第4章             富士門流の謗法観

 

「聖人御在生九箇年の間、停止せらるる神社参詣云々」の富上一跡門徒存知事の記事に依憑すれ身延御在世中に門下檀越は神社への参詣を制止されていた。ことに「御往生九箇年」の文に注目すれば、身延入山を一つのケジメとして大聖人の神門意識が変化し、かつ確定化されたとみることもできよう。弘安の頃、神天上法門に不審を懐く弟子が存在した。そこには日本国を逆縁世界と捉えるか、順縁世界と見るかとの問題が内在していた。当家の謗法観の基点はここにあるといつてよかろう。

 

 

T 神天上法門について

 謗法ノ人ノ所ロニ勧請ノ神社ニ垂迹有ルべカテズト云フ義ハ爾也。我カ正法ノ人トシテ正法ニ神社ヲ修造セン事ハ如何ト云云。是レハ道理然カナレトモ惣シテ比ノ国者国王将軍謗法ノ人ニテ在ス故ニ、謗法ノ国ニハ垂迹ノ義有ルべカラスト云フ法門ノ大綱ナルカ故へニ、我カ所ロニ小社ナトヲ建立シテハ法門ノ大綱混乱スル故へニ、謗法ナラン間ハ神社ヲ必ス建立ナキ也。此国正法ノ国トモナラハ垂迹ヲ勧請申シテ法華宗参詣センニ子細有ルヘカラズ (化儀抄、歴全1−358)  

 本文は化儀抄の第76条、当家における神天上法門に関する項目です。まずはじめに通釈致します。

 他宗謗法の人々がした神社に神の垂迹がないという法義はもつともな事であります。それでは、我が正法の人が正法の信心をもつて神社を造営したならば如何かとする考え方がありましょう。これは部分的には道理が通つているように思われますが、総じて考えてみる時、この国の国王・将軍は他宗謗法の人であり、謗法の国には神の垂迹する義はないというのが当家法門の大綱でありますから、正法を信仰する人だからといつて、自分の所に小社などを建立することは法門の大綱を混乱させる原因となるので決して認められません。日本国が正法の国となつたならば神を勧請して、その垂迹の神社に法華宗の人々が参詣することは問題ではありません。以上通釈ですが、このことに関連して化儀抄の75条には  

「他宗の神社に参詣して一礼をも成し散供をも参する時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人也。就中正直の頭を栖と思召さん垂迹の、謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず。還って諸神の本意に背くべき也云云。但し物見遊山などには神社へ参ぜん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云」(歴全1−258)  

 と示され、実際的に他宗の神社に参詣し、供養することを当家の化儀の上から堅く禁じております。

 いずれも両条の教えは、謗法の国に神は住まないとする<善神捨国>の考え方、すなわち神天上法門が前提となつて導き出されたものです。また、諸天善神が神社の社殿には住まず、「正法の人」「正直の頭」に垂迹するという義にしても、神天上の前提の上に立つて教示されたものであります。

 これらの神天上法門に関する日有上人の仰せは、富士門流の伝統ともいえるもので、日興上人、日目上人の時代にすでに先例となる2、3の事柄を示すことができます。

 

《神天上法門と〈五一相違〉》

 大聖人滅後まもなく、日興上人と五老僧の間に法門上の〈五一相違〉が惹起したことは後に詳しく述べますが(第7章、第8章参照)、今節の神天上法門―謗法の国を神が嫌い天上に去ること一もまた、そのうちの重要な一つであると言えましょう。

日興上人の身延離山の縁由を伝える殿御返事によれば、すでに神社参詣の可否をめぐって、日興上人と五老僧との間に意見の対立のあつたことが確認されます。  

「守護の善神此の国を捨去すと云事は不審未だ晴れず候。其故は鎌倉に御座候御弟子は諸神此の国を守り給ふ尤も参詣すべく侯。身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる」 (歴全1−168)  

 と示されているように、鎌倉に弘通する五老僧の門流は神社参詣を奨励し、身延在山の日興上人門下は門を神天上法門を主張して社参を禁じていたことが伺えます。さらに同御返事によれば、五老僧の一人民部日向師は、  

「守護の善神此の国を去ると申事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読みに片方を読て至極を知らざる者にて侯。法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会すべく、尤も参詣すべし」 (歴全1−169)  

  と主張して、日興上人の安国論理解を「外典読み」と下す一方、自らの神社参詣を正当化しました。

 しかしながら、これに対して日興上人は大聖人の立てられた法門と相違する「師敵対」の説であると退けられております。

 おそらく具体的には、波木井氏の「三島社参」の謗法行為とそれを支持擁護した民部日向師の謬説がもととなつて、神天上法門に関わる鎌倉方と日興上人門下の相違が表面化、明確化したのであろうと思います。後に、〈五一相違>を詳しく示された富士一跡門徒存知事には、

「五人一同に云く、諸神社現当を祈らんが為に仍て伊勢太神宮と二所と熊野と在々所々に参詣を企て請誠を致し二世の所望を願ふ。日興一人云く、謗法の国をば天神地砥並びに其の国を守護するの善神捨離して留まらず、故に悪鬼神其の国土に乱入して災難を致す云云。この相違に依って義絶し畢んぬ」(歴全1−33)  

