日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(4)



目 次

はじめに

第1章 四重興廃系本因妙思想について

1、 四重興廃について

2、「本因妙抄」と四重興廃系本因妙思想

3、「五重円記」と四重興廃系本因妙思想



第2章 日安筆「本尊抄等雑々聞書」について

1、全体の翻刻

2、筆記者は誰か

3、本書概要の補説

4、本因妙思想の分析

5、成立の背景をさぐる


おわりに



 

 

 

 




はじめに

 

 本稿は、「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(1)」・「同(2)」・「同(3)」を受けて、日興門流教学の大きな特色である本因妙思想が、いかなる経過をたどって歴史的に形成されてきたのか、という問題を考察するために、現時点で可能な限りの材料をピックアップして、その覚書にしようとするものである。

 私はこれまでの右一連の論考において、「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書を中心として、日有・日教・日要・日辰等の諸師の本因妙思想と、それらへの色濃い影響が認められる慶林房日隆師の同思想を概観し、宗祖晩年の教学的達成から日興門流へという流れを想定して、その途中に日蓮本尊義と本因妙思想との影響関係を述べてみたりした。

 その中でもしばしば触れたように、いまだ深い謎の霧につつまれているのが「本因妙抄」「百六箇抄」の両巻血脈書の成立経過である。この場合、既述のごとく「百六箇抄」は「本因妙抄」を受けていて、ある部分はそれを注釈するような内容もうかがえるので、問題は「本因妙抄」の成立にしぼられると考えられるが、その「本因妙抄」の一部に右の日隆師の本因妙思想の影響が見えるものの、たとえば保田日要師の場合のようにそれは圧倒的なものではない。

 当稿では、そのような状況の下に、日隆師のそれとは別系統のものとして『四重興廃系本因妙思想』なるものを想定し、その上で同系譜にあるかと認められる諸文献に言及し、特に第二章では日安筆「本尊抄等雑々聞書」を取り上げ、その文献的な位置と書中に見られる本因妙思想を検討して、「本因妙抄」成立考証の一助にし、総じて日興門流の本因妙思想形成の考察に資してみたいと思う。

 



第1章 四重興廃系本因妙思想について


 最初に本章の四重興廃系本因妙思想という名称であるが、これは立論の関係から著者が造語した仮称であることを、先ずお断りしておきたい。その造語の経由を説明すると、次のとおりである。

 これまでの一連の論考の中で度々触れたように、基本的な本因妙思想とは、「本果妙の釈尊に対する本因妙の上行菩薩という構図を中心として、その上行菩薩の再誕・後身である日蓮聖人が末法に出現して衆生を教導する」という義である。しかるに、通常の「法華経」に対する解釈や天台教学では、この釈尊を本果妙と規定して、それに対応する形で本因妙の上行菩薩を取り出すことはほとんど不可能であるが、例えば慶林房日隆師の場合、それを可能にしているのが種脱本迹論である。これを日蓮遺文にも見える讐えでいえば、 「藤は松にかかりて千尋をよぢ」とあるように、藤の木はツル性の木なので、自力で上に伸び上がることはできないが、近くの松の木などにからみつくことにより、それが可能となる。つまり、松の力を利用することにより、藤の木は千尋という高さにまで登るのであるが、日隆師の本因妙思想の場合、たとえばその著「本門弘経抄」巻一に

此の天台本門密意の玄文止は時機既に末代なる故に教弥実位弥下して教相は三五下種五味主なり。観心の重は本因妙名字信位なり。

とあり、三五下種・五味主という種脱本迹の教相によって本因妙名字即の観心に至ると説明されているように、種脱本迹論という松の力によって、本果妙釈尊に相対し、それを乗り越える形で本因妙の上行菩薩が取り出されている。これはいうまでもなく、「観心本尊抄」の

在世丿本門卜末法之初メハ一同ニ純円也。但し彼レハ脱、此レハ種也。彼レハ一品二半、此レハ但題目丿五字也。

の一文に主に拠りながら、本果妙釈尊を脱益と規定し、それに対応する形で本因妙上行菩薩を下種益にあてはめることにより、本因妙思想ができあがっており、今は仮りにこれを『種脱本迹系本因妙思想』と名付けておきたいと思う。その概略を図示すれば、次のとおりである。

 しかるに、この日隆師の種脱本迹論という松の木の代わりに四重興廃という考え方を持ち来て、その四重興廃の力を利用してできあがっている本因妙思想があるのではないかと予想し、これを『四重興廃系本因妙思想』と仮称して、その存在の可能性を諸文献にさぐってみようというのが、本章のねらいである。



1、四重興廃について

 先ず、四重興廃という用語は日本中古の天台教学に独自に使用されるもので、同教学における代表的な教判の一つを示す語である。通常、四重とは爾前・迹門・本門・観心を指し、この四重が段階的に興廃するという考え方である。中古天台の文献の中ではそれが定型化した文章で表されるが、例えば、恵心椙生の嫡流の俊範(1187〜1259−)が東陽座主忠尋の秘決を後嵯峨院に奏進したもの、あるいは嘉暦4年(1329)に俊範から二代後に連なる心聡が後花園院に注進した書とされる「一帖抄」に

釈ニ云ク、迹丿大教興レハ爾前丿大教廃シ、本丿大教興レハ迹丿大教廃ス。観心丿大教興レハ本丿大教廃ス。

とあり、これが現時点における初見とされる。また、当文は次のような天台智の「法華玄義」巻二上の一段に基づくとされている。

如シ迹丿中ニ先ニ施セハ方便之教ヲ大教不ルカ得起ルコトヲ。今大教若シ起コレハ方便丿教ハ絶ス。将テ所絶ヲ以テ名ツクル於妙ト耳。又迹丿中ニ大教既ニ起コレハ本地丿大教不得興ルコトヲ。 今本地丿教興レハ迹丿中丿大教即チ絶ス。絶スルハ於迹丿大ヲ功由ル本丿大ニ。将テ絶スル迹ヲ之大ヲ名ツク於本丿大ニ。故ニ言フ匹絶ト也。又本丿大教若シ興レハ観心之妙不得い起コルコトヲ。今入テ観ニ縁寂セハ言語道断シ本丿教ハ即チ絶ス。絶ハ由ル於観ニ。将テ此丿絶丿名ヲ名ツク於観妙ニ。為丿顕ハサンカ此丿義ヲ故ニ以テ絶ヲ為ス妙ト。今将テ迹之絶妙ヲ妙ニス上丿衆生法ヲ。将テ本地之絶妙ヲ妙ニス上丿仏法ヲ。将テ観心之絶妙ヲ妙ニス上丿心法ヲ。

