以下「近現代日本の法華運動 西山茂」より抜粋
こうして、彼らの運動の内部で、十分に宗門側と対抗できるだけの体系的な教学革新への期待が高まっていっだ。
そして、まもなく、在勤教師会の僧侶たちがこれに応えるようになる。彼らは、すでに、法主への「お伺い會」の中で、在勤教師の処遇問題のみならず、血脈の問題についても取り上げている。彼らは。そこで、日蓮という凡夫身に即して本仏をみる大石寺門流においては、日蓮ー日興ないし法主ー自余の大衆という『共に未断惑の凡夫が信という同じ立場にたち」、その「師弟子が相寄って初めて(己心に)妙法が成就するのであり」、したがって、「日興遺戒置文」にあるごとく、「弟子がひずめば師が導き、師が過てば弟子がただすことは当然」で、この観点から見れば外部から種々その断絶が論難されてきた「血脈相承に関する宗門の歴史はかえって師弟子の法門が如実に顕われていた歴史」であるから、いたずらに「貫主一人から貫主一人へという論理」にこだわらずに、血脈法水は法主を含む「弟子全体に流れている」ものと解するべきではないかと問題提起している。この「師弟子の法門」は、「三毒強盛・未断惑の凡夫」に即して本仏をみる日蓮本仏論にまで遡及し、師弟相寄って一箇したところに門流の血脈の真義をさぐろうとするもので、久保川論文よりも一歩立ち入った奥行きの深さをもっているといえる。
また、彼らは、正信会の運動が宗門側の厳しい処分に遭って混迷しはじめた3月初旬に、より体系的な教学小冊子『事の法門について』を発行し、以後、宗門側からなされた久保川論文や正信会運動に対する教学的な反論を一手に引き受けた形で、次々と反論を出していった。また、彼らは、在勤教師の無任所間題の解決と布教のために、正信会僧侶の支援を受けて、5月ころから正信会系寺院の少ない地域に布教所を開設していった。このあたりの事情は、当初は正信会と在勤教師会との間に「なんとなく亀裂があるように感ぜられた時もありました。ところが……久保川論文が宗務院において破折されるや、この(在勤教師会の)若手僧侶の力を必要とするようになった。」という宗門の教学部長の分析によっても確認される。こうして、正信会と在勤教師会との連帯が進み、後者はさながら前者の教学部の観を呈するようになり、一部にその教学的「行き過ぎ」を恐れる向きがあったものの、全体として正信会運動の「正当化の危機」の克服に大きく貢献するにいたった。彼らの教学への執念は、「全体、僧侶は勉強不足だ」という自己認識や、「いまの時点で(処分撤回や法主の退位等の)行政的間題を論じても厳しいものがある」ので、「(いまは)考えて考えて考えぬいていくことが、将来の宗門建設にとって、一番重要(だ)」とする状況認識に由来していたが、より根本的には、創価学会の「幸福製造機」的な本尊観や本尊模刻等の問題も、詮ずるところ門流の「法門が外相(物質)中心の教学に陥ったときから、出るべくして出た行為であった」との深刻な教学上の反省に根差していた。だが、彼らの教学は、正信会の運動が「玉」を失って「正当化の危機」に陥った後に形成されたものではない。そうした「正当化の危機」は、たしかに、彼らの教学を「世に出す」大きな契機とはなったが、彼らの教学の基本的命題は、創価学会の「昭和52年路線」の打ち出される以前にすべて形成されていた。すなわち、在勤教師会のリーダーたちは、その中の数名が国立市の大宣寺の所化小僧であったことから、すでに、総本山勤務以前の1970年代前半に、同寺の関係者で『日蓮正宗富士年表』(1964年発行)の作製委員会参与を務めたことのある川澄勲(臥竜山房)から、古文書の読み方とともに石山教学への新視点を学び、その基礎の上に、彼らの教学を形成しつつあった。
では、以下に、彼らの教学革新ぶりを紹介してみよう。彼らの教学は、端的にいえば、「己心教学」と呼ぶべきもので、それは「信の世界」のあり方を、凡眼には映らない独一法界としての「宗旨分」(還滅門ないし内証己心ともいう)と、その化導のための善功方便、すなわち、外相上の形式や物質的対象の世界としての「宗教分」(流転門ないし外相ともいう)とに立て分け、「宗旨分を確認した上で、宗教分はあるべきだ」として、前者の重要性を強調する教学のことである。そして、彼らは、この立場から、「宗旨分かすっかり忘れられて、宗教分だけが独り歩きをしている」昨今の大石寺門流の教学的現状を批判し、今や、その克服が急務であると主張する。こうして、彼らは、この「己心教学」こそ石山教学本来の姿であるとして、本尊も戒壇も題目も、そして血脈も本仏も、その悉くをひとまず内証己心に還元して理解するにいたる。すなわち、彼らは、「本尊といえば板曼荼羅の外相、戒壇といえば建築物としての戒壇堂、題目といえば口唱の題目だけにか」考えなかった、従来の外相中心の教学に対して、元来、本尊も戒壇も題目も、師(仏界日蓮)弟子(九界弟子檀那)一箇して、「信の一字」をもって、凡夫の己心中に建立されるべきものであって、それが外相に押し出されて、はじめて、板本尊や戒壇堂や口唱の題目となると主張する。