第1章  富士門流の化儀

 

 

 富士門流の僧俗が今なすべきことは何か。それは虚ろな繁栄の中で見失われてしまった〈富士門流の信仰と化儀〉を学び直し、現代に蘇らせ、未来に伝承することである。今、日有上人の諸聞書を通して、その一端を試みる。真撃な志をもって対する時、日有上人は多くの真実の法門を語って下さるはずである。あたかも若年の日鎮上人が化義抄を「行住座臥に拝見」して、既に亡くなられていた日有上人と「朝夕」に「対談」を実現した如くに。

 

 

 

T 本書の目的

 

《はじめに》

これより「日有上人聞書」についての解説を試みることになりましたが、もとより不勉強の上、「聞書」に関する講義書や関係資料がたいへん乏しいこともあって、満足のいく内容にとてもなりそうにありません。先師の著述である『御物語聴聞抄佳跡』(三十一世日因師)、『有師聞書註解』『有師化儀抄註解』(五十九世日享師)などをできる限り解説の参考に致しますが、それでもなお「日有上人聞書」のいわんとすることが、現在では不明・未詳であることも少なくないようです

 いくつかの解説上の難点をあげれば、まず第一に、世の中の形態や構造が中世と現代では著しく異なるので、そのことが解説を困難にする場合があります。また、中世特有の難解な時代語という問題もあります。また、聞書ゆえに記述が非常に断片的であり全体の真意を測りかねることなど、いずれも容易ではない問題が予想されます。

そんなこんなで、とてもまともな解説は望めそうもないのですが、それでいて、なにゆえ日有上人の聞書について解説を試みたいのかと申しますと、はなはだ漠然とした言い方ではありますが、私たちの置かれている立場が日有上人の仰せをして必要とさせることがあるのではないかと思うからです。

これはどういうことかと申しますと、私たちは創価学会問題から正信覚醒運動を起こしまして、その経過の中で宗門側から擯斥に処されました。つまり、学会・宗門という偽りの僧俗関係に一石を投じ宗門から擯斥された身としましては、どうしても真実の僧俗関係を示さなければならないわけです。それと同時に、宗門側に対して真実の富士門流如何という正統論争もあるわけで、それについても明快な解答を出さなければなりません。

そういう立場の私たちが、さまざまな呪縛から解き放されて真直ぐに日有上人の聞書を拝する時、そこには私たちを引きつける何かが方々に埋っている気がしてならないのです。それが絶えず「宗祖の教えはこうである」「富士の立義とはこれである」といった感じで信号を送ってくる具合なので、こちらとしましても、是非日有上人の仰せに耳を傾けなくてはならない、研鑽しなければならない、と強く思うわけです。いま「私たちの立場」と言いましたが、それはつまり、富士の立義を求めて止まない僧俗というほどの意味です。そんな私たちにとって日有上人はとても大切な法義を説かれているに違いないのです。

 これは、一つの面白い現象だと思うのですが、日有上人及びその法義について、現在の宗務当局側は全くノーコメントといった状態であります。日有上人が聞書に示されている〈師弟子の法門〉〈事の法門〉など、富士門流の法義の根幹に関わる部分について、宗門側は今までほとんど言及することなしに私たちとの論争から遠ざかりました。これは現宗門が抱えている法義的矛盾を端的に示すものです。日有上人の仰せを真正面から取り上げれば、どうしても現宗門の教学では説明のつかない部分が出てきます。その部分がまた宗義にとって大切な部分――たとえば本尊論や血脈論、広宣流布観などであり、矛盾を大きく見せないためにも触れない方がよいという結論になります。 

 創価学会においても、教学熱高かりし頃「教学は日寛上人の時代へ帰れ」として、日寛上人の法義の表層を学ばせましたが、日有上人の法義についてはほとんど立ち入ることを憚りました。これは、もちろん日有上人の聞書類が難解であったこともその一因ではありましょうが、より具体的には、創価思想が持っている師弟観や本尊観、広宣流布観と日有上人の聞書にみられるそれとが明らかに異質であることが大きく作用しているはずです。根本的に富士の立義に乖離する創価学会や現今の宗門では、日有上人の仰せを学ぶことは藪をつついて蛇をだす結果に陥りかねないのです。

翻って、私たちが真正面から日有上人の聞書を拝する時、それは必ず富士の立義、大聖人の信仰を貫くための羅針盤になり得るものと私は考えます。ここに、分らないながらも日有上人の聞書を勉強していく大いなる価値が存するかと思うのであります。

日有上人の聞書に関する一つの意見を提出して、それが今後の論議の用に少しでも役立つならば本書の第一の目的は達せられたことになりますので、拙文中の誤謬や不審な点についても指摘、批判して戴き、筆者の愚迷を啓いて戴きたいと切に願います

なお、本書では化儀抄、御物語聴聞抄なども「日有上人聞書」と同様のものとして取り扱いたいと考えております。いわゆる〈日有上人御談〉といわれているものの中から、私たちにとって多分に示唆的なもの教訓的なものを随意取り上げて、通釈・解説・感想などを述べたいと思います。

 

《我ガ申スコト私ニアラス

仰ニ云ク、明慧上人ハ五百年以前ノ人也、其ノ頃サヘ世間ニ智者、明聖モ御座サズ侯 間仏法ノ物語モ聞カズト書キタリ、況ヤ今程ヲヤ。サリナカラ比ノ大石寺ハ高祖ヨリ以来今ニ仏法ノ付属切レス次第シテ候間得給ヘル人様ハ仏法世間ノ御沙汰、高祖ノ御時ニ少シモ違ハズ侯。若シモ世ノ末ニナラハ高祖ノ御時之事、仏法世間トモニ相違スル事モヤアラントテ日時上人ノ御時四帖見聞ト申ス抄ヲ書キ置キ絵フ間我カ申ス事私ニアラス、上代ノ事ヲ違セ申サス侯。他門徒ノ趣ハ代々ノ意楽意楽ニ各々ニ建立候間上代ノ事ヲ御 存知ナク侯間一向細工事成リ行キ侯ト云云。(聞書拾遺、歴金1−425)

 冒頭の「仰ニ云ク」とは各聞書に通用することで、中には判然としないものもありますが、ほぼ「日有上人仰ニ云ク」 と解してよいものです。明慧上人は鎌倉時代前期の華厳宗の高僧。本文には日有上人より「五百年以前ノ人」とありますが、明慧上人は承元、建暦1200年頃) の頃に活躍されていますので、この記事の年数は事実とかなり相違します。事実は日有上人より約「二百五十年以前ノ人」となります。その信仰に対する高潔な姿勢は崇高ともいえるもので、他の「日有上人聞書」の中にも度々登場します。簡略に通釈を加えます。

 明慧上人は書き物の中で、「世間には智者や明聖がいなくなり正しい仏法の話も聞かれなくなってしまった」と嘆かれております。明慧上人の時にすでにそんな状態ですから、それより更に何百年も末世が深まった今では仏法の道理が聞かれないのも当然である、「況ヤ今程ヲヤ」と日有上人も仰せられ、仏法の道理が行なわれず荒廃する世の中を見渡して嘆かれました。

 しかしながら、そんな世相の中で大石寺だけは何とか仏法の命脈を継続して持っており、ゆえに、その信仰を得ている人は仏法上の事柄や世間的な行ないも大聖人御在世の精神と少しも相違してません。何故ならば、世も末になれば大聖人の時には正しく建立されていた世間・出世間での法門のあり方が間違うこともあるだろうと、富士門流では日時上人の時に『四帖見聞』という書物が書き残されたからであります。ゆえに、私(日有上人)が申すことは自分流に作りあげたものではありません。大聖人、日興上人、日目上人の上代に違わず、法門を伝えております。

 他の大聖人門下では、代々の上人といわれる人たちが自らの意のままにそれぞれ法門を作りあげたので、上代の法門をまったく理解しておりません。すなわち、大聖人の法門とは違った「こしらえ物」になってしまいました。

 日有上人の仰せは、大体このような意味になると思いますが、この項目は、日有上人の聞書を学んでいく上で非常に大切なものになろうかと私は思います。

 何が大切かと申しますと、日有上人が常に「我カ申ス事私ニアラス、上代ノ事ヲ違セ申サズ侯」という伝承の精神に立たれていたことをこの項目が教えてくれるからです。化儀抄も他の「聞書」も、それは日有上人の言葉でありながら、実は日有上人自身のものではない、大石寺の上代に語り継がれた法門をそのまま表わしたものだ、とする日有上人の自負がこの仰せからひしひしと伝わる思いがします。

 

《伝承と体現》

 よく私たちは、ひと口に「富士の立義」と言いますが、この言葉の持つ意味は大変重いものがあります。

 門下一般、大聖人の信仰を伝えるといいましても、各門流において本尊観、血脈観から御書の拝し、方に至るまでそれぞれ違ったものがあります。日有上人の時代には、従来の五老僧の門流の他にも、日什門流や八品門流などが分離独立して門下は多岐にわたっています。その主張するところは皆違います。そういう中で、独善に陥らず、また他の影響下におかれることなく自門流を主張することは大変困難なことです。そこでは筋道の通った明確な法義が必要とされます。

 聞書全体を通読するとよく分りますが、日有上人は実に多くの他門の僧と問答されています。その一々において大石寺に伝わる法義を披露し、他門下におけ法義の難点を指摘されています。また、日蓮門下ばかりではなく、禅・念仏・天台などの諸宗と問答する際にも、必ず「富士の立義」をもって相い対されております。特に、天台宗とのやりとりは、同じ法華経の思想を基盤とする宗旨なので、

 他の日蓮門下ではともすれば「天台宗に詰められ給ふべし」(歴全1−323)という状態に追い込まれたこともあったようですが、日有上人は「富士の立義」によって相い対し相手方を退けられました。すなわち、日興上人の遺誠として伝えられる二十六箇条の冒頭に、

「1、富士の立義柳かも先師の御弘通に違せざる事」(歴全1−97)

 と明示されたことは、日有上人の時代に損われることなく遵守されていたのではないかと私は思います。また、しかしながら一方で日有上人は、

「当門流に古は碩徳も多く御座し賢人達も多く有りしかば化儀法体ともに自ら得意玉ひし間加様の法門をば之を秘す也。今は化儀法体ともに無くなる間、秘すべしとて云はずんば仏法皆破るべき也。去る間此の如く顕然に申す也云云」(下野阿闇梨聞書、歴前1−399)

 と仰せになられています。このことも、日有上人の聞書を拝するうえで非常に重要なことと思われます。

 まず第一にどんな事にも言えることですが、時代の変遷によって物事が解らなくなることがあります。これは強ち不勉強のせいばかりとは言えないもので、急激な世の中の変化などがあれば、一時代前の言葉が分らなくなったり、誤用されたり、意味の転換を強いられることも往々にして起こります。

 このことは言葉の問題に限らず、生活様式やものの考え方などにも通ずることです

 日有上人の時代は、大聖人滅後すでに百五十年ぐらいたちますが、その頃になると富士門でも、上代では分りきっていたことが次第に分りづらくなり「秘すべしとて云はずんば仏法皆破るべき也」という状態になって来ました。これは、相伝の危機ともいえることなので門流にとって大変なことです

 が、逆にいえば、それゆえに諸聞書の日有上人の仰せはかなり踏み込んで「富士の立義」を展開されたものと解することができます。すなわち、「富士の立義」の発揮とみることができます。

 化儀抄などは、次代の日鎮上人に化儀法体の法門を授けるべく、日有上人が弟子の南条日住師に書き留めさせたものであり、現在も日住筆によって浄書されたものが大石寺に残されております。その意味で、化儀抄は公開された相伝書といっても差支えないものと思われます。日有上人が、その当時まで文字化されていなかったものを弟子に書き留めさせた諸聞書は、他の日蓮門下においては早々と絶えてしまった法門であり、富士門流においてはともすると意味不明になりがちな法門であったようです。そのことに思いを馳せる時、日有上人の仰せを理解することは、より正しく富士の立義を掌中にすることにつながり、ひいては宗祖開山の信仰をも我が身にひき当てることになろうかと思うのであります。

