妙法大曼荼羅所顕法門

 

 

 

第6節        妙法大曼茶羅所顕法門

 

 

1 中尊を後にして十界の列衆ばかりを相手にしては研究資料が不足する

随喜文庫の写真集が出てから妙曼の研究が盛んに行はれるやうになったが、どうも十界の列衆ばかりに気をとられて肝心の中尊研究が閑却されてゐるやうだ。これでは妙曼の研究にはならない。

既に、明かなやうに、妙曼には十界の列衆が一尊も無いものがある。弘安2年1月までは提婆の在座するもの僅に1鋪、弘安年中でも聖衆部を缼くもの(甲種以外のもの)が多数ある。この事実は十界が完具することは妙曼を重からしめるものではあるが(又それだから私は提婆の在座を時期区分のキメ手に使ったのだ)、十界が無くても妙曼なるに少しも不足はない事を物語ってゐる。それだから之を十界曼陀羅と呼ぶのは必ずしも正しい称呼とは言へない。実は十界完具の甲種曼陀羅でさへ縁覚は一尊も無いので、唯、声聞によって縁覚を暗示してゐるにすぎない。列衆ばかり追廻してゐては絶対に妙曼研究は完成するものでない。

中尊に十界が吸収されるので十界が無いのではないといふ説明も許されうる。諭理的には其でもよいが、今度は新しく、ナゼ中尊が十界を吸収し得るかといふ問題が新しく起って来る。

   

 

2 中尊は首題と判名である

真言宗の曼茶羅では中尊は金胎両部の大日如来だが、日蓮宗では何だらうか。釈迦仏と言ふのは諸御書に見えるが、十界仏部の釈尊は在座せぬことがある。トすれば、当然中央に大書される首題を先づ考へなければならなくなる。

観心本尊紗には、

(201) 塔中妙法蓮華経ノ左右ニハ釈迦牟尼仏多宝仏釈尊ノ脇士ハ上行等ノ四菩薩文殊弥勒等ノ四菩薩ハ眷属トシ居シ末座ニ迹化他方ノ大小ノ諸菩薩ハ萬民ノ処シ大地ニ如レ見ルガ雲閣月卿ヲ十方諸仏ハ処シタマフ大地ノ上ニ表ル迹仏迹上ヲ也(艮940)

とあって、四聖部の説明はあるが肝心の中尊の説明は無い。これが為に妙法蓮華経といふ「法」が本尊であるとして、釈尊といふ「人」を本尊とする人本尊論と猛烈な論議を繰返して来てゐる。若し執行教授の言はれるやうに御義口伝が偽作ならこれでハタと行詰ってしまふ所だが、これが偽作でないのは第一篇で証明済だから、ピッたりの依文を引用しよう。

(202) 如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作三身なり。今日蓮等の類ひの意は、惣じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と言ふなり(御義寿量品 日89)

(203) 今日蓮等の類ひ、南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、寿量品の本主なり(同91)

(204) 自受用身とは一念三千なり 伝教云く一念三千即自受用身自受用身とは尊形を出でなる仏と 出尊形仏とは無作の三身と云ふ事なり云云今日蓮等の類ひ南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是れなり云云(同103)

十方三世の諸仏は悉く釈尊の分身だから、総じて言へば諸仏皆釈尊だが別して言へば本地無作三身が仏の中の仏である。これは理観で言った場合だが、事行に於ては一切衆生に単体無用埋本覚の如来を許し、南無妙法蓮華経と唱へる事を知ってゐる日蓮の弟子檀那は倶体供用の寿量の本主釈尊であり、その宝号を南無妙法蓮華経といふ。

かうなると釈尊を我等が仰ぐべき本仏だと思ってゐたが、実は本仏釈尊とは我等が事であり、信者の本名が南無妙法蓮華経といふことだと成って、本仏は我等そのものであり、尊形を具せぬ凡夫のうちに本仏釈尊がましますことになる。

(205) 此の(寿量)品の所詮は久遠実成なり 久遠とははたらかさず つくろはず もとの儘と言ふ義なり 無作の三身なれば初めて成ぜず これ働かざるなり 三十二相八十種好を具足せず 是れ繕はざるなり 本有常住の仏なれば本の儘なり 是れを久遠と云ふなり(同103)

寿量品の釈尊は32相だから、従って無作ではない。さうすると寿量所顕の32相の尊形仏を久遠実成とするのは一往の義で所詮久遠の仏は無作三身の出尊形仏だとなる。それが久遠釈尊の本当のお姿だ。そしてそれが南無妙法蓮華経だ。

しかしかうなると凡夫が拝む対象としての荘厳偉大な釈尊の32相のお姿は本尊にならなくなる。本仏は自分の事だとなっては自分を拝まなければならないから、哲学としては成立しうるが、宗教としては成立ち難くなる。宗教としてはどうしても凡夫が帰依する対象としての本尊を別に立てなければ、具合が悪い。そこでこれらの御文を邪魔にする感情が生れて来、何とかして32相の釈尊の尊形を本尊とする説に持って来ようとして色々無駄な努力が試みられるが、それでは聖典よりも凡夫的思惟が重んぜられることになり、宗教としての形は整ふが日蓮宗でなくなってしまふ。仏本尊を主張する人の弱点はここに在る。さりとて法本尊を立てて、妙法蓮華経を本尊としたのでも、聖典とくひちがふ。聖典は明かに南無妙法蓮華経を仏名だとしてゐるからである。もっともここで、南無妙法蓮華経は仏名であって、経名では無いなどと言はうものなら、古来何度もむし返された仏本尊法本尊の押し合ひに弥次馬として参加する丈の事になるから全く無意味である。聖人自身がどちらにも取れるやうなことを言っておいでになるのだ。(仏名であり、且、経名、法の名であることは後に明かになる。)

(206) 法華経の文字を拝見せさせ絵ハは生身の釈迦如来にあひ進らせなりとおぼしめすべし(四条金吾梵音声書 艮883)

これは文字即釈迦とする明文だが、正面から釈尊を本尊にせよといふ文も少しとせぬ、

(207) 日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし(報恩抄 艮1500)

(208) 触テ案内ヲ入室ニ教主釈尊ノ御宝前ニ安置母ノ骨五体ヲ投ケ地合掌シテ開キ両眼ヲ拝尊容ヲ歓喜餘リ身ニ心ノ苦ミ忽ニ息ム(忘持経事 艮1385)

(209) 御状ニ云本門久成ノ釈尊ヲ奉造脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕候き然れば如ハ聴聞ノ何の時乎云云(四菩薩造立鈔)

これらは人本尊の御書と言はれるものである。

然るに法華経を本尊とする文は更に多い。

(210) 法華経にねんごろに申候(千日尼御前御返事 艮761)

(211) 銭一貫給ヒて頼基がまいらせ候とて法華経の御宝前に申上て侯定て遠くは教主釈尊並に多宝十方の諸仏近は日月の宮殿にわたらせ給も御照覧侯ヒぬらん(四条金吾殿御返事 1789)

(212) 十字三十法華経の御宝前につみまいらせ候ぬ(十字御書 1810)

(213) 八木三石送給候合一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱まいらせ候畢(新池殿消息 1844)

(214) 鷲目一貫文送給侯畢妙法蓮華経の御宝前に申上條畢(中興入道消息 1917)

(215) 法華経の御宝前に申上て侯(千日尼御返事 1952)

(216) 法華経の御宝前へ申上て侯(初穂御書 艮続143)

(217) 問テ曰ク末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定ムべきや 答テ曰法華経の題目を以て本尊とすべし――釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意也――仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし 問テ云公然ラ者汝ハ如何ニテ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや 答上に挙るところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定メ給へり末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とする也 其故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目也――故に今能生を以て本尊とする也(本尊問答鈔 1794)

(218) 法華経御宝前にかざり造らせ侯(上野殿御返事 1928)

(219) 日本国の一切衆生の為に付属し給ふ法雨は題目の五字なり所謂る日蓮建立の御本尊南無妙法蓮華経是れなり云云(日向記 日44)

(220) 是好良薬とは或は経教戒は舎利なり さて末法にては南無妙法蓮華経なり(御義口伝)

これらは法本尊の依文である。この外、法華経と釈迦仏を同時に挙げられたものが多いので、立正大学の鈴木一成教授は、

(221) 「身延草庵の御宝前、御本尊安置の場所には立像の釈尊を立てその前に法華経が置れたのであらう――宗祖在世の身延の中心は立像釈尊と註法華経一部であり、殊に一体仏は本尊として尊崇され、大曼茶羅、一尊四士、二尊四士は奉安されなかったと考へられる」(大崎学報104)

と発表して宗門内に物議を醸したが、これも人本尊が宗教的感情としては取りつき易いために御書の意をへし曲げてしまった好例と言ふ事ができよう、と言った丈では切捨御免だから、御本尊の人法を更に推究した後に鈴木氏の説は改めて批判することを予告しておく。

本尊の人法に就いては聖人にも一見これを別々に扱ふやうな御発表がある。

(222) 南無とは梵語なり此には帰命と云ふ 人法之れ有り 人とは釈尊に帰命し奉るなり 法とは法華経に帰命し奉るなり(御義口伝)

この文をこれだけ取り出して見ると人法各別に本尊があるやうに見えるが、その後には、

(223) 梵語には薩達摩芬陀梨伽蘇多覧と云ふ 此には妙法蓮華経と云ふなり 薩は妙なり 達磨は法なり 芬陀利伽は蓮華なり 蘇多覧は経なり 九字は九尊の仏体なり 九界即仏界の表示なり 妙とは法性なり 法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云ふなり 蓮華とは因果の二法なり 是れ又た因果一体なり 経とは一切衆生の言語音声を経と云ふなり――法界は妙法なり 法界は蓮華なり 法界は経なり 蓮華とは八葉九尊の仏体なり(御義口伝)

八葉九尊は密宗の文で、中台大日、四方の八葉に宝憧、開敷華王、無量寿、天鼓笛音の四仏、普賢、文珠、観音、弥勒の四士を合せて九尊とする胎曼第一院の仏である。これは「胎蔵曼茶羅の総体にして因位の九識を表す」薩は妙で法性だといふのだから仏界の果位を示し、後の達摩芬陀梨伽蘇多覧の九字を以て因位の九尊にあてられた意であらう。これは密教家の文を借りて当家の義を詮した御文と見るのが日蓮宗の定石だから、南無妙法蓮華経とは本仏の仏界なる本果即ち本果妙と、九界なる本因即ち本因妙が、七字の中に円妙具足してゐることをお説きにたったと拝すべきであらう。その本因本果円妙具足の本仏は又同時に法界そのものである。一切衆生の法性無明一体が妙法であり、一切衆生の本因本果が蓮華であり、語言音声が経である。即ち法界の依正そのものを体とし、特に正報に約して言へば法界能住の一切衆生の因果を性とし、言語音声を用とする根本本仏の相が南無妙法蓮華経である。

かうなると妙法は本仏である。本仏は妙法である。法仏は而二にして不二、不二にして而二、人に約せば釈尊、法に約せば法華経であって其は一体の両用であり、法だ人だと別々に諭ずることは論理の過程にのみ許されることであって、まことは人法一如にしてその尊形は、唯、南無妙法蓮華経である。

さうすると南無妙法蓮華経は法に約して言へば三世諸仏能生の法だが、人に約せば能化の仏である。さうすると(211)の教主釈尊は多宝と並んだ仏様のお一人だから所化の仏となり、能化の南無妙法蓮華経如来に対しては脇士となる。(207)には「本門の教主釈尊」が本尊となり、宝塔の内の釈迦多宝が脇士となってゐるのはこの意で、「教主釈尊」に両重ある事になる。いわゆる南無妙法蓮華経如来を釈尊とした場合と、多宝並座の釈尊との二つだ。

南無妙法蓮華経如来の語は御義口伝の見出しにある。

 能生の法、能化の人に対しての御供養は直に所化の人への供養になるから、

(224) 法華経に申あげ候ぬれば御心ざしはさだめて釈迦仏しろしめしぬらん(芋一駄御書 艮続123)

となる。上引の法華経を以て本尊とする意は尽くこれだと考へなければ、聖人は人法各別の本尊を立てて、信心の村境を混乱させた。宗教指導者としては不足な人だとなってしまふ。既に(217)には法華経は釈尊の父母だとあるから法勝仏劣だ。能生の法に帰命すれば已に所生の仏に帰命したことになるからく(222)でワザワザ人の釈尊に帰命するのは余計なことになる。所が(205)に寿量の釈尊の所詮は尊形を具せぬ仏だとあり、その尊形を具せぬ釈尊は無作三身だ、その宝号は南無妙法蓮華経たどく(202)にあるから、聖人が釈尊と言はれた時には本門の釈尊、寿量の釈尊、教主釈尊と限定された時に於ですら尊形出尊形の両重が有ることを知るべきで、これを腹に置いて解釈すればく(207)の御文は簡単に消釈し得る。

