川澄勲のプロフィール

 


川澄勲(かわすみ・いさお)


 明治44(1911)年2月8日、岡山県御津郡牧石村玉柏(現;岡山県岡山市北区玉柏)に生まれる。昭和5年3月愛知国学院卒、岡山市北区玉柏1243にある諏訪宮(旧記に備前国御野郡河本村鎮座諏訪宮とある、創建年代は不詳である。)の神主を務められた。平成8(1996)年10月5日岡山県にて没する。

因みに、愛知国学院とは、wikipediaによれば「名古屋市熱田区の高座結御子神社境内に所在した神職養成施設」とのこと。

概要[編集]  愛知国学院の前身は1912年(明治45年)に山王稲荷神社境内に設置された「愛知県神職養成所」である。これは後に熱田神宮政所に移転する[1]。 1921年(大正10年)に至って愛知国学院が高座結御子神社の境内において設立される[1]。1944年(昭和19年)には中部神祇学校と改称されるも、翌年には名古屋大空襲により焼失の憂き目に遭っている。焼失後は再建を果たせぬまま、1947年(昭和22年)に廃校となっている。 跡地には1977年(昭和52年)8月20日に山王高座会の手により「愛知国学院・中部神祇学校之碑」が建立された。


 若い頃から仏教書等の古文書の研究にたずさわる。

 戦後は東大をはじめ各大学から古文書解釈(読)の要請を受け従事、昭和35年、大石寺66世日達上人の招へいで、「昭和新定 日蓮大聖人御書」「妙法蓮華経開結」「富士年表]の編さんにあたるかたわら、大石寺に古くから伝わる日蓮大聖人の法門書を以後10数年にわたり次々と読破、現在の大石寺の誤りを宗門に正すも受け入れられず、身辺に不穏な動きが起こり、1971年(正本堂建立:1972年の前の年) 猊下のお薦めで本山を下りる。以後、日蓮大聖人の真実の法門を後世に残すこと(1977年元旦 阡陌陟記書き始め、1980年12月 阡陌陟記(1)製本発行)が唯一の務めと日々著述に専念してきた。

 著書に「佛教古文書事典」「[日蓮大聖人用字集]ほかがある。

 

 

補足

日達上人が猊座に上がられる前、宗務総監か庶務部長をされて池袋の常在寺に居られた頃、当時宗門では宗学の基礎となる古文書を読める御僧侶が少なく、上人の知り合いの弁護士さんに誰か古文書をする人はいないだろうかと相談されたところ、その弁護士さんの知り合いが川澄先生で、先生を紹介されたそうです。川澄先生は日達上人に招聘されて、常在寺の二階で宗門の古文書の解読整理をされ始めたようです。上人が猊座につかれ本山に上がられ、先生も一緒に本山に行かれ研究されたようです。昭和新定御書三巻・大石寺版法華経・学林版六巻抄、今も本尊の前に安置しておる折本の法華経二十八品等、何れも筆者の作ったもので、折本の法華経及び要品は筆者の書写に関るものである」「その他録内啓蒙や明暦本三大部の復刻などもその内の一つである」「また富士年表の草稿も筆者のものによって始まり、年表の作成を日達上人に進言したのも筆者であると仏道雑記に記されております。

 

宗門に何となしに異様な雰囲気を感じて書き始めたのは丁度3年前(1977年)の元旦で、3ケ月程の間、時々引き出しては書いておいたものを、12月になって改めて書いたのが阡陌陟記第1号[1980(昭和55)年12月]であった。全部で70冊ばかり配ったので、それ程蔓延するという程の数ではない。以後といえども、100を越えるような事はなかった。

 

著作類

タイトル

著作者 出版元 刊行年月

大石寺法門

川澄 勲 オレンジ 1996.4

大石寺法門

川澄 勲 渡辺 泰量 1992.2

阡陌陟記

川澄 勲 オレンジ 1991.6

大石寺法門

川澄 勲 木下 晴夫 1989.1

日蓮大聖人用字集

川澄 勲 臥龍山房 1986.8

大石寺法門と日蓮正宗伝統法義

川澄 勲 木下 晴夫 1985.2

阡陌陟記

川澄 勲 木下 晴夫 1984.10

仏教古文書辞典

川澄 勲 山喜房仏書林 1982.1

 

