第3篇 相伝法門と富士門徒

 

 

第1節 血脈相承をめぐって

 仏教に限らず、宗教団体で最高主宰者が最高の敬意を以て迎へられるのは当然であるが、特に富士門徒では<68>に見る如く、日蓮聖人自身と変らない地位をもつ。従ってその相承の儀式も極めて厳重であり、興師から目師に与へられた譲状も<24>一閻浮提の座王たるにふさはしい雄大なものであった。然らばこの相承はどんな工合に見られ、且伝へられて来たのであらうか。

 

 

1 日目師の天奏と遷化

 日興師は永仁6年重須に御影堂を造って引越して以後、専ら弟子の教養に力を用ひ、正安3年中山から寂仙坊日澄師が来てから後は(要類285)今参の人に拘らずこれを学頭とし、更に延慶3年澄師寂後は遺弟三位坊日順師にあとを継がせた。相伝法門は深秘のものであるが、信心の深い学匠は案外早く深意に達し得る。以信得入的性格がここに見えてゐる。大石寺の寺務は一切蓮蔵坊日目師に任せてあったやうだ。

蓮蔵坊は現在法主付処の大学頭の住房になってゐる。これは必ずしも宗門の始まりからさうなってゐたとは言ひ難いが、目師の住房であった為に後に自然重んぜられるやうになったものでもらう。

これから後の史料には大石寺日精師の「富士門家中見聞」 (家中抄)要法寺日辰師の「祖師伝」を盛に用ひるから前以て一寸断っておく。両本とも貫主位に在った学匠の手に成ったもので、保存も大体良く、伝本もしっかりしてゐて相当信用できるが、史学の実証主義草創以前の作とて残念ながら独断に陥った所も相当あり、問題になるやうな所は他の史料を以て補はねばならぬ。たとへば澄師の寂年を家中抄は文保元年としてゐるが、大石寺客殿過去帳に依って改めた。なほこの両本はあまりにも度々使ふから、一々頁はあげない。紀伝体だからそれでも検索に不便はあるまい。

 興師が正式に大石寺を目師に譲ったのは、正慶元(元弘2、元徳4)年11月10日、翌2年2月7日に興師化を遷し、5月21日に官軍が鎌倉を踏潰した。度々上奏の経験があり、シカモ成功しなかった目師がこの好機を放っておけるものではない。

 既にこの時重須の御影堂は学頭日順師が眼病に依って退隠したあとを、秀発の学匠日代師が引受けてゐた。代師時に40才。興師初七日の導師日代説法日目、百ヶ日の導師日目、説法日代と家中抄に言ってゐるから、代師は若輩乍ら目師に亜ぐ地位を与へられてゐたことが分る。

 代師のみならず、富士にはまだ多くの俊秀が居た。興師の定めた本六人新六人の上足の弟子のうち、本六の筆頭日目師は74才、讃岐阿日仙師は72才、寂日房日華師の年令は分らないが翌建武元年8月入寂だから大体年も似たものであったらう。秀禅乗三師は既に故人となってゐた。新六の筆頭は蔵人阿代師、弁阿伯耆房日道師は51、式部阿日妙師は49、豪助両師の年は未詳、澄師は前述の通り物故してゐる。大夫阿日尊師は目師より5才年下で、当然本六に入っても良い人だったが何故か外されてゐる。永仁6年の本尊分与帳にも名を缺く。師が重須で梨葉の件から勘気を受け、帰参して赦免を得たのは応長元年で、雲水は12年間と伝へられるから、足掛けで数へると正安2年、満で行けば、正安元年(家中抄311にはこの方を取ってゐる)に追出されたことになり、その前年たる永仁6年に本尊を受けた人の中に入ってゐないのが不審である。尊師ほどの人が本尊分与帳に入らぬ筈はないから、分与帳は勘当中に作られたにちがひないとすれば、勘気は永仁6年に重須に移ったその年の秋であり、帰参は12年目の延慶3年秋で、それから一年間謹慎してゐてはじめて許されたとも考へられる。12年にこだわらなければ問題はないが、長年勘当そ受けた者なら、一年位の謹慎期間が有ったと見るのが当然だらう。さうすれば永仁6年に本尊分与帳に第一の弟子と連ねられた中から省かれても仕方がない。本六の治定は徳治元年(家中抄213)と言ひ、亨師は疑って居られるが、永仁6年に既に上足は定まっ手ゐたのだから、実質的には永仁6年間違ない。但し亨師は疑ひっ放しで理由を言って居られぬから疑ひそのものも疑ひの対照になる。今ここでは永仁6年勘気、その為尊師は本六に入り損ひ、サテ新六に入れるには古参すぎて、別格扱にされてゐたのだろうとしておく。

 これだけ人材が揃ってゐるのだから目師もあとの心配を感じなかったらしく、36箇寺建立の実績のある活動家尊師と、日郷師をお伴に京都に向って上奏の旅に上った。然るに73の老体に冬11月の長旅は無理だったと見え、濃州垂井で御遷化、日尊師は遺志を継いで上洛し、12年間全国周遊の体験に物を言はせて天奏に半分成功し、諸宗禁断と迄は行かなかったが、地を賜はって今の要法寺の源になった上行院を建立した。原則から言へば半分だが、マア大成功と言ってよい。

 

 

 2 東坊地事件

 郷師は目師のお骨を奉じて本山に還ったが、ここで大騒動が持ち上った。家中抄の説は郷師が、上人は拙僧にお跡目を、とやり出したので寺内二派に分れて大騒ぎになったといふもの、堀亨師の訂正説は郷師が目師瑞世の後、蓮蔵坊に居たのを故有って追出されたので、其を取返さうとして訴訟を起したのが騒ぎの原因で、その証拠には裁判文書の残ってゐるものはすべて東坊地に限られてゐるといふものである。

