

などを引用してゐるが、実物を見ないで「承及」だけで言ってゐる史料に大きな権威は無い。一向正筆でないと言ひ乍ら現師は何時どこでこれを見たとは断ってみない。富士の風儀として他門の人にたやすくこれを見せる筈は無いから、現師の説は又聞の上に立ったものだらう。師の引用した本も例の波木井山中云々とある誤写本で、こんな本に立脚しては正しい判断ができるものではない。

なほ要法寺祖師伝付録には、

(42) (弘治)二年六月二十三日日誉と侯に京都を出で七月四日富士重須に至り日曜に謁す同七日巳午の二刻霊宝を拝見し奉る所謂二箇御相承本門寺の額紺紙金泥法華経一部本尊十七鋪安国論皆悉蓮祖の御筆跡たり。

(43) 去る(永禄二年)正月廿日未の刻日興惣別付属二通御筆勢の如く之を写す

 とあって、辰師は再度北山を訪れても筆写は永禄二年の如くであるが、西山本の奥書引用は辰師の判のある確実なものだから疑ふわげに行かない。弘治にも永禄にも写したとすれば要山から弘治の写本を贈っても一部残るわけで、辰師の自筆本のみを溜めて耀師筆の分を手放したものだらう。辰師が真筆だといふのを師が富士門徒の人だからといふ理由で信頼度を割引するとすれば、現師が偽書誤判だと言ったこともこれは本成寺の人だから割引いてよいわけだ。辰師は造仏論などを出して相当富士門徒としては異端者的な言動のあった方だから、偽筆と見れば何か言出さずにはおきさうもない。その人が真書と考へたことは相当信頼してもよいのではあるまいか。

次に興師付弟のことは五老に於て御存知有ったことは当然である。それだから身延を興師に任せっ放しにしてお墓参りをしなかったので、モシ延山の貫主が定まってゐなかったならば当然輸番で登ってゐたであらう。ただ興師が甲斐の人だったといふ理由だけで身延に在山せられうるものではない。付弟だから身延に居られ、叉それだから五人が煙ったがって、教線の仕事にかこつけて登山しなかったのだ。

又早川氏は富士の人々が興師輔処の証として五一の異義しか出さず、二箇相承を言はないことについて疑を持たれたやうだが、五人所破抄に於てはナルベク相手を刺激しないで正路に戻らせるのが目的だから、天台沙門と名告ったといふ事実に基いて破折されたので、この場合相手も良く知って居り、且、感情を動かされ易い二箇相承を振廻はす事は賢明でない。門徒存知事は門内に対する勧誡書だから誰も皆信じてゐる事をワザワザ書く必要が無い。第一日興上人は何よりも前に仏弟子であった。仏弟子たるのねうちは正しく仏法を知る処に在るので、譲状に依って其がきまるものではない。五人が成程白蓮阿闍梨は正しい事をいふ、大導師として確かな人だ、と考へて呉れればそれで大導師位は確立するので、相手も良く知ってゐる二箇相承を振廻はして騒いだ所で、こちらに大導師らしい実績が無ければ何の役にも立たたい。

二箇相承に対する批判は多様だが今まで述べたうちに含めて大体会通しておいた。要するに二箇相承は実物が無い為に最後の極め手に事缺くが、最も有力なものであって、これを偽書とすることは甚だ困難である。上述の事以外にも興師大導師論の材料は有るが、其は後に論ずるとして今はこの文書の真偽判だけに止めておく。かういう結論を出すと石山の提灯持をしてゐるやうにも見られるが、反対の意見を出せば今度は五老門徒の提灯持だと言はれるだらう。歴史家は八方美人にはなり得ないものである。

従来の宗門問答はあまりにも対立しすぎてゐる。仏教統一の目的で出発した日蓮宗が宗門の統一さへできないでゐるのはまことに悲惨なことで、最も耻づべきことである。一致勝劣の争などその典型的なものであって、その根本は大導師職の不確立に在る。そして興師に大導師職が与へられたといふ件をめぐっての論争の中には、全く取るに足らたいやうな議論もあるので、さういふものはどちらの立場を擁護するものであっても一切取上げないことにし、唯、問題になしうるもののみについて論じた。

