第5章     師弟子の法門

 

 

 大聖人は入滅に先立つ十月八日、有力な弟子の中から「本弟子」六人を定められた。そして、日興上人の御筆による宗祖御遷化記録に「一 弟子六人事 不次第」と明記されたように、大聖人は本弟子六人に順序階梯をつけてはならないと教示された。

 このことは日蓮門下上代の組織形態を考える上で重要な意味を持っている。はたして二箇相承を金科玉条としてきた近代の日蓮正宗に誤りはなかったか。日興上人の正統性はあくまでも法門の上から展開されるべきではなかったか。「二箇相承」問題を含め師弟子の法門を如何に理解すべきか、私見を述べたい。

 

 

 

 

T.さまざまな師弟

1.手続ノ師匠ノ所ハ三世ノ諸仏、高祖已来代々上人ノモヌケラレタル故ニ師匠ノ所ヲ能々取リ定テ信ヲ取ルベシ、又我弟子モ此ノ如ク、我レニ信ヲ取ルベシ、此ノ時ハ何レモ妙法蓮華経ノ色心ニシテ全ク一仏也。是レヲ即身成仏ト云也云云(化儀抄、歴全1ー241)

 本文は化儀抄の第4条、末寺における師匠とその弟子檀那のあり方を示されたものです。はじめに通釈致します。

 「手続」とは取り次ぐ、仲介をするという意味がありまして、「手続の師匠」とは弟子・信徒の志しを本尊へ取り次ぐ役目を担っています。弟子・信徒からすれば、直接の師匠のことです。この項目は日有上人の言葉を借りれば「田舎の小師」とその「弟子檀那」の関係を示されたものと言えましょう。

 「モヌケラレタル」とは、蝉が殻を抜け出るさまを表現したもので「父に子がかはり、子に孫がかはるは蝉のもぬけていぬる如し」という用例がありますように、ここでは代々をモヌケテ日蓮聖人已来の魂醜が手続の師のところに在すことを述べられたものです。

 すなわち手続の師匠のところには、三世諸仏および大聖人已来の歴代の上人がモヌケラレテ来ておりますので、よくよく決定して信を取らなければなりません。私(日有上人)の弟子たるものもまた同じように、信頼して私に信を取りなさい。師弟一箇するところは、ともに妙法蓮華経の色心であり、その時は全くの一仏であります。それを当家の即身成仏とは言うのであります。

 

《受戒の意味》

 この「手続ノ師匠」の項目は、上代の富士門流の師弟観、成道観、または門流がどのように組織されていたかなどを考察する上で重要な意味を持っているように思われます。

 私は、この第四条を拝して、現在でも各地の末寺で行なわれている一つのあることを思い浮かべました。それは何かと言えば、皆さんも一度は経験したことのある受戒の儀式であります。富士門流の信仰にこれから帰依しようとする人が、よくよく信を取り定めて「手続ノ師匠」と師弟の契りを結ぶ、それが受戒の本義であろうと思ったからです。

 現在行なわれている受戒の形式、受戒文のことなどが、はたして何処まで遡れるかは未詳のことですがその原型となるものは富士門流のかなり上代に存在したのではないかと私は思います。恐らくは、化儀の上に宗旨が立てられ、事行の法門が強調された日有上人の時代には、受戒の儀式によって初めて入門が叶うという形態が存したものと思われます。と同時にそれは、「田舎の小師」と「弟子檀那」が師弟の契りを結んだ証にもなったと思うのです。もう少し突っ込んで言えば、師弟の契りを結ぶことなしに、富士門流の信仰に帰依することは出来なかったのではないか、と私は思うのです。

 このことは今の感覚からすれば、なかなか理解しづらいことです。現代の私たちにとって、日蓮正宗に帰依することと末寺の住職と師弟の契りを結ぶことは、必ずしもイコールのこととは思われていません。なにゆえ感覚のズレが生じたかと言えば、それは近年、受戒の化儀が只単に信仰入門のための一儀礼に堕してしまったことによりましょう。形式的に受戒をうけ、ついで本尊が下付されるというパターンによって、ここ数十年多くの人たちが日蓮正宗の信徒になりましたが、その人たちの意識には、日蓮正宗に入信したという実感ぐらいあったとしても、受戒の師=田舎の小師を自分の信仰上の師匠とする意識など無に等しかったでしょう。もっとも、戒を授ける側にしても、入信者を弟子として迎え入れる意識など全くなかったのですから、それも無理からぬことです。

 双方ともに、師弟の契りを結ぶことを意識していないのですから「能々取リ定メテ信ヲ取ルベシ」と言うこともなされるはずがありませんでした。現に学会員は、今でも末寺の住職が師匠であるなどという感覚は皆無でしょうし、末寺に所属している意識も限りなく薄いと言えましょう。その裏返しとも思えるものが、何かことが起ると決って繰り返された「血脈付法の御法主上人に随順する」という発一言です。つまり信徒として、ごく当り前とも思えるこの発言が実は裏を返せば、学会員が末寺の住職を師匠として少しも認めていないことの証にもなるのです。これほどまで貫首直属の信徒が膨れ上がったことは、宗門史上において希有なことであり、それが当家の化儀にとっては実に奇異なことだったのです。

 

《田舎の小師と弟子檀那の師弟》

 先に私は、富士門流の上代では、各地方において田舎の小師と弟子檀那が師弟の契りを結ぶと述べましたが、このことをもう一重立ち入って考えれば、富士門流において貫首直属の弟子檀那は原則的に想定されていないとも言えるのです。

 わずかに、大石寺周辺の信徒に対して「直檀那」という形をとり、「本寺直の弘通所」においてむしろ例外的に「直弟子たる」ことが認められていることは、このことを裏付けるものとも言えましょう。本寺周辺においても、信徒は各塔中に所属しているのが一般であるようです。貫首は「公の人」であることに徹して、直属の信徒を持たないのが富士門流上代の化儀なのであります。

 各地方における「手続の師匠」との師弟関係を大切にすること、誰を師匠として弟子檀那になったかを明確にすることは、上代ではかなり厳密に守られておりました。

 元亨年間、日興上人は佐渡の法華講衆が手続の師に迷い講中の動揺があらわになった時、一通の消息を認められました。その中で繰り返し「師は誰にて候けるぞ」と戒められ、「この法門は、師弟子をただして仏になり侯」と講中に説示されております。さらには、大聖人が本弟子六人を定められたことに言及され、「うちこしうちこし直の御弟子と申すやからが、聖人の御ときも侯しあひだ、本弟子六人を定め置かれて侯、その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるために侯」(歴全1ー184)

 と師弟のあり方を示されました。「うちこしうちこし」とは、一足飛びに超えての意味です。聖人の門下においても、教化を受けたところの師を蔑しろにして「たれは聖人の直の御弟子」であると言い募る人がいたわけです。師弟子の法門にとって、師弟の筋目を違えることは致命的なことだったのでしょう、大聖人は入滅にあたって本弟子六人を定め、その教化にかかる弟子は必ず「(本弟子の)弟子なり」と言わせようとされました。この話を日興上人は、佐渡の国で起った法華講衆の問題に当てはめられて、直接の師を大切にしなければならないことを諭されました。このことは日有上人が後に、手続の師のところに「能々取リ定メテ信ヲ取ルベシ」と仰せられたことが、既に日興上人の時代に示されていたと言えましょうか。

 上代の布教は、地縁、血縁をたよりに展開されていました。さらには、中世は現代のような交通の便のない時代であります。それぞれの地域で師弟の契りが結ばれ、講中が結成されてゆく、それが自然な姿でもあり、師弟子の法門に叶う形態でありました。結論的に言えば、日有上人は〈師弟〉という言葉をほぼ「田舎の小師」とその「弟子檀那」に宛てて使用されているのではないか、と私は思います。それを逆から言えば、弟子檀那もまたそのように〈師弟〉を受け取っていたのではないか、と思うのです。たとえば日有上人当時の人々、各地の講衆が、  

「さて末法今時は悪心のみにして善心なく、師弟共に三毒強盛の凡夫の師弟相対して又余念無く、妙法蓮華経を受持するところを即身成仏とも名字下種ともいはるる也」(歴全1ー285)

 という仰せを耳にした時、そして現実にそれを我が身に引き当てた時、手続の師との師弟相対が思い浮かぶことは、ごく自然なことであったろうと思います。さらに日有上人は、この末寺における師弟相対の乱れることを厳しく戒められて、次のように仰せられています。

「私檀那の事其れも其の筋目を違わば即身成仏と云ふ義はあるべからざる也、其の小筋を直すべし、血脈違は大不信謗法也」(歴全1ー337)

 これは後に述べるように、信徒を住職に従属させるために仰せられたものではありませんが、「小筋を直すべし」の表現は、日有上人の「師弟」が基本的に末寺の師弟を心掛けていたことを少なからず支えるでしよう。実は、日有上人の使われている「血脈」の語もこの観点からもう一度考え直してみる必要がある、と私は思っています。

 

《師弟共に三毒強盛の教え》

 ここまで当家では、「田舎の小師」とその「弟子檀那」の師弟が如何に大切にされてきたかを述べてきましたが、このことについて二つの留意すべき点があることを指摘して置かなければなりません。

 一つには、この末寺の師弟の強調が、稍もすると住職の檀信徒に対する支配権の強調と受け取られかねないことです。「能々取リ定メテ信ヲ取ルベシ」とありますから師が完全に上位に立ち、弟子檀那を下位に置いて従属させる。法義的に言えば、師が覚者の立場を取り、迷者たる弟子檀那を成道に入らしむ。こういう教えではないかと誤解を招く恐れがあるわけです。あまり良い言葉ではありませんが、師が弟子檀那の生殺与奪の権利を握っているかのように考えることは、厳に慎まねばならないことです。日有上人は、末寺の師弟の上位、下位を定めるために本文の項目を説かれたわけではありません。この項目の主眼は、  

「此ノ時ハ何レモ妙法蓮華経ノ色心ニシテ全ク一仏也。是レヲ即身成仏ト云也」

 と説かれたことにあります。

 師弟相寄ったところに「一仏」をみる、またそれを「即身成仏」という、これが当家の信仰の最も大切なところであります。旧来の仏教の師弟観からすれば、師は断惑の覚者の立場を取り、弟子は未断惑の迷者の位にとどまります。つまり師は仏の側に立って、迷いの衆生の側にいる弟子を成仏に導く、または仏の側に弟子を摂入するとでも言いましょうか、師弟は明確に上位と下位に分かれております。

 しかし、当家の法門では師匠も弟子も共に迷者の位にあって、その二人が相寄って「一仏」を形成しています。師が弟子を摂入するのではなく、師と弟子の出会う、その出会い頭とでも言うところに「一仏」をみているわけです。師弟両者ともに迷者の位にいるわけですから、そこには絶対的な上下というものがありません。もちろん、自ずと生じる礼節というものはありましょうが、それは特段に強調される性質のものではありません。当家にいう師弟の関係は、従属や隷属ではなく〈信の宗旨〉という看板のとおり互いの信頼によって結ばれていなければなりません。日有上人の仰せられた「能々取リ定メテ信ヲ取ルベシ」の「信」は決して一方通行ではないはずです。もともと「信」ということ自体、互いに信じ合うのであり、こちらからは信じるが向こう側はソッポを向いているというのでは「信」ではありません。たとえば私たちが曼茶羅本尊を信じる、聖人御影を信じる、といっても決して私たちが一方的に信じているわけではありません。すでに曼茶羅本尊、聖人御影は信をもって私たちを見つめているのであり、そこに真実の「信」が成り立って「一仏」を現じ、妙法蓮華経が成就するのであります。  

「宗旨の深義に約する時は信心と云ふは一人しては取り難し、師弟相対して事行の信心を取る」歴全1ー417)

 という日有上人の言葉は、まさしく「信」の本義を言い得て余りあります。末寺における師弟が信をもって相寄り「一仏」を成じていく、このことが「師弟相対して事行の信心を取る」ことに他ならないのであります。

 ここでもう一度、受戒の儀式を思い起こして下さい。なぜかと言えば、師弟相対が事行の上で端的に現われるのは、やはり末寺における受戒の儀式であろうと思われるからです。受戒には、師弟互の信の発露があります。

 「持ち奉るや否や」「持ち奉るべし」という短い言葉のやりとりの中にも、互いに合掌し、「信」を確かめ合っている姿が感じられます。私は、この受戒が師弟の契りを結ぶ儀式であること誠に明らかだと思いますが、この時に、弟子が頭に戴く本尊もただ誓いのために押し当てられるのではなく、師弟同時に唱える妙法のもとに本尊が成就する意ではないかと思います。先ほど師と弟子の出会い頭と言いましたが、師弟相寄ったところ、それも弟子の頂上に本尊が成就するといった意が含まれているのかも知れません。この受戒の姿全体を「何レモ妙法蓮華経ノ色心ニシテ全ク一仏也」とみることも出来ます。ここでも、師弟二人にして「一仏」をなすという当家独歩の法門が展開されております。

 一般的に考えれば、受戒は本寺に登って受けるものなのでしょうが、当家ではそれが末寺で行なわれ、原則的に本寺でなされていない事実も「師弟」を考える上で興味深いことのように思われます。

 

《貫首と末寺師弟の関係》

 次に、末寺の師弟を考えるときの留意すべき2つ目の点について申し述べます。

 それは1つ目のことと関連しますが、末寺の師弟が絶対的に強調されていきますと、はたして本寺住持=貫首という存在が必要なのかどうかという問題が生じてきます。

 貫首の存在が限りなく薄くなると言いますか、末寺の師弟によって貫首が無視される事態が起こり得るわけです。はたして、それが富士門流の本来的な姿かといえば、やはりそれは疑問であると言わざるを得ません。そこで、末寺の師弟に対して貫首の役割、立場は一体どういうものなのかを考察していかなけばなりません。さらには、末寺に対する本寺の役割をも合わせて考えていく必要があります。まず前者において、化儀抄の六十八条に次のような項目があります。

 「仏の行体をなす人には師範たりとも礼儀を致すべし、本寺住持の前においては我が取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振舞ふ也。信は公物なるか故也」(歴全1ー256)

 これは、仏の仰せに叶う振舞いをなす人には、それが自分の弟子であっても礼儀を致しなさい。本寺住持=貫首の前においては、自分の弟子であるという意識をなくして、あたかも同輩のように振舞いなさい、と示されたものです。「我が取り立ての弟子」とは、末寺の住職が取った自分の弟子という意味です。「公物」という表現がありますが、これは平等とか公平の意をあらわし、信が私的な所有物になり得ないことを示されたものです。このことはまた、貫首が「公の人」であり、末寺の師弟と私的な関わりを持たないことにつながるものであります。公の立場に徹することによって、貫首は私的な末寺の師弟を一瞬に解きほぐす力を所持している生言えましょうか。

