第8章 富士門流の報恩観  

 

 

 近代宗門はその正統を論ずるあまり、極度の排他主義に堕したきらいがある。そこには上代の富士門流にあった大切な何かが欠落している。それは「報恩」の精神である。現代社会に目を転じれば、その驕った生活には物事に対する報恩の心など微塵も見られない。報恩観を失った社会は、如何に繁栄しているように見えようとすでに破綻している。天台迹門から鍋・釜にまで報恩の思いを説いてきた富十門流の報恩観とはいかなるものか。

 

 

 

I. 本門下種と迹門熟益の恩徳  

一、天台伝教ノ恩徳ヲ報スル事有リ是ハ熟益ノ通リ也。サテ本門下種ノ宗ナル所ニハ混乱スヘカラス、内鑑冷然、外適時宜等云云。学問修行シテ一字一句ヲモ訓ヘラルル輩ラヲモ正法ニテ訪ヘキ事也。其ノ外カ歌道ヲ学フ時ハ人丸ノ恩徳ヲ大切ニシ、管絃ヲ学フ時キハ妙音ノ恩徳ヲ報シ、釜ヲツカフ時ハ釜ノ恩徳ヲ大切ニシ、臼ヲツカフ時キハウスノ恩徳ヲ大切ニスル事有リ云云  (化儀抄、歴全1−343)

 本文は化儀抄の第15条です、はじめに簡略に通釈致します。

 当宗においても、天台大師ならびに伝教大師の恩徳を報ずることがあります。しかし、それは迹門熟益の行者としての報恩であり、本門下種の教主の日蓮聖人に対する報恩と混同してはなりません。摩詞止観に「内鑑冷然、外適時宜」とありますように、天台、伝教の両大師は末法の時いまだ至らざるゆえに、内には冷然として妙法を解了されておりましたが、外には時の宜しきにしたがい、権迹の法門を宣説するにとどまりました。そこに、本門下種の宗と迹門熟益の宗との相違があります。

しかし、その相違を心得た上で、恩ある人やさまざまな事物に対して、相応の報恩を尽くすことも大切な事であります。

 たとえば、学問修行の途上、一字一句でも教えを戴いた方にはすでにして学恩があるわけですから、その人の死去に際して正法をもって弔うことは当然のことです。また、和歌の道を学ぶときには歌聖といわれた柿本人麻呂の恩徳を大切に思い、管絃(音楽)の道を学ぶときには、法華経妙音品に説かれる音楽を司る妙音菩薩の恩徳に報いなければなりません。のみならず、日常生活にあっても、釜を使うときには釜の恩徳を大切にし、臼を使うときには臼の恩徳を大切にして、何事につけても有り難く思う心構えが肝心なのであります。 

 

《二つのことがら》

 この化儀抄の項目は、当家における報恩のとらえ方を教示されたものであります。

 本文において、日有上人は二つのことを示されました。一つには、冒頭に「天台伝教ノ恩徳ヲ報スル事有リ、是ハ熟益ノ通リ也。サテ本門下種ノ宗ナル所ニハ混乱スヘカラス」とありますように、当家が天台、伝教の両大師に報恩するのは他の日蓮門下が本迹一致の立場からそれを行なうのとは相違して、あくまでも迹門弘通の行者に対する報恩にとどまることを示された点ですついで二つには、「本門下種ノ宗ナル所」の報恩をまず心得た上で、恩ある人やさまざまな事物、すなわち森羅万象にいたるまで、それぞれ相応の報恩の念をもつことが肝要であることを、示すされた点です。

 前者において、なぜ日有上人が報恩を本門下種と迹門熟益に立て分けられたかと申しますと、この ことが本迹一致を唱える他の日蓮門下と本迹勝劣の上に法門を建立している富士門流との明確な相違点となるからであります。後迹いたしますが、このことは日興上人の在世に遡って、五老僧方が日蓮聖人の弟子であることを放棄し天台沙門と号したことと少なからず関連致します。

また、日有上人がなぜ後者について、恩ある人や事物に対して報恩の念をもちなさいと示されたかと申しますと、本迹勝劣を主張する本門立ちの人は、ともすれば独善的な考え方に陥りやすい弊害もあり、それを戒める必要も感じたのではないかと思います。本門下種への報恩を誤解して、その独勝を強調するあまり、周囲の人々の恩徳や事物に対する有り難い思いを失しては信仰者として片手落ちになります。またそれは、富士門流の真実の信仰からも遠ざかる結果を招くでしょう。そこで日有上人は、双方をならべて化儀抄の一箇条に示されたわけです。

言うまでもありませんが、日有上人の化儀抄、諸聞書には、このような方法  一項目に二義を立てるか、あるいは二つの項目をもって一つの富士の立義をあらわすが多く見られます。

見方によれば、最初に富士門流独自の見解、立場を表明し、そのあとは説明のために注意書きなり、補釈を付したとも言えるのですが、その注意書き、補釈になかなか意義深いものがあり、それによって初めて富士の立義の何たるかを知るというケースが少なくありません。ゆえに、一項目に両義が存する場合、いずれに偏ることなく、両義ともに吟味検討して理解する姿勢が大切かと思います。その上で、両義の軽重や浅深、もしくは同異性を判断致します。

一例をあげれば、下野阿闇梨聞書に次のような仰せがあります。  

「此の如く、事迷の当体にして又余念なく南無妙法蓮華経と信ずる処が即釈尊本因妙の命を次ぐ心なり。尚次ぐと云ふも麁義なり、只釈尊の妙の振舞い也。されば当宗は本因妙の処に宗旨を建立する也、然りと云て我が身を乱達に持つを本と為すべからず。さて当宗も酒肉・五辛・女犯等の戒事を裏に之れを用ふべき也。是れは釈尊の果位の命を次ぐ心也」(歴全1−396)

これによれば、まず当宗の大綱では、本因妙に宗旨を建立することが示されています。本因妙の宗旨とは、分かりやすく言えば妙法を信ずる志そのものを指すわけですから、修行において釈尊の五戒などの持破は本来問われません。いわゆる受持の一行のみが正行になります。しかし、だからと言って法華経を信行する私たちが、ほしいままに我が身を「乱達」にたもって良いはずはない、ゆえに「酒肉・五辛・女犯」などの戒律をその身に合わせて所持していかなければならない。それを日有上人は、あえて「是れは釈尊の果位の命を次ぐ心也」と示されたのです。

もちろん、本因妙に宗旨を建立することは前提条件としてあるわけです。しかし、宗旨の大綱を本因妙に定めた上で、釈尊の教えもまた大切に取りなしてゆく、ここに当家の化儀の特徴があるように思えます。

 朝夕の勤行にしましても、方便・寿量の読誦を助行とし、唱題を正行とするのが当家の化儀であります。これなども、私たちが成仏を遂げるということからすれば、法華経文上の方便品・寿量品に得益はありません。ただ寿量文底の妙法蓮華経の一法によってのみ得益を受けます。しかしながら、妙法によってのみ得益を受けるのだから方便・寿量は読誦せずという化儀にはなりません。宗旨の大綱を寿量文底の妙法による得益と定めた上で、もしくは定めるために、文上の方便品、寿量品も当家にとっては必要欠くべからざるものなのであります。これは、修行という観点からすれば、むしろ当たり前のこととも言えます。修行とは、極果に至る過程をいうのですから、文底の妙法に到達するまでには、方便品の理の一念三千、寿量品の事の一念三千をかならず経なければなりません。妙法の極果に至れば、過程としての方便・寿量はその任を終えたとも言えますが、やはり、それまでに果たした役割というものを認めないわけにはいきません。もう少し言うならば、文上を借りてこそ、ようやく文の底は明らかになるのであって、ある日突如として文底法門が出現するということはあり得ないのであります。そこで、方便・寿量の両品に末法の衆生を救う得益は無くとも、当家の化儀においては朝夕の勤行に両晶を読誦するのであります。

 これを要するに私は、釈尊の教えへの恩に報いるという意味合いも含まれているのではなかろうかと思います。と同時に、文底の妙法の最勝を謳い過ぎて、独善に陥ることの無いように、その出拠を明らかにする意味もあろうかと推察します。

 これらのパターンを言えば、まず第一義として、富士の立義を根幹とすることを確認することでしょう。朝夕の勤行では、妙法の受持の一行によって得益を受けることをまず確認する。戒律について言えば、本因妙の宗旨の立場から妙法の受持即持戒を確認する。報恩については、「本門下種ノ宗」であることから、まず日蓮大聖人へ恩徳を報ずることを確認する。さらに、その上でそれぞれの役割を認めて、方便晶・寿量品を読誦し、釈尊の五戒を裏に用い、「天台伝教ノ恩徳ヲ報」じてゆく。いわば、これらのことが為されて、初めて富士の立義が正しく行じられたと言えましょうか。私は、ここに当家の化儀(法門)の一つのパターンが存するものと思っています。

 そして、もう一つ大事なこととして、日有上人が諸聞書に第一義として富士の立義を掲げるとき、必ずといってよいほど他の日蓮門下が強く意識されていることを指摘しておかなければなりません。つまり、その解釈においても、常に他門下との連関のうちに考えなければ、日有上人の真意を見誤ることになろうかと思うのであります。それでは少し前置きが長くなりましたが、報恩について順に申し述べてみたいと思います。

 

《富士門流と一致派の相違》

 ここでは、日有上人が当家において「天台伝教ノ恩徳ヲ報スル」ことは「本門下種ノ宗ナル処」としての所作ではない、と示された所以を考えます。

 上代より、天台伝教の両大師の報恩のために、日蓮各門下においては大師講が広く営まれてきました。富士門流においても、現代でこそ行われていませんが、大石寺に江戸時代の「大師講法則」(研教14−907)などが残されており、さらには「年中行事帳」の11月24日の項(天台大師の祥月命日―霜月会)にも

 「大師講、夕方八ツ時ナリ。御絵像客殿ニ懸ケル」

とあるので、近世まで大石寺では大師講が定例として奉修されていたことがわかります。また日有上人より少し時代は下がりますが、妙本寺日我師の「年中行事」(富要1−348)にも天台大師報恩のための大師講が毎年11月24日に奉修されていることが記されています。今節の化儀抄の項目も、直接的には、両大師の報恩講を目して語られたものと理解することができましょう。

 これらの大師講の淵源は大聖人が顕仏未来記の末文に、

「天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す等云云。安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国四師と号く」(全集509)

 と仰せられ、釈迦―天台―伝教―日蓮の相承譜を引かれるとともに、大聖人ご自身が門弟と共に報恩の大師講を営まれていた事実に求められます。

 天台大師は、中国の陳隋両帝の御宇に活躍された人です。薬王菩薩の化身とも言われ、法華一乗を尊び、法華経を講じて彼の高名な玄義・文句・止観の三大部をあらわし、当時隆盛を誇っていた南三北七の十師の諸宗を破折されました。伝教大師は、その天台大師の後身と言われ、一心三観、一念三千の教理を中国より日本に伝え、南都七大寺の諸宗と対決し、それを論破されました。滅後まもなく悲願とも言われた大乗の円頓戒壇が弟子の義真によって建立されています。

 いずれも仏教の三時観にしたがえば、正像末の像法に位置しますが、その時代の制約の中で法華一乗思想を両大師はもっとも宣揚された方です。

 大聖人はもともと天台宗の僧侶として出家得道され、専らその習学も台家の学問を研鎖されたわけですから両大師への尊崇はたいへん強いものがありました。とくに龍の口法難、佐渡配流以前において、大聖人の弘教は禅宗、浄土宗などの権門破折に重きがおかれていましたので、とりたてて法華経の本迹法門に立ち入られることもありませんでした。つまり、天台伝教の両大師を全面的に師匠と仰ぐ立場におられました。御著作の署名を「根本大師門人」(全集940)、すなわち伝教大師の弟子であると記されたものもあります。

 また、大聖人の門弟にしても大半は天台宗出身の学僧であり、その場合、天台寺院に在籍しながら大聖人門下へ帰依しているケースも多くみます。それゆえ、在世中は大聖人を中心に大師講が営まれ、滅後においても、それぞれ各門下が大師講を継続していったことは、むしろ自然なことであったろうと思います。

 しかしながら一方において、大聖人は龍の口法難以降、天台―伝教―日蓮の相承譜より一重立ち入られて、霊山会上における釈迦―上行(日蓮)の直授相承を強調されるようになります。いわゆる「上行の自覚」を色濃くされるわけですが、これは即ち本迹法門の中で薬王菩薩(迹化)=天台=迹門を劣と下し、上行菩薩(本化)=日蓮=本門を勝とかかげる本迹勝劣の立場に立たれたことを意味します。観心本尊抄に  

「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず」(全集253) 

 と仰せられたのも、薬王菩薩の応化天台大師が弘宣されたのは法華迹門にとどまるのに対し、いま日蓮が弘宣するのは、末法の衆生を救済するところの「本門の本尊」であることを表明されたものです。

 ゆえに御著作の署名も佐渡以前の「根本大師門人」より、本尊抄では「本朝沙門日蓮撰」と改められ、さらに後年の撰時抄では「釈子日蓮」と署名されるようになります。佐渡以降の御書、とりわけ開目抄、観心本尊抄、法華取要抄、曽谷入道殿許御書、撰時抄、報恩抄などの法門書には末法の衆生を救済する導師としての本化上行(日蓮)が明確に教示されております。そして、身延山入山の年の文永11年12月に図顕された曼茶羅本尊(通称、万年救護本尊)の讃文に、

 「大覚世尊御入滅後、経歴二千二百二十余年、然りと難も月漢旦三ケ国の間、未だ此の大本尊ましまさず、或いは知って之れを弘めず、或いは之れを知らず、我が慈父仏智を以て之れを隠し留め末代の為に之れを残す、後五百歳の時上行菩薩世に出現して始めて之れを弘宣す」

 等と認められたことは実に象徴的なことでありまして、先の本尊抄の「本門の本尊」と思い合わせて、大聖人の漫荼羅本尊が本門立ち、すなわち本迹勝劣の上に建立されている証左になるものです。

 もう一つ御書に明文を求めれば治病大小権実違目に、

「法華経に又二経あり所謂迹門と本門となり本迹の相違は水火天地の違目なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり(中略)一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台伝教等の御時には理なり、今は事なり。観念すでに勝る故に大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此れは本門の一念三千なり。天地はるかに殊なり」(全集996、998)

 とあります。日有上人は、この御書を引用されて当家の本迹勝劣の法門を教示されました。また、開目抄の、

「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」(全集202)

 との御文も、この観点からみればじつに興味深いものがあります。私は、ここに天台・伝教の智解と日蓮の慈悲が対置されていることに興味をもちます。それは、後に日有上人が聞書の随所に「天台所立の法門は理であり、智者であり、迹門である。当家の法門は事であり、愚者であり、本門である」(取意)と仰せられたことと相通じているように私には思えます。「難を忍び慈悲のすぐれたる」という表現が、談義を好み智解を標榜する天台宗と相違して、いかにも当家の「愚者迷者」の法門の出処とするにふさわしい感じがするのであります。

 

《台当の違目》

 さて、それはともかくとして今まで述べてきましたように、大聖人には天台宗の中にあって天台・伝教の両大師を全面的に師と仰ぐ立場と、本迹勝劣の法門から両大師を迹門熟益の行者の位置に押しとどめる立場とがあります。

 ごく大まかに言えば、前者は龍の口法難以前の立場、後者はそれより以降の立場と言えます。しかし先に引用した「三国四師」の相承譜を引かれる顕仏未来記も、佐渡在島中の御書でありますから、大聖人は双方の立場を二つながら所持していたとも言えましょう。その場合においても、霊山会上の釈尊―本化上行の相承譜を第一義とされて、それを天台―伝教―日蓮の相承譜に優先せられていたことは、先にかかげた佐渡以降の諸御書、ならびに治病大小権実違目を拝すれば容易に首肯されます。

 まず本迹の勝劣を定めることは、大聖人の法門を体得するための最重要事と言えましょう。具体的に言えば、そのことは門弟にとって「日蓮が弟子」を名乗るか、「天台沙門」と号するかという二者択一の問題を含んでいました。

