大日蓮に掲載されていたと言う「阡陌陟記」に関連した記事を偶然にも探し出しました。
敵もさる者、引掻く者・・・理屈ではナカナカ手強い相手と見受けしました。
大日蓮・昭和58年6月(第448号) | |
大日蓮・昭和58年7月(第449号) | |
大日蓮・昭和58年8月(第450号) | |
大日蓮・昭和58年9月(第451号) | |
大日蓮・昭和58年10月(第452号) | |
大日蓮・昭和58年11月(第453号) | |
大日蓮・昭和58年11月(第453号 | |
大日蓮・昭和58年12月(第454号) | |
大日蓮・昭和59年1月(第455号) | |
大日蓮・昭和59年2月(第456号) | |
大日蓮・昭和59年3月(第457号) | |
大日蓮・昭和59年4月(第458号) | |
大日蓮・昭和59年5月(第459号) | |
大日蓮・昭和59年6月(第460号) | |
大日蓮・昭和59年7月(第461号) | |
大日蓮・昭和59年8月(第462号) | |
大日蓮・昭和59年9月(第463号) | |
大日蓮・昭和59年10月(第464号) | |
大日蓮・昭和59年11月(第465号) | |
大日蓮・昭和59年12月(第466号) | |
大日蓮・昭和60年1月(第467号) | |
大日蓮・昭和60年2月(第468号) | |
大日蓮・昭和60年3月(第469号) | |
大日蓮・昭和60年4月(第470号) | |
大日蓮・昭和60年5月(第471号) | |
大日蓮・昭和60年6月(第472号) | |
大日蓮・昭和60年7月(第473号) | |
大日蓮・昭和60年8月(第474号) | |
大日蓮・昭和60年9月(第475号) |
更に如何のような論文もみつけたので掲載します。品位の無い題名ですね。
御相伝の大事
時局法義研鑚委員会報告
▼過日の時法研(時局法義研鑽委員会)において、自称在勤教師会で主張する珍説・迷釈について、それぞれ担当委員から発表された。このときばかりは委員会が失笑と爆笑の連続であった
▼その時の話題をひとつ紹介しよう。川澄某の『阡陌陟記』なるいかがわしき書き物には
〝末法出現の凡身日蓮は本仏にあらず〟
と主張し、これに与同する在勤教師会の者達が、川澄説を証明せんとして、さかんに日寛上人の末法相応抄の一文を引用している
▼それは、大聖人を本仏と信じられない要法寺日辰が
「もし大聖人を本尊とするならば、凡身の蓮祖を中央に安置し、左右に釈迦多宝等の脇士を置くべきであろう、如何」
と論難したことに対する寛尊の破折である。そこで寛尊は
「答う、日辰未だ富士の蘭室に入らず、如何ぞ祖書の妙香を聞ぐことを得んや。今謂わく、御相伝に本門の教主釈尊とは蓮祖聖人の御事なりと云うとは、今この文意は自受用身即一念三千を釈する故なり、誰か蓮祖の左右に釈迦多宝を安置すと言わんや」(聖典908)
と、大聖人の左右に脇士を置く必要はない旨をまず結論づけられた
▼彼等によると-線(アンダーライン)部の意味が
「寛師は、日蓮大聖人という本仏は生身の宗祖を意味するのではない。日蓮大聖人と言えばすぐ生身の宗祖と考えるのは早計であると仰せになっている」
のだそうだ。要するに彼等は日辰と同様に
〝釈迦多宝を脇士としないから、凡身日蓮は仏ではない〟
という
▼ところが寛尊はその直後に、脇士を安置しない理由を明示されている。
「今謂わく当文の意に云わく、蓮祖一身の当体全く是れ十界互具の大曼荼羅なり云云。故に蓮祖の外に別に釈迦多宝等有るに非ず、那んぞ左右身皆金色と云わんや」
文中の「全く是れ」と「外に別に」の文字を熟視すれば、この文が
「大聖人の御一身すべてこれ釈迦多宝を含む十界互具の大曼羅であり、本仏であるから御身の外にあらためて脇士を置く必要はない」
と仰せられていることは、初信の者でも理解できよう。
「蓮祖即ち是れ自受用身なり」(聖典937)、
「蓮祖を以って本尊と為すべし」(聖典913)
等の文は随所に示されている
▼発表後の討議――「これに限らず彼等には自説を証明するつもりの文証で、かえって自滅するヘンなくせがあるね」(A委員)、「本来が思いつきや我見だから、その文証といっても御書や御先師上人の著作著書にはあるわけがないんですよ」(B委員)、「こんなお粗末で、ふざけ半分の邪説に引きずられる信者が気の毒ですね」(C委員)。この一言には、委員全員が深刻な表情でうなずいておりました。 (水)
自称在勤教師会では
「日蓮大聖人といっても、鎌倉時代の日蓮、上行再誕の日蓮、本仏日蓮等、それぞれ意義が違うのであり、日寛上人の記述に蓮師、蓮祖聖人、蓮祖大聖人、南無日蓮大聖人等の立分けが伺える」
とか
「日寛上人は鎌倉に出現された宗祖については、蓮祖と称され、宗祖の魂魄を蓮祖聖人、師弟一箇の法体を蓮祖大聖人、師弟一箇の本尊を南無日蓮大聖人と称され、凡身の大聖人と区別され、本尊を論じている」
と力説する
▼この説について、過日、某委員より〝疑点多し、検討の要あり〟との発言があり、早速、数名の委員が確認のため文献をめくる。なにしろ狂者のうわ言に近い無責任な放言だから、確認のためとはいえ、付き合うほうも楽ではない。間もなく彼等の馬脚が露われた
▼「蓮祖」について日寛上人は、文底秘沈抄に
「自受用身即ち是れ蓮祖」、
末法相応抄に
「人法体一の故に蓮祖を申すって以って本尊と為す」、
当流行事抄には
「蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば焉んぞ教主釈尊に勝るることを得可けんや」
と説いて、「蓮祖」こそ久遠元初の自受用身であり、人法体一の本尊なることを明示されている
▼この外に
「自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人云々」(聖典907)
などの文もあり、寛尊の六巻抄において蓮祖と蓮祖聖人の間に特に意義の差異は見られない
▼ここで彼等は三つの重大な誤ちを犯している。その第一は、あたかも寛尊が仏身の大聖人と凡身の大聖人を立て分けているかのように偽証していること
▼第二は、「蓮祖」という呼称が非本仏の凡身日蓮に限るという彼等の説は、前引の文証に照らしても全くの虚言であること。なお、これに関連して
「宗祖の魂魄を蓮祖聖人と称する」
という彼等の説を見るに、文底秘沈抄には文永八年の竜口で発迹顕本された文証たる
「魂魄佐渡の国に至りて云々」
の開目抄の聖文を釈して、
「佐州已後は蓮祖即ち久遠元初の自受用身なり」
と仰せられている。すなわち、開目抄にいう魂魄たる顕本後の大聖人をも「蓮祖」と称されており、ここでも彼等は幼稚な欺瞞を犯している
▼第三に、彼等はあたかも寛尊が
〝凡身日蓮・非本仏論〟
を主唱しているかの如く宣伝し、冒涜していることである。もし彼等の説の如く、末法出現が本仏らしくないというならば、寛尊の
「本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり」(聖典913)
の文に背き、もし凡身日蓮を疎んずるならば
「久遠元初の自受用身とは本因名字の報身にして(中略)但し名字凡身の当体なり」(聖典914)
の指南に反する
▼所詮、末法の本仏とは末法出現名字凡身の日蓮大聖人であり、寛尊の御教示はここに尽きているのである。愚劣な立て分けや、うわ言は後代のお笑いぐさでしかない。 (水島)
大日蓮昭和58年7月(第449号・94頁)
自称在勤教師会が主張する邪説のひとつに「師弟一箇の本尊」説がある。我々にとって「人法一箇の本尊」とか「師弟相対の信心」という本宗古来の用語ならば、よく拝承するところであるが、「師弟一箇の本尊」という未聞の珍説を理解するとなると、至難この上ない。それというのも、彼等の主張内容が深遠だからではなく、あまりに独善的であり、混濁しているからにすぎない
▼むろん師弟一箇の本尊を立証する文拠などあろうはずもないが、彼等は我見を正当化しようと腐心し、次のように強弁する。云く
「有師の仰せに『上行菩薩の御後身日蓮大士は九界の頂上たる本果の仏界と顕われ、無辺行菩薩の再誕日興は本因妙の九界と顕われ畢ぬ(中略)師弟相対して受持斯経の化儀、信心の処を表したまふなり。十界事広しと云へども日蓮日興の師弟を以って結帰するなり』とあるのも環滅門の所談であり、当家における妙法が法門の上で日蓮日興の名をもって師弟一箇と決定される旨を説かれている」
と。これをさらに転開して、彼等は
「その妙法が昇華して本尊と顕われ」、
「無差別の中で互いに師弟が入れ替わって修行する」
という
▼有師の仰せとは、長録二年の春、筑前阿日拾が登山した折、日有上人より承った話を記録したもので、有師の御意をどこまで正確に伝えているかは定かではないが、例えば「受持斯経」の経文を、日寛上人が
「受持は即ち是れ機に約し、斯経の二字は法に約す」
と釈されたように、この引文は、衆生(機)の受持と師弟相対の信心、即ち仏果の大聖人を師と定め、九界本因妙の日興上人を弟子と定めて、本宗における正当な師弟のあり方を後代に教示したものにほかならない
▼この有師の仰せのいずこに「師弟一箇」や「無差別の中で師弟が入れ替わって修行する」などの意義があるというのであろう。当家における師弟相対とは、「師弟無差別」や「師弟同等」の意味ではなく、弟子を垂教善導する師と、師を尊信拝伏する弟子との関係をもって本義とするのである
▼その証拠が、彼等の引文中、(中略)と割愛した部分に記されているのだから皮肉である。そこには
「然れば本果妙日蓮は経巻を持ち玉へば本因妙の日興は手を合せ拝し玉ふ」
とあり、画然たる師弟の関係を明示している
▼因みに「結帰」の二字は、現在「結縁」と改正されていることを付記する。詮ずる所、有師仰せの御文全体は、むしろ師弟無差別論や師弟一箇の本尊説などを破祈する文証なのである
▼自分の都合によって、先師の御文を隠蔽し、切り貼りすることは、最も卑劣な恥ずべき行為である。 (水島)
大日蓮昭和58年8月(第450号・84頁)
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▼今回は話題を変えて、
「歴代上人を法主と呼ぶことは誤りである」
という自称在勤教師会の主張について述べてみよう。
▼彼等は
「近世まで貫主の名称が使用されていたが、明治に入って宗教法人法の設立の際などに貫主の名称は消え、法主がかわりに使われるようになった」
といい、
「当宗御歴代にあっては、有師・寛師をはじめ歴代を法主と言う例はない」
と断言している。
▼ただし例外として
「室町期において、京都住本寺の僧で後に日有上人に師事した左京日教師の穆作抄に、宗祖の内証とは別に、代々の貫主を法主と呼称する例を散見する。(中略)左京日教師は、恐らく京都において真宗等によって通例化されていた貫主=法主という呼び方をそのまま習慣として使ったものと思われる」
という。
▼さらに彼等は、法主つまり法の主(ぬし)は大聖人の内証以外にはありえず、法の主(ぬし)が六十何人も出現するなどという馬鹿げたことは許されないし、現実の特定の人を指して法主と称することは本来ありえない。もし当宗で貫主を法主と称するならば、法門を根底からくつがえす一大事となる、と主張する。
▼それにしても、ずいぶん乱暴な言い分である。いま、彼等のいう
「有師・寛師をはじめ御歴代は、歴代を法主と称した例はない」
との一点だけでも論破しておこう。次の写真を見て頂きたい。これは紛れもない日寛上人の直筆による『当家法則文抜書』の一文である
▼堀日亨上人の注記によると、この寛尊の抜書は、左京日教師の『当家御法則』を書写されたものであるという。しかし表紙には第二十九世日東上人の署名花押があり、永く宝蔵に秘されてきたことを見ても、寛尊はじめ当時の御歴代上人が当家の御法則文として大切に伝持されてきたことがわかる。この御文にはっきりと
「其次々々佛法を相属して当代の法主の処云云」
と記されており、当宗において古来、御歴代を法主と呼称していた事実を日寛上人が存知されていたことは間違いない。もし彼等のいう如く、法主と称することが
「法門を根底からくつがえす一大事」
の誤ちならば、法義に厳格な日寛上人が、自ら書写し保存されるわけがないし、日寛上人の薫陶を受けた日東上人がそのまま看過されるわけがない。
▼また左京日教師の『穆作抄』には
「御本尊書写の事は聖人御門流には付法の法主は二人有る可からざるなり」(要集二-二八六頁)
とある。この穆作抄は第十四世日主上人のものと、第三十五世日穏上人の書写本とがあるという(要集二-二八八頁)。
▼ということは、今挙げた現存する二つの文書をもってしても、歴代上人中、少なくとも第十四世日主上人、第二十六世日寛上人、第二十九世日東上人、第三十五世日穏上人の四師は歴代を法主と称する文書を見聞していたことになり、誰一人としてこれを訂正したり否定したりされていないのである。即ち当宗では上代より御歴代を貫主とも法主とも称し奉ってきたことが伺えるのである。
▼彼等が左京日教師に対して、一方では
「日教師は後に日有上人の門に帰され、そこで御法則文について当家の深義を事書にされた」
と称賛しながら、一方で自分達に不都合な「法主」と記したからとて
「京都において真宗等によって云云」
と、いかにも念仏宗に毒されたかのように軽侮することは、いかがなものであろう。「法主」を法の主(ぬし)としか理解できない低劣な知能なれば、その発想といい 、上慢ぶりといい、無理からぬものがある。 (水島)
大日蓮昭和58年9月(第451号・90~91頁)
▼この表題は誤字や誤植ではない。過日の委員会で、在勤教師会の教祖ともいうべき川澄勲の自筆による『阡陌渉記四』が紹介された。その中で川澄は、よほど己れの博識ぶりを自慢したかったのか、珍妙な念仏論をまくし立てている。その所産のひとつが「久遠元初の弥陀」説なのである。
▼云く
「美作誕生寺には法然上人の生処本尊と称する阿弥陀如来の木像がある(中略)その胎内には紙片に印された南無阿弥陀仏の名号が多数おさめられていたようである(中略)その一々に衆生の俗名干支などが墨書されて居り、大量のものが藁しべをもって一結されて胎内本尊の貌を表わしている。一人の衆生の姿であり、三千が一念におさまった処の己心の姿は弥陀の生処を表わしたものと考えられる。己心の一念三千とは本法所住の処、久遠元初の弥陀の表示である。この胎内本尊は、親鸞や日蓮像の胎内にある絵像と同じく左尊右卑の本尊であって環滅を意味していることはいうまでもない。ここに弥陀をみ、生処として久遠元初の本仏を見るものである」
と。
▼何とも支離滅裂の文章だが、ここで川澄は、大聖人が
「阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」
(御書444頁)
と論破された阿弥陀仏を、久遠元初の本仏と称えている。権実に迷い大聖人に背反する者が、当宗相伝の深義を論ずることなどおこがましい限りである。
▼それにしても、弥陀名号の紙片を藁しべで結んであることを
「三千が一念に納まった己心の姿なり」
と得々として解説するところなどは川澄の面目躍如として、理屈ぬきに可笑しい。まさに
「能開所開を弁ずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知り顔に申し侍る」(御書332頁)
とはこのことであろう。
▼川澄に限らず在勤教師会の者に共通する文章上の特徴として、論証不可能な結論に導くために辻褄の合わない飛躍や強引なすりかえの文言が非常に多いことが挙げられる。例えば「おさめられていたようである」との推量が一転して「一々に墨書されて居り」と既定の事実に変わり、最後は「胎内本尊の貌を表わしている」と意義づけまでされるという具合に、状況設定が極めて不安定であり、視点が常にぶれているのである。
▼それは
「左尊右卑の本尊であって還滅を意味していることはいうまでもない」
との文にも言える。左尊右卑が何故、還滅を意味するのか、「いうまでもない」どころか、珍説であり飛躍した部分であるから精細な立証によって「言うべきところ」なのである。とは言え、右尊左卑(印度)・左尊右卑(漢土・日本)という世俗的風習の相違を直ちに迷悟二面の流転・還滅に配分することが、どだい無理な話なのである。もし川澄説に依るならば、阿弥陀でも大日でも左尊右卑の型式さえ用いるならば、すべて開悟涅槃の正境ということになる。まったく幼椎な発想だ。
▼「久遠元初の弥陀」の意味もいまひとつ明瞭でない。もし
〝阿弥陀こそ久遠元初の仏なり〟
の意ならば、寛尊の
「久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なり」(聖典938頁)
の御文によって破られるであろう。もし
〝阿弥陀も久遠元初仏になりうる〟
との意ならば、
「文底の意は久遠元初を以つて本地と為す、故に唯一仏のみにして余仏無し」(聖典940頁)
の教示に反し、また、もし
〝阿弥陀を通して元初仏を覚知する〟
の義ならば、
「阿弥陀仏は我等が為には主ならず、親ならず、師ならず」(御書47頁)
「唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即ち仏身なり」(御書1679頁)
の聖文によって破折されよう。
▼当家の深旨たる久遠元初を、無間の業因阿弥陀仏に付して弄ぶ川澄こそ
「在家の身を以て仏法を破壊す。此の人正教を偸竊して邪典に助添す」(御書527頁)
の文に当たる法賊というべきである。正法破壊を目論む正信会・在勤教師会の思想的源流がここに存することを、我々は明確に認識すべきであろう。 (水島)
大日蓮昭和58年10月(第452号・102~103頁)
時局法義研鑽委員尾林広徳
自称正信会および在勤教師会、久保川法章達の本宗の法義に関する牽強付会の妄説に対して、日顕上人は去る昭和五十六年八月二十五日、次いで昭和五十八年八月二十九日、いずれも全国教師講習会の席上において、宗義の大綱の上から、その謬説を厳しく糾弾、論破あそばされ、本宗の正統な教義に則って、御法主としての裁断を下された。
宗門人ならば僧俗を問わず、この猊下の御指南を伏して仰ぐべきである。
また、宗門の機関誌である『大日蓮』の誌上においても、時局法義研鑽委員会のメンバーによる破折の論説が次々に発表されている。
したがって、私はそうした既に破析され尽くした問題はさておき、彼等の主張のなかに引用される大聖人の御書や、とりわけ日寛上人の御指南の拝し方、その我田引水、牽強付会の解釈が、その結論において、大聖人や歴代御先師の正説に反し、その意を失わしめていることについて、いくつかの事例を挙げ、彼等の迷妄を明らかにしておきたいと思う。
「法華経を讃ずと雖も還って法華の心を死す」
とは『法華秀句』における伝教大師の言葉であるが、大聖人の久遠元初の事の一念三千の南無妙法蓮華経を讃じつつも、大聖人の教義の根幹である本尊の正義と、大聖人の御化導の心を死しては何にもならない。それこそ師敵対の大謗法である。
いま、彼等の説を直截に評するならば
「法門の狂いは、想像以上に根深く深刻である。我々には大胆な発想の転換」
が必要という増慢と、
「内証己心を基調とした法門が、物質文明の影響によって次第に外相化していった」
と主張して、明治の御先師を蔑みつつ、結局のところ、戒壇の大御本尊を初め、多くの曼荼羅本尊を御図顕あそばされた大聖人の御施化そのものまで、外相の本尊と蔑視するに至っているということである。
『衆生の己心に証得する本尊について』
彼等は、日寛上人の『観心本尊抄文段』における
「次に観心の文に『此の三千・一念の心に在り』等というは、この一念三千の本尊は全く余処外に在ること無し。但我等衆生の信心の中に在すが故に『此の三千・一念の心に在り』と云うなり。若し信心無くんば一念三千の本尊を具せず。故に『若し心無くんば巳みなん』と云うなり(中略)宗祖の所謂『此の御本尊も只信心の二字に収れり』〔1388〕とは是れなり」(日寛上人御書文段209頁)
の文を挙げて
「宗祖や寛師は究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にあると示されている。つまり流転門の相対の世界で考えられていた本尊が、環滅門に切換えられ、我が身にひき当てられた時、はじめて当家の本尊があらわれるというのである」
と言っている。そして、大聖人の御建立あそばされた御本尊を
「実に十界曼荼羅は、旧来の事物に執し、色相を尊ぶ偶像崇拝を打破し、己心内証に証得する本尊を顕わさんが為のもの」
と論断するのである。
この在勤教師会の解釈は、明らかに大聖人の『日女御前御返事』における
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。云云」(御書1388頁)
の御文と、日寛上人の御指南を曲解している。
日寛上人の『文段』『六巻抄』等を具さに拝してみるがよい。日寛上人はけっして
「宗教分では行者と相対していた本尊が、宗旨分では実は、行者の外にあるものではなく、信を以って刹那に己心のうちに証得される」
等とは仰せになっていない。
日寛上人は、末法の日蓮が弟子檀那の観心の本尊を明かされるに当たって、『観心本尊抄文段』に
「謂わく『観心』の二字は即ち是れ我等衆生の能信能唱の故に九界なり。『本尊』の二字は一念三千即自受用身の仏界なり。我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ち是れ本尊なり。故に九界即仏界なり。故に『観心本尊』の四字は即ち十界互具・百界千如の事の一念三千なり」
(日寛上人御書文段205頁)
と御指南あそばされている。つまり、日寛上人は、宗旨分と宗教分、流転門と還滅門の相対だとか、己心に建立する本尊等と、独りよがりの本尊義を立てておられるのではなく、大聖人御図顕の所信・所唱の御本尊が建立されて初めて、我等の観心の成り立つことを、すなわち、信行の具足による観行の成就をお示しになっているのである。
末法の我等衆生の観心は
「但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり」
(観心本尊抄文段・日寛上人御書文段198頁)
との御教示と相まって
「我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり」(同205頁)
「我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ち是れ本尊なり。故に九界即仏界なり」(同頁)
と、文底下種直達正観・無作本有・事の一念三千の南無妙法蓮華経という観心の本尊に約して、しかも、彼等の主張の如き外相を捨てて、「己心の法門」「己心の本尊」という己心の偏重、別立ではなく、「己心」と「我が身の全体」、つまり、色心の二法全体の成道を明かしておられるのである。
本尊の仏力・法力と、日蓮が弟子檀那の信力と行力によって、仏界即九界、九界即仏界、即座即身の成仏、刹那の成道の叶うことを説き明かされているのである。
したがって日寛上人は