 とあり、日興上人が五老僧の伊勢神宮や伊豆・箱根の社参に対して厳しい姿勢で臨まれていたことが伺われます。さらにこのことは、もう一つの〈五一相違〉の書である五人所破抄にも、  

「又五人一同に云く、富士の立義の為体、只に法門の異類に擬するのみに非ず、剰へ神無の別途を構ふ、既に以て道を失ふ、誰人かこれを信ぜん哉。日興云く、我が朝は是れ神明和光の塵、仏陀利生の境也。然りと難も今末法に入つて二百余年、御帰依の法は爾前迹門也。誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師勘ふる所也。何ぞ善神聖人の誓願に背き新たに悪鬼乱入の社壇に詣でん哉」(歴全1−33)  

 とあり、富士一跡門徒存知事と表現の違いはあれ同内容の記述がみられます。五人所破抄によれば、他門下は神天上法門を「道を失ふ」邪義として、富士門流を非難していたようです。

 これらの上代の2、3の例をみても分かりますように、富士門流では神天上法門をことのほか大切にして、神社参詣を禁止して来ました。

 さらには、同じ日興上人門下の内にも、神天上法門には若干の異義がありました。日目上人の弟子日尊師が「神詣くるしからし」(歴全1−215)と社参を認めたのがそれですが、むろんこれは富士の立義に違背することなので日目上人は、  

「日蓮聖人の法門は念仏・真言・禅・律謗法故に、大小守護善神宝殿を捨て本宮に帰り給とこそ候へ」(歴全1−215)  

 と神天上の法義を教示されました。この時の状況を説明した日目上人の消息には、日尊師が神天上法門を正しく理解していなかつたことが記されていますが、その消息中には「神詣の義」「神法門」などの言葉が何回となく繰り返され、さらには「神法門よくよく仰せ付けらるべく侯」(歴全1−216)等と仰せられていることから、富士門流内にあつて神天上法門を正しく把握することは実に重要な事柄であつたのでしょう。また、この日尊師の一件は神天上法門の理解の難しさを端的に表しているのかも知れません。

 それでは何故このように、富士門流の上代では神天上法門が大切なものとされ、社参が禁止されるまでに至つたのか。何故、神天上法門をめぐって日興上人と五老僧は鋭く対立しなければならなかつたのか。その点について、もう少し考えを巡らしていきたいと思います

  

《「法門ノ大綱」ということ》

 なぜ当家において、神天上法門がことのほか大事にされ社参が禁じられるまでになったのか、このことを理解する上で最も肝要と思われるのは、日有上人が仰せられた「法門ノ大綱」とは何かを考えることではないかと思います。「大綱」とは「網目」に対する用語でありますから、部分、枝葉に対する全体、根本の意でありましょう。建築で言えば、内装やインテリアはともかく、その前提となる土台や柱組を堅固にすること、それが「法門ノ大綱」を明らかにすることに通じます。

日有上人は本文に、  

「謗法ノ国ニハ垂迹ノ義有ルヘカラスト云フ法門ノ大綱ナルカ故ニ云云 「小社ナトヲ建立シテハ法門ノ大綱混乱スル故へニ、謗法ナラン間ハ神社ヲ必ズ建立ナキ也云云  

 等と示されましたが、逆説的に言うならば、この「法門ノ大綱」を忽せにしないために神天上法門は譲られなければならず、社参はまた禁じられなければなりませんでした。この条目で日有上人は、「正法ノ人」が「正法」によって神社を修造することを理の上では認めながらも、具体的な「小社」の建立などを枝葉のこととして禁じられました。すなわち当家の法門は、日本一国を「謗法ノ国」=逆縁の衆生と規定することによって成立しているので、順縁の世界が到来したかのような「小社」の建立は法門の根本を乱す悪因にしかならないと日有上人は仰せられたのです。

 「謗法ノ国」=逆縁の衆生を徹底してはじめて、当家宗旨の根幹である折伏逆化も受持正行も明確なものになります。つまり、なによりも逆縁の世界を決定づけることが富士門流の「法門ノ大綱」を決するキーポイントになつているわけです。

 そして、この逆縁の世界を当家の法門の「大綱」にまで決せられたのは、やはり日興上人のお力であつたろうと私は思います。少し大胆に言うならば、〈五一相違〉の一々の異義は、逆縁世界に法門を建立しようとする日興上人と、順縁世界を考慮に入れて法門を構築せんとした五老僧との対立なのかも知れません。例えば、「五人一同」の義に、一部読諦や如法経などの五種行を勧めるものがあります。  

「如法一日の両経は法華の真文を以てす也、書写読誦に於いても相違有るべからず」(歴全1−33)  

 五老僧からすれば、一部五種行とはいえ法華経の修行を行なうのですから問題はなかろう、と言うわけでしょう。しかし、それに対して日興上人は、  

「日興云く、如法一日両経は法華の真文たりと難も正像転時の往古平等摂受の修行也。今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば、一部読謂を専らとせず但五字の題目を唱へ云云」(歴全1−33)

