興風

 

 

大黒 喜道

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(1)

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(2)

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(3)

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(4)

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(5)

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(6)

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(7)

 

 

 

 

 

 


 

 

日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(1)





  
目    次


はじめに

1、本因妙思想とは

2、「本因妙抄」「百六箇抄」の文献的位置

3、「本因妙抄」と「百六箇抄」の関係

4、「本因妙抄」「百六箇抄」の本因妙思想

5、日有師の本因妙思想

6、日教師の本因妙思想

7、日要師の本因妙思想

8、本因妙思想形成の必然性

9、宗祖および滅後上代における形成の要素

10、慶林房日隆師との交錯

おわりに

 

 

 

 

はじめに

 本論は、日興門流教学の主柱である本因妙思想がどのように形成されてきたかという問題を扱うものであるが、種々の制約から、今は同問題の考察に必要な諸材料を提供して、その覚書にしようとするものである。

 本因妙思想の内実については次項以降に詳述するが、一般に日興門流教学の旗印と見なされている「日蓮本仏論」という屋舎の主要な構成要素の棟であり梁であるのが、本因妙思想であり種脱本迹論であるといえる。そして、これらの義について、日興門流内では古来宗祖・日蓮聖人より派祖・日興師に唯授一人として伝授され、以来日興門流の伝統として他門のあずかり知らない義と誇示されてきた。これに対して門流外からは、宗祖は勿論のこと、派祖の日興師すらも関与しない後代にてねつ造された義であり、しかもその内容たるや、仏教の伝統である釈尊信仰のらち外に構築された外道のごとき教えであると対処されてきた歴史かある。

 このように全く相異なる内外両者の主張および評価は、多分にそれぞれの門派意識か前面に押し出されたものであり、それゆえに本来ならばなされるべき詳細な検討や公平な価値判断などという作業の労は、これまでほとんど取られてこなかったのである。その原因の一端には、関係資料の取り扱いの難しさや、資料そのものの少なさ等という難関も挙げられるか、それら難関をどうにかクリアーして問題解決の端緒に付かない限り、右のような門流内外の平行状態はこれからも長く続いていくものと予想され、それはお互いにとって不幸な状況であり、何よりも宗祖をはじめとする諸先師の信仰的努力に対する忘恩であると考えられる。
 本覚書は「本因妙思想の形成」とあるように、本因妙思想という考え方は日興門流において多少長い時間をかけた中で形作られて行ったもの、という認識の上に成っている。私の見通しから言えば、それは宗祖滅後200年程の間における形成という意であるか、かといって、宗祖の信仰体系の中に全くその痕跡すらなかったものが、勝手にねつ造されて行ったという認識ではない。宗祖の晩年にきざした重要素が日興門流に継承され、その後に独特の本因妙思想となって行く過程を考察する材料を提供せんとするのが、本覚書の主旨である。



1、本因妙思想とは

 最初に、本因妙とは天台智顎の「法華玄義」巻七に説かれる本門十妙の第一で、久遠の本仏の因行が不可思議・妙であることをいう。「法華経」如来寿量品第十六の「我本行菩薩道・所成寿命・今猶未尽」の一文に基づく義で、智顎によれば、同文の「寿命」は恵命の意を含むところから本時の智妙を表わし、「我本行」は本時の行妙、「菩薩道」は本時の位妙にそれぞれ配当され、同経文に智妙・行妙・位妙の三妙が具備しているところから、この三妙を久遠本仏の本時における自行の因と解して本因妙と称するのである。

 一方、この本因妙と主に対置される本果妙とは本門十妙の第ニにあたり、右の因妙が究竟円満して証得された久遠本仏の果徳が妙であるという義で、寿量品の開迹顕本によって開顕された久遠本仏の成道を指す。如来寿量品の「我成仏已来・甚大久遠」の文に拠るもので、同文の「我」は真如実相の理で真性軌、「仏」は智恵の義で観照軌、[已来]は智恵のはたらきを助ける万行で資成軌とそれぞれ規定され、真性軌・観照軌・資成軌の三法妙が五百塵点劫の久遠に円満に成就されたゆえに本果妙と称するとされる。

 しかるに、本項にいう本因妙思想を要約して示せば、この本果妙である五百塵点劫の久遠実成の釈尊を脱益の教主と定め、それに対して本因妙を下種益の時、その教主を上行菩薩と規定した上で、上行菩薩の再誕である日蓮聖人を下種の教主、末法の仏として信尊しようとするものであり、その本因下種の妙法と本果脱益の「法華経」との間に法体の勝劣を見て行こうとする思想である。

 前述のごとく、この本因妙思想と表裏一体の関係にあるのか種脱本迹論である。この両者は、ある意味では同じものを種・脱の本迹を中心に見るか、あるいは本因妙と本果妙の勝劣を中心として見るかの違いであるといえる。よって、このニ者を完全に分離して述べることは本より不可能であり、これからの記述の中でも両者には交錯した形で触れていくことになるが、ここではなぜ種脱本迹論ではなくて、本因妙思想を中心に抑えて所論を展開するのか、その理由を簡単に述べておきたい。

 この両者の関係については、執行海秀氏か種脱本迹論を教判論、本因妙思想を本仏論と分類して詳しい説明を加えているように、まず種脱の本迹勝劣により下種益の題目五字が選び取られ、その選択の上に本因妙思想が構築されて、いわゆる「日蓮本仏論」か完成するという形となる。しかるに、後述するように、種脱本迹論のある部分については、すでに宗祖の晩年において少なからず主張されており、それか祖滅後に本因妙思想が形成されて行く中で、より特異な内容を付加されて行ったものと私は考えている。よって、いわゆる「日蓮本仏論」かできあがるキーポイントの担い手は本因妙思想の方にあり、その形成の過程を論ずれば、種脱本迹論の形成もおのずと明らかになると考えられるのである。

 さて、右に本因妙思想の骨格を素描したか、今はその具体的な実際を見るために、これまで同思想を説く中心的文献とされてきた「本因妙抄」「百六箇抄」の両書と、その教説の中に本因妙思想か色濃く見え始める大石寺日有師・左京日教師・妙本寺日要師の三師の見解を、少々次に検証してみようと思う。


2、「本因妙抄」「百六箇抄」の文献的位置

 この「本因妙抄」と「百六箇抄」の両書は、それぞれ弘安5年(1282)10月11日および同3年(1280)正月11日に日蓮聖人より高弟・日興師に唯授一人として授与された最要深秘の相伝書として、日興門流では古来より「両巻相承」「両巻血脈書」「血脈抄」等と呼ばれてきた。しかし、その説かれている内容が他の宗祖遺文と余りにもかけ離れていることや、正本は勿論のこと、信頼できる古写本が現存しないことなどから、早くより偽撰説か出されてきた。

 「本因妙抄」の最古写本として、これまで富士大石寺第5代・日時師(1348〜406)の写本が大石寺に所蔵するとされてきたが、同写本に日時師の署名・花押や書写年記等はなく、またその筆跡からは日時師のものとすることは難しい。これまで日時師の写本とされてきた大石寺蔵「本因妙抄」の字と、日時師の自筆を次に挙げてみるので、一往の目安として「傅教」のニ字を見比べていただきたい。筆跡等の似る似ないの判断などは所詮それぞれの主観に基づくものであろうか、この両者の場合は文字の骨格そのものがかなり相違しているように見える。
 それでは何故にこの写本がこれまで日時師のものとされてきたのか。この問題については池田令道師の 「大石寺蔵某筆『御書目録日記』の解説」に詳述されているので往見されたいが、この日時師の筆とされてきた「本因妙抄」の筆跡と同じと判断される筆で記されている文献が、大石寺にはこの外に「御書目録日記事」(「治病抄」「薬王品得意抄」「三大秘法抄」筆写や諸御書および「四教義集解」の要文抄録、日目師略伝や六老僧等についての摘記などを含む)と「五人所破抄」「本門心底抄」の両写本と、分量的にはかなりのものが現存している。しかし、その中には同筆跡の持ち主につながる情報は今のところほとんどなく、それは大石寺および日興門流という周囲に目を転じてみても、状況に変化はないのである。そんな中で、大石寺では同寺に遺されている江戸期の記録に見える日時師自筆の「五人所破抄」(現在は散逸して伝わらない)を右の某筆「五人所破抄」と断定し、その結果として自動的にその他の「御書目録日記事」「本門心底抄」、そして「本因妙抄」の写本もすべて日時師筆と判断したようである。しかし、これは全く誤認といわざるをえないものであり、それゆえ大石寺がこれまで最古写本と主張してきた「本因妙抄」「三大秘法抄」「御書目録日記」の日時師書写本はすべて無いものと訂正されなくてはならないのである。

 さて、このように日時師写本が消滅すると、現存する写本では要法寺日辰師の永禄3年(1560)の写本(西山本門寺蔵)が最古となり、次が元亀三年(1572)頃の妙本寺日我師の写本(保田妙本寺蔵)という順となる。一方、「百六箇抄」の方も、現在のところ、永禄7年(1564)の妙本寺日山師の写本(稲田海素蔵)か最も古く、それに続いてやはり要法寺日辰師写本(石井智明蔵)と妙本寺日我師写本(保田妙本寺蔵)かあるとされる。

 以上のように、「本因妙抄」「百六箇抄」共に現存写本に関する限りは16世紀後半をさかのぼることかできず、祖滅300年弱ということで、写本の残存形態からその正本真蹟の存在を証明することは非常に困難な状況にあるといえる。そこで浮かび上がってくるのが、この両書を引用する文献であるが、主な古文献は次の2点である。1点は三位日順師の「本因妙口決」、もう1点は妙蓮寺日眼師の「五人所破抄見聞」である。

 この内、日順師(1294〜354)の「本因妙口決」は引用文献というよりは「本因妙抄」そのものの注釈書であり、本書か確かなものであれば「本因妙抄」の宗祖から日興師への相伝という伝承も非常に真実性を帯びることとなる。しかし、本書にも信頼できる古写本が存在せず、今のところは大石寺に所蔵される筆写不明で表紙に「釈日棟之」と記されている写本が最古と見られるが、日棟師(生没年未詳)の事跡等は全く不明である。このような不確定要素に加えて、他の日順師の著作内容との相違や「日蓮宗」などの使用語句の問題等から、従来より偽撰説か多く提出されている。

 次に、日眼師(〜1384)の「五人所破抄見聞」は日興師の意を受けて日順師あるいは西山日代師が撰述したとされる「五人所破抄」を注釈したものであるが、その中に本因・百六箇の両抄からの引用か見受けられる。本書に関しても、また近年真偽論が争われているかが、本誌12号で池田令道師が「『五人所破抄見聞』の考察」と題して、新たな視点から本書に詳細な再検討を加え、特にその記述内容から左京日教(本是院日叶)師の諸書との強い関連性を指摘し、日教師(1428〜)の著作を受けて成立したものと推測されている。この「五人所破抄見聞」もまた正本および古写本がなく、江戸期の万治六年(1658)に妙蓮寺第19代・日諦師が書写したものが古で、しかもその写本自体も取り扱いがかなり難しいが、ともあれ本書を妙蓮寺日眼師の著作とするには余りにも問題か多いといわざるをえない。

 このように右の2書の採用が困難となると、「本因妙抄」「百六箇抄」の両書に関してその存在を具体的に証明できるものの時代は、室町期から戦国期への過渡期である文明年間(1469〜87)にまで下ることとなる。その文明年間には次の3点の事実が指摘できる。1には左京日教(本是院日叶)師の撰述と考えられる「百五十箇条」の存在である。本書には著者名も著作年代も記されていないが、書中の記述から堀日亨師は文明12年(1480)の日教師作と推定し、執行海秀氏も同師の文明19年(1487)の撰述と推測している。この「百五十箇条」には

日蓮日興に御付属丿七面七重の口決百六箇条の本迹口決有り。

とあつて「七面七重の口決」=「本因妙抄」、「百六箇条の本迹口決」=「百六箇抄」と両書に言及し、他にもそれぞれの引用文がいくつか引き載せられている。

 第2は、同じ左京日教師の「日叶」名の奥書が存する写本が岡宮・光長寺に所蔵されていることが堀日亨師により報告されている。その写本は「本因妙抄」「百六箇抄」「本尊七箇相伝」「産湯相承」の合本のようで、筆写の人名および年代は不明。おそらく京都・要法寺にあったものか、江戸期に流出したものと考えられるが、その奥書に

 本ニ云ク、本是院日叶之

以前此丿秘蔵抄ハ自リ先師日耀雖モ有リト相伝、就イテ当乱ニ雲州馬来本堂院坊破壊シ畢ヌ。然ル間本尊聖教皆々紛失ス云云。爰ニ日広上人所持本ヲ申シ請ケ書写シ了ヌ。近年日瑶ト申ス不思議丿人有リテ入筆有リ之。随為丿削リ猶以テ不審多シ之。以テ他本ヲ可キ有ル校合也。但モ本来之百六ケ条ハ者以テ日瑶少智ヲ難キ致シ添筆也。奥ニ云ク、不審有ル故ニ不言ハ之ヲ、後見可キ有ル御意得也。

    文明十一年八月廿八日 日叶在判。

 【文明十七年十月十九日の日乗奥書有り】
  本ニ云ク、調御寺日乗上人ニ奉ル授与シ之ヲ。文明十五稔卯伍月十五日 日叶在判。

と記されている。ここには本因・百六箇の両抄を含むと考えられる「秘蔵抄」を日教師が師匠の日耀師より相伝したこと、および京都・要法寺の前身である住本寺第十代・日広師(〜1487)所持の「秘蔵抄」を日教師が書写したことなどが記録されている。よって、京都や出雲の日尊門流では日教師以前より「本因妙抄」「百六箇抄」等が「秘蔵抄」の名の下に相伝されており、この両書の成立もおそらく15世紀中頃にまではさかのぼるものと想定される。なお、日教・日耀・日広の三師関係の一端を示せば、文明元年(1469)頃に日教師が日叶の名で師・日耀師と共に日広師の代官として、室町幕府に「諌状」を上呈している事実が確認される。
 第3の事実は、身延山久遠寺第11代の行学院日朝師の「当家朝口伝」に書名は示されていないが、「或云」等として「本因妙抄」が四箇所にわたって引かれている。本書には「文明十三年辛丑正月日 日朝在御判」と記されているが、右の「本因妙抄」の文に関しては引用だけで日朝師のコメントもなく、その引用の意図も不明といわざるをえない。しかし、この時期に身延一致門流の日朝師が相伝書の中に具文を引載している事実は、その成立をある程度さかのぼらせるものと認識することができよう。
 なお、「百六箇抄」の奥書には

右、件丿口決結要丿血脈ハ、聖人出世丿本懐、衆生成仏丿直路也。上人御入滅無ク程聖言不朽テ符合セリ。可キ恐ル一致丿行者、可キ悪無師子身中丿虫也。……設日雖モ為リト付弟無キ新弘通所建立丿義者ハ付属堅ク禁シ給フ者也。然ル間玉野大夫ハ王城丿開山、日目ハ弘通丿尊高也。花洛並ニ所所ニ有リ上行院建立云云。仍テ授与之ヲ耳。
    正和元年壬子十月十三日  日興示ス日尊ニ之ヲ。

右、件丿結要本迹勝劣ハ者唯授一人之口決也、然ルニ畠山之本覚法印日大・佐々木豊前阿闍梨日頼ハ者同位主伴丿聖人也、馬来・平田・東郷・朝山等在々所々ニ上行院ヲ令ムス建立セ也、於テ都鄙等ニ日尊数輩丿学匠有リ之、雖モ然リト依テ写功力ニ付属ス之ヲ、王城六角上行院貫主日印、学匠惣探題日大、世出世丿拝領並ニ中国西国等丿貫主日頼ト定目畢抜。
    康永元年壬午十月十三日  日尊示ス日大・日頼ニ之ヲ云云。

とあり、さらに日頼の「百六箇抄示書」等には

右件丿秘伝ハ者嫡々丿最要也、然ルニ於東郷・岡田等丿新弘通所ニ上行院建立ス之ヲ、王城・馬来ヲハ佐々木兵部律師日源、朝山・塩谷等ヲ遠藤大進法眼、平田・東郷・多久ヲ佐々木河内律師日誉ニコレヲユツル云云、仍テ日頼示シ日誉ニ之畢ヌ云云。
右件丿秘決ハ者当流代々丿最要也、然ル間法嫡相承之故ニ以テ各別丿深義ヲ馬来大輔阿闍梨日禅ニ授与シ之畢ヌ。自リ日禅弁阿闍梨日耀ニ授与ス之ヲ。

と記されており、「百六箇抄」の相伝経過が具体的に示されている。当然、これらすべてを史実として受け入れる訳にはいかないが、右述のように、少なくとも日耀――日教という授受は確認されるので、後はこの系譜をどこまで遡上できるかということである。

 一方、「本因妙抄」の日辰写本の奥書にも

右、本因妙抄一巻、以テ洛陽上行院日尊上人自筆之本ヲ写シ之ヲ畢ヌ。但於テ彼丿本テ無シ日尊書写之判形。然ルニ亦住本寺日住上人云ク、此丿本因妙抄ハ是レ日尊之筆跡也。其丿証拠ハ者東山日尊石塔之七字ト与此丿抄丿中丿七字大同丿故也。
  永禄三庚申年十ニ月十日未刻写シ之ヲ畢ヌ。  日辰在判。

という日辰師の書き込みかあり、これも全面的に信頼する訳にもいかないか、やはり日尊門流内での流伝が色濃く感じられる。

 以上のように、現存資料を客観的に判断した結果、「本因妙抄」「百六箇抄」の2書に関してはおおよそ15世紀中頃くらいでの存在が認められる。また、日尊門流にその足跡の多くか残されているところから、あるいは日尊門流内で成立した可能性もあろうか、と考えられる。


3、「本因妙抄」と「百六箇抄」の関係

 まず「本因妙抄」一巻は、伝教大師最澄の撰述と伝える「三大章疏七面相承口決」に対して日蓮の義よりコメントを加えるという形態を基本的に採っている。つまり、同書に示される「法華玄義」「法華文句」「摩詞止観」の天台三大部についての七面(七重)の決文を引用しながら、そこに説かれる天台宗義を退けて日蓮の正義を示し、それに台当両家のニ十四番の勝劣や「寿量品文底大事」の段などが加えられて全体が成立している。

 さて、その「三大章疏七面相承口決」は入唐した最澄が貞元24年(808)5月に仏立寺の道逡和尚より三大章疏についての七重の総意を伝授され、それを記録する体裁となっているが、その内容等から古来より中古日本天台における偽撰書として取りあつかわれている。だいたい、右の貞元24年という記述からして、最澄は貞元21年(805)5月に帰国の途についているので史実と矛盾し、あるいは延暦24年=貞元21年の誤記かとも推測されている。これは、やはり中古天台文献で最澄に仮託されている「修禅寺相伝日記」か同じように貞元24年3月に人唐中の最澄が相伝した要義を書き留めたものとしており、相承年次の記載という重要事項についてのあいまいな態度を示している。「三大章疏七面相承口決」について、田村芳朗氏は同書に止観別立が強く打ち出されて止観の絶対性が強調され、阿弥陀の三字に空仮中の三諦が配当されるなどの義が見えるところから、鎌倉中期(1250)から末期(1300)頃の成立と推定している。

 一方、「百六箇抄」は「本因妙抄」が天台教学書を解釈する形であったのに対して、「脱丿上丿本迹勝劣」51箇条と「種本迹勝劣」55箇条の合計106箇条の項目を設けて、短いながらもそれぞれ説明か加えられている。その内の多くの項目については脱の重と種の重が対応する形で記されているが、その説明か簡潔というか、非常にメモ的なものであり、それゆえ文脈のつなかりかないことや、用いられている語句の概念が一定していない部分もあることなどが原因して、現存する諸本では全体を整合的に理解することはかなりむづかしいと考えられる。

 そんな「百六箇抄」ではあるが、たとえば各項目のタイトルを注意深く見てみると、「本因妙抄」との緊な関係を見て取ることができる。「脱丿上丿本迹勝劣」の最初の方にあるタイトルを拾ってみると、

 一ニハ理丿一念三千一心三観本迹。・・・

 三ニハ応仏一代丿本迹。・・・

 四ニハ迹門為理円丿致丿本迹。・・・

 九ニハ渡余行ニ法華経丿本迹。・・・

等となるが、これを「本因妙抄」の

問云、寿量品文底大事ト云フ秘法如何。答テ云ク、唯密丿正法可秘可秘。一代応仏丿イキヲヒカエタル方ハ理丿上丿法相ナレハ、 一部共ニ理丿一念三千、迹丿上丿本門寿量ゾト得意セシムル事ヲ、脱益文上卜申也。文丿底トハ者久遠実成丿名字丿妙法ヲ余行ニワタサズ、直達丿正観事行丿一念三千丿南無妙法蓮華経是也。

という一段と対照させてみると、「一代応仏」や「余行ニワタサズ」という言葉遣いは他に見られない特徴的なものであり、あるいは「百六箇抄」の一部は「本因妙抄」の語句を解説する目的で成立しているような感じを受ける。また、「百六箇抄」の「脱丿上丿本迹勝劣」に見える

ニ十一ニハ脱丿迹化七面丿本迹。像法ニハ理観ヲ本ト用フ。故ニ天台ハ迹ヲ為し本ト、本ヲ迹卜行スル也。

と、それに対応する「種本迹勝劣」の

ニ十三ニハ本化七面之本迹。末法ニ八事行ヲ本トシ、在世卜像法トニハ理観ヲ本トスル也。天台丿本書ハ理丿上丿事ナレハ一向迹門丿七決、我家丿本書ハ事丿上丿本也。

の両項などは、「三大章疏七面相承口決」とそれをベースにした「本因妙抄」の関係そのものを説明したものであり、「天台丿本書」と「我家丿本書」はそのまま両書に該当する言葉ではないかと考えられる。

 さらに、やはり「脱丿上丿本迹勝劣」に記される

三十ニハ脱丿五味所従丿本迹。天台伝教丿五味ハ横竪トモニ所従也。五味ハ本、修行丿人ハ迹也。在世以如レ此云々 

と、「種本迹勝劣」の

三十三ニハ五味主中之本迹。日蓮ガ五味ハ横竪共ニ五味主丿修行也。五味ハ即本門、修行ハ即迹門也。

という両項の説明もこれだけでは意味を取ることは難しいが、「本因妙抄」の

上行所伝結要付属丿行儀ハ教観判乗皆名字即五味之主丿修行ナリ。故ニ教相丿次第可シ依ル要用ニ

という文章を読むと、この中の「五味之主丿修行ナリ」という一文についての解説であることか知られる。もとより、この「五味主」という表現は宗祖遺文「曽谷殿御返事」の

法門を以て五味にたとへば、……阿含経は乳味の如く、観経等の一切の方等部の経は酪味の如し。一切の般若経は生蘇味、華厳経は熟蘇味、無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐のごとし。又涅槃経は醍醐のごとし、法華経は五味の主の如し。妙楽大師云ク若論スレハ教旨ヲ、法華ハ唯以テ開権顕遠ヲ為ス教丿正主ト。独リ得ル妙丿名ヲ意在リ於此ニ云云。又云ク故ニ知ンヌ、法華ハ為レ醍醐丿正主等云云。此釈は正く法華経は五味の中にはあらず。此釈の心は五味は寿命をやしなふ、寿命は五味の主也。天台宗にはニの意あり。一には華巌・方等・般若・涅槃・法華同ク醍醐味也。此釈の心は爾前と法華とを相似せるににたり。世間の学者等此筋のみを知リて、法華経は五味の主と申ス法門に迷惑せるゆへに、諸宗にたぼらかさるル也。開未開、異なれとも同く円なりと云云。是は迹門の心なり。諸経は五味、法華経は五味の主と申ス法門は本門の法門也。

という一段に基づいたものであり、爾前経の円を嫌う約部判に立って「法華経」を五味の正主と定め、それが本門の法門と規定されている。しかし、ここに「五味の主」とはあっても「五味之主丿修行ナリ」という表現はなく、やはり「百六箇抄」の説明は直接「本因妙抄」の文についてなされていると判断される。

 なお、この「曽谷殿御返事」に見える「五味主」の義を重要な一つの依りどころとして本迹勝劣義を主張するのが慶林房日隆師である。日隆師の本因妙思想についてはこれからしばしば触れることになるが、本因妙・百六箇の両書と日隆師の間には強い関連性が感じられる。たとえば、右の「百六箇抄」の「天台伝教丿五味ハ横竪トモニ所従也」「日蓮ガ五味ハ横竪共ニ五味主丿修行也」という説明の中に見える「横竪」という語は、これだけでは何を意味しているのか分からないか、日隆師の「五帖抄」には

尋云、以約部釈顕ス妙法蓮華経・其意如何。答、約部釈ト云ハ約教丿釈丿上ニ起ル也。故ニ約教ハ所破、約部ハ能破也。其故ハ約教丿時ハ以五時収四教判一代故横釈也。約部ハ以四教ヲ摂五時ニ、前四味為麁醍醐為妙ト一代ヲ判する故竪釈也。

と約教釈=横釈・約部釈=竪釈という説明かあり、おそらくこのような義を受けて「百六箇抄」に「横竪」という語か付加されたものと推測されるのである。

 ともあれ、已上の説明から「本因妙抄」を前提として成り立っている部分が「百六箇抄」に存在する可能性が強いことか知られ、本因妙・百六箇の両抄の間には「本因妙抄」→「百六箇抄」という前後関係が一往想定できるものと考えられる。

 


4、「本因妙抄」「百六箇抄」の本因妙思想

 「本因妙抄」は冒頭に「法華本門宗血脈相承事」と題されているが、巻首と巻末の二箇所に「本因妙之行者日蓮記之」と記されているところから、古来「本因妙抄」と通称されてきたと考えられる。なお、後述するように、本因妙という用語は本書では右の二例かあるだけで、本文中には用いられておらず、ある意味では非常に特徴的である。

 その「本因妙抄」の主張か最も分かりやすい形で出ていると思われるのか、玄義七面決の第三・四重浅深の一面における記述である。「三大章疏七面相承口決」では名・体・宗・用・教の五重玄のそれぞれに四重の浅深の釈を設けて、たとえば最初の「名丿四重」については次のように説かれている。

名丿四重トハ者、一ニハ名体倶無常丿名。謂ク法華已前丿教ニハ明ス名体無常丿義ヲ。設ヒ雖明スト法体常住丿義ヲ依ル仏慧丿説ニ非ス実義ニ。二ニハ体実名仮。謂ク法華丿始覚門ニハ明ス不変真如ヲ。体ハ実ニシテ名相ハ是無常ナリ。三ニハ名体倶実。謂ク本覚門丿前二ハ三千丿名相、本有常住ニシテ実二不転変セ。四ニハ名体不思議。謂ク依レハ仏意丿辺者離レテ思量言語ヲ更二無シ名体丿不同。体用倶二法然トシテ内外是真ナリ。

 これは名を体との関係で四種に分類し、それぞれ「法華已前丿教」=爾前・「法華丿始覚門」=迹門・「本覚門」=本門・「仏意丿辺」=観心に配当されて浅深・勝劣が示されており、「四重興廃」という名目こそ見えないか、その直前という印象を与える記述である。この「名ノ四重」の一段について「本因妙抄」には

一ニハ名体無常丿義、爾前丿諸経諸宗也。二ニハ体実名仮、迹門始覚無常ナリ。三ニハ名体倶実、本門本覚常住ナリ。

四ニハ名体不思議、是レ観心直達丿南無妙法蓮華経也。湛然丿云ク、雖脱在現具騰本種云々。

と記述されている。ここでは天台の義における第四・観心重について「観心直達丿南無妙法蓮華経」と示され、さらに「湛然丿云ク、雖脱在現具騰本種云々」の一文からそれが下種益の妙法であるという当家(日蓮)の義か述べられている。この第四重については、次下にも

我ガ内証丿寿量品事行ノ一念三千也。

末法純円結要付属丿妙法也。

寿量品丿文丿底丿法門、自受用報身如来丿真実丿本門久遠一念之南無妙法蓮華経、雖脱在現具騰本種丿勝劣是也。

とあり、下種の妙法についていくつかの面から説明が加えられている。このうち、「内証丿寿量品」については、他所に

一代応仏丿寿量品ヲ為シ迹卜、内証丿寿量品ヲ為シ本、釈尊久遠名字即丿約シテ身ト位トニ奉ル唱南無妙法蓮華経ト。

とあり、釈尊久遠名字即の身と迹に基づく本因妙の重であることが知られる。また、「事行ノ一念三千」については、

迹門ヲ云フ理具ノ一念三干ト、脱益丿法華ハ本迹共ニ迹ナリ、本門ヲ云フ事行ノ一念三千ト、下種丿法華ハ独一本門ナリ。

と見えて下種と脱益の本迹が明示され、さらに

今日熟脱丿本迹二門ヲ為シ迹、久遠名字丿本門ヲ為ス本ト。

とあり、種脱の本迹が今日の「法華経」本迹二門と久遠名字即(本因妙)の本門に当てられ、そのうち久遠名字即に関しては

釈尊久遠名字即丿位丿御身丿修行ヲ、末法今時日蓮名字即丿身二移セリ。

仏ハ熟脱丿教主、某ハ下種丿法主ナリ。

と述べられて、釈尊に対する日蓮というそれぞれの主体と、久遠と末法とのつながりが記述されている。以上の説明を整理して図示すると、おおよそ次のようになる。



  【法華経・本迹二門】          【南無妙法蓮華経】

 
   文上                    文底


   一代応仏の寿量品              内証の寿量品


   理具の一念三千               事行の一念三千


   迹                     本


   脱益                    下種


   今日熟脱の本迹二門             久遠名字の本門


   釈尊                    日蓮

 このような意義内容を持つ久遠名字の妙法蓮華経を霊山会上で釈尊より直授された日蓮が、その妙法を末法の衆生に下種して救済していくというのが「本因妙抄」一巻に説かれる本因妙思想の主旨である。

 しかるに、右に少し触れたように、本書の本文中に本因および本因妙という語を使っでの説明はほとんど見られない。ただ一箇所、玄義七面決の第一・依名判義の一面で宗用の両玄義を釈して「三大章疏七面相承口決」では

宗トハ者所作究竟也。由リテ因丿所作ニ果丿究竟ヲ。用トハ者証体上丿功能也。

とあるのを、「本因妙抄」では  

宗トハ者所作丿究竟ナリ。由リテ受持本因丿所作ニ得口唱本果丿究竟ヲ。用トハ者証体本因本果丿上丿功能徳行ナリ。

とあり、本因・本果の語を挿入して本門・本地の意を強調しているが、これは直接本因妙思想につなかるものではない。

 既述したように、久遠実成の本果妙・釈尊に相対する形で本因妙の上行菩薩を設定して、そこに脱益と下種益の勝劣を見ていくのが本因妙思想の骨子であるが、「本因妙抄」にはその骨子が十全には説かれておらず、本書に見える上行菩薩はあくまでも釈尊より受けた結要付属の意により末法に日蓮と出世して妙法を流布する役目に止まっているようである。一方、本因妙の方はその用語こそ本文中に見えないが、「釈尊久遠名字即」等の語がその義を一往示している。このように見てくると、「本因妙抄」という通称は余り内容を反映した名称とは言いかたい。

 これは本書の中程に

予カ所存ハ内証外用共二本迹勝劣也。若シ本迹一致ト修行セハ失心本門付属ヲ物気也。・・・我力弟子等丿中ニモ不出天台伝教丿解了丿理観ヲ、就テ本迹ニ存シテ一往勝劣再往一致丿謬義ヲ令メン迷惑自他ヲ之条所令ル宿習丿然ラ歟。・・・於我カ未来ニ為破シ予力仏法ヲ、一切衆生丿元品丿大石大六天丿魔王、成テ師子身中丿煌虫ト、仮テ名ヲ於日蓮ニ本迹一致ト云フ邪義ヲ申出シテ、多丿衆生ヲ当ニ引ク悪道ニ。若シ有ン道心者ハ捨テテ彼等丿邪師ヲ宜ク随予ガ正義ニ。正義卜者本迹勝劣丿深秘、具騰本種丿実理也。

等とあるように、種脱本迹を明示して本迹一致義を破すことに本書の主眼があるためと考えられる。また、あるいは本書が最澄の撰とされる「三大章疏七面相承口決」を釈す形を基本的に採るため、全体として天台と日蓮、および止観と妙法という台当の違目を示す中で、その延長として釈尊と日蓮の脱益・下種益の異を主張するという形態になっていることが原因しているか、とも考えられる。

