覚醒運動再考

 

管長裁判提訴で運動は変質

 かくして正信覚醒運動は、日顕師と對治することによって、当初の、学会だけを相手にした運動から、宗門総体を根底的に問い直す運動へと変貌したのです(変貌といって語弊があれば、深化といってよいでしょう)。つまり、そこで初めて、”金口嫡嫡・唯授一人血脈相承の法主上人は現時における日蓮大聖人”としてきた近代の宗史・宗学では説明しきれない疑問――なぜ正法の伝持者たるべき貫首が謗法を改めない創価学会を擁護するのか、これでは単に学会だけを責めても問題の本質的な解決にはならないのではないか、むしろ学会を長い間放置し今日の事態に至らしめた宗門・僧侶の在り方こそ問われるべきではないか――に逢着し、そしてそもそも本来の日興門流の法門とは何か、どのような信仰の在り方が富士の流義なのかという運動の新たな目的意識に目覚めたのではなかったのでしょうか。

 こうした事態は、運動草創期には想像すらできないことでした。しかし、日顕師の貫首・管長就任、創価学会擁護・正信会弾圧という不測の事態が出来したことによって、状況は一変したのでした。当時の日顕師は宗内でも名だたる親学会派でしたから――教学部長時代、「創価教学は完璧です」と発言されたのはあまりに有名です――、就任後の言動か注目されましたが、第5回全国檀徒大会を契機にその方向性か露になり、明白に正信会弾圧に着手しました(逆に、その後、同師は、一度は法華講総講頭を辞任したはずの池田大作氏を再任し、学会寄りの姿勢を鮮明にしました)。

 同師の命令に従うか否か、おそらくここが運動の分岐点となったと思いますが、正信会――もっとも会として正式に発足するのは暫く後のことで、当初は活動僧侶、活動寺院と通称されていました――は議論の末、同師と対決し、真っ向勝負を挑むことを選択したのです。先代の日達上人ご在世申にも一再ならず宗務当局と対立せざるをえない局面があったのですが(とくに本尊模刻問題の曖昧な決着をめぐって)、正信会僧侶たちの置かれた立場−まだ宗内の過半数を占めてはいませんでした――や、その多くが日達上人の弟子に当たることもあり、表立って貫首に反旗を翻すことなどタブーに等しく、逆に”貌下に心服随従するのが日蓮正宗の伝統的信心”と信者を教育してきていましたから、日顕師と対決する事態となって、その理由、意義について改めて信者を説得しなければならなくなったのです。

 一方、信者も馬鹿ではありません。信者は信者なりに運動の過程で多くの矛盾や疑問を感じ取り、悩んだり憤ったり、また法門の研鎖に励んだりしていました。

 ”貌下が白を黒とおっしやれば黒なんだ、それが日蓮正宗の信心というが、白はあくまで白ではないか。それが道理というものではないか”

 ”宗門、あるいは僧侶というのは、どうも当初想像していたように清浄無垢な存在とはいえないようだ”

 ”出家とは名ばかりで、在家となんら変わらない僧侶もいるではないか”

 ”一言目には有師化儀抄の「竹の節目に上下があるごとく云々」の一節を持ち出して信者を膝下に置きたがるが、当の自らは、果たして信者から尊敬されるような修行に励んでいるのか”

 ”人軽法重といいつつ実際は人情に執して保身に走り、法門を軽んじているではないか”

 しかしながら、こうした信者の切実な疑問や悩みに答えてくれる法門は、少なくとも近現代の宗学のなかには見当たりませんでした。ところが、それに応えたのが、若手教師たちが展開した”師弟子の法門”だったのです。この理論は在野の古文書学者・川澄勲氏の独自の法門解釈から大きな影響を受けていると噂されもしましたが、わけても注目されるのは、出家と在家との間に法門上の差別は存在しないし、相互に薫発し合う関係であると従来の僧俗筋目論を超えた僧俗平等論を説いたことで、悩める信者を目から鱗が落ちるような、じつに新鮮かつ清冽な思いに浸らせました。”師弟子の法門”は、僧俗関係ばかりでなく、己心に本尊を建立する、といった難解な本尊論も同時に展開したために、正信会内部でも物議を醸した面もありましたか、しかし、初めて体験する、宗門・僧侶の言動の矛盾にもがき苦しんでいた信者の多くが、若手教師の主張に心を躍らせた事実は否定できません。

 それまで欝々悶々として内包してきた貫首の行状の理不尽さや宗務行政の矛盾、僧侶の言行不一致、近代宗学の偏向などの疑問が少しずつ氷解できたからです。貫首イコール大聖人にあらず、貫首も間違いを犯すゆえ絶対・無謬の存在ではない、したかって貫首の過ちを責めるのは道念ある僧俗の務めである、否、そもそも日顕師自身が正統な貫首かどうかさえ疑わしい――日興上人遺戒置文をはじめ先師の著述を読み直し、従来の先見や疑念が解消されるにつれ、新たな段階に到達した正信覚醒運動の意義に自信を深めました。

