時局法義研鑚委員 山田亮道
はじめに
『論語』の述而(じゅつじ)篇の冒頭にある「述べて作らず、信じて古を好む」との言葉は、孔子が自らの学問の態度について、先人の学問を祖述するだけで、新たな創作をしないのは、古代を信じ、かつ愛好するからであると晩年になって述懐されたものであると言われる。
この文を、日寛上人は『法華取要抄文段』において、さらに深い意味から取り上げられている。すなわち
「論語第四初に云く『子日く、述べて作らず、信じて古を好む』。註に云く『述は旧を伝うるのみ。作は則ち創始なり。故に作は聖人に非ずんば能わず。而して述は則ち賢者も及ぶべし。孔子は皆先王の古を伝う、末だ嘗て作る所有らざるなり。其の事は述と雖も、而も功は則ち作に倍せり。知らずんばある可からず』已上。
蓮祖もまた爾なり。皆久遠名字の妙法、塔中付嘱の要法を伝う。豈先王の古を伝うるに非ずや。故に『日蓮之を述ぶ』というなり」(文段集553)
との仰せがそれである。
徒に新奇を好み、前人未踏の分野のみを追いかけたり、反対に、先人の跡を安易に踏襲するだけの凡庸の学者とは違い、古を学び尽くし、その法制・伝統を知り早くした上で、それを時代に適応・展開させながら人倫の道を縦横無尽、に説き出した孔子と、宗祖日蓮大聖人とがどのように結びつき、「蓮祖もまた爾なり」と仰せられたのか、その深意のほどは凡愚の私にはとうてい計り知ることはできないにしても、この文からは、私なりに多くの示唆を感ずることができたような気がするのである。
蝙蝠論法について
先回(当誌7月号)も取り上げた『正信会報』第26号に所載の3者の論文を一読して感じたことを重ねていえば、これは蝙蝠のような論法ではないかということであった。
それとは『妙密上人御消息』に
「例せば外道は仏経をよめども外道と同じ・蝙蝠が昼を夜と見るが如し」(全集1239)
と仰せられていることに、まさに符合するからである。彼等にかかると、御歴代上人の御指南のいくつかは、彼等の最も得意とする二重構造の邪義に見えてしまうらしい。
その二重構造とは、宗旨分と宗教分、内証・己心と外相、流転門と還減門などと名付けた二つのものに立て分け、使い分けることであり、その二つのものの中で、より重要な一方を等閑にする現宗門の在り方は、教義の解釈においても、布教・教化の活動面においても、富士の立義に全く違背していると言うのである。
そして、その見方を正しいと信じているかぎり、蝙蝠が昼を夜と見るが如く、正邪を顛倒して現宗門を誹毀讒謗する彼等の言動は止むべくもないであろう。
したがって、具体的な破折に入る前に、彼等が何故にかくなる誤りに陥ることになったかの経緯について一考してみたい。
本宗においては、聖滅七百余年の今日に至るまで、二祖日興上人の
「富士の立義柳も先師の御弘通に違せざる事」(同1617)
との御遺誡の精神を宗是として、大聖人の仏法は血脈付法の御歴代上人によって厳正に護り伝えられている。しかし法を弘める上においては、根本の元意・本義をいささかも変ずることなく、その時代、時代に応じての必要から、時世に適応するさまざまな形で、大聖人の仏法の法義・法門を表現・展開された御歴代上人がおられたことは、近年しばしば、日顕上人が御指南あそばされているところであり、そのことはまた、はじめに挙げた『取要抄文段』の文においても、まことに明らかに示されていると拝されるのである。
したがって、今日の宗門がいまだかってないほど多数の信徒を有するに至ったのは、世上のめまぐるしい変化に対応して、現実の社会や、個々の人々がかかえている諸問題に対して、正しい解決の方途を積極的に示す意味において、これまでのどの時代よりも、本宗の伝統法義・法門を現実のさまざまな面に応用・展開して、布教や指導を行ってきた僧俗一体の活動があったからであると言えよう。
もちろんなかには、その現実に対する応用・展開を快く思わない批判的な僧侶や、そういう僧侶に不信感を抱く信徒達がおった、などの諸問題があったことはたしかである。そうして僧侶と信徒との間に昂(こう)じた、宗内の不協和に対して御先師日達上人は、一貫して本宗の信心の基本を逸して伝統法義の解釈をしたものや、行き過ぎた応用・展開をなしたものについて指摘され、その部分を改めなければ本宗の正しい信心の道から逸脱してしまう旨を御指南あそばされたのである。
その間さまざまな経緯はあったにしろ、御法主上人に全て随順し奉るという信徒側の恭順な姿勢によって、この問題は日達上人によって一往、終止符が打たれたのである。
『生死一大事血脈抄』に
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(同1337)
と仰せの御聖訓を戴くわが宗門にあって、その僧俗が互いに信じ合うことができず、しかも一時的・部分的ではあったにしろ、互いに批判し反目し合う時期があったということは、宗門にとってこれ以上の悲しみと不幸はなかったと言えるのではあるまいか。
その責任の一端もしくは全ては、僧侶たる我々の側にもあると自覚し、反省の念を持っていた僧侶達にとっても、また何が何やらわからず戸惑っていた信徒達にとっても、日達上人の最終的な僧俗和合のための御指南は、どれほど有り難く受け止められたか知れない。
不信や反目の要因を除去し、信じ合い協調する方向に進もうとする時に、いきがかりを捨て切れず、その流れに棹(さお)をさす者は、世間にあってもへそ曲り・愚か者と評されよう。まして、異体同心の御金言を常に忘れてならない宗門に身を処する者は、なおさらである。
しかるに今、自ら正信会と称して悪口誹謗を重ねている輩でさえ、日達上人御遷化のころまでは、その最終的な御処置に対して、不満を抱きながらも渋々従っていたのは、時の御法主上人の御指南に随順する布教・教化の活動にこそ、その正しさがあることを認めざるを得なかったからである。
それが一転して、御当代日顕上人の時に至り、彼等が今日の謗法集団に暴発して行くため、その理由づけとしたのは、初めは、同じ二重構造といってもより単純なもので、御法主上人に随順するという恭順な姿勢そのものが建て前のポーズであり、本音・本心は別のところにあるとの邪推を信徒側に押しつけ、それにだまされないための活動であるとの口実をもうけて、ひそかに御法主上人の僧俗和合の御指南に逆らっていたのである。
その後に台頭してきたのは、川澄勲の『阡陌渉記』にその原形が見られる、彼の独創による「大石寺法門」と称する、二重構造を持った邪説である。この川澄に影響された在勤教師会と自ら名乗るグループによって、それがさらに拡大解釈され、富士の立義の全てはその二重構造の意義を持つ法門・法義であるとの邪見を育てあげたのである。
しかし本来の富士の立義には、本地内証と垂迹外用、文上と文底、付文と元意等の種脱の勝劣を判ずる法門があり、その勝劣法門の一切は、日寛上人によって完全に説き尽くされているのである。大聖人の仏法では何故この勝劣を厳しく判ずるかと言えば、勝は劣を兼ねるが、劣は勝を兼ねないとの意味から、比べる二つのもののうち、いずれが勝れ、いずれが劣るかを正しく知らなければ法門・法義に迷うからである。
彼等の邪説は、この種脱の勝劣法門に形を似せているが、その内容は全く異なり、種脱を判ずるものではなく、大聖人の下種の法門・法義のことごとくを、宗教分と宗旨分、流転門と還滅門、内証・己心と外相などの二つに分断して、その一方を根本(勝)とし、他の一方を枝葉(劣)として勝劣を論じたものであり、その論法をもってすれば、現宗門はすべてにおいて勝を捨てて劣を取っており、富士の立義から遠くはずれているということになるらしいのである。
自称正信会(自称在勤教師会をも含む)は、こうして現宗門の在り方を否定し批難するために、にわかに創り出した川澄の偽の大石寺法門・蝙蝠論法を時を得たりと取り出して、それを富士の立義と称し遮二無二、現宗門のすべての在り方に当てはめ、批難を始めたにすぎない。
以上はきわめて大雑把なとらえ方であり、多くの疎漏(そろう)があることは当然としても、個々の問題を論破する前に、彼等の邪説がいかなる構造をもち、何を目的としたものであるかについて、その経緯を通し私なりに考察を加えたものである。
池田令道の研究ノートについて
池田令道の研究ノートは「当局教学の破折と富士の立義に関する一考察」というもので、これも大黒喜道と同じく昨年の教師講習会における日顕上人の御指南に対して、主に反論を書いたつもりらしく、随所にその反発の感情を露骨にむき出している。
当誌7月号に掲載させていただいた拙文の最後にも少しふれたように、池田令道の結論のもっていき方は、論者の常道をわきまえない、ただの乱暴者のすることだと言ったのは、加えて次のようなこともあるからである。
彼のノートでは、(4)本仏論と題したもののなかに
「ここにおいては、すでに元初自受用身は一行も触れられず、ただ俗身の宗祖と板曼荼羅の人法一箇のみが語られている。しかし寛師がいわれている『法即人』『人即法』『自受用身即一念三千』は文字通り、元初自受用身と事の一念三千の辺における人法体一である(中略)元初自受用身と久遠名字妙法に勝劣なきを言った要語である」
というものがある。「ここにおいて」とは日顕上人の御指南を指したものであるが、「俗身の宗祖と板曼荼羅」などという表現を猊下がなされたわけではないことはともかくとして、このように「俗身の宗祖と板曼荼羅」は人法一箇ではないのに、それだけの人法一箇を語るのが現宗門であると決めつけ、日寛上人がいわれているのはそうではなくして「元初自受用身と久遠名字妙法」の人法体一のことであると、蝙蝠論法の用語こそは使っていないが、意味においては得意の二重構造の使い分けを用いていることに変わりはない。
しかしながら、昼を夜と見る蝙蝠ならばいざ知らず、日寛上人の『撰時抄愚記』には
「凡そ末法下種の正体とは久遠名字の妙法、事の一念三千なり。これ則ち文底甚深の大事、蓮祖弘通の最要なり(乃至)当に知るべし、正境とは本門戒壇の本尊の御事なり(乃至)久遠名字の妙法、事の一念三千、何ぞ外にこれを求めんや」(文段集228)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊と久遠名字の妙法、事の一念三千とは全く一なることを示されているのである。しかもまた『取要抄文段』には
「『無作三身の宝号』等とは、久遠名字の釈尊の宝号をも南無妙法蓮華経というなり(乃至)また蓮祖聖人の宝号をも南無妙法蓮華経というなり(乃至)『事の三大事』とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり」(同571)
とも仰せられ、久遠名字の釈尊(久遠元初自受用身)と蓮祖聖人の宝号をともに南無妙法蓮華経といい、その南無妙法蓮華経とは、人法体一の本門の本尊の御事なることを明かされているのである。
故に、この両文は彼の二重構造の邪論を粉砕してあまりあるものであろう。かくの如く、池田令道のノート中に随処に記されている「寛師はいわれている」とか「寛師は言われていない」とかいう彼の断言ほど、当てにならないものはない。それでいて他をこきおろすことにだけは急であるという意味でも「乱暴者」というべきであろう。
「中央の本尊」の文について
「中央の本尊」の文とは、彼のノート(3)本尊論に
「師弟一箇がそのまま戒壇本尊に顕われた、と伝えるのが富士の法門であり云云」
と訳のわからないことを言っているが、そのための依文としている、房州日要の『富士門流草案』の中にある「教相観心の事」に対する日寛上人の破折の文、すなわち
「種家ノ本因本果卜者、本果ハ即是蓮祖上人本因即開山上人師弟冥合則事ノ一念三千也其ノ事ノ一念三千卜者中央ノ本尊是ナリ」(研教9−766)
と『当体義抄文段』の
「種家の本因・本果・本国土、三妙合論の事の一念三千にして、即ちこれ中央の本門の本尊なり」(文段集666)
との両文の中で仰せられているものである。これは昨年の教師講習会の折、日顕上人によって
「彼等が師弟一箇だと言いたいのは、内証が中心だということを言いたいがためであります。しかしながら、戒壇の御本尊は御内証だけの御本尊ではなく、御内証即御化導の上の究竟の御本尊であり、そのように拝さなければならないのであります」(当誌58年10月号68)
等々と、完膚なきまでに破折せられたことに対し、一往反発の姿勢を示したものであろうが、せっかく引用したこの両文を解することができず、
「日蓮・日興師弟冥合、中央の本尊とは一体何を指すのか(中略)この種が家の三妙合論、中央の本門本尊も当家の本尊を示したものにならないのであろうか」
と、苦慮しながらも、強引に「私達は素直に先の文を当家の本尊、則ち戒壇本尊を示したものであると拝している」と結論づけているのである。そしてさらに、同意の文として三十五世日穏上人の『三重の境智の事』の
「爾れば畢竟境母の法身日興は左に居し、智父の報身日蓮は右に居し、境智冥合する時中央は則ち本尊曼荼羅なり」
の文、および三十九世日純上人の『衣証事記』に示されている
「境母法身ノ日興左ニ居シ智父報身ノ日蓮右ニシテ境智冥合スル時中央ノ大曼荼羅也」(研教30巻35)
との両文を挙げ、何とか彼等が主張する師弟一箇のこれが依文ではないかと言いたいらしいのである。しかし、それほど確信があるわけではなく
「これらが、当家の戒壇本尊に縁もゆかりもないものであれば、穏師や純師は一体何れの『本尊曼荼羅』『中央の大曼荼羅』について説明を試みたものなのであろうか」
と、やはり彼は、間違いは間違いなりにも明確に解釈できないまま、結論だけは大上段に構え、
「先にあげた寛師・穏師・純師の御文は、有師の聞書にあらわされたものを忠実且つ明確に敷衍している。阿部師のように、相伝を承けたといいながら、戒壇の本尊の意義を根本から否定するような愚かなことはなされない」
と、不遜きわまる悪言をもって、日顕上人を謗ることだけは忘れていない。しかしこれは「窮猿、林に投じて木を択ぶに暇有らず(追いつめられた猿が林に逃げ込むとき、木の良し悪しを選んでいる暇はない)」との俚諺の如く、三上人の御指南はかえってむしろ、彼のこうした邪論を打ち砕くための正しい解答を示されていると拝されるのである。