 一方、「百六箇抄」の方はどうであろうか。本書も基本的には本迹一致義に対して種脱の立て分けに基づく勝劣義を説く立場にあるが、ただ「本因妙抄」と相違して、本因妙の下種益という規定が前面に押し出されて全体の所論が展開されている。たとえば、脱の本迹勝劣の第九条に


九ニハ渡余行ニ法華経丿本迹。一代八万丿諸法ハ本因妙ノ下種ヲウケテ所丿説ク教教ナルカ故二、一部八巻乃至一代五時次第梯橙ハ、名字丿妙法ヲ下種トシテ熟脱セシ本迹也。

と説明されているように、久遠以来今番一代までの教法のすべてが久遠本因妙の下種を調熟・解脱せしめるための教法である旨か明示されている。そして、後述するように、これは本因妙思想の形成過程の中で一つのポイントとなる義であるが、釈尊の本因妙を上行菩薩と示し、それが本果妙の釈尊と相対した時、本因の菩薩行が本果の仏徳の根元として優越することが述べられている。すなわち、種の本迹勝劣の第二条に

二ニハ久遠元初直行丿本迹。名字本因妙ハ本理ナレハ本門也。本果妙ハ余行二渡ル故二本丿上丿迹也。久遠釈尊ノ口唱ヲ今日蓮直ニ唱ル也。

とあり、第八条には

八ニハ色法妙法蓮華経丿本迹。・・・本果妙ハ然我実成仏已来猶迹門也。迹丿本ハ非本ニ也。本因妙ハ我本行菩薩道真実丿本門也。本丿迹ハ非迹二云々。

と、そして第九条には

九ニハ久遠従果向因丿本迹。本果妙ハ釈迦仏、本因妙ハ上行菩薩。

と、それぞれ説かれている。また、久遠下種の法についても、第三条に

三ニハ久遠実成直体丿本迹。久遠名字丿正法ハ本種子ナリ。名字童形丿位、釈迦ハ迹也。我本行菩薩道是也。日蓮ガ修行ハ久遠ヲ移セリ。

と説明されており、ここに本因妙・上行菩薩が下種する久遠名字の妙法は随自意の法たるゆえに本果妙・釈尊の随他・脱益の教法に勝れ、日蓮はその上行菩薩の再誕として本因妙下種益の妙法をもって末法の衆生を救済するゆえに、釈尊の教導に勝れるという本因妙思想の大筋が説かれている。

 以上、当項で検証した「本因妙抄」「百六箇抄」の両書に示されている本因妙思想の構成概要を図示すると、おおよそ次のようになると思われる。

 

 

 

 最後に、本因妙・百六箇の両抄に引かれている天台・妙楽の主な釈文を挙げておこう。この中には宗祖滅後に展開された本迹二門の一致・勝劣の論議の中で取り上げられるものも多く含まれるが、本因妙思想の成立を考察する際の一往の目安になるものと考えられる。


○[玄義一]従リ本垂ル迹ヲ。迹ハ依ル於本ニ

    
○[釈籤一]迹非レハナリ究竟ニ


○[釈籤一]本丿中丿体等ハ与迹卜不レ殊ナラ。 故ニ但タ於テ名ニ以テ分ツ本迹ヲ。余丿体宗用ハ直ニ釈スル而巳。


○[釈籤一]本迹ヲ為ス二経ト。


○[玄義七]迹丿本ハ非本ニ。本丿迹ハ非迹ニ。本迹雖モ殊ナリト不思議一也。


○[玄義七]本迹ハ約シ身ニ約ス位ニ。権実ハ約シ智ニ約ス教ニ云々。


○[玄義七]若論レハ実道丿得益ヲ両処不殊ナラ。


○[釈籤七]若シ無クンハ迹中丿事理乃至権実何麁能ク顕ハサン於長遠之本ヲ。


○[釈籤七]約スレは経ニ雖モ是レ本門ナリト既ニ是レ今世丿迹丿中ニ指本ヲ名ケテ為ス本門ト。故ニ知ヌ今日正シク当ル迹中丿利益ニ。
      乃至本成已後ヲ倶ニ名ク中間ト、中間丿顕本ニ得ル利益ヲ者尚ホ成ス迹丿益ヲ、況ヤ復タ今日ヲヤ。


○[釈籤七]理無シ浅深ニ。故ニ曰フ不殊ト。


○[釈籤十]故ニ説クハ法華ヲ唯存シテ大綱ヲ不事トセ綱目ヲ。


○[釈籤十]故ニ知ヌ今日丿逗会ハ赴ク昔丿成熟丿之機ニ。


○[文句一」衆生久遠ニ蒙仏丿善巧ヲ令種ニ仏道丿因縁ヲ。


○[記一]雖モ脱ハ在リト現ニ具ニ騰ク本種ニ故ニ名ク本春属ト。


○[記二]本時丿自行ハ唯与円合ス。化他ハ不定亦有リ八教。


○[記八]対ス開示悟人ニ。雖モ是レ迹要ト若シ顕本シ已レは即成ル本要ト。


○[弘決一]理ハ非サル造作ニ故ニ曰ヒ天真ト、証智円明丿故ニ云フ独朗ト。


○[止観三]独一法界。故ニ名ク絶待止観ト也。

 



5、日有師の本因妙思想

 前項では本因妙思想を主説する「本因妙抄」と「百六箇抄」を取り上げて、同思想の内容のあらましに触れてみたが、本項以下ではその主張の中に本因妙思想か明確に見受けられ始める大石寺日有師と左京日教師、そして妙本寺日要師の三師の見解を少しく検証してみたい。ただし、この三師の本因妙思想を見るにはそれぞれの教学大系の全体像を示し、その上での同思想の位置や役割等を述べる必要があり、とても小論などに納まり切るものではないが、今回はその専論のための覚書ということで、各師の特徴的な見解等を少々取り上げて、前項の本因妙思想の解説を補っておきたいと思う。

 大石寺第9代・日有師(1402〜82)には自筆の著作は現存しないが、「化儀抄」をはじめとする門下記録の聞書類が8部ほど遺されている。日有師の事跡として注意すべきことは、「下野阿闍梨聞書」によると、16歳の時に常陸国村田で関東天台の教学書「二帖抄」を相伝しており、また仙波の備前法師との交渉もあり、かなり早くから関東天台の教学を摂取している事実である。これは日有師だけに特別なことではなく、ある程度当時の日蓮宗の学僧に共通した現象であるが、やはり本因妙思想の性質上看過できない事実である。また、日有師には永享4年(1432)宗義天奏のため京都に赴いた際に慶林房日隆師と相会し、「四帖抄」を贈与されたという伝説がある。現存資料にそれを直接証明するものはないが、後述するように、聞書類の中に日隆師の見解に対する言及や批判も見ることができるので、日隆師およびその本因妙思想との接触はおそらく事実としてあったものと想定される。

 さて、主著「化儀抄」第116条には本因・本果と種脱について、次のように説明されている。

1、釈尊一代ノ説教ニ於テ権実本迹ノニ筋アリ、権実卜者法花已前ハ仏ノ権智、法花経ハ仏ノ実智也。所詮釈尊一代ノ正機ニ法花已前ニ仏ノ権智ヲ示メサルレハ機モ権智ヲ受クル也。サテ法花経ニテ仏ノ実智ヲ示サルレハ又機モ仏ノ実智ノ分ヲ受ル也。サレハ妙楽ノ釈云、権実約智約教卜釈シテ権実卜者約智約教ニ、智卜者権智実智也。約教卜者蔵通別ノ三教ハ権教也。円教ハ実教也。法花已前ニハ蔵通別ノ権教ヲ受ル也。本迹卜者約身約位也。於仏身ニ因果ノ身在ス故へニ本因妙ノ身ハ本、本果ノ身ヨリ迹ノ方へ取也。夫卜者修一円因感一円果ノ自身自行ノ成道ナレトモ既テニ成道卜云フ故へニ断惑証理ノ迹ノ方へ取ル也。夫ヨリ已来機ヲ目ニカケテ世々番々ノ成道ヲ唱へ在スハ皆ナ垂迹ノ成道也。花厳ノ成道卜云フモ迹ノ成道也。故へニ今日花厳・阿含・方等・般若・法花ノ五時ノ法輪、法花経ノ本迹モ皆ナ迹仏ノ説教ナル故へニ本迹トモニ迹也。今日ノ寿量品卜云モ迹中ノ寿量也。サレハ約スレハ経ニ雖是レ本門ナリト文。サテ本門ハ如何卜云フニ久遠ノ遠本本因妙ノ所口也。夫卜者下種ノ本也。下種卜者一文不通ノ信計りナル所口力受持ノ一行ノ本也。夫卜者信ノ所ハ種也。心田ニ初メテ信ノ種ヲ下ス所力本門也。是ヲ智慧解了ヲ以テソタツル所ハ迹也。サレハ種熟脱ノ位ヲ円教ノ六即ニテ心得ル時、名字ノ初心ハ種ノ位、観行相似ハ熟ノ位、分真究竟ハ脱ノ位ナリ。脱シ終レハ名字初心ノ一文不通ノ凡位ノ信ニカヘル也。釈云、雖脱在ト現ニ具ニ騰本種ヲ卜釈シテ脱ハ地住已上ニ有レトモ具ニ本種ニアグルト釈スル也。此ノ時キ釈尊一代ノ説教力名字初心ノ信ノ本益ニシテ悉ク迹ニハ無益也。皆本門ノ益也。仍ツテ迹門無得道ノ法門ハ出来スルナリ。是レ則法華経ノ本意滅後末法ノ今ノ時キ也。

 この始めの方に見える「権実約智約教」「本迹(者)約身約位」という釈は、「法華玄義」第七に本門十妙を明かす中の第六・三世料簡の末尾問答に。「本迹約身約位。権実約智約教」(前項末尾往見)と見えるもので、本迹二門は外現の用に勝劣ガあるゆえに身に約し、内証の体に浅深があるところから位に約すとし、一方、権実ニ教は機根を見るゆえに智に約し、説を起こすところから教に約すると説明される。日有師はこの「本迹約身約位」の「約身」に基づいて久遠本地の仏身に因果を分かち、仏果成就のための自行であり因行である本因妙を真実の本仏とし、それに対して仏果を成就した本果の仏が衆生の機根に応じて化他に赴いたすがたは、「法華経」の本迹ニ門を含めて迹仏であるとする。また、真実の本門とは久遠の本因妙を指し、その本因妙において久遠の本種が下されるが、六即の階位に配すると名字即の初心となる。その本種が五百塵点劫以来の多劫を経る中で熟益を得て観行・相似のニ即に登り、今日の「法華経」本門に至って分真・究竟の二位に登って得脱する。しかし、得脱した後には名字初心の信に還ることは「雖脱在現具騰本種」(前項末尾往見)の釈の通りであって、本門得脱をはじめとする釈尊一代の利益はすべて実は久遠本種の利益なのであるから、ここに迹門(本果・脱益)無得道の法門が成立する、と説明されている。

 ここには本果を去って本因に基づく本因妙思想と、三益の実効を下種益に定める種脱本迹論とか、その両者のつなかりをも含めて、非常に要領よく述べられている。そして、他所においては過去下種を持たない本未有善の末法の衆生には下種益しかなく、久遠本因妙時に上行菩薩ガ仏種を下したのと同じように、下種の要法である妙法蓮華経の五字が日蓮聖人によって下され、それを受納した衆生が名字即の初心において下種即得脱して即身成仏するという成仏論が展開されている。

 また日有師は、末法の衆生の行位は名字即の初心であるから釈尊の因行を本尊とし、それが日蓮聖人であること、そして十界曼陀羅本尊の中央首題の当体は本因妙の上行菩薩であると示して、宗祖御影と十界曼荼羅本尊という日興門流の伝統ともいえる本尊形態を本因妙思想で説明しているが、この辺りが日有師の大きな特徴であると考えられる。さらに、「日拾聞書」には

1、仰二云ク、上行菩薩ノ御後身日蓮大士ハ九界ノ頂上タル本果ノ仏界卜顕レ、無辺行菩薩ノ再誕日興ハ本因妙ノ九界卜顕レ畢ヌ。然レハ本果妙日蓮ハ経巻ヲ持チ玉へハ本因妙ノ日興ハ手ヲ合セ拝シ玉フ事、師弟相対シテ受持斯経ノ化儀信心ノ処ヲ表シ玉フ也。十界事広シト云ヘトモ日蓮日興ノ師弟ヲ以ツテ結縁スル也。

とあり曼陀羅本尊の内実か日蓮・日興の十界互具で説明されているが、これもやはり日興門流の伝統である日蓮・日興の師弟義を本因妙思想の中に位置付けたものであり、日有師に独自のものといえる。

 従来、日有師の聞書類には「本因妙抄」「百六箇抄」の両書からの直接引用かないことが指摘され、それが本因妙・百六箇の両抄の出自などに関しても種々の憶測を生む結果となってきた。しかし、右に触れた「本迹約身約位。権実約智約教」や「雖脱在現具騰本種」の両釈などは本因妙・百六箇の両書でも非常に中心的な役割として用いられているし、「雑雑聞書」に

1、口決二云ク、法界ハ広ケレトモ五大ニハ不過。サルホトニ・・・。加様二法界ノ五大ヲ一個二成スモ同ナカラ本因上行日蓮上人方二付ケテ一個卜成ス也。教弥実位弥下ノ本意也。サテ高祖開山唯我与我計リト云々。本果ノ方二付クレハ教弥権ナレハ位弥高スル也。

と見える「高祖開山唯我与我計」という表現などは、おそらく「本因妙抄」に

去ル文永之免許丿日、爾前迹門丿謗法ヲ対冶シ、被レハ立本門丿正義ヲ、不日二豊歳ナラムト申セシカハ、聞ク人毎二舌ヲ振ヒ耳ヲ塞ク、其丿時方人無ク一人モ唯我ト〈日蓮〉与我〈日興〉計也。

と記される「唯我ト〈日蓮〉与我〈日興〉計」に基づいたものかと考えられる。よっテ、たまたま書名や直接の引用は残されていないか、両者は何らかの形で交渉かあったと考えて良いと思われる。

 最後に、慶林房日隆師の義に対する日有師の批判に触れておきたいが、この両師の関係について執行海秀氏は次のように概観している。

名字即成、日蓮本仏論等は、石山に於いて・・・それが明らかに思想的形態として表現されるに至ったのは、日有に挨つべきである。ところが、日有がかかる思想を表明するに至ったのは、その当時の中古関東天台の思想、また一致派教学の思想が、理本覚思想に傾き、観念的に自己即本仏を強調して、仏の主体を直ちに自己に求め、信心の恵命を喪失せんとする傾きかあったのである。そこでかかる思想に抗し、その反動として日蓮本仏を唱え、受持信行による即身成仏を説かんとしたものであろう。これは興門の日有だけでなく、日有の同時代の先輩、日隆のハ品教学が既にそうであったのである。日有が日隆の本因下種論の教学に興味をもったことも、あながち無理からぬものがあったのである。

 後述するように、日隆師の本因下種の義が日有師をはじめとする日興門流の本因妙思想に多大な影響を与えたことは事実であるが、ただ当時の中古天台宗や日蓮宗一致派の理本覚・凡夫即仏の思想に対抗するためだけで日隆師の義を摂取した訳ではないと思われる。おそらく日興門流の伝統義である日蓮御影本尊や二品読誦(一部不読誦)等の化儀に対する理論的な裏付けとして、日有師は日隆師等の影響下で独自の本因妙思想を構築して行ったものと考えられるのである。しかるに「雑雑聞書」には次のように記されている。

1、仰二云ク、尼崎流ニハ何モ中々二尚里近ク成リニケリト云フ歌ヲ以ツテ教弥実位弥下ノ名字本覚ヲ書キ玉フ也云々。是ヲハ富士門流ノ義ニハ智者丿解行卜可得心也、其ノ故ハ此ノ歌ノ意ハ、世ヲ厭ヒ山ノ奥ヲ尋ヌル時余リニ深ク尋ネテ本ノ里二出テタリ、故ハ是レハ賢人ノ上卜聞エタリ、此ノ分ハ在世ノ脱機力爾前迹門卜打チ登り断惑証理シテ具騰本種シテ名字妙覚ノ悟ヲ開クノ分卜聞エタリ、故二智者ノ解行也。サテ日興門流ノ意ハ山トモ、里トモ、奥トモ、ハシトモ不弁、但不知不覚ノ愚者ノ当位也云々。此ノ時ハ天地水火ノ相違也云々。

 ここに見える「中々に又尚里近くなりにけり、余りに山の奥を尋ねて」という歌は、中古天台文献などで慈鎮和尚作の道歌などと説明されるもので、日隆師の著作の中ではいろんな形で用いられているのが散見される。今は日隆師(尼崎流)が、在世脱益の機が爾前・迹門・本門と低位から高位へと断惑証理して行き(余りに山の奥を尋ねて)、最後に久遠本因妙の本種に帰って名字即の成道を遂げる(中々に又尚里近くなりにけり)と説明し、脱益と下種益を連続するものとして一双と説くのに対して、日有師が富士門では脱益を経ないで直接久遠名字の下種に参入すると示したものであり、後述する日要師の批判と同義の内容である。

 なお、本因妙思想に関連して日有師の聞書類に引かれる主な天台・妙楽の釈文で、前掲の諸文と重複しないものを拾つでおくと、次の通りである。

○[釈籤七]修シテ一丿円因ヲ感ス一丿円果卜。

○[玄義九]住本顕本トハ此レ就ク仏丿本意ニ。

○[文句一]日夜数ヘテ他丿宝ヲ、自ラ無シ半銭丿分。

○[文句九]秘密ト者、一身即チ三身名ヲ為秘ト、三身即チ一身名テ為密ト。

○[弘決六]教弥イヨ実ナレハ位弥イヨ下ク。教弥イヨ権ナレハ位弥イヨ高シ。

○[弘決七」若シ論セハ教丿旨ヲ、法華ハ唯ク以テ開権顕遠ヲ為ス教丿正主卜。独リ得ルコト妙丿名ヲ意在リ於此ニ


6、日教師の本因妙思想

 左京日教師(1428〜)は、京都・住本寺(要法寺の前身)末の出雲・馬木大坊(安養寺)の住侶で本是院日叶と号したか、当時の日尊門流の教学に飽きたらず、文明13年(1481)頃に大石寺日有師の門に人つて顕応日教と改め、左京阿闍梨と称したと考えられている。翌年に日有師の滅に遇い、その後は北山本門寺へ赴いたとも伝え、また九州の日向国穆作院では当地の日郷門徒とも接触し、さらに長享2年(1488)には上野国の上法寺で「類聚翰集私」を撰述するなど、各地に転住して著作活動を続けている。

 日教師の本因妙思想をうかかう場合に最も留意すべきは、既述のごとく師の日耀師より「本因妙抄」「百六箇抄」を含む「秘蔵抄」を相伝している事実である。実際にその著作の「穆作抄」や「類聚翰集私」などを見ると、本因妙思想および種脱本迹論を説く箇所にはほとんど両抄、特に「百六箇抄」が引かれているといっても過言ではない。よって、日教師は日耀師より両抄を伝授されて以来、そこに説かれている本因妙思想を受容し信奉してきたが、それが50余才にして日有師の門に転じたのは何故であろうか。その実際は不明であるが、遺された記述から判断した場合、おそらく当時の京都および出雲の日尊門流に蔓延していた釈尊造像と「法華経」の一部読誦の義を捨てて、日有師が主説する不造像・不読誦の義を選び取った結果であるうと考えられる。そして、これは何を物語るのかといえば、前に少し触れたように、「本因妙抄」および「百六箇抄」に説かれている本因妙思想や種脱本迹論は主に本迹一致説に対する本迹勝劣を主張するためのものであっで、そのままではいわゆる「日蓮本仏論」につながる内容を必ずしも持っていないということである。それに対して、日有師の本因妙思想は日興門流伝統の化儀である不造像(釈尊を本尊とせず日蓮聖人を本尊とする)や不読誦(「法華経」一部を読誦せず題目の五字を専らとする)の思想的な裏付けを果たしており、日教師はその両者の整合性を受け入れた結果、日有師の門に帰依したものと考えられる。

 このような次第であるから、日教師の本因妙思想は本因妙・百六箇の両抄と日有師の本因妙思想の継承とから成り立っているといっても過言ではない。そんな中で日教師独特の用語とでもいえるのか「互為主伴」である。たとえば、「穆作抄」には

1、互為主伴の事。在世滅後の仏法弘通、本来本因妙の菩薩の御内証より本果の成道を遂げられたまふ釈尊、霊山虚空の間には虚空会の時涌出して、上行菩薩等の四菩薩と顕れて、蓮の大なるを以て池の深さを知るが如く、弟子の髪白うして面皺めるを以って師の釈尊の久しき事を顕して脇士となりたまふ。而るに釈迦以大音声普告四衆したまふ事、末法の法主を募り御座す。仏法授与有れば末法の導師日蓮聖人にて御座す故に、此の時は霊山の時の釈迦多宝は脇士と成りたまふ。互為主伴の法門なり。只上行菩薩の種々の身を現したまふ時、生死共に三世不退に法花修行の御身。

と説かれている。これによると、上行菩薩と釈尊の師弟が互いに主伴となるという義で、本来は本因妙の上行菩薩の内証より釈尊本果の成道が遂げられたので、上行が主で釈尊が伴となる。それか今日の会座のように釈尊衆生教化の化他行の時は、上行菩薩は師の釈尊の仏寿長遠を開顕するために大地より涌出し、師の伴としてその教化を助けるが、末法下種の時に至ると釈尊の結要付属を受けた上行が日蓮と再誕して末法の衆生を教導し、釈尊は過去の脱仏として伴となる、という法門である。そして、「百五十箇条」に見える

さてこそ宝塔の中の釈迦多宝塔外の諸仏上行等の四菩薩脇士と成るべし云々。是こそ互為主伴なれ。何れの門徒にも所持の方は御覧あれ、上行等の四菩薩の脇士となるべしと有り。而るを四菩薩を脇士となるべしとよめり。「を」「の」の違目なり。御書の前後、三大秘法の事、御思案有て拝すべし。但御書に於ても展転書写の誤之れ有り。

との記述から、それが「報恩抄」の

一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。

という一文の読み方に基づく法門であることが知られる。これは、おそらく後述する大石寺所蔵の同書日舜写本が深く関与していると推測されるが、末法の本尊の場合は釈迦・多宝等の諸仏が上行等の四菩薩の脇士となるという文意であり、さらに「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事」と断じられて「報恩抄」の当該文が解釈されているのである。

 ただし、この「報恩抄」の読みについては、日有師の「連陽房雑雑聞書」に

1、当宗御門徒ノ即身成仏ハ十界互具ノ御本尊ノ当体也。其ノ故ハ上行等ノ四菩薩ノ脇士二釈迦多宝成り玉フ所ノ当体大切ナル御事也。他門徒ノ得意ニハ釈迦多宝ノ脇士二上行等ノ四菩薩成り玉フト得意テ即身成仏ノ実義ヲ得ハツシ玉フ也。・・・上行等ノ四菩薩ノ体ハ中間ノ五字ナリ。

と述べられているので、おそらく日教師はこれを日有師より受け継いで「互為主伴の法門」と名付けたものと考えられる。

 そしてもう一つ、日教師に顕著に見られるのが当代の法主を本尊・本仏に定めるという義である。「穆作抄」には

末法は日蓮聖人、上行菩薩の垂迹として下種の導師にて出世し御座す。開目抄には日蓮は一切衆生の主なり親なり師匠なりとあそばす三徳有縁の大導師、下種本門の事の御修行是なり。・・・所詮は当代の教主法主より外は本門の本尊は無しと此の信成就する時、釈迦如来の因行果徳の万行万善、諸波羅蜜の功徳法門が法主の御内証に収まる時、信心成就すると信ず可きなり。

とあり、「類聚翰集私」には

然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む。其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の体有るべきなり。此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りで出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り、信心異他なく尋便来帰咸使見之す。計り知んぬ、持経者は又当代の法主に値ひ奉る時、本仏に値ふなり。成仏難からず、只知識に値て此経を持つ処が聖人の如く本仏に値ふなり。

と説かれている。これによると、末法の本尊は上行菩薩であり、その再誕の日蓮聖人とするが、聖人滅後はその仏法を相属した当代の法主の所に本尊の体があり、その法主と師弟相対して題目を唱えることか肝要であるという論法である。

 しかし、これに関しても日有師の「聞書拾遺」に

1、又云ク、高祖日蓮聖人ノ御抄ニハ、日蓮ハ日本国ノ一切衆生ノ親ナリト遊シテ候モ今ハ人ノ上ニテ候。但今ノ師匠在家ニテモアレ、出家ニテモアレ、尼・入道ニテモアレ、信心無ニニシテ此妙法蓮花ヲ能ク進ムル人乃チ主師親也、能ク能ク心得ヘシ。

とあり、法主本尊というような明確な表現はされていないが、宗祖は過去の主師親であり、我々は現在の主師親を求むべきであるという意が見え、おそらくこの部分が日教師に増幅して受け継がれ、それが右のような主張となったものと推測される。



7、日要師の本因妙思想


 保田妙本寺第11代・日要師(1436〜1514)の本因妙思想を検証する場合に最も注意すべきは、大石寺日有師とは異なり、慶林房日隆師の影響が事実として認められることである。日要師は九州日向国細島の出身で、当時の日向国に広く繁栄していた日郷門流諸寺院の環境の中で成長したが、その後妙本寺日永師の後援を得て京都に遊学し、主に日隆師の下で宗義を研鑽したと伝えられる。この日要師が日隆師に直接師事して就学したことを証明する資料は今のところ見られないか、寛正4年(1463)28才の時に日隆師の著作「法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)」を富士小泉の久遠寺で書写しており、また後年、妙本寺第11代を襲った後の明応9年(1499)に日向に帰国した際には、当地にて日隆師の「玄義教相見聞(一帖抄)」を大衆に談義としており、日隆師の教学をかなりの長期にわたって摂取し活用している。これは、具体的には後項にて触れる日隆師の本因下種論に対する積極的な学習といえるが、ただこれは日要師個人の判断というよりは、それ以前からの日郷門流の宗義研鑽方法の流れを汲んだものであることは、後述の通りである。

 次に指摘しうるのは、大石寺日有師の影響である。この日有・日要の両師が一体どのような関係にあったのか、それを判断することは結構むつかしいが、日有聞書の「日拾聞書」および「雑雑聞書」の二書にわたって日有・日要両師の義が並記されていることや、日要師の「富士門流草案口決」に日有師の「化儀抄」末尾から本因妙思想を特に主説する四箇条がそのまま引用されていること、さらには一箇所なから、日要御談「顕仏未来記」には

日要仰云、サテ体丿処ヨリ下種シテハ自元体用分明也。サテ用丿方ハ用々丿下ル歟ト尋ネ玉フ時、日有仰云、何モ師トナル方ハ体ト可成云々。

という直接問答の掛け合いが記されていることなどから、その交渉の濃密さを看取することができる。

 さらに、「本因妙抄」「百六箇抄」の両書に関しては、日教師に比較するとその頻度はかなり下がるものの、「口伝抄」「御相承」「御大事の文」等の名目で引文されている。また、保田妙本寺に所蔵される「日杲伝授状」には

伝授之事

右、観心本尊抄・本因妙抄、其外御大事、何も従日要上人日杲相承之分、阿闍梨日鎮に致伝授処也。

天文二年癸已七月七日    妙本寺学頭坊日杲(花押)

阿闍梨日鎮伝授 日州下向之時。

とあり、「本因妙抄」が「観心本尊抄」と並んで御大事の筆頭として日要師から弟子の日杲師に伝授されている。

このように日要師の本因妙思想には、これまで考察してきた本因妙・百六箇の両抄や大石寺日有師の義、それに後に小考する日隆師の教学が総合されているために、思想的骨格を構築する段階ははや過ぎて、その骨格の上にいろんな肉づけが施される段階にあるという感じを受ける。日要師の著作の全貌はいまだ明らかではないが、その著述傾向は本因妙思想や種脱本迹論を専論するというよりも、「開目抄」や「本尊問答抄」などの主要御書に対して本因妙思想からの解釈を施し、その中で不造像・不読誦等の日興門流義を宣楊する形が基本になっているといえる。

 よって、たとえば「一代大意抄見聞」には次のように記されている。

1、宗義に云く、今日声聞具禁戒者良有久遠〈名字即のことなり〉所業聞常昔若聞小尚不具況復大耶と釈して、今日声聞が二百五十戒を持ち三明六通の阿羅漢となり神通を現ずることも、過去本因妙の時要法を受持信ぜし力用に依るなり。されば竜女が即身成仏も今日一代力にあらず、久遠金剛の力なりと云ふことなり。皆此の意を以て経旨を見れば曇りなきものなり。

 ここに挙げられている釈文は妙楽の「止観弘決」巻三に見えるもので、「今日丿声聞具スコトハ禁戒ヲ者、良ニ由ル久遠丿初業ニ聞クニ常ヲ。若シ昔シ不ルハ聞カ小尚ホ不ス具セ。況ヤ復タ大ヲヤ耶」と読み、今日の声聞が戒律を具足することは「久遠の初業」において大乗の教えを聞いたその力に依るもの、という意である。そして、この「久遠の初業」とは「法華経」迹門に説かれる三千塵点の大通仏時における下種益を指すというのが通途の解釈であるが、日要師は「名字即のことなり」と注記して、それを五百塵点久遠の、しかも本因名字即における下種益の意とし、竜女成仏等もその範躊内のものと説明している。まさしく教相を逸脱した観心釈に基づく作業と言えようか、これをたとえば後に紹介する、日隆師が天台釈の教相を重んじながら久遠本因妙の下種義を正当化していく作業などと比較した場合、ある程度の隔たりか感じられる。そして、日要師の場合はこのような作業かかなりの範囲で行なわれたものと推測され、本因妙思想における日要師の独自性であるともいえる。

 これに対して、その用語などには日隆師や日有師の影響が一見して感じられる。今はその一例として「旅宿」という語を取り上げてみよう。たとえば「当体義抄聞書」には

扠テ八品ニ被出地涌ハ信心丿座席也。何ゾ旅宿ト云フヤ也。是舎利弗・目連カ涌出品丿時、上行丿体内ニ流入シテ寿量品ニ至リ具騰本種シテ見ル時ハ、過去ハ信心丿本地、八品旅宿ト云也。是ハ過去力家丿現在ノハ品ナリ。サテ此上行ハ在世ハ分証究竟ニ対スル時ハ旅宿ニ成リ、依テ教弥権位弥高丿上行也。・・・サテ未断惑丿過去丿信心丿侭出現シ玉ヘハ是無智比丘丿僧形也。去レハ二ケノ上行不同ニシテ、 彼レハ脱是レハ種ト分チ玉へリ。

とあり、「法華経」本門の涌出品から属累品までの八品の会座は上行菩薩にとつて旅宿、つまり仮りの宿であるという意である。つまり、上行菩薩は過去本因妙下種の本主にして、同時に末法に日蓮と再誕して久遠名字即の妙法を下種する未断惑無智の僧形が本来の姿であるが、それが「法華経」の八品に断惑の上行として涌現したのは、過去本因妙より未来の末法へ赴く途中に過去下種の者に対面するために八品を仮りの中宿として現われたまでで、上行菩薩本来のすがたではない、との義である。

 これは、たとえば日隆師の「玄義教相見聞(一帖抄)」には

2、就テ三種教相ニ論ル本迹丿異ヲ事。・・・仍テ以テ三種教相丿本迹ヲ妙法蓮華経之根本丿在処ハ現在迹中丿爾前八教丿中ニハ無シ之。又超八醍醐丿妙経ハ迹門丿所ニ在リ之。是猶旅宿也。故ニ過去大通下種丿所ニ居住シ下フ。是猶望レハ第三教相ニ旅宿ナレハ去リテ之、第三師弟遠本本国土妙、根本在処丿王宮ニ落付下フ事ヲ釈スルヲ、 三種教相丿次第梯橙之意トハ云也。

とあり、「根性の融不融」「化導の始終不始終」「師弟の遠近不遠近」の三種教相に約して妙法の在所を示した時、第三の「師弟の遠近不遠近」の相で明かされる久遠五百塵点の本宮に対した場合は、第一の超八脱益の妙経や第二の大通下種の妙法は「旅宿」となると説明されている。

 日要師の場合はこの旅宿を「法華経」本門の八品に転用したものと推測されるが、後に触れるように、日隆師は種脱の一致・一双の立場を採るために本門八品を旅宿とすることはないと考えられる。よって、この旅宿は日要師が種脱勝劣の立場から随義転用したものであるか、これはおそらく日有聞書「雑雑聞書」に

1、日有丿云ク、譬ヒ地涌ノ菩薩也卜云フ共、地住已上ノ所見ナレハ末法我等力非依用・云々。

と見える断惑の地涌上行(脱)と未断惑の地涌上行(種)という見解を受けて、日要師が断惑の上行菩薩を旅宿と表現したものと考えられる。日隆・日有の両師の教学を摂取しつつ、みずからの本因妙思想を組み立てていく日要師のすがたの一端がここには現われている。

 一方、今のところ左京日教師との交渉の跡は日要師の著作の中には見えないが、日教師の特徴の一つとして挙げた「互為主伴」とほとんど同義の、本因と本果が互いに面となり裏となるという見解が散見される。また、日要御談「顕仏未来記聞書」には

1、大石寺ニハ本尊ハ能生、寺ハ所生、智水ハ能生、寺ハ所生、智水ハ能生、本尊ハ所生ト沙汰ナリ。又大聖ハ冥益、当住ハ顕益事行丿日蓮ト云ヘリ。無勿体歟。

とあり、日教師が強調した当代法主本尊論に対して、それは行き過ぎた義との批判が表明されている。しかし、行き過ぎた義ということから言えば、「一代大意抄見聞」に

されば之れに付きて天目上人、富山の門人方便読誦の義難をなすところを日興上人云く、そもそも彼等がために教訓するにあらず、正観に任せて二義を立つ。一に所破のため、二に文証を借るなり。・・・次に廃迹顕本の寿量なを伽耶の近情を明かす。之れを以て之れを思ふに、方便品読誦の元意ただ是れ条破の一段なり云々。此の御心を以て思ふには寿量品をも読むべからざるか

とあり、文上脱益の寿量品に得益がないところから寿量品の不読誦にまで論が及んでいる。

 最後に日隆師の「尼崎流」の義に対する批判を挙げておくと、「法華本門開目抄聞書」には

仰せに云く、御抄文に、法華経に二経あり、いはゆる本門と迹門となり云々。法華経は一経なりと云ふとも二経なり。夫れとは種の法華経、脱の法華経なり。彼れは脱、此れは種と遊ばさる御文体なり。是れを尼崎流には、彼れの脱は此れの種とテニハをよみかへるに依りて本尊に取り迷ふなり。

とあり、「顕仏未来記聞書」には

1、御書云、在世丿本門ト末法丿初トハ一同丿純円也。但シ彼ハ脱、此種、彼レハ一品二半、此ハ唯題目丿五字也云々。然ルニ尼崎流ニハ一同ニ純円ト立ル処ニ迷テ、末法モ一品二半ヲ為正、仏ヲモ造ル也。

等と記述されている。日隆師の見解については後に少し触れることになるが、ここでは主に種脱を立てながらその法体を同一とするために、結局は種脱に混乱して下種の日蓮本尊義を立てることかできず、釈尊像を造ることが誹議されている。

 なお、前例にならって、日要師の著作に引かれる主な天台・妙楽の釈文で、前掲の諸文と重複しないものを拾っておくと、次の通りである。

○[玄義一]此丿妙法蓮華経ハ者本地甚深之奥蔵也。

○[玄義七]本因妙卜者、本初ニ発シテ菩提心ヲ行シ菩薩道ヲ所丿修スル因也。

○[釈籤一]迹中ニ雖モ説クト推ルニ功ヲ有リ在ル。故ニ云フ本地ト。

○[釈籤七]若シ払ヒ迹ヲ指スハ本ヲ、是レ約シテ事ニ論ス開ヲ。

○[釈籤十]本門ハ以テ本因ヲ為シ元始卜、今日ハ以テ初成ヲ為ス元始ト。

○[文句九]総シテ在如来丿寿命海中ニ.

