第6章 富士門流の修行と不軽菩薩

 

 雨ニモマケズの「デクノボウ」には宮沢賢治の不軽菩薩への思慕が表わされているという。心顛倒した上慢の比丘たちは不軽を「悪口罵詈」し「杖木瓦石」をもって「打擲」した。石もて追われた不軽は、それでも礼拝行を捨てず、追われれば追われた処から四衆に向かい合掌して「我深敬汝等……」と声高に唱えた。おそらく賢治も貧道の中にあって、不軽のようにあくまでもつましく、意志堅固に生き抜いてみたいと思ったに違いない。不軽菩薩の修行こそ折伏行であり、その視点より近年の折伏観は見直されなければならない。

 

 

I.              不軽菩薩の修行

一、法華宗ハ不軽ノ礼拝一行ヲ本ト為ス受持ノ一行計リ也。不軽ハ威音王仏ノ末法ノ比丘日蓮聖人ハ釈迦仏末法ノ比丘也。何レモ折伏修行ノ時也云云。修一円因感一円果文。但シ受持ノ一行ノ分ノ読誦解説書写有ル可シ、夫トハ梅桃ノサネノ内ニモ枝葉ニナルヘキ分之有リ、之思フベシ。(化儀抄、歴全1−248)

一、法華経ヲ修スルニ五ツノ様アリ、夫トハ受持、読、誦、解説、書写等云云。広シテ修スルハ像法読誦多聞堅固ノ時節也。今末法ハ根機極鈍ノ故ニ受持ノ一行計リ也。此ノ証人ニハ不軽菩薩ノ皆當作仏ノ一行也。不軽モ助行ニハニ十四字ヲ修シ玉フ也。日蓮聖人ハ方便寿量ノ両品ヲ助行ニ用ヒ給フ也。文ヲ見テ両品ヲヨムハ読、サテソラニ自我偈ヲ誦シ、今此三界ノ文ヲ講シ、塔婆ナトニ題目ヲ書写スルハ受持ノ分ノ五種ノ修行ト心得ヘキ也云云。(化儀抄、歴全1−270)

 本文は化儀抄の第35条ならびに第119条であり、いずれも不軽菩薩の修行を手本とすることによって富士門流の修行が成り立っていることを明かされた一段です。はじめに、第35条を通釈し、次いで第119条をもって補足説明致します。

 当宗は、不軽菩薩が「読誦を専らにせず、ただ礼拝を行ず」として、四衆に向い礼拝一行に専念したことを手本としているので、修行は五種の妙行をとらず、妙法を受持する一行に限っている。

 不軽菩薩は威音王仏の末法の時代に生まれあわせた僧である。日蓮聖人は、釈尊の末法に生まれ合わせた僧である。いずれも末法と言えば、折伏を行ずることがもっとも適切な時節である。妙楽大師の釈簸に「一の円因を修して、一の円果を得る」とあるように、末法は多くの修行をなさず一行を修めることによって直ちに成仏の果を得る時節である。

 しかしながら、受持の一行の上での読、諦、解説、書写は認めないものではない。それはちょうど、梅や桃の実のうちに核があって、その核の中には枝や葉になるべき分が備わっているようなものである。当宗では、妙法蓮華経を受持する一行によってのみ成仏の果を得る、その分域の中で読誦等の行を修める、このことをよく心にとどめなさい。

 以上が第35条の簡単な通釈ですが、第119条ではさらに、不軽菩薩が四衆への礼拝一行を正行とした上で助行として24字の経文を修していたことをあげ、妙法受持のうえでの当家の助行を日有上人は説明されました。勤行の際に、方便・寿量の両品を用いるのは当家の読であり、自我偈などを経本を見ずに暗謂するのは当家の誦であり、「今此三界」の経文を講義するのは当家の解説であり(富士門流では、譬喩品の「今此三界皆是我有」に始まる一連の経文を上代より御法則文として珍重し、説法講義しています)、また塔婆などに題目を書くのは当家の書写であるとされています。

   しかし、いずれの行も「受持ノ分ノ五種ノ修行」と規定されておりますように、この両条は当家における助行を説明するために設けられたのではなく、当家の正行、つまり受持の一行を強調するために設けられた項目とすることができましょう。

 そして、なぜ受持の一行をもって当家の正行とするかということについて、第119条では「末法ハ根機極鈍ノ故ニ」と示されています。その例証として、不軽菩薩の礼拝一行が挙げられておりますが、これは第35条と殆ど軌を一にするものと言えましょう。両条をともに拝して、「末法」「折伏」「受持」という言葉が互いに関連し合っていることが分かりますが、特にそれらが不軽菩薩の修行を通じて、みな説き起こされていることは実に興味深い事実であると指摘して置かなければなりません。

 このことは、私たちが漢然と考えている「折伏」や「広宣流布」の言葉の誤用を改めさせ、それらの真実の意味を理解するための手だてともなると思います。そのほか、この両条には、必然的に「逆縁」や「下種」「当家三衣」などの法門を導き出す要素が含まれているとも言えましょう。以下、不軽菩薩の礼拝行より項目に分けて順次申し述べていきます

 

《不軽菩薩の礼拝行》

 上述の不軽菩薩の故事は、法華経常不軽菩薩品第20に説き示されています。

 それによれば、不軽は過去威音王仏の滅後、像法の末に生まれあわせたといいますが、その時代は増上慢の比丘たちが勢力をほしいままにして、人心は荒廃を招き世相は殺伐たる感がありました。時に不軽は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆に出会うたび、必ず礼拝合掌して、

「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏」(開結567) 

 の24字の経文を唱えました。その意味するところは、「私(不軽)は、あなた方(上慢の四衆)を深く敬います。そのゆえは、あなた方はみな菩薩の道を行じて、当に作仏を得る人々だからです」というものです。

 しかし、その不軽の礼拝行は、賞賛の声をもって周囲に迎え入れられるものではありませんでした。かえって、心顛倒した上慢の比丘たちの瞋りをかい、「悪口罵詈」され「杖木瓦石」をもって「打擲」される始末でありました。石もて追われた不軽は、それでも礼拝行を捨てず、追われれば追われたところで遠くから四衆に向い礼拝合掌して「我深敬汝等……」と声高に唱えました。

 常不軽とは、くる日もくる日も四衆に対して、あなた方を「常に軽んぜず」と唱えとから付けられた名前でありました。

 不軽は臨終に際し、法華経を信受して六根清浄を得ます。そして、さらに寿命を増し、人々のために法華経を説き、後に二千億の日月燈明仏、雲自在燈王仏に値い、ついに妙法蓮華経によって成仏を遂げます。不軽を「悪口」「打擲」した比丘たちは、謗法罪によって二百億劫の間、三宝の名を聞かず無明の世界をさまよいますが、その罪を終えて、再び不軽菩薩の教化を受け成仏を得ることになります。

 この礼拝行の不軽こそ誰あらん、法華経の主である釈尊の前身であり、上慢の四衆とは、いま法華経の会座に連なっている蹴陀婆羅、師子月、尼思仏などの菩薩、比丘、優婆塞たちなのであります、ということが不軽品には説かれております。すなわち、

「その時の常不軽菩薩は豈異人ならんや、即ち我が身是れなり」(開結571)

 と経文に記されて、釈尊の因位の修行が不軽菩薩の姿であったことが明かされました。これが、不軽菩薩の故事のあらましですが、一読して分かりますように、この菩薩は法華経の品々の中にあって、たいへん地味な存在として描かれております。たとえば、苦しみの衆生を救うために33の姿を示現する観音菩薩、溢れるばかりの智慧を有する文殊師利菩薩、悪魔・魔民をこらしめ修行者を守護する普賢菩薩など、高貴な菩薩が次々登場する法華経の中で不軽菩薩のイメージは決して華麗なものとは言えません。もろもろの神通力を所持しないばかりか、かえって人間的な苦悩を感じさせる菩薩、それが不軽菩薩です。むしろ、今流の言葉でいえばマイナーなイメージとでも言えましょうか。

 そのためか、鎌倉時代にあっても、観音や文殊などの諸菩薩がもてはやされる中で、不軽は顧みられることの少なかった菩薩と言えましょう。恐らくは、不軽菩薩を真に注目し光を与えたのは大聖人が始めではないかと、私は思います。

 大聖人は聖人知三世事に、  

「日蓮は是れ法華経の行者也。不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破れ.信ずる者は福を安明に積まん」(全集974) 

 と仰せられ、四衆に「悪口」「打擲」された不軽菩薩の跡を継いで、不軽と御自身の精神が同一であることを示されました。

 もちろん、このことは後述するように、ただ単に迫害を受けられた不軽菩薩に大聖人が共鳴し、心情的に跡を継がれたというばかりではなく、大聖人の法門に不軽菩薩が必要欠くべからざる存、じつに大切な存在であったことが第一義にあります。しかし、それにしても、法華経の身読に生涯をかけられた大聖人にとって、不軽菩薩の忍難は最大の心の糧となり、ある時は御自身を慰められ、ある時は発奮のバネにされたという心情的な側面があったことも私たちは見逃してはならないと思います。

 ともあれ、不軽菩薩の故事は、大聖人の法門を学び行ずるたちに、さまざまな示唆を与えてくれます。

一例をあげれば、私たちは常日頃「折伏」」をなにかしら豪壮なもの、相手を完膚なきまでに屈服させるか、もしくは説き伏せて入信にこぎつけることのように考えがちですが、それは折伏の本義が不軽菩薩の修行にあることを思えば明らかに誤解であることが察せられるでしょう。不軽菩薩には、相手を屈服させることも、説き伏せることも眼中にはありません。只ひたすら、自らの信ずるところを振舞う、その一点に精神を集中しているかのように見えます。それを相手が信受するか、しないかは自ずから別問題であり、不軽菩薩は常に衆生に対して逆縁を結ぶのみであります。翻って、大聖人の振舞いも妙法蓮華経の受持に尽きるのでありまして、その忍難の一生の中で当時の多くの人々と逆縁を結ばれたのであります。不軽菩薩は「杖木瓦石」、大聖人は「大難四箇度」という一生そのものが、そのまま折伏行にほかなりません。それこそ、食べることも寝ることも迫害を受けることも、行住座臥に折伏はあります。そこには、何人を入信させたというような私たちが考えそうなことは微塵もないのであります。そしてそれは、派手でもなければ、豪壮でもなく、自らに与えた試練を忍ぶ地道で素朴な姿であったろうと私は思います。

 そのほかにも不軽菩薩には、困難に打ち克つ精神、独善を排する謙虚な姿勢、物事に対する地道な取り組みなど、実にたくさん学ぶべきものがあります。

「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて侯なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて侯けるぞ」(全集1174)

