大石寺法門七巻上

 

 

阡陌陟記は、当方等の勉強会に使用するために書かれたものを、大安寺や興風談所の手を煩わせ、一部字句等訂正して発行したもので、当時正信会内部の有志に百部位無料配布してきたものです。

 それを貴殿等がこうしたやり方でされる事は誠に残念であります。一説には一部五千円という高価にて頒布しておるそうですが、貴殿等の目的・意図について大変理解に苦しみます。

 奥付を見ると 〔無断複製を禁ず〕とありますが、どういう事でしょうか。

 何れにせよ、貴殿等が真に宗関両祖の正法正義を求め、富士の清流を蘇えらす事を願うのであれば、もう少し道理ある行動をとられん事をお願いします。

 角を矯めて牛を殺すの愚を犯されないように願います。

 

                                                                       勿々

     2月8日

 

                                           菅 野 憲 道

 木 下 晴 夫 様

 

 

 


 

大 石 寺 法 門

 

川澄 勲

 

 

 

  源立寺より木下氏に送られた書状について、これの内容について筆者にもかかわりがあるので、一応釈明しておきたいと思う。貴殿から書籍を送られて大変迷惑しているということであるが、それは阡陌陟記を指しているものと思うが、これは当方の勉強会に使用するために書いたものということであるが、興風談所の手を煩らわせて一部字句等を訂正して発行したもので、当時正信会内部の有志に百部位無料で配布してきたものですとは全く筆者には初耳であり、一部字句の訂正とは、尤もこれを書き初めたのは談所のためのものではなかったものであり、木下氏が、六十過ぎて新天地を求めて全国の末寺近くに行って遊説したいということであったので、それでは体がもたないから、原稿を書こうと約束して初めたものであり、初めから談所のために書いたものではなかった。それを印刷するについて解読を依頼されたついでに適当に修正していたものと思われる。それについては、大法寺からも談所からも一言の修正の断わりはなかったもので、或る時関さんの持っていた原稿を見た処、もとの姿のない程也真っ赤になる程修正しているものを見たことがある。その後、関さんや大法寺とは全く音信不通である。それを見て、望道先生が全文修正したものを返送して、全文を直したが、主旨は変えていないから宜しく頼むと手紙をつけて返送され阡陌陟記があったが、これはすべて印刷は取り止めた。随分気前よく直しているものである。人の原稿を全文直していかにも自分で書いたものと大直しをしているので、最も楽な悪質なやり方であったので、以来先生とは音信不通である。談所で修正しているものを見て、自分もやってみたのではないかと思う。又談所からも修正については何一言も摂したことはなかった。それを見て、望道先生も、存分に修正原稿を作ってワープロに打っていたのではないかと思う。それは最も卑劣な方法であると思う。その後大法寺とも全く音信不通である。今は正信会の先生方からは全く声も掛けられることもない。阡陌陟記も殆んど原型のない程修正されているものと思う。これを木下氏から解読を依頼された序いでに思い切って修正したものと思う。それを木下氏に返送する前に、源立寺で正信会用に百部を配っていたことは初耳である。正信会の面々は、更らにそれを適当に修正して発表していたものではないかと思う。それを「禁不許複製」となっているので、異論が出たのではないかと思う。修正する前に一度申し入れるべきではなかったであろうか。人の書いたものを一語一語を修正して自分のものにするのは最も安易な方店である。望道先生もそのためのワープロを利用していたのではなかろうか。大石寺法門や仏道雑記では随分珍説も入れこまれているものもある。天草には古くから韓国から己心の一念三千法門が渡って来てをり、鎌倉に生れた宗祖が天草四郎から己心の一念三千法門の相伝を受けたというようなものもあったと思う。これも再版の時があれば切りすてるつもりである。又、不受不施目奥に関わるものを5、60枚許り書いた処、全文手もふれずに捨て去られたものもある。

 而も今は異流義方式をとっているが、それは不受不施流である。それを取り入れているのは、尾張北在の異流義即堅樹日好流であり、久遠院日騰師もその〓の生れであった。その昔、後藤増十郎が埼玉の草ケ部で検挙されて江戸に送られて来た時、久遠院さんは、江戸の妙縁寺に居たので、幕府に呼び出されて大分絞られたようで、当時学頭であったので、そのために猊座につけなかったということである。その妻女が姫路の生であったので、西下の途次、大阪方面で二三の僧侶を折伏して、岡山に来るなり談所の南面の部落に折伏をして危険になったので、後、山口の防府に逃れ、そこから別付に渡り、そこでの折伏第一号が後の妙寿尼であったようで、その後長崎迄行ったが、適当な地もないため、福岡に帰って開創したのが霑妙寺であった。その時第一号の折伏した人は、後に東京に出て蓮門講を作って天下にその邪教振りを示したものである。その第二号が霑師であり、その傘下に馳せ参じたのが堀上人であり、次ぎ次にに大勢の人々が馳せ参じたようである。そして富士再見の目安が立ったということである。今の正信会もその異流義方式を踏襲しているようであり、それはお島様方式を取り、八丈に流罪された人がすべての采配をとっていたようである。北在の原流は精師であり、後に大宮に発展し、幕末には江戸の近くの蛇の窪に根強く発展したものであり、その人々が中心になって品川の妙光寺が出来たもので、その残った人々が明冶に深川教会所を作ったものが後に法道院の源流となったもので、妙光寺の名義は、静岡近くの妙光寺が台風の披害を受けていたので、その名義をとって品川に妙光寺を作り、建築材は埼玉の大宮から運んだということである。信者は蛇の窪の人等であった。そこに明治再建の基盤が出釆たのである。談所の南面の部落は今は八品に付属しているようである。そして防府にもその後教学所が出来ているようである。明冶には寺院建立は出来にくかったようで、殆んど教学所で始まっているようである。大宮及北在、蛇の窪等は、殆んど精師関係であったようで、後には北在は金沢への連絡口になっていたようである。その頃は僧侶に代って、信徒が法論の座に出て論議していたようで、宗学要集にはその成果がのせられている。