しかし、まだ問題が全部解決されたのではない。御書の文はこの法界を御身となさる南無妙法蓮華経の仏こそ日蓮の弟子檀那だとある。これは凡夫即本覚の如来という本覚法門と甚だしく近似してみる。といふだけでは天台に対して勝をいふことはできない。当然本覚法門の延線として理解するより外ないもので、一切衆生悉く本覚の体あり、唯、体のみあって用の無い理法身であるのが、一旦南無妙法蓮華経の仏を知り、仏の法を知って、仏に帰依し、南無妙法蓮華経と唱へる時、

(225) 能居所居身土色身倶体倶用無作三身本門寿量ノ当体蓮華仏(当体義抄 981)

になるのだ。この仏様も衆生の外においでになるのではない。

(226) 全く餘所に求る事なかれ只我等衆生ノ法華経を持て南無妙法蓮華経と鳴る胸中の肉団におはしますなり(日女御前御返事 1626)

と華厳で理の上に説かれた心仏衆生無差別の法門を、本尊と唱題といふ事行の上に展開して来るので、ここまでは通大乗の一切衆生悉有仏性説や、天台の無作三身、真言の大日如来とと共通の部分のある法門で、唯、理観歴修行の難行道を転じて事行の信解脱を奨め、無作三身を実際のご本尊の上に建立し、大日の此土無縁の理観、金胎両部二千尊の複雑を約して一大曼荼羅に統一し、此土有縁深厚の本仏を立てた所はちがふと言って良いが、これまでの処では諸宗と似た所もある。権田大僧正が日蓮の曼陀羅は胎曼なりと言はれたの故無しとしない。但し、師が天照八幡を入れたのがその特徴だとしたのは、当ってはゐるが、マダ不足なるを覚える。ここに至って私は権田師の難問に答へねばならぬ処に立ち至った。師に依れば、

(227) 夫れ曼荼羅の聖衆は皆是れ本有常住の仏体六道四生の群類は併亦自性清浄の法身なりー凡夫は業力に追はれて六道に輪転すと雖も自性法身動せざる故に流を還して源に朔れば悉く是れ大日法身の垂迹なり(漫荼羅通解 144)

だから、南無妙法蓮華経如来を大日如来と置き換へれば、雷斧師の密教眼を以てすれば日蓮宗と東密のちがひはボヤケてしまふ。久成の本仏は自受用身で大日法身に勝ると力んでみても、其は、唯、法門の理談であり、密教の三秘加持は難行、口唱題目は易行だと立てても、止観の難行を斥けて称名念仏の易行を言出した法然和尚の念仏宗と、第三者の目からは区別できないだらう。

読者は私がこれまで首題のみを論じて、何故判名に言及しないかを疑はれたことであらう。実は右の東密からの批判は、通行の御遺文、御義、向記等に依っても不可能ではないのだが、論旨に徹底を缼く。大日如来は娑婆世界の救主でない、大日がいつ娑婆世界に出て来たかと突込んでも、先方は、それだから中台八葉の釈尊が之を説かれたのだと逃げてしまふだらう。その上、判名の詳しい説明は通行の御遺文には全く文義具隠して説かれてゐる。それだから諸山の口決、殊に富士の両巻血脈を引用する必要がある。これまで中尊研究が遅々として進まなかったのは文証が乏しい為で、それは両巻血脈などを偽書扱して抹殺しようとした宗門史家が、勝手に自らの文証を捨てて顧みなかった為だ。

既に両巻血脈は偽書でないことが一往証明されたが変形性の強い口伝を通常の文献批判のみを以て論ずるのは方法的に未だ周匝でない。今度はこれを使って中尊所顕法門を明かにする作業に入る。これに依って中尊の註脚は両巻血脈だったことが分ると、逆に両巻血脈が偽書だと中尊の法門がくらやみに入ってしまひ、日蓮宗の根本なる本尊がわからなくなるから、両巻血脈の真実性をイヤでも承認しなければならなくなる。

口伝といふものは色々に解釈しうるものだからつかまへにくいが、その代り法門そのものを語ってゐる。妙曼の分析から出た結果はそれ自体は何も語らないが、そこから色々な解釈を引出して支離滅裂になることは起りにくい。さうなることを予想して面倒な数字を沢山扱ったのだが、これによって今迄皆敬遠してゐた口伝をつかまへるキメ手ができた。さうは言っても日蓮宗の宗内問答は古来相当激烈で、明々白々な事までヘシ曲げるやうな論理の遊戯を玩ぶ傾向があとをたたないから、前以て慎重に口伝の原典批判をやっておいたのだ。もともとつかまへ難い口伝のことだから原典批判にも自ら限りがあるが、そこを今度は逆の方向から――即ち妙曼の分析結果とぶち当ってみることに依って、少しの支障もなければ、ここに於て原典批判が完結し、同時に史料の使用も行はれることになる。使ってみれば真偽が決定し易いのだ。

 前にも言ったやうに、日蓮聖人が法華経と言はれた場合、開結二経を含めた三部十巻を示す場合もあり、什訳の妙経一部八巻を指す時もあり、更に妙法曼茶羅であることも、

(228) みなみなのものをくり給て法華経にまいらせて候――たうじはあめはしのをたてて三月におよびかわはまさりて九十日 やまくづれみちふさがり人もかよはずかってもたえていのちかうにて候つるに このすずのもの給て法華経の御うえをもつぎ釈迦仏の御いのちをもたすけまいらせ給ぬ(種々物御消息 1745)

(229) むぎひとひつ河のり五條はじかみ六は給畢――山のなかのすまゐさこそと思ひやらせ給て――法華経の御命をつがせ給事三世諸仏を供養し給へるにてあるなり(上野殿御返事 1277)

の如く、聖人御自身を直に指して法華経と言はれた如くみえるものさへあり、常識に従って一部八巻とか三部十巻とかにキメ付けてしまふのは全く不可能である。

もっとも、

しなじなのものをくり給で候――此は日蓮を御くやうは候ばず法華経の御くやうなれば、釈迦仏多宝仏十方の諸仏に此功徳はまかせまいらせ候といふやうな、右とちがった意のある文もあるが、これを以て本文に引用した御書を否定することも、又前者を以て之を否定することもできない。日蓮の語にも多義を含み、法華経の語も一準ではない。(228)は内証に約し、こちらの方は外用に約した面がそれぞれ表になってゐる。なべての仏典にかういふ傾向があるが、特に御書は同文を以て異体を指し、異語を以て同物を示す隠顕出没実に端侃すべからざるものがあり、これが読みちがひの原因になることも多い。ここに示したのも其一例である。

さてその法華経の語の用法についてだが、観心本尊抄には、

(230) 本門ハ序正流通倶ニ以末法之始ヲ為詮ト、在世ノ本門ト末法之初ハ一同ニ純円也 但彼ハ脱此ハ種也 彼ハ一品二半此但題目五字也――所詮迹化他方ノ大菩薩等ニ以我内証ノ寿量品ヲ不可授与ス末法ノ初ハ謗法ノ国ニテ悪機ナル故止之ヲ召地涌千界ノ大菩薩ヲ寿量品ノ肝心タル以妙法蓮花経ノ五字ヲ令授与セ閻浮ノ衆生ニ也(艮 942)

法華経神力品文上経相の一往は上行に対して法華経三部乃至一部を授与して末法の弘通を付嘱したまうた如くだが、所受の上行に言はせると所受の法体は「内証の寿量品」であり「寿量品の肝心なる妙法蓮花経の五字」であって、迹化の薬王文珠等、他方の観音智積等には力が足りないからと譲られなかった法華経とは、この「内証の寿景品」なのである。シカモ法華経御説法は一往在世の聴衆の為のやうにみえるが、本門は特に滅後末法が対象とされる。トいふ事は本門の肝心寿量品、寿量品の肝心内証妙法蓮華経の題目が末法弘通の法であり、下種の法である。これに対して在世の寿量品を含む一品二半は脱益の法である。と、法華経寿量品に文上文底、外用内証、脱益下種益の両向があることを示されてゐる。富士門徒以外でこの法門に気付いたのは清水梁山居士で『日蓮宗綱要』や『世界統一の本尊」中に盛んに諸御書を引用して説いて居られるのは、元々富士では口伝法門として居たものだけに壮観である。相伝をまるで無視してしまった為の辷りりすぎと思へる所もあるが、居士が口伝を用ひないで種脱法門を説明して居られる(日蓮宗綱要所説の重点はこれである)ことは、種脱法門が富士だけの勝手法門でないことを主張する有力な援兵であらう。

梁山居土の「辷り過ぎ」は「世界統一の本尊」に戒壇の儀相を説明するのに一切文証を無視して先人未発の説を出して居られる所などに見られる。ここには四士が曼陀羅の中で動くといふ説が出て来るが、サテ、それが動くとドウシテ今の座配になるかは、まるで著者の独合点で、マコマゴすると日蓮宗でなく梁山宗になる。

田中門には種脱の名目はあるがハッキリした法門は無いやうだ。しかし名目さへ知らない所が有るのに比べては数等勝ると言ふべきか

口伝を用ひずしても、今の観心本尊抄の文から略その大概を知りうるし、梁山居士の著作も出てはゐるが、それでは口伝の有るといふねうちは無い。いったい口伝は何と言ってゐるのだらうか。いよいよ真直に口伝にあらはれた聖人の法華観に突込む時が来た。

(231) 一代応仏ノ寿量品ヲ為迹ト内證ノ寿量品ヲ為本(本因妙鈔)

(232) 寿量品ノ文底ノ法門自受用報身如来ノ真実本門久遠一念之南無妙法蓮華経(本因妙鈔)

法華経の扱ひは本尊抄と同じで、文も「内証寿量品」は全同、「真実の本門」といふ新しい用語がある。「真実の本門」があれば「假権の本門」がある筈だ(真は假、実は権の対語として扱はれるから)。それでは假権とは何だ、といふと口伝だから略してあるが、仏身に約して「一代応仏」といふ全く新しい用語が出て来る。通途には応仏は小乗の劣応、権大の勝応といふ定めだが、ここではさうでない。釈尊の御一代を束ねて応仏と立てるのだから、寿量の釈迦も応仏に入ることになる。

(233) 脱益の仏果をば必ず他受用身なりと定むるなり(類聚  )

(234) 一代五十年の三身示現は応身仏の分域を出ですと云ふ大聖の卓見である(三重秘伝鈔註 日享)

などといふ説はあるが、長亨二年の奥書のある(233)はともかく、亨師の方は寛師以後の人だから富士門徒古来の法門とは言へないといふ向もあるかも知れぬ。しかし、

(235) 如来トハ三身ノ中ニハ何レソ耶 答テ云法華経ノ心ハ三身即一ノ応身也(観心本尊鈔私見聞 日常) 

は上古のもので、しかも常師は本尊抄の相伝を受けてゐる人である。しかし聖人にも、自受用身を出尊形の荘厳を具せざる仏だといふ意が御義口伝の随所に見えるから、この延線は荘厳仏は自受用身にあらずとする意を指向する。自受用身でない、荘厳形でしかも報身といへば他受用であり、他受用報身は勝応身に摂する義があるから文上の釈尊を応身と言っても間違ではないことになる。しかしさうかといって之は華厳の他受用とちがって久遠実成を説いておいでになるから唯の他受用ではない。これまでに説かれなかった仏身でしかも文底自受用にえらばなければならないとすると新しい術語を使はねばならぬ。そこで前に紹介した「応仏昇進の自受用」が登場する。しかしこれとても文底真実の自受用ではないから、奪って言へば他受用の摂となり、応身を広く解釈すれば応身の中に入ってしまふ。そしてその応身如来が寿量品には明かに説かれなかった文底内証の法門こそ、真実の自受用身の持ちたまふ本門であり、それが明説されなかった文上寿量は假権の法門であると貶される。

(236) 事ノ一念三千一心三観本迹 釈迦三世諸仏声聞縁覚人天ノ唱ル方ハ迹也 南無妙法蓮塾経ハ本也(百六箇鈔 要相27)

南無妙法蓮華経はここでは法として扱はれ、それを唱へる方、即ち釈迦は迹となり劣となる。この釈迦は勿論前に言った寿量文上の応仏であって、文底の自受用ではない。文上の釈尊は今こそ寿量を説いて顕本されても、その前に爾前を説いて始成を示された仏身そのままだから、本仏とは言っても本仏マル出しでなく、所謂三蔵の応仏次第に昇進して自受用身を説かれた、応仏昇進の自受用である。

(237)応仏一代ノ本迹 久遠ノ下種霊山ニ得脱ノ妙法値遇ノ衆生ヲ利セン為無作三身従リ寂光浄土三眼三智ヲ以テ知見九界ヲ垂迹ヲ施ス権ヲ後ニ説ク妙経ノ故ニ今日ノ本迹共ニ迹ト得之ヲ者也(百六個 学11)

霊山出現の仏は迹仏、久遠無作三身が本である。本仏が久遠下種霊山得脱の機に応じて垂迹し、既に下種を得た者に改めて下種の法を説く必要がなく、唯、其を思ひ出させればよいのだし、思ひ出させるに都合がよいやうに前以て権法を説き、次第に誘引した末法華経を説かれた。この法華経は久遠下種の法を思ひ出させる為だから一往前十四品迹門後十四本門の立て分けはあるが、久遠の木法に望めては本迹共に迹であり、能説の仏も久遠元初の無作三身に対しては迹仏となる。

