第2節 弘安二年大曼陀羅

 

 

 日興師の日目譲状に「日興充身所給弘安二年大御本尊」とある妙法曼荼羅は、古来本門戒壇大御本尊とも、或は唯、板曼陀羅とも呼ばれて、宗内問答の大きな対象になってゐる。

 板本尊は富士門徒の寺ならどこにも正本尊とされて居り、日蓮宗年表には正安二年身延日向板本尊を造立すと、その添書に依って記し、著者も他門徒の寺で屡々見てゐるから板曼陀羅をこれに限る称呼とは為し得ないが、他門徒では戒壇本尊と言ひたくない為か特にこの妙曼を指して板本尊又は板曼陀羅と言ふ。

 論者にょっては日目譲状を否認したり、譲状の本尊と板曼陀羅とは別だとか、実にこれだけでも東京の紙価を高からしめる程の議論が行はれてゐる。例に依ってその総てを一往問題にしながら、一々拶挨するのを略して、イキナリ本題を解決して行かう。

 先づ御筆蹟だが、未だ良好な写真を得ることができないので分析はできない。私が自身拝した処では偽筆とすべき如何なる材料も発見されない。稲田海素老師が曾て人にあれは偽筆だと話したさうだが、その理由は何も言って居られぬし、又高田聖泉居士の所で老師の筆写だといふものを見せてもらったが、これは座配遙かに実物より簡略で到底臨写とは思へない。これが稲田海の筆に間違無いとすれば老師の判断もあまり信はおき難い。

 山中喜八氏のはなしでは、墨跡を見なくては確信のもてる返事はできないと言ふ。これは陰刻して金箔を埋めてあるのだから山中氏の判断の対象にもなりにくいわけだ。秘伝といふものが一たいにさうであるやうに、この曼陀羅も筆蹟鑑定の対象にするには多くの困難が有って、今の処これ以上何とも申し難い。

 しかし別の方から考へると、この妙曼が無ければ宗門の立場が甚だ困難になる。何となれば本門戒壇建立は聖人の畢生の大願であった。其が在世にできればそれでよいが、できないといふ見通しが立った時、聖人の胸中に入って見れば何より其を建てる準備をしなければならぬとお考へになるのが当然だ。準備とは何か。建てられるやうに社会状態を持って行くこと、これは誰でも分る。その為の弟子の養成であり、六老や大導師の補任である。しかし其だけで事は解決されない。いよいよ本門戒壇建立となって、戒壇堂はできた、さアモの御本尊はどうするかといって、前述のやうに木絵の像では本尊にならないから、大曼荼羅を立てねばならぬ。その時御自筆の妙曼が沢山あるのに、それを措いて当職の法主上人が書きうるものではない。たとへ当住が書いたにしたところで、又百千万歩を譲って金銅などで造立したところで、その胎内仏は必ず聖人自筆の本尊でなければならず、その本尊をよりどり見どりに、良ささうなものを持って来るといふやうなズボラな考へ方は、日蓮宗の法式ではない。さうすれば必ず聖人御自身で戒壇本尊を前以て造立して置かれればならず、聖人に其が無いと論ずる事は、宗徒としては宗祖を恥しめる事此上無きものともいへよう。今私は宗徒としての立場に立って論じてゐるのではないが、聖人は闊達にして且細心な人である。万年の先を考へて充分な仕置をしておかぬやうな人では無いことは、事蹟の随所に見えることである。

 唯、遺文には明にこれと指して戒壇本尊の造立を言って居られるものは無い。それが無いから従って戒壇本尊の造立も無かったのだといふ人がおるが、史学といふものは、必要な史料や大切な史料が常に与へられるものでは無い。

 中山の御衣木供養でも、身延の思親閣でも、はた又、俎岩、お猿畑、角なし蝶螺、波の題目、悉く御書には無い。蝶螺の角などドウでも良いが、宗門史上重大な問題にして史料が不足すれば、他の方から之を補って論ずることは、必要でもあり、許されねばならないことでもある。

 次に大石寺でのこの本尊の扱ひ方が、如何にも古伝と思はれる節がある。其は、この本尊は将来戒壇堂に安置する迄は正木尊にはできないとして、本堂に置かず宝蔵中に置き、信者に拝ませる時も内拝の形式をとって、大鼓も叩かず、行道もせず、公式な法会には直接関係させない※で扱ってゐることである。

※御大会の日程には組込まれるが其は信者が多数参詣して内拝を願ふからで、会式そのものは御影堂や客殿で行はれる。虫払の時は法主がこの妙曼を拭ふが、これは保存上当然でもらう。これとても薬師寺の御身拭のやうに改まったものではない。

