講にみる日本のヨコ社会  

親鸞というのはようやく暮らせる程度で一生を終わりました。しかし、勝手に法義を立てているということで叡山からは迫害されますし、その子孫というのは、いまの京都の大谷の地に住んで、やっと食べられる程度でつないでいったのです。そういう窮乏の家に、室町時代、蓮如が現れます。

蓮如というのは、この家に生まれずに他の運命をたどったとしても、容易ならざる存在になっていたでしょう。蓮如と同時代に一休和尚(13941481)がいて、京都の二大名物というか、サルトルがいてマルローがいた時代のフランスのように、当時の京都の人にとって、一休さんがいて、蓮如さんがいるということは、ひとつの華やぎでした。そして二人は非常に仲のいい友達だったそうです。

一休は天皇の落としだねだという説があり、おまけに禅宗ですから正規の宗教で僧位憎階もありましたが、蓮如は怪しき新興宗教の家系の生まれです。本来ならば卑しめられるべきところを、それを友人にした一休がえらかったといえるでしょう。本願寺はこの挿話を誇りにしていて、蓮如と一休さんの仲が良かったというのは、自分のなかにある正統性についてのちょっとした寂しさが、そこらへんでまぎれるということもあったかもしれません。

蓮如は布教のためによく旅をしました。かれは親鷲の思想を、広めやすいように凹凸をつくりました。蓮如流のアクセントをつくったり、蓮如流の取捨選択をしました。親鷲の思想というよりも蓮如の宗教になったのです。たとえば『歎異抄』を禁書にしたことも、それです。

蓮如が登場するころ、室町時代には草原だった加賀の地が、やっと水田化しはじめて広大な水田地帯になりました。日本の水田史でいいますと、鏡のような大平野というのはかえって水田化しにくかったのです。たとえば、関東平野の水田化の成立も十一世紀と大変遅れていました。

つまり、それまで平野で稲作をする能力がまだなかったのです。平野は悪水が溜まり、それを水はけする技術がまだじゅうぶんでなかったのです。それより山地のほうが、段々畑をつくり、山水を上からずっと流しこんでいけば、田圃に水が溜まりますから稲作しやすい。それが平べったい鏡の,ような平野だと、悪水よけをするために大工事をしなければいけないので、放ったらかしてあったのです。

関東平野がひらかれたのは十一世紀、加賀平野は十二、三世紀だと思いますが、日本の代表的な穀倉が拓かれたのはずいぶん遅れたということになります。それを全部拓いたのは、一町歩の土地を持っていたら、甲冑を着て郎党一人ぐらいを従えているといったような零細なひとたちでした。

当時は農民も侍もなく開拓農民=武士でした。加賀の武士はみな父親か祖父の代が、そうした開拓農民達でしたが、そこへ鎌倉の任命で加賀国に富樫という守護大名がきました。これはあの「勧進帳」の富樫ですが、ひとびとのだれもが富樫なんかに税金を納めたくありません。

富樫なんか追いはらいたいと思っているところへ、蓮如の教団が入り、ワッと広まったのです。

蓮如は大変俗才もある人でした。浄土真宗独特の屋根の広い城郭建の寺院を設計したのも彼ですし、領地は要らない、信徒のなかに福田を求めるというのも彼の思想です。少しずるいのは、非常に有力な地侍、要するに大型の開拓農民に、あなたの次男坊を真宗に差し出しなさい、あなたの財力でお寺を一つつくりなさいというわけです。お坊さんになっても、肉食妻帯を禁ずる他の宗旨と違い、浄土真宗は俗生活で書るわけですから、その次男坊はお嫁さんをもらう、そして子供も生まれるわけです。そのようになる家を狙い撃ちして、一族郎党全部を真宗門徒にしていったわけです。

そうなれば、加賀人にすればもともと富樫は嫌いだったから、いっそお寺を造って、そのお寺にお米を納めようというふうになります。そうしたら富樫は困ります。蓮如も一つの平衡をもった人で、富樫という地上の権力をおびやかすまでに宗教のパワーがふくれることを恐れた人でした。その点は近代的な人物で、坊主が大名になるようなことは望まなかったわけです。

しまいには、蓮如がそそのかしたのではありませんでしたが、蓮如の秘書をしてた者が、山っ気を起こして、加賀の地侍にいっせいに火を付けて回りました。それで冨樫を追っぱらい、織田信長が後世やってくるまで、だいたい百年ぐらい加賀は上下なし、地侍と坊主の連合した自治制が続きました。

真宗坊主と開拓農民である加賀地侍の合議制による政治が、百年間加賀平野一帯に行われていたわけです。ここではみな思想的な話ばかりしていますから、後に西田幾多郎や鈴木大拙あるいは暁烏敏を生むようになるのはむりからぬことでしょう。

蓮如の布教のやりかたは、寺を中心にするよりも、講を中心にしていました。講というのは、村々で、隣村とこっちの村とで連合してつくられる、信仰を語り合う場所でした。

講は後に伊勢講だとか、富士講だとかいろいろな場合に使われていきますが、元は蓮如が発明した言葉で、同時に組織用語でもあったわけです。

それまでは村には小さな村落領主として地頭がおり、それと百姓との縦関係だけだったわけです。百姓としたら、講というあたらしい場のおかげで隣の何兵衛ともこの講を通じて友達になれるし、さらに別の大きな講へ行くと、またあたらしい友達ができる。日本人が横の関係を結べたのは、このときがはじめてでした。日本の社会が、だいたいタテ社会だというのは、中根千枝さんの説のとおりですが、ヨコ関係も講を通じてか細かく存在したのです。

 

 

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