それゆえに貫首、血脈や戒壇本尊などについて既成概念を覆す法門上の問題提起がなされるのは、理の必然であり、時間の問題ともいえました。


 
効果的だった異流義キャンペーン

 論の是非はともかく、この時、もしこれらの諸師の法門提起がなければ、正信会は宗門の権力を伴った攻勢に十分太刀打ちできなかったのではないでしょうか。権力に対して法義で対抗したからこそ、あの時踏みとどまれたのだと思います。逆に、宗門は法論で十二分に応えられないからこそ力を行使したのではなかったでしょうか。力と力の対決だったなら、当然弱いほうは敗北しているでしょう。しかし、法論であれば、そしてそれに自信を持っていれば、力では負けても魂は屈することはありません。日蓮聖人が北条幕府や他宗徒からどれほど弾圧・迫害を受けても微動だにされなかったのは、まさしく妙法の正義を確信されていたからです。

 しかし、残念ながら、これらの法門上の問題提起は、宗門から”異流義”のレッテルを貼られるとともに、管長裁判に不利を招くとの正信会執行部の戦略的判断から禁じられることとなりました。どういうことかといいますと、この裁判で正信会は、日蓮正宗の宗制宗規に則り、あくまで日顕師の登座をめぐる手続きの不備を衝くという戦法を採ったのに対し、宗門は教義上の問題に収斂させ、裁判そのものを無効に導くべく”異流義キャンペーン”を展開しました。それに利用されたのが、法門上の諸提起・試論でした。

 なかでも槍玉に挙げられたのが、正信会が擯斥処分を受けたために、従来のように大石寺に登山して戒壇本尊を内拝できなくなった信者の動揺を防ぐべく展開された、久保川師や若手教師などによる新たな戒壇本尊論でした。両者の戒壇本尊論には相違がありますが、いわんとするところは要するに、大石寺の戒壇板本尊を直拝しなくても、成不成には影響しない、むしろ遥拝こそが本来の参拝の有り様だというものでした。一見当たり前のことのようですが、これまでは、日々の信心の集大成として総本山に参り、戒壇板本尊を内拝して懺悔滅罪し、成仏を祈念することが模範的信心とされてきましたから、久保川師らの戒壇本尊論は、近代日蓮正宗における従来の信仰観に革命的な転換を迫るものでした。

 ところが、宗門はそれを逆手に取って、”血脈法水を否定する大謗法”、”戒壇の御本尊を否定する異流義”とのキャンペーンを張ったわけですが、これは、ある程度奏効しましたなぜなら、他宗派はいざ知らず、日蓮正宗という教団においては、異流義呼ばわりされることは、いわば村八分に遭うようなものだからです。管長の指示・命令に背いて、宗外追放の憂き目に遭うこととは次元か異なるのです。行政処分の場合は処罰期間が過ぎれば、あるいは懺悔すれば宗内に復帰することも可能ですが、新義創唱は信仰次元で異端者と見なされ、教団コミュニティから疎外されてしまうことを意味します。そしていずれは、宗史から抹殺されるのです。

 こうした宗門の異流義批判に対し、正信会は「継命」紙上に「統一見解」を掲載しました(昭和56年3月1日付)。
 「一、本門戒壇の大御本尊を断じて否定するものではない

 二、宗開両祖の御教示、御遺訓を正しく弁えられ厳護される法主上人に対し奉っては、血脈付法の大導師と信伏随順申し上げるのは当然であって、我々もそれを心から望んでいるのである

 三、(略)」


 この「見解」を見れば、いかに正信会が戒壇本尊否定、血脈相承否定の宗門側キャンペーンにたじろいでいたかがおわかりでしょう。その結果、「継命」に載せる原稿も予めチェックを受けるようになり(とくに若手教師の原稿に対して)、宗門に揚げ足を取られたり、裁判に差し支えると危惧されれば削除、訂正、ボツのいずれかとなりました。

 その後、こうした措置を承服できない僧侶の幾人かは正信会からも離脱し、独立独歩の道を歩み始めましたか、しかし、この法論停止を契機に、覚醒運動のエネルギーが急速にしぼみ始めたことは否定できません。なぜなら、宗門との実質的な対決は裁判所という第三者の場以外になくなり、同時に運動に新鮮な息吹を芽生えさせ始めたかに見えた種々の法門論議も抑え込まれることによって、運動のエネルギーが外に放出されなくなったからです。逆に、行き場を失ったエネルギーは、この種の運動(アンチ・エスタブリッシユメントームーヴメント)の常で、内部の対立・不和となって表れ、あちこちで僧侶間、僧俗間のいざこざが発生するようになりました。

