講についての一考察

 

 

正信覚醒運動も既に二十年の齢を数える年月を経てきている。そのような中に垣間見得てきた惰性と停滞等に注目し、自己反省も含め講の現状を精査し、講活性化の一助となることを念じて論を進めたい。

「講」は何のために存在するのであろうか? 例えば、周りを見回して馴染みの顔が遠のいた事に気づいた時、皆で善後策等を議論したことがあるでしょうか? お寺さん任せにして講として何か具体的な行動をしたことがあるだろうか? 自分に関わりないと、無関心で過ごしておりませんか? 又、今の「講」に明るい未来はあるのだろうか? 素直にご自分の講を見つめなおして見てください。 未来に対しての願望、それを具現化するための企画、年度計画等皆で或いは知人とでも語り合ったことがありますか? 我家でも子供達(皆成人しておりますが)を寺院活動に出席させるのには大変苦労しております。 このように、どこの講でも減退の相を呈しているのではありませんか? このような難しい疑問への答えが容易に見つかるわけはありませんが、藁をも掴む気持ちで昔読んだ本の事を思い出しました。それは、金沢法難関連の書物でした。 幸いにもこれらの中に解決のヒントともいうべき文証に廻り遇ったのです。 「無疑曰信に南無妙法蓮華経と唱え奉る事尤も大切なり。かつ又臨終の事は平生忘るべからず、別して一結講中異体同心に未来までも相離れ申すまじく候、中に於て一人地獄に落入り候はば講中寄合いて救取るべし、一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし、其の後北国中の同行乃至日本国中一閻浮提の一切衆生をも救い取るべく申し候、衆生無辺請願度と申すはこれなり」 このお言葉は、第三十一世日因上人が金沢法華講に宛てられたお手紙の一節である。 大石寺信仰が身延派の誹謗に遭い加賀の国禁となっている中、人目を憚りながら命にかえて信仰を守り通している信者に対して与えられた激励のお言葉であり、講の本質を端的に表現した「名言」でしょう。 当時金沢には大石寺の末寺は一寺も無いのに、少なくとも二十近くの講が結成され、「累代信者、数千人」の規模になっていたようです。 我々信者に求める気持ちがあれば、助け合う気持ちがあれば、何処にでも、どんな時代にでも「講」は結成できるのです。 例えば、個人名の冠された「池田宗信講」、地名を冠された「北郷臨終一結講」、「金沢題目講」等々がこのことを良く物語っている。 僧俗一致を目指しての我々の活動であるが、俗として自立した気概・行動がなければ講の再構築・活性化なぞ不可能でしょう。 今こそ、金沢法華講衆の様に、信・行・学の主体者としての自覚を持ち、諸活動の前面に踊り出なくてはならない時代であると確信致します。 講主催の唱題会・勉強会・研修会等々を各地区で開催することなど先ず手始めでしょう。 このように考えると、数年前に結成され、地道な活動を続けている吾お寺の「婦人の会」には大いに期待するものである。是非、講興隆の魁を目指して頂きたい。 終わりに、この章の論旨を総括してみますと、引用した資料が示唆することは、「講の主体者は信者であり、在家の生活者」であると確信するものである。 主体者である我々は歴代上人等の「お言葉」を身口意で受け取り、特に「一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし」を実践し「日本国中一閻浮提の一切衆生をも救い取るべく」「弘教」に力を注ぎ、金沢法華講に匹敵するような講を作り上げたいものである。

