両巻血脈

 

両巻血脈は、本因妙抄と百六箇抄の事である。共に富土門徒の秘書とされてゐるが、法主一人にしか知らされないといふ程の取扱は受けて居らず、古来相当写伝され、最近では刊本に成ったので可成り多数の目に触れるやうになった。即ち大正10年日蓮宗宗学全書與尊全集の内に入って第一回の出版が行はれ、昭和11年富士宗学要集相伝信條部に入り、更に昭和27年創価学会版御書全集に編せらるるに至って、完全に一般公開の聖典となった。その点時日の前後は有るが、三大秘法鈔と軌を一にしてゐる。

編者は何れも堀口亨師で、師は大石寺の猊座に登った人だから最もこれに通じた学匠である。その為か要集以後の編に於ては大斧鐵を加へて後加分と思ふものを削去してある。使用の底本は、

本因妙抄 学本 永禄三年要山日辰師写本 これは日尊師の写本に依るといひ、住本寺日住師の談によればその筆蹟は東山日尊石塔の字と大同だから尊師自筆に間違無いといふ。これば西山蔵。

大石寺蔵五世日時師写本

書者不明古写本数種

要集本は右の書者不明分を記せず保田我師の元亀3年此の写本を加ふ。

百六箇抄 学本 稲田海素師蔵保田日山師写本

石井智明氏蔵栗山原師写本

要集本は右の辰師本と思はれるものに保田日我師の写本を加へる。山師本と害者不詳分の用否は明かでない。

右の如く、大石寺自山の古本は底本となってゐないのは唯授一人の線を守る為であらうが、その代り後加の分は要本に於ては尽く縦線を引き、特に義の取るべからざるものには二線を引いてあり、創価本では一線分を小活字とし、二線分は削去してある。しかしその理由は一切示されてないから、相伝の古本によるものか、亨師の研究によるものかどちらとも言へない。学金本は刊行も古いので(これを提供した頃の堀師はまだ大石寺に瑞世せず相伝の古本を見得る立場にも無いし、又研究も充分進んでゐなかったとも考へられる)これらが全部同一活字が扱はれて居り、両書を攻撃する人は多くこの本を用ひて抹消分を問題にし、要集や創価の本を用ひない。整頓されてゐることでは要本を優とすべく、創価本は手に入り易いが後加分を削ってあるから研究資料としては不充分、現在伝来本の形を後加分も含めて保存してあり、編纂者の手が加はってゐないことは学本がすぐれる。但し、要本が後加以前の古態に戻したものとするなら、これが一番の善本だ。

要集本の巻頭には時師写の本因妙抄、我師写の本因妙抄、百六箇抄の写真が載せられてゐるが、本文と比べて見ると時師写のものには若干の出入が有る。時師の筆跡はシッカリしてみて軽卒な写誤とは無縁のやうに見えるのに、其が若干の修正を与へられてゐるのは何に依ったものかは要集の文上だけでは追求できない。

 前引穏師の記《64》に依れば大石寺では完全に唯授一人の線を守ることの必要性が非常に、強く意識されて居り、この線から言へば歴代法主の相伝はたとへ前管長たる堀大僧正でも公開の自由は無い筈だのに、時師の写本が写真になって掲載されでみるのは、本来の相伝本の写しでなく、他山の伝本を参考の為に写したものだから掲載し得たとも考へられる。そして堀師がこれを要房両山の辰我二師の写本と対校して、最も正しいと見うるものの文を以て現在の要集本にしたと一往考へてもよささうだが、時師は応永頃の人で他の両書は永禄3年と元亀頃の写本だから、古さからいへば遥かに時師本の方が強い。さうすると新しい両本から時師本を修正するのは困難で、ことに依ると亨師は相伝の古い本で時師の写本を校正し、それを古本に依ると公表しないで実は公表できないので――莫然と諸書を対校したといって発表なさったものかも知れぬ。若しさうならば要集本は最も信用すべき本だといふことになるが、さうでなくても、いまだ能化班に入らぬ頃編輯されれた学金本よりも、総本山瑞世以後の要集本に重味があるのは当然で、以下要集の再治本を主とし、再治以前の形を望むときは学全本に依って論を進める。なほ、我師写本の傍証はすべて割註に書きかへられてゐるが、其が他の本に依ったものか叉は製版上の便誼に依るものかは未詳である。

(引用するときは古い文体を示す為に主として学金本によるが、要本を軽視するのではない。)

 

1 本因妙抄

古記にあらはれた本因妙抄

本因妙抄が古記にあらはれた初見は三位日順師の「本因妙口決」で、その末尾に、

(67)抑此血脈者高祖聖人弘安五年十月十一日御記文唯授一人之一人日興上人ニテ御座侯本地甚深之奥義末法利益根源也奥信心深者愚老乞訓義云云(学二313)

と順師が老年に至って本因妙抄の註釈として作って或る人に示したものであることを言ってゐる。順師の年令は用心抄の入文に40有餘とあり、末尾に建武3年作としてあるから、若し老字を60以上に見れば本日決の作は貞和文和の頃であらう。順師の特徴豊な畳みこむやうな鋭さと、流麗な美文調が見られる。この美文調の筆致と、多少の天台の風気を交へ乍ら富士の法門を強く正面に押し出してゐる所はいかにも順師らしい。このやうに文体に於て疑ふべき所は無いが、唯一つ、疑念を持つ人の引掛りたがる点は、文中常に聖人を高祖と呼んでゐることである。

宗門の上古に於て聖人に対する呼び方は一番「日蓮聖人」「聖人」が多く、それについて「大聖人」が多く、後世盛んに用ひられるやうになった「大菩薩」「宗祖」は管見に入ってゐない。しかし「高祖」の用例も無いわけではなく、日常師の『観心本尊抄私見聞』に高祖、天目師の円極実義抄に本化高祖、高祖大聖人(84)、そして順師自身日順血脈に高祖の用例が有る。大聖知遇の古老常師にしてなほ高祖の用例があるのだから、身延随従の天目師にあるのはおかしくなく、きらに興師の弟子寂仙澄師の又弟子の順師が高祖と呼ぶのはむしろ当然である。殊に本書は順師晩年の作で滅後を隔る事更に遠く、建武3年の血脈にさへ高祖の字を用ひた順師にこの用語あるは決して怪むべきことではない。若し順師に仮托した偽作だから高祖の用語が有るのだといふなら、これほど順師の筆致をまねてシカモ他の著作と全くちがふ文章に仕上げる位、順師の文体に通暁した偽作者が、それまで師があまり使はなかった用語を用ひてあっさり馬脚をあらはすものであらうか。偽作を論ずる時は先づ偽作者の心中に入って考へてみるべきだ。

さて本書を本因妙抄の本文に対校すれば、多少の相違は有るが概ね原書を忠実に引用して、それに註をつけてあることが知られる。前分には全く問題が無く、台家と富士家の双方の学問に通じた学匠の作として認めることができるものである。しかし後分に至って、摩詞止観第五重の住不思議題観を註した文に、亨師が後註分として単線を引いた分と全く同じ文が日順口決の方にも出て来る。そそっかしい人や成心を以て見る人は、亨師が後註であると断じた部分が実は本因妙抄の本文で、それに順師が註を施したもの、と速断するかも知れないが、よく見るとその一部は台家の釈で順師の語そのものでは無いし、更に順師の語も却って本因妙口決の方が先に出来たのを、後加分に引張りこんと見られるものである。

 先づ差当って問題になる部分の本因妙抄を、後加分も含めて紹介しよう。体裁を比較するために少し前から始め、日順口決(本因妙口決)と同文の所はゴシック体で記す。

 

この両者をつき合せてみると、順決は

1 本因妙の待教立観は順決では顕教に作ってあるが、その他はすべて本因妙抄本文にピッタリ付いて逐語註をしてをり共通文が甚だ多い。

2 「尋云妙法五字二有之」から以後廃教立観の前までは逐語註から離れた講義で、共通部は少しも無い。

3 廃教立観から第四会教顕観の終り迄は、同前の逐語註

4 住不思議顕観の始めの部分はやはり共通部の多い逐語註で「是云高祖本達也」迄続く。唯、前とちがふ所は亨師一線分に引用された台家の釈(ロ)が割りこんでゐるが、これは本困妙抄一線分からの引用でなく、順和尚作目の引用と見ても差支無い。

5 「去間」から以後「此下を可見也」の割註迄は共通部は一線分にあるもののみで、引用も台家あり、日蓮聖人の法語ありで、一定しない。而てこの法語は本迹一致の語が有って聖人の言葉のままとは為し得ないものである。

6 而本迹雖殊から謗法之至迄には全く共通部を欠く。

7 住教顕観以後も共通分は甚だ多い。但し、可思惟まで(か)の註が可知(ワ)であることは明かだが、其からあとに問題がある。本因妙抄の方は、本迹雖殊の釈を出して機情に約せば久近の差あれども、内証に約しては勝劣無しとしふ問難を立て、答へて十重顕観を具に挙げて、これは大事の法門である。教観不思議天然本性の処に独一法界の妙観を立てるのを不思議の本迹勝劣又絶待不思議〇言語道断の勝劣と言ひ、天台等の言残した当家の秘密〇直達の勝劣である。迹といふ名が有っても有名無実の迹門で、不思議の妙法は唯寿量に限るから不思議と釈し、達門の題目は本門に似てゐるが内容は天地成仏亦水火の不同あり、久遠名字の妙〇経の朽木書であるから一と釈すると示して、末学云云の法語で終る。

 本因妙目決はイキナリ前出の十重顕観を受けて、このやうな大事を知らぬから、機情に約しては本迹久近の異、内証に約しては勝劣無しなど言ふが大変な誤だ。天台等の言出さなかった秘密○真実の妙法は唯寿量に限るから不思議一といふ。有名無実の迹門と混同してはならぬ。迹門の題目は似てゐるが天地水火、久遠○朽木書だから不思議一と釈す。詳しくは血脈に在るから拝見せよ、高祖の御遺告に、と末学云云の法語を出す。

 かう比べてみると両者の所説は全く同じく、シカモ順決の方が簡単である。いったいどこに本文よりも簡単で、本文と同様な註釈といふものが有るだらうか。

8 そして、本因妙目決は本因妙抄を引用する時は一々断らず――もともと本因妙抄の註釈なのだからそれが当然だ――但書を引く時にのみ書名を出すのを原則とするが、重複する時は必ずしも一々断らない。故に高胆云とか御遣告血脈結文云とかいふ引用は他書からのもので、本因妙抄の本文と見ることはできない。

 

 右の八箇条を整理して見ると、

1 本因妙口決が正確に逐語註をしてみる分の本因妙抄は勿論本因妙口決成立以前にできたものである。逆に本因妙口決が少しも言及してゐない部分は本因妙口決成立以後にできた後加文である。

2 本因妙口決と本因妙抄とたとへ共通部が多くある部分でも、正確な逐語註と見られないものや、他の疵のある分の本因妙抄は、これ亦後加分と見て良い。即ち、本因妙抄に於て、

(1) 待教主観の分は本因妙口決に先立つものである。

(2) 本因妙口決「尋云妙法五字」から廃教主観の前までは、共通部は無いが本因妙口決が独自の講義をしてみる部分だから、本因妙抄の本文批判と直接の関係は少ない。

(3) 廃教主観から第四会教顕観の終り迄は逐語註で(1)に同じ。

(4) 住不思議顕観の「是名天真独朗之即身成仏」までに対する逐語註は「是云高祖本迹也」までで、(1)に同じ。

但し亨師一線分に引用された台家の釈(ほ)が引用されてゐるが、これは必ずしもここからの引用でなく、順師が自分で台家を引いたものと見て差支ない。

(5) 以下本因妙抄一線分は前後二部に分れる。前分は共通部が甚だ多く、後部は全く共通部をかく。而て共通部の多い前分に対応する本因妙口決は「去間」から「此下ヲ可見也」の割註迄である。そして前部に対する本因妙抄の文は逐語註といふよりも同文と言って良く、シカモ本因妙抄の方が記述が詳しいこと、住教顕観の後の一線分と同様である。シカモ本因妙抄の一線分は全体に亘って合点の行がない文章に満ちてゐる。

(A) 問日以下の文章形態は報恩抄そのままであり、且、問答体である。日蓮聖人の口伝に問答体が無いわけではないが、後加分がなければ変形されたものであることが多く、ここのやうにイキナリ文体が変化するのはそれ自身後加分であることを告白してゐるやうなものだ。