 一日も早く、教学法門は本来のものに立ち返ってもらいたいと思う。そのために安楽行品に説かれる止と観と慈悲の三法が原点に用いられているようである。天台大師が立ち上った根元もそこにあったようで、明治にもそれを察していたのではなかろうか。宗祖の本尊抄もそれを含めていられるようで、六巻抄も、興師の説も根本はそこにあるようで、ぞれを知らせようと、日達上人は、大石寺版開結の安楽行品の解説にこの事を分り易く説かれているようであるが、今、最も必要な時に全く見て見ぬふりというか、今は全く見向きむされないようで、そこに法華の原流があるようである。折角示された原流も全く不明のままでは救いがない。六巻抄の三秘も、本尊抄に止観第五を引用された意義もそこにあるのである。そこにあるのが原点である。原点とはいうまでもなく三秘そのもののようである。そこにある三法を根本とした処に宗門の源流があるというのが実状のようである。そこにあるのが関さんが法花思想の原流なのではなかろうか。若し、今のような三大秘法に原点を求めることは甚だ危険なものを持っていることになる。それは、台密の密教的な三秘即ち三大秘法抄的な発想を持っている故である。それを寛師は示されたものが六巻抄である。それは、三秘抄の三秘によることをいましめられているようで、本来の三秘に立ち返ることを指示されているようであり、それを日達上人もその安楽行品の三秘と三法によることを指示されているようである。読んで忘れては功徳にはならない。読んでは必らず実行することが肝要である。そこに日達上人への報思もあろうというものである。宗門でもこれに気附くこともなく、アベさんは、法花の広布をすててウラボン経の三秘を根本義と取り定めて、而も題目のみは法花の題目で間に合わせようとしている。法花題目の功徳があるのは法花の範囲に限るようである。ウラボン経は三大秘法抄の範囲にあるもののようで、そこには法花の安楽行品の功徳は及ばないのではないかと思う。速かに法花の原点に立ち返ってもらいたいものである。台密の三秘と絶縁して、安楽行品の三法・三秘に立ち返る処に真実があるのである。そこに根本義があるのである。日達上人はそれを察して開結をものせられているのである。親の心子知らず、宗祖以来七百年、六巻抄以来三百年、開結出版以来五十年月、今漸くその原点を窺い知ることが出来たということである。今度こそはこの原点を基準として立ち上ってもらいたい。その根本にあったのが己心の一念三千法門であり、三法であり、三秘のようである。六巻抄も亦その三秘を秘められたままで、それは長い間求め出されたこともなかったようである。そこに源があり、その源を立てる処に源立寺の意義がある。源を立てるが源を立てるなら漢文調である。源を立てるなら和文調である。その所に源のつかい方があるように思う。

 先々月頃出された原点では、結論はどこに収まっていたのであろうか。その原点は欲望の中で原点をとらえたということであろう。 

 文部省は、三秘抄を真蹟として益々その意儀を不鮮明にしているつもりのようであるが、その手に乗せられないようにしてもいたい。あの〓〓コンピューターに入れられたものは〓〓山川智応氏の説であり、当時これを取りつぶすことの出来なかったもののようであったことを宮崎師は説かれている。それは主として国柱会説を根本にしたものではないであろうか。結果的には、宗祖の最も斥われた京なめりに落ちつくようで、即ち台密の上に大あぐらをかくのみであり、そこには一切救いは見当らず、只あるのは混乱のみである。安楽行品の三法・三秘をもって解決してもらいたいものである。その三法・三秘を見て、密教が適当に自家に解した処に今の三秘が出るということなので、現にその秘密は宗門を毒していたのではないかと思う。余り立ち入ればその被害を受けるようなことになるかも知れない。随分お気を付け遊ばせと申し上げたい処である。そこにあるのは只欲望の上のむさほりのみてある。それを餓鬼道ということのようである。わさわさそれを大学まて行ってがき道に堕ちる方法を学ふ必要は更らにないのてはなかろうか。速かに本来の三秘に立ち帰ってもらいたいものである。信心かそのような方向をたどらせたのであろうか、吾々には一向に理解出来ない処である。 

 日達上人は三法、三秘を速かに身に付けることを示されているのてある。今、念のために大石寺版開結41ベージの全文を引用して皆さんに改めて読んてもらい、そして身に付けてもらいたいと思う。今、宗門の学匠は、知って横を向いているのか、見て忘れたためか、一向に脳裡から遠のいているようであろうか。これを思い起すことによって立ち上ってもらいたいと思う。

『十四、安楽行品大意。この品は法花経四要品の一で、方便品の理によってこの安楽行を修し、後の寿量品の仏果を感ずるのであって、普門品では化物の用をのべるのである。

 前品では、深行の菩薩が弘経の甚難を歎じ、五八の声聞が娑婆を恐れて他土の弘経を撃うようなものであるから、文殊菩薩は、浅行初心の行者の濁悪世で安楽に妙法蓮花経を修行する方法を問い、釈尊はこれに対して身、口、意、誓願の四種の安楽行を説き、初心の人は、これに任して妙法蓮花経を弘通し修行することを示されたのである。 

 その相は、止(定)と観(慧)と慈悲との三法をもって、身、口、意、誓願の四行を導くから四安楽行というのである。 

 一に身安楽行とは、止に住する故に身の十悩乱をはなれ、観に任する故に、一切法空なり、如実相、無所有性なり、依って著せず、慈悲に住する故に礼拝行道など、一切の威儀ことごとく利他のためにすることである。 

 二に口安楽行とは、止に任するゆえに、過を説かず、軽侵せず、歎毀せず、怨嫌せずであり、観のゆえに但大乗を説くのであり、慈悲に住するゆえに読経し、仏を讃歎し、自然に利他するをいうのである。 

 三に意安楽行とは、止に任するゆえに、散乱悪想をはなれ、観に任するゆえに、如来、菩薩、十方の菩薩、一切衆生の四人に四観あり、慈悲に住するゆえに、所修の禅定、智恵、ことごとく一切衆生のためにすることである。 

 四に誓願安楽行とは、止に任するゆえに、怨親平等であり、観に住するゆえに、所対の衆生に無着である。慈悲に任するゆえに、一切衆生において、抜苦与楽の誓願を発すことである。 

 法師品の衣、座、室の三軌と、この品の四安楽行とは、たがいに弘経の方軌の表裏をなすのである。なお、四安楽行を説いた後に髻中明珠の喩を説き、経の妙を歎じて、「此の法花経は諸仏如来の秘密の蔵なり、譜経の中において最もその上に在り」と説かれているのである。』 

以上、安楽行品の解説の全文であり、続いてその余の文も読んでもらいたい。これを読めば、日達上人の意図されている処も自から明らかであると思う。そこにはじめて原点が説き出されているのである。原点もこれなくしては明らめることは出来ない。これらについては受けとめていなかったのであろうか。これが関さんが法花思想で求めかねていた原点であり、三法であり、宗祖及六巻抄の原点なのである。改めてこれを確認することは、その師日達上人に対する報思の一分なのではなかろうか。花野さんも亦その原点を捉えかねていたのであろうか。それを原点として、止観も亦説き起されているようである。それを〓時に捉えた処に、宗祖の鋭さがあるということである。それは門下において、大石寺のみが意識した上で伝えてきているもののようで、あべさん如何でせうか。日達上人は亦白解仏乗された。どのようなものであろうか。今まで信心をもって是認する御僧侶方に捉えられなかったのは何故であろうか。わざわざ不信のヤカラのために残しおかれたものであろうか。ここらあたりで御返却申し上げたいと思う。皆さんで御受け取り願いたいと思う。 