 と大聖人が仰せられたとおり、真実の「人の振舞」を身につけようとしている私たちにとって、不軽菩薩は非常に有難い手本なのであります。

 話は少し横道にそれますが、かの宮沢賢治は三十七歳という若さをもって、その生を閉じましたが、彼は熱心な法華経信奉者であり、とりわけ不軽菩薩を恋い慕っておりました。

 病床で綴ったと思われる「雨ニモマケズ」という願文にも似た詩には、

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボウトヨバレ

 という一節がありますが、この「デクノボウ」には、賢治の不軽菩薩への思慕が表れていると言われています。「虔十公園林」という童話には、周囲の人々に笑われ、罵られながらも、黙々と樹木を植え続ける慶十という人が登場します。この主人公は、はた目にも気の毒なくらいに椰楡と嘲笑を浴びせられますが、毎日毎日少しづつ杉の木を荒れた土地に植え続けて、ついに皆それらが立派な杉並木となり、公園となって、村中の子供たちを喜ばせたという話になっています。この童話も賢治が不軽菩薩を強く意識して書かれたものに違いありませんが、その根底には、賢治自身が不軽菩薩を手本として「人の振舞」を身につけようとしていたことが伺えます。

 賢治は富士門流の信徒ではありませんが、不軽菩薩に感動し、それを手本として自らの修行を成し軽遂げようとしたので、その信仰は純粋で地に足のついたものになったといえましょう。それほど不軽菩薩の修行は、法華経信仰に欠かせないものであります。

 と同時に、不軽菩薩の修行が分かり得なければ、真に法華経を体得したことにもなりませんし、大聖人の折伏行を本当に理解したことにもならないと言えましょう。そこに私たちが、もっともっと不軽菩薩の修行を学び、心がけてゆく必要があります

 

《大聖人の不軽観》

 私は先に、不軽菩薩が大聖人の法門に必要欠くべからざる存在であったと述べましたが、ここではその法門的な意味合いについて考えてみたいと思います。

 それには冒頭の化儀抄両条に、「末法」「折伏」「受持」という言葉が密接な関連をもってでてくること、それらがみな不軽菩薩の修行を通じて説き起こされていることが一つの鍵になろうかと思います。日有上人の仰せによれば、富士門流の修行が「受持の一行」を取るのは時節が「末法」であり、衆生が「根機極鈍」であり、それがために「折伏」を行じなければならないからである、とされています。その例証として過去の不軽菩薩の修行を挙げられています。不軽菩薩の時代もまた、衆生の機根は劣悪であったわけで、これは末法に共通する時代性であります。

 ここで思い起こしてもらいたいのは、前章の二節で、衆生の機根について末法の衆生は本未有善(未だ善根を少しも有しない衆生)、仏在世の衆生は本已有善(すでに善根を有する衆生)と立て分けられたことです。前章では、これを愚者の法門(大聖人の世界観)と智者の法門(釈尊の世界観)に配しましたが、これは不軽と釈尊の世界観の違いにも相通じるものがあります。天台大師は、このことを文句の常不軽品の項に、

 「本已に善有れば、釈迦小を以って之れを將護す。本未だ善有ざれば不軽大を以って強いて之れを毒す」

 と記されました。これを分かりやすく言えば、釈尊の衆生は善根をすでに有しているので、それを大事に育て上げ得脱せしめる、不軽菩薩の時の衆生は、まったくの荒凡夫であるので、誹謗されるのにもめげず強いて下種せしめる、ということになりましょう。つまり、釈尊は順縁の衆生に対してそれを調熟すべく天鼓を叩き、不軽菩薩は逆縁の衆生に対してそれに下種結縁すべく毒鼓を撃ったのであります。これらの世界観の相違から考えれば、本因・本果についても、不軽菩薩は釈尊の因位の修行でありますから本因の立場を取っていると言えましょう。中世の天台学者もこれについては、  

「本因妙修行とは常不軽の立行也」

「俊範御義に云わく、釈尊の本因の行とは不軽菩薩也」

「本因妙の方では世に不軽の行を立て、本果妙の方ては鎮へに本実成の正覚を唱える」

 と法門書に書き記しております。こう見てきますと、不軽菩薩と大聖人との法門上の共通性は、かなり色濃いものがあると言えましょう。

 いま試みに、不軽菩薩に関する大聖人の御書を挙げれば、  

 等の諸文があります。ここに挙げた御文は、寺泊御書をはじめとして、いずれも竜の口法難以降のものであり、年代順に並べてあります。むろん他にも、不軽菩薩に関する御文は多数ありますが、それらにつきましても竜の口法難以降のものが圧倒的に多いようです。っまり、これは宗義の根幹に関わる発迹顕本と大聖人の不軽自覚とが密接な関連を有することをあらわしていると言えましょう。

 寺泊御書の御文は、「恐怖悪世中」に法華経を説く困難を示された勧持品の二十行の偈と不軽品の本事とを大聖人が同一視されていたことをものがたります。すなわち、仏の未来記(勧持品)と往古の出来事(不軽品)とが時空を越えて一つとなることによって、大聖人ご自身「即ち不軽菩薩たるべし」の自覚が生まれています。

 開目抄の御文は、不軽菩薩の修行を折伏行とみて、それをご自身に当てはめられております。

 顕仏未来記では、本尊・妙法五字と不軽の二十四字が同意であること、「彼の像法の末と末法の初め」の時機の同一性を示されております。このことは、受持と礼拝、その形は違えども意は同じであること示されたものと言えましょう。また、「二十四字を以って彼の土に広宣流布し」と仰せられ、不軽菩薩の行為のなかにすでに広宣流布を認められていることも、私たちが広宣流布を考えるうえで示唆に富んだものと言えましょう。

 

 

 波木井三郎殿御返事の御文は、不軽菩薩が因行によって作仏を得たことをあげ、大聖人ご白身の作仏の確信を示されております。

 諌暁八幡抄の御文には、釈尊在世の世界と不軽菩薩の世界の相違が明かされております。これは、先ほど述べました釈尊の衆生=本已有善、不軽菩薩の衆生=本未有善ということでありますが、ここで肝心なことは釈尊と不軽菩薩の対比が、そのまま釈尊の世界と大聖人の世界との相違に通じていることであります。この御文の直前に、  

「月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり」(全集589)

 という有名な御文がありますが、これを富士門流においては、月を釈尊、日を大聖人にたとえて種脱勝劣を明かされたものと拝しております。釈尊の世界から大聖人の世界へ、この転換に不軽菩薩は実に大切な役回りを演じていると私は思うのです。

 

II.         当家の薄墨衣

一、仰ニ云ク、當門流ニ官ハ阿闍梨・寺号・山号・院号等ノ中ニハ坊号計リ名乗ラル事ハ、當宗ハ名字ノ初心ニ宗ヲ建立ノ故ニ昇進モ初心ノ阿闍梨計リ也。又寺・山・院・坊ノ中ニハ坊号計リ付ク也。此皆法華経ノ法位ニ階当スル意也。又袈裟衣モ初心ノ衣裳也、但シ折伏ノ衣ニハ尤此衣歟ト覚エタル也、其ノ故ハ不軽菩薩ヲ絵ニ書キタルヲ見タルニ我等カ著タル処ノ衣ヲ書タル也。(下野阿闍梨聞書、歴全1−391)

 まず初めに本文を簡略に通釈致します。

 日有上人の仰せられるには、富士門流においては、僧侶の官位は阿闍梨号を用い、末寺の名称には寺号・山号・院号などを公称せず坊号ばかりを名乗る、このことは、当宗が低位の名字即の初心に宗旨を建立しているからであり、故に僧階などの昇進も僧正や僧都、律師などの高位の官名をとらず初心の阿闍梨に限っているのである。寺・山・院・坊についても、官寺に準じた形で公に寺号や山号などを名乗ることを避け、私に坊号ばかりを付すのである。

 これらは皆、名字本因の法華経の法位に相当する名称である。また、当宗の薄墨の衣、五条の袈裟も初心を表わす衣裳である。折伏行を修行の根本とする当宗には、この衣は、もっとも適当であると言えよう。なぜと言えば、不軽菩薩の絵像を見れば我々が着ているところの薄墨の衣がそこには描かれているからである。

 前節で化儀抄の項目を取り上げて、不軽菩薩の礼拝行、大聖人の不軽観などを述べましたが、引き続いて不軽菩薩と当家の衣の関連、薄墨の衣を着する所以、などについて述べてみたいと思います。

 その前に、本文の全般に関わることを少し触れておきます。本文は、名字即の初心に宗旨を建立する当家が僧侶の階級や寺の称号、身に着けるところの法衣などについて、どのように考え、どのようになすべきかを明示されたものであります。

 化儀抄の第64条にも、

「法華宗は天台の六即の位に配当すれば名字即、始中終の中には名字の初心聞名の分に当たる故に、寺は坊号まで官は有職までなり。仏教の最初なるが故なり云云」(歴全1−355) 

 と、本文と同意のことが示されていますが、宗祖在世および宗門史の上代において、これらの事はかなり厳格に護られていたようです。

  まず僧侶の位階のことで言えば、大聖人の門弟には、大国阿闍梨日朗、弁阿闍梨日昭、白蓮阿闍梨日興など、阿闍梨号をもって呼ばれる弟子が何人かおります。この阿闍梨を名乗るには二通りのケースがあったようで、一には、日昭師のように大聖人に帰依する前の天台宗の位階がそのまま生きている場合、二には、日朗師や日興上人のように大聖人より直接阿闍梨号を授与されている場合です。阿闍梨職とは、もともと弟子を教える教授の役割をもつので、後者の場合、大聖人より認められて門弟の教導役を任されるようになったと解することができます。いわば能化所化で言えば、阿闍梨職とは能化の任であり、大聖人の門下において、この阿闍梨職のほかに幾つもの位階があったり阿闍梨職以上に高い位階を用いることなどは無かったようです。通常、門弟は伊与公、三位房などと公称や房称をもって呼ばれ、その一段上に阿闍梨職のみを認めていたようです。大まかに言えば、教団は能化所化の二通りをもって構成されていたと言えましょうか。したがって門下には、いわゆる三綱といわれる僧正や僧都、律師などの官位を称している弟子は見当たりません。

 もっともこれは、当時の叡山の宗風退廃を嘆き、官制に強く批判的であった大聖人にとって、また信心為本を旨とする宗祖門下にとって高位高官などは全く取るに足らないものであったことでしょう。これは官位のことではありませんが、弟子の三位房が京都遊学中、公家の前にて説法を許され、その褒美として「尊成」という尊称を得たことを喜んで大聖人に報告したところ、反対に大聖人より厳しく叱責されました。権威権力におもねることを善とせず、あくまでも身を底下に置いて、ひたすら法の実義なることをもって押し進められた大聖人の精神のよくあらわれた話と言えましょう。本文の日有上人の仰せも、その精神に則られ、法華経の行者は身を低くたもたねばならないことを示されたものです。

 一方において、寺号、山号などの呼称も富士門流の上代では使用されておりません。本寺の大石寺は別ですが、末寺においては、もっぱら坊号を名乗るのが一般であったようです。四世の日道上人は正慶の頃、武州埼西郡(現在の埼玉県北埼玉郡)におられましたが、そこは「堀須坊」と呼ばれていたことが道師御自身の記録に残っています。

