サイト「正信覚醒を取り戻せ」に、以下のような主張あるいは告発とでもいうべきものが載せられておりました。なかなか厳しい論調と思い当たる事実を前に忸怩たる思いをしております。良き反省材料として使わせていただきましょう。
・ 正信会信徒の有様と保身的な僧侶集団
さて、信徒はどうだろうか? 実際に活動する青年部の実数など見る影もなく、このままでは間違いなく20年後は衰退である。創価学会アレルギーだとは思うが、僧侶は信徒同志に知恵がつき勢いがつく事を嫌い、横の繋がりも何も持たせず、ただ「寺に来なさい」では結束力が生まれるわけがない。
信徒が勝手に何かをしようとするとビクビクしながら、勝手な事をやると信心が曲がるだの姿勢がおかしいと、根拠のない批判をするのみ。必ず「あなたは学会癖が抜けていない」である。僧侶がこういうスタンスでは学会員を受け入れられるわけがない。自分たちに魅力や自信がない証拠ではないか。阿部氏や池田氏のような、欺瞞と勝手解釈でこじつけた法門で縛り付けるカリスマ性はよろしくない。しかしだからと言って、各人に責任を持って発言をさせず、皆一緒で将棋の歩兵みたいに信徒を扱うのもいかがなものか? これでは組織批判が表に出ないよう信徒愚民化政策と言われても仕方がない。
・信徒を遣いまわす勘違い僧侶
日常の些細な面においても、正信会の僧侶,、特に若い僧侶はとんでもない勘違いをしていると明言しておく。宗門僧侶のように「血脈を盾に威張っている」とは思わない…しかし内実は信徒に自由な発想や行動をさせず、全て管理して、その管理下において命令して、使うだけ使ってご苦労様もなく、まるで「富士の清流を守っている僧侶を助けるのは信徒の当然の役目」とでも思っているようだが、その態度はいかがなものか?
・正信覚醒とは何か信徒ももっと頭を遣うべき・客観的視点で状況判断せよ
具体例や信徒の不満はいずれ別の形で取り上げていく所存であるが、信徒ももう少し頭を使って自分の立場を大事にしたらいかがであろう?と忠告したい。正信会法華講員は、「口先ばかり清流の僧侶方」に仕えているが、それで大聖人は喜ぶとでも思っているのか…葬式仏教、大会のための大会…正信覚醒運動にはなっていない。身内僧侶だけ喜ばせて何が正信覚醒であろうか? そんな暇があったら、宗門や学会の邪義を徹底的に学び、論破せよ。と、言いたいが、青年部の御飯事リクリエーション行事では、あちらさんに馬鹿にされるだけであろうから、未来は暗いのである。
・正信会を訪れた信徒のパターン
学会や宗門の不正が嫌で正信会に来た信徒は多い。しかし大別するとたった二種類の集団が分析される。ひとつは「坊さんだって人間だから色々あるし我慢してここにいれば成仏出来る」と自分で徹底的に考えないで信服する集団。もう片方は「こんなやる気のない所は手応えがないから駄目だ」と言って、結局は本当に退転しておかしな指導者についてしまうもの。
少なくとも、阿部宗門や学会は極端なところだから、変だなと感じる人もいて、その受け皿として顕正会よりは正信会だろうと入ってくるのだろうが、その受け皿に魅力がないのが辛い。
・正信会に残った信徒の印象と傾向
正信会で安心している前者の人達の意見を聞くと、また二つに分かれている。「学会員のように外の情報を何も見聞せず、機関誌だけでしか判断をしない硬直型」と「不満はあるが、ここしかないと決めつけてストレスを溜めてるだけの気弱型」である。随分悪く書いているが、別に恨みはない。むしろ個人個人はとても良い人が多いと感じる。
しかし、いざ正信会を少しでも批判すると学会員のように顔色がかわり、三悪道の形相になって次のように言うのである。
「信心は心でするもので頭でするものではない」
馬鹿を言えである。どこにそんな文証があるのか。ならば大聖人様やその御弟子はなぜにあれだけの経典を読み調べ、我々に御書を紐解いたのか? 「信行学」の「学」は以心伝心で学ぶものなのか?
それでどうやって疑念の対象を判断出来るのか教えて頂きたいものである。どうやって邪義を論破出来るのだ?
まずは自分の姿勢を正せ、である。
以上の論文は http://speedstar.fc2web.com/ より引用したものである