第11章 和様と唐様・戒律の持破

 

 

 

 日有上人は衣食住にわたり、当時の風俗に関することがらを多く語られている。それらの一々は、異国の思想・文化が押し寄せる中で如何に富士の立義を護り伝えるかとする精神の所産であった。

今章に示した御酒・和字・素絹衣のことなどは、いずれも富士門流の僧俗が真の信仰生活を営むための〈自立〉を強く促したものと言えよう。また、戒律に関する議論も、当家はその「持破」を問わないだけに、かえって僧も俗も自らも潔く律しなければならない。これもまた信仰者の真の〈自立〉を訴えたものである。

 

 

 

I.  唐土の法を取らず  

一、唐朝ニハ鉢ヲ行フ故ニ飯ヲモチ上ケテ食スル事、唐ノ土ノ法也、日本ニテハクキヤウニテ飯ヲ用ル故ヘニ持チ上ケサル也。同ク箸ノ礼モ唐ノ法ナル故ニ日本ニテハ用ザル也。日本ニテモ天台宗等者慈覚大師ノ時分マテハ律ノ体ニテ唐土ノ振舞也。慈恵大師ノ代ヨリ衣鉢ヲ捨テテ折伏修行ノ体ニテ一向日本ノ俗服ヲ著ラルル也。聖遣ハ何モ日本ノ風俗也云云。(化儀抄、歴全1−348)

一、茶湯アルベカラズ、唐土ノ法ナルカ故ニ霊供ノ時モ後ニ酒ヲ供スベシ云云。此ノ世界ノ風俗ハ酒ヲ以テ志ヲ顕ス故ニ仏法ノ志ヲモ酒ヲ以テ顕スベシト云フ意也云云。      (化儀抄、歴全1−259)

 本文は化儀抄の第34条と第82条です。両条ともに、唐土と日本の風俗作法の相違を示され、当家の化儀においては、すべて日本の作法に従うべきことが説かれています。まず初めに本文を通釈致します。

 唐の国では、僧侶の食事は鉢をもって行ないますので、鉢に入った御飯を持ち上げて食します。これは唐土の僧尼の食事作法であります。日本の国では、食物を載せる供饗という膳を用いて食事を取りますので、特に御飯を持ち上げることはありません。同じく、食事の時に行なわれる箸の礼も唐土の作法でありますから、日本では行ないません。

 また、日本において天台宗等は慈覚大師の頃まで、律宗の行儀をまねて、律衣を着して唐土の振舞いを規範としておりました。しかしながら慈恵大師の代より、これまでの衣鉢(衣食の習慣)を捨てて、折伏修行の姿を表わすために専ら日本の俗服である素絹=裳付け衣を着用するようになりました。

ちなみに天台宗や真言宗などの聖道門では概して日本の風俗を尊んで、唐土の作法を取りません。以上、第三十四条の通釈です。

 次に第82条には、茶湯と酒の対比が述べられています。当家の化儀では、御宝前に抹茶や煎茶などの茶湯をお供えしません。それは唐土の作法でありますので、仏事法要の献膳の際にも、当家では御酒を用いるのであります。日本の風俗習慣では古来、御酒をもって人の志を表わしましたので、当家の信仰においてもそれにならい、御酒を用いて志を表すのであります。

 

《「唐土ノ法」「唐様」》

 唐土と言えば、すぐさま私たちは中国大陸に三百年の国家を築き上げた唐王朝を思い起こしますが、ここに日有上人が仰せられた「唐土ノ法」とは、必ずしも王朝としての唐を意味しません。遣唐使でよく知られているように、何事にも唐王朝を手本として、大いに文化を吸収し国家を形成していった日本では、海を渡った大陸と言えば「唐土」というイメージが後々まで強く残ったのでしょう。唐王朝が滅亡したあとも、中国を「唐」「唐土」「唐山」と呼び、中国人を「唐人」、その子供を「唐子」と言いました。化儀抄第百十四条にも、 

 「法華宗の御堂なんどをば日本様に作るべし、唐様には作るべからず」(歴全1−366

 とあり、ここに「唐様」の語が見えますが、これも正確に言えば、鎌倉時代に宋王朝から伝えられた禅宗寺院の建築様式を当時「唐様」と言いました。いわば、「唐様」ではなく「宋様」のほうが事実に近いのですが、これも日本人にとっては「唐様」でなくては納まりが悪いのかも知れません。

 日有上人の活躍されたのは室町時代の初めですから、中国では威勢を轟かせた元をすでに明が北方に追いやり、建国を果していました。その明王朝との間に、足利義満は勘合貿易を行ない、遣明船を送って大いに明の文化を迎え入れましたが、蒐集された品々はこれまた「唐物」と呼ばれました。このように、唐王朝以来の大陸からの文化は、ほとんど日本では「唐」の字を冠して受け入れるのが一般でありました。具体的な文物に限らず、ものの考え方や行為にも「唐風」「唐振り」「唐才」といっな言葉が存在します。

 異国の文化に目を奪われ、何でもかんでも崇拝することは世の常なのかも知れませんが、中には兼好法師のように、「唐の物は、薬の外はなくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。唐土船のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり」と苦々しく思っている人も少なからずありました。『徒然草』は、鎌倉後期・南北朝初期には成立していますので、ここに指摘された唐物礼賛は日有上人の時代を少し遡った頃の話であったと言えましょう。

 この傾向は室町時代に入るとさらに度を増して、絢燗華麗な金閣寺で知られる北山文化が生み出されました。また、その後には足利義政によって造営された銀閣寺に代表される東山文化が興ります。東山文化は北山文化との相違が強調され、閑寂枯淡の趣きと評されますが、唐物蒐集に関して言えば、いっそう拍車がかかったのであり、義政のコレクションは特別に「東山御物」と呼ばれるほど豪華なものでありました。すなわち両文化をいろどる背景として、旺盛な唐物崇拝の風潮を指摘することができます。

 これらの唐物崇拝は、禅宗の僧侶によって〈茶の湯〉が幕府の要人や有力武家に広められていったことと密接な関係を有していました。茶会を開く会所では、日本風な空間とは全く異なった「唐物荘厳」が行なわれます。多数の唐絵を掛け、唐物を飾り、飾り棚には種々の珍菓を置き、すべて「遠致の物」と言われる舶来品の椅子、卓子を並べて、どこから見ても中国風の部屋飾りがなされたのでした。〈茶の湯〉の寄り合いは万事が唐好みのしつらえの中で行なわれましたが、これらのことに指導的な役割をとりわけ果たしたのが禅宗の僧侶でありました。

 すでに申しましたように、唐物に対する関心は室町時代に入ってにわかに高まったものではありませんが、唐物崇拝と言われるような旺盛な蒐集欲を発揮したのは、やはり義満以来の代々の幕府将軍でありました。ちょうど、日有上人は義満の晩年から、義持・義量・義教・義勝・義政・義尚等の将軍の時代を生きられましたので、異国文化が都鄙にわたって浸潤した姿をつぶさにご覧になったといっても過言ではないでしょう。化儀抄や聞書を拝する時に、この時代背景を見落とすことはできません。

 おそらく、冒頭の第82条に「茶湯有ルベカラズ」と示されたのも、当時の〈茶の湯〉流行の影響で、御宝前の給仕にまで茶湯を供えることが現実に行なわれ始めたことへの警鐘ではないか、と思われます。当時は〈禅律僧〉という言葉も生まれているように、禅宗や律宗は大いに隆盛を誇り、それらはまた異国の文化を取り入れる最先端の宗旨でもありました。しかし、それに対して日有上人は「此ノ世界ノ風俗ハ酒ヲ以テ志ヲ顕ス」と仰せられて、他国の茶湯の慣習を退けられ、自国の風俗習慣を大切にする上から御宝前の給仕には御酒を用いよ、と示されました。

 「彼の国によかりし法なれば必ず此の国にもよかるべしとは思うべからず」(全集1496)

 という大聖人の仰せもありますように、その国にはその国の風土風俗があり、国に合った慣習やしきたりが行なわれます。無批判に異国文化を招き入れることは、木に竹を接ぐ結果となり、ひいては自国の文化をも滅ぼすことになりましょう。

 また、流行に追われて、自らを失うことも大聖人は御書の随所で訓戒されています。「京なめり」の三位房を諌めて、「言をば但いなかことばにてあるべし」と仰せられたのも、地方文化と都文化の峻別、流行に走って内容の伴わないものを厳しく指摘されたものと言えます。どっちつかずは「鼠がかわほりになりたるやうに、鳥にもあらず鼠にもあらず」といった結果をもたらします。流行を追わない姿勢、地方には地方の文化など、大聖人の仰せは頑固一徹な感じを与えますが、真の生活を営むための〈自立〉を強く訴えたものと言うことができましょう。

 第82条には次いで「霊供ノ時モ後ニ酒ヲ供スベシ」と示されていますが、これは現在でも寺院の儀式法要で献謄のある場合、導師が終り近くに杯で御酒を供えております。献膳の時に御酒を供えるなど、他宗他門では果してあり得る化儀なのかどうか私は寡聞にして知りませんが、当家ではおそらく七百年近い化儀として、現在まで頑固に守り伝えられていることなのです。

 本文のみならず、日有上人は、衣食住にわたり当時の風俗に関することがらを多く語られております。それらの一々は、異国の思想・文化が押し寄せる中で如何にして富士の立義を護り伝えるかという精神の所産でありました。時代の変容に富士門が流されず、呑込まれず、そして取り残されず、という過酷な命題の中で、伝燈法門を護持する厳正な立場を貫くのは至難のことであったと思います。ゆえに、そのことも化儀抄、聞書を拝する上でことさら重要な視点であろうと考えます。

 

《「和字たるべき事」について》

 日有上人の聞書には示されていませんが、自国の文化を大切にするという観点からすれば、日興上人御遺告の「大聖御書和字たるべき事」も非常に象徴的なことと言えましょう。あるいは、日有上人が仰せられた「唐様、日本様云云」も、御遺告の「和字たるべき事」の精神が基調となって示されたものかも知れませんので、ここで少し触れておきたいと思います。

 宗祖滅後、日興上人と他の五老僧が〈五一の相違〉と言われる法門上の異義対立を起こしたことはよく知られています。

 日興上人は、五老僧方が申状に「天台沙門」と署名したり、脇士無き一体仏を本尊として崇めたり、一部如法経を行なったりすることを悉く破折されましたが、その中に「大聖御書和字たるべき事」という一項が含まれておりました。これは宗祖滅後、他門の人たちが仮名で書かれた真筆の御書を恥ずかしいものと思い、態々漢字になおしたり、用いなかったことに対して、日興上人が仮名書きの御書こそ「上行菩薩の御本懐」を表わすものだから大切にしなければならない、と破折を加えられたものです。このことを日道上人は三師伝に、

「天竺には梵字を以て音信を通ず、震旦には漢字を以て言葉を伝う、日本には和名を以て心緒を述ぶ、是れ即ち天然法爾の道理、世界悉檀の風俗也」(歴全1−273)

 と示されました。すなわち、文字は国それぞれの文化の様態が表われたものであり「天然法爾の道理」ゆえ、日本においては仮名を大事にしなければならない、と説かれたのであります。さらに、仮名文字の特長として、  

 「和名においては賢愚倶知の上下おなじく是れを読む、下機を本とす、上行菩薩の御本懐もっとも由緒ある哉」(歴全1−273)

 と示され、大聖人の法門が民衆本位であることを実現するためにも、仮名文字の重要性を強く説かれたのであります。鎌倉時代では漢文で書かれた文書が正式なものとして認められており、仮名文字の地位はまだまだ低いものでありました。しかし、「無学の俗女、愚痴下劣の者之れを知るべからず」と三師伝に記されたように、漢文では民衆本位を実現することは到底不可能なことでした。末法に入って、凡夫成道を第一に考えられた大聖人にとって、仮名文字を駆使して民衆本位に法門を説かれたことは蓋し当然のことであったと言えましょう。それに引き替えて、五老僧が御書の仮名文字を漢字に書き改めたことは、大聖人の法門に反し凡夫の成道から自ら遠のいた姿ということができましょう。

 富士の立義を考察する時の用心として、その法門が「下機を本」としているかどうか、すなわち民衆本位であるかどうかを見定めることは実に大切なことのように私には思えます。

 

《律衣から素絹衣へ》

 第三十四条には、僧侶の食事の作法と法衣について、いずれも「唐土の法」を退けて「日本の風俗」に随うべきことが説示されております。

 「鉢」とは僧尼の食器のことであり、「鉢ヲ行フ」および「飯ヲモチ上ケテ食スル」「箸ノ礼」等はいずれも中国式の僧尼の食事作法です。化儀抄にわざわざ一項が設けられているところを考えれば、当時日本でも律宗などではこの作法が用いられていたのかも知れません。諸聞書や化儀抄の基調は大体において「日本の風俗」を大切にしておりますから、ここでもむろん日有上人は中国式には従わず、日本式を取っています。いたずらに戒律に縛られて、中国式に勤めても衆生のことを忘れては小乗の謗りは免れません。自国の風俗を大切にする、これもまた民衆本位の実践と一言えなくもありません。

 食事作法と同様、同条に仰せられた「衣」のことは、より民衆本位を顕著に示されたものと言えましょう。日有上人は、ここで「衣」の変遷について天台宗の例をあげられました。日本の天台宗では、慈覚大師の頃には、戒律を旨とする僧が着用する〈律衣〉を用いていました。大乗の宗旨である天台宗が小乗教の〈律衣〉を着していたのは怪訝なことですが、おそらく種々の行儀において、天台宗では当時の中国式をそのまま踏襲していたところがあるのでしょう。『釈氏要覧』にも、  

 「西天出家者の法衣、律に制度あり、法に応じて作る、故に法衣と曰ふ」

 とありますように、たしかに僧侶の法衣は律によって定められておりました。ところが、延暦寺十八代の座主に就いた慈恵大師は、それまでの律衣を改めて、日本の俗服である素絹を衣として採用しました。この間の事情を天台僧定珍は『素絹記』(元亀二年)という書物に、

 「今まで天台宗で用いてきた律衣は壊色(青・黒・木蘭の色)であり天子の息災を祈願する延暦寺にはふさわしくない。それゆえ、これからは素絹衣を衆僧は着用せよ、と慈恵大師は説示された」(原文取意)