 5世の日行上人が創せられたと言われている下野金井村(現在の栃木県小金井市)の蓮行寺は、古くは「金井の法華坊」もしくは「蓮行坊」と呼ばれていました。六世の日時上人が開基された磐城の妙法寺は「磐城、黒須野の東光坊」と称されていました。日目上人ゆかりの奥州の諸寺も古くは寺号がなく、坊号で呼称されていたもののようです。目師から道師への譲り状には「上新田坊(本源寺の前身)」(歴全1-217)という坊号が記されています。このことを、堀日亨師は、奥州の諸寺が寺号を公称するのは天正以後であろうと推察されております。その他、上代の文献には「下之坊」「土佐大乗坊」「高瀬大坊」等の坊号を見ることができます。

 このように富士門流の上代では、坊号の呼称が一般的でしたが、日有上人はその意義を本文ならびに先の化儀抄で明示されたわけです。

 そこには、「法華経ノ法位二階当スル意也」「仏教の最初なるが故なり」等と示されていますように当宗は一文不通の凡夫の信のうえに宗旨を建立しておりますので、官寺に準じたり、門跡寺院のような大寺院、大伽藍を目指す必要性を少しも認めなかったのであります。

  しかし時代の風潮によるものか、現今では宗規の定めるところ、僧侶の位階には僧正から訓導まで十数余を数え、末寺における寺号・山号の公称も当り前のようになされております。時勢を考慮すれば、その形式自体に格別クレームをつけるような問題でもないのかも知れませんが、せめて日有上人の仰せられた内容を理解しようとすることや、上代の精神をどこまでも見失わないように努力することは、いかにも大切なように私には思えます。

 

《不軽菩薩と当家の法衣》

  本文では、僧侶の位階、寺号・山号のことに続いて、当宗の法衣の意義について示されております。

 薄墨の衣に五条の袈裟――このことは富士門流の宗旨の深義に関わることであり、大聖人、日興上人以来、今日に至るまで少しも改変されることなく護持されて来ております。日有上人は、なぜ当家が薄墨の衣を着用するかについて「不軽菩薩ヲ絵ニ書キタルヲ見タルニ」と仰せられ、その由来を不軽菩薩に求められました。このことは、私にとって実に興味惹かれる指摘でありまして、不軽菩薩の絵像を拝見することによって私にも何かしら法門上の納得があり、実感も湧くのではないかと思い、いろいろ探し回ってみましたが残念ながら管見には入りませんでした。絵像がはたして現存しているのかどうかもよく分かりませんが、当時のものがあれば貴重な資料であり、実に珍しい絵像であることは間違いありません。

 後に、日寛上人は当家三衣抄において、当宗が薄墨の衣を着用する引証として、「造初の御影」「鏡の御影」など宗祖の御影像が薄墨染めの衣を召されていることを挙げられておりますが、大聖人御影像の薄墨衣と不軽菩薩の絵像のそれとが、どのくらい近似したものであるのか、私は見比べてみたい気がします。このことは、「不軽の跡を紹継する」と仰せられた大聖人御自身が不軽菩薩の姿形を範とされて、薄墨衣を選び取られるようになったのではないかという、従来あまり問題にされなかったことまでも想起させるのであります。

 さて、それでは日有上人の仰せに戻って、なぜ不軽菩薩の衣を当宗が着用するのか、なぜそれが最も適切であるのか、その具体的な内容についてを考えてみたいと思います。それには、大まかに二つの理由が考えられます。一つには不軽菩薩が位の低い菩薩であること、二つには、その修行が逆縁を薩結ぶ折伏行であることです。

 

《低位を表わす衣》

  日有上人は、阿闍梨号や坊号を用いることについて「名字ノ初心」に宗旨を建立するゆえにと仰せられましたが、法衣についても「袈裟衣モ初心ノ衣裳」を着用しなさいと示されました。そうすることによって初めて「法華経ノ法位ニ階当」する、と言われています。っまり、法華経を信行する人は名字即の初心に身を置かなければならない、常に位を低く、身を底下にたもたねばならないと示されたわけです。

 このことは、大聖人が四信五品抄などに示された「教弥実位弥下」の実践に当たるものと思われます。「教いよいよ実なれば、位いよいよ下し」――これは妙楽大師の弘決の言葉ですが、その意は勝れた教えほど下機の衆生を救うゆえに、法華の行者の位は権教の行者のそれよりも低いことを示されたものです。これを逆に言えば、私たちの修行するところの教えが真実の教えであればあるほど、それを所持する私たちの位はいよいよ低くなければならないと言うことでしょう。反対に、教えが方便を帯びていればいるほど、それに適合する衆生の機根は高くなければならない。つまり一部の上根の人でなければ救われない教えになります。これを同じく弘決の言葉で「教弥権位弥高――教いよいよ権なれば位いよいよ高し」と言います。

 不軽菩薩は法華経の修行をなされましたから、もちろん位階も低くとられています。御書に「不軽菩薩は初随喜の人」(全集507)とありますように、不軽菩薩は滅後五品のうちには第一初随喜品に位置しております。初随喜品とは字義の通り、初めて法を聞いて謗らず、随喜する心を持っことで、その当初に既に深い信解を得るとするものです。それは、天台配立の六即でいえば聞法の名字即に契当するので、大聖人は四信の初めの一念信解と五品の初めの初随喜品を特に重視され、ともに本門の正行であると示されました。すなわち、初随喜品とは修行の段階でいえば最も初歩的な低い位置に属するもので、不軽菩薩は、その底下にあって「教弥実位弥下」の実践をなされたものと言えましょう。それゆえ低位に見合った衣を着されていたものと思われます。

 さて大聖人は御書に、

「日蓮は無戒の比丘なり」(全集971、御衣並単衣御書)

「日蓮は名字の凡夫なり」(全集507、顕仏未来記)

「日蓮」貧道の身と生まれて父母の孝養・心にたらず」(全集922、種種御振舞御書) 

「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の施陀羅が子なり」(全集891、佐渡御勘気抄)

「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賎民が子なり」(全集883、善無畏三蔵抄)

 等と仰せられていますが、これらの御文も単に自身を謙下されたのではなく「教弥実位弥下」の立場から、むしろ必然として語られたものではなかったかと思います。

 「諸経中王」たる法華経を受持信行するものにとっては、高貴な出自もさほど意味がなく、持戒の高僧を目指す必要もさらさら有りませんでした。かえって良観房のような高位の戒律主義者は、涅槃経の「持律に似像し少しく経を読誦し飲食を貧嗜して其の身を長養せん」とする悪僧であると、破折の対象になっています。また、見せかけに惑わされて、当時の民衆が「威徳の者のいう義について無威の者の実義をすつ」という状態になっていることを大聖人は非常に嘆かれております。

 恐らくは、法衣も良観房は綾羅錦繍の紫衣や緋衣などを纏い、見た目の威徳は輝くばかりのものがあったと思います。翻って大聖人は、今に残る御影像の姿そのままの薄墨の衣を召されていました。

 しかも、良観房は権力者の絶大な庇護をうけている僧であり、大聖人は、その権威権力に対して在野の立場から厳しく批判を展開されていた僧であります。両者はあらゆる意味で対極をなしていたと言えましょう。体制を気にしたり、外面ばかりに眼を奪われていれば、誰しもが良観房の側に靡き、大聖人を打擲する立場にまわったであろうことも容易に推測できます。不軽菩薩の修行が、常に忍難という試練を抜きにしては語れない図式がここにあります。しかし、不軽菩薩同様に、大聖人にとっては低位をまもることこそが法華経の行者たる証しになったわけですから、喜んで打擲をうけ法難にも身を投じられたのであります。

 これを法義の上から言えば、良観房は「教弥権位弥高」に属し、大聖人は「教弥実位弥下」を実践されていたと言えましょうか。また、法華経自体が外相を簡んで、内智を貴ぶ――つまり内実を大切にする教えであったとも言えると思います。高位よりも低位を、外面の威徳よりも真実の内智を、このことをより明確にするためにも「初心ノ衣裳」とされる薄墨染めの衣を大聖人は召されたのであろうと私は思います。

 

《折伏行を表わす衣》

 次に、不軽菩薩の修行が逆縁を結ぶ折伏行であり、それゆえに当宗が不軽菩薩の衣を用いることについて述べたいと思います。

 不軽菩薩の修行を要約、解説して天台大師は法華文句に次のように述べています。

 「内に不軽の解を懐き、外に不軽の境を敬い、口に不軽の教を宣べ、身に不軽の行を立て、人に不軽の目を作す」

 不軽菩薩が、四衆の比丘たちに対して「常に軽んぜず」の精神をもって、礼拝行をなしたことはすでに述べましたが、右の文はその不軽菩薩の振舞いを分かりやすく解説したものです。

 四衆の一切の人々の内心には、仏性という悟りの種があることを思い懐き、それゆえその人々に相い対して敬い、口には「我れ深く汝等を敬い・・・」の二十四字の教えを宣べ、身には四衆を礼拝する行を立て、それによって、四衆から打擲を受け「常不軽」の名を自身に授かる。これが不軽菩薩の修行であり、折伏行の全体でありました。この文には、身口意の三業にわたる折伏が説かれています。はじめの「内懐不軽之解、外敬不軽之境」は意業の折伏であり、「口宣不軽之教」は口業の折伏、「身立不軽之行」は身業の折伏を表わしていると言えます。そして「人作不軽之目」とは、折伏逆化、つまり四衆に逆縁を結んだ証しになろうかと思われます。

 大聖人は、この法華文句の言葉を御所持の経巻(「註法華経」といわれている)の不軽品の冒頭に書き記されておられますが、常に大聖人には、この不軽菩薩の折伏行が念頭にあったものと思われます。前節にも申しましたが、竜の口法難以降の御書を通じて拝読すれば、不軽菩薩の修行に思いをよせられた記述が驚くほど多くなっていることに気づかされます。また、直接には不軽菩薩の名が記されていなくとも、  

「法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず色心二法にあそはされたるこそ貴く候へ」(全集223、土籠御書)

 などの御文は不軽菩薩の折伏行を門弟に促されたものと拝することができます。法華経を身をもって読むことを終生の修行とされた大聖人にとって、不軽菩薩の三業にわたる折伏、とりわけ「身に不軽の行を立て」て四衆に逆縁を結んだ振舞いは、心肝に深く染むべきものであったのでしょう。

  折伏行でもっとも根幹になることは、信ずるところの宗旨を自分白身の姿かたち、振舞いにあらわしてゆくこと、それによって他に信謗を堅く分けさせることであります。つまり、身をもって宗旨を建立することが折伏行の本義なのであります。

 この精神に立つとき、不軽菩薩がどんな衣を着けられたのか、なぜ大聖人が薄墨染めの衣を召されたのか、はたまた私たち富士門流の僧侶がどんな法衣を着すべきか、ということが実に大切な法義上の問題として浮かび上がってきます。再び、当家三衣抄を引きますが、日寛上人は当宗が薄墨衣を用いる道理として、

