口伝相承  

 

(1)日蓮宗に口伝法門があるか

 身延文庫『本尊論資料』に諸派諸山の口伝法門を集めてみる。これだけ見ると口伝法門は日蓮宗の大切な法門だと思はれるが、開目抄の『伝教大師云依憑仏説莫信口伝』を盾として、聖人の法門に口伝など有るべきではないといふ説が有力な学者に依って述べられてゐる(1)(2)

(1)信人第十八巻一、二号に家永博士の論文を山川智応博士が批判した中に在り、その概要は『聖人の遺文中、中古天台の口伝法門を引用したのは、立正観鈔、当外義鈔、十八円満鈔、三世諸仏総勘文鈔、義浄房書、日女鈔等に出てゐるだけでみな聖人教学の正系には属せぬ。御義口伝、日向記等は教義といふものでなく「教義によって信行してゐるものの安心の自在運用に属する証道の側のもので宗教を成立せしめる所以の教義ではない。」聖人の教義は三種教相の中の第三の師弟遠近不遠近相から来るもので、寿量本仏の客観常住、末法の上行出現といふ如きは中古口伝などに分毫の関係もない。修禅寺決法華、義中三箇相伝の円教三身、蓮華因果、常寂光主義が三大秘法に類するといふ考へ方もあるが、修禅寺決の止観大旨、法華深義、一心三観、心境義の四箇相伝の源は、伝教大師が道遂大師から受けられたものであることは真撰の疑ひない天台法華宗伝法偈によって明かで、三箇相承を法華深義から引出すことは必しも必要でなく、寿重品の本果、本因、本国土の根本三妙から三大秘法は出たものである。』(取意。「」部の中は原文のまま。)といふにあり又、博士の直弟高橋智遍居士は最近の信人誌に開目鈔の前引の文を以って師説を祖述して居る。 

(2)の註は後頁

成程この文だけを見れば聖人はすべて文章にあらはされたものを以て諸門を立てよと言って居られるやうにみえるが、さて仔細に御書を検索してみると、口伝に関するもの少しとしないのである。

(44) 懐胎のよし承侯畢それについては符の事仰侯日蓮相承の中より撰み出して侯能々信心あるべく侯――口伝相承の事は此弁公(昭師)にくはしく申ふくめて侯(四条女房御返事

(45) 答云此義最上之難義也在口伝云々(法華真言勝劣事

(46) 問日要法ノ経文如何 答曰以口伝伝之(曾谷入道許御書

(47) 三世の諸仏の成道はねうしのをわりとらのきざみの成道也 仏法の住処鬼門の方へ三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし(上野殿御消息

(48) 日蓮之己心相承秘法化答可顕他 所謂南無妙法蓮華経是也―今日蓮塔中相承南無妙法蓮華経七字末法時弘通日本国―当体蓮華相承等日蓮之己証法門等前前如書進委如修禅寺相伝日記天台宗奥義不可過之歟一心三観一念三千之極理不出二妙法蓮華経之一言(十八円満抄

これは表には天台宗と言ってられるが、内容は一心三観一念三千を五字に約して居られる点、已に天台の凡夫己心の三千でなく、本因妙抄(後述の両巻血脈の一)と同一の思想を、天台宗と義を隠して説いておいでになるものである。叉修禅寺決を天台の奥義と言って居られる点、今の天台学者が所謂中古口伝法門を途中発生の法門としてゐるのとは、全然ちがった観点に立って之を用いて居られるが、其は天台宗が当時口伝法門を正しく伝へ損ったのに、日蓮は本物を伝へられてゐるといふ自覚から出発する。

(49) 天台(智者)己証法者是也当世(天台宗)学者血脈相承習失故不知之也 故相構相構可秘法門也 雖然汝志神妙出其名也一言法是也 伝教大師一心三観伝於一言書給是也(立正観鈔

(50) 問天台此一言妙法証得之給証據有之柳答此事天台一家秘事也 世流布学者不知之 潅頂玄旨血脈 天台大師自筆 血脈一紙有之天台御人減之後石塔中有之伝教大師御入唐時八舌以鑰開之自道邃和尚伝受給血脈是也 此書云一言妙旨一教玄義文――然而当世天台宗学者天台石塔血脈秘、失故天台血脈相承秘法習失我一心三観血脈任我意造書入錦袋懸頸埋箱底高直売敵 邪義国中流布天台仏法破失也 失天台本意下釈尊妙法是偏達磨教訓善無畏勧也(

この線では聖人の意見は今の天台史学者と重なってしまふ。聖人も中古揑捏チ上げの口伝法門が存在したことを言って居られるので、唯その他に真相承ありとする所が聖人の主張なのである。 

(51) 此経は相伝に不有難知(一代大意

(52) 此法華経は不知(謂)習談ずる物は但爾前の経の利益也(

(53) 此三大秘法は二千餘年の当初地涌千界の上首として日蓮慥に、自教主大覚世尊口決相承せし也(三大秘法鈔

 最後の三秘鈔に至っては完全な観心釈だが、聖人が釈尊からこれを口法相承したといふ自覚の上に立って法門を説かれたといふ線は動かない。更に御義口伝に至っては、普賢品の御義に、 

(54) 秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり口外すべからず 

と迄ダメが押されてゐるのである

これほどまで口伝相承を重んぜられた聖人が、開目鈔に口伝を信ずる莫れと言はれたのは自話相違のやうにも思はれるが、其はこの文だけを切離して扱ふから誤解を生ずるのであって、その少し前から分析して拝すればすべて疑問は氷解してしまふ。其はその前に華厳宗の杜順等が華厳法華の理同、法相の玄奘が深密法華の法門同、三論宗吉蔵等の般若法華體同、真言宗善無畏の大日法華理同、弘法の大日経第一又或人の華厳第一の説を挙げ、之に対して涅槃経の依法不依人の文に依って「等覚の菩薩法門を説給とも経を手にぎらざらんをば用べからず」と、如何なる智者学匠の言ふことでも「仏説に合はず、経文とちがった事を言っていゐるものは用ひるな」と言はれたもので、重点は「依憑仏説」にあり、ここでいふ「口伝」とは人師の「荘厳已義の法門」を指されたものである。

教相門に於て諸経の勝劣を判釈するとき、経の文を用ひて、経に示されてない口伝を用ふべからざることは当然である。しかし観心門に入ってまで、経の文上のみから論じようとすると逆に教相からさへ外れて来る。何となれば法華経方便品に「仏の成就したまへる所は第一希有難解の法なり。唯、仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究め尽したまへり」。神力品に「諸仏の神力は是の如く無量無辺不可思議なり。若我是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祗劫に於いて、嘱累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能はず」と説いて、この経は仏力を以てしても凡夫に分らせることはできぬ、わからぬ者に嘱累の為に、説くことはできぬ。と、大衆に向っては秘密説法(3)である事を言はれ、その次下に四句の要法を説いて「皆此の経に於いて宜示顕説す」と、一寸見ると反対な事を述べられたのは、四句の要法を受けた地涌の上首上行菩薩にとっては顕説であっても、自餘の大衆にとっては秘密である事を示されたもので、そこで上行応化の日蓮聖人から教はれば経文の意味が分るといふ義分が生ずるので、この関係を日向記に、 

(55)末代の当今の別付属の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給ふべき仏勅使の上行菩薩なり云云取次とは、取るとは釈尊より上行菩薩の手へ取り給ふ。さて上行菩薩また末法当今の衆生に取次ぎ玉へり。

 と示されたのである。 

日蓮宗に口伝相承は当然無くてはならないものである。然らば其は如何たるものであらうか。それを見る前に、聖人以外の人々が、どんな工合に口伝相承を見ているかを一見しておくのも無駄なことではあるまい。 

 