すなわち、彼はこれらが(三上人の御指南が)当家の戒壇本尊(師弟一箇)をあらわしたものでないとすれば、何を意味するか等と、処々において疑問をなげかけている。したがって、逆に三上人の御指南をもって、これらの御指南が戒壇本尊(師弟一箇)をあらわしたものでないことを証すれば、彼の邪論は一挙にその根拠を失い瓦解してしまう以外にないであろう。
故にまず、彼のなげかけた疑問について愚考してみたい。
『富士門流草案』に対する日寛上人の文は、そこだけが引かれており、説明はないが、『三重の境智の事』および『衣証事記』には全く同趣の法門が示されている。すなわち『衣証事記』には
「重テ問テ云ク、当門ノ三幅一対ノ所表如何」(研教30卷34)
とあり、以下はその「三幅一対」すなわち中央に御本尊、御本尊の右に日蓮大聖人、左に日興上人の御尊影(像)を安置する、三宝一対の奉安形式について、その謂れを示されたものと拝されるのである。故に同記に
「三幅一対ノ相承各別トテ之無シト雖モ観心本尊並ニ御内証大切ノ御書判(ノ)深意ヲ伺ヒ奉ルニ中央南無妙法蓮華経ノ左右ニ釈迦多宝卜遊ス事一往文上在世ノ様二見ユレドモ左ニ非ズ忝クモ末法ノ釈迦トハ日蓮大聖人多宝ハ日興也題目トハ則事行ノ本尊也所謂十界互具人法一箇ノ題目也」(同34)
とお示しの御指南は「一往文上の様に見ゆれども左に非ず」と仰せの如く、御本尊の相貌を末法の観心に約して示されたものと拝せられ、次の
「境母法身ノ日興左ニ居シ智父報身ノ日蓮右ニシテ境智冥合スル時中央ノ大漫荼羅也」(同35)
との仰せは、左右を明示し、また「中央南無妙法蓮華経」が「中央の大漫荼羅」と変わっていることからして、三幅一対の奉安は境智の妙法を事相にあらわしたものであることを示されたと拝せられるのである。
このことは、遡って二十五世日宥上人が、日蓮大聖人と開山上人の木像を造立する所以について『日蓮二字沙汰』の中に
「祖師ノ己心十界ノ大マンダラ本因名字本有ノ形ヲ事相ニ造ル時祖師ハ智父、開山ハ境母ノ口決也」(歴全3ー408)
と示されていることによっても明らかである。
故に『三重の境智の事』『衣証事記』の二文は、事の一念三千・境智の妙法(中央の本尊)を、事相をもって左右に日蓮大聖人、日興上人を安置して境智の二法を表す所以を示されたものと拝するのである。
日寛上人は、このことを『観心本尊抄文段』に「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」(全集二四七)の御文を釈された中に
「是れ能表を以て所表を顕し、『塔中の妙法蓮華経』というなり」(文段集500)
と仰せられている。すなわち左右の釈迦牟尼仏・多宝仏の境智の二法は能表、冥合一体なるを表す中央の妙法蓮華経は所表、能表は而二、所表は不二を表すところが、難思境智の妙法である。
したがって『富士門流草案』に対する日寛上人の文と『当体義抄文段』の文は、天台大師の『法華文句』に
「境と智と和合すれば則ち因果有り、境を照して未だ窮らざるを因と名づく、源を尽すを果と為す」(国訳文句414)
とあるが如く、事の一念三千・境智の妙法を、本因・本果・本国土の二妙及び三妙に約して示されたものと拝せられるのである。
故に彼が苦慮せる「師弟冥合」「種家の三妙合論」「中央の本尊」の文は、能表・所表に約せば本果妙の日蓮大聖人、本因妙の日興上人は、師弟・因果・境智のいずれに約しても能表であり、その二法が冥合して一体なるところは所表にして、事の一念三千・中央の本尊となるのである。
しかるに、彼の如く「師弟冥合・中央の本尊」の文が不二の一辺をあらわす所表たることを知らず、能表而二の本因妙・本果妙の文を消して、所表の一辺のみを立て、「師弟一箇」と呼ぶことは、難思境智の妙法の立義ではないのである。この一事をもっても、彼の論義は私曲の富士の立義以外の何物でもないことが知れよう。
しかして『当流行事抄』の
「起信論に云わく、一には根本を信じ、二には仏宝を信じ、三には法宝を信じ、四には僧宝を信ず已上取意。初めの一は総じて明かし、後の三は別して明かすなり。初めの一は総じて明かすとは総じて久遠元初の三宝を信ずることを明かすなり。血脈抄に云わく、久遠元初の自受用報身無作本有の妙法。又云わく、久遠元初の結要付嘱と云云。自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付嘱豈僧宝に非ずや。久遠元初は仏法の根本なり、故に根本を信ずと云うなり。後の三は別して明かすとは久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益し給う」(学林版323)
との仰せを拝し、さらに前項において既に論じたように、本門戒壇の大御本尊はすなわち久遠元初自受用報身無作本有の妙法の御当体であらせらるれば、本門戒壇の大御本尊は、初一総明の久遠元初の根本、総体三宝に当たり、三幅一対の事相は後三別明の別体三宝を表したものであると拝されるのである。
しかれば『本尊抄文段』に
「問う、当門流に於ては総体・別体の名目、これを立つべからざるや。答う、若しその名を借りて以てその義を明かさば、本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり」(文段集501)
と仰せられているのである。
故に、彼の言うが如く、三上人の御指南は本門戒壇の大御本尊をあらわした文でないことは明らかであり、また重ねて言うまでもなく「師弟一箇」をあらわしたものでもないのである。
たとえ文に仏界の境智に約し「末法の釈迦とは日蓮大聖人、多宝は日興也」と仰せられていても、『報恩抄文段』に
「今謂く、月氏の風俗は定めてこれ右勝左劣なり。故に左右を以て上下と為す。謂く、宝塔既にこれ西向なり。故に北はこれ右勝なり、故に上座と為す。南はこれ左劣なり、故に下座と為すなり」(同384)
との仰せ、および『妙法曼陀羅供養見聞筆記』の
「況やこの法華経・日蓮上人は、三世十方の諸仏の智父・境母なり、三世諸仏の御魂魄なり」(同738)
とのお示しを拝せば、勝は劣を兼ねることは明らかであり、第二祖日興上人の智徳尊容・唯仏与仏にして、凡下の我々とははるかに遠く隔たるとも、日蓮大聖人に望めばなお勝劣のあることは、既に両文に明らかである。
たとえ彼と彼等が、いかに勝劣が無いのは現実世界の所談ではなく、法門世界における所談と、蝙蝠論法をもって欺瞞し、一箇の平等を立てようとも、それは富士の立義ではない。そしてさらに『文句記』の
「豈伽耶を離れて別に常寂を求めん寂光の外・別に裟婆有るに非ず」(全集1506)
との正説を覆すことはできまい。
現実への対応・展開のみを正しいと言っているのではなく、末法唯一の正しい信仰と、法門・法義を持てる宗門の僧俗であればこそ、随力弘通をもって、むしろ現実への積極的な村応・展開を進めながら、迷妄の人々を覚醒し、末法唯一の正法に導き、かつ教化していかなければならないのである。
その信心の活力を失わしめることなく、しかも行き過ぎを制せられた正師の深意を知らず、反逆して、見当違いも甚だしい悪口謗法を重ねる輩が、たとえ正しく富士の立義を論じたとしても何になろう。まして偏見と誤謬に満ちたニセの富士の立義では、本来ならば取り上げるほどの値打ちもないものであろう。
むすび
この他に、彼の研究ノートには30数ページにわたってさまざまなことが書かれている。その一つひとつを取り上げて対破するとなれば、その数倍のページが必要となろう。“そのようなことは不可能だ、無駄だ”というより“所詮、その根底になっている共通の誤りはそれほどあるものではない”という考えのもとに、これは書かせていただいたものである。
浅学菲才の故に、長々と書いても対破の切れ味も悪く、正義を示す点でもおぼろで適切さを欠いていることを自らよく知りながらも拙文を書こうとするのは、次々に出てくる謂れのない誹謗や、一人よがりの正義論を見過ごすことはできないからである。
時局法義研鑚委員 山田亮道
はじめに
標題の「仏法か外道か」とは、『正信会報』二十六号に載っている、かって宗門から擯斥された大黒喜道の研究ノートと称する論文の題名である。ほかに同類の関慈謙、池田令道の二人も「伝燈への回帰」「当局教学の破折と富士の立義に関する一考察」と題する研究ノートを所載している。
三者の論文は、自己の主張にとって都合がよいと思われる文献をあさり、それが見つかれば、正確にいえば論証に無理があるにもかかわらず、強引に自己の主張とその文献を結びつけ、正当化を装い、いかにも正義であるかのように結論づけるところに共通点がある。
それこそ外道になり下がった彼等の、邪道の「答え」のために、ほんの一部とはいえ、尊い御歴代上人の文献が利用され、誤った論証の「方程式」にされている点が、生来愚鈍な私にさえ看過できない怒りをおぼえさせるのである。
彼等はたしかに今までにない、新たな法盗人・大賊の一面をもっているとしても、その主張のすべては法門の習いそこないから生まれる、誤読・曲解の産物でしかないと私は思うのである。これまでさんざん言われてきたように、不信や増上慢こそ彼等の心底そのものであることは当然として、その上に立って、彼等がいかに誤読と曲解の邪見をまきちらしているかを明らかにするのが本論の目的である。
本因妙抄の二十四番の勝劣の御文について
昨年の教師講習会において、日顕上人が、自称在勤教師会の数多くの狂説を懇切に、しかも厳しく破折せられたなかでの一つが
「『久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱う』(全集八七五)とあって、大聖人はここにはっきりと『唱う』とおっしゃっております。故に久遠元初の自受用身とは、彼等の言う如き内証己心で色もなければ姿も見えないというものではなく、無作本有の妙法を明らかに唱える、南無妙法蓮華経と唱える仏様なのです」(当誌453号46)
と仰せの御指南であった。
しかるに、この御指南に対し「仏法か外道か」では
「本当ならば『台家が応仏昇進の自受用報身の一念三千・一心三観を専らとするのに対し、当家は久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を直に唱えるのである』と意を取るべきなのですが、「此れは」の三字が脱落することによって勢い自受用身が主語となり、その結果『久遠元初の自受用報身が無作本有の妙法を直ちに唱える』と解釈してしまったのです。引用の仕方の間違いによって主語を入れ替えて釈してしまうという、何ともたわいのないミスが云云」
と得意になって、日顕上人が主語を入れ替えて解釈するという、たわいのないミスをおかしたと勝手に断定し、嘲笑しているのである。
しかし、その嘲笑は、それこそ「此れは」の三字を「当家は」と誤読した本人に、そのまま返すべきものである。なぜなら、すなわち「此れは」のお言葉は、大聖人御自身をあらわす第一人称の代名詞、すなわち「私は」「自分は」という意味の言葉であることは、『本因妙抄』の
「彼は台星の囲に出生す・此れは日天の国に出世す(中略)彼は正直の妙法の名を替えて一心三観と名く・有の儘の大法に非ざれば帯権の法に似たり・此れは信謗彼此・決定成菩提・南無妙法蓮華経と唱えかく」(全集875)
との仰せに明らかであるばかりでなく、二十四番の勝劣にお示しの、すべての「彼は」は天台大師を指し、「此れは」は大聖人御自身を指して申されていることは、明白だからである。
したがって「此れは久遠元初の自受用報身」の御文は、大聖人は久遠元初自受用報身との意であり、前文を受ける「無作本有の妙法を直に唱う」の御文は、大聖人すなわち久遠元初自受用報身が無作本有の妙法を直ちに唱うとの意であることは、『文底秘沈抄』に
「又云わく、今の修行は久遠名字の振舞に介爾(けに)計りも相違なき云云。是れ行位全同を以って自受用身即ち是れ蓮祖なることを顕わすなり」(六巻妙205)
と仰せられていることに明らかである。
故に、日顕上人は、大聖人即自受用身の意をもって、あえて「此れは」を略されて引用あそばされたものと拝されるのであり、かえって「此れは」を何の謂われもなく「当家は」と誤読した者こそ、笑われるべきである。
次に「仏法か外道か」では、当御文を
「法華経文底の行者は、久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を内証己心にて直に行じ成ずる」
と解すべきであり、特に「唱う」の御文は特別な肉身を持った自受用身が、声に出して唱えられたのではないと結論し、次文に
「ただ『本因妙抄』の当文を唯一の依拠として、自受用身といえども特別な肉身を持ち南無妙法蓮華経と声高らかに唱題する仏様であると主張して憚らない阿部師の論法が、如何に我田引水で常軌を逸したものであるかは十二分に知られると思います」
と、日顕上人を不遜な言をもって誹謗し、法門の習いそこないを露呈している。もっともかくなるが故に、宗門から追放されたのではあるが、力もないのに尊大ぶる者は、いずれはどんな社会でも通用しないと自ら知らなければならないであろう。阿鼻の炎を受けることは当然としても、その前にである。
この言を破すに、初めに自受用身の御事について、彼のいう特別な肉身とは、どういう意味かはわからないが、色身を持たないの迷論に駁すれば、『総勘文抄』に
「五行とは地水火風空なり(中略)今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性・五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり」(全集568)
と、地水火風空の五大すなわち妙法蓮華経の五字をもって人身の体を造ると仰せられている。しかして
「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(同)
と仰せの御文に、一迷先達・久遠元初自受用身を顕示されていると拝するところに本宗独尊の深義がある故に、日寛上人は『本尊抄文段』にこの御文を解釈し
「当に知るべし、この自受用身の色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。謂く、釈尊の五大即ちこれ十法界の五大なり。十法界の五大即ちこれ釈尊の五大なり」(文段集457)