(B) 我弟子等○記留之者也の文には一往勝劣再往一致の、所謂一致派の根本的主張として使はれた言葉を挙げて破してある。この語は聖人在世に使はれたものではない。

(C)) 於我未来○当引悪道の文には「元品大石」なる用語がある。聖人はやむを得ない時の外は台家の術語を用ひ、新語を用ひるのをできるだけ避けて居られた――またその為に術語の名同髄異が生じて、両家の異目に就き混乱も起ったので、本因妙口決も著述されたのだ――さういふ聖人の用語例から見て、このやうな奇抜で意味の通らない新語は、聖人のものとはなし難い。

(D)彼網目○此大綱首題主等は本因妙末尾の二十四番勝劣と同型で、ここに別出してゐるのは、簡潔を主とする口伝にふさはしくない。

(E) 彼一品二半○凡夫為教相の文は百六箇抄熟脱八と同文。本抄と共通思想が有るのはよいが、文章まで同しになる必要性はない。

(F) 彼天台○如無共に至っては日興師の五人所破抄そのまま。若しこれが聖人の語ならば、五人所破抄でそれを断らない筈はない。これが一ツニツならマダ何とか言解く手もあらうが、六ツ迄おかしな文章が有るのではいやでも亨師が後加分として一線を引いたのを承認せざるを得ぬ。もっとも亨師はその理由を少しも言って居られぬから、私の立論とコースだけは亨師の真とちがってゐるかも知れぬ。唯一つ亨師に同意できないのは(C)を宗義に於て差支無しとして二線分に入れられなかったことで、私に言はせれば元品○大石なンといふ言葉は宗義どころか仏法の用語に無い。従ってこれは二線分として抹消すべきものだ。証拠は少いけれどもこれは大石寺系に対抗すべく要山系で偽作した文章ではないかと思はれる。もっとも偽作の下手さ加減と多少は学のある所から見て、大した学者の作ではない。要山系と狙ったのは百六箇抄末尾に要山系を賞揚した文章(二線分)があるから本因妙抄でもそんな小細工を起しうると考へるからだ。

(6) 有一線分の内、前半共通部の多い所(後半との切目は明かでたいが、一往「予所存」以下の法語の終り「未悪道最不便也」で切ることにする)は、本因妙口決に拠って類似の文章を書いた部分だから、本因妙口決を読んだ人の述成が攙入したとも、本因妙口決による加註が本文に混同したとも、又、奪って言へば本因妙口決を失敬して口伝を偽作したとも、何ともとれる部分である。

(7) 後分は右の前半が成立した後に、偽作者が書き込んだ部分だ。

(8) 第六住教顕観以後、前述の(か)までの註(ワ)に至る分については、(1)同様問題はない。

(9) それから後は、前の一線分前半の如く、両者同様の文章になってゐるから(6)と同様と者へてよい。

(10) 即ち一線分には両種あり、本因妙口決と同文に近くて梢冗長なものと、全く本因妙口決とはなれて、まじめなことも言ふが時にはひどいヨタも飛ばしてゐるものとの二つに分れる。

(11) 右の一線分成立の動機に就いては、与奪若干の考へ方を(6)に並べておいたが、本因妙口決で「高祖云」と断っであるものをワザワザ削ってある所を見ると、ドウも最悪の場合――口決の偽造――を考へるのが当ってゐるやうに思はれる。

3 右の11箇条で知られる如く、本因妙抄一線分は本因妙口決の文を利用して作ったものだから、共通の文があるのは当然であり、亨師が一線分とした判断は否認すべき材料無く、順師が一線分を引用して本因妙口決を書いたのではなく、逆に本因妙口決を引いて一線分が偽作されたものであったことは動かせない。

4 ここで問題になるのは本因妙口決に引用(ヌ)された「予所存○悪道最不便也」といふ法語である。勿論これは「高祖云」と断ってあるから本因妙抄の本文では無く、叉順師の註でもない。しかも本迹に着して一致の修行をするといふ在世には有りえない語句を含んでみる。といふことは聖人の言はれた通りの文章ではないといふことだ。聖人の言はれた通りに伝はらなかった法語、とすればこれは既に堙滅した御書の引用ではない。先に述べた「口伝の変形性」がここに見られるのであって、はじめ聖人が類似の言葉で述べられたものが、伝承の間に本迹勝劣の語に置換へられたものであらう。

日蓮聖人が鎌倉に居られた頃天台宗の人々と交際して居られたことも、立正安国論がはじめ天台沙門として申し進められたことも先学の考証が有る。三位日順師も青年時代に叡山に遊学した。又日大師は叡山の直兼師と親しく問答(折伏的なものでなく)を交してゐる。宗門の上古では天台宗との間にあまり摩擦は無かったらしい。その為に台家との違目がわからなくなり、「天台与同の想案をめぐらす」人々の中に「日向日頂両阿闍梨」(日順血脈)さへ有った。聖人の折伏弘通について行けないので、天台流の安楽行をとって、「やわらかに法華経を弘むべし」(諌暁八幡鈔)といふ軟派さへ出て来る。そこで原形を今の形から推定復原してみれば「余の法門を天台と同しなんどと言ふべからず 余が所存は内証外用共に台家の迹門法華を捨てて本門をとる也 迹門に著して像法過時の修行を為さば上行菩薩親く本師釈尊より付嘱せられ給ふ本門の秘法を失ふ物怪ぞ 台当の不同は処々に之を書き置きしを、宿習拙き者は台家に迷倒する歎 台当本迹の勝劣を知らざる者の未来の悪道最も不便なり」とでも言はれたものを、口伝に移して行くうちに若干の変形が行はれ、「天台と同じ」が「本迹一致」に置きかへられたものであらう。

もっとも順師が後の方に「高祖御遺告血脈」と断ってあるのに対して、こちらの方はただ「高祖云」といふ程にしか紹介してない所を見ると、これは口伝といふ程改まったものでなく、ただ聖人が日常言はれた法語が伝承されたものにすぎないのであらうから、それだけ変形も激しく受け易いわけだ。現在でもこのやうな事は屡々起ことで、たとへ尊敬してみる人の言葉でも「東宮殿下が妃殿下御同伴で参内なさった」と言ったものが「皇太子様が美智子様を連れて天皇に逢ひに行かれた」位に三十分後には変形するやうなことは日常ぶつかるものである。まして一致勝劣諭の盛んだ時に、時代の傾向に引張られて短日月の間に変形するのはありうべきことである。そして時代が経つにつれて法語が口伝に昇格すれば、内容はともかく、形式は全く聖人のものでない口伝が成立するわけだ。本式の口伝さへ変化し易い。マシテ法語に於てをや。

5 住観月教のあとに。出て来る「高祖御遺告血脈(ツ)」は三大秘法抄に同義の文が有るが形式は大分ちがひ、且この方には明瞭な変形のあとを見ることはできない。そして三秘抄の方は「結文」ではないからそれとは別な未公開の口伝であらう。本因妙抄ではこれは一線分に入ってゐるが亨師は「本因妙抄の本文でないものは総て」棒を引いたのだから、たとへ真正の口伝であってもこれは本文に無いから棒を引かれたので、亨師がこれを偽書と判断したのではあるまい。順師は大学頭だから唯授一人の血脈といふ程のものでなければ――少くとも三大秘法抄程度の口伝は受けて居られたであらうから、これを順師の受けた血脈と者へて差支たい。

 以上の如く、本因妙抄の1線分は一部は順師の本因妙口決をふまへて書き直したもの、一部はそのあとから書き加へた完全な偽作だから、その前者の中に本因妙口決と同文が有っても本因妙口決の信懸性が減ずるものでなく、むしろ偽作者がわからなくなってゐる位古い後加分に口決が取り上げられたことは、口決の成立の古さを裏書するものであらう。

なほ蛇足であるが要集によると本因妙抄、百六箇抄は共に原題で無く、本因妙抄は時師写本写真によれば「法華本門宗血脈相承事」を題にしてゐた様子がみえる。それが「本因妙抄」という通称を得たのは「本因妙行者日蓮」の巻頭語に依るとも考へられるが、逆に順師の「本因妙口決」が題の材料を提供して、その上半を取ってつけられたものとも思へる。一言思ひつきを述べて後賢を侯つ。

・・<中略>・・・

(1)釈の日順は甲州下山の所生なり、誕生は永仁二(甲午)年なり、七才にして正安二年冨木の寂仙坊日澄を師として出家す其時本迹問答の最中なるが於に鎌倉身延冨士法門混乱す 然りと雛興師の辮説に当る者は破られざるなし 是故に日澄も終に富士に移り給ふ 日順是より興澄両師の教訓に預る

長大の後叡山に登り修行を為す、三千の衆徒中に秀で三人の講師に撰ばる

延慶三(庚戊)三月十四日澄公入滅す(時に十七なり)文保二

重須談所(学頭となる)嘉暦二年師の代官と為て奏聞す、三年五人所破抄を草案す 元徳元眼病を頬ひ一眼を失ふ 代公住持の時事を眼病に寄甲州下山大沢の草庵に蟄居す 観応元眼病を頬ひ両眼永く閉づ然りと雖著述を廃するなし 御入滅年時未詳(家中抄による)

・・<中略>・・・

日蓮聖人 日向申状 日高甲状 瀧泉寺申状 日弁申状 日法本迹相違 同報日像書 日春与光尊御房書 日朗身延離出書但しこれは偽書の疑あり。

(3)大聖人 日位御葬送日記 天目本迹問答七重義

聖人 天目本迹問答七重義その他諸書にあり

法主聖人 日昭経釈要文 瀧泉寺申状(同60)

南無日蓮正師 日昭経釈要文 先師日昭甲状

日蓮阿闍梨 日昭血脈譜

今家聖人 日朗本迹見聞(同蝸)

本師日蓮 日朗申状(同22)

南無日蓮大師 日持池上御影

本師本門大師 天目円極実義抄

本化高祖、本化大聖人、高祖大聖人 本化大聖等 皆右の書にあり。この書 天目師の著なること、後に詳説する。大聖 天目本迹問答七重義

高祖 本文に出す。

 

三大秘法鈔を偽書だといふ向があるが、既に山川博士の周匝た論証があるのだから、とやかく私が言ふ必要もあるまい。ただ、三秘抄の

(70) 此三大秘法は二千餘年の当初地涌千界の上首として日蓮慥に自教主大覚世尊口決相承せし也(艮2054)

と同義の文が富士に口伝として残った事は、三秘抄が元は中山で相承視されてゐたといふ博士の説と相まって、三秘抄偽書説論者に対する有力な反証となるであらう。

次に二十四番勝劣を論じて口決は終るが、本因妙抄本文には

(71) 問云寿量品文底大事云秘法如何 答云唯密正法可秘々友一代応仏イキヲヒカエタル方理上法相一部共理一念三千迹上本門寿量ソト得意セツムル事ヲ脱益文上ト申也 文底者久遠実成名字妙法ヲ余行ニワタサズ直達正観事行一念三千南無妙法蓮華経是也云云(要相14)

という問答がある。問云といふ書き出しは前の一線分と同様だから、前述の報恩抄を使った後加分と同じ攙入ではないかナとも思はれるが、本因妙口決の方に

(72) 次問答御釈下唯密正法云云 今日本迹ハ理ニシテ権実也久遠本迹ハ事ニシテ本迹也云云一代応仏本迹権実約智約教也久遠本迹本迹約身約位也云云(要相137)

と簡略な註をのせてゐる。註の方が短いけれども両者の共通文は殆どなく、註とはいっても同しものを別の方から見直したといふ形であり、直接一方が他を種本として作文したといふやうなものでない。順師自ら「次問答御釈」といってゐるのだからこれは後加分ではない。そして本文の方は上来説き来った部分の要約ともいへるものだから、順師も逐語註をする必要を認めず、唯、久遠元初本仏本因の化導に望めては今日霊山釈尊の法華経八巻文上の本迹は一段下った判教であって権実ともいふべきもの、又久遠元初の本迹即ち種脱判は能説の教主たる本仏に約して論じ、娑婆応現釈尊の脱益の説法は所説の法に約して諭す名のだと、学者だけに却って学者でたければわからない註をつけて、一層深く研鎮する人の便を計ったものであちう。かうしてみると本因妙抄は三部に分れることになる。