 


 

トピックス

 

 

yamucyaの回顧

或る時先生に「先生、御書に五大部十大部とかありますが、先生は何回位お読みになりましたか」と質問しました。今思えば随分失礼なことを聞いたものだと思いますが、先生は全く表情を変えず、「五大部十大部は千回読んだ」。六巻抄は、「六巻抄は暗記した」とのことでした。それも活字本だけではなく、直筆・写本等古文書が中心です。

 

川澄先生は、最初にお電話した時から最後病室でお別れするまで常に真剣でした。一分の氣の弛みもない真剣そのものでした。全身これ法門という感じでした。

 

 

頼道師の回顧

私は昭和38年3月28日12歳で出家したんですが、その折から先生は、定期的に大坊へ寄宿し、私達と同じ食堂で、一汁一菜の粗末な食事を、いつものように着流しで飄々と誰とも談笑するでも無くされていました。私は誰だろうと思って先輩に尋ねると、宗門の経本や、教科書を作る仕事をしている人だと言われ、ふーんと感じました。随分後年川澄先生だと知る事になります。当然、常在寺時代からの関係ですので、そうなっていたのでしょう。大宣寺へも仕事の内容によって当時から行かれていたのではないかと想います。ですから、談所の人達と大坊在勤が一緒になった時に、特に山上さんから川澄先生の事を種々聞いて、52年路線の熟成期でしたので、私も、これは何とかしなければいけないと考えました。創価学会と共に外相を誇る事に違和感があり、創価学会に流されて行く大石寺の方が、遥かに悪いなと思っていました。

 

 

片山幸彦氏の論文の抜粋

しかしながら、こうした信者の切実な疑問や悩みに答えてくれる法門は、少なくとも近現代の宗学のなかには見当たりませんでした。ところが、それに応えたのが、若手教師たちが展開した”師弟子の法門”だったのです。この理論は在野の古文書学者・川澄勲氏の独自の法門解釈から大きな影響を受けていると噂されもしましたが、わけても注目されるのは、出家と在家との間に法門上の差別は存在しないし、相互に薫発し合う関係であると従来の僧俗筋目論を超えた僧俗平等論を説いたことで、悩める信者を目から鱗が落ちるような、じつに新鮮かつ清冽な思いに浸らせました。”師弟子の法門”は、僧俗関係ばかりでなく、己心に本尊を建立する、といった難解な本尊論も同時に展開したために、正信会内部でも物議を醸した面もありましたか、しかし、初めて体験する、宗門・僧侶の言動の矛盾にもがき苦しんでいた信者の多くが、若手教師の主張に心を躍らせた事実は否定できません。
 それまで欝々悶々として内包してきた貫首の行状の理不尽さや宗務行政の矛盾、僧侶の言行不一致、近代宗学の偏向などの疑問が少しずつ氷解できたからです。

 

 

山上弘道師の思い

恩師川澄勲氏逝いてはや6年、今年7回忌を迎えた。氏にはいろいろなことを学んだが、ことに物事に対する姿勢や学問の態度等、基本的なことがらについて影響を受けた。氏は大学のいわゆる宗史・宗学等の細分化された学問の有り様を嫌い、あらゆる分野に興味を持ち造詣が深かった。とりわけ古文書読解能力の大切さは、それこそ口を酸っぱくするほど強調され、薫陶を受けた。皮肉なことに、氏が亡くなった頃から興風談所挙げての調査活動が盛んになり、数々の古文書や金石類に接し、氏の薫陶のありがたさを身をもって実感した。

 

 