 いずれにせよ、貫首の前では末寺の師弟関係(この弟子分に末寺の信徒を加えることも出来ます)が消滅して、みな平等になるというのですから、貫首がある意味で別格の扱いになっていることを認めないわけにはいきません。末寺の師弟が共に三毒強盛で上下の関係にないことは前に述べた通りですが、しかし、それにしても、師弟を末寺の住職とその弟子檀那に限って固定してしまえば、いつしか強い上下関係がそこに生じるかも知れません。それを解きほぐして、本来的な平等の姿に立ち帰らせるのが貫首の立場ではないかと思うわけです。

 いわば師弟子の法門の中でいちばん大切な師弟が共に三毒強盛の同輩であることを決定づける役割を本寺住持=貫首は持っているとこ言えるのです。あたかも、本尊の前では貴賎道俗や師弟の関係が消滅してしまうようにです。ある意味で、貫首は曼茶羅本尊・聖人御影にきわめて近い役割をはたしている、といえば言い過ぎになるでしょうか。

 私は、こう言ったからといって、今流の権力をかさにきる貫首本仏的な主張に堕したとは思っていません。何故ならば、先ほども申しましたように、貫首は原則として直属の信徒を持ち得ない存在だからです。貫首には私の檀那はいないのですから、本来は支配権を振るおうにも振るえない立場にあるわけです。本寺もまた、本来は私の信徒というものを持たない公な立場を堅持しなければならない寺院です。

 少なくとも日有上人の聞書を拝する限り、本寺住持=貫首は、すぐれて精神的な存在に規定されているように思われます。っまり、貫首は個人の欲望を発揮し得ない公の立場にあって、象徴的(この表現が必ずしも適当とは思いませんが)に振舞うことが義務づけられているのです。第三章二節において、本寺住持=貫首が居住(本山)の僧と遠国の僧に対して、平等に無縁の慈悲を発揮すべきことが説かれていましたが、その一例であると言えましょう。

 これらのことを踏まえ、富士の立義を事行の法門として展開する上で、本寺住持=貫首は大切な役割を持つものと思われます。本寺住持ー田舎の小師ー弟子檀那、この三者によって師弟子の法門は構成され、さまざまな化儀の上に事行の法門として顕わされているのであります。

 しかし、いずれにせよ、法門が如何に立派に綴密に組み立てられていようと、それを体得して運用するのは僧侶(貫首も含めて)であり、信徒であります。たとえば日有上人の化儀抄にしても、項目を教条的に読んで都合よく解釈すれば、時に貫首本仏も誕生します。あるいは、住職による信徒支配が強化されたり、弟子檀那の放逸な行動が生まれたりもするのであります。煎じ詰めれば、このことは信仰者の道念に深く関わることなのであります。

 特に、貫首は門流における最も重要な立場の人であり、常にそれ相応の「器量の仁」が求め続けられていると言えましょうか。

 

II.         「師弟共ニ三毒強盛・・・」

1.難シテ云ク、絶待妙ト者無可対待独一法界故絶待ト観シテ絶待妙ト云フハ独一法界ノ内証ニシテ理ニテ侯也。争カ事ノ宗旨ト云ヒ乍ラ絶待妙ノ処ニ宗旨ヲ建立有ル若ル可キ耶。答フ、絶待妙ニ於テ事理ノ絶対コレ有リ、面々申サルル処ノ絶待ハ理ノ絶待也。サテ當宗建立ノ絶対ハ事ノ絶待也。其ノ故ハ本法ノ妙法蓮華経ヲ師弟共ニ三毒強盛ノ凡夫ニシテ他ニ余念無ク受持スル処ニハ何レノ麁法カ有ッテ麁法相対スベキ耶、麁法相対ト云フハ智者解者解了ノ分也、全ク後五百歳ノ我等凡夫ノ愚者ノ上ニハ鹿妙相対ノ分ハ有ルベカラザル也。去ル間当宗ハ絶待妙ノ処ニ宗旨ヲ建立スル也、是レ全ク理ノ絶待ニ非ザル也。(下野阿闍梨聞書  歴全1ー393)

 本文は下野阿闍梨聞書の一段であり、当家と天台宗における相待妙、絶待妙の解釈の相違を示されたものです。

 前節にて、当家の師弟子の法門が本寺住持ー田舎の小師ー弟子檀那の三者によって構成され、さまざまな化儀の上に事行の法門として展開されていることを述べました。特に末寺における受戒の儀式は、三毒強盛の師弟が互いに信をもって妙法を唱え本尊を成じるもので、当家の師弟子の法門の根幹を担っていると述べました。

 そこでここでは、なぜ当家に限って師弟子の法門が強調されるに至ったのか、なぜ日有上人が「師弟共二三毒強盛」であることを再三にわたって示されたのか、この点を法義の上から説明したいと思います。そのために関連する項目を選びましたので、本課天台宗と当家の問答をまず簡略に通釈致します。

 天台宗の人達が当家を難じて云うには、絶待妙とは止観の三に「待対すべきもの無ければ独一法界なり、故に絶待止観と名づく」とあるように、独一の法にして他に対比すべき何物もない世界のことであり、内証にして理の世界のことである。富士門流においては、ことさらに「事の宗旨」といいながら、どうして理であるところの絶待妙に宗旨を建立することができようか。これは明らかに富士門流の法義の矛盾である。これに答えて日有上人は、絶待妙においては事理の絶待がある、あなた方が言われるところの絶待は「理の絶待」であり、当宗に建立するところの絶待は「事の絶待」である。

 本法の妙法蓮華経をともに三毒強盛の凡夫の師弟が他に余念なく信じ唱えるところは、いずれが粗末な法で、いずれが尊い法であるという議論のないところである。すなわち、麁と妙の相対すべからざる世界である。麁妙相対の議論のある世界はかえって智者、解者の理解納得する分域である。全く末法の私たち凡夫の愚者の上には、麁妙相対の分をとることは有りえないのである。こうして当宗は絶待妙のところに宗旨を建立しているのであり、これは「理の絶待」とは大いに相違するのである。

 以上が本文の通釈ですが、この項目は一つ前の項目の設問に続けて展開されているので、正確を期すためにその部分を記しておきます。

「又天台宗云く、今の法華宗は相待妙の処に宗を建立する也。その故は彼は妙、是れは麁と麁妙相対する故に爾か云う也。答ふ仰せに云く、我等の宗は左様には無く侯、絶待妙の処に宗旨を建立して候也」(歴全1ー393) 

 このあと、本文の冒頭「一、難シテ云ク……」に続きます。つまりこれも天台宗側からの日蓮宗に対する非難ですが、天台宗からすれば当時の日蓮宗は相待妙、絶待妙のうち相待妙に宗旨を建立している、なぜならば、日蓮宗では麓法と妙法を相対させて取捨選択するからである、と言う非難があったのです。それに対して日有上人は、他門下のことはさておいて富士門流では絶待妙のところに宗旨を立てていると断言されました。

 そこで本文に入って、絶待妙とは理である、富士門流は「事の宗旨」を看板にしているのだから明らかに矛盾ではないか、と天台側からの再反論があるわけです。これは天台宗においては、絶待妙、相待妙を事理に配して絶待妙=理、相待妙=事と固定してしまったがゆえの論難なのですが、これに一対して日有上人は、天台と当家の世界観の相違をもって切り返されました。

 

《智者の法門と愚者の法門》

 本文を拝して、ただちに了解されることは、日有上人が「事理」を天台通途の解釈である、

事= 森羅万象の差別相・相待妙ー迹門

理= 無可対待の真如・絶待妙ー本門

 と把握せず、「事」を末法の凡夫愚者の「事迷」と示され、そこに当家の絶待妙を立てていることです。また、それに対比して天台宗の立場を「智者解者」の宗旨と規定しております。このことを他処において日有上人は、

「惣じて事と云ひ理と云ひ、愚者と云ひ智者と云ひ、断惑と云ひ未断惑と云ひ、本と云ひ迹と云ひ、在世と云ひ滅後と云ふ、何れも迹門と云はば理也、智者也、悟也、善也(中略)惣じて理と云えば理体無差と云って、理と云はば無差別の重を愚者迷者の所知のおよばざる処也」(歴全1ー390)

 と、さらに明瞭なかたちで仰せられております。っまり、日有上人は先の天台通途の「事理」の解釈とは別に、

理=智者ー悟ー在世ー迹門=天台

事=愚者ー迷ー滅後ー本門=当家

 という図式をもって顕し得る「事理」を考えられておりました。そして前者に台家の「理の絶待妙」、後者に当家の「事の絶待妙」を配されました。それでは、当家における相待妙とは何か生言えば、三毒強盛の師弟がともに相い向かうところ、すなわち「師弟相対」をもって当家の相待妙とされ、台家が難じたところの麓妙相対は、かえって「智者解了の分」であるから台家の相待妙にとどまると退けられたわけです。このこともまた同じく下野阿闍梨聞書に、

相対妙において爾前迹門本門の不同これあり(中略)さて迹門には麁妙相対してこれを論ず、麁とは爾前也、妙とは法華也。さて本門には師弟相対して余事余念無く妙法を受け持つ処が相対妙にして、その当位を改めず受持の一行十界互具一念三千の妙法蓮華経也と得るが即事の絶待不思議の妙法蓮華経也」(歴全1−399) 

 と示された通りであります。これらの日有上人の仰せをまとめれば、

 

と図示することができましよう。

 のちに日寛上人が六巻抄において、台家に言う事理の一念三千をともに通じて迹門の理の一念三千と下し、本門事行の一念三千を詮顕されましたが、それが上代よりの相伝であることは、これらの日有上人の聞書に明かであると思います。また、旧寛上人は台当、の差異を「法体の事理」という言葉をもって示されましたが、このことは日有上人が「事迷」と「理悟」によって本門・迹門、在世・滅後をたて分けたことと同意であります。

 ここにきて明確に了解し得ることは、台家と当家の差異が智者(仏)を主体とする法門か、愚者(衆生)を主体とする法門かによって、さまざまに生じていることです。そして、これは法門の構造的な違いでありますから、互いの教義のすみずみにまで及んで台当の差異が認められます。なかには、台当で同じ言葉を用いながらも、その意味内容が微妙に、または明らかに相違することがあります。

 本文にあらわれた「事理の絶待」なども好個の一例ですが、もちろんそれのみならず、本迹、本仏、本尊など法義の根本に関わる用語はすべて、その危倶ありとして文献にあたる注意が必要になります。

 それはさておき、智者を主体とする法門か、愚者を主体とする法門かの相違は、いったい何を分岐として起こるのかと言えば、それは末法という時節の作用によるといっても過言ではありません。大聖人は如説修行抄に、  

「其の故は在世は能化の主は仏なり、弟子又大菩薩・阿羅漢なり(中略)何に況んや末法今の時は教機時刻当来すといへども其の師を尋ぬれば凡師なり、弟子又闘諍堅固・白法隠没弟・三毒強盛の悪人等なり」(全集501) 

 と説かれましたが、これは在世を師弟ともに智者の世界、末法を師弟ともに愚者の世界と示されたものと言えましょう。ここに、在世と滅後の師弟観の相違を明らかに読みとることができます。台家は、末法に入っても釈尊在世の世界の師弟を堅持しようとします。当家は、末法に入ることによって在世の智者の師弟を離れ、師弟ともに三毒強盛の世界に法門を建立しようとします。このことが、台当両家の差異の根幹部分であり、これによって法義の相違点がさまざまな形で派生してきます。

 大聖人滅後、他の日蓮門下が天台与同に変質していきますが、このことも末法の師弟がともに三毒強盛であることが忽せになってしまった結果ではないかと私は思います。

 

《両者の法義上の相違》

 それでは、智者の法門と愚者の法門ではどのような差異があるか主言えば、まず本尊に決定的な相違があります。

 前者においては三惑已断の仏、すなわち私たちがよく口にするところの色相荘厳の釈尊が本尊になります。教化を受けるところの衆生も本已有善といいまして、すでに善根を有している智者の分域に属する衆生です。その衆生が、惑を断じたところの仏を目指して修行するわけですから、その修行も釈尊の五戒をたもち、五種の妙行(広の修行)を一も欠かさず修めなければなりません。成仏においては歴劫の修行を経て、位を一つずつ上げていき、つい釈尊と同等な妙覚の位にのぼる、言うなれば、妙覚果満の不退の成仏を目指すわけで戒定慧」の三学で 「一を欠いても成ぜず」(全集338)を文字どおり実践して三つともに修めていきます。それに対して当家は、釈尊の化縁尽きた末法に宗旨を建立しています。  

「今は既に末法に入って在世の結縁の者は漸々に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」(全集1027)

 の仰せどおり、色相荘厳の釈尊の済度し得る衆生は、すでに末法におりません。在世の衆生が本已有善であるのに対して、末法の衆生は 本未有善、未だ善根を少しも有しない衆生です。つまり末法は、在世のように色相荘厳の仏身も在さず、衆生も愚悪の凡夫です。そこで日有上人仰せの、

「滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とする也」(歴全1−347)

 という状況が生まれます。当家では未断惑の導師を本尊とするぐらいですから、私たちの目指す成仏も、在世のように惑を断じ尽くした仏に成るわけではありません。煩悩を有したままに成仏を遂げる即身成仏を目指すことになります。即身成仏とは「当位を改めず」仏になることですから、階段を一つずつ上がるように位を改める歴劫修行をとりません。信の当初に成仏を観ています。ゆえに、在世のように釈尊の五戒を持ち、受持、読、諦、解説、書写の五種の妙行を用いることもありません。広の修行をとらず、受持の一行を肝心とします。戒定恵の三学でいえば、四信五品抄に、  

「所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る、慧又堪えざれば信を以って慧に代え・信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因・信は慧の因・名字即の位なり」(全集339)

 と説かれておりますように、慧の一分に限り、それまた末法の衆生には撃又ざるところなので信の一字すなわち受持の一行に末法の修行を集約させています。

 ここで名字即ということが説かれますが、この位は妙法蓮華経を聞法して初めて信を起こす処で文天台では修行者の段階を六つに分け、理即、名字即、観行即、分真即、相似即、究竟即の六即を立てますが、当家は「師弟ともに三毒強盛」の立場から六即を名字の一即に摂入しております。因みに究竟即は妙覚の位、理即は種子を有するものの未だ信を起こしていない状態です。

 当家の法門は、この名字即において信を起こし直ちに成仏を遂げます。このことを即身成仏と同じ意味ですが、名字即成とも言います。

 ゆえに私たちの信仰は日蓮聖人本尊としますが、その仏身は在世の三十二相八十種好を備えられに仏身ではなく、名字即の仏であることを確認しなければなりません。名字即の仏を信仰して、直ちに私たちも名字即成を遂げる、これが愚者を主体とする法門の成仏観と言うことができましょう。