 しかし、三位日順師の心底抄に、木門戒壇建立の時の事として、

410 安置仏像如本尊図戒壇方面可随地形国主信伏至造立時智臣大徳宜成群議兼日治定有招後難寸尺高下不能注記(学ニ 要義一43

とあるから、妙曼は戒壇本尊の図式にすぎない。その時になって木尊になるのはやはり色相像たんだ。前以てトヤカク定めておくべきでは無いといふのが富士の古伝だ。と言ふ人が有るが、同し順師に、

411 聖人為造仏出世無本尊為顕也然者正像時者多造釈迦本尊未顕然如来滅後未曾有大曼荼羅云云(日順雑集 要義一141

412 富士者諸山中第一也故日興上人独彼山居対治爾前迹門謗法欲建法華本門戒壇奉安置本門之大漫荼羅当唱南無妙法蓮華経(擢邪立正抄 要義一57 学二355

などとあって亨師が誤解したやうな造像家ではない。

《410》頭註。日く「順師未夕興師ノ真意ヲ演珊セズ云云。《411》頭註に曰ク「日順強チニ造像家ニハアラザルナリ」亨師始は造像家なりやと疑ひ、後に悔返すと雖未だ釈然たらざるものの如し。仏像とある為古来の用法に引摺られて色法と考へられた如くだが、順師の文章は曲乗りが多い。仏像と言っても色法像でないこと順師の諸本に例尠からず。今は二例に止める。

 尠くとも佐渡以後には御自身で色法像を造られなかった聖人が本尊妙で仏像と言はれたものが色法像である筈は無いので、順師のいふ仏像も、当然心法像と見なければ前後撞着する。然らば図とは何かといへば、遺文や相伝に文証はないが、現証を以て見れば理解し得る。富士門徒の寺の木尊は、曼陀羅のみの所もあるが、曼陀羅の前、日蓮在御判に重ねて聖人の御影を置いてある。仏像を色法像と解釈しても、御影ならばモのものズバリだ。文証も梢新しいものならば、有師化儀抄が有る。

413 一 当宗の本尊の事日蓮聖人に限り奉るべし(要相91

聖人の心法は妙曼、色法は御影である。

 首題下に御判名が有るのと、判名と重ねて御影を置くのとは同じ事で、其を「図の如し」と表現したと解釈すれば一切の撞着はなくなる。この本尊式は他門徒にも見え、特に田中智学居士の妙宗式目には明示してある。

 兼日の治定を抑へたのは堂の構造等の件であって、本尊までに被らせた文章ではない。富士のどこかへ建てるといふ意は五人所破抄に見えるが、そのどこへとまではきめてないのだから其が当然だ。

 通行の御書にこの妙曼の記事が無いことから、聖人御難事を其に比定する説が生れ、其には直接の文便は無いと亨師が言ったので、それだから間接の文便も無いと車止を突破したり、度々の御難が出世の本懐たといふ珍説まで生れた。

414 去建長五年四月二十八日にー此法門申はじめて今に二十七年弘安二年齢なり 仏は四十餘年天台大師三十餘年伝教大師は二十餘年に出世の本懐を遂給 其中の大難申ス許リなし 先々に申がごとし 余は二十七年なり 其間の大難は各各かつしろしめせりー過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣萬民始は事なきやうにて終ニほろびざるは候はず 日蓮又かくのごとし 始はしるしなきやうなれども今二十七年が間法華経守護の梵釈日月四天等さのみ守護せずば仏前の御誓むなしくて無間大城に堕べしとををろしく想間今は各各はげむらむ大田ノ親昌、長崎次郎兵衛尉時繩(綱)大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか―彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげまし(言励)てをどす事なかれ(下略)

  十月一日        (艮 1875

 真蹟は正中山にある。この御書は十月一日で御本尊とは十一日の開きがあるが、それでは弘安二年に何か出世の本懐らしいものがあるかと開き直って考へてみても、外に適当なものは見当らない。

 本妙に言って居られるのは、聖人の清澄初転法輪から数へて弘安二年が二十七年に当るといふのだから、

 一 釈尊は道樹華厳経から無量義経まで四十余年、八年の法華経の中頃に寿量品が来るかもこれも四十余年の摂、

 二 天台大師は玄義の御講の終ったのが五十七才の開皇十四年、逆算すると慧思禅寺に就学して三昧を御発得になった天嘉元年から三十五年目。転法輪ではないが天台は御自行のみとされた聖人の論法から行けば、御一生の間変らなかった観行五品の位に昇られたのを始めとする義がある。