現在の私に取って生活上一番恐しいことは私が歴史家といふだけのねうちが無いと定められることであって、宗門の有力者にほめられたり、睨まれたりした所で私の収入に何の変化も有りはしないのだ。言ひかへれば私は「所帯」のために筆を曲げる必要は少しも無く「所帯」のためには筆を曲げてはならたいのである。どちらにも都合の良い議論や、大勢の学者(日蓮宗史関係では大崎系即ち単称日蓮宗の人が断然多く、富士門徒では専門の歴史家ともいふべき人は無いといっても良い)の説に追随してみることは一往歴史家らしい体面をととのへるには良いだらうが、そんたことをしては私は自分に忠実な学徒とは言はれえない。

まだこのあとに仏教学界の定説をひっくり返すやうな富士門徒の法門を紹介しなければならぬ。その時に学界の衆論(公論ではない)や定説にハリ付いた頭で批判されてはたまらないから、一寸一言しておく。

 

 

 

 

 

 

結論

 

富土門徒は数ある日蓮宗諸門徒の中でも特殊な歴史をもってみるが、その最大にして且決定的な原因は門祖日興師が日蓮聖人から大導師職を与へられたことにある。

その手継の文書であるとして従来宗内問答の度毎に引合に出された二箇相承は、日朗御譲状の如き拙劣なものではないが、正しいものと断言する材料は無い。しかも原本が武田兵に奪去られて現存しないから、本格的な史料批判をするにも不充分である。故にこれを以て証拠とするのは困難であるが、別に日興師と五老の本尊写し様、身延退出前後の興師の行動、弟子達の言動などを綜合すれば師に大導師職が与へられたことが確認される。且五老の言動には宗門の長老たり、門徒の大和尚たる自任は見られるが、大導師といふべき程の強さは無い。

 大導師職を受け、唯授一人の血脈に連るといふことから富士門徒の歴史は展開する。

@  に五老門徒にない口伝が有り、その為に五老門徒の知らない法門の発表が有る。これを整束したものが日蓮本仏、種本脱迩の第三法門である。

A  にこの法門はあまりに幽遠である為、その理解に於て衝突を生じた。即ち本勝迹劣論、造像可否論、読誦論等がこれである。

B  にこの法門は従来の仏教の常識を破る所がある為、門徒の中にさへ旧仏教の習慣をとり入れる者が有り、五老門徒とはなほさら意見の喰違ひが生じ、活潑な宗内間答の場を提供した。

C  に法主(本山貫主)が釈尊日蓮聖人の職位を継ぐ者となる為、法門の争いが直に法主職の争奪と結びつき易く、叉逆に法主職を中心とする求心的傾向も強かった。

D  に富士の法門に於てはじめて妙法曼陀羅所顕の法門が明かになる。

E  に国家諌暁の風が強く、、本国土法門、本門戒壇法門から、国土成仏の現実主義的思想傾向が有った。

F  に折伏正意論に確実な論拠を有するため、動もすれば他と衝突し易く、そのために宗風も興起し易いが同時に他の誤解も招き易い。

G  にそれにも拘はらす、法門に形式を捨てて精神を取り、化法を守って化儀に融通を利かす傾向が有るため、徳川絶対主義政権の下に於てすら、不受不施派の如き形式を突張る運動をしなかったので、比較的平穏に宗門を保つことができた。

この論文は、右の八箇條の全部に就いては必ずしも言及してゐないが、詳論は将来に譲って一往の結論を示すと右の八箇に要約される。 (了)

 

 

 

 

 

 あとがき

 