郷師は家中抄には本六新六に入れず、学全の巻頭略伝には新六とある。要集史一276の頭註に享師が日毫日郷を同一人とする説をほのめかして居られる。或は「大窪の日毫」は郷師の事かも知れぬ。本六新六の中で伝の伝はらぬは「日毫師」だけである。郷師の行実から言へば新六位に入って居たと見たい所だ。

 なるほど郷師の開いた安房妙本寺の古文書で要集に載せられたものも、史料編纂所にある影写本も、総て「大石寺東御堂並に坊地の事」「大石寺蓮蔵坊の搦氓フ事」といったもので、大坊其他の事は言ってゐない。又、仙、華、道、代諸師、別しては直師たる伊賀阿闇梨日世師をおしのけて法主位に直らうと考へる位身の程知らずの郷師では無かったらう。想像を逞くすれば、目師の御臨終に「あとはよろしく頼む」とでも言はれたのを、気の顛倒してゐた郷師が聞きちがへて遺跡相続だと思ひ、それを先輩に遠慮して言出さなかったのが何かの事にふれて「実は愚僧があとの事を任されて」とでも口走って追出された。と、小説だったら書きたい所だが、残念ながら読者の骨休めを提供したに止めておかねばならない。と言って全然私の脚色でもない。妙本寺日叡師の類集記(要類341)に、郷師は建武23年の頃、安房と大石寺の間を往復して居り、建武二年には大石寺の仏前で叡師に相承を伝へてゐる事が見えるのは、この時既に半独立の状態に在ると共にまだ寺内の行動に制限を受けて居らず、家中抄でいふやうな「貝鐘を鳴らす」程の騒ぎも起ってないし、郷師も大石寺で弟子に相承する位の法主的意識を持ち始めてゐる。といふ事を物語るものだ。

 即ち郷師は始め強くは主張しなかったけれども目師にあと目を譲られたといふ意識があり、さうかと言って力づくで押し取らうとする気もないから、唯蓮蔵坊を取り返さうとだけしたのが、変にこじれて長い係争になったのではなからうか。今の所、郷師追放の理由も、ムキになって訴訟を起して永年争った心境も、史料が見付かるまでこの程度で我慢するしか無い。

 史料編纂所にある安房国妙本寺文書には、南條時綱が東坊地を郷師に寄進した建武5(延元3 暦応元)年の状が有るが、その翌暦応2年に又安堵状を出してゐるから、その間に大石寺方の勝訴が挾まったやうにも見える。亨師によれば貞和2年頃南條家が所領を失って衰へた(要類48)ので訴訟は[転機を迎へ、貞治4年11月には領主法西入道が大石寺地全部を大石寺日行師に安堵してゐる(静岡県史料二485)。所がその12月の妙本寺文書では今川氏家が代官興津美作入道に保田方に渡すやう命令してゐる。かうして裁決が何度もグラグラ引繰返ってもみ合った後、応永10年7月に今川泰範が大石堂地及西坊地を大石寺日時師に安堵(静岡史料二498)するに至って守護の方針がやっと定まったらしく、12年4月13日、領主法陽入道が東坊地を石山に安堵して局を結んだ。この文書で法陽が、「権門様御不知案内之間御口入侯によりて」思ひ通りに行かなかったと言ってゐるのによって、保田方が権門(ここでは今川)を動かした様の一分を見るべく、この出入がひどく石山の人々に強い印象を与へたので、相続争といふやうな極端な伝承になったのだらう。

 これほどねばった保田方で、又、半独立の後は相承もし自ら本尊も書いて法主意識をもつやうになった郷師だが、それでも係争はあくまで東坊池に止め、大石寺の付処位そのものを争ふやうなことはしなかった。この事件はまことに不幸なことではあったが、その間での法主位に対する門徒の考へを見ることができる。法主位そのものは富士門徒では争奪の対象になり得ないのだ。

 

 

   3 百貫坊問答

 さて、建武2年に郷師は大石寺で叡師に相承をすることができたのだし、係争事件の文書の現存するもので一番古いのは建武5年の安堵状で、それより新しいものが残ってゐるのに一番はじめのが失はれるのはおかしいから、建武元年はたとへ郷師が蓮蔵坊を追はれた後であったとしても訴訟騒ぎはまだ起ってゐなかったらうが、その正月7日、目師のお葬式が終ったばかりなのに、門徒の中心となるべき重須の主日代師が大変なやり損ひをした。

 この時の記録が2つ、伝説が1つある。

(397)建武元甲戌正月七日 駿州富士郡上野の郷大石寺日仙の坊(2)に於て方便品読不読の問答記録

問答午の半時より未の半刻に至る 問者は讃岐阿闍梨日仙 答者は本門寺住(3)日代 筆録者は佐渡阿闍梨日満(4)

日仙問て云く薬王品得意鈔(5)に云く爾前迹門に於てすら猶生死を離れ難し本門寿量品に至て必ず生死を離る可し取意諸御書の趣き此の如し故に迹門の根本たる方便品を読めば悉皆迹門を読誦すると同き間一向方便品は胱む可からざるなり云云

日代答て云く大覚鈔(6)に云く常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読誦し給ひ候へ又別に書き出してあそばし侯べし餘の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備るが如し 方便品寿量品を読み候へば自然に餘の品は読候はねども備はり候なり取意 故に先聖より師に至るまで今に読ませらるるなり何ぞ高開両師の義に背て読む可からずと云也