「故に知んぬ、但文底下種の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる則んば、仏力・法力に由り即ち観行成就するなり。若し不信の者は力の及ぶ所に非ざるなり」(同201頁)
と明言せられている。そして『取要抄文段』においては、さらに明確に
「当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり」(日寛上人御書文段545頁)
と仰せあそばされている。したがって『日女御前御返事』における
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1388頁)
とは、
「若し理に拠って論ずれば法界に非ざる無し」
(観心本尊抄文段・日寛上人御書文段210頁)
の一念三千の法理も
「事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則ち異なるなり」(同頁)
ことを人即法の本尊に約して、明らかにせられたものに他ならない。
換言するならば、理法の上において一切衆生の一念に己心所具の三千の諸法を観見する天台家の観心とは違って、
「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり。『十法界を見る』とは、即ち妙法を唱うる義なり。謂わく、但本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全く是れ我が己心の十法界なるが故なり」(同214頁)
と『観心本尊抄文段』に日寛上人が明かされる如く、当家の観心はどこまでも、事の一念三千の南無妙法蓮華経の御本尊を受持するところにあり、その信心口唱に観心の義の成ずること、そして無上の宝聚を自然に受得することを、「信心の二字にをさまれり」と御教示あそばされたものと拝さなければならない。
しかも、このことは日寛上人が
「当体義抄の大旨、之を思い合わすべし」(観心本尊抄文段・同210頁)
と仰せのように、『当体義抄』における
「但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書694頁)
の御文や
「日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり」(同701頁)
との御指南を合わせ拝しつつ『日女御前御返事』の文を拝考申し上げなければ、大聖人の御真意に触れることはできない。
すなわち『日女御前御返事』が、人即法の本尊・事の一念三千に約して末法の衆生の証得を明かされた御文ならば、『当体義抄』は、法即人の本尊・本門寿量の当体蓮華仏に約して末法の衆生の証得を明かされたものと言うことができよう。
しかして、日寛上人は『当体義抄文段』に
「本有無作の当体蓮華仏とは、本門の本尊の御事なり。我等、妙法信受の力用に依って本門の本尊・本有無作の当体蓮華仏と顕るるなり」(日寛上人御書文段624頁)
とも、また
「『正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる人』とは本門の題目なり。『煩悩・業・苦乃至即一心に顕われ』とは、本尊を証得するなり。中に於て『三道即三徳』とは人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり。『三観・三諦即一心に顕われ』とは法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり。『其の人の所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕わすなり」(同628頁)
と御教示あそばされている。
いま、日寛上人のこうした御指南の上から、在勤教師会の
〝己心に建立する本尊義〟
の誤りを要約するならば、
(一)に、大聖人が何に対して、事の一念三千の南無妙法蓮華経の御本尊を
「余所に求る事なかれ」
と仰せになったのか。
そのことの御正意が理解できていない。
(二)に、大聖人が本門の本尊の信受に約して、不信謗法の類を簡び捨てて、本尊を信受する人をもって直ちに妙法の当体蓮華仏と、末法の衆生の観行の成就、証得を明かされているにもかかわらず、これを「流転門」「色 相を尊ぶ偶像崇拝」と誹謗していること。
(三)に、日寛上人は
「色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり」(取要抄文段・日寛上人御書文段545頁)
「『色心』と言うは、『色』は即ち人の本尊、『心』は即ち法の本尊」(当体義抄文段・同628頁)
と、本門の本尊、本有無作の当体蓮華仏が人法体一ならば、その本尊を信じ行ずる日蓮が弟子檀那の当休も、妙法信受の力用によって、本門の本尊、本有無作の当体蓮華仏と顕われるにもかかわらず、色体の成道を忘れて、「己心の本尊」「己心の法門」と、己心のみを偏重している。
(四)に、御本尊は仏界、我等衆生の観心は九界、御本尊は能顕、己心の妙法は所顕の別があるにもかかわらず、「究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にある」とか「師弟一箇」等と称して、因分の無作三身と究竟果分の無作三身という、本有無作三身における総別の重(注・取要抄文段・日寛上人御書文段514頁~516頁)を知らず、「衆生の己心の上に信を以て証得する本尊」を指向することによって、むしろ、本尊と観心、仏界と九界、能顕と所顕が逆転した顛倒の本尊観を立てている。
もとより周知の如く、弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊は、大聖人の御出世の本懐、末法下種の正体にして、三大秘法総在の本尊である。したがって日寛上人も『観心本尊抄文段』に
「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(同197頁)
と仰せあそばされている。
しかるに、大聖人の『日女御前御返事』における「信心の二字」のお言葉や、前述の如き日寛上人の御指南を曲解して、
「詮ずるところ戒壇の本尊といえば、すでに滅後己心に顕わされるもの」
「衆生の己心の上に信の二字をもって刹那に建立されるのである」
等の邪説を構える根拠とされたのでは、大聖人はさぞや、お嘆きのことであろう。日寛上人はさだめし、お悲しみのことであろう。
大聖人の本懐たる本門戒壇の大御本尊と、末法万年の日蓮が弟子檀那に対する、大聖人の御化導の御本意を踏みにじる、これ以上の謗法はない。
大日蓮昭和58年11月(第453号69~74頁
▼乱脈を極める在勤教師会の邪説の中で、結論となるものが〝己心の法門〟である。彼等は宗祖大聖人の己心と我等衆生の己心とを混同し、結局は我等衆生の己心にこそ真実の御本尊が建立されるという。そのため
「我々の凡眼に写る板曼荼羅・紙幅の曼荼羅は仮に事物に寄せて顕された」
ものにすぎないと、大曼荼羅御本尊を軽侮している。
▼彼等の言い分のひとつを挙げてみよう。
云く
「宗祖が『三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に 如 かず』(三大秘法抄・御書1594頁)と云われた如く、三秘は須臾も離れることなく、己心内証の環滅門におさまるべきものである」
と。
これは後に
「我等衆生の信の一字の処、即ち己心の仏国土に戒壇本尊は建立される」
という邪説を立てるための前提として、必要な仮説なのである。
▼ここに言う〝還滅門云々〟については既に幾度か破折されているし、〝己心の仏国土〟については次回に破折を加えたい。今回とり上げる点は、はたして『三大秘法抄』の御聖文が、彼等の言うごとく〝三秘が己心におさまる〟ことの文証なのかということである。引用の御文は
「三大秘法は予(大聖人)の己心の大事である」
との意であって、三秘が己心におさまるとも、己心を三秘として顕現するとも明言されていない。
▼しかし大聖人己心に関して記述された同類の御文が『義浄房御書』にある。
「『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命惜しまず』云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕すなり」(御書669頁)
と。この御文を釈して日寛上人は
「日蓮が己心の仏果等とは即ち是れ事の一念三千の三大秘法総在の本尊なり。此の本尊は本門の題目に依って顕わる、故に此の文に依って顕わす等と釈し給えり」(学林版六巻抄245頁)
と教示されている。
▼要するに「予が己心の大事」即ち「日蓮が己心の仏果」とは三大秘法総在の御本尊であり、大聖人の内証己心が不惜身命の一念によって戒壇の大曼荼羅御本尊と顕現されたのである。
『三大秘法抄』の末文にも
「今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり。予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、云々」(御書1595頁)
と仰せられているように、大聖人の己心に秘されてきた「此の法門」即ち三大秘法を今広宣流布し、留め置くために顕示あそばされたことは明白である。引用の「予が己心の大事云々」の御文はどうみても〝三秘が己心におさまる〟ことの論拠とはなりえない。
▼しかも彼等は、大聖人の己心を衆生の己心にすりかえて、
「大曼荼羅に示された十界互具一念三千の姿は、実は衆生の己心中の信の一字にあるということを覚知することが、我々が信仰する目的」
と言い、
「衆生の己心の上に信の一字を以て顕現される」
と主張する。
▼御先師日達上人は第一回檀徒大会の折、次のように御指南された。
「日蓮正宗のご法門というものはきちんと定っております。それを勝手にいろいろと解釈し、自分の中に御本尊があるんだというようなことは、たいへんまちがったことであります。」
「もし我々の中にある御本尊を涌現させるというならば、これは禅宗と同じことになってしまう。また身延の日蓮宗と同じことになってしまうのであります。こういう考えの教学は、我が日蓮正宗においては、大いに慎まなければならない。」(日達上人全集五巻598~600頁)
と。
▼この日達上人の御制誡を蹂躙している正信会・在勤教師会の徒が、いかに口先で日達上人を讃えるポーズを見せても、それは御先師に対する冒涜となるだけであろう。 (水島)
大日蓮昭和58年11月(第453号・80~81頁)
▼自称在勤教師会いわく
「宗祖の三秘の法門は日本国土ではなく仏国土にたてられているのである。そして仏国土とは一体何処に顕現するかといえば、
『若し心無くんば巳みなん、芥爾も心有れば即ち三千を具す』(注・御書644頁①)
『万法は己心に収まりて一塵も欠けず』(注・御書909頁②)
『我等は穢土に候へども心は霊山に住むべし御面を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ』(注・御書1290頁③)
と諸御書に仰せの如く、衆生の己心の上に信の一字を以って顕現されるのであり、現在いま だに考えられている現実社会にユートビアが現出するような戯論は宗祖の教えにはない妄想である」
と。
▼いま、ここに引用される三つの御文(注・①②③)が本当に衆生の己心に御本尊が建立されたり、仏国土になるなどの珍説を立証するものか否かを検討してみよう。
第一に①の文については『観心本尊抄』に
「夫一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり(中略)此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。芥爾も心有れば即ち三千を具す」
とあり、これを日寛上人は、観心本尊の依文なりと示されて
「初めに本尊、次に『此の三千』の下は観心。初めの本尊の文に『夫一心』というは、即ち是れ久遠元初の自受用身の一念の心法なり。故に『一心』と云う。即ち是れ中央の南無妙法蓮華経なり」(御書文段209頁)
と対境の本尊を明かし、続いて
「次に観心の文に『此の三千、一念の心に在り』等と云うは、この一念三千の本尊は全く余所外に在ること無し。但我等衆生の信心の中に在すが故に」(同)
と説いて前段に明示された大聖人所顕の御本尊を信ずる衆生の色心にはじめて仏力、法力が光被されることを教示されている。それゆえ①の文は、正境を信ずる心が大切であることの文証にはなるが、衆生の己心に御本尊が建立されるなどの文証ではない。当然のことであるが当宗の〝信心〟とは大聖人御図顕の大御本尊が在して、はじめて信力、行力として成り立つのである。
▼②の文は『蒙古使御書』の一節であり、引用の文は、後に続く
「外典の外道・内典の小乗、権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり。然りといへども法華経の如く説かず」
の一文に掛かり、その御意は法華経に至って一念に百界千如・三千の具足が説かれ、万法は己心に収まることが明かされたとの趣旨である。この己心たる一念をめぐって法華経の中にあっても迹門・本門・文底の立場に雲泥の相違があることは、寛尊の『三重秘伝抄』等に明白であり、この相対・教判こそ当宗教義の冲微というべきである。
もし文底の立場よりこの一念を解釈すれば
「『夫一心』というは即ち是れ久遠元初の自受用身の一念の心法なり」
との教示に尽きるのである。故に②の文も彼等の衆生己心に執する主張を立証するものではない。
▼③の文は、夫を身延まで遣わした千日尼に対して大聖人が
「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来たれり」(御書1290頁)
と、その信心を賞でられ、仏に成る道も同様に身は穢土にあっても心は霊山に住むのであると指南された箇所である。これをもって拝察するに③の文は
「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(御書1173頁)
あるいは
「心地を九識にもち、修行をば六識にせよ」(御書338頁)
と同趣旨の御意と拝すべきであって、間違っても衆生の己心に戒壇が建立されるなどの文証にはなりえないのである。
▼要するに彼等は意味のとり違えを犯し、全く的はずれの引用文をふり回して我見を吐いているにすぎない。彼等の読解能力がいかに乏しいかを物語る一例ではある。 (水島)
大日蓮昭和58年12月(第454号・78~79頁)
▼新年にちなみ時法研の近況報告をひとこと。
仏法の真髄を拝し得ない自称正信会・在勤教師会の戯論が、やがて行きづまるのは当然の結果で、今までわけのわからない思いつきを、得々とまくしたてていた彼等も、時法研の粉砕に合って、すっかり鳴りをひそめてしまった。
時法研では新生宗門にふさわしい布教叢書の作製にとりかかったところであるが、彼等に対しても追撃の手をゆるめることなく、コラムをもって対峙するつもりである。
▼それにしても
「三秘の法門が建立される仏国土とは日本国土ではなく衆生の己心だ」
とか
「現実社会にユートピアが現出するような戯論は宗祖の教えにない妄想だ」
とか。まったくよく言ってくれるものだ。
▼宗祖大聖人の御化導の窮極たる弘安五年九月の相承書には
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」 (御書1675頁)
と書き留められ、さらに受法伝持の日興上人も
「日興云はく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ」
(富士一跡門徒存知事・御書1873頁)
と念釈されている。いかなる詐術を弄しても、本宗七百年の大義たるこの金文字を改変することは断じてできるものではない。
▼しかし大石寺を怨嫉する他宗他門の中には富士戒壇を否定しょうと非難中傷する者がいた。要法寺第三十代信行院日饒などは、寛文年間に『到彼岸記』を著わして概要、次のような邪説を吐いている。
「富士大石寺に戒壇を建立せよとは所表に約した一往の意であって、再往所縁に約するならば本門の教えが流布されるところはすべて富士山本門寺である。ゆえに必ずしも富士山をもって本山と仰ぐ必要はない」
と。
この日饒の説は、川澄や在勤教師会が主張する己心仏国土論などの現実否定の空想論にまでは堕落していないが、富士戒壇の教説を一往方便とし、戒壇建立は特定の場所(国土)を指示しているものではないという点においては同等であろう。
▼この邪説に対して日寛上人は『文底秘沈抄』に五ヵ条の理由を挙げて、次のように破折された。
第一に日饒は「一時仏住王舎城」という経文が釈尊の事実の説処と関係なく説かれたものだと言うが、もし仏が真実に王舎城に住していたならば大聖人の仏法においても富士山が一往の所表ではなく、現実の戒壇建立地となるであろうこと。
第二に月氏の楼氏菩薩、震旦の羅什三蔵、日本の鑑真や伝教大師が戒壇堂を建立したことは歴史的事実であること。
第三に『百六箇抄』や『日興跡条条事』には本門戒壇と安置の御本尊に関する文証が明示されていること。
第四に日饒が自説の依拠として「当知是処即是道場」の経文を引用しているが、彼は曲会私情の解釈をしていること。
第五に富士山こそ広布根源の地であり、日蓮山とも称される本門戒壇の霊場であって、末法万年の総貫首と閻浮提の座主が在すところなるゆえに本山として尊仰されるべきこと。
等を一々に詳述し、
「学者応に知るべし、独尊の金言偽り無く三師の相承も虚しからずんば富士山下に建立する戒壇を本門寺と名づく、一閻浮提の諸寺・諸山、本山と仰ぐべきなり」(聖典856頁)
と結ばれている。
▼日淳上人も
「富士山に本門寺の戒壇を建立するといふことについて他門流に於て異見をさしはさみ種々の説が行われてをりますが(中略)富士山は土地の実際の上から仰せられたのであります」
(日淳上人全集924頁)
と指南あそばされている。
なぜこれほど明瞭な御金言と御教示に背き、無道心者の妄言にたぶらかされるのであろう。富士大石寺を離れ邪教の徒となった彼らの業報苦果を哀れむのみである。 (水島)
大日蓮昭和59年1月(第455号・98~99頁)
▼日寛上人の講義を第二十九世日東上人が筆録きれた『観心本尊抄聴聞荒増』には〝事行〟について次のように記されている。
「事行と云うは久遠元初の自受用報身宗祖の色心の全体を事と云うなり。これを本尊と顕わして此の事を行ずる故に事行と云うなり。是れ法体も事なり。行も事なり。故に事行と云うなり。
全く事に口に唱へ手に珠数を行ずると謂(い)うにはあらず。上の御本尊を事に書き顕わす故に事行と云うにはあらず。法体の事を事に行ずる故に事の一念三千の本尊と云うと同じ勝手なり。
若し日辰の如く云はば所行の法体は理なれども事に行ずるが故に事と云はば返て天台勝れ宗祖の事行は劣ると云うべきか」 (研教一2-558頁)
▼自称在勤教師全の徒輩は何を血迷ったか、この御文をもって
「一口に本尊といっても単に物体のみをもって本尊の全体とするのは間違い」
と言い、
「形に顕われたところだけを本尊と考え、口唱の題目をもって真実絶対とする訳にはいかない」
のだという。彼等の底意に曼荼羅本尊を否定し、己心建立本尊説を主張しょうとする意図は見えすいているが、果たして彼等の解釈が正当で、この御文が彼等の論拠になりうるか否かを検討してみょう。
▼引用文は、要法寺日辰が台家の理観を捨てて唱題する故に事行となると立てたのに対し、日寛上人が破折し説示したものである。御文を率直に解するならば、事行と称する理由は事の法体を事実に行ずるからである。では事の法体とは何かといえば、元初の自受用身宗祖の色心全体が事の一念三千であり、これを事相の上に一幅の曼荼羅として図顕されたので〝事の法体〟というのである。これについて『文底秘沈抄』にも
「若し当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり」(聖典838頁)
と説き、事の妙法と事相の曼荼羅とが契合してはじめて事の法体となることが明かされている。
▼この事の法体たる事の一念三千の御本尊を事実に修行するところを事行ということを教示され、寛尊は日辰を次のように破折された。
「日辰のように理の法体をいかに口に唱え、手に珠数を持ち、本尊を書写してもそれらは事行ではない」
と。ところが彼等はこの破折の一部を直ちに当家の化儀にあてはめて、あたかも当宗の唱題や本尊図顕が事行にならないかのように喧伝している。
▼誤るなかれ。寛尊は当宗の御本尊の事理を詮索しているわけではないし、曼荼羅本尊を軽視することを説いているわけでもない。教説の文言すべてこれ只管本門戒壇の大曼荼羅こそ元初仏であり、事の一念三千の当体なることを叫ばれているのである。仰せに云く
「久遠元初自受用報身の当体・事の一念三千・無作本有、南無本門戒壇の大本尊」(聖典971頁)
当宗の御本尊はすでに事の一念三千の法体として、本門戒壇の大曼荼羅として確定し、厳然と相伝されているのである。
▼彼等の「物体のみをもって本尊とするのは間違い」という邪見は、『本尊抄文段』の
「今安置し奉る処の御本尊の全体本有無作の一念三千の生身の御仏なり、謹んで文字及び木画と謂うふなかれ」(富要4-236頁)
の一文によって粉砕されるであろう。また「口唱の題目をもって真実絶対とする訳にはいかない」との妄見は、『本尊抄聴聞荒増』の
「自己思惟無く賢愚無く一心に南無妙法蓮華経と唱うるが当流の観心なり」(研教一2-399頁)
の正義に背逆する魔説となろう。
▼当宗の教学は、信心修行の増進のため相伝の指南に随って深遠な宗祖の御聖意を拝服習学することであり、まず御書や指南書を虚心に拝承することから始まる。彼等の如く、一人の門外漢が発する思いつきの託宣を粉飾するために御書・文書を誤読曲解し切り貼りすることは仏法破壊以外の何物でもない。その意味では彼等こそ現代の附仏法成の外道というべきであろう。 (水島)
大日蓮昭和59年2月(第456号・82~83頁)
▼『諸法実相抄』に云く
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳を被らせ奉るは凡夫なり」(御書665頁)
と。
▼この文について、日応上人は『弁惑観心抄』に
「此の文宗祖凡夫の当体返てこれ三身にして本仏なり。三世諸仏の主師親たること尤も著明なり。されば宗祖の御内証より之を云うときは久遠名字の釈尊と異名同体にしてしかも而も反って凡体の宗祖が本仏にて色相の仏体は迹仏なり」(同書65頁)
と釈され、日達上人も御大会説法のおり、
「されば久遠本因妙の釈尊、人法体一なる事の一念三千、本有無作三身の仏を体の三身と云い、この体の三身より垂迹したまい世々番々に出世成道したもうところの仏を用の三身というのであります」(達全二・一-三七六頁)
と仰せられている。すなわち体の三身たる「凡夫」とは久遠本因妙の教主・無作三身の宗祖大聖人であり、これより垂迹し化他のために出世成道する色相の仏体を用の三身となす旨の御指南である。