講の理想像は「僧俗が共々に広宣流布と令法久住を目指し、各人の信心向上を図り、僧侶が運営の中心となって各々の信心を見つめ、互いに磨きあう事」だとある御僧侶が述べておりました。 「尤もだ」と納得いたしましたが、現実と照らし合わせて見ると実体はどうであろうか? 現実問題として手続の師である御僧侶が御寺サイドの何らかの事情で信仰を続けていくことが困難に成った時、我々檀信徒はどうすれば良いのだろうか? 特に、本宗では、「信心と云うは一人しては取り難し、師弟相対して事行の信心をとる」(雑々聞書)ようにと教えられ、師弟不二でなくては成仏は叶わず、自分勝手に御本尊様に向かって題目を唱えれば良いのではないとされている。 日有上人も化儀抄にて「手続の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代々上人のもぬけたる故に師匠の所を能く能く取り定めて信を取る可し」と仰せであるが、貫首を詐称するような僧侶の出てくるこの悪世に、我々信徒はどう対応すればよいのか? ということで、この章の課題は「講の危機管理への対応」と致しました。平たく言えば、講の理想状況が崩れたとき、どうすればよいかという仮説の提案である。 この課題には、師弟不二と檀家制度とがうまく機能しないという実態が、問題をより複雑にしているように思える。 即ち、「寺に所属するということ」と「師匠の所を能く能く取り定めて信を取る可し」とが整合しない場合が往々にして発生するからである。 私事を例に引いて、この問題の具体点と根の深さを紹介致します。 私が前のお寺を離檀して今のお寺の檀徒となったのも、この種の事件に巻き込まれた為である。 前のお寺の住職は正信覚醒運動の中で、親とは袂を分かち、やがて奥様との実家との対立にて離婚をされ、その為か酒を飲みすぎてアルコール依存症になってしまったようです。その結果、日々の勤行・指導もままにならなくなり、住職としての勤めが覚束なくなってしまいました。私達は住職の先輩や当時の正信会議長にも相談し、他寺住職の代勤等も検討したのですが、善後策は見つからず、結局はこの問題に真面目に取り組んでいた方々は泣く泣く近くの正信会のお寺に移ることとなりました。 状況を把握していない方や事実を認めたがらない方々は、当然のことですが、そのままお寺に残りました。 そのお寺にも講は存在しましたが、極端に言えば何にも機能を果たさない組織体だったのです。主たる原因は巻頭で書きましたように「僧侶が運営の中心となって」の講であったためでしょう。総代、講頭等が補間機能を果たさなかった為に、柱が倒れたら簡単に母屋も潰れてしまったのです。このような現象はどこのお寺さんにも起こりうることなのです。 ですから、この問題について、読者の皆さんも自分の事として、先祖・子々孫々への責任問題として、真剣にお考えて頂きたいものです。 この現象の遠因は第五十九世堀日亨上人がお書きになっているように、正宗自体の古い体質も大きく影響しているようです。 「興尊御門下の富士の老若には、広宣流布に伴う大本門寺の、また大戒壇の建立が朝夕近しと期せられた。それが国権分裂群雄割拠の戦国期に移りて、待ち疲れて富士の折伏弘教の総挙が、漸漸希薄に成り行き、ついには各山その小山の生計にのみ没頭して微力の度がかえって急速に進展し、まさに、廃山におよぶべき運命に陥り、ついに徳川幕府の折伏去勢政治のために小安定の境涯に分置せられて、上代の大本門寺思想なんどはとっくの昔に忘却せられて、寸芽すらも萌え出でぬ、いやな春を恨むべき現代となり終わったのである。」 富士門流と言えども、長い間このような状況であったという事実を我々はきちんと認識しなくてはいけないのです。正しい事実認識なしでは分析も改善も何もできないからです。 こんな状況の中、戦後の学会の躍進により、急激に信徒が増加したが、前述の体質を持つ宗門が有効な対応が取れず、問題をますます複雑にしてしまった。 最近ではご存知の如く、正信会の破門、次いで学会の破門、更に法主絶対主義のカリスマ信仰の誤謬等々。 この先一体宗門はどうなっていくのでしょうか? 又、我々の属している正信会と謂えども、何となくジリ貧となり、日亨上人が指摘されているような状況に陥りつつある感がする。 更に云えば、正信会に属しているお寺にいると言うことが決して破綻の免罪符になるわけではないこともきちんと認識しなくてはなりません。私の悲しい体験がどこのお寺で、いつ発生するか分かりませんから。 危機管理というのは、起こらないかも知れない事について、きちんと対応を考えておくことが必要であるので、思いつくままいくつかの提案を書いてみました。 第一点は、前にも述べたように僧俗一致を目指しての我々の活動であるが故に、俗として自立した気概・行動力を保つこと。 例えば、 ・講頭等を核とした活きた講の組織作り。 トラブル等が起こった場合、お寺さん任せにせず、講としても講頭等を中心に問題の早期発見・早期対応の独自策を検討・実施する。 ・講員の実態把握と連携強化。 特に、講頭等は住職以上に講の実態を把握し、個々人、組織の問題等を的確に把握していなくてはならない。又、個人を織物に例えれば、住職との縦糸と講員との横糸の繋がりを密にすること。縦糸だけ、横糸だけでは簡単に切れてしまいます。 ・適切な情報開示 問題・課題の共有化を確実・迅速に図り、周知に漏れが無い様にして、講員個人レベルでも課題や対応策を適切に把握して、意見交換等が容易に出来る。 第二点が住職との緊張感ある関係の確立と維持である。 例えば、 ・住職への要望等の適切なフィードバック。 多くの方々は御僧侶に遠慮がある為か、お話を聞くばかりで、会話の成立しないことが往々にして見受けられるので、アンケート等の手段を用いて意思の疎通を良くする。 更に云えば、他寺との連携を密にして適切な情報を適宜把握して、講の運営等に反映させる。 人生経験豊富な熟年層が経験ベースに、例えば経営手法・管理技術や世間の実態等をお話する。 又、若者達は時代意識・流行等をリアルタイムにお話する等々。 紙面も尽きましたのでこの辺で筆を置きますが、このささやかな提案がより良い講作りの一助にでもなればと念じております。

 

 

 

戻る