妙法大曼荼羅所顕法門

 

 

富士門徒の大きな特徴として、絵像木像等の仏像を本尊とせず、専ら文字曼茶羅を本尊とする。この本尊式は例外的に破られた事もあるが、其は一時的現象に過ぎず、門徒の根本的伝統は文字曼茶羅にあると見られるので、これを研究することに依って富士の法門や伝統を知ることができるし、亦その例外が生じた場合にも、これによって富士門徒の特質を知ることができる。

曼茶羅は曼陀羅とも書き、Man dala の訳語。壇、道場、又は輪円具足、功徳聚の意で、諸仏菩薩を安置し、その功徳を聚集して一大法門を成し、仏世界を造るの謂である。

通途には曼茶羅に四種を分つ、

一 大曼茶羅 諸尊の形像を図す

二 三昧耶曼茶羅 諸尊の持物又は印契のみを図す

三 種子曼陀羅又は法曼茶羅 種子を図す

四 羯磨曼茶羅 諸尊の用に従って右の三曼を通じて称す。

 又法華曼茶羅といふものがあり、釈尊霊山御説法の会座を図す。

 日蓮宗の曼茶羅は大曼茶羅と称するが右の大曼とは名同体異であり、法華曼茶羅ともちがふ。全く独自のものであって妙法曼茶羅、一念三千曼茶羅、十界曼陀羅とも、或は単に御本尊とも、法華経とも、教主釈尊とも呼ばれ、日蓮宗の正式な本尊とされるものである。その相貌は観心本尊抄 日女御前御返事に記されてあるが、ここでは写真に依ってそれを見ていただきたい。

妙法大曼茶羅は日蓮宗法門の極致、宗徒の信仰の対境であるから本来写真にして版行すべきものではないが、それでは学術的研究の道を閉すことになり、却って佛意にも反すると思はれるので敢て掲載するのであるが、読者が日蓮宗徒で有る無いに論なく、諸仏諸尊のお名前を書きのせたものであるから、この本を読む程の人は必ずや粗略な扱ひをするやうな事が無い事を信じたい。切り取って本尊にするやうなことまではまア有るまいと思ふが、昔それに類する事をした人が有ったので、念の為にお断りしておく。そんな事をして手に入れたものは本尊にはならない(5)。本尊が欲しかったら先づ師匠を求めて法を聞く事だ。

異教徒の読者もおいでになると思ふが、右の注意はやはりあてはまる。科学を縛る礼節は無いが、礼節を忘れた科学者は、科学者である前に、人間そのものを失格する。

何を餘計なことをくどくどと、とのお吃りもあるかも知れないが、事ほどさやうに聖人の筆蹟は立派なものであり、曼茶羅の意匠は人に強い感銘を与えうるものである(6)

 

(5)本尊は信仰の対鏡だ。その入手はあくまでも如法でなくてはならない。

(6)私は研究用の妙曼写真を人に見せる時に拝んだり唱題しなりさせないことにしてゐる。宗徒なら誰でも強い感銘を受けるからさうしたくなるのも当然だが、それでは開眼して本当の本尊にしてしまふ義分があるから、それでは研究の為に物差を当てなり、書きこみをしなりできなくなる。しかし如何に「本尊の写真」であって「本尊そのもの」でないからといって、その写真を他の写真なみに扱ふこともせぬ。研究用の法華経や御書に就いても同様である。

私が妙法曼茶羅を略して妙曼と呼ぶのはそれだから決して軽んじる意ではない。記述上の便誼の為で、古来題目の研究用書には南○経と書き、釈尊を省画して尺寸と書いたのと同様の処置である。

 

 

 

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