 この問題は、すでにご承知のように大聖人滅後まもなく、五一の相違となって現われます。日興上人の弟子分帖には、五老僧方が住坊を破却されるのを恐れ「聖人の御姓名を改めて、天台の弟子と号し」たこと、さらには申状を奏し「天台宗を行じて御祈を致」したことなどが記されております。

 「天台宗を行じ」るとは、つまり迹門立ちになることを意味しますが、他門としてもそこまでは言えず、そこで後に本迹一致という教義が打ち立てられることになります。本迹一致とは、本門の法体と迹門の法体とに区別を認めず、実相の同体を主張するものです。大聖人の法門から天台与同の法門に後退することに他なりません。それは、釈尊―上行の相承についても当然おぼつかなくさせますので、上代の他門の申状には「上行菩薩」の名目すら見出すことが難しくなります。

 それに比して、富士門流の上代には、日興上人の「本門弘通事」をはじめとして、本門立ち、あるいは上行菩薩の存在が非常に鮮明であります。歴代先師の申状にもそれは明らかでありますし、四世日道上人の「日興上人御伝草案」にも、五一の相違として、上行菩薩がことのほか強調されております。これらは皆、当時の他門下の法門把握との連関のうちに理解すべきことがらでありましょう。

 この流れは、日有上人の時代でも基本的には同様であり、日有上人の聞書には当家の本迹法門についての教示や本迹一致派に対する批判が多くみられます。御物語聴聞抄には、  

「本迹一致と云ふ事心得ざる条也。其の故は迹門の成道は最初華厳の成道より押し通し迹門也、法華経も迹也。されば高祖聖人の御言には末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し只南無妙法蓮華経と唱ふべし、嬰児に乳より外の物を養ふべきかと云云。名字の初心に宗旨を建立する上は無智迷者の上の信即本門也、妙法蓮華経也。成仏すると云へば根源を沙汰するは智慧也、理也、迹門也。只初心の上にて信とのみ心得たるは本門也、事也」(歴全1−339) 

 との仰せがありますが、これは御書の上野抄の御文を引かれて、当家の文底本迹を明かされたものです。文底本迹というのは、台家所立の本迹からもう一歩進めて、法華経の文上と文底とを本迹に立て分けることを言いますが、当家の上代では本迹法門といえば、すでに種脱勝劣を含んだこの文底本迹を意味していたようです。これについては後迹致します。(第九章一節参照)

 ともあれ、日有上人が天台に与同するところの本迹一致を退けられ、本迹勝劣の上に妙法蓮華経を捉られていたことは了解し得るものと思います。と同時に、その妙法をもって末法の衆生を救済する導師が上行菩薩=日蓮聖人であることは、道理の赴くところでもあり、日有上人にとって自明のことでありました。これらのことを思い合わせれば、冒頭の化儀抄に、

 「天台伝教ノ恩徳ヲ報スル事有リ是ハ熟益ノ通リ也。サテ本門下種ノ宗ナル所ニハ混乱スヘカラス」 

 と仰せられたのも、富士門流にあっては、ごく当然のことを示されたといっても過言ではないでしょう。日有上人は、本条をもって当家の化儀、宗旨を表わしながら、一方において当時の本迹一致派といわれる人たちが、天台宗と日蓮宗をないまぜにして宗旨を立てていることへも批判を加えられたようです。

 その肝心な点を押さえた上で、さらに日有上人は学恩ある人や、あるいは様々な事物に対しても報恩の念を失わないように示されました。このことは恐らく先にも述べましたように、本迹勝劣を主張するものが我見に陥って独善に堕すことを戒められたものと思われますが、それについては次節に述べたいと思います。

 

II.  釜や臼の恩徳  

一、学問修行ノ時キ、念比ニ一字一句ヲモ習ヒ侯人、死去ナントノ後ハ経ヲモ読ミ仏ヲモ立テテ霊供ナントヲモ備ヘテ名ヲモ付ケ訪ハン事子細ニ能ハス、其ノ謗法ノ執情ヲコソ同ゼザレ、死去ノ後執情ニ同ゼズシテ訪ハン事、子細無キ歎。縦ヒ存生タリト云フトモ其ノ謗法ノ執情ニ同ゼズシテ祈祷ヲモナサン事、子細無キ歎。(化儀抄、歴全1−351)

 本文は化儀抄の第47条ですが、これは前節の「天台伝教の恩徳を報する事有り云云」(化儀抄第十五条)を解釈する続きとして、関連項目として掲げたものです。まず簡略に通釈致します。

 自分が学問の修行中に、一字一句でも習い教わった人が亡くなられた時には、たとえその人が他宗の信仰の人であっても法名をつけ、塔婆を建て、献膳をしつらえ、読経唱題して訪いすることは、報恩のために結構なことであります。亡くなられた人の謗法の執情に決して与同してはなりませんが、死去ののちに、それらに同ぜずして、正法をもって訪うことはなんら問題ではありません。

 また、その人が存生中であれば、謗法の執情にまったく与同しないことを前提に、正法をもって現当二世の祈念を行なうことも差し支えありません。みな、学問修行中の「一字一句」の恩に報いるためであります。

「仏ヲモ立テ」とは塔婆を造立すること、「名ヲモ付ケ」とは富士門流の法名を付けることです。

「祈祷ヲモナサン」とは、特別に変わったことをするわけではなく、当宗では正法をもって現当二世の祈念をすることです。もっぱら、この項目は僧侶に教示されたものですが、考え方においては、真俗両面にわたっています。信徒の方も、この精神を汲んで、身を処していかなければなりません。

 

《他宗の人への報恩》

 この項目で大切なことは、教えを受けた人、あるいは、もう少し広い意味で世話になった人に対しては、自他宗の区別をつけず、かならず恩を知り報恩の志をもつこと。次に、その報恩は、相手の謗法の執情に引き込まれることなく、正法にて行なわれなければならないことです。

 それは前節の項目に、

 「学問修行して一字一句をも訓へらるる輩らをも正法にて訪べき事なり」(歴全1−343)

 と示されたことと同前であります。両条ともに「一字一句をも」という言葉をもって強調されていますが、富士門流ではわずかな学恩でも決して蔑ろにしてはならないことを示されたものであります。

 ややもすると、私たちは最勝の法華経を堅く信じるあまり、慢心を起こし、他の人々を「謗法、邪宗の人」と見下すことがあります。しかし、それは基本的にいって間違いです。他宗の誤った教義は教義として、あくまでも破折されなければなりませんが、それを信奉している人までも蔑んだり、謗法呼ばわりすることはどうかと思います。

 まして、過去に学問の上で恩を受けていたり、何かと世話を受けているにもかかわらず、信仰の違いから、その恩に素直に報いることができなかったり、あるいは恩を仇で返すような事があれば、富士門流の信徒として情けない限りです。

 日有上人は、化儀抄の他の項目で次のようにも仰せられています。

「親類縁者一向に一人も無き他宗他門の僧俗近所において自然と死去のこと有らば念比に訪ふべし、死去の後は謗法の執情あるべからざる故なり。(後略)」(第85条、歴全1−360)

「他宗他門の人死去せば知人ならば訪ふべし、ただ他宗他門の本尊、神座に向って題目を唱へ経を読まず、死去の亡者に向ってこれを読むべし、惣じて法界の衆生の死去の由を聞き受けてはこれを訪ふべし」(第86条、歴全1−360)

 第85条は、身寄りのない他宗他門の僧俗が近所で亡くなられた時には訪いに行くこと。亡くなられた後には「謗法の執情云云」がすでにないことを示されています。

 第86条には、さらに具体的に、他宗他門の人を訪う時の心構えが教示されています。他宗の本尊や位牌に掌を合わせ、題目を唱えるのではなく、亡くなられた人に対してそれを行なうこと。自他宗を問わず、知人か否かも問わず「総じて法界の衆生」の亡くなられたことを聞いたならば、富士門流の僧俗は訪いに行きなさいと、日有上人は仰せられました。

 これによって、日有上人が「人の死去」をたいへん敬虞な気持ちで受けとめられていたこと、それらの死去に際して、おおらかな報恩の精神をもって訪われていたことなどが分かります。

 「謗法払い」という言葉があったように、私たちは謗法と聞けば何でも徹底排除、人に対しては敵対視、というかなり排他的な考えをもっておりましたが、これは私たちの謗法観のほうが少し歪んでいたのかも知れません。なぜなら日有上人は、ともすると私たちが謗法として恐れ、忌み嫌っていた他宗の本尊に対しても化儀抄の第七十二条に、

 「他宗の法華宗になる時、もと所持の絵像木像ならびに神座、そのほか他宗の守りなんどを法華堂に納むる也。その故は一切の法は法華経より出でたるが故に此の経を持つ時、また本の如く妙法蓮華経の内証にこと納まる姿也。惣じて一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成すところの所作、みな妙法蓮華経を持つ時妙法蓮華経の功徳と成る也。此の時、実の功徳なり」(歴全1−357)

 と示されているからです。他宗他門の本尊である「観音、地蔵」などの菩薩や「釈迦、薬師」などの仏にしても、日有上人にとっては、まったく忌み嫌われる存在ではありません。たしかに、それらは当宗の信仰からすれば謗法と呼ばれるものかも知れませんが、皆もともとは法華経より出でて、また法華経に帰入すべき諸仏菩薩なのです。

 言い方をかえれば、それらの諸仏菩薩は、それ相応の修行を経られた、私たちよりもはるかに優れた高貴な方々なのです。しかしながら、「末法当季」ということからすれば、妙法蓮華経の一法によってのみ私たちは救われるのであって、他の権迹の仏菩薩では到底救われないのであります。それらを並べて信じるのは、第七十三条によれば、

 「信があまたになりて、法華経の信が取られざる故に、諸仏菩薩を信ずる事を堅く戒めて妙法蓮華経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取らせ」(歴全1−357)

 られたのであります。つまり、いろいろな仏菩薩を信じることは、とりもなおさず法華経の唯一無二の信が確立しないことを意味します。法華経への信が確立しないということは、法華経を軽んずることにつながり、それは法華経を謗る結果にも通じています。他宗の仏菩薩を信じることは、法華経への謗法がすでに含まれているわけです。つまり、これが他宗の謗法である所以です。謗法といっても、諸仏菩薩に直接あるわけではなく、それを信仰する人々の心に謗法は生じるのであります。

 日有上人の教示では、他宗の仏菩薩も排他的に切り捨てられるのではなく、妙法によって真実に生かされる存在となっています。富士門流では、妙法によってすべてが包摂される世界を説くのであります。もちろん他宗を信仰する人々も、ただ謗法として嫌われるのではなく、いずれは妙法に帰入する人々であり、それによって過去になした善根も法華経の実の功徳になるのであります。

 これらの過程を無視した上で、ただ他宗憎しから謗法呼ばわりすることは、実に愚かしいことと言えましょう。また、謗法観を誤って捉えていれば、他宗の人々に対して報恩する気持ちなど恐らく起こり得ないことでありましょう。

 そこでもう一度、報恩についても、さまざまな角度から考え直してみなければならないと思います。 

 

《報恩ということ》

 そもそも報恩とは、それ自体、たいへん大らかなものと言えましょう。「恩」という字は見ての通り、「因」と「心」の合字から成り立っていますが、それも報恩の意味を考えるときに役に立ちます。つまり、恩に報いるとは、まず物事の根本ともいうべき本因を尋ね知ることから始まります。私たちに親先祖というルーツが必ずあるように、すべてのものには起源があり、本因があります。私たちのよって立つ基盤、土台、それに対して敬虔であることが報恩の第一歩であります。

 私たちは、樹齢何千年もの巨木を目の当たりにすると、たいていその威厳にうたれ、感動的な心持ちになります。山に登って清心な空気の中で御来光を仰ぐ、または波静かな大海原に夕日が沈んでいく、そんな光景には何かしら宗教的なものを無意識に感じる、感謝の念が自然にわきあがるということがあります。これらに共通することは何かといえば、それは往古よりのはるかな営みを連想させること、人の命が無常なのに対して不変常住を感じさせること、かたがたもって、それらが元初本因を思わせて何かしら有難く、感謝の念を起こさせるのです。報恩とは、元々、こうした素朴なものが始まりであったろうと思います。  

「ナニゴトノ オハシマスヲバ シラネドモ カタジケナサニ ナミダコボルル」

 とは、西行法師の古歌として伝わりますが、なかなか含蓄のあるいい歌です。

 私たちが有難いという思いを起こす中で、仮に位をつけるとすれば、直接何かを貰って利益があったといって喜ぶのはまだまだ低い方でしょう。うまく説明しろと言われても、なぜかできない、それでいて無性に有難く、感謝の念が一杯になる、もしそんなことが私たちの日常生活にあったならば、それはかなり上等な報恩の心持ちであると言えましょう。

 この報恩の念は、天然自然に対してのみ、わきあがる感情ではありません。日常生活における人間同士のつきあい、人間と事物や道具の間にも当然起こりうる気持ちでもあります。そして、これらの報恩がそこかしこで行なわれるならば、仏教で説かれる理想社会もいよいよ実現ということになるのかも知れません。

 しかし、現実にはなかなか仏国土はあらわれません。かえって現代社会は惨々たる世相になっているとも言えましょう。

 私は自分も含めて、人というものは恩を知り、恩に報いることの容易ではない生き物ではないかと思います。とくに人間同士は、互いを認め合い、互いの恩に報いることはまれで、いがみ合うことの方がはるかに多い。大聖人が仏道修行に最も大切なこととして「知恩報恩」を説かれたのも、実に当然であるとも言えましょう。かの「報恩抄」は、  

 「夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや」(全集293)

という有名な一節より説き起こされます。私はいつもこの御文を拝して思うのですが、この御文には、不知恩であり、忘恩の徒である人間に対する痛烈な批判が込められているような気がするのです。

「畜生すらかくのごとし」――畜生ですら恩を忘れない、老いた狐が父母を想い、生処に足を向けて死なないように、亀が自分を助けてくれた毛宝の恩を決して忘れなかったように、畜生すら恩を知っている。それなのに、なぜ人間は恩というものを大切にしないのか。「いわうや人倫をや」とは、普通には、まして畜生より優れている人間なのだから、と解釈するところなのでしょうが、どうも私には、大聖人は恩に報いることを知っている動物に暖かい眼差しを向け、恩知らずの人間に対してはすでに不信をのぞかせているのではないかと思うのです。

 それはともかく、大聖人が動物を例にあげて教示されていることからも何えるように、報恩とは利害打算ではなく、衆生が生きていく上で自然にわきあがり、ついには押え難いような感謝の心持ちに至ることではないか、と私は思います。今まで生きてきたのは自分の力ではなく、まわりに生かされていたことに気づく、自然の摂理などを有難く思う、そんなことが報恩の念につながると思います。

 もちろん、衆生の一分である人間も深く恩を感じないわけはありません。しかし、人間の場合、その恩に素直に報いようとする前に、いろいろな障害が起こり、それを果たせずにいるのではないかと思うのです。その障害とは何かと言えば、人間には、他の動物にはみられない処世のための名聞名利やセクト主義があまりに強いのです。敵、味方という判断が常に働いて、そのセクトの中の報恩は認めても、セクト外にある恩徳には素直な気持ちで報いることができません。つまり、なかなか人間はセクトを脱し切れないのです。

 よく戦争や合戦に赴くことを「修羅道に交わる」といいますが、修羅や畜生は、自分の直接的な利害、生き死にが絡まないうちは喧嘩などしないものでしょう。しかし人間は、名聞名利やセクト主義が絡めば、すぐにでも鉄砲をかついでよその国まで人を殺しに行きます。理由にもならない理由をつけて戦争に突入します。そんな時、とても「一切衆生の恩」など自覚えしてはいないのであります。

 もっとも、人間がなどと大段にふりかざす前に、私たちがまず、仏法に説かれる「報恩」をもう少しまじめに考える必要があるのかも知れません。俗にも「隗より始めよ」というように――私たちが仏法の「報恩」を真面目に考え、身近かなことからそれを取り戻していけば、安穏な世の中が徐々にでも築かれていくのかも知れません。それには私たち自身、敵か味方かという低劣なセクト主義から是非とも離れ、より冷静に平明に、人間や社会を見つめる必要があります。そこには必ず、今までとは違った新しい人間関係が生じてくるものと思われます。

 また、これはいつの時代にも言えることだと思いますが、「人は道によって尊し」ということがあります。すなわち、どんな人でも、天分やその人の精進によって一芸に秀でることがあります。

