本宗における講組織の歴史を通して教団のあり方を考える
中尾 堯
(文学博士 立正大学文学部教授)
先ほどご挨拶がありましたように、桜の花が非常に美しい時期でございます。おととい京都から帰ってまいりました。おかげさまで京都では大変いろいろなものを発見することができました。また新聞などでご紹介申し上げたいと思います。こんなに立派なものを見つけたり、調査させていただいてよいのかという恐れさえ感じます。
今日は「『講』の歴史と役割」ということでお話しさせていただきます。私が歴史を研究し始めたのは、一つは日蓮聖人の伝統をどう理解するか、あるいは把握するかということですが、もう一つ、私には基本的な願いがあります。
それはこの学問を始めてからずっと変わらないわけですが、日蓮聖人の教えを伝道する側ではなくて、受け取る方から考えてみようという希望を貫いているわけです。
実はこの間、宗宝審議委員会のときに、宗務総長から辞令を伝達されました。その中に十林寺、「住職」となっていたのですが、私は「住職」ではありませんで「宗徒」ですので、急遽書き直していただきました。実際には住職をしなくてはいけないのですが、住職になっていないわけです。あと何年かこのままでいたいと思っています。それはやはり、私は広める側もさることながら、受け取る側から日蓮聖人の教えを研究してみよう、理解してみようという考えがあるからです。
そういう中で一番考えたのは、「講」をどう扱うかであります。皆さんの中には、もうお話をしたことがあるので、お聞き及びの方もあるかもしれませんが、昭和34年に、私は今の日蓮教学研究所の所長をやっておられます渡辺宝陽師と一緒に、まだ若いときでしたが、千葉県に旅をいたしました。2泊3日の旅でしたが、中村檀林から飯高檀林の方を歩きました。あの辺には古いお寺が点在しておりまして、安久山の円静寺というお寺にみんなで立ち寄りました。そうしましたら、小さいお寺ですけれども、鴨居のところにこのくらいの板本尊が掛かっておりました。上には中山五代目の日暹上人のお曼荼羅がございまして、その下に、人々の名前がたくさん書いてある。これを見てびっくりいたしました。その年代が応永34年ですが、15世紀の半ばです。
それを見まして、私ははたと膝を打ちました。まだ若いときで24歳のときでした。それを見て、これはいけるのじゃないかと思い、そこに書いてある人の名前を一生懸命ノートした。実はこれが私の学問の出発点になってまいりました。
それは中山法華経寺の教線の及んでいる、昔は千田の荘といっていましたが、千田の荘という地方があり、その辺の人々の名前が連なっていたのです。帰ってからいろいろ書物を読んだりして、そこに名を連ねてある人々の社会的な立場とか、どういう階層の人であろうか、どういう立場の人であろうか、そういう論文を書いたのが、そもそも私が中山法華経寺と縁を結ぶきっかけになったわけです。
ですから、受け取り手の方からの信仰を考えていくことを、非常に漠とした話ですが、昭和34年に、私はこれを「講」という形で受け取ってみよう、明らかにしてみようという事になりました。それが先ほど言いましたように、私の一生に亘る研究テーマになりまして、今もそれには変わりありません。そういう事で、私が「講」について非常に興味をもっている事をまずご理解いただきたいと思います。
しかしながら、一言で「講」といいますが、これは様々な解釈の仕方があります。教団によって、あるいはその立場によって、いろいろ理解が異なっております。そこで少し理屈っぽくなって難しくなるかもしれませんが、「講」について、その始まりから、その展開までを簡単にお話ししておきたいと思います。
「講」の始まりは日本の古代の寺院であります。「講」という言葉が一番最初に出てくるのは、聖徳太子の「講経」―お経を講ずること―です。『勝鬘経』と『法華経』の講経をなされたのです。『日本書紀』に出ております。推古天皇はご承知のとおり女帝です。勝鬘夫人の仏教信仰についての話をまとめたのが『勝鬘経』ですが、推古天皇は聖徳太子を招かれまして、三日間に亘ってこの『勝鬘経』について講義をお受けになり、非常に感激いたしました。次に今度は『法華経』の講義をされました。『法華経』の講経についてもまた感じられまして、播磨国の水田、百町を布施されるわけです。現在も播磨の水田の百町にあたるところがあり、そこは「太子町」という町になっております。私もここに二、三回お伺いしたことがあります。そこに行きますと、そのいわれを伝えているお寺が一カ寺あります。大体播州平野の真ん中で、非常に地味のよいところです。後ほどまた聖徳太子は『勝鬘経義疏』と『法華経義疏』、つまり『勝鬘経』の解説書と『法華経』の解説書を書かれたのはいうまでもないことです。これが「講」ということの始まりです。ですから「講」というのは、お経について話をする、そういう事ではないでしょうか。ただ、ここで申し上げておきたいのですが、「講経」というのは、ただお経を読んで、字句を追って話をすることではないのです。つまり聖徳太子は、聖徳太子ご自身がどのように『法華経』あるいは『勝鬘経』を理解されたかという、聖徳太子の考えでこれを講経されている。そこには講経をする方の主体的な立場が強く認識されております。そういう講経をなさったので、推古天皇は大変お喜びになって、感激のあまり水田百町を布施されたわけです。
ご承知のとおり、これからの日本仏教は、政治体制――律令制といいいますが――と非常に密着しまして、どんどん伸びていくのです。
ちょっと余談になります。私の考えですが、皆さんも天平時代、奈良時代の仏教は国家仏教である。天皇が仏教に対して非常に大きな夢をいだかれまして、「あおによし」という歌で知られますような大変な仏教の都をおつくりになった。町の中には官立の寺院が甍を並べていた。そういうお話をお聞きになったと思います。そこで学生諸君は、歴史の試験を受けるときに、国家仏教、東大寺、西大寺などがというようなことで、学生はこれを丸覚えに覚えます。
しかし、ここでちょっと私見を申し上げておきたいと思います。それまで神道があったのに、どうして仏教を広められたのでしょうか。神道でもよいのではないのか。「それは大陸からきらびやかな仏教文化を輸入したのだ」という話が返ってくるわけですが、私はちょっと違う考えをもっています。
古代の世界はそれまでの世界と全然違うのです。なぜかといえば、端的にいいますと、奈良時代以前は、蘇我氏とか物部氏とか、それぞれの豪族が活躍していたころ、そのころは政治はどうやって行われていたかというと、口伝えで行われていました。天皇が神の意を受けて、口で伝えて、その言葉を聞いて政治を行っていた。オーラルの政治と我々は呼んでおります。ところが奈良時代になってきますと、これが一転して文字の世界になるわけです。ですから、すべての命令はみんな文書でまいります。それから地方から中央に贈られる貢物は、みんな「木簡」といいまして、漢字で書いた木札がついております。とにかく文字によって通用するのが古代の政治です。
ですから、言葉を換えて言えば、律令体制の時期とそれ以前の世界は、要するに文字の世界であったか、文字の世界でないかということです。これは大きな相違だと思います。要するに、日本が文字社会になったのは奈良時代からです。