と、自受用身の境妙に約し、我が身(色法)五大が十法界の色法五大と一なるを知って、即座開悟あそばされた所以を明かされている。
故に、日寛外道党と呼ぶ玉野日志ならばいざ知らず、久遠元初自受用身に我が身(色法の五大)ありと述べられている日寛上人をも、彼は「我田引水で常軌を逸したもの」と誹謗する気であろうか。
次に、声を出して唱えられたのではないとの稚説を破せば、日寛上人の『本尊抄文段』および『当体義抄文段』に
「『知』の一字は本地難思の智妙なり。『我が身』等は本地難思の境妙なり。この境智冥合して南無妙法蓮華経と唱うる故に、『即座に悟を開き』、久遠元初の自受用身と顕るるなり」(同四五七)
「故に知んぬ、我が身は地水火風空の妙法蓮華経と知しめして、南無妙法蓮華経と唱えたまわんことを」(同698)
と申されていることで、説明の必要もなくその不解を証することができよう。またこの文を知っていてなお、「内証己心にて直に行じ成ずる」と強弁したのならば、もっと判然とした文義を示してからにするのが、論者の心得というものである。
故に、かくなる大言壮語をもって日顕上人を悪罵すること自体、自ら己れの教養の貧しさと愚者ぶりを披歴しているにほかならない。明晰を知らざるは暗者の常であり、まして誹謗を加うるは愚者の類いにかぎることを知らざるところに、大賊たる所以があるのである。
師弟因果一体の文について
昨年の8月号の大日蓮に、水島公正師が「『師弟一箇の本尊』という邪説の文証について」と題し、
「『師弟一箇の本尊』という未聞の珍説を理解するとなると、至難この上ない。それというのも、彼等の主張内容が深遠だからではなく、あまりに独善的であり、混濁しているからにすぎない。むろん師弟一箇の本尊を立証する文拠などあろうはずもないが云云」(当誌450号84)
等と無類の珍説を折破したのに対し、「仏法か外道か」では
「有師が、『事行の妙法蓮華経と云うは師弟因果一体にして相離れざるなり」(法全一−四一七頁)と述べられた通りであります。このように見ると、いくら水島公正師が、『むろん師弟一箇の本尊を立証する文拠などあろうはずもない』と力んだところで、如何にそれが詮の無いことかがよく分かります」
と、一往反論らしいことは言っている。しかし、なぜこの日有上人の『雑雑聞書』の文が、師弟一箇の本尊の依文となるかの説明がないまま、次に、日有上人の『下野阿闍梨聞書』に
「サテ本門ニハ師弟相対シテ余事余念無ク妙法ヲ受ケ持ツ処カ相対妙ニシテ其ノ当位ヲ不改受持ノ一行十界互具一念三千ノ妙法蓮華経也ト得ルカ即事ノ絶待不思議ノ妙法蓮華経也」(歴全1−399)
と仰せられた文を挙げ、ここに師弟一箇の本尊義が窺われると言っている。その理由として「師弟等に当てられる本因本果が相対している状態が本因、一箇した絶待妙の所が本果」と、この文から読み取れるからであるという。
独善と混濁をさらに深めたこの主張を破すに、まず第一に、水島師が折破した対象は、自称在勤教師会の輩が主張する、日有上人の『日拾聞書』の
「一、仰ニ云ク、上行菩薩ノ御後身日蓮大士ハ九界ノ頂上タル本果ノ仏界卜顕レ、無辺行菩薩ノ再誕日興ハ本因妙ノ九界卜顕レ畢ヌ云云」(同1−409)
との文が「還滅門の所談であり、当家における妙法が法門の上で日蓮日興の名をもって師弟一箇と決定される旨を説かれている」ということに向けられたものである。
したがって、問われた論者としては、まずどうしてその文に、師弟一箇の本尊の意義がそなわっているかを論証して、反論とすべきものである。しかるに彼はそれに答えず、まるで『諸宗問答抄』の
「されども非学匠は理につまらずと云つて他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間暗証の者とは云うなり、都て理におれざるなり譬えば行く水にかずかくが如し」(全集380)
との仰せの如く、理に折れず、行く水に数かくが如く、宗開両祖の一箇論とは直接関連しない「師弟因果一体」の文をもって、その依文とするなどは、木に竹をつぐような空しい所業にほかならない。
師弟因果一体をあらわす文は、日有上人の仰せとして他に一、二あり、また日寛上人の『本尊抄文段』には
「自受用はこれ師、我等はこれ弟子、既に『如我等無異』なり、豈師弟不二に非ずや」(文段集488・注、不二は一体の意)
「然れば則ち本尊も無作三身、我等もまた無作三身、親も仏、子も仏、親も帝王、子も帝王、豈親子一体に非ずや」(同489)
と仰せられているほか、類文他に数多く述べられているのである。この御解釈はいうまでもなく『当体義抄』の
「然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(全集518)
との御文の意をもって、御本尊・大聖人の広大無辺の徳用に約して、師弟・親子因果一体を明かされたものであることは、『当体義抄文段』の
「当に知るべし、『倶体倶用・無作三身」とは蓮祖大聖人の御事なり。我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」(文段集676)
との仰せにも、まことに明らかである。
故に『当体義抄』の御文および日寛上人の御解釈の文によって明らかなように、日有上人の「師弟因果一体」の文は、あくまで能化(本果・師)の徳用によって、所化(本因・弟子)が因果一体の功徳を具えるところを、事行の妙法蓮華経と言うと申されたものと拝さなければならない。
すなわち能化の徳用によってとは、御本尊・大聖人の仏力、法力によるとの意であることは『本尊抄文段』に
「我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず。蓮華の若し日光を得れば則ち必ず能く栄え敷(さ)くが如く、我等仏力を蒙れば則ち信行成就して、速かに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児は唯仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟の観察を借らんや」(同487)
と仰せられていることに分明である。
大黒とその一党は、能開・所開を弁えず「末法今時の幼児は唯仏力・法力に依って能く観心を成ず」との勧誡を知らず、ただ「自力思惟の観察」を専らとする不信の輩なるが故に、これらの御指南を拝し得ず、かくの如く曲解せざるを得なかったと言うべきであろう。
しかして、水島師が「日蓮日興の名をもって師弟一箇と決定される旨」の文拠を問うたのに村し、直接的にはそれに答えず、「師弟因果一体」の文をそれに充てた不当性は、以上述べた通りであるが、同時にこれはその文々句々が、まさしく何を意味するかを知らず勝手に書きなぐっていることを物語っているのである。
次に、日有上人の『下野阿闍梨聞書』の文を、本因が家の相対妙、絶待妙と立て分ける誤りについて言えば、「仏法か外道か」では
「因みに、有師は相対妙・絶待妙に関して、『さて本門には師弟相対して余事余念無く妙法を受け持つ処が相対妙にして、其の当位を改めず受持の一行十界互具一念三千の妙法蓮華経なりと得るが即ち事の絶待不思議の妙法蓮華経なり』(法全1−399頁)
と述べられて、当家に於いては師弟相対して妙法を受持する所が相対妙であり、更にその当位を改めず、その受持の一行が成就して十界互具・一念三千の妙法蓮華経と成る所が絶待妙であると示されています」
と言っている。これによって例の如く誤読・曲解を重ねた上に導き出した結論が、先述の「師弟等に当てられる本因本果が相対している状態が本因、一箇した絶待妙の所が本果」との奇妙な師弟一箇の本尊義である。
これを破すに、まず誤読を指摘すれば、彼の引用は「相対妙にして」と「其の当位を改めず」との間に点を入れて、前後の文が別々のように見せかけ、前文を相対妙・本因、後文を絶待妙・本果と解釈しているが、『歴代法主全書』の原文は「相對妙ニシテ其ノ官位ヲ不改」となっており、点は入っていない。しかしこれは点を入れようと入れまいと同じことで、「其の当位を改めず」の「其の」の語は、前文にかかる連体詞で「前に述べた物事を指示する語」である。
したがって、正しくは「相対妙にして」の文は、前文の「師弟相対して余事余念無く妙法を受け持つ処が」にかかり、「其の当位を改めず」の文は「師弟相対して云云」の相対妙の文にかかる故に、相対妙(師弟相対)のままの当位を改めずと拝すべきものである。
このように、彼の解釈はその前提となる文々句々の読み方自体が誤っていることを、まず指摘しなければならない。また読み方を誤れば、当然その解釈は曲解におちいらざるを得ないことは言うまでもない。
故に「師弟等に当てられる本因本果が相対している状態が本因」とか「一箇した絶待妙の所が本果」などという解釈は、日有上人の仰せのいずれにも、その文拠を見出すことはできないばかりか、『下野阿闍梨聞書』には
「麁妙相対ト云フハ智者解者解了ノ分也、全ク後五百歳ノ我等凡夫ノ愚者ノ上ニハ麁妙相対ノ分ハ不可有也。去ル間当宗ハ絶待妙ノ処ニ宗旨ヲ建立スル也」(歴全1−394)
と仰せられ、迹門の相待妙すなわち爾前の諸経を麁とし、法華経を妙とする麁妙相対の分は、本門に約せばあることなく、ただ絶待妙の意義において本宗の宗旨が立てられていることを明かされ、宗義には、彼の言う如く、相待・絶待の二妙の義があるとは申されていないのである。
しからば、何故、日有上人が一方では「麁妙相対の分は有る可からず」と申されながら、また一方では「師弟相対」のところを相対妙と仰せられているかについて一考すれば『雑雑聞書』に
「宗旨ノ深義ニ約スル時ハ信心卜云フハ一人シテハ取リ難シ、師弟相対シテ事行ノ信心ヲ取ル」(同417)
との文および『下野阿闍梨聞書』の
「下種ト云フハ師弟相対ノ義ナり」(同394)
の仰せから拝すれば、天台大師が『法華玄義』に
「今、麁に待する妙とは、半字を待するを麁と為し、満字を明かすを妙と為す」(国訳玄義47)
と釈されている、教相に約しての半字を待するを麁(爾前経)、満字を明かすを妙(法華経)とする意義を、日有上人は、修行に約して随義転用され、信解を了する師(満字)と、未了の弟子(半字)が相対して下種本因の修行を成すところに、あてられたと拝されるのである。
故に「全ク後五百歳の我等凡夫の愚者の上には麁妙相対の分は有る可からず」との文は、末法の我等衆生の観心の法体に約され、「さて本門には師弟相対して余事余念無く妙法を受け持つ処が相対妙にして」の文は、末法の我等衆生の修行に約し、師弟相対(本因)して、宗旨の法体(本果)を受持信行するところに、本因修行の実義があることを明かされたものと拝されるのである。
したがって、師弟相対(相対妙)の姿をもって種家の本因とする意味は、妙楽大師の『釈籖』に
「夫レ因ハ能通為(た)リ、果ハ所通為リ、若因変シテ果卜為ル則(とき)ハ能所無キ故ニ、変スレハ則チ不可ナり。若シ変セサレハ因、果ノ辺ニ至り、因ト果ト並フ故ニ斯ノ理無シ、変セサルモ不可ナリ」(学林版下367)
と釈されているところの「因ハ能通為リ」の義によるのである。すなわち本果に能通する本因の意義は、信解未了ではかなわず、必ず信解を了する師と未了の弟子が師弟相対して妙法(御本尊)を持つところにのみ認められるからである。
故に、正師を離れ、糸の切れた凧のように浮薄な論義をもてあそぶ大黒らの輩が種家の本因、本果を論ずること自体、どれほど無意味なことであるかを、以上のことから知ることができよう。
また、日有上人の仰せられている「事の絶待不思議の妙法蓮華経」とは、師弟相対して妙法(御本尊)を受持する能通本因そのままが、事の一念三千の法体(本果・御本尊)と一体となるところを示されたものである。いわゆる本門の題目受持即本門の本尊受持の妙義、いいかえれば相対即絶待の妙義を顕わされたものである。
しかし本因本果一体といえども、そこには能通・所通の別があることを、前出の『釈籖』に「若し因変じて果と為る則は、能所無き故に変ずれば則ち不可なり」と釈し、能所あってしかも因果一体となるところを「若し変ぜざれば因、果の辺に至り、因と果と並ぶ故に斯の理無し、変ぜざるも不可なり」と釈され、因果はまさしく而二にして不二の妙実相たることを明かされているのである。しかして、大聖人は『一代聖教大意』に
「絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す、又法華経に二事あり一には所開・二には能開なり」(全集404)
と仰せられ、絶待妙の開会に所開・能開の別あることをお示しあそばされ、開会のみを知って、所開・能開を弁えぬ者を指して、同抄に
「此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり」(同)
と仰せられ、また『題目弥陀名号勝劣事』に
「能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり」(同115)
と御糾弾あそばされているのである。以上の御文により義通の辺をもって論ずれば、詮ずるところ「仏法か外道か」の本因本果一箇論は、この能開・所開を弁えず、「師弟因果一体」の文をはじめ様々な文を、ただ文字だけを判じて正しい義によって判ぜざる故に、勝手気ままに誤読して師弟一箇の本尊の依文としたり、依義と曲解したにすぎないのである。
もし、いくばくかの正しい信心の心あれば、御先師上人の仰せは、凡愚の我等にとってはただ有り難く、ただ尊く拝信・拝受すべきものであって、あれこれ理屈を並べたてる心地そのものが既に謗法であることは、『御物語聴聞抄』に
「さて此ノ妙法蓮華経ハ者如何なれは仏に成り候哉、さて化儀と云心は如何ンと尋候はん人は自謗法也。智慧ニ成し候へは天台宗也」(歴全1−318)
「外道ト書テホカノミチト読テ候。高祖ノ御仏法ヲ御本意ノママニ直ニ興行ナクテ別ノ道ニ建立候是則外道ナリ」(同323)
との仰せに明らかである。これ以上くだらない研究ノートを積み重ねるの愚はやめて、迷うことなく己れ外道なりと血涙を流して改悔し、正しき師のもとに是が非でも立ち戻るための道を虚心に考えるべきであろう。
能証の題目、所証の御本尊の文について