 日有上人が宗祖滅後150年になされたことは、その時代における「富士の立義」の伝承と体現ということでしょう。伝承ということは簡単に見えて、実に大変むつかしいことです。私たちは何によらず、自分の理解できないことや間尺に合わないことは切り捨ててしまう傾向にあります。しかし、これは伝承の精神ということからすれば誠に拙いことでありまして、先師の実義を滅ぼすものは常に後の人の愚かな智恵であります。

 たとえば日有上人の残されたものには、わからないことが多々あります。それらの一々は、必ず何らかの法門的な意味を持つものであり、徹底的に解明されなければなりません。しかしまた、解明できないことがあったとしても、それはそのまま伝承することが大切であります。「我カ申ス事私ニアラス」とは、まず第一に先師の法門を徹底的に理解すること、次いでそのまま伝えること、これをもってはじめて真実の伝承と言えるのではないかと思います。

 そして体現するとは、私たちが富士門.の信仰を得て、個人として或いは集団としで如何に世の中を生きていくかという問題です。大聖人の信仰を得た人々がはたして世の中にどのように体現して生きていくか、これもまた実に大切な問題です。

 日有上人の化儀抄などは、当時における伝承と体現を見事に書き残されたものではないかと思います。つまり伝承と体現とは、現代を生きる富士門流の僧俗、就中僧侶にとってまず第一に考えなければならない課題ではないかと思うのであります

 

 

 

U  化儀について考える

 

《法体と化儀》

 日有上人の誕生された年は応永9年(1402)といいますから、ちょうど南北朝期が終り室町時代にさしかかった頃であり、世情騒然とした動乱期でありました。

 少しその時代性に触れておきますと、南北朝期というのは日本歴史の中の大きな転換期でありまして、重要な時代であるとともに大変不明な点が多い歴史家泣かせの時代でもあります。善し悪しは別にして、南北朝期に前・後代を二分するような思想・生活・文化にわたる転換がなされたことは事実のようです。それゆえ歴史を現在から遡って学ぶものも、古代より順次下って研究するものにとっても、南北朝期は一つの壁となり、時の流れの断絶をも感じさせているようです。

 また、この南北朝・室町期は民衆思想・文化の台頭ということが言われ始めます。しかしながら、その要因の何たるかを問われれば、あまりにも漠然としておりまして、これもその内容を掴むまでには至っておりません。その背景に、鎌倉新仏教の影響が色濃く感じられることも指摘されていますが、具体的にどのように関わりを持つかということになると、まだまだ判然としない面が多いようです。

 しかし、南北朝・室町期の民衆思想の台頭をたぐっていくと鎌倉新仏教に行き当たるという指摘は、大聖人の思想・信仰や富士の立義を学ぶものにとって大いなるイメージをかきたてられるものがあります。鎌倉期→南北朝期→室町期という歴史の流れの中で、大聖人は鎌倉期、日有上人は室町期の初めに位置します。ちょうど転換期といわれる南北朝期を挟んでおります。そして、その間の思想・文化の勢超が現在の歴史学にとって難問といいますか、不明部分になっています。つまり判然としないままに民衆思想・文化が台頭してくるというわけです。そこで、少々大げさに言えば、日有上人の聞書類は今日の歴史学の不明部分を埋めてゆく1つのキーポイントにもなるのではないか、と私は思うのです。つまり、鎌倉新仏教と民衆思想の台頭との関連を大聖人の法門と日有上人の化儀抄・聞書という対比をもって解いてみようとする試みであります。ここでも、日有上人の「我カ申ス事私ニアラス」という伝承の精神は、たいへん重要なものになろうかと思います。

 もちろんこのことは一朝一夕にできるものではありませんし、思いつきの段階ではそれほど報告す ることもありませんが、日有上人の聞書にある言葉を一語一語丁寧に取り上げて問題にしていけば必 ず何らかの成果を生むのではないかと私は考えます。

 さて、本書のはじめに申しましたように、日有上人は大聖人の仏法をただ個人的に確認するだけではなく、富士門流として、一つの教団として大聖人の仏法を定着させました。それでは、どのように定着させたかと申しますと、「化儀」という様式や姿形を実に大切にして、その中に富士の立義をできる限り埋め込んだわけです。「化儀」は、本来「化法」や「法体」の語と対であり、日有上人は、

「惣じて当家は化儀化法とも事迷の所に宗旨を立つる也。化法化儀ともに押しとをし意得ること大切なり」.(歴全1−397)

「当門流に古は碩徳も多く御座し賢人達も多くありしかば化儀法体ともに自ら得意玉ひし間加様の法門をば之を秘す也、今は化儀法体ともに無くなる間」(歴全1−299)

  と、この語を使われております。法体とは読んで字の如く、法の体でありますから南無妙法蓮華経そのものと言え支しょう。或いはまた当家でいえば本尊としての日蓮大聖人のことでもあります。化法も日有上人は法体と同意義に使われております。敢えて言うならば、法体とは姿形に依らない、可視的、不可視的と言うことをも超えたものと言えましょう。それに対して、化儀は法体を何らかの姿形でもってあらわす、振舞いの中に示していく処を肝心としております。日有上人は当家を「然る間事相の化儀の上に宗旨を立つる宗也」(歴全1−290)と定められ、法体同様、この化儀を実に大切にされました。

 姿形を見れば大聖人の仏法、法門が理解されるようになっている、逆に言えば、法門の中身を見事に姿形によってあらわしている、それが化儀というものです。もっとも大聖人の法門を化儀によって表わしたのは、日有上人が初めではありません。それは富士門流上代よりの伝燈とも言えるものですが、それらを整束し意義付けし、確固たるものとぎれたのはやはり日有上人の御尽力であったと思うのであります。

 

《姿形の一瞬の力》

 「百聞は一見に如かず」という諺がありますが、たしかに姿形には一瞬の力が働きます。これはプロの棋士が話していたことですが、空を何羽かの鳥が飛んでいまして、それをどうやって数えるかが問題になっていました。私たちは空を見上げて、つい一羽二羽三羽とやってしまいますが、それですと鳥は自由に反転を繰り返しますから、どうも勘定がうまくいかない、五羽六羽のところでまた初めからということになりかねません。ところが、その棋士の話によると全く方法が違いました。空の鳥を見るのはたった一瞬だけなのです。一瞬空を見上げて、鳥が飛んでいる全体の形を眼に焼きつけてしまいます。ちょうどカメラのシャッターのような具合です。その後、眼をそらすなりつぶるなりして、一羽二羽三羽と頭の中で数えていきます。なるほどうまい方法だと思いました。もちろんこれが完壁とまでは言いきれませんが、初めの方法に較べれば、正確ではるかに効率が良いようです。それほど姿形というものは一瞬の力を持っているものなのでしょう。

 この場合、鳥が何羽いるかを数ることが本番なのですが、それをいきなり行なわず、その前に形を把えることがなされているわけです。この話、化儀にも一脈通ずるものがありそうです。

 

《御影堂と客殿の役割の相違》

 富士の立義は・さまざまな事柄や姿形によってあらわされております。たとえば三門や参道、御影堂・客殿・御宝蔵などの伽藍配置にも、それぞれ工夫が凝らされており、さまざまな法義がそこに展開されています。一歩堂舎に入れば、御影堂には御影堂の法義的な役割、客殿には客殿のそれがあります。

 御影堂にて行なわれる法要を思い起して戴ければわかりますが、貫首は御宝前に正対して登高座されます。日蓮大聖人の御影に貫首は相向うことになります。すなわち、貫首は日興上人の立場をとられ、ここに大聖人・日興上人の師弟相対の儀が示されます。その他の僧衆や信徒は、惣座といいまして、本尊・御影に直接向うのではなくそのぐるりを囲み読経唱題する形になっております。つまり、一般の僧俗は大聖人・日興上人の師弟をここで確認し、手本とする意義が含まれています。また、それゆえに御影堂は、大聖人・日興上人の在世を形どっているともいえましょう。

 次いで客殿に目を移しますと、同じ御影を安置するにしましても、その化儀は変っております。御本尊を中央に、大聖人・日興上人の御影を左右に安置され、貫首の座はそれに正対することなく東を向くようになっています。丑寅勤行の際のことを思い起して下さい。客殿では、貫首の座は日目上人、道師、行師、時師というように歴代上人に列なる座になっていまして、明らかに大聖人・日興上人の滅後の姿が表わされております。つまり御影堂は在世、客殿は滅後です。

 これによっても分りますように、私たちはまず御影堂に入ることによって大聖人・日興上人の師弟相対の御姿を手本として拝し、次いで滅後の客殿において私たちの自らの成道を祈念し遂げてゆく構図になっています。このように御影堂と客殿の役割は法義によって分担されており、それによって行事、儀式も毅然と立て分けられております。

 

《起請の化儀》

 さて、諸堂伽藍の役割の相違が例えるものを日有上人の聞書に求めてみますと、次のような項目がありました。

1.   當門流ノ起請ノ次第、其ノ寺ノ住持ヨリ案文ヲ給テ英ノ起請ノ主ノ執筆ト相対シテ御影堂ノ正面ニテ書テ其ノママニ本堂ノ正面ニ備へ奉リ御カネヲ参ラセテ檀那モ執筆モ倶ニ住持ノ前ニ参リ比ノ起請ヲ住持ニ参ラスル、(中略)又起請ノ文言他宗他門徒ノ起請ノ様ニ智恵ニテ書クベカラズ、是レ體ノ事モ宗旨ニ違背無キ様ナルヘシ、先ツ惣則ノトヲリニ敬白ト書也。サテ右件ノ起請ハ如何様ノ事共其ノ題目ヲ書テ若シ比ノ分偽申候テ御本尊殊ニハ高祖代々上人法華経中ノ諸仏菩薩ノ御罰ヲ罷蒙リ後生ニハ無間地獄ニ堕申へク侯ト計リ也。當門徒ニ限リテ信世法倶ニ沙汰ノ至極ニハ起請ヲ書セラレ侯、他門徒ナントニ難スル事ニテ侯へ井上代ニ定メラレタル事ニテ侯、末代ハ人ノ心詔曲シ信世法共ニ謬ノ心底ヲ弁へ難ク只仏意ノ御照覧ニマカセ奉ルヘシトテ加様ニ定ラレ侯ト也。御影堂ニテ書レタレバトテ相ヒ構テ御影堂ニテ備へ申ヘカラス仰給ヒ候已上(御物語聴聞抄・歴全1−335)

 これは、項目としては起請に関するものです。起請文とは、寺内において、または講中において何か不祥事が生じた時、その被疑者と思われる人が、起請文を書いて自らの無実であることを弁明するものです。中世では、神仏に誓って身の潔白を訴えることを起請といいまして、当門流においては当然のことながら本尊・大聖人の御宝前にお誓い致します。末代に入って人心はひねくれ、汚れてしまっているので仏法・世間法にわたる謬ちも、その心底を判断することが至極困難であります。それ故ひたすら御本尊の照覧に任せて後の経過を見るようになっております。起請文を書く場合、これは起請の主と執筆者が相対して行なわれ、場所としては御影堂の正面が指定されています。つまり、大聖人・日興上人の在世のままに御覧遊ばされるところで起請文を書くという意味がそこには籠められています。

 そして「御影堂ニテ書レタレバトテ相ヒ構テ御影堂ニテ備へ申へカラス」とわざわざ日有上人が仰せられたように、この起請文は御影堂から本堂に移されて、本堂の御宝前に備え奉ることになります。

 日有上人の時代の大石寺の伽藍は、本堂と御影堂と天経との三室が中心となっていました。日主上人の大石寺の図絵によりましても、本堂を中心として、向って右側に天経、左側に御影堂を配しています。つまり、起請の主と執筆者は共どもにまず左手の御影堂にて起請文を作成し、そこを退出して中央の本堂に入り、その正面にて鈴をならし題目を唱えて住持(貫首) にその起請文をまいらせました。かなり厳粛な手順を踏むようになっていますが、特にわざわざ場を変えることに御影堂と本堂の持つ法門的な意味合いの相違を考えることができる、と私は思います。