 この、日達上人の残しおかれた一言の妙旨、どこまでも絶えることなく守り続けてもらいたいと思う。そこに師弟一箇の妙法があるというものなのではなかろうか。それが三法であり、三秘なのである。六巻抄・三秘も今に健在である。どこまでも守りつづけてもらいたいと思う。 

 新雑誌21の原点の広告によれば、宗義の原点ではなく、創価学会を求めて原点と名付けられているようである。今いう処の原点は、天台や伝教・宗祖即ち法花の原点を捉えようということなのである。そこから天台・日蓮の宗義は始められているのである。そのような中に創価学会の原点も含まれているようである。そこに関・花野先生方の目指す原点も存在しているということであろうか。それは只諸祖の考えの規模を縮めるのみではなかろうか。筆者のいいたい処の原点は以上の三祖に通じるものを求めたいのである。学会の原点は自づからその中に含まれているものではなかろうか。 

 阡陌陟記は、もともと木下氏のために書き始めたもので、正信会の先生方のために書き始めたものではなかったのである。その解読の道中で、正信会のために書き下した==という解尺が出たようで、それを返送する前に、正信会用に無料で百部宛コピーしたものを利用したもののようである。それについては当方は何も聞かされていないのである。解読出来ない部分を書き改めていたもの、ではなかろうか。今は当時の正信会の先生方とは全く音信不通である。その頃に望道先生も改編の味を覚えたのではなかろうか。大石寺法門は専ら改作をやっていたのではなかろうか。それらは、末寺の先生方は自分のものとして自由に改作して利用していたのではなかろうか。木下氏のものを改編したのは正信会ではなかったのであろうか。又、禁不許複製を斥っているようであるが、談所の方で独自の新説の研究発表をされることもなかったようで、阡陌陟記粁の原稿は、もと木下氏の体をいたわって書き始めたものを、正信会が利用されたものであった。「禁云々」の文字を徐いて、談所が作りかえたものであるから、談所で出版する人もいないのではなかろうか。そのためには研究の前進を求めたいと思う。末尾に富士の清流云々とあるが、今日指している処は、異流義といわれている堅樹日好流を目指しているようであるが、これは本来清流とは云いかねるものなのではなかろうか。そのために本来の原点を求める必要があるので、それが安楽行品の止と観と慈悲の三法であることを確信するものである。あくまで現在の法門の追求が必要なのではなかろうか。角をためて牛を殺すとは、どのような恵を含めているのであろうか。今回出された原点は、本来の教義についての原点とは遥かに異なっているものではなかろうか。中には、全文一字残らず修正して自作になぞらえてそれを返送して来る人もあるが、これをどう解すればよいのか。かげでは利用し乍ら盛んに悪口重ねている人もあるようである。川澄の〓の理屈より、熱原の無智の老婆の信心の方がはるかにまさっていると称している人もあるようで、そのような中で吾等を不信のヤカラと称しているのである。もっともっと自らを低下におろしてものを考えるべきなのではなかろうか。 

 今いう処の信心の意義のものが盛んになったのは、室町の終った頃で、一方では三大秘法抄的な発想が盛んになる時機ではなかったであろうか。それにあふられた三秘抄も盛んになったように思う。それが更らに国柱会教学を取り入れることによってあふられているようで、今もウラボン経を背景にして盛んにあふられているようである。それはある一時期、塔婆料を取り集めるために大いに利用されていたものであるが、今は全く火が消えたようである。 

 これで漸く本来の宗門の原点に近い処にかえったのではないかと思う。余はウラボン経を捨てて法花に立ち帰ることのみが残されているのみなのである。信心深い御僧侶方から、原点である三法三秘を取り出だされることはなかったのである。その意味でも止観の探索をしてもらいたいものである。そこに安座して長い太平の夢を見続けていたようで、その間に三秘も三法も忘れてしまったということであろうか。

宇宙の大霊の事

 宇宙の大霊という語は門下ではあまり見かけない。日には昔から使われない語で、それが大正になって急に福重木仏論にも使われ、又、正宗要義にも使われて居り、全く不思議な感を与えるものである。何となく、欧米から移入されたもののような感じを与えるものがある

 丁度その頃、松本佐一郎氏が東大を出て国柱会に国内留学していたのではないかと思う。国柱会教学を受け入れる役割りを果していたのではなかろうか。大石寺に国柱全教学が移入されるのはその時期ではないかと思う。それがもとで大石寺発展の役割りを果たしていたのではなかろうか。そこには身延から受け入れたものも含まれているように思われる。各方面から色々と取り入れられているようである。 

 大石寺では、昔から日〓しいものがあれば無雑作に取り入れて使われている□□□□□見出すこと□まことに困難なことである。今でも人の作品を至極簡単に取り入れて自分のものとする悪いくせがあり、自他の区別も付かないようである。それは長い間に色々と経験済みである。自分等を最尊の座においているために余り気にかけないようである。 

  都をばかすみと共にいでしかど、秋風ぞ吹く白川の関という古歌があるが、その白川の関の手前の処にある久須坊であり、目師の生れた三の迫(さんのはぎま)その関を渡った処が福島県であり、この関所に近い処であった。都から歩いて半年以上もかかる処であった。 

  平成三年十月号大日蓮の読みに〓に珍妙な読みがあったので、念のため紹介しておくことにする。即邪謬(ジャビュウ)、誣言(ブゴン)(ブゴウ)、隠居(オンゴ)。何れも負けず劣らず珍にして而も妙を尽せりというべきの、何故そのように読むのか全く分りかねる処である。日本語では全く初見に属するものである。あまり珍妙な読みは敬服出来ない。


察の字のこと 


 六巻抄第一三重秘伝抄の序の文の終りに、察せよとあるが、ここでは、吾が意を察してくれよという意ではなく、ここでは、察の字は古訓古事記・第一紙によれば、吾が意を察せよ(つまびらかにせよ)と読む処ではなかろうかと思う。どのように読むのか、古事記伝を調べて見てもらいたいと思う。即ち余は 余とは自分ではなく、残った処はお前遼詳細にせよという意味ではなかろうか。以前草稿でそのように読んた処、無惨にも望道先生から、意味が分らないと×をもって抹消されたものであるが、先生から得心のいく読みは示されなかったものである。そして、序でながら一冊の原稿全文を書き改められて返送されて、よろしくと手紙をつけられていた。全文をかえたが意味はかえていないから、宜しくたのむということであった。即ち全部出版は取り止めたことがあった。仮名一字でも意味はかわるものである。以後先生とは音信不通である。その外にも随分存分に修されているものがある。そして、おそらくはその修正されたものを出版されていたのではないかと思う。初期にはそのような経験を持たされているのである。
 