○[文句九]於テ諸教丿中ニ秘シテ之ヲ不伝。

○[記四]本迹事希ハ諸教ニ不説カ。

○[記九]故ニ本門丿流通永ク異ナリ諸部ニ。

○[記十]一念信解卜者、即チ是レ本門立行之首。



8、本因妙思想形成の必然性

 私は以前、本誌第10号に投稿した「事行の法門について(五) 弘安元年宗祖花押の変化をめぐって」で、弘安元年(1278)4月から6月にかけて見られる宗祖花押の変化の意味をさぐり、同時期以降の諸御書にそれまでなかった「法華経の御宝前」という表現が頻出する現象等を勘合して、「観心本尊抄」以後に存在した釈尊本尊と曼荼羅本尊の両本尊義のうち、末法の本尊として曼荼羅本尊を選定しようという宗祖の意志の現われではないかと推測した。そして、その曼荼羅本尊選定の意義については、文永8年(1271)9月の竜口法難以後の教学的営為の中で、宗祖の末法利益への強いこだわりに基づいて、釈尊の順縁・摂受・脱益の在世世界と相対したしたところに形成された上行菩薩の逆縁・折伏・下種益という滅後末法世界の安定化・独立化が目的ではないかと推考した。その上で、「まとめ」として次のように結論した。

宗祖の信仰体系における釈尊の位置というものは実に微妙なものがある。前項にて宗祖の曼荼羅本尊選定の意義が滅後末法世界の独立化にあることを指摘したが、あくまでもそれは独立化であって独立そのものではない。と言うのは、前掲した「観心本尊抄」の「釈尊因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」との文意に従う限り、この滅後末法において私達衆生が受持信行し、随力弘通すべき妙法蓮華経の実質内容は全く釈尊の因果功徳に依存しているからである。よって、うっかり釈尊を切り捨てて独立独歩を計ろうとしたならば、その途端糸の切れた凧よろしく、滅後末法世界そのものの空中分解をもたらす結果となる。この滅後末法世界の独立というのは全くのジレンマである。けれども、これが宗祖の信仰体系の実際であり、その精一杯のけじめが右の曼荼羅本尊選定という作業だったのである。

 宗祖がその晩年に到達された状況は、ある意味ではこのように非常に不安定なものであった。そして、その状況から抜け出すために、宗祖滅後に釈尊の代替を設定することによって釈尊を否定し、その結果滅後末法世界を真に独立させようという目的で形成されたのが種脱本迹論であり、本因妙思想であったと考えられる。よつて、本因妙思想が祖滅後に形成されていくある程度の必然性がそこにはあつたものと判断されるのである。

 さきに、本因妙思想と種脱本迹論の間関係に少し触れたが、種脱本迹論を要約すると

釈尊所説の法華経は過去下種の者を脱益せしめるのに対して、上行・日蓮の法華経(題目)は本未有善の末法の衆生に下種するものであり、それは久遠本因妙の下種をそのまま移したものゆえ本となり、釈尊脱益の法華経の迹に勝れる。

という思想である。この内、前半の「釈尊所説の法華経は過去下種の者を脱益せしめるのに対して、上行・日蓮の法華経(題目)は本未有善の末法の衆生に下種するもの」という釈尊在世世界に相対する上行・日蓮の滅後末法世界の確立が宗祖の晩年に達成されていたことは、右に述べたとおりである。しかも、宗祖一代の遺言とでもいうべき弘安3年(1280)12月の「諌暁八幡抄」の棹尾に見える

天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名也。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法東へ流るべき相也。日は東より出づ、日本の仏法月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長闇を照すべき瑞相也。仏は法華経謗法の者を冶し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。

との仰せでは、釈尊の在世世界に対する滅後末法世界の優秀性が明示され、それを不軽菩薩の逆縁毒鼓義に集約させて、その実践を末法の衆生に勧説されている。よつて、この宗祖晩年のお考えに「久遠本因妙の下種益」という重要素(右の「釈尊の代替」にあたる)を加えれば、種脱本迹論および本因妙思想の骨格はほぼ完成するものと考えられるのである。

 このような観点からいえば、宗祖滅後に本因妙思想が形成されていくためには、さらに2つの難問があるといえる。一つは、久遠五百塵点における下種が本因の下種であること。そして、もう一つの難問は本果妙・釈尊の本因妙が上行菩薩であること。この二つの難問がクリアーされて本因妙思想の形成は実現されるが、以下、その難問解消の過程を少し追跡してみようと思う。

 



9、宗祖および滅後上代における形成の要素

 本項では、宗祖の遺文と祖滅後上代における文献等の中から本因妙思想形成に直接および間接につなかる要素をいくつか拾い上げてみよう。まず、宗祖遺文からは次の3点が指摘できる。

 @は文永10年8月の「波木井三郎 殿御返事」に次のように述べられている。

但シ有ラハ法華経丿行者可シ被ル悪口罵言刀杖擯出等ヲ云云。以テ此丿経文ヲ配当スルニ世間ニ人モ無之。以テカ誰ヲ為ン法華経丿行者卜。雖モ有ト敵人ハ無シ法華経丿持者ハ。讐ヘハ如シ有テ東無ク西、有テ天無きカ地。仏語成ルヲ妄説卜如何。予雖モ似タリト自讃ニ勘へ出シテ之ヲ扶持ス仏語ヲ。所謂日蓮法師是レ也。其丿上、仏、不軽品ニ引テ自身丿過去丿現証ヲ云ク爾時ニ有リ一リ丿菩薩一名ク常不軽卜等云云。又云ク悪口罵詈罵等セラル。 又云ク或ハ以テ杖木瓦石ヲ而打擲ス之ヲ等云云。釈尊引き載テ我因位丿所行ヲ勧励シタマフ末法丿始ヲ。不軽菩薩既ニ為ニ法華経丿蒙リテ杖木ヲ忽ニ登ラセタマヒヌ妙覚丿極位ニ。日蓮、此経之故ニ現身ニ被丿刀杖ヲ二度当ル遠流ニ。当来丿妙果可ンヤ疑フ之ヲ乎。

 これは、「法華経」勧持品第13の20行の偈には仏滅後に法華経の行者がいれば、必ず三類の強敵かが出現して悪口・罵暑・刀杖・擯出などの迫害を加える旨が説かれているが、かたじけなくも諸難に遭い続ける自身・日蓮がその法華経の行者にあたるという自負が示され、さらに釈尊がみずからの因位として説示した不軽菩薩の受難も自分・日蓮は身読し色読したのであるから、必ずや当来の妙果がもたらされるであろう、と期待されている。ここには釈尊因行の菩薩である不軽菩薩と自分がイコールであるという宗祖の自覚が示されており、本因妙への多少の接近を読みとることかできる。

 Aは「観心本尊抄」の次の一文についてである。

経ニ云ク、我本行菩薩道所成寿命今猶未盡、復倍上数等云々。我等カ己心丿菩薩等也。地涌千界丿菩薩ハ己心丿釈尊丿眷属也。・・・上行・無辺行・浄行・安立行等ハ我等カ己心丿菩薩也。

 これは間書前半の観心段の末にある文で、釈尊の因行果徳の二法を具足した妙法五字を受持することにより、末法凡夫の十界互具の観心が成就し、それを受けて凡夫心所具の菩薩界が示された部分である。しかるに、当該の文について、浅井円道氏は

己心の菩薩界を論ずる中に、「我本行菩薩道」云云の経文について、初めにはこれを「我等か己心の菩薩等」といい、最後には「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等か己心の菩薩」というから、「我本行菩薩道」つまり釈尊の本因行の時の名を上行菩薩と称するかのような印象を受ける。後世の富士派・八品派などの勝劣派が、釈尊の本因時の名を上行菩薩と称すると約束しておいて、ここから教学を展開してゆくのは、聖人のこれらの文言によるものと思われる。しかし右両文の中間には「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の答属なり」とあり、久遠の釈尊が己心所具であることはすでに前文で決定ずみであるから、久遠釈尊の本弟子たる地涌千界もまた己心所具であるとうことを前提として、「地涌千界」の上首たる「上行……等は我等か己心の菩薩なり」となるのである。しかし己心の菩薩界の代表として、ここで釈尊の因行時と上行等との二類を示されたことは、記憶に止めておかねばならない。

と解説を加えている。ここにいわれる「釈尊の本因行の時の名を上行菩薩と称する」ことが本因妙思想の形成において決定的なポイントであることは前述の通りであり、事実日隆師が上行菩薩を本因妙と規定する文拠として「観心本尊抄」の名を挙げていることは後述の通りである。

 Bとして指摘できるのは「注法華経」の引文に見られる本因妙および本因妙下種に対する関心である。今、3例ほど挙げてみると、第1は「文句記」巻一の次の文である。

今経丿本迹二門丿施化ハ並ニ異ナリ他経ニ。此丿文丿四節良ニ有ル以へ也。故ニ四節丿中、唯タ初二節ヲ名ク本眷属卜。初丿第一節ハ雖モ脱ハ在リト現ニ具ニ騰ク本種ニ。・・・初之一節ハ本因果ニ種シ。、果後ニ方ニ熟シ、王城ニ乃チ脱ス。次ニ復次丿下、本因果ニ種シ、果後近ク熟シ、適ニ過世ニ脱ス。指ス地涌丿者ヲ。

 これは天台智顎が「法華経」の文々を釈する際に用いた因縁・約教・本迹・観心の四種釈のうち、最初の因縁釈を説明する中で、如来の自在神力により三世九世にわたって種熟脱の三益が節々に繰り返されるが、そのうちの代表的な四節を示した段(四節三益と通称される)に妙楽湛然が注解を加えた部分の文である。この中に見える「雖脱在現具騰本種」が下種益が脱益に勝ることを示す文として、本因妙思想および種脱本迹論で中心的な役割を果たしているさまは既に見たとおりであるが、その後に二箇所「本因果ニ種シ」と記されている。これは四節のうち、本眷属である第1と第2の久遠下種を表現した語であるが、これによると本因と本果の両方で本種が下されたという意のように読める。そして、それを証明するのが「注法華経」で右文に続いて引かれる道暹の「文句輔正記」の文であり、「本因果ニ種ル」について

本因果種トハ者、此レ即チ如来行スル菩薩道ヲ時為ニ他丿下種シ、証果之時復タ為ニ下種ス。故ニ名ツク本因果種卜。

と解釈されており、本因妙下種が明確に示されている。最後に挙げられるのは「玄義釈籤」巻十の

初メテ叙セハ始末ヲ者、迹門ハ以テ大通ヲ為シ元始卜、本門ハ以テ本因ヲ為シ元始卜、今日ハ以テ初成ヲ為ス元始ス。

の文で、これも本因妙思想の説明の中に多く用いられるものである。ただし、この文に問しては「断簡三四八」にも同文が引かれており、こちらの方では何故か「本門ハ以テ久遠ヲ為シ元始卜」とあり、本因→久遠と改められている。

 以上、比較的大量に残されている宗祖遺文の中で、本因妙思想形成につながる要素として指摘できるのは、今のところこの三点程である。次に祖滅後に眼を転じたいが、こちらも報告できるものはかなり限られている。ただ、ここで注意しなければならないのは、祖滅直後に形成されたであろう諸門流における化儀の問題である。

 周知のとおり、宗祖はみずからの入滅に際して本弟子六人の高弟を定め、おそらくそれぞれの地域における布教活動の中心となるように指示されたものと考えられる。そして、その意を受けた日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六師は活動の拠点となる寺院を整備し、みずからの弟子や所縁の檀越という人的ネットワークを構築する急務に直面したであろう。同時に、教学的な大系や信仰的な心構えなどに関しては宗祖が遺された数多くの御書がその任を務めたが、一番の問題は本尊形態や修行形態などの化儀をどのように定めるかということにあったと想像される。その内のいくつかのものに関しては、宗祖在世中の所作をそのまま引き継いで処理できるものもあったであろうが、寺院の本堂にどのような本尊を安置するか、そしてその本尊に向かって日々おこなう勤行では何を読誦するかという、非常にむつかしい問題を急速に処理するという状況に諸師はあつたものと考えられる。そして、化儀というものは一旦定まると、それを改めることは非常に困難なものであり、ある意味ではその後の門流の歴史を非常に強く拘束していくこととなる。

 日興門流の場合は派祖・日興師の意向により、宗祖書顕の十界曼荼羅本尊と宗祖御影像が本尊として安置され、日々の勤行の所作としては方便・寿量の二品読誦が定置された。この釈尊像ではなくて宗祖御影像を本尊とすることは、おそらく本来はそれほどの教理的な内容を持つものではなく、素朴な祖師信仰がある程度の部分を占めていたであろうが、宗祖を上行菩薩の再誕と強く意識することはやはりその後の五一相違(日興師と他の五老僧との相違)や本迹の一致・勝劣などにつなかっていったであろうことは、想像するにたやすい。

 また、宗祖書顕の曼荼羅本尊についても、本来は宗祖が「観心本尊抄」の本門思想の上に末法相応の本尊として図顕されたものという認識においては、諸門流でそれ程の格差はなかつたであろうが、それを日蓮が弟子という立場で書写する段になると状況は一変する。言うまでもなく、日興門流では必ず「日蓮在御判」と記して、曼荼羅本尊の主体が「南無妙法蓮華経 日蓮」であることを確認する。これも日蓮聖人を列衆の一人として記名し、南無妙法蓮華経の首題の下にはみずからの名を記す他門の化儀と比較した場合、曼荼羅本尊全体を日蓮聖人そのものと拝する日蓮本尊義へと展間するものと、容易に推測することができる。

 このように考えてみると、宗祖の入滅直後に定め置かれた宗祖御影本尊義や二品読誦義などのいわゆる日興門流伝統の化儀と、さらにそこから派生した五一相違や日蓮・日興の師弟義などの考えが、その論理的な裏付けという役割を担うものとしての本因妙思想の、その後の形成にとつて非常に大きな推進要素となったと考えられるのである。そして、そのような眼で祖滅後の諸文献を見た場合、今のところ次の三点ほどが指摘される。

 @は、如寂房日満師が建武元年(1334)正月7日に大石寺で行なわれた日仙師と日代師の方便品読不の問答を記録した「方便品読不之問答記録」の中には、次のように記されている。

日仙再ヒ問フテ云ク、如クンハ答丿義丿者於テ迹門丿方便品ニ有リ得道耶。日代再ヒ答へテ云ク、就イテ於迹門丿方便品ニ綸スルニ得益之有無ヲ有リ与奪破丿三義、与トハ者三周声聞於テ迹門正宗八品丿内ニ蒙リ授記ヲ、於テ五品流通丿中ニ論スル調達竜女丿得脱ヲ也、天台云ク、今聞イテ迹門之説ヲ同シク入リ丿実相ニ即チ得因中実益ヲ云云、妙楽云ク、因門開ケ竟シテ望ムレハ於果門ニ則チ実一虚云云、開目抄二云ク、迹門方便品には一念三千・二乗作仏を説キて尓前二種丿失一つ脱レたりと被書カ、是を与丿意と云フ也、雖モ然リト未ニ発迹顕本セ実ノ一念三千モ不顕ハレ、二乗作仏も不定マラ、 猶如ク水中丿月丿、無シ根草丿波の上に浮カフるに似たりと云云、妙楽云ク、本門顕ハレ竟レハ則チ二種倶ニ実ナリ、故ニ知シヌ、迹丿実ハ於テ本ニ猶虚ナリ矣、如キ此丿御書本末丿釈、是ヲ奪丿意ト云フ也、開目抄ニ云ク、尓前迹門の十界の因果を打破リて本門十界の因果を説キ顕ハす云云、如シ此丿被ル書カ、是ヲ破丿意と云フ也、与丿意の分、一往於テ文上ニ雖モ明スト得益ヲ、奪破双意の分、再往於テ文底ニ無シ得益、真実丿得益ハ者限ル寿量品丿文底ノ因妙ニ也。従リ先師此丿法門不シテ聴聞セ而今生ニ生スルヤ疑惑ヲ耶。

 ここでは「法華経」迹門の方便品の得益の有無についての日仙師の質問に対し、日代師が与・奪・破の三義を示し、与の意では方便品の文上に一往の得益を明かすが、奪および破の両意では再往・文底に得益はないと答えた後に、「真実丿得益ハ者限丿寿量品丿文底丿因妙ニ也」と記されている。この一文を素直に読む限りは、本因妙に真実の得益がある旨が明言されているが、これ以外の説明がなく、また方便品の得益からいきなり寿量品の文底にまで話か飛んでいるために、その周囲を含めた詳しい状況は不明である。また、本文献には古写本が現存せず、文献的にも多少の問題が指摘されているので、この意見を日代師のものと確定することは今のところ難しいようである。

 次にAとして注意すべきは、暦応5年(1342)3月14日に三位日順師が作成した「誓文」に見える文言である。本書は日順師の師匠・日澄師の三十三回忌の法会に際し、僧俗門下が一味同心の祈願の連署を捧げるにあたって日順師が著したものであるが、末尾に見える神文(神仏の勧請および呪誼文言)には次のように記されている。

或ハ依テ親疎有縁之語ニ以テ非ヲ処シ理ニ、或ハ恐レテ富福高貴之威ヲ破リ法ヲ乱ル礼ヲ、若ハ起シテ妄情自由之見ヲ知テ悪ト不改メ、若ハ聞キ正直無差之訓ヲ知テ不ル同セ者ハ、蒙リ仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曾有丿大曼荼羅所在丿釈迦・多宝・十方三世諸仏・上行・無辺行・普賢・文殊等丿諸薩?唾、身子・目連等丿諸聖、梵・帝・日・月・四天・竜王等、刹女・番神等、天照・八幡等、正像之四依、竜樹・天親・天台・伝教等、別シテ而本尊総体之日蓮聖人丿御罰ヲ、現世ニハ失ヒ一身丿安堵ヲ都ヲ招丿諸人丿嘲ヲ、未来ニハ堕チ無間ニ将ニ受ケン卜大苦悩ヲ

 ここには、最初に曼荼羅本尊の列衆が順々に挙げられ、その後に「別シテ而本尊総体之日蓮聖人」とあって、曼荼羅本尊をそのままで日蓮聖人と拝する意が示されている。

 最後のBは、前にも少し触れた大石寺に所蔵される「報恩抄」の日舜写本である。「報恩抄」の末尾には末法弘通の要法として本門の三大秘法が示されているが、その第一である本門の本尊について現行御書では

一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。

と表記されいる。それに対して、日舜写本には

一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の中の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の脇士となるべし。

とあるようで、「上行等の四菩薩脇士となるべし」の「四菩薩」が抜けて「上行等の脇士となるべし」と表記され、その結果文意が反転して、釈尊や多宝仏等の諸仏が上行菩薩等の脇士となるという意味の文章となっている。確かにこれだけを見れば上行本尊・上行本仏の意を読みとることもできるか、右文を見て分かるように、その直前には「一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」と明言されているので、全体としては非常に矛盾した文章となっテしまっている。ただ、この写本の存在に基づいて左京日教師の「互為主伴の法門」などができあかっている可能性が非常に高く、その存在を無視することはできないのである。


   10、慶林房日隆師との交錯

 最初に日隆師の略伝を紹介しておくと、師は法華宗(本門流)本門仏立宗・本門法華宗等の八品門流系の祖で、至徳2年(1385)に越中富山射水郡浅井郷に、桃井右馬頭尚儀の子として誕生した。応永9年2(1402)妙本寺(妙顕寺)の通源日霽に師事し、叔父と伝えられる日存・日道の学室に入り、慶林房(桂林房)日立(永享5年に日隆と改称)と称した。応永12年に日舞が示寂して具覚月明があとを継いだが、化儀・化法の乱れが甚だしく、日存・日道両師と共に再三諌めるも容れられずに妙本寺を退出した。その後、叡山や三井等の諸地に遊学し、また越後・本成寺日陣等の諸門の碩学を訪ねて教学研鑽すること10数年におよび、次第に有力な外護者も得て京都・本応寺(後の本能寺)や尼崎・本興寺等の諸寺院を開創した。永享元年(1429)には本迹勝劣・本門八品上行所伝の要義を闡明した「法華天台両宗勝抄(四帖抄)」を洛中諸山に廻達し、独立を宣言したと伝えられる。その後は京都と尼崎を往還しながら教団の基礎を固め、瀬戸内諸国に伝道して大きな成果を収めて堺・顕本寺などの諸寺を創建した。その間、布教の合間に「御書文段集」「十三問答抄」「玄義教相見聞二帖抄」」「私新抄」等を著して、学徒の教育に資した。63歳頃からは布教をとどめて述作に専念し、73歳頃にかけて「本門弘教抄」「開迹顕本宗要集」「三大部略大意」等の大部の教学書を完成させた。享徳3年(1454)70歳の時に本興寺内に勧学院を創設して門下教育に成果を上げ、その学流は「尼崎門流」と通称された。寛正4年(1463)5月13日、師は本能寺法度7箇条を定めて本能・本興の両寺一寺を通達し、翌5年(1464)2月25日に80歳で帰寂した。

 日隆師の教学は八品教学と通称されるように、「法華経」二十八品のうち、本門の従地涌出品から属累品に至る八品を重視し、特に神力品に説かれる上行等の四菩薩への結要付属義を中心に置いて、在世脱益の一品二半より末法下種の題目を選び取っている。また、本因妙の上行菩薩が先仏・釈尊の本果の法を下種するという本因妙下種を標榜し、本種を説く本門が不説の迹門に勝れるという本迹勝劣を主張している。その学風は広学多聞を排して御書中心主義をとり、また当時流行の中古日本天台の観心偏重主義を嫌って厳密な教相主義に立つものと評されている。また、中世の分流諸師のうち、著述の規模や体系の整備等から宗学の名に値するのは日隆師のみという高い評価もなされている。

 さて、そのような日隆師と非常に深い交渉を持っているのが、保田妙本寺を本寺とする日郷門流である。

その妙本寺を代表する学匠である日我師の「蟇蛇異見抄」の巻首には

此抄号蟇蛇異見抄日我丿作意ナリ。言穏竜難問難答抄也。穏公ハ当家丿学者也。然ル間助レ之ヲ。雖爾リト彼丿能化所化法門一家可責也。日我ハ当流丿法門助穏公事、蓋し蟇丿喧嘩ヲ蛇丿異見シタルカ如シ。故ニ云爾而巳。・・・於京都日隆相伝秘中丿深秘也。嫡々相承記者日穏書之。所化名ハ乗範、日隆第二丿弟子也。後日我書加之。口伝見聞仰ハ日隆、私ハ日穏。

と記されている。ここに見える日穏師(〜1472)は当時の九州日向国浮田荘に存在した妙本寺の末寺・妙円寺の住僧で、乗範という所化名で叡山や関東天台に遊学し、習得した口決相承を日向で数多くの弟子に伝授したと伝えられる。右文ではその日穏師は「日隆第二丿弟子也」と記され、慶林房日隆師の弟子であったことが知られる。同書の巻末に見える

本云、宝徳年中於京都尼崎節々口決致ス処也。一句千金丿大事述記丿後、日隆見之印加シテ曰、嫡々相承唯授一人非起請文者雖為ニ志之人不可相伝・余ヵ第一ノ秘伝也

という文はその日穏師自身の言葉と考えられるが、これによると師は宝徳年中(1449〜52)に京都で尼崎流の口決を述記し、それに日隆師が印加して「嫡々相承……」等の文言を添えたという。事実、文安元年(1444)12月12日に日隆師が定置した「本能寺条々法度本尊勧請起請起請文之事」には27名の弟子が署名・加判しているが、その中に見える「乗範花押」はおそらく日穏師のものと考えられるので、この文安から宝徳頃にかけて日穏師は日隆師に随侍して、その教学の摂取に努めたものと想定される。同時期の日隆師は60代の年齢を迎えなから、畢生の大作である「本門弘教抄」の執筆中にあり、ある意味では最も思想的に円熟していた時期かと推測される。後年、要法寺日辰師は「負薪記」の中で

然ルニ日向国ノ日郷門徒ハ日隆ノ誤リヲ不シテ知ラ蓮公ノ百四十ハ通ノ御抄箱ノ中ニ入レテ一帖玄文ヲ賞翫セル事ハ隆門ノ面目、興門ノ恥辱也。

と日郷門流を批判しているが、この日穏師あたりが指摘される「日向国ノ日郷門徒」その人に該当するかと思われる。

 しかし、このような直接日隆師の門に入ってその教学を学び取るという日穏師の積極的な活動は、日穏師個人の判断でなされた営為というよりは、おそらく本寺である保田妙本寺の意向をかなり受けてのものであったかと想定される。それは、妙本寺第9代・日安師が長禄三年(1459)4月に尼崎において日隆師の 「玄義教相見聞二帖抄」」をみずから書写していることや、前述したように、同書を日要師が明応9年(1500)に日向国に下向した際に談義し、それ以前の寛正4年(1463)9月には小泉・久遠寺で日隆師の「法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)」を書写している事実などからして、その可能性は十分に高いと考えられる。

 最後に、その日隆師の本因妙思想を少々検証してみようと思うが、今は種々の制約から、前に本因妙思想が形成されていく際の二つの難問として示した本因妙下種と本因妙=上行菩薩の義、そして日有師や日要師の批判の中に見えた種脱一致の意について少し見て置きたい。

 まず、本因妙下種については「十三問答抄」第一在世下種事の中に、次のように説かれている。

次ニ至テ上行等下種ニ亘ル本因本果耶否ヤ事、経文解釈其丿意非一途ニ。経文ニハ我於於伽耶城○令初発道心云々、上行等本果下種之相、経文分明也云々。雖然リト文句第一本末丿釈ハ地涌下種亘ルト本因本果ニ判ジ玉ヘリ。疏云、久遠ヲ為種過去ヲ為熟ト近世ヲ為脱、地涌等是也。記受テ之。本因果ニ種シ果後ニ近ク熟シ適過世ニ脱ス、指スト地涌丿者卜判ジ玉ヘリ。此等天台妙楽丿解釈、地涌丿下種亘ルト本因本果ニ判ジ玉ヘリ。此等経釈相違ニ似タリト云ヘドモ、経文ハ且ク雖説ト果ノ一辺ヲ釈ハ取テ意ヲ令テ教亘因果ニ判スル歟。所詮妙楽丿釈無ク疑ヒ因果ニ下種卜判スル者也。・・・然ルニ末師等当世天台学者等ハ多分下種ハ限ル本果ニ趣ヲ沙汰スル也。是モ常途丿約束ヲハ相違シタル也。下種卜者因位丿菩薩界ニシテ成レ之、其下種結縁丿衆生丿熟脱丿時分ニ唱極果ノハ相ヲ令ム所化丿成セ仏果ヲ也。其丿上、下種ト者人天丿機丿上ニ論スル之者也。極果成道ノ所化ハ三乗也。釈ニ三乗根性感仏出世余不ト能レ感ニ云ヘリ。本果成道丿時ハ定テ地涌体具丿三乗有テ之可成ス極果ヲ。争カ可有丿人天下種丿機乎。故ニ知ヌ、下種ハ可限ル因位ニ歟云々。妙楽丿本因果種丿釈ハ可也料簡ス云々。次ニ当宗丿意ハ以本門ハ品上行要付ヲ憑本尊卜為宗旨卜、此ノハ品丿意ハ以本果ヲ摂ニ本因ニ本因総在丿因果不二妙法蓮華経ヲ以テ付シ上行ニ、以上行本時娑婆世界ノ一切衆生並ニ末法悪人ニ可成ニ最初下種ヲ事ヲ説ク也。・・・如此丿娑婆有縁丿釈尊ハ一切衆生最初下種丿時ハ去テ本果ヲ移リ本因ニ成上行菩薩卜、娑婆ノ一切衆生ニ始テ成下種ヲ。又得脱丿時ハ去テ本因ヲ帰セリ本果ニ顕テ久遠丿釈尊卜衆生ニ成ス脱益ヲ。故ニ知ヌ、因果釈尊上行ハ其丿体同体一身ニシテ、其菩薩界常修常証無始無終、報仏如来常満常顕無始無終等卜云ヘル形也。

 師は、「法華経」の経文には上行等の本化菩薩に対する釈尊の本果下種しか説かれていないが、前に私が宗祖遺文の中における本因妙思想形成の要素のBとして「注法華経」の中から拾い上げた「文句記」巻一の「本因果ニ種シ」の文に依り、天台・妙楽は下種が本因・本果に亘ると釈しているが、当世の天台学者等は下種は本果に限ると誤った主張をしているという。しかも、下種の本義は因位の菩薩界にてなすものであり、また下種は人天に対して論ずるものであるのに、本果の衆生は三乗だけで人天の機かいないので下種の義が成立せず、それゆえ久遠下種は本因妙に限ると結論されている。そして、最後に当宗の意としては本果を本因に摂し、本因妙の上行菩薩が本時および末法の衆生に最初下種をなすが、得脱の時は上行が本因から本果に移って久遠の釈尊となり脱益をなす、と説明されている。この末尾に見える「因果釈尊上行ハ其丿体同体一身」という表現は、後述する種脱一致の義を教主・仏身に約したものである。