昨年の十一月号の大日蓮に、尾林広徳師が「牽強付会を止どめて御先師の御指南を正しく拝すべし」と題し、自称在勤教師会が主張する「己心に建立する本尊義」を四項目に分けて、その謗法たる所以を破折されたが、その第四項に「御本尊は仏界、我等衆生の観心は九界、御本尊は能顕、己心の妙法は所顕の別があるにもかかわらず、『究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にある』とか『師第一箇』等と称して、因分の無作三身と究竟果分の無作三身という、本有無作三身における惣別の重(注は略す)を知らず、『衆生の己心の上に信を以て証得する本尊』を指向することによって、むしろ、本尊と観心、仏界と九界、能顕と所顕が逆転した顛倒の本尊観を立てている」(当誌453号74)
と述べたのに対し、「仏法か外道か」では、研究教学書第十四巻に所載の『観心本尊抄略記』に
「事行ノ南無妙法蓮華経ハ能証ノ題目本門ノ本尊ハ所証ノ御本尊也」(408)
とある文を取り上げ、「本門の題目に依って本門の本尊が証せられる」と、日寛上人が御教示せられたものであると言っているのである。
しかし、そもそもこの略記は、題号の下に
「義好宣盛所持ノ両抄(ヨ)リ校合シ其外二三抄見合セ尚分明ナラズ、後人必定証トス可カラズ」(同153)
と、編者の宥弁師が小文字で注記されているものである。しかも当文の下の
「私ニ云ク此レ聴衆ノ添加ナル歟」(同409)
との注脚は、直接この文を指したものではないにしろ、当時、日寛上人の本尊抄の御講義を聴聞され、聞書を残されている日東上人の『観心本尊抄聴聞荒増』、日忠上人の『同聞記』、日因上人の『同科註随文解釈』、記者不明の『同見聞記』、坦永日硯の『同日硯聞記』、会玄の『同抄記』等のいずれの聞書にも当文は所載されていない。
だいたい柄然たる六巻抄や文段を避け、「後人必ず定証とすべからず」と注記されている不確実な文献だけを「衆生の己心に建立する本尊義」の唯一の根拠とし、しかも例の如く得意の誤読によって曲解を重ねた上での反論では、あまりにお粗末すぎるであろう。
「仏法か外道か」では、前記の文の曲解を前提として、「よって、事行の妙法の力用によって本門の本尊が建立されると言うような寛師の御意趣も、宗門教学陣から見れば全く自説とは正反対の珍説・邪説に他ならないのです。此のように考えたならば、次のような尾林師の考えもその誤りがよく納得されます。即ち、師は
『御本尊は能顕、己心の妙法は所顕の別があるにもかかわらず、……(在勤教師会は)能顕と所顕が逆転した顛倒の本尊観を立てている』
と記されて、本果のみに立った師自らの本尊観を明かされているのですが、己心の妙法とは謂わば事行の妙法ですから、右に挙げた寛師のお考えから見れば能所が見事に逆転した『顛倒の本尊観』・成道観を師が吐露し、同時に当方の立義の正しさを計らずも立証してしまったことが分かります」
と、日寛上人がまるで彼等の顛倒の珍説を正しいと証明したかのように言っている。
しかし当文が日寛上人の文かどうかは不明としても、ともかく尾林師をはじめ宗門の教学陣が、日寛上人のお考えからすれば能所が見事に逆転した顛倒の本尊観等を立てているのではないことを明らかにすれば、尾林師が御本尊は能顕、己心の妙法は所顕と、顕に約して能所を述べたのに対して、彼は当文が、証に約して能所が示されている違いを考えず、逆転だの顛倒だのと言っているに過ぎない。能所は約する字義によってそれぞれ意味が異なることを知らない早合点か、あるいは語の意味を解し得ない愚かさによるものか、いずれにしろ正義に逆らい、あがけばあがくほど、自らの恥を天下にさらすだけだということを知るべきであろう。
尾林師が示した能顕・所顕は『観心本尊抄』に
「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」(全集247)
と仰せられている「乃至所顕」の意によるものである。すなわち、この御文について日寛上人は『本尊抄文段』に
「問う、いう所の『乃至』とは、これ何物を指すや。答う、蒙抄所引の恵抄の意は能顕を以て「乃至』というなり。これ『所顕』の二字に望む故なり。これに多種の能顕あり(中略)四には妙法修行は能顕、己心の妙法は所顕なり云云。これ即ち忠抄の義なり」(文段集489)
と、日忠の義を取って釈されている。この仰せは妙法修行を能動として、己心の妙法を顕わすと明かされた文であるが、さらに妙法修行について、同文段に
「『観心本尊』とは、即ち事行の題目なり。謂く『観心』即ちこれ能修の九界、『本尊』即ちこれ所修の仏界、十界十如既にこれ分明なり。豈法の字に非ずや。九界・仏界感応道交し、能修・所修境智冥合し、甚深の境界は言語道断、心行所滅なり。豈妙の字に非ずや」(同461)
と、妙法の能修・所修の修行は、すなわち事行の題目に当たり、事行の題目は、能修の九界の観心と所修の仏界の本尊と境智冥合し、十界十如、言語道断、心行所滅の甚深の境界を顕わすものと仰せられているのである。
しかして、この能修の「観心」と所修の「本尊」と境智冥合して不二なるところを「事行の題目(妙法修行)」というといえども、さらに同文段に
「凡そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず」(同481)
と仰せられ、当家の観心は本尊の徳用によってその義を成ずると明かされている。
この故に、能修の観心と所修の本尊との境智冥合を顕わす妙法修行は、所修の本尊の徳用に約して、御本尊は能顕、能修の観心すなわち己心の妙法は所顕と立てるのである。故に、尾林師が「御本尊は仏界、我等衆生の観心は九界、御本尊は能顕、己心の妙法は所顕の別があるにもかかわらず云云」と、師弟一箇等の邪義を対破されたのは、すべて炳然たる御書および『本尊抄文段』に明かされている通りであることを知るべきである。
したがってまた「己心の妙法とは謂わば事行の妙法」と、何らの文義も示さず、勝手気ままに定義づける浮薄さもこれによってよくよく知るべきである。事行の妙法とは、さきの日寛上人の御指南に明らかなように、能修・所修、能顕・所顕、境智冥合の謂いであり、己心の妙法とは単に能修の観心、所顕の本尊、智のみを言い顕わすものである。能所不二にして妙法の実義を成すということを知らない者だけが、呑気に両者を同じものだと言い得るのである。
「仏法か外道か」と問うまでもなく、彼と彼等の、理によらない一切の論義は、妙法とは何かを正師に随順して学ばず、妙法の信心とは何かを正師の行体に習わず、末法唯一の妙法たる本門戒壇の大御本尊を虚仮と下して、信を取らざるが故に、かくの如く乱れに乱れ、狂いに狂うのである。彼等の師、外道の川澄勲が彼等に教えた狂った法門の実態を一つひとつ明らかにしてゆくのもまた、本論の第二の目的である。
次に「能証の題目、所証の御本尊」の解釈について、「事行の妙法の力用によって本門の本尊が建立される」と読み取ることの誤りについて言えば、『観心本尊抄略記』にある当文は、日寛上人が『観心本尊抄』の
「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」(全集253)
の御文を講ぜられたものとして記されているのである。しかし、同時に聴聞された他の御歴代上人等の聞書にこの「事行の南無妙法蓮華経は能証の題目本門の本尊は所証の御本尊也」との文は記載されてないことは前に述べた通りである。
といって、その記されている文義が、日東上人の御指南と拝した場合、誤っているとか違っているというのではけっしてなく、ただ誤っているのは「仏法か外道か」の解釈だけである。
すなわち『本尊抄文段』における「事行の南無妙法蓮華経云云」の御文についての御解釈は
「但当流の口唱のみ本門事行の題目なり。これ即ちその法体は文底下種の法華経、独一の本門、事の一念三千なるが故なり」(文段集544)
と結せられている。この本門事行の題目と、その法体である文底下種の本門の本尊を、能証・所証に別すれば、本門事行の題目が能証、文底下種の本門の本尊が所証となり、この能所合して能証・所証の本理(妙法の実義)を顕わすのである。
御書では、このことを『当体義抄』に
「此の理を詮ずる教を名けて妙法蓮華経と為す(中略)釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり」(全集513)
と仰せられているのである。この御文の甚深不可思議なる意味は、とうてい凡愚の私には解し得ないが、ただ能証・所証の関係についてのみいえば、妙法の当体蓮華を証するに、証するために能動する人と、証せられる所の法とが冥合一体となるところを「能証所証の本理を顕す」と仰せられたものと拝せられるのである。いわゆる証とは、証る人(能証)と、証られる法(所証)の両方が合してはじめて証は成就し顕われるのである。能証だけでも、所証だけでも証は成立しない故に「能証所証の本理を顕す」とは能所一体なるところをいい、これを妙法の実義とするのである。
故に日寛上人は『当流行事抄』 に
「知と謂うは能証の智、我身等は是れ所証の境、此の境智冥府内証甚深甚深不可思議なり、故に難思の境智と云うなり。難思は即ち妙なり、境智は即ち法なり」(六巻秒318)
と、久遠元初自受用身の証得せる難思の境智の妙法を能証所証に約して仰せられている。
したがって、別しては「能証所証の本理を顕す」とは、久遠元初の難思の境智の妙法すなわち大聖人御一身を指し、総じては、その難思の境智の妙法即大聖人の御当体たる本門の本尊(法・境)を信じて南無妙法蓮華経と唱うる(人・智)ことを指し、智と境、人と法をそれぞれ能証所証といい、その境(法)智(人)冥合するところを「能証所証の本理を顕す」というのである。
故に、前引の「但当流の口唱のみ本門事行の題目なり」と示されているところを能証とし、「これ即ちその法体は文底下種の法華経云云」を所証とすれば、この御指南は、事行の題目即文底下種の法体の意であるが故に、能証所証冥合一体なるところを事行の題目なりと明かされたものと拝せられるのである。
しかしながら『当体義抄』に
「無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり」(全集512)
と、ここに炳然として、冥合一体なりといえども、所証の本門の本尊(法華の当体)の徳用(自在神力)により、能証所証の本理を顕わす所以を明かされているのである。
しかして、この御文を日寛上人は『当体義抄文段』に
「『法華の当体』とは、これ法力なり。『自在神力』とは、これ仏力なり。法力・仏力は正しく本尊に在り。これを疑うべからず。我等応に信力・行力を励むべきのみ」(文段集683)
と釈せられているのである。
故に、日寛上人の御意趣は「事行の妙法の力用によって本門の本尊が建立される」などというものでは断じてないことが明らかである。
それこそ、彼のこの曲解の邪見は、証と顕の字義の違いを考えずに、同一にあつかったたわいのないミスであろうが、そのたわいのないミスが生まれる真の要因は、外道の川澄勲を師と仰ぎ、その狂った法門の実態を見抜けないところにあるのである。
結局は、その川澄が唱え出した「師第一箇」とか「内証己心」等を正当化しようとして弟子達が論ずれば論ずるほど、彼等の師の狂った法門を自らあばいてゆくだけであることを知るべきである。
以上「仏法か外道か」を主に衝いてきたのであるが、池田令道の研究ノートも、誤読・曲解を重ねた論文であることには、何ら変わりはない。詳しい破折は次後に譲るとしても、当論を結ぶに当たり、一処を挙げれば
「戒壇本尊が師弟一箇の本尊でないとするならば、富士門流に伝える師弟一箇の本尊とは一体何を指していうものなのか。それとも、初めから当家には師弟一箇の本尊など無かった、有師・寛師のいわれたことは間違いだった、今後は師弟一箇の本尊ということを取り消していこう、ということなのか」
と、ここでも日有上人、日寛上人が師弟一箇の本尊義を説かれたにもかかわらず、その義を宗門教学陣が否定しているかのように疑瞞している。
しかして、その依文として、房州日要の『富士門流草案』の中に、日寛上人の文として引かれている
「種家ノ本因本果ト者、本果ハ即是蓮祖上人本因即是開山上人師弟冥合則事ノ一念三千也其ノ事ノ一念三千ト者即中央ノ本尊是ナリ」(研教9−766)
との文と、『当体義抄文段』の
「種家の本因・本果・本国土、三妙合論の事の一念三千にして、即ちこれ中央の本門の本尊なり」(文段集666)
との文を挙げ、その文義を読み取るのに苦慮して「〜という日蓮・日興師弟冥合、中央の本尊とは一体何を指すのか」といい、当文を解し得ないまま、一足とびに「私達は素直に先の文を当家の本尊、則ち戒壇本尊を示したものであると拝している」といっているのである。
しかし、結論を導き出すための前提となる文の意味を「一体何を指すのか」と疑問視しておきながら、その疑問を解きもしないで、「私達は素直に先の文を(何々と)拝している」などと得手勝手に結びつけるのは、それは素直なのではなくして、論者の常道をわきまえない、ただの乱暴者のすることである。
ともかく、師弟冥合、中央の本尊の文も、また三妙合論の中央の本門の本尊の文も、彼がいうが如く、師弟一箇の本尊義を顕わす文でないことは次回、明らかにするが、冥合を一箇と同義とするならば、さしずめ「境智一箇」の語や「王仏一箇」の新語を発明しなければなるまい。
池田令道もまた、大黒喜道に負けず劣らず誤読・曲解を重ねた狂説を書きなぐっていることを付言し、所詮、彼等の悪逆にして不明なるところは、昨年の教師講習会の折に日顕上人が仰せられたように
「彼等が見失っている点は、能・所という立て分けがある、ということであります(中略)法華経は能開、諸経は所開なのです。法脈もそのとおりでありまして、法主の相伝の立場は宗門の一切に関して、やはり能開なのであります。色々な問題が起こった場合、では、大衆は全然それについて関係ないかというと、そうは言いません。大衆ももちろん、一体的な意味で正法護持に七百年来、それぞれの立場における大衆の方々が努めてこられたことも事実でありまして、私はそれを否定するものではありません。けれども、やはり能顕、能持の、いわゆる問題に関して能開の権限は、御先師からの御遺嘱を承けた方にあるのであります」(当誌453号23)