(238) 久遠元初直行本迹 名字本因抄本種ナレバ本門也 本果妙餘行ニ渡ル故ニ本ノ上ノ迹也 久遠釈尊ノロ唱ヲ今日蓮直ニ唱ル也(百六個 学19)

今の釈尊は法華経寿量品で、五百塵点劫以前に成仏され、その以前に菩薩の道を行じておいでになった。その菩薩道御修行の間は五百塵点より更に長い間であったと説かれてあるが、その間は仏で無く、菩薩であったとすると、寿量所顕の本仏といっても元は菩薩で、その菩薩が歴劫修行の末に仏に成ったという事になり、唯、三千塵点の化城品の大通仏、十幼正覚の阿弥陀仏よりも、成仏が古いといふ比較級の本仏に過ぎなくなる。即ち文上一往は「修行して始めて仏になつた」といふ始成に即し、五百塵点という有限に即して無初久遠の成道を説かれたのが寿量品の説相だと謂うが宗門一般の解釈だが、ここでは更に其を一歩進めて久遠の菩薩行の時、既に其れが木仏本因妙の御活動であるとする「我本行菩薩道」(寿量品)と言はれた「本行」とは、一「仏の本行」である。その行は口唱題目であって、今日蓮の口唱は、その本行を末法に移したものでる。そして本因妙の修行は成仏の種たる本法南無妙法蓮華経を説くのだから真の本門であり、霊山御出現の本果妙の釈尊は題目以外の法も説きに成った(実は題目は多宝塔中で上行にのみ説かれたので、秘密説法ではあるが、文底には説かれてあるから餘行に亘ると言はれたものだ。文上は題目以外の「餘行」ばかりである)。それだから霊山の寿量は本門とは言ひながら奪って言べば迹門である。

(239)久遠実成直体本迹 久遠名字ノ正法ハ本種子、名字童形ノ位、釈迦ハ迹也 我本行菩薩道是也 日蓮ノ修行ノ遠ヲ移セリ(要 27)

名字とは名字即の位の事で、法華修行成仏の過程に六即の位次を立てた天台の法門を、成仏の相貌そのものとして四信五品抄に活釈されてある。六即とは理即仏、名字即仏、観行即仏、相似即仏、分真即仏、究竟即仏で、先づ理即仏とは一切衆生未聞聖教、本末有善の荒凡夫も内に性種としての仏種を内蔵するが故に単体無用の仏位を許されたもので、原油を指して軽油なりと見るが如き、仏知見の上での仏である。名字即仏は仏教の名字を聞き、一念随喜して仏道に入らんとする初信の位、観行は観心修行の位、相似は菩薩に似て来た高位、分真は仏に似て来た菩薩、究寛は成仏で、其何れも仏知見に約せば即ち仏であるから則仏と言ふ。聖人は四信五品抄に、

(240) 名字即者叶経文ニ歟(艮 1539)

(241) 問云末代初心ノ行者制スル止何物ヲカ也。答テ曰ク制シテ止檀戒等ノ五度ヲ一向令スル称ヘ南無妙法蓮華経ト為ス一念信解初随喜ノ気分ト也 是則此経ノ本意他(艮 1540)

(242) 問フ不ル知ヲ其義ヲ人唯唱南無妙法蓮華経ト具スラヤ解義ノ功徳否ヤ答フ小児含ムニ乳不知其味ヲ自然ニ益身ヲ者耆婆ガ妙薬誰カ辮テ服セン之ヲ(艮 1542)

と名字即の位そのもので成仏する信解脱を主張して居られるが、ここでは一歩を進めて、所化の衆生に名字即の位で成仏を許すといふのでなく、能化の仏の位そのものが名字なのだといふ。即ち久遠元初本仏所持の正法は、成仏の本種子であって、能持の仏は無作出尊形の凡夫身なる名字童形の位、有作尊形の釈迦はその垂迹である、として寿量品の「我本行菩薩道」の御文を引用し、さて日蓮の修行はその久遠の御修行を末法に移し、久遠元初に説かれた成仏の本種子なる南無妙法蓮華経を説くのだと言はれる。こちらでいふ釈迦(迹也の釈迦)は、前の久遠釈尊とは異ることは見易いであらう。

さて、その本仏無作三身教主が、本果の仏身を現されたのは霊山の釈尊だが、本地本因身を示されたのは二度ある。

(243) 下種法華経教主本迹 自受用身ハ本 上行日蓮ハ迹ナリ我等カ内証ノ寿量品者脱益寿量文底ノ本因妙ノ事也 其ノ教主ハ某也(要29)

久遠の元初は今措いて問はず、本地自受用身は一度はその迹を霊山に上行大士とあらはれて、本因の尊位を屈して本果の釈尊から法華経を付嘱された。本因も本果も共に本仏の用の上で沙汰する法門ではあるが、前引の如く本因は却って本果よりも重い。教相一往は本果釈尊は師であり、地涌は、

(244) 我是の娑婆世界に於て――是の諸の菩薩を教化示導し、其の心を調伏して道の意を起さしめなり(涌出品)

といふ弟子の如くだが、再往は文上に於て父少子老(涌出品。相に於て仏に勝る)、悪世導師(取意宝塔・勧持帖品。用に於て仏に勝る)であり、文底に於ては内証の寿量品たる本法題目しか説かない(作に於て仏に勝る)、仏の治したまはぬ法華誹誇の者を退治する(力に於て仏に勝る)、故に、爾前を説き、謗法を責めない木果の釈尊よりも仏位は上だが、一国土一仏の原則を守り、法の重きを知らしめん為にわざと弟子位に在って法の付嘱を受けられた。

釈尊と上行と別な仏が出られたのではない。元々唯一の仏でおいでにたる本地自受用身の二つの働きであるから、本に遡れば上も下もない。唯、霊山では釈尊が本地自受用身(報身に主付けて無作三身をかうも表現する)の垂迹たることを既に示して居られるし、爾前の果勝因劣、法勝仏劣の姿があとを引いてゐるから、その説法の儀式をこわさない為に弟子位に就かれる。法華経の意からいへば因果倶時当体蓮華、法仏同体なのだが教相一往はこのやうに別教仕立の処がある。本の上の迹といふ口伝のピッタリあてはまる説相である。

二度目に迹を垂れるのは日蓮としてだ。その資格は一往上行の後身だが、所説の法門たる「内証の寿量品」は「脱益の寿量即ち二十八品中の寿量品の文底の法門たる南無妙法蓮華経」である。この南無妙法蓮華経は久遠元初の下種の法であり、本因の法である。然らば久遠元初に於ける本因妙の釈尊の御化導と末法日蓮の化導とは少しも変らない。脱益の法華経の教主は本果の釈尊。下種益の妙法蓮華経の教主は本因の日蓮である。

かうなると、日蓮は、唯、釈尊の便として、釈尊から与へられた法華経を説きに、出て来たといふ、遣使還告の仏勅使といふだけのものではない。

(1)聖人の資格を観心本尊抄に本門の四依として述べられた遣使還告の菩薩だとするのは諸門通同の義だが、その上にここまで延ばして来るのは、管見に入った所では田中智学、清水梁山の両大居土だけである。以て富士の法門が如何に諸門徒の間で特徴の強いものかを察することができるであらう。

上行再誕といふのは、唯、霊山と末法とを結び合せる手続上の問題に過ぎなくなり、日蓮は久遠元初の本仏の垂迹で、名字本因妙の法華経、文底の寿重品を末法に流通させる、まことの本仏だといふことに.なる。

(245) 下種感応日月ノ本迹 下種ノ仏ハ天月 脱仏ハ池月ナリ(百六箇 要32)

(246) 本地自受用報身如来の垂迹 上行菩薩の御身を凡夫地に謙下し給ふ(産湯相承 要相44)

(247) 梵帝等の諸天一同音に唱へて言はく善哉善哉善日童子末法教主勝釈迦仏(産湯相承 要相45)

同じ久遠元初の無作三身教主釈尊本地自受用報身南無妙法蓮華経如来の垂迹でも、霊山本果の釈尊所説の経は脱益文上寿量。末法日蓮所説の法は下種文底寿量の題目。所説の法に勝劣があるから能説の教主にも勝劣ができる。下種をしても熟脱が無ければ仏にならないから脱益が三益の中で一番勝れてゐるやうにもみえるが、教育が無ければ卒業は無い。機に依っては下種の当初直に脱する者もあり、下種の時熟脱に早晩の差は有っても成仏は決定する。之に反して下種の無い者に脱益の法を説いても無益だから、三益の功を剋実すれば下種が家に納まる。則ち三益の中にも下種が根本で、その根本の教主は脱益の教主に勝る。権実相対の重では霊山の釈尊を教主と立て、天台宗沙門円頓房日蓮の立場で諸宗を破折されたから、それにつり込まれて、聖人が本仏と言はれたのは霊山の釈尊だ。と、先入観念をもってしまふ人は、その釈尊を破廃して久遠元初の釈尊を立てられたのに気がつかないで、日蓮勝釈迦仏の法門ばかりに目をつけて富士魔族奴と食下るから、いつまで経っても文底本因妙釈尊の尊容を知りえたいことになってしまふ。

(248) 下種今此三界主本迹 久遠元始天上天下唯我独尊ハ日蓮也 久遠ハ本今日ハ迹也 三世常住ノ日蓮ハ名字ノ利生也(百六箇 要21)

久遠元始の本仏南無妙法蓮華経如来は、宇宙にひろがる広大な仏身で、宇宙の仏性そのものであり、宇宙最高霊だから凡夫の感見には入らない(本果妙でも法華経序品に出て来る聴衆は、過去長年の教化を経た聖者であり、更にその或示己身たる華厳の他受用報仏でも凡夫の感見には入らず、説法となると声聞さへ理解し得なかった。これは勿論歴史上にさういふ事が起ったといふのでなく、説相によって報仏とは如何なるものかを示してみるのである)。

その本仏も、実際に衆生を化導するには、久遠の本から、今日の娑婆世界に迹を垂れなければならぬ。本仏既に本因妙の無作三身なる無荘厳の御身だから、垂迹亦凡夫であり、名字即仏の位に在って名字即仏の法を説く。身は凡夫でも説く所は久遠元始の妙法だから、天上天下唯我独尊の仏位が凡夫身そのままに備はることになる。

さうなると、摩耶出胎の時宜言した釈尊の天下独尊は空手形になるのだらうか。口伝の「今日迹也」を、「末法今日」と考へても良いが、久遠に対すれば在末三千年位の時隔は竹膜の如きものだ。今日の中には霊山も伽耶も入る。在世の正宗分なる法華経の会座は僅に八ヶ年であった。その時のみ本果の釈迦仏は出でたまうたので、その前も、その後も、長い時間の間本果の仏は姿をお見せにならない。その間常に娑婆世界を教化してゐられた三世常住の仏身は何だ。尊形を具足せぬ本因妙ではないか。自我偈に常住此説法と説き、或は尸毘王、雪山童子、鹿王、不経大士等と、六道の身をかりて出現なさったのは、本果の釈尊の凡夫菩薩としての御修行のお姿だったのではなく、本因の釈尊の衆生教化の力用だったのだ。しかし、その間でもサテ法華経を正説なさる事は少い。「正使出干ニ世 説是法復難」だ。三世常住、常説法教化の仏身は本因妙。本因妙の教主は日蓮。然らばその御説法の時の御名を以てこれを呼んで、三世常住の日蓮と言って少しの差障りもない。

前からも度々言ふやうにこの書は宗教書ではなくて科学の本である。唯、宗教史の特性として、ここまで突込んで来なければ孔子を伝して魯の大夫を描くが如きことになる。宗教書なら大聖人と書いて史上高僧の用語なる上人聖人等の語は用ひない。科学書だから聖人とのみ記す。大聖人とは方便品に「慧日大聖尊」とあり、又「法王無上尊」「無上両足尊」とも説き、序品に「人中尊号日月燈明」と説く。是等皆仏の別号である。王、両足共に人身に約する。即ち大聖人とは「大聖の人中尊」の義、日蓮大聖人とは一「慧日の蓮華の法を説きたまふ人中尊」といふことで、共に仏といぶことである。今は科学に宗教は無いから大聖人の尊号を用ひず、科学者と雖も仏子の分際に在るが故に日蓮と呼び捨てずに聖人の号を以てするのである。最近史家の問に天皇を呼捨てにする者が有る。其は其で一権識であらうが、私は斯る非礼には同意できぬ。恩師山川智応博士の教を守って先師に敬称を用ひ、博士の御業績に絶大の敬意を払ひつつも、学上の沙汰に於て一分も猶豫せぬは既に御承知の通りである。