日仙再び問て云く答の義の如くんば迹門の方便品に於て得道有りや

日代再び答て云く迹門の方便品に就て得益の有無を論ずるに與奪破の三義有り 與とは三周声聞迹門正宗八品(8)の内に於て授記を蒙り五品(9)流通の中に於て調達竜女の得脱を論ずるなり天台云く今迹門の説を聞て同く実相に入り即因中の実益を得たり云云 妙楽云く因門開け竟リて果門に望れば則ち一実一虚云云 開目鈔に云く迹門方便品には一念三千ニ乗作仏を説て爾前二種の失一つを脱たりと書かる是を與の意と云ふなり 然りと雖も未タ発迹顕本(10)せざれば実の一念三千も顕れず二乗作仏も定らず猶水中の月の如く根無し草の波の上に浮べるに似たりと云云 妙楽云く本門顕れ竟れば則二種倶に実なり故に知ぬ迹の実は本に於て猶虚なり此の如き御書本末の釈是を奪の意と云ふなり 開目鈔に云く爾前迹門の十界の因果を打破て本門十界の因果を説顕す云云 此の如く書かるる是を破の意と云ふなり 與の意の分一往文上に於て得益を明すと雖も奪破雙意の分再往文底に於て得益無し真実の得益は寿量品の文底の本因妙に限るなり先師より此法門聴問せずして今生に疑惑を生ずるや 日仙重て問て云く得脱無くんば読むも詮なし如何 日代重て答て云く読んで詮なくんば高開両師の読ませらるるは謬りか又大覚鈔の御文鉢僻事にして謬りか日仙閉口す

仍て後日の為め問答記録件の如し

  建武元年甲戌正月七日         

右問答聴聞衆檀二十餘能人に及ぶ 此等の諸人等日代を讃め奉り作礼敬座して去りぬ(11)(方便品読不の問答記録要問一5 学二394))

(1)改元は正月二十九日

(2)百貫坊。西坊の二番目にあり。仙師は大力で百貫で買った馬の如しと聖人からつけられた愛称がそのまま自坊につけられた。(旧称上蓮坊云云 大日蓮)

(3)この頃外に本門寺号を北山に称したもの無し。本書を以て本門寺号の初見とする人あれども、他の例なき故無理。(1)と共に本書が後に整束された証とすべし。

(4)遠藤為盛曾孫
    為盛日得ー盛綱後阿仏ー盛正妙覚ー盛安妙行
                    興円日満

(5)艮537 取意としてあるが殆ど原文の通りである。

(6)艮482 月水御書のこと 大学三郎の妻にあてだものだから大学抄と言ったのを通音で覚の字を使ったとみえる。これも殆ど原文に同じ。

(7)声聞に上中下三周を分ち、上根舎利弗は方便品の法説周に仏意を悟り、中根の須菩提、大迦旃延、大迦葉、目連の四大声聞は譬喩品の譬説周に得脱し、下根富楼那等三千七百人の為に化城品因縁周を説いて授記するを云ふ。

(8)方便品から人記品まで。

(9)法師品から安行品まで。調達(提婆)竜女の授記は提婆品にあり。

(10)仏寿の久遠を説くこと。始戌を示すは迹、久遠は本。発はアバクなり。

(11)要本のべ書なり。(学本は原文の通り。特に原文の形を必要と認めず依て引用ものべ書なり。)

 

(398)建武元年甲戌正月七日重須の蔵人阿闍梨日代大輔阿闍梨日善大進阿闍梨日助其外の大衆大石寺日仙の坊に来臨せり 大石寺大衆等多分他行なり居合せらるる人数伊賀阿闍梨(1)下之坊御同宿宮内郷阿闍梨其外十余人なり時に日仙仰せに云く日興聖人入滅の後代々の申次に依て方便品は迹門たる間読む可からずと云云

重須蔵人阿闇梨日代問答口となり鎌倉方の如く迹門に得益ありと立てらる云云日仙は一向に迹門方便品読む可からずと云云是亦天目日辨の義と同辺なり然して当日の法門は日仙勝たれ申すなり日叡其座に有て法門聴聞せり 結句重須本門寺大衆等の義には元より日代は五十六品と云ふ法門立てらるる間高祖聖人共に日興日目等の御本意に非ざる故に日代は本迹迷乱たるに依り重須大宗皆同列して山より日代を擯出し奉り畢ぬ末代存知の為め日叡(4)之を験し畢ぬ正本は九州日向国日知屋定善寺に之有り日代迷乱の筆記末代の為に書き出す処なり 永録八年乙丑三月二十五日之を書し畢ぬ 歓義坊(日仙日代問答 要問一9 学二445)

  (1)日世。家中抄(要史一270)には弟子の郷師も居たと説く。(学二445)

  (2)日行。下坊に道師と共に居た。

  (3)国家諌暁状である。常に「爾前迹門の謗法を退治し」といった文章を書く。

  (4)日叡師は仙師の弟子、この後道師の弟子になり更に郷門に転じたと言ふが、道師の下に在ったのは少時であらう。

(399)応永六已卯年十一月九日同十月下旬、助(1)に対して御物語(2)に云く――重須の在所等の付弟は(興)(3)上人より日代に付け給ふなり 然るに迹門得道の法門を蔵人阿閣梨立て給ひし程に西山へ退出なり 此法門は始は我と必しも建立し給はず 讃岐国(高瀬大坊)先師津の阿闍梨百貫房と(大聖人名付け)召されし(人と対面申されし)に(百貫房)日仙云く我は大聖人日興上人二代に値ひ奉り迹門無得道の旨堅く聴問する故に迹門を捨つべし爾れば方便品を読みたくも無き由を申さるる時、日代日禅(4)日助等之を教訓して法則修行然るべからざる由を強て之を諌め天目にも同じなんどと申けるなり此の如く申ままに後には剰へ迹門を助け乃至得道の様に云ひ成して此義を後には募り給ふままに此法門は出来しけるなり

