講について
法華講という題名にせず、唯の「講」と命名したのは、時間的にも空間的にも、長く広く世の中を見回してみたいという気持ちより、起こったものである。
そんな訳で、議題があっちに飛び、こっちに飛んで纏まらないかも知れませんが、それも一興。
先ずは、芝川NO18号に載っていた論文を紹介しましょう。編者が「本当に二考察三考察しなければならないと思います」との重いコメントを付されたものです。
次のアジ演説はウェブサーフィンをしているときに、たまたま見つけたものですが、我々講員として、反省材料としては、なかなかのものではないかと思い引用したものである。但し余り、気持ちの良い文章ではありませんが。
つぎは、筆者の好きな司馬遼太郎さんの本より紹介致します。司馬さんは土俗の真宗信徒と自己紹介に良く書いております。その目より見た講はどのようなものでしょうか?
日蓮宗の教団研究セミナーの目次を見ておりましたら、このセッションに相応しい論文が掲載されておりました。立正大学教授:中尾堯氏の講演録です。「寺院だけで講をやっておりますと、講の活動範囲と自主性が微小化し、矮小化していく。この影響がが大きいと思います。」とか「それと僧侶指導の営講では、講が生活の実体験と遊離していくのです。お寺に行ったらお寺以外のことをしゃべるのではないと、信仰のことだけということになってくる。そうしますと、<中略>せっかくの生活体験としての講の営みが薄められていくのではないかと思います。」
等々私が危惧している事がしっかり網羅されておりました。長い文章ですが、是非ご一読を!!
現代の講の形態を代表するものとして、創価学会の存在は無視できない。学会は日本の経済発展と共に成長してきたために、その文化は「公害」という概念に代表されるような、負の遺産を大きく抱え込んだ成長路線を邁進してきた。そのため、未だ世間よりリーズナブルな評価を得られていない。ところが、イギリスでは、日蓮仏法の在家運動が今後の社会を導く理に適ったものとして、評価されている。
発展の基盤の違い(時代、国柄)にスポットが当てられているが、その視点は大変参考になるものであるり、じっくり読んで頂きたい。
芝川19号に載っておりました論文を紹介いたします。
私の愛読書「芝川」の記事です。多くの方がこの様な感想をお持ちではないでしょうか? 僧侶を育てるのも信者の使命だと想います。「互為主伴」といきたいですね。