 「一には是れ名字即を表するが故なり」「二には是れ他宗に簡異せんが為なり」「三には是れ順逆二縁を結ばんが為なり」「四には是れ自門の非法を制せんが為なり」(聖典958)

 と教示されています。このうち一の名字即のことは既に述べましたが、二と三には、薄墨衣を用いることによって身業による折伏行の成就することが示されています。日寛上人は、低位を表わす薄墨衣を用いることにより、他宗の僧侶が「専ら外相を荘り綾羅錦繍を以って其の身に纏」うのに相い対し、区別し、さらには薄墨の衣姿を示すことによって「信ずる者は馳せ集まりて順縁を結び、謗る者は敵となって逆縁を結ぶ」と示されました。薄墨衣は富士門流の宗旨を表わす一つの標幟であり、それを身につけることによって自他ともへの折伏としたのであります。

 また、日有上人は化儀抄の第67条に

「事の即身成仏の法華宗を建立の時は、信謗を堅く分かって身口意の三業に少しも他宗の法に同ずべからず云云。身業謗法に同ぜざる姿は法華宗の僧は必ず十徳の上に五条の袈裟をかくべき也、是れ則ち誹謗法華の人にやがて法華宗と見えて結縁せしめんが為なり。(後略)」(歴全1−355)

 と仰せられていますが、これも衣と袈裟の違いはありますが、身に着ける法衣によって他宗他門を簡別し、もって逆縁を結ぶ折伏行を勧められています。十徳とは、現在でいえば事務衣のようなものであり、これだけでは富士門流の僧であることが判然としません。そこで当家の五条袈裟をつけて、富士門流の僧であることを示し、法華を誹謗する人とただちに逆縁を結ぶ、そうすることが謗法与同からのがれ折伏を行じたことになる、との仰せであります。つまるところ折伏とは、法華を信じ身に行い、周囲の人々となんらかの結縁をなしてゆく全体をいうのでありまして、その精神は先の法華文句に示された不軽菩薩の修行そのものであります。その故に、私たちも「初心の衣裳」を着するのであります。

 

 

 

 

 

 


 

 

第7章 富士門流の本尊観

 

 

 

 富土門流では曼茶羅本尊と聖人御影はまったく同様に人法一箇の本尊として上代より信仰されてきた。なぜ当家は釈尊像を立てずに、聖人御影を本尊として拝するか。この問題を解くための焦点は、何と言っても大聖人御自筆の曼茶羅にある。

「南無妙法蓮華経日蓮花押」と大書された首題や「若有悩乱者、頭破作七分」の讃文の意味内容など、富士門流に相伝された化儀・法門によって当家の本尊観を改めて考察する。

 

 

 

I.               人法本尊について

一、當宗ノ本尊ノ事。日蓮聖人ニ限リ奉ルベシ、仍今ノ弘法ハ流通也、滅後ノ宗旨ナル故ヘニ未断惑ノ導師ヲ本尊トスル也。地住已上ノ聖者ニハ末代今ノ五濁闘諍ノ我等根性ニハ対セラルベカラザル時分也、仍方便品ニハ若遇余仏便得決了ト説ケリ、是レヲハ四依弘経ノ人師ト釈セリ、四依ニ四類アリ、今末法四依ノ人師、地涌菩薩ニテ在ス事ヲ思ヒ合スベシ。(化儀抄、歴全1−347)

 富士門流の本尊の事。当宗では、日蓮聖人に限りて本尊と仰ぎ奉ります。

 今、末法の弘法は流通分に当たります。当宗は釈尊滅後に宗旨を立てておりますから、未断惑(いまだ惑を断じ切らない、私達と同様に三毒強盛の存在)の導師、すなわち日蓮聖人を本尊と仰ぎます。

 地住已上の聖者(すでに惑を断じた覚者の意。これを未断惑に対して断惑という)においては、末法五濁悪世の闘静の時に生まれあわせた私達の機根に到底適応せざるものがあります。

 方便品には「若し余仏に遇わば、(中略)便ち決了することを得ん」(開結171)と説かれております。

この「余仏」を天台大師は、法華玄義に四依の人師のことであると釈されました。その四依の人師には四種類があります。末法の四依の人師が地涌の菩薩一日蓮聖人で在すことを当宗ではまず心得ておかなければなりません。

 本文は化儀抄の第三十三条、当宗の本尊観に関わることであります。簡略に通釈しましたが、はじめて聞く仏教用語もあるかと思いますので二、三用語の解説をします。

 まず、「未断惑」とは断惑に対する言葉です。断惑とは、文字通り惑いを断ち切ることで、それをなし得た人を聖者といい、それに至らない人を未断惑=凡夫と称します。「末法愚悪の凡夫」という言葉がありますように、末法の世においては一人の聖者もなく、みな未断惑の凡夫の集まりであると説かれます。それに関連して「地住已上ノ聖者」とは、聖者であることの位を述べたものです。

 天台円教の配立に、菩薩の行位を五十二位に分けることがあります。つまり、修行者の位を五十二段階に分けたわけです。その内分けを図にしますと、

 

 

左図となります。等覚、妙覚とは仏と等しい、もしくは仏そのものの位です。

 この中で、十信はいまだ無明の惑を断ぜざる位なので聖者の位ではなく凡位であります。円教においては、十住のはじめ、すなわち初住位に至ってはじめて無明の一品を断じることが許されるので、それ以後が聖者となります。

 次に別教においては、十信・十住・十行・十回向の位まで無明を断ぜざる未断惑の凡位とし、十地のはじめ、すなわち初地位より無明を断ずる聖位と規定されております。初地より以後が断惑=聖者になります。そこで円教においては初住、別教においては初地より断惑=聖者の位に入るので、それを取りまとめて「地住已上ノ聖者」と日有上人は仰せられたのです。いずれにせよ「聖者」は、末法の衆生の下劣な機根にとても対応しきれません。従来の仏教からすれば「導師」といえば、惑を断じて悟りを得た高貴な存在であったわけですが、宗祖の教えでは、末法の「導師」は衆生と全く同じように、煩悩をもった三毒強盛の存在であります。そして、このことが大聖人の法門の一大特長でもあります。

 次に、方便品の「若遇余仏便得決了」の文。これは在世において、色相荘厳の仏によって成仏できなかったものは「未来世に別の仏に遇って成仏を得る」という意味です。この「別の仏」というのが「四依弘経ノ人師」です。当家の法門では、これを地涌の菩薩=日蓮聖人と立てております。「四依ニ四類アリ」とは観心本尊抄の御文です。  

「此の経文の遣使還告は如何。答へて云く四依なり。四依に四類あり、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す。大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す。三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分は末法の初めなり。四に本門の四依は地涌千界末法の始めに必ず出現すべし。今の遣使還告は地涌なり」(全集251)

 この御文は、末法には四依の人師として地涌の菩薩が出現し、一切衆生を救済すると説かれたものです。

 

《富士門と他門との異義》

 富士門流の本尊について、日有上人は「日蓮聖人ニ限リ奉ルベシ」と仰せられましたが、このことは他の日蓮門下からすれば当時どのように映っていたのでしょうか。日有上人と同時代を生きた八品門流の派祖である慶林日隆師は『法華本門弘経抄』に、

「本尊の釈迦上行をば造像せず、日蓮大士の造像ばかりを本堂に安置し奉ること富士門流の法則なり、恐らくは謬中の謬、是れ即ち極大謗法なり」

  と述べて、富士門を非難しております。釈尊を本仏としている日隆師からすれば、日蓮聖人を中央に安置して本尊とすることは実に奇異に見えたのでしょう。これは八品門流ばかりではなく、富士門流以外の日蓮各派における当時の共通した認識であったろうと思います。すでに上代に「五一の相違」という言葉があるように、富士門流が他門に比して、独特な法門を展開していることは事実であります。

 本尊観においても、色相荘厳の釈尊像(一尊四士など)を本尊とするか、薄墨衣をまとった名字凡身の日蓮像(御影像)を本尊とするか、はたして他門と富士門とどちらに大聖人の法門の真実があるのか、このことは実に重要な事柄を含みながら、上代より現代にいたるまで一貫して引き継がれている問題であると言えましょう。

 この問題を解くための焦点は、何と言っても大聖人御自筆の曼茶羅にあります。大聖人の曼茶羅が、はたして他門の言うように釈尊の世界を顕わさんとしたものなのか、法華経の行者の一身の当体、すなわち大聖人そのものの表象なのか、この辺が問題を解いていく鍵になります。

   

《人法本尊》

 本尊のことで日有上人は、同じく化儀抄の第70条に、

「只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用ふべきなり」(歴全1−356)

 と述べられています。これは大聖人の曼茶羅を本尊とせよということで、冒頭に掲げた「当宗ノ本尊ノ事。日蓮聖人ニ限リ奉ルベシ」と合わせて、富士門流ではこのことを人法本尊として伝燈的に堅持してきております。

 ここで一つ注意しておかなければならないことは、前にも述べましたが、大聖人と曼茶羅をただ単に人本尊と法本尊とに別立する事はできないということです。人と法は一往立て分けられておりますが、常にそれが一箇するところ富士門流の本尊があるわけです。

 御影は内奥に曼茶羅を納めており、御影そのものが人法一箇の本尊を顕わしております。朝夕拝している曼茶羅本尊も、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と大書されておりますように、単なる法本尊ではなく、日蓮大聖人の所持された南無妙法蓮華経、すなわち人法一箇の本尊を顕したものと拝するのが至当であります。

 日寛上人の本尊抄文段でも、その辺は大変注意深く取り扱われておりまして、要法寺日辰が総体・別体の本尊を人本尊、法本尊に配して論じていることを破折し、曼茶羅を「人即法の本尊」、蓮祖聖人を「法即人の本尊」とされ、そこに人法体一の深旨が秘められていると教示されております。

 すなわち、富士門流では御影と曼茶羅は、まったく同様に人法一箇の本尊として上代より信仰されてきたのであり、そのことが何と言っても釈尊を本尊とし、曼茶羅と釈尊の世界との同一性をたてる他門下との大きな相違点なのであります。

 何故、当家が釈尊像に走らずに、大聖人の御影を本尊と拝することになったかと申しますと、それは偏えに日興上人の信仰観、本尊観に依るものであると言えましょう。もちろん、その日興上人の信仰観、本尊観は大聖人の法門の真意に叶うと考えるゆえに、私達はそれを信行しているのであります。

 それが富士門流の立場です。

 一例をあげれば、大聖人は「一閻浮提のうち未曽有の大曼茶羅」を顕わされ、その意義を観心本尊抄一書の中に認められました。つまり本尊抄は曼茶羅本尊の何たるかを門弟に指し示すために著されたものです。その送り状に、大聖人は「此の事、日蓮身に当るの大事也」(全集255)と仰せられ、曼茶羅本尊が日蓮一身の当体であることを門弟に明かされました。なによりも御自筆の曼奈羅本尊を拝すれば、私たちにさえ南無妙法蓮華経と日蓮大聖人の人法一箇を感得し得るものがあります。