 と破折されています。日興上人が一部読謂を「正像転時の往古平等摂受の修行」と指摘された通り、五老僧の摂受行は順縁世界に我が身を置こうした結果とも言えます。それに比して、日興上人の言われる折伏行は、末法を迎えて逆縁世界に宗旨を建立しようとされたものです。逆縁の衆生に五種行は叶わず、ただ題目の五字のみ受持して成仏を遂げる、それが大聖人の法門であり富士の立義であります。

 後世、要法寺日辰師は、逆縁の衆生には妙法五字の受持正行、信仰に帰依した順縁の衆生(門弟・信徒)には一部読諦を許すという折衷案のような教義を立てましたが、これなどは日有上人が「法門ノ大綱混乱スル故ヘニ」と示されたことに相当していると一言えましょう。「正法ノ人」が「小社」を建立したり、「一部五種行」を行ずることは、せつかく逆縁の世界に法門を建立しながら順縁の世界に引きずられ、どつちつかずの法門に堕すことに通ずるものです。

 また、五老僧が天台沙門を号して、天長地久の国家祈祷を行つたことなどは折伏行の放棄とも言えるもので、逆縁世界を法門の大綱に据えている富士門流にとって見逃しがたい謗法行為と映つたことでしょう。この国祷問題でも五老門下の場合、逆縁から順縁へ「法門ノ大綱」が移行しているように思えてなりません。

 そもそも〈五一相違〉に共通していることは、末法を迎えながらも釈尊やその教法を頼りにする五老門下と、上行菩薩を末法衆生の救済の導師と捉える日興上人との対比であり、このことが各項目の根底に等しく流れております。釈尊と上行菩薩の対比は、所村の機根の相違にも示されるところであり、釈尊は在世にあって本已有善の衆生に相い対し、上行菩薩は滅後末法の本末有善の衆生に相い対しております。つまりここでも本已有善=順縁の衆生と、本未有善=逆縁の衆生との相違があり、どちらを基盤に法門を建立するかで、先々にいろいろな異義が展開しているのであります。

 またく五一相違〉の中でも、謗法の国に神は住まないとする神天上法門は、彼我の世界観の相違を決定づける分岐ともなつたのではないかと思います。それゆえに日興上人と五老僧は、神天上法門をめぐって鋭く対立したのであり、後々まで富士門流の伝燈として神天上法門が堅持されることになつたのでありましょう。

 しかしながら〈五一相違〉を論ずる時に肝要なことは、それぞれの法門上の異義が何を起点として起こつたのか、大聖人の法門の真意はどちらにあってのか、常に公平な歴史観をもつて真筆に探らなければなりません。

 神天上法門に関しても、大聖人一代を通じて決して不変なものであつたとは言えません。守護国家論や立正安国論を著作されていた青壮年の項と、晩年の身延において諌暁八幡抄を執筆されていた頃では神法門にもかなりの変化が認められましょう。あるいは佐前、佐後という観点からも相違が例えるかも知れませんし、身延在山中の建治、弘安年間にも微妙な意識の変化があつたかも知れません。どの時期の大聖人のお考えを門弟が捉えるかというだけでも、大きな法門上の差異が現れる結果となります。〈五一相違〉に示された五老僧の行為は、例えば天台沙門を号したことや一部五種行を行じたこと、さらには神詣でを勧奨したこと等にしても、一時期の大聖人の教えに執着した結果であろうとは思いますが、そのことも我田引水ではなく実証的で公平な眼をもつて検討されなければならないことでありましょう。

 

《諌暁八幡抄の教え》

 大聖人が諸天善神に対して、法華経の行者を守護する守護神としての使命を重く見られていたことは周知の事実であります。御書に、  

「天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御誓い」(全集1295)  

「法華経のニ処・三会の座にましましし、日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく、須夷に来て行者に代り仏前の御誓をはたさせ給へし」(全集217)  

 等と仰せられているように、諸天善神は法華経の会座に連なり仏前にて行者守護の誓いを立てられた神々であり、と同時に、法華経の行者を迫害誹謗する者に対しては治罰を加える神々であるはずでした。

 しかしながら大聖人の御身に重畳する厳しい法難に際して、諸天善神は誓いを放棄したかのように沈黙したので、佐渡流罪の時には、

「定んで天の御計いにもあづかるべしと存すれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む。還て此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか。又諸天善神等の此の国をすてて去り給へるか・かたがた疑はし」(全集202)  

 と強い疑問を呈されています。また、開目抄述作直後の富木殿御返事には、法華経の行者に天の加護がないことに関して、@諸天善神此の悪国を去るか、A善神法味を味はさる故に威光勢力無きか、B大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか等(全集962)と総括されています。

 大聖人は〈三度の高名〉といわれる国家諌暁のたびに法華経の行者の自覚を深められていきましたが、そのために蒙らねばならない法難も次第に強く烈しいものになっていきました。行者が忍難弘教の道を歩むことは、大聖人にとつてむしろ歓迎すべきことでありましたが、一方において行者守護の「仏前の御誓い」を果たそうとしない諸天に対しては少なからず不審を懐かれておりました。行者を守護しない、謗者を呵責しない、これでは諸天善神が「仏前の御誓い」を反故にしたのも同然ですが、それはそれとして、大聖人の御意にはおそらく謗法破法の国1=逆縁の世界という図式が次第に強く組み込まれていつたであろうと思われます。特に、佐渡赦免直後の3回目の国家諌暁が不調に終わると大聖人は翻然として身延の山中に交わりましたが、この時におそらく諸天善神に対する従来の考えを改める一つのケジメをつけられたのではないか、と私は思います。