 相伝書に、  

「日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり」(本因妙抄、富要1ー4)

 という一文がありますが、私たち理即の弟子檀那は、師である名字即の大聖人に信を起こし師弟一箇して成仏を遂けるわけです。この時は師弟同声に妙法を唱え、時々刻々一仏を成じます。以前にも述べましたように師弟二人で一仏を形成するのであります。

 このことを少し委しく言うならば、当家では「日蓮聖人を本尊」としますが、これは大聖人を本果の仏と拝することではありません。大聖人は、不退の成仏を得て私たち愚悪の凡夫と遠くかけ離れた

 存在になられたのではなく、信をもって常に私たちと共に成仏を遂げる形をとります。

「宗旨の深義に約する時は信心と云ふは一人しては取りがたし、師弟相対して事行の信心を取る」歴全1ー417)

 正確に言うならば、名字即の仏とは一人の仏ではなく、師弟二人で形成する仏と言うことになりましょう。当家では、当然のごとく日興上人が弟子を代表されますので、法義の上からは日蓮日興の師弟をもって一仏を形成します。日有上人が日拾聞書に、  

「十界事広しと云へども日蓮日興の師弟を以つて結縁也」(歴全1ー409)

 と仰せられ、戒壇の本尊が富士門流において日蓮日興の師弟一箇の本尊と相伝される所以はここにあります。私たちは、常には理即の凡夫であるものの、信を起こし朝な夕なに曼茶羅本尊、日蓮聖人に相見え妙法蓮華経と唱える姿は、弟子たる日興上人の一分につらなり、師弟一箇の成道を遂げているわけです。

 

《「師弟共ニ・・・」の二つの意味》

 上述してきましたように、当家の成仏観は、あるがままの凡夫が当位を改めずに信の一字をもって達成します。これを即身成仏とも名字即成とも言いますが、この当家の成仏観が少々わかりずらいのは、他宗他門のごとく一人の成仏ではなく、師弟同時の成仏を説いているからではないか、と私は思います。

 他の日蓮門下や天台宗、真言宗などでも即身成仏を一言いますが、それらはみな修行者一人のうちに成仏を観るもののようです。

 しかしながら当家では、日興上人が「この法門は師弟子をただして仏となる」と繰り返し仰せになられたとおり、師弟一箇の法門は開山以来の富士門流の伝燈と圭言えるものになっています。聞書を拝しましても、全編これ師弟子の法門を説き明かされていると言っても決して過言ではありません。また、日興上人が法義にたいへん厳格であったことは、他門の学者でさえ認めるところであり、それがため五一の相違といわれる五老僧との法門上の異義が起こったことも事実であると思われます。これを思うに私は、富士門流と他門下との間には、この師弟子の法門における異義が根底にあったのではないか、と考えます。この師弟観の相違が本尊観、成仏観、修行観をことごとく異義たらしめた土台になっているのではないかと思うのです。また大聖人と天台、真言などの諸宗との異義も少なからず師弟観の相違が影響しているものと思われます。

 しかし、このことは大聖人の師弟観、釈尊上行の師弟、当時の天台および五老門下の上行菩薩にする考え方なと、多くの問題を含んでおりますので、後述することにしまして(第7章、2節参照)今は日有上人の聞書に限って他宗他門との異義を述べたいと思います。

 さて日有上人が諸処に「師弟ともに三毒強盛の凡夫にして又余念無く受持する」等と示されたことには、二つの意味を見いだすことができます。1には、師を断惑証理の仏と取り違えることへの誠め、2には、一人にて成仏を得るとすることへの誠め、ではないかと思います。前者は、今まで述べてきましたように、台家が末法に入ってなお智者の法門を立てて断惑の仏を師とすることへの指摘です。また、門下が、凡夫の即身成仏という法門を立てながら、色相荘厳の釈尊を本尊として広の修行に執心していることへの破折でもあります。

 このことを日有上人は、

「日蓮宗の当位は愚者迷者、無知三毒強盛の凡夫の上にして余事余念なくして南無妙法蓮華経と唱ふる処が即身成仏の当体と立てながら広の修行のみ也、さながら智恵の御沙汰計り也」(歴全1ー323)

 と厳しく批判されています。つまり、これは愚者の宗旨といいながら智者の法門を立てることへの指摘なのです。それゆえ、五門徒は日蓮宗でもなく天台宗とも言われず、あえて言えば天台の法門を盗む仏法の外道となろうと言われています。

 また、他にも日有上人は、末法愚悪の凡夫が断惑証理の仏を師とすることは他の家の宝を数えて半銭の得にもならないことと同意だと仰せられています。すなわち、これらは時節を混乱して師を取り違えることを誠めたものと言えましょう。

 次に、一人にて成仏を得るとすることへの誠めとは、理即本覚の法門を強調する宗旨に対するものです。末法の凡夫が、当位を改めずして直ちに成仏を得るとは実に有難いことですが、ここに一つの陥りやすい落し穴があります。理即とは先ほど、妙法の種子を有しているものの未だ信を起こしていない状態であると言いました。その理即が凡夫即極をよいこととして、一人にてそのまま成仏を遂げるというのが理即本覚の法門です。

 一見すると理即本覚は、すべてに即身成仏を許して、たいへん有効かつ平等な法門のように感じますが、受持の一行すら持たない衆生がそのまま成仏するという教えなので、その世界は慢心・退廃を生じさせる温床となります。煩悩即菩提を通り越して煩悩即煩悩などという極論が生まれ、迷いを増幅させることがそのまま正覚であると説かれたりもします。そのうえ、理即本覚は愚者の法門のように見えて、実は智者の法門の分域に入るものなのです。この点を日有上人は備前律師との問答で次のように示されています。  

「律師の云く、種子と云ふは理即本法の処が正種子にてこれ有り、全く名字の初心にてこれ無し云云。仰せに云く、其れは智者の種子也、其の故は理即とは一念心即如来蔵理にて理なる間、仏の意の種子也、此の理即本法の種子を名字の初心にして師弟ともに三毒強盛の凡夫にして又余念無く受け持つ処の名字の下種也、理即は但種子の本法にして指し置きたる也、理即にて下種の義意得ざる也、下種と云うは師弟相対の義なり。去る間下種と云ふは名字の初心也」(歴全1ー396)

 このところが凡夫の成道を目指す宗旨にとって、もっとも肝要とすべき点であります。律師の主張は種子をもって成仏と定めるならば理即に本法の正種子はすでに有るのだから、聞法の名字即をまつまでも無し、と言うものでしよう。しかし、その主張に対して日有上人は「其れは智者の種子也」と、あっさり退けられました。なぜならば、未だ種子である妙法蓮華経の信を起こし得ていない理即は、自らの正種子であることも確認できないのであって、それを種子であり成仏と規定するのは実は智者の眼だというわけです。

 下種というのは決して一人の所作ではない、必ずそこには受持、信がともなわなければならない、つまり師弟がともに信をもって互いに妙法を受持するところが下種である。理即は種子が、そのまま放置されているに過ぎないのであって、それを下種と認めることはできないというのが日有上人の仰せです。ここに、同じく凡夫の成道を説きながら理即本覚と名字即成の法門の大きな差異を見ることができます。は下種の義が欠けてしまうので、あくまでも弟子一人の自然覚了のような立場に堕してしまいます。私たち弟子檀那の立場も理即に違いありませんが、信をもって名字即の師に一箇することによって理即名字の中間に一仏を形成することが叶います。

 日拾聞書には「一義に云わく」として、

「日蓮は理即には秀でたり、名字には足らずと遊ばし玉ふ」(歴全1−410)

 と記されていますが、理即名字の中間に日蓮本仏が示されているようで、なかなか興味深い御文であります。

 日有上人の示された「師弟共ニ……」の二つの意味、すなわち師弟子の法門のもつ二つの役割とは一方において末法に無益な智者の法門を嫌い、他方において凡夫の成道の暴走にブレーキをかけることはないかと私は思っています。いずれにせよ当家の法門では、そこに受持および信が強く働いていることは疑い入れません。

 法義上の説明が長くなりましたが、話を現実の本寺住持―田舎の小師―弟子檀那というそれぞれの師弟に引き戻しても、やはり、そこには受持および信、私たちの身近な言葉で言えば互いの信頼ということが鍵になるのだと言えましょうか。

 

 

III.     本末関係と師弟

1. 遠国住山ノ僧衆ノ中ニ本尊守リ有職実名等ノ望ミ有ラハ、本寺住山ノ時分タリトモ田 舎小師ノ方へ、本寺ニ於テ加様ノ望ミ侯、如何為スヘク候耶ト披露シテ、尤モ然ヘキ様、 小師ノ領納ヲ聞キ定メテ、本寺ニ於テ加様ノ望ミヲ申ス時ハ田舎ノ小師ニ談合ヲ至シ、 可様ノ望申ス由申サレ候時キ、諸事ノ望ミニ随テ本寺ニ於テ免許候ヘハ信ノ宗旨ニ相 応シテ事ノ宗旨ノ本意タリ、其ノ義無キ時ハ理ノ宗旨、智解ノ分ニ成リ候テル爾ベカラ ス云云。(化儀抄、歴全1ー353)  

 本文は化儀抄の第60条です。はじめに通釈致します。

 地方遠国の末寺より本寺に登り、修行している僧侶が曼茶羅本尊・守り本尊・阿闇梨号・日号などを願うならぱ、たとえ本寺住山の時であっても必ず地方末寺の自分の師匠のところに帰り、「本寺において、次のように願いたく思います。どのように為すべきでしょうか」と披露しなければなりません。そして、師匠に従い、了解を得てから本寺においてしかるべく願い申し上げます。「師匠にお伺い致し、次のように望み請うものです」と申し上げた時、御本尊や阿闇梨号などの諸事の望みに随って、本寺において初めて免許がなされるのであります。これが、当門流の〈信の宗旨〉に相応するものであり、〈事の宗旨〉の本意に叶うものです。もし、その義の無い時には〈理の宗旨〉に陥り、信よりも智解を先とする宗旨になるので、当門流では認めざるところであります。

 以上通釈ですが、今節はこの項目を基にしまして、化儀抄中の本寺と末寺の関係を示した数箇条を解釈し、さらには他門下の本末関係と比較検討することによって、上代の富士門流の組織形態がどのようになっていたか、またはどのように運営されていたかを説明したいと思います。

 本書の第1章にも述べましたように、日有上人は大聖人の仏法をただ確認するだけではなく、それを富士門流として、一つの教団として化儀の上に定着させました。無論それは、日有上人個人が富士門流の化儀を創始されたという意味ではありませんが、少なくとも日興上人以来の富士門の化儀・信条を日有上人の時代に整備され、一つの教団の上に具体化させていったとは言い得るでしょう。

 これは各門下に共通したこととも言えますが、日有上人の時代は大聖人滅後ほぼ百五十年から二百年を経過しておりまして、各門下ともに門流、教団の規範を示し、僧衆および檀信徒の教導に務めなければならない時期に当たっていました。

 例えば、京都では四条門流から分流した妙覚寺の日成師や日延師が応永20年(1413)『妙覚寺法式』を、中山門流のあり方を否定した久遠成院日親師は本法寺を創立して『本法寺法式』をそれぞれ定め、八品派の慶林日隆師は宝徳3年(1450)『信心法度事』を制定して門下の僧俗に示しました。また、そのころ身延派においても、行学院日朝師という碩学があって、身延門流の化儀を制しています。同門に例を求めれば、讃岐の本門寺では文安3年(1446)に『本門寺条目』、文明3年(1471)に『本門寺法度』を定めております。

 これら門流の規範を示した事書は、それぞれ「法式」「法度」「定」「禁制」などの名称をもって呼ばれ、そのことが象徴するかのように、各門下の門徒に対する厳しい制誠が箇条にして記されております。

 すなわち、各山各門下の諸法度はそれぞれの集団を維持経営していくために本寺住持=貫主の名において宣布されるものであり、その性質上、著しく中央集権的な色彩が濃いのであります。しかし、その中において、上代の大石寺には各門下の諸法度と性質を同じくするもの――末寺の本寺参詣を義務づけたり、末寺住持の任免権や処分権を明示する等は発行されておりません。日興上人の遺誠として伝えられる26箇条、さらには日有上人の121箇条(化儀抄)にしましても、その箇条の多くは富士門流の化儀・信条を示されたものであり、ただ単に本寺が末寺を規制統轄しようとした法度や禁制とは趣きを異にしています。そのことを堀日享師は遺誠にせよ、化儀抄にせよ「一山の特規なりとは見えぬ」(富要8−227)と言われています。

 例えば他門下の諸法度の場合ほとんどの箇条は末寺の僧俗の行儀に対する制誠であり、しかも、いま述べましたように門流を代表する本寺・貫首からの一方的な戒告です。しかし化儀抄の場合は、本寺からの戒告あるいは通達ではなく、あくまでも〈本寺、末寺〉〈貫首、僧衆、檀信徒〉すべてを含んだ富士門流全体を相手にした教示がなされています。それも教示は訓戒にとどまらず、化儀や法一門にも及んで121箇条を数えます。むしろ、見方をかえれば化儀抄は門徒に対する訓戒の書ではなく、富士の法門を化儀によって分かりやすく説示したものと言えましょう。

 これほど、懇切丁寧に化儀のあり方を示したものは日有上人の同時代に限らずとも、他門にはなかなか見当りません。(化儀抄は室町時代の習俗やものの考え方が多く示されているので、歴史学や民俗学の史料としても貴重なものでしょう)。これらの点は化儀抄の特徴であり、他門下の法度類にはみられないことです。両者のもっとも大きな相違は、他門下の法度類は門下を規制するための箇条であり、化儀抄は富士の法門、なかでも〈凡夫の成道〉を本末僧俗が一体となって成就するための条目であると言っても過言ではありません。故に、他門下における本寺末寺は主従関係が強く示され、それに比して富士門の本末関係は、相互的な役割を果たす立場を堅持しているように思えるのです。これは強ち我田引水で申しているわけではありませんので、以下に彼我の比較検討をしてみたいと思います。

 

〈他門と富士門との本末関係の比較〉

 まず他門下の法度・禁制のうちで、本寺と末寺との関係がよく示されているものに四条門流開祖の日像師が定めた『禁制条々』があげられるでしょう。この禁制は六箇条からなるものですが、その中に「一、二季御仏事不参事」という項目があり、