著者がこの本をなぜ書く事になつたか次に記す。

著者はこの本を一史学徒の立場で書いた。

 著者8才の時が、大正12年の関東大震災で、その時は丁度慶応幼稚舎2年在学中であった。その時各国からいろいろ日本へ慰問品が届けられたが、その中にフランスから、「怯えたる児童の為に。」といってX光線が8台贈られてこの幼稚舎へも頂戴した。そして医師が数人みえて次々撮影して頂いた中で著者を診察の結果は15才迄は保たぬと云ふ診断で受持ちの先生が飛んでみえたので、当家としても大いに驚き直ちに掛りつけの医師高橋信博士に御相談上げて高橋先生からの連絡で小児科の権威で慶応病院の小児科長先生にも診察していただいたがやはり見立てが同じなので、この上は御登山をして猊下に御相談申上げるより外なしと、直ちにそのまま夜行で翌早朝御本山着、大奥へ伺い、猊下に御目通りして始終を申上げたところ、

 「それはどんな難病でも名医なら直せようが寿命はどうにもならない。これは仏様にお願い申す外はない。お前の家は、日命贈上人(大阪蓮華寺御開基)に当門へ入信して凡そ200年その時の開基檀那でもあり、今日迄その間よく御法に尽した家柄でもあるから、当門では病気、災難、願事等に御祈祷をする事は絶対に禁じてある。然し先祖からの法功もあり、現在もよく信心して法の為に尽しているのだから特別を以て今日から丑寅の勤行の時に7日の間御祈念をしよう。但し一チ松本の家督相続等の問題ではない。大切な法燈相続を完全に、そして法の為に身命を惜しまぬだけの信心を持って佐一郎の一生を貫く覚悟が有るか。また本人をそのつもりで教育が出来るか。松本一家中その心が固められるのなら御願い申してみよう。」 との仰せで、

 「私共も命掛けで信心をして御大法の為尽します。」

 とお誓い申上げ、寂日坊様へ泊り込みで一生懸命であった。

平常虚弱の為か灌腸をしなければお通じが無い体質なのでこの時もその道具を持参で御登山した。そして毎日丑寅の勤行からお仲居様の六坪の間のお勧に連経して坊へ帰って寂日坊様の朝の勤行に参加しての毎日であった。それが7日目の朝の事、急に(ウソチ)と云う。実に珍らしい事で、殊に真夏の事、もし赤痢にでもなっては御本山へも御迷惑の事、これは大変と、その頃の煙草朝日20個入の箱(その頃の箱はシッカリした大箱であった。)その空箱をお台所から頂いて来てそれへさせた所、急ちに山盛一杯を、四箱に満したので、ただただ驚くの外なく、それに少しの腹痛も訴えなかった。

兎に角朝食をしたためたところへ、大奥からのお使いで早速罷り出たところ、

 「今日が満願の日だが何か「現」があったか」との仰せで、

 「これが「現」なのでございましようか。実は、」と朝の始終を申し上げたところ、

 「アアそうか、それはよかった。お聞き届け下されたのだ。わたしも嬉しい。お前達にはそうした「現」を見せて下さらないとわからないからそうして見せて下されたのだ。よかったね。これから先は法の人を育てるつもりで一生懸命信心せよ。」

 と有難いお言葉を頂いてその時、

 「佐一郎はわたしの弟子にしよう」

 とそのしるしとして「和道」と名まえを頂戴した。但し15才迄は保たぬというのを延して下されたのだが、その年限は何年かそれは分らぬ。然しこれからの教育方針は、まづ漢学を充分納める事。大学は帝大(今の東大)の文科の史学へ、出来たら大学院へ残して研究を続ける事。なお宗教を学ばせる為に哲学や心理でなく、国史を充分やってその後、大聖人の大哲学を身につけたら、大聖人様の御教義の御目的の心髄が必ずハッキリ分って、それがこれ迄勉強した仕上げにたってこの御大法の尽々無量の哲学を越えた大真理がほんとうに分るのだから益々信心に励みなさい。」と仰せを頂き厚く御礼を申し述べて早速帰京した。

ところがこの大騒動をした前迄、1ケ月のうち半分は必ず医師の車のおりない日はない程であったのが、それ以来と云うものお医者様とは縁切りの様に病気はスツカリなくなってしまった。