▼ところが自称在勤教師会の説明によると
「何故凡夫が本仏で、仏が迹仏なのかと言えば、確かに本果第一番成道の釈尊は衆生のために三徳を発揮せられて済度されてきたが、その釈尊の悟りの根本を尋ねれば、それは森羅万法すなわち一切衆生そのものなのである。釈尊は我ら未断惑の一切衆生を如実に見て悟りを得たわけであるから、『返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり』ということになる」
のだそうだ。
▼この奇怪な説も、例の〝衆生己心の本尊〟説を立証する手段のひとつというわけであるが、森羅万法を直ちに我等衆生のことなりと言い切る短絡的発想もさることながら、「凡夫」とあるから「体の三身」は我等末断惑の衆生なりと誤解し、〝釈尊が衆生を如実に見て悟りを得た〟というに至っては、まさにこれ抱腹絶倒の珍説というほかはない。
▼『諸法実相抄』を通じてよく拝すれば、引用の部分は前文の
「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」
を受けたもので、妙法蓮華経こそ体の三身であり、凡夫身の本仏本法なることは明白である。この本仏たる妙法五字とは何かといえば、
「妙法蓮華経の五字は本尊の正体なり。この本尊に人法有り。法に約すれば妙法蓮華経なり。人に約すれば本有無作の三身なり。本有無作の三身とは日蓮大聖人これなり」(御書文段709頁)
と日寛上人が教示されるように、宗祖の当体たる人法一箇の曼荼羅御本尊そのものである。
▼日淳上人も同抄の文を釈して
「法界において一切の衆生悉く妙法の当体でありますが、それは理性の上でのことでありますから妙法の化導も利益もないのであります。法華経は性具を説くを目的としておりますが、実にはその事用を明らかにするのにあります。それ故寿量品に報身の開顕をなされ、報身中の三身を説き明かされたのであります(中略)久遠本有の妙法蓮華経は大聖人の具有し玉ふところであります。大聖人はその御境界を観心の本尊として建立し玉ふたのであります。くれぐれも此の報身を離れた妙法を以て御本尊と考えてはならないのであります」(淳全886頁)
と、理性と事用すなわち衆生凡夫と報身開顕の凡身大聖人との区分を明示されている。
▼かつて日達上人は「仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」の文にふれて、
「これはただ迷いと悟りからゆくので、我々が主師親の三徳を施してやっただなんて思ったら大変な間違いであり、思い上がりになる」(達全2.3-28頁)
と仰せられた。後代を配慮された尊い御遺誡である。 (水島)
大日蓮昭和59年3月(第457号・88~89頁)
▼〝折伏〟について自称在勤教師会では、文証として『如説修行抄筆記』(日寛上人)の末尾にある
「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法なるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向わずんば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向い、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。これ則ち身口意の三業に法華を信ずる人なり云云」(傍線筆者)(御書文段608頁)
の一文を引用して、次のように言う。
「折伏とは基本的にはまず己れに向けるべきことを説かれている。つまり宗祖大聖人の仏法を心から信じ、本尊に向かい南無妙法蓮華経と唱え、虚心坦懐我が心の煩悩を見つめてそれに妥協せず、破折することこそが己れに対する折伏である」
「今は折伏を化他行と勘違いして、員数増加、勢力拡大を旨としており云云」
と。
▼要するに彼等は、
(一)折伏とは他に向けるものではなく自己の心に向けるものである、
(二)題目を唱えることが三業に亘る折伏になるのであるから唱題以外に化他行は無用である、
と言いたいのである。
▼では折伏の意味について大聖人はなんと仰せられているか。『聖愚問答抄』には
「邪正肩を並べ大小先を争はん時は、万事を閣いて謗法を責むべし、是折伏の修行なり(中略)只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書402頁)
とあり、『如説修行抄』には
「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事は疑ひいなし」(同673頁)
とある。同類の御文はこの外にも数多くあるが、いずれも折伏とは邪義、謗法を呵責し、諸宗の人法を破折することであるとの御教示である。
▼日興上人も『五人所破抄』に
「今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず。但五字の題目を唱へ、三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責むべき者か」(同1880頁)
と説かれ、日寛上人も『末法相応抄』に
「今世は濁世なり、此の時は読誦書写の修行は無用なり、只折伏を行じて邪義を責むべし」(聖典898頁)
と明快に指南されている。
▼いかに邪宗の徒になり下がった彼等でも、まさか「諸師の邪義」や「諸宗の人法」まで〝己心のものだ〟と強弁するほど狂ってはいまいが、念のためにもうひとつ寛尊の御丈を挙げておこう。『当家三衣抄』には、当宗で素絹五条の袈裟を用いる理由として、次のような一文がある。
「二には是れ末法折伏の行に宜しき故なり、謂わく、素絹五条其の体短狭にして起居動作に最も是れ便なり。故に行道雑作布と名づくるなり、豈東西に奔走し折伏行を修するに宜しきに非ずや」(同958頁)
まさに東西に奔走し、諸宗の邪義を責める折伏行の精神が当宗本来の大事として、化儀のなかに厳然と伝えられていることを知るべきである。
▼次に第二の点、すなわち唱題に自行化他の両意を含むことは、『三大秘法抄』の
「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594頁)
の御文や、第五十二世日霑上人の
「釈籖の二に云はく開法為種と、是れ即ち題目の音声を聞いて下種す、豈に化他に亘るに非ずや」(祖文纂要228頁)
という御指南に明らかである。前に引用した『如説修行抄筆記』の文も同趣旨の意を含ませられているものと拝される。
▼しかし、ここで注意すべきことは、これらの文が、彼等の言うような唱題以外の折伏を否定しているわけではないし、折伏は化他にあらずと説いているわけでもないということである。
大聖人の御真意は
「南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めるめんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(御書300頁)
「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(同250頁)
と仰せられるように、受持唱題と共に折伏行を勧奨されるところにある。故に日興上人も
「但五字の題目を唱え(中略)諸師の邪義を責む可き者か」
と、唱題と対他折伏こそ当宗僧俗にとって永遠不変の基本的修行であることを明確に示されているのである。
▼冒頭の『如説修行抄筆記』の文を熟読すると、はじめに
「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法に同なるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり」
とある。「四箇の名言」とはいうまでもなく〝念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊〟の格言であり、大聖人が生涯を通じて邪宗邪義に向かって叫び続けられた言葉である。この格言を心に体し、邪宗破折を口にしなければ謗法になると、寛尊は仰せられているのである。
彼等がこの文をもって対他折伏を否定することは、大聖人、日興上人に対する反逆と、日寛上人に対する冒涜と、二重、三重の大罪を犯していることを知るべきであろう。
▼最後に、彼等はこの冒涜の文を再三、引用しているが、必ず傍線部分を削除し、中略のことわりさえもしていない。いかなる事情があるにせよ、これは明らかに文証の改竄である。法義以前の問題として厳重に注意しておきたい。 (水島)
大日蓮昭和59年4月(第458号・82~84頁)
▼日蓮大聖人は『本因妙抄』において、台家の相伝書『天台玄旨伝』を釈して、次のように仰せられている。
「刹那半偈の成道も、我が家の勝劣修行の南無妙法蓮華経の一言に摂し尽す者なり」(御書1683頁)
▼ここに言う〝一言摂尽〟とは、『玄旨伝』に
「一代の修多羅一言に含す」
ともあり、一切の教法と功徳を摂し尽くしたところの〝一言〟すなわち五字七字の南無妙法蓮華経という意味である。したがって『観心本尊抄』の
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」(同653頁)
の御文と同趣旨であり、一切を包摂した妙法なるが故に、これを受持する功徳もまた、広大なのである。
▼ところが自称在勤教師会の族は、この一言拝尽を釈して
「数多くの題目を唱へるも、それは一言摂尽の南無妙法蓮華経に帰一する(中略)今日のように『題目の数に見合った功徳』を欲して口唱題目の数だけにとらわれ」
ているのは
「題目唱えの題目唱えず」(御書文段669頁)
だと言い、
「現今の学会や宗門のように、口唱(本果)の題目だけをもって、本門の題目であるがごとき感を抱かせるようにしているのは適当とは言えない。かえって信の裏づけのないカラ題目と言うべきであり、行にすら当らないかもしれない」
と言う。
▼ここで彼等は客観的に二つの大きな誤ちを犯している。第一は前に説明した通り、一言摂尽の一言を〝一遍の口唱〟と曲解していることである。そのために一言摂尽と聞くや直ちに題目口唱の回数がどうの、「一遍でも少からず百万遍でも多からず」などの結論に走ってしまうのである。
▼とりわけ〝一遍〟のほうに執着する彼等は『法華経題目抄』の
「問うて云 く法華経の意をもしらず、義理をもあぢはゝずして、只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて、一日に一辺、一月乃至一年十年一期生の間に只一返なんど唱へても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、ついに不退の位にいたるべしや、答へて云はく、しかるべきなり」(御書353頁)
の文を引用して
「ただ一遍の題目によってでさえ、不退の位に至ると仰せである」
と強弁する。
▼しかし『法華経題目抄』の文について、日寛上人は
「問うて云わく、若し爾らば我等衆生、一期に一遍なりと雖も不退の位に到るべきや。答えて云わく、若し過去の謗法無き人は実に所問の如し。遂に不退に到るべし。然るに我等衆生は過去の謗法無量なり。この謗法の罪滅し難し」(『題目抄文段』御書文段651頁)
と明快に教示されている。もし過去に全く謗法罪がなければ一遍の題目で不退に至る道理であるが、末代の我等衆生は無量の謗法を犯しているが故により多く唱題を重ねなければならないとの御意である。
▼第二の誤りは、彼等が唯一無二の妙法を成仏のために大いに唱題すべきだと主張するかと思いきや、「口唱題目の数だけにとらわれ」「口唱の題目だけをもって云々」と回りくどい、わけの判らぬ理屈を並べて、長時間の唱題、多くの口唱に励む者を侮蔑していることである。その心底を思うに、彼等は無行懶惰の自分をなんとか正当化しようと自己弁護しているにすぎない。
▼いま素直に御書を拝するならば、大聖人御自身の振る舞いについては、
「去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱ふる事は一人なり」(御書1356頁)
と仰せられ、門下に対しては
「是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚りて如法に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり」(同105頁)
と説かれている。
▼日寛上人も『寿量品談義』に
「一念信心すれば一念の仏、二念信心すれば二念の即仏乃至一時信心を生ずれば一時の仏なり、一日信を生ずれば一日の仏なり」(富要一〇-一八三頁)
「一辺二辺南無妙法蓮華経と唱ふる計りでは万徳を円満せる仏身三十二相の仏とはなるべきやうにはあらねども(中略)日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば一足の裏に寂光の都は近づくなり」(同一九一頁)
と説いて、数多く唱題することの大切さを教えられている。
▼当宗の信心とは、
「末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(乃至)日興嫡々相承の漫荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」(御書1702頁)
との御聖訓の如く、時の御法主上人の御指南に随従して、久遠元初自受用報身如来・日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊を無二に信じ奉るを因とし、題目口唱するところを果となして完成するのである。ここを寛尊は
「信心は是れ唱題の因、唱題は是れ信心の果。因果を具すと雖も、唯一念に在り」(御書文段632頁)
と示されている。
▼大曼荼羅本尊と唯授一人の血脈相承を否定し、揚げ句の果てに唱題行まで忌みきらう彼等はまさに地獄の業というほかはない。
寛尊云く
「且たんく地獄の因果の如し(中略)瞋恚は是れ悪口の因、悪口はこれ瞋恚の果。因果を具すと雖も唯刹那に在り」(同頁)
と。
まさしく昨今の自称正信会・在勤教師会の姿そのものである。 (水島)
大日蓮昭和59年5月(第459号・100~102頁)
「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」の文について
▼正慶元年十一月、八十七歳の日興上人は日目上人に宛てて『日興跡条条事』と題する譲状を認められた。このなかで、宗祖大聖人出世の御本懐たる戒壇の大御本尊に触 て
「一、日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に懸け奉るべし」(聖典519頁)
と記し、大聖人より賜わった大御本尊を日目上人に相伝することを明示されている。
▼自称在勤教師会では、この御文をもって当宗真実の本尊が衆生の己心に建立されることの証拠としている。その主張の中身は、なんら文証や道理などなく、単なる思いつきとしか言いようのない他愛のないものである。これも例の如く『阡陌渉記』という川澄の書き物に端を発している。云く
「『日興が身に宛て給わる』とは、宗祖が自筆をもって日興に授与されたものともとれないことはないが、この文章からすれば日興自身を本尊に宛て示されともとれる」
と。さすがに気がひけるのか、「~ともとれる」と一往の可能性があるかのように控え目に我見を提示する。もっとも川澄個人が何を、どのように理解しょうとご勝手であるが、日興上人の御文に対するこの解釈は教義としては全く妥当性に欠け、文章理解の上でも椎拙きわまりない。それでも彼はしばらくすると
「今のごとく戒壇の本尊を真蹟とすることについては、他門から色々難がある。やはり日興体具の本尊として受け留る度量が必要なのではなかろうか。日興跡条条事が、日興体具の本尊とその内証、及びその具現の方法を示されたものとすれば云云」
と言って、戒壇の大御本尊に疑義があるからという場当たり的な理由をつけ、曲解によって設定された〝日興体具〟なる仮説をもとにして自論を出発させるのである。
▼自称在勤教師会がこの川澄説を金料玉条として、さらに受け売りをする。云く
「宛は当であり、『日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊』とは、『日興当身の大御本尊』の意であって、当身とは当体蓮華仏即ち内証真身であるから『日興当身の大御本尊』とは正しく日興上人の内証真身を以て大御本尊とされたことが分かる」
と。要するに彼等は、戒壇の大御本尊は大聖人おひとりに限るのではなく、日興上人の当身すなわち内証でもあり、広く言えば我等衆生の己心にも建立される、というのである。
▼いま彼等の説を三点にまとめて破折しておこう。その第一は、『日興跡条条事』の文に対する文章的解釈の誤ちである。彼等は「日興が身に宛て給わるところ」の文の述語を「宛てる」と見て、「給わる」とは「宛て」に付随する尊敬の補助動詞と釈している。そのため、この文の意味は「日興の身に宛てたところの御本尊」ということになる。しかし、この書状が譲状であり、相伝のためのものであることを考えても、文の述語は「給わる」という動詞(すなわち「授与する」の意)と見て、「日興に対して授与したところの御本尊」の意味に拝さねばならない。要するに「給わるところ」という語句を助動詞と見て「~されたところの」と解するか、それとも動詞と見て「与えられたところの」と判ずるかによって全く異なったものとなる。しかし、当宗において先師上人の文章を解釈する場合、最も大切なことは、文に依って義を判断するのではなく、依義判文すなわち相伝の深義によって文意を判ずることなのである。
▼第二の誤ちとして、彼等はこの御文が古より唯授一人の御歴代上人によって一貫した意味に用いられてきた伝統をあえて無視し、何らの論証もなすことなく勝手な新釈・新義を振り回していることである。いま、この文に関する先師上人の御教示のなかから、主なものを挙げてみよう。
▼まず第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に
「百六箇に云わく、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以つて本堂の正本尊と為すべし(中略)嫡嫡相承の曼荼羅とは本門戒壇本尊の御事なり、故に御遺状に云わく、日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の大本尊云云」(聖典854頁)
と仰せられ、「日興嫡嫡相承の曼荼羅」とは日興上人が大聖人より正嫡付弟として相い承けたところの弘安二年の大御本尊を指すと、御教示されている。
▼第五十六世日応上人は『弁惑観心抄』に
「宗祖是を褒美して本門戒壇の願主彌四郎国重法華講衆等敬白と表し玉ふ耳(乃至)是を本門弘通の大導師たる我が興尊に付し玉ふなり。故に今の遺状に日興が身に宛て給ふ所の弘安二年の大本尊乃至本門寺に掛け奉るべし等と遊ばされし等と確信せる耳」(同書一八四頁)
ここにも戒壇の御本尊が宗祖より日興上人に付嘱されたことが明らかである。さらに第五十九世日亨上人は『日興上人詳伝』に
「大聖人は、興上弘教の熱誠を賞し、その功績の重大なるにともないて(中略)弘安二年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊を興上に親付し、万年広布流溢の時、大戒壇に安置すべく堅牢の楠板に書写せられたり」(同書125頁)
と仰せられている。
▼また第六十五世日淳上人は
「日興が身に宛て給ふと仰せられしは化導の大権法体付属の上からである」(淳全1094頁)
と明示され、第六十六世日達上人も
「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊、すなわち戒壇の大御本尊であります(中略)この弘安二年の戒壇の大御本尊こそ、日興上人が身延においてお受けして、身延の正本尊として安置し奉った」(達全2-5-444頁)
と指南されている。
▼これらの歴代上人の御指南は一貫して『日興跡条条事』の一文が、大聖人より日興上人への法体付嘱すなわち大聖人御図顕の戒壇の大曼荼羅を大聖人より日興上人へ、日興上人より日目上人へ相承伝授されることを示すものと解釈されているのである。ここには川澄のいう日興体具や、目に見えない衆生己心の本尊こそ真実とする邪見が入り込む余地は全くないことを知るべきである。
▼第三の誤ちは、彼等が〝弘安二年の大御本尊とは日興上人の内証真身である〟(日興体具)という考えに固執していることである。たしかに日寛上人が『雑要集』に「当身大事」と題して三箇条を設け、第一条には『本尊抄送状』の
「日蓮当身の大事」(御書662頁)
を引き、「当身とは当体蓮華仏」との日我の言をもって解説されており、第三条では『日興跡条条事』の文を引用して「宛は当なり」と注記されている。彼等はこの第一条の大聖人に関する意味と第三条の日興上人の分とをゴチャ混ぜに解釈し、「当身とは当体蓮華仏」を日興上人に当てはめて、日興体具の御本尊説を立証しようとしている。しかし、この説は日寛上人の御意に真っ向から背反する邪説なのである。
▼なぜなら、『法華取要抄文段』に
「末法の本尊とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人是れなり。是れ我等が為の能引なり。十界の聖衆は、是れ日蓮体具の十界の聖衆なり」(御書文段582頁)
「本門下種の南無妙法蓮華経日蓮聖人より外に全く一法もなし」(同頁)
とはっきり教示されているからである。
▼ともあれ、七百年の相伝の大義に対抗し、新義を造立するのに、「~ともとれる」とか「~とも考、えられる」というだけの理由では、はなはだ心もとない。天台所用の五章・七番とまではいかずとも、せめて必要・十分の二条件や正反合の弁証法ぐらいは心得て、ものを言ってもらいたい。 (水島)
大日蓮昭和59年6月(第460号・80~83頁)
▼表題の文をもう少し詳しく記すと
「夫一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。[世間と如是と一なり。開合の異なり。]此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已むみなん。芥爾も心有れば即ち三千を具す。乃至所為に称して不可思議境と為す意此に在り」(御書644頁)
となる。これは天台大師が『摩詞止観』第五において一念三千を説かれた文であり、これを末法の御本仏・日蓮大聖人が、一念三千の御当体たる御本尊を顕示するに当たり、『観心本尊抄』の冒頭に掲げられたのである。
▼第二十六世日寛上人は、この文を釈するに、附文と元意の二辺があるとし、附文の辺からいえばこの文はただ一念三千の出処を示すものであり、もし元意によるならば〝観心本尊〟の依文であると仰せられ、〝本尊〟と〝観心〟に区分して次のように説明されている。