 また、「もちは餅屋」とよく言われるように、その道のことを専門にされている人に素人はなかなか叶うものではありません。なにか一つ事を身につけようとする時には、その道に入り練達の師匠について教えを乞わなければならない、その師匠を馬鹿にしていては決して上達は望めないのであります。そして教えを受ければ、有難く思い、その恩に報いることがなければなりません。

 総じて、その世界で大事にされているものは、初心者としてまず何よりも大切にしていく心構えが要求されるでしょう。前節の化儀抄の項目にて日有上人が、

「歌道を学ぶときは人丸の恩徳を大切にし、管絃を学ぶときは妙音の恩徳を報じ」(歴全1−343) 

 と示されたのも、それを教えたものであります。柿本人麻呂は和歌の道を志すものにとって、もっともその恩を感じなければならない人です。音楽の道を志すものは、法華経妙音品の管弦を司る妙音菩薩の恩徳を大切にしていかなければなりません。どの道にも、起源となるような先達が必ずいます。道を道ならしめた、それらの人々の精進なくして、私たちは道に入るべくもないのであります。先達の恩徳に報いるのは、初心者にとって当り前の行為でなくてはいけません。つまり、ここでも、私たちは自我というセクトを取り除き、報恩感謝の気持ちをもつことが肝要なのであります。

《釜や臼への報恩》

 さらに日有上人は、

「釜をつかふ時は釜の恩徳を大切にし、臼をつかふ時は臼の恩徳を大切にする事有り」(歴全1−343)

 と仰せられ、私たちの日常用品にまで報恩の心持ちを大事にしなさいと示されました。「釜、臼」という表現に、日有上人の報恩観がよくあらわされていると思います。

 前近代の社会では、日常の道具は一つ一つが代用のきかない財産といえるもので、それこそ臼、釜、鍋、茶碗、どれをとっても使っている人の命と直接結びつかないものはありません。道具には、それぞれ心があり、作った人のあるいは使っている人の魂ともいうべきものが吹き込まれているのです。

よって、それを大切にし感謝の気持ちを持つことは、ごく自然になされたのであろうと思います。

 大聖人は、檀越の秋元太郎から筒御器一具の供養を受けた時、

「信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし、今この筒の御器は固く厚く侯上、漆浄く候へば法華経の御信力の堅固なる事を顕し給うか」(全集1072)

と仰せられました。さぞかし立派に仕上げられていたのでしょう、大聖人は筒御器をしみじみ見られ、それを比喩として法華経の法門を秋元氏に説かれたのでした。ここに贈られた御器は、すでにして、ただの「うつわもの」ではなく、法華の信仰をあらわす魂をもっていたと言えましょうか。

 現代社会は、何から何まで大量生産であり、できあがったものはすべて捨てられてゆく運命でありますから、道具に心を見いだすとか、報恩の念をもつことが容易ではありません。鍋が一個しかない家庭など、全国どこを探し回っても見つけることは難しいでしょうし、茶碗やお椀は食器棚に使わないものも含めてたくさん飾られているでしょう。どちらが便利で、裕福かといえば誰しもが現代社会の方を指さすでしょうが、文化の程度と言うことを考えれば、もうすでにどちらとも言えません。日常品の数は圧倒的に少ないとはいえ、道具に心を見て、それとともに報恩の気持ちをもって大事に生きていた人々と、ありあまる物資に囲まれながらも、何の感謝の気持ちももてず、それらを使い捨てながら生きている人々と、どちらが文化水準の高い生活なのか、私はどちらかと言えば、昔の生活の方に文化を見ます。

 5、600年前(日有上人の時代)の陶器、磁器などは、それが庶民の使っていたものであっても、現代では貴重な重要文化財でしょう。それは、ただ古いと言う意味からでなく、現代の材料、製法、技術では、逆立ちしてもできない良さがそのものに厳然とあるからです。何よりも、それらの道具からは、昔の人の姿や生活が偲ばれるのであります。

 私は、生活というものは、あくまで手作りが基本であって、そこに人間らしさの実感もわくのではないかと思います。また、そうでなくては、ものを大事にすることも、報恩の気持ちも起こり得ないだろうと思うのです。

「消費の時代だ、内需拡大だ」といっても、それは所詮、物を大事にするな、早く買い換えろといっているに等しい。そんな政治家の言いなりになっていれば、報恩という心持ちは忘れ去られ、ますます国民性は歪んでいくばかりでしょう。  

 私たちはここでも「隗より始めよ」の精神で身近なことから仏教的なものを取り戻してゆくことが必要でしょう。器械的に大量に生産されるものを軽くみて、手作りの良さを楽しむ余裕をもつこと、ものを大事にすること、報恩の心持ちを失わないこと、など自分たちにできることをまず考えてみることが大切かも知れません。こんな時代だからこそ、私たちは「ものにも心がある」とか「すべてのものに報恩を」といった仏教的な考え方を繰り返し主張していくことが必要なのです。

 私たちは、朝夕の勤行の最後に「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」と祈念しておりますが、このことは報恩の精神をもっとも強く誓願したものです。

 

 

III.   善根は消えない

一、他宗當宗ニ帰スル時、多年修スル処ノ善根今徒ラニ成ルト云フ事意得ザル条也。其ノ故ハ経ニ云ク、於一仏乗分別説三ト説キ給テ侯、法華経ヨリ諸宗ハ出デテ侯、又諸宗法華ニ帰シ侯、サル間他宗ニテノ善根モ法華経ニ帰シ侯テコソ尚功徳甚深ニナリ侯へ。去レバ大海ノ水トテモ雨トテモ河ノ水トテモ他ノ水惣ジテ諸河水又大海ノ水ト成侯也。此分ニテ能々此経ニ帰ラレ侯テ多年ノ修善ヲモ此ノ法華経ヲ信ジテ実ノ善根ニ成給侯へ。塵ヲ大地ニ埋ミ露ヲ大海ニアツラヘ侯ガ如ク実ニ心田ニ仏種ヲウェルト申スモ爰本ニテ侯ト云云。惣ジテ親祖父ナドノ為ト限リテ修善ヲ為スコト意得ザル条也。一人即身成仏スレバ法界皆即身成仏ニテ侯也。サテコソ法界有縁無縁平等利益トハ回向申侯ヘト已上。(御物語聴聞抄、歴全1−324)

 本文は御物語聴聞抄の第13段の全文です。前節で日有上人の報恩観について説明致しましたが、

その最後に「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」の観念文をあげて、この御文が一切衆生への報恩を強く念じたものであると申し述べました。この観念文の出処ともいうべきが本文の日有上人の仰せであります。末尾に、

 「サテコソ法界有縁無縁平等利益トハ回向申侯へ」

 と示されておりますように、富士門流では、読経唱題の後に必ずこのように祈念することが化儀として定められていたようです。また、この項目から報恩と回向が密接な関連を有していること、あるいは同義に近いものとして扱われていることがわかります。それではまず、本文を筒略に通釈致します。

 他宗他門の信仰者が、当宗に帰依する時、それまで多年の間、積み上げてきたその人の善根が、たちまちに虚しくなってしまうかと言えば、まったくそんなことは有り得ません、何故ならば、法華経には「一仏乗において分別して三と説きたまふ」と説かれているからです。この御文によれば、緒宗はみな法華経より出でたのであり、そして再び法華経に帰入するものであります。

 そうであれば、他宗他門の時に修した追善回向などの善き行ないも、法華経に帰依してこそ、その功徳はいよいよい深いものになると言えましょう。すべてが無に帰したり、無駄であったということは決してありません。                 

 たとえば、大海の水であっても、雨水であっても、河の水であっても、またその他の水も、総じて様々な水は、すべて大海の水となるのであります。このように、しっかりと法華経に帰依したならば、今までの多年の善根も、この法華経を信じる功力によって、その時、実の善根になるのであります。それは、あたかも塵あくたの如き我が身を大地のような法華経に埋めることであり、はかなき露の身を大海のような法華経に捧げることであります。心田に仏種を植えるとは、まさしく、この意であります。いままで為してきた善根をも含めて自分というものを法華経に捧げるということは、法華経と一体になる、法華経と自分が同価値のものになると言えましょう。

 総じて、親のため、祖父母のためと限って追善回向などの善根を為すことは心得違いのことであり ます。信によって自分自身が即身成仏を遂げるならば、その時法界はみな即身成仏なのであります。 それゆえに、私たちは「法界有縁無縁平等利益」と常々回向致します。

 以上簡略に通釈しましたが、経文や御書の引用について二、三説明します。

 まず「於一仏乗、分別説三」と言いますのは、法華経方便品の経文です。この前に「諸仏以方便力」とありまして、通じて読めば、  

「諸仏、方便力を以て、一仏乗において分別して三と説きたまふ」(開結170)

 となります。その意味は、仏はただちに一仏乗(法華経)を説いて衆生を利益するのが本懐ですが、衆生の機根がまちまちなので、仮りに方便の力を以て三乗(声聞、縁覚、菩薩の三種)の教えを説かれたという意味です。ゆえに、仏が分別して説かれた三乗の教えとは、元をただせば法華一乗であり、そこにすべて帰入して始めて真実経となるのであります。よって、法華経以外の経典を依経とする他宗は、いまだ方便の教えであって、それらは皆、法華経に到達する前段階の教えであったり、また法華経の片端々々を説いたものに過ぎません。

 次に、日有上人は警えを用いられ、雨水や諸河の水(爾前経)が、いずれは全て大海(法華経)の水となることを示されましたが、このことは諸御書に、  

「警えば諸経は大河・中河・小河等の如し、法華経は大海の如し」(全集1499)

「大海は衆流を納めたり、大地は有情非情を持てり」(全集942)

「法華経の一字は大地の如し万物を出生す、一字は大海の如し衆流を納む」(全集1263)

 等とありますように、大聖人が法華経を大海に警えられていることに依っております。また、それは法華経薬王品の、

「警えば一切の川流、江河の諸水の中に、海これ第一なるが如く、此の法華経も亦また足くの如し」(開結600)

 の経文が根底となって導かれているのであります。同一鹹味御書に、

「諸河の水、大海に入って鹹となるは諸教の機類、法華経に入って仏道を成ずるに警ふ」(全集1560)

 と示され、「大海に八の不思議」を挙げて説かれたことも、少なからず薬王品との関連をみなければなりません。さらに日有上人は本文にて、「塵ヲ大地ニ埋ミ露ヲ大海ニアツラヘ侯ガ如ク」と仰せられていますが、これはよく知られている竜門御書の、

「とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは当時のごとし、をなじくは、かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」(全集1561)

 の御文を日有上人が引用されたものとみて差し支えないでしょう。竜門御書の御文の意味も、まず自分自身を過小、無常なものと認めて、その命を法華経に奉ることによって、永遠ならしめるということです。法華経という大海に、露の我が身をあつらえる、つまり帰依することによって、法華経と同一の価値となる、これが御書ならびに日有上人の仰せに示された成仏の意味であります。

 竜門御書は、熱原法難の直後の消息ですから、この御文は、神四郎、弥五郎等が処刑を受けながらも法華経のために命を捧げ、成道を遂げられたことを示されたものであります。熱原の信徒は、無常の身を法華経に捧げることによって、刹那に常住の姿をあらわしたとすることが出来ましょう。

 また、本文に示された「他宗にての善根」とは、より具体的に言えば、改宗前の宗教によって亡くなられた親類縁者の回向を為したこと、つまり他宗における仏事法要を指しております。それは本文の「惣じて親祖父などの……」以下の御文が仏事法要の回向について述べられていることからも察せられます。しかし、ここでは「善根」を広義に解釈して、一般的な善事、善き行ないという意味にとりたいと思います。

 

《他宗当宗ニ帰スル時》

 日有上人が、本文にて仰せられておりますように、私たちが改宗以前に種々なしてきたところの善き行ないは、決して消えて無くなってしまうようなものではありません。今までの善根のすべてが、法華経に帰依することによって「実の功徳」となる、と考えるのが富士門流の教えです。

 それは前節に引用した化儀抄の第72条にも、

「惣じて一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成すところの所作、みな妙法蓮華経を持つ時妙法蓮華経の功徳と成る也。この時実の功徳也」(歴全1−357)

 と示されている通りであります。そして、このことは当宗の信仰をするものにとって、とても大切な教えであることを忘れてはなりません。

 時折、僧侶と信徒の間で聞かれる会話ですが、他の宗教から当宗へ移られた方が、どうにも悲惨な感じで「私は長年騙され続けた、目一杯活動をして損をした、青春を返してくれ」と言われることがあります。中には、なかなか恨み事の世界から抜け出られない人もいるようです。たしかに、いま流行りの新興宗教や新々宗教と呼ばれるもののほとんどは、人の弱みにつけ込んだり、金品をだまし取ったり、自由を束縛したりする、極めて悪質なものが多いようです。運悪く引っかかってしまった人が、嘆き、憤って抗議する気持ちも一応わからないではありません。

 しかし考えてみれば、忌まわしい世界を脱却して正法に目覚めたはずの人が、その後の生活で以前の宗教に対する恨み辛みに終始しているのでは、本当に正しい信仰に帰依したのかも危ぶまれてしまうことでしょう。取り返すことのできない過去に執着して、愚痴をこぼしこぼし生きていくなら、その人の一生は恨みと愚痴の生涯であったとも言われかねません。

 そこで、日有上人の仰せに随うならば「多年ノ修善ヲモ此ノ法華経ヲ信ジテ実ノ善根ニ成給侯へ」 ――当宗に帰依する以前になした善き行ないは、みな「実の善根」になると、示されております。たしかに私たちの一生は、ただちに宝処に向かうのではなく、行かなくてもよい回り道をさまよっている方が多いのかも知れません。しかし、それも考えようで、宝処に至った今、回り道に恨み言をいうのではなく、あの道も宝処に至るには必ず通らなければならない前段階であったとする方がはるかに精神的には落ち着いています。私たちが得た宝物が真実であればあるほど、それに至るまでの過去も尊いものだった、とは言えないでしょうか。反対に、愚痴がのべつに口をついて出るということは、現在得ている宝物がそれほどでもないことを証明しているようなものです。

 

《野にも山にもなしておけ》

 そのうえ、回り道で為してきたところの善根は、まったく無駄にならないという、日有上人の仰せです。今まで誤った教義を信仰していたとはいえ、そこでなした行為がみな悪事であったということでもないでしょう。親身になっての人助けもあれば、亡者への真摯な回向もあったはずです。それらは、決して無駄にはなりません。それぞれ、縁にふれて為してきた善事は必ず、後になって我が身を助けることになります。二十二世の日俊上人は、ある説法で、  

「善根は 野にも山にも為しておけ 犬も食らわず人も盗まず」(歴全3−151)

 という歌を紹介されていますが、なかなか深い味わいがあります。善き行ないというものは、時がたてば消えて無くなるというものではない。決して、犬が食べてしまうこともないし、人間が盗もうとしても盗めるようなものでもない。だから、人が見ていない野原でも、山の中でも、どんな処でも、どんな時でも為しておきなさい、という意味です。もっとも真の善根とは、もともと人知れずなされるものなのかも知れませんが……。

 それはともかく、こうしたことを考えるとき、私たちはいたずらに、以前の宗旨を恨む必要はないし、過去の一見無駄であったような行ないでさえ、悔いたり悩んだりすることはありません。むしろ、すべては妙法蓮華経に帰人するための、必要段階であったとすることもできましょう。総じて、善い行ないは、人を助け自分をも助けるという自覚に立てるのではないかと思うのです。

                        

《回向ということ》

 次に注目したいのは日有上人が、  

「惣ジテ親祖父ナドノ為ト限リテ修善ヲ為スコト心得ザル条也」

 と仰せられたことであります。なぜ親のため、あるいは祖父母のため、と相手を限って追善回向してはならないのか、少なくとも悪いことではないだろう、そんな素朴な疑問が生じても不思設ではないでしよう。

 このことは第二章の成仏観のところでも申しましたが、富士門の成仏観が「後生成仏」をとらず、あくまでも「即身成仏」を立てていることに起因します。さらには、師弟子の法門を説いて「師弟ともに未断惑」のところに成仏を立てることとも大いに関連します。その土台には、生死一如を説く一念三千法門があります。