第一は天台家の法門の文を利用して、日蓮宗の宗旨を明かにし、併せて天台との勝劣を明かにする本質的た部分。

第二は天台宗との勝劣を簡単な言葉で表現し、比較した二十四番勝劣。

第三は以上の要約としての「問答の釈」

即ち本因妙抄の根幹は第一部のみで、第二部第三部はそれに附随して解し易からしめる施設となる。附随的な口伝だから問答体といふ例の少い形をとったものであらう。ことによると「問云」の問者は日興師で、その言葉がそのままに記録されたのかも知れぬ。即ち本抄は順師の所謂「高祖御遺告の血脈」の一つで、玄文止三大部七面決に約して天台法華日蓮法華両宗の違目を明かにしたもので、狙ひは丙宗の区別を示すに。止まらず、法華本門宗内容の深義を語るに在って天台の口決そのままの説明ではなく、台決は唯、材料足場に使はれてゐるに過ぎない。天台の口決を根として聖人の法門が出て来るのではなく、法門の説明に利用されてゐるだけのものである。

※足場に使ふ位なら何も天台など使はないで始から独自の法門を展開したら良いではないかとも思はれるが、聖人にとって天台は内鑑冷然外適時宜なのだから、表現は浅いが内容は深く、本化日蓮のみその深義を引出しうるという所謂迹化本化の仕事の分担が有る軍と、今一つは三国四師の相承を重んずる為である。

順師の口決には更に一つ注目すべき文が有る。其は「三大秘法鈔に云はく題目に二意有り云云(69)と引用されてゐる事だ。山川智応博士の日蓮聖人研究第一巻に依ると、三秘鈔は中山に在ったとも重須に在ったとも伝承されるが「堀亨師は、上古の富士流には三大秘法鈔の所在について記録無しと、立正大学の片山英岳教授に答へた」と言ひ、又、重須から武田勝頼が重宝を奪った時の重須の書上げには、「百六箇、三秘鈔、旅泊辛労書、本門宗要抄、本因妙鈔」等の御本書紛失を言ってゐるが「百六箇、本門宗要抄、本因妙抄」等の真蹟が有る筈が無いから三秘鈔も無かったのだらう、等と言って居られる。

三秘鈔の所在の記録が上古に無かったといふ亨師の説は、これを本因妙口決の「三秘鈔に云く」と対照すると、順師はそれまで富士に無かった三秘紗の写本を持ちこんで来たこと、更にその写本が「御本書」と誤られるやうになったのではないかと推定される。勿論口決である百六箇や本因妙抄の真蹟本があるわけは無いので、有ったら著作であって口決ではない。博士は書上の「御本書」を真蹟と読みかへて居られるが、口決の「御本書」は真蹟ではあり得ず興師の筆受本か、又はそれに聖人が判を加へた印可本ならば「御本書」と言って差支無い。しかしその盗難品の中には西山日代師が偽書だと言ってゐる本門宗要抄が有るから、これらをひっくるめて「御本書」としてゐる重須書上の筆蹟鑑定能力には疑問が有る。さういふ書上げが澄師か順師あたりの筆蹟に成る三秘鈔を「御本書」の中に入れてしまふことも無いこととは言ひ切れない。

三秘抄の原本では私も山川博士の中山曾有説に左袒したいが、その書名の見える上限は博士が一往聖滅161年の嘉吉二年として居られるのを、更に引上げて本因妙口決の推定著作年代たる貞和文和の交、聖滅64年から75年頃とするべきであらうと思ふ。順師はもと中山(正確には日頂)門徒だった人だから当然三秘鈔を見得ることができた筈で、師が三秘鈔に言及したのは自然な成行だ。ただし師の持ってゐた本が寂仙澄師の自写本か、叉は師の筆に成るものか、それとも他筆かは、全くわからない。澄師の筆は今日全く伝はってゐないから、北山に在ったといふ「被掠本」が、澄師又は他の中山の人の写で、それが聖人の筆蹟に似てでもゐれば、重須の後世の人が御本書と間違べても仕方あるまい。

山川博士は順師の摧邪立正抄に三秘鈔が引用されてゐない事から三秘鈔が元々富士にあったものでないと言はれたが、その結論には同意するけれど、理由には賛成できない。摧邪立正抄は他に示す破折の書だから相手の依用する文証の依らなければ効果は無い。三秘鈔が広く一般に知れ出したのが聖滅160〜170年頃とするなら、聖滅69年の観応元年にこれを引用することが行はれない方があたりまへで、これに反して本因妙口決の方は門内に示すものだから引用して差支へなかったのである。しかし三秘鈔とは別に、富士には国立戒壇の相伝が有ったから、国立戒壇の依文としては三秘鈔を引用する必要を認めず、其には自山の口伝をあて、三秘鈔は題目両意の依文としてのみ引用された。三秘鈔がもとは富士に無く、中山から入ったものであらうといふことは、前掲山川博士の論文と共に、これが富士の古書目にも、相承の目録にも缺けてゐる(亨師の説もこの線であろう)ことから明らかで、その中山にしか無かった三秘鈔を富士に持ちこめる人といへば、頂師―澄師―順師の線しか無い。さうすればこれも本書が順師の作である証拠となしうるであらう。

本因妙口決が造られたのが貞和文和の間だとすると、貞和元年は日興師の寂年である正慶2年から数へて13年目だ。さうすると本因妙抄が偽作とすれば偽作者はこの13年の間にやってしまひ、勉強が過ぎて失明した位の学問好で、重須に学頭位に在りながら栄達の望を捨てて早くから(一眼失明以前に)大沢に引込んでしまった位純真な、門内随一の学匠日順師をゴマカシて真物と誤認させ、本因妙口決を作らせるといふ曲芸を演じたことになる。かういふものが偽作されて確乎たる地位を占めるには相当な年月が要るもので、13年間に誰かが偽作して興師の没後なのを幸ひに、興師直参の弟子日順師をだますことは不可能といふ外あるまい。正慶以前の偽作とすれば興師が御存知無い内に偽作されてしまひ、興師も目師、澄師、順師、華師、仙師などの学匠古老が目を光らせてゐる前で、それが重要な口伝だといふ地位を獲得し得たことに雲。それを為しうるとすれば興師以外にはないが、師は法門の為に身延の地頭波木井実長の「泣く子」を我慢できないで延山別当の地位を棒に振ってしまった神武以来へ堅物で、偽作なンといふ狡智とは全く無縁の人である。

本因妙口決が日順師の作であることが動かし得たい以上、種本になった本因妙抄を偽作しうる機会は無い。それでも猶本因妙抄偽作説を主張したいなら、何故これが造られるに至ったかを説明すべきである。

大体偽書を造るには、

一 偽作当時、問題になってゐる事件を解決するのに適当な文証を得る為。

二 相手に無い財産を捏ち上げて、所謂加上の説を振り舞はす為。

三 既製の書を切貼細工して、一書を読めば他書多数を読むと同じ効果のある教科書風のものを作り、それを自編だと断れば良いものを、御書めかして作った為、自然偽作になってしまふもの。

四 自作の論文に権威づける為、先聖の名を盗用するもの。

五 本物の宝物に箔を付ける為、それに関係付けた御書を作るもの、これは文書の偽作がバルると本物の宝物まで疑はれるといふ逆効果を生ずる。

六 唯、何とたしに偽作するもの。例の永仁の壷の銘はこの例に入る。

右六箇条のうち、本圀寺の日朗譲状は一、二、五の三つをねらったものである。即ち、本迹論を有利に導き、日朗付処説を加上し、立像釈尊を権威付けようとして失敗したもので、三の例は波木井殿御書、四の例には上野五郎左衛門尉書がある。序ながら言っておくが、観寿目耀師は考文で言ってたいが、上野五郎左衛門尉は在世の檀家には未見の名である。

本因妙抄は一体この中のどれに入るものであらうか。これを聖滅99年の日眼師五人所破抄見聞に引用された事から、その頃までの偽作だといふ説があるが、この頃いったい何が問題にされてゐたかを者考へれば簡単に解決が付く。本抄は所謂種脱判の書である。種脱とは日蓮宗の教相判釈の眼目であって、(創価学会批判は異説を立てようとしてゐるが、これについては別に論ずる)富士門徒ばかりでなく、近世の教傑田中智学居士の「日蓮聖人の教義」にも五段相対を論じて、

(73)   内外

 実権(権実)

 本迹

 種脱(教観)(

の判釈を立て、化他宣伝に於ては智学居士に数歩を譲るが、法門研究に於ては却って数歩を進めた清水梁山居士は『日蓮宗綱要』に詳説してゐる。一部八巻の法華経の六万余字は在世脱益の教末法無益として捨て、寿重品の文底秘沈の南無妙法蓮華経を末法下種の要法として採る。実に一代仏教の淵底を破った重大な法門である。

所がこの頃の日蓮宗は専ら第四の本迹相対の重で黒目が出てゐたので(2)、その傾向は戦国時代に入ってすら激化の一路を辿った(日蓮教団史概説)。大体日蓮宗で本迹一致勝劣などの争いが起るのがソモソモおかしいので、元はといへば天台宗の勢力を利用したい事からの小細工(3)に基くものだから、一致派の方には適当な文証などありはしない。それを唯何とかコヂ付けてゐたにすぎないから、そちらの方では文証が欲しいから偽作しようといふ気も起りうるが、勝劣派の方では文証は充分で今更御書の偽作といふやえ綱渡りをしないでも結構まかなって行ける。唯、一致派は本迹一致を唱へて俗耳に入り易いから信者を集めるのに都合良く、それで勝劣派に対抗できたので、さういふ状態の下で勝劣派のほしいのは俗土の協力であって教学問答の依文ではない。本因妙抄のやうな昔は俗士に見せなかった秘書で、シカモ当時の論争点になってゐない種脱判の本などを偽造する必要など、サラサラあるりはしなかったのである。

第二に、加上の為ならば本門勝、迹門劣の御書で沢山だ。本門勝の法門の分らない、乃至は分っては都合が悪いから分らうとしない手合に、脱劣種勝の法門だと説いて見たって仕方が無い。それに加上の説ならば宣伝しなければ効果が無い。威張る材料をこしらへたが、人には見せないで秘し隠しておいたといふのでは、茶番にもならない。

第三に、本抄の内容を一見すれば、既製御書の切貼りで造れないことはスグ分る。それだから批判する人は後加分にばかり喰付く。

第四に、これを自作しうるとすれば余程の学者である。誰も知る如く、聖人の通行の御書には一番大切な教相である筈の種脱判の詳説が無い。清水梁山居士が指摘されたやうに観心本尊鈔に

(74) 在世本門末法之初一同純円也但彼脱化種也彼一品二半此但題目五字化――所詮述化他方大菩薩等以我内証寿量品不可授与末法初謗法国悪機故止之召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮花経五字令授与閻浮衆生――像法中来観音薬王示現南岳天台等出現以迹門為面以本門為裏百界千如一念三干尽其義世論理具事行南無妙法蓮花経五字並本門本尊未広行之――今末法初迹化四依隠不現前諸天棄其国不守護之此時地涌菩薩始出現世世但以妙法蓮花経五字令服幼稚――此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国(艮942〜)

とあるものだけで、外に居士が引用したものは沢山あるが、正しくズバリと説いたものは無い(日蓮宗綱要には本尊鈔を本拠としてゐるが、引用はこれほど長くない<142,178>。本書の本迹相対以下の分は宗乗講義録によって補ったもの、だから、引用周匝ならざるも致方無きか。)御義口伝日向記は梢、詳しいが、それも当然で、これは一番大切法門で当然口伝となるべきもので、その口伝が即ち本抄なのだから、本抄及次の百六箇抄を得てはじめて五段相対が完全に揃ふことになる。

これをなしうるものは聖人を措いて外にあり得ないではないか。自撰でこれほどのものを作りうる、シカモ偽作をする位の狡智有る者ならば、当然御書形式にして衆生の眼に触れるやうにするにちがひない。

末師の自作と考へるにはあまりにも内容が高すぎる。宝物の関係など有りはしないし、何となしに口決を偽作するやうなイカレた頭でこれほど思ひ切った内容が作りうるものではない。

(他の門徒からは色々批判も有るが、どうも良く理解しての上ではなささうだが、この辺の問題は追々明らかにしてゆくつもりだ。)

(2)一致論の方は大体「未顕の本迹は勝劣、己顕の本迹は一致」といふことで行くので、迹門を開し了れば勝劣なしといふのである。本迹一致といふことは勝劣がないといふだけで、傍正の勝劣になる。勝劣といふことも意義の考へ方捉へ様に依ってば一致派でも勝劣はある――勝劣派と一致派との分界はホンの薄葉一枚の違ひである。相分れた末に行けば非常な相違が出来るけれども或る点では殆とよく似て居る。本宗と難も(旧一致派たる単称日蓮宗を指すのだらう――松本)一致といふ事は全然同し事だといふのでは決してない。文の上ではみな勝劣も明に見て居る(本迹論と日蓮宗の分派 望月歓厚)。