「初めに本尊、次に『此の三千』の下は観心。初めの本尊の文に『夫一心』というは、即ち是れ久遠元初の自受用身の一念の心法なり。故に『一心』と云う。即ち是れ中央の南無妙法蓮華経なり。『十法界を具す』等とは、即ち是れ左右の十界互具・百界千如・三千世間なり。故に此の本尊の為体は即ち是れ久遠元初の自受用身・蓮祖大聖人の心具の十界三千の相貌なり云云」(御書文段209頁)
と、まず「本尊」について、その相貌が久遠元初の自受用身の一念であり、蓮祖大聖人の心具の三千たる曼荼羅であると教示されている。
▼「観心」については
「次に観心の文に『此の三千、一念の心に在り』等と云うは、此の一念三千の本尊は全く余処外に在ること無し。但我等衆生の信心の中に在すが故に『此の三千、一念の心に在り』と云うなり。若し信心無くんば一念三千の本尊を具せず。故に『若し心無くんば已むみなん』と云うなり。(中略)譬えば水無き池には月の移らざるが如し。若し刹那も信心有らば即ち一念三千の本尊を具す。故に『芥爾も心有れば即ち三千を具す』と云うなり。譬えば水有る池には月便ち移るが如し。宗祖の所謂『此の御本尊は只信心の二字に収れり』[1388]とは是れなり」(同頁)
と仰せられ、「此の三千、一念の心に在り」とは、あたかも水ある池に月が映るように、信心によって我等衆生の心中に一念三千の本尊が顕現することであると説示されている。
▼ここでいわれる観心とは
「当文の『観心』の二字は則ち爾らず、但所化に約するなり」(同198頁)
とあり、我等衆生の信心修行に関する言葉である。これに対して本尊とは
「凡そ本尊とは我等衆生の受持の法体、所信所唱の曼荼羅是れなり」(同201頁)
とあるように、我等衆生が根本として尊敬すベき受持の法体であり、衆生が信じ、唱える対象たる大曼荼羅である。すなわち観心には必ず本尊が境となり、本尊はまた衆生の観心に威徳を光被されるのである。
▼なぜ、このような当たり前のことを列記したのかというと、自称在勤教師会の族が、大聖人や日寛上人の御文を振り回して邪見を吐いているのであるが、その論法がいかに欺瞞にみちたものであるかを知ってもらうためである。今まで述べてきた寛尊の御指南と、次に引用する彼らの言い分とを比較してほしい。
▼在勤教師会云く
「観心本尊抄冒頭に止観第五の一念三千の文を示されているのを、漫然と見過してはならない。『此の三千、一念の心に在り、若し心無くんば而已。介爾も心有れば即ち三千を具す。乃至所以に称して不可思議境と為す、意此に在り等云云』、『故に序の中に説己心中所行法門と云ふ。良とに以へ有る也』。この一念三千の文が観心の本尊の依文であり、一念三千の法門が『己心の法門』であることは論ずるまでもない。寛師はこれを文段抄に、『観心の文に此三千在一念心等と云ふは、此の一念三千の本尊は全く余処外に在ること無し、但我等衆生の信心の中に在す故に此三千在一念と云ふ也。若し信心無くんば一念三千の本尊を具せず、故に若無心而已と云ふ也。(中略)宗祖の所謂、此の御本尊は只信心の二字に収れりとは是れ也』と説かれている。一言の説明の余地もないが、今流の本尊観とは全く違っている。宗祖や寛師は究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にあると示されている」
と。
▼引用が長くなってしまったが、この言い分が彼らの浅慮と混乱を如実に物語っている。だいいち止観第五の文を半分に切って、途中から引用するとはなにごとか。「説己心中云云」の文の用い方もおかしい。これは天台大師己心の法門であって衆生己心の意味ではない。さらに前述した如く、寛尊の御指南である本尊と観心の二面を無視して、恣意に観心の文のみをもって、それを己心本尊の依拠と称し、「今流の本尊観とは全く違っている」と臆面もなく言う神経は、いったいどういうものであろう。それこそ「全く違っている」のは本人達の眼と頭、そして信心なのではないか。
▼かつて房州の日我が著者『観心本尊抄抜書』に
「此の三千・一念に在りとは一念信解これ本門立行の首の日蓮の一念なり」(研究教学書4巻-424頁)
と解釈したが、これに対して日寛上人は
「彼の抄は観心の二字を以て地涌の境智に約す。故に『此の三千、一念の心に在り』の文を以て蓮師の一念に約するなり。故に『有心無心』の消釈、甚だ以て穏やかならざるなり」(御書文段210頁)
と仰せられ、観心の二字を能化の地涌や蓮祖の一念に論ずるものではないと破折されている。彼らの如く衆生の観心を明かす文を、強引に曲解して、末法の本尊、それも前代未聞の邪説たる〝衆生己心本尊説〟の証拠とするなどは狂気の沙汰としか言いようがない。
▼たしかに寛尊は、観心について
「観心を結すとは、文に『意此に在り』というは、若し一念の信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。大師の深意正しく此に在り」(同頁)
として、信心によって衆生の一念に本尊を具足することを説かれているが、これをもって直に彼らのいう〝衆生己心の本尊〟が正当化できると考えるのは早計である。
▼寛尊、『法華取要抄文段』に云く
「当に知るべし、蓮祖の門弟は是れ無作三身なりと雖も、仍是れ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但是れ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」。(同516頁)
まさしくこれ、末代衆生の慢心を制誡される鉄槌であり、夢寐にも忘れてならぬ重大な御指南である。
▼彼らは、この能化と所化、因分と果分のけじめに迷い、
「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1388頁)
の御聖文を誤解して、
「究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にある」
と強弁するのであるが、かつて第六十五世日淳上人は
「一閻浮提一同に有智無智をきらはず南無妙法蓮華経と帰命し奉るべき御本尊が戒壇の御本尊である。行者の心地が即ち戒壇本尊であるとはとんでもない僻案である」
(日淳上人全集下1211頁)
と御指南あそばされている。
彼らは、根本の本尊に迷い、血脈相承の正義に背逆する点から限りない悪見を生み、自ら苦海に沈みゆくことは明白である。 (水島)
大日蓮昭和59年7月(第461号・100~103頁)
「日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ」の文について
▼自称在勤教師会の中で、本尊と観心、法体と修行を極端に混同しているのが山上弘道である。彼は表題に掲げた『経王殿御返事』の一文(御書685頁)を挙げて、次のように主張する。
「大聖人は『日蓮がたましひをすみにそめ流して書きて候ぞ、信じさせ給へ』と仰せられているのである。『日蓮が魂』とは大聖人の民衆仏法・事の法門、換言すれば内證本尊である。『墨に染め流して書きて候』とは、その事の法門・内證の本尊を一幅の曼荼羅として図顕されることである。そして最後に『信じさせ給へ』と仰せられて、受持の一行・信の一字によって、刹那に己心に本尊が建立されることが示される。このところを事行という。形と顕われるのは『墨に染めながす』ところだけで、その前後に文字通り目に見えぬ事の法門、信の一字(事行)があって、この全体をもって、はじめて大聖人の御法門、本尊観といえるのである」
と。(傍線筆者)
▼一読するに、思い上がりとひとりよがりの悪文であるが、中でも傍線の部分―「信じさせ給へ」の文が〝己心建立の本尊〟を説明したものであり、大聖人の本尊観が「信じさせ給へ」までを含まねば完成しないという箇処―はまさしく悪臭芬々たる異説である。これは単に山上弘道が『経王殿御返事』の一文を誤解しているという瑣末な問題ではなく、これによってあわよくば〝衆生己心の本尊〟なる邪義を正当化しようと企んでいる故に、敢えて破折を加える必要があるのである。
▼いうまでもなく「信じさせ給へ」とは、大聖人が弟子檀那に対して、教導・勧奨の意を込めて仰せられた言葉である。これに対して〝信ずべき〟対境が〝日蓮が魂を墨に染め流して書かれた〟曼荼羅であることは誰人の目にも明らかである。換言すれば「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とは大聖人御建立の御本尊を述べ、次の「信じさせ給へ」とは衆生に対して信心修行を感懐勧誡されているところである。山上はこの本尊と観心の立て分けに迷い、衆生の信心も本尊になると強弁」しているのである。
▼日寛上人は、本尊と観心の区分について、随所に教示されているので、その中から二例を挙げてみよう。まず『観心本尊抄』の
「我等此の五字を受持すれば云云」(御書653頁)
の御文に付して、『神力品』の
「我が滅度の後に於いて期の経を受持すべし」(開結517頁)
の経文を引用して次のように説明されている。
「『我等』と言うは『我が滅度の後に於て』の末法の我等なり(中略)『受持』と言うは全く経文に同ず。即ち是れ観心なり。『此の五字』とは経文の『期経』の両字、即ちこれ本尊なり」(御書文段227頁)
と。すなわち「我等受持」とは「信力・行力」(御書文段228頁)のことであり、観心(能持)を指すのに対し、「妙法五字」「斯経」とは所持の法体・本尊であって、両者は能所相対し区分されねばならないことを教示されている。
▼また『寿量品』の
「是の好き良薬を、今留めて此に在く。汝取って服すべし」(開結437頁)
の文について
「応に知るべし此の文正しく三大秘法を明かすなり、所謂『是好良薬』は即ち是れ本門の本尊なり、『今留在此』は是れ本門の戒壇なり、『汝可取服』は即ち是れ本門の題目なり」(聖典873頁)
「取はこれ信心、服はこれ修行なり」(富要4-371頁)
と説き、「良薬」が本尊、「取服」すなわち信心勧奨は信心修行たる本門の題目に当たると仰せられている。これら寛尊の二文の御教示から拝しても、『経王殿御返事』の御文を本尊と観心の二面に立て分けねばならないことは柄乎としている。
▼しかも同じ『経王殿御返事』の中には
「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし」
との御文もある。「曼荼羅」とは末法正意の御本尊そのものではないか。また
「あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ」
とも仰せられている。ここにも信心と本尊が相対して示されている。これらの御文を拝しても、山上の言う〝衆生の信心によって己心の本尊が建立され、はじめて大聖人の本尊観といえる〟との説が、いかに邪悪に満ちたものであるかわかるであろう。
▼念のために、引用の『経王抄』の御文に関する御先師上人の御指南を拝してみたい。日寛上人は『妙法曼荼羅供養見聞筆記』に
「本尊に人法有り。法に約すれば妙法蓮華経なり。人に約すれば本有無作の三身なり。本有無作の三身とは日蓮大聖人これなり。御書に云く『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』(御書685頁)文。是れ人法体一なり」(御書文段709頁)
と説き、同抄の文が宗祖大聖人即妙法蓮華経、すなわち人法体一の本尊を示すものと仰せられている。また『本尊抄文段』には
「故に此の本尊の為体は即ち是れ久遠元初の自受用身・蓮祖大聖人の心具の十界三千の相貌なり」(同209頁)
とあり、本尊が大聖人おひとりの御当身に具するものと説かれている。
▼日応上人は同文について
「是れ則ち人即法、法即人、人法体一なり」(一念三千法門67頁)
「宗祖所顕の御本尊は御自身の御当体・御魂魄なりと明示せられたる云云」(弁惑観心抄25頁)
と解説され、日淳上人は
「釈尊の法華経と大聖人の妙法とを相対して、而してその大聖人の御魂の妙法を、御本尊に書き顕はし給ふ旨を仰せられたのであります」(淳全上-610頁)
と説明されている。御先師の御指南は、いずれも同抄の御文が、大聖人の御魂たる妙法を大聖人御自ら御本尊として図顕建立あそばされたことを指していると仰せである。人法体一の大曼荼羅に当宗の本尊義も、大聖人の御意も極まるのである。これを山上の如く〝形に顕われた本尊は真実絶対ではない〟と言い、他に真実の本尊があるとするならば、それはもはや当宗の教義でもなく、大聖人の仏法とは背反するところの異説である。
▼大聖人は『日女御前御返事』に
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大漫荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通はたじるしとして顕はし奉るなり」(御書1387頁)
と、不思議の因縁によって自ら大曼荼羅を図顕されたことを述べられており、日興上人も
「妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり」(同1872頁)
と教示されている。これらの聖意をねじ曲げて、衆生己心の本尊に執する川澄や山上らは、日淳上人のいわれる
「一にも二にも我が身が本尊なりといつて日蓮大聖人を傍らに押しのけて自分が本尊の中央に座り込」む徒輩(淳全下-7-437頁)
というべきであろう。
▼かつて日達上人は、所化学衆に対して
「御書をよく拝読することはできても極理を師伝しなければ兎角異義を構え、異説に走り易いので、大いに心に戒めなければならない」(達全2-7-437頁)
と訓戒された。当宗の「師伝」とは、唯授一人血脈付法の御当代上人猊下を師と仰ぎ奉り、弟子の道に精進することから始まる。〝御書もよく拝読できず〟〝師伝たる唯授一人血脈相承に反逆し〟〝異義異説に走る〟山上よ、もって瞑すべしである。 (水島)
大日蓮昭和59年8月(462号・90~93頁
▼日寛上人は、入寂前年の享保十年(1725年)に『六巻抄』を清書し、
「此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の孤兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず尤も秘蔵すべし尤も秘蔵すべし」(富要5-355頁)
と仰せられて、時の学頭日詳上人にこれを授与されたという。
▼『六巻抄』の第二、『文底秘沈抄』について、『日蓮正宗要義』には
「第二の文底秘沈抄は事の一念三千という本仏の証悟された法体より、末法万年の衆生救済のため開出される本尊・戒壇・題目についてその深義を示された宗旨論である」(277頁)
と解説しているが、この説明は川澄や在勤教師会にとって、あまり快くないらしい。
▼川澄の『阡陌渉記』によると『文底秘沈抄』は
「文底秘沈の一念三千が依義判文抄以下で三秘として説かれていく前段階として、基礎知識のため三秘の名義を一往示したまで」
のものであり、
「文底秘沈抄の三秘を以て、日蓮大聖人・戒壇の本尊と解してみても、それは解者の読みそこない」
であるという。さらに彼は
「文底秘沈抄は三秘各別を説いている。しかし戒壇の本尊は三秘即一でなければならない。どの様な方法をもってしても各別を即一とし、相即とする事は不可能である」
という。
▼これを受けて在勤教師会の徒は、日寛上人の
「此の中に『戒定慧』とは一代及び三時に通ずるなり。若し末法に在っては文底深秘の三箇の秘法なり。具には依義判文抄に詞って曾てこれを書するが如し」(撰時抄上愚記・御書文段315頁)
の御文を引用して、次のように主張する。
「むしろ寛師は三秘についての所論は依義判文抄に示されていると仰せられているようです。敢えて『文底秘沈抄』を題号より解釈すれば、この抄は文上つまり文をそのままとるな、文底を拝せといわれているようであります」
と。
▼彼らのいう如く〝文底秘沈抄〟の五字が「文をそのままとるな」との意味なのかどうか、あまりに愚劣すぎて論じようもないので、今はひとつのブラックユーモアとして捨て置くが、彼らの主張の中で『文底秘沈抄』の位置づけや引証などの本筋の部分がだいぶ迷乱しているので糾しておこう。
▼その一。『文底秘沈抄』が内容的にみて、本当にただ三秘の名義を注釈したものにすぎないものであり、一往初門の書であるのかというに、『文底秘沈抄』には三大秘法を
「此れは是れ文底秘沈の大事、正像未弘の秘法、蓮祖出世の本懐、末法下種の正体にして宗門の奥儀此れに過ぎたるは莫し」(聖833頁)
と仰せられている。三大秘法が「宗門の奥儀」であるということは、三秘の教示書たる『文底秘沈抄』も当然「宗門の奥儀」を開陳した大事の書ということである。また彼らは『文底秘沈抄』が三秘各別の書であり、三秘相即を説かない注釈書だというが、宗祖大聖人が
「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし」(御書1595頁)
と仰せられて三秘を開示された『三大秘法禀承事』にも三秘の名義を各別的に一々説明して〝三秘総在〟とか〝一大秘法〟の名義までは示されていない。もし彼らの言い分を用いるならば、『三大秘法抄』も三秘相即を説かざる一往の注釈書ということになろう。
▼たしかに『文底秘沈抄』の中に〝三秘総在〟の文言はないが、隠文顕義の教示は随所になされている。すなわち本門戒壇を説明するに
「然るにるに三大秘法随一の本門の戒壇の本尊は今富士山のもとに在り」(聖八五二頁)
の文があり、本門の題目については
「本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり」 (聖857頁)
と示されている。血の回りの悪い徒輩や無信、無行の増上慢にはピンとこないかも知れないが、「三大秘法随一の本尊」とか「本門の本尊を信じて」との言葉の中に、戒壇・題目を摂するところの本尊、三秘総在の御意を含ませられていることは明白である。しかも
「教主釈尊の一大事の秘法とは結要付嘱の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門本尊の御事なり」(聖八五二頁)
と「一大秘法の本尊」義まで明言されている。
▼だいいち三秘の名目を一々に挙げて説明したからといって、直ちに〝各別的だ〟〝相即ではない〟と非難し、自説に適合しないからといって、寛尊自ら「宗門の奥儀此れに過ぎたるは莫し」と仰せられた『文底秘沈抄』を、いとも簡単に貶す神経は正常な人のものではない。関慈謙などは川澄の尻馬に乗って
「文底秘沈抄は六巻抄全体を流れる一念三千法門の本筋からはずれている」
とまで嘯く始末である。
▼冗談も休みやすみ言ってもらいたい。『文底秘沈抄』に説かれる本門の本尊は人・法ともに事の一念三千の御当体であり、この一点を外れて一念三千法門の究極はないのである。たわけたことを言うものではない。どだい〝衆生己心の本尊説〟や〝師弟一箇の本尊説〟などを六巻抄によって証明することが無理なのである。その無理を通そうとするから変なこじつけや妄言を吐くことになるのである。それにしても彼らは三大秘法や一大秘法の法義が六巻抄の文字や衆生の認識内にあると考えているようだが、その正体は戒壇の大御本尊として厳然と大石寺正本堂(平成14年10月以降奉安堂)にましますことを忘れてはなるまい。
▼その二。彼らが盛んに文証としている『撰時抄愚記』の御文であるが、この文意は〝釈迦仏法で広く用いられている戒定慧の三学も、独一本門の立場より見れば、三大秘法のそれぞれに配当できる。三学と三秘との配合釈は『依義判文抄』に記述しておいた〟ということであって、彼らのいう「三秘についての所論は依義判文抄に示されている」との解釈は全くの見当はずれである。もし彼らが三学の説・不説をもって『依義判文抄』と『文底秘沈抄』とを比較し、価値内容の勝劣を決めるというならば、彼らは三大秘法より三学を尊重していることになる。それはまさしく末法正意・本因妙下種仏法の法門に迷い、時節に混乱した愚行といわざるを得ない。要するに彼らは、日寛上人の『撰時抄愚記』の一文を意図的にこじつけて、同じ寛尊の『文底秘沈抄』を蔑視し、その評価を下落させようと目論んでいるのである。
▼その三。彼らがなぜこれほど執拗に『文底秘沈抄』を敵視するのかを考えてみたい。いま当抄を熱拝すると、随所に彼らの邪説を遮断する御教示があることに気付く。たとえば唯授一人の血脈相承を否定し、大衆血脈論を主張する彼らにとって
「而して後法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如し、清浄の法水断絶せしむること無し」(聖853頁)
の文は極めて都合の悪いものであろう。
▼また彼らの〝己心戒壇説〟は
「富士大日蓮華山は日本第一の名山にして正に王城の鬼門に当たる、故に本門の戒壇応に此の地に建立すべき故なり」(聖856頁)
の文によって破折され、〝肉身日蓮は本仏に非ず〟の説は
「故に知りぬ、佐州已後は蓮祖即ち是れ久遠元初の自受用身なり、寧ろ現証分明に非ずや」(聖839頁)
の文によって粉砕されるであろう。また云く
「跛にして盲ならざるは信有つて行無きが如く、盲にして跛ならざるは行有つて信無きが如し」(聖857頁)
と。無信、無行の川澄や邪宗徒となった在勤教師会・正信会の者達はさだめし〝跛にして盲、盲にして跛なる徒輩〟というべきか。
▼かくの如く、未来の邪義異説の「孤兎」までも一蹴する『文底秘沈抄』こそ、寛尊が仰せられる師子王の書であり、正法正義を後代に伝える「宗門の奥儀」書なのである。 (水島)
大日蓮昭和59年9月(第463号・90~93頁)
▼むかし、ある家の門前に飢えた修行者が乞食してきた。家のあるじは食物を施す前に、修行者にいろいろな質問をした。あなたはどこから来たのか、何を求めているのか、名前はなんというのか、今まで修学した内容は何か、などと際限なく質問をくり返しているうちに修行者は倒れ、死んでしまったという。
▼また、ある比丘は宝珠を施す大会に行く途中で、大きな橋にさしかかったとき、近くにいた智者に対して、この橋は誰が作ったのか、この河はどこから来て、どこへ流れていくのか、橋の材木はどこの林で育ったか、誰が伐り、どこの象が運んだのか、などと次々に疑問を質し、無為な時間を費やしたために宝珠を得ることができなかったという。
▼これらは、物事を信用せずすべてを疑うことの愚かさを教えた寓話として『方等陀羅尼経』に説かれている。天台大師は『摩詞止観』にこれを引いて、蔵経の歴劫修行を
「方等に云く、種々に橋を問う、智者の呵する所なりと。人亦是の如し、学道の為の故に此の四門(有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)を修す。三十余年、一門を分別して尚未だ明了ならず。功夫縄かに著すれば年すでに老ゆ。三種の味(出家・読誦・坐禅)なく、空しく生じ空しく死す、唐しく一期を棄つ。彼の橋を問ふが如く、何の利益かあらん」(学林版下793頁・()内筆者注)
と呵責」している。
▼ところで『継命』の「教学の栞」欄には、次のような解説が掲載されている。