 閉塞状況に陥ると、運動は同心円の中をぐるぐる回遊するだけで、いくらスローガンやモットーを高々と掲げても、膨張して突破するエネルギーは生まれるわけがありません。逆に、運動が盛り上がっている時には目くじらを立てられるようなことのなかった些細な出来事にも攻撃や批判の矛先が向けられ、揚げ足を取ったり取られたりの無用の諍いが生じたものです。宗門の貫首のような、確固とした権威・権力者が存在しない正信会では、人事の絡む揉め事を短期間に解決するのは容易なことではありませんでした。



 
教義論争停止で運動は停滞ムードに

 こうした状況のなかで、信者の関心は当然のごとく裁判の推移に集中し始め、時々刻々質問が寄せられるようになりました。執行部もその対応に苦慮し、結果、諸会合の折々に裁判の経過報告が演題の一つに加えられることとなったのです(リポーターはたいてい山崎正友元弁護士でした)。

 しかし、裁判が結審していないなか、いろいろ質問されてもじつは明快な回答ができるわけはなく、往々にして手前味噌の経過報告をせざるをえないのが実情でした。

 裁判は、ご承知のように一朝一夕に結論が出るものではありません。一審、二審、三審と続けば5年、10年の長期にわたります。この間、法門上の問題提起ができなければ、いったい何ができるのでしょうか。

 なるほど毎年毎年、「折伏をしよう」とか「寺院に参詣しよう」「富士の清流を守ろう」といった運動の目標やスローガンが掲げられはしますが、すでに意気を阻喪した多くの僧俗が心を躍らせるわけがありません。草創期こそ”錦の御旗”が背後に控えていたために、学会員の脱会も比較的容易にはかどりましたが、”御旗”を失っていらい成果が思うように上がらなかったのは周知のとおりです(それは今回の宗門も同様で、貫首自ら音頭を取って池田氏を破門し大量の学会員の帰伏を当て込んでみたものの、先代上人ほど馴染みがなく、また学会組織への愛着を捨て切れないせいか脱会者は予想をはるかに下回っています)。

 もちろん、正信会としては、裁判はあくまで運動の一環であって目的ではない、と事あるごとに強調してはいましたが、法門の論議が停止されてしまっては衆目が裁判に注がれるのは如何ともしがたいものでした。

 本来なら、この閉塞状況に”喝”を入れるのが、近代の宗史・宗学の常識を問い直そうとする法門の研鑽、深耕のはずでしたが、結果的に裁判に勝利するのを至上命題にしてしまった運動の針路決定により、古谷師もご指摘のとおり、今日に至るまでもはや再び運動が昂揚したことはありません。まして、同師によれば、正信会の現状は「二百派連合内閣ともいわれ」「疲労感と惰性が漂って」「もしこのままで時間が経過すれば、正信会は、帰山とは逆に分裂に進む可能性が強い」そうです。確かに、一時期の「正信会報」には、会の指針の不透明さや会内意思の不統一ぶりを心配する声が目立っていました。

 しかしながら、考えてもみてください。運動の停滞を招いた元凶ともいえる管長裁判の総括なくして、会の展望も指針も打ち出すことは難しいのではないでしょうか。帰山論議の深化も望めません(管長裁判提訴以降、貫首論や血脈相承論に関する突っ込んだ論議が見られないのは残念なことです)。

 古谷師は「正信会に張りが無くなった」のは、「正信覚醒運動の最大目標である創価学会が宗門から消滅し、同時にそれに付随していた裁判も終結したからである」と認識され、だから帰山すべしと説かれているようですが、これまで述べてきましたように、小生は、学会が破門され、裁判が終結したから運動に張りがなくなったのではなく、運動の重心が裁判闘争に移され、創価学会と与同した宗門との徹底した法論を避けたために停滞していった、と認識しています。また、仮に学会を破門したことで一応の決着がついたとしても、それで問題が解決したと理解されるのは短絡というものです。良くも悪くも、創価学会から学習すべきことは数多あります。学会問題を学習することは、とりもなおさず宗門問題を吟味することを意味します。それらを総括せずに、ただ学会を破門して悪し様に罵るだけではマスコミの皮相な評論となんら変わりありません。

 ついでにいえば、管長裁判に限らず、これまで運動の節目節目で一度として総括がなされ、責任の所在が明らかにされたことはなかったのではないでしょうか。往々にして、物事が執行部とその周囲だけで決められ、蹉跌があっても責任問題はうやむやのうちに霧消され、誰一人けじめをつけたことがない――というのが、長い間見てきた正信会の体質です。けじめがないのですから、運動の活気が湧き起こるはずもないでしょう。

 けじめというのは、自然界にたとえれば、いわば季節の変わり目ということです。季節の変わり目は自然の働きによって周期的にやってきますが、けじめは人為的におこなう変わり目といえます。季節が変わると人の心も身体もそれに種々反応します。冬が来れば、なんとなく物悲しくなりますし、春が来れば、心が華やぎます。

 同様に、運動が冬の様相を呈していたならば、人心を一新すべくけじめをつけて、春の息吹きを呼ぶべきではなかったでしょうか。