ヤレ有難い事と本人はもとより家中の喜びまた御講中や知己の方々も心から喜んで下すった。身体が丈夫になれば勉強もはづむ。いよいよ御指示通りにはこび始めた。大学在学中から勉強のかたわら東大の史料編纂所や国立図書館へ通い、ただただ懸命に勉強、漢学は13才頃からかくれたる漢学の大家、袖山修斉先生に師事して充分の教へを受け、偖大学を卒業して直ちに大学院へ残り勉強を続けた。

またその間「畑毛の御隠居様」(59世堀日享上人)へ御伺ひしていろいろ教へて頂いて泊り込みで徹夜の時もあった。

著者の家は先祖代々要法寺派の信者であったが、6代前に前記の如く日蓮宗富士派へ入信して今日に至ったが、自分は御利益を頂いて寿命を延して頂いたのだから自分はこの有難き尊さはよく分って居るのだが、一般世間で云う御利益と自分の時の様な本当の御利益というものについて霊的なものが確かにある。それを自分として心から会得したいと思うと矢も盾もたまらず勉強をこの方面に遡って研究を拡げていった。

そして心霊学もずい分研究してその結果、「日蓮大聖人は釈尊から別付嘱を受けられ、正像過ぎて末法に出現遊され本因下種の御大法を弘通せられ、その御大法が富士に伝って今日に至っていること。そして生きながらの成仏のみ。」と仰せられた事を心から納得が出来てこの結果この御大法に入信させてくれた先祖へ心から感謝した。

 ところが幾ばくもなく例の大東亜戦争の始まった時で、大学院は閉鎖となる。その時軍部が肩を入れて建てたのが山水女学校と山水中学校で、この資源は郵船会杜の大立物山下亀三郎氏で、東京外二ヶ所に「軍将校の子弟の教育に、後顧の憂いなからしめぬ為に」と云うわけで陸海軍の中将や少将が校長となつて、教師の中で家の無い人は校庭の一隅に校宅が出来ていて、ここへ居住を許されていたので、戦争中の軍とてあちらからこちらへと転々して居た最中なのでその学校へ就職した。

そのうち戦争も益々激しくなって標語にも「ほしがりません勝つ迄は」とか、「討ちてし止まん」等と云う時で、著者も一生懸命勇猛精進でやっているうち戦線は益々不利となつて遂に敗戦。終戦と共に大学院も再開したので学校の許可を得て現職のまま再び通うことにした。然るにMPが軍人子弟の学校という所から、一層目を光らし、米英撃滅等を教育したというかどで山水学校を首になつた。

然しすぐその3日目に東大の紹介で都立第3高校(今の両国学校)へ就職して16年と7ケ月。その間著者は夜間部の生徒を教育したい希望で夜間部へ奉職した。この夜間部には、創価学会の青年部が沢山来ていた。然し著者はそのことを始めは知らなかったが、学校が終ってから、あと別に教学の勉強をしてくれと生徒からの依頼で、こころよく受けて亡くなる前日迄続けて来た(文部省の御達しでは学校で宗教の教育はしてはいけない規則になって居るのだが「生徒からの申出なら差支なし」と云うのである。)。

 こうして学校へ奉職してそのかたわら教学の勉強と研究に没頭して各宗各派の寺院、教会等へ写真機を持って出かけ材料集めをした。ところが、古文書の紙の質に依っては、レンズの質によってどうしても写らないものがあるため、三台の写真機をかついで出かける。然るに寺に依っては「どちらから」と云われた時「日蓮正宗」と名のるとダメ、よろしく追い払われてしまう。それで宗門研究の一学徒として名乗ると快く色々出して見せて下さる。

ちょうどその頃、東大の恩師宝月先生から、「日蓮宗は本尊を大切にするのにまだ誰も本尊の研究をした人がない。これは教学だけでは研究は出来ない。信仰心の有る人でなければ出来ないので、それには松本は適材適所だから一ツやって見ないか」と、有難いお話で、自分としてもいつかわやらねばならぬことではないかと思って居たところである。然し御本尊研究という一大事の研究のお話なので速答をさけ、「御本山へ一度御伺いを立てましてから。」と申上げてすぐその足でまだ日淳猊下が中野においてであったので、お伺いしてこのよし申上げたところ、