六巻抄三秘のこと

 その三秘とは、今は天文以後は三大秘法抄の三秘によっているようであるが、それはアベさんのウラボン経の広布の方で使われているようで、これは、今の宗門の使われている意義は専らこれによっているものと思われる。これは本尊抄の、いかるは地獄、食るはがき道の読みに通じるものであり、本尊抄に背いて専ら死後の成道をとり、地獄がき道に通じる道をひた走っているようである。そして、お前の親兄弟は地獄がきにおちているから塔婆を立てて供養してやりなさいと、餓鬼道をひた走っているようである。専ら衆生いじめのために使われているようで、そこにはかけらも慈悲は見当らないのである。その慈悲と止と観との三法をとくのが安楽行品である。その三を説くことによって自からそこに三秘が登場するものである。それが法花本来の三秘の考え方のようである。今の三秘は専ら台密の密教的な発想によるもののようである。学会の説く処も、三秘抄、当体義抄、総勘文抄等、和義口伝を含め、専らその台密的な発想を受けとめているもののようである。本来の三秘に立ち帰って、構想を大きく修正してもらいたいと思う。それは安楽行品によるもので、大石寺版開結(41ページ)に詳しく日達上人が示されている通りである。是非修正してもらいたいと思う。これは、法花の発端につながっているもののようであり、天台、伝教、及び宗祖の三秘に通じるものであり、法花の根本もそこに置かれているものと思う。そこに初めて根本義があるように思う。日達上人もその根本義の修正をねらわれているのではないかと思う。それが己心の一念三千法門に通じるものであり、本尊抄三秘にも通じるものをもっているものと思う。日達上人は、それの修正を求めて法花経の山家本を考えられていたのではないかと思う。それまでの法花経の読みは、訓読などは専ら慈覚点によっていたようである。その読みは今の大石寺版の中にもか成り残っているようである。その修正を考えられたようにはいかなかったようで、一度仕上げたものであったが、再び学会が校正されて、現行版は大きく修正されて慈覚点に近いのではないかと思う。元の底本は、島地大等師の赤本に依ったものであった。これについて、恐らくは話合いは出来ていた上で出版に取りかかられていたものと思う。そして、筆者が一度仕上げたものを、横合から異論が出て学会にやってもらうことになったものであった。誤植を修正すれば完本になるのではなかろうか。あまりにも誤植が多すぎるようである。そのついでに41ページの安楽行品の解説をよんでもらいたいと思う。極力山家本によられたいと思う。改めて話し合いをしてもよいのではなかろうか。日達上人の甚探な処を受け継いではどうであろうか。41ページの処は教学部の皆さんも恐らくは子細に眼を通されているのではないかと思う。それまでの訓読は専ら慈覚点によっていたものであった。それを落合慈任師が教えられていたようであった。1日も早く日達上人の御遺志を受けとめられたいと思う。品々の解説について安楽行品の前後を読まれたいと思う。そこにはくわしく三法と三秘をとくのである。それが師思を報じる道なのではなかろうか。最早三大秘法の時代は終ったようである。そして、一日も早くその三法三秘の処に立ち帰ってもらいたいと思う。そこに初めて真実の法花の大慈大悲をうかがうことが出来るのではないかと思う。そこを出発点として再出発してもらいたいと思う。そこに真実の法花の真実の教えが秘められていると思う。そこから取り出されるのが十界互具であり、それが寿量品の文の底に通じるものなのではなかろうか。そこに宗祖や法花の原点を取り定めて、再出発してもらいたいと思う。既に三大秘法抄の三秘の時代は過去のものになったようで、今の信心の語は専ら三大秘法抄から取り出されているようで、これは専ら自らの欲望につながっているもののように思われる。是非共この三秘によって今世紀の苦難を乗り越えてもらいたいと思う。そのために寛師は六巻抄を編輯せられたのではないかと思う。今までは何となくそれを逆手にとっていたのではないかと思う。そこに真言亡国ということもあてはまりそうである。今の信心の処には己心の仏国土はあり得ない。あるのは只我心の仏国土のみではないかと思う。そこには自心の救済はあっても、衆生への救済はあり得ないのではなかろうか。今いう処の三秘については、宗祖以来寛師より日達上人に至るまで一箇して三秘三法に結集しているように思う。天台以来の甚探のものもすべてそこに結集しているように思う。昭和の改革もそこに結集してもらいたいと思う。そこに報思の真実があるのではないかと思う。
 

 経験した処に依れば、今まで皆さんの中には、自から努力することなく、無断で人の作品を利用して僅かな語句を変えて自分の作品の如くにしている人々の多いことがある。そこには新しい大きな発展もないから、始めから努力を積み重ねてもらいたいと思う。盗用はいつか行きつまるものであることを知ってもらいたいと思う。初めから〓〓の〓〓を重ねることで、僅かな語句を取りかえて自分のものとして見た処が、そこには大きな発展はない。初めから努力を重ねてもらいたいと思う。今の世の先端をゆくものであろうか、あまりには他人のものを利用するのが多いのではないかと思う。そこには必らず行きつまりと衰微はあっても、大きな発展のないことを知ってもらいたいと思う。あまり人の作は利用しない方がむしろ賓明なのではなかろうか。大いに若い間の自らの努力を従容したいと思っている。出来るだけ安易な方法をとらないように努力してもらいたいと思う。出来るだけ努力することをすすめたいと思う。
 従来のやり方のなかでも、あまり大きな発展はなかったのではないかと思う。筆者を、僧侶でない、只不信のやからということもあまり成功しなかったように思う。返って自分らが追いつめられただけではなかったではなかろうか。結果的にはあまりプラスにはならなかったようで、そ七て今は不信のやからの語をやめて、僧侶でない、信心がないということで追いつめようとしているように思う。即、信心があるということは僧侶であるという意味のもとに、信心がないということで追いつかようとしているようである。信心という美名のもので大きな欲望をみたそうとしているのではなかろうか。何となく後退しているように思われる。
 

 目下の処、正信会からも大勢の力を動かすような力は未だに現われないようである。 

 関さんが苦心していた法花思想の根元になるものも、今一歩の努力の不足があったようで、御書や六巻抄の三秘も求め出すことは出来なかったように思う。そこには考え方の安易さがあったのではないかと思う。大いに努力してもらいたいと思う。少し努力が上すべりしているようである。大いに努力を重ねてもらいたいと思う。その三秘を根本として、宗祖の法門は成り立っているのである。そのような処に伝統を口に出されても、これは伝統そのものが分らないのであるから、まづ伝続そのものを明きらめてもらいたい。そのために大聖人の仏法もはっきりとは示しかねているように思われる。