 第一に御影堂においては、私たちは大聖人を恋慕渇仰し、或いはまた大聖人・日興上人の師弟相対を確認し手本とすることに意義を見出せます。それは先述のように、御影堂には色濃く在世の姿が示されているからであります。そして在世であれば、時に大聖人は厳しい眼をもって衆生に臨まれることもあります。起請の主も執筆者も、常にその眼に捉えられているわけです。起請文の執筆を「御影堂ノ正面」に特定した所以をここに見ることができます。

 それに対して、本堂はもちろん本尊堂ということであり、日有上人が「当家御門徒の即身成仏は十界互具の御本尊の当体也」(歴全1−374)と仰せられたように、本尊堂は私たちが直接成仏得道を遂げる場になっております。つまり、そこではいつも私たちの成仏の可否が問題にされているのです。だからこそ、起請文を「本堂ノ正面ニ値へ奉」る必要があります。起請文をまいらせるという行為は身の潔白をお誓いすることです。身の潔白の証しが成仏得道につながることは信仰者にとって容易に考えられることです。できあがった起請文が本当に真率なるものかどうか、照覧を仰ぐのに本堂は一番ふさわしい処といわねばなりません。起請の化儀において、御影堂・本堂と場を変える意味もそのあたりに見出せるのではないか、と私は思います。

 また、この項目に「他門徒ナントニ難スル事ニテ侯へ共」とありますように、他門徒では当流の起請について批難していたことが伺われます。これは、他門が智恵による所作によって起請文を作成したのに対して、当流のそれはあくまでも信仰を根本にしていたことから起ったものです。

 「智恵ニテ書ク」起請文とは、たぶん事の顛末を細部にわたって記し、起請の主の言い分をもしっかりと盛り込んだものであったろうと思います。そしてそのことの善し悪しや当否が細かく吟味検討されたのではないかと思います。しかし、起請ということを真に考えるならば、すべてを本尊に任せて、まぎらわしく定まりない人智を少しも寄せつけなかったことに、私などはかえって富士門流の面目躍如といった思いを強くするのであります。また、この項目は本寺=大石寺における起請の化儀でしたが、末寺においては、御影堂・本堂の二堂をもつ寺院はそれ程ありませんから、一括して本堂で住職のもとに行なわれたものと思われます。化儀抄第七条・第五十九条にも起請の化儀は示されており、そこでは御影堂・本堂の二堂に触れられていませんから別段本寺にのみ行なわれた化儀ではなかったようです。

 いずれにせよ、御影堂と本堂の相違、起請文のことなどは様式、作法に関することですから化儀に、属するものであります。しかしながら、その様式や作法、姿形の中に富士門流独歩の法門が秘められており、化儀を知ればそれによって一分でも大聖人の法門の何たるかを知る仕組みになっております。

 現在の宗門においては、本尊堂や御影堂、客殿などの法門的な相違はもとより、伽藍それぞれの仕組みや配置などにも全く関心が向けられず、ただ造っては毀すことがここ数十年続けられております。おかげで境内の様相は一変して、古来の慣習やしきたりを理解することも今では困難になっております。創価学会にしてみれば、閑散とした田舎寺をここまで派手にしてやったぐらいに考えているかも知れませんが、法門からすれば測り知れないほどの損失を蒙ったのでした。なにしろコンクリートで固められた境内の中で、昔日のおもかげを残す伽藍は御影堂と五重塔ぐらいになってしまったのですから。

 一方において、起請という化儀もすでにして有名無実になりました。というより名前すらも聞かれなくなりました。もっとも起請文がたびたび書かれるという状態は、信仰者の集まりとしてあまり好ましくない状態には違いないのでありますが、それでも人智で解決できない、判断のつかない難問のような場合、やはり御宝前での起請が重要になるものと思われます。

 以前、たしか昭和55年のことだと思いますが、阿部日顕師が在勤教師の質問に答えるというので大講堂に集まったことがあります。御指南を仰ぐ形で行なわれたものですが、あまりに阿部師が池.田大作氏を擁護するので、ある人が「化儀抄には起請ということが説かれています。不祥事を起したと思われる人には起請文を書かせたらどうでしょうか」と聞きました。この時、阿部師はうろたえて「そんな必要は無い、化儀抄なんか古い、今時そんなこと云云」と口をきわめて反論していました。

 起請文を書くということは、何も罪人を決定するわけではありません。身の潔白を御宝前に誓うのですから、被疑者はすすんでそれを行なうべきものです。起請文を嫌がるとか、書かせたくないというほど道理に合わないことは無いわけです。何よりもこの一件で、阿部師が富士門流の化儀を少しも大事にしていないことが明らかになりました。

 またこの件で、反対に起請文を書く人が稀代の嘘つきの場合どうするのか、平気で嘘を書くのではないかと心配する人がいるかもしれません。ひょっとしたらこの時の阿部師も、起請がたいへん子供じみた行為のように思えたのかもしれません。嘘を書かれたらどうしようもないじゃないかというように。しかし、考えてみればこれほど無信心なこともないわけです。そんな事まで先回りして私たちは、考える必要はありません。本尊の前で誓って、嘘をつくほどの人は、いずれ信仰者失格であり、何らかの行為の中にそれが現れてきます。また、そんなことを心配するのは、この起請の主を信じないばかりか、御本尊の照覧をも信じないことになり、それこそ信仰者失格ということになりましょう。

 まず御影堂にて、大聖人・日興上人のもとで起請文を作成する。次いで本堂にて、再び偽りのないことをお誓いする。その行為の中に起請の主は、否応なく真実の自分に直面させられるのであり、そのことが起請の中で一番大切なことなのです。身の潔白を訴えるのも自分、嘘をつくのも自分です。

 後のことは、化儀抄第七条にあるように「私意計りがたし、失に依るべきか」(歴全1−342)であります。

 近年において、池田大作氏の行為はもっとも起請の化儀が適用されるべき一件であった、と今も私は思います。

 

 

 

 

 


 

第2章                富士門流の成仏観

 

 

  鎌倉時代、「施陀羅」とは屠殺などに関わる人たちなど、不浄な者の代名詞であった。

 しかし、その忌み嫌われる「旋陀羅」に大聖人は進んで自らを規定した。

 大聖人の法門の立脚点はまさにここにあると言っても過言ではない。汚穣不浄ヲ厭ハズ日有上人の教えもまた、人間の穣れや不浄を認め、その上で成仏を目指す。富士門流の成仏観は、常に実践的で、末法に生れあわせた私たちが如何に生きていくべきかをひたすら説いている。

 

 

 

I.                 「後生成仏ナリト云フ事意得ズ」

仰ニ云ク、此経ノ印ニ依テ後生成仏ナリト云フ事意得ズ、假令世間通法ノ言葉ナレハ比ノ経ヲ受持申シテヨリ信心無二ナレハ即妙法蓮華経也、即身成仏トハ爰本ヲ申ス也。三界第一ノ釈迦モ既ニ妙法蓮華経ヲ得玉ヒテコソ仏トハ成リ三世諸仏モ爾也。底下薄地ノ凡夫ナリトモ比ノ経ヲ受持シ妙法蓮華経ト唱へ奉レハ無作本覚ノ佛也。去レハ経ニ云ク、学大乗者難有肉眼即名仏眼ト云ヘリ。日蓮聖人仰ニ云ク、日蓮カ弟子檀那妙法蓮華経也ト遊ハ.シ、興師ノ御意ニモ法華経ヲ信スル色心皆法華経也、去レハ法華経ニ違フベカラスト云ヘリ。高祖云ク、能持ノ人之外ニ所持ノ法ヲ置スト云ヘリ、此義ヲ請文遊ハス也。末世ノ法華経トハ能持ノ人也、加様ニ沙汰スル當饅コソ事行ノ妙法蓮華経ノ即身成仏ニテハ侯へ。又云く、當宗ニ於テ信道ノ大切ナル事ハ親・師匠能信ノ徳ニ依ツチ即身成仏シ玉ヒタル其跡ヲ継キタル弟子テト不信ナレハ其親・師匠ヲ悪趣ニ輪廻サセンスル也、又親・師匠不信ナレトモ真跡ヲ継ク子・弟子能信ナレハ又成仏スト云ヘリ、信ノ源是レ大切也。比ノ理ヲ深ク心腑ニ染サラン者徒事ナルヘシ云云 

(連陽房雑々聞書 歴全1−377)

 まずはじめに本文に沿って通釈致します。前章で述べましたように「仰ニ云ク」とは、日有上人の仰せです。

 この法華経により、死してのち成仏を遂げるとすることは、富士の立義には心得ないことであります。後生成仏――人が死去して後世に成仏するという考え方――が、たとえ世間並みの通例(現代社会で一般に死者を「仏さん」と呼ぶような傾向をも含めて)として用いられたとしても、当門流ではそれを用いません。あくまでも、この経を受持する信心無二のところ直ちに妙法蓮華経であり、当門流ではそこに即身成仏の実義を立てております。

 娑婆世界第一の釈尊でさえ妙法蓮華経を証得されて仏になられた。三世諸仏も同様に妙法によって成道を遂げられた。我われ末法に生きる徳の薄い底辺の凡夫もまた、この経を受持して妙法蓮華経と唱え奉る時には、必ず我が身が無作本覚の仏(色相荘厳の仏ではなく凡夫身のままの仏)であります。

 ゆえに涅槃経には、大乗(妙法蓮華経)を学ぶ者(凡夫)は肉眼でありながら、その実仏眼を有する者であると説かれています。

 日蓮聖人は日蓮が弟子檀那の当体妙法蓮華経であると仰せられ、日興上人の御意にも「法華経を信ずる人の色身はみな法華経である」とあります。されば法華経を信ずる人は、妙法蓮華経と寸分も違わないといえましょう。大聖人が「能持の人(法華経を受持する人)のほかに、特別に所持の法(妙法蓮華経)を置かない」と仰せられたのは、実にこの義を承認されてのことであります。末法における法華経とは、妙法蓮華経を能く持つ人を指しております。そして、このように取り定められた当体こそ事行の妙法蓮華経の即身成仏であります。

 また、日有上人の言われるには、当家においては信の直こそ大切である。親・師匠がよく信を持ち、徳よって即身成仏されたとしても、その跡を継ぐところの子供・弟子が不信であれば、親・師匠もまた迷いの境に輪廻する。また反対に、親や師匠が不信であったとしても跡を継ぐ子供・弟子が能信であれば成仏すると説かれました。このように信の源が大切であります。この法理を深く心腑に染めて仏道修行しない人は功徳善根を虚しくすることでしょう。

 

《富士門の実践的な教え》

 以上が本文の通釈ですが、この項目には凡そ三つの論点を見出すことができます。一つには、当家の成仏観が後生成仏ではなく即身成仏にあること。二つには、末世の法華経とは能持の人であること。これは観心本尊・人法一箇などの法門に直ちにつながります。三つには、「信道ノ源」が大切ということで、これは当家において師弟のうちの弟子を重視する受持の法門につながるものです。

 各論点を説明していく前に三つの論点の共通性を述べて置きますと、これらは皆、現世に生きる私たち自身の信心の振舞いを的として説かれていることであります。

 一番目の、後生成仏ではなく即身成仏であるというのは、文字通り私たちのこの生の中に真実の喜びを求めるということでありましょう。二番目も、現実にこの世の中に生を受けた私たちが妙法を受持する、その姿がそのまま当体蓮華仏であり、観心の本尊でもあると説かれたものです。三番目もまた、私たちが現世において妙法を受持する、その功徳善根が一切衆生の成道につながることが説かれております。妙法を受持するという立場は、僧俗ともに弟子であるという立場です。つまり、私たちの仏道修行は常に弟子の立場でなされるものであり、そこに自分の親・師匠の成道も同時に叶うとの仰せであります。これまた、現実に生きる私たちの信心を的として述べられております。