との御指南に、言うまでもなく三者の研究ノートのすべては、あてはまっているのである。狂いの根本はこの御指南の通りであり、どことどこというようなものではなく、その全部が能所の立て分けを無視した悪平等の主張に終始して、先師上人すべてに背くところの悪逆の言を並べ立てているだけであると言っても過言ではない。
本論は、そのごく一部について指摘したに過ぎない。悪鬼入其心の彼等には、望んでも無理ではあろうが、それこそ素直に正は正、邪は邪と認める心を取り戻してほしいと願いつつ、ここ当面は三者の研究ノートの邪説を論破してゆくつもりである。
時局法義研鑚委員 主任委員 大村壽顯
御法主日顕上人猊下は、最近の大聖人の御法門から全く掛け離れた発明教学の氾濫に対処し、宗内僧俗を善導していくことを目的として、昭和57年4月、時局法義研鑚委員会を設置されたのであります。以来、委員会においては、正信会およぴ在勤教師会と称する輩の邪説を分類、整理して破折を加えるかたわら、広く信徒にも宗門伝統の法義を把握してもらうことを主眼として、大日蓮誌上に破折論文を掲載してまいりました。
ところが彼等は、相変わらず資料の孫引き・短絡等の短見に起因する推論を吐いておりますので、最近は『時局法義研鑚委員会ノート』というコラムを設けて発明教学の稚説を揶揄しつつ、たたいているのが現況であります。
これらの邪説に対しては、昭和56年度の全国教師講習会において御法主日顕上人より、邪説発祥の根源がどこにあるかを示され、適確に指弾されたことは、衆知のとおりであります。これによって、その後の論調は明らかに低下し、悪口讒謗に変わってきてはおりますが、相変わらず「宗教分・宗旨分、流転門・還滅門、己心・内証と外相」等が価値判釈の綱格となって、軽々に論じてはならない本尊論に及んでいることは事実であります。
いわゆる彼等の主張を端的に示しているのが、左の図であります。
|
これについて彼等は
「地上(流転門)地下(還滅門)は合せて同じ一本の木には違いないが『地上と地下の立分けはない』といえば法門は成り立たない」(清流を求めて84)
と、我々の目に見える枝葉の部分は外相にして宗教分であり、流転門であるとし、目に見えない根茎の部分こそ己心・内証にして宗旨分であり、還滅門であると判釈するのであります。したがって、鎌倉御出現の日蓮大聖人および本門戒壇の大御本尊は、姿形の上にあらわされた外相であると軽視し、本尊は我々の己心に建立すべきものであるとする禅宗のような観念論が、彼等の邪説の骨子であります。
これについては御法主上人が、既に完膚無きまでに破折を加えられ、昨日さらに第二弾として的確な御指南がありましたので、今さら私如き者が喋々すべきではありませんが、時局法義研鑚委員会の主任委員として、各位の研鑚をまとめ、彼等の邪説に対して、さらに認識を新たにして祖道の恢復をはかることも大事なことであると考え、再度、この点について破折を加えてゆこうと思うのであります。
1、宗教分・宗旨分の邪説を破す
彼等が主張する判釈の一つに、宗旨分は根本で勝れ、宗教分は枝葉で劣るという珍妙な考えを基として、「広宣流布」「三大秘法」「戒壇本尊」「血脈」という宗門の根幹を、我見をもって勝手な判釈をしております。かかる主張は、日蓮大聖人の五重相対の第五・種脱相対を越えた、いわば第六の判釈で、日顕上人が常に戒められている発明の教学であることは言うまでもありません。
彼等が、本宗の法門に古来からあったかのように吹聴している宗教・宗旨の名目の出典は、どこにあるかと言いますと、日寛上人の『取要抄文段』に
「凡そ『宗教』『宗旨』の名目は、本天台宗より出たり」(日寛上人文段集591)
とありまして、本来、天台宗で使われ始めたものであります。したがって、妙楽大師の『記』の九に「宗旨」の名目があり、「宗教」の名目は尊舜の『二帖抄見聞』に
「次に宗教の証據は、玄一に即玄談教旨と文。教旨(宗旨)と云い、宗教と云うは同物也」
(天台宗全書9195)
とあるところに始まるのであります。
また、彼等が言う宗教分・宗旨分という名目は、中古天台の特徴である口伝法門をまとめた『漢光類聚』に
「山家の大師、二宗血脈に云く、予異朝に渡て密に一旨を伝ふ、一には宗教分、二には宗旨分。宗教の一種は法華の本迹二門を伝へ、宗旨の一段は正しく仏意根本内証に依る、宗教とは四時五時本迹等也、宗旨とは天真独朗三千三観なり」(大日本仏教全書一7−109)
とあるのが初めであろうと思われます。これは伝教大師が入唐して伝えた、いわゆる口伝法門による「止観勝法華劣」を説いたものであります。
この中古天台の口伝法門の判釈を本宗の法門にそのまま転用して、
「宗教は文言による教学の理論・教相、宗旨はそれを超えた悟りの内容、観心、本来行者の己心にたつべきものとするのは、私達の独想でもなければ、発明でもない。中世の台家の解釈にもみることができるごく一般なものである」(正信会報一4−18)
とうそぶいておりますが、これは仏法の基本である教・機・時・国等を全く無視した暴論であります。
この一例を挙げただけでも彼等の論理がいかにでたらめであるかがわかりますが、しばらく劈頭に挙げた四項目を追って、彼等の顛倒した論理を砕破してみようと思います。
宗教分の広宣流布と宗旨分の広宣流布
まず、広宣流布について彼等は
「宗旨分の広宣流布とは、宗教分の広宣流布が外に開いていくに村し、内面己心に収まるところの広宣流布である………宗旨分の広宣流布が当家の基本的な広宣流布であって、常にこれが主とならなければならない。その上で永遠の目標として宗教分の広宣流布が語られるのである」(事の法門について20)
と、訳のわからないことを言っておりますが、これについて御法主日顕上人は
「広宣流布は宗旨の広布が主体であり、宗教はその助けの役目を持つのでありますから、何もこんな立て分けをする必要がありません」(大日蓮427−12)
と、一言のもとに破折せられております。
末法は、唯一絶対の正境である御本尊を根本に、それを一切衆生に受持せしめていくところに僧俗の化他行があるわけでありますから、各々が信心を正しく確立して、外に向かって進むべきであることは申すまでもありません。故に大聖人は『九郎太郎殿御返事』に
「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ、此れを申せば人はそねみて用ひざりしを故上野殿信じ給いしによりて仏に成らせ給いぬ」(全集1553)
と仰せであります。
ここに、広宣流布に向かっての折伏が極めて難事であり、それに伴う功徳がいかに大きいかが示されているのでありまして、この御文からも広宣流布とは外に向かって展開すべきものであることが明らかであります。
宗教分の三大秘法と宗旨分の三大秘法
次に、三大秘法について彼等は
「三秘総在の大法を宗旨分といい、三秘が各別に論ぜられ、未来に戒壇を建立するとする論は宗教分にあたる」(事の法門について23)
と言っておりますが、これに対しても、御法主日顕上人は明解に
「三大秘法について、宗教分と宗旨分に分かつなどということがもう、実に混乱の極みであります………大聖人の御一期の御化導の順序から行けば………三大秘法が御施化の段階に応じて顕われてくるということはあるのであります………しかし、戒壇の大御本尊という本懐御顕示の後は、もう三秘が整足しておるのでありますから、これ以降は末法万年にわたって三秘整足に尽きるのでありまして、これは宗教などではありません。宗教は宗旨の依って立つ基盤ではありますけれども、既に本懐が御顕示された以上は永遠に三大秘法として、即ち宗旨の本体として一切衆生を利益したもうのであります」(大日蓮427―13)
と御指南あそばされておりますが、虚心坦懐に拝すべきであると思います。
戒壇の本尊の宗教分と戒壇本尊の宗旨分
さらに彼等は「戒壇の大御本尊」に対しても
「宗教分とは………既に存在する板曼荼羅に対する信仰及び修行の勧奨の意味を含めて本果、即ち下化衆生の意で、宗旨分とは、戒壇の本尊のできあがるまでの過程、本尊の内容、所謂本因、即ち上求菩提に関することである」(山内有志の御用教学に答う41)
等と、恐るべき判釈を加えております。これは、鎌倉に出現せられた大聖人と久遠元初の自受用身を立て分けたり、「肉眼では大御本尊の相貌が見えるまでで、大御本尊そのものは拝しえない」等の暴言からもうかがわれるように、図顕された本尊は外相で宗教分であり、外相に顕わされる以前の、目に見えない部分こそ内証で宗旨分と立て分けたいのでありましょうが、これは明らかに大聖人の御意から外れた邪説であります。
本尊とは、大聖人御自ら、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(全集760)
とも
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(同1124)
等と仰せのように、久遠元初自受用報身如来の御当体であります。
我々末法の一切衆生は、日寛上人が『観心本尊抄文段』に
「末法の我等衆生の観心は、通途の観心の行相に同じからず。謂く、但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、これを文底事行の一念三千の観心と名づくる」(日寛上人文段集453)
「但本尊を信じて妙法を唱うる則は、所信所唱の本尊の仏力・法力に由り、速かに観行成就するなり」(同四五五)
等と仰せのように、この御本尊に向かって無疑日信に信心修行に邁進することが大事であり、このような判釈は大謗法の所行以外の何ものでもありません。
宗教分の血脈と宗旨分の血脈
次に彼等は、血脈についても、
「宗教分の血脈とは、外相の血脈相承のことであり、貫主一人から貫主一人への相伝のことを云い、宗旨分の血脈とは、内証の血脈である」(山内有志の御用教学に答う32)
「(宗旨分の)法体別付の相承とは、誰から誰へと順次に流れる姿形のある相承ではなく、一切衆生の内証に流れる法体そのものの相承であり、信の上に覚知建立するものである」(清流を求めて78)
等と、大聖人以来の歴代上人の御指南に無い邪説を平然と綴っております。
総本山56世の日応上人は『弁惑観心抄』の当家相承を論ずる項に、驥尾日守の邪義を破して
「唯授一人嫡々血脈相承にも別付惣付の二箇あり其別付と者則法体相承にして惣付者法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云ふべし」(弁惑観心抄211)
と仰せられ、門家の法体別付の相承とは唯授一人、金口嫡嫡の相承であることを明示せられております。
かかる先師上人の御指南に違背して「法体別付の相承とは姿形のある相承ではなく、一切衆生の内証に流れる法体そのものの相承である」等と自分勝手に決めつけることは、増上慢による大謗法であることは言うまでもないところであります。
彼等のかかる邪説の根本は、信心を欠いた、悩乱の一語に尽きますが、その狂った頭で『依義判文抄』の
「問う、若し爾らば宗教の五箇其の義如何。
答う、今略して要を取り応に其の相を示すべし、此の五義を以って宜しく三箇を弘むべし」(学林版六巻抄252)
の文を曲解し、あたかも日寛上人が宗旨と宗教を根本と枝葉に立て分けているように欺瞞しておりますが、これがとんでもない間違いであることは、『報恩抄文段』に
「総じて蓮祖弘通の大綱は宗旨の三箇、宗教の五箇を出でざるなり。これを宗門八箇の法義と謂うなり。中に於て宗教の五箇はこれ能詮、宗旨の三箇は所詮なり。故に先ず須く宗教の五箇を了すべし」(日寛上人文段集430)
と仰せられておりますように、能詮・所詮の関係にある「宗門八箇の法義」のなかにおいて、何をもって何を弘めるかということを指南せられたものであります。
彼等は、天台の口伝法門を無批判に取り入れ、かかる頭で日寛上人の御文を読み違えて、宗教・宗旨を混乱し、無理やりこのわくの中に押し込もうとするところに、大聖人以来、御先師上人に無い、狂気とも言うべき勝手な判釈をするのでありまして、その陋識がまことに哀れであります。
2、流転門、還滅門の邪説を破す
次に、彼等の価値判釈の一つに流転門、還滅門の立て分けがありまして、すべてをこれに押し込もうとする邪説があります。
この流転・還滅の語源は、もともと小乗教に始まることは申すまでもありません。いわゆる『阿毘達磨大毘婆沙論』
「諸の有情の類に流転の者あり還滅の者あり。流転とは更に生を受くるを謂い、また還滅とは涅槃に趣くを謂う」(大正大蔵経27−515)
と、迷悟に立て分けられております。
さらに、これを流転門、還滅門と「門」を付される意義について、中村元氏の『仏教大辞典』には
「流転門とは、衆生が善悪の業をつくり、その結果、苦楽の結果を招く方面をいう。
還滅門とは、煩悩を断じて悟りを得、生死を離れて涅槃に向かう方面をいう」
とあります。したがって「門」とは、迷悟に向かう方向を示す言葉で、歴劫修行で論じるところであります。
在勤教師会と称する輩は、当家の法門をこの流転門、還滅門のわくの中に当てはめ、甚深の法義を知り尽くしたような顔をしておりますが、まことに笑止千万であります。
彼等の邪説を一々取り上げると先の宗旨分、宗教分の邪説と重複してまいりますので、その繁を避ける上から、今その一、二を拾ってみますと、
歴代上人について
まず、歴代上人について彼等は
「当家では、法門を構成する宗開三を、古来より三祖と称し、四世道師以下の歴代上人を世・代と呼称し、法門と現実の世界を明確に立て分けている………つまり三祖は、還滅門にて一即三と開し、三即一と合っして、一におさまり、法主は一人であることをあらわし、歴代上人は四世より次第して五、六、七と数を追う流転門の世界である」(清流を求めて73)
と言っております。
先にも触れたように、流転門とは煩悩によって生死流転する苦しみの方面で、いわば迷いの世界の方向であります。それを今、宗祖大聖人以来、血脈相承されて、衆生済度の導師として御法体を厳護、継承あそばされる御歴代上人に当てはめて流転門と卑下することは、これに過ぎる不知恩、大謗法は無いと断ずるものであります。
戒壇の御本尊について
次に、戒壇の御本尊について彼等は