 と記されています。また、慈恵大師が朝廷の信任篤く、村上天皇より素絹衣を賜わったことを紹介し、これをもって素絹衣を天台宗で着用し始めた濫膓であると記しています。

 この定珍の『素絹記』が基となり、慈恵大師=素絹衣が現在の天台宗における通説となったようです。もっとも私の興味は、定珍の素絹に関する諸説ではなく、定珍以前に当家の日有上人が冒頭の第三十四条のように、慈恵大師の素絹に関わるコメントを紹介していることであります。私にとっては、慈恵大師と村上天皇の話や天子の息災延命のために素絹衣を着用したとする定珍の説よりも、日有上人が仰せられた末法折伏修行のために素絹衣を用いたとする説の方が新鮮であり、説得力も勝るような気がします。天台宗において、慈恵大師=素絹衣の結びつきが定珍より遡れないとするならば、宗派は違うものの、当家の日有上人の説も一考に価するのではないかと思います。日有上人は、当時の天台宗の檀林とも交流があり、中古の天台宗におけるエピソードなども聞書に幾つか語られています。おそらく、当時の檀林での日常的な会話を日有上人は聞書の中で紹介されているのであります。

 慈恵大師は平安時代の僧ですが、末法が近づき混迷が深まる世相や叡山の状態を憂えられて、宗風の刷新、教学の振興に力を注がれました。多くの門弟を教育し、その中から恵心院源信・檀那院覚運の両先徳を生み出し、後の恵檀両流隆盛の礎を築かれたのでした。すなわち恵檀両流とは、本覚法門で知られる中古天台教学の淵源とも言えるものであり、見方を変えれば、慈恵大師の出現によって初めて日本的な天台教学が興り始めたとも言い得るでしょう。律衣を改めて素絹衣を用いたことも、末法を意識して民衆に飛び込むこと、あるいは天台宗の真の自立を考えたのかも知れません。

 大聖人は台密の清澄寺に出家し、修学時代を慈恵大師以降の叡山に送られたのですから、法衣は普段より素絹衣を着用していたものと思われます。それにもまして、大聖人は法華身読の折伏を徹底されましたから、その精神からも素絹衣は理に叶っていたことでしょう。また、下位を表わす素絹衣は凡夫の成道を標榜する民衆仏法に必要欠くべからざるものであったでしょう。当家に伝わる聖人御影を拝するにつけても、素絹の薄墨衣には律衣に無い庶民性を感ずることができます。

 末法折伏を標榜する富士門では、この例に習って俗服たる素絹衣を用いています。本文の第三十四条の他にも日有上人は、  

 「今の当宗の薄墨の裳付け衣は末法の折伏衣なり」(歴全1−374)

 「当門流には(中略)袈裟衣も初心の衣裳なり、但し折伏の衣には尤此の衣かと覚えたるなり」(全1−291)

 等と素絹衣の意義を述べられています。ここに、「裳付け」と言われたものも、素絹衣と同意であります。素絹は衣の材質から、裳付けは衣の形状から述べられたもので、素絹衣=裳付衣(横裳)であります。さらに、二十六世の日寛上人は素絹衣を用いるのに「二意有り」として、  

 「一には是れ末法の下位を表する故なり。(中略)今末法に至っては即ち蓮祖大聖人理即名字に居して法華本門を宣ぶ、豈教彌実位彌下に非ずや。是の故に当流は但下劣の素絹五条を用いて教彌実位彌下の末法の下位を表するなり。二には、是れ末法折伏の行に宜しき故なり。謂わく、素絹五条は体短狭にして起居動作に最も是れ便なり。故に行道雑作衣と名づくるなり、豈東西に奔走し折伏行を修するに宜しきに非ずや(後略)」(当家三衣抄、聖典957)

 と懇切に説示され、素絹衣にこめられた下位と折伏の両義を明かされております。

 そしてこれらのことは、「唐土ノ振舞」たる「律衣」を改めたことに始まるのですが、その根底には、信仰の自立と民衆本位があったことを指摘し得るのではないかと思います。  

 「当流の如きは平僧貫首倶に是れ薄墨也」(法衣供養談義、富要3−279

 と日寛上人は仰せられ、現代においても当宗では「平僧貫首倶に」辛うじて薄墨素絹衣に準じているようですが、その意義については既にして忘れ去られた感があります。当家の三衣について、再考し、確認する必要性を強く感じるとともに、その意義内容にあった振舞いを各人が求められ始めているような気がしてなりません。

 

II.  戒律の持破を問わず

一、其レ京都妙満寺ノ開山日什ハ天台宗ノ能化タリシカ富士ノ大石寺ノ日時上人エ帰伏申テ後ニ六門跡ニ皆々帰伏シマハリテ後ニ直受ト立タリ、結句三ノ札ヲ立ツル富士門徒無間・諸門徒無間・諸宗無間也。日有御上人彼ノ日什門徒之中ニ大学匠ト云人達ヲ尋給テ此ノ札ノ由来ヲ尋給様、諸宗無間ハ事旧リヌ、諸門徒無間ハトノ給ヘハ高祖ノ不本意ノ仏法ナレハ無間也、サテ富士門徒無間ハト問ヘハ高祖ノ御本意至極ノ御仏法也。然レトモ不律ナル処ヲ指テ無間ト云也、其ノ時仰セ給フ様ハ、夫日什発心ノ根源ハ武蔵仙波ノ玄妙法印ニテ有リシカ富士大宮ノ学頭ニ成リ給テ有シ時、渋沢ノ浄妙ト云大石ノ檀那ノ一処ニテ日時上人ノ御代官日阿上人ニ対シ奉リ御法門侯ヘテツマリ給テ乃チ帰伏シ給ヒテ侯ヘシカ、当門徒ノ化儀ニ謬リ仏法ニ退屈召レテ退大取小ノ面々ニテ御座侯是第一ノ謬也。次ニ不律ノ事、高祖御出世ノ元由ヲ尋申侯ヘハ戒律持破ヲ御沙汰ナシ三毒強盛ノ凡夫信ヲ以テ即身成仏ト御定判侯位戒体ノ事未我等ハ存セス侯ト仰ケレハ直ニツマリ侯ト御物語侯已上。   (御物語聴聞抄、歴全1一325) 

 本文は御物語聴聞抄の第16段です。はじめに通釈致します。

 京都の妙満寺を開創された日什師は、はじめ天台宗の能化でありましたが、後に富士門流の大石寺6世日時上人へ帰伏し、さらには6門徒に一々帰伏して回り、ついには日蓮聖人より直受の相承を立てて一門徒を形成しました(日什門流、現在の顕本法華宗)。その時、日什師は「富士門徒無間」「諸門徒無間」「諸宗無間」の3つの札(無間は無間地獄の略、成仏得道のないことを示されたもの)を立てました。

 日有上人は日什門徒の大学匠といわれる僧侶たちを訪ねられ、この三つの札の謂れについて次のように問われました。

 法華宗以外の諸宗に救いがないことは既に承知していることですが、日蓮聖人門下の五老僧の門流に成仏得道が無いのはどうしてでしょうか。これに対して什門の学匠は、五門徒の仏法は日蓮聖人の本意が少しも示されていないので無間地獄に堕すと答えました。それでは「富士門徒無間」とは、如何なる意味ですかと日有上人が問われると、学匠は富士門流は日蓮聖人の御本意の仏法であり至極の法門であると言いつつも、戒律を持たないことを指して、「無間」であると答えました。

 そこで日有上人は、学匠に対して次のように仰せられました。そもそも日什師が発心された根源は、師が武蔵国の仙波(関東における天台宗の代表的な談林、学問所)にて、玄妙法印と名乗っていた頃、富士大宮の学頭に就任したことがありました。その時、渋沢(現在の富士宮市淀師字渋沢)に住む浄妙という大石寺檀越の処で、日時上人の代官を務められていた日阿上人と法門対論して閉口し、日什師は富士門へ帰依されました。しかし当家の化儀に誤り、あたかも声聞縁覚の二乗が大乗を退いて小乗についてしまったように、退大取小して富士の立義から遠ざかってしまったのです。これが日什師の第一の誤りです。

 次に戒律を持たざることについて。日蓮聖人の出世された本懐を考えたならば、その根本において戒律の持破(持つか持たざるか)は問題ではなく、御書にもそれに関する教示はありません。ただ偏えに我われ三毒強盛の凡夫は妙法蓮華経を受持する時、即身成仏の叶うことが御書に示されるのみであります。それゆえ行者の位や戒の持破について富士門では存知しない問題であります、と日有上人は仰せられ、それに対して什門の学匠は直ちに問答閉口しました。

 

《玄妙日什師》

 第9章2節にて日有上人と越後本成寺(本迹勝劣派)の一乗坊との問答を取り上げ、その際に「当家の立場よりすれば、天台に与同する一致派より台当の違目に目を向ける勝劣派に比較的好感をもつのは自然なことだろう」と述べました。本文の日有上人の問答相手である日什門流も本迹勝劣派であり、一致派に比較すれば当家に近い法義を立てていたと言えましょう。

 派祖の日什師は正和3年(1314)、会津黒川に生まれたと言われます。元々その地には、日興門下の日尊師が開基された実成寺を中心として、黒川門徒が形成されており、日什師と富士門との因縁は生い立ちからして浅からぬものを感じさせます。さらには、日什師の故事を伝える『門徒古事』には、

 「三和尚、富士大石寺日興の余流日目、日尊、次に日印と申す人に初め御同心侯て」

 という記事も見え、日什師が日興門下、とりわけ尊門に縁が深かったことを思うのであります。因みにここに記された日印師も会津黒川の出身であり、あるいは日什師と日印師は何らかの血縁関係にあったのではないかと推測する説もあります。また日什師の叡山における師匠は慈遍僧正(吉田兼好の長兄)であると言われますが、この慈遍僧正と尊門の日印師がまた緊密な関係にありました。日印師は日尊師より京都上行院(要法寺の前身、尊門)を嗣ぎましたが、観応2年(1350)その上行院において、師は先の慈遍和尚より神道に関する相伝『旧事本紀玄義十巻』を受けております。これらのことは、おそらく日印師と慈遍僧正の両者を同時に知り得た日什師によって結び付けられたとするのが妥当な見方でありましょう。

 これを思うに日什師は叡山に出家し天台僧としての道を歩みながらも、その若年の頃の環境や日印師との交わりの中で日蓮聖人の教えにも大いに引かれるものがあったのでしょう。「同心」する気持ちはありながらも、改宗にまでは至らなかったという状態でしょうか。一般の所伝によれば、日什師は天授5年(1379)の57歳の時に、はじめて天台宗を離れ、日蓮門下に帰したと伝えられています。冒頭の御物語聴聞抄の内容は、ちょうど帰伏頃の日什師の動向を示したものと言えましょう。

 

《富士門と什門との交渉》

 本文に、

  「武蔵仙波ノ玄妙法印ニテ有リシカ富士大宮ノ学頭ニ成リ給テ有シ時」

 と仰せられているように、日什師は叡山を離れた後も、関東天台の談林にて講師を勤められていたようです。「武蔵仙波」は大石寺歴代の日時上人や日院上人も修学された関東天台の代表的な談林であり、当時は台当両家の学僧が机を並べて学問修行するのはごく当然のことでありました。日什師と日時上人はほぼ同時代を生きられていますので、あるいはすでに仙波の談林にて知友になられていたかも知れません。

 ここに記された「富士大宮ノ学頭」とは、現在相当するものがありませんが、中世では神仏習合が一般でありましたから富士浅間神社にも天台寺院があり、それが談林としての機能をもっていたのであろうと思います(例えば関東天台の武州金讃談林が金讃神社に属していたように)。当時すでに天台宗では高名であった玄妙法印が「富士大宮」の談林に「学頭」として招かれたという意味合いが御物語聴聞抄から読み取れましょう。

 「富士大宮」と言い「渋沢」と言い、いずれも大石寺からすれば庭のような処ですから、聞書に伝えられた話も、事実に即したある種の実感を伴っているように思われます。先にも述べましたように、玄妙法印が仙波の談林に勤められていた頃、時を同じくして富士門流の学僧が談林に学んでいたことも十分考えられますので、尊門との結びつきで始まった玄妙法印と富士門流との交流は、「武蔵仙波」や「富士大宮」などの関東天台の談林を通じてさらに展開していったのではないかと推測します。

 その辺の経緯を日因上人の『御物語聴聞抄佳跡』には次のように述べられています。  

「日什玄妙能化武州仙波に於て天台六十巻を講す、時に日時上人仙波学問なり、序を以て日什玄妙能化を教化す、故に宗祖の書抄を拝見せしむ、故に日什玄妙、内得解すと云へども忽に天台の講解を捨て難し、故に序を以て富士大宮千眼学頭として移り来る、価て内々当山に通用して当家を学す、故に渋沢浄妙の所にして日阿上人と法門之れ有り、終に当山に帰伏し日時上人の弟子と為る而も当山の行体勤め難く終に当山を出でて身延山・岩本実相寺等と六門徒を学行し終に直受相承を立て、一品二半宗と曰ふ、此の宗義を以て天奏する者なり、されば小泉より当山を難する一箇条に大石寺は大宮方の供養を受る故に大謗法なりと云ふは日什玄妙大宮学頭に居して内々帰伏して時々供物を奉る故なり」(富要1−210

 このように『佳跡』には、具体的なことがらを通じて日什師と富士門流との交流が明かされています。もっとも、日時上人が仙波にて玄妙法印に「宗祖の書抄を拝見」せしめ教化されたとする説は

 『佳跡』が初見であり、そのままを史実とするのは多少無理があるかも知れません。他の書物には、玄妙法印に開目抄・本尊抄などの御書を披見せしめたのは本成寺の日陣師(第九章二節参照)であり、それが日什師の改宗に直接的な力を与えたとする説もあります。いずれにせよ私は、玄妙日什師が日蓮聖人の教えに傾斜し始めたのはかなり若年であったろうと思いますので、五十六、七歳にして初めて聖人の御書に接したというのは了解し難いと考えます。ただし、『佳跡』に注釈された内容は細かいことを除けば大筋有り得たことであろうと思います。日什師が玄妙法印として仙波の談林で天台六十巻を講じていたこと、その頃日時上人が仙波に赴いて修学されていること、日時上人と日什師に何らかの交流があったことを予測させること、日什師が富士大宮千眼学頭として移り来ること、渋沢の浄妙宅にて日阿上人と問答されたこと、当家に帰伏して日時上人の弟子となったこと、さらに当家を離れて六門徒を回り終に直授相承を立てたこと等々、多少の潤色はあったとしても日有上人の御物語聴聞抄に沿って叙述されている部分は大体史実に近いと私は考えます。