今度は宗教の事で言えば、私どもが神社に行きますと、神社にはほとんど書いたものが無い。皆さんは神社に行くと、祝詞があるじゃないか。私どもは一生懸命祝詞とか宣命とか、そういう古い記録を探すのです。ところが無いのです。神道とは本来的には文字を書かないのです、口述なのです。ですから神さまの意図を受けて、神主が神様に代わっていろいろ言葉をいう。これが祝詞です。それを覚えるのが面倒くさいものだから、祝詞の参考書を書いて字を読むようになったのは、これは神道の堕落だと私は考えております。つまり神道は、文字ではなく、音の世界、口の世界です。
ところが仏教は、ご承知のとおり経典の世界、文字の世界です。そうしますと、律令体制の、新しい古代の、新しい奈良時代の日本の国を統べていくためには、文字によって政治を行っていかなければいけない。そのためには、口ではなくて文字で思想をあらわす仏教によらなければいけないだろう。これがあっといううちに仏教精神が日本の国を覆い尽くした理由ではないかと思っております。
ですから、お寺さんとか、お坊さんといいますと、必ず漢字が何でも読めて、字を書かせたら上手い、話させたらなかなか故事来歴を非常に上手く話す。これはやっぱり今に至るまで、僧侶に対する、あるいは仏教界に対する人々の夢であります。その伝統は、私は奈良時代にまで遡ってよいのではないか。もっというならば、聖徳太子にまでさかのぼってもよいのではないかと思っております。少し難しくなったかもしれません。
ですから、私ども現在の僧侶がおかれている立場は、僧侶に対して人々のいだく観念は、実はこれは昨日今日始まったのではなく、千数百年という歴史があることを申し上げておきたいと思います。
さて奈良時代になりますと、寺院内部での学問研鑽の場が講であります。古いお寺に行きますと、講堂の中に両方に高い台がおいてあります。あの台は両方から代表者がでて、大きな声を出して討議・討論をする台です。そういう台が必ず置いてあります。つまり講会とは、僧侶の研究集会であり、問答の場であります。ですから講は、非常に大事なセレモニーとして行われていたといえましょう。
ところがだんだん仏教が広まっていく。人々の間に広まって生活の場に定着していくようになると、この講会がだんだんと儀礼化していくわけです。そして講会が始まりますと、講会には人々が、特に貴族ですけれども、お金を出してその施主となる。施主となって、そこに名を連ねますと、そこに現当二世の祈願、現世安穏、後生善処の祈願が行われるようになってまいります。
そうすると、そのような講を行うためには一つの取り決めが必要になってくる。そこに講式、例えば涅槃講式とか舎利講式とか、そういう一つの儀式の形が定まって、それぞれの記録が残り始めるのです。特に『法華経』は、経典としては大変優れたものですので、この『法華経』をどのように読むか、どのように理解するかという学問が盛んになってきました。
この間、と申しましても去年の5月頃だったでしょうか、京都の立本寺さんに頼まれ、ちょっとお会いしたいという話がありましたので喜んでまいりました。貫首さまが、自分の部屋に来なさいというので、お部屋にお伺いいたしまして、いろいろ話をしていたのです。それは立本寺の古文書、あるいは絵などの史料の写真集を作ってくれないかという話をされていました。それは「大喜びで」といいながら、ひょっと見ておりましたら、貫首さまの後ろにちょうどこのくらいの蒔絵の箱がある。そっちばかり見ておりましたら、貫首さまが何を見ているのだろうと思われたらしくて、「何を見ているのですか」と、大阪の方ですから「何見てまんねん」と言われました。「いや、貫首さまの後ろに蒔絵の箱がありますが、中に何が入っているのだろうと見ているのですよ」。「そうですか。これは私も何だろうと思って、この間ちょっと汚れていたので雑巾で拭きました」。「雑巾で拭いたのですか。蒔絵の箱を雑巾で拭くのはまずいですよ」、「まずかったですか」。それで「中を見ていいですか」、「ええ、どうぞ」というので出してみた。『法華経』が八巻入っておりました。きれいなお経です。出してみまして、一巻開いてみた。いやいやもうびっくりしまして、目が点になりました。これは平安時代のお経です。写経でありまして、すばらしいものです。私の鑑定でみますと、大体十一世紀の終わり頃、源平合戦の前の頃です。ですからもう九百年になります。そして開いてみましたところ、きれいなお経です。鳥の子を黄色く染めてある。それにまず金で線を引く。線を引いたところに写経をきれいにしている。なかなか達筆です。なかなかそろっていて美しいのです。写経をしたら、あちこちに鳳凰とか、唐草とか、普通の鳥とか、草花とかを、金銀を使ってきれいに描いています。それもお経の文字を避けるようにして描いている。それに墨で発音について所々書いてある。それからその上に朱が打ってある。朱で、例えば「爾時世尊」の場合は、時の場合は、濁りますので点が二つ打ってあるのです。そういう赤い点がたくさんある。これは大変なことです。
広島大学の小林教授が五年前に学士院賞を受けられました。「角筆」といいます。これは何かといいますと、鹿の角をとがらせて、それに柄を付けたもので、墨を付けないで書いているのです。要するに引っ掻くようにして書いているのです。これを角筆と呼んでいます。何も付けていませんから、むろんこうやっては見えない。こうやって探すのです。これが大変なのです。四日間ぐらいかかりまして、貫首さんが「まだやっていますか」とあきれるぐらい朝から晩までこうやっている。目が痛くなりました。それで記録をとってまいりました。
皆さん、諷経をお読みになる方が多いかと思いますが、諷経を読むときに、序品から読んでいくのです。私も池上で随身をしておりましたときに、毎朝諷経を読んでいきます。そのときに先輩が、「中尾、おまえね、お経下手だからしようがないな」とよく怒られました。「中尾」というと「お経が下手だ、下手だ」というのです。そこの随身をしていた人は、身延で大変なお経を訓練した人もいるのですから、それと比べられたら、こっちはたまらんと思ったのですけれども、とにかく上手い人がいました。二部の授業が終わってからお寺に帰ってくると十時でした。十時から三、四十分お経を読まされる。それで「序品」を読んで、「方便品」を読んで、「譬喩品」を読んでまいりました。それで一巻と二巻を読んだところで、「まあ、このくらい読めればよいだろう。お勤めであとはやれ」というのでやめられたのです。私は最後までちゃんと習うかと思いましたら、それで終わった。「どうしてですか」と先輩に聞きましたら、「譬喩品まで読めたら、もうあとは読めるのだ」ということでした。「ああ、そんなものですか」と、それで習うのが終わってあとは朝勤の読経で鍛えられました。
しかし、このことが今頃になって、大変な意味を持つことが改めてわかりました。なぜかといいますと、平安時代の『法華経』は、大体「譬喩品」のところまでしか訓点が付いていない、読みが付いていない。あとは付いていないのです。おそらく私が、「譬喩品が読めれば、あとは読めるよ」といわれたと同じようなことが、平安時代にも言われていたのではないでしょうか。そういうことを国語学者に話をしましたら、大変喜んでおりました。