 三 伝教大師は二つ考へ方が有る。天台宗確立の大同元年から逆算すれば行表の弟子となられた宝亀九年では二十八年だが少し前すぎる。叡山を開かれた延暦四年からなら二十二年。この年既に大師は御自分の内心には天台宗を建ててゐられる。

 迹門戒壇建立の弘仁十四年からなら延暦十七年の法華十講から二十六年だが、これは天師の御事業が認められた始と終を結ぶ線として意義が有る。

 さらば仏の法華経、天台の止観、伝教の天台宗建立又は迹門戒檀の建立と対比すべき聖人伝上の大関節とは何か。弘安二年の大事件といへば熱原法難しか日蓮宗史上普通には挙げられてゐない。 マサカ浅草寺寂海の改宗や、四條金吾が闇討に逢って剣法の妙を発揮したなどを大事件と言ふことはできまい。トすれば戒壇本尊の図顕といふことは最も考へ合せてよい事である。十月十二日図顕の本尊でも、既に一日に腹案があれば当然さう書かれる筈だ。熱原法難そのものはこの本尊と親しい関係が有ると見られることは後に述べることから明にならう。

 次に腰書の問題が有る。それは

415  右為現当二世

   造立如件

   本門戒壇之

願主 弥四郎国重
    

  法華講衆等敬白

  弘安二年十月十二日

 諸書に引用されてゐるが、今は大石寺日胤師筆正模本尊(東京常泉寺蔵)を底本とし、大石寺亨師の史料類聚239にある伸べ書きのもので校訂した。

 この法華講衆は熱原の人達の事だと言はれてゐるが、弥四郎国重といふ名は誰の事か他に明かな所伝が無い。波木井の若殿だといふ説もあるが、波木井氏で国重の実名は落着かない。

 

 宮崎氏はまだ外の系図も出してゐるが何れも弥四郎は無く、又国重という実名の生れる余地もない。

 随集妙曼九八に興師添書として、

416 富士上方上野弥三郎重満与之 日興

   正和元年口口弥三郎入道口口也

この重満に関しては弟子分帳(学二117)に、

417 一 富士上野弥三郎重光者日興弟子也仍申与之上野殿家人

この人の弟なら実名も便誼が有るが、行実は分らない。若しこの人が上野殿から派遣されて熱原の講頭格で釆配を取ってゐたならば、法華講衆の代表者として本尊願主になるといふ事も考へ得る。この人を国重とするなら当然弟子分帳の造られた永仁六年には故人になってゐたとするべきだらう。同じ弟子分帳の少し前に、

418  一 富士下方熱原郷住人神四郎兄

    一 富士下方同郷住人弥五郎弟

      一 富士下方熱原郷住人弥次郎

此三人者越後房下野房弟子廿人内也弘安元年奉信始処依舎兄弥藤次入道訴被召上鎌倉終被切頸畢平左衛門大道沙汰也子息飯沼判官十三才ヒキメヲ以テ散散仁射天可申念仏之旨再三雖責之廿人更以不申之間張本三人召禁天所令二斬罪也枝葉十七人者雖令禁獄終仁放畢其後経十四年平入道判官父子発謀反被誄畢父子コレタヾ事ニアラズ法華現罰ヲ蒙レリ

の文がある。この類文は徳治三年卯月八日の興師筆妙曼(類286)にもあり、弟子分帳にもこれ程長いそヘ書は無い。以て興師がこの三人を特に憶念して居られた事を察し得る。そしてこの内の神四郎が、弟を弥五郎、兄を弥藤次といふから、元は弥四郎と言ったのだらう、神四郎は法難以後の賞美の改名であらうといふ有力な説もある(熟原法難史74堀日亨)。

 しかし彼等が捕へられたのは九月でも糺問は十月十五日で、唯捕へられたといふだけで、どうせ殺されるだらうと見込んで本尊の願主とされるものであらうか。斬られたのは翌年の四月八日(熟原法難史187)である。

 神四郎等三人が法難の立役者として喧伝されてしまったので、影に隠れてしまった弥四郎が今一人ある。瀧泉寺申状に出て来る。

419 去四月御神事之最中法華経信心之行人令刃傷四郎男夫八月令切弥四郎男之頸(学一63 艮結204

この人ならばニケ月前だから法難最初の犠牲者として考へに上せることができる。これまで鏡忍坊のやうな僧、工藤日玉の如き侍は法難で死んでゐるが、百姓で、シカモ小松原の如き傍杖的なものでなく、その人と指して攻撃されて死んだ者、法難の当事者として死んだ者はこの弥四郎が最初である。