「諸国僧徒等、妙顕寺門徒不参の輩においては、本所に違するの過に依って永く謗法に准じて門徒を放つべきもの也」

 と示されております。すなわち四条門流においては、地方末寺の僧侶は年二回の妙顕寺=本寺における仏事に参仕することを義務づけられ、不参のものは本寺に反したとされて、謗法の烙印を押され門徒から追放されるというものです。この項目が、はたして現実に適用されたかどうかは分かりませんが、少なくとも本寺・貫首のねらいが末寺の完全な掌握であり、隷属化であったことは明白でしょう。また  「一、謗法同罪事」という箇条には在俗の信徒に対して、  

「本寺の法に背く僧徒においては門徒帰依すべからず、若し帰依致すの輩においては謗法に同ずべきもの也」

 と定めております。本寺に違背する僧侶に帰依してはならない、もし、帰依する者がいれば謗法に同ずる、という檀信徒に対する極めて厳しい箇条です。ここに強調されているのは本寺の集権性とそれに違背する僧俗への強権行使の姿勢です。「本寺の法」と記されていますように、あくまでもこの場合、本寺の定めたところの法なのであって、仏法の義理もしくは大聖人の法門といった意味合いにはとれないようです。箇条の多くは、「謗法に准じて」とか「謗法に同ずる」と結ばれておりますが、このことも純粋な大聖人の法門に対する違背ではないので「同ずる」「准じて」の言葉が用いられたのではないか、と思います。しかし、それにしても、法華の信仰者が最も忌避する「謗法」の語が濫用されていることに、何がなんでも末寺僧俗を管理統率しなければならないとする制定者の鼻息が感じられます。

 もう一つ例を挙げますと、八品日隆師の門流では文明三年に『当門流尽未来際法度』が制定され、それには、  

「諸末寺住持、本寺参詣の事。近国は毎年、遠国は三年一度、両本寺に参詣せらるべき也」

 とあります。四条門流よりは多少緩やかな本寺参詣命令になってはいますが、当時のことであれば

 「諸末寺」にはかなりの負担になったものと思われます。そのほか同法度には、

諸末寺住持職、本寺御成敗たるべき事

 の一条もあり、本寺の貫主権において末寺住持の任免がなされていたことが伺われます。また、久遠成院日親師の本法寺では文明6年に『定置条々』が作られていますが、その中にも、  

「弟子檀那、未来永々に至るまで御本寺に違背申すべからず、若し違背せば弟子たるべからざる也」

 と示されています。

 これらの禁制・法度に特徴的なことは本寺→末寺という一方通行的な戒告や処分が全てであって、末寺→本寺という流れ、あるいは相互関係の中で一っの取り決めがなされるということが全くありません。そこでは本山絶対主義の完全な上意下達が行なわれております。

 さてそこで、富士門流上代の組織形態や本末関係が問題になるわけですが、私が見た限りでは他門のような隷属的ともいえる強い本寺末寺の主従関係はとても想定することはできません。先ほども述べましたように、そもそも上代の大石寺には、本寺貫首より末寺住持の行儀を一方的に規制するための文書一他門下の禁制.法度の類)が見当らない、この一事をもっても他門の本末関係とは何かしら異なった関係にあるのではないかと思います。

 遺誠置文の26箇条にしても、富士門流全体を相手にしているので、その訓戒の箇条は当然のごとく本寺.貫首にも適用されます。中には、ご承知のように貫首と大衆に対する教示を一対にして併記しているところもあります。その両条も、

「一、時の貫首たりと難も仏法に相違して己義を構へば之れを用ふべからざる事」(歴全1−98)

「一、衆義たりと難も仏法に相違あらば貫首之れを擢くべき事」(歴全1−99)

 と、貫首・大衆の一方に偏することなく、相互的な教示をもって、富士門流の方途を示されております。「本寺の法」にではなく、両者ともに「仏法に相違」するか否かが問われていることは申すに及ばないでしょう。そのほか「26箇条」の特徴的なことを言えば、  

「一、身軽法重の行者においては、下劣の法師たりと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬致すべき事」(歴全1ー98)

「一、弘通の法師においては下輩たりと難も老僧の思いをなすべき事」(同右)

「一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事」(同右)

 など、当家の名字初心の法義の上からでしょうか、下位のものに重きを置いた箇条が目立ちます

 少なくとも26箇条には、本寺や貫首の権力行使を強調している箇条はないと言えましょう。

 次に、日有上人の化儀抄はどうかと言えば、これもまた本寺が一方的に末寺を規制したり、破門などの処分を強制できるとした箇条は見当りません。「本寺参詣の事」として定期的に末寺に参仕を義務づけ、不参ならば「門徒を放つ」などとした項目もありません。

 すでに化儀抄には本寺・末寺の用語が頻出するわけですから、富士門流においても本寺を主とし末寺を従とする形態が無かったわけではありません。今節の化儀抄の項目にもありますように、本尊あるいは阿闍梨号や日号の授与は、本寺=貫首の権限によるものです。また、地方末寺の僧俗が、大石寺を富士門流の本寺として信仰的精神的に深く敬うということは自然に考えられます。しかし、このことが他門のようにストレートに末寺の僧俗を規制するといった強い中央集権にはつながっていないことに注意を傾ける必要があると私は思います。あえて言うならば、富士門流の本寺末寺は文字どおり「本末」にとどまるのであって、「主従」ではないと思うのです。主従ではないということは、権力的な上下関係に置かれていないという意味です。

 化儀抄には、本寺と末寺の関係を示した箇条が多くありますが、その殆どが本寺から末寺へという一方通行ではなく、本末の相互関係が必ず対になって示されております。あるいは、一項目のなかに本末の関係を相互的に示しております。あるいは、末寺のもつ役割の重要性を強く示したものもあります。

 つまり化儀抄には、ともすると本寺に権力が集中することを嫌って、かえってそれにブレーキをかけるような箇条が多く示されているのです。今節に取り上げました第60条もその一つであります。

 

《化儀抄にみられる本末関係》

 化儀抄の第90条には、次のようにあります。

「本寺において小師を持ちたる僧をは小師に届けて仏の使いなんどにも檀方へも遣はし、その外の行体をも仰せ付けらるる也」(歴全1−361)  

 これは、本寺において、末寺の師匠をもっている弟子を檀信徒の所へ仏事などの使いに出すときには、必ず末寺の師匠に届け出なさい、と示されたものです。その他、本寺における行体に関わることもみな届け出てから行なわせるように記されています。この項目よりすれば、本寺・貫首の所作がかえって末寺・住持によって制限されているわけでありまして、こんな細かいことが一つの項目になっていることも化儀抄の特徴であり、私にはとても興味深く思えます。本寺だからといって、末寺の師弟を決して蔑しろにしてはならない、つまり末寺のもつ役割の重要性をこの箇条は示しております。

 次に、化儀抄の第98条には、  

「末寺の事は我建立なるが故に付弟を我と定めて此の由を本寺へ披露せらるる計り也」(歴全1ー362)

 と示されていますが、これも当時の他門下において本寺が末寺住持の任免権を掌握しているのに比べて末寺の白立性を尊重した箇条と言えましょう。当時にあっては、地縁をたよりに教線は拡張され、それぞれ独自の縁由をもって法華堂なり弘通所が建立されました――これが後に末寺となります。

 後述致しますが(第6章2節、参照)富士門では本来寺号は名乗らず、坊号までとなっています。日有上人が「末寺云云」と仰せられているのは本末の関係を示される便宜の上からでありましょう――

 「付弟を我と定め」るとありますから、こうして建立された末寺には、末寺住持自らが後住を決定し、本寺には後に報告するのみでありました。

 さらには、曼茶羅本尊・守り本尊に関して化儀抄は、

「末寺において弟子檀那を持つ人は守りをは書くべし、但し判形は有るべからず、本寺住持の所作に限るべし云云」(第77条、歴全1ー358)

  「曼茶羅は末寺において弟子檀那を持つ人は之れを書くべし、判形をは為すべからず云云。但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるる事も之れ有り、希れなる義也」(第78条、歴全ー259)  

 と教示されています。この両条は「判形を為してはならない」という条件付きながらも、富士門の上代では弟子檀那をもつ末寺の師匠に曼茶羅本尊の書写が許されていたことを物語っております。

 基本的には、曼茶羅本尊の書写および授与は、本寺・貫首が為すべきことであり、それゆえに「判形」を許さなかったことと思いますが、それにしても両条は、「判形を為してはならない」という規制のための項目ではなく、末寺としての曼茶羅書写を許可した項目であることは認めざるを得ないでしょう。判形に関して言えば、本寺・貫首でさえも「即身成仏の信心一定の道俗に」曼茶羅本尊を授与するときに限って為されていたものであり、まさしく「希れなる義」だったのです。

 これらのことを思い合わせるとき、富士門の上代では末寺およびその師弟にかなりのウェートが置かれており、教線の伸びた地域々々でそれぞれが富士の立義を護りながら自立した存在だったのではないか、と私は思うのです。ここに自立した存在と言いましたのは、他門の本末関係が強い主従によって結びっけられているのに比して、富士門流では本寺に従属的というより、むしろ相互的な立場を保っていたという意味です。何から何まで本寺にお伺いを立てるのではなく、むしろ本寺に対して依存度のきわめて薄い関係にあったのではないか、と思うのです。本寺として仰いでいるのですから蔑しろにすることはありませんが、そこに他門とは違った本末関係が展開されていたのではないか。そして、その根本のところに富士門流の師弟子の法門があって、そこからそんな本末関係が導き出されていたのではないかと私は考えます。

 もう少し本末関係を示した箇条について話を進めますと、第62条には、

「諸国の末寺へ本寺より下向の僧の事。本寺の上人の状を所持せざる者、縦ひ彼の寺の住僧なれども許容せられざる也。況や風渡来たらん僧に於いてをや。又末寺の坊主の状無き者、在家出家共に本寺において許容無き也」(歴全1ー354) 

 とあります。これは従来、僧侶が末寺住職として赴任する時の項目のように解されていますが、文面内容よりすれぱ、「本寺・上人の状」と「末寺・坊主の状」が一対になっている点から、なんらかの用事で本寺・末寺を往来する時の僧侶にっいて示された項目であろうと思います。ここにおいても本末は相互的なやりとりに終始しておりまして、そこには本末それぞれにおいて行き違いや無用な混乱を避けるために連係を密にしていることが感じられるのみです。また、今回取り上げました第60条に関連した項目を挙げておきますと、  

「実名・有職・袈裟・守・曼茶羅本尊等の望を本寺に登山しても田舎の小師へ披露し、小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候。直に申す時は功徳爾るべからず云云」(第8条、歴全1ー342)

「末寺の弟子檀那等の事。髪剃を所望し名を所望する事、小師の義を受けて所望する時望みに随ふ云云。彼の弟子檀那等が我と所望する時は爾るべからず云云」(第11条、歴全1ー242)

 等の項目があります。第八条は、第60条にほぼ同意の内容です。「小師の吹挙」とは、末寺の師匠の推薦ということで、第60条の「小師の領納」に当たっているところです。ここでは末寺の師弟関係を飛び越えて、本寺・貫首に「直に申す時」は、仏法の功徳を失うとされています。

 第11条は、僧侶に限らず檀信徒の望みも、必ず直属の末寺の師匠を通して本寺に願い出ることが示されております。この場合は、「髪剃」「名」とありますから出家得道および法号の望みであります。こうしてみると富士門の上代では、地方の弟子檀那が本寺・貫首の直属のようになって、末寺の師匠の頭越しに何らかの所望を本寺・貫首にすることを悉く拒否しています。同じ様な項目が少し異様なほど、何度も繰り返されていますが、それはこのことが富士の立義にとって如何に大切であるかを示しているといっても過言ではないでしょう。日有上人はそれを冒頭の第60条に〈事の宗旨〉〈信の宗旨〉と教示されたのでした。

 それでは、なぜ富士門流に相互的な本末の形態が生まれるに至ったか、それを支えた〈事の法門〉〈信の法門〉〈師弟子の法門〉等と称される富士の立義との関連、現今の教団組織の矛盾などを次に考えてみたいと思います。

 

 

W.富士門上代の師弟

1.六人上主ノ門徒ノ事。上首帰伏ノ時キハ元ヨリ六門徒ナルカ故ヘニ門徒ヲ改メズシテ 同心スベシ。サテ門徒先達未ダ帰伏セザル者ノ衆僧檀那ニ於テハ門徒ヲ改ムベシ等云云。 (化儀抄、歴全1ー355)

1.當宗ニ於テ、五門徒ノ方ハ天台宗ニ詰メラレ給ヘシ、其ノ故ハ日蓮宗ノ當位ハ愚者迷者無知三毒強盛ノ凡夫ノ上ニテ余事余念ナクシテ南無妙法蓮華経ト唱ヘル処カ即身成仏ノ當体ト立ナカラ広ノ修行ノミ也、サナカラ智恵ノ御沙汰計リ也。然間日蓮宗ニテモ無シ、天台宗トモ云レズ,偏ニ天台宗ノ仏法ヲヌスム法盗也ト云て詰リ給フヘシ、惣ジテ仏法ノ外道ト云ハ別ノ子細ナシ、外道ト書テホカノミチト読テ侯。高祖ノ仏法ヲ御本意ノママニ直ニ興行ナクテ別ノ道ニ建立侯。是則外道ナリ、外道トテ目口鼻モ替ラズ角モ生ヘズ人体トテモ別ナラス候巳上。(御物語聴聞抄 歴全1ー323)

 ここでは本文として、化儀抄の第66条と御物語聴聞抄の第11段を取り上げました。はじめに、略に通釈致します。

 前者の「六人上主ノ門徒ノ事」とは、大聖人が定められた本弟子の「日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持」の各師の門流のことです。

 五老僧の門流を率いる「上首」が正しく大聖人の法門へ帰依するならば、もとより大聖人の定められた六門徒なのですから門徒名を改めることなく、同じ信仰を持つものとして同心すべきであります。しかしながら、未だ各門下の「先達」が大聖人の法門に帰依しない状況下では、その門流の僧侶・信徒は門徒名を改めなければなりません。

 次に後者、御物語聴聞抄の第11段です。

 同じ日蓮宗ではありますが、五門徒の門流は、問答の際に天台宗によって閉口させられます。なぜならば五門徒では、日蓮宗は愚者迷者の宗旨であり、三毒強盛の凡夫が余事余念なく南無妙法蓮華経と唱えるところ直ちに即身成仏の当体であると法門では立てながら、修行においては一部五種行などの「広の修行」を勤めている。あたかも智慧の宗旨である天台宗の修行ばかりを沙汰するからであります。それ故に、日蓮宗でもなく、むろん天台宗とも言えず、ただひとえに天台宗の仏法を盗む「法盗人」であると言われて閉口するのです。