それも、今いった角筆もその「譬喩品」までしか書いていないのです。私はそのお経を見ながら、いろいろものを考えました。『法華経』の写経というのはただご利益をいただこう、あるいは功徳を積もうということで写経をして、そのまま納めますが、そうではなくて写経をきちんとして、それに訓点を付け、読みを付けて、後世に確実に残そうという考えではなかったでしょうか。つまり仏法を後世にまで残すために写経をし、訓点を付けたのです。ですから、「一々文々是真仏」という言葉が表しておりますように、1文字1文字の文字、それが一人ひとりの仏さまである、そういう考え方からいたしますと、文字を間違うわけにはいかないのです。ですから大変な校正をいたします。2回、3回、4回と校正をしていくのです。そしてどの本によって校正したかもよく書いてあります。
そうしますと、私どもは平安時代の装飾経といって、きれいに装飾を施した『法華経』もございますが、それらはただ単に書写の功徳だけでなく、書写した『法華経』の中に五種法師の受持・読・誦・解説、あとの四つまできちんと盛り込んでいたのではないかと思っております。
そのようなお経を使って講経する。すなわちお経についてお坊さんがお説教する。あるいはお坊さん同士がお互いに研鑽しあいという場面が、平安時代の仏教では非常に現実味を帯びて蘇ってまいります。
ですから私は、日蓮聖人がお出になる約百年前には、そういうような『法華経』に対する非常に真摯な信仰が、寺院の中における「講」という形で行われていたと考えるわけです。
中世に入ると、貴族社会では講会が年中行事として定着してまいります。特に「法華八講」といって、『法華経』八巻を1日に1巻ずつ読んでいきます。そしてそれを読んだ貴族たちは、それぞれの自分の感激を表すために和歌を詠んだのです。「法華経和歌」というのがこれです。今、立正大学の高木豊先生が「法華経和歌」の集成を考えて、ずいぶん努力なさっております。私ども非常に期待をするわけですが、これはそのような貴族社会での、一つの「講」のあり方だと思います。しかもその「講」が年中行事として定着してきます。そして『法華経』の八講の前後には儀式が執行されます。
ただ、では信仰をもっている人がそこに集まって八講を行いまして、そうでない人は来なくてもよいのではありません。貴族はその「法華八講」に列席することによって、自分たちが貴族であるという意識を強くするのです。
つまり宗教というものと、一つの貴族社会というものがピタッと一致しているのが、平安時代から鎌倉時代です。この伝統がずっと続きますけれども、これが貴族社会の講会だと思います。
もう一つ、今度は武士社会でどのように講をやるかということです。武士の一番大事なことは一族を守ることです。一族の象徴となる寺が氏寺です。私どもにとっては、中山法華経寺は大本山ですけれども、中山法華経寺は中世におきましては房総地方の雄族であります千葉氏の氏寺でした。ですから千葉氏の財力で運営されます。それから法華経寺の末寺はみんな千葉氏の所領でしたから、教線が領地に沿って伸びてまいります。例えば法華経寺のある人たちは、佐賀県の小城で光勝寺を造っております。あの辺に進出しているのは千葉氏の一族の血縁関係をたどってのことです。ですから「講」とは、そういう血縁関係、祖先のまつりが基本的になっていると思うのです。
日本で「村」が出来上がっていくのはそのころです。農民たちが自分たちの判断で耕作をしよう、そういう形が一応できていったのが14世紀から15世紀です。そのときに農民たちは、真剣に五穀豊饒を祈るのが通例です。そこで村に小さなお堂を造って五穀豊饒の祈願をいたします。今では少なくなりましたけれども、かつて村を歩きますと村堂がたくさんありました。そのような村堂ができたのが、ちょうどこのころです。地名を見ましても釈迦堂跡とか、法華堂とか、そういう堂の地名がありますが、そういう場所が、今申しましたような村の仏教儀礼の施設があったところです。そこで五穀豊饒の祈願や祖先の祭祀が行われた。
先ほど申しました安久山の円静寺にある板本尊が、実は当時のこのような村堂に掛けてあったのです。それがうまく今日まで残ってきました。
それから都市では、町の辻々に説教堂があります。持仏堂といって、有力な商人は自分の仏間を持っておりました。そこに旅の人たちを、坊さんを招いてお経を読ませ、説法をさせたのです。
例えば日像上人が、佐渡の日蓮聖人の霊跡を回りまして、北陸道を経て京都に入られました。最初に投宿されたのが、実は柳酒屋という酒屋の持仏堂です。そこを中心に伝道を開始されて、後に妙顕寺を建てられた。その持仏堂がそのまま残っており、これを大きくしたのが今の妙蓮寺です。とにかく都市社会では、このような生活の場に設けられた小さなお堂を基にして、伝道生活を進めてまいりました。
いろいろ申しましたが、中世の「講」は生活と密着している。貴族社会で行われる「法華八講」のような講は、貴族の枠組みをはっきり確認するもう一つの役割を果たしている。あるいは武士社会では、武士の血縁による一族の結びつきをはっきりさせるための一つの役割を宗教は果たしている。農村社会では、春には水を引き、秋には水を落としていく。そういう時折々の農事がうまくいくようにと祈る、そういう祈りを捧げるお堂で講会が開かれている。都市では非常に不安定な生活を、とにかく平安に護持しようと、不安からの救いを求めて信者たちが講を営む。そういう「講」の儀礼や組織が出来てきまして、とにかく生活と密着した形で講が行われていた、宗教行為が行われていたといえると思います。
さてそこで、「講」といえば組織ばかり申し上げても仕方がないのですが、僧侶の行動を考えておきたいと思います。
ちょっと話が変わりますが、江戸時代の初めに、寺院法度が次々とだされます。「法華宗寺院法度」というのが幕府から出されます。それを読んでおりますと、新義非法、つまり新しい事を言ってはいかん、自分勝手な説教をしてはいかん。それが新義非法の禁止です。それともう一つ、坊さんは自分のお寺にちゃんと定住して、そこで寺をきれいに保ち、葬式法要をやりなさいということです。
そうすると、お坊さんはお寺にきちんと住んで、やるべきことをやっておけ、これが江戸時代の幕府の法令です。ではそれ以前はどうであったか。この反対を読めばよいのです。禁令とか命令は、反対の意味にとればよいのです。今はこうなのだけれども、こうではいけないという逆のことですので寺院での定住を定めた法度からは、逆に僧侶が定住していなかったことが伺われます。ですから中世のお坊さんは、移動性が基本になっていたと思います。
例えば、久遠成日親上人にいたしましても、あるいは日像上人にしましても、大覚大僧正にしましても、とにかく歩きに歩いているのです。もうとにかく歩いている。私が若い頃に、日親上人の伝記をまとめてみました。日親上人の遺跡を全部歩きましたけれども、大変な苦労でした。とにかく歩きに歩いた。つまり移動性を基本的にもっております。ですから、一人の僧侶は複数の講組織を指導しておりました。決して一つではありません。いくつかの講組織を指導しております。講の方も、一人ではなくて何人かのお坊さんを自分のところに呼んできて「講会」を開いております。