 大聖人はその頃、幕府が真言宗等に異国調伏の加持祈祷を行わせていたことに厳しく警鐘を打ち鳴らしていました。しかし、三度目の諌暁にもかかわらず幕府は大聖人の申し出を採択しないで、なお法華経を用いず、真言宗等による異国調伏の祈祷をも停止しませんでした。法華経の行者は幾度となく迫害を蒙り、誹謗正法の輩はますます国家によつて重用される、この現実を目の当たりにされた大聖人が、当時の日本国を謗法破法の国=逆縁の世界と規定し、諸天善神の無力を強く再確認されたしても、それは道理の赴くところであつたと言えましょう。身延入山を区切りとして、大聖人の守護の善神への評価は限りなく小さなものになっても不思議ではありません。  

「聖人御在生九箇年の間、停止せらるる神社参詣云々」(歴全1−17)  

  と門徒存知事には示されていますが、この記事に依憑すれば、身延御在世中には門下檀越は神社への参詣を制止されていたのであり、ことに「御往生九箇年」の文に注目すれば、身延入山を一つのケジメとして大聖人の神法門意識が変化されたとみることも大いに根拠あることと言えるのではないか、と私は思うのです。

 そして、弘安3年12月に諌暁八幡抄が執筆されたことによって、ある意味での神法門の結論が提示された、と私は考えます。

 諌暁八幡抄においては諸天善神への期待は少しも表れず、その題号の通りに八幡神を弾呵諌暁する大聖人の厳しい叱声のみが綴られれております。それも守護の期待を強くしての諌暁ではなく、謗法破法の国=逆縁の世界を決定づけるために八幡神を呵責しているかの感があります。この抄の中に、弟子による注目すべき二つの質問が設定されています。一つは、  

「我が弟子等が愚案にをもわく我が師は法華経を弘通し給うとてひろまらざる上大難の来たれるは真言は国をほろぼす念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給うゆへなり、例せば道理有る問注に悪口のまじわれるがごとしと云云」(全集585)

 という御文であります。これは当時、弟子たちの中に大聖人が諸宗を厳しく破折することに対して、異論を挟むものがいたことを示しています。大聖人は竜の口法難以来「勧持不軽」の両品を色読する折伏行に身を投じられていましたが、それに対して弟子の中には弘通の方法を改めればもつと広まるとする、摂受的な考えをもつ者が出てきたわけです。ここには、衆生に対して逆縁を結ぶ折伏行と順縁を結ぶ摂受行との相違が明確な形で対比されていると言えましょう。さらに、もう一つの弟子の質問は、

  「我が弟子等の内、謗法の余慶有る者の思いていわく此の御房は八幡をかたきとすと云云」(全集584)  

 というものでありました。これは、大聖人が八幡神を敵のごとくあまりに強く諌暁することに対しての弟子の異論です。弟子からすれば、行者を守護する八幡神をそこまで呵責することはないという意見でしょう。あるいは、ここにも八幡への諌暁は弘通の障害になるという考えが内在していたのかも知れません。おそらく前問と同じく、弟子たちは摂受的な考えに支配されていたものと思われます。「謗法の余慶有る者」とは、「謗法の考え方から未だ脱しきれない弟子」というほどの意味合いです。

 この二問から推するに、弘安の頃、八幡神などの神法門に不審も懐く弟子たちが実在していたこと、また・それらの弟子たちの疑問の中止は概ね大聖人の折伏行に対するものであり、そこには日本国を逆縁世界と捉えるか、順縁世界と見るかとの問題が内在していたと言えましょう。

 そして大聖人は、弟子の疑問に対して、一々に経論を引き反問を設けて懇切に教示されましたが、その結論部分は諌暁八幡抄の末尾に明解な御文によって示されたといつても過言ではありません。  

「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明月に勝れり五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給ばず在世には無さゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各々我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」(全集588)

 末法は謗法の衆生によつて埋めつくされているので逆縁を結ぶ折伏行に徹しなければならない。釈尊は在世順縁の衆生を救うことはできても法華経謗法の者を治すことはできない。この上は不軽菩薩の姿を目指して我が弟子たちは折伏行に励まなければならない、と大聖人は諌暁八幡抄を結ばれました。本抄の結論部分が不軽菩薩の登場によつて締めくくられたのは、当家の法門にとつて非常に意義深いことだと思います。不軽菩薩の修行は、諸天の加護もない謗法の国でひたすら逆縁の衆生と縁を結ぶものですが、それを大聖人は末法の折伏行とみなして、自らの仏道修行に課し、弟子たちに手本とせよ、と訴えられたのでした。法華文句記に  