日代云く迹門は施迹の分には捨つべからず云云 かかる時僧俗共に日代の法門謂無き由を申し合ふ 其時石川殿(5)諸芸に達したる人にして又学匠成しが我さらば日道上人へ参て承はらん已に彼御事は聖人の御法門をば残す所よもあらじと思食すなり さて此由を問ひ申す時日道上人の仰に云く施開廃の三共に迹は捨てらるべしと聴聞して之を感じ彼仁重須に帰て云く面々学問未練の故に法門に迷ひ給ふ所詮此後は下坊へ参て修学し給へと申す 然るべしとての坊主(7)宰相阿闍梨日恩其時は若僧にて是も学徒の内にて是へ通ひ給ふなり さて其時日道上人は本迹の要文三帖を教へ給ふなり此雙紙は富木殿の子息日頂上人まま(真間)中山の先師舎弟寂仙房撰して日興上人へ之を上られ給ふなり(8)――
是の如く有ル優にて日代も出で給ふまじかりけるが剰へすすはきの時先師の坊を焼き給ひし縁に其儘離散し給ふなり かうて坊主に戌るべき人無かりし程に侍従阿闍梨は日興上人の外戚に人ひ給ふべき強義の人なり我が計に日妙を坊主に戌し給ふなり――
河合の坊主(日代)迹門無得道の落居は大石寺に於て日代等一反
(9)日仙一義下御房の御代官は日行上人(10)の若僧にて御出あり両義は前の如しさて下坊の御義は云何と尋ね申されけるに仰に云く三義ありて方便品を読むなり但問答の時は所破と云ふべし云云其時日代三義(11)は何にと問ひ申されければ日仙中に取り(12)所破の義だにも立せば其までにこそ有べけれと募り給ひければ弥々日代の義は立せず何カにのたまひけれども理の推す故ならん日仙にはつきくづされくづされし給けるなり其時尾張阿闍梨二十計の若輩にて今日の御法門院二義に相分れて候とて結判申して立たれけり(大石記 要 問史149ー153)

(1)未詳
(2)応永六年は代師寂後5年目。大石寺時師の代。亨師は時師の談であらうと言ふ。
(3)括孤内は著者註
(4)禅師は大石寺客殿過去帳家中抄共に元徳3年寂としてあってここに出る筈がない。同音の善師なら<398>にも見え、大石寺寂日坊過去帳に永徳4年辛酉3月19日寂日代弟とあるから適当であるが、永徳4年は甲子である。客殿過去帳には元徳4年辛酉とあり、辛酉が共通するからこれを生かせば永徳元年が推定される。日蓮宗年表は保田妙本寺文書によって至徳元年(永徳4)3月15日55才寂とする。この年代師は88才か91才で、弟の善師が55才では稍開きすぎる感もあるが有りうべがらざる差とは言へない。どれを取るにしろ取らぬにしろ、禅は善の誤だとする亨師の註は妥当である。

(5)北山の大檀那

(6)大石寺四世 当時下之坊に在り 大石寺直末、本寺発祥の寺

(7)重須の貫主

(8)日順血脈に出づ(要義一25 学二336)

(9)一反一義は其々一説道師のが第三説の意ならん。

(10)道師の代官として下坊から来て道師の言を伝へたのである。大石寺五世。<338>には始めから居たやうに書いてゐるが、下坊から来たのをさう書いたものか、石川と共に下坊へ往復したかどちらかであらう。

(11)五人所破抄に所破借文の二義は示されてゐる(要義二13 学二86)。しかし三義とは初耳なので代師が問うたのであらう。

(12)代師は道師の説を知りたいので行師に問うだのに興奮のさめやらぬ仙師が横取りして突張ったのだ。相手をやっつけるだけが目的ならばそれも良いが、おかげさまで末代今日我々が道師の所謂三義を知る手懸り迄失はれてしまった。

 記録は何れも後年の整記で、当座の事情を正確に伝へたと見ることはできない。(397)の筆者満師は『日代上人重須離山事』(学二396)に依れば代師心寄せの人である。たとへこの状が偽書とするも記録の内容から言ってあまりに代師の論法がうまく出来すぎてゐる。満師が嘘を書いたと言ふのではないが、代師の言った良い所ばかり取って整記したものであらう。

  重須離山事は入文に「石川式部三位実忠」とある。三位は北山辺の地頭にしては少々偉すぎる。以て疑を存する所以。

(398)の方は問答の内容よりも参会の人名と経過に重点を置いて書き、代師は自分から出たのでなく、重須の大衆が追出したのだと言ってゐる。両方とも壺の外れた論義をしたと言ふのは、正月七日の事だからかなりおみきが入ってゐたのではないだらうか。

(399)が時師の談だとすれば、師は応永13年寂で寂年未詳だが、60とすれば正平2(貞和3)年、80とすれば嘉暦2年の誕生で建武元年にはマダ生れてないか、精々8才位の所でたとへここに居合せたとしてもこまかく記憶してゐられる年令ではないから、多分人づてに聞いたものを話されたのであらう。却って時師の談が一番当時の有様をよく伝へて客観性が有るやうに見えるが如何であらうか。満師は日代方、叡師はその反対で、各々その好む所に偏してゐるやうにみえる。