(2)山川博士の論文に就いては次の若干点が問題になる。 

1 立正観抄等、天台の口伝法門を引用した御書は、日蓮教学の正系に属せぬといふ判断は正しいか。 

2 御義口伝、日向記は教義といふべきものでは無いといふのは正しいか。

3 教義でないとしても、「証道の側の法門」に口伝が有るとすれば、聖人に口伝法門ありと言っても良いのではないか。 

4 日蓮教学の正系といふものは、山川博士が領解して居られた通りと考へて良いのか。

5 山川博士の領解が一往正しいとしても、再往深重の教学に入るとき口伝法門を正系教学と考へねばならぬのではないか。

6 聖人の正系法門は、中古天台の影響下に在るか。

7 聖人は天台の口伝法門を如何に扱って居られたか。

問題は日蓮教学の正系思想如何、山川博士の其に関する領解如何をまづ定めなければ解決しないから、こちらの方からときほごして行かう。

日蓮宗の根幹法門と言へば先づ誰でも三大秘法 ―― 本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇であると考へる。そして更に本仏の三身常住、事の一念三千、本化上行の末法応化がその後楯になる、といふのが門下諸派の通義だが、博士の場合はどうだらうか。幸ひ博士が恩師田中智学居士の『本化妙宗信條要義』を『信人』196号に発表して居られるので、これは博士が最も責任を持って日蓮教学の正系と思ふものを要約されたものと見てよいからこれを紹介する。

<以下博士の論文要約> 

1.       「本化妙宗」とは「本化上行菩薩の応化たる日蓮大聖人の弘めたまうた妙法蓮華経宗」といふことで日蓮聖人の宗教の意味をほんとうに言ひ顕した名なのである。 

2.       「日蓮」とは聖人の垂迹凡身の名で――本化上行菩薩の応化として、本仏久遠釈尊の付嘱のままにこの妙法蓮華経の五字七字を宗旨とする宗教を弘めになったのだ。 

3.       本化妙宗は(法迹本二門の内で本門如来寿量品を以て一経二十八品の旨の帰する所とし 

4.       (寿量品に説かれた)真実の唯一根本の仏華経の)――の弟子たる――本仏の所化の菩薩によって開かれた、妙法蓮華経の宗なのである――仏は(神力)品で(本化の上首)上行大菩薩に「南無妙法蓮率経の一大秘法を(末法の)悪世の中で(信謗)いづれの衆生にも通じて利益を授ける法として授けられた、(その悪世でも本仏本化本法に対して信仰は起し得るから)本化はその一大秘法の「宗旨」から三つの「修行」の為の法=三大秘法をも含めて上行大菩薩にお授けになってゐる 

神力品の四句要法には三大秘法が密説されてゐる。聖人は御自分が本化上行の応化であることの自覚を経文に預言された証拠が揃ふまでは発表されたかった。聖人は「日本人日蓮」としてその宗教を唱導されたのでなく、本化上行の応化その人として発表されたのである。〈以上取意> 

右のやうに言って居られるが、猶、特に注目すべきことは本化の妙法蓮華経の御本尊は本門の教主「釈尊」即ち「本仏」でまします。しかし其は単なる本仏ではない「所謂宝塔の中の釈迦多宝外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」とあり、大曼茶羅の「形明」の本仏だとことはられてゐる。多 宝如来の塔の中に「南無妙法蓮華経」といふ「本法」を中にして常に説き常に示されてゐるのが即ち「本門の教主釈尊」なのでその本仏でなければ大聖人の御本尊ではない――だが仏の滅後に仏はましまさぬ――そこ で仏はその時代々々の衆生の依止所とする菩薩を遺はされて彼等の依止所(止、原作師恐くは校正の誤)とし依師とせしめられた――(その最高の依師たる上行菩薩によらねば本仏はわからないから)かりそめにも本仏が本だとか、本法が本だとか考へるべきではない。それは本仏の神力品の御訓へに背くことで――依師(上行)の教へによってのみ本仏を拝し本法を持つべきだといふ主張で、同じ信人241号にも、日蓮聖人の宗教的地位を本仏本法と対等に引上げたのが智学居士の学功だと強く称歎して居られる。

さうすると博士の領解された正系教学とは、 

1.       本仏とは寿量所顕の釈尊。 

2.       本法とは南無妙法蓮華経。 

3.       本化とは釈尊久遠の弟子涌出品出現神力別付の大士別しては上行。釈尊の弟子ではあるが末法の化益に約すれば釈尊と対等。 

4.       上行応化日蓮聖人の法門は神力品で釈尊から四句要法に結して授けられた三大秘法 

となる。この説の当否はしばらく措いて、先づ天台口伝法門の引用された御書は如何と言ふに、立正観鈔は止観勝法華の中古天台思想を破して、法華経の一言の妙法を勝とする(この一言の妙法とは本門の題目のことだが明かには言って居られぬ)。

当体義抄は十界依正妙法蓮華の当体なりといふ天台法門を巧釈して、本門題目の法門を説明し、南無妙法蓮華経と唱へる凡夫が本門寿量の当体蓮華仏であると断ぜられたもの、 

十八円満妙は「当世を天台宗の奥義」であるとして「伝教大師修禅寺相伝日記」を講義し、最後に「日蓮己心相承秘法」「塔中相承ノ南無妙法蓮華経」に持って来て天台宗の奥義の底を破って本門の題目に至らせるもの、 

三世諸仏総勘文教相配立は一住中古天台の本覚法門ではないかと早合点しやすいが、これも仏の教は南無妙法蓮華経であると説かれる。 

義浄房御書は自我偈の一心欲見仏不自惜身命の文を天台の口伝を利用して活釈して寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就する文と言はれたもの、 

「日女鈔」は詳しく大曼荼羅の形貌を述べた後、この御本尊は他にあるのでなく、衆生の心の中に存しまし、信心の厚い無二の信者は此御本尊の宝塔に入ると、信による入曼荼羅を説かれ、最後に南無妙法嚢経と唱へる時五種の修行を具足するとて伝教大師が道邃和尚から五種頓修の妙行を相伝された事を言はれる。 

さてかうして見て来ると、これらの御書のどこにも久遠本仏の実在は顕説されてないし、上行応化の法門も顕かではないが、よく拝すれば立正観鈔、当体義抄、十八円満妙等はこれ悉く本門題目の徹底的説明である。 

特に当体義抄は送状に 

此法門ハ妙経所詮之理釈迦如来ノ御本懐地涌大士付属ノ末法弘通経ノ肝心也國主信心之後始可レ申レ之秘蔵ノ法門他日蓮伝二最蓮房畢

といはれてあり、これでみると聖人はこの御書を日蓮教学の正系に属すると言はれてあるのに、山川博士は正系教学に属せぬと全然著者の意志を無視されたことになる。勿論この送状が偽書ならば博士のお説も通るが、私にはこれを偽書とする何等の手掛りも掴めないし、博士の学頭をして居られた師子王文庫の遺文禄にも、艮本にも、創価学会版にも、昭和定本にも真書として入集してゐるから、博士はこれを偽書と見ては居られない筈だ。義浄房書は短編であるが事の一念三千三大秘法の名目があり、日女鈔は偽書だといふ人有るが妙法大曼荼羅の説明に累々引用される御書でこれも三秘の中心たる本門本尊の註脚である。 

さうすると博士は、たとへ三大秘法を説いた御書であっても、本仏三身常住、上行応化が説かれてゐない御書は正系教学には属せぬと言はれたといふやうなことになるが、其では少しおかしくはないか。本仏が常住しようが、上行が出て来ようが、三大秘法が出なければ日蓮宗の「宗旨」は有っても「宗教」にはならないのである。 

次に『御義』向記は如何。 

一 日蓮巳証の事 仰に云く寿量品の南無妙法蓮華経是なり、地涌千界の出現末代の当今の別付属の妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給ふべき仏勅使の上行菩薩なり云云 

第廿五建立ご本尊の事 御義口伝に云く 此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり 本尊とは法華経の行者の一身の当体なり 

若し上行応化が正系法門といふならばこれ程の正系はあるまい。御書には三大秘法鈔しか霊山で上行菩薩として付嘱を受けた事は言って居られぬ。御義、向記にはマダ多くの歎文が有るが代表的な一両句を引くのに止めた。次は本仏常住、 第三我実成仏己来無量無辺等の事 御義口伝に云く 我とは釈尊の久遠実成道なりと云ふ事を説かれたり 然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界已已を指して我といふなり 実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云ふなり 成とは能成所成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり 仏とは此れを覚知するを云ふなり 巳とは過去なり来とは未来なり巳来の言の中に現在は有るなり 我れ実と成けたる仏にして已も来も無量たり無辺なり 百界千如一念三千と説かれたり 百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり 今日蓮等の類ひ南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は寿量品の本主なり 惣じては迹化の菩薩この(寿量)品に手をつけいろうべきに非ざる者なり 彼れは迹表本裏此れは本面迹裏 然りと難も而も当品は末法の要法に非ざる歎 其の故は此の品は在世の脱益なり、題目の五字許り当今の下種なり然れば在世は脱益減後は下種なり 仍て下種を以て末法の詮と為す云云 