 総じて、仏法において「外道」と称するのは他でもありません。「外道」と書いて「ホカノミチ」と読みます。大聖人の仏法を御本意のままに直ちに興行せずして別の道に建立する、このことを「外道」と言います。「外道」と言っても、目も口も鼻も普通の人と変わらず、角も生えていません。姿形も別に異なるものではありません。

 前節に引き続き、上代の富士門流の本末関係や組織形態について考えていきたいと思います。御物語聴聞抄の第11段は、富士門と他門下との法義の相違を示されたものですが、ここでは法義的な意味合いから掲げたのではなく、上代の富士門のあり方、組織形態を考察するために取り上げました。

 前節にて、富士門流では本寺と末寺の関係と言いましても他門に比べて主従関係が非常に薄く、むしろ本末が相互的な役割を果たしていることを申し述べました。そして、「それでは、なぜ富士門流に相互的な本末の形態が生まれるに至ったか、それを支えた〈事の法門〉〈信の法門〉〈師弟子の法門〉等と称される富士の立義との関連、現今の教団組織の矛盾などを次に考えてみたい」と約したのですが、なかなかの難問で明解な答えを出すには至っていません。よって、ここでは今までわかり得たことを2、3提示するとともに、今後の研究の方向性を述べてみたいと思います。

 まず、そのまえに冒頭2つの項目から当時の六門徒のあり方について述べてみたいと思います。

 

《六門徒について》

 第日興上人執筆にかかる宗祖御遷化記録によれば、大聖人は入滅に先だつ10月8日、有力な弟子たちの中から「本弟子」6人を定められました。

 蓮華阿闍梨日持師、伊与公日頂師、佐土公日向師、白蓮阿闍梨日興師、大国阿闍梨日朗師、弁阿闍梨日昭師の6名で、この方たちは後に六老僧と呼ばれるようになります。なぜ大聖人が「6人」という人数に定められたかは、未詳のことですが、あるいは法華経涌出品に説かれる「六万恆河沙の菩薩」に譬えられたものかも知れません。「6」という数字にはすでに無限の意が含まれているようですが、無量無辺の地涌の菩薩が陸続と現われて、大聖人の法門を護り弘通してゆく、そんな意味合いがあったのではないかと思います。当時の門弟の中で、この六人は学識、実力ともに際だったものがあったと思いますが、大聖人はさらにそれに地域性なども考慮に入れられて本弟子を定められたのではないかと思います。それと言いますのも、六人が在住し活躍されたちいきはそれぞれ日昭師・日朗師は相模・武蔵、日向師は上総、日頂師は下総、日興上人・日持師は甲斐・駿河と大まかに分けることができるからです。有力な弟子檀越のいる地域ごとに中心人物たる本弟子を定めることによって、それぞれ僧俗が一体となって大聖人の法門を継承し、伝播してゆく、素朴ではあるけれどもそれが大聖人滅後の各門流のあり方であったと思います。

 それも御遷化記録には、

「1 弟子六人事 不次第」(歴全1−80) 

 と明記されていますように、大聖人は本弟子六人に順序階梯をつけてはならないと教示されました。

 すなわち各地域の中心者である六人に上下の区別を設けず、同格平等に位置付けたのでした。さらに御遷化記録には、  

「此の状、六人面々帯すべし云云」(歴全1−80)

「右六人は本弟子也、仍て向後のために定むる所件の如し」(歴全1−81)

 等と日興上人が記されていることからも伺えるように、大聖人の入滅に際して本弟子を定め置かれた「状」を六老僧がそれぞれ所持し、将来にわたる本弟子の役割や門流のあり方などが確認された模様です。後に日興上人が佐渡の法華講衆に、  

「この法門は師弟子をただして仏になるのであります――師弟子がわずかでも違うならば、同じ法華経を持ったとしても無間地獄に堕ちるのであります。うちこしうちこし聖人の直の御弟子と言い出す者が、御在世にもおりましたので、聖人は本弟子六人を定め置かれました。その弟子が教化したところの弟子は、それを本弟子の弟子であると言わせるためにであります。まことに懸念したとおり、聖人滅後にも、末の弟子たちの中に誰は聖人の直の弟子であると言い出す者が多くあります。これらの人は謗法であります」(原文取意、歴全1−181) 

 と教示されています。後述致しますように、この日興上人の教えは後には、末寺における住持と弟子檀那の関係を理解するうえでも貴重なものになりますが、今は本弟子の役割を知るとともに、日興上人が六門徒を同格に見られていたことを確認しておきたいのであります。朗門には日朗師を中心とする師弟があり、浜門流には日昭師を中心とする師弟があるというように、それぞれの門流によって師弟関係が形成される、これが日蓮門下上代のあるべき姿であり、大聖人の望まれていた形態であったろうと思うのです。

 さて冒頭に掲げた化儀抄の第66条が、今まで述べてきました大聖人入滅以来の六門徒のあり方を継承されていることは言うまでもありません。もっとも日有上人の時代は、すでに富士門流と他門下との間に〈五一の相違〉という法義上の決定的な対立がありましたので、各門流の「上首」が正しく大聖人の仏法に帰入することを前提にして、六門徒を認めたのでした。「元より六門徒なるが故に」とありますのは大聖人の定められた六門徒という意味がこめられているものと思われます。

 ここで大切なことは、本来的に六門徒は同格平等であったという事実でありましょう。ともすれば現今の考え方では、「日蓮正宗」のみが自明に独善的に正しいのであり、他門徒は必ず「日蓮正宗」に帰入しなければならない。時代を遡らせて考えれば、日興上人のもとに日昭師も日朗師も必ず帰依しなければ、大聖人の法門を正しく信仰したことにならないとする考え方があります。しかし、これは少し私たちの受方に誤解があったのかも知れません、少なくとも、日興止人が参加に組み入れるべく五老僧方を従わせようとした事実は全くありません。日興上人にとって忽せにできないものは、あくまでも大聖人の立てられた法門です。ゆえに、日興上人はそれに違背してゆく五老僧に厳しい態度をとられました。具体的にいえば、それは五老僧が天台沙門と号したことや一部如法経を修すること、曼茶羅本尊を大事にしないこと等への批判であります。逆に言えば、これらのことがらが大聖人の法門と違背せずに明確に立てられていたならば、五老僧のそれぞれの門流と富士門流との間には少しも優劣はなかったと言えましょう。

 日有上人が本文に「高祖ノ仏法ヲ御本意ノママニ直ニ興行ナクテ別ノ道ニ建立侯」と仰せられたのも、大聖人の法門の継承ということが根本になっております。日有上人のお考えも、他門下が大聖人の法門を正しく「直ニ興行」するという前提条件を充すならば、門流意識にとらわれず「同心スベシ」というものでありました。

 現実には、五老僧の門下と富士門流では日有上人の時代もあるいは現代においても、法義の相違が小さくなく、同心するには至っていません。ゆえに日有上人は、他門下のことを大聖人とは違った「別ノ道」に法門を建立する「仏法ノ外道」であると厳しく破折されています。しかし、それはそれとしても、日有上人の仰せられた二つの項目を合わせ読めば、上代において基本的に六門徒は同格平等であったとすることができましょう。

 ところが先ほども述べましたように、一方において現在の私たちの思いの中には「日蓮正宗」と他の日蓮門下とでは自明に優劣があって、六門徒同格の形態すらも認め難いとする考え方も確かにあります。そして、その考え方の基底部分は、法義の正否ではなく、日興上人が付弟として大聖人より受けられたという二箇の相承書が強く影響して出来上がっているようです。

 

《「二箇相承」の考察》

 結論から先に言えば、宗祖御遷化記録に記されている  

「1 弟子六人 不次第」(歴全1−80) 

 の記述と、日興上人一人を大聖人が付弟に定められたとする二箇相承の内容とは相矛盾するものと私は考えます。また、上代における六門徒同格の考え方とも二箇相承は大きな懸隔があることを否定できないと私は思います。

 「一弟子」とも「本弟子」とも記された六人の同格の弟子を定めながら、さらに大聖人が秘そかに日興上人一人へ相承書を渡されたとするのは何とも納得しがたいことであります。後世の混乱を考えれば、とても同一人がなされたこととも思えません。ここに「秘かに」と申し上げたのは、文献的に二箇相承の写本が世に現われたのが、大聖人滅後百五十年ほどを経てからのことだからです。むろん二箇相承の正筆は確認されていません。

 富士門の歴代上人の中では、第14世日主上人の天正年中と思われる写本(滅後、300年頃)が大石寺に伝わりますが、二箇相承についての何らかのコメントとなれば江戸時代の日精上人(滅後、400年頃)まで待たなくてはなりません。

 4世日道上人の『三師伝』などは、宗祖・開山・三祖の歴史的事が豊富に記されていますが、二箇相承のことは触れられておりません。日有上人の聞書類にも、それらしきことが全く記されておりません。必要が無かったので記さなかったという反論があるかも知れませんが、『三師伝』は日興門流の正統性を綴った書き物とも言えるわけですから、よもや二箇相承を書き落とすことはないとも言えましょう。公開を慎まれていたとする意見もあるかも知れませんが、後世に正しく法門を伝えてゆくための相承であるならば、公開してこそ初めて意味があると言えましょう。日有上人の同時代の左京日教師が二箇相承を写されていますが、それでもなお、日有上人が聞書類で触れてないことは大石寺の伝燈法門としても二箇相承は一考の余地があると言えそうです。

 もう一つ不思議といえば言えるのは、大聖人より日興上人への二箇相承というものがあるとするならば、なぜ身延離山の際に日興上人がそれを提示されなかったのか、また、そのことが日興門下でも他門下でもなぜ問題にすらならなかったのか、という疑問です。

 には、明らかに日興上人が「身延山久遠寺の別当たるべき」であることが記されておりますし「在家出家ともに背く輩は非法の衆たるべきなり」とも教誠されております。このことについて、日興上人は少しも触れることなく、また後に富士門流においても他門流においても、まったくコメントがないのは文献史料の不自然な沈黙といえましょう。

 五一の相違といわれる、上代における富士門と他門下との法門上の異義の時なども相承書の「日蓮一期の弘法白蓮阿闇梨日興に之れを付嘱す」の明文が、自他門によらず一度も取り沙汰されていないことは不思議といわざるを得ません。そのほか、二箇相承には用語や、形式などにも種々文献的な疑問がありますが、今は本稿の目的ではありませんので、別稿に譲りたいと思います。

 ともあれ、今の私の二箇相承に対する意見は、文献的にも否定的な見地に立たざるを得ないというものです。一方において、文献的に疑う余地のない御遷化記録がある以上、六門徒は同格であり、二箇相承の内容はあまりに上代の現実と懸け離れているように私には思えます。

 ほど、大石寺の伝燈法門としても一考の余地があると述べましたが、それは二箇相承には、

「富士山本門寺戒壇可被建立也」

 との記事があり、古写本も北山本門寺および、その末寺に多く伝わることから、門流意識の対立が強まった南北朝の頃、北山本門寺系の人により成立したものだろう、と私は推測するからです。つまり、大石寺においては上代より二箇相承はそれほど貴重なものとして扱われておらず、江戸期に入り時勢の流れとともに、そのへんが暖味になり、あたかも大石寺所伝の相承書として用いられるようになった、それが日精上人の頃ではなかったかと私は思います。

 付言すれば、大聖人よりの正嫡を自認することは他門下においても等しく行われたことであり、朗門、昭門、向門それぞれに譲状や相伝が伝わります。例をあげれば朗門には、

「釈尊一代の深理も、亦日蓮一期の功徳も残る所なく、悉く日朗に付属する所なり」

 とする日朗御譲状があり、日朗師こそ大聖人よりの付属をうけた正嫡であると任じます。昭門にも「法華本門円頓戒相承血脈」があり、これをもとに大聖人より日昭師への系譜を引いて、正統を主張します。しかしながら、これらの譲状や相承譜も、後世、門流意識が次第に強化することによって、他門に優れるために各々つくられたものであり、言うまでもなく大聖人よりの相承書と見ることはできません。

 もっとも近代においては歴史学や文献学の著しい発達によって、宗門に関わる諸文献もことごとく吟味され、他門では、これらの譲状や相承譜の学問的な価値をすでに認めてはおりません。故に、これによって自らの宗門の正統性をうち立てようとする教団はほとんどありません。あえて言うならば、「日蓮正宗」のみが近代化に立ちち遅れたまま、ますます頑迷固魎な姿勢を崩していないと言えましょうか。

 誤解をされては困りますので、もう一度私の考えを整理しておきます。私は、二箇相承に否定的な見解をもちますが、それには大まかに二つの理由があります。一つは、二箇相承そのものが文献的に信頼できないこと三師伝や聞書類などの後の有力史料が二箇相承について沈黙していることも含めて。二つには、上代の門下全般の状況と二箇相承によって想定するそれとの懸隔があまりに大きいこと六門徒同格と日興上人一人を付弟にすることとの相違の大きさです。

 さらに付け加えれば、私は二箇相承に否定的な見解をもってはいますが、だからと言って大聖人の法門が日興上人へ正しく受け継がれたことを否定しているわけではありません。私の主張は、日興上人の正統性はあくまても法門の上から展開されなければならないということです。そして、十分そのことは可能であり、他門と法義論争する時にもそれが正当な方法であろうと思います。いつまでも、二箇相承を金科玉条にして他門を「不相伝の輩」と罵るのでは、お互いの法義研鐙にも役立ちません。

 富士門流が他門下に優れるのは、本弟子六人のうちの五老僧が大聖人の法門を改変したことに対して、日興上人一人が大聖人の法門を護られ五人を破折された、すなわち五一の相違がその淵源であります。むろん結果よりすれば、日興上人がもっとも大聖人の法門を体得されていたとは言い得ましょう。

 五一の相違という日蓮門下の危機的な事態の中で、日興上人は大聖人の法門を一つ一つ確認され、それが〈富士の立義〉として後代の目師、道師、行師、時師、さらには有師へと継承されていった、それが大石寺の相伝法門であり伝燈法門といわれるものであろうと思います。その流れは、どうしても二箇相承を必要とするというような流れでは無かったはずだ、と私は強く考えます。

 富士門流内の上代の組織形態を見ても、二箇相承の思想内容はまったく適合しないもののように私には思えます。

 

《〈師弟子の法門〉と末寺の師弟》

 日興上人は五老僧方が天台に与同されたことを嘆かれ、永仁六年、自らの弟子の中から本六を定められました。弟子分帖に「第一の弟子」と称された「日華、日目、日秀、日禅、日仙、日乗」の六人です。