 この両者の関係については、田村芳朗氏が

智においては、四重相互興廃であり、観心は、本門の上に、あるいは、その底に、さらに一重としてたてられたものではなく、本迹教相に即するものである。おなじく「法華玄義」巻第七上において「本迹雖も殊リト不思議一也」が強調されているが、この「不思議一」ということも、本迹教相の内奥に、未分・未説・内証・根本の理が、観心の対象として、さらに一重、存するという意味ではない。ところが、天台本覚思想では、段階的な四重興廃であり、止観・観心の超勝に落着するものである。

と説明している。右の「法華玄義」の文は、妙法蓮華経の「妙」字を釈して通別の二義を挙げ、その内の通釈として相待妙と絶待妙の二妙を示す中の、絶待妙を説く節の末尾に見える一段である。言うまでもなく、この絶待妙は開会の義が中心となり、いわゆる廃絶・廃亡は含まれないので、強いて言っても田村氏の示すところの「四重相互興廃」となる。それに対して「一帖抄」の定型文の方は、爾前→迹門→本門→観心と従浅至深し、最終的には観心の超勝が明快に示されている。

 このように、中古天台の観心主義に基づく四重興廃では、「法華経」の本迹二門の教相をはるかに超えた形で観心の独勝が主張されているので、この観心に本因妙をあてはめることによって、「法華経」の本門に説かれる釈尊の本果妙を乗り越えて、本因妙思想の基本的な骨格は一往できあがるという形となる。それゆえ、日興門流上代においてこの四重興廃説やその考え方が摂取されていれば、種脱本迹義とは無関係な場所で、それを利用した四重興廃系本因妙思想が成立する可能性はあるものと考えられる。

 そのような眼で諸文献を博捜すると、先ず日順草案・日興上人認可とされる「五人所破事」には

若シ為メト所破丿云ハ者可キ由ス念仏ヲモ等之愚難ハ、誠ニ迷四重之興廃ニ、悉ク未知三時之弘経ヲ。重畳之狂難、嗚呼之至極也。

と記されている。これは方便品の読誦について、天目師がもし所破のために方便品を読むというのなら、念仏をも申し、「阿弥陀経」をも読むべきではないかと非議したのに対して、日興上人が破折を加えられた一文であるが、ここには明らかな形で「四重之興廃」と見える。ただし、この語に対する説明はなく、また前後の文脈は爾前経と法華迹門および本門の対比が述べられているものの、観心の超勝をうたう四重興廃とは多少のズレがあるように感じられる。その下には対語として「三時之弘経」が置かれているが、こちらは正像末の三時に小乗・権大乗・迹門・本門の教法が流布するという義なので、当然、観心まで及ぶことはない。そこで、周辺史料に眼を転じてみると、貞和5年(1349)6月13日成立の「日類類集記」には

  上人丿四重興廃ト者

天竺ニシテ外道ハ常楽我常(浄)ノ四義ヲ立ツ。是レヲ仏丿廃シ給フ時、小乗ヲ説イテ、 苦々(空)無常無我卜説ク。又小乗ヲ廃シ給フ時、大乗ヲ説イテ、 常楽我浄浮卜説ク。又法花ヲ説キ給フ時、前四味ヲ廃シテ、四十余年未顕真実卜説キ、権ヲ廃シテ実ヲ立ツ。又迹門ヲ破シテ本門ヲ立ツ。

とあり、ここには上人=宗祖の四重興廃として、小乗を説いて外道を破し、大乗を説いて小乗を破し、「法華経」を説いて爾前経を破し、本門を立てて迹門を破すという四重の義が示されている。この「日睿類集記」は薩摩日睿師が保田妙本寺の所在する安房および駿河・相模等で師の日郷師より受けた相承を、あまり手を加えずに記録したものと思われ、宗祖に関する記述にもかなり正確なものがあると判断されるので、右の「五人所破事」に日興上人の義として見える「四重之興廃」もおそらく同内容の法門であり、いわゆる観心にまで及ぶ四重興廃とは異なるものと考えられる。ただし、このことは逆に考えた場合、当時の鎌倉期最末から南北朝の初頭にかけて、いわゆる「四重興廃」という用語が人口に膾炙し始めたことが推測され、それを受けて宗祖の場合は云云という相伝が日郷師から日睿師に与えられたものかとも思われる。それゆえ、あるいはこの日興門流上代における二例は、中古天台教学における四重興廃という用語および義の成立という問題に多少の影響を及ぼす事象かとも想像される。

 一方、少し成立期は下がるものの、如寂日満師の「日満抄」にも


於テ無二無三丿所立ニ互ニ雖モ存スル異義ヲ、恐ソラクハ迷惑シ三種丿教相ニ悉ク不弁へ四重丿興廃ヲ、暗シテ先師丿廃立ニ動スレハ我執僑慢ヲ為ス先ト。

という文が見える。同書は、同門流内から投げかけられた誹謗中傷に対して、日満師が自身の信仰的潔白を主張せんとする内容となっているが、その中に「不弁四重興廃」と記されているものの、こちらもそれ以上の説明は施されていない。ただし、本書は中古天台の本覚法門が全面に表れたものとしてよく知られており、中には関東天台の学匠・宥海の「肝心要義集」の諸文が文章中に埋め込まれるように引用されている・それゆえ、本迹二門の実相の違目についても、迹門=心実相・不変真如・理の一念三千・理円・従因至果に対して、本門=色実相・随縁真如・事の一念三千・事円・従果向因という本覚法門特有の立て分けがそのまま借用されている。また、顕本も無作三身の理顕本を正意とし、それを説く本門は勝れ、不説の迹門は無得道と断じている。さらに、書末には「観心本尊抄副状」の中に記される「三仏」を解釈する中で本・迹・観心の三根を分別し、右の「肝心要義集」を引いて観心を本迹未分の重と示し、宗祖の「観心本尊抄」はこの本迹未分の観心重を明かしたものと述べるいる。よって、本書に見える右の「四重興廃」の語は明らかに観心の独勝を結論とする中古天台教学の四重興廃を意味していることが知られ、明示はされないものの、衆生の一念・九識円備の元意・妙法蓮華経の五字などが観心重に配当されているようである。右文において「四重丿興廃」の対語として記される「三種丿教相」とは、おそらく根性の融不融・化導の始終不始終・師弟の遠近不迹近のことと想定され、言うまでもなく、第二の化導の始終不始終と第三の師弟の遠近不遠近には種熟脱の三益が含説されるので、これと右のような四重興廃の観心勝とがあいまって、あるいは種脱や本因妙に対する言及があろうかと思いきや、尾欠ということもあってか、本因妙思想へと展間する様子は全く窺うことができない。

 このように、日興門流上代においては、現存史料に対する管見による限り、四重興廃の観心超勝をテコとして本因妙思想に至るという四重興廃系本因妙思想は、見出すことはできないのである。