「本已に善有れば釈迦小を以て之れを將護し、本末だ善有されば不軽大を以て之れを強毒す」  

 とありますように、諌暁八幡抄における不軽菩薩の登場は、まさしく本末有善の衆生=逆縁の世界=日本国と規定するためであつたと言えましょう。そして、大聖人は本抄において「日本国の一切衆生」の尊崇を集めていた八幡神がすでに「宝殿をやきて天にのぼ」られたことを宣言し、わずかに行者の正直の頭に宿ることを認められたのでした。ここに富士門流の社参を禁ぜられ淵源をみることができましょう。

 諌暁八幡抄に日興上人の御筆が10数行みられることは有名なことですが、このことは本抄執筆当時、日興上人が大聖人のお側近くにあって給仕されていたことを表します。大聖人の本抄執筆の動機、経緯などをつぶさに存知されていた日興上人にとって神天上法門は「掌を指すが如し」の法門であつたに違いありません。

 

U    信仰と生活

所ニテ仏事作善ヲ広大ニ成ス時キ其ノ所ノ謗法ノ地頭ナトノ方へ酒ノ初ツヲ進スル事一向世事仁義也。又其ノ所ロナトニ他宗他門ノ仏事法会ヲ成ス時キ其ノ所ノ然ルベキ法華宗ナントノ所ロヘ酒ノ初ツヲヲツカハス事有リ是レハ世事ノ仁義也。受ケ取ル人モ世事仁義ト心得テ請ケ取ルベキ也云云。(化儀抄、歴全1−364)  

 本文は化儀抄の第107条です。ここでは同条をはじめとして、化儀抄の中から私たちの日常生活に具体的に関わる条目をいくつか取り上げ、当家の信仰のあり方について申し述べたいと思います。まずはじめに、本文を簡略に通釈致します。

 ある所において当家の信徒が仏事法要を盛大に営む時、仏事の主催者である施主が地域の有力者で ある地頭に「酒ノ初ツヲ」を贈ることは世間的な交際の範囲で行なうことなので一向に差し支えあり ません。あるいは反対に、その地において他宗他門の人が仏事を行い、法華宗の相当な地位にある信 徒に「酒ノ初ツツヲ」を届けたとしても、それも世間的な儀礼に過ぎませんから、受け取る法華宗の側 も「世事仁義」と心得て受納することは何等差し支えありません。以上、通釈です。

 

《仏事作善と世事仁義》

 「初ツヲ」とはもともと、その年初めて実った稲の穂のことであり、転じて、その年初めて収穫した穀物を神仏や朝廷に最初に奉ることを言いました。また稲や穀物の他に、金銭や食物、酒なども初穂として捧げられました。このことが次第に習慣化、一般化して珍しい物や少しばかりの物を初穂と称して贈るようになりました。本文には「酒ノ初ツヲ」とありますから御酒を初穂として地頭に届けました。

 「仏事作善」はあくまでも信仰上のことですが、これを「広大になす時」は多少なりとも一般社会との関わりが生じてきます。その時には法華の信仰者としてではなく、一般社会を構成する一員として「世事仁義」といわれる儀礼的なことも果していかなければならない場面があります。本文の場合、それが「地頭ナトノ方へ酒ノ初ツヲ進」らせる行為であったわけです。

 現代において私たちが法要を営む際にもこの心得は大切なことと言えましょう。現代のような過密な杜会状況の中では、少し大がかりな儀式法要を奉修すれば(例えば会葬者の多数参列する葬儀や新寺院の入仏式など)、様々な形で近隣の人々や社会一般に迷惑や影響を及ぼすことがあります。それら近隣の人々や関係諸機関に対して、あらかじめ法要の予定を知らせたり儀礼として贈り物を届けることは当家の化儀に触れるものではありません。ただし、これらの行為は信仰の志を表わしたものではなく、あくまでも「世事仁義」の範疇の行為であることを確認しておかなければなりません。

 よく法華の信仰は<堅法華〉と表現されるように、世間からは、ともすれば偏狭、独善な教えと見られがちです。しかしながら実際「法華最勝の教え」を勘違いして、「法華の慢」などと広言し法華に限り慢心、独善が許されると言うような人もいるので、世間の評価をあながち見当外れと退けるわけにもいきません。

 むろん自らの信仰を純一無雑に持つていくために頑固一徹を押し通さなければならない局面も多々あります。その気概は大切なものに違いありませんが、しかしそれとても世間に対して徒に敵対することを勧めているわけではありません。気概は気概として、決して独善偏狭に陥らないように十分気をつけなくてはなりません。

 ここに日蓮聖人・日興上人の信仰を誤解なく貫いていくことの難しさがあろうと思います。誤った法華の教えが広まり、世間に対して徒に敵対視したり刃向かったりすることは愚かしいことであります。しかしまた、世間との隔絶を極端に恐れて何事にも世間迎合的になり、富士の立義を顧みなくなるようでは富士門の僧俗としてこれもまた失格であります。

 それゆえ謗法厳戒、不受不施の精神と一口に言つても、実社会の中でそれを実行し、守り伝えていくことはなかなか難しいことです。世の中の移り変わりに流されず、また逆に取り残されず、富士の立義を如何に伝弘していくか――それが私たち門弟の第一に考えるべき問題であり、責務でもあります。そのためには変容する時代の中で何を守るべきなのか、はたまた何を切り捨てていくべきなのか、宗旨の根本を損なわず、その時代時代の化儀を立ててゆくことが大切なことです。