「現在、無疑曰信というと、御法門に対して疑いを持つこと自体が悪いことであり、創価学会流にいえば、何が何でも信じきっていくという意味で使われていますが、何とも初歩的な誤りであるといわねばなりません。実には、御法門に対して疑問を持ち、その疑問が氷解するまで思惟(考えること)をくりかえし、その結果疑いが尽きてしまって全くなくなり、そこに生まれた信のことをいうのです」(S56・4・15号)
自称正信会では、天台が「唐しく一期を棄つ」と弾呵された疑滞と不信こそが、当宗の信仰なりと賛嘆し推奨しているのだから驚き入る。ここでも彼らは
「この無疑曰信は本尊建立につながる信であるといえるものです」(同)
といって、〝衆生己心の本尊説〟を担ぎ出そうというのである。
▼「無疑曰信」は『法華文句』巻十に
「疑無きを信と曰ひ、明了なるを解と曰ふ是れを一念信解の心と為す」(国切四四八頁)
とあり、現在四信の第一、一念信解を説明するに用いられている語句である。この無疑曰信が、彼らのいう〝疑いが氷解し尽くした〟ところの信かというに、『文句』には
「是の如きの信解を鉄輪位と名く、又一解は未だ是れ具足の鉄輪ならず、すなわち是れ十信の初心なり。其の人いまだ六根清浄を得ず。故に鉄輪の正位に非ざるなり」(同頁)
と言い、六根清浄を得ない鉄輪位(十信)の初門であると説いている。これをさらに日蓮大聖人は『四信五品抄』に
「天台・妙楽の二の聖賢此の二処(一念信解と初随喜)の位を定むるに三の釈有り。所謂或は相似十信鉄輪の位、或は観行五品の初品の位、未断見思、或は名字即の位なり。(中略)予が意に云く、三釈の中に名字即は経文に叶ふか」(御書1111頁)
と説き、一念信解・無疑曰信の信とは名字凡夫の位であり、〝思惟によって法門を了解した結果〟の信などではないことを明示されている。
▼〝御法門は信順すべきものではなく、疑問を持ち、その疑いが尽きるまでくりかえすこと〟を主張する彼らは、本当に人間生命における「疑」という心の作用と影響を知っているのであろうか。いうまでもなく「疑」とは「猶予豫して決定せざる精神作用」のことである。『康煕字典』によれば
「猶豫は二つの獣の名、性は疑い多し、凡そ人の事に臨んで遅疑し決せざる者を借りて以て喩えと為す」(同書27-6頁)
とあり、『弘決』には
「犬子を謂て猶と為す、亦たサルの属なり。言ふこころは此の犬子或は人の行く時に随って前後定まらず。故に猶豫と名く」(摩詞止観・天全3-52頁)
とある。
▼「疑」という精神作用を、倶舎では貪・瞋・癡・慢・悪見とともに根本煩悩たる「六随眠」のひとつとし、唯識でも「六根本煩悩」のひとつに挙げている。天台家では見惑八十八使・思惑八十一品の基本となる五鈍使のひとつに数える。「煩悩」とは悪業・苦界の因、「見惑」は邪理に執する煩悩、「思惑」は一切の事物に執着する感情の惑いであるから、「疑う」という行為は、理性、感情両面にわたって正道に趣くことを妨げ、悪業を駆使し限りなく人間性を汚しつつ三界の苦悩に流転せしめるものといえる。
▼天台家では、一念三千の観達を妨げる働きとして五蓋を説き、その中のひとつが「疑蓋」であるという。『摩河止観』巻四に云く
「疑に三種あり、一に自を疑い、二に師を疑い、三に法を疑う(中略)三疑猶予して常に懐抱に在らば禅定発せず、設ひ発するも永く失す。此れは是れ疑蓋の相なり」(国訳大蔵経一九四頁)
と。すなわち仏道修行の不可欠要件ともいうべき自己・師範・法義を疑うことが善法を覆蓋することであり、禅定の境地を妨げることになるというのである。
▼疑心の起こる原因について『瑜珈論』に
「疑は六事に依りて生ず。一には不正法を聞くこと、二には師の邪行を見ること、三には信受する所の意見の差別を見ること、四には性自ら愚魯なること、五には甚深なる法性、六には広大なる法教なり」(国切瑜珈部4-1102頁)
とある。正信会の徒輩が、日蓮大聖人の仏法を疑ってかかろうとしている原因は、この六事のいずれによるのであろうか。不法邪見を誰人かに教唆されたか(第一番)。本師大聖人が名字凡身の故に信じられないか(第二番)。我見自説が大聖人の教えに違背している故か(第三番)。愚魯の機の故か(第四番)。それとも、その他の理由によるものか。
▼叡山の学匠・慧澄癡空などは『止観講義』に
「愚癡より発して無益の猶豫を為す」(天全・止観3-52頁)
と一言のもとに断じている。要は愚癡の者ほど猶豫狐疑の邪念にとりつかれるということだ。禅家の仏教学者・宇井伯寿氏ですら
「疑は三種に限らず、凡て禅定を発しないもので、一般に我見が強く、虚心に心に判断するを得ないから起るもの、日常生活上にも、これが強くては、生活すらなすを得ないであろう。世は凡て信であるからである」(仏教汎論614頁)
と説いている。「疑煩悩」のくり返しによって真実の信が生ずるなどは仏教教義にない外道の論なのである。
▼どうも彼らは〝御法門〟を法体と別なものと考えているようだが、当宗の法門はすべて文底下種の法体たる戒壇の大曼荼羅より発し、大曼荼羅に帰結することを忘れてはならない。当宗の御法門を疑うことは、とりもなおさず大聖人を疑い、血脈相承を疑い、大御本尊を疑うことに外ならない。『法華題目抄』の
「仏説きて云く『疑ひを生じて信ぜざらん者は、即ち当に悪道に堕すべし』等云云。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり。而るに今の代の世間の学者の云はく、只信心計りにて解心なく、南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて争でか悪趣をまぬかるべき等云云。此の人々は経文の如くならば、阿鼻大城をまぬかれがたし。さればさせる解はなくとも、南無妙法蓮華経と唱うるならば、悪道をまぬかるべし」(御書354頁)
との御聖文をよくよく拝承すべきであろう。
▼「不能思惟」の経文を隠して思惟せよと教え、「以信得入」の金言を覆って橋を問えと誘う。教学と称して檀徒に阿鼻火杭の因業を勧める正信会の行為は、冷酷な悪鬼の所業でしかない。(水島)
大日蓮昭和59年10月(第464号・84~87頁)
▼自称正信会では、当宗の信を「御法門に対して疑問を持ち、その疑問が氷解するまで思惟をくりかえすこと」と主張するが、在勤教師会と称する徒輩も無疑曰信について次のようにいう。
「日寛上人は無疑曰信について、法華題目抄文段に弘決を引いて云く、『云く、疑い過有りと雖も、然もすべからく思擢すべし、自身に於いて決して疑ふべからず。師法の二は疑てすべからく暁らむべし。若し疑はずんば或は当に復た邪師邪法を雑るなるべし。故に応に疑い熟して善思し之れを擇ぶべし。疑を解の津と為すとは此の謂也。師法已に正ならば依法修行せよ。爾時三(師・法・自身)疑永く須く棄つべし』と仰せです」
▼さらに続けて
「内容は、疑いは必ずしも良いことではないけれども、しかし自分自身に自己矛盾があってはよくないから、よくよく思惟すべきである。そして師と法の二つについては徹底的に糾明して、真実を体得すべきである。疑いは解脱の入り口であり、疑いぬいて結局疑いが尽き、全くなくなって疑いの入る余地がなくなってしまった時、そこに信が生まれる。この疑い無き処を信と云うのであるとの意味であります」
という。
▼これが新聞や週刊誌のクイズ欄ならば、さしずめ「さて只今の彼らの言い分にはいくつ間違いがあるでしょう」と問われるところだ。読者各位もしばし一考されてみてはいかがであろ。
▼はじめに指摘したいのは、彼らがあたかも日寛上人の言葉のように引用している『法華題目抄文段』の文(研教9巻194頁)は、すべて妙楽大師の『摩詞止観弘決』巻四のものであり、寛尊の言葉と真意は、その後に『弘決』の文を解釈されたところに明示されているということである。いわば彼らは寛尊の御指南を隠し、妙楽の文を寛尊の言葉のように繕って引用し、都合よく自説の文証にしているのである。
▼いま『弘決』の文についての寛尊の御指南を概略のみ紹介しておこう。まず
「自身に於て決して疑ふべからず」
の文について、寛尊は、およそ真如の妙理には染浄の二法があり、染法が薫ずれば迷いの衆生となり、浄法が薫ずれば悟りの仏となる故に、我らが身は迷悟不二・生佛一体の妙法の全体なのである。すなわち我らは正境に縁すれば仏になる身であるが故に「自身を疑ふべからず」というのである、と説かれている。
▼これに対して
「師法の二は疑てすべからく暁らむべし」
とは、ある師は不立文字と言い、ある師は浄土三部経を読み、ある師は大日経第一と立てるが、これらの諸師は法華経の教説と全く背反している。どうして疑わずにいられようか。蓮祖の門流にあっても、本迹一致などの諸派諸流に分かれ、蓮祖の妙判に違背する諸師を疑わないわけにいかない。この故に「熟疑し善思し之れを択べ」というのである、と寛尊は仰せられている。
▼そして本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経の正師正法を決定したならば、これに帰依して修行すべきである。この故に
「師法已に正ならば法に依って修行せよ」
というのであり、正義が決定したときを無疑曰信という、と教示されている。
▼寛尊の御指南をもって、彼らの説を見ると、その顛倒迷乱ぶりがはっきり浮かび上がってくる。まず
「疑い過有りと雖も」
の文であるが、彼らはこれを
「疑いは必ずしも良いことではない」
と釈してはいるが、結局は疑の肯定に終始している。このことから見て、彼らのいう「良くない」の意味が、『止観』の
「三疑猶予して常に懐抱に在れば禅定発せず」(天全3巻52頁)
すなわち疑は禅定得悟の障碍なりとする趣旨とかなり異なっているようだ。
▼「思摘すべし」を「思惟すべきである」としているが、思擇と思惟では意味が違う。寛尊の御指南も〝邪師邪法を疑い、正義を選択せよ〟との御意であり、「思」よりも「擇」に重きが置かれている。彼らのいう〝思惟のくりかえしが真実信〟などの意でないことはいうまでもない。
▼また「自分自身に自己矛盾があってはよくないから」というわけのわからない説明は、自分達で勝手に創作して挿入したものなのか、それとも
「自身に於いて決して疑ふべからず」
の文を釈したものなのか、明了でない。もし勝手な創作ならば、冗長な悪文を添加しながら、大切な「自身に於いて云云」の解釈が抜けているし、もし「自身云云」の解釈ならば前掲の寛尊の御指南とは全く異なったものである。
▼「師法の二は疑てすべからく暁むべし」
の段で、彼らは
「師と法の二つについては徹底的に糾明して、真実を体得すべきである」
と大見得を切っているが、疑うべき対象と目的が曖昧なので何ともしまりが悪い。とはいっても『継命』には〝御法門に対して疑え〟と強調し、〝他宗他門の邪義を疑う〟ことを示された寛尊の御指南と真っ向から対立する邪説を吐いているのであるから、しまりが悪いぐらいで済む問題ではない。いかに彼らが詭弁とすりかえを得意とし、厚顔無恥の徒でも、まさか〝御法門〟とは〝邪宗の御法門〟のことだとはいえないであろう。
▼疑によって真実を体得するというのも変な話だ。「真実」が何を指しているか不明だが、文字通り〝真如実相〟と解釈すれば、疑によって真実を体得したならばその後の信などは不要であろう。まさに「自己矛盾」である。また師法の二を疑うのは真実を体得するためなどではない。『弘決』には
「若し疑はずんば或は当に復た邪師邪法を雑るなるべし」
とあり、寛尊も
「蓮師の妙判諸流の立義と水火の不同なり、豈疑はざるべけんや」(研教9巻196頁)
と指南されているように、邪師邪法を簡別することが疑の目的なのである。この正当な目的を明示した文には全く触れようとしないところにも、都合の悪いものは口を拭って知らぬ顔の半兵衛をきめこむ彼らのでたらめな姿勢が露呈されている。
▼「疑を解の津と為す」の文を「疑いは解脱の入り口」と釈しているのも間違いだ。ここでいう「解」とは解脱涅槃の意味ではく
「有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず」(御書1461頁)
の「解」である。また「津」の字も〝入り口〟などの意味ではなく、〝渡し場〟とか〝手段〟の意味である。慧澄の『止観講義』にも
「津は物を済す処」(天全・止観4巻52頁)
とあり、疑は理解のための渡し場であり、手段にすぎないのである。ゆめゆめ
「仏法の根本は信を以て源とす」(御書1388頁)
といわれる信と同等に論ずべきものではない。
▼最後の
「師法已に正ならば依法修行せよ、其時三疑永く須く棄つべし」
という結論の文についても、彼らは全く触れていない。そのかわり
「疑いぬいて結局疑いが尽き、全くなくなって疑いの入る余地がなくなってしまった時、そこに信が生まれる」
などと原文と関係ない我見をもって結論づけている。
▼全体を通して日寛上人が指南されている意図は〝邪師邪法に対しては疑いをもって簡択し、正師正法を得たならば決定信をもって修行せよ。その時は三疑を永く棄て去らねばならない〟というところにある。ところが彼らはこれとは逆に、終始疑うことのみを強調し、賛嘆している。彼らの説明の中に、解釈する上で当然使用されるべき「邪師邪法」「正師正法」「依法修行」「三疑を棄つ」などの語句がひとつもない事実からも、その邪説性が窮知できよう。まさに正信会・在勤教師会の徒輩こそ〝疑をもって簡択されるべき〟邪師なのである。
▼では彼らの間違いの数は、いくつが正解なのであろう。血脈相伝の仏法を否定し、宗祖以来の法門を疑うという根本的な誤ちによって、彼らは言動のすべてが狂い、人格が汚れ、底知れぬ無間の闇に沈倫してゆくのである。
答えは〝無限〟とするのが最も妥当のようだ。 (水島)
大日蓮昭和59年11月(465号・66~69頁)
「此れは久遠元初自受用報身無作本有の妙法を直に唱う」の文について
▼昭和五十八年八月の教師講習会のおり、御法主日顕上人は在勤教師会の〝久遠元初自受用身は色相にあらず〟との邪説に対し、『本因妙抄』の
「久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直ちに唱ふ」(御書1682頁)
の御文を引かれて
「大聖人はここにはっきりと『唱う』とおっしやっております。故に久遠元初の自受用身とは、彼等の言う如き内証己心で色もなければ姿も見えないというものではなく、無作本有の妙法を明らかに唱える、南無妙法蓮華経と唱える仏様なのです」(大日蓮11月号)
と御指南あそばされた。
▼この御指南に対して正信会の大黒喜道はおこがましくも非難を加え、『本因妙抄』の原文には
「此れは久遠元初の自受用報身云云」
とあり、文章の主語は冒頭の「此れは」であって「自受用報身」ではないと言い、引用文と対をなす天台に関する文と対比するに〝自受用身が唱える〟と読むことは間違いであると言う。(第一)
▼さらに大黒は「無作本有の妙法を直に唱う」とは声に出して南無妙法蓮華経と唱えることではなく〝内証において行じ成ずること〟であるから、自受用身を特別な肉身を持ち南無妙法蓮華経と声高らかに唱題する仏様とするのは妄言であり、「常軌を逸した」ものであると言う。(第二)
▼そして彼は、人本尊(久遠元初の自受用身)が法本尊(無作本有の妙法)を唱えることは、人法本尊が体一ではなく、能唱所唱の関係に成り果てるから、前代未聞の新義になると言う。(第三)
▼第一の文章上の解釈については、山田亮道師が『大日蓮』(S59・7月号)に詳しく破折されているから駄言を要するまでもない。詮ずるところ当宗における文章解釈はあくまでも依義判文を旨とすべきである。故に当欄では第二、第三の点について蛇足を加えたいと思う。
▼大黒は
「これも一『人本尊能唱、法本尊所唱』という立て分けの明快な文拠を是非提示して頂きますよう云云」
と、いかにも久遠元初自受用身の唱題などありえないといわんばかりに悪態をついている。しかし御先師上人の文書には、久遠元初の自受用報身のお振る舞い(修行)についての御指南が数多く拝されるのである。
▼『三世諸仏総勘文抄』の
「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御座せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」(御書1419頁)
の御文について、日寛上人は『当体義抄文段』に
「当に知るべし、『凡夫』とは即ち名字即、これ位妙なり。『知』の一字は能証の智、即ちこれ智妙なり。以信代慧の故に、亦是れ信心なり。信心は是れ唱題の始めなるが故に、始めを挙げて後を摂す。故に行妙を兼ぬるなり」(傍線筆者・御書文段641頁)
と釈され、『本尊抄文段』には
「久遠の故に『五百塵点』と云い、元初の故に『当初』と云うなり。『知』の一字は本地難思の智妙なり、『我が身』等は本地難思の境妙なり。この境智冥合して南無妙法蓮華経と唱えたもうが故に、即座開悟し、久遠元初の自受用身と顕われたもうなり。大師の所謂『無始色心、妙境妙智』は是れなり」(傍線筆者・同202頁)
と説かれている。
▼まさしく久遠元初の行妙とは信心唱題であり、〝南無妙法蓮華経と唱えて即座開悟〟された「無始色心」の仏であることがはっきり示されている。また『末法相応抄』には
「本地自行の自受用身とは即ち是れ本因妙の教主釈尊なり、本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり、是れ則ち行位全く同じき故なり」(聖典913頁)
とある。文中の「行位全同」の四字を熟思熟拝し、そして信順するならば元初の深義の一端を領解しうるであろう。
▼全く根拠のない妄説であるが、彼らは日寛上人が「蓮祖聖人」との呼称を用いたときは、肉身の大聖人ではなく内証己心の(姿形にあらわれない)真身を指すのだと口癖のように言う。もしそれならば日寛上人が「末法出現の」と仰せられるわけがないのである。それでもわからなければ、『本因妙抄』の
「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり」(御書1684頁)
の明文ではどうであろう。まさか「日蓮が名字即の身」、それも「末法今日」と時まで指定している「身」を〝姿形のない内証己心〟とやらに、ぶち込むことはしないであろう。
▼〝末法今時の日蓮が身に移した修行〟とは何かといえば
「日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声もをしまず唱ふるなり」(同1036頁)
とも
「但日蓮一人ばかり日本国に始めて是を唱へまいらする事、去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱ふる事は一人なり」(同1356頁)
とも仰せられるところの、自行化他に亘るる唱題以外にない。「行位全同」の意を拝すれば、久遠元初の自受用身も身口意三業に亘る唱題を行じたことは明白である。
▼『百六箇抄』にも
「久遠元初直行の本迹(中略)久遠釈尊の孔章口唱を今日蓮直ちに唱ふるなり」(同1694頁)
とあり、「口唱」とは声に出して唱えることである。第五十二世日霑上人も「祖文纂要」に
「即座開悟と云ふ豈修行なからんや是れ行妙なり」(同書234頁)
と説かれ、第五十六世日応上人も
「理即凡夫の御時是を内薫自悟し、之を実修実証せるが故に自受用報身と称す」(法の道・研究書27巻90頁)
と指南されている。これら御先師上人が教示される実修実証の久遠元初の自受用身と、大黒らが考えている〝目に見えない内証己心〟の仏や禅宗ばりの虚仮の空想仏とはだいぶ隔たりがあるようだ。
▼次に〝自受用身が能唱で、本有の妙法が所唱となるから人法体一ではない〟という大黒の説は、あまりに低劣すぎてお話にならない。もし彼の説に従うならば、大聖人が御図顕あそばされた御本尊も能顕(大聖人)と所顕(曼荼羅)に区分できるから、人法体一の本尊ではないということになる。
▼日寛上人は『六巻抄』に、人法体一に、ついて
「自受用身は是れ境智冥合の真身なり、故に人法体一なり」(聖典846頁)
と境智冥合の故に自受用身は体一なることを示している。そして境智の立て分けについては
「能称如如の智(知)と所称如如の境(我身等)」(同941頁)
「能成の智(知)と所成の境(我身等)」(同942頁)
「能証の智(知)と所証の境(我身等)」(同943頁)
との表現をもって示した上で
「境智和合の始めを名づけて因と為す、故に照境未窮と云い、境智和合の終りを名づけて果と為す、故に尽源為果と云うなり、是れ則ち刹那始終一念の因果なり」(同頁)
と元初種家の本因本果に約して説明されている。
▼能称所称も能成所成も能証所証も、すべて自受用身の境智についての言葉であり、この能所の冥合は自受用身の刹那一念の因果に摂せられるところであるから『本因妙抄』の御文を、尽源為果の立場によれば日応上人の御指南の如く〝自受用身即本有妙法〟(弁惑観心抄112頁)と解せられ、本因行によれば日顕上人の御指南の如く〝自受用身が本有の妙法を唱う〟と解されるであろうし、これをさらに三宝に配する時は日寛上人の如く〝自受用身は仏宝・本有の妙法は法宝〟(聖典949頁)とも解されて、何らの齟齬を来すものではないのである。
▼いずれにせよ甚深の相伝書は、宗祖大聖人の仏法を相承伝持あそばされる御法主上人の御境界において、はじめて活釈し闡繹なされるところであって、愚凡の俗衆がとかくの異義を唱えるべきではない。 (水島)
大日蓮昭和59年12月(第466号・48~51頁)
▼在勤教師会の徒輩が〝師弟一箇の本尊〟の文拠として挙げるのが、次に掲げる『当流行事抄』の御文である。
「①問う、我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや、謂わく、本門の大本尊是れなり、②本門の大本尊其の体何物ぞや、謂わく、蓮祖大聖人是れなり、③故に御相伝に云わく、中央の首題、左右の十界皆悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付給えり、④又云わく、明星池を見るに不思議なり日蓮が影今の大曼荼羅なり、⑤又云わく、唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち真実の十界互具なり云云」
(聖典954頁・文中の番号は筆者)
▼この御文について、彼等は
「この御相伝に云くとは、『御本尊七箇相承』のことである。まず、三世印判日蓮体具と明星直見の本尊によって、大聖人の内証(鎌倉の人間日蓮と区別する)即自受用報身・久遠名字の妙法が本尊の体であることが述べられている。そして、その次下の『又云わく』以降は『御本尊七箇相承』の(中略・後述)御文を引用されて、仏界九界の十界互具に事寄せて、仏界九界師弟一箇の妙法を顕示されている」
という。
▼いま『当流行事抄』の御文を直訳すれば、
①我等が唱え奉る本門の題目の当体とは、本門の大御本尊であり、
②本門の大本尊の体とは蓮祖大聖人のことである。
③『御本尊七箇相承』には、曼荼羅の中尊の首題と左右の十界聖聚
は悉く日蓮大聖人の当体であり、それ故に「日蓮判」と認められる。