さてここまで来ると、中尊に日蓮御判と大書されるわけがヨホドはっきりして来るが、今度は本尊そのものに関する口伝を調べてみよう。

(249) 日蓮卜御判置給事如何 師曰首題モ釈迦多宝モ上行無辺行等モ普賢文珠モ舎利弗迦葉等モ梵釈四天日月等モ鬼子母神十羅刹女等モ天照八幡等モ悉ク日蓮ト申ス心也(本尊七箇相承 要相50)

両本ともこの後に「付之受持法華本門四部之衆悉聖人之化身可思歟」の二十二字を載せてゐるが、後註と思へるから、義に於て差障り無く、且、削っても影響無しと思はれるから引用しない。

十界列衆諸尊はおろか、首題さへ悉く日蓮御判の中に入ってしまふ。然らば日蓮御判の中に本仏の全生命が宿りたまふことになる。三位順師の釈に入れば、更に明瞭な説明が出て来る。

(250) 久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり(本因妙口決 要義126)

(251) 此日本国ハ久成ノ上行菩薩ノ顕レ玉フベキ也 然ニ天竺ノ仏ハ迹仏也 今日本国ニ可顕釈迦ハ本佛也 彼本仏ノ顕玉フ所ナレバ日本ヲ中国ト云也(日順雑集 要義172)

久遠元初の本仏は霊山の釈迦を迹とするから、迹の名を以て本を況して、(著者注、「況」は「誓う」「益す」の意)

(252) 本門教主釈尊(報恩抄1509)

とも言はれ、又その況本の本の名を迹に下して御身を釈迦と言はれ、シカモこの釈迦は本因、天竺は本果だから、日本の釈迦は本、天竺の釈迦は迹となる。この思想は順師ばかりではなく、又左京日教師の発明でもない。教師と略同時代で、富士門徒ながら全然法類の異なる西山眼師の『日眼御談』には、

(253) 法華経寿量品ニ云我本行菩薩道爾者本果己前歟己後歟誠ニ以テ大事也如何 答フ我本行菩薩道ニ二筋有之大智門ハ従因至ト修シ昇ル故ニ我本行菩薩道ト者本果也 次ニ大悲門ノ本行菩薩道ト者従果向因ト行スルカ故ニ本果巳後ノ本行菩薩道也 如此二筋ニ可得心也(

著者云く本果已後の菩薩道とは本因中己に本果を含む当体蓮華の法門なるが故である。

釈尊ノ理即名字観行相似ト修行昇進スル相ハ大智門ノ修行也従因至果ノ迹門ノ重也。是ハ修一円因感一円果ノ仏是也。自行極満心有化他ノ相貌也 次ニ不軽品ノ説相ハ本門ノ従果向因門ト可習――高祖ハ大悲門ノ御修行也故ニ本門ノ大導師ニテ御座ス也 是ハ妙覚極果ノ釈迦如来為下種ノ顕レ玉フ日蓮聖人ト本果以後ノ本行菩薩道也所ノ云本行ト者久遠名字即ノ行相ヲ顕シ玉フ故ニ本行トハ云也――正像二千年ハ本果ノ如来ヲ為本尊或ハ脱シ或ハ熟シ 末法ハ本因ノ高祖ヲ為本尊下種スル也 彼ハ本巳有善ノ(下種ノ済)衆生ナル故也 是ハ本未有善ノ衆生也 本未有善ノ衆生ハ無下種者永劫ニモ不有成仏 波ハ迹此ハ本也 本未有善ノ衆生ヲバ(仏ニスルハ)不軽大士ノ利益ナルベシ 不軽大士者釈尊本因也ト云事無疑 今末法之高祖ハ不軽大土ニテ御座ス也 サダニテモ有ルナラハ高祖ハ釈尊ノ本因ニテ御座ベシ 爰以太田抄云今既末法入ヌレバ在世結縁ノ者ハ漸々ニ衰微シ権実ノ二機皆尽ス 彼ノ不軽菩薩末世ニ出現シテ毒鼓ヲウタシムル時也云云(要 羲1)

先に論じた寿量品の我本行菩薩道の文の註にもなるから少し長く引用した。不軽は今経不軽品に出づ。折伏道化の人で、釈尊歴幼修行の時の因行だと流通還迹して説かれるが、本門の意を以て消すれば本仏或は説化身の大化であり、更に文底の意によれば高祖六或の化導なる垂迹身である。佐渡御書に、日蓮は過去の不軽の如く当世の人々は彼の軽毀の四衆の如しーいかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべきとあるのは、従因至果の意を以て不軽との関係を説かれたものであり、御義に、過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり釈尊は寿重品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なりと言はれたのは、文底従因向果の意である。

稍持って廻るが結局聖人は釈尊の本因だと、霊山釈尊に引掛けて本因妙教主説を打出してゐる。以て富士門徒を通ずる思想であることが知られよう。通行の御遺文でここまで突込んだ解釈をするのは容易ではないが、ここから改めて誰もが聖典として承認する御妙判類に戻ってみよう。

(254) 仰に云く 釈に云く凡夫も赤た三身の本を得なりと云云此の本の字は応身の事なり されば本地無作本覚の体は無作の応身を以て本とせり 仍て我等凡夫なり 応身は物に応ふ身なり 其の上寿量品の題目を唱へ出し奉るは真実に応身如来の慈悲なり(日向記)

本因妙口決には報身とあるが、これは無作三身を報身に主づけて、正在報身と報身中心で扱ふのが法華宗の例だから報身といふので、化他説法、和光同塵の側からつかめば無作三身中の応身を正意とすることになる。但しこれは同じ衆生教化の為でも三五塵点の熟益を破らない為に三十二相の荘厳で出たといふ意味での「一代応仏」とはちがひ、無荘厳凡夫形を応身といはれたものであることは、我等凡夫の語から察しうる。

聖人の仏身を報身とするか応身とするかでは面白い論戦がある。後に記す。

(255)寿量品所ノ建立スル本尊者五百塵点ノソノカミ当初以来此土有縁深厚本有無作三身教主釈尊是也(三大秘法鈔 2053)

此土有縁深厚とは、

(256)生死の若は退若は出有ること無く、亦在世及び滅度の者無しの、生れも滅度もせぬ仏だといふのだから、先刻の本因妙のことだ(寿量品)

釈尊は非滅現滅だから、滅を示された後も、

(257)柔和賀直なる者はすたはち皆我身此に在って法を説くと見る(同)

だから、誰でも三十二相のお釈迦様が霊山で大菩薩衆に囲綾されて説法なさるのを霊視し得るといふ解釈もできるではないかといふと、さうは行かない。仏身を見る位の霊視能力は天眼通級、普賢行級の、観行即以上の者の得分で、名字即の凡夫の分際ではない。三田光一比級の霊媒者流ではトテモトテモといふ所だ。名字即の凡夫が仏身を見るとは、凡夫の中に仏を見る即ち本因妙を見ることで、そんな化物然とした能力を発揮する事を要求するものではない。

本尊抄に(230)種脱を相対して一品二半劣題目勝の義を示し、寿量品の肝心妙法五字を授けるとあるのも、ここから振返って見れば題目は種益で勝、一品二半は脱益で劣の線が出て来て末法教主が説かれてゐることに気がつく。更に御供養物にかけて、

(258)白小袖銭一ゆひ又富木殿の御文のみなによりも かきなしなまひじきひるひじき やうやうの物うけ取しなな御使にたび侯ぬさてはなによりも上(名越氏)の御いたはりなげき入で侯たとひ上は(法華経を)御信用なき様に侯へどもとの其におはして其御恩のかげにて法華経をやしなひまいらせ給候へば偏に上の御祈とぞなり侯らん(崇峻天皇事 1639)

その他(228)(229)に引用した聖人側自身を法華経と言はれたのも、法華経1=本仏=日蓮といふ線だったと理解できるし、

(259) 主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるにかへりて或はのり或はうち或は処を追ひ(新池殿御消息 1847)

(260) 南無妙法蓮華経を境としてをこれる三毒なれば 人ごとに釈迦多宝十方の諸仏を一時にのりせめ流しうしなうなり(曾谷殿御返事 1871)

なども、「主師親の釈尊(の教)を」とか、「諸仏(の御使なる日蓮)を」などと、余計な挿入句をはさまないでも、御自身を釈尊と言はれたものだと、スラリと解釈できる。釈尊の語を法華経文上の釈迦に.のみ限定して考へたがる人は、必ずこの御書に挿入句を入れて解釈するが、挿入句なンといふものはなるべく入れずに済ますのが文章解釈の常道で、ここでも口伝から立返って見ればそんなものは不要である。新池氏も曾谷氏も口伝を受けた人と見るのはむづかしいが、その代り聖人直参の居士である。さういふ人はおそらく直感的に正しい解釈を為し得たであらう。

南條兵衛七郎殿御返事(198)は一往上行再誕法門そのものに見えるが、所に約して身延を霊山と言って居られ、顕仏未来記には天竺既に仏法無しとして、

(261) 四天下之中全無二日四海内豈有両生乎

と言はれたが、これなども前の勝釈迦仏の法門を理解して見なければ、徒なる大言壮語となるであらう。御義口伝に至っては類文甚だ多い。

(262) 在世には五千人仏の座を立てり 今末法にては日本国の一切衆生尽く日蓮が所座を立てり――日蓮に値ふ事足れ併ら礼仏而退の義なり(日23)

(263) 悪人とは法然弘法慈覚智証等なり仏とは日蓮等の類なり(日23)

(264) 父に於て三之れ有り 法華経釈尊日蓮是れなり(日39)

(265) 今日蓮等の頬ひ南無妙法墾経と唱へ奉りて日本国の一切衆生を助けんと思ふは豈に世尊の大恩に非ずや(日42)

(266) 迹は所化の領解成は仏の印加なり 今日蓮等の頬ひ南無沙監華経と領するは述なり 日蓮が讃歎するは成なり(日44)

(267) 妙楽の釈に云く子父の法を弘む世界の益ありと 子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり世界とは日本国なり益とは成仏なり法とは南無妙法蓮華経なり 今又以て此の如し 父とは日蓮なり子とは日蓮が弟子檀那なり世界とは日本国なり益とは受持成仏なり法とは上行所伝の題目なり(日182)

前半は釈尊上行父子の関係を説いて本因妙の文底法華経を以てつなぎ、後半は日蓮弟子親子の関係を説くいて、却って法は上行所伝の題目なりとし、種脱一双の関係互に映発するを示しておいでになる。実に上行付嘱が無ければ聖人は出て来られず、本因文底の説法が行はれなければ霊山八年は空振りに終る。

日向記にもある。

(268) 所詮末法に入て属于一人(是朽故宅―譬喩品)の利益は日蓮が身に当りたり 日本国の一切衆生の受くる苦悩は悉く日蓮一人が属于一人なり教主釈尊は唯我一人能為救護日蓮は一人能為救護(日30)

餘は略す。これらは大体日蓮=釈迦の御文だが、勝釈迦仏の文も少いけれども存在する。

(269) 此の妙法は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給ふ故なり(御義口伝 神力品 日123)

(270) 法華経の敵となり教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打十巻共に引散て散散に蹋たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ(下山御消息 艮1587)

これらの御文に至っては、相伝の意を以てするのでなければ全く途方に暮れるやうた大変な表現である。しかし、相伝を見て、既に聖人の立てられた本仏は、霊山の法華経八巻の教主釈尊の本地自受用身であった事を知った今は、何の苦も無く、挿入句も無しに、素直に領解することができる。

これで中尊南無妙法蓮華経日蓮在御判は、無作三身如来の尊体だといふことと共に、相葉博士が疑った「南無一乗妙典」と言ったのではだめで、「南無妙法蓮華経」と唱へなければならない理由も明かになる。御遺文にあれだけ釈尊々々と言はれた聖人が、御義口伝では掌を返したやうに無作三身無作三身と繰返して居られ、且、寿量品の御義に、

(271) 南無妙法蓮華経如来寿量品(日89)

と標出された理由もわかって来る。

本門の釈尊を本尊とせよとか、又は此土有縁深厚本有無作三身教主釈尊と言はれたにも拘らず妙曼の中尊は、未だ曾て一度なりとも「南無釈迦牟尼仏」と表現された事はない。「南無一乗妙典」にしても全くこれと同様であって、本尊の剋体は、「南無一乗妙典」と表現されうる法本尊(一部八巻文上の)でもなければ、「南無釈迦牟尼仏」で完全に示されうる寿量文上の釈尊でもあり得ず、実に本地無作三身を、所証の法、能化の教に伐り、能化の師、能証の仏に依って示された「南無妙法蓮華経如来日蓮大聖人」だったのである。

これを更に細分すれば、首題は本地自受用報身(法身であり且所証能化の法たる妙法蓮華経は自らその内に摂せられる)日蓮はその垂迹末法内証寿量の教主である。日蓮の御名は名字の凡夫としての名だから応身であり、又上行等の四士を含む(135)。御名の蓮字と首題の蓮字を比べてみると、御名の蓮字の方が大きいことは決して無い(数字は略す)、これは垂迹であり、且、正在報身の義を示す為であらう。しかし、首題に比べて御判が最も幅広になってゐるのは、未だ文証を見付けることができない。諸山相伝には随分御判に関するものが載せられてゐるが、未だこれこそ中尊御判が大きいことの説明なれと思ふやうたものにはお目に掛らない。