2、「本因妙抄」と四重興廃系本因妙思想

 本章において取り扱う諸文献はおおよそ成立期が未定であり、それゆえ明確な前後関係も不明なので、あくまでも大雑把なつかみで述べるしかないが、前項の考察からも、結局、四重興廃系本因妙思想の存在の可能性をもっとも色濃く示している文献としては、15世紀中頃の成立が予想される「本因妙抄」を最初に挙げざるをえないこととなる。

 その「本因妙抄」については既に一度述べているので、ここでは必要なことだけに止めるが、同抄の中で四重興廃の義に近似する表現が見えるのは、次の一段である。


三ニ四重浅深丿一面。  有理名丿四重。一ニハ名体無常丿義。爾前丿諸経諸宗也。ニニハ体実名仮。迹門始覚無常ナリ。三ニハ名体倶実。本門本覚常住ナリ。四ニハ名体不思議。是レ観心直達丿」南無妙法蓮華経也。湛然丿云ク、雖脱在現具騰本種云云。  次ニ体丿四重卜者、一ニハ三諦隔歴丿体。爾前権教ナリ。ニニ理性円融丿体。迹門十四品也。三ニ三千本有丿体。本門十四品也。四ニ自性不思議丿体。我カ内証丿寿量品・事行丿一念三千也。
次ニ宗示丿四重ト者、一ニ因果異性丿宗。方便権教ナリ.二ニ因果同性丿宗。是レ迹門ナリ。三ニ因果並常丿宗。即本門ナリ。四ニ因果一念丿宗。文ニ云ク、芥爾モ有レハ心即地具スト三千ヲ。是レ即チ末法純円・結要付属丿妙法也云云。
 次ニ用丿四重卜者、一ニ神通幻化丿用。今経已前ニ所丿明カス仏・菩薩丿出仮利生丿事ナリ。二ニニ普現色身丿用。即チ於テ一身丿中ニ具スル十界ヲ事也。亘ル本迹一代五時ニ。三ニ無作常住丿用。有リテ証道八相、無作自在丿事也。四二心丿化用。或説己身等也。

 次ニ教ノ四重卜者、一ニ但顕隔理丿教。権小ナリ。二ニ教即実理丿教。迹門ナリ。三ニ自性会中丿教。応仏丿本門也。四ニ心法界丿教。寿量品丿文丿底丿法門、自受用報身如来丿真実門、久遠一念之南無妙法蓮華経ナリ。雖脱在現具騰本種丿勝劣是レ也。


 この「本因妙抄」は基本的に、伝教大師最澄に偽託される「三大章疏七面相承口決」の文を下敷きにして、それに日蓮義からコ丿丿トを加えるという形態を採っているが、右の文中、明朝体が「三大章疏七面相承口決」の文で、ゴチック体で表記したのが「本因妙抄」の注記である。「三大章疏七面相承口決」の方には多少詳しく説明した部分もあるが、「本因妙抄」ではそれを不必要と判断してか削ってしまい、そして簡略な注記をほどこして、「三大章疏七面相承口決」の記述に本来ある爾前・迹門・本門・観心の四重の立て分けを一層明確にした上で、第四の観心重を強調するという形になっている。


 その第四重には「観心直達丿南無妙法蓮華経也。湛然丿云ク、雖脱在現具騰本種」「我ガ内証丿寿量品・事行丿一念三千」「末法純円・結要付属丿妙法」「寿量品丿文丿底丿法門、自受用報身如来丿真実丿本門、久遠一念之南無妙法蓮華経ナリ。雖脱在現具騰本種丿勝劣」とあり、文上本門との種脱を相対させた上での下種の妙法蓮華経が示されているが、本因妙に対する言及は見られない。同抄は題名とは裏腹に、本因妙の用語を用いての説明は皆無に近いが、他部分に「釈尊久遠丿名字即」「久遠名字丿妙法」等とあり、本果妙釈尊と相対したところに本因妙の名字即を立て、そこに下種の妙法を配しているので、思想としての本因妙は十全に説かれているといえる。それゆえ、直截的な表現は見えないものの、「本因妙抄」全体を総合判断した場合、そこに四重興廃系本因妙思想を認めることは可能であると考えられる。


3、「五重円記」と四重興廃系本因妙思想

 そんな四重興廃系本因妙思想を従来知られている日興門流の文献の中で明白な形で説き示しているのが、日興上人の著作として伝えられる「五重円記」である。ただし、文献としては非常に不安定なもので、内容ともども、とても日興上人の作とは認められるものではない。
 「日蓮宗宗学全書」第二巻興門集所収の同書は、底本は不明で、校合本として「一、嘉伝悦師写本」「一、堀慈琳氏所蔵古写本」の二本が挙げられている。そのうち、江戸中期の要法寺学僧の嘉伝日悦師の写本奥書には、


本云、日興上人御制作、以御直筆写畢。
又云、右此本者於岡宮徳永山光長寺日賀上人以御自筆ヲ写之畢。然ニ日興上人丿御直筆者今光長寺ニ在之云云。

元禄十四年辛巳十一月二十五日、書写之者也。  嘉伝日悦。


と記されている。この一連の奥書は文意が取りづらいが、一往、この元禄14年(1701)に日悦師が書写した元は日賀上人の写本であり、その日賀写本は同上人が日興上人の御直筆から写したもののようである。しかるに、その日興上人の御直筆は当時岡宮の光長寺に所蔵されており、その同じ光長寺で日悦師は日賀写本を転写したというのであるが、どうして日悦師は同じ光長寺に蔵されるという日興上人の御直筆を直接書写しなかったのだろうか。また、日賀上人については詳細は不明で、過日、光長寺で日興上人の直筆および日賀師について問うたところ、詳しいことはすべて分からないとの返答であった。一方、「日蓮正宗歴代法主全書」第一巻所収の同書は、「写本大石寺蔵」となっているが、これと右の「堀慈琳氏所蔵古写本」との同異は不明である。それゆえ、ある意味では日興門流文献としては非常に特異な内容を持つ本書の成立背景等は、ほとんどその手がかりすらないという状態である。上代における引用・言及等もなく、今のところは保田日要師の「御書見聞抄」に「日興上人云く」として引文されているのが嘆矢と考えられる。


 本書はそのタイトル通り、爾前・迹門・本門・観心・元意の五重の円教について記した書である。爾前から観心までは四重興廃の四重の体裁を取り、それに元意を加えているが、通常、元意は附文・元意というセットの概念として、覚超の作と伝えられる「己心中記」巳来の中古天台文献に散見される。本書に「元意丿円ト者、五大院立ツ之ヲと記されているが、その詳細は不明である。