要するにお坊さんは、普段いつも旅をしているわけです。旅をしていて、一年に一回か半年に一回、そこを訪れて、法要をしては、またどこかに去っていくわけです。そうするとその場となったお堂とか、あるいは小さな寺院は、だれが管理しているかといえば、その地方の有力者がその祭祀権をもっていました。千葉氏の領分では、千葉の一族の人で、そこに住んでいる有力な豪族が、ある寺を管理しておりました。そこへ一年のうちの決まった日にお坊さんがやってきて、説法をし、お経を読んで、またどこかへ去っていくのです。
そう考えてみますと、中世の農村の「講」は、やはりその時代の潮流を非常によく反映しているといえると思います。村の運営の姿が反映したり、その村を支配している有力者の立場が反映したり、あるいは本山にあたる法華経寺なら法華経寺の方針が反映をしたりしていると思います。それをめぐって様々な議論が常に交わされておりまして、久遠成日親上人はそういう中から出てきた方です。
そう考えてみますと、信仰と生活は、私たちが思う以上にぴったりと一致している、そういうことがいえると思います。こういう例はいくらもございます。
具体的に申し上げますと、中山法華経寺の場合は、地方に導師職を設置しておりました。例えば先ほど申しました佐賀県には、鎮西導師職という職をきちんと置いておりました。日親上人はその代表として、導師職をもって鎮西に下られたわけです。それには一門の有力な僧侶を任命しておりました。この導師職とは、一応寺にいますけれども、その地域の教学はもちろんのこと、その教学に基づく様々な信仰行為についても、はっきりと発言する資格をもっていた人です。ですから貫首のご名代として、その地域の信仰をきちんとまとめていく立場にあった方です。
それから先ほどのことと重複しますが、地方の寺院や講坊は、領主や有力者が管理しております。例えば日親上人のお父さんは埴谷左衛門尉ですけれども、その埴谷におけるお寺は、日親上人のお父さんの埴谷氏がこれを管理しております。そのように地方の有力者がきちんと宗教施設を維持している。そういう状況です。定まった日にお坊さんが訪れて講会を開きます。定まった日とは、守護神の縁日とか、有力な僧侶の命日です。八日は釈尊誕生日、十八日は鬼子母神さまのご縁日、十三日は日蓮聖人の亡くなった日ですし、二十日は日常上人です。
中村に中村日本寺のあるところは、日常上人の非常にゆかりの深いところでありまして、今横浜の妙法寺さんに行きますと、一幅のお曼荼羅があります。日祐上人筆だと思いますが。そのお曼荼羅に「中村二十講」という脇書きがあります。これを影山先生は、中村には題目講が二十もあったのだという話を書いておりますが、それはそうじゃなくて、日常上人のお命日が二十日であるから、「中村二十講」なのです。その「中村二十講」は現在も続いております。
それから小さな講坊が寺院に成長するのです。例えば、これは私の友達の安中観史師が住職をしておりますが、市川市の宮久保というところがあります。そこに宮久保講演というのが資料にでてきます。今そのお寺は高円寺です。おそらく宮久保講演がでた、その講演が高円寺になったのかなと私は推測しております。
このようにして、小さなお堂が後の世に寺院に成長してゆきます。それから村ごとの「講」が地域的な集まりをみせる。今まで申しましたのは、小さな村の「講」がいくつか集まって、この地域は日蓮宗だけの村ですぞと、そういう形が生まれてまいります。
関東でもずいぶんありますが、例えば千葉の飯高の方にいきますと、飯高檀林の付近十五、六の村がみんな法華です。「皆法華」と書いて「かいぼっけ」と読んでいますが、皆法華でありまして、その間には他宗は一軒もない。それを「固法華〔カタボッケ〕」ともいいます。これはどういう事かといいますと、一生懸命信行に励んで、固く信仰を守っているから「固法華」だという、これは信者の人がいうのです。ところが周囲の、天台宗とか真言宗の人も、「あの辺は固法華だからな」と言うのです。なぜ固法華かといえば、あの法華の人たちは本当に意地っぱりでしようがない。片意地法華の「片法華」だという話をされておりました。いろいろトラブルも時々起こっているようです。しかしながら法華の村が出来上っていく。これもやっぱり中世のことです。法華の地域の誕生です。
ずいぶん理屈っぽくなってまいりましたが、昭和五十六年のことだと思います。法華経寺の当時の貫首さまは渡部日皓上人でした。私は非常に親しくしていただいておりました。出身が同じ広島ですので、子供のときからずいぶんかわいがってもらいました。貫首さんになられると、「きみ、ここでまた会うとは思わなかったね」とよく話をされました。その貫首さまが、頂妙寺の寺宝が確かにあるかどうか、それを探してみてくれという事でした。そこで学生を連れて、七月二十日前後に東京からまいりまして、宝物を運び出しました。私はお願いするときに、「ご宝物を見せて下さい」と言わないのです。というのは、「ご宝物をお見せしましょう」といって出されたのは、今まで知られたよいご宝物しかお出しにならないのです。ですから私は最初に、「宝蔵をきれいに掃除をさせて下さい」とお願いするのです。非常に几帳面な貫首さまで、宝蔵の戸が開くと、中がきれいにピカッとしている宝蔵をみますと、ご宝物がきれいに整理されていて、まず新発見のものは期待できません。ところがあまり整理整頓のよくない貫首さまで、中がぐちゃっとなっていると、我が意を得たりと思って喜んで宝蔵の掃除に取りかかります。きれい好きでない貫首さまは大歓迎でございます。
そのときも参りまして、それで頂妙寺さんの宝蔵を開けたら、きれいじゃない、汚いのです。それで本当にほこりを払いながら外へ出したのです。そして全部確認しまして、あとをきれいに掃除をして、また元に戻した。そして長もちを入れていきますと、こんな箱が一つだけ残ってしまった。「これはどこに入れるんだね」といいながら、うろうろしていましたら、「ちょっとまてよ、それを開けてみようじゃないか」と開けました。するとその中にもう一つ漆塗りの箱が入っていました。鍵が掛かっておりまして、「これは鍵があるぞ」というので、今日開くのは無理かなと思って触ってみましたら、鍵がすっと抜ける。それを開けてみたら、中に江戸時代の終わり頃の古文書がたくさんガラガラッと入っています。「ああ、これはまた後にしようか。また来るから」と思ったが、ちょっとまてよと思って、もう一回中を開けまして、出そうと思って手を入れたのです。そうしますと、手が十センチぐらいしか入らない。つまり二重底です。上の古文書を出してみますと、下に落とし蓋がありました。その落とし蓋を開いてびっくりしましたのが、その中に大変な古文書があったのです。その古文書の中には、織田信長の手紙とか、豊臣秀吉の手紙とか、すごいものがありまして目を見張ったのです。
これはどういう古文書かと思ってみましたら、表に「十六本山会合用書類」と書いてある。「十六本山会合用書類」とは、天文法難の後に、京都に法華系の本山が十六ありまして、その十六本山共有の重要文書で、これを入れた箱が毎年年番で次々とぐるぐる回っていたのです。この箱があることは私ども知っていたのです。というのは、あちこちの本山にこの古文書箱は、その中に入っていた文書を落としているのです。妙顕寺もそこへ落としている。十六本山会合、「会本」と呼んでおりますけれども、会本という組織があったということはわかっているのです。ところが、先輩である影山先生も宮崎先生も、一生懸命それを探されたのです。私も探していたのです。おそらくこの書類は、大きなお寺にあるに違いない。妙顕寺を一生懸命探したのですが無いのです。本圀寺にいっても無い。本能寺に聞いてみても無いのです。私どもはとうとうこの書類は、どこかに捨てられたか、どうかして無くなったのだろうと、存在をもう諦めていた。それが目の前にあったのです。