 日有上人の化儀抄も室町時代という時代性の中で、富士の立義を如何に打ち立て、後代に伝えるべきかを具体的に示したものと言えましょう。化儀抄の各条を拝していけば分かることですが、そこでは信仰上のことと世間一般の儀礼慣習に属することがらは一々立て分けられ、それによって私たちの行為の許される範囲、許されない範囲が明示されています。それゆえ私たちはまず化儀抄に説かれている内容を理解し、その上で現代の社会生活の中にどのようにその内容を定着させて行くべきかを慎重に考えなければなりません。

 それでは話をもとに戻して、私たちの日常生活に多少とも関わる化儀抄の幾つかの条目について解説を試みたいと思います。

 

《仏具道具の扱い

「非情は有情に随ふ故に他宗他門の法華経をば正法の人には之を読ますべからず、謗法の経なる故に、但し稽古の為又は文字を見ん為などには之を読むべし。子細あるべからず。現世後生の為に仏法の方にては之を読むべからず云云」(第百九条、歴全1−365)  

 これは他宗他門の人の書写にかかる法華経(経巻、経本)の用否を示されたものです。意志のはたらかない物(非情)は、それを作り出した人(有情)に随うのが常ですから、他宗の人が書写した法華経を当家の僧俗が信仰の上から読誦することはなりません。それは謗法の経本であるからです。しかし、読誦、暗誦などの稽古のため、あるいは達筆な文字を鑑賞するためなどに限るならば使用して少しも差し支えありません。現世安穏、後生善処の祈念のために信心にてこの経本を読誦してはなりません。

 この条目において日有上人は他宗書写の経本も稽古や鑑賞のためならば用いてよろしいと仰せられました。つまり、ここでも世出の両面を立て分けて、その範囲を示されました。これは同じく化儀抄の「学問修行の時は宗を定めざる故に他宗の勤行事をなし、又他宗のケサ衣をかくる事一向子細なきか、宗を定むる事は化他門なり、学問修行は自身自行なるが故なり」(第55条、歴全1−252)にも一分通じていることです。学問修行の時は他宗の教えであれ御経であれ、大いに学んでゆく姿勢が必要です。信心の上から「他宗のケサ衣をかくる」のではなく、あくまでも「自身自行」の学問の上から行なうのであれば謗法にはなりません。法華経以外の教えや御経を学ぶことが謗法に当たるのであれば富士門流は学問的にも信仰的にも全く孤立せざるを得ません。それは今まで申し述べてきましたように、法華の独善、偏狭という悪い面を大いに助長する結果をもたらしましょう。

 また経本や教えばかりでなく、他宗寺院の伽藍、堂宇なども、これを先人の文化遺産という眼でみれば皆それぞれに学問や鑑賞のための貴重な素材とすることができましょう。何もかも謗法と退けて憎悪の対象とするには及びません。むろんこれは他宗他門を礼賛するという意味ではなく、正しく他宗を知り、自宗を捉えることによって、より強靱堅固な富士門流の宗旨が建立されると思うからです。

 化儀抄の末尾に、恵心僧都の一乗要決の一文を借りて「全く白宗他宗の偏党を捨て専ら権智実智の深奥を撰び終に一乗は真実の理、五乗は方便の説なるを得たる者なり、既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨を遺さんや」と語らしめたのには、それ相応の意味があろうと思うのです。

「袈裟衣等惣じて仏具道具等の事、一向他宗に借すべからず、又他宗の仏具道具等をも法華経の法会に借るべからず、既に非情は有情に随ふが故に謗法の有情の道具は自ら謗法の道具也、但し世事の志にて謗法の道具を正法の方へ取り切り乃至料足などにて、かい切つては正法の方へ成して子細有るべからず云云」(第110条、歴全1−365)

 袈裟衣など、その他総じて御宝前の仏具や道具類は他宗他門に貸してはいけません。また同時に他宗の仏具道具類も当家の儀式法要のために借りることは許されません。すでに「非情は有情に随ふ故に」と前条で示した通り、他宗の人の道具は自ら謗法の執情が移っている道具であるからです。但し、世間的な交際から他宗の道具を当家へ取りきるか、または世事の売買によつて他宗から当家へ買い取った場合などは、その限りに非ず、使用して少しも差し支えないのであります。

 この条目で日有上人は他宗他門との仏具道具類の貸借を禁じておられます。しかしここでも但し書を用いて、世事の志しで取りきるか、売買によって買い取れば使用しても差し支えないことを示されました。これは貸す借りるという行為のうちは、まだ持ち主の執情が仏具に残っているので謗法与同となるのであります。「料足」とは料金のことですが、代価を支払って当方の持ち物にすることによつて、はじめて仏具道具類の謗法の執情が消えることを示されています。第109条の「法華経」の場合、たとえ買い取っても「現世後生」のために読諦してはならないと示されましたが、それは経巻、経本が信心修行に直接関わる貴重品だからであり、それに比すれば仏壇や前机、経机、三具足などの仏具道具類は貴いものではあるものの御宝前を荘厳するにとどまる装飾品であるからでありましょう。