 五重の概略を述べれば、先ず最初の三つの爾前・迹門・本門は通常の爾前経と法華経前半十四品迹門と後半十四品本門の意であるが、それぞれに説かれる円教ということで、爾前経の円は約教の円、迹門の円は約部の円という立て分けになる。『爾前の円』は円融相即の理の一分を説くものの、二乗作仏と久遠実成の両義を欠き、法開会はあっても人開会がないので、生死即涅槃・煩悩即菩提の円理も成立しない。また、三諦も次第の三諦となり、奪っていえば別教の範躊に堕してしまう。『迹門の円』では二乗作仏が説かれるので、人開会が示されて円理としては完成するものの、久遠実成が顕わされず、仏果の円満が不満足にとどまる。そして、能開の仏界の不満足に引かれて所開の九界も不満足となり、十界互具・一念三千も成立しない。


 それに対して『本門の円』は、久遠実成が説かれて諸仏が一仏に開会され、九界も上行菩薩の一九界、国土・仏土も本地寂光の一国土、そして本因妙の一時や地涌本化の一衆生、事行本法の一行など、すべてが久遠の本地に開会されて、十界三千・因果依正が全く円満の円教となる。ただし、この本門の円に種脱を立てた場合は、在世本門の一品二半は脱益となって迹門の摂属となり、久遠下種の妙法が真実の本門となる。そして、この下種益に約した本門の円と、一番最後に示される当家の元意の円とは同じものとして、イコールで結ばれることとなる。


 次に『観心の円』とは一念三千・一心三観を指すとされ、本書では「次に観心の円とは、本門の上に観心を立つる事は恵檀両流の異義なり。しかりと雖も既に四重興廃の時、本の大教の上に観心の円を立つるなり」と述べて、四重興廃の観心の円とする。しかし、ここにいう四重興廃はいわゆる観心が本迹に超勝した中古天台教学の四重興廃ではなく、むしろ天台智顎が「法華玄義」に示した法華本迹の教相に即した観心の四重興廃ではないかと考えられる。その教相に即した観心の円に台家・当家の別を立て、台家の観心の円が本迹不二・不思議一であるのに対して、当家の観心の円には迹門理円と本門事円の本迹が厳然であり、台家の本迹不思議一の観心の円は法華の迹理に約する円なので、その内の迹門理円の分と規定している。それに対して、当家は本門流通の一念三千の観であり、事円の観心なので、ここまでで既に五重の円の浅深であると述べている。


 最後の『元意の円』は、いわゆる中古天台教学の四重興廃において説かれる本迹の教相を全く離れた独勝の観心を元意と呼び替えたもので、台家では一仏不現前の本迹未分・迷悟生仏未分の根本法華の法体を元意の円とする。それに対して、当家の立場から「仏は其の元意を悟らざるや。本門の時、上行菩薩に其の元意を付せざるや。本迹未分・権実未分ならば、教外別伝・不立文字・禅天魔の法なりやと破する者なり。かくのごとく破して、当流は観心の上に元意を立つ」と破折を加え、「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり」「今日は初成を以て元旨となし、迹門は大通を以て元旨となし、本門は本因を以て元旨となす」「本時の自行は唯円と合す」の釈によって、上行所伝の妙法・本因妙所修の法体・事行の妙法蓮華経を当家の元意の円と結論している。なお、この当家の元意の円と本門の円の種本が同義であることは、右に触れたとおりである。


 今、五重の内、後半の三重を図示してみると、次のようになる。


 以上のような概説からも知られるように、第三重の本門の円の末尾に種脱が、あたかも取って付けたような形で示されているが、それ以外は正しく観心が超勝した四重興廃にのっとって本因妙の本地が説かれており、これを四重興廃系本因妙思想と呼称しても大過はないものと思われる。


 ただし、ここに問題が一つあり、それは他ならぬ慶林房日隆師との関係である。というのも、日隆師が日蓮法華宗と天台法華宗の教義の相違を対照的に述べて、永享7年(1435)直後の成立と推測されている「法華天台両宗勝劣抄」(通称「四帖抄」)に「五、天台宗は観心の重をもって至極となし、法華宗は観心の上に元意の重を立てて、末代の愚人を摂する、不同の事」という一項があり、その中には、


次に日蓮宗の意は、諸御抄並びに開目抄・観心本尊抄等は、悉く天台の観心の上に、高上の大法これありと、判じたまえり。・・・これ等は観心の上に、元意の大法これありと云う事なり。先ず観心の重とは、止観なり。止観をば、所々の釈、並びに弘の三に、「今は法華の迹理に約す」と云って、迹門と定判したまえり。この上に、本門は即ち元意なり。・・・所謂、元意の大法とは、本門八品上行要付の南無妙法蓮華経なり。・・・されば観心の上の元意に、重々これあり。仍て一品二半の分は、「迹中之本」の本なり。この上に久遠本果の本二れあり。この本果の上の本は、本因妙の初住、又この上に・・・本因妙の名字これあり。この名字信位口唱の妙法蓮華経は即ち元意の重なり。


等と述べられている。ここには右図の本門・観心・元意の三重にわたる説明が見え、引用される三大部の釈文を含めて「五重円記」と非常に近似した内容となっている。先に触れたように、「五重円記」成立時期の推測に資するのが日要師(1426〜1514)の言及のみなので、果たして日隆師の影響の有無は未詳であるが、その可能性は一往念頭に入れておく必要があると考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

第2章 日安筆「本尊抄等雑々聞書」について


 保田妙本寺に所蔵される本書は、従来、その表紙に見える表題から「当家聞書」と仮称されてきたが、本章では筆者を妙本寺第九代の日安師と指定し、内容も「観心本尊抄」の逐語釈が中心になっているために、ここでは結論を先取りして日安筆「本尊抄等雑々聞書」と称する。

 本書については、当「興風」誌の第17号で池田令道氏が「竹取物語と富士戒壇の縁由――千葉妙本寺蔵『当家聞書』を読んで――」を執筆し、その中で書中に見える竹取物語部分(27丁表〜31丁表)を翻刻した上で、詳しい考察を加えている。その際に、「1、『当家聞書』の成立と筆者について」「2、『当家聞書』の内容について」と項目を立てて、本書の概要に一通り触れているので、往見されたい。

 本章では、右の竹取物語の部分が重複するものの、あらためて全体の翻刻をおこない、その上で筆記者の特定と概要の補説、そして書中に説かれる本因妙思想の分析を試みてみたいと思う。


1、全体の翻刻

 

 

 


1


2


 

3


 

4


5


6


7


8


9


10


11


12


13


14


 

2、筆記者は誰か


 当章は、右に翻刻した同書に説かれる本因妙思想に少々検討を加えて、日興門流における同思想形成過程における位置付けを試みようとするものであるが、今はその前提として、同書の筆記者を推定して、その意義に少し触れようとするものである。
 この筆記者については、池田令道氏の右掲論文では、右の「二十六丁裏」および「三十三丁表」に見える識語等を取り上げて、文明5年から17年(1473〜85)にかけて生存し、妙本寺第8代・日永師(〜1460)を師範とする者という条件で蓮台坊日安師と花光坊日会師を抽出し、年齢や佐貫本乗寺との関係から筆者を日会師と推定している。ただし、「文字対照により本書の日会筆を確かめたいが、現存する筆蹟が殆んどなく対照作業が出来ていない」と断り書きがされている。