▼④の「日蓮が影今の大曼荼羅なり」とは、宗祖大聖人の御当体即大曼荼羅との御教示であることは誰人も異義はないであろうと思っていたところ、あにはからんや、四国の伊芸益道なる者、正信会首脳におだてられたのか、気狂いじみた悪口雑言をさかんに吐いているが、その中でこの御文について面白いことを口走っている。彼云く
「戒壇御本尊は久遠元初自受用報身如来たる日蓮が影であると仰せなのは明白で、即ち自受用身は体、戒壇御本尊は影、体勝影劣は三歳の幼児でも知っている」
「影は体に伴うとは云え体そのものではない。同じく厳密に云えば戒壇御本尊と久遠元初自受用報身如来とは別だから『日蓮が影今の大曼荼羅なり』と仰せである」
と。
▼こう言っては可哀相だが、彼は日本語の理解がかなり乏しいようだ。たとえば『万葉集』に「燈火を月よにたぐへその影も見む」という歌があるが、伊芸には恐らく何のことやらちんぷんかんぷんなのではあるまいか。この歌は〝月明かりに燈火を添えてその姿を見るであろう〟という意味であって、ここにいう「影」とは陰影ではなく実像そのものである。ふつうにも「月影(つきかげ)」といえば、月の〝かげり〟ではなく、〝月の光〟あるいは〝月〟そのものを指すことぐらい常識ではないか。「影」とは〝光が物に当たって反対側に生じる暗い像〟の意味と、〝実際の物の姿〟の意味があり、明星直見の「日蓮が影」とは大聖人の当体を指している言葉で、後者の意味として用いているのである。
▼『御義口伝』には
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書1773頁)
とあり、『取要抄文段』には
「古僧示して云わく『汝が身を以て本尊と為すべし』と。即ち明星池を見たまえば、不思議なり、蓮祖の影即ち今の大曼荼羅なり。この時、正しく我が身は法華経の題目なりと知り云云」(御書文段542頁・傍線筆者)
と、凡夫身の御当体即妙法であり、本尊なる旨を明示されている。「影」を体の対語としか理解できない伊芸などに、この相伝の聖意を喋々する資格はないというべきである。
▼話を元に戻そう。⑤の引用文は省略されたもので、その原文は
「唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり。是れ則ち四教の因果を打ち破りて真の十 界の因果を説き顕わす云云。此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり」(御本尊七箇相承・聖典387頁)
というものである。この御文はたしかに十界互具の成仏について述べられているが、彼等のいう如き〝師弟一箇の本尊〟などとは無縁のものである。
▼文中の「唱えられ給う処の七字は仏界なり」とは、寛尊の『法華取要抄私記』にも
「然れば則ち、本門下種の南無妙法蓮華経日蓮聖人より外に全く一法も無し」(御書文段582頁)
と示されるように、日蓮大聖人の御当体たる大曼荼羅のことである。迷蒙九界の衆生がこの大曼荼羅を信受して唱題する時、文底下種の真実の十界互具となるとの御教示である。
▼十界互具といっても、九界と仏界が混合互紛して見境がつかなくなることでもなく、衆生と本仏が同等になることでもない。互具融即して、しかも九仏のけじめは厳然としているのである。妙法を信受して真実の仏界に浴した衆生は、仏の功力によって無作三身の境界を感得できると説述されているのである。
▼無作三身について、寛尊は『取要抄文段』に
「当に知るべし、蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと雖も、仍是れ因分にして究竟果分の無作三身に非ず。但是れ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(御書文段516頁)
と釘を刺されている。
▼彼等は『山内有志の御用教学に答う』と題する小冊子の中にも、『当流行事抄』の御文を引用して、次のように解釈している。
「1、我等唱え奉る所の本門の題目の体とは何であるかと云えば、それは本門の大御本尊である。
2、本門の大御本尊の体とは何かと云えば、十界互具の蓮祖大聖人である。
3、十界互具の蓮祖大聖人とは、唱えられ給う処の七字の仏界(師)と唱え奉る我等衆生の九界(弟子)が境智冥合した十界互具の師弟一箇の処を指して、蓮祖大聖人と云うのである」。
▼第一条と第二条はよいとしても、第三条は思わずわが眼を疑うばかりの珍説である。だいいち「十界互具の蓮祖大聖人とは」という冒頭の主語はどこから持ち出してきたのであるか。寛尊が前文で仰せられる「蓮祖大聖人」の語は、内証や己心ではなく、「十界悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付け給えり」と明言されているように、鎌倉出現凡身の大聖人であるが、彼等の説明によると、この大聖人の当体は衆生(九界)と仏界が境智冥合したところに生ずるのだそうだ。なんとも奇怪千万な話だ。本尊が衆生の信心(題目)から生ずるというのは話があべこべである。
▼日淳上人の御指南に
「申すまでもなく仏法に於ては仏の御境界が根本で其處から仏の化導が起り、衆生をして仏界に到らしむる道が立てられるのであります。それ故日寛上人は本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経を唱ふるを本門の題目と云ふなりと仰せられたのであります」(淳全下-1055頁)
とのお言葉がある。大御本尊を信受せずして正宗の伝統法門を思いつきであげつらう川澄も川澄だが、これを教化するどころか反対に眩惑されて集団還俗し、あげくの果てに川澄の寝言を大聖人の御書や御先師の御指南をもって立証せんと企てる在勤教師会の行為は、愚行というばかりでなく不敬・師敵対の大罪を犯していることを銘肝すべきである。 (水島)
大日蓮昭和60年1月(第467号・106~109頁)
▼自称在勤教師会云く
「一閻浮提総与、即ち一切衆生に具わっている久遠名字の妙法を指し、この妙法を信の上で覚知建立する時、血脈が流れるというのである。日寛上人が六巻抄に
『種子を覚知するを作仏と名くるなり』(聖典815)
といわれたのもこれであり、当然還滅門の所談である」
と。
▼この短い文章の中に、彼らの教学的無知と無道心から生じた迷倒妄見が錯綜している。その誤りの第一は「一閻浮提総与」の語義についてである。彼らは〝一閻浮提総与即ち一切衆生に具わっている妙法〟と言って、一閻浮提総与の言葉を一切衆生の妙法具有を指すものと解釈しているが、これはとんでもない間違いであり、曲解である。
▼日顕上人は、昭和五十九年の御虫払大法会の御説法のおり、一閻浮提総与の語について
「宗祖大聖人の御化導における仏法上の終窮究竟の法体は、三大秘法の随一・本門戒壇の大御本尊であり、その最高、最勝の戒・定・慧の体をもって一切衆生即身成仏の大道を現実に広布し確立していくところに、一閻浮提総与の意が存するのであります」
(大日蓮・S595月号41頁・傍線筆者)
と、本門戒壇の大御本尊をもって一切衆生を成仏せしめるところを指して一閻浮提総与と称する意義があることを御指南あそばされた。
▼第六十五世日淳上人は〝一切衆生総与〟の語を用いて次のように教示されている。
「大聖人は末法万年の御化導を遊ばされるのが御本意であらせられます。此に一切衆生を御導き遊ばされる御本尊が建立せられなければならないのでありまして此のための御本尊を弘安二年十月に建立遊ばされ玉ふたのであります。此の御本尊はそれ故に一切衆生総与の御本尊と申し上げるのであります」(淳全下-1018頁・同)
▼第六十六世日達上人は、これについて〝末法総与〟という言葉を使用され、
「大聖人は弘安二年十月十二日、御意を戒壇の大御本尊にとどめられ、その末法総与の戒壇の御本尊が今まさに正本堂に安置せられておるのでございます」(達全二輯5巻618頁・同)
と御指南あそばされている。すなわち〝一閻浮提総与〟とは一切衆生総与・末法総与と同意義であり、末法の一切衆生を済度する弘安二年の大御本尊に関わる言葉であって、濁世の衆生に本来具有していることを指す言葉ではない。
▼第二の誤りは〝衆生に具有する法が久遠名字の妙法である〟という点である。理の上から論ずれば、なるほど森羅三千すべての現象世界は法性(ほっしょう)の具現したものであり、法身如来である。人間界にあっても善悪・順逆を問わず一切の衆生に仏性が本然と備わっていることは爾前の教理に説かれており、今さら取り立てて論ずる必要もないが、法華円教の所談は理上の観念論ではなく事実の上の得脱である。『天台学概論』に台家の行体として
「併し乍ら翻って自身現在の有様を顧みると、煩悩生死の苦に閉じ込められて居る所の凡夫である。此の凡夫の生活を浄化して如来の生活として行くものが、即ち円教の一心三観の行法である」(同書231頁)
と説かれている如くである。
▼久遠名字の妙法について、日寛上人は
「凡そ末法下種の正体とは久遠名字の妙法、事の一念三千なり。これ則ち文底甚深の大事、蓮祖弘通の最要なり」(御書文段299頁)
「正境とは本門戒壇の本尊の御事なり。これ則ち正中の正、妙中の妙なり。久遠名字の妙法、事の一念三千、何ぞ外に之を求めんや。即ち是れ末法下種の正体なり」(同)
と説かれ、その教主については
「本門の行者は本門の本尊なり(中略)下種の行者は下種の本尊なるべし(中略)されば末法の本尊とは、本門の南無妙法蓮華経日蓮大聖人是れなり」(同581頁)
と説かれ、久遠名字の妙法とは単なる理法身や仏性と異なり、御本仏大聖人によってはじめて顕現される事上の法体であり、末法下種の正体であると教えられている。
▼この下種の妙法と衆生の関係について、日淳上人は
「然るに末法の衆生は今日迄仏法-妙法を下種せられたことのない衆生であります。此れ等の衆生には文底の妙法を下種すべきであります」(淳全下-1012頁)
「末法恐怖悪世の衆生は未だ仏法によって化を蒙ったこともなく、積善もない、まったくの荒凡夫であると仰せられてあるのであります。此れを本未有善の衆生と申します」(同938頁)
と仰せられている。彼らの言う如き衆生に本来妙法が具有されているなどの説は、当宗の教義と全く異なった邪義邪見なること明白ではないか。
▼第三の誤りは「この妙法を信の上で覚知建立する」という考えである。これについては、日寛上人が
「然れば則ち、本門下種の南無妙法蓮華経日蓮聖人より外に全く一法もなし」(御書文段582頁)
と説かれ、日淳上人が
「大 聖人が此の世に御出ましなされたのは末法のため最も尊い最も正しい御本尊を建立遊ばされて我等凡夫にお授け下さることであります。それは弘安二年の戒壇の御本尊で本宗総本山大石寺に蔵し奉るのであります」(淳全下-987頁)
と仰せられるように、久遠名字の妙法たる大御本尊はひとり大聖人によって顕現され、建立なされるのである。
▼第四の誤りは「信の上で覚知建立する時、血脈が流れる」というところである。この文だけでは意味がはっきりしないが、同類の文と重ねてみると彼らの意図が明白になる。
「即ち法体別付の相承とは、誰から誰へと順次に流れる姿形のある相承ではなく、一切衆生の内証に流れる法体そのものの相承であり、信の上に覚知建立するものである」
という。
▼彼らの説によると、〝信の上に覚知建立される血脈〟とは法体別付の相承のことであり、一切衆生の内証に流れる法体のことなのだそうだ。法体別付については、日応上人の
「宗祖御在世ニ数多ノ弟子アリト雖トモ独吾開山ノミ法体別付ノ相承ヲ受ケ玉ヒ其他ハ法門総付ノ相承ノミ云云」(弁惑観心抄211頁)
との御教示を拝すれば、彼らの説がいかにでたらめなものかがわかるであろう。
▼また衆生の信心に血脈があるとの説は、古くから他門流で主張している信心血脈論といわれるものである。これについて、日淳上人はかつて国柱会の高田某が主張した信心血脈論に対して、次のように破折されている。
「(高田氏は)結局は信心血脈のみを立てることにして其の他を否定するといふことになってをる。此れは国柱会の血脈を立てやうとするあまり、かような珍説を主張することになったと思はれる。蓋し生死一大事血脈鈔に於て『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』と仰せられた血脈は脈絡のことで、即ち信心がなければ脈絡は成り立たないとの御意であらせられ『夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり』とは血液たる仏法を御指し遊ばされてをる」(淳全下-一四四二頁)と。
▼ここに仰せられる「血液たる仏法」の当体こそ宗祖大聖人によって建立される久遠名字の妙法であり、末法下種の法体たる大曼荼羅である。この日蓮正宗の大義に背逆する徒輩は必ず唯授一人嫡々相承を否定し、浅薄な信心血脈論に堕落するのであるが、現在の正信会・在勤教師会も同じ轍を踏みつつ、更に限りない悪道を彷徨しゆくのであろう。
▼それにしても、〝一閻浮提総与とは衆生具有のこと〟〝妙法は衆生の信心によって建立される〟〝法体別付の相承は一切衆生に流れる〟等々の邪説は、言語の重みと論理を無視した偏執そのものであり、荒唐無稽に過ぎる。誤りの第五・第六は次回に述べたい。(水島)
大日蓮昭和60年2月(第468号・76~79頁)
▼前回は、自称在勤教師会の
「一閻浮提総与、即ち一切衆生に具わっている久遠名字の妙法を指し、この妙法を信の上で覚知建立する時、血脈が流れるというのである。日寛上人が六巻抄に
『種子を覚知するを作仏と名くるなり』(聖典八一五頁)
といわれたのもこれであり、当然還滅門の所談である」
という邪説の前半を四点にまとめて破折した。
▼今回はその続きとして
「種子を覚知するを作仏と名づくなり」
の文について述べてみたい。この文は日寛上人が『三重秘伝抄』の「本迹相対して一念三千を明かす」なかに
「問う、迹門の二乗作仏何ぞ是れ本無今有なるや。
答う、種子を覚知するを作仏と名づくなり。而るに未だ根源の種子を覚知せず、故に爾云うなり。本尊鈔に云わく、久遠を以つて下種となす、大通前四味迹門を熟となす、本門に至り等妙に登らしむるを脱となす等云云。而るに迹門に於いては未だ久遠下種を明かさず、豈本無豈に非ずや、而も二乗作仏と云うは寧ろ今有に非ずや」(聖典815頁)
と説示された箇処に述べられたものであり、『開目抄文段』(御書文段86頁)や『取要抄文段』(御書文段519頁)にも同様の文が記されている。
▼まずここにいう「種子」とは何かということであるが、妙楽大師は『法華文句記』に
「果の仏種は浄縁より起り、衆生の仏種は説縁より起る」(学林版・中巻252頁)
と、仏種には本有法性の縁による仏種と、仏の説教の縁から起こる仏種とがあると説く。一般には、前者を〝仏性種〟または〝性種〟と言い、一切衆生の心性に備わる仏種を意味し、後者を〝仏性種〟または〝乗種〟と言い、仏が衆生のためにする教経を意味する(日蓮本仏論辞典五八頁)。この性種・乗種の区分からすれば、自称在勤教師会の徒輩が、本来衆生己心に具わる妙法と称する種子とは、性種の意味に用いていることは間違いない。
▼しかし日蓮大聖人が仰せられる仏種とは、『妙法比丘尼御返事』に
「日蓮は日本国安房圀と申す国に生れて候ひしが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るる身とならん」(御書1257頁)
とあり、『撰時抄』には
「悦ばしきかなや、楽しきかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる」(同866頁)
と示されるように、人為的・後天的に〝心田に植えられるべき仏種〟すなわち乗種のことである。
▼『曽谷殿御返事』にも
「法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」(同1040頁)
と仰せられ、成仏の種は初めから衆生の心田に存在するものではないことを教示されている。この「植え手」たる教主と「仏種」の当体について、日寛上人は
「蓮祖は本因下種の教主の故に本尊と為すべし」(聖典913頁)
「一幅の大曼荼羅即法本尊なり」(同907頁)
と決判されている。
▼また『止観弘決』を見ると、華厳経では種子を仏種・法種・僧種の三義に立て分けたうえで
「華厳の第七に云く(中略)仏は種子を衆生の田に下して正覚の芽を生ずるは仏種をして断ぜざらしむ云云」
(学林版・巻上本426頁)
と言い、乗種を強調していることがわかる。
▼いま他門日蓮宗の所説をみるに、『本化聖典大辞林』(田中智学編)には
「衆生に性種の仏種は有りとも、之を開発せざれば無きも同然にして、何等の功徳なく仏性とは名のみにして終る(中略)その能開発の力ある教法を名けて乗種といふ」(下巻2780頁)
とあり、『上古日本天台本門思想史』(浅井円道著)には
「日蓮の宗教では理具よりも事具を重んじ、性種よりも乗種の有無を問題にしていた」(749頁)
と不相伝ながら御書の文言に随って、乗種為本の立場をとっている。
▼これら他宗の説と、〝妙法は一切衆生に具わっている〟などの変てこりんな性種説を吐く川澄や在勤教師会とを比較すると、川澄らの言い分は国柱会や日蓮宗の所説はもとより華厳の経説よりもはるかに下等であり、劣悪であることは誰人の目にも明らかであろう。〝性種と乗種の混乱〟、これが前回から通算して第五番日の誤りである。
▼第六の誤りは、日寛上人のお言葉を拝借すれば〝時節混乱の咎〟ということである。「種子を覚知するを作仏と名づく」の文は、迹門の二乗作仏が何故本無今有なのかとの問いに対する答えとして述べられたものであり、この文の対象は今日・正像時の二乗なのである。したがってこの文をもって末法の観心を喋々する彼らは〝時〟の混乱を犯している。
▼次に機根について言えば、『法華文句』に種熱脱の三益を四節に立て分けて、次のように説述されている。
「衆生久遠に仏の善巧を以て仏道の因縁を種えしむることを蒙むる、中間に相値いて更に異の方便を以て第一義を助顕し而してこれを成熟す、今日雨華地動して如来の滅度を以てこれを度脱す(第一、退本取迹の人)。復次に久遠を種となし、過去を熟となし、近世を脱となす、地涌等是れなり(第二、始終不退の人)。復次に中間を種となし、四味を熱となし、王城を脱となす、今の開示悟入の者是れなり(第三、捨邪帰正の人)。復次に今世を種となし、次世を熟となし、後世を脱となす、未来得度の者是れなり(第四、始終誹謗の人)」(学林版・巻上20頁・カッコ内は筆者)
▼この四節を『四節三益筆記詳師随聽記』に
「此の順縁の中に退・不退の二節あり。又逆縁の中に、中間に邪を捨て正に帰し・今日霊山に捨邪帰正するとの二節有り、是れを四節の三益と云ふなり」(富要十巻三五頁)
と簡潔に説明されている。また「種子を覚知する云云」の文に続けて引用される『観心本尊抄』の
「久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登らしむ」(御書656頁)
の聖文を、日寛上人は一往大通覆講の機に約して
「今日得道の二乗、多分は第二退大にして、少分は第三類なり」(聖典816頁)
と立て分けられ、「一往在世の正宗を示す」(御書文段260頁)御文と釈されている。
▼いま与えて言って、「種子を覚知する云云」の一段を、広く成仏得脱全般に亘る原則論を述べたものと解しても、「大通前四味」などの説相からみて本已有善・熱脱仏法の領域を出るものではない。在世二乗の得脱に関する文を、そのまま本未有善の末代凡夫にあてはめて、衆生己心に覚知建立する妙法こそ真実の本尊なりと妄言を吐く彼らの言動は、あまりにも無知であり、浅識のきわみである。まさにこれ〝節〟の混乱である。
▼もし彼らが、引用文の種子とは乗種のことだと言うならば、〝末法の一切衆生に具わっている妙法〟は何時・誰によって下種されたものか。またもし「種子を覚知する」ことが釈尊仏法のみならず末法の衆生の観心まで指していると言うならば、本未有善すなわち乗種を有しない衆生が、己心に覚知すべき仏種とはいったい何なのか。
▼めめしい嫌味や空虚なあげ足とりは見苦しいだけである。これらの指摘に対して、正当な文証・道理をもって釈明してみてはどうか。いずれにせよ、川澄や在勤教師会の徒輩が、性種と乗種、本已有善と本末有善という初歩的な法門さえ、全くわかっていないことだけは確かである。 (水島)
大日蓮昭和60年3月(第469号・76~79頁)
▼内田百閒氏の随筆のなかに、こんな話があった。
三人で宿屋に泊まったとき、代金は三人で三十円だというので、一人十円ずつを女中に渡した。女中が帳場に三十円を持って行ったところ、帳場ではサービスだといって五円まけてくれた。女中は三人の所へ来る途中、こっそり二円を自分のふところにしまい込み、三円だけ返した。客は三円を三人で分けたので、十円払って一円の払い戻しになるから九円払ったことになり、三人では3×9で二十七円になる。これに女中の取った分が二円で、締めて二十九円。一円足りないが、どこへ行ったのか……。
という内容の話である。
▼この話のタネ明かしは後に述べることとするが、在勤教師会の「事の法門」に関する主張が、この話のトリックと共通する面があるので紹介した次第である。この話のどこが理に合わないのかということは、在勤教師会の欺瞞性と矛盾を指摘することによって漸々に明らかになるてあろう。
▼日蓮大聖人の仏法を事の法門と称する場合の「事」とは〝事相〟のことではなく、〝事迷〟の意味にとらねばならない、というのが在勤教師会の主張である。彼らはその根拠として、日有上人の御教示を筆記したと伝えられる『下野阿闍梨聞書』のなかの
「惣じて当宗は化儀化法共事迷の所に宗旨を立つる也」
(歴全1-397頁・傍線筆者・以下同)
の文を挙げ、当宗は「事迷の法門」であると言う。
▼この「事迷」に異常なほど執着する彼らは同聞書の
「総じて事と云ひ理と云ひ、愚者と云ひ智者と云ひ、断惑と云ひ、未断惑と云ひ、本と云ひ迹と云ひ、在世と云ひ滅後と云ふ」(同1-390頁)
の文や、
「然れば修一円因の本因妙の処に当宗は宗旨を建立するなり。はや感一円果の処は外用垂迹なり智者なり理なり云云」(同1-397頁)
と相対して説かれる用語を、すべて〝事迷〟と〝理悟〟という立て分けのなかに押し込んで、次のように図表化している。
〔事迷〕〔理悟〕
(一)○愚者・悪心 ○智者・善心
(二)○未断惑・師弟共に三毒強盛○断惑
(三)○本 ○迹
(四)○滅後 ○在世
(五)○内証本地 ○外用垂迹
▼彼らはこの図表をもとにして
「この図の示すとおり一見して事迷とは、末断惑・愚者・師弟ともに三毒強盛と、衆生凡夫の上で物事が論ぜられる世界を示し、理悟のせ界は、断惑・智者いわゆる仏・智者の世界を表していることが解る。そしてその凡夫衆生の側が本地内証・滅後種本であり、仏の側が外用垂迹・在世脱迹であるとしているのである」
と言う。
▼それにしても、ずいぶん思い込みの激しい言い分だ。彼らが図表に挙げた五ヵ条の項目に、いま敢えてそれぞれの意義を付釈すれば、(一)は衆生の機根、(二)は衆生の観心、(三)は法義、(四)は時、(五)は仏身を指していると言えよう。ところが彼らは、所化衆生に関わる機根・観心と能化の仏身・法体という全く意義の異なったものを、なんの区別もせずにごちゃ混ぜにした上、