「戒壇の本尊もまた、地下(還滅門)にあってこそ真仏であり、地上(流転門)に出づれば、虚仏となりはしないだろうか」(清流を求めて88)
とか
「当家では七百年来、丑寅勤行の際に御戒壇様を遙拝していたのであり、遥拝は姿形のない還滅門」(同87)
等と、三世諸仏の本種であり、一切衆生成仏の肝心である大御本尊を、地下にあってこそ真仏であり、地上に出づれば虚仏となると立て分けたり、また、その大御本尊を衆生が遙拝するところが還滅門であるなどという暴言は、全く御本尊の御威光と御本仏の御威徳を理解しえない者の考えであり、大邪見というべきであります。
およそ流転、還滅とは、あくまでも機の上に論じられるものであり、御本尊や仏身に論ずるものではありません。それを、凡僧が容易に触れてはならない宗開両祖を初めとする歴代上人を批判する材料にするとは、全く流転、還滅の語義を知らない、極めて幼稚にして低劣な認識であることを暴露した以外の何ものでもないのであります。
当家においては流転、還滅の言葉をもって法義の判釈には使わないのでありますが、今、彼等の迷妄を醒ますために、しいて真実の流転門と還滅門を明らかにしておこうと思います。
すなわち当家にあっては、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ奉り、唯授一人の血脈相承に随順して本門戒壇の大御本尊を至心に信じ、妙法を唱えることが唯一の成仏道であり、真の還滅門であります。一方、大御本尊を信ぜず、血脈相承に異説を唱え、我見をもって宗門伝統の法門を破壊することこそ大謗法であり、現実的な流転門の姿であるというべきであります。
3、己心・内証と外相についての邪説を破す
最後に、彼等が価値判釈の結論のように重要視している己心・内証と外相について述べてみたいと思います。
まず初めに、彼等は己心・内証と外相の関係を
「当家は眼に見えない内証仏法を主張する、内証、眼に見えないとは、即ち己心の所談だからである」(正信会報10−38)
と、目に映る姿形のあるものは無常で劣り、己心こそ大事であると尊卑を立て分けるのでありますが、これが既に爾前摺りの考えであります。
いわゆる仏法において、心はどのように説かれて来たかと申しますと、まず小乗教においては雑阿含経に
「此の世は心によりて動かされ、また心によりて悩まさるる、ただ心なる一つのものありてすべてのものを隷属せしむるなり」(阿含経典4ー41)
とあります。すなわち、この世の中のすべての事物は、心の動きに隷属させられていると説かれております。
次に大乗教においては、華厳経に
「心は工なる画師の如く種々の五陰を造る一切世間の中に法として造らざることなし」(大正大蔵経九−四六五)
と説かれておりますが、大聖人はこの経文について『一代聖教大意』のなかに
「造種種五陰とは十界の五陰なり仏界をも心法をも造ると習う・心が過去・現在・未来の十方の仏と顕ると習うなり」(全集400)
と申されております。すなわち大乗の心は、心より十界を生ずるとの教えであると看破されているわけであります。したがって、爾前の諸経はすべて心より万法を生ずるという点は同じであります。
それが法華経にまいりますと、『白米一俵御書』に
「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり」(同1597)
と仰せのように、心と万法は而二不二であることを明かされております。すなわち、爾前の諸経は心が能生で万法が所生であると立て分けますから尊卑が歴然としておりますが、法華経は心も大地も不二一体であると説くわけであります。したがって己心と外相のなかに尊卑を立てることは、爾前経の考えであります。
次に彼等は
「己心とは心の外にあるものではありませんが、心そのものでないことは当然です。心といえば煩悩そのものであり、己心とは心の煩悩を菩提として成じたときのことであります」(継命41号)
と、心とは煩悩の塊であり、己心とは煩悩を離れた悟りの心である、と前代未聞の立て分けをしておりますが、ここに第二の誤りがあります。
仏教辞典によりますと「己心とは己の心、他心に対する語」等とあって、個々の心であります。したがって、心と己心とは同義に解すべきであります。
大聖人は『観心本尊抄』に
「我が己心を観じて十法界を見る」(全集240)
と仰せであります。日寛上人は、これを末法今日の修行に約して
「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり。『十法界を見る』とは、即ち妙法を唱うる義なり」(日寛上人文段集471)
と仰せなされております。したがって己心とは、煩悩をもちながら御本尊を信じて妙法を口唱する衆生の心にも通じることは明らかであります。故に、心と己心とを隔てることは誤りであります。
およそ日蓮正宗においては、在勤教師会の輩が軽々に「本尊はこの己心の上に建立される」(継命41号)
とか
「当家における受持とは、受持正行、受持即観心といわれる如く、内証己心の信の一字であり、それが衆生の己心のうえに建立されれば、それぞれ唯授一人の血脈といえる」(清流を求めて80)
等と言うように、いたずらに「己心」という言葉を使うべきではないのであります。いわゆる末法の今日、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人が御出現あそばされ、御身に備えられた妙法を本門戒壇の大御本尊と御図顕あそばされた以上、当家における己心とは、大聖人の己心を外しては論じられないのであります。
すなわち『義浄房御書』に
「日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり」(全集892)
と仰せられ、これを日寛上人は『依義判文抄』に
「日蓮が己心の仏果等とは即ち是れ事の一念三千の三大秘法総在の本尊なり」(学林版六巻抄245)
と明示あそばされております。ここに言う大聖人の「己心の仏界」とは、単に心法のみを指すものではなく、森羅三千の諸法実相、色心のすべてを包含したところの究極の尊体であります。
もちろん、御書のなかには「心」という文字を衆生のものとして述べられているところもありますが、日蓮大聖人の己心である大御本尊の当体と、見思未断の我々凡夫の己心とは天地雲泥の相違があることは申すまでもありません。故に『取要抄文段』に
「当に知るべし、蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり」(日寛上人文段集571)
と説かれ、同じ当体蓮華仏といっても、大聖人の御境界と我々の立場とは全く違うことを明確に示されているのであります。
しかも彼等は、己心・内証と言って、己心と内証を同列に扱っておりますが、内証とは内面の証であり、仏の境界を指す言葉でありますから、大聖人の己心に限って言えば内証と同等のものではありますが、底下の凡心を内証と一体視することは、とんでもない間違いであります。
御先師日達上人は「本尊はこの己心の上に建立されるのである」とか「本尊は己心内証の目を開いた時はじめて建立されるものである」等と、不埒な言動を起こす輩の出現を見抜かれていたかのように、
「一般日蓮宗の人々は、この胸中の肉団に御本尊がましますという言葉を取って、大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もあります。しからば、何を以って自分自身の御本尊を見極め、崇めることが出来るでしょうか。我々凡夫に於ては到底そんなことは出来ないのであります。自分自身が御本尊だ、などと考える時は、既に増上慢に陥って、地獄の苦を受けるということになるのであります」(大日蓮33一120)
と仰せであります。今、このお言葉どおりの大謗法を犯し、深く無間大城に沈む輩の覚醒のために、この御指南をそのまま彼等に与えたいと思います。
以上、在勤教師会と称する輩の勝手な判釈である宗教分・宗旨分、流転門・還滅門、己心・内証と外相等について、その悩乱ぶりを述べてまいりましたが、かかる悩乱の根源は、本門戒壇の大御本尊に対して一片の信心すら無い川澄勲の自分勝手な考えに紛動された在勤教師会と称する輩が、まるで法義を知り尽くした大学者のように錯覚し、それに酔いしれて、最も肝心な大御本尊の妙用、御仏智という、大御本尊に対する絶対信を見失ってしまったことによるものであることを付言いたしまして、時局法義研鑚委員会の報告といたします。
時局法義研鑚委員 高橋信興
(1)
最近、正信会とか在勤教師会と称している者達の主義、主張を見聞すると、初めの頃の主張とその後になってからの主張とは、かなりの違うことや、全く反対のことを述べていることに気がつく。しかも、その論者らは、自己の以前の主張に対して反省や、総括批判することもなく、いとも簡単に自己の信念や主張を転向、正当化して自分勝手な意見を述べているのである。日蓮大聖人が
「非学匠は理につまらず」 (全集380)
と他門の学匠を批判されたことが、彼らにもそっくり当てはまると思う。かかるさまは、本宗のなかにあっても、戒壇の大御本尊に対する絶対信を忘失し、宗門七百年の正法伝持の法脈に背信した僧俗の悲しい姿を、私達に教示してくれるものであろう。
今、その一例として、元正信会会長・久保川法章の論文が挙げられる。彼は以前
「戒壇の大御本尊を根本に、唯授一人の御法主上人の御指南を中心に信心していくことが即身成仏の直道である」
と信者に講演していたが、のちに
「戒壇の本尊といえども究極の本尊とはいえない」
「血脈は貫主のみならず大衆にも流れている」
等々と、『正信会報』や『継命』に発表している。
この自己の信心を放棄した主張は、以前と180度の変わりようである。
また、同論文に対する正信会の、とりわけセンターを構成する者達の態度は、きわめて曖昧であった。
「久保川論文にしても、詮じつめれば『……更に法門的に御戒壇様を申し述ぶれば、大聖人の御当体たる宇宙大の久遠元初自受用身を、御本尊(御戒壇様)として……』
と論じたものと私は理解している。しかも久保川師の論文というよりは、自坊での御説法の原稿である。百歩ゆずって間違っていたとしても、御説法を間違えるたびに擯斥ではたまったものではないが、それが全国檀徒機関紙に掲載され、あたかも『御戒壇否定』と受けとられたのは、誠に遺憾である」(児玉大光・継命50号)
「久保川師が、宗門の血脈とはそんなちゃちな非民主的なものではない、と血涙の中に信者各位に訴えられた、宗門を守らんがための論文に対して……いかにして信者を正しい信心に導くか、この論文の底に流れる久保川師の、苦心惨憺の心情が少しも解せないとは……。勿論この論文に対して、それぞれがこれから論じ合うことを否定するものではない」 (佐々木秀明・同36号)
「(問)要するに、この論文は、近代の宗門、学会がしらずしらずに陥った物神論的本尊観に対する、一つの問題提起ととらえていいわけですね。
(答)そうですね。われわれも、この運動の過程で多くのことを学び、反省もしましたが、その一つが法門のあり方です」 (渡辺広済・同73号)
等の擁護の言は、久保川論文の誤りの重大さを認識できない正信会センターの、まことに歪曲性に富む性格を物語るものであろう。
当時、久保川が正信会会長という重要な、そして影響力のある位置にあり、また、同論文を正信会の機関誌である『正信会報』に発表し、さらにそれを檀徒に知らしめるために『継命』(34号)紙に全面掲載したことは、今後の正信会の意志統一をはかるための思想とみなされても、いたし方あるまい。もし、正信会が「統一見解」なるもので
「本門戒壇の大御本尊を断じて否定するものではない」(継命36号)
と主張するならば、まず久保川論文を総括批判し、否定したうえで「統一見解」を述べるべきであった。なぜならば久保川論文の主張は、本宗の『宗制宗規』の根本たる、宗綱第2剰条、第3条を否定し、二座の観念文たる
「久遠元初自受用報身如来の御当体(中略)本門戒壇の大御本尊」
を否定した、異流義の論文そのものである。およそ「統一見解」とはほど遠い邪義、邪説である。また、本宗の信仰の根本は戒壇の大御本尊と定まっているのであり、その宗旨の根本にかかわる事柄について正信会が「統一見解」を発表すること自体、矛盾に満ちたことなのである。
しかも正信会センターは、「統一見解」なるものを発表した前々号の『継命』(34号)において、久保川論文の掲載と共に同紙一面に、御当代上人に対し奉り、さきの慇懃無礼な質問に対してお答えいただけないとの理由だけで「法主詐称」と断定、発表しているが、このような者達には同論文の異流義を判断するだけの能力や冷静さもなく、また正しい信仰心のなかったことは、疑いのないことである。
正信会は、日顕上人を否定するばかりではなく、いとも簡単に御相承の全権を有されていた御先師日達上人の法脈伝持という本宗の根本伝統精神までを否定したのである。
また、最近発表された在勤教師会の論文は、広宣流布、令法久住という本宗の大願や、将来の宗門発展、近代化へのビジョンというにはほど遠く、その場かぎりのことばや、刹那的な発想論稿が多く、また自己の妄執、我見に執われ、激昂した感情的な論文が多い。
これは何を物語るものか。それは、いつにかかって正信会の者達の信仰そのものが変質したからであり、とりわけ、御当代日顕上人によって一々垂示、慈折の教示を受けるたびに正信会路線の自己正当化、言いわけをしなければならなかったからである。
(2)
さて以前、在勤教師会の者達が発表したパンフレット『事の法門について』を読み、気づいたことを少しく述べてみたいと思う。
まず、パンフレットの「はじめに」の部分に、現在の宗門の教学を明治教学の影響を受けたものとして、次のように批判をしている。
「今一言をもってこれを言えば、内証己心を基調とした法門が、物質文明の影響によって次第に外相化していったということである。こうして出来上がった教学を一応明治教学と呼べば、この教学はおのずから外相中心の教学である。三秘惣在であるはずの本門の戒壇が、単なる物体として独り歩きするいわゆる国立戒壇論や戒壇本尊真偽論争は、明治教学の中から出るべくして出た」