 佐渡、身延と大聖人のお側近くで常に給仕された日興上人にとって、大聖人の法門が色相の釈尊像を本尊とするのではなく、曼茶羅本尊をもって正意とすることは白明のことだったかも知れません。

 また、そのことが、ただちに大聖人を本尊と拝することにつながることも日興上人にとって、自然に理の赴くところであったでしょう。

 事実の上でも、日興上人は檀越からの施物を釈尊像にではなく、みな大聖人の御影にお供えされております。  

「わせくり、をなじきわせやきこめ、いつれもかずの如くたしかに給候て、聖人御影の見参に入まいらせ候ひ了ぬ」(歴全1−191)

「御手作の瓜一籠十五聖人御影の御見参に申し上げまいらせ侯ひ了ぬ」(歴全1-153)

「九月十三日法華聖人へ御酒御さかな種々に恐れ入て給り侯ひ了ぬ」 (歴全1-157)

「盆の御為に用途三百給り侯て仏聖人の御見参に申し上げまいらせ侯」(歴全1-199) 

「故あまうゑの御ために、白米一斗、たいへい一、ようとう一すち給り侯て、法華聖人の御宝前に申あげまいらせ侯て、大衆ら御経読みまいらせ候へく侯」(歴全1-187)

 等、いずれも日興上人の消息ですが、聖人御影への信仰を如実に物語っております。恐らくは、現在の御影堂形式のごとく、御筆の曼茶羅本尊を掛け奉り、その前に御影を安置されていたのではないかと思います。とりわけ五通目の「故あまうゑ云云」の御消息には、亡くなられた尼上の仏事法要のために、一山の大衆が聖人御影の御宝前において御経を読誦したと記されております。

 

 

 御影への信仰が大聖人滅後まもなく始まっていることは、「清長誓状」にも伺われることであります。清長という人は、波木井実長の子息ですが、実長が大聖人の法門に違背して謗法行為を重ねたのに対して、日興上人の仰せをよく守り、離山の前年である正応元年には「清長誓状」を捧げて、信仰の純一なることを誓いました。その状に、

「おほせの候御法門を一分も違へまいらせ候はば、本尊ならびに御聖人の御影のにくまれを清長が身に厚く深くかぶるべく候」(富要8-10)

 と記されております。ここには、明らかに曼茶羅本尊と聖人の御影がならべてあげられております。誓状(起請)というものの性質からいっても、聖人の御影は本尊の役割をたしかに果たしております。

 身延派の学者は、日興上人が聖人御影に信徒からの供養を捧げたことも、「仏聖人」「法華聖人」の表現も、一般に亡くなられた人を仏といい、故人を慕って施物をお見せしたのだと、かなり無理な論法を行なっています。しかし、檀越からの供養がすべて聖人御影の前に捧げられ、「釈尊像の御前」が一度も登場しない事実をそれほど軽く見ることは許されることではないでしょう。大石寺や重須はもちろんのこと、「清長誓状」から推すれば、当時の身延にも釈尊像は安置されていなかったのでしょう。

 現在では、日蓮各派において、当り前のように釈尊像が奉られておりますので、大変考えづらいようなものですが、上代に遡ればのぼるほど、他門下においても聖人御影への信仰が大変深いものであったように私は思っています。もう一例を挙げれば、民部日向師の消息に次のようなものがあります。

 「今月十七日夜、ちかきところに焼亡いでき侯て、坊を焼きて侯、御本尊、御影、聖教はみな、取り出だしまいらせて侯へども、おきまいらせ侯べきところも侯はぬ間、仮館をもつくりまいらせ侯はんと存侯」

 これは聖人滅後、鎌倉に住坊を構えていた日向師が火事に遭い、坊などを類焼した時の模様を知らせたものです。いち早く「御本尊、御影、聖教」を持ち出したとありますが、ここに記された御本尊は曼奈羅本尊、御影は聖人御影であること、おそらく疑いないものと思われます。「清長誓状」の「本尊ならびに御聖人の御影」と同様な書きぶりからすれば、日向師の住坊にも曼茶羅本尊と御影が一体となって奉られていたのではないか、と推測します。

 たとえば、池上本門寺に伝わる御影像は胎内に墨書銘があり、それによれば正応元年、すなわち聖人7回忌の時に造られたものであることが確認されています。像高約85センチの、この御影像がただ故人を偲ぶために造立されたとは、私にはとても考えることができません。その大きさから言っても、しかるべき御堂に安置され、曼奈羅本尊とともに本尊として拝されたことは疑いないように私には思われます。

 身延においては、先程の「清長誓状」が正応元年ですから、少なくともそれ以前に聖人御影が安置されていたことになります。

 御影像ばかりでなく、紙幅にあらわされた画像もまた本尊として拝されていたのではないかと私は思います。波木井の御影、水鏡の御影等、上代には貴重な紙幅の画像がありますが、これらを美術的な鑑賞眼から一度離れて、法義の上から考究することも大切のように思われます。当家には、三幅一対といって、中央に曼茶羅本尊、その左右に大聖人・日興上人の紙幅の御影を配する奉安形式がありますが、これは紙幅の御影を本尊として奉掲したものであります。

 

《五一の相違について》

 上代においては他の日蓮門下でも、曼茶羅本尊=聖人御影の信仰という原刷が必ずや存したものと、私は思います。しかし、それらが意外にも早く捨て去られ、大聖人の信仰から釈浄像への信仰へと切り換えられていったこともまた事実であろうと思うのです。

日興上人が永仁6年(宗祖滅後17年)にあらわされた弟子分帖には、

「故聖人の御弟子六人の中に五人は一同聖人の御姓名を改めて天台の弟子と号して、爰に住坊を破却せられんとするの刻、天台宗を行して御祈祷を致すの由、各々申状を捧ぐるに依って破却の難を免れ了ぬ」(歴全1−89)

 と記されております。これは、「大聖人の弟子」であることを捨てなければ、住坊を破却するとの圧力に負けて、五老僧が天台宗を名乗ったことを示しております。五老門下それぞれにおいて、対応は違ったものがあったかも知れませんが、幕府側から何等かの圧力があって本来の大聖人の法門を変質させざるをえない事態に立ち至ったことは事実のようです。

 日蓮聖人の弟子であることを捨てて天台沙門と号する。このことは聖人御影への信仰から釈尊像への信仰に後戻りすることと、一脈あい通じております。いずれにせよ、この時期、他門において急速に大聖人への信仰が薄れていったことはまず問違いないことでしょう。

最近、このことを裏付けるかのように、中山法華経寺所蔵の立正安国論(国宝指定)が大聖人滅後わずか10年の内に、反故紙扱いになっていたことが新聞に発表されました。

 安国論の書かれた本紙の裏面に、びっしりと平安時代の漢文である本朝文粋の書写があり、それが丁寧に消されたうえで裏打ちされていたのであります。しかも、その中に本朝文粋が書写された年次と思われる「弘安九年」や「永仁」の年号が見いだされました。

 安国論ほどの重要御書が、これほど早く反故扱いになってしまったことは、現代の私たちにとって容易に想像し難いものがありますが、大聖人の信仰が他門下において、この時期著しく後退したことだけは事実として、消し去れないものになりました。日興上人の弟子分帖が永仁6年の記述であることを合わせ思う時、「五一の相違」という言葉で表わされる当時の日蓮門下の状態が、かなりの程度内容をともなって私たちの前に示された思いがします。

 つまり、他門下では大聖人の法義、信仰は一度早い時期に変質し、ある期間を経て今度は従来と違った内容をもった日蓮信仰が台頭し、伝播していく経過を辿ったのではないかと思うのです。

 ひるがえって富士門流においては、地域的な利もあったのかも知れませんが、頑固一徹といいますか、かなり純度高く大聖人の法義、信仰が護られてきました。これは、一にかかって日興上人の法義、信仰に対する厳格さ、大聖人への信仰の純粋さがもたらしたものではないかと思うのです。大聖人への信仰の純粋さとは、日興上人が丹念に大聖人の御書を書写されていること(大石寺、北山本門寺などに四十数通も現存、他の五老僧には見られないことです)、また先述しましたように、聖人御影に対する篤い信仰など、いずれも五老門下に比して特筆すべき事ではないかと思います。

 冒頭に掲げた日有上人の御文も、こうしてみれば伝燈的な富士の立義を示したものに他ならないことが分かると思います。日有上人には他にも、  

「当宗の御堂は如何様に造りたりとも皆御影堂也。十界所図の御本尊を掛け奉り候へとも高祖日蓮聖人の御判おわしませば只御影堂也」(歴全1−320)

 と述べらております。これなども他門下では思いも寄らないことが、ごく自然に、当り前に日有上人の言葉として語られているわけですが、この自信ある言葉の背景に日興上人已来の富士門流の伝燈があることを私たちは見逃してはなりません。

 これは余談ですが、昭和58年に「末寺の御影を撤去して、曼茶羅本尊一幅の奉安形式にしなさい」という院達が宗務院より出されて、宗内僧侶の耳目を驚かせたことがあります。いまもって、その真意が奈辺にあるのか分かりませんが、当時御影を安置していた古刹の住職がたいへん悩まれていたことだけが私の記憶に残っております。あるいは、創価学会の圧力に屈して出された院達だったのかも知れません。

 これはもちろん日顕師や宗務院が、富士の立義に全くの無知であったことから引き起こされた珍事ともいうべきものですが、富士門流の伝燈がこんなつまらないことで瓦解してしまっては、御先師に申し訳が立たなくなりますので、私たちはこれからも大いに非を打ち鳴らしていかなければならないと思います。

 

 

II.            未断惑の上行菩薩

一、當宗御門徒ノ即身成仏ハ十界互具ノ御本尊ノ當体也。其ノ故ハ上行等ノ四菩薩ノ脇士ニ釈迦多宝成リ玉フ所ノ當体大切ナル御事也。他門徒ノ得意ニハ釈迦多宝ノ脇士ニ上行等ノ四菩薩成リ玉フト得意テ即身成仏ノ実義ヲ得ハツシ玉フ也。去レハ日蓮聖人御書ニ日ク、一閻浮提之内未曾有之大曼茶羅也ト云ヘリ。又云ク、後五百歳ニ始タル観心本尊トモ御遊ス也。上行等ノ四菩薩ノ体ハ中間ノ五字ナリ、此ノ五字ノ脇士ニ釈迦多宝ト遊ハシタル富体ヲ知ラズシテ上行等ノ四菩薩ヲ釈迦多宝ノ脇士ト沙汰スルハ、中間ノ妙法蓮華経ノ堂体ヲ上行菩薩ト知ラザレバコソ、軈テ我即身成仏ヲ知ラザル重デ侯ヘト御伝コレ有リ云云。(連陽房雑々聞書、歴全1−374)

 第6章で当家の修行と不軽菩薩観を説明しましたが、ここでは当家における上行菩薩観を申し述べます。不軽菩薩も上行菩薩も大聖人の法門において欠くことのできない存在であり、両者は互いに深い関連を有するものと思われますが、まずは本文にしたがって、報恩抄の上行菩薩の解釈について説明していきたいと思います。初めに通釈致します。