 さらにまた、富士大宮の学頭に就いた日什師が大石寺に内々帰伏して供養を届け、それを小泉久遠寺が「大石寺は大宮方の供養を受ける故に大謗法なり」と非難したことは、その事自体の正否は別として、日什師と大石寺の関係を裏付ける一挿話であり、一定の説得力をもっているように思われます。

 それでは次に、なぜ日什師が当家の法門に同心し帰伏するまでになられたのか、さらにはまた何が不審で当家を離れられたのか、その点について考えてみたいと思います。

 

《高祖ノ御本意至極ノ仏法》

 冒頭本文によれば、日什師はまず富士門に帰依し、ついで諸門徒を経巡って最後に直授相承を立てて独立しました。その時に「諸門徒無間」「富士門徒無間」「諸宗無間」の三箇の札を立てたと伝えられていますが、非難の理由はそれぞれに違っていたようです。「諸宗無間」とは法華経以外の諸経に依る宗旨について言われたものですが、権実の雑乱を非難したものと言えましょう。これは日蓮門下であれば共通したとも言える他宗への非難であります。

 さらに日什師は、日蓮門下の中でも富士門徒と五老門徒の間には法義的にかなり相違のあることを見て取りました。日什師の弟子が記した『日什門徒建立由緒』に、  

「金師(日什師の弟子、日金―筆者註)云く門流の異義不同にして六老僧の存意各別也。而るに五人は本迹に浅深なきを以て高祖の本意と為し、日興は本迹勝劣の御立行也、但し迹門を所破の為と五人所破抄に見へたり」

「本迹に迷ふ輩は其の身咎あるべき事分明なり。恐るべし。次第浅深を能く弁える人最も上行菩薩の御弟子、法水乱さず酌む処疑い無き也」

 と示されているように、什門では台当違目が判然としない五老門下の本迹一致の主張に対して痛烈な非難を浴びせています。日什師が天台宗から日蓮門下に改衣しようとした動機は、日蓮聖人の本門正意の思想、上行菩薩を導師と定める末法相応の法門を求めたことにありますから、五老門下の本迹一致義を「高祖ノ不本意ノ仏法」(御物語聴聞抄)と退けたのであります。それに比して「日興は本迹勝劣の御立行」と言われていますから、什門では富士門の法義に関して五老門下へのそれとは違い、一目置いていたことが伺われるのであります。

 さらに『日什門徒建立由緒』には、  

「当流は六門徒に替わりて一幡を挙げて名称之れ有り、その理之れ多し、その中に本迹に勝劣を立て給ふ是れを以て肝要と為す、此れ既に蓮祖の本意上行付嘱の大旨也、此の旨に迷ひ本迹に浅深を立てず傍正を明かさざる事は誠に自立廃忘の師敵対也」 

 と、什門独立の気概が述べられており、ここでは富士門をも束ねて六門徒みな本迹に迷っているかのような書きぶりになっています。

 しかし、これとても内容的には本門正意・上行付嘱の強調に過ぎませんから、富士門流においては既に『三師伝』の〈五一の相違〉以来、解決済みとも言える問題であり、什門の主張は富士の立義の受け売りと言えなくもありません。そこでと言うわけではないかも知れませんが、什門では 「迹を以て所破と為す御立行、信用し難きこと有り」と述べて、迹門に得道を認めず、所破のために方便品を読誦する富士門の立行は、本迹勝劣・傍正の立分けの行き過ぎたものであると非難しました。しかし、これは既に述べましたように、本迹一致派に対立した形で派生した勝劣派の法義の限界と大変似かよった議論であり、当家からみれば什門の主張は五老門下と富士門との折衷案とも言うべきものに堕していると言えましょうか。ともあれ、富士門流と他の本迹勝劣派の間で幾度も方便品読不と釈尊像の造立の可否について問答・議論されていることは大変興味深いことであります。什門をはじめとして陣門、真門、八品派などの勝劣各派は富士門流と台当違目に関して同意の接点を持ちながらも、宗義の根本については、すれ違いの議論に終始します。これは偏えに富士門が「末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし」の立場から、釈尊の世界、教相の世界を離れるのに対して、勝劣各派ではあくまでも法華経の教相に固執し、釈尊の世界の中で議論を行なおうとするからでありましょう。

 それゆえ冒頭本文において、什門の学匠が当家に対して「高祖ノ御本意至極ノ御仏法也」と言われたのも、教相上の台当違目に注目してのことであり、真に富士の立義を理解していたとは言い難いと思います。むしろ富士門流では、教相上の本門正意や上行菩薩の強調は入り口、表層の議論であり、そこから一重立ち入って師弟子の法門・事行の法門を論じてこそ当家の真骨頂と言えましょう。

 日什師が「当門徒ノ化儀ニ謬リ仏法ニ退屈召レ」たのも少なからず当家の事行の法門に迷惑した結果ではないかと私は思います。

 

《戒律の持破について》

 御物語聴聞抄によれば、日什師は当家に一度は帰伏しながらも、「不律ナル処」を嫌って離反したとあります。「不律ナル処」とは戒律を持たない、あるいは戒律に厳しくないという意味でしょうが、具体的に言えば富士門が「酒肉五辛」や僧侶の「妻帯」を許していることを指したものと思われます。

 先の『日什門徒建立由緒』に、

「一 禁戒之事、什祖の本意は是れ又我慢に身を立てず(中略)戒の儀無くんば法華の弘経を信ぜず、 戒の方より誹謗を成す、結句嘲弄を得る事釈尊の本意を失ふ者と成る」

 と示されているのも、冒頭本文と合わせ読めば富士門への非難とみることが出来ましょう。しかしながら当家への「不律」の非難に対して、日有上人は、  

 「高祖御出世ノ元由ヲ尋申侯ヘハ戒律持破ヲ御沙汰ナシ三毒強盛ノ凡夫信ヲ以テ即身成仏ト御定判侯」

 と答えられました。すなわち三毒強盛の凡夫が末法において戒を持つのは不可能なことであり、妙法蓮華経の受持によって直ちに成道を遂げるのが当家の修行観、成道観であると示されました。「戒律持破ヲ御沙汰ナシ」と日有上人が言われているように、大聖人の御書に法門の根幹として「持戒」を示されたところは見出だすことができません。その反対に、四信五品抄には、

「仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又堪えざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり」(全集339)

 とあり、末法の凡夫の成道は戒律の持破ではなく、受持の一行=信によって遂げられると教示されています。すなわち、信の一字を以て慧に代える〈以信代慧〉の法門であります。また大聖人は御書に、伝教大師云くとして、  

 「末法の中に持戒の者有らば既に是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」

 との『末法灯明記』の御文を繰り返し引かれ、末法無戒の一つの根拠とされています。

 末法に入って釈尊の教法が廃れ、まさに白法隠没する世界にあっては、持戒もまた甚だ困難なことであります。そして大聖人の救済の対象とされた民衆は、それが武士であれ農民であれ、もっとも戒律とは縁遠い人々であったと言えましょう。持戒や有智高徳とは無縁な衆生が成道を遂げるのは妙法蓮華経を受持信行するより法はない、それが大聖人の教えであり、富士の立義が護り伝えたことでありました。戒律の持破を言えば差別が少なからず生じますが、信の一字となればそこには一切衆生平等の救いが標祷されます。

 しかし、そのことは「不律」――戒律を蔑ろにして、身を乱脱に持つこと――を奨励するものでは決してありませんでした。たしかに当家では釈尊の五戒や十重禁戒等を用いませんが、信の宗旨には、信の宗旨なりに守らなければならない化儀・法則があることを知らなければなりません。開山上人の遺誠として伝えられる26箇条や日有上人の121箇の化儀抄は、信の宗旨を標榜する私たち僧俗が万代に護り伝えていくべき亀鑑であります。当家は「戒律の持破」を問わない宗旨だけに、かえって僧も俗も自ずからを潔く律しなければならない面があります。日有上人は化儀抄の第96条に、

「法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に戒の持破をも云はず、又有智無智をも云はず、信志無二なる時は即身成仏なり、但し出家の本意なるが故に何にも持戒清浄ならん事は然るべきなり」(歴全1−361)

 と示され、下野阿闍梨聞書に、

「当宗は本因妙の処に宗旨を建立するなり、然りと云て我が身を乱達に持つを本と為すべからず、 さて当宗も酒肉五辛女犯等の誡事を裏に用ゆべし、是れは釈尊の果位の命を次ぐ心なり」(歴全1−297)

 と仰せられましたが、これが当家の戒に対する基本的な姿勢ではないかと思います。

 富士門流は、他宗他門の高位高僧が威儀を整えるために戒律を大事にするのとは根本的に違います。

凡夫の成道はあくまでも受持即持戒にあり、「裏に用ゆ」る戒も信の一字を成就せんがためのものであります。

 玄妙日什師は当家の「不律ナル処」を難じましたが、あるいはこれは師が天台宗の高僧であったために戒律や位階を大事にし過ぎた結果かも知れません。日什師は化儀や戒律を「弘通法理のタスケ、ヨソヲイ」と言われたように、戒律を持ち威儀をただし地位を重んじることによって、弘通の良き手段としました。翻って、当家の化儀を考える時、日有上人は「戒の持破」を問わず、位階の低位たるべきを説きました。日有上人にとって、化儀は弘通の「タスケ、ヨソヲイ」ではなく、名字の凡夫の信の振舞そのものであったと言えましょうか。それが日什師の目に、甚だ頼りないものと映り、威光勢力の薄いものに感じられたとしても止むを得なかったかも知れません。必ずしも戒律にとらわれない富士門流のあり方は、天台宗の高僧にはあるいは放逸に映ったかも知れません。

 諸門徒を経廻って、ついに京都に進出した日什師は本山妙満寺を構え、公武の大臣に謁見し位階も二位権少僧都の宣旨を得ました。それは年来、日什師が念願とされていたことかも知れませんが、大聖人、日興上人の精神にはずれ、富士の立義とも大きく隔たったものであったことは言うまでもありません。

 

 

 日有上人は連陽房雑々聞書に、「慈覚大師ある時、大衆を一人召して仰せ有る様は、今日より釈迦の末法に入ると覚え侯、いそぎ都に出でて日来よりなき不思議の出来有るべし(中略)其の日より召れたる本の律僧の衣を捨て玉ひて今の俗衣たる、もつけの薄墨衣を召す也、天台宗も此の時までは律僧衣也。されば今の当宗の薄墨のもつけ衣は末法折伏衣也」(歴全1−273)と仰せられています。本文の第三十四条と類似の内容をもちますが、化儀抄では慈恵大師が折伏行のために衣を改めたとあるのに対して、聞書には慈覚大師がそれを行なったこととしています。天台宗の通説では、素絹衣は慈恵大師によると言われており、慈覚大師説はありません。あるいは、伝承のうちに慈覚・慈恵の混同があり、日有上人が両様ともに仰せられたのか、聞者である弟子が聞き間違い、書き問違いされたのか、その点も判然としません。また、弘経寺日健の御書抄には、「天台宗の裳付衣は慈覚大師より始まる也」との記載もあるので、日蓮門下の問には、あるいは慈覚大師説も伝承したのかも知れません。本書では第三十四条をそのまま解釈するとともに、天台宗の通説どおり慈恵大師説を取りました。

 日陣師と日什師の出会いについては『日什聖人御由来之事』にあり。日什師の日蓮門下への帰依については富士門徒帰伏説、中山帰伏説、真間帰伏説、日陣誘導説などが混然として伝えられています。

 


 

 

第十二章 日有上人の御事跡

 

 一日片時モ屋ナドニ心安クアルベキコトアルマジキ事ナリ―

 日有上人の一生は教化弘通に東奔西走する波欄に満ちたものであった。しかしながら、諸聞書を拝する限りでは不思議に悲愴感や焦燥感が日有上人から感じられない。弘通の日々であったことは如実に伝わるが、それが決して慌ただしさや騒々しい感じを与えないのである。そこにはかえって、おおらかさや余裕、慈悲が滲み出ているようでもあり、ある種の風格さえ漂う。はたして日有上人のそんなイメージは何処から醸し出されているのだろうか。

 

 

 

I.    日有上人の諸国行脚

一、京都相国寺ノ鹿園院ニ住シケル僧に越後ニテ値フテ當宗ノ即身成仏ハ信也ト沙汰スレハ、ヤガテ云様、サテハ法華経ハ別になし能信の人即法華経ナリト云、去ル間佐渡の東光坊にかけさせたる文袋より當体義抄を取出シテ高祖の御金言ニ日蓮之弟子ハ妙法蓬華経ナリト遊バサレタル処ヲ見せたれは能々拝し奉り、頂き奉りて当宗ノ体を讃め申されたる也。先ツ御書を拝し奉らずして云フ仏法の大綱を学シたらん者カ是レ体ノ事を言ベキヤ、加様に天下に隠レ無キ善知識と云人達には寄合、当門流の法理を申し聞セたりとの給へ候已上。 (御物語聴聞抄、歴全1−321)

 本文は御物語聴聞抄の第八段です。京都相国寺とは、足利義満創建の臨済宗寺院、京五山の一つです。この一段は、日有上人が越後にて禅僧と法門談義された時の内容を示されたものです。はじめに通釈致します。

 京都相国寺内にある鹿園院に居住する禅僧と、たまたま越後にて巡り会い、その時に当宗の即身成仏とは「信」そのものであると示したところ、ただちに禅僧は「さすれば法華経は別になし、法華経を能く持つ人こそ即ち法華経である」と言って、行者と法華経の人法体一について理解を示された。

故に、それではと、佐渡国の東光坊にもたせていた文袋より「当体義抄」を取出だして、大聖人の御金言に「日蓮が弟子は妙法蓮華経なり」と仰せられたところを示すと、その禅僧はよくよく御書を拝し奉り、頂き奉りて、富士門流の宗旨を賛嘆されるのであった。

彼の禅僧は、まず御書を拝さないうちから、ほぼ当宗の即身成仏の深義に理解を示された。仏法の大綱を学び得た人であるならば、このような道理に叶ったことをも言うものであろうか。もっとも、それ故にこそ、天下にあらわれた善知識とも言える人たちとは、機会あるごとに寄り合い、富士門流の法義を申し聞かせたのである、と日有上人は仰せられた。

 

《禅僧との法門談義》

 御物語聴聞抄の注釈書である日因上人の『御物語抄佳跡』には、この第八段は先に説かれた第七段、第六段と関連を有することが示されています。第六段には、  

 「佐渡にて然るべき禅僧に相ひ値て当宗の即身成仏の法門を申して」(歴全1−320) 