 今は、この日会師の筆蹟資料については状況に変化はなく、できる作業がないことにも変わりがないが、一方の日安師の方には少ないながら筆蹟資料が現存するので、その対照作業を試みてみたいと思う。

 今のところ、師自筆の曼荼羅本尊を除くと、日安師(1415〜87)には自筆史料と考えられるものが2点ほど確認される。両方ともに妙本寺蔵で、1つは寛正6年(1465)4月13日に大輔阿闍梨が妙本寺において書写した宗祖遺文「法華題目抄」の奥書一行に「南無妙法蓮花経々々 日安法師之」と記されている。署名のみで花押等もないので、確定的とはいえないが、右の大輔阿闍梨の筆致とは明白に相違しているので、かなりの確立で日安師の自筆と判断される。そして、もう一つの文明4年(1472)11月8日の「妙本寺勧進日記」は「御真筆御本尊〈一複〉並びに三帖双紙買い取り」のために執り行なわれた勧進の記録であるが、日安師はその勧進元となって自身も二貫五百文を寄せている。こちらにも筆者を特定する署名等がないが、他ならない勧進元であり、「日安」と実名が尊称なしで記されていること等から、日安師の直筆と考えて大過ないものと思われる。次頁に、それぞれの全体像と、少ないながら「妙」「法」「師」の三文字の対照を掲載したが、おおよそ同筆と判断してよいと考えられる。

 次に、右の結果、日安筆と判断された「妙本寺勧進日記」と「本尊抄等雑々聞書」の文字対照をおこなってみたい。ただし、これは古文書に関心のある人ならば容易に了解されようが、たとえ同一人の筆蹟であっても、その文書の性質によって筆致は多少変化する場合が多い。今は、一つは勧進の記録であり、一つは純粋な法門書である。特に、「本尊抄等雑々聞書」の方は、日本天台文献に見られる独特の非常にくずした、ゆすりの少ない字形の系統につながる筆蹟で、かなり書き慣れた雰囲気である。今は、このような文書の性質の相違を念頭に置きつつ、文字対照の結果を次に示してみよう。上から「妙」「秀」「毫」「筆」「八幡」「周防」の各字である。

 対照できる文字も少なく、たとえできても、右の六例以外には明らかに似ていない文字もいくつか認められるが、ただ文字の骨格自体は両者共通しているのではないかと判断される。それゆえ、右述のごとく、池田氏が筆者と推定した日会師についての検討がされていないという条件付きながら、今は「本尊抄等雑々聞書」の筆記者を日安師と指定したいと思う。そして、この同書の筆記を日安師と指定することには、次のような小さからざる意義が認められるのである。

 それは、これまでしばしば触れたように、日郷門流では1450年前後頃より集中的な日隆教学の学習・摂取の諸作業がおこなわれているが、日安師自身も長禄3年(1459)4月に尼崎において日隆師の「玄義教相見聞(一帖抄)」を書写している。これは、その後の日要師や日我師の著作等にその成果が現れて、日郷門流教学の大きな柱の一つとなっていくが、その同じ日安師が、次項で述べるような、日隆教学とは明らかに系統が相違する「本尊抄等雑々聞書」を書写し、その中に見える本因妙思想を学び取ろうとしていたとすれば、これは日興門流における本因妙思想形成の可能性の幅を少なからず拡げる結果になるものと考えられるのである。現存史料に基づく限り、日隆師の種脱本迹系本因妙思想とは違い、こちらの方はその後に大きく花開くことはなかったが、それでもそのような模索の努力が行われていたことを確認することは、大きな意義があるように思われる。



   3、本書概要の補説


 ここでは、右の池田論文に述べられた本書の概要を少し補っておきたい。

 先ず、前項で本書の筆記者を日安師と推定したが、同師の筆蹟が見えるのは「一丁表」から「三十三丁表」までで、本書の主要部分の全体をおよそカバーしている。ただし、「文明五年」と「文明十七年」の2つの年号が見えるので、その前提で前後の筆致の違いを探ってみると、おおよそ「一丁表」から「三十二丁表」までは「文明5年6月17日」(26丁裏)に書写され、その後の「32丁裏」と「23丁表」の「五人所破事」からの引文二つが「文明十七年十一月」頃に追加されたものかと考えられる。なお、「34丁」の表裏には他筆で三大部の要文等が記されているが、内容的には本因妙と当体蓮華についてのものなので、右の主要部分と密接な関係を持った引文となっている。

 次にその主要部分の内容であるが、基本的には「1丁表」から「26丁裏」は「観心本尊抄」の注釈であり、「27丁表」から「31丁裏」までが富士戒壇説および竹取物語となっている。ただし、池田氏も指摘するように、後部の富士戒壇説および竹取物語も「観心本尊抄」の署名の「本朝沙門 日蓮撰」に関わらせた構図になっているので、この前後すべてを「観心本尊抄」の注釈と見ることも可能であるが、今は前後二つの内容と理解しておきたい。

 その「観心本尊抄」の注釈部分については、見やすいように、右掲の翻刻において、「本尊抄」の本文と思われる部分はゴチック体で記しておいた。これを見ても分かるように、この注釈は「本朝沙門日蓮撰」から始まっているが、「三丁表」に見える「上丿観心丿御沙汰丿如ごとは、おそらく題号の「観心本尊抄」中の「観心」の2字に対する注釈を指示した文と考えられるので、この注釈は前欠である可能性が高い。また、その後のゴチック部分を拾ってみても、「本尊抄」を大きく前半の観心段と後半の本尊段に分けることが許されれば、本書の注釈は専ら前半の観心段で終わっていることが分かる。これだけの材料からこの「本尊抄」注釈の本来の形態を推測することは不可能であるが、ただ後半部分はともかく、前欠は明らかなので、文明5年に日安師が筆記した時点で既に欠損した文書であったことが知られる。

 その注釈自体が、誰によっていつ頃作成されたものかは大きな問題であるが、一つの可能性としては筆記した日安師の作成が考えられる。「26丁裏」に見える

・・・如此宗ヲ無縁ニ立テ位ヲ下位ニ沙汰スル事ハ、所詮法体丿功能ヲ能々為顕也云云。 畢。
文明五年〈契〉六月十七日書畢。

富士郡上野郷之内井出周防殿持仏堂ニシテ書畢。

という識語の書きぶりもあるいはと思わせるが、その場合、冒頭の前欠が何とも説明できないので、やはり日安師の筆記は書写であったと判断される。同時に、その前欠の状態からは文明五5年の直前の成立とはとても思われず、おそらく数10年の年月があり、その間に冒頭部が欠落したものと考えられる。