  六巻抄の三秘は、その抄の中に三秘は充分に用意されているのではないかと思う。その三秘については安楽行品を読んでもらいたいと思う。それを日達上人も明らかにしようとしていられたのである。それが大石寺版開結の41ページの前後を改めて読み返してもらいたいと思う。この上に立って論理を進められたいと思う。それについては、日達上人はその根元になるものを示されて、悉しくは後輩に残されたのではなかろうか。それを明きらめることが今の最大の課題なのではなかろうか。そこを努力の出発点としてもらいたいと思う。それは正信会の人々も、学会の教学部の皆さんも、皆さん読みつくされているのではないかと思う。読んだものはしっかり記憶の中に止めておいてもらいたいものである。これは今の緊要事なのではなかろうか。そこにあるのが三法であり、三秘ということなのである。そこに日達上人の残された課題があるのではないかと思う。そこに向って独自の努力をしてもらいたいと思う。それを確認した処に、伝統法義も始めて明きらかになるのではなかろうか。そこにはウラボン経の広布があるようにも思われない。正信会でも六巻抄の三秘がはっきりしていなかったようであるが、伝統法義の本源である三秘は、あくまで法花経につながっているもののようである。公明党も、その本源としてこの三法三秘の処から再出発してもらいたいものである。従来の公明党の本源になっているものは台密の三秘であって、それは必らず三大秘法抄を根底とするものであり、そこには衆人の救いはないものと思う。是非く考え直してもらいたいものである。それは六巻抄も既に皆示されている如くである。それを取り上げることは、いうまでもなく衆生への報恩をもっているのではないかと思う。六巻抄の追及は、身延のせめのきびしさの中で、あまり検討されることもなかったようである。

 興風が以前三秘として取り上げたものは、三秘抄の三秘であり、そこには密教的な芽囲気をもっているものであって、寛師の三秘とは全く異っていたものであった。恐らくは門下でも安楽行品の三法三秘を取り上げている処はないのではなかろうか。そこに日達上人の眼力があるように思われる。大いに師説を延ばしてもらいたいものである。六巻抄の三秘については、以前興風に発表されたこともあったが、それは身延の望月師に先手をとられたものに対する返事であり、御先方の三秘そのものであったようであり、決して宗門としての六巻抄の三秘といえるものではなく、むしろ押され気味であったようであった。むしろ御先方に押され気味であって、六巻抄の三秘も出かねていたように思われる。御先方も三秘抄の三秘をもって責め立てているので、むしろ安楽行品の三法・三秘をもって一気に押し返すべきではなかったのではないかと思われる。即ち戦わずして負けている感じであると申し上げたい処である。安楽行品の三秘を、吾が法門として常に用意しておくべきであることを申し上げておきたいと思う。一手の遅れは千手の遅れといシこともあるので、あまり立ち遅れないことが肝要ではないかと思う。 

 折角日達上人の残されたもの、そこには宗祖の三秘も含まれているよう.である。独自に研究を進めてもらいたいと思う。楽をして、努力をしないで人の成果のみを取り上げることのみに専念することは甚だ危険である。もっと独自の研究を進めてもらいたいものである。楽なことのみをわらわずに、もっと独自の前進を示してもらいたい処である。吾等は、そこには宗祖独自の三秘・三法も控えているものと考えていることを申し上げて、注意を換起しておきたいと思う。目下の処、各門下ともそれははっきりとは確認されていないもののようである。ピンハネ方式では成功覚束ないのではなかろうか。自らの努力が必要である。皆さんのうちにはこれを直々にうかがった人はなかったのであろうか。六巻抄もそれを承知して説き出していたものとも思われるが、今までそれを見出だした人はなかったようで、これはそのまま天台大師や伝教大師のお考えもそこにあるものと考えられる。それは、古来宗祖を通して伝統法義として立派に通用するものではないかと思う。その三法と三秘は本尊抄の内容を盛り上げているものと思う。そこに、いう処の伝統法義の本源があるもののようである。是非共早々に取り上げてもらいたいものである。その秘術についてはアベさんは授与されていないのではなかろうか。これは〓〓の己心の一念三千法門に直々つながっているものの如くである。〓〓としてはここより文底秘沈の己心の一念三千法門を求め出しているのではなかろうか。それが文底秘沈の己心の一念三千法門として古来珍重されてきているもので、大聖人の仏法といわれるものも、ここの処に秘められているものなのではなかろうか。明治・大正にはむしろ三大秘法抄が表面に出ていた時代ではなかったであろうか。それは昭和の時代ではなかったであろうか。教学部ではこれの伝授はなかったのであろうか。大村さん如何でせうか。それらは正信会の根元にあたるものではなかろうか。正信会としてはあくまで三法三秘は三大秘法抄によるものであろうか。それは慈覚大師から密教につながっているかもしれない。それでは宗開三も不在ということになるかもしれない。それでは本尊の意義も異なってくるのではなかろうか。今は密教へのつながりが強いために、文底秘沈の己心の一念三千法門を斥う先生方が多いのではなかろうか。人の書き上げたものを取り上げて、一字一句を訂正して自家用に改めるのは最も楽な方法であるが、そのためについつい大魚を逸することもあるかもしれない。それよりもふだんの努力を積み重ねることの方が遠かに貿明な方法である。  