「そうなのだ。まだ御本尊研究は一人もしていない。これはしなくてはならないことなのだ。大学の先生からそういうお話があるならちようど幸い、松本なら出来るだろうからやってごらん。それには御本尊写真が沢山なければダメだからわたしから法道院へすぐ連絡をしておくから大学の方は御引受けしておおき。研究についてわからないことがあったらいつでもおいで、協力するよ」と有難いお言葉を頂いて大張り切り、直ちに大学の先生へはお受けのよし申上げた。

そしてすぐその翌日法道院の早瀬御尊師様からのお使いでお所化様が御本尊写真を沢山ウンウン云って背負って来て下さつた。然しこの御本尊写真は法道院様のものだから痛めては相済まぬと云うので、複写機を求めてそれからコピー作りに着手、学校から帰るともう夜中の十二時、すぐ勤行をすませて御飯を頂いてから複写に取り掛っても毎朝雀の声がきかれる時間になる。それを毎日繰り返してようやく仕上り、拝借の御本尊写真は御返し申上げていよいよ研究にかかる段取りとなった。

ところが著者のいうのには、

「真偽の鑑定を今迄の方法ではただ自分の感とか研究とか経験などに頼って居たが今はこうして科学が進んでいるのだから科学的に研究するのだ。」ということで、早速警視庁の鑑識課へ4、5回程通った。鑑識課でも珍らしい仕事なので非常にご親切に面倒を見て下すった。その扱い方は数字で出すことでその見方は本の中(富士門徒)に書いてある。

なお生前著者がよく云って居たことだが、御本尊の一番大切で一番重要な所は(御名の日文字)で、ここが一番肝心、要である。ここが大聖人様の御魂である、と。また御書き判もただちょつと拝見しただけでは皆同じ様に拝せるが、研究に依ると、御授与遊ばされたその相手が僧侶・武士・町人・信心の厚薄に依って違う。殊に知って置かねばならないことは、亀形のお書判でも絶対に見落してはならないのが御戒壇様のお書判で、他の御真筆にはないとても大きいお書き判である」と。

 さてそのうち日淳猊下は中野の歓喜寮から常泉寺へお移りになって時々お目通りしているうち或日日淳師様から、

 「遠から話したいと思っていたが、松本おまへ坊さんになる気はないか。」との仰せで、

 「元よりにも申上げてあります通り、日柱上人に助けて頂いた自分の命ですから、命の続く限り一生をこの御大法にかけたいと思って居ます。」と申上げたところ、

 「それでは日柱師からの譲り弟子としてわたしの弟子にしよう。」と仰せ下されたので本人の喜び一方ならず、

 「是非お弟子にして下さいまし。命がけで一生懸命勤めます。然し前にも申上げました様に今一息材料を集めねばなりませんので、只今正宗の坊さんの肩書きがつきますと、これからも諸処の寺院へ出かけて史料を集めねばなりませんのに今よりもっと面倒になりますので、この研究が仕上りましたらすぐにでも是非お弟子にして下さいまし。そうなればただ御大法一筋の勉強が出来まして有難いことでございます。」という次第で、日淳猊下とお約束申上げ、それを楽しみに益々勉強に励んで居たところ、淳師様が御遷化になられてしまわれたのでガッカリとも悲しみとも申し様なく、そのままになってしまったが、著者は将来は必ず坊さんになることをこれからの生き方として一生を御大法に仕へることにきめていた。

そしてこの研究と勉強は毎日学校への出勤の電車の時刻を見い見い書き続け、帰ればすぐ寸暇を惜んで書き通し、今一息と云うところで、昭和39年9月14日49才で突然没した。