 順序立てて申しますと、まず法華経の一念三千法門には、生者と死者を隔別に切り離して考えることがありません。私たちはともすると、この世の中を生者のみの世界と考えがちですが、本当のところは、生者と死者は常に共存しているのです。たとえば、親というものは、生きているときには格別に思い起こして有難いとも思わないものですが、死なれてみるとその存在が自分にとって如何に大きなものであったか思い知らされることがあります。そして、その思いは、親を亡くした直後よりも、年々歳々重く大きくなることがあります。自らが老境にさしかかる時には、態度や性格が亡くなられた親に瓜二つになったというような話もよく聞くところです。夫婦でも、師弟でも、親子でも、亡くなられた片方の重みを深く感じて、その強い影響のもとに生者は生き続けます。ゆえに、娑婆世界はいま生きている人のみの世界ではありません、亡くなられた人とともに、泣いたり笑ったり、時には理不尽と闘ったり、挫折を感じたりもするのです。

 大聖人は七百年前の鎌倉時代に亡くなられました。このことは、覆うべくもない事実でありましょう。しかし、このことと私たちが現在において大聖人と共存し、共闘するということとは何等矛盾しません。私たちの言うにいわれぬ悩みや苦しみも、私たちが真摯になって大聖人に問えば、必ずなんらかの答えを得るものです。それが信仰というものでしょう。

 大聖人の信仰を持ちながら生きることによって大聖人は私たちの己心に生き続ける、それを観心の法門といい、一念三千の法門ともいうのでしょう。同じようなことが、親子でも、夫婦でも、友人同士でも言えるのではないか、と思われるのです。

 大聖人は御書に、  

「我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり、警へば種子と菓子と身と影との如し、教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道・吉占師子・青提女・目連尊者は同時の成仏なり、是くの如く観ずる時、無始の業障忽に消え心性の妙蓮忽に開き給うか」(全集977)

 と仰せられていますが、一念三千法門の肝要を示されたものと言えましょう。

 私たちが成仏を遂げる中に父母の成仏がある、あたかもそれは種と果実、体と影であり、もともと切り離すことなどはできません。あえて言うならば、私たちの信心の中にしか父けの成仏はないのであります。ここに日有上人が仰せられた、

「惣ジテ親祖父ナドノ為ト限リテ修善ヲ為スコト心得ザル条也」 

 の御文の原点があるように思われます。もともと切り離しては考えられない親子を無理に離して、親の為にとのみ限って善根を積むことは不自然なことです。我が身をよく省みていないことにも通じましょう。何よりもまず自分白身が、妙法蓮華経の修行を為して、善根を積む、より正しい生き方を心掛ける、それが親の願いでもあり、親の成仏でもあるわけです。この考え方をおし広げていけば、本文の次下に「一人即身成仏スレバ法界皆即身成仏ニテ侯」と日有上人が仰せられたことも合点がいくものと思います。

 逆に言えば、法界は皆、一人の人の即身成仏を願っているのです。私が成仏を遂げることを、父母のみならず、法界のあらゆるものが願っている、そして私の成仏が今度は法界全体の成仏となってゆくわけです。

 大聖人の御一生は、自らの成道を遂げるべく、法華経の身読に励まれました。ひたすら自行の精進をもって、一切衆生と順逆の二縁を結ばれたのであります。すなわち、ご自身の信心修行の中に人々の、あるいは法界の即身成仏が含まれているのであります。ゆえに、大聖人の成仏は、一切衆生の凡夫の成仏を含んでいるわけです。日有上人の言葉を借りれば、これが「自他の情執尽きたる処」でありましょう。自らの信心修行による自らの成仏が、そのまま他の成仏につながる――「自他不二」の教えがそこでは説かれているのであります。

 ゆえに、私たちが塔婆供養するのも、それはただ単に親先祖の供養というより、むしろ自分の修行なのであり(自行)、その信の中に自他の成仏をみているのであります。

 富士門流で、先祖の位牌を用いないことも、このことに由来します。親子や師弟、あるいは生者死者は、富士門流ではともに未断惑の存在であります。ゆえに親が子供を、あるいは師匠が弟子を一方的に救うと言うことはありません。生者死者にしても、亡くなられた人が仏様で生きているものを救うとか、いま生きているものが、死者を導くといった一方通行的なものではありません。

 日有上人が、化儀抄の「神座を立てざる事」で、常に師弟が相向かう処が中央の妙法蓮華経であると示されましたように、私たちの即身成仏とは、自らを弟子の立場に定めて師弟相対し、信をもって妙法蓮華経を成就することにあります。その時、法界の諸相もまた、即身成仏を遂げるのであります。

 

 

 

 


 

 

第9章 富士門流の本迹法門  

 

 

 

 正ク本迹ノ法門当寺ニ之有ル也――日有上人は当家伝わる本迹法門こそは真実であるといわれる。他門下が法華教相上の本迹二門に執して法門を沙汰するのに対し、日有上人のそれは当家の凡夫成道に約した本迹法門であった。現実の師弟関係、つまり我々の信仰実践にまで本迹の法門を引き寄せ、師弟一箇する処を日有上人は当家の本門と定められている。何故このような特異とも想える本迹法門が富士門流に展開されたのか、従来とは違った一つの考え方を捉示する。

 

 

T. 当家の本迹法門

 一、日有ノ義ニ云ク、當門流ノ本迹者諸流ニ替ツテ信心ノ処ノ色心ヲ本トシ余ノ解行証ノ色形ヲハ迹トスル也云云。此レ正ク宗旨ノ本迹ニシテ余門ニ名ヲモ知ラサル也、信心ノ時ノ身相行ノ義ヲ教彌実位彌下ノ本尊トスル也、其ノ余ノ解行証ハ皆迹ノ尊形也云云。   (雑々聞書、歴全1−415) 

一、仰ニ云ク(中略)、サテ本門ニハ師弟相対シテ余事余念無ク妙法ヲ受ケ持ツ処カ相対妙ニシテ其ノ當位ヲ改メス受持ノ一行十界互具一念三千ノ妙法蓮華経也ト得ルカ即事ノ絶待不思議ノ妙法蓮華経也。サレハ余門跡ナント本迹法門トテ前十四品為迹門後十四品為本門ノ分ヲ以テ沙汰致ス事更ニ心得サル也云云。本門正宗タル一品二半モ迹中ノ本門成ル故ニ迹カ家ノ本ナル故ニ迹門ニテ有ル、サレハ分別功徳品ノ一生八生ノ益ヲハ天台ハ皆迹中ノ益也ト釈セラルナリ、正ク本迹ノ法門當寺ニ之有ル也。 (下野阿闍梨聞書、歴全1−399)

 本文は前者が雑々聞書、後者が下野阿闍梨聞書の御文です。両項とも当家の本迹法門を教示されたものです。まず初めに両文を簡略に通釈いたします。

 日有上人の仰せによれば、富士門流に伝える本迹の法門とは、他門流のそれとは違い、妙法を余事余念なく受持するところの色心の全体を本門といい、その他の智解や修行、証果などの形に表れたものは総じて迹門とするのであります。これがまさしく当家の宗旨として伝えられる本迹の法門であり、他門徒においては、名目さえも知らない法門であります。妙法受持の時における師弟の姿、行体を「教いよいよ実なれば位いよいよ低し」の義の上から、そのまま本尊と拝するのです。その他の智解や修行、証果などはみな迹門の尊形であります。

 続いて下野阿闍梨聞書の御文。

 日有上人の仰せによれば、当家の本門では、師弟相対して余事余念なく妙法を受け持つ当処が相対妙であり、その受持の一行の全体をそのまま「十界互具・一念三千の妙法蓮華経」と心得ることが事の絶待妙であり、それがまた不思議の妙法蓮華経なのであります。  

 ゆえに他門流などが本迹の法門として、法華経教相上の「前十四品」を迹門、「後十四品」を本門となして法門を沙汰することは、まったく本意を失ったものと言えましょう。本門正宗分である一品二半でさえも、それが教相上のことであれば迹の中の本門であり、迹門が家の本門はすなわち迹門に過ぎないのであります。それゆえ天台大師は、法華経本門の分別功徳品の「一生八生の益」を迹中の益であると釈されました。まさしく日蓮聖人の本迹の法門は大石寺に伝わる、と日有上人は示されたのであります。以上通釈です。

 

《「信心ノ処」と「余ノ解行証」》

 一般的に本迹の二門と言えば、法華経二十八品を前後十四品ずつ迹門と本門とに配当する教相判釈であり、このことは天台大師の教判はもとより仏教諸家においても同様に認識されていることであります。

 当家においても、教相上の本迹法門を全く用いないわけではありません。内外・大小・権実・本迹・種脱と従浅至深する五重の相対に説かれる本迹相対がそれであります。日寛上人が三重秘伝抄に教示された本迹判もまた、法華経教相上の本迹判とすることができます。しかし、それらはあくまでも釈尊の教えの中の本迹判であり、当家の宗旨として説かれた本迹法門ではありません。

 それゆえ、日有上人は本文に

「サレハ余門跡ナント本迹法門トテ前十四品為迹門後十四品為本門ノ分ヲ以テ沙汰致ス事更ニ心得サル也」

 と仰せられ、法華経の教相上の本迹に執して法門を沙汰する他門流は根本を外していると指摘されたのでした。このことは連陽房雑々聞書にも、  

「惣じて本迹の法門を前十四品を迹門と為し、後の十四品を本門と為す分、以って云はるる事不審也」(歴全1−385)

 と繰り返し仰せられていますから、当家と他門との本迹法門の相違を日有上人は強く感じられていたのでありましょう。と同時に本文の、

「正ク本迹ノ法門當寺ニ之有ル也」 

「此レ正ク宗旨ノ本迹ニシテ余門ニ名ヲモ知ラサル也」 

 との仰せを拝すれば、日有上人が如何に日興上人以来相伝されてきた当家の本迹法門に深い信頼を置かれていたかが分かるのであります。

 

 さて、それでは当家の「宗旨ノ本迹」とは何かと言えば、日有上人は冒頭本文に、「信心ノ処ノ色心」を〈本〉と示し、「余ノ解行証ノ色形」を〈迹〉と説かれました。

 ここにおいて、「信心ノ処ノ色心」と「余ノ解行証」は本迹の対応関係に位置しておりますが、おそらくこれは日有上人が聞書の随所に仰せられている事迷の凡夫の〈信の宗旨〉と理悟の覚者の〈智の宗旨〉の対応を示したものでありましょう。次下に「信心ノ時ノ身相行ノ義ヲ教彌実位彌下ノ本尊トスル」と説かれ、さらに、「余ノ解行証ハ皆迹ノ尊形也」と示されたことは、名字凡身の信の上に建立されるとする当家の本尊観と、色相荘厳の尊形を大事にする他門の本尊観との対比と考えることかできます。

 いずれにせよ、ここに示された本迹は、従来の法華経の教相に約したものではありません。あえて言うならば当家の凡夫成道に約した本迹法門ということができましょう。「信心ノ処ノ色心」とは、名字初心に信を建立して成道を遂げた姿であります。これを身に引き寄せて言えば、私たち師弟の妙法受持の姿とも言えましょう。日有上人はここを本門と定めて、その他の「解行証」すなわも釈尊の領域における教説や修行、証果などを「迹の尊形」として、全て迹門と下されたのでした。

 このように日有上人の本迹観の特徴は法華経の教相上から離れて、現実の師弟関係、つまり我々の信仰実践にまで本迹の法門を引き寄せて考えられていることでしょう。なぜ、このような特異とも思える本迹法門が富土門において展開されたのかと言えば、これも今述べましたように、当家では上代より名字即成という成道観かしっかりと根付いていたからでありましょう。  

「当流の本迹は滅後の本迹也、此の滅後の中には末法を指す也、久遠の末法の名字即と等しき也」(雑々聞書、歴全1−413)

「高祖所弘の本門は本迹に相対せず直に久遠の妙法蓮華粋を受持する故に事也、本門也、また我等衆生の為の下種也」(連陽房雑々聞書、歴全1−386)

「高祖上人の御言には末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し只南無妙法蓮華経と唱ふべし、嬰児に乳より外の物を養ふべき歟云云 名字の初心に宗旨を建立する上は無智迷者の上の信の即本門也、妙法蓮華経也。成仏すると云ヘば根源を沙汰するは智恵也理也迹門也、只初心の上にて信とのみ心得たるは本門也事也」(御物語聴聞抄、歴全1−339)

  これらはみな当家の本迹に関する日有上人の仰せですが、いずれも名字初心の信の上に本門を定められております。また「高祖所弘の本門」「高祖上人の御言」とありますように、当家の本迹の考え方が大聖人所持の法門であることを日有上人は示されています。

ここで一つ注目したいことは、当家の本門である名字初心の信が立てられる前提として、必ず「末法」および「久遠(元初)」が強調されていることであります。「当流の本迹は滅後の本迹也」の仰せも、一方において在世の本迹  釈尊の領域・教説としての本迹1を退けるとともに、「滅後の中には末法を指す」として、末法一時を導き出しております。そしてその末法は「久遠の末法の名字即と等き也」と展開されて、当家の久末一同の義となっています。

 末法を迎えることによって、釈尊の教法は廃れ「教のみあって行証なし」という世界が現出します。

それは法華経本迹の教説が形だけのものとなり、末法当季に見合った修行もなければ証果も得られないとする白法隠没の状態であります。色相荘厳の仏身もまた末法の衆生に何の得益も与られない存在となります。衆生への効力を失っているわけですから、色相の仏身についていえば、末法は無仏世界ということになりましょう。日有上人が「末法今時は悪心のみにして善心なく師第ともに三毒強盛の凡夫」と示された通り、末法は仏=覚者としての師が存在しない理即名字の凡夫だけの世界であります。富士の立義は悉くこのことが土台となって立てられているのであります。そしてそれは、大聖人の御書に、

「今は既に末法に入って在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」(全集1027)

「末法今の時は教機時刻当来すといへども其の師を尋ぬれば凡師なり、弟子また闘諍堅固・白法隠没三毒強盛の悪人等なり」(全集501)

 等と教示されていることから導き出された法門とすることができましょう。先に日有上人が引用されている上野殿御返事の、

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(全集1546)

 との御文も、私たち三毒強盛の凡夫は釈尊の法華経本迹二門では得益を得られず、末法当季の南無妙法蓮華経によってのみ成道を遂げると教示されたものであります。このように、末法の衆生は色相荘厳の釈尊によって導かれる「権実の二機」ではなく、無仏の世界にあって直ちに南無妙法蓮華経を受持して名字即成を遂げる衆生なのであります。 

 しかしながらその場合、守らなければならない一定の法門上のルール=富士の立義が存することを私たちは知らなければなりません。そのことを大略示されたのが、冒頭本文の二番目に掲げた下野阿闇梨聞書の「師弟相対シテ余事余念無ク妙法ヲ受ケ持ツ……」の師弟子の法門であります。

第2章の成仏観で申し述べましたように、当家の名字即成の法門は、末法の凡夫が当位を改めずに直ちに成道を遂げるという私たちにとって大変有難い法門なのですが、それなりにまた陥りやすい落とし穴があるのも事実なのであります。それは何かと言えば、名字即成と理即本覚を混同するとによって、受持・下種の義が成り立たないままに一人の成仏を考えてしまうことであります。 

 理即本覚は、名字即成と同じように凡夫の成道を目指してはいますが、妙法の種子を有しているのみの凡夫をそのまま成仏と捉えてしまうので、そこに受持一行の修行も欠け、ついには慢心・退廃への途を歩むことになります。また、下種ということも一人の所作では成り立ちません。必ずそこには受持・信がともなわなければならない、つまり師弟が共に信をもって互いに妙法を受持するところが下種であります。まさしく、  

「師弟相対して又余念無く妙法蓮華経を受持する処を即身成仏とも名字下種とも云るる也」(歴全1−385)

 の仰せの通りであり、当家の下種の義を成り立たせているのも師弟子の法門なのであります。

 ともすれば禅宗のような自然覚了の成仏に陥りやすい弊害を排して、互いの妙法受持という師弟子の切瑳琢磨の中に成道をみる、それが富士門流の成道観であります。ここを本文にて日有上人が当家の〈本門〉と示されたことは実に所以のあることだと私は思います。