(3)右の望月博士の論文によれば、初期の一致論は台家の迹門と当家(日蓮宗)の本門とが一致すると説かれたもので、これは間違の法門であるといはれる。台当一致とは台家へ近付かうとしたことであり、妥協である。台家の勢力の強い鎌倉で申状に天台沙門と書いたとか、京都で像師が一致論を出したとかいふ事実は、心ならずもされたことではあらうが、かういふ傾向を示すものであらう。

 

 

 ロ 本因妙抄の内容批判

これまで私はなるべく本因妙抄の教学的内容に立入らないで、主としてその文章形態や著作年代、動機など、一般的方法から論を進めて来た。さうしない主完全な第三者や、自分の教学知識に固執して本抄を理解しえない頭で偽書呼はりする向に対して、充分な説得力をもち得ないからだ。

これまで本抄口伝説は専ら富士門徒によって唱へられ、偽作説は旧一致系の学者が主張して来たものである。そして富士方の議論は相手を説得するに充分な説明をしてゐないし、偽作説をとる人は富士教学でない種説論を自分でこしらへて其を叩いてゐるといった傾向が強い。即ちお互ひに自分のペースで議論してゐるからいつまで経っても決著がつかなくなる。

しかしそれだけではまだ、疑網を完全に除くことにはならないだらうから、今度はその内容に立入って見ることにする。もっともこの作業は徹底した教学の知識を必要とするので、完全な全文研究は教学専門の人に譲り、今は必要た最低限度に止めておく。

既に前節で提示したやうに、通行の御遺文と御義口伝、日向記と比較して

一 一致点

二 思想の論理的発展

三 御書以外の聖人の指示との一致

が有れば口伝を聖人のものでないとする積極的論拠は無くなる。更に純文献学的考案を加へれば一層確実だから私は前項に於てこれを行った。第三の御書以外に亘る作業は次編で行ふ。今ここに取り上げるのは右の第一第二の両項である。なほ、要法寺辰師は天台三大部を入れて御義向記を除いたが、台家に論及するのは日蓮教学から云へば迹化を以て本化を律することで話が逆になるから之を除き、御義向記は諸派依用のものだから加へておく。これに疑をもってゐる人も有るが未だ学会の公論となったものではなく、その立論も一往批判しておいたから問題にすることもあるまい。

(75) 今末法に入ぬれば餘経も法華経もせんなし但南無妙法蓮華経なるべし(法要書 艮1717)

(76) 仏の御意は法華経也日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし(経王殿御返事 艮986)

(77) 妙法蓮華経の五字即一部八巻の肝心亦後一切経の肝心一切諸仏菩薩二乗天人修羅竜神等の頂上の正法たり――疑云二十八品の中に何か肝心答云或云品品皆事に随て肝心なり或云方便品寿量量品肝心なり或云方便品肝心なり或云寿量品肝心たり或云開示悟入肝心なり或云実相肝心なり問云汝が心如何答南無妙法蓮華経肝心なり(報恩鈔艮1502) )

(72) (再出)此但題目五字――寿量品肝心(観心本尊抄)

法華経を余経と共に破廃する。爾前経は魂が無いから何も出て来ないが、法華経を破ると中から魂の南無妙法蓮華経が出て来る。この肝心の題目こそ、日蓮聖人弘通の法である。本抄では第廿二番勝劣

(78) (天台)は(法華経八巻)一部に(前後十四品の)勝劣を立て、此は一部を迹と伝ふ(要相13)

第七出離生死一面にも

(79) 心は一代応仏の寿量品を迹と為し内証の寿量品を本と為す 釈尊久遠名字却の身と位に約して南無妙法蓮華経と唱へ奉る(相7)

一部を捨てなければその魂たる題目は出て来ない。「せんなし」が破魔の意であることは

(80) 日蓮捨広略好肝要所謂上行菩薩所伝妙法蓮華経五字也(法華取要抄 艮1402)

に見えてゐる。次に種脱を論ずる御書。

(72) (再出)但彼脱此種也彼一品二半此但題目五字也(観心本尊鈔)

(81) 宿世因縁吾今当説の事――宿とは大通の往事なり(大通仏の時法華経を聞いた事)種とは南無妙法蓮華経なり此の下種にもとづくを因縁と云ふたり本門の意は(大通以前の)五百塵点(久遠)の下種にもとづくべきなり真実妙法の因に縁くを成仏と云ふたり(御義 日50))

(82) 当(寿量)品は末法の要法に非ざる歟其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字許り当今の下種なり然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の註と為す(同92)

釈尊霊山の御説法に於ては大通仏として下種され、又五百塵点劫の久遠に下種された衆生に対して、世々番々の御化導で既に下種された仏種に熟益を与へ、今それを得脱せしめる脱益の御化導が行はれた。

ここで一寸種熟脱三益の説明をしておかねばならない。本化聖典大辞林によれば、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

種とは仏種のことでこれに性種と乗種の両者あり。性種は性具の仏種で正因仏性といふに同しく、衆生本来本有の仏性で誰から与へられたものでなく自ら具はってゐるものである。今下種といふのは乗種即ち仏の教を与へて性種を開発することを言ふ。

その下種の法とは何かといふと、

l         (39) 凡妙法蓮華経者我等衆生(人界所具)の仏性と梵天帝釈等(天界所具)の仏性と舎利弗目連等(二乗所具)の仏性と文珠弥勒等(菩薩界所具)の仏性と三世諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名だる也――我が己心の妙法蓮華経(性種)を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経(乗種)とよびよばれて顕れ給処を仏とは云也――されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成給し也(法華初心成仏鈔)

で、南無妙法蓮華経だ。これを下種されて直に心中の性種と感応した者はそのまま成仏するが、感の悪い者は其を忘れて六道を流転し、途中で其を思ひ出せば仏になる。これを思ひ出させる施設が熟益であって、その完成が脱益である。熟益は釈尊世々番々の御化導となる。そして五百塵点劫(正しくは五百千萬億那由佗阿僧祇塵点劫)以前からモタついてゐた連中を脱せしめたのが法華経本門、三千塵点劫以前の釈尊が大通仏として下種なさった以来流転してゐた比較的程度の良い衆生を脱せしめたのが法華経迹門である。そして此等の衆生は既に南無妙法蓮華経を下種してあるから、今更下種をしないでも、法華経迹門方便品の開示悟入や諸法実相を聞いた丈で大通の下種を思ひ出して成仏し、本門寿量品の仏寿久遠を聞いて久遠下種を思ひ出して成仏する。それにもれた機類も涅槃経で拾はれ、仏滅後正像二千年の間は在世の会座に連り得なかった者が、爾前諸経や法華経の迹門を縁として宿種開発する。

 (40) 華厳阿含方等般若等の経経の間に六道を出る人あり是は彼彼の経経の力には非ず過去に法華経の種を殖たりし人現在に法華経を得ずして機すすむ故に爾前の経経を縁として過去の法華経の種を発得して成仏往生をとぐるなり――正法一千年が間は在世の如くこそなけれども過去に法華経の種を埴て法華涅槃経にて覚をとぐる者もありぬ――像法一千年には正法のほどこそ無れども又過去現在に法華経の種を殖たる人人も少少有之(小乗大乗分別抄)

l      夫正像二千年に小乗権大乗を持依して其功を入れて修行せし人人は自依の経経にして得益思へども法華経を以て探其意一分の益なし所以者何仏在世にして法華経に結縁せしが其機に熟否あり円機純熟の者は在世にして成仏根機微劣の者は正法に退転して権大乗経の浄名思益観経仁王般若経等にして取二其証果如在世一れば正法には教行証の三倶に兼備せり像法には有教行無証今入末法有教無行証在世結縁者無一人権実二機悉失せり(教行証御書)

所が

l         (47)末法に入ては彼等の白法は皆滅尽すべし設ヒ行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず(撰時鈔)

過去に下種の有る本巳有善の機が無くなるから、乗種を説いでなく、唯乗種を引張り出す力しかない爾前迹門の諸経は悉く役に立たなくなり、消滅してしまふ。ここに於て末法化導の為には改めて下種をしなければならなくなる。即ち久遠元初の化導が再び行はれるわけで、その下種の法が南無妙法蓮華経であり、釈尊は法華経寿量品の文底にこの法を沈めて上行菩薩に授け日蓮聖人は上行の後身として末法の大導師として出現する。《68》以上が教相に於ける種熟脱三益の略説である。

末法に入っては下種の無い本末有善の荒凡夫ばかりだから下種一本槍の化導になり、下種の法華経は「三世の諸仏がこれによって仏になられた」(法華初心成仏抄)南無妙法蓮華経の七字である。これが御書御義の意だが本抄は如何、

第十五番勝劣は

(83) 彼は熟脱此は下種

と唯、下種説法の人法の勝を説くのみだが、住不思議顕観では、

(68) (再)口唱首題の理に造作無し今日熟脱の本迹二門を迹と為し久遠名字本門を本と為す信心強盛に唯餘念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即仏身也是を天真独朗之却身成仏と名く

又「問答釈」では、

  (71) (再)問て云く寿量品の文底の大事と云ふ秘法如何 答て云く唯密の正法なり秘すべし秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相にして一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益文上と申す也文底とは久遠実成名字の妙法を餘行にわたさず直達正観せしむるが事行の一念三千南無妙法蓮華経是也

  彼脱此種は彼此同文に近いが二十四番勝劣は明らかに種の法体勝を示し、本尊抄の方は文上時に約して寿量は在世適時の法、要法五字は末法適時の法と約機約時の当分勝を言ふに過ぎたいやうにみえるが、意は法体勝にあることは、

  (84) 天竺国をば月氏国と申仏の出現し給へき名也扶桑国をば日本国と申あに聖人出給ざらむ――月は光あきらかたらず在世は但八年なり日は光明月に勝れり五五百歳の長闇を照べき瑞相也仏は法華経謗法の者を治給ばず在世には無さゆへに末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此なり(諌暁八幡鈔) 艮2040

  (85) 序品の事 此の事は教主釈尊法華経を説き給はんとて先づ瑞相の顕はれたる事を云ふなり今末法に入って南無妙法蓮華経の顕はれ給ふべき瑞相は彼には百千萬倍勝るべきなり(日向記 日6)

等と人に約し法に約して下種の勝を言って居られるのであって、これを自分免許の教学でおさへつけて、「日蓮聖人が釈尊よりオレは偉いなどとおっしゃる筈が無い」と、ガチンと大前提を据ゑた上で解釈したのでは続かなくなるが実はあとで出す百六箇抄には「釈迦勝日蓮劣」の法門が出て来るので、この相反するやうな法門がどこで折合ふかは後の楽しみにとっておいて、今は文の上だけで読んで行けは両者は完全に接続する。却ち霊山出現の釈尊は始め劣応身を現じて小乗を説き、次第に勝妙の仏身を示して寿量品に至って自受用報身を示して説法された、所謂「応仏のイキをひかえ」た仏身で、これは脱益の化儀であり、寿量文底の法華経たる題目を説く日蓮の説法は久遠名字の真の本門の下種をする、釈迦よりも大切な仏だ、となる。

さてこの「久遠名字」だが、

  (86) 至理は名無し聖人理を観じて萬物に名を付る時因果倶時不思議の一法之有り之を名けて妙法蓮華と為す 此妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足してケツ闕減無し之を修行する者仏因仏果同時に之を得るなり聖人化法を師と為して修行覚道し給へば妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給し也(当体義鈔 艮992)

  (87) 十法界の依報正報は法身の仏一体三身の徳なりと知て一切の法は皆是仏法なりと通達解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故、円頓の教には次位の次第無し(三世諸仏総勘文教相廃立 艮1903)

と示された、円頓法華成仏の勘所たる「釈尊凡夫名字即の御修行」は、本因妙抄、

(79) (再出)釈尊久遠名字即約身位奉唱南無妙法蓮華経

(71) (再出)文底者久遠実成名字妙法ヲ餘行ニワタサズ直達正観事行一念三千南無妙法蓮華経是也

(88) 釈尊久遠名字即位御身修行ヲ末法今時日蓮名字却身二移セリ(様相15)

にあるものと義全く相同じである。但し当体義鈔では先づ法が在って、其を聖人が悟ったといふ法先仏後、法勝人劣の通途仏教の線を、妙因妙果倶時に感得すといふ因果倶時の法華独得の蓮華因果と共に併せて打出して居られ、総勘文鈔にも義は法先仏後の思想を見せて居られるが、本因妙抄では法先仏後の線を外してしまひ、法仏同体、因果倶時の純法華思想ばかりになる。即ちそれは