この前日(13日)品川の妙光寺様で法華講の大会があるので、家中で出席して平常通り大きな声で連経して帰途妻の里へ皆で寄って御馳走になってその晩そちらへ泊って翌朝10時頃起したところ、昨夜寝たままの姿でよい気持ちそうにねていると思ったら亡くなってしまっていた。すべて一家の中心人物がアッと云う間に亡くなった場合、その遺族は悲しみ慌て戸惑い、これから先どうしようかと涙と共に途方に暮れて仕事も手につかない。そして感傷的になって、煩悩業苦の苦しみをどうする事も出来ない。これが世間一般の感情と驚きである。これを大聖人様は、「臨終をなろうて後他事を習ふべし」と仰せられてある。吾々大聖人様の御意志に従う者達はその成仏した仏も、遺族達も共に生前この御金言を守った毎日の生活をして有れば、本人として臨終も完全に御金言通りになるし、またその遺族は何の差支へもなく、その仏の残した仕事も意志も着々と続けて滞りなく信行学の御遺訓を報じて行く事が出来る。御金言に、「苦を苦とさとり、楽を楽と開き共に思い合せて、ただ南無妙法蓮華経」となる、そして親から子へ、子から孫へ、孫から曾孫と相伝へてゆく。これが何よりも何よりも大切な法燈相続である。」

 よく世間で云う「ねむるが如き大往生」等と云うが、著者は生前臨終に就いてよく雑談の中で云って居たことだが、

 「ほんとうに平常一生懸命にこの御大法を信じ信心・下種・折伏・教化を片時も忘れずに行って、この御大法に傷のつかぬ様な生活をしておれば、臨終の時苦しんで悪い死相を表す様なことは絶対になく御金言通りの死相を顕し、自分が死んだことさへ知らない様な晴々とした死に方が出来るのだ。私は一生懸命このニッと無いタッタ一ッの尊い御大法を正しく信じ、寿命の有る限り、この御大法に働かせて頂いて成仏出来る自分の霊魂を立派に育て上げて未来にまた大聖人様の御指図に従って御法の為に働かせて頂く外何物も望まない。」と云っていた。

 ただ御法の為というと、世間の方は一チ宗教の為と思われるだろうが、日蓮大聖人は、

 「いづれの宗の元祖にも非ずまた末葉にも非ず。」と仰せられて、大聖人の御教義は、全世界の大平和を願うその根本になるので、世間一般の宗教のねらいと、非常にかけはなれているので御教義を会得するのには時間がかかる。然し言い方を替へれば、ただ南無妙法蓮華経となるのだ。一般には誰でも自分の目先き計りの幸福を願って、御利益御利益と御利益を追いかけまわす人には分らないだろうが、分って頃かなければ、世界の平和も、人類の幸福も有り得ないのだ。また、御利益という言葉、そのものに対しても、金持や、学者方や、地位の有る人など、いわゆる知識階級や、権力者は、御利益と云う事を、御自分の口にすると何か、こう、自分のプライドを疵つけるようた錯覚をおこして、真面目に聞こうとしない。このような考へを持っておいでの方々は、皆、爾前教時代の御利益や、迷信に依る迷いから来るものである。今日迄世間一般の、神仏の利益等と云う、その利益の中には、魔の利益も沢山ある。世の中の人達の迷いや、慾が、この宇宙に蔓こっているから、今日のこうした悪世になっているのだ。魔としては実によいお客様なのだ。大聖人の言われる御利益は、人間、一人、一人の成仏と、地球上、即ち、全世界の、大平和を願い、また、皆が皆、幸福になってもらう、ただそれだけで、我慾の御利益と思ったら、大間違いだ。大聖人の御目的と御意志は(立正安国論)に依って顕し尽されている。即ち破邪顕正だ。これから先、天変地異や内憂外患が、いつ襲って来るか分らない。この時代に、一体全人類は何を考へ何に安泰を求めるつもりなのであろうか。

 さて、著者の臨終について、その時の真実を申上げよう。御金言通りとは「柔かき事とろめんの如く、」亡くなってかちその亡骸の手を胸のところで組み合せても組んで居ないですぐデレッとほぐれてしまう。また納棺前に髭を剃る時も生前と少しも変らずジョリジョリと剃れる。そして頬の肉がい<らでも動いて右の頬も左の頬も首を自由に向き直させられる。兎に角柔かい事は生き身と少しの変りなく、また、「軽き事鷲毛の如し。」と仰せられてある通り、今納棺と云うので胴のところを内田氏が、アト、サキを高橋、箕浦、佐波、各氏で持ち上げたところ、鳥の腹毛の様な軽さで胴を持っていた内田氏の頭の上迄イキナリフワツと持ち上がったので、亡骸を放り出して落しそうになったので、皆アッアッと大声をあげて驚いた程の軽さ、「色黒き者も白色となる。」と仰せの通り、顔から胸、手、爪、等全体がポーツと紅をさした様になって、生きて居た時よりも美しくなってゆく。