 これらは言うなれば、大聖人の法門・富士の立義が常に実践的で、末法に生まれあわせた私たちが如何に生きていくべきかを丹念に教えたものであることを示しています。

 大聖人の法門を知る上で末法意識ということが大切な役割を担っています。末法に入って今まで絶対とされてきた釈尊の教法が廃れ、ついには仏の化縁もことごとく尽きてしまいました。そんな時に生まれあわせた私たちは、今までのような色相荘厳の仏にすがって生きていくことは出来ません。親とも頼んでいた釈尊が今はもういないのですから、それなりにしっかりとした自覚を持たなければならないわけです。そこで、親を無くした子供が第一に持たなければならない気概とは何かと言えば、それは明日よりは自分の力でこの世の中を生き抜いていこうという自覚でありましょう。次いで、残された子供たちが、それぞれ徳薄く力無いこ「とを白ら認めて、互いに子供同士が強い信頼感を持つことであります。このことは、日有上人が随処に「師弟ともに三毒強盛の凡夫にして又余念無く受け持つ」と示された通りであります。

 大聖人は末法無仏の世に出現されて、いち早くその自覚に立たれました。釈尊という主師親三徳の力が衰えた今、大白法たる南無妙法蓮華経をただちに受持して、自ら末法の主師親たる自覚に立たれたわけです。そして観心の本尊たる曼茶羅本尊を顕わされ、それを末法衆生救済の示標とされました。

 ゆえに釈尊を在世の主師親といい、大聖人を末法の主師親三徳といいましても、その仏としての内容は自ずから異なったものであります。

 大聖人は御自身三毒強盛の凡夫として妙法を受瑚持し直ちに成道を遂げられました。その成道を末法の衆生の手本として曼茶羅本尊に示されました。私たちは朝夕に御本尊を拝して、それを手本として佛道修行し時々刻々に私たちに成道を遂げでいきます。大聖人の法門・富士の立義はこの事を土台とした上で様々に説かれているのであります。以下、三つの論点ごとに申し述べます。

 

《生きながらの成道》

 日有上人のこの仰せは、ともすれば私たちの考えが死後の成仏の可否に向ってしまうことを誠め、大聖人の法門はあくまでも現実に生きる私たちの悩み、苦しみを凝視し、さらにそれを超克していくためのものであることを示されています。

 釈尊の教法が廃れるという末法意識を一様に強くもった鎌倉新仏教の宗旨にも種々あって、大聖人の法門と考え方の全ぐ違った宗旨を立てた人もおります。阿弥陀三部経を依経とした法然の浄土教などがそれです。法然も釈尊と縁の切れた末法の衆生をどう救っていくかを考えた人ですが、阿弥陀経を依経したために、この娑婆世界を逃避し阿弥陀仏の住む西方極楽浄土を目指すものとなりました。そのために、ひたすら弥陀の来迎を願うという教えです。

 この教えは「厭離壌土、欣求浄土」(娑婆世界を厭い離れ、極楽浄土を欣び求むの意)の言葉が端的にあらわしているように、私たちの〈この世この生〉という肝心なものを切り落してしまいました。

 法然は、衆生に今生の成仏をあきらめさせ、後生の成仏を求めさせたのです。この教えは民衆の生き方にも強く影響を及ぼしました。自らの住む娑婆世界を蔑ろにして、現世という大事な時を虚しくする教えは世の中の退廃を生みました。そんな法然の教えを大聖人は徹底して破折されております。

「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には侯はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ、これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり侯ぞ、(中略)法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ、阿弥陀経・大日経等を信じ給うは、なを火より火の中・水より水のそこへ入るがごとし、いかでか苦患をまぬかるべぎや」(全集1504)

 大聖人は浄土も穢土も決して外にあるものではなく、すべて自分自身の心の中にあると仰せられました。ありもしない浄土に恋焦がれて来世を祈り、現実の〈この世この生〉を蔑ろにしてはならない。翻って、法華経を信仰するということは苦しみの娑婆世界を常寂光土に切り換えていく鍵を手にすることだ、「いま苦しまなくてどうする、頑張らなくてどうする」と大聖人は末法の衆生の尻を叩かれているのです。

 法華経とは、かくも現世を大切にする御経です。それが誤解されてか意図的にか、現代ではたいへん上滑りになり、法華経は現世利益の代名詞のように言われ、いずれの新興宗教もこぞって法華経の名を借りて御利益信仰の宣伝につとめています。しかしながら、法華経の精神は「癒る、儲かる、何でも叶うというような安直な現世利益からは余程遠いものと思わねばなりません。同じく現世を取り扱っても、この現世を如何に生きていくか、苦しみの娑婆世界をどう克服していくかを丹念に説いたのが法華経であります。

 繰り返すようですが、来世の成仏を願うのではなく現世において即身成仏を遂げていくのが当家の成佛観であります。それゆえ私たちが両親の成仏を願い先祖供養するのも、現世において自分自身の成仏を遂げる中に両親の成仏を見ていくのであります。日有上人はこのことを、

「惣じて親祖父などのためと限りて修善をなすこと意得ざる条也」(歴全1−324)

  と仰せられ、第一に現世における自分自身の信心が大切であると示されました。このことは三番目の論点であるく信の源是れ大切なり》とも深く関連することであります。

 

《能持の人の外に所持の法を置ず》

 この言葉は当家の本尊観につながる意味を持ちます。

 前項で末法には釈尊の教法か廃れ、かわって大白法たる南無妙法蓮華経が末法の衆生を救済することを述べました。すなわち大聖人は三大秘法の法門を建立されましたが、南無妙法蓮華経といい、三大秘法というからには、これは仏ではなく法であります。涅槃経に説かれる「諸仏の師とするところは所謂法なり」との経文の通り、仏の師であるところの妙法を根本とされたことは間違いありません。

 しかしながら大聖人は、その法を決して衆生=人(仏)と隔絶された別個のものとは見られず、末法の妙法とは法華経を受持した人そのものであると示されました。それが即ち「能持ノ人之外ニ所持ノ法ヲ置ス」であり、観心本尊ということでありました。後に日寛上人が南無妙法蓮華経と日蓮大聖人を人法本尊に配し当家における人法一箇の本尊を示された源もここにあります。また、日有上人が化儀抄に「当家の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(歴代1−347)と仰せられ、富士門流が上代より聖人御影1=本尊を示標としてきた所以は「末世ノ法華経トハ能持ノ人也」という法門上の義理に支えられてのことであります。

 私たちが本尊を信ずるという時、それは単なる法を信ずることとは違います。大聖人が認められた曼茶羅本尊を拝すればわかる通り、そこには「南無妙法蓮華経 日蓮花押」と大書されております。

 すなわち、南無妙法蓮華経を受持したところの日蓮大聖人を私たちは受持するのであります。まさしくこれは能持の人の外に所持の法を置かずということでしょう。曼茶羅本尊はただの法本尊ではなく人法一箇の本尊なのであります。一方で、富士門流では宗祖の御影を本尊としておりますが、これも単なる人本尊ではありません。御影もまた内証に妙法蓮華経を持った姿であり、人法一箇の本尊なのであります。

 ともあれ「日蓮が弟子檀那妙法蓮華経なり」の御文は、現世において私たちが着の身着のままの成道を遂げることを示されたものでありますから、私たちにとってこれほど有難いことは無いのであります。

 

《信の源是れ大切なり》

 これは「弟子の信」「子の信」のところに、師匠・親の成道が遂げられていくことを教示されたものです。このことは大聖人が多くの御書に仰せられていることでもあります。

 たとえば、道善房は師匠ではありましたが法華不信の念仏者でした。しかし、大聖人の信によって「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(全集329)とされ、師弟同時の成道を示されました。また、父「烏龍」の法華誹誇の苦しみは、子「遺龍」の妙法蓮華経書写によって救われております(全集1047)。母「青提女」の成道は十方の聖僧による供養では叶いませんでしたが、息子「目連」が法華経にめぐり逢い自身多摩羅跋栴檀香仏になられた時に母もまた成道を遂げたのでした(全集1428)。このように法華経の精神は、徹底して師弟一箇、親子同時の成道を目指しております。

 さらに進めて言えば、

「今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり、所謂地獄の一人・餓鬼の一人・乃至九界の一人を仏になせば一切衆生・皆佛になるべきことはり顕る」(全集1046)

 と説かれて、一人の即身成仏のところに万人の成道をみる法門が示されております。日有上人もまた「一人即身成仏すれば法界皆即身成仏にて候」(歴全1−324)と仰せであります。つまり私たちの一人々々の信心の中に一切衆生の成道が備わっているとの有難い仰せです。

 しかし、これをよくよく考えれば有難いばかりの仰せとは言い切れません。私個人の信心修行の中に、父の成道もあり母の救いもある、そればかりか一切衆生の成道が関わっているのであります。私個人の責任は殊に重大なのであり、なんと厳しい仰せではないかとも思えます。当家でいう弟子の立場とはそれほど重要なものなのです。

 おそらく日有上人の強調されたいことは、あなた方は常に弟子の立場、子供の立場をよく守り妙法蓮華経の信心に生きなさい、ということでありましょう。この場合、私たちは八十歳になろうが九十歳になろうが、自分自身を生んでくれた親を思う子供でなけ札ばなりません。また、一僧侶であろうが,貫首であであろうが妙法蓮華経・大聖人受持する弟子でければなりません。信仰者は一生を通じて弟子であり、子であるとする一分の自覚を片時も忘れてはならないわけです。

 終始一貫、弟子の立場から日有上人の聞書を拝していく、案外このあたりに日有上人の言わんとすることを探り当てていく鍵があるのも知れません。

 

 

U   「汚穢不浄ヲ厭ハズ」

 もう一つ、富士門流の成仏観を説示された項目をあげます。

又云ク、卯月八日ノ御説法ノ所詮ニハ如何ニモ信心無二ニシテ餘事餘念ナク、行住座臥ニ手水ウガヒヲセストモ南無妙法蓮華経ト唱へ奉ルヘシ、是レハ最後臨終ノ一遍唱へ奉ル習ヒ也、最後臨終ニ餘念無ク題目ヲ唱へ奉リ侯ヘバ実ニ即身成仏也、乃チ法界ヲモ助クル形也、臨終ニ唱へ奉ラズンハ輪廻也。御経ヲ読ミ奉ラン時八手水ウガヒヲ能々スヘシ、題目ヲハ汚穢不浄ヲ厭ハズド云云。(聞書拾遺歴全1−425)

 はじめに通釈致します。

 4月8日の説法の大旨は、私たちの生活の行住座臥において、たとえ手を洗い口をすすがずとも余事余念なく信心無二に一遍のお題目を唱え奉ることこそ肝要であるということであります。これは、最後臨終に手を洗い口をすすがずとも、一遍の題目を唱え奉ることとと同じ習いであります。最後臨終に余念のない題目を唱える時には、必ずや即身成仏を遂げるのであります。乃ち、それは刹那に我が身のみならず法界をも助ける形です。臨終に唱え奉ることなければ、迷いの境に輪廻します。

 御宝前の勤行にて御経を読誦する時は、必ず手を洗い口をすすがなけ札ばなりません。しかしながら日常生活の瞬時の題目においては、汚れや穢れ、不浄などは少しも厭わないのであります。

 以上通釈ですが、この項目は1卯月八日ノ御説法Lとありますから、日有上人が仏生日(釈尊誕生の日一の報恩として大衆に説法された内容であろうと思われます。

 この説法において、日有上人は二つの大切なことがらを私たちに示されました。一つは「題目ヲハ汚穢不浄ヲ厭ハズ」と説かれたことです。なぜ妙法蓮華経の題目が「汚穢不浄」を厭わないのか、その法義的な意味合いを探ることも意義あることですし、このことがまた朝夕の勤行の時に身を清浄に保つことと並べて説かれていることも興味のある処です。二つめの大切なこととは、「最後臨終ニ餘念無ク題目ヲ唱へ奉リ侯ヘバ実ニ即身成仏也」と示されたことについてです。つまり、私たちの臨終正念のあるべき姿をここでもう一度考えてみる必要があるのではないか、と私は思います。日有上人が、即身成仏とは「乃チ法界ヲモ助クル形」であると仰せられていることも、当家の成仏観を考える時きわめて示唆的塗言葉ではないかと思います。では順に申し述べたいと思います。