 と記され、続いて第七段には、  

 「遠江国橋本と云ふ処に天下に隠れなき禅僧あり」(歴全1−321)

 と示されていますように、たしかに3つの項目は、いずれも日有上人が禅宗の僧侶と法門談義されたときのことを物語として伝えたものであります。この三段を通じて興味深い点は、富士門流における即身成仏と信の関係について、禅僧がかなりのほど理解を示し、富士の立義を賛嘆し、日有上人に同意していることであります。また、日有上人が禅僧相手に必ず〈信〉を強調されたのは、おそらく禅宗の教えに教外別伝や無師独悟があり、それによって〈信〉が欠落する要素を強く感じられたからだと思います。これらの禅宗の教えは、当時流行の理即本覚的な考え方にも共通するもので、ともに独善、慢心に堕すきらいがありました。聞書の別の箇所ですが、日有上人は禅宗の教えに対して、明確に「受持の義欠けたり」(歴全1−415)と指摘されています。

 さてそれはともかく、今節では日有上人が一生において、いかに多くの学匠や人々に結縁され、富士の立義を弘通されたかを申し述べたいと思います。

 

《諸国行脚の僧》

  日有上人が諸国を遍歴し、さまざまな僧侶や在家と出会い、富士の法門を精力的に弘通されたことは、諸聞書を拝すれば十分に伺えることであります。 

 すでに述べた三段のように、ある時は越後・佐渡・遠江にて禅宗の僧侶と法門談義され、富士の立義を弘通されました。また、京都には永享年間、天奏のために上られておりますし、さらには年代は判然としませんが、同じ京都において浄土宗の学僧、五条円福寺の頓乗房と問答されています。

 少し変わったところでは、天台宗の学僧である慶舜との学問的な関係が伝えられています。すなわち日有上人晩年のことを記した『房州記録本』(原本未検)によれば、  

「当時叡山は衰微し、叡山の戒壇又衰微し、受戒の人無く、叡山に学ぶもの又無く、田舎天台たる地方の檀林に学ぶもの多く、その一に美濃の柏原檀林あり、ここに大寺ありて、学匠集合せし、中に慶舜なるものあり、有師とこの慶舜と交流あり(後略)」

 という記事があり、日有上人は目師遷化の地にほど近い、美濃の柏原檀林に赴き、当時の天台宗では一流の学匠であった慶舜と交流を結ばれたようであります。ここに記されておりますように、柏原檀林には成菩提院(寺号は円乗寺)という天台宗の大寺があり、その寺院は現在も続いております。開基は、『天台名目類聚鈔』や『宗要柏原案立』などの著作でよく知られる貞舜法印であり、その跡を継いで成菩提院の二代に就かれたのが他ならぬ慶舜であります。日有上人とほぼ同時代を生きた慶舜は、智行兼備した学匠であったらしく、宗要や義科などの法義書を多数書写され、現在でもそれらの書物が天台宗の寺院に数十冊も伝わっております。

 先の記録によれば、日有上人は、大石寺に代官を置いて諸国を教化行脚していること、その大石寺が留守居によって売却され、またご自身が買い戻したこと等を慶舜に話されているので、その関係はかなり親密であったのかも知れません。

 同じ日蓮門下での交流は、

 「在洛の内、尼崎の日隆と相看したまふ、隆公四帖書を以て有師にまいらす、有師拝受して之れを見ず」(聖典747)

 と、日精上人が家中抄に示された記事をあげることができます。これは八品門流の祖である日隆師と日有上人が京都にて巡り会い、それが縁で日隆師は自分の著作である、天台宗と日蓮宗の違いを説いた『四帖抄(法華天台両宗勝劣抄)』を上人に送られたという逸話であります。これは事実の程を明確にすることはできませんが、日隆師と日有上人は同時代の人であり、互いに勝劣派の門流を代表する学匠ですから、このくらいのことがあったとしても何等不思議とするものではありません。日有上人は、この『四帖抄』を受け取ったまま顧みられなかったと記事にありますが、このことは日隆師の所持する教学と富士の立義とは、同じ勝劣派でも異質な面があることを示そうとされたのかも知れません。しかし、ここでは宗門史上において注目される両者に、何らかの交流があったことがわかれば十分であります。

 

《有師伝説》

 このように大石寺には数人の留守居を置いて、常に日有上人自からは東奔西走、富士の立義の弘通に精進されましたが、それと同時に、当時の在俗の人々の救済にも日有上人は力を入れておられたようです。その一つの証として、さまざまな逸話が民衆によって語り継がれ、〈有師伝説〉となって現在に残されております。ここでは、家中抄にも紹介され、もっともポピュラーになっている〈有師伝説〉を一つだけ簡略に紹介致します。

 

 当時、下部(山梨県西八代郡)より2里ほどのところに元湯という温泉宿があり、日有上人がそこに泊まられた時の話です。

 家内の20数人が貧しく雑炊を食べていると、日有上人はそれを哀れんで「今宵汝等に白米を与うべし、汝等先ず清水を大鍋に入れてわかせよ」

 と仰せられた。しかし宿の家人は日有上人の持っている僅かな米を見て、笑って、

「この飯一人二人なお応じ難し、況や家内の諸人に及ばんや」

 と言いながら、小鍋を差し出した。これを見た日有上人は「小鍋は用に足らず」と言われて、無理に大鍋を持ってこさせ、湯の沸くのをまって、二、三粒の米を湯中に投じて、蓋をされた。すると、不思議にも即時に御飯が鍋いっぱいに炊けて、あふれ、家中の人たちは大いに驚き、かつ喜んでそれを食した。なお有り余る御飯を隣人に分け与え、喜びを共にした。そして、このような奇瑞を目の当たりにした人々は、日有上人の凡人でないことを知って、いよいよ尊敬の念を深めた、という話であります。

 〈有師伝説〉には、他にも、当時の不治の病を一夜にして治した話、貧苦に悩む民衆に富を授けた話、地元の百姓の難儀を救う話、乳を得るという銀杏の木の話、猿鹿の畠荒しを治す話など、教化に浴した人々の驚きや喜びを素直にあらわした様々な話が現在に伝えられています。

 もとより、これらの伝説をそのまま事実とするものではありませんが、それでも日有上人が如何に民衆と苦を同じくし、しかもその救済のために精進されていたかを証明する一つの手だてにはなろうかと私は思います。また、これらの伝説をもう少し委しく調べることによって、当時の社会状況や風俗、ものの考え方などを明らかにしてゆくことも可能であろうと思います。

 民衆は、時代がもたらした切実すぎる飢えや貧困から必死に逃れようとしていたでしょうし、難病の克服などを夢に見ていたことも想像に難くありません。その苦悩する民衆を前に、日有上人もまた必死になって救済に奔走された。それが〈有師伝説〉の生まれた素因であろうと私は思います。

 日有上人は、御物語聴聞抄に、  

「高祖御言には、王臣の御信用なからん程は卒都婆のもと、橋の下にても弘通すべし、一日片時も屋などに心安くあるべきことあるまじき事なり。然る間世事の福貴これ有るべからず。されば孔子の言にも国に道なき則んば富むは是れ恥なり、国に道ある時は貧なるは是れ恥なり」(歴全1−325) 

 と仰せられて、自身の根本的な姿勢を明かされています。日有上人の生きられた時代は、〈応仁の大乱〉によって代表されるように、合戦につぐ合戦が繰り広げられ、人心は荒廃し、当時を生き抜いた人々は仏教で説く〈末世・末法〉を感じないわけにはいかなかったことでしょう。飢饉・疫病・暗殺・一撲・内乱などが打ち続く世相の中で、民衆は疲弊し、救いのない世の中に絶望すら感じていたと言えましょうか。まさに当時の日本は「国に道なき」状態であったと思います。

 それは、大聖人が諸御書に示された鎌倉時代の天変地夫や飢饅疫病、あるいは蒙古外冠による人心の騒乱に匹敵するものがあったろうと思います。そんな時、必然的に日有上人は、大聖人の折伏の精神を手本とされて、「一日片時も」心安く過ごすことなく、民衆の救いのために全国を奔走されたのでした。

 そして、ある時は、先にも述べましたように、法華経の精神を理解し心を同じくする名僧知識と語り合い、ある時は、疫病や貧苦に悩まされる民衆とともに生きられた。むろん、当宗の僧俗に対しては、乱世に生きる指針を与え続けられました。そのために門流内には、日有上人ゆかりの寺院がたいへん多いのです。

 そのいくつかを紹介すれば、まず地元の駿河には、本広寺・要行寺の両寺を日有上人ご自身が創設開基されています。

 堀日亨師によれば、東北の日目上人ゆかりの寺院が今に保存されたのも日有上人の尽力によるものだそうです。また関東にある当宗の古刹では、日有上人を中興の祖として仰いで、有師堂を設けているところもあります。また、小金井(栃木県)の蓮行寺や磐城(福島県)の妙法寺などの本堂には、大石寺に伝わる御本尊を日有上人が模写され板本尊にされたものが安置されています。

 晩年にはご存知のように、甲斐国河東の杉山に隠棲され、その地には後年、大杉山有明寺が建立されています。上人入寂後は、その高徳を慕われて、多くの僧俗が剣山難河を乗り越えて廟所である杉山に詣でました。江戸時代の記録によれば、寛永・寛文のころには参詣者が列をなし、沿道の民家はみな旅館に様変わりしたと伝えられています。

 これらの全国に点在する日有上人ゆかりの地域では、それぞれ〈有師信仰〉とも呼べるような、地元の人々による日有上人への強い敬慕、崇拝が行なわれ、それらが現在までも風習となって根強く残っているところがあります。

 そのことの善し悪しを教義的に言うつもりはありませんが、先に述べた〈有師伝説〉とともに、これらの信仰が日有上人の偉大さや高徳を伝えていることだけは疑いないように思われます。これ皆、日有上人の教化行脚によって残されることになった事跡や風習といえましょう。

 このほか、遠く奥州、四国の僧俗にも日有上人と縁された方は大勢おられます。これらの地に上人が直接赴かれたかどうかは今一つはっきりしませんが、上人が書写された曼茶羅本尊が陸前や土佐の僧俗に授与されている事実や、諸聞書の聞き手の一人が「土佐吉奈の連陽房」であることを思えば、教化因縁は浅からざるものがあったと言えましょう。これらの推移からすれば、おそらくは教化のために奥州へも四国へも下向されたのではないかと思います。

 

《セクトを超えて》

 日有上人の一生は、今まで述べてきました通り、波瀾に満ち、辛苦の連続であったろうと思われますが、諸聞書を拝する限りでは不思議に悲憎感や焦燥感を日有上人から感じることはありません。東奔西走の日々であることは、如実に伝わってくるのですが、それが決して慌ただしい感じや騒々しい感じを与えない。私は、日有上人御自身に汲々としたものではなく、かえって大らかさと言いますか、余裕すら感じます。もしかしますと、それは、さまざまな〈有師伝説〉というものが日有上人を、彩りしていることから与えられる印象かも知れませんが、とにかく日有上人のイメージには、ある種の風格が漂います。

 また、日有上人が諸国を遍歴されて、他宗他門の僧侶と法門談義されるのを拝すると、現代の私たちの考え方とかなり違った雰囲気を感じます。  

 「仏法の大綱を学シたらん者カ是レ体ノ事を言ベキヤ」

 と日有上人は、本文の彼の禅憎について「仏法の大綱を学」んだ僧であるという評価をされ、好意的な感想を述べられています。こんなことにも私は新鮮な感じを覚えます。おそらく日有上人の教化弘通にとって最も大切なことは、富士門流とか他宗他門という宗派やセクトに人々を色分けすることではなく、あくまでも法門の内容如何を中心に据えたものであったのでしょう。学問修行の時には他宗他門の袈裟衣を着用しても一向に構わないとする化儀抄の条目がありますが、これも日有上人の一貫した姿勢から示された教えであろうと思われます。

 相手が禅僧であろうが、天台僧であろうが、また他の日蓮門下の僧であろうが、問題なのはその人が所属する組織ではなく、その人の所持する法門の如何であります。その人が「仏法の大綱」に外れることなく法華経の精神に叶っているか。富士の立義であるところの〈事の法門〉〈信の法門〉をよく理解し、賛意を示すかどうか。このことを確認して、互いが同意を示す。法門の何たるかが互いに通じ合う。それが日有上人にとって、何よりの一大事であり、至福の瞬問だったのではないかと思うのです。

 それに比して、ややもすると私たちの場合は、法門の内容を確認するよりも早く、相手の宗派を排他的に退けがちではないかと思うのです。中味を知る前に、レッテルだけで相手を決めつけ、見下してしまう。これは裏を返せば、自らの所持している法門がいかに内容のないものかと認めているか、あるいは全く自分の法門に自信がないかを露呈しているようなものでしょう。

 今さら言うまでもなく、世の中は計り知れないほど広くて深いものでしょうから、どこにどれほどの〈器量の仁〉が伏しているとも限りません。人知れず、自らも気付かず、法華経の精神を大事にして日々生きている人が私たちのすぐ側にいるやも知れません。富士門の僧俗でもないのに、あたかも富士の立義を体得しているか、と思わせるほどの振舞いに生きている人もいるかも知れません。そこで日有上人は「天下に隠レ無キ善知識と云人達には寄合、当門流の法理を申し聞セたり」と仰せられているわけです。私たちは、偏った独善主義や排他性をできる限り無くして、自信をもって大いに社会の人々に富士の法門を語り、お互いに同意できることの喜びを感じ合いたいものです。

 そして、その根本精神がすでに大聖人の教えに示されていることも私たちは学んでおかなければなりません。大聖人は減劫御書に、

「智者とは世間の法より外に仏法を行ぜず、世間の治世の法を能々心へて侯を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを太公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口を甘くせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人々はしらざりしかども彼等の人々の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(全集1466)

 と教示されています。稀代の悪王といわれた段の紂王が残虐な行ないによって民衆を苦しめた時、太公望という賢者が世に出て糾王の頸をとり民衆の嘆きをとどめたこと。あるいは秦の二世皇帝が悪政を行ない民を煩わせた時、やはり張良という偉人が出て世をおさめ民を救われたこと等の故事を引かれて、大聖人は「これらの賢人たちの言動は仏法以前のことがらではあるが、教主釈尊のお使いとして仏法の智慧を振舞いにあらわされたものである」と教示されました。当時の外経の教えを信じていた世間の人々には思いもよらないことだが、それらの賢者の智慧の内には法華経の智慧がさしはさまれている、というのが大聖人の仰せですが、私たちもこの例に習えば、見ず知らずの一般の人々の中にも、法華経の智慧をさしはさんで生きている人を見出すことが可能かも知れません。そういう人と出会い、富士門流の信仰を語り合うことこそ、実に有意義なことでありましょう。そこに、大聖人の法門を実践し、さらには日有上人が味わわれた喜びを私たちのものとして共有する楽しみもあろうかと思うのです。