本仏常住そのものズバリと言ひたいが、文は山川博士の線を飛越して逢か先へ突走つてしまふ。博士の引いた寿量所顕の釈尊といふ線は最初の一節だけで、次に本仏は法界の衆生だといふ、最前博士が正系法門ではないとガン張った当体義鈔の方向に飛出してしまひ、法界全体が無作三身の仏なんだ、それを悟らぬのが衆生、覚ったのが仏だ、悟って見れば法界は無始無終だから我も無始無終だ。さう悟った寿量本仏とは法華経の行者の事である。とはいふものの末法は寿量品で仏になるのではない。此の品は釈尊在世脱益の機に対して説かれた教で、末法では下種の法華経=題目しか役に立タンのだ。という種脱の法門になる。種脱の法門は観心本尊鈔にも在るが

「但し彼は脱此は種彼は一品二半此は但題目の五字也――所詮迹化他方の大菩薩等に我内証の寿量品(=題目)を以て授与す可からず 末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之(=述化他方)(の弘通)を止めて地涌干(世)界の大菩薩を召して 寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしむる也

といふ、全く互にあひ映発するやうな文章であり、種脱法門は五段教相の最後に来る教相の法門で、シカモ両本の説は全同たのだからこれを以て一方を教道、他方を証道と論ずることは全く無理だ。 

それでは博士が証道だと言はれるのはいったいどんな所だろうと考へてみると、右の本仏といっても別に有るのではない、自分が本仏なんだ、法界本仏なのだから自分も仏なんだといふ観心を説いて居られるのが博士の所謂証道といふことらしい。教相を以て依経を分別し、依経の奥底を探るのを観心とするのは仏家の通義であり、教に依って行を起し、行に依って証を得るのだから観心門を証道と言ってよろしいが、日蓮宗の教相は唯に経を分別するばかりでなく、教主の仏も分別する。これは何も日蓮宗に限った事ではなく、真言宗の如く大日経を大日法身の説なるが故に最尊とする如きものもあるが、特に日蓮宗は寿量品の久遠実成を以て立てる宗だから教主の仏を論ずる事も教相の重大論目である。然るに御義、向記には仏とは何かといふ説が非常に多く、 

此の本門の釈尊は我等衆生の事なり 

父に於て三之れ有り法華経釈尊日蓮是れなり 

世尊とは釈尊大恩とは南無妙法蓮華経なり 釈尊の大恩を報ぜんと思はば法華経を受持す可き者なり――今日蓮等の頬ひ南無妙法蓮華経と唱へ奉りて日本国の一切衆生を助けんと思ふは豈に世尊の大恩に非ずや 

南無妙法蓮華経と唱へ奉る行者は大通智勝仏なり 

今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は三世の諸仏の父母にして其祖転輪聖王なり 

無作の三身とは末法の法華経の行者なり、無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり 

行者豈に釈迦如来に非ずや 

など類文甚だ多い。教相の語を経文の判釈に限定する通途の用法から言へばこれらは教相ではない。即ち観心証道に属するといふ事になるが、日蓮宗では法のみたらず人にも教相を立てるから、これを以て観心証道の辺に限局する事は出来ないのである。即ち爾前諸経では法は常住だが仏の三身常住はうたってない。それを打返して本仏三身の常住を説くのが法華経の眉目である。爾前の経でも華厳経だとは極めて高大な他受用報身を説き、又は説法の会座に工夫をこらして能説の人を以て所説の経の高遠な事を示した。然るに法華経になると宝塔品には三変土田して十方の諸仏を集め、或は観音妙音等 の他仏の大士を拉し来って釈尊の化を助けしめ、化城品に三千大千世界を墨として一点を一劫とする無量劫の昔に出たと説かれる大通仏も、寿量品に五百千萬億那由陀阿僧砥の三千大干世界を抹して微塵とし一座を一劫とするも猶釈尊の仏寿を計るには五百千万億那由陀阿僧低の国を抹した一塵を唯の一塵と比較する校量にも足らずといふ算数を超越した無量劫以前に成仏したと説かれた釈尊の或説化身の一化に過ぎずとされ、従って大通仏の弟子阿弥陀等の十六仏も釈尊の弟子とされた。此等の教相に依って仏界は唯の一大釈迦仏に統一された。これが本門寿量品の開顕した釈尊である。しかもこの教相すら超越してこれ程の釈迦如来すら根本本仏が脱益の機に対して化導をする教化利益の一つの姿であって、根本本仏こそ寿量所顕の釈尊の本地であり、根本本仏の果位を示したのが寿量の釈尊、因位を示したのが上行日蓮とするのが種脱法門だ。世上日蓮学者は寿量所顕の釈尊を以て直に根本本仏とするから種脱の教相の名は知ってみても実を求め得ず、種脱の説明を充分にしない人が多く従って日蓮宗外の仏教学者は余程の大家でも種脱法門は御存じないから今ここでは話を進める為の便宜上、前以て若干の種脱法門の紹介をしたにすぎぬが、この根本本仏が下種の化導をする時にドンナ現れ方をするのかといふのが日蓮宗の根幹法門たる下種仏身論なのであって、この種脱の法門は極めて簡略な形ではあるけれども観心本尊鈔にも御義口伝にも説かれてゐること、前に見た如くである。而て凡夫こそこの根本本仏であって、因縁と業感に依ってそのあらはれ方はちがってゐても、我等悉く根本本仏の体なりと悟るのが日蓮宗の観心であり、三大秘法はこれを悟らしめる為の施設であり、事の一念三千は本仏の性であり、

南無妙法蓮華経は本仏所證の法であると共にその宝号である。釈迦如来の本地根本の御名が南無妙法蓮華経であって、其はただ嚢莫薩達磨券陀利伽鰍多覧とか帰命一乗妙典とかいふやうな、単なる経典信仰の唱へ言ではない。 

斯の如く、種脱法門は本門の釈尊(寿量所顕の本仏)に対して根本本仏の勝を説く教相と、本門の肝心寿量品に望めて寿量文底秘沈の根本法華たる南無妙法蓮華経の勝を説く教相の法門だ。所が一般の教相は依経を撰択すればあとはその経に依って観心を掴む修行をすれば良いのだから教相と観心は別々だが、この法門は直に観心を説がねば理解できない。三大秘法に依らなければ観心そのものは掴めないが、慧学に約しては根本法華の七字は文簡に意甚深だからその説明をしなければならぬから、ソコデ種脱法門は教相の法門であると共に観心の法門となる。 

しかしこの法門は、所謂「難多ク答少ク未聞之事ナレバ人ノ耳目ヲ可二驚動一」(観心本尊鈔副状)で、従来の仏教の常識を破るものだから、信心堅固でも学の足らぬ者や、学問広博でも信心疎弱な者には教へられない上、殊に佐渡配流の頃はマダ諸宗と対決の時まで秘し隠しておくおつもりであったが、謗徒の蠢動が激しく、萬一に備へて幾分を教へて置くことも必要と認められたので、「観心ノ法門少々注レ之」して授けられたものが観心本尊鈔であり、「国主信心之後始可申之秘蔵法門也日蓮伝最蓮房畢」(当体義鈔送状) 