 方便品読不の事は今でも話題に上る化儀上の問題だが、五人所破抄に所破借文の二義が出てゐる上は門徒としては異議の出しやうが無いのに仙師が言出したのも、代師が「問答口」になってこれを受けたのも、共に正常な法義論究の態度ではない。元来代師は秀才だが法戦に鍛へられた人ではないやうだ。師が第一線に飛出して折伏弘通をしたといふ記録は管見に入らぬ。仙師は身延随従の古老で給仕第一の誉を取った人だし、土佐吉奈の大乗坊を建立したのだから千軍万馬の古強者だ。問答口になってやり合ふなら学問よりも実戦の経験がモノを言ふから、仙師のペースにまきこまれ、おまけにおみきが入ってゐたので心にもない失言をしたのだらう。口を辷らせて迹門に得道ありと立てても、興奮してゐなければそれは一往の義だとか、本門と雖も文底に望めては無得道だとか、何とか手の打ちやうがある筈で――満記によれば実際代師は輿奪破の三義を立ててゐる――若しただポキソと折って伏せしめるだけなら高開両師が読まれたではない――これも満記にあり、この一言で仙師ぎゃふんと参ったとしてある――とやれば良いもので、その位の事が代師ともあらうものができない筈はない。所が問答口となると、一旦迹門に得道ありとやったが最後、これでもかこれでもかと攻め立てられて、上ってしまったら「つき崩しつき崩し」されるのも無理はない。元々は諸宗折伏に用ひる論法を寺中での法義論究に使ったのが誤りだったのである。

 それではこの問答の結着はどこにあるのか、先づ興師の意見に問うてみよう。

(400)天目云――富山雖モ宜ト亦有リ過失乍破迹門(1)読方便品ヲ既自語相違不足可信受若為ト所破云ハ可誦弥陀(2)経オモ哉云云
 日興云――汝未辨法門之立破ヲ恣ニ蔑如祖師之添加ヲ重科非ー若欲知者如以前ノ詣二富山ニ尤為習学ヲ可致宮仕ヲ也抑
(3)為彼等非教訓任正見ニ立二義ヲ一ニハ為所破一ニハ借文証ヲ也初ニ為トハ所破者純一無雑ノ序分ニハ且ク挙権乗ノ得果ヲ廃迹顕本之寿量ニハ猶明伽耶之近情(6)以此思之方便講読之元意ハ者只是牒破之一段也(7)若為所破云者可申念仏ヲモ歎等之愚難ハ誠ニ迷四重之興廃(8)ニ未知三時之弘経ヲ重畳之狂難嗚呼之至極也夫諸宗破失之基者天台伝教之助言ニ全ク非先聖之正意ニメ何ゾ為所破可不読哉 経釈之明鏡既如二日月ノ天目之暗者被覆邪雲故也 次借迹ノ文証(11)顕本ノ実相ヲ此等ノ深義ハ聖人ノ高意ニメ浅智非所蕈(正機将ニ伝之)云云(要義二13学二86)

 註は富士の古老妙蓮寺眼師の五人所破抄見問(要疏一44)を参考としてつける。

(1)富士は本迹勝劣編で迹門に得道なしとするのに、ナゼ無得道の迹門方便品を仏前で読むかとなり。

(2)無得道といはば迹門も爾前も同じだといふ意

(3)法門といふものは師に仕へて得られる(身延山御書)もので、喧嘩腰に食付いては分らないといふ事

(4)弟子にならない者は教へる事ができないので、意地悪で教へないのではない。

(5)法華経序文の無量義経に須陀?狂斯陀含阿那含阿羅漢等の得果により第十地に至るを言ふ。その後で四十除年未顕真実と打払ふから一往の説ではあるが、挙説してゐることを言ったもの。

(6)寿量品に伽耶始成の文のあること。これも直に打払ふが文は始戌を示す。迹門を捨てるならば本門も文底題目に望めては真法にあらず何ぞ本門を読まんやの意

(7)方便品は五仏同道(諸仏、過去仏、未来仏、現在仏、釈迦仏皆一仏乗法華の為に法を説きたまふ)唯以一大事(仏出世は法華経の為といふ)若遇除仏(本因妙日蓮聖人出世の予言とする)五千退座(末法出現の人)五濁悪世(末法の様相)等の文を以て爾前を破る。この場合迹門は能破、爾前は所破で、迹門と阿弥陀経は同じでない。

(8)迹門の大教興れば爾前の大教亡じ

本門の大教興れば迹門爾前亡じ

観心の大教興れば本迹爾前共に亡ず

これに両前法華相対の興廃を加へて四重となる。

迹門の用は爾前を破廃する。これが無ければ本門の大教は出られない。先づ方便品を読んで爾前を破し、次に寿量品を読んで迹門を廃し、最後に観心の大教たる題目を唱へて迹本共に廃し、これと共に迹本二門は題目の体内に納まる。

(9)正法千年 小乗 権大乗(爾前)

像法千年 法華迹門

末法萬年 法華本門(観心大教を摂す)