 富士門流の僧俗の即身成仏とは、十界互具の曼茶羅本尊をただちにその当体とするものである。その故は、上行菩薩等の四菩薩が中尊になり、その脇士として釈迦仏・多宝仏が並ばれるところこそ、当家の即身成仏の当体であり、宗旨の大切な深義であるからである。他門下においては、釈迦仏・多宝仏を中尊にして、上行菩薩等の四菩薩が脇士になられると心得るので、自ずと即身成仏の実義を取り損なうのである。されば、日蓮聖人は「一閻浮提之内未曾有之大漫荼羅」と云われた。また、「後五百歳ニ始タル観心本尊」とも仰せられた。ともに、上行菩薩を中尊とする漫荼羅本尊が未だ曽って在さず、後五百歳の末法に、はじめて観心の本尊として建立されたことを示された御文である。

 上行等の四菩薩の体とは、実に中間の妙法蓮華経の五字そのものである。この五字の脇士として、釈迦仏・多宝仏を曼茶羅に認められたのであり、その当体を知らずに、上行等の四菩薩を釈迦仏・多宝仏の脇士とするのは、中間の妙法蓮華経の本体がそのまま上行菩薩であることを知らざればこそ誤るのである。それは、とりもなおさず、自分自身の即身成仏をも知らざることであると、当家の御相伝には示されている。

 

《報恩抄の読みについて》

 この項目は、上行菩薩に関する富士門流と他門下との異義を明らかにされたものです。もともと、この異義は、三大秘法を説き示された報恩抄の御文をめぐって起こされたものなので、今その当該部分を挙げておきます。  

「問て云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや。答て云く有り。求めて云く何物ぞや。答て云く三あり。(中略) 一には日本乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(全集328)

 この御文の、「上行等の四菩薩脇士となるべし」をどう読み下すかが、当家と他門下との上行菩薩に関する異義を生みだしております。

 日有上人は、上行菩薩の体はそのまま妙法蓮華経の五字であるから、釈迦・多宝が「上行等の四菩薩(の)脇士)となると示され、それが富士門流の相伝であると仰せられました。また、他門のように釈迦・多宝が中尊になって「上行等の四菩薩(を)脇士」とするのでは、法華経の教相上の本尊ということになり、大聖人が仰せられた「一閻浮提之内未曾有之大曼茶羅」の相貌とも相違し、「後五百歳ニ始タル観心本尊」の「観心」の意義をも消失することになろうと示されたものです。なによりも法華経の教相に現われた釈尊を本尊として崇めるのであれば、それは大聖人以前にすでに示されていることでもあり、「未曾有」の語も、「後五百歳ニ始タル」という言葉も特に冠する必要を認められません。

 この聞書を拝して、まず了解しうることは、日有上人の時代には報恩抄のこの御文をめぐって、上行菩薩を釈尊の弟子とみるか、それを越えて上行菩薩=妙法蓮華経の当体とみるかにより、他門と当家との異義が生じ、それがただちに双方の本尊観の相違にもなっていたという事実であります。前者をとれば、一尊四士(釈迦如来と四菩薩を奉安する本尊形式)、両尊四士(釈迦如来・多宝如来と四菩薩を奉安する本尊形式)などの造仏本尊となり、後者をとれば曼茶羅本尊を正意とすることになります

 本仏論においても、前者は教相文上の立場におりますから釈尊本仏になり、後者は、観心文底の立場から上行本仏となり、それがすなわち日蓮本仏を導き出す根本思想になっているのであります。

 ところで、日有上人の薫陶を受けた左京日教師は、この報恩抄の当該部分の読みについて次のように述べられています。  

「然るに報恩抄の事は釈迦多宝を上行等の四菩薩の脇士とあそばすを日向日頂御書を片仮名又は漢字に書きなすより御文言をも書き失へり当宗に闇かりけるか、三箇の法門を悪く取なして宝塔の中の釈迦多宝、上行等の菩薩を脇士とすべしと書けり、ノとヲとの仮名一つの違い致し御書かなまじりなるを片かなにす私語を備へたり、他門徒の御書には在世の釈迦を本尊とすると思ひて書きなせるか、本門三箇の秘法は寿量品の文底に秘し沈め給へり」(富要2−313)

 この日教師の指摘は、本文の日有上人の説とほぼ同じであります。日向、日頂は「ノ」を「ヲ」に改め、次下の「なるべし」を「為」の字に書き改めて「すべし」と読ませた、これ偏えに釈尊を本尊とするために、上行菩薩をあくまでも釈尊の脇士にしなければならないという考え方から生じたところの誤りである、というものでしょう。

 「ノ」の字を「ヲ」の字に書き改めたか、あるいは「ヲ」の字を単に書き加えたかして、上行菩薩をあくまでも釈尊の脇士に位置づけ、釈尊本仏を強固ならしめようとした、というのが日教師の指摘です。

 報恩抄の大聖人真筆が数カ所に、しかも断片でしか伝わらない現在(三大秘法を説かれた当該部分の真筆はありません)では、この部分の読みを明確に決定付けることは出来ませんが、さりとて日教師の指摘を何等根拠の無いものとして葬り去ることも到底できません。

それというのも、富士門流には、4世の日道上人、5世の日行上人と同時代人であった下之坊日舜師による報恩抄の古写本が伝えられ、その写本には、

「所謂宝塔の中の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の脇士となるべし」

 と明記されているからであります。この写本は、康安2年(1362)二月七日の奥付けをもつものですが、康安2年といえば、日興上人が入滅されてまだ30年足らずのことでもあり、この報恩抄の御文の読みは、或いは日興上人の付された訓点を伝えたものではないかとも推測し得るからであります。少しうがち過ぎた見方かも知れませんが、奥付けの書写年月日「2月7日」が日興上人の祥月命日に当たっていることも、日興門流の報恩抄の読みを後世に伝える意図が日舜師にあったのではないか、との推測を私に与えるのです。

 事実、この写本には、  

「民部阿闍梨日影に之を授与す、応永九年卯月十一日、日時花押」

 という授与書が付されており、6世日時上人より8世日影上人へ、この御書が相伝されているのであります。上代では、この報恩抄の古写本は貫首から貫首へと相伝されるべきものであったのでしょう。

 冒頭の日有上人の聞書に「御伝コレ有リ」と仰せられたのも、まず間違いなく、舜帥本の読み及びその解説の「御伝」であるでしょうから、富十門流の上代では一貫して報恩抄のこの部分は「上行等の脇士となるべし」と訓じられ、「文底の上行」という法門が伝えられていたことが分かるのであります。

 

《二人の上行菩薩》

 今まで申し述べてきましたように、上行菩薩には、法華教相上の上行菩薩と妙法蓮華経の当体としての上行菩薩、つまり2人の上行菩薩がおられます。

 当家では、これを「文上の上行」と「文底の上行」に立て分けて、一往文上をうけて、再往文底に法門を建立しています。法華経神力品の教相に説かれた釈尊から上行菩薩への結要付属を一往認めますが、その上行菩薩が三大秘法所持の人となって末法に出現されるときには釈尊の弟子であることを脱却して、かえって本門の釈尊を従えて登場します。これを「互為主伴の法門(互いに主伴となるー主従が入れ替わること)」といいます。

 観心本尊抄の、

「此の時地涌千界(上行菩薩-筆者註)出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし、月氏震旦に未だ此の本尊有さず」(全集254)

 の御文もまた、当家にとっては互為主伴の法門を説き示されたものと拝することができましょう。

 もっとも、この互為主伴には法門上の一定のルールがあります。すなわち上行菩薩と言いましても、それがあくまでも法華経の教相上の存在=文上の上行であれば、同じ教相上の本門の釈尊を脇士とするようなことはできません。同じ教相という土俵の上では、釈尊は常に師匠であり、主であり、上行菩薩は弟子であり、伴であります。久遠以来、釈尊は本果の仏であり、上行はその第一の弟子として、これまた見思無明の惑を断じ切った高貴な菩薩なのであります。

 それでは本果の仏、釈尊が師と仰ぐ存在とは何かと中しますと、諸法実相抄に大聖人が、

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(全集1358) 

 と仰せられましたように、妙法を受持されたところの名字初心の凡夫身を師と仰ぐのであります。

 互為主伴の法門の一つのポイントは、上行菩薩が教相上の高位の菩薩ではなく、見思未断の凡夫身でなければならないということです。

 ゆえに、報恩抄における釈迦・多宝を脇士とする「上行菩薩」も、本尊抄における本門の釈尊を脇士とせる「地涌千界」もともに、法華経の教相を離れた存在です。言うならば、大聖人によって観心釈をほどこされた上行菩薩なのであります。ここに日有上人が説かれた上行菩薩も断惑の高貴な菩薩「文上の上行」ではなく、未断惑の凡夫身=「文底の上行」であります。すなわち、教相において上行菩薩は釈尊よりの付属を承けるため高貴な姿形をもって現われますが、これはあくまでも外用であり、その内証は三大秘法所持の人=名字凡身の上行菩薩であるとするのが当家に上代より伝わる法門であります。冒頭本文の上行菩薩も、もちろん名字凡身の上行菩薩を指されてのことであります。

 また、雑々聞書には、  

「たとひ地涌の菩薩也と云ふとも地住已上の所見なれば末法我等が依用に非ず」(歴全1−414)

 との仰せがありますが、教相上の「地涌の菩薩」は地住已上の聖者でありますから、これも教相を離れた「文底の上行」を示されたものと拝することができます。さらには、二十四世の日永上人が教示された、  

「在世出現の金色の上行菩薩は、口伝に旅宿の菩薩と口決す」(歴全3―318)

「上行菩薩金色四八の果徳を捨て、久遠名字の体にて末法に出現侯」(歴全3−356)

 との御文も、前者は「文上の上行」であり、後者は「文底の上行」を説かれたものです。因みに、「旅宿」とは法華教相上の久遠実成のことであり、本来の上行菩薩を久遠元初に位置せしめて、そこから垂迹された上行が久遠実成を「仮寝の宿」とされたと言う意味です。いずれにせよ、この両文を合わせ読めば、「文上の上行」が色相荘厳の高貴な菩薩であり、「文底の上行」が久遠名字の凡夫身であることが了解できます。

 もう一つ歴代先師に例をとれば、39世の日純上人は衣証事記という書き物に、

「旅宿とは霊山召し出だされたる上行菩薩なり――教相。下種とは久遠元初、土水火風四大上行なり――観心」(研教30−13)

 と示され、上行菩薩を旅宿の上行と下種の上行に立て分けられております。かたや霊山に召し出されたところの教相の上行菩薩、かたや久遠元初の凡夫身、文底の上行菩薩に配されています。

 このように、富士門流の歴代先師は上代よりの相伝に依って上行菩薩を教相と文底に立て分け、宗旨の深義に約するときは、文底の上行菩薩を撰び取ってきました。他門下においては、遺憾ながら法華経の教相に偏重しておりましたから、現在でも上行菩薩と言えば遣使還告――釈尊の使いとしての存在にとどまっております。