「日蓮が相承の法門等前前かき進らせ候き ことに此文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ――此文あひかまへて秘し給へ 日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ」(諸法実相鈔)等と秀抜にして且病弱で外に洩らす恐れのない最蓮房日浄師に相伝の形で伝へちれたものが最蓮房に与へられた若干の御書であり、身延に入って興向等の大弟子に対してその深層を露呈し始めた法が御義、向記である。御義、向記はモハヤ寿量本仏の三身常住だとか、末法上行応化などといふ法門は通り越した根幹中の根幹の法門なのだ。このやうな御義向記を掴まへて唯証道の御説法に過ぎんナドと書かれた時の山川博士は、――他の時の博士とはあまりにもちがふから――どうかして居られたのではないか。ドゥカしてゐる時の言説をつかまへて何か言ふのは一層ドゥカしてゐるが、日蓮教団史上不滅の功績を残した大学者でおいでになるのだから、ちがってゐるのはちがってゐると証明して置かないと、日蓮宗そのものを誤解させる因となり、学徒の勤めが果せないから一言するのだ。さて、かうなって来ると聖人は実際口伝法門をする必要があった。一には法義深重の故、二には他聞を憚って公場対決に備へるため、三には天台や真言の口伝といふ先例が有ったためだ。 

右の如く、聖人の正系法門は種脱相対であり、三大秘法である。然るに中古天台の口伝といふのは本仏の自受用身が宇宙に遍満するといふ所は日蓮聖人と同じだが、観心の施設としては十観十乗一心三観を説くだけであり、三大秘法の如きものは無い。法華曼陀羅は有っても妙法大曼陀羅の如き意匠では無く、本仏下種益の化導に至っては全くあとかたも無い。聖人が修行中に中古天台の影響を受けられたのは当然で、この点は家永博士の所説に若干正しい所が有るが、聖人が中古天台を引用されたからと言って、その影響下を脱してゐない事が証明されなければ、聖人の法門は中古天台の焼き直しだといふことはできない。現在の叡山では失はれてゐるかも知れないが聖人の頃には所謂中古天台の源をなした伝教大師が道邃和尚から伝へられた正統の血脈がまだ残って居り、その血脈に連なる根本大師門人日蓮とも自称して居られるが、それは一往の義であって再往は多宝塔中大牟尼世尊直接の血脈を本意とし、法華経を文証として法門を立て、更にその文底の意に依って(文底の意を取りうるのが上行大士の権能だ)教義の根本を形成されたのが日蓮宗なのであって、天台妙楽等の釈も口伝法門も唯、深義を示す為に文を借りたに過ぎない。本文に引いた教大師の依憑仏説云云の文が日蓮宗で屢々日蓮聖人の説として引用されるのも教大師の文を聖人が借り来って御自分の意として用いられたものと見るからである。その証拠には前述の如く所説の法門は遥に天台の枠を突破してゐるではないか。聖人の当時に在っては天台の口伝法門は直に伝教将来の口伝と信ぜられて居り、其が中間捏チ上げのものではないかと科学的検討をする方法が無かったかも知れぬ。しかし「与修多羅合者余而用之無文無義不可借受」といふのが天台宗の学問法則だから、口伝のうち義の経文と合するものがあれば其が唐決であらうと中古捏チ上ゲであらうと録して文を借るは正しい方法である。そして説かれた法が天台より遥かに先に出てゐるたらば唯中古天台を引用したといふだけで、聖人の法門は中古天台の影響下に在りと断ずるのは不当であらう。中古にできた口決でも大師の意を正しく伝へたものと然らざるものがあり、前者は用いられたが、後者は人師荘厳己義の法門として捨てられたこと前々に述べた如くである。 

以上を要約すれば、 

1.   立正観鈔等天台の口伝法門を引用した御書は日蓮教学の正系であり、特に当体義鈔は観心本尊抄と並ぶ大切な御書であると聖人御自身が言って居られる。(日蓮正宗の佐藤慈豊氏が編纂した新集本に当体義鈔を削去してあるが、これは創価本で誤を正してゐるから問題にならぬ。佐藤氏の編が創価本の編者堀大僧正の意に充たなかったことは創価本の序文にある。) 

2.    御義口伝、日向記は最も根幹的教義を述べられたものである。 

3.   既に聖人が上行菩薩として釈尊から口決を受けられたと三秘抄、御義、向記等に明言して居られ、且大切な御書に口伝を引用せられて居るから、聖人の教義に口伝が無いナドとは言へない。 

4.   日蓮教学の正系は、山川博士の領解の線上に在るが、更に奥深い。 

5.   聖人の法門は法華経に依って立てられ、天台の疏釈や口伝は義の正しいもののみ文を借りて深意をあらはして居られる。 

以上の如く、山川博士の口伝に関するお説は間違であるが、それだからといって博士の学功が偉大なものであることに変りはない。正しいお説はやはり正しく、不減の文字である。又、家永博士が日蓮に中古口伝の影響ありと言はれた事も、限定的に承認し得るが、それだけで博士の日蓮聖人に対する批判が正しかったといふことにはならない

 

(3) 一種の機に対して秘密に法を説き一会の人をして自他互に知らしめざるもの、是れ如来身口意の不思議力に由る(仏教大辞典織田1402)。本文には秘密のみを挙げたが意に次に述べる不定教をも含む。

不定教、一会の中に一法を説き、聞く者をして異解せしめ得益不定なるもの(同前)蓋し上行に対しては文底の法華を説き、鶖子等は是を知らず、又説く所法華の一経にして地涌能く文底を知る。

但し是は文上の意で文底の意は地涌の聴法は唯釈尊の尊高を知らしめん為のみ(これは御義口伝の意に依る)。

 

 

 

 (2)口伝相承は如何に扱われて来たか

 中山日常師の本尊抄見聞(学一171)に

(56)御書ニ云ク其ノ本尊ノ為ラク本時ノ娑婆ノ上ニ宝塔居シ空中ニ塔中ノ妙法蓮華経ノ左右ニ釈迦牟尼仏多宝仏釈尊ノ脇士上行等四菩薩等云云付テ之ニ当家ノ相伝有リ之如シ出レ書ニ云云 此観心本尊抄ノ外ニ本尊ノ口伝ハ日朗日興等ニ相伝有リ之日朗ノ相伝ハ者名越谷カ日興ノ相伝ハ在リ富士ニ又常忍坊(日常)有リ相伝此等ノ意歟

(57)第五明スニ結要正付並ニ諸付属ノ相五此書外有別口伝五註之御掟也(178

 とあって、朗興常三師に観心本尊紗と本尊の口伝が有ること、口伝は聖人の掟によってむやみに本に書いてはいけないことになってゐることを伝へてゐる。同し中山の日親師の伝燈抄(学十八 4)には、

(58)高祖大聖人日常聖人ヲ御讃歎ノ言二貴辺壹非無辺行菩薩耶卜御筆ヲ残サレタリ」然日親二十四才七月七日親奉拝見シ畢ヌ於当流ニ者誰カ疑ン之既ニ大権ノ御事也常公ノ御擬不可浅得意ノ事信心可為大要是ハ未写本御書二テ侍リ未写本ノ御書ハ広宣流布ノ時ノ諸門徒我モ我モト心中ニモ存ジロ外ニモ吐カソ励二正ク高祖聖人ノ御法水ノ正流ハ当門家二有リト云ハン時千萬ノ義理ハ不可入聖人御自筆可為簡要故ニ期其時ヲ不可写本日高日祐聖人様被仰セ置カ故也ト可キ得意也サレバ当流二ハ三大秘法ヲ始トシテー宗奥義或ハ面授口決或ハ被テ載紙面一在之無疑云云

と、中山に正統の口決相承が有る事、但し外に出しては他門徒との勝負に不都合だから発表しないと言ってゐる。右のうち三大秘法といふのは三大秘法妙のことであらう。これは、山川博士も上古は相伝視されたと言って居られる(2)ものである。又観心本尊紗の口伝については前引常見聞に(学石)常師が本書と共にその文段を聖人から与へられたことを言ってゐる。次に朗門の日像師には曼荼羅相伝(学229)の入文に、

(59)此条面授ノ口伝也雖不可筆記懇念アル之間注シ進ム之ヲとあって、口伝は筆記しないのを原則とする意が見える。

 時代は遥に後に下るが国柱会の田中智学居士は本化妙宗教学大観の中でやはり相伝を得なければ分らないと言って居られる。居士は自ら還俗して在家仏教を始めた人であって、口決相承のやうなものを受け難い立場に在り(3)その故か門下の山川智応博士などは御義口伝さへも、これは証道の御書であって口伝では無いと、まるで話にならないやうな強弁をして居られるのだら、その居士にしてこの言あり、更に居士の会下に成る『本化妙宗大辞林』に、