さうすれば史料を未公開の口伝に仰ぐより仕方がないから、やむを得ず今迄集めた材料を足場にして推定の歩を進めるしか道が残ってゐない。

それば下種今兆三界主水迹(248)に、久遠は本今日は迹と言びながら、三世常住の日蓮と言って居られることから出発する。貞応元年に生れて弘安五年に遷化した肉身の和尚日蓮が三世常住である筈が無い。三世常住の日蓮、久遠元始天上天下唯我独尊の日蓮と言ふならば当然霊の日蓮、日蓮が魂、凡夫身に宿った本因妙の仏様の事だ。御判はその霊的日蓮をあらはしたものである。久遠元始の釈尊はこの霊的日蓮に於て凡夫に働きかけうるものとなり、凡夫はこの日蓮に於て無作三身の仏と接触する。この両者は一にして二、二にして一である。この関係を明瞭に図示するとすれば、首題と御判名の完全合一が最も適当である。弘安期妙曼の中尊形式はかういふ原意を以て定められたものであらう。完全合一にその意が有るといふ御書も口伝も公開されたものでは管見に入ってないが、前に分類した重い妙曼がこの形式である所から、文献学的でなく、考古学的に推定されるのである。

大判を以て言はば妙曼は軽くなるほど首題と判名の関連が稀薄になる。特に俗人に与へられた妙曼に首題と御名にズレがあるものは、この法門を未だ領解できぬ機に対するものであらう。勿論定規をあてて書かれたものでなく、懸腕で一気呵成に書かれたものであらうから細かく言へば若干の例外の出るのは致方ない。唯一の特殊形なる随90の妙曼はズレが甚だ大きく、一見首題と判名が分離したやうにもみえるが、その代り御判が甚だ大きく、圧倒的な比例をもってゐるのは、本地自受用身と凡夫日蓮の接触点たる霊の日蓮聖人を強調されたものであらう。

文永式と弘安式の御判名移動もまたそれを説明する文献には当り得ないが、

(272) 一 武蔵國網島九郎太郎入道者日興ノ継父也仍テ所申シ与フル如シ件ノ但シ此御本尊者於テノ佐土ノ島ニ御筆也死去ノ後子息九郎次郎ニ伝フ之ヲ(本尊分与帳 学ニ115)

弟子分帳(本尊分与帳)には文永式妙曼の授与はこれしか記録が無いから、本尊として与へるのは、少くとも永仁六年といふ聖人滅後の時期に於ては、文永式は変則であったらうと思はれる。この推定は文永建治の妙曼に殆ど授与書を缼くことからも証明されうる。特に綱島入道にこれが与へられたのは、継父なるが故の賞翫ではなく、身内だから遠慮されたものであらうから、文永式は弘安式に比べて傍意の色が見える。さうすると文永式は弘安式に対して奪って言へば未顕真実である。

文献は直接にはないけれども前迹の身延正宗、弘安正中の線から割出して仮に説を設ければ、文永期はまだ上行後身法門さへ隠して居られた時であって、まして内証寿最の教主、本仏の本因妙日蓮などいふ文底法門は出し得ない時機だ。しかし、上行後身法門は既に隠密に説いて居られるから遣使還告の薩捶といふ地位を示す為に判名を梢小さくワキに寄せて、弘安式のやうな明瞭な表現は避けられたものであり、建治期はその中間にあると考へられる。

今一つ中尊に就いて言ぶべきことがある。其は各時代共、首題と御判名の構成する形が長三角形をなすことである。聖人が修行時代に真言の血脈を受けられた事は既に諸家の説があり、保田に伝はる不動愛染拝見御畫に、

(273) 自大日如来至日蓮廿三代嫡々相承

とあることからも立証できる。そして聖人の法門には各宗の立義が巧用されてゐることも周知のことである。

このために特に一宗に明るい人は、自分の知識に従って日蓮はこの宗の立義のまねをしたのだと言ひ切る事がある。曾て家永博士が口唱題目は念仏宗のまねだと『中世仏教思想史』で発表して、山川博士に『信人』誌上で猛烈な反撃を食った事がある。この時山川博士は、口唱題目は称名とちがふ。何も法然義を用ひないでも、法華経からも出て来るし、天台宗にも先例が有るといふ論法をとられたものであったが、卑見によれば両博士とも少々見当がちがってゐた。後から出て来る文化が前に出た文化の形を利用するのは文化史の常道であって、早い話が今も御料馬車に見られる昔の高等馬車の座席形式が、今の一等A寝台のコンバートに残ってゐたり、旗竿の先に槍が付いてゐなりするのと同じで、日蓮聖人が法門を新しく建立するのに古い形式を遠慮会釈なく利用されたのは、何も盗用呼ばはりして目くじら立てる程の事ではなく、釈尊も外道に対してなさったものだし、又、家永博士に言はせると盗用の被害者だった筈の法然和尚が、天台宗に対しては逆に利用してゐるのだから、山川博士も家永氏が文化史のクセを忘れた所を寧ろ突くべきだったのであり、題目は法華経から出たといふ、極めて当り前なことを事新しく論じた所で、家永博士の急所を突いた事にはならなかったのだ。

さて、聖人が諸宗の形式を利用なさったのは沢山ある。家永氏の所論は法華を良く御存知なくて展開された為の無理もあるが、利用された形式を指摘した点に於ては概ね正しい。まだ律宗からも逆に引繰返して末法無戒、叉は但借信持の無形式戒たる金剛宝器戒が立てられ、更に本門戒壇に至っては律宗の戒を遥に超克する。そしてこれも天台宗の国立戒壇思想の発展だ。服装などの化儀は大体天台に準じたが、鈍色のやうた高僧衣は用びず、薄墨が上古の風だったらしい。地引御書によれ延年の舞も行はれたといふ。術語などもなるべく天台宗のものを利用するやうにされた為に、後に天台法門との名同体異を分別することができず、天台の一念三千と日蓮宗の其れとの区別のつかない人さへ出来た。

(1)末法無戒とは形式戒が無いといふことであり、又、別教の戒を用ひないといふことてもある。全然戒を不必要とするものでないことは本門戒壇の語からも明かである。

(2)四菩薩造立抄には、

白小袖一 薄墨衣一 同色袈裟一帖(艮1854)

山門故実には

無動寺中ノ講説ニハ何ナル袈裟衣着之 答無動寺中ノ講説ノ時ハ悉ク常ノ衣ニ懸白五條也

尋云袈裟衣如何 答結衆モ人師モ大学頭モ皆□色ニ白五條ノ袈裟ヲカクル也常ノ白袈裟也

康安二年未七月十六日

於テ無動寺常楽院ニ住山之書ヲ漸々ニ注之畢 此書者無動寺常楽院等海法印ノ手記自筆矣是権僧正章海ノ所持焉一日入於覚林坊之学幅見ル之慇懃ニ求テ而以テ遂グ書功

現在日蓮正宗では法主から学衆に至るまで薄墨白五條衣を用ひ、明治十八年の興門清規では第十六條に薄墨の袈裟衣と定められてゐる。其他の派でもこれに準ずる法衣を着ける事があり、又、日興遺戒にも衣の墨を黒くするなの箇條がある。以て薄墨が宗門上古の風である事が知られる。富士は伝統を守る風が強いからそれが残ったのであらう。但し、白五條袈裟についての御書はないが、山門故実によれば天台宗の風が入ったものらしい。

かういふ傾向の中へ真言宗関係が入りこまない筈はない。事実妙曼を真言宗の胎曼だと権田大僧正が言ってゐる。もっとも真言では両界曼陀羅だが、強いて真言の線で解釈すれば金剛界の大日如来は首題に当り、胎蔵界の大日如来は御判名に当るから、妙曼は金胎統一の曼陀羅だといふことができよう。明王は法華経の文上には一切出て来ない。ここに日蓮宗の真言宗に対する「囲ひ込み」を見ることができる。

昭和34年11月7日 日蓮宗教学研究発表大会 小林是恭氏「二明王と曼茶羅」真の明王は法華のみにありとする法門を示す為に梵字を使はれたものであるとする。小林氏の発表は私の判断とは全く無関係に行はれたのだが、法華経の思想は当然かうなるべきものである。

三輪身に配当すれば、首題は自性輸身、判名は正法輪身、明王は教令輪身に当ると言へる。但し真言宗には本因妙思想がないから、判名を正法輪身として菩薩位とするのは梢薄手の感もあるが致方ない。口伝には明王を梵字で書く理由については各山に伝承があるが、教令輪身といふのは私の義推である。折伏の化儀から言っても、大書されてゐる所からも、図表で明王の扱ひ方が重いことからも、明王を本仏の教令輪身とすることは許されるべきことであらう。勿論この輪身の本地は、大日如来ではなくて、無作三身の釈尊である。

このやうに真言宗の法門が妙曼に取り入れられてゐるとすると、あの大三角形も一切知印の形の巧用ではないかといふ推定が生れて来る。

一切知印(1)(三角知印)は、

(274) 諸仏能生の父なり――即ち仏の自受用智身を表顕す。(漫荼羅通解 74)

諸仏化他の徳を生ずる大勇猛等の菩薩、仏母を春属とし、卍は平等無擬周遍法界の義を表す。といふのだから、秒曼に化他の徳を生ずる地涌四大士を春属とする大三角形としてあらはされてゐる中尊は、即ちこれ真実文底の一切知印であらう。史料が無いのでこれも義推だが、立正大学の研究発表大会でこの説を出したが一つも文句が出ず、却って木村日紀博士にほめられたので、当らずとするも遠からずであらうと思ふ。こんだ義推法門を発表するのは私の分際には過ぎた事だとは思ぶが、今は所見を記して清雅の高鑑に侯つ。

(1)一印とは智拳印を云ふ。即ち独一毘盧遮那にして三十七尊等曼茶海会の諸尊皆悉く大日一尊に帰入することを示して大日一尊を画く。これ宇宙間の万有諸法悉く六大法性の体大に帰することを示す――休大の位は自証の極位還同本覚の正当。金剛界――始覚修生の法身如来の大智の利用が無明煩悩業障を摧破して自心実相の理を修訂すること、世間の金剛石の能く物を摧破すること最も勝れなるに喩へて金剛と云ふ。

中台八葉は胎蔵曼茶羅の総体にして因位の九識を表す

即ち金剛界は大日如来の自証、胎蔵界は因位の九識だから、本門十妙で行げば金曼は本果妙、胎曼は本因妙に当る。

真実十界互具ハ如何、師日被唱給フ処ノ七字ハ仏界也奉ル唱我等衆生ハ九界也。

九界は仏界を裏とする仏だから本因妙、仏界は九界を裏とする仏だから本果妙、我等衆生と総を以て示してあるが、別を以て論ずれば能化の本師日蓮聖人に約し得る。

以上の推定が正しいとすれば、妙曼の中尊は大変な意義を持って来ることになる。仏教は従来無神論だと言はれて来た。それはマルクスなどの無神論などとちがふことは勿論で、本有の法体は法しか無く、仏は其を悟った人だから法先仏後、法勝人劣で、本有の仏といふものは元来無いものだと立てるのが常道だった。所がここで法はそれ自信無作三身の仏そのものだとなって、本有の仏があらはれる。仏が法に先行するのではないが、法が仏に先行するものでもない。人法一箇、法仏同体である。

これに類似した思想は新約聖書の、それもヨハネ伝だけに見える。即ち、

「太初に言あり 言は神と借にあり 言は神なりき この言は太初に神とともに在り 万の物これに由りて成り 成りなる物に一つとして之によらで成りなるはなし 之に生命あり この生命は人の光なりき 光は暗黒に照る 而して暗黒は之を悟らざりきとあるものの、「言」を「法」、「神」を「仏」と、又「光」を「法性縁起」、「暗黒」を「無明縁起」と解釈すれば、まことによく似た思想になる。

但し、米国聖書協会の英訳本によれば、

「すべてのものは彼の『手によって』造られた。そして彼なくしては、被造物は何物も造られたかった」とあって、神は造物主である。邦訳本では「言」に由って万物が自然と成ったといふ意にもとれるが、英訳本では創造説の線が強く打出されてをり、仏教の因縁所生説とは同じでない。

さうすると「言」は「一言の妙法」とよく似て来るが、同一の概念とはいはれない。「言」と共にある「神」が同じものでなければ、「言」も同じものとは言ひ得ないからだ。

又「言」「神」の内容にしても、仏教では法に南無妙法蓮華経の名を与へ、仏に三身即一身を談ずるのに、聖書では唯「言」と冬へ、造物神との一体を言っただけで、それから先の法仏一体(言神同在)思想に発展が無い。それだから似てゐるとは言ひゐうるが、同一といふことはできず、唯、ヨハネ伝は日蓮宗の法仏同体思想への方向付けは持ってみると言ってよいであらう。