(89) 教の四重とは四には一心法界の教寿量品の文底の法門自受用報身如来の真実の本門久遠一念の南無妙法蓮華経(相6)

(90) 彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観 此は久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱ふ(相13)

 妙法とは久遠の元初に於て本仏の一念に有った本法南無妙法蓮華経であって、法は直に仏に具し仏は直に無作本有の法である。天台大師は一念三千の理は迹門方便品の諸法実相の文から取られたが義分は本門寿量品五百塵点劫以前成仏の本果自受用報身仏の悟りを指向された(内鑑冷然)。しかし日蓮は天台の更に奥に入って五百塵点を一層遡った復借上数(寿量品)の未だ本果荘厳の仏身を成し給はざる本因名字即の位に於て、因中既に仏果を成ぜられた無作本有の当体蓮華仏の修行たる唱題の行を直に唱ふるのだぞとて一段立入った仏身を示して居られるのである。即ちこれは明らかに当体義抄の延線上に在るものであって当体義鈔そのままではない。しかしここまでこなければ総勘文鈔の「名字即仏」も理論倒れになる。

菩薩を以て仏法の中心とするのが大乗の本質だといはれ、観音や弥勒の信仰は大乗と共に起り、日本に於ても伝教大師は薬王の垂迹、法然和尚は弥陀の化身といはれ、一遍上人は口から仏を吐くとされた。真言宗の人の唱へ言は南無大師遍照金剛であり、弘法大師は金色の毘盧舎邪を現じたといはれる。これらの伝説が客観的に真であったかどうかは今問ふ所ではない。日本大乗の指向する処は菩薩信仰であり、その菩薩も本地正法明仏たる観音、釈尊補処の弥勒、浄眼如来薬王であり、又弥陀大日の正法輪身たる法然弘法であって唯の凡夫僧源空空海ではない。この傾向の趣く処上行再誕日蓮の思想が出て来る事は最も自然であり、且、その上行を本仏釈尊の本因とし、因勝果劣にまで持って来てしまふのも思想発展の経路から言って自然なことである。唯、従来仏教の原則であった果勝因劣をひっくり返した所に問題がある。しかしこの論文の性質上、因勝果劣の法門が正しいかどうかといふことよりも、日蓮その人にこの法門が有ったかどうかを決める方が先決問題でなければならぬ。しかも聖人の前既に法然弘法を准の高僧としてだけではなく、生き仏視する思想が有ったとすれば、日蓮聖人自身に自分は仏だといふ思想が出て来てもおかしくはない。元々即身成仏を立てるのが密教の立前で、その線から弘法大師が仏とされるのは当然だが、日蓮宗もやはり密教である。この点は後に本尊法門を説く時に詳説するが、日蓮宗を唯、天台の系譜を受けて天台の一念三千と専修念仏の易行を結びつけたダケのものと思っては不充分なので、其は理の一念三千を受けて事の一念三千を立て、弥陀念仏の他土往生を法華念仏の娑婆即寂光に開き、達磨禅を如来禅に引き戻し、二百五十戒を受持一戒に搾ったと共に真言密教を足場として法華密教を立てた、いはば仏教の集大成が日蓮宗なのである。即身成仏を密教の目標として立てる以上、「唱導之首」が仏になってゐなければ一切の法門が画ける餅に成る。

ここで進行方向に立ちふさがるのが果勝因劣思想であり、特に日蓮宗では諸宗破折に用ひられた釈尊絶対主義である。法華経会上の釈尊は無量義経説法品にも今経提婆品にも荘厳身と説かれ、寿量品には五百塵点劫以前に果位に陛り、その前には復借上数の菩薩としての因行があったといふ歴劫修行果位の仏と示されてゐる。所が因行に仏位を認めないとすると復借上数の因行の時は法のみ有って仏が無いことになる。それでは三身常住三世益物といはれる本仏も、本無今有の迹仏とは唯、時間的に差が有るだけで本無の辺は変らないことになるし、涅槃に入れば荘厳相も消えるから今有でさへたくなる。三身常住を言ふ為には因行に仏位を認めなければ筋が通らなくなる。又当躰蓮華の法門は因中に仏果を論ずるものだから、これ亦因行に仏位を許すものである。さうなると嫌でも本因の位で既に本果が内蔵されねばならず、本因の凡位に仏ありとすれば一切衆生悉有仏性の大乗の通説(法華経の一念三千でなければ徹底しないが)と相侯って本覚法門に落着いて来る。しかし、天台の本覚法門の儘では森羅萬象悉くが本覚の仏になって理法身単体無用の仏が本仏だとなるばかりか、寿量品の一仏統一思想とくひちがふ。天台が方便品の諸法実相一念三千を表として、寿量品の久遠実成を裏にせざるを得なかったのは法界一仏たる釈尊を本覚法門にとり入れて、本覚法門に中心仏を造るキメ手を缼いたからだ。因中仏位の人として釈尊と同等の地位を要求しうる菩薩を今経に求めるならば末法悪世弘通の地涌大士の唱導之首上行菩薩以外には無い。然るに天台大師は像法の御出世で御身上行なりと説く名分が無い。上行を出せたなから凡夫己心の一念三千に止めるより外無かったが、日蓮聖人は末法の時を得、安徳天皇が攻め殺され三上皇が島流しになり、天台座主明雲が殺され、義朝が為義を殺し頼朝が弟を殺し政子が子を殺す、主師親子の倫地に堕した悪因の国を得、仏法が内乱の提灯持をし僧兵を養って無理を通し、仏弟子が教相を離れて仏法法海の白浪を立てる悪機を得、大乗の諸教蘭菊の理論を展開して唯法華経本門の大法を残すのみとなった教法流布の前後を得て、自ら法華本門を弘通して勧持不軽の大難を悉く色読して、教、機、時、国、序(教法流布の前後)の五義悉く身に傭はり、自ら上行再誕を宣言する充分な経証を得たからここに凡夫の相の中に本因の仏位を示す当体蓮華仏は自分だゾといふ自覚を発表することが可能になったものである。

かうなると聖人の仏位は釈尊の因位と少しも変らない。久遠の元初と末法と時は変るが仏としての内容は同じだ。そして果位を示した法華会上の釈尊は本因中既に本果を含む本因妙の仏が「成った」ものだから、却って本果は本因の逆となり、直接本因に連なる日蓮聖人に比べては劣となる。

しかし通行の御遺文はその方向は指し示すがその点までは誘導しない。

(91) 釈迦多宝の二仏と云も用の仏也 妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ 経云如来秘密神通之力是也 如来秘密は體の三身にして本仏也神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし凡夫は體の三身にして本仏ぞかし仏は用の三身にして迹仏也然は釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給と思ひしにさにては侯ばず返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫也(諸法実相鈔 艮950)

 體によって用はあらはれる。体は本、用は迹である。しかしこの凡夫が本になって垂迹の仏があらはれるといふのは

何と解釈すべきか。

(92)日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給べき所の妙法を先立て粗弘めつくあらはし給べ本門寿量品の古仏たる釈迦仏迹門宝塔品の時湧出し給ふ多宝仏涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を矢作り顕し奉る事予が分斎にはいみじき事也――地涌の菩薩のさきがげ日蓮一人也――末法にして妙法蓮華経妙の五字を弘ん者は男女はきらふべからず皆地涌の菩薩の出現に非んば唱へがたき題目也日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが二人三人百人と次第に唱へつたふるなり未来も叉しかるべし是あに地涌の義にあらずや(諸法実相鈔 艮954)

この御書はまだ佐渡期の御書だから上行再誕法門は隠文顕義の記述にすぎないが(佐渡正宗分説は田中智学居士の提唱以来定説化してゐるが、後に説く如く間違びである)、それで凡夫本仏説といふのは一往天台の本覚法門を叩きこまれてゐ最蓮房の機に応同して説かれをので、実は本因本化説であることが前の口決と連絡させれば看取される。荒凡夫を本仏といふのは仏知見の上での談で単体無用の仏は仏とはいへない。本因の仏位にある地湧上行ならば倶体倶用の仏であり、その上行の弟子たるものは単体無用本覚の体仏を開いて倶体倶用の仏になることができる。

(93) 所詮妙法蓮華当体と法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是也――正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱る人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じ三観三諦一心に顕れ其人の所住之処は常寂光土也能居所居身土色身倶体倶用無作三身の本門寿量の当体蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事也(当体義鈔 艮199)

意は前書と変らぬが即身成仏は更に強調され、その上、本門寿量の当体蓮華仏の相貌が明きれてある、寿量の仏といへば釈尊以外にないといふのが常識だが、ここでは無作三身だといふ。三大秘法鈔では

(94) 問所要言之法者何物ぞ耶答て云く其釈尊初成道の初より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立て略開近顕遠を説せ給し涌出品まで秘せさせ給実相証得の当初修行し給し処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字也 教主釈尊此秘法をば三世に無隠普賢文殊等にも譲給ばず況や其以下をや されば此秘法を説ぜ給し儀式は四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき 所居の土は寂光本有の国土也能居の教主は本有無作の三身也所化以て同体也かかる砌なれば久遠称揚の本眷属上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召出して付属し給(艮2051)

とあって、釈尊は無作三身とあらはされてゐて当体義鈔と全く同じ表現がとられてゐるがこの無作とは天台では法爾自然のことであり、聖人の解釈では、

(95) 如来秘密神通之力の事

御義口伝に云く無作三身の依文なり此の文に於て重重の相伝之れ有り神通之力とは我等衆生の作作発発と振舞ふ処を神通と云ふなり獄卒の罪人を苛責する音も皆神通之力なり生住異減の森羅三千の当外悉く神通之力の体なり今日蓮等の類ひの意は即身成仏と聞覚するを如来秘密神通之力とは云ふなり成仏するより外の神通と秘密は之れ無きなり(90)

これは荘厳無しといふことである。といふのは、

(96) 今日蓮等の類ひ南無妙法蓮華経と唱へ奉る男女貴賎等色心本有の妙境妙智なり、父母果縛の肉身の外に別に三十二相八十種好の相好之れ無し即身成仏是れなり(日向記 日16)

と言はれたことからも動かせない。然るに法華経涌出品には地涌大士を身者金色三十二相無量光明と言ってゐるから相手の釈尊も無量義経や提婆品の時と同様荘厳身と見ねばならない。その荘厳身の釈尊を無作無荘厳の仏身と教相外れとも見られる事を何故言はれたか、其は本果荘厳身の裏に本因無荘厳身を見て居られるからに外ならぬ。然らばこれも法華経文上の本果を開いて本因を勝とする義である。

更に文底といふ言葉は自受用身(無作三身を特に報身に主づけて言う)の真実の本門であると言ふのだが、この言葉は遺文録には開目鈔にしか出て来ない。

(97) 一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり(艮751)

これで天台張の法門をやった人は、この一念三千を天台の其と同しものだと早合点して、聖人の一念三千は唯天台所得の一念三千を十観十乗の観法よることなく、但唱口唱の観法に依って得る、得るものは同じだが得やすくしてあるのだと、教同行異を立てて満足するのだが、天台の一念三千は方便品の諸法実相十如是からて来るので、本門寿量ではない。更に本因妙抄になると本因自受用身の真実の法門だといふのだからこちら本果寿量の説法ではなくなるのかといふと、さうではない。本果本因と分けても互いに表裏となって因果具時なのだから、本果は裏で本因の説法をする。即ち本果寿量の文底に本因の一念三千があり、本因の一念三千の裏には本果の寿量品が控へる。そうすると本因の法門とは南無妙法蓮華経だから本因の一念三千とは本門の題目のことであって、天台所説の一念三千そのままではない。

(94)(再出)釈尊――実相証得の当初修行し給し処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字

であり、三大秘法は本尊の一大秘法に結帰するから、

(98) 貧人見比珠其心大歓喜の事、仰に云此珠とは一乗無價の宝珠なり――末法入て此珠とは南無妙法蓮華経なり――此珠と我等衆生の心法なり書仍て一念三千の宝珠なり所謂る妙法蓮華経なり 今末代に入りて此の珠を顕はす事は日蓮等の頬ひなり 所謂柔未曾有の大曼茶羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ(日向記 日49)

