第3篇 相伝法門と富士門徒

 

 

 日蓮聖人所顕の妙法大曼荼羅を法門的に解釈するには両巻血脈其他の口伝相承に依らねばならず、亦日興師を除いては五老以下諸門徒の人々が妙曼の先師勧請に甚だ重大な誤をおかしてゐる事は、日興師が大導師として特別な相承を受けた事を物語るものである。そして富士門徒に伝はる両巻血脈の内、本因妙抄は確実な日蓮聖人の口伝であり、百六箇抄はこれに亜ぐ確実性があるばかりか、これに依ってのみ妙曼に関する諸問題が解決されるのだから正しい口伝と見てよい。但し伝承の間に多くの讒入分が有ることは既に見た如くである。その上興師に大導師たる自覚があり、二箇相承も否定すべき強い論拠を見出し得ない。ここに於て富士門徒の日蓮教団に於ける特別な地位は、否応なく明らかにされる。

 富士門徒がどんな教団であるか、それを明らかにする基礎作業は第二篇迄で大体終った。これから先はその特質が、史実の上に如何にあらはれて来たかを論ずる部分である。然るに宗門は古来教学を重んじ史学を軽んじたのでその史料が案外尠く、これから先の部分が私の本職に属する仕事であるのにも拘らず、逆に却って甚だしくやりにくくなる。

たとへば富士門徒随一の史家として知られる堀大僧正が「日眼御談」の末尾僅に八十餘行を「史誌旧説に関し参考たりと雖も宗義に無益なり」(要羲一211)として削去してしまはれた如き、又身延の碩学稲田老師が本山に瑞世することも無く終ってしまはれた如き、史学軽視の例として挙げられよう。宗門に史学が乏しいとは稲田師が曾て私にこぼした言葉である。

そこで今は相伝法門をめぐる若千の動きについて、典型的なものの若千をとらへて概観するに止め、餘は次の機会に発表することにして、膨大なるべき私の宗史研究の、東方への光明に擬したいと思ふ。

 

 

 

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