 今あらためて本文の両項を整理してみますと、雑々聞書の「信心ノ処ノ色心」と「余ノ解行証」の本迹関係は名字凡身の世界観と色相荘厳の仏身の世界観の相違を表わし、下野阿闍梨聞書の「師弟相対シテ余事余念無ク……」の一文は、すでに当家の本門に入って、肝要な師弟子のあり方を示されたものと言えましょう。換言すれば、前者は仏身観の相違を述べて台当本迹、種本脱迹の勝劣判につながる要素をもっていますが、後者はすでに勝劣判の分域になく、当家の本門の中でのみ師弟子の法門が論じられているのであります。その証に、本文の下野阿闍梨聞書の(中略)部分には、「迹門ニハ麁妙相対シテ之ヲ論ス」との仰せがあり、いずれが麁法、いずれが妙法と麁妙相対する分域を智者解了の迹門と下しております。そして当家の本門は、あくまでも相対判、勝劣判を離れて、愚迷の凡夫が師弟相寄って妙法を受持するところと定められております。

《本迹法門と師弟子の法門との関違》

おそらく富士門の上代では、師弟一箇のところを本門とする――少し特異ではあるけれど素朴な雰囲気をもち、さらには現実の生活に根ざしているともいえる本迹法門――が広く行なわれていたのではないかと私は思います。具体的に言うならば、日有上人の仰せられる「師弟」は、各地方における現実の「田舎の小師(住持)=師」と「弟子檀越=弟子」のことであり、それらの師と弟子が末法無仏の現実の生活の中で互いに三毒強盛のまま妙法受持の修行に勤しんでいたと思うのであります。

初発心の師をことのほか大切にする、師弟子の関係を厳格なまでに守る――このことは現在の私たちが考えるような教団の維持運営のためではなく、富士の立義=本迹の法門として上代では捉えられておりました。日興上人は佐渡国の法華講衆に

「この法門は師弟子をただして仏になる法門にて侯なり」(歴全1−183)

と繰り返し教戒されましたが、このことも地方有縁の師弟が互いに切硅琢磨して妙法受持することの大切さを訴えられたものと言えましょう。同御返事に、  

「本迹の法門を申すをきこしめして」(歴全1−182) 

「本迹の法門をきこしめし受け取らせ給ひける師は誰にて侯けるぞ」(歴全1−183) 

 と日興上人が繰り返されているのも実に興味深いことであります。ここに示された「本迹の法門」は、同御返事の文脈の上から考えても法華経教相上の本迹とは相違しております。おそらくは、この「本迹の法門」も師弟相寄って妙法を受持するところを「本門」と示された日有上人の仰せと軌を一にしていることでしょう。

日興上人は大聖人在世の師弟のあり方を例示され、大聖人が本弟子六人を定めおかれたのも「その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言わせんずる」(歴全1−184)ためであると仰せられました。有縁の師は誰か、初発心の師は誰か。みな大聖人の弟子、日興上人の弟子というのではなく、その弟子にとって初発心であり有縁である師こそ、当家の師弟子の法門を構成する師なのであります。なぜ初華心、有縁の師がそれほど強調されるのかと言えば、そこに当家の下種の義を見ているからでありましょう。また、そのことを確認するための同御返事の「本迹の法門」であったろう、と私は思うのです

日興上人が如何に初発心、有縁の師弟関係を大事にされたか、もう一つ日興上人ご自身と波木井実長氏との関係を例に挙げましょう。 

波木井実長氏が日興上人を初発心の師とされたことは日興上人御自筆の弟子分帖に明らかなことです。しかし、波木井氏は知られるとおり宗義に違背する謗法行為を重ね、それがために日興上人は身延を離山されることになります。その後のことですが、波木井氏はますます顛倒の想いを強くして、ついには日興上人への手紙に、  

「日円(波木井氏―筆者註)は故聖人の御弟子にて侯也、申せば老僧たちも同じ同朋にてこそわたらせ給ひ侯」(富要8−14)

 と記し、日興上人との初発心の師弟関係を反故にして大聖人の直弟子を名乗りました。これに対して日興上人は、  

「地頭(波木井氏―筆者註)発心の根源は日興教化の力用に非ずや、然るを今下種結縁の最初を忘れて、劣謂勝見の僻案を起こして師弟有無の新義を構へ理非顕然の諍論を致す、誠に是れ葉を取て其の根を乾かし、流れを酌んで未だ源を知らざる故歎」(五人所破抄、歴全1−34)

と仰せられました。すなわち波木井氏が日蓮聖人の教えに帰依した発心の根源は日興上人の教化によるものです。にもかかわらず下種結縁を受けた日興上人の存在を忘れて、波木井氏は顛倒の心を強く起こし師弟子の法門に異義を構え、誤り明らかな諍論を行ないました。そしてこのことを日興上人は、葉を取って根を枯らし流れを酌んで源を知らない故の愚かな行為であると叱責されたのでした。

 有縁の師を蔑ろにすることは、師弟子の法門の根幹を失うことに通じております。この教戒にも明らかなように、初発心、有縁、下種等は当家の師弟子の法門を構成する大事な要素であり、これらの日興上人のお考えは後に日有上人が地方有縁の住持と弟子檀越に師弟を配当した淵源であったとも言えましよう。

 弟子分帖の各項に必ず記されている「日興の弟子」「日興最初の弟子」「日興第一の弟子」「寂日房の弟子」「蓮華阿闍梨の弟子」「播磨公の弟子」「因幡房の弟子」等の記載も、誰が誰の師であり弟子である、ということを法門の上から大事にされた日興上人の姿勢が見事に示されているように思われます。付け加えるならば、大聖人の曼茶羅本尊に認められた日興上人の添え書き、あるいは日興上人御自筆の曼茶羅本尊に記された脇書、それらの一々に「○○の弟子」と明記されたことも、必ずや当家の〈師弟子の法門〉〈本迹の法門〉に深い関連がありましょう。

ともあれ現在のように師弟子の法門の意味合いが次第に忘れ去られると、師弟は単なる主従・隷属の関係を強いるための足枷に過ぎないものとなります。日有上人が「当家の本門」と仰せられた「三毒強盛の師弟」は、あくまでも真摯に切瑳琢磨して妙法を受持信行する「師弟」でなければならないでしょう。師弟相寄って仏道を成じる、そのためには今なお未詳なことの多い上代の〈師弟子の法門〉〈本迹の法門〉を探求し、発掘することによって、私たち白身の蒙を啓いていかなければならないと強く思います。

 

 

II.    他門との相違

一、問フ一乗坊ノ義ニ云ク、富士方ニハ本迹勝劣ノ御修行ト承ハリ候我レ等モ本迹勝劣ト修行仕リ侯処ニ、祈祷経副状ニ一々文々是真仏云云。本迹共ニ修行スヘシト見エテ候ヲ ハ如何意得ヘク侯哉。答テ云ク、其ノ本迹ヲハ何ノ本迹ト沙汰シ御得意侯哉ト云フ時、 イツモノ如ク前十四品為迹門後十四品為本門ノ分ニテ彼レ云ヒケル也。去ル間日有ノ仰セニ云ク、其ノ義ナラハ此ノ方ト同心申スマシク侯也、我等カ方ノ本迹ト申スハ左様ニ ハナケニ候ト仰セラレケレハ、サテハ富士方ノ本迹ハ如何ニヤト云フ時、仰セニ云ク、 富士方ノ本迹トテ細工コトニハ侯ハス侯也、只仏教ノ大綱ト云ヒ、教機時国教法流布ノ 次第ト云ヒ、大聖人ノ御本意ノ有リノママニ修行仕ル計リニテ侯ト仰セアリケレハ、彼 レ云ク、去レハコソ左様ノ次第ヲ聴聞申シ度ク侯ヘト云フ時、仰ニ云ク、我等カ門徒ニ 入ツテ修学召サレ侯ハハ自ラ御存知有ルヘク候ト云フ時、サモ侯へ一端承リ侯ハント云 フ時、仰セニ云ク、治病抄ニ云ク、彼レハ迹門ノ一念三千此レハ本門ノ一念三千彼レハ 理也此レハ事也天地遥カニ異ナリ殆ト臨終ノ時ハ御心ニ懸ケラルヘク侯ト遊ハサレ侯、 此ノ趣ニテ侯也云云。先ノ祈祷経ニ付イテノ難ハ本成寺ノ本寺、京ノ本国寺ヨリ本迹勝 劣ヲ立テラルニ付テ五十五ケ条ノ難状ヲ下サルノ第一也、去ル間初ニ此ノ難ヲコソ会通 スヘケレトモ此レヲ会通セハ次ノ難ヲ出シ出シスヘキ故ニ此ク如ク引違ヘテ反詰仕リ侯 也云云 (下野阿闍梨聞書、歴全1−403)

本文は下野阿闍梨聞書の御文です。前節に引き続き当家の〈本迹法門〉について申し述べたいと思いますが、まずはじめに冒頭の本文を簡略に通釈いたします。

越後本成寺の一乗坊が云うには、富士門流では本門勝、迹門劣の立場から修行を立てられていると承っております。我われ本成寺においても本迹勝劣の修行を立てていますが、祈祷経副状には「一々文々是真仏云々」の御文があり、本迹に勝劣を立てず共に修行すべしとの説もあるように思われます、これをどのように心得るべきでしょうか、と日有上人に尋ねられました。それに答えて、まず一乗坊の云われる本迹二門とは何れの本迹を考えられ、何れの本迹を問題とされているのでしょうかと日有上人が反問された時、一乗坊は常のごとく法華経教相上の前十四品を迹門、後十四品を本門との配立を示されました。

 それを聞いて日有上人は、本迹二門の義を教相上に限って云うのであれば一乗坊に同心することはありませんと仰せられました。そして富士門流の本迹法門は教相上の本迹でない旨を示されると、一乗坊が「富士方ノ本迹ハ如何ニ」と聞かれるので、日有上人は当家の本迹とて細工ごとではありません、詮ずるところ当家の本迹勝劣の修行とは仏教の大綱に叶い、教機時国および教法流布の次第によって、大聖人の御本意のままに修行するばかりですと仰せられると、一乗坊はさらに「それゆえに富士門の修行の次第を聴聞したい」というので、それに対しては我が富士門流に入って修学なされば自ずと体得できましょう、と教示されました。一乗坊はそのことを認めた上で、なお「富士の法門の一端をぜひ伺いたい」と繰り返されるので、日有上人は治病大小権実違目の「彼レハ迹門ノ一念三千此レハ本門ノ一念三千彼レハ理也此レハ事也天地遥カニ異ナリ殆ト臨終ノ時ハ御心ニ懸ケラルヘク侯」との御文を示され、当家の修行の趣きを説明されました。

 はじめに一乗坊が尋ねられた祈祷経副状の一文についての質問は、越後本成寺が本寺の京都本国寺に対して本迹勝劣の義を打ち立てた時、本迹一致を宗是とする本国寺より〈五十五箇条〉の質疑が行なわれました。その内の一番目の難が「一々文々是真仏」の御文に関するものだったのです。それゆえ本来ならば、初めにこの難を会通すべきなのでしょうが、これに答えれば次の難、さらにまた次の難と際限なく繰り出され、答える方も煩雑になりますので角度を変えてこのように反詰したのであります。以上、通釈です。

 

《一乗坊との問答背景》

  日有上人が諸国遍歴して広く他宗他門の僧侶と問答されたことはよく知られていますが、本文はその一つである越後本成寺の一乗坊日信師と日有上人との問答がメインテーマになっています。本文は前段部分を少し省略しており、さらには一つ前の項目とも関連がありますので、それらを合わせた上で本文の背景をもう少し説明したいと思います。

 日有上人はある時、越後国三条にある本成寺を訪れました。塔中二十四箇坊を擁する本成寺の別当は、かなりの学匠と聞き及んでいたので「行キ合ヒ法門ヲモ」語り合おうとしたわけです。別当はなかなか出仕せず、七日目の朝の勤行過ぎてようやく法門談義となりましたが、日有上人よりすれば全くそれは満足の行くものではありませんでした。別当は、富士門では方便品を所破のために読誦すると言うが本当か、我われ本成寺では現当二世の得益のために読誦すると問うてきました。そこで日有上人は、「答フ実ニ所破ノ為ニテ候」と仰せられ、方便品の後に寿量品を読諦すれば、自ずから迹門である方便品は破され、寿量品の後に題目を唱えれば自ずと在世断惑証理の為の寿量品は破される、と富士の立義を示されました。それを聞いた別当は「未聞不見ノ事」として応答を避けました。        

 次に別当は、富士門では釈迦多宝を本尊として造立しないと承るが心得ざる義である、どうして「法華ノ教主ヲ造立無キ耶」と日有上人に詰め寄りました。それに対して日有上人は、釈迦多宝を造立することは正像二千年の天台真言における修行であって末法今時の所用ではない、大聖人の御本意は「只紙上ニ顕シ御座シ候処ノ御本尊」であり、これこそ「当機益物」であると示されました。その証しに「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有之大曼茶羅也」と大聖人が御本尊に認められたことを挙げられました。

ここで別当は、少し揚げ足を取ったつもりか、御本尊の事書に「三十余年」とは「アラ心得サル哉トテ笑フ」と下野阿闍梨聞書には記されてあります。別当は大聖人の漫荼羅本尊はすべて「二十余年」であると思っていたのでしょう、日有上人はすぐ様それに答えられて「二十余年」とも「三十余年」とも大聖人は認められている。「御正筆アマタ御拝アルヘキ也」と破されました。問答はここまでで、別当はただちに席を立たれたと同聞書には記されています。

以上のような経緯がまずあって、冒頭本文の一乗坊との問答に移行します。日有上人は、

「別当ヨリ外ニ尚修学ノ人ハ御座無キ哉、別当ノ御事ハサシタル智分ニテハ御座無ク侯也」(歴全1−403)

と法門談義の相手を求められ、本成寺前住の一乗坊を「是レコソ明匠ニテ」と紹介されたのでした。その問答内容は通釈の通りです。

《京都日蓮門下の本迹法門》

 本文に本国寺より本成寺に出された「五十五条ケ条ノ難状」とありますように、この両寺は〈本迹法門〉の一致・勝劣をめぐって熾烈な論争を展開しました。

 争いの起点は、日朗―日印―日静―日伝と法系を継いだ六条門流(京都六条の本国寺を本拠とする)が本迹一致を宗是としていたのに対し、これまた六条門流の由緒寺院である本成寺を受け継いだ円光房日陣師(越後本成寺は日朗―日印―日静―日陣の系譜をもつ)が本迹勝劣を主張したことに始まります。この時に本国寺より出された五十五ケ条は現在では確認されていませんが、その難問の一々に応答した本成寺側の日陣師の『本迹同異決上下』が伝わっておりますので内容はほぼ把握するこができます。

 ここでは煩をおそれて一々の項目に言及しませんが、全体的な傾向を指摘すれば、日陣師の教学は本迹の二門に法体の浅深を論じてこそ正像の弘経と末法今時の弘経との差異が明らかになるというものであり、そこに宗祖の面目を認めているようであります。一方において本国寺側の「五十五ケ条」は終始、本迹一致の妙法を立てその差異を認めず、論進むにつれて台当本迹の一致に堕す傾向にあります。つまり一致を主張するものの常として、次第に天台与同の態度を示すようになっています。

 大聖人滅後、京都に進出した門下教団においては、叡山の膝元でしかも公武の政権に接近する方策の上から、大聖人在世より大きく後退した天台与同の立場を取るのが一般であったようです。帝都弘教の先鞭をつけたと言われる朗門の竜華日像師(京都四条に妙顕寺を構えたので四条門流という)などは、その著『法華宗弘通抄』に、  