 現代では職人といわれる人がたいへん少なくなってきました。仏具道具類もひと昔前のきめの細かい精密なものは今では造ろうと思ってもなかなか出来るものではありません。そんな折、たとえば江戸時代に他宗で使われていたかも知れない仏具道具類の逸品が出てきたとします。それを「料足などにて」買取り、当方のものとして化粧直しや修繕を施して再利用することは一向に構いません、と解釈されるのが第110条であります。「料足」を払うことによって世間と出世間の立て分を明示された条目が第26条にもあります。  

「一、絵師・仏師或は鍛冶・番匠等の他宗なるをつかう事は、御堂、坊等にも苦しからず、作料を沙汰するが故なり」(歴全1−345)  

 これは当宗において本堂や僧坊を建てる時、他宗の絵師や仏師、鍛冶屋、大工などの職人を雇っても一向に構いません、それ相応の賃金で仕事を依頼しているのですから謗施にはあたりません、という内容です。「作料」とは職人の手間賃のこと。逆に、当宗の信徒が他宗の堂宇や道具類を作る仕事を請け負った場合も、賃金を得て仕事をするわけですから何等差し支えありません。

 これらの化儀抄の条目を拝して思うことは、まず「法華宗でなければ人に非ず」とする独善的な姿勢は間違いであること。次に世出の両面を厳格に立て分けること。それによって独善、偏狭に陥らず、しかも世間に迎合しない富士門流独自のあり方が追求されています。

 もう一つ、こんどは「料足」をもっても禁止されていることを挙げれば、  

「他宗他門より納る所の絵像木像等を他宗に所望すれども出ださず、又は代を以ってかうとも売るべからず、一乗より三乗に出で又一乗に帰る姿なるが故に無沙汰にすべからず」(歴全1−255)  

 と第65条に示されているのがそれであります。

 他宗他門の人が当宗に帰依した時に寺院に納めた絵像木像などの本尊に関する条目です。これは前述の「仏具道具類」とは違い、信仰上の法体でありますから売買を禁じております。

 他宗の本尊を買い求めることはほとんど有り得ないことですが、他宗の人が帰依して、それまでの本尊(絵像木像)を寺院に納めることはよくあることと言えましょう。それを他宗の人の所望によって譲り渡したり、売り与えてはけないとされたのは、また再び謗法の本尊を拝ませる結果になるからであります。それゆえ寺院に納められた絵像木像は「無沙汰に」せず、垂迹堂に入れられるのが日有上人時代の当家のあり方でした。

 ここで注目すべきは日有上人が「一乗より三乗に出で又一乗に帰る姿」と仰せられたことであります。他宗他門の人が持ち込んだ絵像木像に表わされた仏菩薩は、みな法華一乗から垂迹した方便の存在であり、再び一乗に帰すれば、それは本初に帰つた姿であります。ともすれば私たちが毛嫌い退けてしまう仏像や絵像等は、本初に戻れば謗法でもなく、みな妙法の当体となるべき仏菩薩であります。つまり謗法とは本来、他宗他門の諸仏菩薩にあるのではなく、それを信じていた私たち自体の心の迷いを言うのであり、末法当季の妙法蓮華経を信受した時すべての謗法は刹那に消えているといつても過言ではありません。

 しかし現実には、妙法以外の諸仏菩薩を信仰する他宗他門の人々は大勢いますので、それらの人々と信仰上の志は通じるべくもなく、そこに私たちが世出の両面を堅く分けて生活を営む必要があるのであります。

 

《帰命句の掛け軸》

「帰命句の有る懸地をばかくべからず二頭になる故也、人丸の影、或は勝鬼大臣等の影をばかくべき也」(第四十条、歴全1−349)  

 すでに述べましたように、他宗の人が書写した法華経を当宗の人が稽古用や鑑賞用に用いることは何等差障りありません。その例にならえば、他宗の人の書や絵を掛軸として鑑賞することは問題ありませんが、これには信仰上の法度として「帰命」の句が認められている掛軸に限り、当宗の化儀として許さないのであります。帰命の句は、文字どおり「身命を仏に捧げる」ことですから「南無」の義に相当します。それゆえ妙法蓮華経への「南無」と、掛軸に示された「帰命」とによって信心が二頭になることを恐れるのであります。ここに示された「人丸」は歌聖柿本人麿のこと、「勝鬼大臣」は五月の端午の節句に馴染みが深い鐘遣大臣のことであり、ともに御影として掛軸にされたものと思われますが、「帰命句」もなく信仰対象に移行するようなものではないので「影をばかくべき也」と許されたのであります。

 総じて信仰の雑乱をふせぐために、本尊に準ずるような掛軸を飾らないことが当家の化儀にとって大切なことです。因みに、この条目に関連して、習い事や趣味の寄り合いに参加する際の注意として第39条かあげられます、  

「法楽祈祷なんどの連歌には寄り合わず、其の故は宝号を唱へ三礼を天神になす故に、信が二頭になる故に我が宗の即身成仏の信とはならざる也云云(歴全1−349)  