〝凡夫衆生の側が本地内証、仏の側が外用垂迹〟
などと、いとも簡単に言ってのけるのである。全く呆れるほど幼稚で短絡的な発想だ。日寛上人は房州日我が「観心本尊」を釈して
「地涌の心法、妙法蓮華経なる処が観心なり」(御書文段198頁)
と言い、観心の二字を地涌の菩薩に約したことに対し
「観心の二字を釈せば但これ所化に約すべし、何ぞ地涌に約するや。(中略)若し観心即本尊に約せば入文の相に違うなり」(同頁)
と、衆生の観心と法体の本尊とを混同することを厳しく誡められている。
▼「事迷」という言葉は、たしかに『下野阿闍梨聞書』のなかに六ヵ所、『日拾聞書』のなかに一ヵ所見られるが、その語義を前後の文章によって検討するに、
「今時の事迷の我等凡夫の為に云云」(歴全1-394頁)
「此れは愚者事迷の直達観の妙法也」(同1-395頁)
「下種の妙法を当時事迷の我等の為に弘通し玉ふ」(同1-408頁)
などの文からも判るように、「事迷」とは末代愚者たる衆生の機根を指標する言葉であり、文字通り邪宗の徒を含めた「現実の上の愚迷者」のことである。
▼前に掲げた
「惣じて当宗は化儀化法共事迷の所に宗旨を立つる也」(歴全1-397頁)
の文意も、これだけでは〝事迷凡愚の己心に宗旨が建立される〟の意なのか、あるいは〝事迷凡愚の機のために建立される宗旨〟の意なのか、明瞭でないが、同聞書の
「当宗の宗旨を愚迷者の事迷の当体に建立するは自ら名字の初心に契当することなり。去る間本来名字即の位に宗旨を建立するにはあらぎるなり」(同1-393頁)
の文に照らし合わせて読めば、後者の意味であることは判然とするであろう。「事迷の所に宗旨を立つ」とは名字即の衆生の位にそのまま宗旨が建立されるとの意味ではなく、「名字の初心に契当すること」すなわち名字凡夫の機にかなう宗旨であるとの教示である。
▼彼らが盛んに使用する「事迷の法門」という言葉は、御書にはもちろん、日有上人の聞書などにも全く見かけないものである。だいいち「事迷」たる愚者・迷者の機根に〝法門〟などが存在するのであろうか。少なくとも法体・法義を尋究する〝法門〟の語に「事迷」を冠することは、はなはだ奇怪と言うべきである。言うまでもないことであるが、彼らの 主張する如く、愚者・迷者の機を論ずることによって文底下種の法体が顕現されるわけではない。
▼日蓮大聖人は『撰時抄』に
「仏眼をかって時機をかんがへよ」(御書836頁)
「機に随つて法を説くと申すは大なる僻見なり」(同846頁)
と仰せられ、『諸経と法華経と難易の事』に
「仏、九界の衆生の意楽に随って説く所の経々を随他意という。譬へば賢父が愚子に随ふが如し。仏、仏界に随って説く所の経を随自意という。讐へば聖父が愚子を随へたるが如し。(中略)幸ひなるは我が一門、佛意に随って自然に薩般若海に流入す」(同1468頁)
と説かれて、衆生の機によって法体が規定されるのではなく、法界真理の時を覚知された仏意が法体を説き示し、これに衆生の機が付随・信順すべきことを教示され ている。
▼さて〝一円足りない話〟のトリックは、賢明なる読者各位には既に お気づきのことであろう。客の〝払ったはずの二十七円〟とは既に他人に渡って、現在手もとに存在しないものであり、観念的な金額である。これと女中の持っている二円の現金とを同等に扱うのが誤りなのである。この話の数字を替えて考えてみれば、この点がはっきりすると思う。要するに、観念的な金額と現金とは異なった性質のものであり、これを同一線上で足したり、引いたりすることが混乱のもとなのである。もし客が払ったはずの二十七円の実体(現金)はどこかと言えば、帳場と女中の所にあるし、これに客の三円の現金を足せば三十円の現金が整うわけである。
▼在勤教師会の言い分も、能化と所化、法体と衆生、仏身と機根という全く異質の概念を混同している点で共通の誤謬を犯していることは誰人の目にも明らかであろう。しかのみならず、彼らは法体・仏意をさし措いて事迷・理悟という機情を規準にして仏法を捏ね回そうというのである。また何をか言わんやである。 (水島)
大日蓮昭和60年4月(第470号・92~95頁)
▼このノートも二十四回を数え、二周年を迎えた。ノートという気安さもあって思いつくままに拙劣な文章を臆面もなく綴ってきた。自称在勤教師会の徒が主張する邪義異説の中から、主要と思われるものの根拠について、御書と御歴代上人の指南書に随い、本宗の正義に照らしてひとつひとつ論じてきたつもりである。その間、彼らからはごまめの歯ぎしりみたいな挙げ足とりや、呻き声に似た枝葉末節の言い掛りはあったものの、正当な文証による法義の反論は全くなかった。むしろ彼らが一時さかんに喧伝していた〝歴代貫首を法主と称するのは誤り〟とか〝師弟一箇の本尊〟〝日興体具〟などの説がすっかり影をひそめたように思われる。川澄教祖がいくら御託宣を並べて笛を吹いても、弟子たちが踊るのを躊躇っているというのが現状のようだ。
▼次第に減りつつある彼らの〝邪説カラオケ〟のレパートリーの中から、今回よりは不軽菩薩に関するものに焦点を当てて、じっくりと破折を加えてみたいと思う。まず彼らの論集に掲載されている池田令道の要語解釈をとり上げる。彼は不軽菩薩を説明するに当たり、日寛上人の『末法相応抄』において要法寺日辰の『読誦論義』が破折されたことにふれている。『読誦論義』の中で日辰は、不軽にも経典読誦があったこと、不軽と蓮祖とを比較するに七異三同があることを主張するのであるが、日寛上人はこの中の不軽読誦に対しては、日辰に五失(時節混乱・次位混乱・能所混乱・信謗混乱・所例混乱)ありと論破された。しかし七異三同については全く論及されていない。
▼七異三同とは
「七異とは、一には彼は像法の末・此れは末法の初め、二には彼は初随喜の位・此は名字の凡夫、三には彼は二十四字正行・此は寿量の妙法の五字正行、四には彼は但行礼拝助行・此は広略一部助行、五には彼は杖木瓦石・此は刀杖流罪、六には彼は臨終には得聞此経六根清浄・此は名字入滅、七には彼は釈迦再誕・此は上行の再来なり。三同とは、一には彼此ともに所化の機は本未有善、二には彼此ともに三類強敵、三には彼此ともに下種の機なり」(日宗全・八巻四六六頁)
とある。
▼むろん要法寺日辰の説であるから、二十四字と但行礼拝との正助をとり違えたり、「広略一部助行」などの教義的な誤りもあって、すべてをそのまま容認できるものではないが、七異の中には御書の御文どおりに立て分けたものもあり、七異すべてを誤りと切り捨てることはできないのである。
▼ところが池田令道は、この七異が何とも気にくわないらしく、『顕仏未来記』の
「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意之同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。云云」(御書677頁)
の御文を寛尊が引用したことを盾に取って
「宗祖の金言及び寛師の解釈によれば、日辰の蓮祖・不軽の七異は、自説の一部読誦を立てる為の牽強付会に過ぎないようである」
と強弁する。
▼要するに彼は宗祖と不軽の差異を説く七異を全面否定して、宗祖と不軽は機根や行体が共通するばかりでなく、本地の内証や法体まで同等であると言いたいのである。それは彼の
「宗祖と不軽の法門的な深い関連云云」
「つまり、直接折伏を行じているのは不軽日蓮云云」
などの言葉から容易に推測できる。
▼なぜそれほど宗祖と不軽を一緒にしたがるのかと言うと、在勤教師会の主張によれば、末法の布教は謗法者を破折屈伏することではなく、相手の仏性に対して但行礼拝することが大切であり、現在のような員数の増加と勢力拡大を目的とする弘教は誤りであるというのである。これらの陰には、自らは礼拝唱題すらせずに、ただただ正法興隆を嫉み、宗門を怨んで、隙あらば攪乱せんとする川澄某の魔説が糸を引いていることは見えすいている。
▼それにしても池田令道が「宗祖の金言及び寛師の解釈によれば」と大仰に力んでみたものの、『末法相応抄』にはもちろんのこと御書にも寛尊の指南にも七異の意義を全面否定する御文はない。『末法相応抄』で寛尊が日辰を破折された結論は
「何ぞ恣に雲自在王所の不軽の読誦を引いて吾が祖の正義を破らんと欲するや」(聖典八九六頁)
という点にあることは明白である。池田令道の解釈は、良く言えば勇み足、はっきり言えば牽強付会の曲解である。
▼御書を拝するに、たしかに『顕仏未来記』(前出)の御文や、『聖人知三世事』の
「日蓮は是法華経の行者なり。不軽の跡を紹継す」(御書748頁)
の御文の如く、宗祖と不軽の共通を説くところもあるが、一方では
「不軽菩薩は『杖木瓦石』と見へたれば杖の字にあひぬ、刀の難はきかず。(中略)日蓮は刀杖の二字ともにあひぬ」(同1360頁)
と行者の受難に相違のあることを説かれ、四衆の機根についても
「彼の軽毀の衆は始めは謗ぜしかども後には信伏随従せりき(中略)当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん」(同583頁)
と、その異なりを説かれている。
▼不軽菩薩の本地について『日妙聖人御書』に
「かの不軽菩薩は今の教主釈尊なり」(同604頁)
とあり、日寛上人は『開目抄愚記』に
「不軽菩薩は釈尊果後の応用なり」(御書文段176頁)
と明示されている。まさに不軽とは、上行再誕の日蓮大聖人が建立される下種仏法ではなく、釈尊の応用として脱益仏法の領域にある菩薩なのである。この故に得益の相も
「不軽は現に六根清浄を得たり、故に顕益という(中略)末法は順逆倶にに下種の益なり。故に並びに是れ冥益なり」(同308頁)
と、厳格な隔差があることを寛尊は教示されているのである。
▼では「不軽の跡を紹継す」の御文をいかなる意味に拝すべきか。日寛上人『寿量品談義』に云く
「吾が祖大聖人は御書廿八に、日蓮は是れ法華経の行者なり、不軽の跡を紹継すとあって、全く不軽菩薩の如く折伏弘通し玉ひてあるなり」(富要10巻198)
すなわち不軽の跡とは折伏弘通の方軌を指していることがわかる。これと同じく『観心本尊抄文段』にも
「寿量品に所嘱の本尊を説き顕わし(中略)不軽品には此の本尊の末法弘通の方軌を示し、神力品には別してこの本尊を正しく本化に付し、云云」(御書文段236頁)
と指南されている。この文意を拝しても、正宗分たる寿量品所顕の本尊・本法を所持あそばされる上行日蓮大聖人の内証と、流通分として末法弘通の一往の方軌を示すために、経文に説き示された不軽菩薩-それも釈尊果後の応用の身-とは水火天地の違いが認められるではないか。
▼池田令道の言い分が振るっている。云く
「最近の傾向としては『日蓮紹継不軽跡』といっても、単なる忍難弘経の行者ということだけに力が入れられて、法門上の宗祖と不軽の関係については、全くかえりみられていないようである」
と。
〝最近の傾向〟かどうかは別として、彼の認識の傾向としては、法門上の関係を理論的に弄ぶほうが大切であって、宗祖の忍難弘教のお振る舞いの中に下種仏法の一切がましますという中心点がすっぼりと欠落しているようだ。(水島)
大日蓮昭和60年5月(第471号・102~105頁)
▼「事実は小説よりも奇なり」というが、まさかと思うような珍事件が時々起きる。新築されたばかりのマンションに引っ越してきたAさん、台所の水道の蛇口をひねると臭いのついた赤茶色の水が出たが、しばらくそのまま出しておいたところ、色も薄くなったので使用しはじめた。ところが異臭は消えるどころかますますひどくなり、しまいにはトイレの汚物まで流れ出してきた、という。このため住民のなかには下痢・腹痛を訴える者も出て、マンション中が大騒ぎになった。原因を調べたところ、配管工事の時に、下水本管に継ぐべきトイレの排水管を、誤って水道蛇口の管に接続してしまったのだそうだ。うそのような本当の話である。
▼前回でも触れた池田令道の不軽観も、この接続ミスによく似ている。彼は不軽を説明するに、「宗祖と不軽の法門的な深い関連について述べる」と前置きして、中古天台の
「本因修行とは常不軽の立行也」
(玄義私類聚・日仏全17-146頁)
「釈尊の本因の行とは不軽菩薩也」
(等海口伝抄・天全9-502頁)
などの文を列挙し、次のように言う。
「中古天台の諸書には、本因妙、釈尊の本因行などの当家の本仏・本尊論によく用いられる語が、不軽を示す語として用いられている」
と。
▼ここまでならば取り立てるほどの問題はないが、池田令道はこの中古天台の「本因行」をいきなり当宗の『化儀抄』の
「釈迦の因行を本尊とする也。其の故は我等が高祖日蓮聖人にて在す也云云」(歴全1-369頁)
の御文に関連づけて
「本因・百六箇の両巻血脈には『本因妙の行者日蓮』『本因妙教主本門大師日蓮』等仰せになられているのは周知の通りである。これらのことは宗祖が竜の口法難(発迹顕本)を境に不軽の自覚が顕著になっていることと思い合せて、当家の宗祖本仏論と不軽菩薩が密接な関係にあることをあらわしている」
と盲見を吐くのである。
▼それにしても、「本因」という言葉が同じだからといって、本門文底下種たる当宗の本仏義を論ずるのに、大聖人が
「叡山の仏法は、但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ」(御書1015頁)
と破折された中古天台の文証を引き合いに出すなど狂気の沙汰としか言いようがない。もしそのような論法が許されるならば、「本尊」の語が同じだからといって台蜜の文書に当宗の本尊を接続すれば、薬師如来や大日如来が当宗の本尊になりかねない。
▼文底下種の法休も末法の本仏をも知らない中古天台の僧侶の文を引用して、しかも脱益の領域にある不軽を文底下種の教主たる上行菩薩と同格に扱おうとする池田令道は、恐らく中古天台の漢文でも引用して新説を唱えれば学者とみなされると錯覚したのであろうが、その精神といい、論証態度といい、幼椎の一語に尽きる。引用文の接続ミス、これが第一の誤りである。
▼また、なんの論証もしないで、突然
「宗祖が竜の口法難(発迹顕本)を境に不軽の自覚が顕著になっていることと思い合せて」
などと訳のわからない我見を吐くのもいただけない。念のために注意しておくが、この文章は「宗祖が」「自覚が」と二つの同格の主語が入り組んでいて、わかりにくい、というより文体をなしていない。また〝宗祖が自覚した〟のか〝不軽が自覚した〟のかも曖昧だ。文章作法の初歩からやり直す必要があろう。
▼それはさておき、当宗において竜の口法難の意義は、日寛上人が
「蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、云云」(御書文段167頁)
と御指南されるように、名字凡夫の宗祖の御身が元初自受用身と発迹顕本されたと拝するのである。これに反して不相伝の他門日蓮宗では〝竜の口法難によって凡夫日蓮が上行菩薩と開顕した〟と見るのであるが、池田令道はなんと〝竜の口を境に不軽の自覚が顕著になった〟と言うのだから噴飯ものだ。元初自受用身・無作三身と開顕あそばされる御本仏が、今さら脱仏の応用たる不軽のなにを自覚されるというのであろう。元初仏として顕本されるところを、身延派以下の不軽自覚などの説に堕したところが第二の接続ミスである。
▼のみならず、彼はこのあとでは
「宗祖は、不軽の跡を紹継する自覚に立って宗旨を建立された」
とも言う。宗旨建立と竜の口法難ではずいぶん間があるが、いったいどこがどう違うのか、また何が言いたいのか、はっきりした根拠もない現在のところは、単なる思いつきの戯言と断定しておく。
▼さらに池田令道は不軽菩薩と大聖人について、次のように言う。
「当家の本仏論はよく、上行日蓮の辺から展開されるが、上行菩薩は三秘所持の人ではあっても、それ自体に動きを伴うことは考えづらく、体用でいえば、体の存在であるといえる。故に、上行が直接表にでて折伏を行ずるということはなく(中略)直接折伏を行じているのは不軽日蓮であり、当家の下種仏法・逆縁成仏もこのあたりから、説き起されているようである」
と。
▼ここで彼は、自らの浅識と無知を露呈する誤りを犯しているので、主なものを挙げてみよう。まず〝上行菩薩に動きが伴わない〟とは変な言い掛りだ。法華経涌出品に現れた上行菩薩は、末法を予証するために応現した日蓮大聖人の仮りの姿であることを忘れてはならない。上行菩薩が奮迅の活躍をされる時は末法であり、所は娑婆日本国である。脱仏の化導の時に虚空会あたりに姿を見せたからといって、自ら弘教したり、難に遭う体験などされる必要がないのは当たり前である。この筋目をはき違えて「動きが伴うことは考えづらい」と言う池田令道は、明らかに末法に拝すべき上行菩薩の化導を、法華経の文相だけで判断しているのである。これが第三の接続ミスである。
▼次に〝上行が折伏を行ずることはない〟というのも奇怪千万だ。『曽谷殿御返事』の
「上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の古稿の衆生に流れかよはし給ふ」(御書1039頁)
の聖文を拝すれば、上行菩薩が末代悪世の衆生に妙法を弘通されることは明白ではないか。「末代悪世の枯槁の衆生」が摂受の機か、折伏の機か、今さら論ずるまでもあるまい。また「上行の再誕日蓮」(聖典八三九頁)の指南どおり、上行菩薩と大聖人とは一体不二である。それを〝大聖人は折伏を行じたが、上行は折伏を行じていない〟と考えるは、法門が全くわかっていない証拠である。間違ってはいけない、大聖人の忍難弘教と破邪顕正の闘いはそのまま上行菩薩のお振る舞いでもあったのだ。上行は折伏を行じていないと言うのが第四のミス、大聖人と上行を別々に切り離して論ずるところが第五のミスである。
▼「直接折伏を行じているのは不軽日蓮」というのも誤りである。考えてもみたまえ、現実に末法に出現し、大難のなかで折伏を行じられたのは不軽菩薩ではなく、上行日蓮大聖人ではないか。たしかに御書のなかには
「彼の不軽菩薩、末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(御書778頁)
と仰せられているが、だからといって不軽菩薩が末法に出現したなどと早合点してはいけない。これは大聖人が、末法弘通の方規と不専読誦の行法を強調するために、謙譲の意から不軽の名を挙げて仰せられた御文と拝すべきである。日興上人『五人所破抄』に曰く
「夫日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり(中略)今末法に入っては上行出世の境、本門流布の時なり」(同1876頁)
と。拳々服鷹すべき御指南である。末法出現の弘通者を取り違えたところが、池田令道の第六のミスである。
▼マンションの配管ミスならば下痢・腹痛でことは済むが、仏法上の接続ミスや曲解は、そのまま堕在泥梨の業因となる。涅槃経に曰く
「悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る。是の悪象等は但身の怨と為る、悪知識は善法の怨と為らん。是の故に菩薩常に当に諸の悪知識を遠離すべし」(同149頁)と。 (水島)
大日蓮昭和60年6月(第472号・86~89頁)
▼自称在勤教師会では、折伏について
「布教方法としての折伏は、宗祖が『日蓮は不軽の跡を継承す』と言われたように、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる不軽菩薩の行をもってその手本とする。
不軽品には、不軽菩薩が一切衆生を尊重し讃嘆して、値う人ごとに『私は深くあなた方を敬います。けっして軽慢いたしません。なぜかならばあなた方は正法を信じ菩薩の道を行じて必ず仏になるべき方々だからです』と言って手を合わせ礼拝し、衆人がかえっていぶかしがって石を投げ、杖木で打ってもなお、走り去って遠くより声高にこの言葉を繰り返したことが説かれている」
と主張する。(傍線筆者・以下同)
▼これに対して昭和五十六年八月の全国教師講習会の折 、御法主日顕上人は
「では不軽菩薩の行った形をそのまま、今の末法の時代でやれるのか、また日蓮大聖人の化儀・化法からいってそのようなことが良いのか悪いのか、よく考えなければなりません。しかも、不軽菩薩のように二十四字をもって町で人々を礼拝するのか。だれもそのようなことをやっていないではありませんか」
(大日蓮・S56・9月号21頁)
と明快に破折なされた。
▼「信とは随順を以て義と為す」(御書文段654頁)
とは日寛上人の御教示であるが、唯授一人血脈付法の御法主上人の御指南に対し奉り、信服随順して奉公申し上げることが、日蓮正宗僧俗の七百年の伝統であり、信心である。しかるに愚癡蒙昧の彼らは、完膚なきまでに破折されているにも拘らず、いまだにわけのわからない理屈を並べている。もはやとり合う必要もないが、ことのついでに彼らの錯乱ぶりを紹介し、その迷妄を断破しておこう。
▼まず川澄の言い分。彼は日顕上人の御指南に対して
「不軽は二十四字をもって町の人々を礼拝することのみに限定して考えているようであるが、誠にお粗末といわざるを得ない」
と言い、〝不軽の行〟は二十四字や但行礼拝に限られるものではないと言う。しかし冒頭の在勤教師会の説は川澄の意を受けて書かれたものであろう。そこには「不軽菩薩の行をもってその手本とする」と明言し、ご丁寧に不軽の行相として二十四字と礼拝行の説明までしているではないか。
▼「誠にお粗末」なのは、今時二十四字と礼拝行を手本とする在勤教師会であり、破折されるや自説を翻えして〝不軽行は二十四字と礼拝行に限らない〟などと言い逃れを吐く川澄自身である。不軽の行が二十四字と礼拝行のみに限定されないというならば、川澄の言う不軽の行は一体なにを指しているのであろう。まさか「雲自在王所の不軽の読誦」(聖典896頁)や川澄の己心の不軽などを持ち出すわけでもあるまい。あやふやな思いつきなどではなく、適格な文証をもって説明してみてはどうか。
▼次に在勤教師会の論集、といっても我見妄説の寄せ集めにすぎないものだが、それには日顕上人の御指南を引用して次のように妄見を吐いている。
「『不軽菩薩の行法を行っていくことが慈悲の折伏だと言うのです(中略)また日蓮大聖人の化儀・化法からいってそのようなことが良いのか、悪いのか』(21頁)
これにはいささか驚かされました。宗祖の御一代は『日蓮は是れ法華経の行者なり、不軽の跡を紹継す』(新定2-1091)の御文をまつまでもなく、不軽の行を行体の上に顕わされております。御自らも、『日蓮は即ち不軽菩薩為る可し』(新定1-728)と仰せられ、門下にも、『末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ』(新定3-2216)と厳命されました」
と。