「根本大師の本意、仏意に相叶ひ、祖師聖人の料簡、大師に符合せば誰人か此の宗を蔑如し、何人か当流を軽忽せん」

 と述べて、あたかも大聖人の本意が天台宗の復興にあったかのような口吻をもらしています。また〈本迹法門〉に関しても、日像師は『祈祷経之事』に、  

「一部八巻二十八品一一文文是真仏と決し給ふ也、所詮本迹二門は一往勝劣、再往一致等と覚知すべき也」

「開迹顕本の上の三宝は迹本一体の三宝也」 

等と記しているように本迹一致の法門を強く主張しました。ここに日像師自身が本迹の勝劣・一致に「一往」「再往」の別を立てたことは、本来の大聖人の法門から離れて、本迹一致の教義を立てるための便宜上であったと言い得るでしょう。さらには、ここに「一一文文是真仏」の文を依拠として、本迹一致の義が展開されており、先の本国寺の「五十五ケ条」第一の難が日像師の『祈祷経之事』より導かれていることを知るのであります。本文の下野阿闍梨聞書には、「祈祷経副状」の文として「一々文々是真仏」が引用されていますが、大聖人御書の『祈祷経副状』に同文はありませんのでおそらくこれは日像師の『祈祷経之事』と御書の『祈祷経副状』とが混乱した結果であろうと思います。ともあれ、「一々文々是真仏」の文は、本迹二門の経文の一々文々がみな真の仏であるという解釈により、本迹一致の要文として昔より一致派において重宝されていたことが伺えます。 

 このように、門下による京都進出は四条・六条門流が先駆を切った形でしたが、その内容たるや大聖人の本意より遠く隔たった天台寄りの教義を弘通することに終始したのでした。それゆえ、四条・六条ともに、門流内より教義的な反抗が次第に起こり、室町期に入ると様々な分派活動が展開されました。その流れには、本迹一致=天台与同、本迹勝劣=台当違目という基本的な対立の構図があったと言えましょう。

 四条門流からは、まず慶林日隆師が本門八品正意を立てて独立し(八品門流)、次いで常不軽院日真師が寿量一品正意の本迹勝劣を主張して本隆寺を創建しました(真門流)。また、六条門流では、先のごとく日陣師が本迹勝劣義を立てて本禅寺を開き陣門流を形成しました。

 むろん、本迹勝劣義を主張する各派においても、それぞれ教義の相違が論じられ決して一様ではあませんでしたが、総じて一致派に対する時は天台与同を排撃し、自門においては上行菩薩の強調、台当違目の徹底に力を傾注したことは、勝劣各派の共通項とすることができましょう。本門勝、迹門劣の立場を堅持することが、日蓮宗の天台ずりに大きくブレーキをかけることになるのは言うまでもありません。  

 

《当家の本迹法門との対比》

さて、当家の本迹法門が他門で言うところのそれと相違し、教相上から離れた少し特異なものであったことは前節に申し上げました。

 その視点から上代の富士門流では、京都辺に弘教した一致・勝劣の両派を捉えていましたから双方に大聖人の法門とは異質なものを感じていたと言えましょう。

特に、天台与同の立場を大聖人の正統のごとく主張した日像門流に対しては、鋭い批判を向けております。上代における当家と像門との問答記録とも言える三位日順師の『擢邪立正抄』によれば、  

「汝の立義(日像門流―筆者註)の如くんば念仏・真言・禅・律僧等、洛陽に処して渇仰を被り十善の勅宣を帯びて両家の祈祷を致す、尤も信受せしめ僕従と成るべき者なり、此の外、師子楽・猿楽・田楽・乞食・感神院犬神人等、皆京都に住して遍く上下に詔ひ或いは神人と号す、所存の作法相似たり、寧ろ彼等が流類に非ざるか」(富要2−43) 

と述べられています。その意は、像門が帝都に弘教するといっても呵責謗法の制誠を守らず、いたずらに公武に接近して両家の祈祷をなすのだから僕従と変わりがない。その姿は師子楽、猿楽、乞食、神人等に似たものであり、上下に諂う彼等の流類ではないか、という非常に手厳しいものであります。

 その他にも、像門が念仏宗の義に諂い、男女の意楽に准じて「行道諦経の儀式」を行なっていること。また大聖人の本地を上行菩薩に非ずとし、「迹化の菩薩」とする為に無理な御書釈を施すこと。

 「本迹二門利益有り」との立場から一致の教義を立てること。「如何が神去るか」と述べて善神捨国の法義を破ることなど、『擢邪立正抄では多岐にわたって富士門の立場から像門の教えを破折しています。

 もっともこれらの国家祈祷や大聖人を迹化の菩薩に擬する問題に関しては、みな天台与同の法門から起こっているので、ある意味ではすでに〈五一の相違〉によって解決済みのことでもあります。富士門流では、『三師伝』の日興上人御遺告を見るまでもなく、上行菩薩の強調、台当の相違に関しては門下随一の強義を立てていましたから、像門のあり方に対する破折は手厳しいのがむしろ当然とも言えましようo

『擢邪立正抄』に詳説された像門日学師と富士門日寿師(百貫坊日仙師の弟子)との問答が貞和四年(1348)に行なわれていることを思えば、京都辺に弘通した他門下の教義改変に対して富士門流が如何に早くから警鐘を打ち鳴らしていたかが分かるのであります。

 それでは次に、一致派に対立した形で登場してきた勝劣派に対して、当家はどのように対応したか、その一つのケースを示したのが本文の下野阿闍梨聞書であると言えましょう。

 当家の立場よりすれば、天台に与同する一致派より台当の相違に目を向ける勝劣派に比較的好感をもつのは自然なことだろうと思います。本成寺の別当を「学匠ト聞及ンテ行キ合ヒ法門ヲモ云ハハヤ」と日有上人が考えられたのも、一致派とは違った心安さがあったのではないかと思います。しかしながら先にも述べましたように、そこには方便品得益の有無や釈迦多宝の造像の可否という、越え難い問題も厳然としてあります。

 当家では、あくまでも方便品に得益を認めませんし釈尊像の造立も許していません。法華経の教相上のことは在世正像の衆生には有益であっても、私たち末法の衆生のためには無益であるとするのが当家の立場です。

 これを思うに、方便品に得益を認め釈尊像を造立すべしとする本成寺の教義は本迹一致派から派出した勝劣派の限界を示しているのではないか、と私は考えます。そして教相上をあくまでも離れない台当違目は、遂に真実の台当違目になり得ないのではないかと思うのです。この点において、同じ台当違目を主張するといっても富士門と他の勝劣派とでは根本的に相違すると言わねばなりません。一般的には富士門も勝劣派の一つとして数えられていますが、それを教相上の一致勝劣に限るならば当家は本迹を「竹膜を隔つ」ぐらいにしか見ていませんので勝劣派に属するというのは無理がありましょう。また、大聖人が本化か迹化かを問題とする台当本迹が登場しても、本尊観、修行観、成道観などが教相を離れてないならば、真実の本門が顕われたとは言い難いので、この場合も富士門のく本迹法門〉とは異質なものと言わざるを得ないでありましょう。

 ともあれ〈本迹法門〉には今述べましたように、幾重もの本迹が交錯していますので、議論を噛み合わせることが難しく、時に誤解が誤解を呼ぶようなことも一再ではなかったと言えます。

 日有上人が一乗坊と問答の際に「其ノ本迹ヲハ何ノ本迹ト沙汰」すべきかと、まず尋ねられたのも頷けることでありましょう。そして、一乗坊が二度三度「富士方ノ本迹ハ如何」と問うたのに対し、日有上人が容易に説明されなかったことも、ただ問答巧みにはぐらかしていたのではなく、当家のく本迹法門〉の特殊性に起因するのではないかと私は思います。  

「我等カ門徒ニ入ツテ修学召サレ侯ハハ自ラ御存知有ルヘク侯」

 との仰せも、富士門の上代では、三毒強盛の師弟が共に余事余念なく妙法を受持信行して一箇するところを「本門」と定めていましたから、「我等カ門徒ニ入ツテ修学」することが何よりも〈本迹法門〉を理解する早道であり、要諦であったともえましょう。前節にも述べましたように、少し特異にして素朴な雰囲気をもち、さらには現実の生活に根ざしているともいえる〈本迹法門〉が富士門では広く行なわれていたと思われます。それは教相上の本迹とも台当の本迹とも相違しているので、通途の本迹の語を用いて説明し誤解を招くより、敢えて師弟の信仰実践の中で会得すべきであるというのが日有上人の気持ちではないかと思います。少し推測に頼り過ぎていると思われるかも知れませんが、本文聞書の文脈を辿ればその雰囲気は十分出ていると私は思います。

「彼レハ迹門ノ一念三千此レハ本門ノ一念三千彼レハ理也此レハ事也天地遥カニ異ナリ」

 と日有上人は問答の終わりに治病抄を引かれましたが、この御文とても法華経の教相上の本迹、台当違目の上での本迹に留まるならば、真に当家の〈本迹法門〉を理解したことにはならないでしょう。

 日有上人が同じく下野阿闍梨聞書に当家の「本迹」「事理」について、  

「惣じて事と云ひ理と云ひ、愚者と云ひ智者と云ひ、断惑と云ひ未断惑と云ひ、本と云ひ迹と云ひ、在世と云ひ滅後と云ふ。何れも迹門と云はば理也智者也悟也善也。能所共に此の如く末法今時は本門の時也。然る問事相の化儀の上に宗旨を立つる宗也。去る間事也愚者也本門也」(歴全1−390)

 と示された配立に随い、教相を離れて、末法愚迷の凡夫の観心に「本門」「事行」を立てる時、はじめて当家の〈本迹法門〉に参入したも言えましょうか。さらに日有上人は観心本尊抄の観心について、  

「今日蓮の観心と云ふは観心本尊抄是れ也事観也、本門の観心は末法也愚者也迷者の観心也事相妙法蓮華経の観也」(歴全1−390)

 と教示されましたが、このことと先の治病抄の理解とはおそらく相い通じていると思われます。

 

 

 

 

 

 


 

 

第10章 富士門流の勤行

 

 

 現代社会と違い、中世は午前三時=丑寅の刻を一日の切り換えとした。まだ日は出ていないものの、東の空がわずかに乳白色に染まりつつ、万物みな生起し始める時、東天にひときわ明けの明星が輝く。

 大石寺では不変の化儀として、この丑寅の刻に〈お華水〉より關伽水を取り、御本尊にお供えする。宗旨の根本たる丑寅勤行の際の作法である。興味深いことに、鎌倉時代の安房清澄寺においても、丑寅の刻に水を取る修法が行なわれていた……。

 

 

 

 T.日月自行の勤行   

一、仰ニ云ク、今當宗ノ御勤ハ日月自行ノ御時ノ勤也、是レ尤宗旨ノ勤ナル間是レヲ本ト為ス也。朝天エ十如是寿量品、御本尊ニ方便品ノ長行寿量品両品也、御影堂ニテ十如是寿量品計リ也、御堂ノ勤ヲ御坊ニテ遊ス時ハ天ノ法楽ハ先ノ如ク御本尊ノ勤ハ前ノ如ク御影ノ御勤ハ読ザル也、當宗ノ宗旨タル勤ハ案シ定メテ加様ニ読ミ申ス也云云。(連陽房雑々聞書、歴全1−377)

 本文は日有上人当時の勤行次第について示された連陽房雑々聞書の御文です。はじめに通釈致します。

 日有上人は、当宗の勤行が「日月自行ノ御時ノ勤」であることを示されました。これこそ宗旨の勤めであるから、「日月自行ノ御時ノ勤」を当家の根本にしなければならないとも仰せられました。

 まず、その勤行のはじめには、天堂において朝天へ十如是と寿量品、次に本尊堂にて曼茶羅本尊へ方便品の長行と寿量品の両品、さらに御影堂に参って御影様に向い十如是と寿量品を読誦します。三堂を巡拝しての勤行を大坊の一所にて行なう時は、天への勤めは先のように十如是と寿量品を読誦します。さらに御本尊への勤めも前の如く方便品の長行と寿量品を読誦しますが、御影様への勤めはこの場合省略致します。富士門流の宗旨の根幹である勤行は、このように定められて読経されております云云。

 

《丑寅勤行》

 この項目は、上代の勤行次第について説かれたものであり、現在行なわれている勤行の化儀の淵源でもあります。

 当家で勤行と言えば、日寛上人が当流行事抄に、

「古より今に至るまで毎朝の行事、丑寅の刻み之れを勤む」(聖典954)

 と示されましたように、〈丑寅勤行〉をすぐさま思い起こされる方も多いことでしょう。本文の日有上人の仰せも「是レ尤宗旨ノ勤ナル間是レヲ本ト為ス也」と、宗旨の根本の勤行である旨を示されていますから、おそらく「日月自行ノ御時」の勤行とは〈丑寅勤行〉のことであろうと思います。それと言いますのも、日有上人は同じく連陽房雑々聞書の中で、「一日三時の御勤の事」として、  

「朝は辰巳の時は諸天の食事なる間、先ず天の御法楽を申し、午の時は諸仏の御食時なれば日中の法楽是れ也。戌の時は鬼神を訪ふ勤め也、是れを能々心得て三時の勤行致すべき也」(歴全1−375)

 と示されているからです。当時は、「一日三時」として辰巳、午、戌の刻、すなわち現在の午前9時、正午、午後8時の3回に勤行が勤められていました。あるいは正午の勤めを略して「朝暮ノ勤行」「朝タノ御勤」という言い方も日有上人はされています。ということは、おそらく日有上人の時代には、未明の時刻に行なわれる〈丑寅勤行〉を宗旨の根本として、その他に朝・日中・夕の三時の勤行が勤められていたのでありましょう。本文の「日月自行ノ御時」とは「一日三時」ではなく、当家に相伝するところの丑寅の「御時」を指したものと考えられます。また、日寛上人は前述の当流行事抄に、  

「丑の終り寅の始めは即ち是れ陰陽生死の中間にして三世諸仏成道の時なり。是の故に世尊は明星の出ずる時舘然として大悟し、吾が祖は子丑の刻み頸を刎ねられ魂醜佐渡に到る」(聖典9555)

と示されましたように、丑寅の時刻とは「明星の出ずる時」でもあります。

 現在で言えば、丑の刻は2時、寅の刻は4時、その中間が丑寅の午前3時です。現代社会と違い中世では、この午前3時を1日の始まりとしていました。まだ日は出ていないものの、東の空がわずかに乳白色に染まりつつ、万物みな生起しはじめるとき、東天に他の星を圧してひときわ明けの明星が輝きます。〈闇〉が極まって、わずかに〈明〉に移行する丑寅の時刻のシンボルとして明星は存在しています。仏語で言えば「明暗来去同時」の一瞬、それが「丑寅の刻み」であり、日有上人の仰せられた「日月自行の御時」であろうと思います。「日月自行」とは、おそらく片時も止むことのない日月の天の運行を修行と捉え、その末に証果としての明星天子を見ているのだろうと私は思うのです。

 日月の修行成就して明星天子が誕生する――そこに「日月自行の御時」と「明星の出ずる時」を同時とする所以を見たいのです。「明星」とは、その文字の通り、日月の合して産み落とした御子であると考えられましょう。

 

《虚空蔵求聞持法》

 因みに丑寅と言えば、鎌倉末期の天台僧光宗が著した『渓嵐拾葉集』に興味深い記述がみられます。

その書物によれば当時、憶持不忘の心地を獲得するために行者は〈虚空蔵求聞持法〉という修法を行ずるならいがありました。大聖人が「日本第一の智者となし給へ」と虚空蔵菩薩に祈請された話は有名ですが、安房清澄寺では当時盛んに修行僧による求聞持法が行なわれており、大聖人も次第作法に則って修されたことと思われます。

 その修法の際、毎日必ず閥伽水が行者によって宝前に供えられます。

 「求聞持の法は水を取る作法、最極の秘事也」

 と言われるほど、〈虚空蔵求聞持法〉には大切なことなのですが、これが、

 「丑の終り寅の一点に之れを取るべき也」

 と示されているように、実に丑寅の時刻に行なわれていみのであります。なぜこれが興味深いことかと言いますと、大石寺では不変の化儀として、毎日丑寅の時刻にお華水より閥伽水を取って御本尊にお供えしているからです。もしや大聖人が求聞持法の際に行なわれた水取りの作法が、現在の大石寺での水取りの化儀に何らか影響を与えているのではないか、そう思うだけで実に私にとって刺激的な感覚をもたらせてくれます。 

他にも同書には、関伽水を取る場所を「明星来下の地」、もしくは「明星の影を写す」処という記事もあり、富士門流に伝わる明星口伝、あるいは明星池との関連を思わせるものがあります。また、