 本弟子としての五老僧に失望された日興上人が、大聖人の意志を継ぐべく新たに本六を定められたのですから、おそらく日興上人もまた、この六人を「不次第」として、順序階梯をつけられなかったと私は考えます。そして、この本六の選定は、世代を自然に移行させることになり、本六を中心とする師弟を形成させる意味をもっていたと私は思います。本六の教化の弟子は、本六を師匠とする。至極当然のことではありますが、これが日興上人の佐渡国法華講衆御返事に示された、当時の状況ではなかったかと思うのです。日興上人はこの御返事で、  

「宰相殿の御信心を起こし、本迹の法門を聞こしめしうけとらせ給ける師は誰にて候けるぞ」(歴全1−183)

「宰相殿よりの御状にも御師は誰とも侯はず、講衆よりも師弟子存知せぬと申され侯」(同右)

 等と仰せられて、「宰相殿」が自らの師匠を明示されなかったこと、さらには法華講衆が〈師弟子の法門〉を存知しないと言われたことに対して、厳しく教誠されました。当時、佐渡国において、どのような状態が生まれていたのかを具体的に説明することは出来ませんが、ともあれ日興上人は、このことに対して厳しい態度をもってのぞまれ、宰相殿および法華講衆からの供養も受け取らず、  

「師弟子の法門を立てることは閻浮第一の大事でありますので、このような事になりましても、聖人の御照覧にはなまぬるくお見えになるのではないかと恐れ入ります」(原文取意、歴全1−183)

 とまで仰せられています。日興上人がここに「閻浮第一の大事」と教示されていることからも、この〈師弟子の法門〉は当家の本仏観や本尊観に密接に関わっていることが知れましょう。譬喩として「初発心の釈迦仏を捨てまいらせて」とも仰せられていますが、「初発心」を重視すれば、あるいは当家にいう「名字初心」などとも関連し、初めて教化を受けた師との〈師弟相対〉〈師弟一箇〉を説かれているものかも知れません。

 いずれにせよ、地縁血縁をたよりに信仰に帰依するケースの多かった当時では、初発心の師となるべき僧は、ほとんどが各地方で弘通に励まれていた日興上人の弟子であったことでしょう。

 日興上人は各地方における師弟関係をたいへん重要視されました。大聖人が地域性を考慮に入れられて「本弟子六人」を定められ、六門徒ごとに師弟を形成させたように、日興上人も本六あるいは後に新六と呼ばれる弟子をつくり、それぞれの師弟を大切にされました。このことに共通するのは、一局集中を嫌ってそれぞれの地域、師弟を大事にされていることではないかと思います。二箇相承が示す中央集権的な思想と、このことはほとんど相入れないと私は考えます。

 そして、日興上人当時の門流・師弟のあり方は、日有上人の化儀抄にもかなり忠実に示されていると言えましょう。前節に申し述べました〈本寺末寺の相互関係〉と〈末寺の師弟の重視〉がそれであります。

 日興上人を「本寺住持」、佐渡国の師弟を「末寺の師弟」と想定することが可能であれば、佐渡国を法華講衆御返事は末寺の師弟を蔑しろにしたり、初発心の師を無視することによっておこる「直の弟子」を強く否定されたものと拝することができます。

 これは、前節の化儀抄第六十条の応用とも言えましょう。そのほか化儀抄の多くの項目が同様のことを教えています。前にも述べましたように、これらのことを考え合わせると日興上人の仰せられた「師弟子をただして」の師弟、日有上人の示された「師弟ともに三毒強盛」の師弟は、「初発心」ということも考えに入れて、地方・末寺における師弟を想定することが妥当だろうと思います。

 それぞれの地域において「本法の妙法蓮華経を師弟ともに三毒強盛の凡夫にして他に余念なく受持する処」(歴全1−394)が富士門流の法門の根本であろうと思います。妙法蓮華経の法門を授ける師も、それを受ける弟子も互いに凡夫であり、その師弟が相寄って余念なく妙法蓮華経を唱える、この全体が富士門流で説くところの本尊であり、戒壇であり、題目であろうと私は思います。これは明らかに、悟りの仏を師として迷いの衆生を弟子とする釈尊の世界とは異質なものです。本尊といえば、釈尊の世界ではあくまでも仏の側にあるものですが、大聖人の法門では衆生の側にあります。それも衆生に仮りに師弟を分かち、その中間に本尊を立てています。

 よく当家では「師弟一箇の本尊」と申しますが、これも釈尊の法門の構成と大聖人の法門の構成が明確に異なることを教示したものと言えましょう。日興上人の「師弟子をただして仏になる」の仰せも、「師弟一箇の本尊」を教えているといって過言ではないでしょう。私たちは、この「師弟一箇の本尊」を成就すべく信心修行に励んでいるのであり、その指標として富士門流では、戒壇本尊を立て、それを「日蓮日興の師弟一箇の本尊」と言い伝えてきたのであります。

 地方・末寺の師弟の信心修行が戒壇本尊の成就に結びついてゆく、これが当家の〈師弟子の法門〉の根本部分に当たっているのではないかと思います。

 なお、この場合の「日蓮日興」の師弟とは、二箇相承が示しているような現実的な相承問題ではなく、富士門流の法門として語り継がれてきたものです。当家にとって、大聖人と日興上人の師弟が法義の上で根幹になることは、むしろ当然のことであり、同時に他門流が「日蓮日朗」あるいは「日蓮日昭」の師弟を用いて法門を説明したとしても、なんら非難するにはあたりません。

 

 

V.日興上人・日目上人の師弟

仰ニ云ク、日目上人御発心ノ根源ハ日興上人伊豆ノ湯ニ御座シケル時節、走湯山ノ大衆達湯ニテ興師ト寄リ合ヒ申サレタル大衆ノ中ニ、是ハ富山ノ少人能書ニテ御座スカ遊シタル文ナリトテ、文ヲ一通日興上人エ見セ申サレケルヲ御覧シテカク遊ハシ給フ。

通フ覧カタソ床シキハマ千鳥

フミ捨テ行ク跡ヲ見ルニモ

此ノ御歌一首ニヨリ走湯山ノ円蔵坊ニ御対面侯キ、其ノ後一献分ニテ又走湯山エ日興上人入御ノ時、山中五百坊一ノ学匠トテ式部僧都トヤラン相伴ニ渡ラセ給ヒケル御法門アリ、日興上人仰ニ云ク、式部ノ僧都無間ト説キ給フト仰ケル。式部僧都云ク、サ様ニ一向ニ有ルベカラズト譲論シ給フ、其ノ時日興ノ仰ニ云ク涅槃経ニ云ク若善比丘等ノ文ヲ引キ給テ、末世ノ善比丘トハ式部僧都ナリ、然レ共仏法迷惑ノ人ナリ無間疑ヒ無シトノ玉フ時ツマリ給フ、其ノ時ノ御上座ニ寅王丸トテ少人ニテ御座シケルカ、其時ノ御法門ヨリ御発心召サレテ十五歳ニテ日興上人ニ参リ給ヒテ御弟子ニ成リ給フ、十七歳ヨリ高祖日蓮聖人ニ参リ常随宮仕エ給フト云云。(聞書拾遺、歴全1−422) 

 本文は聞書拾遺の御文であり、日興上人と日目上人の出会いについて仰せられたものです。まず初めに、通釈致します。

 日目上人が日興上人を初発心の師とする決意を固められた根源は、伊豆の湯治場に日興上人が赴かれた際の経緯によります。その時ちょうど湯治場に来ていた走湯山権現の大衆と日興上人は参会することになりました。その大衆の中の一人が一通の文を取り出して、当山(走湯山権現)には稚児ではあるものの能筆で智恵賢きものがおりますと、日興上人にお見せしました。それをご覧になった日興上人は直ちに、 歌を一首詠まれました。

 通フ覧カタソ床シキハマ千鳥

 フミ捨テ行ク跡ヲ見ルニモ

(心ひかれる浜千鳥よ、浜辺に残された足跡を見るにつけても是非一度会ってみたいものだ――

 日興上人は、まだ見ぬ稚児を浜千鳥に擬し、稚児の「遊シタル文」を鳥の足跡に警えて、ゆかし思う気持ちを表わされました。浜千鳥は「跡」にかかる枕詞、その足跡は文字を暗示するという説もある)

 この歌一首の因縁により、走湯山の円蔵坊にて日興上人は稚児と対面することになりました。

 その後さらに走湯山へ日興上人が訪れた際、山中五百坊の中で随一と誉れも高い式部僧都と一献酌み交わすことになり、その時に御法門がありました。

 第日興上人は式部僧都に、

 「経文に、あなたは無間地獄に堕ちると説かれている」

 と仰せられました。式部僧都は、

 「そのようなことは一向にない」

 と反論しました。その時、さらに日興上人は涅槃経の「若善比丘」等の文を引かれて、

 「あなたは、この走湯山にあって天台・真言・念仏が入り乱れて、法華経に余経をまじえる時、その謗法を呵責し駆遣し挙処しないのであるから、式部僧都こそは末世の善比丘である。仏法に迷う人であれば、無間に堕ちることは疑いない」

 こう言われた式部僧都に声はありませんでした。

 その席に同座していた寅王丸は、式部僧都の詰まるのを目の当たりに見て、日興上人を初発心の師とする決意を固められました。

寅王丸とは、すなわち後の日目上人のことであります。日目上人は15歳にて日興上人の弟子になられ、17歳より身延の日蓮聖人のもとで常随給仕の真を尽くされました。以上、通釈です。

 この項目には、日目上人の若年の逸話が示されています。日興上人と寅王丸の出会い、日興上人と走湯山大衆とのやり取り、式部僧都との御法門など、富士門上代の雰囲気を知る上で興味深いことが説かれています。

 

《走湯山について》

 日目上人が稚児として、走湯山に登られたことは4世日道上人の三師伝にも、

「文永九年、十三歳にて走湯山円蔵坊御登山、同十一年、日興上人へ値ひ奉り法華を聴聞して即時に解して信力強盛、十五歳也」(歴全1−275)

 と記されていますから、まず疑いのないことでしょう。この三師伝の記載によれば、聞書拾遺の日興上人と寅王丸の邂逅は、文永11年、日目上人15歳の時であったろうと思います。その年、大聖人は2月に佐渡流罪の赦免があり、3月には鎌倉に入り、5月には身延に入山されています。いずれも日興上人が供奉されたと同じく三師伝に記されてありますから、日興上人と寅王丸の避遁は、大聖人の身延入山以後のことであったろうと思います。

 寅王丸が登られた走湯山とはどんな所であったかと申しますと、日本古来の山岳宗教である修験道の山であったようです。平安中期の書物である『新猿楽記』に当時の修験の山々を並記したところがありますが、そこにも、

 「熊野金峯、越中立山、伊豆走湯、根本中堂、伯書大山、富士御山、越前白山、高野粉河、箕面葛川」と記されています。また御白河院の撰になる『梁塵秘抄』にも「霊験所の歌六首」として

 「四方の霊験所は伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯者の大山、丹後の成合とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞こゆ」

 と紹介されていますから、伊豆の走湯は平安期には既にかなりの隆盛をみた修験の山であったことが分かりましょう。「走湯」とは「ハシリユ」」とも「ソウトウ」とも読んでいたようですが、その名前が表わすとおり、昔は火山および温泉涌出に対する自然信仰に発した小社であったようです。それが背後に聲える日金山の連峰と相まって、修験の山となり、さらには神仏習合の思想を受けて走湯山権現は寺社として大きく発展した模様です。

 源頼朝は、その走湯山権現を箱根権現とともに平家討伐旗揚げの根拠としましたので、鎌倉幕府が成立するとともに、走湯山権現は強い庇護を受けるようになり、塔中五百坊といわれるような大寺社となりました。日目上人の生家である新田家は伊豆国仁田郡畠郷にあり、それは現在では田方郡函南町と言いますから、走湯山とはほど遠くない所に位置しています。当時は、武士階層や荘官クラスの子弟は地方の山寺に登って勉学に励むのが慣わしでありましたから、新田家においても利発聡明で先行きの楽しみな寅王丸を走湯山円蔵坊の室に入らしめたのだと思います。

 もともと走湯山は修験の行場として始まっていますので、大勢の修験者たちが一山に起居していました。日因上人は御物語聴聞抄佳跡に、

「円蔵坊は上五百坊の内の山臥の一派なり」(富要1−230)

 と記されていますが、これが事実であれば、特に円蔵坊は修験者が多く集まっていたことでしょう。あるいは、日興上人と一献酌み交わした式部僧都は、その修験者のリーダー格であったかも知れません。日辰師の祖師伝に、

「日興蓮、蔵坊(円蔵坊のこと、式部僧都を指す。日辰の過誤-筆者註)に向って云わく、汝山伏は法華誹謗無間の業なり」(富要5−30)

 と記されていること、または日我師の申状見聞に日目上人の円蔵坊入りについて  

「羽黒の山伏同道あって修行の日、走湯山へ参入と云云」(富要4−105)  

 と記されていることは、ともに伝説史料ながら、円蔵坊ならびに式部僧都が修験と深い関係を有するという推測を少なからず支えるのではないかと思います。

 

《修験道について》

 ところで修験あるいは山伏と言いますと、現在では何かしら不気味な感じや雰囲気、迷信によって人心を惑わす怪しげなイメしージだけをもたれる方がいるかも知れません。また反対に、勧進帳の弁慶に見られるきらびやかな衣裳に身を纏った存在を思い浮かべるかも知れません。こかしながら、それ門は山伏のある一面を誇張して見ているのであり、トータルに山伏を捉え、理解したことにはなりません。

 長い歴史の中で次第に生きる範囲を狭められ、現代ではついに滅んでしまったといっても過言ではない山伏たちが、歪曲された評価やマイナスのイメージで見られるのは止む得い事かもしれませんが、古代中世に活躍した実際の彼らの多くは意外にも民衆の指導者としての役割を担っていたのでした。

 歴史家の井上鋭夫氏は、次のように修験道を解説しています。

「欽明天皇のときに大和国の朝廷に伝えられ、のち南都北嶺とよばれて、奈良.京都の貴族の間に流行した仏教とは別の形で、民族信仰としての山岳宗教と仏教との混交した宗教が、古代.中世の日本列島にひろまっていた。これが修験道であり、役の行者・臥(ふせり)の行者、泰澄・清定などはそのアイドルであった。験者(げんざー修験者)は春秋二回入峰して深山幽谷を踏破し、滝にうたれ、沢を渡り、巨岩をよじのぼり、山頂に護摩をたいて祈念した。強健な体力、堅確な精神力、機敏な判断力に加えて、経文を読むところから知識もあり、暦法と気象を知って農事指導力をもち、広く山を歩くところから薬草・医術と鉱脈にくわしかった。里や浦の人たちが、このアルピニストに山の神の代官のイメージを抱いたとしても不思議ではない」