 ここで再び聖人御難事に戻って考へてみょう。この書は熱原法難に就いての勧誠状であり、大田、長崎、天進房などの事件も弘安二年十月十七日の聖人等御返事(変毒為薬御書 艮統198)に熱原の事として大進房の落馬の事を記してあるから弘安元年九月以前に熱原に関して起った事件である(熟原法難史93)。その熱原法難に関して「余は二十七年なり」と言はれたものだから、法難は本懐満足の重要な契機になったものだといふ意が見える。

 聖人の本懐満足とは何であらうか。熱原法難は僧でなく武士でなく、唯の下人が法の為に不惜身命の経文を身に読んだもので、聖人一期化導の徹底を物語るものである。其だから、百姓でも権勢に対抗できると証明されたことが出世の本懐であると言って良いであらうか。聖人の仏法が個人の救済のみを目標にしたものなら其でも良からうが、しかし三大秘法は国立戒壇を大関節とする閻浮同帰を目標にする。国立戒壇は閻浮同帰への前提だ。国立戒壇の前提は異体同心である。下々の下々たる土民までが聖人の師子王の心に同心し得たとき、国立戒壇への道が開ける。勅宣はその結論であるが、百姓にまで信行が徹底しなければたとへ勅宣が出ても魂は入らぬ、戒壇建立運動の基礎が固まったことが証明されたのが熱原法難だ。法難そのものは出世の本懐では無いが、出世の本懐を成就できる見通しが確立したのが法難である。

 三大秘法のうち、題目は弘通の当初に建立され、本尊は佐渡身延に顕れた。戒壇のみは事相だから聖人の在世には造り得なかった。在世に為し得るものは戒壇建立の準備であり、その中核となるべきものは戒壇院の本尊だ。さうすればその本尊を以って在世可能の出世の本懐とする義がある。然らば戒壇本尊の顕発を以って出世の本懐と言はれるのは最も当然だ。

 法難の実際の動きにあてはめて見ると、

 四月に四郎男が刃傷され
      
 八月に弥四郎男が殺され、

 モの頃大進房落馬事件が起り、

 九月二十一日に神四郎などの捕まった稲刈騒動が有り、

 十月一日に聖人御難事が書かれ、

 十月十二日、大本尊図顕。瀧泉寺申状、伯者殿御返事(
艮統199)が出され、

 十月十五日に神四郎等が責められ、その日の酉の時に出された報告が、

 十月十七日酉の刻に身延に着き、聖人等御返事(
艮統198)が出た。

 さうすると、この時聖人の胸中に、法難の犠牲者、四郎男、弥四郎男、神四郎、弥次郎たちが強く印象されてゐた事は否定できない。そして若し弥三郎重満の弟弥四郎国重なる侍が居たとすれば、この人は別の意味で強い印象を与へて居たであらう。しかしこの侍だけは弥三郎重満からの類推である。

 この時点に於いて、戒壇本尊の願主を立てるとすれば、身を以て戒壇建立の道を開拓した熱原の法華講衆が最も適当である。戒壇の願主は将来の本化国王で在すにしても、未だ主上御帰依の無い時、今上皇帝を以て願主とすることはできない。将来天皇のみならず、外国の王も統領も頭を傾け、梵釈屯来下するといふ重大極まりない御本尊に、法難の当事者となって鎌倉の権門と正面衝突をなし得た百姓男か又は軽輩の武士を願主に立てられたと考へるのが、最も仏法的である。仏法は凡て九界の衆生に授けられるが、最も救済の必要のあるのは弱い者、愚か者、心のねじけた者である。妙曼の意匠はそれを目途とし、凡夫と本仏を接続させる。然らば本尊の願主が名もなき民であり、戒壇の願主に未来の聖天子を予想することは、それ自体生きた法華経であらう。

 それにしても、聖人御難事に、出世の本懐とのみ言って、その剋体を説かれなかったのは何故であらうか。

 大体本門事壇の建立それ自体が昔は相伝視されてゐた三大秘法鈔にしか説かれてゐない。マシテ事壇の詳細に旦って通行の御遺文に説明があると考へる事自体が聖人の発表方法を理解してゐない為に起る間違であって、この種のことは当然口伝になるべきものである。現在公表されてゐる口伝には無いが、口伝は公表しないのが原則で、唯百六箇抄と本因妙抄、産湯相承は要山系から流れ出したので、既に流れ出してしまったものを引戻すわけにも行かないから創価版御書や要集で善本を発表したのであらう。この関係は御義、向記、三大秘法鈔にもあてはまる。親師の伝灯抄にも未公開のものがあることを匂はせてゐる。富士に未公開の、戒壇堂の本尊に関する口伝が有り、それが「戒壇本尊は弘安二年の板曼荼羅である」といふ形式で流れ出すことは有りうることである。比企谷妙本寺の寺号を聖人の自撰とする事も。像師に帝都弘教の遺命が有ったことも、御書や像師自身のものには見えず、輪師の報日像上人書(学一273)や玄旨伝法本尊、朗師の玄旨本尊添状《14》などから知れることで、戒壇本尊に限って御書を要求するのは筋違ひといふべきだ。