 衆生即ち民衆への奉仕を願っていてもらいたいと思う。民衆とは、室町の終りにしても、徳川の終りから明治の改革にしても、誰れに教えられることもなく、自らの力であれだけの大業を〓なす力を備えているものなのである。その力を弥勤菩薩と称すのではなかろうか。そこには自づから平和もあり得るのではなかろうか。吾々には、その自づからなる力への奉仕が必要なのではなかろうか。あまり懐へ押しこむことのみ考えている処に、今のバブルの崩壊があるのではなかろうか。宗門の行きつまりも、世間様と同じバブルの崩壊と同じものがきているのではなかろうか。それは、自づからの力をもって取り徐くべきものではないかと思われる。その努力をしてもらいたいと思う。そこには民衆への奉仕ということが必要なのではないかと思う。あまり取り上げることのみ考えない方がよいのではなかろうか。そこにあべこべが待っていたようである。安楽行品はそれを承知した上で三秘を説かれている。その三法三秘が宗祖以来今も伝統的に守り続けられている。そこに富士の源流が秘められているのである。六巻抄が堤唱せられたのは、台密流の三大秘法ではなく、法花相伝の上の三法であり、三秘であったように思われる。改めて考え直してもらいかいと思う。そこに今年の行く手が待っているのではなかろうか。日寛上人はその台密流の三秘の危険なことを指摘されていたもののようである。そのために今の行きつまりを招いたようである。それをあらかじめ察知する処に行者の修業の意味があるのである。折角ながら努力の方向をたどってもらいたいものである。人の原稿を書き直す方法ではあまり名案は出ないのではないかと思う。すぐに行きつまりを迎えるようである。安楽行品の三法三秘をこなす処に永遠の進展もあろうというものである。日達上人もそれを求めて大石寺版の開結を開版されたのではなかろうか。それは、日寛上人や宗祖をはじめ、天台伝教大師の御意図であり、そこに初めて法花の真髄を求めることが出来るというものではなかろうか。そこにあるのが文底秘沈の己心の一念三千法門なのではなかろうか。それは皆さんの自づからなる修行から求め出してもらいたいものである。そこにあるのが報恩なのではなかろうか。望道先生も正信会の先生方も、今はあまりにも安易な方法を取りすぎているように思われる。そこには自から求める努力が必要なのではないかと思う。そして、信心がないとか称し乍ら、或は僧侶でないと称し乍ら、盛んに抹消の方法を考えているようである。そのひまに、宗祖や諸師に対する絶えざる報恩を考えてもらいたいと思う。長い太平の中で、報恩も三法も三秘も殆んど消え去ろうとしているようである。  

 いかるは地獄、貪るは地獄等の文は、古くから本尊七ヶ口伝として受けとめられていたものであり、そこに本尊が存在している如くである。それは魂魄の上の現実世界をさしている如くであり、そこに己心の一念三千の法門が開けるようである。そこにおいて安心して成道を遂げてもらいたいものである。六巻抄の三秘はその世界にあることを指し示されているように思われる。強いていえば、そこにあるのが霊山浄土であり、それは師弟一ケの上にあるべきものである。それはあくまで現世成道をさしているのではないかと思う。その現世成道は宗祖の大きな特徴なのではなかろうか。しかし、今はウラボン経をとることにより、又三大秘法抄によることによって、否応なしに死後の成道をとる方向に変換しているようである。何となく方向を見失っている如くである。宗門としては、死後の堕獄や、死後にガキ道におちることは、全く無関係のことである。そこには教義的な裏附けは一向にもっていないのではなかろうか。そこに本尊は求められているのではないかと思われる。それを取り上げられたのが六巻抄ではないかと思う。その故に自他門から斥われたようで、そこに寛師の明哲な頭脳が開けているように思われる。そのために集中攻撃を受けたように思う。しかし、そこから三法三秘はとり出せなかったようで、関さんの明哲な頭脳をもってしても求め得なかったようである。法花思想の中で、三法はその根元であり、不可欠のものであったように思う。そこから展開していく処に、三秘の意義もあろうというものなのではなかろうか。  

 日達上人の御指示を受けとめておいてもらいたかったものである。そこに控えているのが原点のようである。それは宗義の原点ということで、学会の考えの原点ではなく、法花の考え方の原点という意味である。それを御伝ノ土台として、三師伝が出来ているのではなかろうか。御伝土代は只の伝記史料ではなく、そこにとかれる根本義は即ち三法三秘なのではなかろうか。それは今に連綿として続いているものと解される。しかし、今は表面的には一応影を秘そめているように思われるが、それは見る者のひが目であろうか。  

 当方のいう己心の一念三千法門について、若干の人々の中には反対意見をもっている人が多いようであり、それは教育成果による処であろうか。その結果が文底秘沈について自然に反対の立ち場をとり、それが己心の一念三千法門に反対―と現われているのではないかと思う。アベさんも、平成元年のお虫払い説法では、法花の広布を切りすててウラボン経の広布の宣言をしているものを見たことがある。法花から台蜜へという飛躍である。そのようなことが許されることであろうか。そのような中で今の混乱が起きているのである。改めて是か非を考え直してもらいたいと患う。目達上人の法花の三法・三秘については何一つ受けとらなかったのであろうか。宗祖や寛師の三法三秘も、今は殆んど宗門の表面から絶え果てたようである。何とも淋しい限りである。大聖人の仏法も、伝統法義も、未だ曾つて一度も説明されたこともない。それらのものもその三法三秘を出発点とした三法三秘から出ているものである。その原点を失っては、それを求めるすべもないのではないかと思う。


国立戒壇のこと

 国立戒壇とは、己心の仏国土に建立されるものではなかろうか。このためには建築費は全く不要なのである。金閣も銀閣も刹那に建立出来うるものである。それは国家立戒壇ではなく、己心の仏国土に即時に建立されるもので、そこに一億総成道の意をもっているのではないであろうか。建築資材を使っての戒壇とは、大きく意味が殊なっているようである。そこには秘かに一億総成道の意を持っているかもしれない。その国の意義は、国柱全教学を受け入れた時、その元の国の字義付けが変ったまま国立戒壇となったもので、そこに、己心の戒壇がそのまま国家立戒壇と、意味が変じたものである。本来は現の国家は無関係の処にあるもので、只話に浮かれたまでのものである。国家から費をもって一宗のために戒壇を建立することがあるであろうか。但し、真言は古来壇を受戒のために別に建立しているようである。今筆者のいる遥か東の山の頂きには、昔の国〓〓の戒壇があるが、それを戒壇として利用していたのは真言宗の一派に限られていたようであり、それは国立ではなく、本来は〓火台として使われたものではないかと思う。カンボヂア方面には多く築造されているものであり、これを真言宗が進出した当時戒壇として利用したもののようである。今もその古い本来の意義は不明のままである。国立戒壇ということは、大勢の人を結集するためには利用価値のあるものではあったが、本来は己心の仏国土の戒壇をさしているもののようである。その戒壇建立を目指して公明党も出来ているのではなかろうか。これは政治とは無関係のものであることは云うまでもないことである。すべてそれは己心の上の所作というべきものである。そのような戒壇説は三大秘法抄から発展したものではなかろうか。それに法花は無関係である。これは法花の三秘を、台密が独自に密教的な解尺を付与して出来上ったものではなかろうか。一日も早く法花本来の三秘に立ち返ってもらいたいものである。そこには長い混乱の原があるようである。まづはこれの是正から始めるべきである。ロとなっては戒壇の整理の必要にせまられているように思う。本来の戒壇に帰着せしむべきではなかろうか。 