 次に本因妙=上行菩薩の義については「五帖抄」第二の『九 本門十妙事』の中に、次のように問答されている。

尋云、御抄丿中ニ以上行菩薩ヲ為本因妙卜事有レ之、其丿相如何。答、観心本尊抄ニ被遊之也。本門丿意ハ因果本有ニシテ釈尊地涌ハ同体丿師弟ニシテ一身因果也。釈ニ其菩薩界常修常証無始無終、報仏如来常満常顕無始無終以上。其菩薩界ト者本有地涌也。報仏ト者本果釈尊也。此師弟同体常恒ニシテ無始無終也ト云フ処ハ本因妙菩薩界即地涌也卜聞タリ。

 ここには本因妙=上行菩薩を説明しているのは「観心本尊抄」であると明示されている。それ以上の具文は指定されていないが、おそらくやはり前に私が宗祖遺文の中における本因妙思想形成の要素のAとして取り上げた

経ニ云ク、我本行菩薩道所成寿命今猶未盡、復倍上数等云々。我等カ己心丿菩薩等也。地涌千界丿菩薩ハ己心丿釈尊丿眷属也。・・・上行・無辺行・浄行・安立行等ハ我等カ己心丿菩薩也。

の段を指したものと思われる。この本因妙=上行菩薩の義については、おそらく天台・妙楽等の釈義からは証することはできないので、かなりの難問かと思われるが、日隆師の著作の一部を見た限リではそれほど証明の労も取られておらず、少し意外の感がある。

 最後に種脱一致の義を紹介しておくと、先の日要師の批判の中に「観心本尊抄」の一文に対する読み方の問題が指摘されていたが、それに関しては「玄義教相見聞二帖抄)」に

恐ク尼崎流丿御抄本書丿義味ハ先代未聞希有丿正義也云々。仍テ観心本尊抄ニ一品二半ト与丿八品意ヲ釈スル時、在世本門与末法之初一同純円也云々。此丿意ハ在世丿本門一品二半ハ大イニ異ニシテ爾前迹門丿円妙丿実相丿王女ニ、実相丿王女ト与久遠釈尊丿国王丿父通イテ父国王丿仏種子ヲ相継テ、脱益成仏スル久遠父母子丿仏界ト与九界本因本果互具之三千妙法蓮華経ヲ説テ八品ヲ付シ上行ニ、時ヲ定メテ末法卜故ニ在世末法丿種脱丿異ハ有レトモ、 其丿法体ハ同キ之故ニ一同ニ純円也トハ釈シタマフ也。此丿義ナル時ハ、彼丿脱ハ此丿種ト文点ヲ可キ成ス也。准シテ之ニ下ヲモ、彼ノ一品二半ハ此丿但題目丿五字也ト可キ読也云々。如ク此丿成スモ文点ヲ、又彼ハ此ハト読ムモ其丿意同シ之。此丿点ハ常差別丿義ヲ顕シ、彼ハ此丿之点ハ常同丿義ヲ顕ス也。所詮一品二半ト与ハ品一妙之上丿種脱、在世滅後也。故ニ一法丿二義卜可キ得意也。

と記述されている。これは「観心本尊抄」の

在世丿本門卜末法之初ハ一同ニ純円也。但シ彼ハ脱、此ハ種也。彼ハ一品二半、此ハ但夕題目丿五字也。

という文を、日隆師は「彼丿脱ハ此丿種」「彼ノ一品二半ハ此丿但タ題目丿五字」と読むべきと主張し、その結果として種脱は一法の二義であり、在世・滅後という時期に約したものと説かれている。これは日隆師の立てる種脱はあくまでも「法華経」本門の教相内で立て分けられた種と脱であって、右述のように、久遠と末法には上行・日蓮として下種を施し、在世の本門には釈尊と現われて同じ法をもって脱益を与えると説明される。これに対して、日興門流では種脱の法体の違いを主張し、種勝脱劣として下種益の上行・日蓮を選び取っていくことは前述のとおりである。


おわりに


 これまで、日興門流において本因妙思想および種脱本迹論かどのように形成されていったか、という問題を考察するための前提の材料提供の意として、「本因妙抄」「百六箇抄」の両抄および日有・日教・日要の三師の本因妙思想のあらましと、宗祖晩年の教学体系の実際との関係や宗祖および滅後上代での思想形成の要素、さらに慶林房日隆師およびその本因妙思想との交渉の一端を紹介してきた。

 その中で私が強く印象付けられたのは、教学に対して化儀が持っている規制力の強さである。つまり、極端にいうと「最初に化儀ありき」で、教学はその後から付いてくるという印象である。例えば、建武元年(1334)正月7日に大石寺で日仙・日代両師が中心となって方便品読不読の論争が演じられたが、これなどもおそらく派祖・日興師による方便・寿量の二品読誦という化儀の大前提があり、その教学的な説明を一体どのようにするかという問題がかなりのウエートを占めていたと考えられる。同論争には当事者である日仙・日代の両師の外に大石寺日道師・重須日妙師・上行院日尊師などが直接および間接的に関与しているが、それほどに教学的な定見の一致を見ていなかった証拠であるともいえる。さきに同論争の中で表明された、真実の得益は寿量品文底の本因妙にあるという日代師の意見に言及したが、一部には迹門得益を立てたことから「本迹一致の迷乱」と評された日代師がもし本当に本因妙得益を主張していたとなれば、化儀と教学の乖離を非常に特徴的に示す現象と言えるかも知れない。けれども、これは方便・寿量の二品読誦という化儀の宿命のよなものであり、後世においても日要師がその本因妙思想に基づいて寿量品不読誦に言い及んでいることは、既に見たとおりである。

 さて、本題の本因妙思想形成過程の問題であるが、こちらの方はやはり慶林房日隆師との関連が一番大きなウエートを占めているように思う。「本因妙抄」と「百六箇抄」の関係を述べた中で触れたように、この両抄自体も日隆師の義を受けて成立している可能性もあるので、両抄の所説に全面的に依拠している左京日教師を含めて、すべて日隆師の存在を念頭に置いて考え直す必要かあると思われる。

 日隆師の略伝をさきに紹介したが、日隆師の化法・化儀の両面にわたる教義が確立したのは応永30年(1423)頃であったと推測されている。とすれば、その頃に京都およびその周辺で成立して話題になりつつあった日隆師の本因妙思想の影響で15世紀中頃に「本因妙抄」そして「百六箇抄」か出来上かり、一方大石寺日有師も日隆師の教学に示唆されて不造像・不読誦の化儀を説明する本因妙思想を構築した。左京日教師は早く本因・百六箇の両抄を重んじながらも、日有師の化儀と教学の整合性を受け入れて富士に赴き、日隆師の教学の摂取に熱心であった日郷門流の日要師は、さらに本因妙・百六箇の両抄と日有師の本因妙思想等を合わせ受けて、一種の思想的成熟期に入りつつあった。今のところ、以上のような展望を私は持っでいる。

 本稿は、宗祖とその滅後200年ほどの長期にかけて、日興門流の本因妙思想かどのような流れで形成されていったか、そのおおよその概観を示さんとするに急で、日有師以前の教学、たとえば三位日順師の所説などに対する細かい検証や、同時期の中古天台教学に対する言及もできなかった。また、慶林房日隆師の義についても、ただ本因妙思想の一部に触れるに止まって、その教学体系全体の中での位置付け等はなおざりになっテしまつた。これらの細かい作業等に関しては続稿に譲りたい。

 

 

 

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日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(2)


 

                     
目次


はじめに


第1章 門流上代における教学的付加について

1、日興「本門弘通事」「三時弘経次第」「原殿御返事」「申状」

2、「五人所破事」「富士一跡門徒存知事」

3、日目・日代・日妙・日尊・日郷・日道・日順・日行「申状」、日道「御伝土代」

4、日仙日代方便品読不論争間係諸書

5、日尹「日代上人二遣ス状」・日代「宰相阿闍梨御返事」

6、日順「表白」「用心抄」「日順阿闇梨血脈」「誓文(表白文)」「心底抄」「摧邪立正抄」「日順雑集」

7、日満「日満抄」・日大「尊師実録」「日大直兼台当間答記」

8、日睿「本迹問答十七条」「後信抄」・日伝「大綱深秘抄」

9、小結


第2章 慶林房日隆師の本因妙思想

1、教学体系の概要と本因妙思想

2、五味主の法門について

3、本因妙思想成立への三つの難関

@本果妙釈尊の本因妙が上行菩薩であること

A上行菩薩が一切衆生に下種すること

B久遠下種が本因妙の下種であること

4、小結


おわりに

 

 

 

 


始めに


 私は当誌前号に「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(1)」と題して、「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書および日有・日教・日要の三師の本因妙思想の概略と、宗祖晩年にきざした教学体系の実際との関係、また宗祖と祖滅後上代での思想形成の要素や慶林房日隆師の本因妙思想との交渉の一端などに触れて、日興門流において本因妙思想および種脱本迹論がどのように形成されてきたか、という問題考察のための材料提供を試みた。

 その結果として、応永30年(1423)頃に成立しつつあった日隆師の本因妙思想の影響を受けて、15世紀中頃に京都周辺で「本因妙抄」「百六箇抄」か作製され、一方大石寺日有師も日隆師の教学にうながされる形で不造像・不読誦の伝統化儀を肉付けする本因妙思想を構築したこと、左京日教師が本因・百六箇の両書を学びつつも[日有師の化儀と教学の整合性に帰伏して富士へと赴き、日隆師の本因妙思想を積極的に摂取した日郷門流の日要師は両巻血脈書と日有師の教学を合わせ学んで、日興門流の本因妙思想を大枠で形成したこと等の展望を呈示した。

 本稿では、右の展望を補説する意を含めた材料提供として、宗祖滅後から紀元1400年頃にかけての日興門流上代において、宗祖の教学体系にどのような付加作業が行われたかを検証して本因妙思想形成への動きを探ると共に、前稿で非常に中途半端な形でしか触れられなかった日隆師の本因妙思想について、その教学全体における位置づけ等とあわせて再論してみたいと思う。




第1章 門流上代における教学的付加について

 当章では宗祖入滅以後、明確な形で本因妙思想が見えはじめる日有・日教・日要等の諸師に至るまでの上代における主な著作(少数の書状を含む)を取りあげ、そこにうかがえる本迹観や本尊観、宗祖の位置づけや師弟子の義、そして方便品読不の問題や本門寺および富士山の強調などの義を摘出してみたいと思う。その結果、日興門流上代では宗祖の教義体系にどのような教義的な付加作業が行われ、それらの付加された諸義が果たしてその後の本因妙思想といかなる関係にあるのか、少しく考えてみたい。


   1、日興「本門弘通事」「三時弘経次第」「原殿御返事」「申状」

 最初に日興門流の派祖・日興師の諸篇を取りあげてみると、そこで最も明確な形で主張されているのは、天台・伝教の像法所弘の法華迹門に対して、上行菩薩の再誕・日蓮が末法に出現して法華本門を弘通するという天台と日蓮の本迹違目の立て分けである。これは宗祖が「開目抄」や「観心本尊抄」等で明示した「法華経」本門に足場を定めるという義や、滅後末法に地涌の菩薩が出現して妙法蓮華経の五字を弘宣するという断案に、上行菩薩=日蓮という定義を明確化して構成したものであるが、「本門弘通事」や「三時弘経次第」ではさらに比叡山の迹門寺に対する富士山の本門寺という立て分けか示され、「申状」諸本には爾前迹門の諸法を対治して法華本門の正法を立てることにより、国土の安穏が実現するという認識が述べられている。ただし、種熟脱の三益に準じた天台の像法熟益に対する日蓮の末法下種益という対比は見えず、また釈尊およびその脱益義についての言及も見ることはできない。

 次に、目興師が正応2年(1287)春の身延離山に至る経緯を記した「原殿御返事」には、離山の主因たる波木井日円師の謗法三箇条が示されているが、その内の釈尊一体仏の造像について、それが上行等の脇士がないために始成正覚の釈尊となり、久遠実成の釈尊を尊崇された宗祖の本意に反すること、そして諸条件が整って久成釈尊の木像を造像するまでは、宗祖図顕の十界曼荼羅を本尊と安置すべきことか記されている。これは「法華経」本門の説相に準じて、久成の釈尊(形態としては一尊四士像)を末法の本尊と定め、それと十界曼荼羅本尊との関係係を述べたものであるが、同書状にはまた

改心の御状をあそはして御影の御宝前に進らせさせ給へと申候。

自何御影の此程の御照覧如何。

ともあるように、日興師が主管していた身延久遠寺の堂内には宗祖御影像が安置されており、それはその後大石寺を経て重須本門寺に移住した日興師の諸書状に見える「聖人御影の御宝前」等という表現へと受け継がれている。

 また、この「原殿御返事」では民部日向師をはじめとする五老僧たちは「御弟子悉ク師敵対せられ候ぬ」と断じられ、その結果「日興一人本師の正義を存して本懐を奉遂候へき仁に相当て覚候」という、宗祖日蓮の正義を日興一人か継承するという強い自意識か記されている。これは本来、教義というよりは危機的状況で醸成された義務感とても言うべきものであったが、その後次第に大きくクローズアップされて、日蓮・日興の師弟子の義という形で強調され、日興門流の形成と展開の陰の原動力となっていった。


  2、「五人所破事」「富士一跡門徒存知事」


 「五人所破事」は、日興門流の当初から現在に至るまで、あらゆる意味で最も門流の根幹を明示した教義書として重要視されてきたものであるが、今は日興師の意向を受けて三位日順師が撰述した書という認識の下に取りあげ、あわせて成立経緯は不明ながら内容的な類似性を持つ「富士一跡門徒存知事」を勘合してみたい。

 「五人所破事」は「六人立義草案」とも呼ばれ、その名称から察せられるように、宗祖定置の六老僧の内、日昭・日朗・日向・日頂・日持の五師の立義を日興師の正義から破折するという形をとっている。まず、五師がそれぞれの「申状」で「天台沙門」と自己規定し、宗祖に対しても「天台の余流を酌む」という認識を示したことについて、それは前項冒頭に挙げた「天台・伝教の像法所弘の法華迹門に対して、上行菩薩の再誕・日蓮が末法に出現して法華本門を弘通するという天台と日蓮の本迹違目の立て分け」に迷うものと断定し、末法適時の法華本門の立場から中国・天台山に対して日本国・富士山、梵漢両字に対して仮字の消息の採用を主張している。また、末法の本尊については十界曼荼羅本尊を明示し、宗祖随身の一体仏に執着する者には一時の方便として上行等の四菩薩を造り加える旨を指示している。また、修行法としては正像二時の摂受行に基づく「法華経」の一部読誦に対して末法の折伏行の単唱題目を選択し、例時勤行の方便・寿量の二品読誦の内、迹門方便品の読誦についての天目師の疑難に対しては所破・借文の二義をもって会通している。この所破の義について「若し所破のためというならば、念仏をも申すべきではないか」と天目師か非難したことに対して、

誠ニ迷四重之興廃ニ、悉ク未知三時之弘経を。重畳之狂難、嗚呼之至極也。

と「四重之興廃」の語が用いられている。この四重興廃とは日本中古の天台教学を代表する教判で、もとは天台智の「法華玄義」巻二上の絶待妙を釈する文に基づく義であるが、釈尊の教えを爾前・迹門・本門・観心の四つに分け、前劣後勝に相対して順次次第に興廃を論じ、最終的には観心を最勝とする教判である。

 「五人所破事」の右文は同じく「四重丿興廃」を記す後述の「日満抄」の文脈と類似しているが、「日満抄」が本迹未分の観心重にまで言い及ぶのに対して、この「五人所破事」ではあくまでも迹門と本門の両重の対比のために用いられており、それ以上の教学的な発展には触れられていない。本書ではこの他、祈国の禁止、神天上法門、本門戒の依用、日興一人の正義などが述べられている。

 一方、「富士一跡門徒存知事」も法華本門の立場から「五人所破事」とぼぼ同じような内容となっているものの、絵像・木像の仏菩薩ではなく妙法蓮華経の五字たる聖人自筆の本尊を選び取るという二者択一の態度が鮮明に示されている。しかし、末尾追加八箇条で諸師が盗み取った「日興所立の義」の具体的内容として、神天上法門と共に四菩薩の造り副えか挙げられており、法華本門の立場から一尊四士像が許容されている。また、宗祖御影の絵像・木像を図顕・造立する目的が、宗祖の面影を後代に知らせるためと説明されている。

 以上、前項と当項の考察から、門流の祖・日興師の教学的主張のあらましを知ることができるが、その本迹観に問して補足すれば、本迹そのものの立て分けは「法華経」前半十四品=迹門、後半十四品=本門という通常の経に約した本迹二門に準拠し、その上で正像末の三時弘経次第のルールにのっとって像法の天台・伝教の迹門為本に対する末法の上行・日蓮の本門為本という図式か示されている。しかし、宗祖教学の非常に大きな特徴である化導の始終、つまり種熟脱の三益に対する言及はほとんど見られず、それゆえ宗祖が「観心本尊抄」に説かれた「彼れは脱、此れは種」という対比を取りあげて、釈尊を相対化するという作業も当然行われていない。上行・日蓮の選び取りはあくまでも像末二時の相対に基づく天台・伝教との比較の結果にとどまり、たとえば宗祖が釈尊との対比の中で示した摂受・折伏の立て分けなども、「五人所破事」では五老僧および天台家の一部読誦か五字題目かという修行の当否を論ずる中で用いられているのみである。

 そして、このように日興師が釈尊の相対化に論及していないという事実は、その本尊観にも如実に反映していると判断される。つまり、多少の揺らぎを見せながらも、宗祖図顕の十界曼荼羅本尊と共に釈尊および上行等の一尊四士像が末法適時の本尊として許容されている理由は、まさしくこの釈尊の非相対化にあると言える。また、宗祖御影像を明確な形では本尊と定義せず、その造立目的を宗祖の相貌を後人に伝えるためとするのも、全く同じ理由によるものと考えられる。ただ、この御影像に関しては、素朴な祖師信仰という力添えを得て、その後次第に本尊格へと昇華していったものと想定される。


  3、日目・日代・日妙・日尊・日郷・日道・日順・日行「申状」、日道「御伝土代」

 日目師から日行師までの8師の「申状」をここにまとめたが、それは8師ともに派祖・日興師の「申状」の主張とその内容をほとんど同じくしていることによる。右述したように、仏滅後三時の弘経次第に準じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退冶し、末法適時の法華本門の正法たる妙法蓮華経を立てて、国家天下を安穏ならしめんことを奏上する主旨となっているか、そんな中で日目師と日行師の「申状」に本門の正法の内容として本尊・戒壇・題目の三大秘法が示され、日代師の「申状」に仏法王法一体の理に基づいて日本第一の霊峰たる富士山に正法が弘通されんことかが奏進されており、少しく注意される。

 次に、日蓮・日興・日目の三師の伝記を収めた日道師の「御伝土代」の日興伝の中には、「日興上人御遺告」として、

1、大聖人御書和字タルベキ事 1、鎌倉五人天台沙門無謂事 1、一部五種行過タル時を事

1、一体仏事 1、天目力方便品不可読立大謗法事

と、五箇条の事書が示されているが、その後に見えるそれぞれの内容は、前項の「五人所破事」に述べられているものとぽぼ同じものと判断される。ただし、「1、天台沙門被号申状大謗法事」との事書の下に法華本門の三宝を述べる中、仏宝について

本門教主ハ久遠実成無作三身寿命無量阿僧企劫常住不滅我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数ノ本仏也

と記されている。ここに見える無作三身という成語は、日本天台の祖・最澄の「守護国界章」巻下に

有為丿報仏ハ夢裏丿権果、無作丿三身ハ覚前丿実仏ナリ。

とあり、人為を加えず本来おのずからの三身を具備した法華円教の仏の意で、あくまでも久遠実成の釈尊のとして初めて説かれたものである。しかし、その後の中古の天台家諸師によつて実修実証の仏に対す未修未証の凡夫こそ無作三身の本仏であるという理即本覚義を示した語という理解の下に注目され、さらに法界の森羅万法も無作三身の顕われに他ならず、そのままの姿にて常住不変であるという仮諦常住義へと展開して、その本覚法門を強く推進する重要素となっていつた。

 周知のとおり、宗祖の真蹟現存およびそれに準ずる遺文には無作三身の成語は用いられず、十六篇程の写本で伝えられる遺文の中に散見れるが、その内の多くが中古天台教学の理即本覚の意味合いの下に使用されているところから、それぞれの遺文自体の真偽問題がこれまでに論じられている。しかるに、右の「御伝土代」に見える無作三身の用例は、一見して分かるように久遠実成の釈尊に対する説明として用いられており、あくまでも最澄の意図に準じた用い方であるといえる。



4、日仙日代方便品読不論争関係諸書

 派祖・日興師帰寂の約1年後の建武元年(1334)正月7日、富士大石寺の日仙坊(上蓮坊)において日仙師と日代師の間で「法華経」方便品を読誦するか否かという論争が行われた。論争の争点は、爾前迹門を破して法華本門を立てながら、どうして迹門の方便品を読むのかという一点にあったが、右述のように爾前迹門を破して本門を立てるという義は日興師が宗祖の本門為本によって最も強く主張した教義であったし、また方便・寿量の二品読誦も宗祖および日興師の定置した日々の勤行所作であった。先に触れたように、「五人所破事」巻末には天目師が日興師に対してこの両義を自語相違と非義し、それに応じて日興師が所破・借文の二義を挙げて会通を加えた旨が記録されているが、結局はその問題が滅後に持ち越されて当論争に至ったものと想定される。

 この日仙・日代の両師の問答とそれに関連する諸師の主張については多くの史料に記録されている。今はその主なものから注目点を検証してみるが、問答そのものの記録としては日満師と日容師のものが遺されている。

 まず、日満師の「方便品読不之問答記録」には、日仙師が爾前迹門に得益なく本門寿量品にて出離生死するという「薬王品得意抄」の意によって方便品の不読を主張し、そこから方便品得益の有無を質したのに対し、方便品読誦を説く日代師は与奪破の三義を立てて、「与丿意の分、一往於テ文上ニ雖明スト得益ヲ、奪破双意の分、再往於テ文底ニ無シ得益」と文上得益・文底無益を述べ、「真実丿得益ハ者限ル寿量品丿文底丿因妙ニ也」と答えている。この最後の久遠本因妙に真実の得益があるという日代師の発言については、当誌前号の拙稿にて滅後上代における本因妙思想形成の要素の一つとして取りあげたが、同記録の中でこの一文だけが突出し、その周辺を含めた詳しい状況が不明であるために、その取り扱いが非常に困難であることは前記のとおりである。本因妙思想が構築されるためには、その前提として種脱本迹論が必要であることは前稿にも触れたが、当文の場合はその種脱の介在なしに本因妙思想が示されている印象があり、やはりそのままの意で受け取ることは難しいと判断される。一方、日容師の「日仙日代問答」には日仙師が「申状」の意により迹門不読誦を述べたが、それは天目・日弁両師の立義と同じであること、それに対して日代師は鎌倉方と同様に迹門得益を立てた旨が記されている。

 この両書の他に、文献としては取り扱いに少しく注意を要するものながら、「大石記」には日仙師が迹門無得道のゆえに不要・不読という義を強く立てたために、それを教訓しようとした日代師が迹門を助け、その得道に触れていくなどしている内に、何時しかいきおい迹門得道の法門の主張になったという具体的な描写がなされている。また、日代師が為本施迹・開迹顕本・廃迹立本の三義の内、施迹の分には迹門を捨てない旨を述べたのに対して、大石寺日道師が施開廃の三義ともに迹門は捨てる由を示し、それを諸師が支持したさまが記録されている。
 次に周辺史料に目をやると、日容師の「後信抄」は日容師が師の日郷師より受けた法門を類聚したものであるが、その中に日代・日助の両師が諸法実相の理には本迹の区別はないと主張したのに対して、日道師が実相の本勝迹劣を立てたことが記されている。また、慶俊師書写の「問答記録」には日代師の義として迹門も開会の後は本門と功徳が斉等なるゆえに迹門得道にして方便読誦と見え、日大師の「尊師実録」には日代師等の河合方が「本に即する迹」ゆえに方便読誦と立てたこと、さらに所破のための方便品読誦を否定して心法妙所具の三法妙を方便品・寿量品・首題に配して読誦するという日尊師の解釈が示されている。

 以上、日仙・日代両師の方便品読不論争とそれにまつわる諸師の義を概観してみたが、おおよそ日代師の義が非義と判定されたことにより、主に本迹二門の実相同に基づく迹門得益は否定され、本迹の実相には勝劣があり、それゆえ迹門には得道はないという本迹勝劣義がこの時点で確認された。また、日仙師の方便不読の主張が「五人所破事」で日興師より「逆人」と評された天目師の異義と同じであるところから、宗祖および日興師以来の方便・寿量の二品読誦が伝統の化儀として、この論争を通じて再確認されたと言える。


  5、日尹「日代上人ニ遣ス状」・日代「宰相阿闍梨御返事」

 日尹(印)師は京都弘教の日尊師の弟子であるが、康永3年(1344)7月にこの頃に重須を退出して河合・西山辺に居住していた日代師に書状を呈し、釈尊造像についての見解を求めた。その「日代上人ニ遣ス状」によれば、日尊師がある人より寄進された釈迦立像と十大弟子を京都・上行院に安置したところ、富士門流の人より宗祖・日興・日目の三師に釈尊造立の事実がなかつたこと、そして「本尊問答抄」の意により形像の本尊は不可であるという疑難がもたらされた。これに対して、日尊師は「観心本尊抄」「報恩抄」の仰せから虚空会八品の諸尊悉皆の造像が本意であるが、料足微少により宝塔造立できないので、今は四菩薩のみを造り副えたと答えている。日尹師はこのような師義について、広宣流布已前は謗法呵責の折伏行に専心すべきであり、仏像造立の摂受行は広宣流布して本門寺が建立された以降のことであるという私案を示し、日代師に実義の教示を請うている。

 日代師の書状「宰相阿闍梨御返事」は、そんな日尹師の意見を追認する内容となっており、国主が帰依し、勅裁により本門寺(戒壇)が建立された時に本尊図のとおりに仏像を造立することが指示されている。そして、宗祖が随身の一体仏を墓所の傍らに立て置けと遺言し、円寂時に臨滅度時の曼荼羅本尊が枕頭に懸けられたという事実を挙げているところからは、末広布時の曼荼羅本尊安置が述べられていると考えられる。

 以上のように、この往復書状のテーマは釈尊をはじめとする仏像造立にあり、これは叡山天台宗や日蓮法華宗諸派が雲集する京都にあつて布教する日尊門流には特に重要な問題であった。見てのとおり、問題自体は前記の日興師の一尊四士像という状況よりさらに複雑になっており、造像問題に関連して広宣流布や本門寺および戒壇のこと、曼荼羅本尊の位置づけなどが述べられている。


  6、日順「表白」「用心抄」「日順阿闍梨血脈」「誓文(表白文)」「心底抄」「摧邪立正抄」「日順雑集」

 右掲の「五人所破事」が日興師の意を受けて日順師が撰述した書と考えられるように、日興門流教学の形成に日順師が果たした役割は非常に大きく、またその影響は広く他門にまで及んでいる。それゆえに本因妙思想との関連もより大きいがと予想されるが、さて実際はどうであろうか。

 まず、その本迹観をうかがつてみると、日興門流伝統の本勝迹劣を明示した上で、その勝劣が実相の勝劣である旨を説き、天台釈の「本迹雖殊不思議一」も本門にて開近顕遠された迹門の理の当体が本門の理なるさまを「不思議一」とは言うが、それは本迹の理が同一であるという意ではないと断っている。この本迹二門の実相の相違についてはこれ以上の説明がなく、具体的な内容については不明であるが、これに繋がる義としては迹門=不変真如、本門=随縁真如という配当が示されている。これは最澄が華厳教学を摂取して以来、日本天台にて伝統的に説かれる本迹二門の立て分けであるが、転迷開悟・断惑証理を説く迹門では凡聖が隔絶し、その悟りの理も現実から遊離した不変真如の理実相であるのに対して、当位即妙・不改本位を明かす本門では現実的具体性がそのまま真理の本体であるという随縁真如の事実相である、という法門である。この随縁・不変の両真如は「立正観抄」をはじめとする写本伝来遺文には見えるものの、真蹟現存およびそれに準ずる遺文では言及されておらず、特に両真如を本迹二門に配当するという作業に関しては、日順師が日本天台教学を学習した結果の教学的付加作業の一つであると言える。

 次に、方便品読誦の理由については所破・借文の二義を挙げ、借文の文拠としては主に「下文顕已通得引用」を示すも、日興師の教示として「但所破と云うべし、迹を借りて本の助に置くとは云うべからずと仰せあるなり」とあり、借文による方便読誦には細心の注意が促されている。これはおそらく、右のように一往本迹の実相の違いを説きながらも、「迹を借りて本の助に置く」と言明すると、それは本迹の実相同と誤解されかねないという心遣いからの教示であろうと考えられる。そして、これは本来、迹門為本の本迹一致を主説する天台教学に拠りながら本迹の勝劣を立てることの難しさをよく表しており、前記の日仙日代方便読不論争の複雑さの真因もこのあたりにあるものかと想定される。

 本尊観に関しては、まず「日順雑集」には

聖人は造仏の為の出世には無し、本尊を顕わさんが為なり。

とあり、宗祖出世の本懐が造像ではなく曼荼羅本尊の図顕にあるという認識が示され、その曼荼羅本尊の内実が空仮中の三諦義により説明されている。そして、この本尊を敬礼して題目を唱え、所礼の本尊を境と定め能礼のわが色心を智となして、境智の不二一体を観見すれば即身成仏が成就すると説かれている。また、所図の曼荼羅本尊が宗祖の己証であり、それが「誓文(表白文)」では「本尊総体之日蓮聖人」と表現されている。この後者の一文については、当誌前号の拙稿において滅後の門流上代での本因妙思想形成の要素の一つとして指摘したとおり、曼荼羅本尊をそのままで日蓮聖人と拝するならば、それは日蓮聖人を本尊とし、末法の教主として信尊しようとする本因妙思想への道を拓くものと言えよう。

 一方、「心底抄」には本門久成の定恵たる本尊と題目が広宣流布したならば、本門の戒壇は必ず建立されるべきであり、その中には本尊の図のごとく仏像を安置するという広布造像の義が示されており、これは前項の日代師の主張と同じであるが、「擢邪立正抄」には

日興上人独リ卜シテ彼山ヲ居リ、対治シテ爾前迹門丿謗法ヲ欲シ建ント法華本門丿戒壇ヲ、奉テ安置シ本門之大曼荼羅ヲ当ニ唱フ南無妙法蓮華経卜、公家武家ニ捧ケ奏聞ヲ道俗男女ニ令ム教訓セ、是レ即チ大聖之本懐御抄分明也。

と戒壇安置は曼荼羅本尊であると理解できる一文もあり、この両義の関係がどのようにあるのかは説明されていない。

 また、「日順雑集」には

然ラば此丿日本国は久成の上行菩薩の顕われ玉ふべきなり、然ルに天竺の仏は迹仏なり、今日本国に顕われ玉ふべき釈迦は本仏なり。

とあり、日本国に出現する久成の上行菩薩とは宗祖のことであろうが、本仏としてやはり日本国に現れる久成の釈尊とは本尊としての出現であろうか。さらに、「日順阿闍梨血脈」には日興一人の正義継承から「無辺行丿応現歟」と推測されているが、これは日蓮・日興の師弟義の別表現として「本因妙抄」末尾に示される相承図に引き継がれている。

 この他、日順師の教学で注意されるのは中古天台教学の摂取である。不変・随縁の真如論の受容については右に触れたとおりであるが、無作三身の成語も法華本門の久成の義を含みながらも、十界の理顕本を示す語として用いられている。また、「日順雑集」に見える「蓮華因果丿事」はあきらかに中古天台恵心流七箇法門の略伝三箇の第三・蓮華因果を借用したものであるし、その次に見える「本迹不同丿事」も七箇法門の中で蓮華因果の下に被摂法門と共に置かれる算題である。



7、日満「日満抄」・日大「尊師実録」「日大直兼台当問答記」

 日満師の「日満抄」は、また中古天台の本覚法門が全面に表れた著作であり、中には「天台一宗の相伝」として宥海の「肝心要義集」の文が数箇所引かれている。本迹の同異としては二門の実相の違目が「迹門=心実相・不変真如・理の一念三千・理円・従因至果」「本門=色実相・随縁真如・事の一念三千・事円・従果向因」と明了に立て分けられているが、これも中古の天台教学での説明をそのままに借用したものである。門流の異義について、