而してこれは天台伝教の説かれなかった法である。

(99) 一念三千の法門をふりすぎたてたるは大曼荼羅なり――天台妙楽伝教内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一番(無非中道)とののしり(前代未聞)惑耳驚心とささやき給て妙法蓮華経と云べきを円頓止観とかへさせ給さ(草木成仏口決 艮746)

この問題は日蓮宗の法門の根本をなすことでいくら論じても論じ尽せるものではないから、今ここでは本因妙抄にある「本因妙」思想とは何かといふことと、其と通行の御遺文との関係を明かにするに止めて、次の百六箇抄の時再び取り上げることにしやう。

このやうに、本因妙抄の思想は通行の御遺文にもあるもので、更にそれを掘下げてある。通行の御遺文を、本因妙抄から見て行けば思想の共通は有るが、御遺文だけを見て、本因妙抄に橋渡しをする意識をもたたければ、共通点はボヤケて来る。マツテ始めから「富士門徒の捏チ上ゲ法門と偽造両巻血脈を折伏する。」つもりで読んでは全然新しい突拍子もないやうな事が書かれてゐるやうに思はれる。それ程対立意識をもたないでも、御遺文に書かれてある以外に日蓮聖人の法門は無いと大前提を据えて掛れば、本抄は聖人の思想では無いやうな気がする。

これと同じ事が位前佐後、佐渡身延の問でも起りうる。位前の遺文のみを見てこれが日蓮宗だと思ったら佐後の遺文は偽書と見たくなる。位前の聖人は天台の復古論者であって日蓮宗の建立者でない。佐渡では上行再誕も三大秘法も顕説せず、本尊の形式も一定せず、身延に至ってこれらの法門を完全な形で説き出された。唯これらの相対は真蹟遺文の現存が有る為に比較研究の便があり「譲の先判を捨てて後判を取る」ことが可能だが、今の場合は一方が口決なので始末がし難い。その為に今迄諭ぜられながらも決薯がつかなかったのだ。

本因妙抄が聖人の思想ではないといふ判断を立ててから、改めて文献学的に本因妙抄を偽書だと立証する資料をかき集めてゐたのが従来の宗門史家の多くが取った誤れる道だったのであって、三秘鈔偽書説なども結局これと同じ論理の産物である。

教学を足場にして聖典の真偽判をするといふ従来主用された方法も必要だが、それでは自分の教学の枠内に入らぬ聖典に逢ふと行詰ってしまふ。叉算書視する人も、偽書論考の教学を叩くだけで肝心の真書論そのものは何等人を納得させうるものが無くて、言ひつばなしになる。私が史学的方法を先に廻したのは、かういふ過を避ける為だったのである。

 

 

 

2 百六箇抄

本抄については本因妙口決のやうなものが無いから、古い註釈書の存在で証明するやうことはできない。奥付に弘安3年の聖人の御判、正和3年「日興示日尊之」康永元年「日尊示日大日頼之」等の書込が有るが、師は之等に疑義ありとして二線を引いある。古写本は要山日辰、房山日我等の、稍、後世の方々の筆になるもので、それまでに亨師の所謂二線分が攙入することも考へられるので、これらの年号をそのままに史料とすることも躊躇されるから、この奥書は措いて、古書に多少本抄との関係が見うるものがあるから、それを手掛りに考察を進めて行くことする。

 

 

イ 古書に探る百六箇抄

 三位日順師の日順雑集中に「従開山伝日順法門」(要義一143 学二380)が有る。この本は文安4年(聖滅166)日安師が重須の本を借りて写したと奥書にある。この人は小泉の日安師と思われる(1)。入文に興師が身延に御堂造をしたこと(地引御書(艮2080)に十間四面の大堂建立の件が出てくるから新造ではない。聖人の住房になっていた弘安4年11月建立の堂が、御遷化の事などで荘厳が延引してゐだのを、興師が仏堂らしい形にととのへたことをいふのだらう)、寂仙澄師と日興師の問答など、興師に親しい人でなければ書けそうもない文が有り、法門にも順師のものとして差支のある所は見付からぬ。もっとも書取り文ばかりで順師の特徴たる華麗な筆致も畳み込むやうな諭鋒もない。

 この書の終りの所に、

(100) 口伝云迹門十妙ハ従因至果廃立於眷属妙口伝有之

      又口伝云本門十妙ハ従本垂迹ノ十妙也十妙一々ニ口伝有之

      六重本迹之下

一 理事本迹  ロ云云本覚上事理也本覚上真諦為理本覚上俗諦為事也

二 理教本迹  口伝云上理事共為本是名理今教為迫也

三 教行本迹  口伝云教為本行為迹也

四 体用本迹  口伝云依上修行得法身本為本従法身起応用為迹也

五 権実本迹  口伝云法応ニ身倶為本中間非生現生非滅現滅為迹也

六 已今本迹  口伝云上五重三世常恒本迹習也第六已今本迹付今日一番化導分別本迹也

 相伝云今日顕ルル処ヲ為本前来ノ已説ヲ為涌出寿量ノニ品ノ外ヲバ皆迹二順スル故也ト云云此ハ秘事也秘事也可秘々々(学二392 要義一159)

これを百六箇抄の十妙と六重を扱った文と比較してみよう。

  45 脱益十妙本迹  本果妙本九妙迹也在世与天台也機上理也 仏本因妙為本 所化本果妙を本卜思ヘリ

  46 脱益六重所説本迹  已今為本餘迹也 本迹雖殊不思議一云云理具本迹ナレバ一部倶迹上本為迹為(要相24 学二17)

  50 下種十妙実體本迹  日蓮本因妙為本 餘為迹也 是真実本因本果法門也

  51 下種六重具騰本迹  日蓮脱六重為種迹六重為本也云云 (要相34 学二25)

 

前者でいふ「従本垂迹」の本は、百六箇抄の意でいへば本因妙で、迹は本果妙であり、日順雑集の己今本迹の註にある口伝の意は後者に依って明示されるし、前者は後者ほど種脱法門を前に押出してゐないで、本は涌出寿量といふ、

 一品二半に近い線で止めてあるから同程度の口伝だといふわけには行かないが、項目を次々と挙げてその下に口伝を註してゐる形が似てゐるし、特に勝劣といふかはりに本迹といふ用法の、全く特殊なものが共通してゐる。

 同じ日順雑集の中に雑肝見聞がある。これも文安四年日安師の写で、同一人同時の写だから、前と関係させて信用してよいだらう。この本に大変なことが書かれてゐる。

(103)此日本国ハ久収ノ上行菩薩ノ顕レ玉フベキ也然二天竺ノ仏ハ迹仏也 今日本国二顕レ玉フ可キ釈迹ハ本仏也(要 義一172)

  (学本には無い。編纂が古い為まだ亨師が人手して居られなかったのだらう。)

上行が久成の菩薩だといふのは既に天台の釈が有るし、上行再誕も良卜としても、印度出現霊山説法の仏は久遠実成の本仏ではなく、日本に本仏釈迦如来が出現ましますといふ、所謂日蓮本仏論として知られているものである。そして

これと表裏になる説が百六箇抄に出て来る。

十一 説益妙法教主本迹 所説正法本門也能説教主釈尊迹門也法自不弘人弘法故人法トモニ尊シ

十二 脱益今此三界教主本迹 討特認驚言靉

十六 脱五大尊本迹 受用応仏本普賢殊弥勒薬王迹也   (要相20 学二13)

十二 下種法華経教主本迹 自受用身本上行日蓮迹也我等内証寿量品者脱益寿量文底本因妙事也其教主某也

十三 下種今此三界主本迹 久遠元始天上天下唯我独尊日蓮是也久遠本今日迹也三世常住日蓮名字利生也

十八 本門五大尊本迹 久遠本果自受用報身如来本也上行等四菩薩迫也(要相20 学二21)

 

 ここで百六箇抄の本文が若千出て来たのを機会に、本抄の形を一寸説明しよう。本抄は脱益に五十一、下種に五十六合せて百七箇条(山上三郎氏の説では百六と百七の相迹は開合のちがひで、内容的には百六箇になるといふ。この件は同氏の将来の発表に委ねて贅言せぬ)に約して、其々本迹を弁別する間に種脱法門を詳説してゐる。詳説といっても「法器の人」を相手にした書取り文だから甚だ難解である。又、口伝の常として若干の変形又は後註と思はれる処も見られ、特に巻尾の後加分は著しい。もっとも本因妙抄とちがって形が特殊なので、後加分は識別し易い。

 さて、引用文の大要を言はば、霊山脱益の御説法では、人法は相資相成の関係に在るとはいふものの、所説の正法は本、能説の教主は迹で法勝人劣である。脱益ではいまだ法を悟って仏になったといふ、法先仏後の形をして居られる)。その天上天下唯我独尊の釈迦、即ち摩耶出胎七歩あるいて天地を指して大宣言を行ったといふ印度人シャーキャ族のムニは迹、譬喩品で三界の主と宣言し、寿量品で久遠実成を説いて五百塵点劫の悠久の久迹以来、常説法教化の本仏なるぞと開顕せられた釈尊はその本地である。而て久遠実成を明さぬ時、即ち寿量品を除いた法華経の教主(文には地涌の在座は八品だが、久成の説は寿量にしかないから、八品は剋実して寿量に奪はれる。観心本尊紗の意に依る)はいまだ自受用身でない。他受用勝応の仏身であって、その脇士は普賢等迹化の四大士である(3)

 然るに下種の御説法に於ては如何といふに、もはやこの仏は正法との間に人法の勝劣を諭すベき仏ではない。霊山脱益の寿量品にも顕説せず、その文底に秘沈された下種本因妙の法門南無妙法蓮華経が、即ち無作三身如来であり且実相証得当初の一念三千である。人法は而二にして不二、不二にして而二である。その久遠元初無作本有人法一箇の自受用身が、或は霊山に上行とあらはれ、或は末法に日蓮とあらはれたので、下種法華経の末法に於ける説者は誰かと言へば日蓮以外に無い。雲山出現の釈尊は文底の法華経をお説きにならなかったから、文上の教主ではあるが文底の教主ではない。貫名重忠の妻、梅菊の胎内から出た文底法華経の教主は日蓮である(4)。釈尊は法華経の教主、法華経の教主は釈尊。然らば日蓮は釈尊であり、天上天下唯我独尊の人である。久遠元初自受用報身如来は三身常住三世益物の仏だから常に垂迹身を娑婆世界に遣して法華経を説くから、それを悉く釈迦と言っても曰蓮と言っても良い。

そしてその説法は熟脱両益には荘観の仏身だが、下種の化導では常に三十二相を示さず、瓔珞細軟の上服を脱卜で廉弊垢膩の衣をまとひ、示同凡夫して行はれる。分真究竟の高位をあらはさず、名字の低位に即仏の智恵を包む(6)。このやうに最も高貴な仏身を本地としながら、あらはれる時は尊高を隠すから(7)、霊山に於て本果身の尊高を示される釈尊の前には、本の師位を譲って迹の弟子位をあらはす(8)

(1)日順雑集中観心本尊鈔見聞の巻尾に、

重須寂仙坊遺弟南坊御弟子自大和公借用中写之

文安3年丙寅12月22曰主小泉蓮台坊曰安師は富谷曰震氏曰宗年表に(要羲一143)享徳3年6月21曰小泉の代官となったとある按察阿曰安と思はれる。按察阿は長享元年75才で寂してゐるから享徳3年には42才文安3年には34才となって時代も良く合う。

文安4年7月28曰安房ヨリ当寺二帰テ(同190)

文安4年4月ー15−安房妙本寺御影の御前ニ寿量品ヲ始テ(同194)

などの夢想の記事が写本の後につ卜て居り、大石寺日有師と親交が有ったらし卜夢想もあるから、間違あるまい。小泉久遠寺を開いた人と伝えられる(但し寺の歴世は曰蓮聖人に始まるから9世になる)。先代永師の寂は寛正元年で文安4年から14年目だが、前記の夢想で見ると既に文安4年に貫主格にあり、それでゐて方々飛廻って秘書を写した好学の学匠である。

(2)肩の小数字は亨師は後加だと言って居られるが、見出しの役に立つから削らなかった。

(3)脇士にょって仏の位を示すことは、観心本尊鈔(艮940)に在り、文殊等を脇士とする仏は権大乗涅槃法華経迹門の仏、本門脱益の釈尊の脇士は地涌四大士、本門下種の釈尊の脇士は脱益の釈尊と証明仏の多宝といふ。下種釈尊の脇士か脱益の仏とすることは後に詳説する。