そのことを大喜びで宮崎先生に申し上げましたら、あの調子で、「何でおまえが探さなければいけないのだ」と怒っているのです。「我々が一生懸命探したのに、なんでおまえが行ったときに出てくるのだ」と怒っているのです。「しかしよかったよ。おまえが探してよかったね」としみじみ褒められました。羨ましかったのでしょうね。もう皆さんが何十年となく探されたものが、今、目の前に出てきたのです。
その中に、天正三年、信長が京都にいたときに、あの京都の町の中を、日蓮宗の法華の本山が手分けをして、ずっと勧進をした、その勧進帳が残っておりました。これは面白いですよ。ご承知のとおり、京都は上京と下京に分かれております。下京は商工業者がたくさんいて、庶民的で騒々しいところです。上京はお公家さんとか上層の町人がいるところです。この上京を全部勧進をしているのです。そして勧進をした金額、お金を出した施主、その施主が所属している本山、それがずらっと書いてある。それからお金は誰が集めたかというと、お坊さんが集めたのではないのです。一つひとつ町があるのです。高辻町とか、あるいは祇園西町とか、そういう町がありまして、その町の中には、一人ずつ町代(町の代表者)がいる。つまり町の有力者がお金を集めている。その集めたお金を会合に全部出して、それで会合の運用に使っているのです。
そうしますと、これは面白いのです。天正三年という年に、京都にどのような法華の信者がいたか、全部一切合財わかるのです。これは大変な資料で、その資料によってもう二人ほど若い学者が出てきました。
それを見ますと、上京のたくさんある日蓮宗の、当時は法華宗といいますけれども、法華宗の信者から、町の代表者がお金を集めて、それを会本に出している。受け取りもちゃんと出ております。そうしますと、京都における法華の信仰は、京都の町総ぐるみだったのではないか。つまり町総ぐるみで法華の信者になっていたのではないかというのです。
さらに興味深いことは、一つの町がありますと、その町の中に、この家は妙顕寺、この家は本能寺、この家は妙満寺とか、それぞれ一つの町の中にいろんな本山の信者がいる。しかもそれは一軒、この家は妙顕寺の檀家ですというのではないのです。同じ家の中に、ご主人が妙顕寺なら奥さんが要法寺で、息子は本能寺の信者というようなところがございます。そこらあたりが今研究の代表的な問題となっているようです。とにかく、まだまだ家の宗教が定着しない前の姿ですので、これは面白いのではないかと思います。
ですから今申しました事をまとめてみますと、京都の場合は、各門流別に布教活動を行っていた。それで日蓮聖人の御遠忌の行われるときには、その信者たちがそれぞれ所属したところの本寺に参詣している。そして二つ目には町組みごとに法華信者が集まっている。だから勧進活動が町ごとです。町の生活と法華の信仰がピタッと一致しているわけです。
それから法華宗の本山組織が十六本山会合組織が、全体的に信者を組織している。これは強いです。今度は門流別に信仰指導を行っている。町の中には弘通所というものがたくさんありました。その弘通所で説法するのです。そこで説法するのは本山の住職です。その住職たちが入れ替わり立ち替わりそこで説法するらしいのです。これも説法する人の順番でもわかればよいのですが、それはわからないので、実態はよく理解できませんけれども、そこで説法する。人々の前で説法するのです。そして信者を広げていくわけですが、今度はこれはお坊さんだけではないのです。在俗の布教者が随分いるのです。お坊さんの数は当時は大変多かったわけですが、といってやはり細かな信仰指導は坊さんの手に負えない。つまり商人とか運送業者などが法華経の教えをよく学んで、信者同士で信仰の話をしたり、さらに進んでは布教活動をするのです。
有名な安土宗論のときに、日蓮宗の信者で首を切られた人がいるのです。織田信長に「このやろう」というので首を切られたのですが、その中に油売りとか、それからどこの宗でもなく、何宗にでも変わっていく、天台宗になったり法華になったりしている、そういう人とか、いろいろ様々な人がおります。ですから布教は決してお坊さんだけがやったのではないのです。考えてみれば天文法難が始まったそのきっかけは、天台宗の坊さんが洛中の清和院で説法したところ、それに質問をして、説法している天台宗の坊さんをやっつけた松本という人がいるのです。藻原の人だといっております。そういうように天台宗の坊さんを法論で負かすような在俗の人が日蓮宗にはいたのです。
そうなってきますと、特に京都では、布教人口はお坊さんの数どころの騒ぎではなくなっていくわけです。しかも京都は、遠隔地との商取引の中心でしたので、商人の非常に強い通商範囲は、そのまま布教の範囲となってくるわけです。
次に江戸の方になってきます。庶民の講組織が最も発展した時代は江戸時代といえましょう。それは幕府が宗教政策を打ち出した、檀家制度と寺請制度です。つまり人間は生まれたときから自分の旦那寺が決まっていたわけです。二進も三進もいかない。自分の決まっている旦那寺でお葬式をされないと、これは一家絶滅です。それからお嫁にいくときは旦那寺から寺請証文を、ちゃんとした書類をもらって、新しい檀家に行くのです。
ところが法華の信者の中には、それこそ固法華がおりまして、私多いのです。特に藻原の方にいきますと、君津の方もですけれども、房総半島の真ん中の方に行きますとそういう人がいる。そういう人は半檀家と呼ばれている。つまり法華の人が天台宗の檀家にお嫁に行きますと、そこで一生涯暮らすのですが、死んだ後は実家に帰って法華のは真言宗の檀家の家にお嫁にいくことになったけれども、絶対に真言宗の寺ではお葬式をしてほしくないという人がいる。法華にはずいぶんお墓に入るのです。これを半檀家制と呼んでおります。これは有名な話です。案外ご存じの方はおいでになるのではないかと思います。
そういう変則的なことがあったにしても、とにかく窮屈な時代でした。しかし信仰の自由はないといいましても、講への参加は自由に認められたのです。ですから、人々は講の中では比較的行動に束縛されない場合があったと思うのです。
例えば関東から外に出るときに、一番難しいのは箱根の関所を越えることです。あるいは小仏の関所を越えるときです。しかし「参詣講」に入っておりますと、みんなでそこをすいすいと越えていけるのです。身延年参講とか、身延月参講とか、祖師参詣講というような講の名前があちこちにあります。古いお寺にいきますと、賽銭箱とか燈籠とか仏具によく何々講、何々講と書いてあります。私はそれを見ると、できるだけノートしてくることにしているのです。
講についてずっと追跡調査をしてみますと、江戸の町に入ってきます、日本橋とか神田とか、あの辺の方がずいぶんそれに参加しております。とにかく関所を越えていけるのです。ただ遠隔地に参詣するのは、女性は少なかったようです。というのは、関所は「入り鉄砲」といって鉄砲が入ることと、「出女」、女が出ることはうるさく言われましたので、大体男が多かったようです。とにかく講元のもとにいくつかの信者が集まって集団行動をする。これは大目に見られたようです。