於テ無二無三丿所立ニ亙ニ雖存スト異義ヲ、恐ハ迷惑シ三種丿教相ニ悉ク不弁へ四重丿興廃ヲ、暗シテ先師丿廃立ニ動スレハ我執僑慢ヲ為ス先ト。

とあり、三種教相と共に爾前・迹門・本門・観心の四重興廃を挙げているところから、本迹を立てながらも最終的には本迹未分の観心重が本意と説かれている。また、三千塵点・五百塵点仮説の理顕本や凡夫本仏としての無作三身が示され、法華本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法も右に触れた七箇法門中の略伝三箇(円教三身・常寂光土・蓮華因果)を相伝した上に得意すべしと述べられている。本書には延文4年(1359)の民部日盛師の写本が現存し、それを大石寺日時師が相伝している等、富士周辺で学習・活用された様子が見え、門流上代の研鑽傾向の一端を窺うことができる。

 日大師の「尊師実録」は、日尊師の仰せを弟子の日大師が記録したものであるが、前述のように、日尊師は方便品読不に関して所破のための読誦を退け、心法妙所具の三法妙として方便品・寿量品・首題の読誦を説いている。そして、迹門を破して本門を立てることを宗祖出世の元意としながらも、

一往前十四品後十四品ヲ分ケ給フ事爾也トイヘドモ、再往迹本互二通ズル事有之、此即本有具徳丿迹妙本妙観心妙也。

と観心における本迹の融通を示している。また、本尊義についても日興師の言葉として「広宣流布ノ時分マデ大曼荼羅ヲ可シ奉ル安置シ云云」と記録しながらも、みずからの意見としては本門久成の一尊四士像(略本尊)を造立して広宣流布を待つことを指示している。この他、身延参詣の許可や宗祖本尊の形木の授与を示すなど、日尊師の立義の中に派祖・日興師の義に反する傾向のあることは否定できない。

  「日大直兼台当問答記」は貞冶2年(1363)暮れから翌年正月にかけて、日大師が叡山の総探題・直兼師と論談したものの記録であるが、主に日大師が日蓮および日興門流の義を提示し、その可否を直兼師に質する形となっている。すなわち、迹門を破して本門を立てる義や第五の五百歳の本門流通、本門戒壇の建立や心法所具の三法妙の事相勤行などは、そのまま直兼師の賛意を得ているし、方便品読不について示した師匠・日尊師の本迹表裏融通義に基づく方便読誦についても「神妙神妙」と評価されている。そもそも、 本書成立の条件として日大師に代表される日尊門流の教学が、日興門流の本門為本を軟化させて天台義に与同する面があることは否定できず、それは同じ日大師の「即身成仏事」や「三種法華事」という著作などにも色濃く反映されている。それでも、日大師が提出した

一心三観一念三千ハ熟脱ノ法門卜可云云云。題目弘通ハ本門下種卜可云レ之。

という三時・三益による立て分けについては、直兼師はさすがに「入門丿不同也」と異義を呈している。なお、本書末尾にて、直兼師が天台大師の法華相承について霊山薬王相承と多宝塔中牟尼相承の二種を示し、それに対応する形で日蓮の霊山上行相承と塔中直授相承を立て、日大師がその義をそのまま用いていることについて、執行海秀氏が「従つてその思想の根底には、宗祖の上行応化説より一転して、宗祖本仏論へと展開し得るものがある」とコメントしているが、どうであろうか。前稿にでも述べたとおり、日興門流の宗祖本仏論は主に上行の本因妙下種の義に基づいて構築されていると考えられる。



8、日睿 「本迹問答十七条」「後信抄」・日伝「大綱深秘抄」

 日睿師の「本迹問答十七条」は建武(1334〜8)の頃に、日向国塩見にて弘教していた六条門流の日祐師が近くの早田で法義を立てていた日興門流の道証房に17条の難問を提出したところ、道証房がその義に屈伏して六条門流に改衣してしまつたので、その傍らから日睿師が返答したものを記録した書である。内容は専ら本迹一致を主張する日祐師が迹門および方便品の得益を種々言いつのるのに対して、日睿師が迹門を破して本門を立てる日興門流義より破折を加えているが、そんな中、まず宗開両祖の方便品読誦は所破のためであること、本門開会の後は迹門の名字なく唯妙法五字であること、そして迹門得益と見える衆生も久遠下種を基点とすれば再往は本門の得益であることを述べ、本迹実相間の一致論に対しては実相の勝劣を言明していることなどが注意される。

 同じ日睿師の「後信抄」は、日睿師が再三九州より関東に赴いて師の日郷師より受学した諸義に私義を加えて編さんしたものであり、統一した内容を持つものではないが、本門の実相を本とすることや迹門=不変真如・凝然常住・理円・理具・理観と本門=随縁真如・縁起常住・事円・事具・事観という立て分け、迹門得益が再往は本門得益であること、そして中古天台教学の理即本覚義等が散見される。

 最後に、日伝師の「大綱深秘抄」は主に本門の三秘である本尊・戒壇・題目について記述した短編であるが、本尊の本門とは十界曼荼羅本尊であること、戒壇院は七宝荘厳の多宝仏塔の形態にて建立し、院内には「法華経」を安置すること、そして末法にて本勝迹劣の正念を憶持することが本門戒体の正意であると説示されている。



9、小結

 以上、宗祖滅後から紀元1400年頃までの日興門流の諸文献をあらまし検証してみた。今、その結果とそれが本因妙思想の形成にいかなる関係を持つのかを示してみると、おおよそ次のようになるかと思われる。

 まず、本迹観については「法華経」前半十四品と後半十四品の約経の本迹が主説され、実相の違いによる本迹勝劣が説かれて、不変・随縁の両真如等の義により実相の違目が説明されている。しかし、途中に日興師の教学に対する感想の中でも触れたように、化導の始終たる種熟脱の三益についての言及はその後の諸師を含めてほとんど見ることができず、ただ日大師が天台止観の熟脱法門に対する題目弘通の本門下種を述べ、日睿師が久遠下種を基点とした本門の得益を主張したにとどまっている。よって、ここからさらに種脱の益異を内容とする本迹を立てて下種の本因妙へとたどり着くまでには少々懸隔があると判断され、それゆえ日代師が方便品読不論争の中で述べたとされる本因妙に真実の得益があるという義も、全くそのままで受け取ることは困難である。ただし、「五人所破事」や「日満抄」では中古天台教学から四重興廃義が摂取されていたように、日興門流でもかなり早くから本覚法門を主説する当時の天台教学を学習していた様子がうかがえるので、あるいはその辺から本因妙思想への道筋がつくのかとも想像されるが、これはあくまでも憶測に過ぎない。

 次に本尊観であるが、一往の現時点では曼荼羅本尊が尊重されながらも、一尊四士像の許容や広布造像論などが併存している。これもやはり、種脱本迹論によって釈尊を相対化し、脱益の釈尊像を退けて下種益の曼荼羅本尊を選び取るという作業が見えず、それゆえ本尊格として取り扱われていたであろう宗祖御影像もその位置づけが明瞭ではない。そう考えると日順師が示した「本尊之総体日蓮聖人」という語も、あくまでも曼荼羅本尊が宗祖の己証である旨を象徴的に示した語というだけの意味かとも考えられる。

 この他、日蓮日興の師弟子義や富士山の尊重、本門寺(戒壇)の建立などが主に観取されたが、これらは本因妙思想というよりは日興門流そのものの形成の重要素であると言える。

 このように見たところ、祖滅後の日興門流上代で行われた教学的付加作業の中で、本因妙思想の形成に繋がるものをこれと取り出すことはむづかしい。そして、このような次第であったから、結局は日隆師の本因妙思想を外部から導入しての日興門流での同思想の形成となったものかとも想像されるが、そんな中で注意すべきはやはり中古天台教学の存在である。同教学の観心主義や本覚法門には通常の教相の枠を簡単に乗り越える力があり、その力からすれば本果がら本因へと向かうことなど簡単であろうが、ただしそこには教学的な必然性が欠如している。そして、その必然性とはやはり種脱本迹論に求められるのではないかと考えられるのである。

 




第2章 慶林房日隆師の本因妙思想



 前稿では、日隆師の事跡および教学にごく簡単に触れて師の日郷門流との交渉のありさまに言及し、さらにその本因妙思想について少々詳しく述べてみたものの、まことに中途半端な形に終始した。周知のとおり、日隆師の教学体系は非常に大規模かつダイナミックで、そのすべてを一律かつ静止的に捉えることは非常に困難であり、とてもその力量に堪えないので、今はその概要等を示して本因妙思想の位置を確認し、次いで本因妙思想形成の難問とその解消の様子等について観察してみたい。なお、右のような次第ゆえ、前稿と多少重複する部分があることを前もつてお断りして置きたい。



1、教学体系の概要と本因妙思想

 最初に日隆師の教学研さんの基本的な姿勢を紹介しておくと、まず広く浅くという広学主義を退けて狭く深くという要学を旨とし、特に徹底した宗祖遺文中心主義に立つている。これは末代愚悪という時機の認識に基づき、広略を捨てて肝要を選択した宗祖の問題意識をそのままに継承した結果でもあるが、同時に当時の日本天台の本覚法門に強く影響され、天台三大部や宗祖遺文に対しても理即本覚の観心主義的解釈を施して止まない室町期の日蓮宗学に強い否定の態度を示したものであった。

 よって、天台三大部と宗祖遺文の関係についても、あくまでも遺文を能照・能開・能眼とし、三大部本末を所照・所開・所眼と規定して、宗祖日蓮の立場より天台・妙楽の文義を見ることを強く求めている。これは最終的には迹門の実相を足場とする天台義に依拠して、本迹の一致を主張する実相同体論考に対する批判であるが、日隆師はここから法華本門の立場から天台三大部を解釈することを主張している。つまり、三大部に表と裏を分け、表は天台・妙楽の外適時宜たる像法流通の迹門の意義を説き、裏には天台・妙楽の内鑑冷然の面たる末法流通の本門を顕わすとし、天台大師は本門の密意についてはみずから手を付けず、それを末法の宗祖に贈ったという独特の理解を示している。

 さらに、日隆師は数多い宗祖遺文の中でも「観心本尊抄」を最要と定め、「本尊抄」を中心とした統一的な遺文解釈を提唱しているが、これは同抄が滅後末法下種の本尊にして本門八品所顕上行要付の南無妙法蓮華経を顕説立証する総要書だからである。なお、日隆師が引用する同抄以外の主要遺文を列挙してみると、次の通りである。

「開目抄」「報恩抄」「四信五品抄」「唱法華題目抄」「曽谷殿御返事(焼米抄)」「立正観抄」「曽谷入道殿許御書」「観心本尊得意抄」「当体義抄」「曽谷殿御返事」「法蓮抄」「始聞仏乗義」「冶病抄」「本稟出界抄」「兄弟抄」「十章抄」「法華取要抄」「本尊問答抄」「守護国家論」「法華題目抄」「一代聖教大意」「如説修行抄」「法華宗内証仏法血脈」。

 このように、日隆師の教学の特色は、遠くは天台・妙楽の中国天台、近くは当時の日本中古天台との教義を区別して、宗祖遺文中心の宗学を組織しようとしたことにあり、教義的には独自の本門八品思想によって、台当の違目を分別したことにある。日隆師がその教学の独立を宣言したと伝える「法華天台両宗勝劣抄」四巻(通称「四帖抄」)は台当本迹を専論したものであり、この中で一部修行本勝迹劣、本門八品上行所伝の教義を明らかにしている。

 その本迹観を見てみると、日隆師は天台の本迹観は体用本迹であって、本迹の実相の体は全く同じという円体無殊説であるのに対して当家は久遠の昔と近成の今とを相対して、久遠の昔の方が勝れて近成の今の方が劣るという久近本迹に基づき、しかも本迹二門に勝劣を立てて法体的相違を主張している。そして、師の系統が八品派とよばれるように、「法華経」虚空会上の内、特に従地涌出品第15から嘱累品第22におよぶ本門八品において仏滅後末法への「法華経」の弘通が明かされるとする。つまり、「観心本尊抄」の説示に基づき、寿量品中心の一品二半は釈尊在世の脱益の機のために説かれた正説であるのに対して、本門八品はその中に上行菩薩への要法付嘱(別付嘱)が見えるように、仏滅後における下種の法門が説かれているとして区別する。

 そして、日隆師は絶待妙の上の相待妙を本門の正意とし、一品二半の法体は絶待妙不二の理にして本迹を分別せず無差別であり、それゆえに迹であるのに対して、八品所顕の要法は本迹相対した相待妙の事であり、正像二時よりも末法を本門の直機と定めた末法相応の教法で、それゆえに本であると主張している。しかし、一品二半を決定的に否定するのではなく、一品二半は教であり脱益であるのに対して八品は観であり下種益であっで、一往は教観・種脱の異なりを示しながらも、再往は教観・種脱は一致・一双と立てるのである。

 次に顕本論では、日隆師は当時の日蓮宗一致派および天台教学が観心主義に傾斜していることに強い批判
を加え、教相主義の立場から塵点仮説の理顕本義を排して、五百塵点劫の実説を強調して実修実証の報身顕本を選び取っている。それは非因非果の法身や無常の応身を退けて修因感果の報身仏を正意と定めるためであり、その報身仏を介して本因下種義を確立せんとしたためである。この日隆師の顕本義については、塵点実説に強くこだわって、五百塵点の周期的な時間そのものに制約された繰返しの顕本となり、三世にわたる釈尊の化道という問題が未解決となっているという批判が提出されている。

 最後に本因下種論を一瞥すると、この本因妙思想およびその下種論は日隆師の教学の枢要であり、これまでの本迹論や八品正意論、種説論や顕本論もすべてこの本因下種論の上に成り立つといっても過言ではない。そして、本因の菩薩が本因時に先仏の本果の法を下種するという本因妙下種を標榜し、久遠の初めと末法の初めとは本因妙下種の時であり、それに対して本果の仏は本果時に至って脱益を授けるとする。よって、末法は本因妙の下種の時であるから地涌の菩薩たる日蓮聖人が本未有善の衆生に仏種を下して利益し、その下種の法体は本門八品の説相において上行等に付属された妙法五字であると説いている。

 


2、五味主の法門について

 師の本因妙思想の成立を見る前提として、ここでやはり師独特の教説である五味主の法門を取りあげてみよう。私は前稿にて、「本因妙抄」に見える「五味主丿修行」や「百六箇抄」に見える「三十三ニハ五味主中之本迹。日蓮ガ五味ハ横竪共ニ五味主丿修行也。五味ハ即本門、修行ハ即迹門也」等の表現が、宗祖遺文「曽谷殿御返事(焼米抄)」の一段を受けたものであり、さらには日隆師が重用する五味主の法門の影響下にあることを指摘したが、ここではその日隆師の解釈について少し詳しく紹介してみたいと思う。

 まず、その「曽谷殿御返事」の一段を再び取りあげてみると、次のとおりである。

法門を以て五味にたとへば、・・・阿含経は乳味の如く、観経等の一切の方等部の経は酪味の如し。一切の般若経は生蘇味、華厳経は熟蘇味、無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐のごとし。又涅槃経は醍醐のごとし、法華経は五味の主の如し。妙楽大師云ク若論スレハ教旨、法華ハ唯以テ開権顕遠ヲ為ス教丿正主卜。独リ得ル妙丿名ヲ意在リ於此ニ云云。又云ク故ニ知ンヌ、法華ハ為レ醍醐丿正主等云云。此釈は正く法華経は五味の中にはあらず。此釈の心は五味は寿命をやしなふ、寿命は五味の主也。天台宗には二の意あり。一には華厳・方等・般若・涅槃・法華同ク醍醐味也。此釈の心は爾前と法華とを相似せるににたり。世間の学者等此筋のみを知リて、法華経は五味の主と申ス法門に迷惑せるゆへに、諸宗にたぼらかさるる也。開未開、異なれども同く円なりと云云。是は迹門の心なり。諸経は五味、法華経は五味の主と申ス法門は本門の法門也。

 これは「涅槃経」聖行品に説かれる乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の五味を天台大師が華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五時に配当して一代聖教を判じた義について、「無量義経と法華経と涅槃経とは醍醐のごとし」「華厳・方等・般若・涅槃・法華同ク醍醐味也。此釈の心は爾前と法華とを相似せるににたり」「開未開、異なれども同く円なりと云云。是は迹門の心なり」という約教釈と、「涅槃経は醍醐のごとし、法華経は五味の主の如し」「諸経は五味、法華経は五味の主と申ス法門は本門の法門也」という約部釈と考えられる解釈が示されている。しかし、約教と約部が迹本二門に配当されることはないし、約部釈はたとえ超八醍醐の法華独勝を明かしても、法華本門の超勝性を示すものではないので、この「曽谷殿御返事」の一段はそのままでは正格から逸脱した説明となってしまうのである。

 しかるに、日隆師は「五時四教名目見聞」に

五味主ト云事、曽谷抄ニ云ク、諸経ハ五味、法華経ハ五味主卜申ス法門ハ本門丿法門也。此丿法門ハ天台妙楽粗書セ玉テ候へトモ不ル分明ナラ間、学者丿存知スクナシ云云。此文ハ前ニ約教釈ヲ出シテ次ニ五味主ト云事ヲ判スル故ニ約部丿上丿本迹ト聞タリ。非ズバ本門ニ者以テ何ヲ歟今日一代五味主トセン耶。是レ即チ第三丿法門也。第三ト者久遠本因妙名字信位之根本下種丿南無妙法蓮華経、是レ五味主也。此丿妙法蓮華経ニ備フ三五下種丿功徳ヲ此丿三五下種ハ即チ為丿今日五味丿本主也。以テ三千墨点丿下種ヲ論レバ之ヲ今日五味丿三五七九丿衆生ハ大通下種ヲ令ムル熟脱セ故ニ随ツテ過去種子ニ爾前無得S也。・・・次ニ約シテ五百微塵ニ論レバ之ヲ廃シテ迹門下種ヲ顕ス久遠本因妙丿種子ヲ種子卜者妙法蓮華経是也。従リ此丿妙法蓮華経ノ一仏乗・中間今日五味諸乗ヲ爾前ニ説三シテ説ク之ヲ。故ニ久遠本因妙即五味主也。・・・此文又今日一代五味八教三五七九丿菩薩声聞生法二身丿開悟ハ悉ク依ト久遠本因下種ニ釈スル間、随へハ過去下種ニ爾前迹門無得道也。故ニ久遠丿本因妙独リ五味主也。

と述べて、五味主の本門とは「第三の法門」であり、「三五下種」であると明示している。この「第三の法門」とは、言うまでもなく宗祖が「稟権出界抄」に

総テ御心へ候へ。法華経ト与爾前引キ向ケテ判スルニ勝劣浅深ヲ、当分跨節の事有リ三ツ丿様。日蓮か法門は第三の法門也。世間ニ粗如ク夢ノ一二をは申セとも、第三ヲハ不申サ候。第三丿法門は天台・妙楽・伝教も粗示セトモ之ヲ未タ事了ヘ。所詮、譲リ与へシ末法之今ニ也。五々百歳は是也。

と述べられた語で、この語の解釈には諸説あるも、日隆師は「法華玄義」巻一に見える三種教相(爾前諸経と「法華経」の勝劣を明かすために立てられた根性の融不融・化導の始終不始終・師弟の遠近不遠近の三種)の第三・師弟の遠近不遠近の相であると断じている。これは「法華経」本門の涌出品から寿量品にかけて五百塵点の譬喩で久遠の本地が説かれ、師(釈尊)弟(本化の弟子)の遠近が明かされたことをいうが、日隆師の場合は「三五下種」であるとも説明されているように、三種教相の第二・化導の始終たる種熟脱の三益の意を含んで、三千塵点の大通下種と五百塵点の久遠下種の過去下種を指し示している。しかも「第三ト者久遠本因妙名字信位之根本下種丿南無妙法蓮華経、是レ五味主也」とあるように、最終的には久遠本因妙下種の南無妙法蓮華経が五味主であり本門であると説がれているので、日隆師は右引の「曽谷殿御返事」の末に見える「諸経は五味、法華経は五味の主」の一文について、「諸経は五味」は脱益にして迹門、「法華経は五味の主」とは下種益にして本門と立て分けていることが知られる。

 これまでの説明で、日隆師の五味主の法門とは脱益迹門を去って下種益本門を選び取るという、いわゆる種脱本迹論に他ならないことが知られ、それゆえ本因妙思想成立には欠くことのできない重要素であることが分かる。よって、例えば「五時四教名目見聞」には

尋云、尼崎流トシテ諸御抄丿教観ヲ一言ニ口伝スル事有リ之レ如何。答、口伝ニ云ク、〈教〉諸経ハ五味、法華経ハ五味主、〈観〉自リ迹門本門ハ摂ス下機ヲ教弥実位弥下ト云云是也。此丿教相教観一致丿口伝有リ之レ、可シ秘ス之ヲ可シ秘ス之ヲ

とあり、「本門弘経抄」巻一には

此の天台本門密意の玄文止は時機既に末代なる故に教弥実位弥下して教相は三五下種五味主なり。観心の重は本因妙名字信位なり。

とあるように、宗祖遺文の中で教相の至極を示したのがこの「曽谷殿御返事」の五味主の法門であると述べられている。そして、この教相に即する観心を説いているのが「四信五品抄」の

自リ四味三教円教ハ摂シ機ヲ。自リ爾前丿円教法華経ハ摂シ機ヲ。自リ迹門本門ハ尽ス機ヲ也。教弥実位弥て丿六字ニ留テ心ヲ可シ案ス。

との一段てあり、これを文拠として本因妙名字即の信位を立てるとあり、これから述べようと思う本因妙思想の結論が先取りされている。

 なお、通常「法華経」分別功徳品に説かれる現在の四信と滅後の五品は本門流通分の修行階位てあり、宗祖は「四信五品抄」においてその経釈に詳細かつ独特な検討を加えて、末法の行位を一念信解・初随喜の名字即に定められているが、日隆師は「五帖抄」に

私云、此本因妙ヲ初住丿位ト云ハ在世正説丿三乗脱益丿機ニ示ス処丿本因妙也。今十妙末丿以テ利益丿妙本丿流通意ヲ
消ハ今之本因妙ヲ、住前丿相似・観行・名字丿因妙ニ可亘也。此丿三位丿中ニモ以名字位ヲ可キ為ス本因妙丿正意卜
也。四信五品抄ニ引テ一念信解者即是本門立行之首丿文ヲ終ニ以テ名字ノー即ヲ為ス本門立行之本意卜也。

と説いて、通常は初住とされる本因妙の正意を名字即と定めるために、その文拠を「四信五品抄」に求めている。これはて種益を介しての末法=本因妙という定義によるものてあろうが、これもその本因妙思想成立の一要素てある。



3、本因妙思想成立への三つの難関

 望月歓厚氏は「日蓮教学の研究」第9章『本因果妙論の考察』において、日隆師の義を次のように説かれている。

次に精進院日隆(1384〜1464)の所論を見るに、・・・五百塵点繰返しの報身事仏の上に教の重の本因妙を主張している。これは要約すれば本因妙て種とは本 因の菩薩が本因時に先仏の本果の法をて種する。久遠の頭初と末法の初とは本因て種の時てあり、本果の仏の時に脱益せしめる。本因菩薩は日蓮、本果仏は釈尊てあつて、この三益を繰返さるるのである。即ち「私新抄」に「釈尊本因妙の修行は地涌行也。故に一切衆生のて種の時は地涌と顕れ、得脱の時は釈尊と顕れ玉へり。衆生脱益の時は釈尊と拝見し、下種の時は地涌と知見す。真実の下種の根本は本因妙なるべし。・・・釈尊一仏の利益なり」というのである。

 前稿でも触れ、次稿でもまた述べる積もりであるが、日興門流の本因妙思想と日隆師のそれとではかなりの相異があり、それを明確にすることは一つのテーマてあるが、今はその両者の本因妙思想に共通する部分を示し、それが日隆師の教学においてどのように構築されて行つたのか、考察してみようと思う。これは現存する日興門流教学の文献にはその構築のさまが説かれていないこと、そしておそらく日隆師の教学を学習しつつその本因妙思想を成形したてあろう日興門流教学の場合、日隆師の教学的努力をそのまま受け継ぎ、その上て門流独自の要素を盛り込んて成立に至つたものと推測されること等の理由に基づく作業てある。

 その本因妙思想の共通部分を単純化して示すと、

脱益をほどこす本果妙の釈尊に対して、本因妙の上行菩薩が一切衆生にて種し、滅後末法には上行菩薩の後身てある日蓮聖人が出現して下種の教主となる、という考え。

となる。この場合、最初の「脱益をほどこす本果妙の釈尊」と最後の「滅後末法には上行菩薩の後身である日蓮聖人が出現して下種の教主となる」の二つの定義は、おおよそ天台釈や宗祖遺文の中がら引き出し得るが、その間に見える「本因妙の上行菩薩が一切衆生にて種し」という定義については、それを証明することはなかなかに難しい。そして、このような考えが成り立つためには、宗祖の教義体系に明確には示されていない次の三つ程の難問を解消する必要があると考えられる。@は本果妙釈尊の本因妙が上行菩薩であること、Aは本因妙上行菩薩が一切衆生に下種すること、そしてBは久遠下種が本因妙の下種であること、の三つである。

 


@本果妙釈尊の本因妙が上行菩薩であること

 本因妙とは久遠の本果仏たる釈尊の本時における自行の因のことで、「法華経」如来寿量品の「我本行菩薩道・所成寿命・今猶未尽」の一文に基づくが、経文にはもちろんのこと、天台・妙楽の釈義にもその菩薩名は特定されていない。一方、上行菩薩は「法華経」従地涌出品にて釈尊の召しに応じて大地より出現した地涌の菩薩の上首であり、地涌の菩薩は本果の釈尊が最初に教化した弟子(眷属)であるところから本化の菩薩とも呼ばれて、本門十妙の第七・本眷属妙とされる。よって、経文や天台釈の中では上行菩薩はあくまでも本果妙釈尊の第一の弟子であって、釈尊の本因妙時の名称が上行菩薩であるとはどこにも説かれていないのである。

 けれども、この本因妙=上行菩薩の義が成り立たない限り本因妙思想が形成され得ないことは火を見るより明らかであるが、この義に対する日隆師の説明を挙げると次のとおりである。まず、「私新抄」第四には

次ニ約シテ報身ニ論ハ之ヲ、本因妙ハ地涌丿菩薩也。本因妙ヲバ経ニ我本行菩薩道卜説ケリ。久遠本地丿菩薩、余丿名字無シ之。四菩薩乃至六万恒沙丿菩薩ハ一同ニ地涌丿菩薩也。故ニ釈尊本因妙丿時モ地涌丿菩薩卜成テ妙法蓮華経ヲ修行シ玉ヘリ。総シテ三世諸仏因位丿行ハ皆ナ地涌丿修行也。一切衆生最初下種丿時ハ地涌卜顕レ、一切衆生得脱丿時ハ本果妙丿釈尊卜示シ玉ヘリ。・・・高祖、本因本果丿相ヲ釈スル時、観心本尊抄ニ本因本果二妙丿文ヲ引テ仏界所具丿九界卜釈シ玉ヘリ。本因妙九界卜聞タリ。次下ニ又本果本因丿文ヲ引ク時、我本行菩薩道ノ文ヲバ地涌千界ノ菩薩卜釈シ玉ヘリ。釈尊丿本因妙卜地涌菩薩卜一体也。非ス別物ニ

とあり、次に「本門弘経抄」巻九には

此の本眷属は本仏釈尊自性所生の内の眷属なり。内の眷属とは「十界具足スルヲ方ニ名円仏」と云ふ九法界の辺なり。此の九法界の辺を総合して本因妙と云ふ。

と見え、「玄義教相見聞(一帖抄)」には

されば三世本有として一切衆生得脱の終は本果の釈尊と顕れ、一切衆生最初下種の始は本因妙上行等と顕はれ、過去久遠と滅後末法とに最初下種を成ずるなり。仍て寿量品に本因本果を説く本因妙をば我本行菩薩道所成寿命云云。向きの涌出品にして地涌を以て久遠の諸菩薩となし定め畢つて、寿量品にして久遠の昔菩薩道を行ずという菩薩は、本化地涌の菩薩の修行を釈尊も本因妙の時行ずという事なり。

と述べられている。

 最初の「私新抄」の中には「観心本尊抄」の二箇所の文釈が証文として指示されているが、一つは十界互
具の文証を「法華経」の中から抽出している内の

寿量品ニ云ク如ク是丿我成仏シテヨり已来甚大ニ久遠ナリ。寿命無量阿僧祇劫常住ニシテ不滅セ。諸丿善男子我本行シテ菩薩丿道ヲ所丿成セシ寿命今猶未タ尽キ。復倍セリ上丿数ニ等云云。此経文ハ仏界所具丿九界也。

であり、もう一つは釈尊因果の功徳を具足した妙法五字を受持することにより観心が成就する旨を明かした後に、凡夫心所具の本因本果を示した

寿量品ニ云ク然我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫等云云。我等カ己心丿釈尊ハ五百塵点乃至所顕丿三身ニシテ無始丿古仏也。経ニ云ク 我本行菩薩道 所成寿命 今猶未尽 復倍上数等云云。我等カ己心丿菩薩等也。地涌千界丿菩薩ハ己心丿釈尊丿巻属也。例セハ如シ太公周公且等者ハ周武丿臣下 成王幼稚丿眷属 武内丿大臣ハ神功皇后丿棟梁 仁徳王子丿臣下ナルカ也。上行・無辺行・浄行・安立行等ハ我等力己心丿菩薩也。

という一段である。ここには本因妙=上行菩薩というストレートな明示は見えないが、本因本果の経文を引いて「仏界所具丿九界」と「我等カ己心丿菩薩等也。地涌千界丿菩薩ハ己心丿釈尊丿眷属也。・・・上行・無辺行・浄行・安立行等ハ我等カ己心丿菩薩也」と示される宗祖の解釈に、「眷属=九界=日本因妙」という九界を媒介とした眷属=本因妙という義が導入された時に、はじめて釈尊の眷属たる上行菩薩が本因妙の菩薩であるという本項の定義が成り立つさまが、右の「本門弘経抄」の一文から知ることができる。そして、それを受けて、釈尊も「我本行菩薩道」の本因妙時には本化上行菩薩の修行を行ずる旨が「玄義教相見聞」の文には明示されているのである。


A上行菩薩が一切衆生に下種すること

 前項の難関は、経釈には釈尊の弟子とされる上行菩薩が釈尊本因妙の菩薩でありうるかという問題であつたが、今回はその上行菩薩が衆生に下種をほどこす力用を持ち得るか否かという問題である。これについて、日隆師の「法華天台両宗勝劣抄(四帖抄)」に

次に、人に約してこれを論ぜば、人とは本門八品上行要付したまう上行菩薩なり。この菩薩は、三世を歴るに熟脱の座に来らず。久遠下種の座と今日本門八品末法下種所説の座とに来臨して、娑婆界、別しては末法悪人の下種の唱導なり。大田抄に云く、「地涌千界の大菩薩は(中略)娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり」と云えり。余の迹中の仏・菩薩は近成始覚にして無常なる故に、金剛の仏種これなし。久遠の釈尊・上行は、金剛長寿の仏種子これあり。故に一切衆生の最初下種の主師親なり。

とあり、宗祖の(曽谷人道殿許御書(大田抄)」の一文に基づいて上行菩薩が久遠下種と末法下種をつかさどり、末法下種についてはその後身たる日蓮聖人が愚悪の凡夫に下種する旨が説示されている。

 しかるに、この「曽谷入道殿許御書」の具文を示すと次のとおりである。

而ルニ地涌干界丿大菩薩、一ニハ住スルコト於娑婆世界ニ多塵劫ナリ。ニニハ随テ於釈尊ニ自リ久遠已来初発心丿弟子ナリ。三ニハ娑婆世界丿衆生丿最初下種丿菩薩也。如キ是丿等丿宿縁之方便超過セリ於諸大菩薩ニ。

 これは、釈尊が文殊・薬王等の迹化・他方の諸大菩薩を差し置いて、わざわざ地涌の菩薩を召し出して結要付属し、滅後末法の弘通をゆだねた理由を宗祖が三点数え上げたものであり、日隆師が証文として引文しているのは、その第三点目である。そして、三点の内、第一点は地涌の菩薩がこの娑婆世界に極めて長い時間居住していること、第二点は釈尊が久遠の過去世に初めて発心した時から従つてきた弟子であることと、共に素直に意味が取れるのに対して、この第三番目の「三ニハ娑婆世界丿衆生丿最初下種丿菩薩也」の一文には実は二通りの意味を考えることができるのである。