(4) 法華経論116本田義英

地涌とは印度学の立場に於て「母の子」即ち人間を意味する文学的表現である――蓮華は古来諸論師の見たる如く妙法そのものの直接なる譬喩でなくて、妙法が実践の形に移されたる当体に対する譬喩である。

本田博士の説では、法華経は「教」を説くよりも「菩薩行」を説いた経であるとされる。即ち法華経の主役は釈尊であるといふよりもむしろ地涌である。地涌が生きた実践としての法華経を展開するのが法華経の真意だ。但し博士はその法そのものは般若と変らな卜ものとして居られるので、その点では曰蓮聖人とは異るやうだ。

(5) 信解品

(6)四信五品鈔(艮1538)

予が意に云く(相似十信鉄輪の位、観行五品の初品の位、未断見思或は名字即の位)の三釈の中名字即は経文に叶ふ歟名字即とは円教修行の次位第ニにあり

理即仏(理からおせば仏心が、当人は自覚していな意。所謂性種のみを心つだ者)

名字即仏(法華経の一字一句を聞き、心に随喜を起す、初聞法位に直に成仏を許す)

観行即仏(随喜し終って修行を始める位)

相似即仏(修行が進んで菩薩らしくなってくる位)

分真即仏(仏に似て来て、分には仏と同じになった位)

究竟即仏(成仏の位)

天台は修行の階梯に六即を立て、その各を仏知見では仏であると立てたが、日蓮聖人は観行以上を要せず、名字の几夫の仏で即身成仏をすると立てられた。従って能化の仏も究竟即仏の高位を示すことなく、名字の凡夫形で出世される。

(7)天台の釈に教弥実位弥下とあって、教が高ければ高い程、所被の観は低くて良いことを言はれた。世間の学問と完全に逆である。高い法は救済力が強いから最下の観でも救いうるのである。而て説者亦低い位で出るから、霊山の会座にもわざと仏位を示さない。

(8) 一には釈尊の外に仏があっては説相が破れる(実は同一仏の二身巧用の神通力なのだ)。しかし教相にも父少子老の文を示して暗に地涌勝釈尊劣を説く(涌出品)。

 猶これに蛇足をつけ加へておかう。久遠元初といふ古い昔、――といふことは始めもなく終りもないといふことだ――から存在する宇宙的言性=本仏は、一々の衆生の己心中にも瀰漫してゐると同時に、一つの統一的智慧身であって、この瀰漫性を説卜たものが華巌の心仏及衆生是三無差別の文、その理論を徹底したのが法華経迹門の諸法実相であり、統一的智慧身の存在を広大な他受用身として示したのが華厳、他土に約して説いたのが無量寿経、人間と関係のない身相として説いたのが真言の大日法身、過去出世の仏としてウスハに示したのが今経化城品の大通仏で、その仏こそ今の悉達多といふ人間の上にあらはれているぞと、その宇宙的霊性が一つの人格の内に実現してゐること、即ち本仏の応身(これは通途にいふ劣応勝応の意ではない。人間として娑婆世界に応同した報身仏でシカモ随自意の説法だから自受用身である。唯、一には曾て三蔵の応仏と示したが、故に一には肉身の上に自受用を示したが故に応身といふ)を示したのが寿量品で、ここに至って遠くは五百塵劫の久遠に至り、広くは十方三世の諸仏を眷属とし、近くは19出家30成道(異説もあるが今はどっちを取っても問題にはならない)の人間として出現した。偉大にして身近な仏が説かれたがまだその仏は五百塵点劫以前復倍上数の因位に於て歴劫修行し、長年の間に無量の功徳を積んで百福荘厳の相を得、本已有善中間退転の機である修行の積んだ仏に成り損ひの聖者に対して最後の仕上げをする。脱益の化導をする本果の仏として、本仏所具の仏果をそのままにあらはして見せ、仏身は尊高だが所説の法は本法そのままでなく、本法を裏に隠した寿量品としてお説きになった。即ち釈尊は人間として出ながら人間を離れ、聖者でなければ分らない法華経、天台の所謂相似観行の位にしてはじめて理解しうる形で本法を教へられた。

 然るに日蓮聖人の場合は本仏の九界を示す(1)。この仏身は遠く五百塵点を過ぎて因位復倍上数の当初、久遠元初に至り、広くは十方三世の一切衆生を眷属とし、近くは戒を持たず(2)王の子でもない平凡な民としてあらはれ、久遠劫来六道に流転した名字即の荒凡夫の身を取り、本未有善未聞仏法の機に対して下種初随喜の化益を与へる。本仏所具の仏因を実行して見せ、仏身は卑小(3)だが寿量品の文底の南無妙法蓮華経を直に説く、名字即の位で即身成仏しうる法を教へられる。所説の法は却って根本法華であり、法華経八巻に顕説されない文底の要法である。脱益は衆生救済といっても已に下種したものに仕上をするだけだからその功は却って下種に奪はれる。下種とは衆生の心田に乗種を下す済度そのもので、真の説法は下種に限られる。本地自受用身はソノママでは衆生済度にはお出ましにならないから――凡夫の感覚に入らないから出た所で仕様がない――本因妙の凡夫身が衆生の感見に約すれば最高の仏身であり、これが最も本極の仏身に近い。衆生からは本因妙の垂迹身以外に本仏を拝することはできぬ。そこで本因妙の教主仏といふ義分を生ずる。この蛇足分は一々出典を引かなかったが、本因妙抄を論じた所の引用も、今後の引用も、殆どすべての遺文口決がその出典である。本来ならこれは富士の法門を紹介し終って後に結論部で述べるべき処なのだが、この法門は今まで全然学界に姿をあらはしてゐないから、富士門徒以外はどんな学者でも御存知でない。むしろ学者ほど過去の知識に妨げられて理解しにくい。それだから順序は逆になるが導入として略説したのだ。

 右の如く、富士では普通理解される釈尊から一重立入った釈尊を立てる。即ち、

 1 印度人ゴー夕マシッ夕ルダ 凡夫

 2 小乗釈迦 劣応身 伽耶始成の仏佗 

 3 大乗釈迦 勝応身

 4 法華経迹門釈尊 他受用身(4)

 5 法華経本門文上釈尊 他受用荘厳身に約して示された自受用身 応仏昇進自受用

 6 法華経文底釈尊 本地自受用身(無作三身) (久遠元初釈尊・南無妙法蓮華経如来)垂迹上行日蓮 示同凡夫

の6種7類を立て、第6を本とし、餘を迹とする。日蓮宗でも5と6を分けなかったり、分けても明瞭に分別しない人々から、第6の日蓮を勝とし、第5の釈尊を劣とするのでスワコソ富士魔族と殴り込まれるのだが、6の中で本地自受用身を釈迦と呼べば、釈迦勝、日蓮劣となるので、釈迦本仏論の線が毀れてしまったわけではない。釈尊といふお名前を日蓮聖人は色々に使い分けておいでになるから、其を良く分別しておかないと、この論議は永久に果しなく続く危険がある。

 さて、百六箇抄の所説右の如くたとすると、雑肝見聞の思想はこれと同じで、その種本は外に見当らないから百六箇抄がそれに当るのではないかといふ線が出て来る。それでは外の日順師の作にこれと同し思想が無いかと探してみると、最前の本因妙口決に、

(106) 尋云(二十四番勝劣)第二十四 彼応仏昇進自受用報身一念三千一心三観此久遠元初之自受用報身無作本有妙法ヲ直二唱フト云ヘル其意如何答応仏昇進自受用報身一念三千一心三観者今日釈尊ハ三蔵教教主次第次第通別円卜昇テ迹門十四品中法師品マデハ劣応身也(5)宝塔品ヨリ他受用報身トナリ寿量品ニシテ自受用報身卜成り給所説法門従因至果迹門也本卜八云ヘトモ迹中之本ノ本門也一念三千モ一心三観モ理位ノ観行相似等卜能所共ニ昇進スルヲ立ル也 此ハ久遠元初之自受用報身無作本有妙法ヲ直ニ唱ト者無作本有妙法法中最上甚深之秘法也此法八最下劣ノ機ヲ済度スル也最下劣ノ機ヲ引導スル時ハ我身ヲ下機ニ同シテ利益スル也故ニ高祖凡夫卜下テ理即我等ヲ済玉フ也教弥実位弥下卜云ヘル是也 久遠元初ノ自受用報身ト者本行菩薩道ノ本因妙ノ日蓮大聖人ヲ久遠元初ノ自受用身卜取定可申也云云 テリヒカリタル仏ハ迹門能説教主ナレハ迹観熟脱二法計ヲ説玉フ也教弥権位弥高トイヘルハ是也(学二311 要義一126)

が出て来る。前の蛇足分と大体同じだから別に説明も要らないと思ふが「昇進」とは所説の法が高くなるにつれて能説の仏身も高くなることを言ったものである。それでは教弥実位弥高になってしまふと言はれるかも知れないが、迹門までは皆歴劫修行脱益の観に対するから教と位は関数的になり、本門は本未有善の観。滅後も凡夫か所対だから位が下る。ここでは聖人の凡夫身を目して自受用身といってゐるのが注目されるが、順師にはまだ、

(107)抑日蓮聖人者忝モ上行菩薩後身当時利益大権也――本尊総体之日蓮聖人(表誓文 要義一32 学二340 本書もと表白文に作り後現題に訂正す。)

(108)霊鷲山天台山比叡山八共二法華弘通地也雖然彼皆垂迹未顕本其故ハ天竺ヲ八月氏卜号ス即月ノ国ナル故也漢土ヲハ名震旦星ノ国タルニヨテ也随テ天台山ハ三台星ノ所居卜申也我朝ハ本仏ノ所住ナルベキ故ニ本朝卜申月氏震且二勝タリ偽テ日本ト名ヅク富士山ヲハ或号大日山又呼蓮華山此偏ニ大日本国ノ中央ノ大日山ニ日蓮聖人大本門寺建立スヘキ故ニ先立テ大日山卜号歟将。又妙法蓮華経ヲ此処ニ初テー閻浮提ニ可流布故ニ蓮華山卜名歟(表白義一9学二317)

などがあり、聖人を上行後身とする諸門通同の義と共にその上行が唯の菩薩ではない、勝釈迦の本仏であるとする。本因妙抄にはこれほど明瞭には打出してないから、他の未公開の相承を仮想するのでなければ、この文証は百六箇抄とするのが一番納まり易い。

 ここまで来れば更に遡って「五重円記」学二88)にもその徴候を見出すことができる。この書は学本の奥書に依れば岡宮日賀師が光長寺の蔵本である興師の御直筆に依って写したものだといふ。賀師以外に直筆たることを証明する人が無い。元禄14年現在嘉伝房日悦師が写した時には光長寺に在ったといふが、昭和25年発行の「光長寺参詣之栞」には記載されてない。これは観光の広告に近いものでかういう俗受けのしないものは記載しなかったとも考へ得るから、これに無いといっても無くなってしまったとも言ひ切れない。今は真跡鑑定は時の至るのを待つより仕方がないので、入文に特に引掛る所も見当らないから一往賀師を信用しておかう。著作年代は元徳とも元弘ともいふ2年9月10目で日興病中の作である。師の寂は元弘3年(正慶2年)だからその方の不都合は無い。

 この本は円に就いて権、迹、本、観心、元意の五重を立てて、その上で法門を沙汰する口伝法門の註記で、五重の円を悉く破し終ったあとで、当家の法門は、

(109)観心ノ上立二元意夫ト者上行所伝ノ本門ハ自(著者註、事か)行ノ要法是也――元意ト者本因妙所修ノ法体也――本門ノ観心ノ円ト者事ノ一念三千円也――本門元意ノ円ト者事行ノ妙法蓮華経是也(学二91)

と同じく本因事行題目を立ててゐる所は、順師ほど明瞭詳細ではないが、やはり同じく本因妙主義である。

 このやうに百六箇抄は、宗門の上古に明かにこれに言及したと思はれる史料は管見に入ってゐないが、これと関係の深い思想や表現には例無しとしない。さうすれば百六箇抄そのもので無くても、他にその原典が有る筈だし、その原典が差し当って見当らなければ、それが見付かるまで、百六箇抄が原典であり、従って宗門の上古――興師順師の在世中に実在したと言って差支あるまい。これが順師に知られていたことは確実であり、賀師を信用すれば興師の自筆本とも関係が有ると見られるのである。

に分けられ、その心法から発する業に依って各十界の果報を得る。而て一界各個に十界を具足するから百界となり、百界各が相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等の十如是に働くから干如是、その各に五薀国土衆生三種の世間を具して三千世間となる。この三千世間が凡夫の一念に具するとするのが天台の一念三千である。仏にも三干あり、凡夫にも三干あり仏か所具の三千を仏界に約して示したのが本果妙であり、餘の九界に約して示すのが本因妙である。