  そしてその仏が、大菩薩でなければわからない華厳の他受用身でなく、衆生の意楽に合はせて随他意の説法をなさる阿含の劣応でなく、凡夫身ながらに随自意真実の法を説れるといふ応身常住の法門が展開される。法華経文上寿量に、我れ釈迦牟尼こそ本仏なるぞと摩耶出胎悉達多の凡身に即して本仏を示されたのを、直に人身に現ぜられた本仏の実在の証明であると立てるのが、一般日蓮宗学者の説であって、其は一往間違ではないが再往の意を以てすればなほ談道が徹底してゐない。何となれば寿量文上の釈尊は明かに荘厳の御身であって、凡夫形そのままではない。所化の機も「曽見諸仏諸根猛利智慧明瞭」(方便品)末法の「枝葉(方便品)本未有善」の悪機ではない。右は教相の上から見たものだが、教相を外して「六識迷妄所感の科学」で真向大上段にふりかぶれば、右の尊高を極めた仏身も大乗家の所造であり、ソンナものは六識の所感、論ずるに足りぬと片付けても、少くと大乗を記述した聖

者の定中に感見された虚空会であり、釈尊であって、現実の摩耶妃の御子釈尊では無い。大乗記述の聖者が仏在世の人、たとへば阿難声聞菩薩だったとしても、それは餘の大衆には小乗を説キ、大乗の機類に対して秘密不定の説法された釈尊であってヤハリ唯の凡夫ではない。末法本未有善の機の中には、大乗非仏説を唱える「歴史家」もゐるのだから、「この度し難き衆生」にも納得の行くやえ形で応身常住を説かなければ、三身常住も、凡夫即佛も、科学者だけは例外だとする、「隔歴の法」になってしまふ。

霊山御出現の釈尊のみに本仏を見るのではここでは話が前に進まなくなってしまふが、妙曼所顕の法門はこの障害を難なく乗超える。お酒が好きで、文字の書きちがひもする安房の国の民、延暦寺出身の学匠円頓房蓮長日蓮和尚の凡身が、そのままに本地無作三身の力を宿してゐるといふ、凡夫に形を借り本仏の歴史的実在が示される。ここに至って仏教は、観念上の有神論でなく、事実の上の有神論になる。更に木や紙で造った大曼陀羅はそれそのまに日蓮聖人の霊的身体だとなって、草木成仏の法門も応身常住とい日蓮宗の根幹法門も、現実の上に照明される。妙法大曼陀羅はかうした破天荒な意義をもって来るのである。

前にも言ったやうに、聖人が大乗非仏説の発生を予想してかういふ法門を立てられたのではない。唯、聖人の法門は、大乗非仏説が出ても困らないやうに出来てゐたのである。

もともと大乗家は所謂「大乗非仏説」論者である。教相判釈で小乗の劣応を捨てて大乗の勝応報身等の膀妙の仏身を採ったとき、既に悉達多、即ち歴史上の釈迦は事実上捨てられてゐるのであって、唯、それが同一釈尊の或示化身或示己身の、化益であるとする処に、科学的文献学なる教相判釈を守りながら、宗教的一貫性をもたすことに成功した原因があると言へよう。

さうは言っても仏教の有神論的傾向は今に始まった事ではない。密教で法身説法を立てて、法そのものであって説法しない筈の法身が説法をすると言ったり、又多くの「護法使者」の存在を説くのも、念仏で西方無量寿仏の実在を説いたりするのも、この方向に進んだものである。無神論は結局哲学であり、自力の難行で宗教的情操には答へ難いから自然さういふものが要求され、又、それが実相だから感得されたものであらう。しかし、その感得は徹底して本仏の真姿に接したものでない。密教も念仏も、真の常住は法身にしか許さない。救済者なる大日如来も阿弥陀仏も、報身化された法身や十劫正覚の他受用報身で、和光同塵して、人間になって娑婆世界に直接応化するとまでは踏切ってゐないのである。

天台宗では自受用身が草にも木にもなると言って応身化に一歩を進めたが、唯の草や木では単体無用の仏で、仏知見がなければそれが仏であることは分らず、仏知見があれば既に仏様だから今更成仏しなくともよい。成仏する必要のある衆生にとっては無用の仏身であって、やはり現実の、化益のある応身は打出してゐないことになる。

妙曼は日蓮の肉身の上に応身を立て、魂の内に報身を示す。故に「日蓮と同意」になることに於て弟子檀那のすべてが、心中の報身が活躍し、肉身の応身が仏のはたらきをするやうになる。その鍵となるものが、

(275) 一念三千の法門をふりすすぎたてなるは大曼茶羅なり(草木成仏口決 746)

であり、

(276) 此曼茶羅能能信ぜさせ給へし――法華経の剣キは信心のけなげなる人こそ用ユル事なれ鬼にかなぼうたるべし 日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ 仏の御意は法華経也 日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし――あひかまへて御信心を出し此御本尊に祈念しめ給へ何事か成就せざるべき充満其願如清涼池現世安穏後生善処疑なからん(経王殿御返事 985)

日蓮が魂を墨に染流して書いた本尊であることにより、其は現実の釈尊、本仏の応身の魂たる南無妙法蓮華経如来宿りたまふこととなり、之を信ずる人は己心中の仏性を開発して現身に本仏を証得し、諸天善神護法使者等は「諸天昼夜常為法故而衛護之」の仏説を奉行せん為に「受持の者を擁護」する。斯る本尊なるが故に聖人の肉体は涅槃の雲に隠れても、応身は本尊に姿をかへて常住することになる。応身は本尊だけかといふと、

(128) 一日蓮在御判ト嫡々代々書ベシトノ給フ事如何 師曰深秘也 代々聖人悉日蓮ナリト申ス意也(御本尊七箇之相承 再)

と血脈相承を受け法主が、生ける日蓮聖人として上は聖人の御本尊に連なり・下は聖人の職位を継いで、本尊を書写して弟子檀那に授与する、常住の仏となる。

遠く印度の釈尊を仰げば、尊くは感じられようが、土地も遠く、仏身も三十二相で人間離れがしてゐて近付き難い。これが祖師崇拝の起った源ではなからうか。禅宗などは最もドライに割り切って釈尊よりも師家を大切にするが、真言宗でも弘法大師を無大師遍照金剛と崇めて仏はのものと見、本願寺や単称日蓮でも一番大きいのは祖師堂である(柴又の題経寺は帝釈堂が一番大きしがこれは全く特殊倒だ)。凡夫身の仏で次げれば和光利物の法門にも納まらないからであらう。

ただし単称日蓮宗}は本来日蓮本仏義を立て得る経相を持っていながら、過去に政治上天台宗の勢カを利用する為に天台与同の法門を立てたのが本来の経相学を習ひ失ふ結果となり、現在では教相では日蓮は上行応化で本仏は寿量文上の釈尊だと立てゐるが、祖師堂大きく釈迦堂が小さいことは、修行の上では日蓮本仏を実行していることと言って良く、宗門上古の観心が日蓮本勝、霊山釈迦迹劣であったことの名残りを止めてゐると言へないであらうか。末寺に至っては正しく日蓮聖人像を本尊としてみる処が少くない。

(277) 法華前後の諸大乗経に一字一句もなく法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず(開目抄 艮766)

といふ諸経に対する批判は、この妙法大曼陀羅に至ってその出づる所を明かにするのである。

諸御書には凡夫即仏の義が多く示されてゐるので、日蓮聖人も弟子檀那も同じく本仏で、唯、師弟子のちがひがあるだけだと説く人もあるが、右の妙曼所顕法門からは同じ本仏でも弟子檀那は聖人の霊的体用に吸収されて始めて本仏の用を発揮し得る意が示されであるから、同じとは言へたいことになる。観心門では「如我等無異(方便品)」、「妙覚の釈尊我等の血肉だから体同だが、修行門では日蓮本、弟子檀那迹、本尊本、法主迹、法主本、四衆迹となる。

3 列衆の釈迦は中尊の脇士である

中尊の南無妙法蓮華経日蓮御判は、無作三身教主釈尊とも、本地自受用身とも言はれる本尊であることは証明された。それではその左側に位置する釈迦牟尼仏はどうなるのか。

(278) 日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし(報恩抄 艮1508)

釈尊が二度出て来るので先学諸師は随分困ったらしい。啓蒙に安国院日講師は多くの異説を紹介してみる。(宗全 啓蒙五1943)

(279)   一 本の釈迦に望めては、迹門塔中の釈迦は脇士となる――この説は釈迦を二人立てる。本尊抄と喰違ふ。

    二 前の釈尊とは妙法の事で、その法が本尊であり、能証の釈迦が脇士となる。

    三 多宝以下が脇士で、前の釈迦は同一仏を指す。

    四 釈迦多宝が本尊で「外の」以下が脇士

禅智日好師は扶老(宗全 扶老)に、

(280) 本尊は題目正意で釈尊は傍意である。この文には釈尊本尊を言ってゐるが、釈迦多宝が脇士だから法本尊間違ない。釈迦の文を以て法華経を示すことは報恩砂上巻にある(取意)

と言ひ、啓蒙の第二説を取って、一、三、四説を斥けてゐる。所謂人本尊か法本尊かの論争がこの辺を軸にして廻転して、何時までたってもキリがないので、所詮末師の釈を捨てて聖人御自身にお何ひを立てるしかない。これにつけて参考としなければならないのは観心本尊抄である。

(281) 塔中妙法蓮華経ノ左右ニ釈迦牟尼仏多宝仏釈尊ノ脇士上行等ノ四菩薩(艮 940)

(282) 正像二千年之間ハ小乗ノ釈尊ハ迦葉阿難ヲ為脇士ト権大乗菩薩嚢法花経ノ迹門等ノ釈尊ハ以テ文殊普賢等ヲ脇士ト――此(曼顕末法闘静)時地涌千(世)界(ノ大菩薩)出現シテ本門釈尊為脇士一閻浮提第一ノ本尊ヲ可立此国ニ(艮 940〜)

 この(281)から行けば釈尊の脇士は明らかに四大士である。啓蒙所引の第三説は、塔中の妙法蓮華経と宝塔の内の釈迦を同一仏とし、多宝以下を脇士とする。本尊抄では両者を完全に分けてゐるし、釈尊の脇士を多宝仏とする義が無いから、この説は成立しない。第四説も妙法蓮華経を措いて左右の釈迦多宝を本尊とするからこれも成立する余地が無い。

所が、その義勢で(282)を扱って、四大士を本門の釈尊の脇士だと読むと文法的におかしくなる。これには古来両様の点があって論争の対象になってゐるので、問題になる所にワザと点をつけず、類似の文章を少し前から引用しておいた。即ち、

小乗釈尊迦葉阿難 為脇士

権迹門等釈尊 以文殊普賢等 為脇士

地涌千界 出現 本門釈尊 為脇士

の三箇の文章のうち、小乗釈尊、権迹等釈尊、地涌千界は皆主語であり、為が他動詞、脇士が目的語、迦葉阿難は補語、以文殊普賢は副詞で品詞は異るが意は共に脇士と同格だ。さうすると本門釈尊も脇士の同格補語として良く、最後の文章は、

地涌千界が出現して、本門の釈尊を脇士とする。

と読むのが最も素直ではあるが、さうすると菩薩が仏を脇士とする義が出て来るので一寸都合が悪いので、文法的には無理だが、

地涌千界出現して、本門釈尊の脇士となりと読む人が多い。しかし、これでも肉身の地涌なる日蓮聖人が本尊の釈尊像の脇士となることになってこれも面白くない。

曾て私は東大研究室に助手や大学院学生が集まってゐる所で、この文を読ませて見た事が有る。この人達は皆今では新進の大器と見られてゐる人たちだったが、皆日蓮宗の先師方同様しきりと頭をひねって、大てい「本門釈尊ノ脇士ト為リ」と読んだ。それで良いかと念を押すと、文法的には変だが仏が脇士ではおかしいからと言ふ。成程さう考べるのも無理は無いが、この文章は少し下からひっくり返して読むと意味が通って来るので、

この時地涌千界出現して、一閻浮提第一の本尊を立て、その本尊には、本門の釈尊を脇士と為す。

の意に構文を分析すれば造作はない。かういふ仏を仏の脇士にするといふのは少いながらも先例が有り、唐招提の盧舎那仏は薬師を脇士とし、新薬師寺の薬師は七仏を光背に具へ、両界曼陀羅の大日は不空成就等の四仏を脇士とし、東大寺金堂の報仏は釈迦を華葉に敷く。仏位が高ければ仏を脇士とすることは少しも差支が無いのだ。(282)の文章は地涌は能立、本尊は所立、所立の本尊の脇士が本門釈尊である(従って多宝も釈尊と共に脇士になり、四士は脇士釈尊の脇士になる)とするのが一番素素直な読み方である。然るに先師の釈はナカナカ苦しい。

(283)  一 古本には為本門釈尊脇士とある

        二 釈尊が脇士となるのはおかしい

          三 本尊抄の文は四土を脇士としてみる

        四 能立の地涌千界のあとに所立の地涌の文を略してある(取意 啓蒙)