 たとえば、昭和9年(1934)がら16年にかけて平楽寺書店から刊行された「日蓮聖人遺文全集講義(通称・平講)」の通釈には、「三にはこの娑婆世界の衆生に最初に成仏の種をおろして下されし菩薩である」とあり、地涌の菩薩が初めて衆生に種を下したと解釈されている。これに対して、その前の昭和6年に宗祖650遠忌の記念事業の一環として龍吟社から出された「日蓮聖人御遺文講義(通称・龍講)」
の講義には、「三にはこの娑婆世界の衆生の中では、最初に成仏の種を植えられた菩薩である」と見え、娑婆世界の衆生の中で一番始めに(釈尊より)種を下されたのが地涌の菩薩であると説明されている。

 このように、ほとんど同時期に出された二種類の遺文講義に「衆生に初めて下種した地涌の菩薩」と「衆生の中で最初に下種を受けた地涌の菩薩」という、全く相違する解釈が示されており、日本漢文の特性である意味の取りづらさも手伝って、それほどにこの「曽谷人道殿許御書」の一文の扱いはむつがしいのである。最も新しい代表的な解釈として平成4年(1992)がら8年にがけて春秋社より刊行された「日蓮聖人全集」の現代語訳には、「三にはこの娑婆世界の中では最初に仏種を下された菩薩である」とあり、右の2つの解釈の内、「龍講」の下種を受ける地涌の菩薩という解釈が採用されており、あるいはこれが現時点での一般的な解釈とされているのがも知れない。実際、この一文を地涌の菩薩が衆生に最初下種するという意に取った場合、他の宗祖遺文の中にこのような記述は一切なく、この一文が全く孤絶したものとなってしまう結果となる。

 しがし一方、同文を最初に成仏の種を下種された菩薩と解釈した場合、その直前に記されている久遠の昔に釈尊が初めて発心した時がら従っている弟子の菩薩という理由と、あまり意味の違わない理由を二つ重ねることとなってしまう感じを受けるが、どうであろうか。ともあれ、日隆師はこの「曽谷人道殿許御書」の「三二ハ娑婆世界丿衆生丿最初下種丿菩薩也」を文証として、上行菩薩が一切衆生に下種をほどこす菩薩であるという義を主張したのである。



B久遠下種が本因妙の下種であること

 この三つ目の難問である久遠下種が本因妙下種であることについては、前稿にて日隆師の「十三問答抄」第一・在世下種事の一節を引いて師の意見をまとめてみたので、今はそれを再掲してみたい。

師は、「法華経」の経文には上行等の本化菩薩に対する釈尊の本果下種しが説がれていないが、前に私が宗祖遺文の中における本因妙思想形成の要素のBとして「注法華経」の中がら拾い上げた「文句記」巻一の「本因果二種シ」の文に依り、天台・妙楽は下種が本因・本果に亘ると釈しているが、当世の天台学者等は下種は本果に限ると誤った主張をしているという。しかも、下種の本義は因位の菩薩界にてなすものであり、また下種は人天に対して論ずるものであるのに、本果の衆生は三乗だけで人天の機がいないので下種の義が成立せず、それゆえ久遠下種は本因妙に限ると結論されている。そして、最後に当宗の意としては本果を本因に摂し、本因妙の上行菩薩が本時および末法の衆生に最初下種をなすが、得脱の時は上行が本因がら本果に移って久遠の釈尊となり脱益をなす、と説明されている。

 右にもあるように、この本因妙下種の問題に関しては「法華文句記」巻一の「本因果二種シ」の一文があり、この文を解釈する中で因果のうち、本果よりも本因にポイントがあることを示すことができればよいのであるがら、比較的解消しやすい難問であるといえる。そして、この「本因果二種シ」の語については「本門弘経抄」巻八に

謂く本因に下種し本果に脱益満ちて本涅槃の砌に又本因の地涌と成って種を下すと云ふべきを、言総して「本因果種」と云ふなり。

とあり、本因時に一度下種し、本果の滅後にまた本因の菩薩となって下種するのが「本因果種」の意である、と右とは少異する説明がほどこされている。この後者の説明はこれだけでは意味が分かりにくいので、日隆師が本因本果の本時全体を一通り説き尽くした一段が「本門弘経抄」巻九に見えるので、日隆師の本因下種論の全体を理解するためにも、少々長いが、今はそれを引いて見たい。

過去遠々五百微塵の当初に前仏あり。其の本涅槃妙滅後悪世に本因妙名字信行の菩薩あり。其の時の釈尊は単に凡夫にて一念の信心を以て其の師の菩薩より弟子の釈尊、法華経を受持して南無妙法蓮華経と口に唱へ玉ひて、「一念信解ハ者即是レ本門立行丿之首」と云へる名字の信者と成つて初めて下種を成ずるなり。玄の七に云く、本因妙卜者本初ニ発シテ菩提心ヲ行シ菩薩丿道ヲ所丿修スル因ナリ文。此の本因妙の時は釈尊も滅後悪世の我等が如き凡夫の信者なり。謂く、名字観行相似に居住して初めて「我本行菩薩道」する時、諸の衆生を化する「化諸衆生」は上行等の塵数の菩薩なり。故に本因の釈尊は父、本因の上行は子なり。釈尊上行の父子天性是れなり。此の時、釈尊の信行の御口より南無妙法蓮華経と唱へ出して上行の御口に移して受持せしむ。此れを上行等の久遠下種と名く。疏の九に云く、是レ我カ弟子ナリ、応弘我カ法ヲ以ト縁深広ナルヲ云へり。記に「初ニ従テ此丿仏結縁ス」と云ひ、「子弘父丿法」と云へるは此の時のことなり。此の慈父本因妙の釈尊、住前住上等次第昇進して本果妙の位に登る時、所化の衆も上行等の九法界なり。記に「本因果種」と釈し玉へり。此くの如く本因本果自他倶益成道の後、釈尊本涅槃妙を唱ふ。此れを過去現滅当入涅槃と云ふ。此本涅槃妙の滅後唱導をば上行に付す。上行所化の衆に、又上行、南無妙法蓮華経と口唱して所化の衆に唱へしめて初めて下種を成ず。已来中間前四迹門に調熟して一品二半に脱し畢んぬ云云。

 ここには本因本果の本時を中心とした化導の相が通時的に述べられており、今それを図で示せば次の通りになる。

 最初に前仏が登場するが、これが報身仏の無始無終の無限常住を説くために日隆師が独自に設定した五百塵点の際限なき繰り返しと評される「繰返し顕本論」を示す語である。その前仏の滅後に名字即の菩薩(上行菩薩か)が出現し、その弟子の釈尊が凡夫の時に下種を受けて名字即の信者となる。その釈尊が本因時に本因の上行に久遠下種し、その後本果妙釈尊と上行等の九法界となるが、この一連の所作を釈したのが「本因果種」の文であるという。そして、本果釈尊が滅後唱導を上行に付して人滅し、今度は本因の上行が一切衆生に最初下種(久遠下種)して、その後は調熟から脱益へと至るという説明である。見て分がるように、ここでは上行菩薩が本因妙の釈尊より受ける下種と、釈尊滅後に上行菩薩が一切衆生にほどこす下種と、二つの久遠下種が設定されている。



4、小結

 前項末尾に見たように、日隆師の説明は非常に詳細であり、それが例えば「本門弘経抄」113巻では「法華経」28品全体に、また「開迹顕本宗要集」66巻では天台宗論義の宗要算題65箇について、それぞれその本因妙思想および下種論から精緻な釈義が加えられており、その教学的な努力にはただ敬服の他はない。

 そして、ここで考えるべきことは、日隆師にしろ日興門流にしろ、どうしてこのような大変な手続きを経てまでも本因妙思想などというものが構築されて行かねばならなかったのかという問題である。これについて私は、上行菩薩の自覚の下に不軽菩薩の行軌を受け継ぎながら、末法の衆生に妙法五字の要法を下種して何とが成仏せしめようとされて行った宗祖の信行的努力というものをどのように継承するか、そしてその努力の意義を仏教的世界観および歴史観の中にいかに位置づけて行くか、それを真剣に考え模索した末の結果ではなかったかと思うのである。

 よって、例えば日隆師の教学に対しては、その顕本論が最終的に釈尊の久遠性を証することのできない「繰返し顕本論」であり、またその本迹論に対しても実質的に実相の異目が示されずに台当法体間に堕している等という批判が投げがけられているが、これらはあくまでも伝統的な一つの教学的観点からの批判であって、それによって日隆師の教学の価値が何等下がるという訳ではない。むしろ、たとえ論理的には多少の破綻を抱えながらも、宗祖日蓮の宗教的情熱を損なうことなく、よくその信仰体系を構築していったという点では他を圧倒しており、おそらく宗学という学問の最も大きな課題もその辺りにあるものと思われる。

 最後に、日興門流の義に対するものと思われる批判が少ないながら日隆師の著作の中に見えるので、内容的に重複するものも含めて一通り摘出しておこう。まず、「本門弘経抄」巻3に

但し釈尊は本果が家の名字、上行は等覚が家の名字、日蓮は人界の名字なり。故に名字と名字との辺を取って易行の本尊と成し、易行の四依を談ず。然るに妙法蓮華経、釈尊、上行は、日蓮大士我等が為めには本尊なり。本尊の釈迦上行をば造像せずして日蓮大士の造像計りを本堂に安置し奉る事、富士門流の法則なり。恐くは謬中の謬、是れ即ち極大謗法なり。諸御抄に背くことなり。

「同」巻5には

此くの如き経旨を弁へざる諸法華宗の中に、余りに本迹勝劣を云ひ過して、釈迦多宝は在世の本尊なる故に、木像に造るべがらずと云ひ、上行菩薩と日蓮大士とは滅後の本尊なる故に、木像に造るべしと云ふ大僻見の謗法、諸国にあり。

「同」巻8には

此くの如きの深旨を知らずして、或は東方の法華宗の一門流の中に、本迹勝劣と云つて、而も釈尊上行と日蓮大士とを簡別して、釈尊上行の木像をば造らず、日蓮大士計りの木像を造りて正面の本尊と為すことこれあり。是れ大僻見なり、大謗法なり。之を用ふべからず。此のこと以ての外の軽賎にして、諸御抄の大旨に違ふ間、之を破すものなり云云

とそれぞれ記されている。これは、日興門流の法則として釈尊・上行の木像ではなく日蓮聖人の木像を造つて正面の本尊として安置することへの批判であるが、ここには日蓮は上行の後身とは言いながら、同じ名字即でも歴然たる差別があること、日蓮本尊は本迹勝劣を強く言い過ごした結果であり、諸御抄の旨に背く大謗法の法義であることが指摘されている。

 次に、「十三問答抄」上には

但至本門流通丿行人不ト交迹門丿余法余事ヲ云ニ者、若左様ニ得心候テハ、又当宗丿中二上代諸御抄中二捨テテ広略ヲ取要等書之捨テテ迹門ヲ取本門ヲ等ト被遊一辺ヲ得意過シタル門流有之。本門ト与迹門成シ隔ヲ或ハ不レ読迹門ヲ、或ハ不安置セ木画二像ヲ等丿邪見丿人有之。于今不尽キ。此等不便丿次第也。但其丿元祖之得意ニハ為メニシテ破文ナント丿其内証ハ不背正義ニ事も可有之也。然ルニ末代無智ニシテ不得師丿意ヲ、似タル事ハ似たるも是ナル事ハ是ナラザル輩、諸門徒中ニ可多之、悲哉云云

「本門弘経抄」巻3には

此の旨を弁へざる法華宗、諸御抄の宗旨に背ひて一向に迹門を捨て、或は略要を用ひて一向に広行を捨る門流も之れあり。此等は皆諸御抄に違ひ大旨に背き還て謗に同ず。・・・又一致を破さんが為め破文の日、迹門を誦せざる歟。其の旨或る抄に見へたり。所詮破文を還って正義と心得、又一致に迷ふ歟。

と見える。こちらは迹門不読が主に対象になっているので日興門流とは限らないが、その中に広行たる一部の不読誦に対する批判も見え、それが「広略を捨てて要を取る」という宗祖の意を強く心得すぎた結果であると指摘されている。

 このように、日隆師の日興門流批判が専ら強義の本迹勝劣義に基づく不造像・不読誦の化儀に向けられており、その当否等については次稿で触れたいと思うが、この化儀が門流の歴史に対して持つ拘束力の強さについては前稿に言及した通りである。


終わりに

 私はこれまで日興門流の本因妙思想が基本的に慶林房日隆師の教学の強い影響下に成立したものと予測し、その前提の上で本稿の第1章においても門流上代における教学的付加を考察してみたが、その前提をくつがえす結果とはならなかった。また、第2章でもその前提の上に、日隆師がどのように難関を解消して本因妙思想を形成して行ったが、その具体的な様子を考察してみた。

 けれども同時に、この日隆師からの影響以外にも日興門流の本因妙思想成立の要素はあったのでないか、とも私は考えている。たとえば、「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書には確かに日隆師の教学の痕跡が認められるものの、全体がその影響下にあるという感じではない。

 よって、次稿ではいくつかの文献を検討してその道筋の可能性をさぐると共に、日興門流諸師の日隆師の教学への批判を取りあげて、その異目の様子を検討してみたいと思う。

 

 

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日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(3)




目次


はじめに


第1章 日蓮本尊義と本因妙思想

1、御影像信仰と日蓮本尊義

2、釈尊本尊義について

3、十界曼荼羅本尊の解釈

4、本因妙思想の必要性


第2章 室町中期における畿内勝劣派の交流について

1、「日要奏上記録」について

2、慶林房日隆師をめぐって

3、広蔵院日辰師の登場


第3章 広蔵院日辰師の本因妙思想批判と釈尊本尊義

1、在世下種の有無

 @ 問題の焦点

 A 日隆師の見解

 B 日辰師の見解

2、釈尊本尊義について

 

おわりに

 

 

 

 


 



   
初めに

 本稿は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(1)および「同(2)」を受けて、日興門流教学の主柱の一つである本因妙想が歴史的にどのように形成されてきたかという問題意識のもとに、同問題の考察に必要な諸材料を提供して、将来の論考の覚書にしようというものである。

 私はこれまでの前2稿において、「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書を皮切りに、日有・日教・日要の3師の本因妙思想の概略や、それらへの思想的影響が色濃く予想される慶埜房日隆師の同思想の一端をうかがい、さらに宗祖晩年からの日興門流の歴史的な流れの中に見える本因妙思想形成への動きに一通り触れてみた。

 本稿ではこのような流れを受けながら、まず少し視点をずらして、第1章では日興門流独自の教義および化儀である日蓮本尊義がどのような過程で成立したかを考察し、同義が本因妙思想の形成にいかなる契機を与えたか、一考してみたい。次に、私はこれまでの見通しの結果として、1400年代から1500年代にかけての京都および尼崎・和泉堺という畿内地域を本因妙思想形成の主要舞台と設定するに至ったが、ここではその中頃の史料から当時の本迹勝劣派諸門流の交流のありさまに触れて、それが本因妙思想の形成にどのような役割を演じたかを第2章で述べてみる。そして、そのような畿内の歴史的状況を受けて登場したのが広蔵院日辰師であるが、その日辰師が本因妙思想批判の主要点に指摘した在世下種の問題と、師の釈尊本尊義の内容について、少しく第3章で論じてみたい。


第1章 日蓮本尊義と本因妙思想


 この日蓮本尊義については、前の「日興門流における本因妙思想形成に問する覚書(1)の中で、宗祖滅後上代における同思想形成の要素として、宗祖御影本尊義と二品読誦義という化儀に注意が必要であることを指摘し、その論理的な裏付けとしての本因妙思想の形成という簡単な筋道の予想を示唆したが、今は宗祖御影本尊義を日蓮本尊義と呼び改め、その規定を「日蓮聖人の御影像をご宝前に安置して、釈尊および釈尊像ではなく、日蓮聖人を本尊として信仰の中心に置いていこうという考え」と明示した上で、その成立と本因妙思想との関連を論じてみる。なお、その経過の中で、十界曼荼羅本尊の理解や宗祖晩年の思想的な営為については、当誌曽載の拙稿と重複する部分が多くなると予想されるが、当考察の必然ということでご宥免いただきたいと思う。

1、御影像信仰と日蓮本尊義

 通常、御影とは神仏や貴人の画像や木像をいうが、今は日蓮聖人の木像および絵像の意に限定して用いる。日蓮聖人の御影像といえば、一般に最もよく知られているのは、池上本門寺祖師堂に厳護される宗祖七回忌の正応元年(1228)に造立された御影像であろう。像底の銘文から侍従公日浄師と蓮華阿闍梨日持師が願主となり、おそらく大国阿闍梨日朗師や池上宗仲氏の資縁によって造立されたものであるが、その特徴の一つは、一見して認められるその具象性である。特に、その面持ちはまことにリアルで、生前の宗祖は確かにこのようであったろうと、誰人をも納得させずにおかない力がそこに感じられる。

 普通、このような彫刻等の具象化は、リアリズムを信条とする武士階級が政権に就いた鎌倉時代という、時代そのものが持つ写実精神の表われと説明されるが、これに対して、「日蓮を祖師と仰ぐ『祖師信仰』の系譜をたどり、その信仰儀礼や造形物によって、祖師によせる信仰の心意を明らかに」せんとした中尾尭氏は、鎌倉時代の写実的な作風が数々の具体的な肖像彫刻を創出させたのではなく、霊性への期待そのものが数多くの祖師像を造立させたこと、そして祖師のイメージは人々の前に姿を現わし救済を約束し続ける、まさに「生身の仏」であることを指摘している。実際には、これらを主要とする複数の因子がからみ合った現象と考えられるが、中尾氏も注目している弘安3年(1280)に西大寺叡尊(1201〜90)の80歳を期して造られた寿像の胎内に納められた大量の文書群からは、叡尊をまさしく生身の仏と崇拝しようとする有縁の人々の心意がうかがえる。よって、常に生き続けて法を説き、常に行者を守護する宗祖を熱望する弟子・檀越たちの祖師信仰が、これらの御影像造立の原動力であったといえよう。

 このような宗教的な雰囲気の中で、宗祖滅後程なくして門下全般において多くの日蓮聖人御影像が造立されていったが、そのこうし嚆矢は、祖滅直後に定置された御廟輪番の崩壊を受けて、宗祖3回忌の弘安7年(1284)頃より老僧達の了解のもとに身延山久遠寺を主管した日興師が、その年の3回忌前後に造立したと伝えられる御影像である。すなわち、「尊師実録」日尊上人御一期図に

弘安七年〈甲申〉五月十二日、甲州身延山へ登山。同十月十三日、大聖人相当スル丿第三回御仏事日。

始テ日興上人ニ対面、御影堂出仕云云。

とあり、「日順雑集」に

身延山ニハ日蓮聖人九年、其後日興上人六年御座有り、聖人御存生ノ間ハ御堂無シ、御滅後ニ聖人御房ヲ御堂ニ日興上人ノ御計トシテ造玉フ、御影ヲ造ラセ玉フ事モ日興上人ノ御立也。

と記録されている。これらによると、日興師は宗祖3回忌仏事までに宗祖の身延住坊を御堂(御影堂)に改めて、その中に宗祖御影像を造立して安置したことになる。

 その後、日興師は学頭・日向師の教導の下に地頭・波木井実長氏が犯した謗法行為を主因として、正応3年(1289)の春に身延山を離れ、多くの弟子と共に富士へと赴いた。その際に、波木井実長氏の子息・清長氏が日興師に

もしみのふさわ(身延沢)を口口(御い)て候ヘハとて心かハりをもつかまつり(仕り)候、おろかにもおもひまいらせ候、又おほせの候御ほうもん(法門)を一ふん(分)もたかへ(違え)まいらせ候ハ、ほんそん(本尊)ならびに御しやう人(聖人)の御ゑい(御影)のにくまれを清長か身にあつくふかくかふるへく候。

しやうをうくわんねん(正応元年)十二

源清長

 

という「誓状」を提出したが、ここには十界曼荼羅本尊と共に右の宗祖御影像についての呪詛文言が明記されており、御影像が本尊と同格の扱いを受けているが、あるいはこの時すでに身延山久遠寺御堂の御宝前の形態として、十界曼荼羅本尊の前に御影像を安置するという現在に伝わる形態が採用されていたかとも想像される。

 この日興師造立の御影像は日興師の身延離山と共に富士へ移され、新たに建立された大石寺の御宝前に安置されたが、その後、日興・日目の両師寂後に起こった大石寺東坊地係争の最中に、小泉・久遠寺を経由して暦応5年(1342)に安房・妙本寺に遷座されて、今に至ると伝えられる。 一方、日興師は日目師に大石寺の経営を委ねて、永仁6年(1298)に重須(北山)の地頭・石河氏の招きに応じて、同地に御影堂を創建して移住した。その石河能忠氏の「寄進状」には

〔前欠〕合ハセテ壱口口
右ニ日れんしゃう口(人)のみゑい(御影)タゝせ候間、ひゃくれんあさり(白蓮阿闍梨)の御房、妙源かしゝやう(師匠)たる間、いちゑん(一円)ふしうにゑいたい(永代)をかきりてきしんしたてまつる所也、かのハうち(坊地)のさかいわ、ひかし(東)ハのほりみちくね、きた(北)わよこみちくね、にし(西)ハのほりみちくね、みなみ(南)なみきのよこくね也、このきしんしゃうニまかせて、妙源かしゝそんそん(子々孫々)ニいたるまて、いらんわつらいなし候ハむともからハ、妙源かあとをちきゃうすへからす候、

よんてきしんしゃう如シ件丿。

            正中二年十一月十三日       妙源(花押)

とあり、日興師が重須(北山)本門寺に新たに宗祖御影像を造立したことが知られる。その重須本門寺は日興師の滅後は俗縁関係にあった弟子・日代師に遺嘱されたが、不幸にして起こった日仙師との方便品読不読論争の中で、本迹迷乱と非議されたことなどが原因で重須を退出し、康永2年(1343)頃に西山に本門寺を建立して移ったとされる。右の石河能忠氏の「寄進状」も、その際に日代師が携帯した結果、今は西山本門寺に伝わるが、応安元年(1368)に日代師は重須の寺領の返付を目的とした次のような「目安」を作成している。

目安
日興上人丿付法日代申ス当郡重須郷丿坊職并ニ御影像丿事。右丿所ハ者、日興上人三十余年弘通之旧跡也、雖モ多シト法器、以テ日代ヲ補処付法ト被置カ定メ畢ヌ、自筆丿置状数通帯ヒ之ヲ畢ヌ、而ルニ門徒并ニ先丿地頭石河式部大夫実忠、親父入道妙源自筆丿寄進状ニ違背之上、仏法謗法之間、彼丿所ハ者妙源私ニ寄進之地也ト子細ニ不及ハ公方ニ申シ被出サ畢ヌ、其丿後式部阿闍梨日妙地頭ト同心之間、多年居住シ別シテ死去之後ハ、彼丿弟了分相論ト云云、於テハ日代ニ者、自リ日蓮聖人三代相承之付法、為リ日興上人丿付法補処、当堂以下当宗弘通之重宝等相伝ス之ヲ、然ラハ者任セ日興上人丿置状并ニ石河入道妙源寄進状之旨ニ、当堂御影像ヲ為渡サ給フ、粗目安如シ件丿。

   応安元年十一月日

 当時、日興門流では派祖の日興師が定置した十界曼荼羅本尊と宗祖御影像という本尊形態が主要な伝統化儀として定着していたと考えられるが、右の石河氏の「寄進状」や日代師の「目安」には十界曼荼羅本尊に関する記述が見られず、重須本門寺およびその寺領の象徴として宗祖御影像が指示されている感がある。これに従来指摘されている、日興師やその弟子達の消息に見える供物等を「法華聖人」「聖人御影」「ほとけしよう人」「御宝前」「法主聖人」「御経」等と表現される宗祖御影像に披露するという事例などを勘合した場合、本尊形態の中心が十界曼荼羅本尊よりも、むしろ宗祖御影像にあると判断することも可能である。そして、このような本尊意識の流れが大石寺第九代・日有師に至って、

1、当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍テ今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり。

当宗の御堂は如何様に造りたりとも皆御影堂なり、十界所図の御本尊を掛奉り候へども、高祖日蓮聖人の御判御座せば只御影堂なり。

となり、ここに「日蓮聖人の御影像をご宝前に安置して、釈尊および釈尊像ではなく、日蓮聖人を本尊として信仰の中心に置いていこうという考え」の日蓮本尊義の成立を見たものと考えられる。


2、釈尊本尊義について

 右述のように、宗祖滅後程なくして門下全般にわたって宗祖御影像が造立されていったが、これを日興門流以外、たとえば中山法華経寺に眼を転じてみると、永仁7年(1299)に同寺初祖・日常師が記録した「常修院本尊聖教事」の冒頭には、

1、妙法蓮華経曼陀羅 一鋪    1、釈迦立像並ニ四菩薩〈入御厨子〉

1、十羅刹 一鋪         1、天台大師御影 一鋪

1、聖人御影 一体        1、聖人御袈裟 一帖


とあり、これを受けた第三代・日祐師の「本尊聖教録」の冒頭には

両寺〈法華・本妙〉本尊聖教録  康永〈甲申〉二々八々記之。

御自筆大曼荼羅一鋪

釈迦仏立像并四菩薩 厨子ニ入御

故日高御筆曼陀羅一鋪    十羅刹女一鋪

三十番神一鋪〈文字〉    天台御影一鋪

大聖人御影一体       日常御影一鋪

小五輪一 〈銘大聖人御筆・日常御悲母御骨〉


  
      已上法華寺〈法忍奉入御自筆三枚本尊・大方殿ニ入御千田〉

 

御自筆大曼荼羅一鋪 乗明〈大田入道〉当身給
    (中 略)

釈迦仏立像并四菩薩〈大聖人御供養 厨子ニ御入〉

打物題目釈迦多宝二尊并四菩薩像各一体

釈迦像一体〈元神宮寺〉    十羅刹女二鋪〈一鋪ハカナヲカカ筆也〉

三十番神一鋪        天台御影二鋪〈一鋪ハ弁公方〉 

大聖人御影一体       大聖人御影二鋪

     (中 略)

 已上本妙寺

と記録されている。これらによると、時期は不明ながら、富木常忍氏の館跡の法華寺と大田乗明氏の館跡の本妙寺には、御影木像がそれぞれ一体ずつ造立されており、本妙寺にはこの他に御影絵像が二鋪所蔵されている。

 しかるに、この両書の記録の順序を検討してみると、最初に宗祖御自筆の大曼荼羅本尊があり、次に釈尊像並びに四菩薩像、そして十羅刹女・三十番神や天台大師御影があって、その後に大聖人御影一体が記されている。これをどのように読むか、見解の分かれるところもあろうが、前項で日興門流の化儀では曼陀羅本尊と宗祖御影像が同格の本尊として扱われていた旨を指摘したが、法華経寺の場合、曼荼羅本尊と同格なのは釈尊像および四菩薩像であって、宗祖御影像はたとえば天台大師御影などと共に一つランタが落ちたところでの扱いのように見える。一口に本尊といっても、大きく分けて常住的な本尊と一時的な本尊があると考えられる。つまり、衆生の成仏を直接取り扱う本尊と守護を祈ったり報恩の対象になる本尊であり、中山法華経寺の場合、曼陀羅本尊と釈尊および四菩薩像が成仏に関する本尊であるのに対して、天台大師御影や宗祖御影像などはあくまでも一時的な本尊という扱いであるように思われる。そして、これを右の日興門流の日蓮本尊義の定義に対比していえば、「釈尊および四菩薩像を御宝前に安置して、日蓮聖人およびその御影像ではなく、釈尊を本尊として信仰の中心に置いていこうという考え」という釈尊本尊義と規定されよう。

 宗祖滅後に日興師と他の五老僧との間に発生した五一の相違は、主に日興門流文献たる「五人所破事」および「富士一跡門徒存知事」の両書に記録されているが、本尊に関しては、次項に取り上げるように、日興師の義として釈尊像ではなく宗祖図顕の曼荼羅本尊を本尊と定めるべきことが示されている外は、釈尊一体仏の取り扱いと宗祖曼荼羅本尊の取り扱いが問題となっているが、右の日蓮本尊義と釈尊本尊義の相違には言及されていない。しかし、宗祖直弟間の最も大きな教義的な相違ということでは、この釈尊像を御宝前に安置するか、それとも宗祖御影像を安置するかという違目ではなかったかと考えられる。


3、十界曼荼羅本尊の解釈

 それでは、どうしてそのような大きな違目が生じたのであろうか。これを直接説明する史料は今の私たちには与えられていないが、前項でも少し触れた「富士一跡門徒存知事」の記事などから、それは曼荼羅本尊に対する認識の違いがその原因にあったかと考えられる。すなわち、同書には

五人一同ニ言ク、於テハ本尊ニ者可シトテ奉ル崇メ諮否釈迦如来ヲ既ニ立テ、随ヒテ弟子檀那等丿中ニモ造立供養御書在リ之云云。而ル間盛ンニ堂舎ヲ造リテ、或ハ一体ヲ安置シ、或ハ普賢文殊ヲ脇士トス。仍テ於テハ聖人御筆丿本尊ニ者、彼丿仏像丿後面ニ懸ケ奉リ、又堂舎丿廊ニ捨テ置ク之ヲ/日興云ク、於テハ聖人御立丿法門ニ者、全ク以テ絵像木像丿仏菩薩ヲ不為ニ本尊卜。唯任セテ御書丿意ニ以テ妙法蓮華経丿五字ヲ可シ為ス本尊卜、即チ自筆丿本尊是レ也/一、如ク上ノ一同ニ此丿本尊ヲ奉ル忽緒ニシ之間、或ハ曼荼羅也ト云ヒテン死人ヲ覆ヒテ葬スル輩モ有リ。或ハ又詰却スル族モ有リ。如ク此丿軽賎スル間タ多分ハ以テ失ヒ畢ヌ。/日興云ク、此丿御筆丿御本尊ハ是レ一閻浮提ニ未タ流布セ、正像末ニ未タ弘通セ本尊也。然レハ則チ於テハ日興丿門徒丿所持之輩ニ者、無ク左右子孫等ニ譲リ、弟子等ニ不可カラ付属ス。同シク一所ニ奉リ安置シ、六人一同ニ可シ奉ル守護シ。是レ偏ヘニ広宣流布丿時キ、本化国王御尋ネ有ラン期マテ深ク敬重シ奉ルヘシ

とあり、ここには五老僧方が本尊として釈尊一体像や脇士を造立安置し、曼荼羅本尊には軽蔑の思いを持っていたこと、そのために焼いたり売り払ったりして多く失ってしまったことが指摘されている。一方、日興門下は宗祖自筆の曼荼羅本尊を正像未弘の本尊として安置し、広宣流布の時まで尊敬していくことが確認されている。つまり、五老僧方は本尊の中心義である釈尊像と比較した場合、曼荼羅本尊を相対的に低く扱う傾向にあったことになり、このような記述がどこまで史実を反映しているか、にわかには判じがたいが、ただ曼荼羅本尊に対する両者の認識にはかなりの隔たりがあったことは了解できるように思われる。

 そして、この認識の隔たりを今に伝えるものの一つが、両者の曼荼羅本尊書写の形態の違いではないかと考えられる。すなわち、日興門流では派祖の日興師以来、曼荼羅本尊の中央縦に「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と大書し、書写した本人の名前と花押は多く曼陀羅の左下部に比較的小さく加筆される。これに対して、日興門流以外では「南無妙法蓮華経」の首題の下には書写主の署名・花押が中央に据えられ、宗祖の名はあくまでも列衆の一人として書き加えられている。この違いの意味を直接明示する史料もまた私たちは知らないが、これを「観心本尊抄」前半の観心段の結文である


釈尊丿因行果徳丿ニ法ハ妙法蓮華経丿五字ニ具足ス。我等受持スレハ此五字ヲ自然ニ譲リ与ヘタマフ彼因果丿功徳ヲ

と照合することによって、その意味の幾分かの理解が得られるかと思う。

 つまり、日興門流以外で「南無妙法蓮華経」の首題の下に自己の名前を書く場合、それは釈尊の因行果徳のニ法が具足した妙法蓮華経の五字を受持し、釈尊の因果の功徳を譲与されて成仏する自己の姿を示しているものと解釈できるので、あるいは自己本尊義とも称しうる形態なのかも知れない。一方、日興門流の「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」の場合は、妙法蓮華経の五字を受持して、そこに具足した釈尊の因行果徳を自然に譲与されるのは宗祖その人である。そして、これに文永11年12月書顕の千葉・妙本寺所蔵の通称「万年救護本尊」の讃文たる