 しかし、そのためには組織やセクトばかりで人を捉えず、まず、その人の〈ものの考え方〉や〈思想そのもの〉を捉えようとする姿勢が私たちには望まれているのです。

 叡山という権威や組織、セクトを離れて、自由闊達に法門を展開された、それが大聖人のお姿とも言えましょう。あるいは、大聖人は一生かけて、真実の法門を理解し合える人を求め続けられたとも言えましょう。どんな困難な時にも既成の教団や組織にとらわれず、常に大聖人の選択は、法門の内容に置かれていたのでありましょう。そして、日有上人もまた、大聖人の精神を継がれての諸国行脚であったと思います。それが、日有上人のイメージをおおらかに、ある種の風格や余裕さえもかもし出す背景になっているのではないか、と私は思います。

 また、これらのことについて念のために言えば、私は単に、自分たちの宗旨のことなど考えずに他宗他門と仲良くしていこう、などと主張するものではありません。日有上人のお考えには、何事にも優先させて〈大聖人の法門〉や〈富士の立義〉が存在しているのであり、それが〈信の宗旨〉の真骨頂でもあります。しかしながら法門の内容が充実し、それを明確に体得し、体現する人がいるならば、排他主義や独善主義は自然に影を潜めるはずだと言いたいのです。

 

 

II.   日有上人の御事跡

 前節に引き続き日有上人の御事跡について、その生年や出家、修学、天奏、他門との問答、弟子檀越への法門伝授、本尊書写など、諸聞書や家中抄等の史料によって略述したいと思います。

 

《生年・出家・修学・天奏》

 まず日有上人の生年に関してですが、諸聞書などの直接的な史料による限り、明らかなことはわかりません。昭和三十九年に刊行された富士年表によれば、日有上人の生年は応永十六年(1409)となっており、その典拠には「大石寺文書」があげられています。しかしながら、昭和五十六年に合本改訂された富士年表では「妙喜寺文書」により、応永九年(1402)を日有上人の生年と定めています。ここに七年の差異があるわけですが、典拠とされている「大石寺文書」「妙喜寺文書」の記事内容をともに確認しておりませんので、信憑性の有無については何とも言えません。しかし生年不明では、日有上人の年齢をとることができませんので、ここでは「妙喜寺文書」によって改訂された応永九年を生年として語を進めます。

 日有上人の出白、出家については家中抄に、  

「釈の日有は俗姓は南条、日影の弟子なり、幼少にして出家し師の教訓を受け法華を習学し又御書を聴聞す」(聖典746) 

 とあるのが初出史料であります。家中抄は第十七世日精上人の編纂によるものですから、これまた直接的な史料とは言い難いものですが、出自、出家に関しては周囲の状況から考えて妥当であろうと思われます。日影上人の寂年は応永二十六年、その時日有上人は十八歳であり、出家はそれ以前、おそらく「幼少にして出家し師の教訓を受け」たとする家中抄の記事はほぼ信頼できるのではないかと思います。

 この頃の日有上人の事跡に興味深いことが一つありますそれは、下野阿闍梨聞書に、

「御物語ニ云ク、我ハ十六歳ノ時常陸国村田ト云フ所ニテ二帖書ヲ之相伝ス、其ノ時ヨリ天台宗ノ血脈ハヤ静明ノ時絶エタリケリト知ルベキ也」(歴全1−400)

 と仰せられていることであります。常陸国村田は現在の茨城県江戸崎町辺ですが、そこには天台宗の関東八檀林として名高い不動院があり、また南へ四キロほど下れば、同じく八檀林の一つである古刹逢善寺(当寺の学頭定珍は恵心檀那の両流を相伝した天台宗きっての傑僧)があるという、関東天台におけるすぐれて学問的な地域でありました。修学時代の日有上人が赴かれる可能性は大きいと言わねばならないでしょう。それにしても十六歳という年齢にして、天台宗の秘伝法門である『二帖抄』を相伝されたことに日有上人の早熟さが伺えるのであります。

 またこのことは、後に日有上人が諸国行脚して他宗他門の僧たちと問答を行なったことの萌芽であったとも言い得るでしょう。

次に改訂版の年表によれば、応永31年、日有上人(23歳)による「大石寺諸堂再建(大石寺文書)」があります。しかし、このことも改訂前の年表には記載がなく、改訂版の典拠となっている大石寺文書も公になっていませんので詳細は不明と言わざるを得ません。その後、日有上人は寛正6年(有師64歳)にも、大石寺の御宝蔵、客殿を建立されたと言われておりまして(寺誌)、これらのことを考え合わせれば、日有上人の時代になんらか伽藍の整備が行なわれたことは事実だったのでありましょう。

御物語聴聞抄には、日有上人が諸国行脚されている時に、留守居に置いた3人の僧侶が大石寺を売り払ってしまい、6年もの間、他人の手に渡ってしまったことが述べられています。このことは日有上人の帰寺後、改めて地頭より20貫にて買い戻し、何とか解決を見たようですが、大石寺を買い取られてから買い戻すまでの6年問の時期は、御物語聴聞抄の稿がはじまる寛正3年以前のことになりますから、あるいは6年間の無住期間に荒れ果ててしまった境内、伽藍を整備し、寛正6年の御宝蔵、客殿の創建となったのかも知れません。

 次に日有上人の事跡として明らかなことに、永享4年(1432)の天奏があります。  

「先師の旧業を継がんと欲し永享四壬子富士を出で華洛に至り奏聞す、在洛の内・尼崎の日隆と相行したふ」(聖典747)

 と家中抄に記されたように、口有上人は31歳の春3月、京都に上り天奏を遂げられました。このことは日有上人の申状(日舜写本)が大石寺に伝わり、現在奉修されている毎年の御大会式の際に奉読されていることからもわかるのであります。因みに、御物語聴聞抄佳跡に日因上人は、  

「日有上人の申状最初なる子細は日有上人已後天奏の人なき故に日有上人の申状に由ってしかも上代の祖師開山已来の筋天下を諌暁する事を知らしめんためなり」(富要1−237

 と示されて、奉読の際に日有上人が先導される所以を述べられています。

 さて先の家中抄によれば、日有上人は上洛の際に八品門流の祖である慶林日隆師に会われたとのことであります。このことを具体的に徴する史料はありませんが、聞書の中に日有上人の仰せとして「尼崎流」「慶林坊」などの言葉をあげて、富士門流の立場から八品派を批判しているところがあります。また、慶林日隆師の『法華本門弘経抄』には当家に対して、  

 「本尊の釈迦上行をば造像せず、日蓮大士を中央に安置し奉ること富士門流の法則なり、恐らくは謬中の謬、是れ即ち極大謗法なり」 

 と批判を展開されています。

 慶林日隆師は至徳2年(1385)の生れ、日有上人より17歳の年長ですが、永享四年は31歳と48歳、会って法門談義する年格好に不釣り合いがあるわけではありません。また、家中抄に、

「隆公四帖書を以て有師に進らす有師拝受して之れを見ず、其の書今に之れ在るなり」(聖典747)

と記されていることも、日隆師の「四帖書」は永享元年に著されておりますので、時期的には無理のない頃と言えましょう。これらのことを総合すれば、前節にも述べたように日有上人と日隆師の遭遇はあながち伝説として片付けられないものがあります

 また、同じく永享4年に、日有上人は曼茶羅本尊を書写されておりますが、それは現存する日有上人の曼茶羅の中では年代的に初出のものであり、日有上人の振舞いが言い伝えや推測ではなく、先の天奏とともに永享四年頃から現実のうえに形をなして来るのでありますその曼茶羅本尊脇書には、

  「富士大石寺長穏日章に之を授与す」(富要8−194)

 と認められておりますが、日有上人はそれ以後、81歳の入滅まで書写された曼茶羅は現存するもの32幅に及びますこのように現存する曼茶羅本尊の多いこと、また地方によっては有師堂が建立され、日有上人の御影像や曼茶羅本尊が安置されたことは民衆の日有上人への尊崇がいかに強かったかを思わせるのであります。また日有上人は、慶林日隆師との「相看」をはじめとして、この頃より自他門のさまざまな僧俗と問答、説法、法門談義を行ないました。次にそれらのことを諸聞書から列挙してみたいと思います。

 

《問答・説法・法門談義》

 諸聞書には、日有上人が諸国行脚してさまざまな他宗他門の僧侶と問答や法門談義する場面がよくあらわれますまたそれが、本寺である大石寺にて行なわれることもありますし、あるいは相手が他門ではなく当家の弟子檀越との法門談義や説法であったりします大まかに分ければ、他宗他門の僧とは問答になり、自門の僧俗には説法となり、その中間に自他門を超えた法門談義があったと言えましょうか。

@「カハカヤノ岩見」との法門談義[歴全1−318]

 これは御物語聴聞抄の第二段にある話。河萱の、岩見という人物について詳細は不明ですが、奥州磐城国岩崎郡の領主岡小名殿の親類で「文武二道ニ達シタル俗人」と物語抄には出てきます。ある時、大石寺に登山し日有上人と法門談義しますが、その折りに当家の即身成仏の義を歌二首に詠みました。

  ちらぬ花入らぬ月とも見つる哉

        もとのまま成る人の心を

  四方の山白雪つもるころなれは

        わけて色ある富士の根もなし

 日有上人はこの歌に、当宗の愚者迷者の即身成仏を見られて印可を与えられました。

 第一首目は、「ちらぬ花」と「入らぬ月」とを本有常住の妙法に譬え、それが「もとのまま成る」凡夫の己心に常住することを詠んだものか。第二首目は、「四方の山」を愚悪の一切衆生、「富士の高根」を本有の悟りに警え、それが妙法蓮華経の「白雪」にすっぽりと覆われる時には彼我の別なく即身成仏を遂げると詠んだもの。ともに雪・月・花を常住の妙法に譬え、それがすでにして愚者迷者の凡夫の信の処に成就していることを巧みに詠んでいるので、日有上人は「如何にも当宗の即身成仏と申すは……」と認められたのでした。法門談義の年次は不明。

A住本寺の僧、法門聴聞す[歴全1−319]  

 これは、引き続き御物語聴聞抄の第3段の話。京都の住本寺僧侶8名が大石寺に登山し、日有上人より法門を聴聞したことが記されています。

 その内容は、日尊師が本尊を板に彫刻したことに疑問をもった住本寺の僧侶がその是非を日有上人に問われたところ、日尊師が本尊に判形を加えず、彫刻を施した意趣のみを書き付けたことを日有上人はかえって認められ、「当門流の化儀をは心得定められたり、誤らざる儀也」と仰せられました。おそらくこの場合、曼茶羅を書写したり、あるいは板に模刻することがあったとしても「判形ヲハ為スベカラズ」とされた当家の化儀を遵守しているかどうかが問題にされたものと思われます。この段、内容的に少しわからない点もありますが、大要はそんなところであったと思います。また、第3段には日尊師の36箇寺建立の由縁となった、梨の葉の伝説――日興上人の説法の際に日尊師が風に吹かれた梨の葉に気を取られ、それがために勘当された物語――が語られています。

  B佐渡にて禅僧と問答[歴全1−320]

  C遠江国橋本にて禅僧と問答[歴全1−321]  

  D越後にて禅僧と問答[歴全1−321]

 御物語聴聞抄の第六段、第七段、第八段に続けて語られている禅僧との問答です。いずれも即身成仏に関わる問答であり、これらの禅僧とは基本的に、愚者迷者の上の成仏、法界同時の成仏などについて同意を見ています。しかしながら日有上人は問答に際して、必ず「信」すなわち「受持」の義を強調されており、そこに同意があってはじめて相手を認められております。これについては前節に述べましたので参照して下さい。

  E大石寺にて禅僧阿耨との交渉[歴全1−321]

 御物語聴聞抄の第九段にある話です阿耨は禅僧ですが日有上人の知り合いでもあります。物語抄には「45年已前」とありますので、おそらく長禄年間の頃でしょう、阿褥が大石寺に逗留したことがありました。その時、日有上人に呉竹を所望した阿耨は禅宗の道具である薬籠を造りますが、それがために日有上人は二夜「天魔乱入して」悪い夢を見ることになりました。

 これを日有上人はどうしたことかと考え、他宗の道具を造る手助けをしたことに起因すると思い至ります。そのことにより日有上人は阿耨を教化し、道具造りを止めさせ、謗罪を誠めました。それゆえこの話は、「去レハ介爾モ謗法ノ道具ナントヲ当宗ヨリソダツル事コレ有ルベカラズ」(歴全1−322)と結ばれていますこの段、日有上人と阿耨との交渉の中から、日有上人は自らの誤りを示すことによって、聴聞の弟子を教戒されたものであります

  F日什門徒との問答[歴全1−325]  

 御物語聴聞抄の第16段の話。第11章2節に詳しく述べましたので参照して下さい。

  G京都にて浄土僧頓乗房との問答[歴全1−384]  

 連陽房雑々聞書にあり。これは京都にて、日有上人と五条猪熊の浄土宗円福寺の僧である頓乗房との間で行なわれた問答です。円福寺は現在の浄土宗西山派、深草流の大本山。頓乗房は浄土僧ですから機根論、易行論を展開して、末法愚悪の凡夫は浄土の教えに依るしか救いのないことを説きます。  

 「此ノ座ヨリ外ニ浄土有リトヤ思フ、我ヨリ外ニ阿弥陀有リトヤ思フ」(歴全1−385)

 と〈唯心の浄土、己心の弥陀〉をもって日有上人に問われます。それに対して日有上人は「其レモ機ニ依ルベシ」と答えられたので、頓乗房はすっかり浄土の機根論が認められたと思い「サテハ貴辺ハ浄土宗也」と喜びました。しかし問答の中身はこれからで、日有上人は、

「機ニ依ルベシト云フ事ハ浄土宗ニ限ラズ」(歴全1−385)

 と仰せられ、法華経にすでに愚者の付嘱としては神力品の結要付嘱、智者の付嘱としては嘱累品の惣付嘱があることを示されました。そして、浄土宗で説く聖道門と浄土門、正行と雑行、易行道と難行道の二説を悉く神力品と嘱累品に配当され、法華経の中に納められてしまったので、さすがの頓乗房も閉口したのでした。

