ある感想/悲憤
学会員の組織への愛着について僧侶側は自身、一国一城の主のせいか概して無関心・無理解のように見えますが、これはよくよく熟慮してもらいたい課題です。私事を引き合いに出して恐縮ですが、小生自身、宗門の住職や法華講幹部の冷淡さには少々呆れ返っています。というのも、小生の父は数年前、心不全で急逝、その3ヵ月後には母がクモ膜下出血で倒れ手術、一命は取りとめたのですが、水頭症の影響で記憶障害、言語障害、身体不自由の三重苦に陥り、現在要介護の身で自宅療養しています。
しかしながら、入院中も退院後も、住職はじめ講幹部の誰一人として見舞いに来たことがありません。
知っているはずの前任からもいっさい連絡してきません。数名の講員の方が来られただけです。健在なときは、父と一緒に各種行事や唱題会、勉強会にと熱心にお寺に通ったり、自宅を座談会の会場に提供したりしていたのですが、倒れたとたん、このありさまです。寺から拙宅まで車でわずか15分ほどの距離なのに、です。今、母に代わって、介護をしている姉が早朝勤行にお参りしていますが、学会のほうがよほど同志の面倒見がよいと考えることがあります。いくら血脈だ、戒壇本尊だ、富士の清流だなどと奇麗事をいっても、血の通わない、心の温もりのない寺院や法華講組織ではしかたないではありませんか。学会員が組織を抜けたがらないのも故なしとしないのです。
芝川第17号「覚醒運動再考」より