それから町や村の講で、町や村の名前を付けたわけです。小さい、せいぜい十二、三軒の講です。町田山崎講とか、その例はたくさんあります。この辺では角筈といっておりましたけれども、角筈題目講などというのがあります。この辺では堀之内の妙法寺に行きますと、仏具などにたくさん彫り付けてありますので、あれは全部記録をとってあります。たくさんあります。それをずっと追っていくと、大体場所がわかります。今の国立競技場の方には「権田原講」という講もありました。それはこの間、杉並区から『堀之内妙法寺の文化財(妙法寺文化財総合調査報告)』という本を出しました。三千円ですので、杉並区の教育委員会に申し込まれますと、あるいは妙法寺さんで結構ですが、手に入るのではないかと思います。
そのようにして講がたくさんあります。たくさんある小さい講が、十講とか二十講集まって結社をつくっております。ですからよく何々結社、何々結社というのが万灯講にありますが、あの結社は小さい講がたくさん集まって一つの結社になるのです。
それから大寺院の布教活動ですが、これは寺院の経済的基盤の確立を目指しております。例えば本門寺にまいりますと、本門寺の仁王門の大堂に向かって左側に日朝堂があります。あの日朝堂は、本門寺の山の周辺の農家の人たが集まったところです。あの辺はローム層の地質ですので、春先になると風が吹いて目に土埃が入る。埃が入るとどうしてもトラホームが広がります。そこで眼病の神様といわれる日朝上人のところにみんな集まって、そこで秘薬をもらうのです。今でも秘薬があります。それをもらってきて自分のところで目を洗うと目が治るというのです。ではどうして日朝上人は目が悪くなったかというと、宗門の中では一生懸命勉強しすぎてというのですけれども、農家では勉強しすぎてというのはあまり説得力はないのです。稲の穂先で目をついて、それで目が悪くなられたといういい伝えをしております。
その人たちが、春のお千部とか秋のお会式のときには、本門寺の大堂や日朝堂でお札や線香を売ったり、まわりを掃除をしたりしております。それから川崎市の北部にあるお花講は、お花を本門寺のご宝前に備える役割を果たしています。つまり役割分担の一つです。
そのお花講が、明治元年に日蓮聖人のお姿にお着せするお召し物を作ることを要請されました。それからずっと今日まで、麻生の人が夏服といって麻の布でつくった下着を作って奉納します。町田の方の講では冬お召しといって、羽二重でつくった着物を日蓮聖人のお姿にお会式のときに奉納いたします。ですからその辺ではずっとお題目講がいくつも集まって、そこで麻の着物が出来ましたよ、羽二重の着物が出来ましたよというより広い地域の講を開いています。
もう一つ提灯講があります。提灯講は神田の青物市場の人たちが提灯をずっと参道にぶら下げておりました。本門寺の大堂の一番高いところに、一辺が一メートルぐらいの大きな三方がありますが、あそこにのっている野菜果物は、みんなこの提灯講がかついできて、うまくお盛りをいたします。「提灯講は、どうも提灯持ちみたいであまりよくないな」というので、今ごろは神田青物講と名前を変えました。講はこのようにおまつりの役割分担をしています。
それから守護神をまつる講では、七面講とか鬼子母神講、妙見講という、それぞれの信仰する守護神の名前を付けております。日蓮宗の歴史には、こういったような講員の集団行動が、信仰の名のもとに容認されているのです。
江戸時代に、集団行動することは大変な問題です。皆さんの中には江戸っ子の方がおいでだと思いますが、私は広島からきてびっくりしました。広島では、私はよく喧嘩をしましたけれども、喧嘩をするときには、広島県では「ぶん殴ろうか」、「殴ってみい」、「殴ろうか」とお互いに言い合うのです。「だれか、止めに来てくれんかな」という調子で、二人で「殴ってみい」、「それやってみい」と、そればっかりで、とうとうそのまま殴らずじまいで終わることが多いのです。ところが東京に来てびっくりしました。喧嘩の早さにびっくりしました。「何おっ」と言ったら、もうバッバッバッバッと殴って、パッと別れるのです。もう三十秒もかからないうちに喧嘩が終わってしまうのです。皆さんもなさったことがあるのではないですか。
その事をちょっと話しておりましたら、江戸東京博物館の館長さんが、「中尾さん、それはこうなんだよ」と。つまり町の中で徒党を組んでやっていると、だれかが役人を呼びに行く。役人が十手を持ってやって来ると、捕まったらこれはもう大変なことで、奉行所に引っ張って行かれて、四、五日はえらいしごかれる。だから喧嘩をするなら、役人がくる前にバッとやってすぐ逃げる。その習性なんだそうです。別に気が短いのではなくて、そうしないと危なくてしようがないから、早く決着をつけるのだそうです。そのくらい集団行動は目を付けられた。ですから、法華霊場参詣とか、お会式の万灯講だとか、こんなことは信仰だから許されたのです。
それから村や町の生活共同体ですが、これは法華の場合に葬式組合の役割を果たしております。この向こうに、練馬区に土支田という村がありますが、そこに行きますと土支田という一つの村があります。そこに産土さまがありまして、産土の横に番神堂があるのです。そうしますと五十嵐さんという一家がありまして、十二、三軒あるのですが、その家の人だけが年末に番神堂に集まって、お経を一しきりあげ、庭の前で火を焚きまして、火の燃えさしを擦り消して、家に持って帰り、それを籠に下げておきますと、そのあくる年は無病息災であるといっておりました。つまり産土があっても、その一家(いっけ)だけは自分のおまつりする、自分たち一族の集まる三十番神社をもっているのです。
立正大学の裏に雪が谷というところがあります。そこは三つ一族ありまして、みんな法華なのです。そこで産土神社に行き、産土さんの管理をしている人に、「ご本尊を拝ませて下さい」といいましたら、「内緒ですよ」というので、暗くなってから行きました。それは十界のお曼荼羅です。ですから一つの村に三つの一家があるとしますと、一乃至二つの一家が法華で、一家でも他宗の場合は、産土社のはやっぱりご神体が祀られています。そのかわり法華の一家だけは別のお参りするところを決めておく。それからその三つの一家が全部法華だったら、産土社の本尊が法華になっていくのです。こういう点がおもしろいと思います。それでお葬式のときには、その法華だけで集まってやるのです。お会式もその中でやっているので、これを「村会式」と呼んでいます。
目黒の碑文谷に行きますと、村会式というのがある。かつて私も行ってみましたけれども、一家だけが本家に集まって「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えている。「うちの娘は法華以外にはやらん」と言っているのです。ところがどうも自分の娘さんが法華以外の人を好きになって、それでご主人が、交換条件に「法華になれ」などとやっていましたが、なったかどうかあとは知りません。そのくらい法華魂が盛んなのです。
そういう講がたくさんありますと、結局講の指導は誰がやるのかというときに、その役割を果たすのは町や村の祈祷師です。巡回する説教師です。それから講元が日頃の信仰指導をしております。