 また「2丁表」には、日蓮の二字の解釈について、「委ハ如シ安国論ノ」とあり、これはおそらくこの注釈を作成した某師が、同じような要領で「立正安国論」に注釈を加え、その中に施した「日蓮」の二字の注解をみずから指示したものと思われる。それゆえ、その某師とは宗祖の主要御書を注釈するほどの力量を持つ学匠であり、あるいは1450年前後頃に本注釈を作成したかとも考えられる。

 



4、本因妙思想の分析


 本書は本因妙思想を体系的に専論したものではないので、思想の全体像を整然と理解することはできないが、その本因妙思想の立てどころを端的に指示しているものとして、「5丁裏」に見える

一、三五下種ト云クルハ熟益丿上テ云クル下種也。真実丿下種ト云タルハ初従此仏菩薩結縁還於此仏菩薩成就丿方テ云タル下種也。是ヲ御書ニハ日蓮カ法門ハ第三丿法門ト遊ハ、真実丿本因丿方ヲ指テ遊ハス也。一二遊ハ天通下種・今日初地〈華厳事〉下種ヲ指テ一二ト遊也。

の一段が挙げられる。この文中に見える「御書」とは「富木入道殿御返事(棄権出界抄)」のことで、同書の

総テ御心へ候へ。法華経ト与爾前引キ向ケテ判スルニ勝劣浅深ヲ、当分跨節の事有リ三ツノ丿様。日蓮か法門は第三の法門也。世間ニ粗如ク夢ノ一二をは申セとも、第三ヲハ不申サ候。第三丿法門は天台・妙楽・伝教も粗示セトモ之ヲ未タ事了ヘ。所詮、譲リ与へシ末法之今ニ也。五々百歳は是也。

との記述を受けた説明である。この「第三の法門」の一語には多少の異見もあるが、おおよそは天台智顎が爾前諸経と「法華経」の勝劣を示すために、「法華玄義」巻一に示した根性の融不融・化導の始終不始終・師弟の遠近不遠近の三種教相を受けたものとされ、第一の根性の融不融と第二の化導の始終不始終は法華迹門の義であるのに対して、第三の師弟の遠近不遠近は法華本門の義であり、「日蓮が法門」はその第三に立脚した法門であるというのが宗祖の意であると考えられる。しかるに、本注釈ではさらに義を掘り下げ、かつ下種に約して、「第三の法門」とは本因妙の下種を指すという理解を示したものである。そして、そこから振り返って、第一の根性の融不融と第二の化導の始終不始終に説かれる法華迹門の三千塵点下種および本門の五百塵点下種、あるいは今日華厳の初地下種および大通下種は真実の下種ではなく、熟益の上の下種であると会通されているのである。

 このように、本書の注釈における最も大きな特徴の一つとして挙げられるのは、「本門」と言った場合、それは久遠の本果妙を意味するのではなく、直接本因妙を指す語と理解されていることである。それゆえ、たとえば「14丁裏」には

私云、顕本遠寿丿内証ヲハ迹門丿上テ云時ハ五百塵点也。本門丿上テ云時ハ顕本遠寿ハ本因妙也。

とあり、五百塵点の顕本遠寿は迹門であり、本因妙の顕本遠寿が本門であるという立て分けが端的に明示されている。また、「21丁裏」末以降には

去程ニ本果ハ迹門本因ハ本門也。其丿本果ト云ヘハトテ今日現在丿事ニアラス。第一番丿最初ヲ指テアリ。去程ニ聖人丿迹門ハ天台本門也。聖人丿迹門ハ事成丿遠本ト云、聖人丿本門ヲハ無作理本ト云。々々々々ント云ハ実ニ天気秀発丿内証ニテアリ。事成丿遠本ト云ハ当宗迹門、天台宗丿本門也。寿量品ニシテ説タル法門モアリ。説カヌ法門モアリ丿。是ヲ説法門・不説法門ト云。正ク如来秘密神通之力ト説レテ有レ共、是ハ事成遠本丿方也。正無作丿理本丿方ヲハ不説。去程ニ過去丿寿量品ト遊ス。無作丿理本ヲハ今日寿量品二ハ説レネ共、如此無作理本姿ヲ云ハヽ寿量品丿上テナクシテハ云ワレス。去程ニ過去寿量品ト云也。返テ過去寿量品ト云ハ深意法門也。是ヲ御書ニ寿量品丿文丿底ニ秘シテ沈玉フト判玉ヘリ。此住ヲハ終ニ寿量品ニモ説ヌ住也。

と記して、本果妙=迹門=事成の遠本、本因妙=本門=無作の理本と定義し、その本因妙の無作の理本は「法華経」寿量品にも説かれない重であり、「富木入道殿御返事ハ棄権出界抄)」の「過去に寿量品」や「開目抄」の「本門寿量品の文の底」という文は、その無作の理本を指した語であると説明されている。

  なお、その経文不説の無作理本の本因妙につい ては、「十二丁表」に

其本法丿体ヲ釈スル時、真如海丿内ニハ絶シ生仏丿仮名を、平等性丿内ニハ無自他丿形貌釈セラレタリ。真如ト者生仏異リ絶タル善共悪トモ一法起ヌ重テアリ。サル程ニ唯本無作ト云ハ爰本也。万法依正二法丿当体ガ悉ク妙法蓮花経丿体ニテアリ。是依正不二丿題目也。是ヲ天台宗ニハ九識円備丿内証クルソト云。

とあり、また「二十四丁裏」に

本有三因ト云意ハ当知依正因果悉是蓮花之法ト釈シテ、万法依正二法当体力妙法蓮花経全体ヲ指居タル処力本有丿三因テアリノ。

とあるように、「法華玄義」巻七に説かれる「当体蓮華」によって説明されている。

 このように本注釈には、本門=本因妙という定義の上に、「法華経」や天台の釈文、そして宗祖の御書を 解釈せんとする姿勢が見え、本門=本因妙という定義に至る過程等はほとんど説明されていないので、ある 意味では非常に強引な作業の上に本因妙思想が成り立っているという感じを受ける。

 たとえば、当項の冒頭に触れた「第三の法門」については、慶林房日隆師も「五時四教名目見聞」に「第 三ト者久遠本因妙名字信位之根本下種丿南無妙法蓮華経、是レ五味主也」と述べて、本注釈と同じように本 因妙という結論に達しているが、ここに「五味主」とあるように、日隆師の場合は宗祖の「曽谷殿御返事 (焼米抄)」に見える「涅槃経は醍醐のごとし、法華経は五味の主の如し」等の定義を駆使して、その結論 に至る経過を明らかにしている。