 ゆえに同じく、「大聖人は上行菩薩の自覚に立たれた、上行菩薩の再誕である」と言いましても当家と他門とでは全く意義内容を異にします。他門では、法華経の教相に忠実であることが最上のことであると思っているようですが、このことは、よくよく考えてみれば大聖人を色相荘厳の菩薩、断惑の高位に押し上げることでありまして、名字初心という低位に宗旨を建立された大聖人の法門の綱格をも崩してしまう結果を招きました。断惑の聖者「日蓮大菩薩」と末法愚迷の衆生とでは大いなる懸隔のあることを否定することはできません。そればかりか曼茶羅本尊の解釈においても、大聖人が中央に、

 「南無妙法蓮華経 日蓮花押」

 と大書された真実の意味を見失うことになりましょう。この中央の「日蓮」が、教相上の断惑の上行菩薩であるならば、左布に同じく教相上の釈迦・多宝を配することは主客の顛倒、師弟の混乱となりましょう。また、その脇士として上行菩薩を曼茶羅に認めることは、中央の「日蓮」と重複するのみであります

 何故そのような矛盾や誤解が生じたのかと言いますと、他門では、もっぱら曼茶羅本尊は霊山会上の儀式(法華経の教相)を写しとったものとのみ考えているからであります。

 「南無妙法蓮華経 日蓮花押」

 までを中尊として捉えず、ただ宝塔の首題の妙法蓮華経を中心に釈迦多宝ほか諸仏菩薩が並ばれているという教相上の解釈を曼茶羅本尊に付しているわけです。それゆえ他門の歴代貫首が書写された曼茶羅は、「日蓮在御判」を用いず、首題のもとに自らの署名をただちに付ける方式が一般になっております。

 しかし、曼茶羅本尊が霊山会上の儀式を写しとっただけのものならば、それは教相の本尊であり、大聖人が格別に「観心の本尊」と称された意味もなくなり、曼茶羅の讃に「一閻浮提之内未曾有之大曼茶羅也」と認められた所以も限りなく希薄になります。

 当家からすれば、曼茶羅本尊において最も大切な証しは、

 「南無妙法蓮華経 日蓮花押」

 であります。名字凡身の大聖人が妙法を受持して即身成仏を遂げられた姿、それが一幅の曼茶羅本尊であります。教相の霊山会上の釈迦多宝ならびに諸仏菩薩はすべて法華経の行者の一身に摂入されて、末法観心の本尊が建立されているのであります。だからこそ「未曾有」であり「後五百歳二始タル」本尊なのであります。日有上人が、「当宗御門徒ノ即身成仏ハ十界互具ノ御本尊ノ当体也」と仰せられたとおり、曼茶羅本尊は私たちにとって即身成仏の手本であり、それは大聖人を教相上の断惑の上行菩薩と捉えていれば永遠に導き出すことのできない結論であるようです。つまり「即身成仏ノ実義ヲ得ハツ」す結果に陥るのであります。これみな「中間ノ妙法蓮華経ノ当体ヲ上行菩薩ト知ラザレバコソ」犯す誤謬であるといっても過言ではありません。

 

 

III.                       曼茶羅本尊の意義

一、仰ニ云ク、御本尊ノ事。諸家ニハ本尊等ノ諸讃ヲ書ニ自己ノ智恵ヲ以テス、當宗ニハ然ラズ。御本尊ノ讃ニ妙楽大師ノ御釈ヲ上代ヨリ遊シタル也。其レトハ若悩乱者・頭破七分・有供養者・福過十号・讃者積福安明・謗者開罪無間ノ釈也。當家ニハ無二ノ信心余念無ク妙法蓮華経ト唱へ奉リ候ヘハ我即妙法蓮華経ノ体也。然ル間、釈迦多宝三世十方ノ諸仏諸天神砥ハ用成リ、別ニ外ヨリ三世諸仏諸神砥等来ツテ守リ玉フト云フ事ハ意得サル也。去レハ此ノ宗ノ信者ノ功徳イミシキ事ハ弥陀・薬師・大日・観音・地蔵等ノ未免無常ノ権仏等ヲ供養シタル功徳ニハ勝レタリ、其故ハ御本尊ノ讃ニ云ク、福過十号ト云ヘリ。十号トハ権仏ヲ十号具足ノ仏トハ申ス也、之ヲ思フヘシ。又云ク、能信ノ上ハ自他共別ニ外ヨリ来ツテ我ヲ守ル仏神有ルヘカラス・信タニモ能成スレハ我即諸仏諸上神ノ体也、全ク別ニ無キ也。  (連陽房雑々聞書、歴全1−376)

 本文は連陽房雑々聞書の御文です。はじめに通釈致します

 日有上人が本尊のことで仰せられるには、他の日蓮門下では曼茶羅本尊の讃文を自分自身の智恵才覚をもって認めるが、当宗ではそのようなことはない。曼茶羅本尊の讃文には、上代より必ず妙楽大師の御釈を用いられている。それは法華文句記の「若悩乱者・頭破七分・有供養者・福過十号」「讃者積福安明・謗者開罪無間」等の御釈である。

 当家では、無二の信心をもって余事余念なく妙法蓮華経と唱え奉る時には、すでに我が身即ち妙法蓮華経の当体である。ゆえに、その時は、釈迦・多宝・三世十方の諸仏・諸天・神砥は用であり我々こそ体であるから、三世の諸仏や諸神が別に外より集まって行者を守られるということは、当宗では心得ざることである。もとより当宗の信者の功徳が大変すぐれていることは、阿弥陀如来・薬師如来・大日如来・観音菩薩・地蔵菩薩などの未だ無常を免れない権仏を供養する功徳よりも遥かに勝れている。なぜならば御本尊の讃文には「福、十号に過ぐ」と認められている。十号とは、応供・正遍知・明行足・善逝・世問解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊などの如来の十箇の別号であり、権仏とはその十号を具足している存在である。すなわち、本尊=法華経の行者を供養するものは、十号具足の権仏を供養するより福徳まさることを知らねばならない。

 さらに日有上人が言われるには、妙法蓮華経を能く受持された上は、自身と他身を区別して、外より我れを守る仏神が来られることはすでに無い、信がわずかにでも成就するならば、自分自身は即ち諸仏諸神の体なのであり、まったく自身と諸仏諸神とは別物ではないのである。

 以上通釈ですが、今回はこの項目の内容から、当家の曼茶羅本尊の意義を説明し、本尊授与のあり方、またそのことに関する師弟のあり方などを申し述べたいと思います。

 

《曼茶羅本導は何を表わすか》

 この項目は、当家の曼茶羅本尊が「法華経の行者の一身の当体」であることを教示されたものです。

 その具体的な説明として、当家では曼茶羅本尊の讃文に必ず妙楽大師の釈を用いることが示されています。  

「もし悩乱する者は頭七分に破れ、供養する者あらば福十号に過ぐ」

「讃る者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」

 後者の「讃る者は福を安明に云云」は、伝教大師の依懸集の御文ですが、聞書では妙楽大師の文句記の御文として一括して取り扱われています。この両文は大聖人の御書にもたびたび引用されていますので、すでに御存知の方もおられると思いますが、いずれも法華経の行者について釈されたものです。法華経の行者への信毀によって、その罪福は大きく分かれるという意味です。

 そもそも讃文の「讃」とは、誉め称えるという意味のほかに、「力を添える」「助ける」という意味があります。書画の中に題をつけて書き添える言葉も「讃」といいますが、この場今も書画の内容を示したり、助けたりする意味があります。自らの書画に自ら「讃」を添えることを白画自賛というのは承知の通りです。

 大聖人は、佐渡期に初めて曼荼羅本尊を図顕されましたが、以後弘安5年に入滅されるまで、現存するものだけでも百数十幅もの多くを認められました。これらの曼茶羅本尊の讃文には、数種類の御文があり、大聖人御一代の時期によって、必ずしも一定しているわけではありません。主なものをあげれば、

当知身土・一念三千に関するもの(止観弘決)

○病即消滅・不老不死に関するもの(薬王品)

○今此三界・皆是我有に関するもの(譬喩品)

○是好良薬・今留在此に関するもの(寿量品)

○若悩乱者・頭破七分に関するもの(文句記) 

 等があります。これらの讃文は、おそらく授与の本尊に大聖人が特別な意義づけをされたのであろうと思います。

 例えば、「病即消滅・不老不死」の曼茶羅本尊を大聖人は、建治2年8月13日と14日に3幅認められています。この本尊には、それぞれ「亀若護也」「亀弥護也」「亀姫護也」の四字が認められており、いずれも〈護り本尊〉として授与されたことがわかります。この3人は、現在までの研究で千葉頼胤(下総国の守護、富木常忍の仕えた主人)の子供ではないかと言われていますが、その名前より推測すれば、授与当時は幼少の子であり、将来を無病にして健やかに育つようにと大聖人が曼茶羅本尊を認められたことが伺えます。

 また、その他にも「病即消滅・不老不死」の讃文をもつ曼茶羅本尊はありますが、その本尊の中には、実際に病の床につかれている門下檀越に授与されているケースもあるようです。

 「若悩乱者・頭破七分」の讃文をもつ曼茶羅本尊は、弘安期にのみ認められています。と同時に、弘安期には、他の讃文の曼茶羅本尊がほとんど見当りません。あるいは、このことは大聖人の本尊観を認識する上で重要なことかも知れません。

 むろん日興上人は弘安期の大聖人の曼茶羅本尊図顕を手本とされましたので、書写の本尊には、みな「若悩乱者・頭破七分」の讃文が記されております。本文に日有上人が、

 「御本尊ノ讃ニ妙楽大師ノ御釈ヲ上代ヨリ遊シタル也」

 と仰せられたのは、まさしく日興上人以来の富士門流の本尊書写の化儀を示されたものです。そして、このことは当家の相伝書にも、

「上行無辺行と持国と、浄行安立行と毘沙門との間には、若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之れを書くべし云云」(御本尊七箇相承、富要1−32)

 と明示されているごとくに、歴代の貫首上人も等しくその書式を守られて今日に至っています。富士門においては、この讃文のことや南無妙法蓮華経の首題のもとに必ず「日蓮在判」を置くなど、本尊書写に関する化儀はかなり厳格に守り伝えられていると言えましよう。

 他門では、根本的な本尊観の相違からか、これらの本尊書写に関する化儀は上代において、必ずしも厳格になされておらず、各々の門流で思い思いの曼茶羅本尊が認められています。首題のもとに「日蓮在判」を置かず、直ちに自らの署名と花押を記したり、讃文もまた、それぞれの門流に種々あって、「若悩乱者.頭破七分」の釈を用いられているのは中山門流の上代にわずかに見られる程度です。