と言って、彼らは己心に偏重し、外相を軽視しているが、本宗の法門は内証も外相も、教相も観心も、そして宗教も宗旨も、双方がしっかりと組み合わさっている。そして、その根底に、相伝の御法門があるのである。
大聖人の教義は「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(全集398)
と仰せのように、相伝の法門が根幹となってそれが伝わり、さらに所対によって法門は展開されるのである。日淳上人は
「既に大聖人は此経は相伝によらずんば知りがたしと仰せられて相伝の鍵をもたずに此経の扉を開くことはできないとせられてをる。その鍵こそ日蓮大聖人の御教である」(日淳上人全集159)
と、また
「大聖人様から日興上人様への御相伝、日興上人様から日目上人様への御相伝、仏法の要を尽して御相伝あそばされてありまする。実に尊い所と拝する所であり、我が日蓮正宗は、この相承の家にありまして、この大聖人の尊い教を七百年の間一糸乱れず今日に伝へて居る次第でごぎいまする」(同194)
と述べられている。
このように本宗は、御相伝の法門が根本にあることは、いうまでもない。そして令法久住、広宣流布という大綱のうえに、教相判釈の筋目が明確にされたり、観心内証についての教義研鑚に重点がおかれた時もある。また一方、弘教の面においても、ある時代には外に対する布教も思いにまかせず、護りの時もあり、また大いに折伏の法鼓を鳴らした時もあったのである。
しかし、いずれにしても、その時に応じて、その御相伝を根本に一宗を率先、教導される御法主上人の尊い大悲願や、広布への深い情熱が拝されるのである。
我々が信心の眼をもって本宗の歴史を振り返るとき、大聖人の
「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」(全集507)
という大目的に向かって、たとえ一歩や半歩なりとも前進されようとした御歴代先師方の、並々ならぬ御苦労が拝されるのである。
過去、徳川時代を見るならば、当時は布教や自讃毀他を禁ぜられ、たしかに折伏も思うにまかせぬ封建制の時代で、外面的に改宗も難しい時世には、やはり内面的な教学の研鑚に力を注がれ、一見、学問中心、摂受中心のように見受けられる時代もあった。
このようななかにあって、日寛上人の教学顕彰は目を瞠るものがあるのは誰人も異論のないところであり、一方、破邪顕正の弘教の折伏は、令法久住の形をとり、本門戒壇建立も将来に托して、戒壇の大御本尊を深く蔵して厳護されてきたというのが、徳川時代の信心の姿と拝せるであろう。このような時代であっても、日寛上人の広宣流布への大情熱は少しも萎えることなく、ますます内に秘めて強く燃え、徒弟の育成、信者の教化にと勤まれたのであった。
そして
「但吾富山のみ蓮祖所立の門流なり故に開山已来化儀化法四百余年全く蓮師の如し」(当流行事抄・富要3―211)
と仰せられて、化儀・化法が正しく相伝されて来ていることを仰せられている。
つづいて明治に入り、国体思想が強くなり、また西欧の思想も漸次、入ってきて物事の考え方も大きく変わったであろうが、前述の如く宗門の教学は、相伝されてきた御法門の基本が厳然とあって、そのうえで教学が展開きれたのである。日応上人は
「一、吾本山大石寺ハ血脈相承ナルモノハ元ヨリ唯授一人二限ルモノニシテ断シテ二三アルニアラス故二開山日興ハ是を日目ニ附シ日目ハ是ヲ日道ニ附シ金口嫡々附嘱相承シテ五十有余代ノ今日マテ毫末乱ルゝナシト為ス」(法之道・研究教学書27ー31)
と仰せられ、また
「此ノ金口ノ血脈コソ唯仏与仏ノ秘法ニシテ独リ時ノ貫主ノ掌握セル所ナり是レニハ数種アリ又数箇ノ條目アリトイヘトモ其ノ中一種ノ金口血脈ニハ宗祖己心ノ秘妙ヲ垂示シ一切衆生成仏ヲ所期スル本尊ノ活眼タル極意ノ相伝アリ又師資相承ノ如キハ宗祖直授ノ禁誠ニシテ令法久住ノ基礎タリ是レ等ヲ此レ唯授一人金口嫡々血脈相承ト云フ也」(同474)
と、御相伝の法門が令法久住の基礎となっていることを仰せられているのである。
今また戦後、信仰の自由により大いに信心の内容、数量ともに充実、伸展してきたのであり、これまた誰人も否定できない現実であって、そこにはまた、たしかに種々の問題も出てきたのであった。
その問題を解決しようとする努力は大切であるが、大聖人の教えの信心の筋道から外れ、宗門の方針にそぐわない我意・我見をもってしたり、前述の如き流れのなかにある宗門の教学の在り方を批判することは、時代性を無視した“未得謂得”の増上慢という他はないであろう。在勤教師会の者達は、あえて「明治教学」と批判し、物質文明、外相中心の教学というが、それは大いなる謬見である。
本宗は、日淳上人が仰せになった如く「相承の家」であり、そして「相伝の鍵」をにぎられる御歴代先師上人方の尊い信仰を根本・中心にしてすべてが顕揚されたものであり、それは“日蓮が慈悲曠大”の流れから、いささかも外れるものではない。したがって日有上人、日寛上人、日応上人等、若干の特徴があろうとも、根本の大御本尊に対する絶対信においては少しも違いはないのである。“我らにも血脈はある”といって、自己の短見によって先師方を冒涜することこそ城者破城の者でなくて、何であろうか。
(3)
次ぎに在勤教師会の彼らのいう「師弟一箇の本尊」ということについて述べてみたい。
彼らは
「大御本尊建立の起因が、最底下の衆生たる熱原法華衆の受持にあること(師弟一箇)、そして、大聖人お一人でなく日興上人と師弟相寄って建立されているということである。この師弟一箇こそが事迷の法門大聖人の仏法の真髄であって、戒壇の大御本尊・久遠名字の妙法の正体である」(事の法門について・10)
といい、また
「師弟一箇戒壇の大御本尊建立となったのである」(同11)
といっている。
まず「師弟一箇」ということについてみると、この語は“人法一箇の御本尊”と申されるように、人と法とに勝劣がない場合は「一箇」といってもよいと思われるが、入門初心の弟子は当然、師より教えを授けられ、しかして行学が増進していくのであって、この師弟の関係は師弟相対の姿でもあり、師弟不二平等とは信心のうえからいえることなのである。しかし現実には、師弟にはおのずから上下・差別があるのであるから「師弟一箇」という語は適当ではない。師弟不二一如といっても、師弟而二がなければならない。そうでなければ、それこそ“師弟の混乱”ということになろう。
末法の我々は師弟相対して信心修行することが大切であり、そのことを「事の一念三千」とも「事行の妙法蓮華経」とも申されるのである。日有上人は
「師弟相対する処が下種の躰にて事行の妙法蓮花経なるが故に云云」(有師化儀抄・富要1ー64)
「是れも師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経なる故なり」(同65)
等と仰せられている。
次に彼らがいう「師弟一箇の本尊」ということについてみると、「戒壇の大御本尊」をそのように称しているようであるが、これも不適当といわざるをえないのである。
戒壇の大御本尊は、御弟子日興上人と信徒の熱原の法華衆の強い不惜身命の信心によって、大聖人は深く御感あらせられて、御建立になられたのである。しかしながら『御伝土代』の
「その時大聖人御感有って日興上人と御本尊にあそばすのみならず云云」(日蓮正宗聖典596)
の御文を曲解して「師弟一箇の本尊」と命名するのは不適当であろう。
日寛上人は
「故に弘安元年已後、究竟の極説なり。就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(日寛上人文段集452)
と仰せである。御本仏日蓮大聖人の仏力・法力が顕発され、唯我与我の御境界の日興上人と弟子檀那の信力・行力の顕現とあいまって、今こそ末法万年尽未来際のため、大御本尊建立の時と、大聖人が「御感あって」御建立されたのである。
宗内では古来より、この大御本尊を“戒壇の大御本尊”“一閻浮提総与の御本尊”と伝統的に称し奉ってきたのである。
「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ此の本尊有さず」(全集254)
と大聖人が仰せられた大御本尊である。今、何の理由あって「師弟一箇の本尊」などと、法義に外れた意義づけをして称する必要があるのか。ただただ深い御本仏の大慈悲に感謝、御報恩申し上げるべきではないか。
ここで御法主日顕上人の御指南を拝してみよう(要約して掲げる)。
○たしかに、大聖人と日興上人が唯我与我の境界において仏法は伝承されるから、お二人が寄り合って建立という意味はある。
○しかし能開・能顕の主は大聖人であられる。
○そしてその根源において、大聖人の一迷先達という意義がある。『総勘文抄』『当体義抄』に“即座開悟”の重大な御文がある。大聖人お一人の境智の御振る舞い、百界千如・事の一念三千としてのお悟りがある。
○仏界即九界・九界即仏界、唯我与我の承継、久遠名字・妙法の受持一体の境界をもって末法万年に弘通するいちばん元に立たれたのが日興上人である。
○本宗では日興上人のお立場をあくまで僧宝と立てる。このことは『当流行事抄』に明らかである。
○日有上人の御文や他の先師方の御文を引いて師弟一体の問題を論じているが、法門全体の綱格を見失って御先師の正意が解らず、一文の筋を取り違えて全くおかしなこじつけが出てくるのである。(大日蓮427号)
と御教示されているのを熟考すべきである。
(4)
次に、彼らは『事の法門について』において
「大聖人の内証(鎌倉の人間日蓮と区別する)即自受用報身・久遠名字の妙法が本尊の体であることが述べられている」(10)
といっている。「鎌倉の人間日蓮」とはどういうことかよく解らないが、肉体の御身をもって鎌倉時代に御誕生になられ御歳61にて御入滅された宗祖大聖人を指すのであろうか、また竜の口発迹顕本以前の宗祖大聖人を指すのであろうか。これに対して竜の口顕本以後の大聖人の己心(内証)を「大聖人の内証」といっているのであろうか。
しかし、現実に鎌倉御出現の日蓮大聖人は示同凡夫のお姿で末法に和光同塵せられたのであって、我々と同じ理即但妄の迷いの九界の衆生とは全く違うのであるから「人間日蓮」という表現は当家の信仰上、正当ではない。他宗の者達や信仰の全くない人間のいうことと同じである。むろん、発迹顕本以前と以後の日蓮大聖人の御化導を、立て分けをもって拝することは申すまでもないことである。しかして『文底秘沈抄』に仰せの如く
「若外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若内証の深秘に望まば本地自受用の再誕日蓮なり、故に知ぬ本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(富要3―77)
と説かれている。
末代の我々衆生にとっては、鎌倉御出現の日蓮大聖人の御化導を抜きにしては久遠元初の自受用身を拝することはできない。また上行菩薩と申しても真の姿は判らないのである。日蓮大聖人の御化導のなかにこそ、我々は御本仏の生命を拝し、元初の無作三身自受用報身如来の生命をそこに拝信することができるのである。日寛上人は
「血脈抄に云く久遠元初の天上天下唯我独尊は日蓮是なり云云、久遠元初の唯我独尊豈自受用身に非ずや、故に三位日順の詮要抄に云く久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なりと取定め申す可きなり云云」(当流行事抄・富要3ー199)
と、また
「日蓮は日本第一の法華経の行者なること敢て疑無し……第一は即是最極の異名なり……若爾ば一閻浮提第一とは即是名字究竟の本仏なり」(末法相応抄・同166)
「蓮祖一身の当体全く是十界互具の大漫荼羅なり」(同)
と、さらにまた
「本門の大本尊其体何物ぞや、謂く蓮祖大聖人是なり」(当流行事抄・同217)
と明示されている。
自己の短見でもって本宗の事の法門を定義づけることは大謗法であり、誑惑の根本である。
お わ り に
以上、思いつくままに正信会ならびに在勤教師会の者達の論文について少しく誤りを指摘したのであるが、彼らに「戒壇の大御本尊」に関して「師弟相寄って建立されている」とか「師弟一箇の御本尊である」等々という考え(その他、宗教・宗旨、流転・還滅、外相・己心等々)が出たのはなぜか一概にはいえないが、これは身延流の教義研究の弊害によるものである。いわゆる血脈がなく、相伝御法門に基づくことができない他門では、各個人の教学研鑚によって各人の教学の把握がなされ、その結果、多種多様の教学が開陳されるが、それに対しての善悪・正誤の筋道を判断する相伝仏法がないから異見続出して帰趨をみることがなく、それがそのまま各個人の教学となってしまうのである。
また、彼らの思想には川澄某の一種独特な法門のとらえ方による影響があると思われるのである。すなわち川澄某の記したといわれる『阡陌渉記』を一読すると、彼らのいっている前述のような法門のとらえ方が論じられていて、彼らに大いなる影響を与えたことがうなずけるのである。
その川澄某も、そして在勤教師会の者達も、御法門のことを“読みが浅い、深く読まねばならない”というが、狂った方向に走りつつ、うぬぼれて、いくら深く読んだつもりでも、間違いはどうにもならない。それどころか、自己のみならず多くの人々を迷妄の淵へ引き入れてしまう結果になる。その罪業の深さをよろしく自覚すべきである。
ここに相伝仏法の大切さと、血脈相伝における御指南というものが現実のうえにあらねばならないのである。
『遺日尊之状』(日尊に遺わさるの状)に
「日興上人御跡人人面面法門立て違え條。或は天目に同じ方便品を読誦せず、或は鎌倉方に同じ迹門得道の旨を立て申し候。唯日道一人正義を立つる闍ュ敵充満なるに候云云」(歴代法主全書1―287)
とあるが、大聖人、日興上人から承け継ぎ相伝された正義の御法門によって日道上人が、面々勝手に主張する間違った教義(化儀)を決判されたことが拝されるのである。
当家は相伝法門を中心とし、御当代上人の御指南を拝しつつ教学研鑚をすることが大切である。大聖人の甚深の御法門を頭のなかだけで考えて、理に走ってはならない。そして“己心・内証″といっても、いちばん肝心なのは、日寛上人が