 私は旧稿において、その日隆師の本因妙思想が種脱本迹論を前提として成り立っており、それが成立 するためには、@「本果妙釈尊の本因妙が上行菩薩であること」、A「上行菩薩が一切衆生に下種するこ と」、B「久遠下種が本因妙の下種であること」の三つの難関があって、それらがどのようにして解消され ているか、そのさまを少し述べてみたことがある。この三つの難関を見ても分かるように、そこでは上行菩 薩が非常に重要な役割を受け持っていたが、それに比べて本注釈における上行菩薩はどうかと言えば、「五 丁裏」以下に

此本門師弟ト者、遠ト云夕ルハ本行菩薩道時丿上テ云夕ル法門也。去程ニ経ニハ久遠称揚本春属ト説レ、釈ニハ自性所具丿眷属ト釈夕リ。正ク上行菩薩トニハ釈尊御自性丿内証上行菩薩ト可得意也。・・・上行付属ト云ハ此本因丿上ニ限タル法門也。本果ニ下ラヌ法門也。是ヲ経ニハ令初発道心ト説レ夕リ。釈ニハ久成之人ト釈たり。

とあり、また「十一丁表」以下に

一、当家ニハ能所共ニ迹丿気分アルヘ力ラス。本法所持有テ其マヽ本地丿娑婆ニ留リ玉フ。若同居・実報ニ交リ口口迹仏共可ケレト申、本法所持有テ其間々本地ノ口口留リ本地上行ト名乗玉フ間、法花本門丿直機也遊ス也。

と記されている。総体的に本注釈では上行菩薩に対する言及が少なく、あっても右のように、居場所はたし かに久遠本因妙であり、滅後末法とされているが、あくまでも釈尊の春属・弟子・所化としての上行であり、 またそれゆえの本法付属と説かれている。よって、日隆師やまたその影響が推測される大石寺日有師や妙本 寺日要師等の本因妙思想に見られるような本果妙脱益の釈尊に相対する本因妙下種益の上行菩薩はその影す らも見ることはできず、むしろ「二十六丁表」以下に

去程ニ本行菩薩道時菩薩ニハ更ニ名ヲモ付ケラレヌ住也。本書ニハ但聖人観理ト云テ但聖人ト釈シ、経ニハ但菩薩ト説キ、御書ニモ聖人ト判玉ヘリ。此等ハ皆無縁ヲ方取テアリ。名ヲツカハ無縁テハ不可有。或ハ威音王仏丿時ハ不軽菩薩ト名ヲ付キ、大通仏丿時ハ釈迦菩薩ト名ヲ付キ玉フハ有縁ヲ方取テアリ。本因妙ト云ハ但別ナル事ナシ。無縁ヲ方取テ有リ。去間、当宗無縁宗旨、聖人丿出世モ無縁丿出世ニテアリ。教弥実位弥下ト云タル法門ハ爰本ヨリ云タル法門也。

と見えて、当宗は無縁の宗旨なので、本因妙の菩薩は無名であると断じられている。また、この上行菩薩の 扱いと平衡するかのように、下種益そのものへの言及も決して多いとは言えず、本項冒頭の引文部分や、「八丁裏」に本尊に関して「彼ハ脱、此ハ種也」の文を引いて下種の正宗の本尊である旨が示されているのが 目につく位である。
 このように、久遠本因妙を本地とすることでは一致しながらも、日隆師等と本注釈とでは、そこまでに至 る過程がかなり相違しているようである。それでは、本注釈においてその過程らしきものを示す部分はない のかと捜してみると、次のような一段が「十四丁裏」以下にある。

理ワル時本因本果ヲ分テ得意、正法ト遊シタルハ上行付属方ヲ指テ正法ト遊シタリ。譬ハ、天台楽於小法丿下ニ於テ四重丿小法ヲ立ラル、時、三蔵教二対シテ外道ヲ々々ヲ小法ト破シ、三蔵教ヲ権大乗ニ望テハ三蔵教ヲ小法ト破ス。権大乗実大乗迹門ニ望ル時、権大乗ヲ小法ト云。迹門ヲ本門ニ望ル時ハ迹門ヲ小法ト云。是ヲ四重丿小法ト云也。爾前ニ迹門ヲ対スル時、爾前邪法、迹門正法也。迹門ニ本門ヲ相対スル時ハ迹門ハ邪法、本門ハ正法也。又、本門ヲ観心ニ望ル時ハ本門ハ邪法、観心ハ正法也ト云ハレタリ。正ク今此正法ト云ハ観心丿上ニ立タル時丿本門ヲ遊テアリ。上行付属丿方也。

 これは一口に正法といっても、所対によって相違があることを述べたもので、天台の「法華文句」巻九に 説かれる「四重の小法」を受けて、爾前・迹門・本門・観心のいわゆる四重興廃のパターノを用いて、観心 =上行付属=本因妙を最終的な正法としている。説明がこれだけなので、断言することは困難であるが、右 述したように、日隆師等の種脱本迹系の本因妙思想との違いの大きさからしても、本注釈の同思想は四重興 廃的思考に基づいた本因妙思想であろうかと思われる。

 ただし、ここに一つ注意すべきことがある。それは、本因妙の菩薩は無名であることを述べる文として右 に引いた「二十六丁表」の中に「去程ニ本行菩薩道時菩薩二ハ更ニ名ヲモ付ケラレヌ住也。本書ニハ但聖人観理ト云テ 但聖人ト釈シ、経ニハ但菩薩ト説キ、御書ニモ聖人ト判玉ヘリ」と記されていることである。ここに「本書ニハ但聖人観理ト云テ 但聖人ト釈シ」とあるのは、「法華玄義」巻七下の「蓮華」釈の第一 「法譬を定む」に説かれる又解シテ云ク、蓮華ハ非スシテ譬ヘニ、当体ニ得ト名ヲ。類セハ如シ劫初ニハ万物ニ無ク名、聖人観シテ理ヲ準則シテ作ルカ名ヲ。 の文を指し、また「御書ニモ聖人ト判玉ヘリ」とは、「当体義抄」の中でこの「法華玄義」の文を引いて、それ を注解する形で記されている

此丿釈丿意ハ、至理ハ無名、聖人観シテ理ヲ万物ニ付クル名ヲ時、因果倶時・不思議ノ一法有リ之。名ツテ之ヲ為ス妙法蓮華卜。此丿妙法蓮華ノ一法ニ具足シテ十界三千丿諸法ヲ無シ欠減。修行スル之ハ者ハ仏因仏果同時ニ得ルナリ之ヲ。聖人此丿法ヲ為シテ師ト修行覚道シ給ヘハ、妙因妙果倶時ニ感得シ給フ。故ニ成リ妙覚果満丿如来卜給フ也。