 

《中世の触稼思想》

 南無妙法蓮華経は汚れ、穢れ、もろもろの不浄なものを一切嫌いません、それゆえ口をすすがずとも手を洗わずとも一遍のお題目を余念なく唱えなさい、と日有上人は仰せになられました。このことは南無妙法蓮華経の何ものにも替えがたい慈悲を顕わすとともに、日蓮大聖人の法門の特質をも一言をもって示されております。すなわち、経文に不浄とか悪人と規定された末法最悪の凡夫が南無妙法蓮華経の信の一字によって成仏を遂げるという大聖人の法門の土台が示されているわけです。

 私たち現代人にとっては「汚穢不浄」という言葉がピンと来ない面もありますが、この言葉のもつさ激しさは大聖人とともに中世を生きた人々にとって測り知れないものがあったようです。穢れある身、不浄なるものがはたして真実救われるか否かは、当時の人々にとって核心に迫る悩みであり、一大関心事でありました。また当時は「触穢の思想」といいまして、穢れある身、物、処に触れると必ず我が身に災厄や死を招くことが信じられており、それを竪く忌む風潮が世の中全般を覆っていました。

 穢れの中でも最重要視されたものは「死穢」でありまして、死者に触れる、関係するということは何よりも忌避されなければならない性質のものでありました。これは日有上人の時代にいわれていたことですが、死者が発生した場所を「本所」として甲穢といい、そこに触れたものを乙稼といいました。さらに乙に触れたものを丙穢といい、甲乙丙それぞれの穢れに五十日、三十日、三十日の忌に服することが巷間言われておりました。これは中世いう時代に如何に「死穢」が怖れれられていたかを物語るものです。

 また死穢と関連して、畜類を殺し皮をはぐ仕事に従事する人々も穢れを持つものとされ、次第に忌避されるようになります。当時、不治の病とされ「業病」とまでいわれた「癩者」また触穢の思想により著しく敬遠され続けたのでした。.

 この穢れを忌み嫌う風潮は平安時代の院政期、いち早く公家社会に浸透したもののようですが、これらに強く影響を与え、その要因となったものに浄土宗の教えがあることはすでに指摘されております。先にも述べましたが、浄土教の指標するところは「厭離穢土、欣求浄土」にあります。徹底して娑婆世界を穢らわしい土として嫌い、来世の浄土を求めるわけですが、その結果、衆生の穢身は現世における成仏を断ち切られてしまいました。

 しかしながら、欣求浄土の情念を燃やし続ける人がどの様にこの穢土(娑婆世界)を嫌い続けようとも、その人々にして、やはり現実にはこの穢土に生き続けるしか法はないのであります。そこでは、どうしようもなく凝縮された濃密な穢れに対する感覚だけが残り、それにつれて、触穢の思想もまた助長される傾向にあったことは頷けることであります。事実、浄土宗の教えが蔓延していく院政期は、もろもろの穢れに対する禁忌また多く創出されてゆく過程でありました。

 法然の教えが民衆を視野に入れながらも、西国の公家社会を中心に広まらざるを得なかったことも注目に値いします。そして、その公家社会から東国の武士たちは「屠膾の類(殺生をこととする畜生の類)」と罵られ、穢れに充ちた存在と規定されていたことも当時の社会状況を知るうえで見逃しがたい事実であります。

 大聖人は、源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立してわずか三十年足らずの貞応元年(1222)、東国は安房国東条片海に生れました。大聖人の眼に写った人々は、死穢にさいなまされる武士であり、た.びかさなる飢饉によって否応なく生み出されてゆく病者であり死者であり、この世の中を穢土と嫌う人々であったに違いありません。この時の社会的状況は、穢れの問題や触穢の思想を抜きにしては到底考えられないものがあります。仏教の「罪業観」とも基底部分で通じているこれらの時代風潮を正面に見据えて、それを乗り越えるための信仰をうちたてる必要が大聖人にはあったと言えます。

 そのためにまず大聖人は自らを、

「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃多羅が子なり」(全集891)

 と出自を示されました。私たちは旃多羅と聞けば社会の底辺層、貧しい人々ぐらいの認識しかありませんが、この大聖人の旃多羅宣言は当時の社会状況を考え合わせる時、かなり大胆かつ深刻な意味合いが付与されます。鎌倉時代の辞書とも言える『塵袋』には、旃多羅を説明して、

「天竺に旃多羅と云ふは屠者也、イキ物を殺して売る、エタ躰の悪人也」

  と記されておりますように、鎌倉時代の人々は栴陀羅とは屠殺などに関わる穢れの最たるもの、悪人であると見ておりました。その忌み嫌われているところの「栴陀羅」に大聖人はすすんで自らを規定されました。大聖人の法門の立脚点はまさにここにあると言ってもけっして過言ではありません。

 浄土の教えでは、ひたす厭離された穢身穢土が、大聖人の法門ではかえってその中に生きることを求め、その中に真実を見出し得るものになっているのであります。

 

《手水ウガヒヲセズトモ》

 人間の穢れや不浄を認めた上でさらにそれを超克する、ゆえに大聖人が「日蓮は施陀羅が子なり」と仰せられた時、そこにはひけ目も無ければ負い目もありません。声高らかにといった感じすらします。穢れ不浄もまた良し、最下層また素晴らしいものではないか、と示された御書の御文はそれこそ枚挙に邊がないほどであります。

「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唄うる癩人とはなるべし」(全集260)

 当時の「天台の座主」と「癩者」とではその落差は天と地ほどもあります。かたや日本国の動静をも変えてしまうほどの絶大な権力の持ち主であり、かたや穢れ不浄の最たるものとされていた人々でありました。しかし、大聖人は真実の救いが南無妙法蓮華経を信じ唱える「癩人」にみることを説かれました。大聖人の法門の中で、軍配はすでに「天台の座主」よりも「癩人」の側に挙がっているのあります。

「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳におよばず」(全集329)

 無量の仏様がおわします極楽浄土において百年もの間安寧に修行するよりも、この苦しみの娑婆世界にあって一日南無妙法蓮華経の修行に生きる方が遥かに尊いとされた御文であります。ここにも、大聖人はこの世を穢土と肯定した上で、その中に真実の悟りを求めております。

「袋きたなしとて金を捨つる事なかれ・伊蘭をにくまば栴檀あるべからず、谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取らざるべし、行者を嫌い給ばば誓を破り結いなん」(全集1352)

 この御文も、大聖人の法門の基調ともなるもので、弟子檀越に与えられた消息の中で一貫して説き続けられた教えてあります。類文は多数あります。文意は、私たちの五体を穢身とみて、その穢身の中に妙法の宝珠をみております。これらはみな、最悪とされていたものを即時に信の一字によって最善に切り換えていく法華経の教えより導き出されたものでありましょう。

もう一つ御書をあげれば、富木常忍に与えられた始聞仏乗義にこのことが法義の上から委細に教示されております。

我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二H和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貧・瞋・癡の三毒より出ずるなり」(全集983)

 とありますように、まず私たちの五体や存在自体が本来、清浄とは言い難いことが示されます。私たちは貧・瞋・癡の三毒の固まりであり、それによって生活がなされているとの仰せであります。たしかに大聖人の仰せの通り、私たちがこの世に生を享け、生き、死に絶えてゆくこととは、ある意味で不浄に身を染めてゆく過程にすぎないのかも知れません。「大海を傾けて之を洗うとも」どうにもならない不浄を背負いこんで人は生きています。大聖人の自身を見つめる眼、衆生を凝視する眼は、限りなく厳しいと言わねばならないでしよう。しかし、大聖人はこの穢れ多い身を認めた上でさらに次のように仰せられました。

「龍樹菩薩・妙法の妙の一字を訳して警えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云・毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり、薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ」(全集984)

 毒を持つゆえに還ってそれを薬とすることができるという龍樹の『大智度論』を引かれ、私たちの煩悩、業、苦の障りはは妙法蓮華経の功力によって、そのまま法身、般若、解脱の悟りに転ずると大聖人は示されました。ここでは「苦果の依身」は嫌われないばかりか、かえって是非必要なものとされております。

 さて、いままで御書の用例を3、4あげましたが、その文々の違いはあれ基調となっている思想は同一であることがすでに確認できたのではないかと思います。南無妙法蓮華経がもろもろの汚れ・穢れ、不浄を一切厭わないことは実に大聖人の法門の根幹でありました。「題目ヲハ汚穢不浄ヲ厭ハズ」の言は、鎌倉時代の世相を如実に見られた大聖人がまず第一に打ち出していかなければならない教えもあったと私は思うのです。

 また日有上人の場合も、我が身を一旦「汚穢不浄」のものと見なし、その上で妙法蓮華経の「汚穢不浄ヲ厭ハ」ない救いを見出されていることに私たちは思いを致さねばなりません。それは「御経ヲ読ミ奉ラン時ハ手水ウガヒヲ能々スヘシ」と説かれている言に例えるのであります。そこでは、私たちの身が不浄であるからこそ「手水ウガヒ」に身を清める必要が生じているのであります。たしかに行住座臥の題目は汚穢不浄を嫌いませんが、そのことから私たちが我が身を放埓に扱い、身を乱脱にたもつならば、それは過ちであります。そのことを日有上人は、朝夕の勤行の際にしっかりと「手ウガヒ」を用いることによって誠められているのであります。

 御宝前にての勤行は、あくまでも清浄に、厳粛に行なわなければなりません。その上で、浄不浄にとらわれず南無妙法蓮華経と信じ唱える刹那が私たちの一生には必ずあります。そんな時には、余事余念なく南無妙法蓮華経と唱えることが肝要であります。その決定的場面として、日有上人は最後臨終をとりあげ、「手水ウガヒ」の出来ない不浄の状態の中にも南無妙法蓮華経と唱え即身成仏を遂げていきなさいと示されたわけであります。

 

《臨終正念のこと》

 さて、この項目の2のつめの重要なこととして臨終正念の考え方をあげましたが、臨終とは刹那の意であることです。次いで第2点として、これは前節に述べたことと関連しますが、当家の臨終正念はあくまでも即身成仏を求めるものであり、後生成仏を求めるものではないと言うことです。

 「臨終」とは読んで字の如く「終りに臨む」ことですから、決して死後もしくは死のことではありません。よく医者が死者に対して「御臨終です」などと言いますが、それは世間一般の慣わしに過ぎず、仏教の立場から言えば臨終はあくまで「生」に属しているものです。

 臨終を「今はの際(きわ)」とも申しますが、この「際」とは、ある事柄とある事柄との接点をさして「際」と言います。つまり生と死のわずかに接したところ、それもわずかに生き保っているところが「今はの際」であります。ですから「死」というものも、それだけを別個に取り上げて論じることはできません。「生」と切り離して考えることはできないのであります。「死」はつまるところ、常に「生」との「際」にあり、その意味で私たちが生きている刹那の一念の中に臨終は厳然としております。大聖人が持妙法華問答抄に、

「命巳に一念にすぎざれば云云」(全集466)

「臨終已に今にありとは知りながら云云」(全集466)

 と仰せられている通り、臨終は私たちの現在の中にあり、人の一生もまた一念にすぎないのであります。

 私たちは漠然と一生は長い、遠い将来にゴールがあると思いがちですが、正しい信仰を持たない人の一生は畢寛「夢の上」の出来事と相違ないものでしょう。また反対に、私たちが正しい信仰をもち「終りに臨む」が如き一念で現在を生きる時、自分でも測り知れない力をも発揮することがあるはずであります。現在の刹那の一念のところに成仏をみるのが当家の成仏観でありまりす。