 弥四郎国重に就いても何か口伝が有るかも知れぬ。亨師が神四郎の事だと言はれたのはさうした口伝を踏へての言かも知れないが、今の所、国重神四郎説を確立するだけの史料は無い。依って四郎男、弥四郎男、神四郎、弥三郎重満の弟として仮定される侍の四人を侯補に挙げるに止めておく。私としては一番弥四郎男が有力だと思ふが、或は聖人の胸中には二人乃至三人の弥四郎が共存してゐたのかも知れない。弟子分帳には神四郎しか出て来ないが、其さへ戒壇本尊の願主になったと書いてないのは、戒壇本尊そのものが口伝になってゐたからであらう。若し戒壇本尊が後世、たとへば日有師あたりの偽作だとすれば願主は興師・北条弥源大、四條頼基等の名を以てするのが自然である。偽作者といふものはできるだけ証明力を増さうとつとめるものだから、伝記不明の人物など持って来るわけが無い。

 また、御本尊の相伝には仏滅後二千二百三十餘年《136》と書けとあるのにこの妙曼には二十餘年とあるのが問題にすれば問題だが、随集妙曼で弘安二年のものは二月には二十余年(59)三十余年(60)各一、四 六 七 九月には二十余年(61 62 63 64 65 66)十月十一月は二十余年(67 68 69 70)と成って居り、弘安三年にも二十余年とあるも(75 76 77 78 79  80  81 82 83 84 85 86 87 88 89 91 92 93 94 95 96)が有る。即ち弘安二年は二十 三十の混在する時期で、逆に文永二年に三十余年(20 21 22 23 24)がある。妙曼を型式に分類したとき、文永建治弘安には大きな開きがあるから之を以て究竟未究竟(むしろ所授の機に約して随自意と帯他意)に分ける手が無いわけではないが、二十 三十で究竟如何を論ずることはむづかしいし、滅後人師の書写に就いての制戒を聖人御自身にあてはめることはできない。

 興師が目師への譲状に特に「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊」と言はれたのも、譲状の原則から言って目師個人への譲りではない。大導師位と密接不可分の本尊だから特にさう指して言はれたものであらう。これが戒壇本尊として無いのは口伝を公開し得ないから他見の可能性のある譲状には用ひられなかった為であらうし、後年まで「板本尊」の名で戒壇本尊を表現してゐたやうだ。精師も家中抄に、卿 板本尊の在す所本門寺の根源なり(史一295)と言って居られる。師の寂年は天和三年、家中抄上巻の奥書は寛文二年だから、右の記述のある中巻の成立はその間と推定される。ただ板本尊といふだけならばこれより古いものが沢山あるが、富士門徒では寺の正本尊は皆板曼陀羅だから何寺の本尊と呼び、日蓮聖人自筆の妙曼で板曼陀羅はこの本尊だけだから特にさう呼ぶだけで話が通じたのがこの妙曼の真偽に就いての諸説のうち、特に文学士安永弁哲氏が写真に就いての詳細な研究を発表して居られる。この研究は目のつけ所は同意できるが惜しいかな使用の写真が甚だ不完全だ。これまで公表された写真は二種あり、一つは前におみき徳利が在り、一つは無い。有る方は平常内拝の時の儀、無い方は全貌を示す為に取除いたのであらうが、共に古い写真で、技術未熟の為か共に不完全なものであり、資料とするには充分でない。

 大石寺では末寺住職の手を通してでなければ本尊を授与しない。所謂「師弟子を正す」(7)為だ。かうして良い写真が出てゐないのを、無理をして出来の悪い写真を使った安永文学士の態度は断言が強かっただけに軽率の識を免れまい。

 まだこの大曼陀羅に就いては色々の説が有るが、戒壇法門から推せばどうしても無くてはならぬもので、且偽作するとすれば「本門戒壇の本尊也」とあるべき所、願主も有名な人を選び、左証とする文書もついでに偽作しておく筈だ。

 

 

 

 

もどる