 さらに付け加えるならば、全国の山々を斗藪する山伏は諸方の交通事情に明るく、しばしば通信使としての役割を果たしました。山伏だけが心得る道筋というものも各地方に存在し、時にはそれらを使って合戦時の密偵や道案内を務めたこともあったようです。その役割上、道路や橋梁を作ることにも精通していました。  

「日本国の七の海道は役の行者踏みわけたり、去れば役の行者の跡を継ぎたる山臥に関を取らざるなり」(歴全1−324)

 と日有上人が示されているとおり、山伏は全国自由通行で「関銭」や「関米」などの関料を一切取られることがありませんでした。これは、以前にも申し述べましたように、山伏が僧侶と同じく、無縁の原理を身につけた無縁者であることに由来します。

 それはともかく、井上鋭夫氏が指摘しているように、日本の中世には仏教の正統派を自認する南都の旧仏教界、それに対抗する形で道を開いていった天台真言の両宗のほかに、「民族信仰としての山岳宗教と仏教との混清した宗教」が盛んに幅広く行なわれていました。それらの修験を志す人々は、古くから「聖一ひじり」」とか「行者」「聖人」等と呼ばれていました。

 南都・北嶺ともに貴族化し、宗風退廃して民衆と遊離していく中で、むしろ地方にあってはこれらの「聖」とか「行者」と呼ばれる修験者たちが民衆生活を指導し、人々に大きな影響を与えていたと言わねばならないでしょう。

 ゆえに、中世では一般の民衆から進んで修験・山伏になろうとするものが、かなり多かったようです。あるいは日目上人も日興上人に値遇する以前のことですから、単なる学識を身につけるための入山ではなく修験を志されたのかも知れません。

 また、これらの「聖」や「行者」の裾野の広がりの中で、鎌倉新仏教は次々と誕生していったとも言い得るでしよう。

 大聖人はむろん山伏ではありませんが、権力と結びついた南都仏教や堕落した叡山仏教よりは、民衆に近いものをもっている修験者たちと基底部分では通じ合うものがありました。後述致しますが、大聖人および日興上人に多くの修験道系の門弟がみられるのも、その教えの中に修験者たちが強く共感し得る何ものかがあったからでありましょう。とくに日興門流に多くの山伏が見られることは特筆すべきことであり、日興上人と修験との関わりについても再考しなければならないかと思います。また、大聖人が自らのことを「聖」「行者」と称し、日興上人以下の門弟も「聖人」と尊称したことなどは現在あまり学問的に顧みられていませんが、もう一度、修験道のことを頭に入れて考え直す必要があるのかも知れません。さて、そうした眼から冒頭の聞書拾遺の項目を読んでみますと、従来とは少し違った日興上人の姿が見えてくるかと思います。

 「走湯山ノ大衆」とは、おそらくは円蔵坊にゆかりの山伏たちではなかろうかと思います。一般に「一山の大衆」と言えば、山寺に起居する僧侶、衆徒を言うわけですが、この場合は走湯山だけに山伏とみて差し支えないと思うのです。

 行場である山を下りれば、そこには湯の迸る豊富な温泉があるわけですから、山伏はほとんど日常的に「伊豆ノ湯」に入っていたものと思います。あるいは日興上人も「伊豆ノ湯」が初めてではないかも知れません。聞書拾遺の日興上人と大衆のやり取りも何かしらほほえましい感じがします。湯につかって互いに歓談する。想像を逞しくすれば、よもやま話に大衆の一人が白慢気に「うちの山には稚児で驚くほど賢いのがいるぞ」と言い、日興上人がそれに応えて「その稚児なら新田家の五男坊ではないか、まだ見たことはないが、話では利発な子だと聞いている」と言ったかも知れません。そこで日興上人は直ちに一首つくり、山伏の手引で走湯山円蔵坊に登ったというようなことも想像できます。

 式部僧都とのやり取りも私たちはややもすると、問答部分のみにとらわれてしまい、あたかも日興上人が式部僧都と対決するために山に出かけて、散々に打ちのめしたという話になりかねません。

 しかし実際は、走湯山にて日興上人は式部僧都より酒席を設けられ、歓待を受けているのであります。少なくとも日興上人は招かれざる客ではなく、互いに心を許し歓談する相手だったのでありましょう。たまたま「御法門」になり、譲れない部分や意見の相違などで決定的な違いが出てしまいましたが、それにしても、初めから憎しみをもって相対した間柄でないことは重要な意味をもっものでしょう。

 

《修験道の欠点》

 そこで問題になるのは、やはり日興上人と式部僧都との「御法門」の内容如何でしょう。

 修験道は民衆のために精進修行し、民衆生活を指導していきます。このこと自体は尊い志しを有しているのですが、一方において修験・山伏は法義・法門をあまり大切にしません。よく言えば融通無碍、わるく言えばいい加減な面が目立ちます。修験は先にも述べましたように、もともとは自然崇拝から起ってきたものでしょうから、教義的なことに疎いのは止むを得ないのですが、しかし、それがあまりに行き過ぎて呪術や霊験ばかりに力が入ると堕落を早める原因にもなります。

 日興上人は問答のはじめに「式部僧都は無問に堕ちる」と仰せられ、それを聞いた式部僧都は「一向にそんなことはない」と反論しました。式部僧都からすれば、どうして突然そんなことを言うのだろう、という感じだったかも知れません。そこで日興上人が引用されたのは涅槃経の、  

「若し善比丘あって、法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」 

 の御文でした。これは大聖人が開目抄などでしばしば引用される御文であり、なぜ法華経の行者が諸宗を破折するのかを経文をもって明かしたものであります。法華経以外の経々を信仰するものは、法華経を壊るものである、それを見て置いて破折もせずにいるのは涅槃経に説かれた「末世の善比丘」である。式部僧都はこのように詰められました。

 走湯山はもともと修験の山であり、法義というものにあまり厳密ではありませんでした。「真言半学の天台宗」と言われ、密教もかなり盛んであり、当時のことであれば念仏の行者も相当数いたことでしょう。山伏たちの信仰観は自然崇拝に根ざしていましたから、その点に関して大らかといえば大らか、まことに融通無碍でそれぞれが思い思いに真言を唱え念仏を行じていたものと思います。むろん中には法華を行じるものもいたわけです。しかし、それとても唯一無二に法華に信を取るのではなく、その時々の流行や各人の性向によって経典は選ばれていたに過ぎないでしょう。すなわち、式部僧都は日興上人に信仰の雑乱を指摘され、一言もなかったわけです。

 後に、日目上人も走湯山の玄海という僧と問答されたことが記録(富要6−10、問答記録)に残っていますが、この問答もやはり、玄海が「実相の理体を開会」すれば「権法」も「実法」に等しいとするのに対し、日目上人は「五時の時には前四時を破して第五時を賛嘆し、四教の時には前三教を嫌って円教を妙宗と定む」と法華一乗をもって退けられています。これも、玄海が融通無碍の立場をとり、日目上人が専修的な信の立場を貫いています。

 大聖人の在世、門下の上代において、この種の問答は数限りなく行なわれたことでしょう。問答を通じて、修験道より大聖人、日興上人の教えに帰依し出家する。あるいは修験の形は残したまま、門下に帰伏するというケースも多々あったものと思われます。そこに独白な富士門流の組織の形成も行なわれたのではないかと思います。

 ここで一つ考えてみたいのは大聖人在世中の塚原問答のことです。種種御振舞御書には、  

「佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集まれる法師等なれば塚原の堂の大庭・山野に数百人(中略)鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば、只思ひやらせ給へ、利剣をもて瓜をきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ一中略一或は悪口し或は口を閉じ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云ふものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」(全集918)

 と仰せられています。「数百人」には少し誇張があるのかも知れませんが、大聖人のまわりに多くの法師が集まり、口々に問答を仕掛けたことは了解されましょう。「法師」というのは、その用語の原義はともかく、当時の慣習では正式な僧侶に冠されるより在俗的な臭いのある僧に与えられた呼称でした。山伏をして「異類異形の法師、国にみちて、仏弟子の名をけがし、一戒も持たず」と記したように、あるいは「山法師」という言葉が示すように、山伏もまた「法師」と呼ばれていました。

 この種種御振舞御書に記された「法師」も多分に山伏に近いことを考えなければなりません。当時、佐渡の国で宗教的な活動をして勢力をたもっていたのは、加賀の白山を拠点とした山伏であったという報告があります。また佐渡に集まった「法師」の「越後・越中・出羽.奥州.信濃」等の地名を見れば、否応なく修験道が頭に浮かんでこよう生言うものです。

 「或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ或は釈をわすれて論と云ふ」

 これも大聖人のように正統に仏教を学んでいない山伏にとっては仕方ないことで、ある意味で山伏らしさを表わしていると言えなくもありません。問答にもならず大聖人に打ち負かされ、その場で「袈裟、平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者も」事実あったのでしょう。平念珠とは〈平形念珠〉を指すものですが、これも山伏のもつ〈イラタカ数珠〉に通じています。

 しかし、それにしても大聖人は京、鎌倉の高僧、例えば極楽寺の良観に相い対する感情とは違ったものをそれらの「法師」に対してもっていたことは疑いないでしょう。あるいは、幕府に楯をついている日蓮という僧に一度会ってみよう、という程度の者が持ち前の健脚を飛ばして佐渡に渡って来たということもあるのではないか。大聖人の威厳にうたれ、その信仰に共感して、即座に門下に帰依するケースが、それらの法師には多々あったのではないかと思います。

 と同時に佐渡では、日興上人の弘教に目をみはるものがありますが、これも修験との関わりを前提に考えることによって、新たな日興門流の状態が浮かび上がるものと思います。

 

 

VI.   日興上人の弟子たち

上代ニモ事ノ外不信ナル人有リ、高祖聖人身延御住ノ御時、本ハ京都人ナリ四条ノ中務ト云人ト墨平三郎ト云人御前ニテハハカリ無ク一座ノロ論有リ、本ヨリ中務ハ信心モ有リ当面ノ道理モ有リケルヤ墨平三郎ヲ座ヲ立テ給フ、墨平三郎腹ヲ立申様ハ日蓮聖人ハヒルハ諸宗無間ト折伏シ、夜ルハ念仏ヲ申サレ侯ト讒言ヲ申。又重須ニテ日興上人御弟子ノ出家ヲ御折カン有リケレハ刀ヲ抜テ興上人ヲ害シ申サントス、其ノ時日妙上人御前ニ居相給ヲ浅猿ヤ貴辺カ刀ニテ然ルヘカラス、此ノ刀ニテ害シ申セトテ日妙我刀ヲ抜テナケヤリ給ヘハ其ヲ取ラントスル境二日妙クミ給テ引キ出シ給フト也、上代ニモ是ノ如シ、何ニ況ヤ末代ニ於テヲヤ、師弟ノ中ニモ用心大事也。(後略)御物語聴聞抄、歴全1−334)

 前節にて、日興上人と日目上人の走湯山での避遁を紹介するとともに、当時の山林に斗藪する修験道の状況や当家と修験道との関わりについて申し述べました。ここでは、さらに進めて日興上人門下の中から修験道に関わる弟子について、それぞれ述べてみたいと思います。

 その前にまず、物語聴聞抄第42段の御文を簡略に通釈致します。

 大聖人、日興上人の在世の時にも、ことのほか信仰心の無い人はおりました。大聖人が身延に御在住の時、元は京都の人であった四条金吾と墨平三郎なるものが大聖人の御前にもかかわらず、口論を始めました。四条金吾は、もとより信心も篤く、その場の言い争いにおいても道理がありましたから墨平三郎はついに怒って座を立ってしまいました。後に墨平三郎が腹を立てて言うには、日蓮聖人は昼のうちには諸宗無間地獄と折伏するが、夜になれば念仏を唱えていると、讒言までするのでした。

 また重須においては、日興上人が弟子の悪行をとがめて教訓された時、その弟子は応じないばかりか、かえって瞋恚を起こし刀を抜いて日興上人に切りかかりました。その時、同座されていた日妙師は、とっさに弟子に向って「貴方の鈍い刀では無理だ、この刀を使え」と言い、自身の刀を抜いて弟子に投げやった。そして弟子が刀を受けようとした隙に、日妙師は弟子を組み伏せてしまい、このことは大事に至りませんでした。

 大聖人、日興上人の時にもこのような物騒なことが起こったのですから、まして末の世には、何が起こるやも知れません。師弟の間にも用心が大切であります。

 以上のように本文には、大聖人在世と日興上人在世の二つの逸話が示されております。前者は大聖人身延御在住の時の話であり、「四条ノ中務」とは檀越の四条金吾のこと(「本ハ京都ノ人」とあるが未詳)、墨平三郎については物語抄以外に伝承がありません。また、この逸話について物語抄以前の文献には触れるものがありません。大聖人の御前にての不祥事であり、後に墨平三郎が「夜ハ念仏申サレ云々」の讒言を行なったというような破格な出来事でもありますから、門流内を口づてに伝わった話を日有上人が門弟に説き聞かせたものかも知れません。

 後者は、日興上人が重須御在住の時の話です。悪行を戒められた弟子が逆恨みして日興上人へ切りかかりましたが、それを日妙師が機転をきかし、かえって弟子を組み伏せたとあります。日妙師は、日興上人の〈新六〉といわれる高弟の一人。日興上人へ帰依する以前は、甲斐国の右左口村にある七覚山(山梨県東八代郡)の修験者であったと伝えられます。この逸話も物語抄以前の文献資料によって徴することはできませんが、日常的な出来事が文献に載って後世に伝えられるのは、ごく僅かなものに過ぎませんから、それによってこの話が事実ではないとも言えません。日妙師が「浅猿ヤ貴辺カ刀ニテ然ルヘカラス」と言って、白分の刀を相手に与えたとする、その行為など、むしろ作り話にしては凝りすぎているようにも思えます。

 日精上人の家中抄によれば、日妙師は「自ら脇差しを抜き出して」とあり、弟子に投げ出した刀が「脇差し」であったとされています。脇差しとは、腰の脇に差した小刀のことです。「我ガ刀ヲ抜イテナゲヤリ給ヘバ」の記事からすれば、大刀よりも「脇差し」が現実に即していると言えましょうか。僧侶が刀を持つことについて疑問に思う方がいるかも知れませんが、中世の武家杜会では合戦や狼、籍によってしばしば身は危険にさらされたのであり、たとえ叡山の僧兵ならずとも護身のために僧章侶も刀杖を携えることがありました。大聖人は、行敏訴状御会通に、  

「法華経守護の為の弓箭兵杖は仏法の定れる法なり、例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し」(全集182)

 と仰せられています。この御文は、鎌倉の大聖人の草庵に「兵杖等」が蓄えられているという行敏の訴えに対しての答えですが、「法華経守護の為」ならば否定されるものではないと示されております。また、日有上人の化儀抄に、  