 それゆえに、臨終という語感に引きずられて、当家の成仏を後生成仏と見誤ることは何よりも避けなればなりません。即身成仏と後生成仏は互いに相反する言葉であります。即身成仏とは「身に即する」成のことですから現世の成仏であります。後生成仏は死後の成仏、来世に成仏を求めるものです。

 さらには後生成仏は来世の成仏でありますから、それはその人、個人の成仏と言う意味合いが強くなりましょう。それがまた、即身成仏とは違うところであります。日有上人の聞書には、即身成仏という言葉が随処に示されておりますが、その折りによく「乃チ法界ヲモ助クル形」という言葉が添えられております。本文にもその言葉が記されています。すなわち、「法界ヲモ助クル形」とは自分一人の成仏ではなく、同時に森羅法界の成仏をも成し遂げていることを示すものであります。

 「今はの際」の息も絶え絶えに唱えられる南無妙法蓮華経の題目は、唱える当人を救うばかりか同時に死をみとる人たちも、さらには法界の生きとし生けるものまでも救っているのであります。私たちが、その人の唱える南無妙法蓮華経によって成仏を遂げているのであり、けっしてその人、個人のためだけの題目ではないのであります。これも後生成仏と即身成仏の決定的な違いではないかと思います。

 

 

 

 

 

 


 

第3章   富士門流の平等親

 

 

 

 卯ノ刻万歳未ル、不開門開キ太夫外ヨリ才蔵内ヨリ君モ堅固ニマシマス云々

 正月と盆の十六日は俗に言う「地獄の釜の蓋があく日」。大石寺では現在でもこの日に不開門を開き広宣流布をお祝いする。それは三百六十五日の内のたった二日かも知れないが、本因の宗旨が目指す〈逆縁の広宣流布〉とも言えるものである。近現代を支配した宗門や創価学会の広宣流布観を今や私たちは富士門流の真実の平等観によって見直すべき時期にきている。

 

 

 

I.              ものさしで測れない世界

人ノ志ヲ仏聖人へ取リ次キ申サン心中大切也。一紙半銭モ百貫千貫モ多少トモニ志ノ顕ハシ物也。アラハス所ロノ志ハ全ク替ルヘカラズ、然ル間同等二多少軽重ノ志ヲ取リ次キ申スベシ。若シ軽重ノ心中アラバ必ス三途ニ堕在スベシ云云。(化儀抄、歴全1−340)

 はじめに通釈致します。

 僧侶が人の志を大聖人へ取り次ぎ申し上げる時の心構えは、まことに大切なものがあります。紙の一枚、銭の半銭などのわずかな供養も、百貫千貫におよぶ莫大な供養もその多少にかかわらず志の顕われたものです。顕わすところの志においては、それぞれ全く異なるものではありません。それゆえに、僧侶は供養に対して決して多少や軽重の気持ちを持たず、同等に志を御本尊、大聖人へ取り次ぎ申し上げなさい。もし、僧侶が供養に軽重の心をわずかでも起すならば、必ず地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕在することになりましょう。

 この項目は「化儀抄」の第二条に当たります。直接的には、信徒の供養を受ける時の僧侶の心構えを示されたものですが、そのことのみにとどまらず、根底には大聖人の法門、富士門流の信仰の考え方などが説示されております。それゆえここでは、この項目を供養のことと特定せず、そこを糸口として根底部分の何たるかを少しでも考えていきたいと思います。

 

《ものさしで測れない世界》

 まず、はじめに取り上げていきたいことは、「一紙半銭」も「百貫千貫」も同等とみる仏法の考え方についてです。

 「一紙半銭」はわずかなものの代表、「百貫千貫」は莫大なものの代表です。その極大と極小とを並べて、日有上人は志において同等の価値であると仰せになられています。世間一般の考え方では、あくまでも「一紙半銭」は「一紙半銭」の価値であり、「百貫千貫」は「百貫千貫」の価値です。それを同等だと言えば、途端に世間では価値の混乱を招くことになります。

 ひと頃「大きいことはいい事だ」という言葉がはやりましたが、人間の心理としてもっともな事と言えましょう。小よりは大を、低さよりは高さを、遅きよりは速さをという考え方は社会通念にまでなって現代を強く支配しております。と同様に貧乏より全持ちの方が良いと誰れしも考えるでしょう。それが世間のものさしだと言えましょうか。

 しかし、世間的な価値判断そのままが本当に人間の生きてゆく上での正しい価値判断かと言えば、それはまた誰れしも大いに疑問を持たざるを得ないでしょう。世の中がどのように発展していこうと、それが人間一人の生き死にや人間の生来もっている貧瞋癡の三毒、喜怒哀楽の不条理などを少しも解決してはくれないのであります。つまり、世間の価値判断が大きいこと富裕であることなどにいくら重きを置いても、そんなことは人生の土壇場のところで少しも役に立つものではありません。そればかりか、世間のものさしをあてられることを人間は本源的なところで、どうあっても拒否しようと思っています。そんな自分に、私たちはなかなか気付かないだけであります。

 ですから本来の自分自身が根っこのところで拒否している祉会通念などに寄りかかっていては、まずは本当の救いなどあり得ないことです。真に救いを得るためには、一度は世間のものさしを離れて、自分自身の心の奥底をのぞいて見なければなりません。そこに仏法とか「志の世界」の必要が生じてくるわけです。「志の世界」などと言えば笑われかねない世の中の形勢ですが、本当は「一紙半銭」と「百貫千貫」を同等とみる世界があることを信じてこそ自分白身の救いもあるし、世の中も正しくおさまってゆくのではないかと思います。

 大聖人は窪尼御前御返事に、  

「善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず・国により人により時により・やうやうにかわりて候、譬へばくそをほして・つきくだき・ふるいて栴檀の木につくり・又女人・天女・仏につくりまいらせて候へども火をつけてやき侯へば別の香なし・くそくさし、そのやうに・ものを殺し盗みをしてその初穂をとりて功徳善根をして候へども・かへりて悪となる」(全集1485)  

 と仰せられています。善根は、形にあらわれた大小によって測れるものではない。その人の心根に貧しいものがあれば却って悪ともなりましょう。この仰せによって、仏法が人間の志、内なるものに焦点をあて、まずその救済を第一義としていることがよく解ります。当家において「志」「信」が度々強調される所以であります。

 さらには、物の大小ばかりでなく、信仰というものを時間の長短で把握することもできません。化儀抄の第28条には、  

「経を持つ人の事。今日持って明日退するとも無二の志にて持つ時は然るべし、何れの年何れの月とも時節を定めて持つ事、爾るべからず云云」(歴全1−346)  

  とあります。これは、妙法蓮華経を信仰する人が、何年何月までと年限を区切って信仰することを誠めたものです。「今日持って明日退するとも」とは、唯一無二の信仰の刹那を示されたもので、退転してもよいといった意味ではありません。

 大切なことは、ここでも、ものさしのあてられない「無二の志」が強調され、何年何箇月という時間の長さが否定されていることです。私たちは、つい信仰歴何年などと言ってしまいがちなものですが、より大事なことは私たちの内なるものを目標として信心に励むことなのでしょう。

 そもそも大聖人の建立された法門は「事の一念三千」といわれる通り、この「一念」にすべてが集約されています。一念とは、物の大小とか時間の長短などの制約から離れた、他ならぬ私たちの己心の一念のことです。妙楽大師は文句記に「初於一念」を訳して、  

「唯一念の時頃を経るのみに非ず、一心法を指して名づけて一念と為す」  

 と示されていますが、このことも一念が、たんなる時間の最小単位ではなく、私たちの己心そのものであることを明かしております。「一念信」「一念信解」にという言葉がある通り、一念三千の法門は「信」とか「志」と切っても切れない関係にあります。

 

《他者と競い合わない世界》

 私たちは、何事であれ長短や多寡などを気にする場合、必ずといってよいほど他者の存在を意識しています。たとえば信仰歴の長短であれ、題目数の多寡であれ、私たちが「長い」「多い」と言えば、誰れかに比して「長い」のであり、「多い」のであります。しかし、これは先ほどから申しておりますように「志の世界」ではなかなか通用しにくいばかりか、誤った価値判断であるとされています。

 これを考えるに志の世界では、もともとAをBと競わせること自体がないのかも知れません。

 ところで現代社会においても、人間を評価する際に〈相対評価〉と〈絶対評価〉の二様が行なわれます。相対評価とは、他人と比べてその優劣を批評・評価する方法です。集団内での平均点を求め、それより上、それより下と振りわける方法、あらかじめ成績の上位から順にパーセンテージで分け、それに五・四・三・二二と符号を与えて評価する方法など、みな相対評価です。現代の義務教育ではこの方法が主流を占めております。絶対評価とは、他人と競争させるのではなく、本人が目標をどの程度に達成したかを評価する方法です。

 「評価云々」は別にしても、仏法の「志の世界」はどちらかと言えば絶対評価の立場に立っていると言えましょうか。相対評価はどうも「志の世界」からは遠い存在のようです。戦後、経済と教育に競争原理を持ち込んだことが現代社会を大きく歪めさせたという指摘もありますが、あながちこの指摘を机上の論理だと退けてばかりもいられません。

 個人々々のそれぞれの努力を正当に評価しないで、他人との間に位を設ける、優劣を分つ、苛烈な受験戦争などもこの延長線上にあることは論をまちません。教育現場には「落ちこぼれ」などという悪しき言葉もありますが、落ちこぼす構造の中で落ちこぼしておきながら、「落ちこぼれ」の名称は責任を当人だけに押しつける納得のいかない方法のように思われます。仏法の「志の世界」が、もう少し省みられてもよいのではないかと私は思います。つまり、もっと絶対評価の良い面を推し進め、なるべく教育に過当な競争原理を持ち込まない方向を支持したいわけです。社会全体が競争している状態ですから(これも大変な問題ですが)こんなことは寝言のように聞こえるかも知れませんが、仏法を信ずるものからすれば大真面目な意見なのです。

 話は飛ぶようですが、日興上人の弟子分帖には面白いことに「日興第一の弟子」といわれる人がたくさん登場します。寂日房日華も第一の弟子なら、少輔房日禅も第一の弟子、もちろん日目上人も「日興第一の弟子」です。波木井実長も南条時光も「日興第一の弟子」になっています。そして、第二、第三の弟子などという表現は見当りません。つまり、日興上人は弟子檀越を相対的な地位におかず、絶対的な評価のもとに「日興第一の弟子」と仰せになられたのでしょう。ともあれ主だった複数の弟子檀越に「第一の弟子」の称号があることは、ピラミッド型の組織や形態に慣れてしまった私たちには少し特異な感じが致します。

 「当位即妙・不改本位」(全集1373、波木井三郎殿御返事)という仏語があるように、法華経の精神は、あくまでもありのままの自分自身を大切にする処にありましょう。遅くても、少くても、弱くても、愚かでも一所懸命に生きてゆく、本位を改めずに成道を遂げてゆく、これこそ法華の妙能でありましょう。

 つまるところ志の世界とは桜梅桃李です。各人各様を認めつつ、それぞれが一番力を発揮している状態、輝いている瞬間のことであります。「志の世界」は一人の人間を実に気長に、最も大切に見つめる世界です。  

「堂社僧坊は仏法に非ず、又知恵才覚も仏法に非ず、多人数も仏法に非ず、堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、知恵才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非ざる也、仍信心無二にして筋目を違えず、仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふ也云」(連陽房雑々聞書、歴全1−384)  

 この日有上人の仰せは、私たちがややもすれば信仰をどちらが多人数がという勢力争いで考えたり、堂社僧坊の大きさや数というもっとも世間的な常識で処理してしまうことを誠め、志の世界の如何に大切であるかを教示されたものです。「知恵才覚も仏法に非ず」とは、競い合う世界の否定です。どちらが知恵才覚があるかということは富士門流では問われません。当家を「愚者迷者の上に建つる宗旨」と言いますが、これは競い合う世界を離れて、ただちに信をもって成仏を得る世界をあらわしたものと言えましょう。