(60) 一しん三がん一ごんにつと――

(前略)その内容の奈何は姑く措き、道邃が一心三観の極意を、一言を以て伝教に口決相承せしは明なり。されば大師「守護章」にも

一乗ノ独円ハ動静無羲ナリ鏡像円融ノ三謗ハ口決二非ズンバ知り難シ。師資相承誠二由アル哉

といはる。「仏説二依憑ツテロ伝ヲ信ズルコ卜莫レ」(法華秀句)と唱ふる大師にして此の語ある。以て口決相承の事実確在せりしを知るに足るべし(林上416)

 と唱へて、天台宗の上古に口決相承が実在したことを言ってゐるのは、如何にしても法華宗から口伝相承を抹殺することはできないものであることを物語ってゐる。

 富士門徒で口伝が重んぜられたことは今更言ふまでも無いから、一両句を引くに止めておかう。

(61)是日興上人之面授口決之御義也(五人所破抄見聞)(要疏一、日限要品嘉、日11

(62)願くは門徒の法器を撰して密に面授相伝すべし、若し外人他見に及ばば還て誹謗の邪難を加へん(本門心匠抄 同羲一39日順)

 口伝法門はこのやうに重んぜられた。それでは何故口伝が行はれなければならなかったのであらうか。

(1)この「未写本の御書」が真書ならば、無辺行は上行の次の大士だから、中山門徒が常師を大導師視するのは無理もないが、何と言っても常師は俗士であり、官務に妨げられて身延に常侍することはできず、従って昭朗興等の大弟子をおしのけて導師の命を受けるだけの教育を受けたとも思はれない。しかし伝燈抄(学十八1)によれば六老補任の時、はじめ常師をとのお言葉があったのを固辞して頂師にしていただいたのだといふことだが、この伝説を真としても、常師は六老の列にも入る気が無かったといふことになるので、その上自分が推薦した筈の頂師まで追出してしまったのだから、常師御自身は自分が大導師になったといふ自覚はなかったらう。朗師にも興師にも同じやうな口決が有ると言ってゐるのは、自分だけ特別ならのを持ってゐるといふ表現ではない。しかし俗士で口決を得だのは常師だけだったと思はれる点、俗士中最も重んぜられた人であった事は疑へない。無辺行菩薩の化身といふことは御書には法華初心成仏抄(艮1681)に広宜流布の時の国主を其とする文があり、又百六箇抄の後加ざん入分に日興無辺行、賢王無辺行の文が見える(要相38)後加分だから聖人そのものの思想と見ることには躊躇されるが宗門にさういった伝説が有ったのではないかと想像もできる。聖人自身は無辺行を初心成仏抄では賢王として扱って居られるから、無辺行といへば直に常師の事を言はれたと断定するわけには行くまい。極度の御褒美の言葉ともとれるからである。さうはいふものの常師無辺行といふ御書があると信じ且常師に口決が有った事は、(他門の口決は分らないから、梢盲蛇的に)中山門徒に非常な自信をつけさせ、ひいては中山正統説まで出てくる素地となったのは無理とはいへぬ。

(2)日蓮聖人研究 第一篇381 山川智応

(3)居士還俗の時の位階は教導職試補で、立正大学の前身日蓮宗大教院卒業からあまり隔ってゐない時期である。その頃一般に、政府の呉れる教導職の位階をそのままもらう風潮に逆行して教導職試補しか取らなかった高僧も有るが、居士の場合はかういった特殊例とはちがひ、後年の大宗教家もマダロ決を受けるやうな地位に上らないうちに還俗したものである。居士の口ぶりはドコカで相伝を受けたやうにも見えるが、居士が相伝を受けた証跡は今の処無く、其の勝れた直感力と激しい学問で自得したものと考へておきたい。

(4)博士の学殖と論理の正確さは定評が有るが、時にかういふボカをなさるのは、類例のない位の師匠孝行の情に依るものでもらう。恩師田中智学居士はただに博識広聞の学者であったばかりでなく、非常な直感力と行動力の持ち主だったから、時流を遥にぬきんでた独創的な発表が多く、其が正鴻を得てゐる時は良いが、さうで無い時第三者はその博学に捲きこまれて批判ができなかったり、しても的外れになった事が多い。その一々を挙げる事は論題から外れるから省くが、あとで取り上げる予定の日蓮聖人一代三段佐渡正宗説などもその一つである。山川博士がそのヽこり過ぎを引戻して師説に大過ながらしめるやうにされると良かったのだが、門下随一の師匠孝行の人だから黙然信受してしまふ事が多く、そのために師説を無理に正当化しようとして却ってボフを出された事が度々ある。今の口伝不存在説は居士の義と見る事には一寸躊躇させられるが、富士門徒の唯授一人口伝説を居士が「隠し喰相承」だ・と批判されたことも有るので、居士の口伝に対する態度は必し尤一貫ゐるとは言ひ難い。博士が口伝不存在説を強調されたのはその後の方の師説を真意とみなして立てられたものであらう。その気持は分るが学徒としては同意できないこと前述の如し。

(5) 天台に口伝があった所で日蓮宗が其を踏襲しなければならないといふものではないが、聖人に口伝法門があり且度々天台の口伝を引用されてある以上、天台の口伝法門といふ形式を踏襲されたことを疑ふことはできない。

 

 

 

(3) 口伝は何故に行はれたか 

 日蓮聖人の法門は始からその全貌を示したのでなく、段々と順を追って発表されてゐる。その理由として聖人が自ら言って居られるものに三沢抄がある。

(63) 法門の事はさどの国へながされ候し已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ。此国の国主、我代をもたもつべくば真言師等にも召合せ給はんずらむ。爾時まことの大事をば申べし、弟子等にもなひなひ申ならばひろうしてかれらしりなんず、さらばよもあわじとをもひて各各にも申ざりしなり。而去文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をはねられんとせし時よりのちふびんなり我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて、さどの国より弟子どもに内内申法門あり 《艮1705》

 これは唯授一人口法相承といふ程改まったものではないが、法門対決の時に備へて人々に教へたい法門でも教へなかったが、佐渡以後になると弟子共には内々発表するやうになったといふもので、法門を公開できない理由の一面を伝へてゐる。しかし、この御書は口決そのものについて言はれたものではない。 

 次に日順の『門徒の法器』《62》 

 といふ言葉が注目される。 

口伝は「法器(1)」に対してのみ伝へられる。法器でない者はそれを聞いてもわからないから「還て誹誇の邪難を加」へる。それは「志神妙」な人でなければ与へられない。 

かうなって来ると口伝を受けうる人は極めて局限されて来る。常師は朗興常三師を出したが、このやうな極めて少数の人々が口伝を受けうるといふ線の為に、更に局限して「唯授一人」と迄セリ詰めてしまふ緑もある《54》。さうすると口伝といふものは法器の人にのみ授けうるもので、その法器の人も梢、巾の広い若干人を許すものと、一人にしか許さないものとの、二種の口伝が考へうることになる。この推定は自ら六老の設置と一人の大導師任命にも関連して来る。口伝のうち、特に深秘なものを受け得るのが一導師であり、六老は梢浅近の口伝を受けたと見ることができる。今日中山に言はれてゐる口伝がそのやうなものであることは後に口伝の内容を説く時にふれるとして、今は一往口伝は法器を選んで授けなければ凡瓶に師予乳を盛るが如きことになるといふ事と、口伝にしておけば法門対論の時都合が良い事及び口伝に浅深の別が有りうることを明にしておければよい。 

門徒の法器にのみ口伝を与へるのでは、他の法器でない人々はどうして仏になるのかといふ疑難が当然出て来るが、元来日蓮宗は以信得入を以て修行の原則とする。口伝を受け得ない人はそれを受けた人を師として師弟相対のうちに信を以て智恵を買ふので、それだからこそ「師弟子を正して仏になる《7》」ことが大切とされるのである。 

  

(1)元来日蓮宗は末法適時の法として登場してゐるのだから愚人悪人の成仏を正意とすることは御遺文の諸所に見る所であるが、それにも拘らず法器の口伝のと言ふのは指導者に約したものである。富士日有師の化儀抄には 