大日蓮(水島)より

▼今回は、全体的なしめくくりとして、なにゆえ在勤教師会ひいては正信会の徒輩がかくも極端な邪義異説を吐くことになったのか、という点について一考してみたい。いうまでもなく在勤教師会の主張は、川澄勲という無道心者の考えそのものであり、川澄の思想を受け売りしているにすぎない。この川澄は一時期日達上人より、総本山にある古文書の解読と整理を託されていたことがあった。日達上人は、当時の宗門がきわめて人手不足であったため、正宗信徒でないことを危惧されつつも、あえて川澄に古文書解読を托し、同時にその技術を若手僧侶に教授するよう取り計られたものと思われる。端的に言えば、日達上人は川澄の古文書解読という職人的技術を買われたのである。

▼しかし川澄は、いつしか自らの職人的技能者という立場を忘れて、御先師の文書を自分だけが知っていることを鼻にかけはじめ、ついには法門の批判までするようになった。筆者も何度か川澄に会い、彼の話を耳にする機会があったが、その都度、彼の態度に疑問を感じたものである。ある時、お目通りの折、日達上人は川澄のことにふれて「古文書を解読してくれれば、それでよいのに、一部の文書をふり回して勝手な考えを吹聴したり、宗門批判をするのは困ったものだ」と嘆かれていた。

▼川澄も日達上人の御意のままに黙々と古文書解読という職人的下請け作業に徹していれば、宗門興学の一端に貢献し、一分の功徳を積むことができたのであろうが、哀れれなことに彼の性格はあまりに傲慢・怨嫉(おんしつ)の念が強すぎた。それゆえに彼はついに御本尊を礼拝することも、唱題することもできなかったのである。また無道心なるがゆえに、古文書解読がそのまま法門を会得することになると錯覚したのであろう。

 

 

「近現代日本の法華運動 西山茂」より抜粋

すなわち、在勤教師会のリーダーたちは、その中の数名が国立市の大宣寺の所化小僧であったことから、すでに、総本山勤務以前の1970年代前半に、同寺の関係者で『日蓮正宗富士年表』(1964年発行)の作製委員会参与を務めたことのある川澄勲(臥竜山房)から、古文書の読み方とともに石山教学への新視点を学び、その基礎の上に、彼らの教学を形成しつつあった。 では、以下に、彼らの教学革新ぶりを紹介してみよう。彼らの教学は、端的にいえば、「己心教学」と呼ぶべきもので、それは「信の世界」のあり方を、凡眼には映らない独一法界としての「宗旨分」(還滅門ないし内証己心ともいう)と、その化導のための善功方便、すなわち、外相上の形式や物質的対象の世界としての「宗教分」(流転門ないし外相ともいう)とに立て分け、「宗旨分を確認した上で、宗教分はあるべきだ」として、前者の重要性を強調する教学のことである。

 

法主は、1983年8月の第32回全国教師講習会の席上で、在勤教師会の「己心教学」を「内証己心だけの教学」にみたてて批判し、さらに、彼らの教学がすべて川澄勲の教学の受け売りであると決めつけつつも、他方では在勤教師会の教学攻勢に正面切って対応できない現在の宗門の人材の払底ぶりを慨嘆して、「現在の時代に本当に適した、その時代のあらゆる思想等を網羅して、しかもその破邪顕正の一切をきちっとなさるような」「日寛上人の再来の如き器の人は必ず出られると信じます」と語り、そのような人に「なれるなれないはともかくとして、とにかく必死になって勉強だけは一生続けて」いく気持ちが大切であると、出席した僧侶たちに訴えた。

 

 

 

 

 

yamu_cyaさん;思い出の写真

 

 

 

 

 

 

 

先生の種々の作品や原稿・書簡等を基に「本物の川澄勲」を知って頂きたいとの思いから

 

バーチャル・ミュージアム

を作成しました。

 

 

 

 

追伸

 

最近、発見された未発表原稿

 

大石寺法門(七)

 

 

先生が添削なされた法門問答

 

問答

 

 

最近探し出した資料

 

阡陌陟記2の生原稿コピー

 

 

大石寺法門(7)

 

 

 

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