「『観心』というは、我等衆生、本尊を信じ奉って南無妙法蓮華経と唱うる義なり」(日寛上人文段集461)
と仰せの如く、まずは御本尊に身・口・意の三業にわたってお題目を唱えることが肝要である。
さらにまた
「答う、末法今時、理即・但妄の凡夫の観心、豈正像上代の上根上機の観相に同じからんや……故に但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり」(同454)
と仰せである。末法の「理即・但妄」の我ら衆生にとって最も大切なのは、信の一字である。今こそ心の底から、御本尊に向かい奉ってお題目を唱えることである。
「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき所詮時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし」(全集1267)
と仰せの御文を、肝に銘じて拝すべきである。
信心の根本である戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相伝を厳護していくことが我ら日蓮正宗の僧俗の使命であることは 論をまたない。しかるに戒壇の大御本尊を蔑み、唯授一人の血脈相承を否定する者が、どうして日蓮正宗の宗徒といえようか。
今こそ我々は、御法主日顕上人の御指南を拝しつつ、正信会や在勤教師会の己義・我見にまどわされることなく、戒壇の大御本尊と御相伝の仏法の大事を、顕彰していかなければならないのである。
時局法義研鑽委員 尾 林 広 徳
自称正信会および在勤教師会、久保川法章達の本宗の法義に関する牽強付会(けんきょうふかい)の妄説に対して、日顕上人は去る昭和56年8月25日、次いで昭和58年8月29日、いずれも全国教師講習会の席上において、宗義の大綱の上から、その謬説(びゅうせつ)を厳しく糾弾、論破あそばされ、本宗の正統な教義に則のっとって、御法主としての裁断を下された。
宗門人ならば僧俗を問わず、この猊下の御指南を伏して仰ぐべきである。
また、宗門の機関誌である『大日蓮』の誌上においても、時局法義研鑽委員会のメンバーによる破折の論説が次々に発表されている。
したがって、私はそうした既に破析され尽くした問題はさておき、彼等の主張のなかに引用される大聖人の御書や、とりわけ日寛上人の御指南の拝し方、その我田引水、牽強付会の解釈が、その結論において、大聖人や歴代御先師の正説に反し、その意を失わしめていることについて、いくつかの事例を挙げ、彼等の迷妄を明らかにしておきたいと思う。
「法華経を讃(さん)ずと雖いえども還って法華の心を死(ころ)す」
とは『法華秀句』における伝教大師の言葉であるが、大聖人の久遠元初の事の一念三千の南無妙法蓮華経を讃じつつも、大聖人の教義の根幹である本尊の正義と、大聖人の御化導の心を死ころしては何にもならない。それこそ師敵対の大謗法である。
いま、彼等の説を直截に評するならば 「法門の狂いは、想像以上に根深く深刻である。我々には大胆な発想の転換」が必要という増慢と、 「内証己心を基調とした法門が、物質文明の影響によって次第に外相化していった」と主張して、明治の御先師を蔑さげすみつつ、結局のところ、戒壇の大御本尊を初め、多くの曼荼羅本尊を御図顕あそばされた大聖人の御施化そのものまで、外相の本尊と蔑視するに至っているということである。
『衆生の己心に証得する本尊について』彼等は、日寛上人の『観心本尊抄文段』における「次に観心の文に『此の三千・一念の心に在り』等というは、この一念三千の本尊は全く余処(よそ)外ほかに在ること無し。但ただ我等衆生の信心の中に在(おわ)しますが故に『此の三千・一念の心に在り』と云うなり。若し信心無くんば一念三千の本尊を具せず。故に『若し心無くんば已(やみ)なん』と云うなり(中略)宗祖の所謂いわゆる『此の御本尊も只信心の二字に収れり』〔1388〕とは是れなり」(日寛上人御書文段209頁)の文を挙げて
「宗祖や寛師は究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にあると示されている。つまり流転門の相対の世界で考えられていた本尊が、還滅(げんめつ)門に切換えられ、我が身にひき当てられた時、はじめて当家の本尊があらわれるというのである」
と言っている。そして、大聖人の御建立あそばされた御本尊を「実に十界曼荼羅は、旧来の事物に執し、色相を尊ぶ偶像崇拝を打破し、己心内証に証得する本尊を顕わさんが為のもの」と論断するのである。
この在勤教師会の解釈は、明らかに大聖人の『日女御前御返事』における
「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。云云」(御書1388頁)
の御文と、日寛上人の御指南を曲解している。
日寛上人の『文段』『六巻抄』等を具さに拝してみるがよい。日寛上人はけっして「宗教分では行者と相対していた本尊が、宗旨分では実は、行者の外にあるものではなく、信を以って刹那に己心のうちに証得される」等とは仰せになっていない。
日寛上人は、末法の日蓮が弟子檀那の観心の本尊を明かされるに当たって、『観心本尊抄文段』に
「謂わく『観心』の二字は即ち是れ我等衆生の能信能唱の故に九界なり。『本尊』の二字は一念三千即自受用身の仏界なり。我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ち是れ本尊なり。故に九界即仏界なり。故に『観心本尊』の四字は即ち十界互具・百界千如の事の一念三千なり」(日寛上人御書文段205頁)
と御指南あそばされている。つまり、日寛上人は、宗旨分と宗教分、流転門と還滅門の相対だとか、己心に建立する本尊等と、独(ひとり)よがりの本尊義を立てておられるのではなく、大聖人御図顕の所信・所唱の御本尊が建立されて初めて、我等の観心の成り立つことを、すなわち、信行の具足による観行の成就をお示しになっているのである。
末法の我等衆生の観心は
「但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり」(観心本尊抄文段・日寛上人御書文段198頁)
との御教示と相まって
「我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり」(同205頁)
「我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ち是れ本尊なり。故に九界即仏界なり」(同頁)
と、文底下種直達正観・無作本有・事の一念三千の南無妙法蓮華経という観心の本尊に約して、しかも、彼等の主張の如き外相を捨てて「己心の法門」「己心の本尊」という己心の偏重、別立ではなく、「己心」と「我が身の全体」、つまり、色心の二法全体の成道を明かしておられるのである。
本尊の仏力・法力と、日蓮が弟子檀那の信力と行力によって、仏界即九界、九界即仏界、即座即身の成仏、刹那せつなの成道の叶かなうことを説き明かされているのである。
したがって日寛上人は
「故に知んぬ、但文底下種の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる則(とき)んば、仏力・法力に由り即ち観行成就するなり。若し不信の者は力の及ぶ所に非ざるなり」(同201頁)
と明言せられている。そして『取要抄文段』においては、さらに明確に
「当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり」(日寛上人御書文段545頁)
と仰せあそばされている。したがって『日女御前御返事』における「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1388頁)
とは、
「若し理に拠よって論ずれば法界に非ざる無し」(観心本尊抄文段・日寛上人御書文段210頁)
の一念三千の法理も
「事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則(すなわち)異なるなり」(同頁)
ことを人即法の本尊に約して、明らかにせられたものに他ならない。
換言するならば、理法の上において一切衆生の一念に己心所具の三千の諸法を観見する天台家の観心とは違って、「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり。『十法界を見る』とは、即ち妙法を唱うる義なり。謂わく、但ただ本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全く是れ我が己心の十法界なるが故なり」(同214頁)と『観心本尊抄文段』に日寛上人が明かされる如く、当家の観心はどこまでも、事の一念三千の南無妙法蓮華経の御本尊を受持するところにあり、その信心口唱に観心の義の成ずること、そして無上の宝聚を自然に受得することを、「信心の二字にをさまれり」と御教示あそばされたものと拝さなければならない。
しかも、このことは日寛上人が「当体義抄の大旨たいし、之を思い合わすべし」(観心本尊抄文段・同210頁)と仰せのように、『当体義抄』における
「但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書694頁)
の御文や
「日蓮が一門は、正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕はす事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり」(同701頁)
との御指南を合わせ拝しつつ『日女御前御返事』の文を拝考申し上げなければ、大聖人の御真意に触れることはできない。
すなわち『日女御前御返事』が、人即法の本尊・事の一念三千に約して末法の衆生の証得を明かされた御文ならば、『当体義抄』は、法即人の本尊・本門寿量の当体蓮華仏に約して末法の衆生の証得を明かされたものと言うことができよう。
しかして、日寛上人は『当体義抄文段』に
「本有無作の当体蓮華仏とは、本門の本尊の御事なり。我等、妙法信受の力用に依って本門の本尊・本有無作の当体蓮華仏と顕るるなり」(日寛上人御書文段624頁)
とも、また
「『正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる人』とは本門の題目なり。『煩悩・業・苦乃至即そく一心に顕あらわれ』とは、本尊を証得するなり。中に於て『三道即そく三徳』とは人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり。『三観・三諦即一心に顕われ』とは法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり。『其の人の所住の処』等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕わすなり」(同628頁)
と御教示あそばされている。
いま、日寛上人のこうした御指南の上から、在勤教師会の 己心に建立する本尊義 の誤りを要約するならば、
(1)に、大聖人が何に対して、事の一念三千の南無妙法蓮華経の御本尊を 「余所に求もとむる事なかれ」 と仰せになったのか。そのことの御正意が理解できていない。
(2)に、大聖人が本門の本尊の信受に約して、不信謗法の類(たぐい)を簡えらび捨てて、本尊を信受する人をもって直ちに妙法の当体蓮華仏と、末法の衆生の観行の成就、証得を明かされているにもかかわらず、これを「流転門」「色相を尊ぶ偶像崇拝」と誹謗していること。
(3)に、日寛上人は
「色心何ぞ別ならんや。十界互具・百界千如・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり」(取要抄文段・日寛上人御書文段545頁)
「『色心』と言うは、『色』は即ち人の本尊、『心』は即ち法の本尊」(当体義抄文段・同628頁)
と、本門の本尊、本有無作の当体蓮華仏が人法体一ならば、その本尊を信じ行ずる日蓮が弟子檀那の当休も、妙法信受の力用によって、本門の本尊、本有無作の当体蓮華仏と顕われるにもかかわらず、色体の成道を忘れて、「己心の本尊」「己心の法門」と、己心のみを偏重している。
(4)に、御本尊は仏界、我等衆生の観心は九界、御本尊は能顕、己心の妙法は所顕の別があるにもかかわらず、「究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にある」とか「師弟一箇」等と称して、因分の無作三身と究竟くきょう果分の無作三身という、本有無作三身における惣別(そうべつ)の重(注・取要抄文段・日寛上人御書文段514頁〜516頁)を知らず、「衆生の己心の上に信を以て証得する本尊」を指向することによって、むしろ、本尊と観心、仏界と九界、能顕と所顕が逆転した顛倒の本尊観を立てている。
もとより周知の如く、弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊は、大聖人の御出世の本懐、末法下種の正体にして、三大秘法総在の本尊である。したがって日寛上人も『観心本尊抄文段』に
「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(同197頁)
と仰せあそばされている。
しかるに、大聖人の『日女御前御返事』における「信心の二字」のお言葉や、前述の如き日寛上人の御指南を曲解して、
「詮ずるところ戒壇の本尊といえば、すでに滅後己心に顕わされるもの」
「衆生の己心の上に信の二字をもって刹那に建立されるのである」
等の邪説を構える根拠とされたのでは、大聖人はさぞや、お嘆きのことであろう。日寛上人はさだめし、お悲しみのことであろう。
大聖人の本懐たる本門戒壇の大御本尊と、末法万年の日蓮が弟子檀那に対する、大聖人の御化導の御本意を踏みにじる、これ以上の謗法はない。
大日蓮 昭和58年11月(第453号69〜74頁)
(御書・文段は大石寺版に訂正し、O印の付された文字は色付けした