▼彼らの主張内容もさることながら、引用のしかたがまず問題である。この文章は、日顕上人のお言葉を「そのようなことが良いのか悪いのか」で切って、その後の「よく考えなければなりません」の部分を切り捨てているため、一見するといかにも日顕上人が是非を決しかねているように思わせられる。誰が書いたものか知らないが、在勤教師会と称する若者らしくない狡猾で卑劣な引用手段である。このような手段を〝切り文〟という。
▼同文中の「日蓮は即ち不軽菩薩為る可し」の御文も切り文である。この文だけを見ると、大聖人が御自ら不軽菩薩なりと仰せられているように思われるが、御書を拝すると
「過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来は不軽品たるべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし」(御書486頁)
とあり、「其の時は」すなわち〝未来において〟という仮定の上で仰せられた御文であることがわかる。したがってこの御文は、彼らが意図する〝宗祖即不軽〟の文証というより、むしろ〝末法の宗祖は不軽菩薩ではない〟ことの文証となるであろう。
▼次の「末法には一乗の強敵充満すべし云云」の御文もとり立てて不軽の行を行ずべきことの文証とはならない。「不軽」とあるから引いてみたというところであろう。いずれにしても彼らのような都合勝手な切り文は、議論以前に自らの非を何とかごまかそうとする卑怯者のすることであることを知らねばならない。
▼彼らの言う〝不軽の行〟が何を指しているのかというに、引用の次文に
「これは不軽の礼拝行を折伏行ととり云云」
と記しているところから見て、「不軽の礼拝行」の意味と思われる。したがって彼らの言わんとするところは〝宗祖の御一代は不軽の行すなわち礼拝行を行体の上に顕わされた〟ということになる。しかし大聖人は『新池御書』に
「人の子として我が親を殺したらんものの、我に物を得させんに是を取るべきや。いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし」(御書1458頁)
と謗法者の供養を受けることを誡め、与同罪を固く禁じられているのである。その大聖人が御自ら道行く邪宗謗法の徒を深く敬って礼拝などをされるわけがないではないか。
▼同論集には、さらに続けて
「これは不軽の礼拝行を折伏行ととり、それを当家の受持正行にあてたのであり、当家の折伏行は妙法の受持正行といえるものです」
と言い、その文証として日有上人『化儀鈔』の第三十五条
「法華宗は不軽の礼拝一行を本となし受持の一行計りなり、不軽は威音王仏の末法の比丘、日蓮聖人は釈迦仏の末法の比丘なり、何れも折伏修行の時なり云云」
の文を挙げている。
▼しかし彼らの文証解釈は明らかに間違っている。その理由は後にゆずるが、当宗において不軽菩薩を例証として用いる所以はひとつに限らないのである。不軽の例を挙げて、あるときは五種行の中の四種を簡んで受持一行を強調し、あるときは摂受を簡んで折伏逆化を勧め、あるときは安楽行を簡んで受難忍辱を示し、また本已有善の機を簡んで本末有善の機を明かすという具合いに、所対に随ってその意味は異なるのである。しかも最も大切なことは、法華経所説の不軽菩薩が末法の御本仏日蓮大聖人の御化導のための助証として援用されることはあっても、大聖人の教義や行体を規定したり制約すべきものではないということである。ましてや末輩が不軽の行相を勝手に解釈して、御法主上人の御指南に敵対し宗祖の仏法はこうあるべきだなどと喋喋することは愚かな思い上りの行為としか言いようがない。
▼彼らが引用している『化儀抄』第三十五条の文意は、同抄の第百十九条の
「一、法華経を修するに五の様あり、夫れとは受持・読・誦・解説・書写等と云云、広して修するは像法の読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根気極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり」(聖典九九七頁)
の文と照らし合わせて拝すれば、自ずと明白であろう。すなわち末法当機の修行は五種の中の受持一行であり、この〝証人〟として不軽を挙げると説かれているのである。
▼ところが彼らは受持一行の修行と折伏行とを混合して「当家の折伏行は妙法の受持正行」と曲解し、〝折伏は化他ではなく、員数増加・勢力拡大を旨とするものでもない〟と妄言を吐いている。これは宗祖大聖人の
「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(聖愚問答抄・御書403頁)
との御聖文に背反する邪義であることは論ずるまでもない。
▼また、もし彼らが〝末法の布教は不軽菩薩の行軌に従わなければならない〟と考えているならば、日達上人の
「不軽菩薩の法華経の弘経は礼拝一行で摂受を表とし、折伏を裏とした修行であります。宗祖大聖人の法華弘経は、折伏を表とし、摂受を裏とした末法の修行であります」(日達上人全集・一輯4巻531頁)
との宗祖と不軽の相違を示された甚深の御指南を塾拝すべきである。
▼いずれにせよ、血脈付法の御法主上人に背逆し、無道心の川澄に追従して羞じない彼らの狂った精神構造が、そのまま末法の御本仏日蓮大聖人の御教示を軽視して中古天台ばりの不軽本因説を立て、七百年間の血のにじむ如き折伏逆化の苦闘を無視して不軽の礼拝行に秋波を送るという前代未聞の邪見に繋がっている事実を、我々はしっかりと見すえておく必要があろう。彼らの言うこと、なすことすべてが当宗の本義と信仰に逆行している。これを顛倒の衆生というのである。 (水島)
大日蓮昭和60年7月(第473号・82~86頁)
▼ある時、十人の仲間が集まって「人間は他人に寛容であるほうがよいか」というテーマで討論した。議論を尽したのちに賛否をとったところ、九人までは賛成したが、最後の一人が反対を唱えた。九人の仲間は、最後の一人に反対の理由を質したが、彼はともかく反対だと言い張るばかり。それでも九人は様様に説得したが、彼は頑として耳を貸そうともしない。しびれを切らした九人は、とうとうその一人を袋叩ききにしてしまったという。
▼言うことと行動がなかなか一致しないところが人間の性なのかも知れないが、この九人の言行不一致の話は、おかしさの中に人間のもろさを風刺しているようだ。とは言っても言行不一致があまり極度に昂進すると、誇大妄想や精神分裂などの精神的疾病を惹起することになるのであろう。
▼過去三回に分けて自称在勤教師会の不軽菩薩観を破折してきたが、今回はその締めくくりとして、自称正信会の不軽本因説を取り上げてみたい。『正信会報』第三十一号の「法門拾遺」なる欄を見ると
「当家の宗祖本仏論は不軽菩薩と密接な関係があると知れるが、かつて阿部師は『今の時代不軽の行というそんなものができるか』と不軽の行である本因修行を捨てた。不軽の行を捨てて、いくら自分等は真実の道を実践していると言われても、最早宗祖の妙法とは関係なく、他門や新興宗教家の言う平和運動と左程変わらず、掛け声だけが妙に響いてくるだけである」(傍線筆者)
と主張している。この記事には記者の名が付されていないところを見ると、個人の所感ではなく、正信会の主張とみなすべきであろう。
▼前回で紹介したように、日顕上人は
「では不軽菩薩の行った形をそのまま、今の末法の時代でやれるのか(中略)不軽菩薩のように二十四字をもって町で人々を礼拝するのか。だれもそのようなことをやっていないではありませんか」
と御指南された。しかし彼らが引用する如き「そんなものができるか」などとは一言も仰せられてはいないのである。これは彼らが勝手に下品な言いまわしを捏造して、日顕上人のイメージダウンを計るつもりなのであろうが、引用文ならば引用文らしく正確に記述しなければいけない。
▼それはともかく、日顕上人が〝不軽菩薩の礼拝行は末法の修行ではない〟と御指南されたことは明白な事実である。これに対して彼らは「不軽の行である本因修行を捨てた」と言い、「不軽の行を捨てて、いくら自分等は真実の道を実践していると言われても、最早宗祖の妙法とは関係なく云云」とまで非難しているわけである。この一事をもってしても、いかに彼らが不軽の礼拝行に執着し、その実践を重要視しているかがわかろうというものだ。
▼時代を遡れば、平安時代から鎌倉時代初期にかけて、叡山の法華信仰のひとつとして、不軽品の影響を受けた礼拝行が流行したという。たとえば建保七年(1219)に慶政によって記された『続本朝往生伝』には
「比丘尼妙縁は(中略)後に道心を起し、飾を落して道に入る。都鄙を歩行して常に常住仏性の四字を称え人に仏事を勧む」(日仏全107巻32頁)
とある。
▼また承久四年(1222)に、慈鎮あるいは慶政の作と伝えられる『閑居友』には
「中頃東のかたに、歳いと長けたる聖の、いひしらず汚なげなるが、髪長く着物汚れたるありけり、見と見る人を拝みて、我深敬汝等、不敢軽慢、所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏の文をなん唱へける」(桜楓社版校本六二頁・漢ルビ筆者)
とあり、『日本仏教の開展とその基調』には
「当代この種の事例はなはだ少なくないのであって、いはゆる不軽行は、一種の流行をなすと称してもよい云云」(上巻48頁)
と説明している。
▼これらの修行は、末法の御本仏日蓮大聖人が御出現されたのちにおいては、像法過時の邪行であることは言うまでもないが、それでもなお彼らがどうしても礼拝行に執着するならば、前例もあるわけだから正信会の修行として自ら実行してみてはどうか。他を責めるのは、そのあとの話である。恐らくは
「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(御書1370頁)
の御聖意に背く大罪となり、現罰を蒙るのが落ちであろうが。
▼それにしても、不軽の行が本因の修行であるとの説は、いったい何宗のものなのか。たしかに中古天台の『玄義私類聚』や『教観大綱』などの書には、不軽行を本因行と立てる記述もあるが、少なくとも当宗七百年の法門に、不軽の礼拝行を本因の順行とする教義は存在しない。彼らは明らかに中古天台の片言隻語を受け売りして、正宗教義を批判し、御法主上人に敵対しているのである。それほど中古天台に魅せられているならば、実体とかけ離れた「正信会」などの名称をやめて、「日蓮宗中古天台派」とでも名乗ったほうが、よほど傍目にもわかりやすい。
▼ちなみに、不軽菩薩が修行された時期について触れておこう。『法華文句』巻九には
「法華に遠を開き畢んぬ、常不軽なんぞ更に近き、まさに知るべし法華已後の方便なり」(学林版文句下・五七四頁)
との一文がある。この文は、久遠を開顕したのちに、さらに不軽菩薩という近事を説くのはおかしいではないか、と質問をしたところのものであるが、ここに不軽が久遠を下ること遥かな近事であることが示唆されている。
▼また叡山の貞
舜が著した『宗要柏原案立』には
「根本大師は、『吾が此の法華宗は久遠実成の道、釈迦牟尼仏実報土中の説なり。微塵劫の中に垂迹してに而も示現す。大通智勝仏の時、二萬億仏の時、燃燈佛の時、不軽菩薩の時、八千返出現して種々の結縁をなす』と」(国訳一切経諸宗部一九巻五八頁・傍線筆者)
とあり、伝教大師が、不軽の時期を大通仏はおろか、二萬億仏・燃燈仏より已後と順序づけていたことがわかる。
▼日蓮宗八品派の慶林坊日隆などにいたっては
「威音王仏は猶ほ大通已後なり、何ぞ威音王仏の滅後流通遺附の不軽大士計り本実成の前の本因妙の行因なりと云ふべけんや」(本門弘経抄10巻386頁)
と明快に不軽本因行説を破折しているのであるから、あまりみっともない低級な我見は吐かぬことだ。老婆心ながら一言忠告しておく。
▼では当宗で言う本因妙の修行とは何かと言えば、日蓮大聖人が
「本因妙の行者日蓮」(御書1676頁)
「本因口唱の勝るゝ南無妙法蓮華経」(同1701頁)
と御教示あそばされ、日寛上人も
「問う、釈尊は久遠五百塵点劫の当初、何なる法を修行して妙法当体の蓮華を証得せしや。答う、これ種家の本因妙の修行に由るなり。前文に云わく『聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果倶時に感得し給ふ』[695](中略)『修行』等とは、修行に始終有り。始めは是れ信心、終わりは是れ唱題なり」 (当体義抄文段・御書文段634頁)
と御指南されるように、本因妙の教主日蓮大聖人が御図顕あそばされた戒壇の大御本尊を信じ、唱題する以外にないのである。
▼〝不軽の行を捨てると、宗祖の妙法と関係なくなる〟という理屈も異様だ。さらに奇怪なのは、不軽の修行に固執しながら、怨念と我執をもって宗門を中傷し、創価学会を非難している彼らの言動である。この姿はどうみても不軽菩薩の振る舞いではなく、不軽喬毀軽毀の四衆そのものである。これこそ笑い話にもならぬ自己矛盾であり、言行不一致のきわみと言うべきである。
▼宗門七百年の教義に背反し、唯授一人の血脈相承を誹る彼らは、まさしく
「彼の時の四衆(中略)は、瞋恚の意を以って、我を軽賤せしが故に、二百億劫に、常に佛に値わず、法を聞かず、僧を見ず。千劫阿鼻地獄に於て、大苦悩を受く」(開結504頁)
と説示された大謗法の徒輩であることは間違いない。
▼教義にないことをあると言い、自分達すら行わない礼拝行を他人が行わないといって非難攻撃する彼らの言行不一致は、もはや完全に精神分裂症と言ってよいであろう。精神分裂症のなかでも、彼らの症状はパラフレニーと思われる。パラフレニーとは、喜怒哀楽や怨嫉・憎悪などの感情は常人なみに反応するが、幻覚と妄想が甚だだしく、正常な現状認識ができない症状を言う。
▼幻覚と妄想といえば、正信会のなかには「将来、自分達は大石寺に復帰できるのだ」とか「復帰したときは我々だけ二階級特進だ」などと本気で信じている者が数多くいるそうだが、これなど幻覚・妄想の最たるものであろう。やはり正信会はパラフレニー症候群の集団と化している。(水島)
大日蓮昭和60年8月(第474号・82~86頁)
▼待望の布教叢書『正しい宗教と信仰』-折伏弘教の手びき-が発刊された。この書は、当委員会が総力を挙げて作製に当たったものであり、大石寺開創七百年を控えた現今において、新たな広布の戦いに格好の布教書になることを信じてやまない。〝時局法義〟の名を付けられた当委員会は、正信会や在勤教師会の異説を破折することも目的のひとつであったが、それ以上に新時代に対する布教と興学が最大の眼目であった。その意味で、この布教叢書の発刊は、当委員会にとってひとつの節目を刻むものといえよう。
▼時の流れは、新時代に向かって静かに、しかも着実に進んでいる。妙法広布の流れも、御法主日顕上人の御威徳と御指南のもとに、僧俗和合の実を挙げつつ、大きく展開しはじめている。それはもはや部外者となったひと握りの徒輩にかかわり合っている時ではなくなったことを示唆している。したがってこのノートも、布教叢書の発刊を契機として、ひとまず区切りをつけることにしたい。
▼彼らが主張する邪説の本賀的な部分に対しては、日顕上人の御指南によって徹底的に破折し尽くされている。当委員会では、日顕上人の御指南を拝しつつ、彼らの主張の部分部分を洗い直し、引用文や論述の矛盾、誤解誤読を各論的に指摘してきた。その過程でとり上げられた邪説性と破折を要する条項は、膨大な数にのぼった。
▼その中で、彼らの主張の骨子となる大衆血脈論や三秘相即論、流転門還滅門説、貴族仏教民衆仏法論などは、目顕上人の御指南で幾度となく破折されており、さらに大村教学部長や当委員会の各師によって破折された事項であるため、重複を避けあえて当ノートではとり上げなかったことを付記したい。
▼今回は、全体的なしめくくりとして、なにゆえ在勤教師会ひいては正信会の徒輩がかくも極端な邪義異説を吐くことになったのか、という点について一考してみたい。いうまでもなく在勤教師会の主張は、川澄勲という無道心者の考えそのものであり、川澄の思想を受け売りしているにすぎない。この川澄は一時期日達上人より、総本山にある古文書の解読と整理を託されていたことがあった。日達上人は、当時の宗門がきわめて人手不足であったため、正宗信徒でないことを危惧されつつも、あえて川澄に古文書解読を托し、同時にその技術を若手僧侶に教授するよう取り計られたものと思われる。端的に言えば、日達上人は川澄の古文書解読という職人的技術を買われたのである。
▼しかし川澄は、いつしか自らの職人的技能者という立場を忘れて、御先師の文書を自分だけが知っていることを鼻にかけはじめ、ついには法門の批判までするようになった。筆者も何度か川澄に会い、彼の話を耳にする機会があったが、その都度、彼の態度に疑問を感じたものである。ある時、お目通りの折、日達上人は川澄のことにふれて「古文書を解読してくれれば、それでよいのに、一部の文書をふり回して勝手な考えを吹聴したり、宗門批判をするのは困ったものだ」と嘆かれていた。
▼川澄も日達上人の御意のままに黙々と古文書解読という職人的下請け作業に徹していれば、宗門興学の一端に貢献し、一分の功徳を積むことができたのであろうが、哀れれなことに彼の性格はあまりに傲慢・怨嫉(おんしつ)の念が強すぎた。それゆえに彼はついに御本尊を礼拝することも、唱題することもできなかったのである。また無道心なるがゆえに、古文書解読がそのまま法門を会得することになると錯覚したのであろう。
▼たしかに御先師の古文書には、それなりの御指南がなされているが、それはあくまでも宗祖大聖人の御書を超えるものではないし、ましてそれをもって時の御当代上人を批判すべきものではないのである。末代衆生の成仏は
「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(御書1702頁)
との御金言のごとく、唯授一人血脈付法の御当代上人の御指南に随順し奉るところに存するのであり、御書や御先師の文書の真意も、この師弟の筋目によって、はじめて正しく理解できる、というのが当宗七百年の信仰であり、伝統なのである。
▼また、日蓮が弟子たる者の最大事は、大御本尊を信受し、自ら唱題するとともに折伏逆化に邁進することであり、これを実践する人こそ、年齢や身分をこえて最尊最勝の人なのである。それを、少しばかりの学問的技術や古文書解読の能力を有していることを鼻にかけて、唱題折伏に励む清信の人々を見下すことは、まさに悪鬼入其身の所業というべきである。
▼これは川澄ひとりに限らず、在勤教師会の者たちにもいえよう。彼らは宗祖大聖人の真意も知らず、血脈相承に随順することを忘れ川澄の我見を粉飾することと自らの非を自己弁護するために、唱題行を軽視し折伏行を非難し広宣流布を空想化して、これらはすべて現実の相ではなく己心に納まるべきものだ、と珍無類の邪説を立てたのである。
▼彼らの立論方法の特徴は、まず川澄の思いつきを結論として導くために、切り文やすりかえを弄すて、一方的・短絡的な論述を施すことである。その中で、いちおう文証を挙げる場合もあるが、導くべき結論が正宗教義にないものであるため、文証を原文の意味と取り違えて用いなければならなくなり、本当の意味の文証としての働きをなしていないこともひとつの特徴である。さらに当然のことであるが、結論となる彼らの主張点をそのままはっきり表示される御書や御先師上人の文証が全く存在しないことも大きな特徴といえる。
▼大聖人が
「普賢・文殊等の等覚い已還の大薩埵法門を説き給ふとも、経文を手に把らずば用ゐざれとなり。天台大師の云く『修多羅と合する者は録して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず』文」(御書389頁)
と仰せられ、日寛上人も
「文証無きは悉く是れ邪偽なり」(聖典861頁)
と教示されているように、宗義を論ずるときは経論や御書をもって論証することが基本原則なのである。ところが彼らは、正宗の教義にない珍説を吐きながら論証の過程での引用文もデタラメであり、結論そのものの文証を全く挙げないのであるから、なにをか言わんやである。
▼一例を挙げると、彼らは〝戒壇の御本尊は遥拝すべきものであって、現在のように御開扉によって直拝することは誤りである〟と言う。この珍説を説明するために、彼らは日達上人の
「大御本尊は客殿の奥深く安置するという相伝があります」(達師全第1輯3巻394頁)
とのお言葉を引用し、さらに天台大師の
「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり」(御書1852頁)
の文を、〝三秘相即の本尊とは、本地内証に蔵されているとの意である〟と解釈して、引用している。
▼しかし、日達上人は、同じお言葉の中で
「大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは、信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです(中略)ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります」(達師全第1輯3巻394頁)
と仰せられているように、遙拝でなければいけないとか、直拝がいけないなどと説かれているのではないのである。
▼天台大師の文も、彼らは甚しい曲解をしている。〝御本尊(妙法蓮華経)が本地内証に蔵されている〟のではなく、〝妙法の当体に本地内証の一切が蔵されている〟と読まなければならないのは、わかりきったことではないか。しかも彼らは、結論となる〝直拝は誤り〟の証拠となる明文は一切引用できないのである。前代未聞の珍説なれば、なおのこと明確な文証がなければならないのではないか。むしろ日寛上人は
「心に本尊を信ずるは意業の供養なり。口に妙法を唱うるは口業の供養なり。身に曼陀羅を礼するは身業の供養なり」(御書文段693頁・傍線筆者)
と仰せられ、曼陀羅を礼拝することを教えられている。
▼ことほどさように、彼らのいうこと為すこと、すべてが邪偽の論なのである。同様に正信会の言動も乱脈をきわめている。たとえば、大部分の正信会の徒が窮乏生活に追いやられている中で、議長の渡辺広済は四千万円以上の私邸を建てていたことを裁判で暴露され、本人もそれを認めている。また継命なる機関紙の無責任な報道も目を覆うばかりである。これらの実状は、将来必ず逐一露見していくことであろう。その意味では、自らの慢心と信心の狂いから我が身を滅ぼし、他を悪道に引き込む彼らに対して、今後も必要とあらばいつでも鉄槌を加える用意があることを申し添えておきたい。
▼宗門は大石寺開創七百年の慶事を控え、大御本尊の加護を受け、御法主日顕上人の御教導のもとに挙宗一致して、世界広布の大道を爽やかに力強く前進している。もはや謗法在俗の身となった正信会や在勤教師会の徒輩がいかに悪態をついたところで、宗内僧俗には全く痛痒を感じない状態になっているし、彼らにかかわり合っている時でもなくなっている。「去る者日々に疎し」の言葉どおり、彼らは宗門から日一日と忘れ去られてゆくのみであり、彼ら自身も、根を断ち切られた野辺の草のごとく、入阿鼻獄の狂態をくりかえしながら自然消滅の道をたどることであろう。 (水島)
大日蓮昭和60年9月(475号・70~74頁)