一 信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり 信が動せざれば其筋目違ふべからざるなり 違はずんば血脈法水は違ふべからず 夫とは世間には親の心を違べず出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり 高祖巳来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり(下略)、 

一 師弟相対する処が下種の躰にて事行の妙法蓮華経(下略) 

と、師匠の心を素直に受取る所に成仏が有ると言ってゐる。所謂「代々上人皆日蓮」といふ信心に立って、順々に弟子に血脈を流して行くのが富士の化儀であり、その血脈を受取るのは信以外の何ものでもない。 

 

 

(4) 口伝のつたへかた 

口伝は名の如く口で、面と向って伝べるものであることは、面授口決の語からも、像師の曼茶蔵相伝の文からも知りうることである。所がこの像師の相伝は同時に像師がこれを注し進めた、即ち書いて人に与へたことを物語ってゐる。さういへば常師は口伝を紙に載せることを禁じてゐるが《57》、親師は「紙面に載せられた」ものの存在を言ってゐる。《58》 

そもそも、御義口伝は「御義」の「口伝」であってそれがシカモ書記され、能授の聖人の御判まですゑられたものである。かうなると「口伝」と「著書」の差は少くなって来るが、それでも猶、著書とちがふ所が若干有る。 

一つは、著書なら始から終まで全部著者が自記したり、叉は口述して筆記させるのだから、文体は著者の思ひのままになるが、口伝では口述の通りに書くことは速記術の無い当時では不可能だし、又文を写すことに懸命になりすぎると口述者の言外の意を汲むことができなくなるから専ら書取り文体になる。即ち言った通りでなく、その言葉を所受の者が一且自分の腹中に納めて、その上で自分自身の言葉で簡略に書くことになる。従って文章もとぎれとぎれであり、註を付けなければ他人が見ても分らないやうな飛躍が有ったり、著者ならばちゃんと書いておくべき所でも、当然分ってゐるものとして省略してしまふ場合が有る。受者は後に其を清書し、要すれば註を入れる。授者の所に持参して印可を求めることも有り、又、授者の方から要点を書いて示すことも有る。註を入れ、印可を得たものが御義口伝であり、授者が要点を書き送った(かうなると口決とは言べなくなるが、口決に近いものと言ってよいであらう)のが、常師に賜はった観心本尊抄文段である。 

 これだけならば良いのだが、何度も伝へられてゐるうち、原形から段々離れて来る。原意は変らないでも形は必ず変らずにはゐない。時代長に依って語法が変り生活環境が変る。色々な知識が付加される。伝説が攙入する。私註が本文の中にまざり込む、話の順序が前後する(これらの実状は後に口伝を細く論ずに当って自ら明かなる)。ひどいのなると自分で勝手に口伝法門を製造して押し込む(立正観鈔はこの事が聖人の時代既に天台宗で行はれたことを示してみる)。 

実物に就いて言はう。御義口伝の中で「御義口伝に云く」として、そのあとに書かれてゐるのが正真正銘の口伝であって、山上三郎居士(清水梁山門の高足にして現在は富士門徒)の説ではその前の「文句」などを引いたのは興師の註であるといふ。これは経の「如是我聞」と「作禮而去」が阿難の言葉であるといふのと同じで、当然さうなければならぬ。なほ蛇足を加へれば日宗杜本三頁の『御義口伝巻上』は興師の記だが、その下の「日蓮所立」は、興師が書けば「聖人御所立」と有りたい所だから、聖人の御自説であらう。と、かうこまかく論じ出したら実は徒にこんぐらかってしまふ丈なので、御義口伝は総じて言へば聖人と興師の合作であり、その中での正味は「御義口伝に云く」以下の文章なのであり、おそらく建治三年の頃に口授されたものを、建治四年の元旦に改めて聖人から興師に付嘱され、それが後に清書される時に年号を弘安に改めたか、又は伝写の途中で誰かが書き改めたものであらう。 

(1)阿難云云は今の論題で無いから大乗金口説に依る

それだから御義口伝の註に聖人より後の徐註が入っても、執行海秀教授が言はれるやうな特別な問題が起るわけではない。興師が後にこれを整束する時に新来の徐註で書き改められたかも知れないし、伝写の途中で字が読めたくなったのを徐註で補訂したかも知れない。とにかく御義口伝を内容的に批判した人は本格的な宗学者には無いのだから興師の註が書き改められたからといって、本文そのものまで疑っては、口伝の文献的性格を知らないで論じたことになる。(2) 

  

補足 

(1)    日蓮宗教学史 執行海秀

   創価学会批判 日蓮宗々務院 

   前者は簡、後者は詳。後者の著者名は公示されてゐないが、前者と同説で、外にこれ程強く御義偽作説を云ふ人もないから執行氏の手が加はってゐると見て良いであらう。 

(2)   創価学会批判には本書を偽作とする理由として、 

1 古来真偽の諭あり 

2 初期の文献を始め、録内に洩れたり 

3 祖滅180年頃の八品日隆本門弘経抄に見えず 

4 祖滅210年頃の円明日澄の法華啓運抄に初めて引用せらる 

5 古写本は祖滅257年天文8年の日経本あるのみ、故に伝承明かならず 

6 祖滅13年の元貞元年成立の徐氏科註の引用あり 

7 口伝形態や文体が南北朝頃の等海口伝に類似す 

8 興門関係の初見は要法寺日辰の永禄元年の負薪記なり 

9 稲田海素云「隆門系の偽作か、私(立論の内容から考へて多分執行氏)は要山系と思ふ」。 

等を挙げてゐる。 

入文に本覚法門が盛に出て来るから、本覚法門は中古天台とコリ固まって、日蓮聖人には本覚法門無しといふ領解をしてみる宗学者からは偽作呼はりされ易からうが、諸法実相抄等に見るやうに本覚法門は天台そのままではないが日蓮宗の大切な法門である。望月博士の「本迹と日蓮宗の分派」にもその意が見える。又入文に秘すべし秘すべしと厳重な注意のされてゐるものを、どこにあったにした所でヤタラに公開する筈がなく、従って宗門の上古に流伝しないのは当然である。文体が等海口伝に似てゐるといふのも逆に等海口伝の方が鎌倉時代の古風を存してゐるともいへるからキメ手にはならない。唯、伝承明かならずといふのが、日興師筆受本 存在の証跡が宗門の上古に無いといふならばまことに所論の如しだが、これとても唯授一人の秘伝として抱へこまれてしまったのなら、御陵の副葬品同様掘り出すことが困難であって、掘り出せないから無いものだといふこともできぬ。むしろ日蓮宗の曼茶羅の中尊に首題を置く理由は御義口伝に至ってはじめて明瞭になるといふべく、観心本尊鈔だけでは曼荼羅の法門が明らかにないことから見て、本書を真書としなければ聖人の説法は完了しないことになると言ふべきであらう。 

 御義口伝してすら然りである。諸山に伝はる口決法門を、直にそのまま深秘の相承と盲信するこをできないし、さりとて大事をとって御書に無い思想を盛った口伝法門は皆偽セものだと片付けてしまふこともできない。それだから口伝法門の研究は今まで宗学者が手を付けなかった完全な処女地といっても良い位、誰も敬遠した泣き所なのだ。

最後に大石寺日穏師の『辧種脱體用味抄』序文に、口決相承(ここでは特に大導師職の相承と同時に行はれたもの)の実施記録をのせてあるから、其を紹介してこの項を終る。これは明和3年に行はれた彼岸会講話の筆記で、「世界之日蓮」昭和10年11月11日発行第2巻第10号所載、昔の面影その2ノ1からの転写で、原文は永沢慈典氏の謹記に係るものである。直接関係ない文は省略してある。 

(64)(明和二年)八月十四日本山(大石寺)役者(役僧)共より飛札到せり取り敢へず披き見るに真師七月二十六日 遷化の趣なり(中略)九月二十日着山せし所同二十四日内評儀として十月二日に手前を方丈に移さんとの事なり依て二日招待を受けて同八日に入院せり先づ首尾能方丈に入りけれど伝法付属の儀無之内は但名字許りの上人にて一向に凡夫の位なり然れども此の御相承の儀何程急ぎ受取り度思ても決して外より彼是と申出すこと成り難き事なりさて相待処早十一月に至るといへどもいまだ何の御沙汰もなく但昼夜共元師の思召を伺ふ計なり 