と写し誤りの古本を楯に取ったり、ありもしない文を挿入したりの大奮闘で、何とか読みかへようと苦労して居られるが、艮本は中山の原本に対校した本だから、変な古本を引張り出しても今は通用しない。文略といふ説も私のやうに次下の文を上に持って  来れば意味は通るのだから、それを措いて新しい挿入句を造るのは文章解釈上の邪道であらう。

(284)   一 地涌脇士といふ文は御書に多い

  二 しかし次の一閻浮提の文を現図の曼陀羅にかけて考へると文の続きが悪い

    三 地涌を脇士とする釈尊を一閻浮提第一と仰せられたので、妙法の本尊の事をさう言はれたのではない。日朗御譲状にも立像釈尊を一閻浮提第一とする文がある。(不老 上335

好師は法本尊論者の筈だが、立像釈尊に一閻浮提第一の本尊を許すのでは自語相違する。それも偽書を引張り出した苦しい説明の上でなのだ。「像法正法の権迹の釈迦に対して第一と云ふので当家宗旨の本尊の中に於ての第一の義にあらず」はまことに窮したりといふべきであろう。聖人にそんな使ひ分けの用例があるのなら又話にもなるが、好師が勝手にこしらへた「両箇の第一」て御書を片付けられてはたまらない。

講好両師は共に学匠中の大学匠でおいでになる。其だのにかやうな情け無い誤をなさったのは第一に妙曼を多く見得なかった為に、釈迦も多宝も在座しない妙曼の存在を知らなかった為であろう。第二に口伝相承を軽視なさった為ではないか。口伝相承によらなければ中尊の性格が明かにならず、並座の釈尊との区別がつけにくい。釈尊といへば寿量文上の五百塵点劫以前成仏色相荘厳の本果妙に限定して、文底本因妙、本地無作三身に想到しないから御書の文上明瞭に両箇の釈尊を言って居られるのを無理に一つにまとめようとしたり、一方を無視しようとするから、収拾がつかなくなるのは当然だ。

今一度口伝に戻ってダメ押しの一発を試みよう。

(285) 下種証明多宝仏塔本迹 久遠実成無始無終本法之妙法蓮華経皆是真実本也 久遠本師妙法也 本有実成釈迦多宝迹也(要相33)(285) 下種感応日月本迹 下種仏天月 脱仏池月(要相33)

塔中の妙法蓮華経即無作三身教主本地の釈尊の脇士に、脱益本果妙垂迹の釈尊と証明仏多宝如来が立ち、その脱益釈尊の脇士に文上弟子位の地涌四大士が立つ。第一重の師弟は文底の意、第二重の師弟は文上の意であって、脇士が二重になってゐるのだ。釈尊が二人居ではおかしいと言って先師方は苦労なさったのだが、形貌は木地が首題、垂迹が三十二相だからおかしくない。これに比べれば唐招提や両界曼陀羅は師弟共に三十二相だから却って区別がつけにくい。

 

 

4 迹仏は何故取払はれたか

文永建治の広式妙曼には迹仏が在座する。それが弘安には真偽未決の「大日本国衛護曼陀羅」(1)を除いて悉く迹仏が取払はれた。色相像で造立する時に十方分身仏だとトテモ造り切れないから取払ったのだといふ説もあるが、そんな事を言ったら地涌六萬恒沙の大土も萬八千の声聞も同じ事だ。曼妙では両者とも二乗は舎利弗迦葉、地涌千界は四大士の代表者だけで間に合はせてある。この手で行けば十方分身も東の善徳、西の阿弥陀位で充分である。取払はれたのには何かそれだけの理由がなければならぬ。

(1)清水梁山居士や山川智応博士は真蹟として居れるが、前述の如く、良い写真を得られないものは確実に真蹟と断定するのを保留する。この妙曼は座配に迹仏あり、中尊の形状御判名完全に一致せず、判形他に異る等弘安式の諸例に違し、伝承又加茂燈明寺の塔中から発見されたといふ弱点が有るが、蒙古退治の祈祷本尊と考へられる点、修行本尊の諸例を以て律するのは酷であると思はれる。聖人の本意は謗法禁断一国同帰に在り、それが出来れば当然御帰依の国主から正式に祈祷の依頼がある筈だから、私の祈祷は本意でない。本意でない祈祷の本尊は傍意の形貌として図顕されうる義がある。依って今は研究の枠から除外する。又除外した所で本尊の図顕は衆生成仏の為の修行本尊が正意だから論旨に影響は無い。

昭門の御本尊相伝抄には、

(287) 釈迦多宝分身仏ハ是三身ノ所表也(本ニ3)

朗門の御本尊相伝抄にも同様の記があり、これは本尊抄副状に、

(288) 観心ノ法門少少注シ之ヲ奉大田殿教信御房等ニ此事日蓮当身ノ大事也――仏滅後二千二百二十餘年未タ有此書之心不観国難ヲ期シ五五百歳ヲ演説ス之ヲ乞願クハ歴ルノ一見ヲ末輩師弟共ニ詣テ霊山浄土ニ拝見シ三佛ノ顔貌ヲ(艮 957)

とあるのに照応する。この配当ならば釈迦報身多宝法身、三世十方応身となるのだが、所が弘安式ではその応身が缺けてしまふ。山川氏は是を以て本仏必要の依文とする。

略式の妙曼では仏界の無いものさへ有るから、右の三仏は一往の浅義であり、再往の深義では他に三仏を立てるといふ予想も生じるが、どんなものであらうか。

ここで登場するのは御義口伝の「無作三身」の文だ。中尊にあらはされた本仏はそのままに無作三身で、その中に既に三仏が在る。さうすれば仏部の勧請でわざわざ三仏がおいでなんだゾと念を押す必要は必ずしも無い。

その上、迹仏が在座してはまだ他の不便が生じる。一つは観心本尊鈔に、両尊四士を塔中に在りとしたあとで、

(289) 十方ノ諸仏ハ処大地ノ上ニ表迹仏迹土ヲ故也(艮 940)

塔外地上に在る筈の迹仏が、文永建治式では塔中の両尊の左右に在座する。これでは迹仏が外相菩薩内証本仏の地涌の上位に在る事になり、さうかといって仮にも仏を菩薩の下位に配するのは形が悪い。

第二に当体義抄に

(290) 設ヒ雖モ佛ト権教ニ仏ニハ不可レ付仏界ノ名言ヲ(艮 991)

と、法華経を説かない仏は仏でないと言はれた。妙曼の構造は無作三身の如来が凡夫の胸中にもおいでになり、それを自覚する者が即身成仏することをあらはされたものだから、権仏にすぎない迹仏より尊い自分の本地を忘れて、迹仏を仏と思ふ意識を持たせてはまづい。

しかし、妙曼は当初は霊山会の形をあらはしたものだといふ法門によって立てられたもので、迹仏がなくては霊山会らしくないから初期には之を入れ、後には両尊の内に吸収して、別に迹仏の名を入れるのをおやめになったのではあるまいか。本尊三度相伝の三度本尊相伝には、

(291) 惣体所顕ノ十界号スル互具ノ仮諦ト也所謂釈迦多宝十方分身ノ諸仏ハ所在ノ仏界也(様相59)

と十方分身の在座を言ひながら、その前に、

(292) 中央奉案シ経題円融空諦所謂森羅万法ハ摂メ妙法五字ニ敢雖不闕減セ而モ已泯具体是仮ニ証スル円融空諦ヲ也――円融空諦互具假諦二法宛然トシ無二無別也(同59)

とあるものは、三諦即一の法門をのべながらその内に十方分身仏が形の上では消されながら、意には在座することを示してみる。

弘安式では在座しないのだから在座する方が傍意である。とすれば、文上に約しては釈迦多宝十方分身を三仏とし、文底に約しては中尊を三仏とし、相互に映発し合って三諦相続の相を示されたとするべきであらう。

 

 

5 明王について

前に私はこれを真言法門の巧用としての教令輪身であらうといふ義推を出しておいた。しかし、妙法曼陀羅を本仏の仏像(この用語に関しては次節に譲る)と見る外に、衆生心法妙を示すものだといふ法門もある。

(293) 此御本尊全く余所に求る事なかれ只我等衆生法華経を持って南無沙姦華経と唱る胸中の肉団におはしますなり(日女御前御返事 1626)

(294) 末法に入て法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり若然者貴賎上下をえらばず南無妙法蓮経ととなうるものは我身宝塔にて我身叉多宝如来也妙法蓮華経より外に宝塔なきなり法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経也(阿仏房御書 825)

(295) 本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝 日104)

相伝の意では法華経の行者とは先ず日蓮聖人であるが、弟子檀那にも蒙らせうる義があるから、これらの文を以て、総じて中尊南無妙法蓮華経は我等心中の仏性であると解して良く、御本尊全体を衆生心法の像を仏知見に約して述べられたものと言ってもよい。そして御本尊中の明王については、

(296) 愛染王ハ煩悩即菩薩也其色赤キハ婬欲ノ色也此婬欲即是レ道ト観スルハ明王也サテ不動明王ハ生死即涅槃ノ体也色黒キハ界内険氷生死ノ黒業不改即チ不動明王也サレハ愛染ハ恵也不動ハ定也化――比ノ定恵ノ二法ハ何物ソ我等ノ境智ノ二法也我ノ境智ノ二法ハ何物ソ只タ是我等本分ノ妙法也爰ヲ以経ニハ歓喜而愛敬能以千万種善巧之語言分別而演説持法華経故トモ説キ又云ク入於無量義処三昧身心不動トモ説ケリサレハ我等煩悩愛染スル時モ妙法ト唱レハ即菩薩ノ明王也、我等カ生死ノ動スル時モ妙法ト観スレハ即涅槃ノ明王也 全ク愛染不動トテ別躰ナシ只是我等カ色心境智定恵ノ妙法是レ也(要相 55)

法華経の文を巧に引いて文上に不動愛染の義がある事及び明王の所顕法門を説明し、淫欲是れ道と観じ、生死の黒業をそのままに仏になるといふ凡夫即仏の妙旨を示すものだとしてゐる。凡夫の所作即ちこれ妙法と開く本因妙法門である。それでは教令輪身の方は著者の勝手な義推で、相伝には影も形もないものかといふと、さうではない。

(297) 二明王者理不動智愛染ノ二法中尊ノ首題ハ理智不二ノ直躰ナリ十界円満ノ妙法利益衆生門ニ出ル日ハ釈迦多宝ト顕レテ理智ヲ示シ降伏門ノ日ハ二明王ト顕レテ理智不二ノ妙法ヲ示ナリ(当宗相伝大曼陀羅事 朗門 本ニ36)

と論じて以下は前の(296)と同義の文に接続する。ここでは両尊と互に表裏になる明王を示した上、前述の教令輪身と同義の降伏門に約して説かれるのである。

 

6 座配の上下について

常門の本尊相承之事には

(298) 尋云釈迦多宝ノ左右何カ勝可可得意如何 答口伝ニ曰此事一大事也世間ノ座様ヲ見ルニ左ハ勝レ右ハ劣也サレハ内裏ノ座ヲ見ルニ内大臣右大臣左大臣ト次第シテ左大臣ハ勝也此時多宝右座ス可勝ト思ノ処報恩抄ニ多南ノ宝ハ末座ト遊ス事如何 答口伝ニ曰先御本尊西向ト定也西向ノ時ハ南ハ左也然ニ是ヲ末座ト申事ハ一義ノ習ニ南道北滅ト云テ連テ習也 心ハ南ハ道諦(原作締)修行ノ方北ハ滅諦無為ノ方也故ニ南ハ道諦修行ノ方ナル故ニ末座ト御書也正キ口伝義云此御本尊ハ本門八品ノ御本尊ト御書定故ニ本門ハ自受用本覚ノ智体ヲ以テ賞翫スル故ニ釈迦右ノ座智恵ヲ以テ賞翫了テ多宝ノ理定座ヲ末座トシ玉フ也御書ノ所詮ハ本門八品ノ御本尊ニシテ智慧ヲ賞翫シ給心也(本ニ170)

これは口伝の変化性を如実に出してみる。尋云から答の前までは後加分で、答口伝曰以下が其の本文と一往は考へてよいが、第一答の口伝は「此事一大事也」までで(或は答口伝曰此事一大事也の十字を衍とすべきか)「世間座様」から「南末座遊事如何」は設問の茎となり、口伝の正味は「先御本尊西向」から「修行方故末座」迄と、「此御本尊本門八品御木本門」だけであとは後詮なり、後に文を整理する為の書込みであろう。しかもこの口伝そのものの内容にも少々問題が有る。

若し向て右を北の下座だとすると、梵天は釈提桓因の下座になり、上行は安立行の下座になってマズイ事になるので、この口伝は両尊だけにしかあてはまらない。二仏並座についての口伝は、昭門の御本尊相伝鈔には、釈迦多宝を其々、報身二身、境智二法、妙法二字、心念、定慧、生死、色心などに分けたあとで、