 大石寺をやめたのは、正本堂が出来たその前年であったように思う。それから既に二十余年を経過しているようであるが、一向に混乱は収まる日もないようである。今は独自の法門というものもなく、全体的には台密という感じを抜け切ることの出来ない弱昧をもっている感じである。どこまでも台密を抜け切れないものをもっているようである。個々のものについても、思い切ってこれを抜け切る必要があるようで、ことに今のようにウラボン経広布を表看板としている間は、どうしても台密の匂いを消し去ることは出来ないであろう。どこまでも慈覚流は抜け切れず、あくまでこれに付きまとわれることであろう。肝心の三秘も、独自の三法・三秘を表看板に出すことは困難なのではないであろうか。そこには皆さん方の絶えざる努力が必要であると思う。もっと安楽行品の文を大いに利用して、台密から〓〓に抜け切ってもらいたいものである。門下一般にも同じ苦悩の中に苦しんでいるようである。法花本来の三法三秘の処に立ち返るのに、何の遠慮がいるというのであろうか。各門下共々にその道に迷っているのではないかと思う。六巻抄も、それを根本とせられているだけに、これを捉えかねてついつい三大秘法抄の三秘に誤って手出しをしたのではないかと思う。それをつかまえられたのは大正の頃ではなかったであろうか。それをついてきたのが望月師であったようで、そこでは本来の三法三秘を真っ向からかざしての攻めはなかったようで、以前談所の関さんの三秘はそれを志しているようであった。今もそれから抜け切れないのではなかろうか。そして、そこに法花思想の名調子でも、三法の結論を求めかねて苦労しているところがあまりにも明了である。今回、以前にもらっていたものをよんで、始めてそれを知ることが出来たもので、そこには長い苦難のあとが如何にも明きらかである。寛師はそれを抜け切るように指示を与えていられるものであり、更らに日達上人は、これについて、安楽行品の御指示を取り出していかにもこれを明示されている。何故これについて今まで忠実に受けられなかたのであろうか。そのために源・原を唱えたから、本源については一向に明されたこともなかった。そして、そのまま源を取り上げているので、そこから出発しているために、本法が一向に明らかにされないままに今日に至っているのであり、そのために伝統法義や、大聖人の仏法という語も、一向に不明了のままである。そのような中で、つい本因妙抄等もおしげもなく一挙に切りすてられてしまったのではなかろうか。改めて大石寺版開結の41ページの安楽行品の解説に眼を向けてもらいたいものである。そこにある本来の三法三秘をとり上げて、報恩謝徳の意を表してもらいたいものである。そのために全文を引用しておいたのである。己心の一念三千法門を邪義という前に、この文を思い起してもらいたかったのである。アベさんも、大村さんも、何故これが思い起きなかったのであろうか。御開山の場合は、たまたまそれが師弟の法門と、本尊抄を一言で読みとられているもので、いわば一言の妙旨というべきもので、そこに法花恩想の原流はいかにも明了に伝持されているようである。それが文の底に秘して沈めた己心の一念三千法門であり、その上に伝統法義はなりて立っているように思う。それの絶えることを畏れて、日達上人は、その三法・三秘を明示して残されているのである。そこにある三法が法花思想を通しているようである。そこに伝統がありありと残されているのである。関さんの英智をもってしても、これを取り出すことは困難であったようである。それを取り上げるのに、何の遠慮もいらないと思う。むしろ、大勢の人々が見残していることの方が理解に苦しむものである。そこに衆生救済の根本があるのではなかろうか。そこに宗祖に対し、諸仏に対する本来の報恩が秘められているのではなかろうか。一挙に宗祖や御先師の足元に立ち帰ってもらいたいものである。従来の三大秘法抄の三秘をすてて、本来の三法・三秘の処に本来の三秘を建立して、安心して衆生救済に立ち向かってもらいたいと思う。そこに正信の意義もあるのではなかろうか。速かにウラボン経の三秘も打ち捨ててもらいたいと思う。安楽行品の三法三秘は、法花草創以来一向に動ずることなく伝持されている筈のものである。それは、□には〓えなくても、事行の上には明らかに受けつがれている筈のものである。そこに御先師の暖かい思いやりがほの見えるものである。台密の三秘は速かに捨ててもらいたいと思う。それが執行部の本来のなすべき事なのではなかろうか。そこに秘密甚深のものがあるように思う。早々にたち返ってもらいたい処である。そうすれば、伝統法義についても早速に明了解決出来るものではないかと思う。いつまでも解釈なしに触れ廻る必要は更らにないのではなかろうか。一度は日達上人も、後輩のためにこれを取り出して明示されているものである。何故、あべさんはこれを御伝持せられなかったのであろうか、何とも不思議千万である。 

 古の大石寺版の開結は、一度は筆者が校正して印刷したものであるが、誤植が多いと学会から取り上げられて、学会に出版を譲ったものであるが、教学部で、品々の解説については、皆さんも委細に読まれているのではないかと思う。当時学会の使用している法花経の底本が何れに属するものであったのかは知らない。恐らくこれは、宗門の人々も、出版の上は、皆さんもすべて一度は読み通されていたものと思う。長い間に読んで忘れたということであろう。同じくなら、読んで記憶に止めておいてもらいたかったものである。読んだものは必らず忘れないで、いつでも使用出来るように用意しておいてもらいたいものである。優秀な大勢の人々が読み乍ら全く忘れ果てていては、どうにも手の打ちようがないということではなかろうか。改めて読み返してもらいたいものである。 

 今はウラボン経の広布のみを唱えて、只法花の題目の宣伝のみが続けられているのみである。そのような事があってよいのであろうか。そこに三法・三秘が受けとめられているとも思われない。只、宣伝のみが続けられているようである。この頃の宗門では、大いに密教をとりいれるので、後々になって大きな影響を与えるようである。そして、八品を受け入れている要法寺から歴代を迎えることにより、強裂な影響を受けるようで、又、それなど、不受不施派のお島様流をも取り入れ、更らに明治には国柱会説を取り入れることのようで、そこには異流儀が誕生し、それは今に至るまで大きな影響を与えているのである。今の正信会も又その影響下にあるようである。 

 本来の法門の源流を明きらかに知ることは甚だ困難な業ではないかと思う。言葉のうえでは富士の清流という語はあるが、何が清流なのか、不信のやからには一向に伺い知ることは出来ないものである。それを理会するためには信心は不可欠のように思われる。それは信ずる者の特権ということのようである。


塔婆木のこと 


 昔、岡山から美作の湯ノ郷に至る県道を湯の郷線といわれていた。今の国鉄の津山線の原駅の南にあたる処で、その北部の山中には金山寺があり、その西部には真言宗の法界院という寺があった。