 法楽を神に捧げたり、願い事の祈祷を行なう歌会に参加してはならないことを示されたものです。

 習い事や趣味も限度を越えては、純一であるべき信仰が崩れていく要因ともなります。その点、参加する寄り合いに「信が二頭になる」ことが含まれているか否かが一つの目安となるでありましょう。

 

《他宗他門の人の参詣》

「法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせい花を捧み事有り、之を制すべからず、既に順縁なるが故也。只大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば一向に取り次ぐべからず、謗法の供養なるが故に与同罪の人たるべし云云」(第百八条、歴全1−365)  

 当宗の本堂へ他宗の人がお参りして種々の供養や樒などを捧げることがあります。第百八条はそれを順縁とみて制してはならないと示されています。すなわち、すでに施物を用意して参詣された人の心に一分の信仰心をみて、その供養を謗施に当たらないとするのであります。しかし、この場合も但し書があって、持参した人が他宗である旨を僧侶に申し出て名乗りをあげた上で供養するならば、決して御宝前に取り次いではいけません。他宗信徒の謗施を受けたことになるからであります。

 基本的には信仰は内面的なことを重視しますから、その人の宗派、所属が何であれ、当宗の寺院に参詣し供養することがあれば、そこに一分の信を見ることは当然でありましょう。その意味で寺院は本来(無縁)の場であり、誰が参詣しても一向に拒むものではないはずであります。この点に関して、現在の本山大石寺は門扉、門番を立てて所属の有無やその人の有信、無信の別を問いただし、自分の都合によって参詣させないなど、自ら寺院の本来のあり方を放棄したものと言えましょう。とりわけ(常寂光土)たるべき義が存すると思われる本山、本寺が人を差別して参詣の可否を出すことなど、なんとも不思議でならないというのが実感です。

 謗法厳戒とは未信、無信の人々を参詣させず、寺域から締め出すことではないでしょう。その人たちも三門より足を一歩踏み入れることによって信徒の一分となり、参道を歩きのぼることによって妙法の修行に精進しているとみるのが富士門流のあり方ではないかと思います。

 その上で但し書にあるように、それらの人々が他宗他門を名乗って供養を申し出た時、取り次ぎしないのが当家の立てるべき筋目であろうと思います。この場合、名乗るか名乗らないか、申し出るか出ないか、という立て分けが少なからず重要な化儀なのであります。

 門扉で追い返すような現在の有様は、法華の独善、偏狭と言われても止むを得ません。さりとて、すっかり世間迎合して観光寺院化し、誰からも供養を受けるようでは不受不施の精神は滅んだことになります。そこで他宗信徒より「供養し申せ」と言われたものに対して、決して「取り次ぐべからず」という化儀が立てられるのであります。

 

《寄付行為》

 また「取り次ぐ」とか「申し出」ということを、反対に私たちが日頃行なう寄付行為に当てはめて考えることも無駄ではありません。

 例えば献金、寄付などの行為は、それが明らかに他宗他門へのものならば謗法への施となり、世出両面にわたって厳戒しなければならないことであります。それでは、それが宗教色のない献金・寄付(たとえば災害や歳末助け合いなどの募金)であるとすればどうでしょうか。この場合、拠出された金品は他宗他門の人のためにも使われることとなりますが、寄付自体は「世事仁義」の色合いがたいへん濃いものとなります。そこで私たちの立場からは、法華宗の信徒を名乗り、法華宗の信徒として寄付するのではなく、世出の立て分けを明確に自覚した上でそれらの寄付に参加することとなります。

 つまり、私たちの行なった寄付が他宗の本尊に「取り次」がれることはないか、寄付者名が法華宗としての「申し出」になっていないかぐらいは気をつけなければなりません。「世事仁義」の一分としてなされたことが確認されれば問題とするには及びません。

 これらのことは便宜的、形式的に過ぎると感ずるかも知れませんが、この一線を守っていくことが世間に流されないため、純粋な信仰を持つため、あるいは偏狭、独善に陥らないための重要な化儀であることに私たちは気づかねばなりません。

 現代杜会はあらゆる方面で多様化が進んでいますので、前近代の日有上人の時代と何事においても同一に考えることは出来ません。それゆえ化儀にしても、その精神性は大いに体得していかなければなりませんが、一々の条目の具体性ということになれば、現代に適応したあり方を私たちは不断に追求していかなければならないと思います。先にも述べましたが、謗法厳戒や不受不施の精神と一口に言いましても、それを実杜会に顕現していくのは至難の業であります。それにはまず、宗義や法体に深く分け入って宗旨の根本を学び、その理解のもとに謗法や不受不施の定義を改めて見直し、その上で実社会に現代の化儀ともいえるものを定着させていく過程を踏まなければなりません。

 私たちが現在日有上人の聞書を学んでいるのは、ちょうどそれらの前提作業をこなしていると言えましょう。まだまだ現代の化儀を提示するにはほど遠い段階であると思います。今はただ、上代の宗義を学び、化儀を発掘し理解することによって、現代との大きな溝を埋めてゆく作業が重要ではないかと考えます。

 

 

 

 

 

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