大覚世尊御入滅丿後、経歴ス二千二百二十余年ヲ。雖モ爾リト月漢日三ケ国之間、未タ有サ此丿大本尊ヲ。或ハ知テ不弘メ之ヲ、或ハ不知ラ之ヲ。我ガ慈父以テ仏智ヲ隠シ留メテ之ヲ為ニ末代丿残シ之ヲ。、後五百歳之時上行菩薩出現シテ於世ニ始メテ弘宣ス之ヲ。

や、同12年2月「新尼御前御返事」の

今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累品に事極まりて候ひしが、・・・上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、・・・

等のご文意を考え合わせると、さらに結要付属を受けた上行菩薩の自覚を得て、滅後末法にて妙法蓮華経の曼荼羅本尊を図顕し、弘宣していこうとする宗祖の姿がそこにはある。曼荼羅本尊についての日興門流の理解をこのように想定して大過がなければ、かくなる理解は間違いなく派祖の日興師に始まったものと考えられる。

 私は当誌曽載の拙稿で、弘安元年(1278)の5月6月を境とした宗祖花押の変化の意味を、それまでの釈尊本尊と曼陀羅本尊の並存の状態から、曼荼羅本尊こそを滅後末法衆生救済の本尊と定めんとする宗祖の意志の表われと推測し、その結果が「本尊問答抄」の「釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とする」の文言となって表われたと論じてみた。今は、このような宗祖の意向を受けて、十界曼荼羅本尊の主体を「南無妙法蓮華経 日蓮」と見定め、その中に妙法を受持して釈尊の功徳一切を譲与される宗祖と、上行の自覚の下に曼荼羅本尊を弘宣する宗祖の二つの姿を認めた日興師は、祖滅直後に宗祖御影像を造立して曼荼羅本尊の前に安置することにより、その本尊の主体としての宗祖の姿をより眼に見える形として表わそうとしたのでないか、そしてそれが日蓮本尊義の淵源となり、日興門流独特の化儀として今に伝承されてきたのではないかと私は推測するのである。

 日興門流と五老僧方との間には、以上のような曼荼羅本尊に対する認識の違いがあった。ただし、五老僧方における釈尊本尊義と十界曼荼羅本尊との関係はもう一つ不明瞭で分かりにくいが、近年、その関係を明快に示されたのが執行海秀氏である。以下、長い引用となるが、氏は「日蓮聖人の曼陀羅について――特に本尊との関係についてI」という論文の中で、次のように述べている。

 したがって、本尊抄に説かれている一念三千は、釈尊の悟りの世界、すなわち精神界を示されたもので、これがいわゆる本抄の題目の法体であるということができる。そしてまたこれが、本化の菩薩に付属せられた要法である。ここに於いて本尊抄には、此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏猶文殊薬王等にも之を付属したまわず。何況やその已下をや、但地涌千界を召して、八品を説て之を付属したまう、とある。そしてその下に、「その本尊の体たらく。本師の娑婆の上に宝塔空に居し、(以下省略)……」というのは、正しく、曼荼羅の儀相を示したものと見ることができるが、その曼荼羅の主体をなすものは、いうまでもなく、釈尊の精神界を表わした一念三千の法であり、本門の題目である。そこで始顕の曼荼羅が、本尊抄のこの文を図顕したものであるとすれば、それは八品の儀相によるものであって、釈尊が妙法蓮華経を説かれた時、十界のすべてが、この妙法を信受して、成仏した姿を顕わされたものとみるべきであろう。それと同時にまた、一面から見れば、その本門の題目を受持するものを諸仏諸尊、諸天が守護し、護念せられている姿であるとも解せられる。更にまた本尊抄に説く、一念三千と妙法五字の関係からすれば、仏の悟りの世界に現われた、十界互具の相を示されたものともいうことが出来よう。

 ところで、本尊抄の文面には、既に一言した如く曼陀羅の用語が無いばかりか、それに対する明瞭なる解説が加えられていない。そこでそれはただ、本尊抄に現われた思想を基調して、曼荼羅を解すれば、以上のような解説が可能であるというに過ぎない。しかしそれにしても、本尊抄の思想を基調とする限り、曼陀羅そのものを直ちに、正境の本尊とするのではあるまい。況や、この曼荼羅を観心の本尊として、本門の教主釈尊を本尊とする、教門本尊より勝れたものと見るが如きは、本尊抄の思想に反するものといわざるを得ない。
 既に述べた如く、本尊抄に於ては、妙法蓮華経にたいしても、また十界互具、一念三千にしても、それは仏の悟りの世界であり仏の精神界なのである。そこでわれら衆生は、これを、自己の観心として、信受するところに成仏が実現せられる。すなわち「一念三千の仏種」を、下種することによってのみ、成仏が可能である。いわばこの仏の法を媒介として、仏に一如するのである。故にわれらの行の正境は、仏そのものでなければならない。法は取って、自己の行法とすべきものなのである。本門の題目は仏そのものではなく、仏の属性であるということができよう。(中 略)

 かように曼荼羅は、寿量品所顕の題目を中心とし、表として現わされたのであるから、その本門の題目を現わされた、本門の教主釈尊を本尊とする面が内につつまれているということができよう。故にもし本門の本尊を明示する場合は、本門の題目は、釈尊の精神とし、因果の功徳として内面につつまれて、このような本門の題目を説かれた本門の教主こそ、本尊とすべきであるとせられている。ここに於て、後の報恩抄には、曼荼羅に於ける中尊の妙法蓮華経は、本門の教主釈尊として表現せられているのである。

 執行氏はここで、「観心本尊抄」に説かれた教理的裏付けにより十界曼荼羅が顕わされたという古来より支持された説に基づいて、曼荼羅の主体が「本尊抄」に論じられた一念三千であり、それはまた本門の題目の法体にして上行付属の要法であること、しかしその一念三千および題目はあくまでも仏の属性であり、釈尊の精神界(内証と考えてよかろうか)を示したものであるから、因果の功徳として釈尊の内面に包まれるので、その題目を説いた教主釈尊をこそ本尊とすべきであることを説いている。そして、


曼荼羅は久遠の仏の精神である一念三千すなわち本尊の本質を図したものであって、それは直ちに本尊の実体を現わしたものではないと思う。

と結語されて、最終的には十界曼荼羅は本尊座から格下げされている。かくなる執行氏の考えがどこまで五老僧当時の人々の考えを代弁しているかは全く不明であるが、一般に曼荼羅本尊の教理的裏付けを説明したと考えられている「観心本尊抄」の文相に準拠しながら釈尊本尊義が説かれており、このような理解に基づき、曼荼羅本尊がいくら宗祖御筆であっても、所詮本尊ではないと考えられていたとすれば、粗末に扱うことも又あったろうかとも思われる。


 けれども、執行氏の解釈には致命的な欠陥があり、それは結要付属を仲介して滅後末法に流布されるべき「妙法蓮華経の五字」は、「本門の題目は、釈尊の精神とし、因果の功徳として内面につつまれて」という理由の下に、久遠の釈尊の中へと投げ返されていることである。しかし、これは右掲した「本尊抄」の「釈尊丿因行果徳丿二法ハ妙法蓮華経丿五字二具足ス。我等受持スレハ此五字ヲ自然二譲リ与ヘタマフ彼因果丿功徳卜」との仰せからすると逆さまであって、釈尊の因行果徳のすべてこそが南無妙法蓮華経の五字に包み込まれて具足され、末法の「我等」へと送られるというのが宗祖の本意と考えられる。結局、曼荼羅本尊を強引に本尊座から格下げしてまで釈尊本尊義を高調しようとした執行氏の試みは成功したとはいえないが、これは裏を返せば、それほどに釈尊本尊義において曼荼羅本尊の位置を定めることがいかに難しいかを表わしていようか。



4、本因妙思想の必要性

 しかし、右述のように、派祖の日興師の処置により一応成立への道を歩みはじめた日蓮本尊義の方も、非常な難関というか、不安定さを抱え込んでいた。前項でも触れた弘安元年半ばを境とする曼荼羅本尊選定という宗祖の英断は、釈尊の順縁・摂受・脱益の在世世界と相対したところに、日蓮(上行・不軽)の逆縁・折伏下種益という滅後末法世界を形成せしめたが、この宗祖が晩年に達成された釈尊の相対化には重大な問題があった。
 それは右にしばしば取り上げた「本尊抄」の「釈尊丿因行果徳丿二法ハ……」との一文から分かるように、この妙法蓮華経の五字および曼荼羅本尊の功徳の源泉は、全く「釈尊の因行果徳の二法」にある。だから、もし釈尊世界の相対化からもう一歩進めて、釈尊世界そのものを切り捨てて、滅後末法世界だけでやって行こうとその独立化をはかったならば、その途端に水の上に浮かび漂う根なし草となり果てる。つまり、いくら末法世界での成仏や成道を主張しても、功徳の実体である釈尊の因果がなくなれば、それは全くの空理空論といわざるをえない。これが宗祖晩年から滅後にかけて成立しつつあった曼荼羅本尊選定に基づく日蓮本尊義の実態であり、ある意味では非常にどっちつかずの不安定さであった。

 そこで、このような日蓮本尊義はその後におおよそ二つの方向へと向かう。一つは、すべての功徳の源泉が釈尊にあるのだから、やはりその源泉に帰るべきであるという釈尊への回帰現象である。ここでは当然、日蓮本尊義を捨てて釈尊本尊義が採用される。宗祖滅後当時では、たとえば日興師より永仁6年(1298)の「弟子分本尊目録」で「背き了んぬ」と記録された越後房日弁師や肥前房日伝師・治部房日位師などが該当するかと推測され、戦国期では後章で紹介する広蔵院日辰師の場合などは、正しくこの釈尊への回帰現象であるうと思われる。

 そして、もう一つの方向は、釈尊がないのならば、その代わりのものを功徳の源泉と定めて、釈尊世界はもとより否定してしまおうという動きであり、これが本因妙思想を形成しようという胎動である。つまり、本因妙思想の必要性であるが、この動きを具体的に図示してみると、次のようになる。

 




 当図の左半分には宗祖が晩年に達成された釈尊の相対化を示したが、それを継承する形で、釈尊の本果妙を超越する場としての本因妙を求め、しかもそれが釈尊の本因妙でないことを示すために名字即の本因妙と規定し、そこに上行菩薩・自受用報身如来を設定して妙法蓮華経の功徳の源泉を求めていこうとする、このような教学的な要求というか、動きの中で、本因妙思想は形成されていったと考えられる。

 日興門流の本因妙思想が形成されてきた原因は決して単一ではなかったろうが、現存史料のよる限り、この日蓮本尊義の教学的裏付けの必要性が、その最も主要な原因であっただろうと私は考えている。



 

 

 

 

 

 

 



第2章 室町中期における畿内勝劣派の交流について


 私はこれまで、日興門流の本因妙思想の形成に関して、主に慶林房日隆師の本因妙思想との交錯を中心に置いて大枠の流れを考察してきたが、当章では室町期の畿内における勝劣派諸門流の交わりの一断面を紹介し、それが一つの場として本因妙思想の形成にどのような意味を持ったか、そしてそのような流れを受けながら本因妙思想に強烈な反旗を翻した広蔵院日辰師がどのように登場したか、少々述べてみたい。



1、「日要奏上記録」について

 千葉・妙本寺第11代の日要師ハ1436〜1514)は、延徳元年(1489)に師匠の日朝師より日向国の学頭坊職を相続した旨を披露するために、日向国から房州の妙本寺に登ったが、その住山中に前住・日信師の帰寂にあい、そのまま推されて妙本寺の法灯を継承した。時に日要師は54歳。その丁度10年後の明応8年(1499)3月に師は上洛して念願の奏聞を遂げ、次で故郷の日向に赴いて、文亀2年(1502)まで同地に滞在して僧俗を教化している。

 現存する日要師の「申状」は「日蓮聖人丿遺弟富士山丿隠侶日要」の名で作成されているが、その「申状」を提出して遂げられた奏聞に関する「日要奏上記録」という一書が現在の妙本寺に遺されており、それには次のように記されている。


富士本門寺日要申状〈同宿事賢・同道隆珍房〉

中御門殿宣秀請ケ取リ申シ沙汰、

当関白一条殿、当伝奏勧修寺殿、自リ頭弁令ム啓セ案内ヲ、長橋御局被レ達セ上聞二候ヒ了ヌ。

明応八年三月十九日持参

同廿四日奉ル書キ出シ之ヲ

内儀ハ調御寺乗光坊申シ沙汰候、意見常住院日忠・蓮信坊日宣、二通申状存筆、大林坊日鎮。

 また、この記録について妙本寺の日我師の「申状見聞」には

其丿後明応六年丁已三月妙本寺ヲ御出テ同シク五月堺ニ着シ、同シク八年己未三月十九日有リ参内、申状二通挙ケ玉フ、同シク廿四日丿御書キ出シ于ニ今妙本寺二有利之、申状ハ他門法華僧(本能寺僧也)大林坊日鎮之筆也。一ノ申状三通書キ之ヲ一通ハ大裏へ一通ハ当寺二通ハ学頭坊所持也。内々丿執リ成るシ乗光坊、奏聞丿奏者ハ中丿御門殿也。乗光坊(調御寺衆)ハ後帰シ当門ニ堕落シテ号ス寂珍卜、今丿大黒屋孫二郎カ亡父也。于ニ時常住院日忠ハ尼崎門徒丿大学匠道心者也。

と説明されている。これらによれば、明応6年5月に和泉堺に到着した日要師は、2年後の同8年3月19日に内裏に参上し、蔵人の頭で中弁の中御門宣秀(1469〜1531)が奏者となり、伝奏の勧修寺政顕と関白の一条冬良(1464〜1514)の管轄下、長橋御局が取り次いで後土御門天皇に「先師日目上人申状」と自らの「申状」の2通を奏上し、24日に右の「日要奏上記録」が「御書出」として作成されている。

 右記録に「同宿事賢・同道隆珍房」とある内、「事賢」とは日要師の弟了で、後の永正5年(1508)3月13日に日要師書写の曼荼羅本尊を授与されている。同宿とあるのは、あるいは保田妙本寺出立以来、師の日要師に随侍しているという意であろうか。もう一人の「隆珍房」は、この奏事の5年前の明応3年に和泉堺の家屋敷を日要師に寄迹している人で、同屋敷はその後『堺弘通所→本伝寺』と発展し、日郷門流の本山・妙本寺と定善寺や学頭坊が所在する日向国との重要な中継地となっている。この隆珍房について、堀日亨師は「八品徒」=日隆門流とするが、その根拠は示されておらず、その可能性は高いものの実否は不明である。同人については、むしろ日我著「我邦雑記」に日要師が「当家ノ大信者也」と称揚して挙名した関東の藤平九郎衛門道心と和泉堺の是珍善左衛門日尭と筑紫の長友大炊要耳(日我師の父)の3人の内の是珍善左衛門日尭のことである可能性が高いかと考えられる。

 次に「内儀ハ調御寺乗光坊」と記される調御寺は、現在の大阪府堺市宿院町に日真門流本山・本隆寺の末寺として所在するが、本来は日尊門流の要法寺の末寺であり、「日宗年表」には応永19年(1421)の創迹を見ることができる。乗光坊は同寺内の僧坊と推測され、その坊主の実名等は不明であるが、右の日我師の記迹に「内々丿執リ成シ乗光坊、奏聞丿奏者ハ中丿御門殿也」とあるように、この日要師の奏聞では公家側の中御門宣秀と共に実質的な斡旋役を務めている。なお、宣秀の父・宣胤の「宣胤卿記」によれば、永正3年(1506)から4年にかけて宣胤は要法寺の前身・住本寺でしばしば月次迹歌会を行ったりしているので、このような日常的な交流に基づいて、恐らく乗光坊が奏者役を宣秀に依頼したものと推測される。また右の「申状見聞」には、この乗光坊は後に日郷門流に改衣して寂珍と称したと迹べられている。

 そして、最後に「意見常住院日忠・迹信坊日宣、二通申状存筆、大林坊日鎮」と見えるが、この内の「常住院日忠」とは日隆門流の妙蓮寺第11代を嗣いだ日忠師(1438〜1503)のことで、日我師が「尼崎門徒丿大学匠道心者也」とその学匠ぶりを賞賛しているように、派祖の日隆師亡き後の教学的な実力者である。もう一人の意見として記名されている「蓮信院日宣」の伝は未詳であるが、日要師の「申状」の筆記者として末尾に記されている「大林坊日鎮」とは、長享2年(1488)に本迹勝劣義を主張して京都・妙本寺(妙顕寺)より独立した常不軽院日真師(1444〜1528)の同盟者(一説には日真師とは同腹の兄弟と伝えられる)で、日鎮師が本隆寺を建立して日真師を迎え入れたとされる。日我師は右に「他門法華僧(本能寺僧也)」と記しているが、これは日真師や日鎮師等が妙本寺(妙顕寺)を退出する際に、前に同じように本迹勝劣義を立てて別派した日隆門流の本能寺に移り、その支援のもとに後に本隆寺に入ったという経過があり、それに基づいて「本能寺僧」と日我師は注記したものと考えられる。

 以上のように、保田妙本寺の日要師が明応8年3月に遂行した天奏に関しては、日郷門流の他に、京都および和泉堺の日隆門流・日真門流・日尊門流という、いわゆる本迹勝劣派グループの協力を得て、それが実現されていることが知られる。このような勝劣派グループの交流は当然一時のものではありえず、ある程度持続された関係であったと想定されるが、右は「日要奏上記録」という一つの史料の上に表れたその一断面であったといえる。


2、慶林房日隆師をめぐって

 八品教学の祖・日隆師(1385〜1464)の事跡や教学については、これまでの覚書等で不十分ながらも度々言及してきた。そして、特にその教学の中に示される本因妙思想に対しては、日郷門流がどれだけ、またどのようにしてその摂取に力を尽くしてきたかに触れてきた。すなわち、日向・妙円寺の日穏師が宝徳年中(1449〜52)に「日隆第二丿弟子」として、当時教学的な円熟期を迎えていた日隆師から法門相伝を受けていること、また妙本寺自体でも第8代・日永師(〜1460)が金銭等を負担した上で、第9代・日安師(1415〜87)や右の日要師が京都や尼崎に赴いて日隆教学を学習していることや、その過程の中で日隆師の主著「本門弘経抄」113巻や「一帖抄」「四帖抄」’等の著作を書写するなど、日隆師の晩年から滅後にかけて、日郷門流の総力を挙げてといって良いほどの集中的な作業が行われている。

 前項で触れたように、明応3年(1494)に妙本寺は和泉堺に布教所を得ており、同所はこれ以降の畿内での活動の拠点となったであろうが、右のようなそれ以前の畿内での日郷門流の活動を主に支援したのは、「日要奏上記録」に見られた日隆・日真・日尊の諸門流という勝劣派グループではなかったかと想像される。そして、それは勝劣派といわれるように、「法華経」の本迹二門に勝劣はなく基本的に一致であると主張する一致派に対抗するグループではあるが、右の日郷門流を援助した当時の日隆・日真・日尊の諸門流をつないでいたのは、その本迹勝劣義と共に日隆師の教学ではなかったかと思われる。

 妙蓮寺日忠師は日隆師と共に妙本寺(妙顕寺)を退出した仏性院日慶師(1397〜1478)より妙蓮寺を後継したが、教学的には日隆師の紹述以外に特色なしと評されるほどであるから、その八品教学や本因妙思想の習得にいそしんだに違いない。一方、大林坊日鎮師も右述のように長享2年に常不軽院日真師と共に独立した際に日隆門流の援助を得ており、教学的にも日隆師の義に私淑したとされる。日真師はその晩年、日隆教学の八品正意を否定して寿量品正意を立て、本因下種論に対して本果下種論を主張して強硬に対立するに至ったが、その際に日鎮師は両者の調停に尽力したと伝えられる。

 これに対して、日尊門流と日隆師の教学との交渉を示す痕跡を見つけることは、今のところできない。そもそも、当時の日尊門流の実態はほとんど不明に近く、人物でいえば文明13年(1481)頃に日尊門流の教学にあきたらずに大石寺日有師の門に帰依したという左京日教師(1428〜)がいるが、その著作を見る限り、日隆師の義の影響は余り看取できない。ただし、ここで一つ注意しなくてはならないのが、その奥書等から左京日教師を含めた日尊門流内での流伝が伝えられる「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書の存在である。私は先にこの両巻血脈書と日隆師の本因妙思想との間に見える関連性を指摘したが、もしこれが認められるならば、右の日隆師の教学を介して連携していた日尊門流等の勝劣派グループというテーブルの上で、15世紀中頃にこの両書が作成された可能性はやはりあるかと思われる。

 このように見てくると、この室町中期の1400年代から1500年代にかけて、日隆師の教学を主な紐帯として形成されていたであろう畿内勝劣派グループという大枠は、日興門流の本因妙思想、特に日郷門流において本因妙思想が形成されていく上には欠くことのできない大切な場を提供していたと評してよかろう。そして、この場の中から登場して、日隆師の教学そのものや、その影響下に形成された日興門流の本因妙思想および日蓮本尊義に強い批判を加え、釈尊本尊義を主張したのが広蔵院日辰師である。



3、広蔵院日辰師の登場

 京都・要法寺の第13代・日辰師(1508〜76)は、右の「日要奏上記録」が作成された明応8年(1499)より9年後の永正5年に京都で誕生した。7歳にして要法寺の前身・住本寺にて得度し、大永5年(1525)18歳頃から本隆寺日真師に就いて、天台学を中心に、日真師が帰寂するまでの3年余り修学している。この最晩年の日真師に若年の日辰師が就学した理由は不明であるが、右にも触れたように、この時期の日真師が日隆師の教学を強く批判して対立を顕わにしていたことを考えれば、結果として日辰師が後に展開する本因妙思想や日蓮本尊義への批判の教理的基盤が、この就学の中で醸成されたともいえよう。日真師の教学は、右記の大林坊日鎮師や慶隆日諦師(1471〜1558)・証誠日雄師などによって継承されたが、日辰師は日真師晩年の日隆教学批判を強く引き継いだ日諦師や、「一経読不事」 「仏像造不之論」等を著して日興門流教学批判に力を傾けた日雄師と深く交わり、その過程の中で自らの教学を構築していったことを勘合すれば、この若年での日真師との邂逅は決定的な影響を日辰師にもたらしたと考えられる。

 そんな日辰師ではあるが、「自要寺日辰新建立ノ本因坊へ返状」に

1、日辰昔享禄庚寅八月廿二日西山本門寺ニ初テ参詣シ明年四月廿日迄逗留シ、西山ヲ出、五月八日ニ京着シ、天文六丁酉八月迄西山ノ法門ヲ高上ニ存シテ京都堺ニテ造仏読誦堕獄ノ法門ヲ弘メ畢。爾ルニ此ノ法門論義スレバ悉ク日辰負所ニ堕ツ。日辰思ハク、此ノ法門日朗等ノ余門流問答ノ時ハ一言モ不可出ス。況ヤ閻魔王前ノ問答ヲヤト存シテ、西山日心上人ノ相伝造仏読誦堕獄ノ法門ヲ停止シ罪障深重ナリト思テ、頌文ヲ作テ仏前ニ於テ改悔セシム。

とあるように、享禄3年(1530)23歳の時に富士の西山本門寺に赴いて同寺第11代の日心師に師事し、釈尊造像および「法華経」の一部読誦を禁止する「造仏読誦堕獄の法門」を学んで、その後に京都や和泉堺にて同法門を盛んに弘通したが、天文6年(1537)8月に他門の諸師に破折されて非を悟り、造仏・読誦の肯定へと転じている。

 これは同じ日興門流でも派祖の日尊師以来、釈尊の造像や法華一部の読誦を容認する傾向にあり、それゆえ一度は自ら否定した日尊門流の教学を、右の日真師およびその門弟たちより習得した教学に基づいて再構築しようという日辰師の変遷ではあるが、動きとしてはかなり激しいものなので、その周囲にもいろんな波紋を投げかけたものと想定される。常不軽院日真師の孫弟子にあたる証誠院日修師(1532〜94)が天正7年(1579)に註解した「真流正伝抄」巻五・常不軽品釈には、「不専読誦経典但行礼拝」の一文について、

近年洛中ニ自立廃亡之彼宗丿流ニ、或ル時ハ云ヒ造仏読誦ハ堕獄ナリト、或時ハ諸流同事ニ無ンハ造仏読誦者、檀那不帰依丿故ニ成シ造仏読誦丿義ヲ、如ク酔狂丿一年二年之間ニ変スル故ニ門徒種々ニ破シ、還テ富士ト与丿京成レリ義絶ト、是一人丿所作也、世話ニ如ク云カ啼モ狐、告ルモ狐卜也、故ニ京童丿諺ニ彼丿住持ヲ云うフ狐坊主卜也、可笑云云。

と述べられている。文中に指摘されている「一人」を日辰師と断定する井上博文氏の見解が正しいものであれば、日辰師の造像・読誦の否定から肯定への転換は檀那の帰依が目的であったこと、周囲の人は「酔狂」と見たこと、そしてその後に展開された日辰師の富士諸山調停という行動をも含めて、それが富士と京都との義絶をもたらしたという認識がここには示されている。

 日辰師の「負薪記」には

門徒決定ノ聖教無レハ本山ノ住持学頭皆悉他門他山ニ交り入り忍々ニ学問ス、或ハ直ニ捨テ日興門徒ヲ成リ他門丿僧卜、還テ謗日興門徒、伊豆ノ伊東ノ六ケ寺ハ捨テ日尊門徒ヲ或帰シ大石寺ニ、或ハ付キ西山ニ、或ハ伏ス重須ニ、下野日尊門徒多ハ付大石ニ、京都ノ僧檀一人二人五人三人多ク帰ス本能ニ。

とあり、日興門徒および日尊門徒の混乱・衰退ぶりと、その原因が教学の不振にあることが指摘されている。特に、伊豆や下野の日尊門徒が富士諸山に帰伏し、京都の僧俗が日隆門流に改衣したことが嘆かれており、このような現実的問題に対処するためヽに、日辰師の教学的な立て直しが、慶林房日隆師の教学や日興門流の不造像・不読誦の義への批判を通して行われたであろうことは、容易に想像される。

 前項末尾にて、1400年から1500年代にかけての室町中期に、日隆教学を共通基盤として形成されていたであろう日隆・日真・日尊・日郷という諸門流の畿内勝劣派グループという場の中から、まさしく日辰師は登場したと述べたが、それゆえ日郷門流等の本因妙思想が慶林房日隆師の本因妙思想の強い影響下に成立したという経緯について、日辰師は文字通り熟知しており、それが「負薪記」に見える

又不ル帰セ本能ニ所ノ日要・日眼等ノ云ク、八品ハ信ノ座、神カノ一品別シテ肝心、宝塔ノ一品ハ元意ノ一品卜習也、日興門徒ノ法門ハ此類ノ法門二非ス。然二日向国ノ日郷門徒ハ日隆ノ誤ヲ不シテ知蓮公ノ百四十八通ノ御抄箱ノ中二入テー帖玄文ヲ賞翫セル事ハ隆門ノ面目、興門ノ恥辱也。

という強い非難の言葉となって表われている。そして、日辰師はその勝劣派グループという場の中の日真門流の教学に自らの足場を定め置いて、その対抗関係にあった日隆教学に破折を加え、さらにその日隆教学に基づいた本因妙思想によって不造像・不読誦を立てていた日郷門流の主張や、日尊門流の造像・読誦を非義として大石寺に改衣した左京日教師の日蓮本尊義を排し、釈尊本尊義を正面から押し立てて日尊門流の再建を目指すという形となっている。今、その関係を簡単に図示してみると、次のとおりである。

 次章にてその批判の実態の一端に触れてみるが、このような日辰師の作業から、私たちは前々項の明応8年の「日要奏上記録」以降に、それまで穏やかな協力関係にあった畿内勝派グループという場に、次のような2つの変化のあったことを知ることができる。1つは、前にも少し述べたように、常不軽院日真師が日隆教学に強い批判を加えて対立関係に入ったことであり、これが後に強固な教学的な足場を日辰師にもたらしたことも前記の通りである。もう一つは、ほとんど時期を同じくしながら、主に日隆教学に拠りつつ独自の本因妙思想を形成した日興門流(日尊門流を除く)が、その本因妙思想を教理的な裏付けとした日蓮本尊
義の現実的主張として「造仏読誦堕獄」のスローガンを掲げて、釈尊本尊義に強く対抗したことである。

このような流れを受けて、日辰師は同じ日興門流にありながら、釈尊本尊義を採用する日尊門流の再建者として、その不造像・不読誦を否定することとなったのである。

 なお、本章で「日要奏上記録」を中心に素描した畿内勝劣派グループの動向に、多少の周辺状況を含めて通時的に示せば、おおよそ次のようになる。

永享元年(1429)  慶林房日隆 「四帖抄」を京都の諸山に回達して独立を宣言したと伝う

宝徳年間(1449〜52)  日向・妙円寺日穏日隆に師事して法門相伝を受ける

長禄3年(1459)  妙本寺日安尼崎にて日隆「一帖抄」を書写す

寛正3年(1463)  妙本寺日要小泉久遠寺にて日隆「四帖抄」を書写す

同 5年(1464)  慶林房日隆帰寂

文明13年(1481)頃  左京日教日尊門流より大石寺日有に改衣す

文明14年(1482)  重須・保田・小泉の衆徒大石寺に赴いて争論を持ちかける

同  年     大石寺日有帰寂

長享2年(1488)  常不軽院日真本隆寺を創建して一派独立す

明応3年(1494)  隆珍 和泉堺の家屋敷(後の本伝寺)を妙本寺日要に寄進す

明応8年(1499)  「日要奏上記録」が作成される

永正3年(1506)  中御門宣秀の父・宣胤翌四年にかけて辻本寺にて月次連歌会を行なう

永正5年(1508)  広蔵院日辰誕生

大永2年(1522)  日真日隆教学に異義を唱えて対立する

大永5年(1525)  日辰日真に就いて台学等を学ぶ

享禄元年(1528)  常不軽院日真帰寂

享禄3年(1530)  日辰富士西山本門寺に赴いて日心より「造像堕獄の法門」を学ぶ

天文6年(1537)  日辰 「造像堕獄の法門」を捨てて釈尊本尊義を立てる


 

 

第3章 広蔵院日辰師の本因妙思想批判と釈尊本尊義



 最後に、日興門流に属しながら、その本因妙思想を非議した日辰師の具体的な見解を紹介しようと思うが、今は本因妙思想に強く関連する問題として在世下種の有無の問題を取り上げ、その在世下種を認めることによって成り立つ釈尊本尊義について述べてみたい。



1、在世下種の有無


@ 問題の焦点

日辰師は、「自要寺日辰新建立ノ本因坊へ返状」に

本能寺日隆ノ十三問答抄二在世二無シト下種被レ書タリ。富士門徒ノ小学問ヲ見テ実カト思テ釈尊ヲ脱益卜云云。本因妙抄ノ仏ハ熟脱ノ教主ノ文卜能々符合シタル者哉、弥本因妙抄ノ文貴キナンドト思テ釈尊ヲ捨ント思フ見ヲ生ジ、下種ノ今此三界乃至日蓮ナンドト申法門ヲ悪敷得テ心、経釈御書本因妙抄百六ケノ深意不知不覚ニシテ造仏堕獄卜心ニ思ヒ口ニ任セテ被申。十三問答抄ニ云ク、釈迦ノ妙法ハ木ノ上ノ菓ノ如シト被書タルヲ、亦或ル人聞キ覚テ日蓮聖人ノ唱玉フ妙法ハ落タル菓ノ如シト披申也。亦夕或人釈迦ハ如白米丿蓮祖ハ如シト籾ノ被申也。此等ノ諸義私曲ノ引キ事也。

「観心本尊抄見聞」に

問フ、在世下種ヲ募テ何丿詮アリ乎。答フ、於テ釈尊ニ王師親丿三徳アリ。亦タ種熟脱丿三因アリ。然ルニ在世下種ヲ不ル許サ時ハ本果下種ヲ不許サ、不ル許本果下種ヲ時ハ以テ大事丿下種ノ一法ヲ属ス無法ニ。無法ニ属スル時ハ咸ク謗ヲ生ス。生スルカ咸ク謗ヲ故ニ見聞丿人師、又於テ釈迦ニ無益丿思ヲ生シ、奴婢僕従相対言ヲ以テ釈尊ヲ呼テ敢テ不加へ貴敬ヲ。或ハ悉達太子ノナリアカリノ疏釈ヲ造リ、或ハ是レ等丿邪義ヲ以テ為テ正義卜歴覧スル余文ヲ故ニ、日興、波木井丿六郎丿問ヲ答へ玉フ於テ書状等ニ生シ僻見ヲ不ル許サ木絵丿二像ヲ一類出来ス