 このことは、今も申しました通り、大聖人の建立された曼茶羅本尊をどのように拝するかという根本的な問題まで含まれているようです。

 当家では、大聖人が末法の衆生に示され、建立された本尊は、開目・観心の両抄に説かれる通り、法華経の行者の観心に成就するところの本尊であると説きます。これは、大聖人以前の諸宗の本尊が釈迦・薬師・大日等の色相荘厳の諸仏諸尊であったことからすれば、法華経受持の衆生の己心に直ちに本尊を見るわけですから、従来の本尊観とは異なった大聖人独歩の本尊観であり、当時にあって衝撃的、画期的なものであったろうと思います。その故に、大聖人は観心本尊抄に「如来滅後後五百歳に始む」とわざわざ冠され、御図顕の曼茶羅本尊の一々に必ず「仏滅後二千二百二十(三十)余年、未曾有の大曼茶羅也」と認められました。いずれも、大聖人建立の本尊が前代には顕わされてないことを示しています。すなわち、大聖人の曼茶羅本尊は、末法における凡夫の成道を標榜されたものであり、まずその初めに大聖人自らが末法衆生の救済の導師として法華経受持の姿をあらわされ、南無妙法蓮華経の首題のもとに「日蓮花押」と認められたのでした。

 曼茶羅の相貌について言えば、はじめ「日蓮」の自署と「花押」は首題を中心として、左右に分かれて認められていましたが、建治2年2月の曼茶羅本尊から結合して、これより以降離れることなく首題のもとに置かれています。これは、大聖人の曼茶羅本尊の図顕が次第に整束されていったことを示すものですが、そこには、南無妙法蓮華経を受持する「日蓮」そのものを本尊とすることが強調されているように思われます。

 また「若悩乱者」等の讃文が弘安期より記されるようになるのも、本尊の意義の整束であり、大聖人が何かの機縁に触れられて、この讃文を用いられ始めたことは、重要なことを意味するでありましょう。讃文が本尊の意味内容を助け、力を添えるものであるならば、この妙楽大師の御釈を用いられたことは曼茶羅本尊が「法華経の行者の一身の当体」であることを示して、余りあるものがあります。

 これは私の推測に過ぎないのですが、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」等の讃文が弘安期より記されることやその意味内容から、あるいは重畳する法難や緊迫した世情の中で、大聖人が弟子檀越に「能持の人の外に全く所持の法を置かず――法華経を受持信行するあなた自身が本尊である」と示され、励まされるために、この讃文を用いられたのかも知れません。本文に、

「能信ノ上ハ自他共別ニ外ヨリ来ツテ我ヲ守ル仏神有ルヘカラス、信タニモ能成スレハ節諸仏諸神ノ体也、全ク別ニ無キ也」

 と日有上人が仰せられたのも同意であると言えましょう、これは何も日有上人が私たらを突き放されて法華経の行者を守護する仏神はいないなどと、仰せられたわけではありません、法華経を受持する私たちの「信」の処に、すでに本尊は証得されているのであり、そこにおいて私たちは憂うる何物もない、故に「外ヨリ来ツテ」自分を守ってもらうことも無く、ただ安心の境に身を置くことができると説かれたものです。

 これは大聖人が開目抄に、

「我れ竝びに我が弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれ」(全集234)

 と教示され、弟子檀越に諸天の加護のあることを信じるのではなく、法華経を疑いなく受持信行するところに自然に仏道が成じるのである、とされたこととも通じています。私たちが、法華経を受持信行する真実の信仰心の中に本尊も成仏も在す、これが大聖人の法門の第一義であり、私たち信仰者の心すべき姿勢でありましょう。

 大聖人の曼茶羅本尊も、自らの観心に建立するところの本尊を紙木に顕したものであり、従来の色相の仏像をもって顕わすことが困難なゆえに大聖人は文字曼茶羅として末法の衆生に示されたのでした。そして、その曼茶羅を「法華弘通の旗印」とされ、弟子檀越にも授与されるようになり、弟子檀越もまた、曼茶羅本尊を一つの手本として、信仰の目指すべき境地を求めたのでした。

 このことは換言すれば、それまでの本尊が彼岸の彼方にあり、常に他者であったのに対して、大聖人の建立された本尊は、この娑婆世界に住む凡夫自身の信心に見い出されたものである、と言うことができましょう。観心本尊抄の、  

「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏み末代幼稚の頸に懸けしめ給う」(全集254) 

 との仰せに従えば、仏の大慈悲によって、末法愚悪の凡夫には妙法五字の本尊がすでにして与えられているのであります。私たちは正しい信心によって、いつでも本尊を自分自身の中に確認し得ることをまずもって知らなくてはなりません。まさしくこれは受持即観心の意であり、大聖人が御書の随所に「信の一字」を強調されているのは、このためであるといっても過言ではありません。

 

《師弟一箇と本尊授与》

 さて、今まで本項目の讃文のことから、曼茶羅本尊が「法華経の行者の一身の当体」であり、私たちの受持信行のところに成就するものであることを述べてきました。っぎに、その曼茶羅本尊が当家の師弟子の法門とどのように関わるのか述べてみたいと思います。

 大聖人は当体義抄に、

「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是れなり」(全集512)

「本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(同右)

 と仰せられています。これは、むろん末法の凡夫の成道を示している御文ですが、と同時にその成道が必ず師弟の中に成就することをも明かされているのではないか、と私は思います。大聖人がここにおいて「日蓮が弟子檀那等」と注意深くことわり書きされていますように、この御丈の忠は帥弟が相寄って妙法を信じ唱える処に凡夫の成道を見ているのではないかと思うのです。

 観心本尊抄の送り状に、  

「師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」(全集255)

 との仰せがあるのも、観心の本尊が「師弟共に」のところに成り立つことを教示されているように私には思えます。末法の凡夫の成道といい、観心の本尊といいましても、それは一人にして思うがままに成就するものではなく、必ずや本因本果、師弟、境智という二者の相対があって、それが冥合、一箇するところに本尊は立てられているのであります。

曼 茶羅本尊の相貌を拝察しましても、中央の妙法蓮華経を首題として、左右対称形に十界それぞれが勧請されていますが、その筆頭になる「釈迦・多宝」がすでに境智の二法を顕わしているのであり、この境智を師弟・因果に分かっていくことも可能でありましょう。建治までの曼茶羅本尊には、中央の妙法蓮華経の左右に「日蓮」の自署と「花押」が書き分けられていたことを先ほど述べましたが、このことも、あるいは大聖人お一人の中に御自身が境智・師弟・因果の二法を見られていたのかも知れません。それがはじめ相対し、のち結合して、首題のもとに認められるようになるのは、境智冥合・師弟一箇を示されていると考察することもできましょう。当家では、この境智・因果・師弟を相伝法門として「日蓮、日興」に配立します。日有上人が日拾聞書に、  

「然れば本果妙日蓮は経巻を持ち給へば本因妙の日興は手を合わせ拝し給う事、師弟相対して受持斯経の化儀信心の処を表し給ふ也。十界事広しと云へども日蓮日興の師弟を以て結縁する也(中略)十界を本因本果の因果の二法と決定する也、之れを秘すべし」(歴全1−409)

 と、仰せられた通り、十界森羅万象を「日蓮、日興」に代表させることによって、

 日蓮 ―― 本果妙 ―― 仏界 ―― 智父 ―― 師匠

 日興 ―― 本因妙 ―― 九界 ―― 境母 ―― 弟子

 それぞれ、この二法に、一切衆生が結縁する旨を教示されています。日寛上人の当体義抄文段にも、同様なことが説かれ、その上でこれが当家の伝える戒壇の本尊の体であると示されております。

 すなわち、これらのことを考え合わせる時、当家では大聖人の曼茶羅本尊を「法華経の行者の一身の当体」であると説くと同時に、それは師弟が相寄って妙法を受持している全体像でもあり、即身成仏の姿でもあると説くのであります。

こ の師弟一箇の本尊を、現実の上で一機一縁の書写の本尊として授与する時、必ず欠くことのできないものとして、富士門流では本尊の授与書きが認められたわけです。

 日有上人は化儀抄の第117条に、

「御本尊授与の時、真俗弟子等示し書き之れあり。師匠あれば師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向かふ所、中央の妙法なる故に併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ則事行の妙法、事の即身成仏等云云」 

 と仰せられていますが、これは、曼荼羅本尊を授与する際に、必ず示し書き(本尊脇書)に、弟子である授与者の名前を認め、貫首上人あるいは末寺の師匠との師弟関係を確認しなさい、師弟が冥合するところを中央の妙法蓮華経といい、それが当家の即身成仏の姿であると教示されたものであります。

 すでに、このことは御本尊七箇相承に、  

「真実の十界互具は如何。師の曰く唱へられ給ふ処の七字は仏界なり、唱へ奉る我等衆生は九界なり。是れ即ち四教の因果を打破って真の十界の因果を説き顕はす云云、此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり」(富要1−31) 

 と示されたことを本尊授与の具体的な化儀の上に展開されたものと言えましょう。

 当家では、「真実の十界互具」の相を師弟・因果に二分します。十界を仏界と九界の二に分かち、それぞれに本果・師匠と本因・弟子を配します。その冥合した処が中央の妙法蓮華経であり、本尊であり、即身成仏である、と捉えるわけです。

 この戒壇本尊の体ともいえる師弟一箇を私たちが事行の法門として我が身に振舞うとき、末寺の師弟や師檀というものが実に大切になってきます。そこに、一機一縁の本尊を書写するときには、必ず本尊に授与書きを認めて、それぞれの師弟関係を確認する必要性があるのであります。第五章一節でも申しましたが、末寺における受戒や本尊授与には、当家の師弟子の法門の根幹部分が示されていることを再確認しなければなりません。

 なお、現在では時代の趨勢や信徒の増加ということからか、本尊は形木にして印刷されるようになりました。このことは一面、止むを得ないことだったのかも知れませんが、古来の化儀と違ったことを行なうのですから、確認すべきは確認して、法門の綱格が揺るがないようにしておかなければなりませんでした。

 確認すべきこととは何かと言えば、今まで述べてきたことから二点、一つは、御本尊とは「法華経の行者の一身の当体」であり、自らの信心の中にのみ成就すること。二つには、当家の本尊は師弟一箇であり、書写の本尊を授与する際には必ず末寺の師弟や師檀の関係を明確にすること。これらの事をよく納得した上で、個人に下付され、家庭に安置された曼茶羅本尊に給仕し、勤行する志が肝要であります。

 もう一つ付け加えれば、本尊を形木にすることは、どうしても安易に人々に流布する結果になり、不敬につながりやすいので、必ず信心の決定を見て本尊を下付するという古来の化儀を私たちは厳守して行かなければなりません。

 

 

  「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」

「迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士」

などの例があり、これらの文は他門下においても、

「小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為す」

「迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」

と読み下しているのであります。つまり「為一の字はいずれも他動詞として使用されており「脇士」はその目的語になっているわけです。また、当該部分は「地涌千界(上行菩薩)」が主語にな一ており閻浮提第一の本尊此の国に立つべし」までで一文の構成がなされています。ゆえに、その間の「釈尊為脇士」を「釈尊の脇士と為り」と読むことは、主客が入れ替わることになり、文章上、首尾一貫していないきらいがあります。

 

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