(2) 日蓮宗も受持の一戒を立てるから全く無戒とは言へないが、五戒乃至五百戒の小乗大乗の普通戒とは無縁であることを末
 法無戒と立てる。 

聖人は飲酒されたから

小乗五戒八斉戒、十戒中の不飲酒

大乗四十八軽戒中の飲酒

又折伏の化儀だから必然的に

大乗十重禁中不自讃毀他と不説四衆過罪

辻説法をなさったから

小乗百衆学中人持杖不恭敬不応為説法等大乗四十八軽戒中説法不如法

そして法華経迹門の四安楽行戒も破って居られる。これは本門超悉壇の化導には権小の戒律が邪魔になり、持戒の為に却って受持の大戒を破ることになるからでもあるが、又、名字即の凡夫たることを示す為でもある。涅槃経の置不苛責戒を持たうとすれば華厳の四十八軽戒は捨てねばならず、飲酒が破れれば小乗戒は悉く破れ、小乗の戒を持たないことを宣言したことになる。

(3)妙音品に云く、浄華宿王智仏妙音菩薩に告げたまはく、汝彼の(娑婆釈尊の)国を軽しめて下劣の想を生ずること勿れ。

彼の娑婆世界は高下不平にして土石諸山あり穢悪充満せり仏身卑小にして諸菩薩衆其形亦小なり

(4)観心本尊妙(艮940)には、

小乗釈尊 迦葉阿難脇士

権大乗涅槃法花経迹門釈尊 文殊普賢等脇士

本門釈尊 地涌四大士脇士

妙法蓮華経(如来)釈迦多宝脇士の四種を立てる。<140>の本囚妙口決と比較すれば、

となる。開合与奪の相違で本質的にはちがふものではない。

 

 

 

 

ロ 百六箇抄の内容の批判

これは別項で少し扱ったが観点をかへて、通行の御書との関連を考へてみよう。

(110) 脱益感応本迹(久遠之天月

久遠の天月は自受用身だ、御義口伝によれば、

(111) 如来とは釈尊、惣じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類ひの意は、惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり 無作の三身とは末法の法華経の行者なり 無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり

で、本地妙法蓮華経如来の寿量を教へたのが寿量品であり、妙法五字が本仏だから、

(111) 釈迦多宝の二仏と云も妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合給ふ(諸法実相鈔)

と釈尊脱益の説法は久遠妙法如来の迹とされる所は全く同じである。但し諸法実相鈔では五字と迄言って、それが仏であるといふことは御義口伝をまたねば分らない。

(112) 事一念三千一心三観

唱るとは用だ、相だ。さうすると釈迦を始め十界森羅三千の相性体作は南無妙法蓮華経に帰するといふことが、同じ実相鈔の少しあとに、

(113) 実相と云は妙法蓮華経の異名也諸法妙法蓮華経と云事也地獄は地獄のすがた凡夫は凡夫のすがた萬法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体也と云事を諸法実相とは申他

この外にも

(95 再出) 獄卒の罪人を苛責する音も皆神通之力なり生住異減の森羅三千の当外悉く神通之力の体なり(御義口伝)

など類文は多いが略す。さて、その南無妙法蓮華経の仏を説明しては

(113) 久遠実成直體本迹

 久遠実成の仏そのものとは何か。久遠元初の名字即の凡夫身、童形ともいふべき無知の位に直に宇宙根本の妙智を備へたまふ仏が本仏であり、究寛即の仏身をあらはした釈迦は、三世十方の三変土田来会の諸仏に望めては本だが名字童形の本仏に対しては迹となる。而て日蓮の修行は久遠名字のそれを移したものである、といふ。この域に至っては流石に通行の御遺文には稍距離のある文証しかない。

 (116) 究克円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらさんなり(慈覚大師事

(117) 涅槃経三十八云爾時一切外道策威作是言大王今者唯有一大悪人懼曇沙門――以在世推滅後一切諸宗学者等皆如外道彼等云一大悪人者当日蓮――彼外道先仏説教流伝之後謬之後仏為怨今諸宗学者亦復如是(寺泊御書)

仏でなければ法華経の敵は分らぬ。それの分った日蓮は仏である。釈迦は先物、余は後仏といふ程度で、唯釈尊と同列に置くだけだが一仏世界に二仏並出しては仏法でなくなる。必ず何れかが主となり他が伴となるるべきで、

  (118) 教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五巻を以日蓮が頭を打十巻共に引散りて散々に蹋たりし大過は現当二世にのがれがたくこそ侯はんずらめ(下山御消息)

(119) 末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり法とは題目なり仏とも云はれ叉凡夫僧とも云はるるなり(御義)

仏より行者の方が重いことは法師品に逆者得罪を説くに縁して説かれてゐるが、その意は本因本果の本迹を以てしなければ解けないであらう。末法に於ける仏とは凡夫だといって、名字童形久遠の下種行を行ふ日蓮その人だと迄行かねば、天台の本覚法門で止ってしまふ。まだ釈迦仏に勝ることは日向記にもある。

このやうに百六箇抄と共通する思想は御書の随所にあげられる。モット沢山あるがそれは日蓮本仏論を正説する時までとっておき、トニカク今ここでは、百六箇抄が全然突飛なものでないといふことだけ言っておく。

翻て本抄を形式方面から考へれば、やはり本因妙抄と同じことが言ひうるので、

1 種脱論がやかましくない時に、ワザワザ種脱論をもち出して、一致勝劣論を一層ややっこしくしてしまふ必要はないし、

2 種脱論に使ふなら御書形式で偽造しなければ振り無しにくいし、

3 相伝といふ形で、コッソリ放出して、それを見付けた人が騒ぎ出すの待たうといふ高等政策なら、他の諸山に要るやうな形にして(3)理解されやすくするべきで、こんな特異な形にしてはならない。

4 叉、こんな難解な文章にするのも利口でない。

5 その上流布本には本文と天地もただならざる愚劣な書きこみがしてあって、下手をすると逆効果になる。

だから本抄を偽作しても引き合はない。若し何か為にする所有って本抄を偽作した者が有れば、其の人はヨホドの愚物か暇人で、又そんな人物にはトテモ考へつかないやうな、普通の仏教々学では歯の立たない位の、思ひ切った内容が盛られているのである。

(3)既に本抄が順師の著作に影響してみることが分っているから、諸山の口伝法門が発表され出す以前に出来て居たと言ってよいが、百歩を譲ってその頃偽作されたものとすれば他の口伝と形式を揃へるべきであろう。

本文の追加分に就いて少々考へておかう。始めの具謄本種から日蓮詮要までの文の大部分は「弟子日興授与之」「脱種合一百六箇有之」を除いて亨師は一線分としてあるが、その理由はよく分らぬ。唯、本迹勝劣の語は聖人の言葉とは言へまい。亨師が一線を引かれたのは相伝の古本に無いのか、あまりに堂々と細かい書き出しで口決らしくないと考へられたかどちらかであろう。脱益八の次疏の九に元く以下枝葉色までは、開目鈔の文意を取った文、脱益文の最後にあるものは台釈を並べただけで、形式が本文とちがふ。両者共に一線文とした亨師説を批判すべき材料はない。下種分も略同様で、亨師は台釈を引用したものと、御書の意が攙入した分を一線分としてゐる。猶私見には、入文に「勝劣」とある分は本抄の用例から見て「本迹」とあるべきもので、これは口伝の途中で変形したか、叉は註記の攙入であろう。沢山あるわけではない。

末尾に、長い追加分があって、さっき言った愚劣な書込みはこの中にある。この愚劣ぶりを一寸紹介しておかう。

(119) 又六人上首外或号我直弟構別途建立勿非六老僧或叉於末代経巻相承直授日蓮ト申シチ受持知識相承ヲ破ンガ為二元品大石成僧形申狂日蓮直弟僻人出来申乱予捷深密正義擬事有之即天魔外道破旬蝗虫上首等同心呵責之者也

 御遷化記録に六老僧の文は無い。これはあとでこしらへた言葉で、口決だから「六人」とか「本弟子」とかおっしゃったのをあとで「六老僧」に変形されたといふならそれも良いが、元品の大石はひどい。元品の無明なら話は分るが大石といふのは本書の奥付に要法寺系の諸師の名が有るからこれは始め要山に写伝された本で、途中で大石寺と対抗し易くするために入れた分ではないかと考へることができる。経巻相承云云は什門で唱へ出した言葉だから、これは什門成立以後、即ち元中元(聖滅103)年から、保田我師が本抄の写本を校合した元亀二(同290年)年に至らぬ間に、誰かが偽作して押しこんだものだらう。

そのあとにやはり聖人の兼知未萠の語だと言はん許りに文学凝りする者や、禅天台などに色眼を遺ふ者や、本迹一致派が出て来るだらうとして、前以てそれを破折した文が出て来るが、これなども始から尻の割れた拙い書きこみである。

これほどひどい部分でなくても、新弘通所建立無き者には、たとへ正法付属の人でもこの血脈を授与してはならぬと、正法付属の人が後から口決相承をもらふ事になる、変なことを書いた部分など――付属の上人とは既に百六箇抄も付属されてゐることを意味するのだから論法が逆だ。この伝で行くと、正統の天子でも皇太子時代に功労が無ければ神器を譲ってはならないといふようた論法になる。天皇とは既に神器を受けた方である。――末文の、日尊師にこれを譲ったとする分を踏へての随分手のこんだ偽作である。ツカモ日辰本では玉野大夫法印などと、正和元年に興師が言はれたことになるが、それから三十三年目の康永三年の譲状には法印日尊とあるから日導師の除目は事実であらうが、例の梨の件で重須を追ひ出されて、永い雲水生活の間に三十六箇寺をつくり、ヤット許されて富士に帰ったばかりの若き日の尊師に、たとへ六角の法華堂や鳥辺山の上行寺が既に出来てゐたにした所で法印の叙目まで有ったとは思われず、又天奏以前の任官を興師が許す筈もない。それにこの部分は奥付であって口決そのものではないから、あとで変化することのありえない文章である。次の康永元年の奥付も、前出康永三年の譲状に比して総花的であるのが疑はしい。それだから尊門の相承に関する末尾分も偽作の線が濃く、信用出きないことになる。

その他朗、興、目三師を特に賞揚された部分、広宣流布の時四大菩薩の役割の予言、六萬坊を造れといふこと、戒壇院の寺号などは、亨師は二線を引いてゐるが、私見にはそこまで疑ってしまふのは酷のやうな気がする。しかしこれが「本文でない」ことには私も同意だし、亨師に賛成できないのは何かそんな伝説が富士に伝はって、それが攙入したと思はれるので、それを法義に合はないと引叩いてしまふ位角目立つことは無いと思はれるのだが、叉削ってしまっては惜しいといふほどのものでもなく、口伝を本来の形にする為には当然枠外に出すべき部分である。その間に目師が本抄をほしがったといふ所があるが、元々これは弟子から催促すべき性質のものではなく目師は堅い人でそんな事のできる人ではないから二線分にされたのも当然である。亨師の一線二線の判定は私の考へとはちがう角度からされたかも知れないし、猶人文に若干の書直すべき所も有るやにみえるが今の処責任を以って亨師の判定を覆へしうる程の資料はない。

本抄は甚だ後加分が多いため、学全本しか無かった頃は相当研究者をまごつかせたことと思はれる。高田聖泉居士が老眼に鞭って、興尊雪菟録に後加分ばかりを取上げて批判したのを見るとき、学全本は善意に成るものだけに、つまらぬ人騒がせをしたことを惜しまれる。

口伝は変形し易く、攙入が起り易く、後に述べるように同一のものから若干の口伝が生れたりするから、原典批判は特に大切であると共に困難である。私も本抄に就いては実に甚しくてこずって、しかもまだ将来度々の書直しをしたければならないだらう。とはいふものの、口伝の文献批判はこれが最初ではないかと思ふ高田氏の興尊雪冤録はその点全く気の毒な本で、古来の文献批判をヌキにして行はれた口伝研究法の、ガスに当てられたものといふことができる。

猶、その他の本抄に対する批判は、種脱判や日蓮本仏論を曲解した頭から出てゐるので、今ここでの論点にはなしえない。御遺文の中から浅近の法門を述べられたもののみを引張り出して本書を偽書扱いする如きは、二十七品にお神輿をすゑて寿量品を叩くやうなものである。

 

 

 

 

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