 「明星天子供の時は別して本尊を安置せず、窓アケテ直ちに生身の明星に之れを供し奉る」

 との記事もあり、これも求聞持法の際の所作ではあるのですが、丑寅勤行の初めに本尊に向かわず東天を拝するのと類似しており興味深いことです。ここには、今後大いに考究すべき事柄が含まれているように思われます。

 ともあれ富士門流では上代より、丑寅の時刻にまず天に向い読経が行なわれ、次いで曼茶羅本尊、御影本尊へと順々に勤行がなされて行きました。いつしかそれが勤められる時刻に因んで、当家では〈丑寅勤行〉と称されるようになったのであります。また、それをお手本として地方末寺や檀信徒の朝の勤行の化儀次第が形作られていきました。よって次に、本文の内容から勤行の次第について考えてみたいと思います。

 

《諸堂々参と勤行次第》

 日有上人の頃の大石寺の伽藍は、日主上人の古図絵によりますと、塔中12箇坊の参道を上れば中央に本尊堂、その東に天経、西に御影堂が配置されています。そして当時の勤行は、天堂、本尊堂、御影堂の順に各所に堂参して行なわれていました。また、時には何らかの都合で諸堂に参らず「御坊=大坊の一所で読経されたことが本文によって伺えます。その場合、初めは天堂での御経、次に本尊堂での御経というように、一所でありながら何座かの御経が読誦されたわけです。おそらく天侯の悪い時や貫首上人の所用などによって、そうした状況が生まれたものと思われますが、時代の変遷によって、それが次第に「御坊」一所での勤行へと習慣化されていきました。近代における〈丑寅勤行〉が客殿にて五座読経されるのも、その通例によっているのであります。

 さらに、現在において地方末寺や家庭でなされている朝の勤行は、客殿の丑寅勤行を模したものであり、そこには本寺における諸堂々参しての勤行が原型として存在していました。すなわち朝夕の五座三座の勤行は、諸堂での御経を一括したことによって近年成立したものであります。

 一つの資料をあげれば、12世日鎮上人の『堂参御経次第』(歴全1−441)には次のように記録されています。

 「大永3年癸未5月1日夜

   本堂へ十如是寿量品一巻・題目百返

   天御経へ十如是寿量品一巻・題目百返

   御影堂へ十如是寿量品一巻・題目百返

   又其後、寿量品三巻・題目三百返

  2日 朝

   御影堂にて、十如是寿量品三巻・題旦二百返

天御経へ参り侯て、十如是寿量品一巻・題目百返祈念申し侯

   大堂へ参り候て、十如是寿量品一巻・題目一百返祈願し奉り侯

   御影堂へ参り侯て、十如是寿量品一巻・題目百返祈念申し侯

   以上十二巻千二百返

                         日鎮 (花押)

 家中抄によれば、日鎮上人は大永2年に御影堂、垂迹堂、総門などを建立整備されたとありますから、翌大永3年のこの記録は、新しく整った伽藍の開堂供養のための御経次第であったかも知れません。「一日夜」「二日朝」と記されていますのも記念法要の初会、本会を示したものと考えることができましょう。

 記録の1日目の「其後、寿量品三巻・題旦二百返」と2日目の「御影堂へ参り侯て、十如是寿量品一巻・題目百返祈念申し侯」の記述は、いずれも御影堂における2回目の御経であり、あるいは、この記念法要が御影堂の開堂供養ではないかとの推測をもさせます。

 ともあれ、この記録に「本堂」「天御経」「御影堂」の3堂巡拝が示されていることは、本文の日有上人の仰せと軌を一にするものと言えましょう。すなわち、大石寺では天堂、本尊堂、御影堂の3堂を巡拝することが化儀として、ごく普通に定着していたのではないかと思います。ゆえに現在の五座の勤行も、この3堂における御経があくまでも基本であり、後になって4座の広宣流布祈念の御経や5座の諸回向の御経が付け加えられていったものと思われます。

 また、この日鎮上人の記録で注目されることは、朝夕ともに天拝が行なわれていることであり、当家にあっては「天御経」が如何に重要な勤行・化儀であったか、しばし考えさせられるのであります。冒頭の聞書本文にも、「御坊」での勤行の際には「御影ノ勤ハ読マザル也」と省略されているにもかかわらず、「天ノ法楽」は常の如くに読経するよう示されてあります。そこで次に、富士門における天拝について考えてみたいと思います。

 

《天拝の淵源》

 日有上人が本文において、

 「今当宗ノ御勤ハ日月自行ノ御時ノ勤也、是レ尤宗旨ノ勤ナル間是レヲ本ト為ス也」

 と仰せられたのは、富士門流の〈丑寅勤行〉を明かされたものであろうと先に申し述べましたが、またそれは同時に、当家における日月二天への信仰の深さを示しているようでもあります。

 丑寅法門のキーワードとも言える明星天子は、日月二天への信仰を土台として、初めて生ずるものと言えましょう。そして、この日・月・明星の法門の構図は、富士門流の相伝として化儀化法はもとより大石寺の伽藍配置に至るまで活かされております。

 

 例えば、大石寺境内にある二天門と鬼門は一対をなすもので、二天門は文字どおり日天・月天を表わし、鬼門は丑寅を示していますから明星を表するものであります。鬼門をどういうわけか、現在では朝日門などと呼ばせているようですが、朝日はすでに二天のうちですから、この呼称は誤謬をもとにしているのでしょう。敢えて称するならば明星門でなければなりません。

 また御影堂や御宝蔵などのおもだった諸堂の前には、それぞれに日天・月天の石灯籠が一対据えられています。これも日月二天の中間に明星をみる当家の伝燈的な法門のあらわれと言えましょう。これらのことは、師弟子の法門や三幅一対の法門(蓮興目三祖の法門)とも密接な関連を有しています。

 いずれも特徴的なことは、日月二天への信仰が明星=丑寅=成道という線にのって当家の成仏論が構成されていることです。日天・月天への信仰が当家において珍重される所以でありましょう。

 さて日月二天への勤めは、上代より「天拝」「天経」「天御経」等と称されてきました。そして、その勤めが行なわれる場所を「天壇」とか「天堂」「天主堂」もしくはそのまま「天経」と称したようであります。本尊堂や御影堂と違いまして、御堂としての立派な建物があるわけではなく、上代では土が踏み固められた土壇が本体であったようです。

 天正年間に、「天堂願主」の信徒に対して賞与の曼茶羅本が授与されていますから、あるいはその頃御堂としての体裁を整えたのかも知れません。すでに現在では「天堂」は消失していますので、当時の建物がどのようなものであったか詳しいことは分かりません。江戸末期の『大石寺之図』には、御影堂の手前、東方に「二天」と記された小堂が見えます。江戸中期の狩野舟川筆による『大石寺古図』にも同位置に「天堂」を確認することができます。このように近世までは、「天堂」も伽藍の一部として残されていましたが、近年になって客殿一所での丑寅勤行が常例化するうちに無用の長物として片付けられることになったのでしょう、大正年間に取り壊しになりました(研教10−314)。今に残されていれば、天拝の意義や勤行の化儀について考察する上でたいへん有益であったと考えられますので残念至極です。立派な建築物ではなかったので保存する価値が認められなかったのでしょうが、「天堂」は宗旨の上から実に大事な空間であったのであります。

 さてそれはともかく、当家の天拝の淵源をたどれば、おそらく日興上人、日目上人在世の大石寺草創期まで遡ることが可能かと思います。というのも、すでに大聖人の身延在山中に勤めとしての天拝が行なわれていたことを記した書物があるからであります。身延における大聖人の御生活について事書きされた『日進聖人仰之趣』に、

「一、聖人ハ天ノ御為ニ番々ツモツテ老僧連ニ御経ヲ読セ玉フニ、ハヤク来ル者ヲハニクシト、ヲソクヨメト仰セラルル也云云」

 と示されたのがそれであります。身延の山中において、大聖人は「天ノ御為」の「御経」をそれぞれ門弟達に読誦させました。「番々ツモツテ」とは、当番としてという意味になりましょう、つまり天拝は毎日の勤行として行なわれていたと思われます。

 身延の山奥だけに、冬の寒い日などは野外で読誦する御経はことのほか身体にこたえたでしょう。

 門弟が御経を「ハヤク」終わらせて帰って来てしまうのもうなずけます。そんな時、大聖人がもっと時間をかけて「ヲソク」御経を読みなさいと門弟に仰せられたと言うのでしょう。身延での修行のあり様、大聖人の厳しさなど十分感じさせるエピソードです。この記事を読んだ時、大聖人と門弟とのその場での会話を想像して、私は多少ユーモラスな気持ちにさえなりました。そいうこともあっただろうな、というのが私の素朴な実感です。

また、御書には勤行としての天拝ではないかも知れませんが、大聖人が事に際して日天・月天に読経し祈念されていることが示されています。  

「されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり」(全集1169)

「伊与殿もあながちになげき侯へば、日月天に自我偈をあて侯はんずるなり」(全集986)

「尼御前御寿命長遠の由、天に申し侯ぞ其の故御物語り侯へ」(全集987)

「法華経の御宝前、並びに日月天に申し上げ侯い畢んぬ」(全集1262)

 いずれも身延在山中の御書であり、大聖人が身延山において天拝されていたことの証左であります。

 そして檀越の寿命長遠の祈念などは、やはり勤行としての天拝に際して行なわれたと考えるのが妥当かと思います。御書ならびに『日進上人仰之趣』の記事を考え合わせれば、すでに身延において日常的に天拝が行なわれていたことは動かせない事実と言えましょう。徴する史料がありませんので想像に過ぎないのですが、御在世中すでに当家に伝わる〈丑寅勤行〉の前身のようなものが行なわれていたのではないか、と私は思います。

 日興上人、日目上人は身延において、常に大聖人の側近くにあって給仕されていましたから、天拝や勤行の化儀も実地で身につけられたと思われます。後年、身延を離山して大石寺を草創された時も、日興上人は大聖人ありし日の身延を思い起こされて御堂を建て、化儀を定め、門弟を薫育されたことでしょうから、富士門流に伝わる天拝や勤行の化儀(方便寿量の二品読誦も含めて)は日興上人が大聖人より直に受け継いだものを伝えているとして差し支えないと私は思うのです。「当宗ノ宗旨タル勤ハ案シ定メテ加様ニ読ミ申ス也」と日有上人が明言されたのも、日興上人以来の伝燈を確信していたからでありましょう。

 

《天拝の意義》

 それでは次に、なぜ当家において自然崇拝にも似た天拝が行なわれてきたのか、その意義について考えてみたいと思います。無論そのこともまた、大聖人がなぜ天拝されたかということと密接に関連することは言をまちません。

 大聖人は法華取要抄に次のように仰せられています。  

「法華経本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば、生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」(全集334)

 その御意は、法華経本門が説かれるによって、諸々の大菩薩以下、日天・月天は妙覚の位を得ることになる。もしそうであれば我々が天を仰いで日天・月天を見れば、それは生身にして妙覚の位を得た仏の姿を見ることであり、仏(日月二天)の衆生を利益せるを見るのである、ということになりましょう。

 勤行の初座の観念文にも、

 「生身妙覚自行の御利益、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・大明星天王……」等

 と記されていますが、ここにも「生身妙覚」の語が見えます。つまり、日月二天を理解する上でもっとも肝要なことは「生身」にして「妙覚」の位を得たと言うことでしょう。「生身」とは文字どおり、生きた身でという意味です。法華経の会座において「本門略開近顕遠」の教えに接して、妙覚の位に上った菩薩、二乗等は、みな私たちからすれば想像するか、絵像木像を拝することしかできない存在であります。つまり「生き身」ではありません。それに対して、日月は時の経過の中で中世の人々の目の前を運行し、あるいは月であれば現実に満ちては欠けるという「生き身」としての存在であったのです。「我等天に向って之を見れば」というのは大聖人の実感そのものであったことでしょう。なにしろ、生きながらにして妙覚の位を得ているのは日天・月天のみなのですから。あえて言えば、日月は即身成仏の手本とも言えましょう。

 それゆえ「生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」との仰せのように、日月は衆生を利益することもできましたし、法華経の行者を守護する役割も果たせたわけです。私たちからすれば、日月に妙法蓮華経の法味を捧げて、行者守護の祈念とするのであります。

 大聖人が御書に、  

 「日蓮を恋しくをはしせば、常に出ずる日、ゆうべにいづる月を拝ませ給え、いつとなく日月に影を浮かぶる身なり」(全集1325)

 「また某を恋しくおはせん時は日々に日を拝ませ給へ、某は日に一度天の日に影をうつす者にて侯」(全集1444)

 と仰せられたのも、ただ単に情感を込めるための修辞であるとは言えません。日月への信仰と一体化、即身成仏、行者守護の祈念など、もろもろのことがらが大聖人の想念の中にとけ込んでいたのではないかと思うのです。ゆえに、日月の中に大聖人を拝する信仰は、当家に相伝法門として伝えられました。  

「仰せに云く、当宗に日天を先ず拝し奉る事は、日蓮事行の妙法を三世不退に日天の上に事に顕し利益廃退無き事を敬ふとして、先ず日天日蓮と得意して其の心を知るも知らざるも日天を拝し奉る也」(歴全1−410)

 日拾聞書にみられる日有上人の仰せですが、ここには日天をそのまま日蓮と拝する信仰が明確に説かれています。また、日天は「日蓮事行の妙法」を顕現したものであるとも説かれています。しかしながら、これらのことの前提には、やはり日月が「生身」としての存在であることが重要なのでありましょう。そこに当家の成仏観および本尊観が読み取れるのであります。すなわち当家において日月二天は行者守護の諸天善神にとどまらず、かえって即身成仏の当体としての存在が大きくクローズアップされるのであり、そこに日有上人が「信だにも能成すれば我れ即ち諸仏諸神の体なり、全く別に無き也」(歴全1−376)と仰せられた実義を拝することができるのであります。

 

U.勤行と供養の御経の相違

 

一、朝タノ御勤ハ御本尊ニ一人向ヒ奉リ申スヘキ也。其故ハ玄七ニ云ク、凡夫大聖ノ為ニ法ヲ説ク文。九界ヨリ仏界ノ為ニ説法スル故也。又云ク、供養ノ時九界所具ノ仏界ヨリ九界ノ為ニ説法スル心成ル間惣座ニテ御経ヲ読ミ奉レハ凡夫ノ為ノ説法ナル故也。 (連陽房雑々聞書、歴全1-372)

 前節では富士門流の勤行の淵源、次第、意義などについて述べましたが、ここでも引続き当家の勤行のあり方、仏事作善の御経のあり方、その法門的な意味合い等について考えてみたいと思います。

 関連の項目として本文をあげましたが、この連陽房雑々聞書の御文(歴代法主全書所収)は、富士宗学要集に集録されている当該本文(以下、要集本と略す)とかなりの異同がありますので、それについて簡略に説明しながら本文を通釈していきたいと思います。

 まず本文の一行目に「朝タノ御勤ハ御本尊ニ一人向ヒ奉リ申スヘキ也」とありますが、この箇所は要集本では「朝夕の御勤は導師一人は御本尊に向ひ奉り申すべきなり」と記されており、さらにはそれに続けて「惣衆は惣座たるべし」の文が付け加えられています。「惣座」とは聞きなれない言葉ですが、「御本尊に向ひ」奉ることに対比して用いられていますので、御本尊に向かわずに側面両側より惣衆が相い対する座配であると思われます。なお「惣衆」は出仕の僧俗全体の総称であろうと思われます。

 次に、本文の「説法スル心成ル間惣座ニテ御経ヲ読ミ奉レバ云云」の箇所は、「説法する心成る間、導師も惣衆も一同に惣座にて御経を読み奉るは云云」と補訂されています。いずれも本文の意味不明部分が要集本によって、理解し得るものになっていますので、以下、それを踏まえての通釈です。

 当家では朝夕の勤行に際して、導師一人が御本尊に正面対座します。出仕した惣衆等は惣座といって、御本尊の前方にて、左右両側から互いに向き合うように座ります。その故は天台大師の玄義七に「凡夫大聖の為に法を説く」とありますように、当家の勤行は九界の凡夫(導師)が仏界の大聖(御本尊)に説法する儀式であるからです。

 しかし一方において、仏事作善などの供養の御経の時は、九界が具するところの仏界より九界に説法するための儀式法要ですから、導師は御本尊に正対せず、惣衆一同とともに惣座にて御経を読み奉ります。その所以は、供養の御経は凡夫のために説法する儀式だからであります。