H西山方の僧大宝律師との問答[歴全1−395]  

 下野阿闍梨聞書にあり。大宝律師は日尊門徒。これは開目抄の、「一念三千ノ法門ハ本門寿量品ノ文底ニ秘シテシツメタリ」の御文をめぐって、大宝律師が寿量品の何れの経文の底に沈められたのか問われたことに対して、日有上人が答えられたもの。

 日有上人は、日昭門流が「我実成仏已来」の文を主張するのに対して、富士門流では「如来秘密神通之力」の文を取ることが明かされています。その理由として「我実成仏已来」の文は本果妙、文上の顕本にとどまり、「如来秘密神通之力」の文は本因妙、文底無作顕本を示すとされています。

 これについては、同じ富士門流の妙蓮寺日眼師も同説をとられ、また日有上人以後の日要師、日我師(有師に影響を受けた保田妙本寺系の学匠)も同説を受け継がれています。上代富士門においては「如来秘密神通之力」の経文を本因妙の依拠として相伝していたのかも知れません。

I仙波備前律師との問答[歴全1−396]  

 これは下野阿闍梨聞書に詳説された、武州仙波の天台僧である備前律師と日有上人との問答です。

仙波は関東天台8檀林の随一。当家では日時上人、日院上人等が仙波に遊学されており、上代富士門流と仙波檀林との密接な交渉を伺わせます。この問答に関しては第5章2節に述べましたので参照して下さい。

J越後三条にて本成寺別当との問答[歴全1−403]  

K本成寺前住の一乗房との問答[歴全1−403]  

 ともに下野阿闍梨聞書にあります。越後本成寺は京都の本国寺と本迹法門を争った日陣門流の大本山。一乗房日信師は派祖日陣師の弟子であり、また彼の慶林日隆師は日信師について陣門教学(本迹勝劣の法門)を学んだと言われていますこれまた第九章二節を参照して下さい。

 以上が聞書に記された日有上人の問答、説法、法門談義です。これらの事跡はほとんどが年次不明であり、日有上人の略譜をつくるには残念ながらあまり役に立ちませんが、内容中心にみれば、日有上人が本寺の大石寺を中心に諸国を精力的に行脚され、自他宗の枠を越えられて問答の極意を発揮されたことが充分に伺えるのであります。

 また聞書には触れられていませんが、日有上人の事跡でもう一つ特徴的なことを挙げれば、日朗門徒の『御本尊相伝抄』に日有上人の仰せが示されていることであります

 「富士門徒の習は華落蓮成の点と習ふ也、仍て彼門徒の者は華の散たる風情に書き習ふ也(中略)富士日有仰せに云く、本尊に三種の花落蓮成の点有りとて不動愛染の梵字の上の点を出す也」

 これによれば、当時、富士門流では漫荼羅本尊の「蓮」の字の書様に関して、「華落蓮成の点」として、花びらの散る如くに筆を運ぶことが紹介されています。

  この『御本尊相伝抄』には「康正三年九月六日書畢」の識語があり、これを信頼すれば本書は日有上人49歳の峠に成立したことになります。これをもっても当時の日有上人と朗門との交渉の密度の濃さを伺うことができましょう。さらに同書には、日向門徒の義として、  

「法華堂をば皆御影堂と習ふ也、其の故は首題の下に日蓮と遊したるは妙法全く我が身也と云へる御心中なる旨也、左右の脇士は又日蓮聖人之脇士也、諸堂皆御影堂也と申伝ふ也」

 と記されています。これは物語聴聞抄の、

 「当宗の御堂は如何様に造りたりとも皆御影堂也。十界所図の御本尊を掛け奉り侯へとも高祖日蓮聖人の御判御座ませば只御影堂也」(歴全1−320)

 との御文と同説であります。むろん、この両文のみの比較では、富士門流と日向門徒のどちらが影響を受けたのか判然としませんが、法義の内容(聖人御影=曼茶羅本尊)からすれば、富士の立義が他門に浸透した状況を想定するのが妥当でありましょう(本書第7章参照)。

 また、これらの交流は、他門下にも富士の立義を受け容れる下地が十分あったことを思わせるのであります。とりわけ関東の日蓮門下においては聖人御影への信仰など、京都の日蓮門下とはかなり異なった状況にあり、今後はそのことを考慮に入れて上代史を考究していかねばならないと思います

 最後に付け加えれば、上記の問答や論談などに加えて、南条日住師や連陽房、下野阿闇梨、または筑前阿閣梨日拾師等が大石寺にて日有上人より直に法門を聴聞されたことも特筆すべき事跡であります。

 

《杉山隠棲・入寂》

 家中抄によれば、  

「終に血脈を日乗に付して甲州河内杉山に蟄居して読経唱題の外また所作なし、毎月斎日ごとに杉山より大石寺に詣でたまう行程百有余里なり、斯に於て文明十四壬寅九月二十九日臨終正念にして没したまう」(聖典748)

 とあり、日有上人は応仁元年(1467)、66歳にて日乗上人に法を付し、甲斐杉山に法華堂を創して移られたと言われています。これが現在の大杉山有明寺の始まりでありますその他、日有上人は文正元年(1466)には駿河駒瀬に本広寺、文明十年(1478)には駿河淀師に要行寺をそれぞれ建立されています。

 また、日有上人は応仁元年に隠居された後、10世日乗上人、11世日底上人の入寂によって文明4年(有師71歳)再び当職に登られているようです。もっとも血脈の継承については、諸聞書などの直接的な史料に記事がないので当時の状況や日時など、ほとんど不明と言わざる得ません。おそらくは血脈の意義、考え方なども日有上人の時代と現今とはかなり違うものと思われましたので、あえて事跡としては触れませんでした。

 日有上人の入寂は文明14年9月29日。これは大石寺蔵の大過去帳によります  

 

 

 

 


 

第13章 補遺  

 

 

 日有上人の諸聞書には、私たちの理解の及ばない事柄や行為、意味不明な化儀もまだまだ多いが、おそらくそれらもまた〈師弟子の法門〉〈事行の法門〉によって、絵解き、謎解きすることが可能であろう。「当家は第一化儀也」と日有上人が仰せられた通り、化儀の中に富士門独歩の法門が込められている。本寺末寺の関係、僧俗の関係、仏事作善、世事仁義、葬儀、神座、本尊給仕、勤行、法衣、起請、坊号、伽藍、有職など、さまざまな事柄について、こうした視点から今後も粘り強く考究していかねばならない。

 

 

 

前章まで化儀抄、御物語聴聞抄等を含む日有上人聞書に関して、それぞれの中から条目を選び出して通釈し、その条目に関わる富士の立義や上代史についての解説を試みて来ました。聞書全体の延べ条目数は二百八十数条にも及びますので、本書で取り上げることができたのは、ごく僅かな数でした。恐らく解説で触れることができた条目を含めても、全体の四分の一を充たしていないものと思います。

しかし初めに申しましたように、聞書の中には通釈すら容易でない条目が今なお私には幾つもあり、現状では力量的にも時間的にもこのあたりが限度といった感じであります。そこで、本書のまとめとして、今まで書き落としてきた諸聞書の文献的、書誌的なこと、あるいは今後の日有上人研究の方向性など〈補遺〉として申し述べたいと思います。

 

I.              諸聞書の文献的、書誌的考察

すでに周知のことですが、日有上人の仰せを弟子が聴聞し、それを書き留めた所謂『聞書』を列挙すれば次のようになります。

 @化儀抄、A御物語聴聞抄、B連陽房雑々聞書、C下野阿闍梨聞書、D日拾聞書、E雑々聞書、F聞書拾遺――以上の7本は、いずれも日有上人の仰せを弟子が筆録したものであり、日有上人にはその他の御自作は現在まで伝わっておりません。

7本を通じて聞書に特徴的なことは、「一、……」とほぼ例外なく箇条書きにて記されていること、漢字とカタカナが混用された表記であること、仰せのままに筆録した言文一致に近い文体であることなどです。

なぜ日有上人の聞書がカタカナ混用の表記方法によるのかと言えば、それはカタカナが口頭で語られた言葉を表現する文字としての機能を持っているからでありましょう。日有上人の言葉の一つ一つを弟子が直に聞き取り、筆録していく。音声をそのままに伝えるという意味がカタカナ表記には込められていると言えます。はからずも化儀抄の終わりに南条日住師が、  

「仰曰二人トハ然ルヘカラザル由ニ侯。此上意ノ越ヲ守リ行住座臥ニ拝見有ルベク侯。朝夕日有上人ニ対談ト信力候者冥慮爾ルベク侯也」(歴全1−37)

と注記されているように、若年の日鎮上人が化儀抄を拝することは、直に日有上人の音声を聞き取ることであり、上人と「対談」を実現することでもあります。「仰ニ云ク」「又云ク」以下の言文一致体もそのための効果を盛り上げていると言えましょう。おそらく聞書類にカタカナ表記が用いられたのは、弟子が日有上人の言葉を直に聞き取ったという証しであり、また日有上人の音声をそのままに伝えるという証しでもあったと思います。

このようにカタカナが口頭の言葉の世界を表現する文字であることは、歴史学の上からも現在確認されつつあります。カタカナが中世において祝詞や告文、起請文、あるいは裁判における訴陳状などに使われていることから、カタカナにある種の言葉の呪力、霊力といった特質を見ている学者もおります。諸聞書におけるカタカナ混用の表記もあるいは当家の化儀、法用の伝承という大事を行なうためのものかも知れません。これは化儀抄のような相伝書に相当する書き物の場合、あながち荒唐無稽な推測とも言い難いのではないかと思います。

また、「一、……」の書式は体系的な叙述には必ずしも向いていませんが、法門および化儀を切紙的に伝承するには、肝要にして明解な方法であったと言えましょう。それでは個々の聞書について申し述べたいと思います。

 

@【化儀抄】

本抄は末尾に、  

「干時文明十五年初秋三日書写セシメ了ヌ御訪ビニ預カルベキ約束之間、嘲ヲ顧ミズ書キ残シ侯也。違変有ルヘカラズ侯

筆者南 条日住」(歴全1−371)

と記されていますように、成立は文明15年7月3日、執筆は南条日住師にかかるものであります。

大過去帳によれば日有上人の寂年月日は文明14年9月29日ですから、滅後10箇月近くたって本抄が成立したことになります。

南条日住師については伝未詳ですが、堀日亨師は化儀抄註解に、  

「其の伝を逸すれども上野か中豆か小田原の南条氏かの出身にて、日有上人と同系列なるべく、又有師の寂年に其の資、日鎮上人尚弱冠にて、日乗日底の両師先って遷化せられているから、日住兼ねて聴き置きて深く心底に納めたる聖訓を記して鎮師に奉呈」(富要1−184)

されたと示されています。

文明14年、日有上人の遷化にともない日鎮上人が貫首になられましたが(10世日乗上人、11世日底上人はこの時すでに遷化されており、再び日有上人が貫首職にあった)、鎮師がまだ若年であったために、長年日有上人の薫育を受けられてきた南条日住師が直伝の法門、化儀を類聚し「奉呈」されたのが本抄であります。それゆえ化儀抄を〈聞書〉として見る場合、弟子日住師の聞書ということになります。

本抄末尾の「御訪ビニ預カルベキ約束之間」の記によれば、おそらく鎮師の要望により日住師は日有上人の仰せを本抄にまとめ、奉呈したわけですが、その後も若い貫首の後見人としての役割を果たしたのではないかと思います。「日鎮上人尚弱冠にて」とありますが、文明15年はちょうど鎮師15才にあたります。ところで堀日亨師が本抄について、  

「原本題無シ、今通称ヲ以テ之ヲ立ツ」(富要1−61、頭註)

 と注記されたように、木抄の正本には題号が示されていません。ただ、箇条書きが始まる冒頭に「日有仰曰」(日住筆)の四文字が一度だけ冠されであります。そして表紙に後の人が「日有上人御談」と記したのみなので、堀日亨師は「通称ヲ以テ之ヲ立ツ」とされて本抄に『有師化儀抄』の名称を用いられたのでした。

もっとも化儀抄の名称の初出は佐京日教師の『類聚翰集私』(長亨2年)に、

「化儀抄に云く、仰せに云く人の志しを仏聖人に取り次ぎ申さん心中大切なり、一紙半銭も百貫千貫も云々」(富要2−339)

 との引用が見られるので、本抄なって5年目には早くも化儀抄の呼称があったと言わざるを得ません。つまり化儀抄は本抄成立頃からの歴史ある通称と言うことになりましょう。

既述のように、本抄は南条日住筆(大石寺蔵)をもって正本とするわけですが、その他に堀日享師によれば第14世日主上人以下、多数の写本が現在に伝わるとのことです。しかし、正確を期した美本は少ないようで、富士宗学要集編纂の時にはほとんど日住本を用いたとされています。

また、富士宗学要集および歴代法主全書の化儀抄の各条目に漢数字の通し番号が付いているのは、日住筆の正本によるものです。なお、本抄は121の条目を数えますが、堀日亨師は、  

「此の二条は有師の御説にもあらず、又御説の化儀にも関係ある文拠にもあらず、筆者日住何意を以て抄末に加へたるや、其意を了する能わず」(富要1−184)

あるいは「内二条無意義なり」(富要1−79)とコメントされています。これは抄末2条の一乗要決の文と涅槃経第九の経文のことですが、この二条に関しての私の見解は第4章2節に申しましたように、化儀抄を拝するにあたっての心構え、姿勢を示したものに他ならないというものです。

 

A【御物語聴聞抄】

 

本抄は現在、第三十四世日因上人の写本が大石寺に伝わります。もう少し正確に言うならば、その写本には、  

『日有上人御物語聴聞抄上中下三巻佳跡』(富要1−185)

という題名が付けられており、各条目ごとにかなり詳しい日因上人の注釈が施されております。つまり日因上人の本書は、単なる御物語聴聞抄の書写にとどまらず、日因上人の著作と言う側面をもつものであります。むろん既述の題名も原本をそのまま写されたのではなく、日因上人自らが付けられたものであろうと思われます。

日因上人は本抄を書写するにあたって、冒頭に次のように示されました。  

「日因私に云く、此の聴聞書誰人之を記するや未だ其の人を見聞せざるなり、然るに南条日住の聞記百二十一個有り、之に准じて之を思うに恐らくは是れ南条日住の聞書なるべし、或は亦日有上人の御直記なるか」(富要1−185)