仏法は従浅至深して本門文底の大教に至って究竟する。その弘教次第を助行に読むのだの意

(10)日蓮聖人弘教の正意は文底観心の大教を立てるにあり、爾前破廃は天台伝教のなさった事で聖人は唯それを紹介なさっただけである。天台は雲を描いて竜を描かず聖人は竜(本門の大教)を描いて晴を点ず(観心の大教)雲が無ければ竜は出られず竜が無ければ雲の意味は無い。竜も雲も同じだと考へる天台与同本迹一致が正しくないからと言って、竜に雲を副へず竜を描かずに唯眼晴のみを描くのは修行の法でないとの意。日蓮聖人の弘教のねうちは釈尊を離れずにしかも釈尊を脱した所にある。三時の弘教、四重の興廃に乗って仏法は古来の伝統と末法の大法を共に生かして一大体系を成すことになるので、一部八巻を捨てて題目のみを採ったのでは仏法でなくなってしまふ。釈尊は法華経を説き、聖人はその魂たる題目を弘め、彼此相映発して大仏法を構成する。題目顕れ了って法華経は逆にその妙法を説明し顕彰するものとなる。要文二品を読誦するのは得道の為にあらず題目の意を顕さん為である。

(11)興師は明説して居られぬが、眼師も、又五人所破抄の草案者三位順師も(日順雑集義一150)「下文顕已通得引用」の釈を出し、特に順師は「此経トハ者非指一経ヲ妙法蓮華経ノ五字也結要付嘱ノ故ニ天台云爾時仏告上行ノ(神力品)下ハ是三ニ結要付嘱云云四信五品抄云直専持此経トハ非指経一妙法蓮華経ノ五字也」と、文底法華経を釈するに法華経一部を註脚とする意を示してゐる。この少し前に順師は「但シ日興上人は但所破卜可云借テ迹置クトハ本ノ助ニ不可レ云仰有也」と言ってゐるが、成程所破とだけ言へば、迹門は爾前の所破に対して能破となり、本門の出る道を清めた後本門の所破となり、両々相俟って本門の註脚となる意が含まれるから、対治悉檀に約しては所破とだけ言へばそれでも良いことになる。

 

法華経のねうちは仏種たる南無妙法蓮華経を含む経たることにあり、三部の中にも一部(1)、一部の中にも本門(2)、本門の中にも八品(3)、八品(4)の中にも六品、六品の中にも一品二半、一品二半の中にも寿量品の文底に在る(5)

(1)法華三部の内より妙法蓮華経八巻を詮す

(2)本勝迹劣の義

(3)八品派の立義

(4)地涌在座の六品、八品といはば中にも六品たるべく、八品と特に言ふ事は無い

(5)以上の階梯は観心本尊紗の文にあり

それだから本門の要品寿量と、迹門の要文方便品を、得道の有無を以て争へば方便品無得道となるのは分り切ってゐ
る。※

※迹門の三周声聞の成仏は過去下種の機で、過去に文底法華経に結縁した者だから、得脱そのものは迹門の得文ではない。

方便寿量とも文底法華に望めては註脚に過ぎないが、文底法華は寿量品ある事に依って衆生に与へられ、寿量品は方便品ある事に依って出る事ができ、且、寿量に説かれる事の一念三千(即ち本仏の事常住)は、方便品の十如是の文から詮じ出した理の一念三千(天台所弘)の文を借りて説明される。即ち迹門は爾前を破し、本門を俟って自分の征伐した爾前を代表して破廃を受けるといふ両様の働がある。迹本二門の代表が方便寿量だ。依って方便、寿量、題目と従浅至深して真仏法が前の仮法を破って登場する。人を以て言はば、本果釈尊、本因日蓮の、一仏の両用一体の両面が、あひ助けあひ映発して御説法になる。

 かういった法門は、興師も言はれるやうに師匠に就いて供養恭敬合掌礼拝讃歎し、当起遠迎猶如敬仏の礼を以て承はらなければ納得できるものではないのに、法門論義と諸宗折伏の場所をまちがへた仙師が年甲斐も無く鳴り立てたのを、おみきのせいも有ったかして代師ともあらうものが下手な受け止め方をしたので、全く無用の暴論に終始してしまった。仙師もしまったと後で考へたらしく、富士に居辛くなってこれも讃岐へ引越してしまふ。おかげさまで新しく大きな寺が二つできたのは煩悩即菩提と言ふべきかも知れないが、つまらぬ波瀾を起したものだ。

 所謂宗内問答といふものは聖人在世にはあり得なかった。たとへ議論は有っても日蓮聖人といふ決定権者が有ったから、異議の対立は起らない。滅後になると興師でも長老たちに対してそれ程強い線は打出せぬ。富士では大導師職が定まってゐたから門内での異義は出し難いが、目師が大導師の当職の儘で客死してしまったのだから長老道師、学頭代師でさへ充分なおさへを利かせうる立場に無い。

 在世には宗内問答が無かったから従って宗内問答のあり方についての厳密な定めも無かったらうから、自然化他折伏の化儀が流用されることになる。宗外対論の場合は法華経三部十巻を立てれば他宗は対抗できない。教相上無量義経説法品の四十餘年未顕真実、方便品の十方仏土中唯有一乗法、法師品の已今当で打ち払はれてしまひ、あとは理深解微、機不堪などと逃げるより外無く、天台宗だけが残るが、これは餘釈では法華宗同士で親しく、奪釈では迹門当分本門跨節と払ひ、破釈では台密は教大師の本意にあらずと叩ける。所が宗内に於てはそのやうに明瞭な線を出せないからそれだけ議論は細微に亘り、それを爾前折破と同じにやってはこんぐらかるのが当り前で、後年の宗内分裂の変則的型態が生れる一つの条件をここに見ることができる。

 それにしても法華経を捨てたといふわけでなく、唯本釈法門に正しい決断を与へられなかったといふだけで、学頭が擯出されるのだからひどい厳しさだ。又その位に本迹法門(実は種脱法門)は大切なのだ。