その夜は通夜、翌日午後2時、出棺のため、祭壇から棺をおろした。昨夜納棺が夜中になってしまったため、ドライアイスを買って置くのを忘れたので心配した。兎に角、9月14日まだまだ暑い最中、悪い臭いでもしていたら、と思ったが、ここ迄立派な死相を顕したのだから、本当に成仏しているのなら、臭うわけがないと、心にきめてそのまま通夜をしたのであった。そしていざお別れと棺の蓋を取って大勢の方々が皆一様に棺の中を覗き込んだところ、少しの臭いすらなく、きれいなフックリとした美しい顔で死相の影(青味や汚染等)少しもなく、大勢様がただただ感嘆された。平沢会長も「ムゝキレイダキレイダ」とおつしやった。また著者が子供の時に日応上人様より頂戴してあった御秘符を頃かせる時、(前に述べた様に、自宅で亡くなったのではないのでその朝急いで宅へ戻り、金庫からお秘符を出して持参して来た。)それを臨終に、間に合わなかったため、今出棺と云う時、お秘符の紅を舌へぬるため口をあかせたところ生きて居る人と同じ様に幾度でも口を簡単にあける。そして舌に塗るたび毎舌はヌルヌル、ペロペロで唾は白い糸の様に上と下へ張っては切れ張っては切れ本当に亡骸とは思へぬ程。普通は歯を喰いしばって口を開ける所ではない、舌も巻いて硬直してしまっているものだ。兎に角立亡くなってから16時間たっているのにまだ瞳が生前の時と同じ様に目の真中に有ったこと、大抵は誰でも亡くなると瞳は上ってしまうものなのでただただ驚くの外な<、ただ背中に手を入れてみたところ納棺の時は(死後14時間程だっていたが)、暖かさがあったので持ち上げた内田氏が心配した程であったが、この時はもはや冷たかったので、矢張り亡くなって居る事を確認した程であった。

私は今年77才、此間に人様のお世話をするオセッカイな性分が有るので、知人の御宅で御不幸が有るとすぐ知らせに来られるので、早速飛んで打行って湯潅から面倒をみて上げた方々が凡そ20体程であるが、御当門の方、他の御宗旨の方、御信仰の無い方、それぞれであったが、矢張り違う、ハッキリ云って御当門の方々の中でも、それこそすばらしい御死相も有ったし、それ程でも無い方も有つたが、総じて柔い事、死相もよい事は一様で有る。

さてこうして、大勢の集った皆様も目のあたり、この御大法の如何に尊いものか、また大聖人様の御金言の確実さと申すこの三世を通した偉大な御教訓こそ哲学や心理学を越えた永遠の真理、そして神秘のすばらしさを心から味わった。