これによれば、日因上人は化儀抄が南条日住師の聞書であるように、本抄もまた日住師の聞書であろうとされていますが、最終的には「日有上人の御直記」の可能性も示唆して、明確に断定することを避けられています。

いずれにせよ、日因上人が見られた「聴聞書」は原本ではなく転写本であったようです。その転写本には「誰人」が書写したものか、あるいは「誰人」が日有上人より聴聞されたものか、明記されていませんでした。そこで日因上人は、もともとは南条日住師の聞書ではなかったか、あるいは弟子の聞書ではなく日有上人の「御直記」ではないか、と推測されたのでしょう。「日因私に云く・・・」以下の記述は日因上人が見られた「聴聞書」が日住筆であったとか、日有上人の直筆ではないか、と言った議論ではありません。もし「聴聞書」が南条日住師の直筆であれば、化儀抄の日住筆を既に知っている日因上人が双方を見比べることによって容易にそれを確認することができます。

 「日有上人の御直記」に関しては、本抄が他の聞書の形態と同様である以上、有師著作とすることにかなりの無理があると言わざるを得ません。また本抄に、  

「日本人王百三代文徳天王ノ御宇寛正三年壬午七月十一日ヨリ聴聞シ奉ル処ヲ書キ奉リ侯上巻分已上」(歴全1−317) 

 と記されていますように、聞書の弟子が誰であるかは分かりませんが、寛正三年(有師六十一歳)七月十一日より日有上人の仰せを聴聞したことは明らかと言えましょう。

 次に題名の中に『上中下三巻』とあることについて、少し触れておかなければなりません。

 堀日亨師が富士宗学要集所収の本抄の注記に、  

「日応上人隠棲の蓮葉庵に於て因師自記の佳跡上巻を捜し得、整理貼合して完本と成す歓喜して尚存す、然るに中下両巻今に其の影を見ず憾むべし憾むべし」(富要1−258)

 と示されましたように、現在、活字化されている御物語聴聞抄は堀日亨師の発見、解読されたものです。それは日因上人のタイトルにある『上中下三巻』の内、上巻のみ55段であり、中下巻が欠けております。タイトル自体が日因上人のものであれば、おそらく中下巻も日因上人書写の御物語聴聞抄があるはずですが、残念ながら現在まで発見されていません。上巻の発見者である堀日亨師は、そのあたりの消息を、

「わたしが因師のものを調査しはじめた動機は偈然、有師物語佳跡を見てからである。これも紙いっぱいに書かれてあって、つづることができなくて巻物にしてあった。これは、わたしは、蓮葉庵の棚に積んであった数多くの書物の中から発見した。(中略)この佳跡について応師に聞いたが、応師も知らぬということであった。因師の筆物の中に、佳跡の上はあったが、中下はない。しかし、必ず後に出てくるものと思っている」(大白蓮華第99号)  

と述べられています。たしかに大正年間にこのような形で発見された文書ですから、今後、残りの中下巻が富士門の由緒寺院やその他から出てこないとも限りません。もし発見されれば、上巻の内容から類推して当家の化儀、法門はもとより日有上人の時代の社会状況など、様々なことがらが明らかにされましょう。大いに期待されてしかるべきです。

 

B【連陽房雑々聞書】

本書は末尾に、

「四国土佐ノヨシナ連陽房ノ日有ヨリ聞キ書キ

文明八年五月二十三日

大円日顕之ヲ相伝ス」(歴全1−387)

と記されていることにより、堀日亨師が連陽房雑々聞書と名付けられたものです。本書は奥書によれば、日有上人の仰せを土佐吉奈に住する弟子の連陽房が聞書したものであり、さらにそれを文明8年5月23日に大円日顕へ相伝したものであることが分かります。富士年表は大円日顕へ相伝された文明八年を連陽房が聞書集録された年であると定めていますが、日有上人よりの聞書の時期については、本書中に、  

「最後ノ五百歳闘諍堅固ハ今ヨリ九十六年也。比ノ九十六年満ジテ悪因トナルベシ」(歴全1−373)

の文があり、仏滅2500年の天文20年より96年を、遡れば、その年は康正2年と推定することができます。日有上人55歳頃のことで、御物語聴聞抄の寛正3年より6年前のことになります。このことは既に堀日亨師が『有師聞書註解』で指摘されていることであり、妥当性のあることなので、富士年表の記載を改めなければならないのでありましょう。

さて、連陽房雑々聞書は次に説明する下野阿闇梨聞書、日拾聞書とともに正本が現在まで伝わっていません。しかしながら、この3本をまとめて一つのものとした写本が保田妙本寺系に伝わり、それをもって堀日亨師は富士宗学要集に『有師談諸聞書』として集録したと述べられています。(富要1−162)その三本一結の写本には、

「宝暦六子十月二十一日、日甫上人弟子大遠日縁書写し畢んぬ」(歴全1−412)

 との識語が認められます(日甫師は保田妙本寺27世、小泉久遠寺29世)。つまり現在、活字化されている連陽房雑々聞書、下野阿闇梨聞書、日拾聞書はともに大遠日録本を底本にすることによって成立しています。

また『有師聞書註解』によれば、堀日亨師のもとに第28世日詳上人筆と思われる三本一結の写本があったと言いますので、おそらくそれは大遠日縁本と同種の本を書写されたものだと思われます。

 その他の写本には日啓上人、日克上人、日因上人のものが大石寺に伝わりますが、いずれも部分的な抄出であり、誤脱等も多く、対校には使えるものの底本にはならないと堀日享師は述べられています。

 

C【下野阿闍梨聞書】

 本書の奥書には次のような記述がみられます。  

「右此ノ書ハ坂東下野国金井法華堂ノ住侶下野阿闇梨一夏中富士大石寺ニ住山申シ日有ノ御法門ヲ聴聞申シ書ク時也。文明四年夏ノ中ノ間キ書。  辮阿闍梨日達」(歴全1−405)

 おそらく本書も、この奥書によって堀日享師が下野阿闇梨聞書と置題されたものと思われます。

「下野国金井法華堂」とは現在の栃木県小金井市にある蓮行寺の前身であります。富士門流の上代では寺号を名乗るよりも「法華堂」あるいは「○○坊」と称するのが一般であり、そのことは化儀抄に教示されたことでもありました。

因みに、金井の法華堂は正平15年(1360)日行上人によって開創された上代よりの由緒寺院であり、既述の連陽房の住所である土佐吉宗には元亨3年(1323)に開創された大乗坊がありました。いずれも「堂」「坊」を名乗っています。

さて奥書には、金井の法華堂の住侶である下野阿闍梨が夏中に富士大石寺に赴き、住山して日有上人より法門を聴聞し書き残した、それは文明4年の夏中の聞書である、と記されております。

「文明四年夏ノ中ノ聞キ書」との識語を加えられているのは辮阿闍梨日達師でありますので、もともとは日達師が本書の全文を写された写本が存したか、下野阿闍梨の筆による聞書に日達師が先の識語を加えた原本とも言うべきものが存したか、いろいろ考えられるところですが、先に述べましたように現在では古写本が残っていませんので何とも言えません。本書もまた、三本一結の大遠日録本を底本として要集などに活字化されたものです。

本書の特徴は、他の聞書に比して化儀に属することがらが少なく、当家の本迹法門や事行の法門、理即本覚と名字即成の差異など、法門的な内容に終始していることです。史料の少ない上代にあってはどれも欠くことできない貴重な仰せであり、ことに本迹法門についての記述は、台当の相違、富士門と他門下との考え方の相違を明解に示して余すところがありません。

本書中に「日教私ニ云く」とした処が幾つがあり、これによって堀日享師は左京日教師の有師への帰依が文明4年以前であろうとされています。また、中に「仰ニ云く」と「私ニ云く」が掛け合いになっている箇所があり、あるいは日有上人と左京日教師の論談を下野阿闍梨が聴聞したとする推測も可能でしょう。

 

D【日拾聞書

 本書は冒頭に、

「長禄二年初春ノ比、筑前阿闍梨日給登山ノ時、日有ニ尋ネ申ス法門秘事也」(歴全1−406)

 と記されています。長禄二年は日有上人五十歳頃、連陽房の聞書より二年後のこと。筑前阿闍梨日給師が大石寺に登山され、日有上人より法門聴聞し筆録されたものが本書であります。要集や研究教学書などには「筑前阿闍梨日格」とされていますが、歴代法主全書には「日拾」と改められております。おそらく「日格」と「日拾」の草書体が近似することから誤読があったものと思われます。写本を見ていませんので何とも言えませんが、今は訂正後の「日拾」を取るべきなのでありましょう。

本書の末には次のような記事があります。  

「此抄大体日有ノ聞書也、日郷門徒ノ抄ニアラズ取捨之ヲ思フベシ。但日要ノ仰セトアルハ之ヲ用フベシ、日我之ヲ示シ書ク云々」(歴全1−412) 

これによって本書が日有上人の聞書でありながら、保田妙本寺系の僧たちにも影響を与えてきたことが伺えましょう(本書の13項の中に日要師談はわずか一項のみ)。有師の聞書ゆえ、日郷門徒はよくよく考えて用いなさい、という日我師(妙本寺14世)の注記が見えますが、この後、さらに本書は元亀年間に妙本寺系の日成師によって書写され、さらには宝暦年間に先に述べました大遠日録師による書写が行なわれています。この日拾聞書もまた三本一結の大遠日録本を底本として要集に編纂されたものです。

 妙本寺11世の日要師、14世の日我師はともに学匠として名を馳せていますが、その法門は富士門が伝える本因妙思想、師弟子の法門、三祖の法門などに大変近いものであり、日有上人に思想的な影響を受けたことは否定できません。それゆえに要我両師を中興と仰ぐ妙本寺系において、日有上人の聞書が多く書写され、読み継がれていたとしても、それほど不思議なことではありません。

 

E【雑々聞書】

本書は「享保十年」の識語をもつ日寿写本が妙本寺にあります。堀日享師によれば日寿本に内題として『雑々聞書 当流得意事』とあるそうです。奥書には、  

「私ニ云ク、干時永禄三庚申年秋ノ時正中伊豆国大見本弘寺ニ於テ弘通致シ侯節借用申シ書写致シ侯也。 泉蔵坊日尭 判」(歴全1−421) 

 とあり、その後に「和泉阿日東判」とあり、さらに先の「享保十年」の識語と書写の旨を記して「信行坊日寿判」と続いています(富要2−168)。これによっても日寿本が数回の転写を経たものであることが分かります。本書に関して遡れるのは永禄3年(1506)の書写までであり、日有上人の法門を聴聞されたのは話なのか、また何時何処で行なわれた聞書なのか、一切不明と言わざるを得ません。

内容は26項目にわたり、日有上人と保田日要師の説が列挙されています。書写の信行坊日寿師は妙本寺25世ですから、本書も先の三本一結の聞書と同じ経路をもって、妙本寺に流入し、書き継がれてきたものかも知れません。堀日享師も有師聞書註解にて「三通殆んど同列に扱ふ,べきもの」と示されています。実際に写本にあたっての師の説ですので、そこには何らかの確証があったのかも知れません。内容的には「尼崎流」といわれる八品門流への批判が目を引きます。

 

F【聞書拾遺】

本書は富士宗学要集に収録されていませんが、研究教学書には堀日享師の注記とともに収録されて います。それによれば、聞書拾遺とは仮題であり、もともとは『日有尊聖師御物語之内少々』とタイトルされた金沢信徒の書写にかかる小帖があったそうです。そして、この中より御物語聴聞抄上巻に 重複するもの及び連陽房雑々聞書にある同文のものとを省いたのが本書であると堀日享師は注記されております(研教2−559参照)。

現在のところ本書に関する他の写本は伝わらず、金沢信徒の写本も未見でありますので、文献に関物わる考察も滞っています。

 

 

II.       今後の日有上人研究の課題  

 

《日有上人の法門の特色》

 本書のまとめとして、今後の自分自身の日有上人研究の課題について申し述べたいと思います。

 本書で取り上げた項目は多岐にわたりますが、中でも日有上人の仰せとして特色あるものを列記すれば次のような諸点を示すことができます。  

@師弟ともに三毒強盛の法門(師弟子の法門=凡夫成道論)。  

A教相上の本迹と台当本迹、文底本迹との相違(本迹論)。  

B未断惑の上行菩薩(地住已上の聖者を取らない事)。  

C不軽菩薩の修行=折伏の強調。  

D事の法門(愚者迷者の上に建立する法門)。

E日蓮聖人ならびに十界互具の曼茶羅を本尊とすること。  

F信、受持の強調。  

G戒律の持破を問題としないこと。

H唐様、和様の法門的な相違。  

I日月自行の勤行(当家の丑寅勤行)のこと。  

J下位、下機の重視(教弥実位弥下の法門)。  

K本因本果と三祖の法門。  

これらの項目は、必ずしも別々の論点ではなく、互いに関連、重複、補完し合う内容を持っています。中でも〈師弟子の法門〉と〈事の法門〉は、日有上人聞書の全体を支えている二本の柱ともいうべき法門であり、この土台の上に様々な富士の立義が展開されています。

また、日有上人は富士門上代よりの化儀を明確に形付けられていますが、それもまた〈師弟子の法門〉〈事の法門〉に随って定められたものと言えましょう。本書において、本寺末寺の関係、僧俗の関係、仏事作善、世事仁義、葬儀、神座、本尊給仕、勤行、法衣、起請、坊号、伽藍、有職などに至るまで、日有上人が教示された様々な具体的な化儀について説明を加えてきましたが、これらはみな富士の立義の根幹たる〈師弟子の法門〉〈事の法門〉を現実の上に顕現したものであります。

 

《墓参の化儀と師弟子の法門》

 例えば、墓一つ取りましても日有上人は化儀抄に次のように仰せられています。

「卒都婆を立る時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、さて彼の仏を立る所にて又十如是自我偈を読むべし、是又事の一念三千の化儀を表する歟」(第三十七条、歴全1−349) 

塔婆造立して墓参する時には、まず大聖人、日興上人、日目上人の三師塔(大塔)にお参りして方便・自我偈の御経を読み、その後で各自縁故の墳墓にて塔婆を立てさらに方便・自我偈の御経を読みなさい、それが当家の事の一念三千の化儀を表わすことになりましょう、との意です。

 これには連陽房雑々聞書にも、次のような類文があります。  

「さて一寺の塔頭塔婆を立てん時は先ず大師匠の五輪の御前にて自我偈一巻読み奉り、其の後者造立塔婆には自我偈一巻読み奉るべし、此即師弟相対事行の妙法蓮華経之宗旨之化儀也」(歴全1−381) 