(299) 次ニ座ノ口伝有之報恩抄ニ多宝ハ南ノ末座ト御座事ハ習有此御本尊ハ本門八品ノ智躰ノナル故ニ智ノ釈尊ニ対境ノ多宝ヲ末座ト遊也 一義云一部ノ大旨ニ任也口伝也云云(本ニ2)

朗門では、

(300) 右北ハ釈尊左南ハ多宝也――不変ノ理随縁ノ智共ニ妙法也高下勝劣無之但分左右別南北時一塔両尊ノ座論セバ高下キ者南道北滅ニシテ南ハ道諦ノ因北ハ滅諦ノ果也因不及果意有之故多宝ハ下座卜云義可有之歟蓮師云多宝ハ末座云云従因至果一往義也(本ニ14)

(301) 多宝法身理ナリ釈迦報身ノ智ナリ――問云蓮師一所御消息ニ多宝ハ南ノ末座ニ御座スト在之如何ナル事ゾ乎示云迹本勝劣ノ一往ノナリ所以ニ多宝迹門修極ノ談不変真如ノ理ナリ釈迦本門寿量極説真如智也迹本相対スレハ迹門ノ理ハ本門ノ智ヨリ一重下レハ此ノ意ニテ南ノ末座ト書也本迹二門ノ顕説ノ相ニ付テ勝劣是レ一往ナリ再往論スレバ之ヲ妙法ノ真体随縁不変一念寂照ニシテ平等無高下也云云又示云北(原作此)上座トシテヲ末座云事弘決ニ有之南道化滅――是レ一ノ筋目ナリ云云(当宗相伝大曼荼羅事 本ニ29)

(302) 祖書中ニ多宝ハ南ノ下座ニ御座スト遊バス何ト云フ意ゾ云何 各相伝ニ云此本尊ハ西向成ル故ニ左座ノ多宝ハ南ニ可有也――末座トハ本迹勝劣ノ一筋也ト高祖已来相伝スル子細有之所以ニ多宝ハ迹門ノ終窮ニ顕ルハ不変真如也釈迦ハ本門寿量品ニ本地久成ノ身ヲ顕スハ随縁真如ト習也本迹相対ニ迹門ノ理ハ本門ノ智ヨリ一重下劣此意ニテ多宝ヲ末座ト下シ判シ給也但此本迹二門顕説ノ相ニ付テハ勝劣高下也妙法ノ当体ハ随縁不変一念高照ニテ平等無高下也(御本尊相伝鈔 本ニ69)

などがある。外に座位の高下を論じないものは略したが、両尊を境智の二法に配する点は各門共通であるから、どこかで勝手に付け加へた法門とはなし難い。そして境の多宝に対して智の釈迦を勝とするのも(299)(300)(301)に共通し、特に(302)には「高祖已来相伝子細」と断ってゐるし、又、かうして境智本迹の勝劣を言ったあとで一往の義であると断ってゐるのは、一致論者が挿入した但し書と見てよい。かういふ但し書を入れたのは一致論にとって都合の悪い文だからであり、一致論者が都合が悪いと知りつつ挿入句で変形するに止めて全然抹殺することができなかったのは古伝であるからだ。さうすると境智に於て勝劣を立てるのも正しい口伝として良いことになる。

しかし、南道北滅論は昭門になく(未公開のものにはあるかも知れないが)朗門には盛んに言はれてゐるが(301)ではその原拠は止観輔行伝弘決にあるとして「是一筋目」と、容与の義を示してゐる――といふことは、これは必ずしも古伝ではない、少くとも強く古伝ヂャと主張する程の足場はもってゐたいことを示してみる。ここまで来て(298)を見ると、南道北滅といふのは「一義習」だと但し書がしてある。それでは(298)の口伝の正味は御本尊は西向といふことだけになり、これだけは(302)にもあり、叉、

(303) 故阿仏房の聖霊は今いづくにかをはすらんと人は疑とも法華経の明鏡をもって其影をうかべて侯へば霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候(千日尼御返事 艮1954)

と通じる。多宝仏は東方からおいでになるのだから宝塔はそのままに東から西を向き、その中に入られた釈尊は多宝仏と並んで西を向かれ、大衆は東を向いて両尊を拝するといふ教相である。この教相から遂に口伝を作ることも考へうるが、朗門にもあり、多くの口伝に其々形を変へて伝へてゐるから、偽物と見るのは無理がある。

散々持って廻ったが、結局釈迦智仏勝の上座、多宝境仏劣の下座といふだけしか確定しな。これは報恩抄に単に多宝下座と言っておいでになる事の法理的説明ではあるが、釈迦多宝二仏の間に座位の高下がある。そして左側の釈が上位だといふことは、上行以下諸尊が悉く右に在るものが上位であることと顕著な対照を示してをり、これは印度流の右尊左卑を以て説明すれば、弘決ど引かないでもスラスラと話がついてしまふ。

さうすれぼ両尊は師位に在ってこちらを向いて居られるから上座の釈尊は向って左になり、上行以下は弟子位に在って、右が上座になる。上行は右、浄行は左、梵天は右、帝釈(釈提)は左、天照は右、八幡は左だ。真蹟の妙曼はすべてこの座配になって居り、殊に弘安式では完全に安定してみる。但し、右愛染の妙曼は他と異って不動が愛染の下座になる。境智二法を両尊と同じにあてはめれば、不動は境であり定である。愛染は智であり慧であって両尊の分け方で行けば不動の方が下座であるべき所だらうが、これに関しての口伝は無い。何れ両王を平等に扱ってゐるから、今の処両王には上下が無いものと一往理解しておくより外ない。

右尊左卑が原則的に認められるとすると、ここで重大な問題が起って来る。富士門徒で書写される人師の妙曼は常に中尊に日蓮在御判とあり、原則として宗門の人師がこの外に勧請さられるとは無いが、五老門徒では日蓮聖人や代々の人師を勧請する事が多く、その時必ずといって良い位に、右に天台大師伝教大師、左に日蓮大聖人日朗聖人等と並べることだ。日蓮を両尊四菩薩と同位の仏部に入れるならそれも一往話が通るが、天台伝教と並べてあるのだから、九界諸尊中の伝灯先師に入れてあること間違無い。それならば日蓮宗の所立に従へは天台伝教は迹化薬王の後身、日蓮は本化上行の後身だから遥かに薬王の上座になければならぬ。其を薬王の下座に据えてあるのは教相外れである。聖人を天台伝教の下座に配するのは三国四師の外相承の線では正しいが、妙曼は、

(304) 此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学は、寿量品の事の三大秘法是れなり。日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり(御義口伝)

で、内相承から出るのだから座配に外相承の辺は採り得ない。

しかも斯ういふ書き方をしてみる人に限って中尊首題の下に自己の判名を大書する。田中智学居士に言はせると、総勧請式の本尊(1)とした場合、末世の人師の木像を大きく造って中央首題両尊の下に置き、大聖人や六老中老の先師を小さく造ってその傍に置くことになる。流石に管見に入った所こんな総勧請式本尊を造った寺は一寺も無い。総勧請式といふのがそもそも後世のもので聖人在世には無かったものだが、それでさへ皆日蓮聖人像を中央に大きく安置してある。木像では聖人を中央に置くのに文字では自分を中央に大書するといふやうた誤りをすること自体がほとんどありうべからざる事であるのに、宗門の先師、シカモ昭朗等五老諸師がやって居られるのだから驚く。これはいかにもひどい誤りである。この中尊書法では凡夫である人師が、日蓮聖人の中だち無しに、イキナリ本地自受用身に接続することになる。それでは「上行所伝の題目」にならない。聖人との師弟関係を越却して直に無作三身に飛び付いては、謂己均仏の達磨禅になってしまふ。

これほど分り易い誤を五老ほどの方がなされたのは、本尊の写し方を相伝しなかった為と考へる外無い。先に興師大導師論の根拠として本尊写し様の問題をあげて予告しておいたのはこれである。本尊書写の法を知らない人が大導師とはなり得ず、遂に一人だけ其を知ってゐる人があれば、その人が大導師だと言って差支あるまい。

天照八幡と鬼子母十女が、特に建治以後中尊と密接な関係を保つことも見のがせない。これは右左の尊卑でなく、中尊に近いことが問題である。前述の諸相伝に屢々見えたやうに、これらが特に釈迦上行日蓮法華経等と一体であると説かれてゐるのは、或は本国妙、或は法性無明等色々の解釈が有る。これらは富士門徒の特徴の一つでる国体法門ともつながって来るが、今は将来の展開を予告して細論を避けておく。

(1)総勧請式とは妙曼藷尊を全部木像にして並べる本尊式である。これは多く中尊の南無妙法蓮華経を位牌様の板に彫って中央上部に置き、以下諸尊を全部こちら向きに置くので、妙曼所顕法門の示し方としては周匝でないが・見た目が派手なので末寺には屢々見掛けられる。但し、富士門徒の寺で見たことは無い

 

 

 

7 両尊について

既に両尊を境智の二法に配当する法門をみたが富士の御本尊七箇之相承には一重立入った義を示しゐる。

(305)  一 十界互具義如何 示云釈迦多宝ハ仏界也経ニ云然我実成仏已来乃至或説己身云云――巳上ハ是レ一代之大綱応仏ノ上ノ沙汰也(要相49)

これは導入部であって一往の義を示したにすぎないが、それで通常に報身とされてゐる多宝竝座の釈尊を応仏と言ってゐる所にただならぬものを感じさせる。

(306)  二 真実ノ十界互真如何 師曰被唱給ノ処ノ七字ハ仏界也奉唱我等衆生ハ九界也是則四教ノ因果ヲ打破テ真ノ十界ノ因果ヲ説キ顕ス云云此時我等ハ無作三身ニシテ住スル寂光土ニ実仏也出世ノ応仏ハ垂迹施権ノ権仏ナリ可シ秘ス々々(同)

再往真実の十界互具説で、十界互具が両重になってゐる。この応仏は普通にいふ小乗の応仏ではなく、本因妙抄に所謂

(307) 彼ハ応仏昇進ノ自受用報身(同13)

百六箇抄の、

(308) 応仏一代本迹 久遠下種霊山得脱妙法値遇之衆生ヲ利セン為ニ無作三身従リ寂光浄土三眼三智知見九界ヲ垂レ迹施ス権ヲ 後ニ説ク妙経ノ故ニ今日本迹共ニ迹ト得ル之ヲ者也(同17)

で、三位順師が本因妙口決に、

(309) 応仏昇進ノ自受用報身ノ一念三千一心三観者今日ノ釈尊ハ三蔵教ノ教主次第次第ニ通別円昇テ迹門十四品ノ中法師品マデハ劣応身也宝塔品ヨリ他受用報身トナリ寿量品ニシテ自受用報身ト成リ給フ所説ノ法門ハ従因至果ノ迹門也本門トハ云ヘトモ迹中之本ノ本門也(要羲一125)

と詳説したもので、釈尊が始めに三蔵教の劣応身を示現し、次第に大乗を説くにつれて勝妙の仏身に昇り(順師は他受用の外に勝応を立てないから権大乗の釈迦も劣応に摂せられてゐる)最後に寿量品に至って本果妙の自受用身を示されたといふ、小乗の劣応から大乗の自受用に変化した仏身を、始から法華(のそれも文底の南無妙法蓮華経)しか説かない本因妙の自受用身に対しては応仏昇進の自受用であって、未だ真の自受用身ではないと斥ける。例の文底法門から出て来る用語であるが、一往釈迦多宝に仏界を許しながら、再往首題の七字が仏界であり、衆生(その代表が日蓮)が九界であり、衆生が南無妙法蓮華経と唱へる時十界が一致してまことの無作三身になると示し、この仏に比べれば応仏は垂迹施権の権仏であると打払ってしまふ。

それでは中尊だけあれば良いかといふと、

(310) 中央ニ奉安経題ハ円融空論也所謂ル以森羅萬法ヲ摂ス妙法五字ニ敢テ雖不闕滅セ亡泯其体一散是仮託二円融空諦也総体所顕ノ十界ヲ号スル互具ノ仮諦ト也所以ニ釈迦多宝十方分身諸仏ノ所在ハ仏界他(心下鈔 要羲一125)

三度本尊相伝と同文の心底抄である。両者の関係は既に論じてあるから、ここでは心底抄の方を出しておいた。列衆諸尊は中尊無作三身如来所員の十界である。

釈迦多宝は本尊としての中尊の内容であって、本尊としての仏そのものではない。これだけを別に出して一尊四士、二尊四士、総勧請式等の本尊式をとる事が屢々行はれるが、それが聖人の立義でないことは次節に論ずるであらう。

卒然としてこの法門だけ聞いたら、とんでもない話のやうに聞えるかもしれないが、そこが別頭の教観なる所以であって、前にも証明した通り、本因妙抄等は確に聖人の口伝であり、妙曼の中尊はさういふ形になってゐる。大幅の妙曼を拝して実際に知られることは、所在の十界は殆どどれがどれと見ることはできず、唯、中央首題と御判名のみが明瞭に押されること、東大寺報仏華葉の大釈迦が礼拝者には殆ど見えないと同様である。

もどる