 もっとも、この項目が「堂社僧坊」「知恵才覚」「多人数」をとても軽くみていることは事実ですが、だからといって「仏法に非ず」だから堂社を焼き払え、多人数もいらないと主張しているものではありません。一念三千法門の立場から、一人の人間の信心無二の信仰の中に、堂社僧坊も多人数もすべて収まってしまうことが主張されているのです。すなわち、一人の人間の仏道修行にとても重きが置かれているのであります。

 

《小善成仏の教え》

 「一紙半銭」がわずかなものの代表であることは、すでに述べました。そして、この項目が「一紙半銭」の供養を軽視することの制誠からできたことも疑いないことです。

 このことは逆から言えば、「一紙半銭」の行為が必ずや成仏の大国となることを示しているものとも言えます。わずかな行為も妙法蓮華経にあっては、必ず成仏得道を遂げる因となる……これは法華経方便品に説かれる小善成仏の教えに関わることであります。

 そこで「一紙半銭」の語句の用例を古典に求めると平家物語に、  

「ほのかに聞く、聚沙為仏塔功徳、たちまちに仏国を感ず、況や一紙半銭の宝財においてをや」  

  とあるのを見出しました。ここに言う「聚沙仏塔功徳」という話が法華経方便品の小善成仏の教えです。年端もいかぬ童がいたずら心に砂の仏塔を造り、それを因にして仏道を成したことが説かれています。すなわち、小さな善根によって成仏を遂げるので小善成仏といい、それによって妙法蓮華経の功力の無量無辺を示されたのであります。平家物語では、童の行為より一紙半銭を少し上に見ておりますが、いずれにせよ双方ともわずかな行為が成仏の因となることを示さんがための話であることに違いありません。

 この法華経方便品に説かれる童の行為は他ならぬ末法の衆生、私たちの行為であります。私たちは経文に「徳薄垢重 貧窮孤露」と示されていますように、徳薄く、どれほどの善根もなし得ない存在であります。それがために、法華経以外の諸経の救いにはことごとく漏れてしまったのであります。

 どうしても末法の私たちが救われるためには妙法蓮華経にめぐり違わなければなりません。私たちが行なうことのできる芥子粒ほどの善根でさえ拾い上げてくれる御経、それが妙法蓮華経であります。

 ここにおいて、私たちの行為と妙法蓮華経の功力は対極をなしております。その対極を刹那に強固に結びつけるものが「信」であり「志」であります。私たちが無力であることの自覚が進めば進むほど、信の尊さは確認され、妙法蓮華経の救いは強く確かなものとなるようです。

 これは、法門の言葉でいえば「救いよいよ実なれば住いよいよ下し」であり、大聖人は「わるくて仏になりたらば法華経の月あらはるべし」(全集1476)と仰せになられております。

 

平等ということ》

 次に、この項目における平等について少し考えてみたいと思います。

 日有上人は御物語聴聞抄に、  

「仏法は平等也、法とは何事も平等なるべし、仏の御跡を継ぎ申したる出家は何事にも一切の人を偏頗これあるべからず、若し偏頗あらば必ず餓鬼道に堕つべき也」 (歴全1−339)  

 と教示されていますが、このことも一人の出家が様々な弟子や信徒に相い対する時、偏った心をもって接し平等を失ってはならないと示されたものです。この平等世界の強調が富士門流の信仰の一つの特色となっております。たとえば化儀抄の第一条には全体を総括するかのように、  

「1、貴賎道俗の差別なく、信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等也」(歴全1−240)  

   と掲げられております。これが第一条であることを思えば、富士門流にとって信心の人はみな平等であるという一事が如何に大切なものか、考えさせられるのであります。

 今節の化儀抄の第2条が、単なる供養を受ける時の僧侶の心構えにとどまらないと言いましたのも、この第1条に関連してのことです。第1条の「信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等也」との思いが、第2条の「同等に志を取り次ぎ申すべし」を導き出す下地になっているのではないか、と私は考えます。信心の人は、いずれもそのまま妙法蓮華経の当体です。その人々の志も、やはりいずれも妙法蓮華経の志であり、その意味において全くの平等です。つまり妙法蓮華経への「信」「志」から平等が導き出され、第1条、第2条通じて説かれております。そこに筆録集記された南条日住師の連想が少なからず働いているのではないか、と私は思います。

 それでは、何故このように富士門流が平等思想を強く持っているのかと言えば、ここにも大聖人の法門・富士の立義が深く関わっているのであります。一言でいえば、色相荘厳の仏を本尊とせず、本因の妙法蓮華経をもって本尊と立てるゆえに当家の平等思想があらわれるのでありますが、このことは次節に申し述べます。

 

 

II.           無縁の世界

當門徒ノ仏事ト者、無縁ノ慈悲ニ住スル義カ仏事也。去レハ無縁ノ本體ハ出家也、出 家ヲ比ノ世界ニテハ無縁ト申スハ方便土ノ人ナル間此ノ世界ニテハ無縁也、仏事ノ時出 家ノ御相伴ニハ俗人ナリトモ信心ノ人ヲ供養スヘシ、其日ノ檀那ノ親類ナントヲ集ムル 事然ルヘカラズ。其ノ故ハ親類ハ有縁ナル間之ヲ嫌フ也。俗人ナレトモ信心無二ノ人ヲ 供養スル意ハ御抄ニ云ク、能持ノ人之外ニ全所持ノ妙法ヲ置カス已上。能持ノ人道俗男 女ニ依ラズ法華経也、末代悪世ノ法華経トハ色艶巻軸ナシ、能持ノ人ヲ指而當時ノ法華 経トハ高祖モ曾テ祖師モ進ハシテ候也、末代悪世愚鈍迷惑我等カ餘念無ク妙法蓮華経ト 唱フル所カ妙法蓮華経也。當時ノ信士ヲ供養スル功徳ヲハ爾前権教ノ諸菩薩ヲ供養スル 功徳ニ勝レタリト妙楽大師釈シ玉フ也。        (連陽房雄々聞書、歴全1−380)  

 はじめに通釈致します。

 富士門流における仏事法要は、誰れ破彼れの差別のない無縁の慈悲に住することが肝要であります。

 無縁を体現する根本の存在は僧侶であります。僧侶をこの娑婆世界において「無縁」と称する所以は、僧侶が一度はこの娑婆世界から離れて方便土に住すべき身であるからです。

 また、仏事の時、僧侶とともに席に列なる人は、たとえ在俗の人であろうとも妙法蓮華経の信心の人を集めて供養すべきです。仏事を催す人の親類ばかりを集めて行なうことはよろしくありません。なぜならば、ただ親類ばかりを集めることは有縁を重視する考え方であり、無縁を志向する当家はそれを嫌います。

 在俗の人であろうとも信心無二の人を大切にして供養する意は、御書に「能持ノ人之外ニ全所持ノ妙法ヲ置カス」と示される通りです。妙法蓮華経を能く持つ人は僧侶、信徒、男、女に依らず、みな妙法蓮華経であります。末法悪世における法華経とは、具体的な色彩に表れた経巻のことではありません。妙法を能く持つ人を指して、これこそが末法今時の法華経であるとは、かつて大聖人も日興上人も仰せられたことであります。末法悪世に愚かにして、しかも迷いの存在である私たちが、ただ余念なく妙法蓮華経と唱える処が実には真実の妙法蓮華経なのであります。法華経を信愛する人を供養する功徳は、爾前権教の諸菩薩を供養する功徳に比して、はるかに勝れると妙楽大師は訳されております。

 前節では化儀抄の第2条にもとづいて、富士門流の信仰の一つの特色が平等思想の強調にあることを述べました。ここでは、当家における仏事法要のあり方の中で示された「無縁」および「無縁の慈悲」という言葉に注目して、再び平等思想について考えてみます。

 

《世俗の縁を離れること=無縁》

 まずはじめに、世俗との無縁を考えてみます。

 日有上人は「無縁ノ本体ハ出家」であると示され、その理由として出家が「方便土ノ人」であることをあげられました。方便土とは、四種国土の凡聖同居土、方便土、実報土、常寂光土のうちの一つてあります。いま一々の説明は省略しますが、私たちの暮している国土は凡聖同居土といいまして、この娑婆世界もそれに当たります。

 方便土は三界の外にあるわけですが、なぜ日有上人がこの娑婆世界に生きている出家をして「方便土ノ人」と仰せられたかと言えば、僧侶はこの娑婆世界に居住しながらも、精神的には諸々の有縁をすべて断ち切っていなければならない存在なので、敢えて「方便土ノ人」と仰せられたのです。

 なぜ僧侶が「有縁」を離れて「無縁」となる必要があるのかと言えば、「無縁」の立場に立たなければ公平、平等の眼を持つことができないからであります。世俗のしがらみに縛られ、世の中の常識にどっぷり漬っていたのでは到底物事を誤りなく洞察することはできません。そこで一旦、世俗の地位や縁戚、そのほか細々としたことを切り捨て、「本来無一物」の精神に立ち還る必要が生じます。

 つまり、出家は無縁に住して諸相を偏頗なく見つめ、様々な事物に平等に慈悲をそそぎなさい。それを「無縁ノ慈悲」と日有上人は仰せられているのでしょう。

 さらに「無縁ノ慈悲」に関して、もう一つわかり易い例を引きますと化儀抄の第61条に、

「居住の僧も遠国の僧も何れも信力志は同じかるべき故へに、無縁の慈悲たる仏の御代官を申ながら遠近偏頗あるべからず」(歴全1−254)  

 と示されております。これは、本寺の住持=貫首は本山に居住する僧に相い対する時も本山より遠く離れた遠国の僧に相い対する時も、決して差異のある応対をしてはならない、自分に身近な僧と縁遠い増とを差別して偏頗な考えをもってはならないことを誠めた項目です。ここに使われる「無縁」の語には、すでに平等とか公平、無差別の義が明らかに含まれております。また「無縁の慈悲」とは本来仏の慈悲であることが示されております。

 「居住の僧」と「遠国の僧」の間には、ただ距離の遠近ばかりでなく、それぞれの環境や条件の相違、経済力あるいは学識、年令等ごとごとく相違があるかも知れません。つまり、現実的には様々な差異、差別が「居住の僧」と「遠国の僧」の間には横たわっているはずです。

 しかし、仏法の無縁の世界に一歩立ち入って考える時、もろもろの差別は「信力志は同じかる故に」ご破算にされ、信心の人はみな妙法蓮華経の当体であるという平等世界が開けてきます。つまり、もろもろの世俗有縁のことがらが一度ご破算にされるところ、それが「無縁」の場であります。ここに一つのパターンとして、世間は有縁=差別世界、出世間(仏法)は無縁=平等世界という図式を設定することができます。

 そして信仰とは、少なからず僧侶であれ在家であれ、有縁を離れて無縁に住する心を所持することにほかならないのであります。私たちは、有縁の世間に生きながらも、常に無縁の信仰世界を堅持する道心を持たなければなりません。ここに、信仰の有難さとむづかしさが同居していると言えましょうか。

 

《有縁と無縁の相克》

 富士門流の信仰は無縁を目指していますので、世俗有縁のしがらみを信仰世界にまで持ち込むことを極端に嫌っています。日有上人は、ひとたび妙法に帰入すれば「道俗男女ニ依ラズ法華経也」と示され、門徒の一味同心をことのほか大切にされました。もちろん、この信仰世界においては、世俗の主従上下の関係などもきれいに消滅しなければなりません。

 信仰世界は秩序を重んじる世間的な立場からすれば、無秩序とも映る世界がも知れません。なにしろ、「世出相翻」という言葉があるくらいに世間と出世間は、ことごとく背を向け合っています。世間が白と言えば出世間は黒と言い、世間が差別智に従えば出世間は無差別智を用います。よく私たちも「分別」「無分別」という言葉を使いますが、世俗においては「分別がある」ことを良しとして、仏法においては分け隔てのない「無分別」を最勝のものとしております。