 

 

4 日代八通状について

 日代師には日興師から8通の遺状が与へられて、目師と共に付処とされたといふ言伝へがあり、学本(二139)では西山蔵正本の臨写本を底本としてゐる。もっとも史料編纂所の影写本で見た所では興師のお筆ではないやうにも見える。これは将来詳細な分析をしてみたいが、今の所史料不足で、古来の「視察による判断」を、影写本に依ってするしかないのが残念である。

 大石寺精師はこれを全く疑はず(家中抄日妙伝 要史一293)、同じ大石寺の亨師は疑義百出と言ひ(要類219)、信用してゐる精師も正中2年(正和3年の誤)は代師21才で法燈と迄いふのは過褒だがヨホド秀才だったのと梢しい救解をして居られる。亨師によれば正本は紛失(要類219)だし、大石寺の上人が目師を押しのけるやうなこの遺状を疑ふのは無理もないが、サテ実物はどうであらうか。

(401)雖定六人弟子日代者日興為付嘱弟子可為当宗法燈働示之

   正和三年十月十三日  日興判

(402)日蓮聖人御法立次第日興存知之分弟子日代阿闍梨令相伝之畢仍為門徒存知置状如件

   正中二年十月十三日  日興判

(403)日興先年病床之時雖定六人弟子其後有日代已下弟子琥六人ノ外ト不可軽之雖六人ト於ハ違背ニ者不限沙汰ニ仍為後ノ証ノ置状如件

   正中二年十月十三日  日興判

(404)正中二年十一月十二日夜於日蓮聖人御影堂日興所給御筆本尊以下廿鋪御影像一鋪井日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝ニ箱被盗取畢日興帰寂之後若弟子分ノ中ニ琥二相続人令出之輩者可為門徒怨敵大謗法不孝之者也於謗法罪者可蒙釈迦多宝十方三世諸仏日蓮聖人御罰ヲ於盗人ノ科ニ者為二御沙汰ト可仰上裁ヲ若出来ル時者日代阿闍梨相続之可為二本門寺ノ重宝仍為門徒存知置状如件

   正中二年十一月十三日  日興判

(405)聖人御門徒各別ナル事者依法門邪正本迹之諍也日興之遺跡等法門異義之者雖諍是非以世事之遺恨不可挾

 

在家人に渡すのは原則に外れる。善師は寂日坊過去帳では元徳4年、大石寺客殿のでは永徳4年の寂。助師の寂は嘉慶元年(要史一300)だから、延文元年に文書を書くのはありりることだ。

 しかし、目師の興師と違背といふのが他に全く証跡が無く、南條五郎右衛門もあとづけできないとすると、この文書のみを以て目師の地位を云云するのは無理だ。他に目師の地位を固める材料は沢山あるが、揺がすやうなものは一つもないのである。

 日目補処が動かせないとすれば代師が興師の補処になる余地は無い。目師のあとは目師自身が定めるべきもので、師匠と雖、興師が正和3年にまだ21才の代師を、55才で聖人直参の古老目師を措いて付属の弟子と宣言するのはおかしい。いかに代師が秀才だからと言って、目師も問答の大家である。(御伝土代 要史一27 学二257)。措かるべき人ではない。

 道師の三師伝中目師分の中心は鎌倉営中問答である。道師の時営中問答が特に目師の履歴中で重く考へられてゐたことを知りうる。

 第2状は法門を悉く教へたといふだけで、これだけなら問題は無いが、同日の第3状ではこれを踏へて本六と雖も日代に違背するなと、目師まで代師の区署下に置くのは無理で、同日の状が2つあるのも変だし、日代師への付属状が重複することにもなる。第2状は疑点無しとしても、第3状を偽作して第2状を誇耀する線も考へうる。

 第4状は正中2年の北山盗難事件が記されてゐる。これは順師の血脈譜に嘉暦元年秋、本尊紛失の使節に出た事(要義一26 学二336)、満師の日代上人重須離山事(学二396)に出てゐる事件である。妙源寄進状(史料編纂所西山文書 要類218)には11月13日付で北山御影堂敷地を寄進したとあるから、その寄進式に紛れて盗んだものであらうか。満師は妙師が代師に叱られたのを怨んでやったと言ってゐるが、この文書は写本で伝承したもので、石川式部三位の語は田舎武士にしては上等すぎるから疑点が有るが、それでも正中2年の盗難事件は事実を物語ってゐると考へうる。この代は日代相続の事は問題無い。代師は北山の住持だったからだ。もっとも目師への譲状に新田郷阿闍梨日目と書いた興師が、ナゼ蔵人阿闍梨日代と書かれなかったかの疑問は残る。

 第5状は果してこのやうな遺状が有るべきものか、口頭で指導する方が有りうべき様ではなからうか。むしろ百貫坊問答を踏へた語気が有り、代師を救解する目的で偽作されたのではないかと、疑へば疑ひうる。

 第6状は四至が記して無いのはドソナものか。付法上人だから妙円に与へたものを悔返して日代に譲るといふのは、少々行きすぎのやうにも思へる。

 第7状、跡式の方はよろしいが、御本尊を補任するはおかしい。当然譲渡となければならない所。

 第8状で、本六の筆頭に目師をあげながら、新六筆頭の代師を補処とするのは形の上から言っても無理が有る。

 8通遺状はたとへ偽作としても良くできてゐて、若し目師が大石寺に瑞世してゐなければ偽文書とするのは甚だ困難であるが、事実は如何ともなし難い。畢竟代師を立てるに急にして、目師までおしのけようとした所に偽作者の誤が有る。とはいふものの、それに記された事はかなり正確に宗門上古の有様を物語ってゐると見られるのであながちに捨て去るべきものでも無く、火の無い所に立った煙たとも言ひ切れない。