また、彼らは、師弟一箇して己心に成ずるところの本尊の法体付属を宗旨分の血脈といい、そうした意味で「信心無二に仏道修行の者はすべて唯授一人である」と述べ、さらには。「鎌倉時代に生まれた生身の日蓮」そのものが本仏なのではなく、宗旨分からいえば、彼の「内証己心中の魂魄」、すなわち、「久遠元初の自受用報身」を本仏と考えるべきであるとも主張する。こうして、彼らは、宗教分(流転門・外相)を否定せずに、門流の伝統教学の体系的普遍化(内証己心化)、ないし、パラダイム革新をはかり、いちおうの成功をみたように思える。おそらく、こうした体系的普遍化の営みは、創価学会の「昭和52年路線」や「玉の喪失」直後の正信会の久保川論文の場合にみられたような、「正当化の危機という運動論的要請への直接的で急場凌ぎの応答からは、容易に生ずることはなかったであろう。
正信会の運動は、1982(昭和57)年末までにほとんどの正信会僧侶たちが擯斥を受けるなど、宗政上においては引き続き防戦を強いられていたが、教学論争の上からいえば、在勤教師会の貢献によって、正信会側か攻勢に立つようになった。すなわち。彼らの挑んだ教学論争に対して、宗門側は、1982年4月に、教学部長を中心とした時局法義研鑽委員会(反論委員会)を開設して組織的に対処したが、在勤教師会の教学革新の試みが、「昭和52年路線」や久保川論文の場合と違って、「正当化の危機」への直接的な応答や急場凌ぎに形成されたものではないだけに、在来の「印籠教学」では容易に太刀打ちできず、かえって在勤教師会の僧侶だちから、「三つ葉葵の印龍を出し、権威権力をもって『この紋所がー』と叫んでみても、乱用したのでは九官鳥が『オタケサン』と叫ぶより虚しい」とか「所詮は真剣相手に竹刀で臨むもので全く迫力がない」と批判され、また、「一刻も早く、教学的批判にたえうるような厳正な論文を望む」と論理的な反論を嘱望されたりする結末に終わった。こうした事態に、法主は、1983年8月の第32回全国教師講習会の席上で、在勤教師会の「己心教学」を「内証己心だけの教学」にみたてて批判し、さらに、彼らの教学がすべて川澄勲の教学の受け売りであると決めつけつつも、他方では在勤教師会の教学攻勢に正面切って対応できない現在の宗門の人材の払底ぶりを慨嘆して、「現在の時代に本当に適した、その時代のあらゆる思想等を網羅して、しかもその破邪顕正の一切をきちっとなさるような」「日寛上人の再来の如き器の人は必ず出られると信じます」と語り、そのような人に「なれるなれないはともかくとして、とにかく必死になって勉強だけは一生続けて」いく気持ちが大切であると、出席した僧侶たちに訴えた。
在勤教師会と宗門の時局法義研鑽委員会との間の教学論争は、最近まで続いたが、前者が「興風談所」(所在地は岡山市)の名の下に、1981年の10月から1984年末までの間に、教学専門誌の『興風紀要』(A5判150頁程度)と教学資料研究誌の『興風』(A5判80頁程度)を各数冊ずつ出版し、かつ、正信会僧侶たちとともに、『正信会報』や檀徒新聞の『継命』にも精力的に執筆したのに対して、後者はせいぜい1年に1度の全国教師講習会の時の口頭報告か、毎月の宗門機関誌の『大日蓮』にわずか2頁の「委員会ノート」を連載(1985年9月号まで)したのみであり、在勤教師会側か質量ともに宗門側を圧倒したかのように思える。しかし、宗門との法的な係争においては、1983(昭和58)年の1月30日に、正信会が静岡地裁に提訴していた法主の地位不存在確認と職務執行停止の仮処分が却下(東京高裁段階でも1985年11月21日に却下)され、また、1983年6月23日には、東京目黒の妙真寺を自坊とする、そして最も早い時期に宗門から擯斥された山口法興住職が、東京地裁に起こしていた住職地位保全の訴訟(同様の他の擯斥された正信会住職の訴訟の先駆)に全面敗訴の判決が下るなど、ますます敗色の濃いものとなった。他方、1984年の1月2日、創価学会の池田名誉会長が、再び、法主から、宗門の法華講総講頭に任ぜられた。このことは、創価学会が、その宗内的地位を完全に復活させたことを意味している。だが、宗内での創価学会の復権は、今後の同会の在家主義的な教学革新の試みを、ますます困難にさせることになるであろう。本書の第四章で言及したように、教学革新には周辺的な地位のほうが似合っているのである。
反面、当時の在勤教師会の僧侶たちは、その自坊のない不安定な周辺地位にもかかわらず(あるいは、それ故に)、教学を「あらゆる艱難辛苦を乗り越えるため杖」として、その研鑽を進めようとしていた。そして、こうした在勤教師会の地道な教学研鑽の営みは、長期的にみれば、宗門や創価学会との、多少とも利害がらみの法的・政治的な抗争の勝敗などより、はるかに重要で大きな影響を大石寺門流に与えることになるかもしれない。
その意味で、教学革新は一周辺(逆境)体験と親しく、中心(順境)体験に疎いということがいえそうである。