という一段を指したものである。これは読んで分かるように、蓮華は讐喩ではなく当体の名称であり、その 類証として劫初における聖人の名付けを示した「玄義」の文を受けて、「当体義抄」では更に聖人がみずか ら命名した妙法蓮華・当体蓮華を師として修行し、成仏するさまが説かれている。このように、「玄義」の「当体蓮華」自体は直接本因妙に関係するものではないが、「当体義抄」がそれを解釈する形で当体蓮華の 修得という菩薩行を説き示したことにより、本注釈では「去程ニ本行菩薩道時菩薩二ハ更ニ名ヲモ付ケラレヌ 住也」と述べて、それを本因妙における菩薩行の叙述として取り上げたのである。経文不説の無作理本の本 因妙が当体蓮華によって説明されていることは右に指摘した通りであり、本注釈の本因妙思想が四重興廃的 思考というよりは、この「当体蓮華」および「当体義抄」に基づいて成り立っている可能性はかなり高いの ではないかとも考えられる。

 さて、この外には、本注釈独自の説明として、「四丁裏」以降には自・覚・覚他の二品の本迹が説かれ、「十二丁表」以下には本法・流転・還滅という三教相を用いて本迹が説明されている。また、「二丁裏」 には妙法五字に関して伝教大師の「十二会」なる法門が示されており、「七丁裏」等にある「報恩抄」の「七種の肝心」への注目もあまり他に例を見ないものである。

 


5、成立の背景をさぐる

 前々項の末尾において、主に文書としての形態等から、「その(作者の)某師とは、宗祖の主要御書を注 釈するほどの力量を持つ学匠であり、あるいは1450年前後頃に本注釈を作成したかとも考えられる」と 推測したが、ここでは前項における本因妙思想の分析の結果を受けて、本書成立の背景について再考してみ たい。

 先ず、前項でその分析の対象とした「観心本尊抄」の注釈部分には、確かに本因妙思想が明説されている が、いわゆる日蓮本尊等に触れるところは見られないので、これだけでは果たして日興門流内で成立したも のか否かは不明である。ただし、「三十二丁表」にも右に触れた「報恩書(抄)」の「七種の肝心」を取り上 げているので、おそらくその中間に見える富士戒壇説・竹取物語をも含めて、作者は同一人だと想定される ので、富士戒壇を主張する日興門流における成立と考えるのが妥当である。

 そして、さらにそれ以上の探求の手だてはないのかと見た場合、先ず、前掲した池田論文では特に「『当 家聞書』の内容と三位日順の所説」という一項をもうけて、本書の記述と日順師の所説の関連性に注意を 喚起している。しかるに、この喚起に誘われて、日順師の著作を精査してみると、暦応5年(1342)3月 14日に、日順師にとっては直接の師匠にあたる寂仙房日澄師の33回忌の法会に際し、僧俗門下が一味 同心の祈願の連署を捧げるに当たって、師が作成した「誓文」の中に、

幸ニ難キ逢匕値コトハ妙法ニ如一眼丿霊亀丿値フカ浮木ニ。本因直達値遇丿縁自リモ於此尚甚シ。

とあり「本因直達」と記されているのに気がついた。簡潔な文章ながらも、妙法値遇よりも一層困難と述べ られているので、本因の妙法と意を取って良いかと考えられる。日順師の著作における唯一の「本因」の用 例であり、説明などもないので、何とも判断が難しいが、おそらく非常に素朴ながらも、師の教学の中に本 因妙への着目が存在したことは認めてよろしいかと思われる。

 すると、これに関連して想起されるのが、これまで曾稿でしばしば触れたきた如寂日満師の「方便品 読不問答記録」に日代発言として見える

与丿意の分、一往於テ文上ニ雖明スト得益ヲ、奪破双意の分、再往於テ文底ニ無シ得益。真実丿得益ハ者限ル寿量品丿文底丿因妙也。

という、真実の得益は本因妙に限るという見解である。これも周囲の文献との関連がつかず、全く孤絶して いるという理由から判断を保留していたものであるが、建武元年(1334)正月7日の日代師の発言かどう かの判断はできないものの、右の日順師の一例から考えても、日満師(1308〜60)の記録としては十分 認められると思われる。

 そして、これらに右に考察した「本尊抄等雑々聞書」の本因妙思想を並べてみた時、余分な説明を加えず にいきなり本因妙へと直参するという傾向がそこに共通しているように感じられる。すると、言うまでもな く日順師は重須談所の第二代学頭であるし、日満師はその日順師の著作を引用するほどに、北山本門寺 ・重須談所に縁が深い人である。さらに、これに文明5年に日安師が「本尊抄等雑々聞書」を書いたという「井出周防殿持仏堂」の井出周防殿が、当時の北山本門寺の有力な檀越であることを勘合した場合、日 順・日満の両師の系統を引く北山本門寺の関係者により本書が作成されたのではないか、と推測することは可能である。具体的な人名を提出することはできないが、今は仮説の一つとして提出しておきたい。

 



おわりに

 以上のように、本稿第1章では種脱本迹系本因妙思想とは発生源を異にする四重興廃系本因妙思想が存在するかどうか、その可能性をも含めて一通り見渡してみた。その結果、「日満抄」には本因妙思想までは届いていないものの、四重興廃の本迹未分の観心重に妙法五字を当てる作業が見られ、「本因妙抄」の方は一部、「五重円記」の方は全面的に四重興廃をテコとした本因妙思想が検証された。

 一方、第2章で今回新たに紹介した妙本寺蔵・日安筆「本尊抄等雑々聞書」に見える本因妙思想は、系統としては一往四重興廃系か、あるいは当体蓮華および「当体義抄」を淵源とした本因妙思想と認められるが、いわゆる種脱本迹系の日隆・日有・日要等の諸師の説明とはかなり相違した内容となつていた。そして、その種脱等を介さずに直接本因妙をつかみあげるという傾向は、日順師や日満師(あるいは日代発言)の微証と通底しているような感触を得ることができた。

 そんな「本尊抄等雑々聞書」を、一方では日隆師の種脱本迹系本因妙思想の摂取に努めていた日安師が書写していることの意義はやはり大きく、従来の日興門流の本因妙思想は日隆師のそれの強い影響下に形成されたというイメージを、少なからず修正する出来事であると言えよう。また、このことは同時に「本因妙抄」成立の背景として、日隆教学とは別に日興門流独自の本因妙へのアプローチがあつたと考えても大過ないものと思われる。


 日興門流における本因妙思想の形成の過程は、多少晴れつつもあるものの、いまだ五里霧中という状態である。ただ、これまでの一連の考察の中で、拙いなりに宗祖の佐渡・身延期から門流上代にかけての過程の見通しを漠然とながらも得ることができたので、次稿ではそのごく粗い素描を提出してみたいと思う。

 

 

 

もどる