 

 

5 目師遷化のあと始末

 代師が若し遺状の如く付処となってゐたら、目師の遷化後は直に代師が大石の大坊に迎へられたであらうし、仙師が何か話すにしても喧嘩みたいにはならなかったらう。百貫坊問答で代師が喰付かれたのは、学匠として尊敬はされてゐたにしても、付処とまでは認められてゐなかった為ではないだらうか。

 後年では大石寺で学頭即付処といふ法式が定まって、師子座に陛る人は大学頭欠員の時でも一度蓮蔵坊に入ってから改めて大坊に入院する。

 それでは目師の跡目はどうなったか。御自分が老体である事も、万一血脈相承が絶えては富士門徒の核心がなくなる事も、気付かれぬ目師ではあるまい。しかし天奏はあくまで隠居でなく、当職の法主の任でなければならぬ。といふのは、以前の天奏はまだ実権の無い天子を相手だったから、たとへ御嘉納になっても直に本門戒壇の勅立に迄持って行きうるわけではないが、今度はさうでない。戌功した時は直に国主の戒師となるのだから代人では済まぬ(要問二132)、行って万一の事が有ったらどうするか。諸天の加護があらう等と考へるのは末法の化儀ではない。加護の責任を感じるのは先様の都合で、こちらからあてにするべきものでは無く、原則としてはあくまで凡夫として行動すべきものだ。日蓮聖人も小町の辻に立つ前に昭師といふ控へができる迄は折伏活動を起されなかった。目師は問答名人では有ったが目から鼻へ抜ける型ではなく、身延の給仕に手桶の重みで頭を凹ませた位の興師に輪をかけた堅人だ。万一の時と、無事に帰った時との両様の仕置をしておかれぬやうな人ではない。

 ここで参考になるのは、興師が尊師に百六箇抄を示したといふ後加分奥書(要相41学二31)である。器用の弟子にはあ
る程度深秘の口伝が与へられる。更に家中抄には、

(409)亦本尊七箇決相伝したまふ 之に依て元徳正慶の間師に代て本尊書写したまふ 故に日目書写の本尊数幅之有りされば古より相伝して云く付属の弟子は日目付所の弟子は日代と此言良に由有かな 日代日妙等本尊書写したまふは皆日興入滅の後之を書写す(日目伝 要史一239)

目師が大石寺を譲られる前既に本尊相承を得た事は、要集史料類聚に正中3年目師写の守本尊(類273)を掲げてゐる。精師は元徳正慶といはれるが、大石寺を譲られたのは元徳4年だから、正慶は興師在生中でも目師当職の時だから自筆本尊が有る方が当然である。

 代師が百貫坊の不幸な事件から寺を出て、大石寺に直ったのは道師である。そして道師瑞世のあと、新六で道師の次の妙師は北山を相続し、追々上野を離れて独立の形になり、本門寺を名告ったり、西山と喧嘩したり、仲直りして興門八本山の一つとなったり、本門宗として独立したり、身延に吸収されたりするのだが、其は後の話である。郷師(新六の日毫がこの人なら妙師の次)も保田に行って分離する。このやうに新六の人々の中には若千の不満は見えるが、本六と大石寺の大衆には異議がなかったやうだ。その徴候は一つもあらはれてゐない。

 道師に与へられた切紙相承を、精師は道師付処の証として居られるが、亨師の説の如くその筆蹟は目師でない(要史一285 巻頭写真)。道師の晋山については北山保田小泉方面での雑音はあるが大衆に異議も無く、百貫坊問答の時も頼りにされたとすれば、内相承を与へられたのではないかといふ線も出て来る。

 正慶2年目師遷化の年、道師は51、代師は四十、妙師は49、まだこの外に長老は多勢ゐる。如何に秀才といへ、特別な家柄も無い代師が貌座に登るには多少の困難が有る。弘安鶴林の時、興師は37で、年長は昭師の62、朗師の40だけで、あとの2老は遥かに年下だったにも拘らず、あとでうまく行かなかった。興師が付処をえらぶに活動家の尊師を措いて年長の目師を採ったのも或は年令の事も考へられたであらう。さうすると、本六の老人衆はさておき、新六で澄師は既に故人だから、代師の後見に道師を立てれば年令の方でのおさへが利く、といっても其を証明する文書も何もない。当職を握ったままであとの仕置をするのだから文書は出せないから無いのが当然だ。有ったら却っておかしい。唯、代師に付処上人だけの貫禄に見られなかった節が有るのと、道師の晋山に対して表立った反対は北山や保田小泉などからも無く、(小泉義師が後で文句を言ってゐる<史一287>が、そのこと自体当座は強く道師不適任の主張を強くなし得なかった為とも見得る。)穏かに道師が大石寺に晋んだ事から推定したことである。

 これから先法燈の一々を現住日達師に至り、又西山代師、要山尊師、重須妙師、保田郷師、などのあとを細かに辿って行ってはじめて富士門徒の歴史は完結するのだが、今の所、史料の採訪さへ完璧でない。保田の妙本寺一つだけでも未公開の史料が沢山有り、既知の史料でも見直さなければならないものが多いから、将来に委ねる外ない。次に筆を転じて古来論争の焦点に当ってゐる戒壇本尊に就いて論じよう。

 

 

 

 

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