しかしながら、講元たちがお坊さんほど物を知っているわけではありません。ですから体験的な布教を行います。その一番大きなことは、日蓮聖人の伝記を語り、霊跡に参詣したときの感激を物語ることです。日蓮聖人について、江戸時代の人たちは我々が思っている以上に日蓮聖人の伝記を知っていたと思います。この近所にある雑司が谷の法明寺にまいりますと、からくり人形がありまして、龍口の刑場とか、小松原の法難とか、そういうのが演じられたのだそうです。そのからくりが戦災でみんな焼けてしまった。残念なことをしました。それから霊場を訪ねて信者同士広い交わりをするのです。
さて近代についてお話をいたします。講が結合しますと、結社を構成します。池上の近在結社、神田八講、尾張千人講等という名が、大寺院のご宝前で名前入の仏具が見られるはずです。これは旦那寺を越えて結集しているのです。ですからこれらは檀家ということは関係ありません。講元を中心に運営しておりまして、霊蹟寺院との結びつきをしっかりもっています。その講元を中心に、僧侶の介入を拒否する傾向にあります。多くの人たちは、お坊さんがこの講を自分の信者にしようと思ったことはいくらもあるそうですが、頑としてききません。
講の時には導師の役目は講元が行います。完全に講元です。お寺さんが行っても講元が導師をいたします。私の立場もだんだんとわかってきますと、「ああ、先生もお坊さんかいな」といわれますが、決して私は講のところに行きましても導師はいたしません。隅っこの方に坐って、一生懸命その講のしきたりに従ってお経を読んでおります。
私は七百遠忌のときにちょうど講についての調査をしておりまして、その運営について特に注目したのですが、講にはしばしば出納帳という帳面が残っております。そこで六百五十遠忌頃の記事を開いてみますと身延山布教師の巡説説教が非常に顕著であります。その人たちが、そんなに高額とはいえませんけれども、確実にお金を集めて帰っております。そのことは祖山としての身延山の宣伝がそこにあったのではないか。身延山の立場とは大変なものですけれども、これには長い間の巡説説法というものが意味をもっているのではないかと思うのです。とにかく講の会計帳によりますと、二年分ぐらいの講の費用を一度に出しております。
それから、これも先ほど申しましたが、十二、三講が一つのグループになって、定まった日に宿(やど)に集まって講を営んでおります。宿は順繰り持ちです。ちょうど手頃な箱の中に太鼓と木鉦と、それから掲げるご本尊と、花瓶とか香炉が入っておりまして、その箱を次々と渡していくのです。村の共同体が破壊したところでは、もううちの方の講は辞めたからこれをお寺に預かってもらいたいというので、持って来ることがよくあると思いますが、そういう講がありました。
そこでは生活とか信仰の相談とか、あるいは本山参詣とお籠もりについての話をいろいろするのです。特に近代は、東京近郊の農村が宅地化いたしましたので、土地の値段とか、アパートの貸賃とか、そういった事までみんなこの講で相談するのです。
題目講を調査にいったら、そこで土地を売った値段の話がでてきた。柿生の方の講元さんが私に、名前は忘れましたけれども、「先生、わしはあんたが気に入ったから、うちの隠居分の向こうを五〇坪ぐらい分けてやるから、うちの方にこい」といわれました。柿生です。今聞きましたら、えらい高いですね。それもまだ農村であったときに、「やって来い、やって来い」という。私も公団住宅なんで住んでもしようがないから、「うちに来なさい。免税店のぎりぎりのところで売ってやる」という。半分ぐらいですよ。私も行こうかと思ったのです。ところが、柿生の旦那寺の望月さんが、「あそこへ行ってみろ。あなたは大体家で原稿を書いたりするのだから、家にいることが多いのだけれども、あの辺のお百姓さんは、家にいるということは暇だという事だから、年がら年中、『先生、いるかね』なんて来られるよ」というので、これも困ったものだと、とうとう断ってしまったのですが、惜しいことをしました。柿生の駅のすぐそばです。
とにかく私は講をみておりまして、お坊さんの介入を拒否することは決して悪いことではないのではないかという気がいたします。つまり講元には講元の責任がきちんと重くのしかかっております。ですから、先ほども申しました本門寺のお召し講のときでも、山下の中道院からお召し物を捧げてずうっと階段を上がってくるわけです。あのときのおじいさん方を見ておりますと、野良仕事をやっている腰の曲がったような姿ではなく、ぴしっと、とにかく緊張して昇っております。晴れの舞台です。お焼香するときのあの晴ればれとした顔を見ますと、いや、やっぱり信仰の姿は強いなという感じがしているわけです。
さて、私は随分あちこち歩きながら、おそらく今日いらっしゃる方々のお檀家にもいったことがあるに違いないのですが、いろいろ調べてみて、私の思った事を申し上げておきたいと思います。戦後の講では新宗教がこういう民衆の講の機能を継承しているのではないかと思います。と申しますのは、立正佼成会の法座は、あれはあくまで昔の講の姿です。浅草の方の講に行きましたら、「もうこの辺の講はだんだん少なくなりました。今は立正佼成会がこれを全部もっていきました」と言っていました。詳しく聞きますと、立正佼成会の先生がやってきて、いろいろ話をするのだけれども、彼らは理屈だけではないというのです。浅草の方で生活に密着して活躍していた「拝み屋さん」を教化するのです。するとその拝み屋さんが、把握した講の人たちはみんな立正佼成会の人たちがもっていく。だから土地の人に聞きますと、立正佼成会の支部長のおばさんは祈祷師あがりだとかよく言われます。だからおそらくこの法座は、立正佼成会の方に組織ぐるみで動ていったのではないかと思うのです。
それから本山参りがある。これは旅です。創価学会がそうです。とにかく創価学会の列車に皆さんは乗り合わせたことは無いと思いますが、私は時たまあるのです。私が列車に乗るとすぐみんなより集まって、みんな生き生きして折伏にかかるのです。学会の人たちが言うことを、フンフンと聞いていると、「あなたは、どうも我々がいうことをみんなわかっているらしい。支部はどこだ」という。「それは言えない」。「じゃ、バスに乗っていこう、本山に」というのです。「いや、そうはいかんから」。それで身延線に乗って行くのです。「身延に行くのか」、「そうだよ」。そういう話で、とにかくどうもやっぱり知っていて知らん顔をするのはなかなか難しいものです。もう十何年も前の話です。
それからもう一つ、寺院では寺の行事として信行会が主流になっている。これは宗門全体の運動といえましょう。ただ問題なのは、寺で信行会ということで収束されていきますと、今までおかれていた葬式組合などの組織と一緒になっていた伝統的な講が消えていく。いや、ご住職さんによれば、そういうものをかえって消していこうという動きがある。ちょっと私はどうかなという感じがしております。
というのは、寺院だけで講をやっておりますと、講の活動範囲と自主性が微小化し、矮小化していく。この影響がが大きいと思います。例えば法華の講だからというので、日蓮宗のお会式には、本門寺にいって、法難会には龍口寺へ行く。ところが実際には何だかんだ言いながらも、日蓮宗以外の寺、例えば高野山に登ってみようとかいうのです。題目講で高野山や比叡山に登ったり、あるいは温泉に行ったりする。そうではなくて一ヶ寺のお寺だけになってくると、単に日蓮宗の中だけで終わってしまうのです。