「負薪記」に

世人、在世脱益ノ釈迦ハ我等カ下種ノ仏二非ル事ヲ説ク、此疑心出来セシカ故ニ経釈御書ヲ為シ本ト在世下種有之旨ヲ結ヒ畢。則チ義当ル破スルニ日隆丿十三問答抄丿在世下種丿論義也。亦義当ル破スルニ不造ノ一義ヲ也。

と、それぞれ記している。これらによると、慶林房日隆師が「十三問答抄」の中で釈尊の在世に下種はないと説いたところ、富士門徒がこれを見て釈尊を脱益の仏と判断し、それが「本因妙抄」や「百六箇抄」の文相とよく符合したので、末法の下種に釈尊は不用だから、造仏する者は堕獄だと主張したという。また、同じ「十三問答抄」の「釈迦の妙法は木の上の菓の如し」という文を見て、釈尊の妙法と日蓮聖人の妙法との間には、あたかも木の上の菓と落ちた菓、あるいは白米と籾という種脱の法体上の相違があると、富士門徒が曲解したことを指摘している。

「観心本尊抄見聞」によれば、釈尊の在世下種を認めないことは本果妙釈尊の下種を認めないこととなり、下種の機根にとって本果妙釈尊は無益として尊敬せず、それゆえ「悉達太子のなりあがり」=応仏昇進の自受用報身と規定しているという。そして、そんな邪義に基づいて、日興書状「原殿御返事」に見える

日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一ニ人奉書候へとも、未た木像は誰も不奉造候に、……

等の文を解釈するものだから、木絵二像の造立を許容しない一類が出現したと嘆いている。最後の「負薪記」では、以上のような認識から、「法華問要集」では釈尊在世に下種があることを論証したが、これは日隆師の「十三問答抄」の主張を破すと共に、釈尊不造像の義をも論破するものであるという日辰師の目論見が述べられている。

 この在世下種があるかないかという問題は、いうまでもなく「観心本尊抄」の

在世丿本門卜末法之初ハ一同ニ純円也。但シ彼レハ脱、此レハ種也。彼ハ一品二半、此ハ但夕題目丿五字也。

という一文をどう解釈するかに起因しており、「彼レハ脱」と示された在世本門の一品二半は、文字通り脱益だけなのか、それとも下種益をも認めるのか否かという問題である。さらに、この種脱の問題を久遠の本時にスライドさせて、在世本門の一品二半と同じように本果妙を脱益と規定し、下種を本因妙に配するのか、それとも本果妙にも下種益はあるとするのかという本果下種の有無が同時に論じられる。


 その結果として、もし法華本門の久成顕本の釈尊および本果妙釈尊が脱益に限定されてしまえば、滅後末法で上行菩薩の自覚を帯びた宗祖・日蓮より、下種益を受けることが既定している私たちにとって、釈尊は無益となり、その造像も不要となる。本因妙思想に対して本果妙思想を立てて、釈尊本尊義を主張する日辰師としては、その論理的根拠である在世下種および本果下種の存在を、何としても論証する必要があったのである。



A 日隆師の見解

 前の日辰師の指摘に従って、「十三問答抄」の冒頭『第一・在世下種事』によって日隆師の見解を少々検証してみよう。

 先ず、在世下種について、日蓮宗の意として末法が下種の時であり、下種の法が本門の南無妙法蓮華経であるという大前提を示した上で、三千塵点および五百塵点が十界皆成の根本下種であり、今日在世は化道の終わりである脱益なので、そこに下種を 論ずることはできないと、在世下種が否定されている。その証文として、天台・妙楽の経釈では、「玄義釈籤」巻十の五重玄義の第五・判教の大意を明かす

自リ本地丿真因初住已丿来タ、遠ク鍳ム今日乃至未来大小丿衆機ヲ。故ニ云フ本行菩薩道時所成寿命今猶未尽ト。壹ニ今日迹中丿草座木樹ニシテ方ニ鍳ン今日大小丿機ヲ耶。次ニ文云丿下ハ別シテ明ス鍳機ヲ。以丿今日之事ヲ験ム久遠之智ヲ。・・・故ニ知ヌ今日丿逗会ハ赴ク昔丿成熟之機ニ。

の文や、「法華文句」巻一の四節三益の内、第二の久遠下種の地涌等と第三の大通結縁を示す

久遠ヲ為種ト過去ヲ為熟卜近世ヲ為脱ト、地涌等是也。復次ニ中間ヲ為種卜四味ヲ為熟ト王城ヲ為脱ト、今之開示悟入丿者也。

の文に、「法華玄義」巻一に説かれる三種教相(根性の融不融の相・化道の始終不始終の相・師弟の遠近不遠近の相)の大綱などを挙げ、宗祖の御書では、「富木入道殿御返事」の

寿量品は譬へ木ニ、爾前迹門をば譬ル影ニ之文なり。経文に又有リ之。五時八教・当分跨節・大小丿益ハ如し影丿。本門の法門は如しト木丿云云。又寿量品已前之在世之益は闇中丿木影也。過去に聞シ寿量品ヲ者丿事也等云云。

の文や、「曽谷入道許御書」の

問テ曰ク、華厳之時別円丿大菩薩乃至観経等之諸丿凡夫丿得道ハ如何。答テ曰ク、彼等丿衆ハ者以テ時ヲ論スレハ之を其経丿似タレトモ得道ニ、以テ実ヲ勘スル之ヲ三五下種ノ輩也。

の文、そして「法蓮抄」の


されば初メ寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等の雲の如くに集リて候し、大集・大品の諸聖も、大日経・金剛頂経等の千二百余尊も、過去に法華経の自我偈を聴聞してありし人々、信力よはくして三五丿塵点を経しかども、今度釈迦仏に値匕奉リて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして、爾前の経々を縁として得道なると見えたり。

の文を挙げて、これらがすべて下種を過去に置いて脱益を今日に置き、それゆえ爾前迹門や涅槃の諸部の円は皆脱益となるので、在世下種が成り立つ余地はないとして、

如此宗義所詮ハ在世ヲ一円ニ脱益ニ取リ定ノテ以テ此脱ヲ還リ過去種ニ、雖脱在現具騰本種シテ又以過去本種付シ上行ニ成ス末法下種ト、是本門流通丿本意也。何ソ許シ在世下種丿義ヲ耶。

と結論している。

 次に本果下種については、前々稿で本因妙思想が形成されていく際の難関として本因妙=上行菩薩の義と共に本因妙下種(本果下種の否定)を取り上げ、「十三問答抄」の『第一・在世下種事』の一部の記述によって説明を加えて、それを前稿にも再掲した。今は多少の重複を恐れながら、その全体の概略を示せば次の通りである。

 前々稿でも触れたように、この問題は本眷属たる地涌の菩薩の三益の内、下種益に対する解釈が焦点となっており、先ず「法華経」従地涌出品には

我レ於テ伽耶城菩提樹下ニ坐シテ得テ成スルコトヲ最正覚ヲ、転シ無上丿法輪ヲ、爾シテ乃チ教化シテ之ヲ、令ム初メテ発サ道心ヲ。

とあり、正覚を得た本果妙の釈尊が地涌の菩薩の道心を起こさせたとして、本果下種が説かれている。これに対して、右にも掲げた「法華文句」巻一の四節二益の第二には

復次ニ久遠ヲ為種ト過去ヲ為熟卜近世ヲ為脱卜、地涌等是也。

とあり、天台大師は「久遠ヲ為種ト」としか示さないが、妙楽大師の「文句記」巻一には

次ニ復次丿下、本因果ニ種シ、果後近ク熟シ、適ニ過世ニ脱ス。指ス地涌丿者ヲ

と見え、地涌の菩薩に対する下種が「本因果ニ種シ」と釈されている。日隆師はこの「本因果ニ種シ」の釈について、下種は因位に限ること、また下種は人天の機の上に論ずるものであるという原則を踏まえて料簡する二との必要性を示した上で、

次当宗丿意ハ以二本門八品上行要付ヲ憑本尊卜為宗旨卜。此八品丿意ハ以本果ヲ摂本因ニ本因総在丿因果不二妙法蓮華経ヲ以テ付シ上行ニ、以上行本時娑婆世界ノ一切衆生并ニ末法悪人二可成二最初下種ヲ事ヲ説ク也。

と述べている。二れは師の基本的な理解を示したもので、「法華経」本門八品の意は、本果を本因に摂した因果不二の妙法蓮華経を上行菩薩に付属し、その本因妙の上行が本時および末法の衆生に最初の下種をほどこすというものである。日隆師はその文証として「曽谷入道許御書」の

而ルニ地涌千界丿大菩薩、一ニハ住スルコト於娑婆世界ニ多塵劫ナリ。二ニハ随テ於釈尊ニ自リ久遠已来初発心丿弟子ナリ。三ニハ娑婆世界丿衆生丿最初下種丿菩薩也。如キ是丿等丿宿縁之方便超過セリ於諸大菩薩ニ。

の一段を挙げて、久遠の本果成道にも本門八品上行要付があることを指摘し、その本涅槃妙の滅後末法での上行による最初下種に、「種子丿本仏ハ久遠釈尊也。下種丿本師ハ久遠地涌也」という本果釈尊と本因上行の関係を含ませて、妙楽は「本因果ニ種シ」と釈したが、当家としては下種は本因妙に限るとして本果下種を退けている。

 最後に、師は「本因果ニ種シ」の釈について、右義を踏まえながらも改めて二義を説示して会通を加えている。第一義は、下種は本因に限るけれども、本時の因果は互融して同体である辺に約して、下種は因果に亘ると妙楽は述べたという。第二義は、本果に下種はないが種子はあるというもの。つまり、本果釈尊証得の妙法蓮華経の種子を本因上行が受け取って、一切衆生に下種する辺を総じて「本因果ニ種シ」と釈したという。そして、第三義は、久遠本時に今日と同様に本門八品上行要付の滅後末法の下種を説く時、やはり今日のように「彼レハ脱、此レハ種」で、在世脱益と末法下種があるが、末法下種の裏にある在世脱益の辺を所聞の下種の法に従って本果種と称し、それに下種の本処たる本因種を合わせて「本因果ニ種シ」と妙楽は述べたものと会通している。



B 日辰師の見解

 本項では、日辰師の著「法華問要集」の末尾に収録されている『在世下種有無之事』によって、師の見解を検証してみる。右述の通り、この『在世下種有無之事』の一段は日隆師の「十二問答抄」冒頭の『第一・在世下種事』の主張に反ばくするために書かれており、特にその前半は日隆師の義の逐一の破折に当てられている。

 日辰師は、先ず「在世は脱益、滅後は種熟」という二益の相配はあくまでも一往の対判であって、在世には種熟脱の三益が総在することを力説している。その証拠として、師は二つのグループの文を引いている。第一グループは、前来しばしば話題となっている四節二益の第二たる久遠下種の地涌の菩薩についての「法華経」従地涌出品・「法華文句一巻・「文句記」巻一の一連の経釈に、道逞「文句輔正記」の

本因果種トハ者、此レ即チ如来行スル菩薩道ヲ時為ニ他丿下種シ、証果之時復タ為ニ下種ス。故ニ名ツク本因果種ト。

の文が引き加えられ、「文句記」巻一の「本因果ニ種シ」と道逞の釈に本果下種の相は明白であると指摘している。第二のグループは、右の四節二益はあくまでも代表的な四節を挙げただけで、あらゆる節々番々には二益が総在する二とを証明するための引文で、四節二益の後に見える「法華文句」巻一の

其丿間節節ニ作二世九世づヲ為種卜為熟卜為脱ト、亦応無妨。何ヲ以テの故ニ。如来自在神通之力、師子奮迅大勢威猛之力、自在ニ説ク也。

と「文句記」巻一の

二世九世、種熟脱丿三アリ。是レ則チ念念丿三密、念念丿二九、念念丿一段、念念丿逆順、念念丿身上、一一不同ラ、 一一入実ニ。・・・三段既ニ其ラ倶ニ生ス種等ヲ。則チ知ヌ字字句句会会味味、世世念念ニ常ニ為ニ衆生丿作ス一仏乗丿種塾脱ヲ也。

の文に、二種教相の第二・化道の始終不始終の相に見える「法華玄義」巻一の

並ニ脱シ並ニ熟シ並ニ種ユルコ卜番番ニ不息マロ大勢威猛二世ニ益ス物ヲ。

と「玄義釈籤」巻一の

並脱等トハ者約シテ多人ヲ説ク。於テハ是レ種、於テハ此ニ是レ熟、互ニ説クコト可シ知ル。是丿故ニ云フ並及日番番不息ト。・・・故ニ世世時時念念ニ皆有ルカ種等丿三相故也。

の文が引証されている。第三のグループは、宗祖遺文の「曽谷入道許御書」の

於テ仏丿滅後ニ有リ三時。正像二千余年ニハ猶有リ下種丿者。例セハ如シ在世四十余年丿。不ンバ知ラ機根ヲ無ク左右不可ラ与フ実経ヲ。今ハ既ニ入テ末法ニ在世丿結縁丿者ハ漸々ニ衰微シテ、権実丿二機皆悉ク尽キヌ。

の文と、「観心本尊抄」の

地涌千界不ルハ出テ正像ニ者、正法一千年之間ハ小乗・権大乗也。機時共ニ無シ之。四依丿大士以テ小権ヲ為シテ縁ト在世丿下種令ム脱セ之ヲ。多クシテ謗可キ破ル熟益ヲ故ニ不説カ之ヲ。例セハ如シ在世丿前四味丿機根丿也。

の文の二つで、宗祖の意見として在世の下種(結縁)が明言されていると日辰師は述べている。

 次に、下種は人天の機の上に論ずるものであり、釈尊在世は二乗根性のための説教であるから下種はないという日隆師の指摘に対して、二乗は四衆(発起衆・影向衆・当機衆・結縁衆)の当機衆に約した場合であって、結縁衆に約すと下種がある旨を述べ、師は諸釈を引いて名字即=結縁=下種の義を証明している。

 さらに、「本因果ニ種シ」の語に日隆師が加えた会釈の二義を逐次検討している。第一義の「下種は本因に限るけれども、本時の因果は互融して同体である辺に約して、下種は因果に亘ると妙楽は述べた」という会釈には、下種は本因に限るというが、それでは右に示した本果下種を明示する経釈はどう扱うのかと反論している。

 第二義の「本果に下種はないが種子はあるというもの。つまり、本果釈尊証得の妙法蓮華経の種子を本因上行が受け取って、一切衆生に下種する辺を総じて『本因果ニ種シ』と釈した」という意見については、改めて本果の在世に下種があることを示し、「本因果ニ種シ」の語を本果釈尊が証得した妙法蓮華経の種子を本因の上行が付属され、それを下種すると解釈するのは誤りで、「本因果ニ種シ」の釈文は本因上行自身が蒙る下種を示したものであって、上行が行なう衆生下種に関しての釈文ではないと断じているが、考えてみると、これは非常に基本的かつ正当な指摘である。


 そして、第3義の「久遠本時に今日と同様に本門八品上行要付の滅後末法の下種を説く時、やはり今日のように『彼レハ脱、此レハ種』で、在世脱益と末法下種があるが、末法下種の裏にある在世脱益の辺を所聞の下種の法に従って本果種と称し、それに下種の本処たる本因種を合わせて『本因果ニ種』と妙楽は述べたもの」という会通についても、第2義同様、「本因果ニ種シ」の釈が上行の弘通に約したものではないと断った上で、「観心本尊抄」の「彼レハ脱、此レハ種」の文は種脱相顕の一往の意であって、在世にも下種はあるが、数量が乏少で、しかも滅後の衆生に約したために「彼レハ脱」という表現となったと述べている。

 以上は、『在世下種有無之事』の前半で日辰師が日隆師の見解に加えた検討のあらましであるが、日辰師は自らの在世下種・本果下種の義にさらに吟味を加えている。先ず、「法華文句」巻十の常不軽菩薩品釈に釈尊と不軽菩薩の教化相の相違を示した

問テ曰ク、釈迦ハ出世シテ踟蹰シテ不説カ。今ハ此レ何丿意ソ。造次ニシテ而説クハ何ソ也。答テ曰ク、本巳ニ有ルニハ善釈迦以テ小を而将護シ之ヲ、本未ルニハ有ラ善不軽以テ大ヲ而強毒ス之ヲ等云云。

の釈文を提示し、因位・本未有善・逆化・滅後の不軽菩薩の下種に対して、果位・本巳有善・順化・在世の釈尊の脱益と対判し、それゆえに在世下種は無いとする見解に対して、これは当機衆に約した釈文であると会通している。明言されていないが、師の義に従えば、この他に結縁衆があり、それが在世下種に該当することとなろう。

 次に、本果の浄土は寂光の空中であるが、下種は理即但妄の凡人に対するものなので、もし本果の説法に下種の義を許せば、寂光土に凡夫が居すこととなるので、本果の寂光に下種益はないという意見に対しては、名字即結縁の凡人は四土総持の寂光に居しながら、寂光土に同居土の思いをなすので、これは業力の所感であって、本果の如来や寂光土の過失ではないので、本果の在世に下種は存在すると論じている。

 最後に、これは日隆師の見解としても見えるものであるが、下種は本因に限り、それ以降の最初成道から中間今日に至るまでの横十方・竪三世の節々番々の下種は、あくまでも熟益に仮りに種の名を与えた「調停の種」であって、真実の下種ではないという意見に対しては、これは久遠下種・今日得脱の機に約した奪義であって、与義では今日の在世下種のように、中間の諸仏にも下種はあるが、その際の下種の法体は本因の妙経であると会通している。

 以上が日辰師の在世下種を認める見解の概要であるが、前項でも指摘したように、本因妙思想が成立するためには、只今検証した本因妙下種の義(在世下種・本果下種の否定)と共に、釈尊の本因妙が上行菩薩であることが必須の条件となるが、いわゆる本果妙思想に立脚して本因妙思想を退けようとする日辰師は、当然のように本因妙=上行菩薩という定義にも異義を唱えている。

 師は、本因本果は釈尊一仏の上の仏因仏果であり、別仏別菩薩の因果ではなく、一法の二妙であるという原則を示した上で、「二論議得意抄」に

本化丿菩薩ハ本因修行丿菩薩ニシテ非本因妙ニ也。本因妙卜云ハ釈尊丿因位也。非言邑ニハ本果ハ是レ釈迦、本因ハ是レ上行也卜也。意ハ上行等ハ是レ釈迦丿本因妙丿弟子ナルカ故ニ雖可ト登ル果位ニ、且ク為ニ顕ンカ久遠丿師弟丿相ヲ、示シ菩薩丿尊形ヲ居ル因位ニ辺ヲ本因妙丿上行云也。

と述べ、本因妙は釈尊の因位であり、本化上行は本因修行の菩薩ではあるが、どこまでも釈尊の本因妙時の弟子であると規定して、「百六箇抄」に「本果妙釈迦仏、本因妙上行菩薩」とあるのは、釈尊との師弟関係を示すために、上行菩薩が因位の菩薩地に止まっている辺を述べた語であると解釈している。

 なお、このような説明の仕方は日辰師の教学的作業の特徴の一端をよく示している。つまり、どちらかといえば天台・妙楽の六大部の釈義等から逸脱して成立する部分を持つ日隆師の本因妙思想などには、仏教の原則論や天台・妙楽の経釈を提示して反論しつつ、その一方で「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書を日尊門流の相伝書と認める日辰師は、両書に見える本因妙思想的語句には会通を加えることによって、自らの教学体系が破たんすることを防いでいる。次項でも触れるように、特に両巻血脈の文言の会通は師にとって重要な作業であった。


2、釈尊本尊義について..

 これまで、慶林房日隆師の釈尊の在世や本果妙に下種は無いという説を富士の日興門徒が「本因妙抄」等の文に符合すると判断して信用し、下種に釈尊は無関係と考えてその造像を禁止したと認識した広蔵院日辰師が、それに対して釈尊の在世および本果にも下種が存在することをどのように証明しているか、そのあらましを検証し、加えて本因はどこまでも釈尊の本因であって、上行菩薩ではないと師が主張している旨に触れてきた。

 前にも度々記したように、本因妙思想は宗祖の御書に示された教義大綱に、本因妙下種と本因妙=上行菩薩の義が加わって初めて成立すると考えられるので、日辰師がこの二点を右のように否定した時点で本因妙思想はその成立要素を失い、同時に日隆師の教学に拠りつつ独自に築いた本因妙思想に基づいて成り立っている日興門流(日尊門流を除く)の日蓮本尊義からも、その成立基盤を奪ってしまったこととなる。それゆえ、本果妙の釈尊を本尊と定め、その造像が許されるという日辰師の釈尊本尊義の正しさが論証されるためには、この他におおよそ次の二つの作業が必要であった。

 第一は、釈尊の造像を認めて、それを勧奨する宗祖および派祖・日興師の記文を示すことである。これについて、日辰師は次のような御書八通と日興師の消息一通を列挙している。すなわち、「観心本尊抄」の

其本尊丿為体、本師丿娑婆丿上ニ宝塔居シ空ニ、塔中丿妙法蓮華経丿左右ニ釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊丿脇士ハ上行等丿四菩薩、文殊・弥勒等丿四菩薩ハ春属トシテ居シ末座ニ、迹化・他方丿大小丿諸菩薩ハ万民丿処シテ大地ニ如シ見ルカ雲閣月卿ヲ。十方丿諸仏ハ処シタマフ大地丿上ニ。表スル迹仏迹土ヲ故也。如キ是丿本尊ハ在世五十余年ニ無シ之。八年之間但タ限ル八品ニ。正像二千年之間ハ小乗丿釈尊ハ迦葉・阿難ヲ為シ脇士卜、権大乗並ヒニ涅槃・法華経丿迹門等丿釈尊ハ以テ文殊・普賢等ヲ為ス脇士卜。此等丿仏ヲ造リ画ケトモ正像ニ未タ有サ寿量丿仏。来入シテ末法ニ’始テ此仏像可キ令ム出現セ歟。

「報恩抄」の

問テ云ク、天台・伝教の弘通し給ハざる正法ありや。・・・答テ云ク、一ニは日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱フべし。

「唱法華題目抄」の

本尊は法華経八巻・一巻一品・或は題目を書て本尊と可シト定ム法師品並に神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書ても造でも法華経の左右に可シト奉立之。。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし。

「真間釈迦仏御供養逐状」の

釈迦仏御造立の御事。無始礦劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕しましますか。・・・法華経一部、御仏の御六根によみ入レまいらせて、生身の教主釈尊になしまいらせて、かへりて迎ヒ入レまいらせさせ給へ。

「四条金吾釈迦仏供養事」の

御日記丿中ニ釈迦仏の木像一体等云云。・・・此仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。

「日眼女釈迦仏供養事」の

三界丿主、教主釈尊一体三寸丿木像造立丿檀那日眼女。・・・法華経ニ云ク、若人為丿仏丿故ニ建二立ス諸丿形像ヲ、如キ是丿諸人等皆已ニ成シキ仏道ヲ云云。文の心は、一切の女人釈迦仏を造り奉れば、現在には日々月々の大小の難を払ひ、後生には必ス仏になるべしと申ス文也。

「木絵二像開眼之事」の

仏に有リ三十二相、・・・三十一相の仏の前に法華経を置キたてまつれば必ス純円の仏ナリ云云。

「宝軽法重事」の

一閻浮提の内ニ法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔、いまた候はず。いかでかあらわれさせ給ハざるべき。

の八通の御書と、前掲した日興師の消息「原殿御返事」の

日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人奉い書候へとも、未た木像は誰も不奉造候に、・・・。

の一文である。

 第二は、人本尊たる本果妙釈尊と法本尊たる妙法五字七字=曼荼羅本尊との関係を明らかにして、釈尊本尊の正当性を強固にすることである。師は[本尊問答抄]の

問テ云ク、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定ムベきや。答テ云ク、法華経の題目を以て本尊とすべし。

や右掲の「唱法華題目抄」の文、そして「妙法曼荼羅供養事」の

妙法蓮華経丿御本尊供養候ヒヌ。此曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文也。

等の諸文により、宗祖所立の本尊として妙法の曼荼羅本尊を認め、「観心本尊抄」に見える

事行丿南無妙法蓮花経丿五字並ニ本門丿本尊未タ広ク行セ之ヲ。

の文から、人法の両本尊が並存する旨を指摘している。

 そして、この両本尊が一体どのような関係にあるのかといえば、たとえば「二論議得意抄」巻四・寿量品釈には

次ニ人法丿本尊ハ以テ何レヲ可為二実義丿本尊卜耶丿事、妙法ハ如ク大良薬丿釈尊ハ如大良医丿、可キ無ル不同歟。再往ハ論スル成仏丿下種ヲ時ハ以テ妙法ヲ可キ為実義丿本尊卜歟。妙法丿五字ハ為ル釈迦・上行之師故也。本尊問答抄丿引証経釈是也。次ニ人法丿本尊従リ何丿時節・出生シタマフ耶丿事、人丿本尊ハ本因本果丿主、自受用報身如来也。此丿如来シ本因丿名字即丿時証得シタマフ妙経ヲ也・是レ人法出生丿最初也。

とあり、法本尊が良薬、人本尊が良医に讐えられて、両者は不同なしとされるが、再往の義としては能生・所生および師弟の別により、妙法五字の法本尊の実義が示唆されている。また、同書の次下には「唱法華題目抄」の文を引き、広略要の三種の本尊について

是等ハ広略丿本尊ハ可ト任其機丿堪不堪ニ云文也。但約三大秘法ニ事ハ要丿本尊丿義也。一紙丿曼荼羅ハ八品丿儀式、或ハ寿量丿儀式ハ略本尊丿意也。可トハ奉い造リ書キ十方諸仏普賢菩薩等ヲ者広丿本尊丿義也。広略要丿二種丿本尊皆共ニ蓮祖丿許容也。

と述べて、人本尊たる本果妙釈尊は要の本尊、曼荼羅本尊が略本尊であるのに対して、広の本尊は曼荼羅全体の絵像化・仏像化であり、要の釈尊および一尊四士は必ず造立される本尊であるのに対して、略広の両本尊は機根に応同して造立すること、そしてこの三種はすべて宗祖が許容された本尊形態であることを明示している。ただし、「観心本尊抄見聞」では本尊に総体と別体を分け、右の広の本尊を総体の本尊とし、要略の人法本尊を別体の本尊と説明している。

 基本的には、以上のような作業により、日辰師の釈尊本尊義は一往かつ一通り説明されていると判断されるが、師の場合はもう一つ重要な作業が残されており、それが「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈の諸文と釈尊本尊義をどのように調節するかという第二の作業である。ただし、この作業の様子は日辰師の著作に数多く見え、同時にこれを詳細に説明するには両巻血脈書の所説内容を明示する必要があり、今はとてもその余裕がないので、日辰師の「造仏論義」からいくつかの点を取り上げて検証するに止めておきたい。

 先ず、師は本因本果は釈尊一仏の因果であり、上行菩薩は釈尊の弟子であって本因妙ではないという、自らの本果妙思想の大原則を確認し、その上で「百六箇抄」冒頭に見える

久遠名字巳来本因本果之主、本地自受用報身丿垂迹、上行菩薩丿再誕本門之大師日蓮

の一文から、本地自受用報身如来たる本果釈尊が本因本果の主であり、その垂迹が上行菩薩、さらにその再誕が「本門の大師日蓮」であるという三者の関係を読み取っている。そして、「本因妙抄」の


仏ハ熟脱丿教主、某ハ下種丿法主也。

に熟脱の教主とされる「仏」とは応仏昇進の自受用報身であって、久遠元初の自受用報身である本果妙釈尊のことでないと断じている。この二つの自受用報身の違目については、「百六箇抄」の

八、本果丿妙法蓮華経丿本迹、今日丿本果ハ従因至果ナレハ本丿本果ニハ劣ル」也。寿量丿脱益、在世一段ノ一品二半。為メ丿舎利弗等丿声聞丿観心也。我等カ為ニハ教相也。情ハ迹ハ劣り本ハ勝ルト也。

との説示に基づいて、「今日の本果」と「本の本果」の違目・勝劣であると述べている。つまり、「今日の本果」は爾前・迹門・本門と昇進し、如来寿量品にて開顕される従因至果の本果であり、応仏昇進の熟脱の報身なので、「本(久遠)の本果」である本果妙の釈尊(久遠元初の自受用報身)には遙かに及ばないと立て分けるのである。この本果に「今日の本果」と「本(久遠)の本果」を分別して、両巻血脈書で本因妙上行に対して基本的に否定される本果妙釈尊を「今日の本果」と強弁して会通し、その結果として本果妙釈尊を擁護するのは、日辰師の両巻血脈書解釈における大きな特徴の一つである。

 次に、久遠元初の自受用報身について、安房妙本寺・日要師の「太田抄聞書」の解釈等により、久遠元初とは本因の名字即であるとする主張に対しては、久遠元初の自受用報身は本果に限って本因に亘らないと明示し、その理由として、報身は修因感果の仏であるから因位に亘らず、もし報身を本因名字と規定すると身土の相配が混乱するからという。また、右に日辰師が釈尊本尊を指示する証文の一つとして挙げた「報恩抄」の文について、左京日教師が釈尊と上行日蓮の「互為主伴」の義に基づいて日蓮本尊を主張し、妙本寺の日要師が釈尊・上行が一仏二名であるという日隆師の義によって、下種益の久遠元初の報身を上行・日蓮と解釈することについて、日辰師は、日蓮は上行菩薩の化身であり、上行菩薩は釈尊の弟子であるという前述の関係を再提示し、釈尊こそが種熟脱の三益総在の仏であると述べて、これらの義を退けている。そして、「百六箇抄」の

十一、下種丿法華経教主丿本迹、自受用身ハ本、上行日蓮ハ迹ナリ、我カ内証丿寿量品ト者脱益寿量丿文底丿本因妙丿事也。其丿教主ハ某也。

を挙げて下種の教主が三人であることを示し、

既ニ判丿下種法華経卜、下種丿法華ハ本因妙之妙法蓮華経丿事也。本因丿妙経ヲ修行シテ童形丿釈迦丿登リ観行・相似ニ登リ初住ニ、初住丿時ヲ説キ我本行菩薩道卜、登本果丿法報応丿果位ニ処ヲ自受用報身ト云也。其丿本因下種丿法華経丿教主ニ有リト本地・垂迹・云事ヲ法華経丿教主卜ハ云也。是ハ題号也。宣タモフ其丿本地・垂迹ヲ時、自受用身ハ本、上行・日蓮ハ迹也ト。既ニ題号ニ標シテ下種丿法華経丿教主丿本迹卜、判シ自受用身ハ本卜判ス上行・日蓮ハ迹卜。顕応(左京日教)カ一類、日要カ門徒、明ニ開テ両眼ヲ拝見シテ此明文ヲ勿レ誹謗スル日尊門徒ヲ。

と論じて、自受用身たる本果妙釈尊が下種の教主の本地たることを強調している。

 


おはりに

 従来、日興門流の本因妙思想については、室町中期に成立した慶林房日隆師の本因妙思想が導入されて種脱本迹論が論じられるようになり、それに基づいて本仏論・本尊論が構築されたと説明されてきた。私はこれまで一連の三つの論考で、日興門流の本因妙思想の形成に関係する主な人物の教学や著作を概観し、従来指摘されていた日隆師の教学の影響という形成素因をおおよそ検証してみたが、結果としては改めてその因果関係を追認する形となった。ただし、本尊論に関しては、それが本因妙思想形成の結果に構築されたのではなく、むしろ本尊義の裏付けのために本因妙思想が要求されたこと、そしてその本尊義自体は宗祖晩年の教学的な到達および素意を継承せんとしたものであることを述べてみた。

 そんな中、いまだその位置が決まらずに不安定なままなのが、「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書である。この両書に日隆師の教学の痕跡が認められることは既述したが、その本因妙思想の構成そのものまでが日隆教学の影響下にあると考えることは難しい。特に、「本因妙抄」の方はその下敷きとなっている「三大章疏七面相承口決」に見える四重興廃的な止観の高調に基づいて、その本因妙思想が構築されている可能性は高いのではないかと予想される。次稿では、周辺の文献を拾遺し勘合することによって、その辺りの問題を手探りながら詮索してみようと思う。

 

 

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