時に十一月九日の晩方代官理境坊を以て元師より御使僧なり明日指したる用もこれなきに於ては御茶進ずべしと云云則奉畏旨御答申上明る十日の時分に使を受け参上申処大隠居日因師先達て御入あって手前と理境坊一座四人なり此の時元師仰出される趣は御方丈穏師へ申入当山には元祖並開山日與上人已来相伝ふる所の一大事の秘法有之此法を奉受度思召かとの御尋なり予答て云一身一命に代御受申上度しと云云元師重ねて弥々相違なきか答何重の誓状 をも奉るべし日因師の言御方丈穏師にも此の儀許は御大願に御座せば毛頭相違もこれあらずと元師の曰若し此法を受け玉ふに付ては身不肖ながら手前の弟子と成り玉へと予云長く大法大恩の師範と仰ぎ奉るべし元師曰然らば弥々相違なき堅の盃参らすべしとて則御始あって余に被下頂戴して御返盃申す師弟の契約極り畢ぬ。(2) 

因師言今日の元師は日因が弟予なり日穏師は日元師の弟予なり如此三人師弟一双なる処則是事の一念三千なり(3)とお示し此御一言を案ずるに甚深微妙の御法門有之末々談ずべしさて斯くて師弟の契約相済みて方丈へ帰る 

即代官理境坊を以て元師より今夜子の刻(4)一大事を授与せん此事他人に漏すべからず又因師より御内意として定めて今夜元師御入あって御大事御渡しあるべし 夫に就て納所へ密に申付て餅をつくべし強飯をもつかし置並に御客殿不残戸障子をしめ別して客殿の後口大事也先年大事を立ち聞きせんと忍び入るものあり其の人命其の日一日なり仍て不吟味なるは意殺生に似たり苦労ながら自身に改めなんこそ肝要なりと仰せ下されたり 

さて其夜早居合たる弟子共並理境坊等主水に至る迄一向に寝ず子の刻を相待ちぬ時刻至って元師御出たり中門の際まで御迎に出で直に客殿に御通ありさて代官理境坊は客殿より書院通り口を固め納所慈性坊は玄関口を固め外忍び入るべき人なけれども尚念を入れて元師某自客殿の前後左右を改め別條なき故則著座し日元師と某相向って御経机を挾み某合掌観念す 

元師云日蓮が胸中の肉団に秘隠し持玉ふ所の唯以一大事(方便品)の秘法を唯今御本尊並元祖大聖人開山上人御前にして三十五世日穏上人に一字一間(5)も不残悉く令付属謹て諦聴あるべしとて則一大事の秘法御付属あり並開山日興上人日目上人日有上人等御箇條の條々不残御渡あってさて元師の言様此の秘法胸申に納め玉ふ上は日蓮日興日目乃至日因上人日元其の許全体一体にて侯就中日穏には当今末法の現住主師親三徳兼備(6)にして大石寺一門流の題目は皆貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候へとの御言也 (7)

斯て座を立ち書院にて土器の御祝儀終って本尊書写の御相伝あり而して後雑煮を出して萬々御寿終って御帰化此時こそ寔に未生巳前の本願満足し畢ぬ(後略) 

 

 日穏師は法主補処位たる大学頭だったから、先住の遷化と共に自動的に入山し、今でいふ管長には成ったが大導師として日蓮聖人の真のあとつぎになるのは先々住日元師から相承を受けるのでなければ資格ができぬ。そこで今まで江戸常在寺日和師の弟子だったのを改めて元師の弟子となり、厳重な手続を経て相承の式に至り、大石寺の諸堂中最大の客殿中に於て元師と唯二人対座して口伝を受け、末法の仏位に陞り、最後に改めて本尊書写の相伝を受ける。この儀式は大石寺一家の眉目とされるものだから、どこの口伝相承もこのやうな荘厳さを以て行はれると断言することはできないが、口伝相承の授受が如何に重いものとされてゐるかを示すと共に、富士門徒の是に対する心の配りやうをここにも見ることが出来るし、原本も既に稀観となってゐるから。長文をいとはず掲げたのである。

 

(1) 後に出す百六ヶ抄後加分に、日目師が相承を望請した記事があるのは、この穏師の思想から見ても有りうべき事でない。目師は身延の給仕で、頭に水桶をのせた為に頭の鉢が凹んだと言はれる位の堅い人である。自分から進んで要求するといった型の人ではない。

 又、元師が相承をおくらせたのは、直接相承を与へる人であった真師が遷化して是に代って行ふべぎ立場に在った為、方丈入院後も穏師の進退を見極める為だったのであらう。

(2) 所謂三止三請の儀式である。法を重く見る為で穏師を軽視したのではない。

(3) 富士家の「事の一念三千」が天台の「理の一念三千」に異ることがここでも知られる。天台の一念三千は「理法」そのものだが、事の一念三千とは「本仏三身常住」即ち生きた仏が永遠に亘って実在するといふ法門で、其は撰時抄に「釈迦如来の御神我身に人かわらせ給(艮1242)」と表現されてゐるものである。今ここでは「末に談ずべし」と言はれてゐる穏師の説法が原本に出てないので穏師の言そのものは分らないが、富士伝承の法門から推定して略説すれば「釈迦如来の御神、日穏に流れ入り給ふ」と言って良いだらう。

(4) 三世諸仏成道の刻(上野殿御消息艮1843)

(5) 口伝相承であることが、誤字から逆に確認される。一字一句の誤字であらう。

(6) 仏に三徳ありと言ふ思想で、間接的に汝は仏なりと云ふに同じ。

(7) 門徒個々の題目は皆目穏一人の題目となり、何万人唱へようが悉く一仏の題目であって現身に本仏を証得す。という意であらう。

 

 

 

   5 口伝の批判

 要法寺辰師は一筋繩では行かぬ人だったらしく、造仏論(1)や読誦論(2)を出して富士門徒古来の風に楯突いてみたり、

とかく話題の多い人で、『門迹顕本二論義得意妙巻五寿量品』(学八369)にも

(65)富士山本門寺ヲ称歎シタマフ者、蓮祖佐渡流罪ノ時遠藤家ニ在テ紙上ニ於テ書シテ云ク大日本国富士山本門寺根源日蓮判卜書玉フ此ノー紙ハ今富士重須本門寺ニ在り去ル弘治二丙辰七月七日已午ノニ刻日辰日誉日優宗純寂円幸次等卜之ヲ拝見セシム敢テ猶諭ヲ懐ク可カラズ此ノー紙ヲ拝セザル時ハ此書ニ於テ深ク疑滞ヲ懐ク也

と実証的研究を極度に尊重する姿勢を見せてゐるが()、口伝書に対しても同じことで、百六箇抄に就いても、

(66)勝タル物ヲ以テ本卜為シ劣物ヲ以テ迹卜為ス是ハ世間ノ本迹ニシテ仏法ノ本迹ニ非也華厳ノ舎那ハ台上二処シテ葉上ノ釈迦ヲ化ス(4)舎那ハ本釈迦ハ迹也乃至迹門釈迦三身ハ迹本門報身ノ三身ハ本也是ハ迹本相対也顕本ノ後ハ迹門ヲ指テ本無今有卜名ケ而後ニ本迹ヲ立ルハ本因本果ノ上二於テ本迹ヲ立也其本ノ字ハ勝レ迹ノ字ハ劣卜分別セシム可カ為ニー百六箇ノ本迹ヲ判シタマフ也御正筆ノ血脈書ヲ拝セサル間ハ謀実定難シ然卜雖モ上来ノ会通ヲ以テ録内井玄文正二合テ若録内玄文二違背セズソバ之ヲ信用ス可シ(同370

と言ってゐる。百六箇抄は師が盛に方々で引用してゐるもので、師が之を疑ったといふ延山子の言翻は 膜言といふ外ないが、師が決して無批判に依用したものでないことは右の記に明かである。

(1) 造仏論義 (学八犯441)