 この木は河辺に自然に種が流れついて、その附近には自生した〓〓ものが多い処であった。一般には死人臭いと称して、家の中で焚かないものであった。しかし、切ってすぐにも燃えるもので、河辺で火を焚く時にのみ利用したものであった。恐らく古くは塔婆に使われていたものではないかと思う。直径二尺余りのものが自生していたが、大正末頃の河川工事の〓〓〓〓〓〓は河辺には全くなくなってをり、今残されているのは、後楽園の外園の西南の処を東に曲る処に、大きなものが数本残されてをり、仏教辞典からセンダンの解尺を取り出して書き出したものが下げられているが、センダンとは別物である。江戸の千田ゲ谷にも多く自生していたものではなかったであろうか。木材にすれば一見欅のごときもので、昔は無川方面か机にして夏には一面づつ背負い乍ら売りに来たものであったが、殆んど夏中には割れて使用に堪えるものは今に一面も残っていない。塔婆であれば、生木を切って塔婆にしてもそのまま間に合ったものと患う。成長の早い木で、例えば樗という木に近いものではなかったであろうか。板にすれば、十年もすれば棺桶は出来たかも知れない。聞く処によれば、この樗という木は、中国では子供が生れた時に一本宛この木を墓地に植えたということで、その子の死ぬまでには十分に棺桶になる程生長するということで、他には用途のない木である。吾々が子供の頃には、一抱え二抱えのものは河辺のやぶの中にいくらでもあったものであった。そして塔婆専問の木であったようである。丁度香木の匂いをもっている奇妙な木であった。今は後楽園の外囲の西南にあるのみである。これが若しかしたら樗という木ではなかろうか。塔婆に使うためには切りたてですぐにも間に合ったもののようである。 

 今は、只塔婆木という地名のみが残っているのみである。


伝統法義とは 


 長い間、根原になる処が定まらなかったので、何を基準にして伝統を立てるのか、最も困難な問題であった。これについては、宗門も正信会も学会も顕正会も、一切これという極め手は出されていないのである。その根源になる大聖人の仏法とは、元より本因妙にあるとは思われるが、これは大正の頃には堀上人によって切り捨てられたままになっているようで、残る処は仏法の本源にあたって見ての何かということになり、それはいうまでもない、それは法花の根本になる三法であり、三秘にこれを求める以外に方法はないのではないかと思う。それは既に記したように、安楽行品に説かれたものを拾い出した如くである。その三法の処から全べてが出発している如くである。そこから本尊も三秘も取り出されているようであるから、そこに本源を求め出すべきではないかと思う。そこから伝統が始まっているようである。宗門といえども、これを簡単に邪義と云いすてることば出来ないであろう。何故、日達上人の教示されているものを今まで五十余年も捨ておいたのであろうか。そのために法門の本源にたどりつくことが出来なかったのである。大いに反省すべきではなかろうか。 

 先年、宗門教学部では、宗祖の説かれた己心の一念三千法門を、門弟として邪義と切りすてたままになっている。師の教えを邪義といい、以っての外である。そのような心得では、三法も三秘の本源を見出だすことは出来ないであろう。それこそ、不信のやからというべきではなかろうか。師を信頼しなければ、そこには師弟子の法門はあり得ない。この法門は師弟の信頼の上にのみ成り立つもののようである。師弟共に信頼を盛り立てることが根本義になっているようである。そこでは、師弟共に信念をもって、専ら魂魄の上に師弟子の法門を立てることによるべきではないかと思う。邪義といえば、師から不信をこうむるのは当然のことである。そこで必要なのが止であり、観であり、慈悲であるようであり、慈悲は専ら師の施すべきもののようである。そこに師弟一ケの法門が成じるのではないかと思う。そこに伝統法義が脉々と流れているのである。そこでは師は弟子をコツンとやる必要はない。あるのは只信頼のみでよいのである。その師弟一ケの処に、法花の極意である師弟子の法門という己心の一念三千法門も成り立っているようである。互いに信頼感を仲立ちとして一ケを成じているのである。それを邪義と云うものこそ、不信のやからというべきではなかろうか。今の混乱は不信の処に成り立っているもののやうである。あまりにも俗念が多すぎるように患う。少し清掃の必要があるのではなかろうか。相互の信頼感の処にあるのが大聖人の仏法といわれるものではなかろうか。宗祖の法門を信頼すれば、邪義などという語は一切出ない筈である。それは身延を恐れてつい口から飛び出てしまったということであろうか。ついうっかり俗念の処に走り出さないために行じているのが事行の法門である。そこではそのような失敗を繰り返す必要のないような仕組みによっているようである。そのあとに観念が用意されてをり、常に反省を繰り返すようになってい
るのが六巻抄の示されている処である。それを通しているのが三法であり、三秘ということのようである。そこに基本方針が示されている。まづ、何ををいても、その三法三秘をとらえてもらいたいものである。そこには、邪義などと暴言をはく必要は更にいらぬことのように思われる。静かに受けとめてもらいたいものである。日達上人の示されたものを具現してもらいたいものである。そこに髷中の明珠も自から降ってこようというものである。 

 伝統法義とは、三法三秘の上に立った己心の一念三千法門と取り定めることは出来ないであろうか。それをもって都人士を成道に導かんとして都の丑寅叡の山仏寺を建立されたのが伝教大師であり、その彼方にあるのが富士山である。宗祖も興師も亦丑寅の方向を目指されているようである。 

 本因妙がなくなっては、久遠元初の自受用報身如来も説明しにくいのではなかろうか。その頃から身延の教育を受けるようになり、国柱会教学も大いに入りこんで大きな混乱を招いたようで、次第に独自のものは薄らいだようで、身延教学に大きく振り廻されるようになったように思われる。本尊抄に何故止観第五が使われたのかを考え直してもらいたいと思う。御書としてはどう見ても止観第五を使われた本尊こそ、根本におかれているものではなかろうか。六巻抄も亦同じ扱いをされているのではないかと思う。大正頃には身延から押さえられていたようで、その頃から六巻抄について種々に責め立てられているようである。御先方の思いのままに、六巻抄を利用して相手を責め返す日もなかったようで、そして三大秘法抄の三秘もその頃から大いに利用しているのではなかろうか。そして身延教学の中で右往左往しているように思われる。御先方の思いのままに振り廻されていたようである。本因妙抄を切り捨てたのもその始めではなかったであろうか。その頃には、御義口伝、当体義抄、総勘文抄〓、むしろ怪しげなもののみが悦んで利用されたようで、そこには一向に反省を探り出すことは出来ないようである。今もその延長線上にあるのではなかろうか。 

 何れの門下でも、法門の復古の必要な時を迎えているのではなかろうか。あまりにも京なめりの法門が侵透しているように思えてならない。安楽行品への復帰は、宗祖や天台への復古である。現状は慈覚大師一辺倒ということのようである。改めて法門の復古を求めたいものである。 

 

 

 

大石寺法門七巻上 終