そうしますと、私は宗教的な見聞ということから見て、視野が非常に狭くなっていくのではないかという感じがしております。むしろ自由にあちこち行動させておいて、それでなおかつ法華だけはという、そういう魂を入れる方が生産的ではないかと思っております。
それと僧侶指導の営講では、講が生活の実体験と遊離していくのです。お寺に行ったらお寺以外のことをしゃべるのではないと、信仰のことだけということになってくる。そうしますと、先ほどいった家賃はなんぼにするからとか、そういうことを全然話せなくなってくる。私どもの理論からいきますと、一つの信仰が、どのくらいその土地に定着していくかということは、どのくらいその生活習慣の中に入り込むかだと思うのです。例えば年中行事に入り込んだり、一生涯の節目、節目に行われる人生儀礼に入り込んだりする。それによって度合いを計っていくわけですが、そういうものからまた離れてしまうと、これはせっかくの生活体験としての講の営みが薄められていくのではないかと思います。
それからもっと大事なことは、生活の合理化と運輸機関の整備によって、講と寺院の間がだんだん隔たっていく。例えば私は二十五、六年ぐらい前に、龍口寺の調査をしました。そこに行きまして、それぞれお参りの人と一緒に一晩過ごして、芝居をみたり、ぼた餅を拾ったりしました。面白いですよ。ぼた餅は、「どうしてぼた餅と言うのですか?」と聞くのです。「これは何ですか」というと「ぼた餅です」。「ぼた餅とおはぎはどこが違うのですか」、そういう話から入っていくのです。そうすると、「どうしてごまですか」。ある講の人は、「これは日蓮聖人が首を切られようとするときに、お婆さんが一生懸命つくって、あずきは一晩かかるから、ごまをつくって捧げたのですよ」という。「あなたどこですか」、「境川のずうっと上の町田の方ですよ」、「ああそうですか、そうですか」。今度は違うところに行って、「これはどうしてですか」と聞くと、「これはですね、おむすびだった。おむすびをつくってお婆さんが鍋蓋に入れて捧げたところ、お婆さんがあまりにも日蓮聖人の神々しさに手が震えて、ころころところげ落ちて砂だらけになってしまった。それを拾って日蓮聖人はお食べになった」。「あなたどこですか」、「茅ヶ崎の海岸ですよ」。なるほど海岸には海岸らしい発想があるのです。それで農村部にはあずきの代わりという農村らしい発想があるのです。
そういうようなものがいろいろ聞けたのです。お互いそういう話をしているうちに、茅ヶ崎の人と町田の人がどっちが本当か正しいか、大いに言い合いをしていましたけれども、両方本当だという話で落ち着いたようですけれども。
そういう楽しさが無くなっている。さっと来てさっと帰ってしまうのです。だからその交流の姿が無い。ですからお籠もりの風習が無くなることは、講の一つの大きな要素が無くなっていくのではないでしょうか。
そんなことをしておりますと、宗教活動が自分の旦那寺の中で完結してしまって、外に向かって延びることはないでしょう。特に今ごろの団体をみておりますと、それぞれのお寺、お寺でいきますと、すぐ近所のお寺と一緒にいっても、うちはこれだけのお寺ですからというので、他の檀家同士の話がほとんどありません。そういうところがやっぱり考えておかなければならない問題点ではないでしょうか。
こういうことが、次に教団が定型化した葬式法要と儀礼に収斂されていく。お寺は、とにかくお葬式としかるべきお会式等に行けばよいのだという事になってくると、それは極めて個人的な信仰の営みに限られてくるようになり、やがては儀礼の衰退と信仰の空洞化を招いてくるのではないか。つまり他者との対話がなくなっていくことは宗教にとって憂慮すべきことは言うまでもありません。
今後の課題としては、当然の事ですけれども、宗教活動を多様化していく必要があるのではないか。例えば私どもが今一番心配しております象徴的な現象といいますのは、日蓮聖人のご真蹟をはじめとする宗宝類の荒廃です。こういう話は、かつては無かった事です。なぜ今頃そういうことになってくるかと申しますと、虫干し会という本山クラスの宗教儀礼が無くなったからです。本山で虫干しするときには、その周囲のお寺さんが全部出仕して、それぞれ一幅はだれが担当で責任で、その順番で虫干しをする。ちゃんと割当表が決まるのです。「日蓮聖人一代護持系図は何々院さん、あなたやってくれよ」、「はいわかりました」。それで掛けて納めるまでみんな責任をもつ。信者がくると、これについて話をするのもその担当者でございます。そういう虫干し会がなくなったことは、宗宝護持について非常に悲しむべきことです。
それから、村や町という社会生活の場に法華堂があったのが、今ごろはだんだん少なくなってまいりました。お寺だけになってしまって、お寺以外の堂が廃れてしまうことがあります。それともう一つ、「信仰の指導者を在俗に要請する」ということです。つまり僧侶以外の指導者を養成することです。日蓮宗もいろいろやっていることは当然ですが、ただ信者の輪を広げるというだけではなくて、在俗の信者たちに、信仰指導の大きな責任をまかせるということが大切です。信仰のことについてはいつも僧侶が出ていかなければ話にならないのではちょっと困るのではないか。僧侶がいくら走り回ったところで、一人の僧侶には行動の限度があります。それを越えてねずみ算式に教団を広げていこうとするならば、こういう人たちに頼らざるをえないし、それこそが広宣流布の一つの道ではないかと思います。
それから今までは村とか町とか、そういう共同体が厳然としていたときには、専門的にいいますと共同祈願という形がありました。共同体単位でのみんなの共通する祈願によって信仰は保たれていたのですが、今はどうもそういう時代ではない。共同体が次々と破壊されている。そうすると一人一人が個人の祈りを捧げる、いわゆる個人祈願をとりますので、これをどうして結集したらよいのかという事がこれからの問題になってくる。世はいよいよ個人祈願の時代になってくるのです。檀家制度がこれから崩壊していくだろうという予言も、この共同祈願から個人祈願へという動きの中で問題にされているのであります。
それともう一つは、これはやはり僧侶が信仰上の信条を明確にすることだと思うのです。よく聞くことですが、あまり法華、法華と言っていると、敬遠して遠ざかる。やはり汎仏教的にいかないといかんといいます。けれども、法華は法華だという主体性をしっかりもってほしいというのが、信者の偽らない言葉だと思います。やはり「仏は人をして法を語らせる」という言葉がありますが、とどのつまりは日蓮宗の僧侶としての立場をどう確立するかということと、やはり僧侶の人がらの問題ではないかと思います。
いろいろ申したいことがありますが、とにかく広宣流布というのは、私は未信者をどう集めるかというところに真骨頂があるのではないか。そういうことを、当然ではありますが申し上げまして、一応時間がずいぶん超過いたしましたので、お話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)