 

 《御影堂と客鳳 の座配について》

 

 

 通釈を読んだだけでは判然としないことも多いと思いますので、もう少し説明を加えます。

 聞書本文を拝しますと、富士門では朝夕の勤行と仏事作善の御経とでは、導師の座配において正面対座と惣座(御本尊に対して横向きであることから堀日享師は横座とも表現されています)との相違のあることが示されています。またこの場合、そこに出仕した導師以外の惣衆は勤行でも仏事でも、惣座の座配について いるようです。

 このことは、現在の地方末寺の本堂様式、勤行や仏事の際の座配などを考えたのでは、なかなか理解し難いものがありますが、目を本山本寺に転じさえすれば現在行なわれている化儀、様式の中にでも、ある程度の納得が得られるのではないかと思われます。

 まず「導師一人は御本尊に向ひ奉り」とは、御影堂における貫首上人の座配を表わしていると言えましょう(1図参照)

 御影堂全体は、現在でも格子戸によって内側と外側とに立て分けられていますが、日有上人の仰せはその内側の座配について述べられたものです。御影堂では、導師の座は御影様に対して正面に据えられており、出仕の惣衆は導師と御宝前の間に横向きに経机が並べられ、側面両側から互いに向かい合って座る配置になっております。現在御影堂で行なわれている毎月7日、13日、15日の宗開三祖の月例御講の際にも、出仕の塔中僧侶は御本尊に正対せず惣座の様式をとっています。

 前節に申し述べましたように、上代は堂参して勤行を勤めるのが通途のあり方でしたから、御影堂においても朝夕、貫首上人一人が御本尊に正対し、その他の惣衆は惣座にて読経唱題がなされていたものと思われます。

 次に、「導師も惣衆も一同に惣座にて御経を読み奉る」様式については、本寺の客殿の座配を思い 起こすことが理解の助けとなりましょう。

 もっとも現在の客殿からは少し想像しづらいことですが、ひと昔前の客殿は御影堂同様に、格子戸をもって内側と外側が隔てられておりました。つまり現在の客殿で言えば、低い木枠でコの字型に囲われた内側における座配が惣座の様式をとっているのであります。

 

 客殿と御影堂の座配の違いで、もっとも明確なことは当職の上人の座られる貫首座の位置と向きの違いです。客殿では2図のように、御宝前より見て右前方、横向き(東向き)に貫首座は据えられています。つまり御影堂のように御本尊に向って正面対座ではないわけです。またここで注目しておきたいのは、東向きの貫首座の真向いに御隠尊上人の座られる隠居座が設けられていることです。近年では、御隠尊上人がおられないこともあってか、隠居座も設けられていませんが、本来は御隠尊の有無に関わらず、化儀・法門の上からその座は常設されていたようです。

 出仕の大衆は貫首座、隠居座に連なって、左右両側にお互いが向き合うように着座するように座配が組まれています。この様式がすなわち、「導師も惣衆も一同に惣座」であります。客殿にて行なわれる儀式法要のほとんどは、貫首座が横向きで、大衆と同じ並びの惣座であります。そのもっとも分かりやすい例として、満山供養をあげることができましょう。満山供養とは、年忌法要などの仏事作善を全山の塔中僧侶の出仕によって行なうものであり、その時の出仕僧侶は2図中央の経机が横向きに並んでいるところに着座します。このように客殿では、貫首上人を始めとして出仕僧侶は惣座するのが原則ですが、小僧さん達は例外で御宝前のほど近く御本尊に向って正面対座します。これは御影堂も同様です。

 さて上述してきましたように、導師の座には御影堂の正面対座と客殿の惣座(横座)との両様式があり、日有上人の仰せによればそれが「朝タノ御勤」と「供養ノ時」の相違にも通じているわけです。

 おそらく正面対座するのは御影堂だけではなく、上代の本尊堂の座配も同様であったと思います。

前節で申し上げましたように、日主上人の古図絵によれば上代の大石寺は中央に本尊堂、その左右に天経、御影堂が配置されていました。そして、日有上人の仰せにも本尊堂と御影堂に堂参して御勤がなされていたことは明らかであり、この両堂の勤行は仏事作善の御経とは違いますので、おそらく両堂ともに導師は正面対座していたことと思われます。この本尊堂と御影堂の両堂が日精上人の時代に一堂となって、今日の御影堂が建立されたのでした。しかし、この伽藍建立にあたっては当時の棟札に「本門戒壇本堂」と認められており、また時代は下って日量上人の『大石寺明細誌』にも現在の御影堂は「本堂」と紹介されておりますから、日精上人の当時より江戸末期までは御影堂というよりも本尊堂として通っていたのかも知れません。明治初期の大石寺図にも「本堂」として記載されています。現在でも「御堂(みどう)」という呼称がありますが、あるいは「本堂」を「御堂(みどう)」とも呼び、それが安置の御影像に引きずられて、明治大正頃から「御影堂一みえいどう」」と呼ばれるようになったのかも知れません。

日精上人の時代には、ともかく御影堂と本尊堂の両方の性格を合わせもつ伽藍として「本門戒壇本堂」は建立されたのでありましょう。いずれにせよ、それまでの御影堂と本尊堂が一所になったことは事実であります。そして、その御堂(現在の御影堂)においては、客殿で行なわれるような故人の年忌法要などの仏事作善が行なわれることはありません。これは当然なこととも言えましょうが、本寺の大石寺では伽藍の一々に法門や化儀の裏付けがあり、それによって諸堂の役割が決定づけられているのであります。

客殿の役割は、文字どおり大聖人の客人としての信徒を迎え入れる伽藍であり、いわば一切衆生の修行と安心を得るための御堂とも言えましょう。本尊堂・御影堂が宗旨の根幹たる人法本尊、師弟一箇を形の上で表わしているのに対して、客殿ではそれを踏まえてさらに貫首と弟子檀越が互いに事の上で妙法を成就していくのであります。ゆえに客殿は事の法門にとって極めて大切なところと言わねばならないでしょう。そして、この伽藍は事行に振舞う現実に即した信仰の場でもありますので、代々の貫首上人の管掌する場にもなるのであります。僧俗にわたる仏事作善などの日常的な御経も貫主上人の果たすべき役割となり、そこにまた「供養ノ時九界所具ノ仏界ヨリ九界ノ為ニ説法スル心成ル間惣座ニテ御経ヲ読ミ」奉るという客殿の惣座の座配が成立するのであります。

ちなみに、本尊堂・御影堂・客殿の三堂の法門的な関係について保田妙本寺の要賢日我師は、

「本尊は所開御影は能開、御影は所開住持は能開等云云、所開は死門能開は生門、之れに依って多宝は左釈迦は右、本尊の示書にも日蓮は左書写の人は右、去る間本尊堂は左御影堂は右、御影堂は左客殿以下は右なり、重須大石等此の如し云云」(富要1−299)

 と示されています。これは、本尊堂・御影堂・客殿を能所または生死の二門に配したものです。所開、死門の本尊堂に対すれば御影堂は能開、生門にあたりますが、その御影堂も客殿に対したときは所開、死門にあたり、客殿がその時には能開、生門となります。「去る間本尊堂は左御影堂は右、御影堂は左客殿以下は右なり」とは三堂の伽藍配置をいわれたものですが、三堂側からみて、もっとも右に客殿があり、次に御影堂、左に本尊堂が立てられています。仏教で左右を意義づけする時には、右が生門であり、左が死門であります。これは御宝前の三具足をみても右の樒が生門、左の灯明が死門と立て分けられております。いずれも本尊側から見ての方角です。

 つまり客殿―能開生門、御影堂―所開死門、とは客殿が御影堂に比して、より現実的で日常的な性格をもつ伽藍であることを示しています。御影堂が大聖人在世を示し、客殿が滅後を表わしているとは以前にも申しましたが、滅後ということは貫首上人の持ち場でもあり、私たち末寺の師弟、弟子檀越が公的に迎え入れられ、貫首上人とともに読経唱題する場でもあります。ひと昔前の法華講の方が本山にお参りすると、まず必ず御影堂に参拝し大聖人様に相まみえ、ついで客殿に向かわれたと言われますが、これなども御影堂・客殿の両堂のもっ性格をよく表わしている話であります。客殿において私たちの仏事作善が行なわれることは蓋し当然のことも言えましょう。

 ところで、日有上人は仏事作善の時には「九界所具ノ仏界ヨリ九界ノ為ニ説法スル心」で御経を唱 えなさいと仰せられています。

 「九界所具ノ仏界」とは貫首上人の導師の座を言われたものでしょうが、大衆と同じように惣座された上人が九界の凡夫でありながらも己心所具の仏界の立場から衆生の為に説法される、すなわち衆生を御宝前の宗開両祖へ誘引する手継の役割を果されているのが客殿における導師の座でありましょう。

 本文の一つ前の項目に、  

「当門徒常の祈祷経回向の様は読み奉る此の経の功用に依て万難静謐・寿福増長・現世安穏・後生善処と申し上る計り也。又云く、当病の時は読誦し奉る御経の功徳に依て除病延命・現当安穏と申し上る計り也。又云く、供養の時は只今読誦し奉る御経の功用に依て無始の罪障消滅して即身成仏疑ひ無し、乃至法界平等利益若有聞法者無一不成仏と申する計り也」(歴全1−372)

 と示された連陽房雑々聞書の御文があります。信徒の願い出により行なわれたであろうこれらの御経の意義も、やはり通途の勤行とは異なるものですから惣座の座配で行なわれたものと思われます。むろん本寺であれば、御影堂や本尊堂ではなく、客殿で行なわれるべき御経であります。

 地方末寺では、本堂と客殿の両堂をもつことが近年では稀になっていますので理解しづらい面もありますが、両堂を所持していれば、やはり通常の勤行と信徒願い出の供養の御経はそれぞれの伽藍の役割によって分けられて然るべきであります。

 また、地方末寺において本堂一宇の場合でも、本来、惣衆は惣座の座配に着くのが当家の一般的な姿でありました。少し古い由緒をもつ当家の寺院本堂を見れば一見して分かることですが、御本尊が安置されている御厨子や御宮殿の前方は前机や鏡板などがあり、その左右両側には経机が幾つも並べられ、導師の座は本堂の中央近くまで押し出されております。つまり、かつての末寺本堂の様式は本寺における御影堂や客殿のそれを保持していたと言い得るでありましょう。もっともこのことは、自他宗に限らず、各地の古刹を尋ねてみれば仏教一般の建築様式にも通じていることが分かりましょう。

 近年建立されている正宗寺院の多くは、参詣者を出来る限り入場させることのみ意図しており、中には百畳敷や二百畳敷の本堂もありますが、本来の富士門流の伽藍様式に叶っているのものは皆無のようです。どこからでも御本尊が見えるように柱の数を無くすとか、出来るだけ大勢の人間が遠くからでも御本尊の一点に集中して題目があげられることなどに注意が払われるようですが、いずれも当家の化儀法門からすれば方向違いなことで、本来の本堂の様式から外れているといっても埋言では無いでしょう。今後はまた、少しずつでも富士門流本来の様式を取り戻した寺院建築を心掛けていくべきだと思います。

 

《凡夫大聖ノ為ニ法ヲ説ク》

 次に朝夕の勤行の法門的な意味合いについて申し述べます。

 日有上人は朝夕の勤行の時、「導師一人ハ御本尊ニ向ヒ奉リ」読経することを示されました。その意味について、玄義の七を引用され「九界ヨリ仏界ノ為ニ説法スル故」であると結論されました。

 このことの元になった玄義七の一文は「凡夫大聖ノ為ニ法ヲ説ク」というものですが、未断惑の凡夫が師となって断無明の聖者大聖のために法を説くとはどういうことなのか、少なからず疑間も生じます。玄義七では「凡夫」と言いましても、観行五品の位を得たものや六根浄を得た相似即のもの(これを内凡と言います)を指しますが、日有上人は当家の勤行について当文を引用されているわけですから、この「凡夫」を貪瞋癡の三毒強盛な荒凡夫(これを外凡と言います)に引き下げて用いられているのでありましょう。

 すなわち理即名字の凡夫がわずかに信を起こして御本尊に向い南無妙法蓮華経と唱えることが「九界より仏界の為に説法する」姿であると日有上人は仰せられました。これによれば、九界の弟子が仏界の師に対して一方的に法を説くことになっていますが、これはおそらく日有上人が玄義七の引文を用いられて当家の法門を説示されたので、このような一言い回しになったのではないかと推察します。

当家の法門は、日有上人が随所に示された「師弟共に三毒強盛の凡夫にして他に余念無く受持する処」であり、これが基本的な当家の勤行の姿であろうと思います。  

上行菩薩の御後身日蓮大士は九界の頂上たる本果の仏界と顕はれ、無辺行菩薩の再誕日興は本因妙の九界と顕はれ畢んぬ(歴全1−409)

 と日拾聞書にも示されていますように、御影堂における日興上人の大聖人への正面対座が当家の宗旨の根幹であり、そこに師弟一箇の本尊も示されているようであります。敢えて言うならば、その中でも弟子日興上人の受持の一念のうちに本尊は建立されていますので、当家では殊更にそれを〈師弟子の法門〉と称するのであります。

 日有上人が「信心と云ふは一人しては取り難し、師弟相対して事行の信心を取る」(歴全1−417)と仰せられたのが、当家の勤行の基本的な姿であり、そこに本尊は成就するのであります。おそらく、日有上人は弟子が妙法を受持された姿を「九界ヨリ仏界ノ為ニ説法スル」姿であると仰せられたのではないか、と私は思うのです。

 御影堂でも本尊堂でも、貫首上人は日興上人のお立場で導師座に着かれ大聖人に正対し勤行が行なわれます。惣衆は、その師弟一箇の姿を拝するかのようにして惣座し、勤行を勤めます。先ほどの日拾聞書の続きには「十界事広しと云へとも日蓮日興の師弟を以て結縁する也」(歴全1−409)との御文がありますが、惣座の惣衆はそれぞれ眼前の師弟相対の中に摂入されて、成道を約されるのであります。

 さて、ここまで導師座の正面対座と惣座(横座)の意義の相違について、御影堂や客殿の座配のあり方に注目して申し述べてきました。そこで厳密に言えば、当家では朝夕の勤行と供養の時の御経(祈祷経も含めて)とでは、その法門的な意義内容に相違のあることが理解できたと思います。

 しかしながら、この両者の相違は勝劣、上下ではなく、当家におけるそれぞれの役割分担であり、いわば双方ともに関連し合った重要な法門であり、化儀であろうと思います。勤行が師弟一箇の姿を表わしていることは実に宗旨の根幹ではありますが、それらを踏まえた上で現実的に仏事作善の供養の御経等があげられることもまた重要なことでしょう。むろん根本を忘れて、供養や祈祷の御経が一人歩きすることは厳に慎まねばならないことです。  

 ところで前節にて当家の勤行の根本は丑寅勤行であると述べましたが、江戸期にはどういう状況で本寺において丑寅勤行がなされていたか、一つの史料を紹介致します。第三十一世日因上人の『富士記』に  

「然れば則ち、当山に於て堅固に此の掟を守り、今三十一代四百五十余歳の間、大坊貫主一人は毎朝丑寅の刻みに勤行也、十二坊百人の大衆は交代に毎朝出仕す、所謂御本番一人は御堂客殿仏前へ御華を散らし御手伝一人は御堂番、助番一人は御香水を奉り、一夜番一人は貝鐘を鳴らして勤行を始め、御茶番一人は御湯上人に奉る、御宝蔵一人は寺中内外を回る、是くの如き行事大聖人開山以来より断絶せしむる事無き也」(研教16−60)

 と示されています。貫首上人にとって丑寅勤行が如何に大切なものであったか、また御本番、御堂番、助番、一夜番、御茶番、御宝蔵番等がそれぞれの役割に徹している姿が実によく活写されているように思われます。そして、この御文の丑寅勤行が堂参してのものなのか、はたまた大坊一所での勤行なのか定かではありませんが、いずれにせよ通途の勤行の基本的なあり方として、出仕の塔中僧侶は惣座の座配に着き、貫首上人は御宝前に正面対座して勤行が行なわれたのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

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