このすばらしい臨終死相こそこれが御利益で神通と秘密と仰せられたのはこれである。著者は日柱上人様の御祈念に依って40年寿命を延して頂いて仏様からすばらしい御利益を頂いた以上、御約束通りただただ法の為一天四海皆帰妙法世界の大平和と云う日蓮大聖人の大願望のその御仕事の一端としてその土台のタッタ一箇の小石に過ぎないお手伝いをさせていただいて40年以上生き延して頂いた。この生きながらの成仏と云う有難い御利益の卒業免状を持って、御恩返しにまた未来で大活躍が出来る事と喜んでいる。親としてこれ程の大安心は無い。また子としてこれ以上の親孝行は無いと思う。これこそがその人の死相に依って未来がハッキリわかるのである。人は死んでから成仏するのではなく息が止ってしまつてからでは何も出来るものではない。大聖人様の仰せの如く「是程の喜びを笑へかし」と、また、「成仏するより外に神通と秘密は之なきなり。」とこれを即身成仏と云う。医師の方々にこの話を申上げると、「そんな事が出来るのかしら。」と仰しやる。今の医学では死後硬直と云って息を引取ると同時にドンドン硬くなって重くなる。御金言に「重き事手引の岩の如し。」と、また精々よい死相の人でも前にも云つたように幾分青味がかつて汚染が出て頼の肉が落ちる。それが世間一般の死相と誰でも皆そう信じている。然しそうではない。人それぞれの過去と現世の業の厚薄に依って未来がわかる。御金言に「死は一定也。色ばし悪しくて人に笑われさせ給うな。」と仰せられてある。世間の人々は信心の対照を仏像や仏画または神様があると信じさせる。最も悪いのはキリスト教国が原爆で多数の人命を絶つ等は、実にもっての外である。今に方々の大国が真似をして、ボカン、ボカンとやるようになるだろう。今ここでは、この様な説明を要しく述べる場所でないならやめて置くが、この現世で幸福に生きるためだけにただ御利益を頂きたがる一般の人生観(我慾)、また信仰というものを安易な御利益の問屋位にしか考へていない人達、また、前にも云った様に、智識階級や金持ち権力者等は本当の信心と迷信との区別がつかず、ただ軽蔑する人達の如何に多いことか。

悟りを開いたと自分で勝手に極めたり、よい行をしたりしただけでは現世だけの事で、三世(過去現世未来)を通して考へれば、未来と云っても天でもなければ西方でもなく地の底でもない、極楽も地獄も皆この現世即ち現に我々が生れて生活しているこの世の中にあるのだ。この大宇宙の五大原理即ち「我身地水火風空なり。」と仏様は仰せられてある。今現世で働いて居る人達、その中には、国家はもとより、世の為、人の為に、大発明をしたり、大文化の智恵を、世の為に、尽して居られる方々、また科学等のこの大進歩には、ただアレヨアレヨと云う程の夢の様な、大進歩には、驚くと共に、敬意を表せざるを得ない。だが一つ、ここらでよく考へて頂きたいのが、皆これ等は、人間でなげれば出来ないのだ。その人間が生きて働く為には、前にも書いてある通り、(仏は「我身地水火風空也」でこの大宇宙の五大原理が一つでも少々でもストップしたら大さわぎになる。生きて働く事も、考へる事も、第一生活もして居られなくなる。この恵みこそ、妙法蓮華経である。兎に角、日蓮宗だとか、浄土宗だとか、キリスト教だとか、そういうしばられた考へでなく、物には何んでも中心がなければならない。それもその時代に適切な最高なものが、一つだけでなければいけない。何事も中心は一つだ。三沢抄に「此法門出現せば正法像法に論師人師の申せし法門は日出て後の星の光、功匠の後に拙きを知るなるべし此時には正像の寺堂の仏像僧等の霊現は皆消えうせて但此大法耳一閻浮提に流布すべしと見えて侯。」という事になる。この時が、世界の大平和の実現即ち一天四海皆帰妙法の時なのだ。

著者の死後の事はかけつけて来て下さつた20人程の方々、また通夜の時の50人以上の方々がまのあたり確かに見定められたものである。著者は、日柱上人日淳上人の御臨終を御縁あってつぶさにおがませて頂いたりお世話を申し上げたりして心底からこのすばらしい御金言そのままの御臨終御死相を拝し上げて唯々この御大法の如何に偉大な、そして三世を通しての力、神秘的な生命の働きの大切さを一生を通して身を持って示現して50年の生涯を閉じたのである。以上縷々述べた事は皆真実そのままを追って書き連らねたものに外ならない。

因に3,4年前から教学部長阿部信雄御尊師様(京都平安寺御住職)もこの御本尊研究を遊して居られるよし承って誠に結構なすばらしい心強い事と心から法の為世の為大慶の至りと存じ上げ御成功を祈って止まない。

 昭和42年9月   著者の母 77才 松本妙淑

  

 

 

 

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