「問本門円宗之意許仏像造立之義耶 答可然也」から始まって、百六箇を引用しながら何とかして三十二相のム像を本尊にしようと苦心惨憺した本である。その結論は「若云久遠元初自受用報身但局本果報身」(450)とし、【本因ノ妙経ヲ修行ノ童形釈迦ノ登観行相似登初住一初住時説我本行菩薩道心ト登一本果法報応ノ果位ニ処ヲ自受用報身卜云也」(455)゛と、久遠自受用を本果荘厳身に引張り寄せて来る。本因名字即の位を根本仏の性とする富士の伝統的法門の上に立ったなりで本果の方を上に持つて来ようとするのだからあちこちに論旨の無理が有るが、非常な学者で抑へが効いたので要法寺の門内は少くとも罷り通ってしまったばかりでなく、これから寛政年間までこの「自受用身は荘厳仏なり」といふ強引な法門が踏襲された。自分の意楽に任せて法門をへし曲げる人なのだから、おかしいナと思った古書をそのままに放っておく筈がない。特に百六箇抄は師の立義たる色相本尊論には最大の敵なのだから、色相仏を本尊に立てて見たい師としては、何よりこれを偽書扱して消してしまふのが一番都合が良いことなのだ。それをしなかったのはできなかったからだ。

(2) 読誦論義 (同459)

これは前の本尊に比べれば小さい問題だが、仏前で法華経廿八品の読誦を許すかドゥかの問題で、師は

 一 蓮祖居住身延山久遠寺九年間所読誦法華経一部

 二 蓮祖自筆紺紙金泥法華経一部是駿河國富士郡重須郷本門寺霊宝也

 三 北山日代石経

 四、御書は転重軽受御書、真間供養抄などと立てる。この方は聖人にも一部読誦の御書が有るから前書の如き苦しい論法ではない。とはいふものの、一部読誦が富士門徒の伝統とは言ひ難くここにも和尚の横車的性格がみえる。一部読誦、二要品読誦、寿量一品、受持一行等の化儀に於ける経のよみ方の問題は富士門徒史にも重大な論点を提供するものだが、今は論が多岐に分れるのを恐れて唯本の紹介にのみ止めておく。

両書とも大石寺衆顕応日教和尚への弁駁文として書かれたものらしい。

(3) 富士山本門寺根源の額と言はれるものの事だが、其が紙なのか木額なのかも確定できない。今ここでは師の実物を見なければ信用しないといふ態度の史料として引用したまでで、本門寺額そのものについての是非の論をするだけの材料をもたぬ。

(4) 奈良の大仏はこの教相を儀軌として作られた今も葉上に毛彫の釈迦を見る。舎那は報身仏のこと。

(5)創価学会批判

<66>のうち「御正筆ノ」から「定難シ」迄を引ちぎて引用し、師がこれを疑たのだらうと想像させるやうな書方をしてゐるが、同書にも云ふ如く辰師にその写本が有り、師がこれを疑った証拠は無い。むしろかういふ論法で相手をコナさうとするのが宗門古来の問答に屡々見られる態度であって、この為にどの位相互の意志疎通が拒まれたか知れない。

 師は百六箇妙に使はれた本迹の二字は、法華経の本門迹門の竟ではなく、勝劣の竟に使はれ、本因本果の法門の上で本迹を立てたのが百六箇抄だと説明したあとで、御正筆を見なければ信用できないと無いものねバりをしてゐる。`口伝に御正筆があったら其は口伝でないか偽筆であるかどっちかであること前項に述べた如くである(1)。強いて言へば御義口伝のやうな御印可のあるものを正筆と言ふなら言ってもよい。しかし辰師は御正筆ーーにではない。御印可本を見ることができなかったので(2)、其に代る試葉を提示した。其は確かな御書(昔は録内なら真書だとされてゐた)や天台三大部と照し合せて、くひちがはなければ用ひて良いといふのである。

(1) 常忍師に与へられた「文段」の如きは、面授でないから奪の義では相承とはいへない。

(2) 今日の流布本は要法寺尊師の本で、<62》に見る如く、「御箇條の條々」を渡されても其を他人に見せることは厳重に禁ぜられてゐるから、創価学会批判(97)に「今日その真蹟を伝へざるのみならずそれがかつて存在したことすら不明に属する」とまでやっつけられても、公開することができない。それだから信ずる者は必ず有ると信じ、信ぜぬ者は偽物だから見せられないんだらうと疑ひ、結局水掛論に終ってしまふので、これが研究上の溢路―御陵の副葬品ーーである。しかし百六箇抄の要山本の主要部分は石山でも否認してゐないから、興師から尊師に対して特に与へられたもので、堀日亨師も自山の本を出すのを憚って要山本を宗学全書に提出しだのが今日の流布本と成ったのでもらう。

 元来口伝法門は深秘の法門だから、通行の御遺文よりも更に一段立入ったものであるべきで、通行の御書に無い思想が有るからと云って口伝法門をにせもの扱ひにすることはできない。早い話が三大秘法紗は上古に中山の深秘相承にされてゐたから、録内録外を通じて、日蓮は上行の再誕である、大覚世尊の職位を継ぐものであるといった、歯切れの良い表現をもった御書は当時一つもなかったので、そのために日蓮宗でありながら宗門の関鍵たる上行再誕法門を全然知らない人が有った(2)。この人は当時の通行の御遺文即ち録内に上行再誕法門の明説が無かったから知らなかったのである。又その三秘紗を知らない頭で三秘紗を拝すると、上行後身法門はもとより、国立戒壇法門が出て来て従来の常識―目分の頭で勝手に考へた日蓮宗のゑせ法門ーーでは判断できないから偽書呼はりする。さういふ人が今でも有る。しかし全く同じことが口伝法門についても言へるので、諸御書に無い法門が書いてあるから口伝はニセ物だといふことはできない。しかしそれではあまりに口伝の独走を許すことになるから、口伝が右と言ひ、御書や三部が左と言ふなら口伝を捨てろ、これが辰師の批判標準である。もっとも大聖人の論法は甚だ出没自在を極めてゐて、右と思はせて実は左を指す如き用法が有るから、よほど注意しないと化城と宝処を誤る危険がある。

  以上が辰師の立論の紹介と批判だが、私には更に若千の案が有る。第一に口伝と御書の一致点を見付けること(もっともこれは辰師が言外に言はれてゐるものだ)第二は御書の思想の論理的発展の方向が口伝を指向してゐる時、第三は御書にあらはれてゐないでも聖人の他の御所作と口伝とが意に於て一致する時で、殊に真蹟御本尊と口伝の一致重大な意義を有する。聖人の法門は如何に展開しても本尊に集らざるは無い。さうすれば深秘の口伝は真に本尊の註脚ならざるべからず、本尊は「御正筆」の口伝の証明でなければならぬ。

 斯くて口伝の批判に御本尊を資料とする方法が提示されたわけだが、これが亦言ふは易く、行ふは難き至極の業である。私はこれに今少々の手をつけたばかりだがモの詳細は本尊を論ずる所に譲り、今は右に示した若干の口伝批判の方法のうち、本尊に関する方法を除き、通常の文献批判の方法を加へて、富士門徒の秘書といはれる両巻血脈を検討することに止めておきたい。

 

(1)前出 日蓮聖人研究第一篇381

(2)擢邪立正妙 要 義一 64−66 学二 351-361 彼の日蔵日学は大聖人は全く上行に非ずと云云。

(3)日蓮聖人研究 一 370-378

(4)論敵の名誉の為に名は出さないが、一念三千の法門は天台も日蓮も同じだとか、法華経の至極は般若の空だとかいふ人が有る。随分色々な人と議論もするが、斯ういふ日蓮宗が一人や二人ではない。

(5)日蓮宗の至極は本尊にある。内容極めて高広深遠、その割に御書に扱はれる量は少く、口伝書は真偽雑揉し、文体又甚だ難読である。その上に本尊そのものの真偽判がくっついて来る上、どのお寺でも簡単には見せて呉れず、写真を撮るのがこれ亦一々許可の要る事が多い。住職は見せて呉れる意志があっても、定まった日でないと庫を開けない寺が、特に古刹に多いから困る。

 

 

 

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