おそらく「大師匠」と「大塔」は同意で、先ず三師塔の前にて御経を読み、次いで造立塔婆に向かって御経を読みます。この項目においても第37条と同様、これらの化儀を「師弟相対事行の妙法蓮華経之宗旨」と意義付けされています。

ここには当家における二つの師弟観が表わされています。先ず一つは塔婆造立に関して、末寺の師匠(あるいは塔中住持)と弟子檀越の師弟です。日有上人は塔婆造立を師弟相対の化儀と定めておりましたから、「親の為などに我が塔婆を書く事然るべからざるなり」と仰せられて、親の塔婆を造立する時も自分が書くのではなく、「亡者の師匠書写する」時、はじめて「事行の妙法蓮華経即身成仏」を成就すると示されました(歴全1−379)。さらに言うならば日有上人は「塔婆は野原の本尊」(歴全1−421)と仰せられ、塔婆に師弟一箇成就の本尊を見られたのでした。すなわち、当家の師弟の根幹が末寺の師匠と弟子檀越にあることを表わしています。

しかしながら、当家の師弟をこの一つ目の師弟のみに限るならば、いつしかそこに絶対的な差別が生じるおそれ無しとも言えません。そこでここに言う師弟がともに未断惑の存在であることを確認する必要があります。つまり日有上人が諸聞書に常々仰せられている「師弟ともに三毒強盛」であることを再確認するわけです。それが、塔婆造立の際に、先ずもって「大師匠」=三師塔の御前にて自我偈を読み奉り、大師匠の前には師も弟子も平等の立場であるとする化儀なのであります。ここに宗開三祖を大師匠とし、末寺の師弟をまとめて弟子とした二つ目の師弟を示すことができましょう。この二つの師弟観が正しく用いられてこそ当家の〈師弟子の法門〉と言えます。

堀日享師は化成抄の読解に、  

「今の木末諸寺には皆三師塔あり、宗祖を中尊にして興目二祖を左右に配す、比三師塔を中心として其寺の歴代大徳上人、次いで檀家の墓碑を造る、されば三師塔を以って大塔とし、此に属する結界の大塔内と云うふなるべし、富士本山における有師時代の大塔の有り様は今此を知るに由なしといへども、現時は総本山歴祖の位牌を安置する十二角堂の前に三師の大塔あり、此に従ひ向ひて四五祖以下の碑を左右に配列し、次に十二塔中の墓所あり」(富要1−97)

と示されておりますが、かつて高士門では本寺末寺ともに墓所にはまず三師塔を建立し、それを中心として歴代の墓碑、次いで檀家の墓碑と順に配置されていました。現在では様々な要因から墓所を所持する末寺は少なくなりましたが、それでも墓所を造成する時には三師塔を建立することが富士門の重要な化儀になりましょう。

少し前の大石寺を例にとれば、御影堂の北側に墓所がありました。もっとも奥まったところに十二角堂(日興上人以来の歴代上人の位牌が安置されている)があり、その前に宗門三祖の三師塔が建立され、それに従い向うように四世日道上人以下の歴代上人の御墓が左右に並べられていました。そしてさらに前方に塔中十二箇坊の御墓、次いで所属の檀信徒の御墓が配置されていました。

以前にも申しましたように、本寺の大石寺には本来的に所属の檀信徒はおりませんから、みな塔中にそれぞれ所属しており、その塔中の住持が弟子である檀信徒の願いにより塔婆造立します。当職の貫首上人は三師塔や歴代先師の墓前では御経をあげることがありますが、塔中所属の檀信徒の御墓には基本的にお参りしません。あくまでも師弟一箇を成するのは、塔中や末寺の住持とその弟子檀越であります。そこで塔中や末寺の住持は塔婆を造立した後、まず三師塔の御前にて御経をあげ、三祖との師弟を確認した上で、所属の弟子檀越との師弟を成じていきます。日有上人によれば、三師塔の御前では「座して御勤を遊ばし」、縁故の墳墓の前では「塔婆造立の時は御勤をば一列に立って遊ばすなり」と教示されています(歴全1−281)。これも二つの師弟観に則って、定められた化儀と言えましょう。そしてこれらの師弟の振舞いそのものを指して日有上人は「事の一念三千の化儀」「事行の妙法蓮華経の宗旨の化儀」と仰せられたのでした。

このように墓参の化儀一つを取りましても当家ではく師弟子の法門〉〈事行の法門〉による裏付けを持ちます。むろん「当家は第一化儀也」(歴全1−321)と日有上人が仰せられた通り、墓参に限らず、先ほど列記したありとあらゆる化儀に〈師弟子の法門〉〈事行の法門〉は埋め込まれているのであり、まだまだそこには私たちの理解の及ばない事柄や行為もたくさんあります。本書のはじめに申しましたように、日有上人の聞書には意味不明な箇所も多く、本書でも手つかずのまま放置した項目が幾つもあります。おそらくそれらもまた〈師弟子の法門〉〈事行の法門〉によって絵解き、謎解きしていくことができるかと思いますが、いずれにせよ理解の及ぶまで、根気よく考究していかなければならないことであります。

また、化儀抄や諸聞書に示された当家の化儀は、日有上人によって創始されたものは意外に少ない のではないかと私は思います。

日有上人によって意義づけられたり、明らかにされた化儀は多いと思いますが、それらの多くは日有上人より遡る上代より門流に伝承されて来たものであろうと考えます。基本的には、すでに化儀として伝承され、形作られてきたものを日有上人が法義的な見地から明らかにされ、門弟たちに説明されたことが多いのではないかと思うのです。そうであるならば、はたしてそれらの化儀やそれを支える法門が日興上人、日目上人の昔にまで遡って具体的に実証することができるかどうか、これも今後の大きな課題であろうと思います。これには、上代の他門下の化儀や門流の組織形態なども考慮にいれなければならないし、あるいは当時の天台宗(自他門ともに門弟たちは天台宗出身が多い)の化儀や習俗を知ることも必要であろうと思います。本書の中でも一、二その点について触れたこともありますが、まだまだこの方面は十全ではありません。

また日有上人の法門の特色として、はじめに掲げた@-Kまでの項目を自分自身の確信としてではなく、学問的にはたしてどこまで上代に遡って実証することができるか、このことは本書ではまだ端締についたばかりで、これまた今後の大きな課題になると思います。

とりわけ〈師弟子の法門〉については、日興上人の佐渡国法華講衆御返事に、

「この法門は師弟子をただして仏になり候」(歴全1−182)

との仰せがあり、同御返事の根本に〈師弟子の法門〉が据えられていることは明らかであります。

また弟子分帖における日興上人の弟子に対する厳格な姿勢など、〈師弟子の法門〉の根源を見る思いがします。おそらく日有上人の「師弟ともに三毒強盛」の法門もここを淵源として伝えられたものと思いますが、これなども思いつきではなく、今後は実証的な考究を心掛けなくてはならないでしょう。今一つ明確にならない日興上人、日目上人在世の法門と化儀を出来るかぎり探求し、日有上人仰せのそれとの異同を考究しなければなりません。つまりそれは、日有上人の仰せをさらに上代に遡らせて検証する作業にも通じております。

少し細かい指摘になりますが、化儀抄や諸聞書に当家の相伝書といわれる『本因妙抄』『百六箇抄』の両巻血脈がまったく引用されていないこと、二箇相承への言及がないこと、あるいは戒壇本尊のことや戒壇論など、いずれも日有上人が少しも触れていないことは今後の有師研究の中でどう考えていくべきなのか、このことも問題として小さくはありません。

 

《富士の立義に対する他門の批判》

現在まで、日有上人の化儀や法門を学問的に考察した論文や著述は数少なく、宗の内外を問わず一、二の論述を見るに過ぎません。宗内においては堀日享師の『化儀抄註解』『有師聞書註解』などがあり、これらは日有上人の研究にあたって必ず目を通さなければならないものであります。

宗外においては、立正大学の教授であった執行海秀氏の『興門教学の研究』が比較的詳しく日有上人の事跡や教学について論述されています。むろん宗外の人ですから、批判的な視点からの論述が多くなっていますが、それはそれとして有師研究のためには避けて通れないものであることも事実です。

今まで宗門では他宗他門からの批判に対して、学問的な論陣を張って応酬したことがほとんどありませんでしたが、その態度が他門からすれば閉鎖的、独善的に映ったとしても止むを得ないことでありましょう。

執行氏の『興門教学の研究』に対しても、正しい指摘はそれを正しいものとして受け止め、誤った認識に対しては学問的な反論に努めて、お互いに少しでも有意義な研鑽をしていかなければならない、と私は思います。『興門教学の研究』の日有上人に関する論述に対しても、今後は正面から取り上げて学問的に反論することによって議論を高めていく必要がありましょう。

例えば執行氏の見解に、日有上人の教学は八品日隆師のそれに影響を受けて形成された、とする見方があります。つまり有師の法門は、日隆師の教学を模倣して出来ているのではないかと疑念を持たれているようなのですが、これは恐らく執行氏が化儀抄や諸聞書を正確に読み切れずに、日有上人の法門を結論づけてしまった結果ではないかと、私は考えます。

日隆師は、天台に与同した従来の本迹一致派を非難して本迹勝劣の八品門流を立てられたので、たしかに「本門正意」「本因下種」などの用語の上では富士門流に近い感じを与えています。しかし日隆師の種脱諭はあくまでも法華経本門の教相上の種脱二意であり、日有上人のように本迹を約身的位で捉え、滅後末法の本尊を色相荘厳の釈尊ではなく、名字凡身の日蓮聖人と立てられたのとでは根本的な相違があります。前にも申しましたが、本迹一致派から派出した勝劣派は、善くも悪くも法華経本迹二門の教相を離れませんから、当家とは自ずと違った法義の立て方になります。ここを見逃して日有上人と日隆師の類似を言うのは、木を見て森を見ずの感があると私は思います。

しかしながら執行氏の論述は、日有上人における「教判論」「本仏論」「本尊と成仏の関係」「思想背景」などに及び、その中には私にとっても興味深い論点が含まれていますので、このことを今後の課題とし、改めて稿を起こしたいと思います。

 

  《日有上人と妙本寺日要師》

これもまた本書で触れることが出来ませんでしたが、日有上人と交流があり法門的にも日有上人の強い影響を受けた同門の僧として保田妙本寺の三河日要師があります。

日要師は日有上人より27歳の年少ですが、学匠として名を馳せ、妙本寺では後輩の日我師とともに中興の祖として仰がれています。同寺第11世。

妙本寺系の教学が室町期から戦国期にかけ、日要師、日我師の両学匠により確固たる礎を築いたことは既によく知られたことですが、その中の特徴的なこととして、日有上人からの法義の摂取が指摘できましょう。とりわけ日要師の教学には日有上人の影響が色濃く看取されます。

それと言うのも最近解読された日要師の『法華本門開目抄聞書』の内容にもそのことは端的に表われているからであります。

例えば、『法華本門開目抄聞書』には、  

「受持のところにて事行の妙法蓮華経を作り立つるなり。されば日蓮上人は仏界の頂上に居して種を下し、日興は九界の頂上に居して種を受持したまひて、師弟相逢ひて事に十界互具して事に南無妙法蓮華経を顕はしたまへり」 

「中々ニナヲサト近クナリニケリ、アマリニ山ノ奥ヲタヅネテ、と云ふ歌のごとく、あまりの奥□口末法即久遠にてなほちかくなるなり云云」  

「事行とは人の振舞ひにあるなり。日興上人も、法華経を信ずる色心皆法華経なり。法華に違ふべからず、行儀皆法華なり云云」

「日興上人伊豆山の式部の僧都に相ひたまふ時、式部の僧都の云く、我こそ天下一の学匠にて侯へとのたまひければ、日興上人云く、涅槃経に式部僧都は仏法の中の怨敵と説かれて候云云」 

 等々の文があり、これらはみな日有上人の諸聞書に同説ともいえる類文を見い出すことができます。

本書でも日有上人の仰せとして取り上げた御文が幾つかありますので参照して下さい。

また前節で述べましたように、日有上人の『雑々聞書』や『日給聞書』は妙本与系列の憎によって伝写されてきており、それには日上人と日要師の仰せが並記されている箇所もあります。さらには 日要師の『顕仏未来記御談』(末刊行)には、次のように日要師が日有上人に直接質疑を呈している処があります。

「大石日有師仰に云く、末法本因妙の信心の師弟、釈迦多宝、御影開山、久遠名字の信心の体用して、体用を離れず用体を離れず(中略)日要仰に云く、さて体の処より下種しては元より体用分明也。さて用の方より用々の下るる歟と尋ね玉ぶ時、日有仰に云く、何れも師となるべし云云」 

これらのことを総合すれば、日有上人と日要師の間には親交があり、法義に関する論談も直接的な形でかなり深く交わされたものであろうと推測します。

日要師の著作は現在までそれほど刊行されていませんが、『法華本門開目抄聞書』のみを調べただけでも日有上人との接点を多く見出すことができます。先述の他にも、この書の中に示された〈本迹を文底文上に分つ法門〉〈主師親と主師父母のこと〉〈末法の本尊=日蓮聖人〉〈法体の折伏と化儀の折伏〉〈未断惑の上行、本因妙思想〉〈師弟子の法門〉などは、いずれも富士の立義の根幹に関わっており、日有上人の影響を感じないわけにはいきません。また逆に考えれば、口要師の所説から日有上人の仰せの不明部分を補完していくこともこれからは大きな課題と言えましょう。

すなわち日要師の所説を学ぶことは、日有上人の仰せられた法門が如何に富士門流に伝承され、受容されてきたかを知るだけでなく、日有上人その人の解明にも必要なことと言えるのであります。それゆえ『顕仏未来記御談』をはじめ日要師の未刊文書ピ解読刊行していくことも今後の作業として重要なこととなりましょう。

以上、思いつくままに自分自身の今後の課題を述べました。いずれも簡単には越えがたいハードルであろうかと思いますが、地道に研鑽していきたいと思います。

 

「化儀鈔とは後世つけた名山前で古来の通称は御条目といっておった」(大白蓮華第97号)との指摘に導かれて、本書ではありませんが以前の論稿に「化儀抄という題は近年付されたもの」と記述したことがありま寸。しかし、日有上人と同時代人である左京日教師に「化儀抄」の名称が使われていますので、この記述については訂正致します。

 

 

 

終わり

2024/06/18


 

 

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