「1、出仕の時は太刀を一つ中間に持たすべし、折伏修行の化儀なるが故なり、但し礼盤に登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍らに置くべきなり云云」(第22条、歴全1−244)

 とありますように、仏事出仕の際の刀剣所持は、当家の「折伏修行の化儀」を表わすものであると説かれています。すなわち正法護持、折伏修行の化儀のために刀杖を所持したわけですから、あくまでも護身のために用いられたものであったと言えましょう。

 もう一つ、刀杖の所持について付け加えるならば、山間に修行する山伏や修験的な僧侶は身心錬磨を旨とすることもあって、多く刀杖を所持したと言います。日妙師の帯刀も、あるいは七覚山の山伏といわれる前身に関連があるのかも知れません。帯刀のことや、とっさの機転、刀を投げ出す動作など、どことなく山伏的なものを連想させてくれる話ではあります。

 物語抄の本文は、上代の二つの逸話を通じて「師弟ノ中ニモ用心」が肝要であることを弟子に訓戒されたものですが、実は私の興味はその訓戒の内容や意味にあるのではなく、修験を連想させる日妙師の行為を起点にして、日興上人の弟子の中にどれほど修験と関連のある僧を見いだすことができるか、それによって日興上人の弘通の経路や方法、あり方などが少しでも明きらかになるのではないか、ということにあります。それがまた、富士門流と他門下における上代の布教のあり方の相違点を明らかにしてゆく過程になるのではないかと思うのです。

 よって、あるいは聞書に関する論述、日有上人の仰せから多少離れることになるかも知れませんが、富士門流の上代のあり方を知っていただくためにも、修験に関わる日興上人の弟子について申し述べたいと思います。

 

《甲州・寂目房目華師について》

 式部公日妙師に七覚山の修験者の伝えがあることは既に述べたところですが、その頃の師匠筋であ ったと言われる人が寂日房日華師であります。

 七覚山は山梨県東八代郡右左口村にあり、中世では新義真言宗の円楽寺として栄えていました。それはまた役行者が開いたと伝える富士北麓の修験の行場でもあり、全盛時には山中に多くの堂社を構え、東国修験の巨魁として君臨していた模様です。古伝によれば、日興上人へ帰依する前の日華師は、日仙師、日妙師、日伝師等とともに、七覚山において修験の道に励まれていた生言われます。

 日華師の帰依の年次は必ずしも明確ではありませんが、弘安3年5月8日にはすでに大聖人より曼茶羅本尊を授与されておりますから、少なくともそれ以前に日興上人の教化に浴していたことが分かります。おそらく甲州鰍沢方面の僧侶では、日華師がもっとも早く日興上人に結縁されたものと思われます。それというのも、日興上人は後年、高弟六人を弟子分帖の冒頭に記されましたが、その筆頭に日華師を挙げられているからであります。のみならず、同書には、日華師の弟子として大井庄司入道とその妻、入道の孫の肥前房、曽根五郎の妻など四名が記されており、いずれも日興上人の仲介で大聖人より曼茶羅本尊を授与されております。これによっても日華師が甲州、鰍沢方面における日興門下の重鎮であったことが偲ばれます。

 また、先の弘安3年5月8日の曼茶羅本尊の脇書には日興上人の御筆で、

「甲斐国蓮華寺住僧、寂日房」(富要8−223)

 と記されてありますので、日華師は当時すでに蓮華寺の住僧であったことがわかります。

 しかしながら蓮華寺に関しては、一方において日華師創建の寺院で日華師はその初代住持であるという説と、他方において蓮華寺は既成寺院であり日華師はそこに寄住していた僧侶に過ぎないとする、両説があります。

 「蓮華寺住僧」あるいは「蓮華寺前住侶」の記載を住持とみるか、それとも単に居住の僧侶とみるかの違いなのですが、やはり「住僧」「住侶」をただちに住持とみなすのは少なからず無理があると言えましょう。日興上人の本尊脇書の通例によっても「前住僧」はやはり、既成寺院における寄住の僧侶を意味しています。もっとも既成寺院としての蓮華寺について記した資料は今のところ見当らず、その当時の寺院の規模の大小についても全く分からないのが実情であります。そこが蓮華寺を既成寺院とみなす説の若干弱いところでもあります。既成寺院といっても、実相寺などの大寺院とは違い、数名の僧侶が寄り合い修行する程度の御堂であったのかも知れません。

 本尊脇書によって蓮華寺には日妙師も寄住されていたことが確認されていますが、おそらくは蓮華寺在住の時に日華師によって教化を受け、日興門下につらなったことと思われます。日妙師は日興上人の弟子として〈新六〉の一人に数えられてはいますが、本尊脇書には、  

「甲斐国蓮華寺前住僧寂日房弟子式部房」(富要8−218)

 と明記されていますから、直接的には日華師の弟子であったことに問違いありません。

 その他にも日華師の出家の弟子として、先の古伝には、

 「日華上人の弟子分、日経、日妙(式部公)、日仙(百貫房)、日任、日相(侍従公)(詳伝559)の名があげられています。さらに、これに弟子分帖記載の肥前公日伝師を加えることができます。

 また、日興上人の御筆の曼茶羅本尊に、  

「佐渡国住侶大和房申与之、寂日房弟子也」(富要8−217)

 と脇書されたものがあり、佐渡の大和房日性師も日華師の弟子となっています。日華師と日性師の師弟関係が佐渡にてのものか、鰍沢辺にて結ばれたものか定かではありませんが、いずれにせよ日華師および日性師の修験性がもたらした師弟の結縁ではなかったかと推測します。

 このように日興上人の高弟の中でも日華師は日目上人と並んで、多くの弟子を得ていましたが、その一つの特徴として修験に関わる弟子が少なくなかったことがあげられると思います。

 

《柏尾寺と七覚山》

 

 

 日興上人御筆の本尊脇書には、

「正和三年七月八日、甲斐国柏尾寺前住僧、甲斐公蓮長」(富要8−218) 

 と記されたものがあり、甲斐における日興上人の弘通は、既成寺院の柏尾寺(現在の東山梨郡勝町)在住の僧侶にも及んだことが知られます。柏尾寺は、柏尾山寺とも呼ばれ、現在では真言宗の寺院(大善寺と呼称)でありますが、鎌倉時代には薬師如来を奉った天台系の寺院でありました。またこの柏尾寺は、別所としての機能も果たしており、山寺の通称が示すように、聖や修験者たちが寄住する寺院でもあったようです。江戸時代に著された『裏見寒話』に、次のような注目すべきことがらが示されています。

 「山上より神輿下るを七覚御幸と云ふ、毎年4月15日神事爰にも、しき切りあり、昨日柏尾の薬師にて勤めたる山伏、夜中を掛け爰(七覚山-筆者註)へ来たりて此の神事を勤むと云ふ。里俗説に伊豆の国にも此の日しき切りの神事あり、七覚の太刀の光り、豆州の海に移る(後略)」

 この記事によれば、毎年行なわれる七覚山の神事には、前日に柏尾寺の薬師本尊の前にて行事を勤めた山伏が馳せ参じるとあります。勝沼の柏尾寺から右左口村の七覚山まで距離にして20キロ余りですから、修験者の足であれば造作もないことであったと思います。鎌倉時代に七覚山と柏尾寺の関係がどのくらいのものか知るよしもありませんが、もし記事のような交流が想定できるならば、両者の僧侶や修験者は互いに見知っていたことも大いに考えられます。日華師や日妙師を通じて、日興上人の教化が柏尾寺の前住僧「甲斐公蓮長」に及んだと考えられなくもありません。

 あるいは想像を逞しくすれば、日華師や日妙師は蓮華寺に居住しつつも、修験の行場としての七覚山をよく訪れていたのではないか、と私は思います。これは蓮華寺を小規模な既成寺院として考えた場合ですが、当時は廃寺や無住の御堂なども割合多く、修験者は適宜そこを訪れて居候のように客分として住むことができたと言われます。蓮華寺をそのような小規模の既成寺院として想定すれば、そこを根拠として一定地域の山を行場とすることはさほど不自然なこととも思われません。「鰍沢蓮華寺(曼茶羅本尊の脇書)」より七覚山までは、富士川を挟んでいるとはいえ、十数キロの道のりしかありませんので十分考えられることでありましょう。

 

《小室妙法寺の縁起》

 思うに、甲州と言えば日本でも有数の山岳県でありますから、重畳する山間に修験道が盛んに行なわれたのでした。文化年間に編纂された『甲斐国誌』によれば、本山派・当山派の修験あわせて246箇寺の多数が記録されています。同書に、  

「伝に云く、昔修験道の盛んなりし時は小室妙法寺、休息立正寺、柏尾大善院、七覚円楽寺、窪八幡普賢寺、藤木法光寺の類、皆修験の渠魁にして此に会聚して行法斉戒を修せし由なり、今は其の事は止む」

 という、天文年間の記録も紹介されています。これらのことを思えば、甲斐鰍沢に生まれた日興上人の弘通が、その地縁をたよりに多くの山伏や修験に関係する僧侶を改宗せしめたことはうなずけることでありましょう。上記の「修験の渠魁」と紹介された「小室妙法寺」と「休息立正寺」は、いずれも日蓮宗寺院ですが、両者がともに元は真言宗の巨刹であり、密教の修験僧を大聖人が帰依せしめた話を寺院縁起に伝えていることは実に興味深いものがあります。

 とりわけ小室の妙法寺は、鰍沢の背後にそびえる深山に位置しており、その由緒書には「肥阿闍梨日伝」という、日華師の弟子の「肥前房日伝(大井入道の孫)」と同名の修験僧が登場します。文永十一年五月に大聖人が身延に入山される時、小室山にてこの肥前阿闍梨と法術くらべのすえ、破折し帰依せしめたというのが伝説のあらましです。

 むろん、この肥前阿闍梨を日華師の弟子の肥前房と同一人とすることはできませんし、この法術くらべ自体も虚構に過ぎないのでしょうが、だからといって、この伝説が生み出されていった背景をも無根とすることはできません。例えば、小室に修験をこととする真言宗の既成寺院があり一巨刹であったかどうかは疑問ですが一、それがかなり上代に日蓮門下の寺院に改宗したことは少なくとも事実でありましよう。

 小室の地が、日華師の在住されていた「鰍沢蓮華寺」と目と鼻の先であること。日華師が修験道に通じていたこと。伝説に日華師の弟子と同名の修験者「肥前日伝」が登場すること。「妙法寺」と「蓮華寺」の寺号に何らかの関連が考えられること等々。これらのことは、小室妙法寺と日興門流が密接な関連を有していたことを示していると言えないでしょうか。

 また〈本六〉の日仙師は弟子分帳に、

「甲斐国西郡小室の摂津公日仙は日興第一の弟子也」(歴全1−89)

 とありますように、西郡小室がその出身地であります。堀日亨師は、この点を重視して、  

「日伝の小室山にも多少の協力があったろうと思う」(詳伝597)

 と感想を述べられ、妙法寺の改宗と日仙師の問になんらかの関わりを推定しています。ちなみに日

 仙師は大聖人より「百貫房」の異名を与えらております。そのことは、日興上人御筆の曼茶羅本尊に、

「日仙に百貫房とは聖人の賜はる異名なり、日興上奏の代なり」(富要8−213)

 と脇書されています。おそらく日仙師の体力の旺盛なことを称して付けられた名前でしょうが、師の修験性、異能ぶりを十分に感じさせます。

 それはともあれ、これらのことをトータルに考えてみますと、小室の妙法寺と日興門下とは関連少なからずと私には思えるのです。鰍沢、小室の地に、日興上人をはじめとして日仙師、日華師、日伝師とその弟子たちが勢力を張っているわけですから、ごく上代の妙法寺の改宗に些かも富士門流が関係していないとはとても思えないのです。

 先の大聖人が真言修験僧を帰依せしめたという伝説も、日興上人ゆかりの鰍沢という場所を考え、さらには大聖人が鰍沢方面に足をのばされた事実を確実な資料によって決定し得ないかぎり、日興上人による教化とみた方が史実に近いのではないか、と私は思っています。

 

《日興門流の教線》

 

 

日興上人の甲州鰍沢辺における弟子が、みな少なからず修験性を帯びていることは否定し得ないのではないかと思います。そしてそれは、日興上人ご自身にもなんらかの修験との関わりがあったことを裏付けるものではないかと思います。

 ここまで申し述べてきました七覚山や柏尾寺、小室妙法寺、また前節の走湯山円蔵房など、日興上人の教化は修験と多少とも縁のある既成寺院の大衆に多く向けられていたように思われます。この他に、走湯山権現とともに二所権現と並び称された箱根権現にも「白蓮弟子、箱根帥房(漫荼羅本尊の脇書-筆者註)」が確認されています。日興上人は走湯山権現に寅王丸を尋ねられたように、箱根権現にも教線をのばされ、帥房を弟子にされました。

 これらの事実は、日興上人が修学僧の頃より駿河の実相寺に寄住し、大聖人晩年の弘安期まで四十九院の供僧を勤められたことと少なからず関係があろうかと私は推測します。実相寺・四十九院がどれほどの勢力をもち、寺格を有していたかはっきりしない面もありますが、おそらくそこの供僧職を勤めていたことが諸処の既成寺院や権現での日興上人の教化に力を添えていたのではないかと思うのです。供僧職がパスポートの役割を果して、既成寺院や権現の大衆とも交わり、法門談義のうちに大衆をリードして、大聖人門下へと帰依せしめたのではないかと思います。

 日興上人の教化の基本線は今まで述べてきましたように、もっぱら既成寺院や権現の修験や僧侶であったと思います。まず、それらの修験や僧侶が帰依し、その血縁、姻戚関係により一族が帰依するという流れが一般ではなかったかと考えます。おそらくは日華師の秋山家、日仙師の小笠原家も同様ではなかったかと思います。

 そしてさらに日興門流の教線は、それらの在家、檀越が地方に転出することによって広域に展開されていきました。

 ともあれ日興上人教化の弟子檀越が、奥州、越後、佐渡、常陸、下野、相模、駿河、甲斐、伊豆、遠江、紀伊、出雲、讃岐等、ほとんど全国的な広まりを見せていたことは他門下の布教の状態と比して特筆すべきことであります。これらの地名はほぼ日興上人の『弟子分帖』や御自筆本尊の脇書によって確認されうるものばかりでありますから、いかに日興上人門下が広域的に伝播したものか、その行動半径の広さ、機動力には目を見張るものがあると言えましょう。そして、そこには重須の日興上人と地方の檀越との問を行き来して結んだ弟子たちの力強い謹厳な姿が思い浮かぶのであります。

 

 

 

 

 

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