 このことはまた、私たちの心の問題でもあります。私たちは誰れしも、心の中に出世間的な部分と世間的な部分を同時に矛盾なく、あるいは矛盾したまま合せ持っているものです。つまり方向の違った二つのあり方を常に私たちは所持しておりまして、時にそれが大きな悩みや葛藤を生じさせることがあります。同じように、平等と差別ということも最終的には、私たち人間一人ひとりの本源に関わる問題だと言えましょうか。

 それはともあれ、善し悪しは別にせよ世間が順序階梯を大切にし、それをもとにルールを作り秩序を形成していることは事実であります。主従や親子の区別を明確にしていくのが世間の道徳観であり、倫理観でもあります。つまり、世間は差別相を大事にしてはじめて成り立っていると言えます。

 しかしながら、前述の通り仏法においては有縁のしがらみを一度は切り離すことをもって入門としていますので、世間の順序階梯を覆してしまうことも往々にして起ります。そして、そこには必ず有縁の世界と無縁の世界の相克、対立があるのであります。大聖人の教義において、このことは取りわけ顕著であったと言えましょうか。

 大聖人の教えは、当然の如く仏法を世俗有縁の関係や道徳倫理よりも一重高いところに置きましたから、世間的な眼によれば、それは反道徳、反倫理的な性格を有するものと映ったはずです。たとえば、報恩抄をはじめとして、諸処に「棄恩人無為真実報恩者」ということが説かれます。「恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なり」―これは、世俗有縁のあらゆる恩を1度断ち切って妙法に帰入しなさい、それが真実の報恩であると示されたものです。また報恩抄の冒頭には、これに関連して、

「仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからず。いとまあらんとをもはば、父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母・師匠等の心に随うべからず。この義は諸人をもはく、顕にもはづれ冥にも叶うまじとをもう」(全集293)  

 と仰せになられています。「顕にもはづれ冥にも叶うまし」とは、大聖人の教えに対して、世の人々が非常に驚いて師匠や親に随わない教えなどは、外典にもはずれ内典にも背いている、つまり常の倫理観や道徳観に相違するので大いに不審に思われるだろう、と言われたものです。

 大聖人は主従関係や親子関係などの有縁のことがらを蔑ろにされたわけではありませんが、「無為に入る」こと、すなわち妙法蓮華経の真実に入るためには必然的にそれらが第二義的なものとならざるを得ませんでした。仏法は畢寛するところ道徳とは違いますから仁義礼智などの徳目を大切にはするものの、それのみに留まって事足れりというわけにはいきません。むしろ、時と場合によっては世の中の常識といいますか、道徳的な面を覆してゆくことも仏法には多々あったのであります。

 翻って為政者の側からすれば、世の中の常識や有縁の構造などを巧みに利用しながら権力を安定させようとしますから、それを覆すような思想、信仰などは非常に脅威に感じられ、とても容認することはできません。長い歴史の中で、宗教が為政者により弾圧を繰り返し受け続けなければならなかった理由の一半がここにあります。大聖人の受けられた数々の法難の背景には、右にみたような有縁と無縁の相克がかなり色濃く存したように思われます。

 有縁と無縁の相克それはいつの時代にも、深刻な問題となって信仰者に試練を与え続けるものなのかも知れません。大聖人の在世中で言えば、池上氏に父子の対立があり、江馬氏と四条金吾との間には主従関係が危機に瀕する事態がありました。

 池上氏の場合は、父康光が熱心な極楽寺良観の帰依者でしたから、兄弟が大聖人の教えを信奉し法華信仰をうち立てようとすることを悉く妨害しました。特に、兄の宗仲には勘当空言い渡し、弟の宗長に対しては、法華を捨てれば家督を譲ろうと懐柔策を用いたようです。ご存知のように、結果は兄弟力を合わせてそれによく抗し、遂には父親をも法華経へ帰入せしめました。

 中世という時代は、家父長権が絶大な力を発揮している世の中ですから、これは並み大抵のことではなかったと思います。池上兄弟の行為は当時にあっては、反道徳、反倫理の見本のようなものですが大聖人はその時に先の「恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なり」の御文を用いられて、世俗有縁を振りきってしまうことを強く勧められました。

 四条金吾の場合は、主君江馬氏との間に緊張が高まり信仰上の葛藤が起りました。「御恩と奉公」の言葉に代表されるように、この時代の主従関係もまた絶対的なものであり、主君の不興をかい、懸命の地である所領を没収されることは従者にとって致命的なことでした。にもかかわらず、四条金吾はこの難局を大聖人の懇切な導きを得て法華経信仰を貫徹することにより乗り越えました。池上兄弟同様、四条金吾は武士にとって傘とも言える所領と御恩ある主君などの有縁的なものを顧みず、仏法の世界に身を投げだしまし自これらのことを整言すれば、大聖人の信仰は鎌倉時代の強固な主従関係や親子(血縁)関係を反古にして突き進むほどのエネルギーに満ちたものであった、と言いえましょうか。それだけにまた、為政者からすれば、現状の倫理や道徳観念を打ち破るものとして脅威にも感じられたことと思います。

 さて、私たちは池上兄弟、四条金吾とまで言わずとも、有縁を振り払うそれなりの気構えをもってこの信仰に帰入しました。言うなれば、この信仰世界は僧侶に限らずみな「無縁」の人々の集まりであります。そして「無縁」の人々の集まりであるならば、世間一般の有縁のグループ・団体とは一味違った共同体とでも言うものを目指さなければならないと思います。少なくとも信仰の世界にある時には主従上下の関係を消滅させ、順序階梯のさほど気にならない集まりを目指すべきではないかと思うのであります。

 身近なことを例にとれば、ある大会社の社長とビルの中を清掃する一雇用人とでは、会社という一つの組織の中では天地雲泥の差がありますが、ひとたび信心の講中に入れば両者は何の差異、差別もない同心ものであります。実に、信心の人が「道俗男女ニ依ラズ法華経也」ということは「無縁」の場にして初めて言えることであり、それはまた「無縁」のもつ最大特長でもあります。そして、その上で誤解の無いように付け加えるならば、「無縁」の世界は決して無秩序を喜ぶ世界でなく、自立した人格を尊ぶ世界であることを肝に銘ずべきであります。

 

《もう一つの無縁》

 今まで、世俗のことがらを「有縁」とみて仏法の世界を「無縁」とみる考え方を述べてきましたが、ここではもう少し角度を変えて「無縁」を考えてみたいと思います。

 一般に、仏教において「有縁」と言えば、仏と衆生との結縁の関係を言います。仏と衆生とは定った縁によって結ばれているのであり、この娑婆世界には三界有縁の教主としての釈迦如来がおられます。東方世界には薬師如来、西方世界には阿弥陀如来、それぞれの世界において仏と衆生は結ばれいます。「縁なき衆生は度し難し」と言われるように、無縁の衆生が相手では、いくら力のある仏でもその衆生を救うことは出来ません。と同時に、一仏の仮縁次第に尽きて此の土の衆生と無縁になることがあります。ちょうど釈尊の仮縁が正法、像法と漸々に薄れ、末法に入って娑婆世界の衆生といよいよ無縁になります。そのことを大聖人は、  

「今は既に末法に入って在世結縁の者は漸々に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ、彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(全集1027)  

 と仰せられました。ここに一つ、末法の衆生は釈尊と「無縁」であるという考え方を示すことができます。大聖人の法門、富士の立義は、末法において釈尊の教法が廃れる、つまり無縁になることを前提として立てられたものです。

 もっとも鎌倉新仏教を創唱した諸祖師は、おしなべて末法の世をどうして乗り越えるかとする命題があったはずで、それを敢えて言えば、釈尊と縁の切れてしまった衆生をどうして救済するかという問題ではなかったかと思います。それぞれの祖師において、釈尊の力が衰え消失してしまう末法無仏の世に、時の衆生を救うべく「導師」を定めることが急務であったと思われます。祖師たちは、釈迦如来の替りに阿弥陀、薬師、観音、地蔵と、それぞれに衆生救済の「導師」を求めたと言えましょう。

 大聖人は、一代聖教の中から法華一乗を撰び出され、その教説より上行菩薩を末法濁悪の闇を照らす導師と定められました。

 鎌倉新仏教系の寺院が室町期頃より「無縁所」と称される例を多くみますが、そのことは釈尊と無縁の上に立てられた宗旨ということと何らかの関係があるのかも知れません。前節で述べた世俗との「無縁」と、この釈尊との「無縁」とは互いに交錯し、同化するような時期もあったのではないかと私は思います。

 日有上人が、この「無縁の慈悲」を示された項目において「末代悪世ノ法華経トハ色體巻軸ナシ」と仰せられ、色彩の経巻を否定されて妙法能持の人(第一義的には上行菩薩のことであり、大聖人のことである)を末世の法華経と定められたことも、わずかながらこの推測を助けるものではないかと思います。この聞書きの項目に、末法悪世の凡夫の成道が繰り返し説かれていることが私には実に興味深い事がらのように思われます。釈尊との「無縁」―――このことが当家の絶対的な平等観である凡夫の成道を導き出す要因であることは間違いありません。

 さらに付け加えますと「妙楽大師釈」とは文句記四の、

「若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養すること有らん者は福十号に過ぐ」  

 との文であります。この文は、当家においては御本尊の讃文に必ず認めなければならないとされております。文意は「もし法華を信愛する人を誹謗するならば頭は七分に破れ、もし供養するならば功徳は諸仏菩薩を供養するよりも遥かに勝れるLということです。この文を本尊の讃文として必ず認めることは、実に曼茶羅が富士門流にあっては妙法能持の人そのものであることを示すものではないかと拝されます。

 

III.       不受不施思想と「公界ノ大道」

他宗難シテ云謗施トテ諸宗ノ供養ヲ受ケズンハ何ソ他宗ノ作クル路、他宗ノカクル 橋ヲ渡ル耶。之ヲ客フルニ、彼ノ路ハ法華宗ノ為ニ作ラス、又法華宗ノ為ニ懸ケザルハ シ也。公方ノ路、公方ノハシナルカ故ヘニ法華宗モ或ハ年貢ヲ沙汰シ或ハ公事ヲナス故 ベニ公界ノ道ヲ行クニ謗施ト成ラザル也。野山ノ草木等又此ノ如シ云云。 (化儀抄、歴全1−345)

 本文は化儀抄の第25条です。この項目には、富士門流における謗施不受の思想、謗法観が示されており、当家の平等観を考える上でも多分に示唆的なものがあります。はじめに通釈致します。

 他宗の人が富士門流を難じて言うには、

「他宗の謗法の施しは受けないとして、諸宗からの供養を退けるならば、どうして他宗の人が作った路を歩き、他宗の人が架けた橋を渡ることができようか、謗法の供養を受けているではないか」

 この非難に対しては次のように答えなさい。

 「世の中の路という路は決して法華宗のためのみに作られたものではありません。また橋も法華宗の人ために架けられたものではありません。公(おおやけ)の路、公の橋であります。法華宗の人もまた、一般の人と共にあるいは年貢を納め、あるいは公の雑役に従事しております。それゆえ天下の公道を歩いて謗法の供養を受けたことになろうはずがありません。野山の草木等もまたこのように誰のものでもありません」。以上通釈です。

 

《仏性院日奥師と不受不施思想》

 この第25条が富士門流の謗施不受の思想と謗法観を示していると冒頭に述べましたが、「謗施不受」という言葉自体、すでに耳慣れない方もおられると思いますので、そのことからまず説明します。

 謗施不受とは文字どおり「謗法の施を受けず」ということで、私たち当家の僧俗が他宗の謗法者より供養を受けてはならないことを示したものです。また反対に他宗の謗法者に対して私たちが供養を施すことも宗義の上から認められておりません、他宗の謗法者とは、すなわち法華不信、来信のものを指します。「受けず、施さず」すなわち不受不施の精神が富士門流の信仰において担要な心構えとなります。

 現在、不受不施と言えば、妙覚寺(岡山県御津郡全川)を本山とするく不受不施派〉という日蓮門下の一宗旨を思い起こすこととなります。この宗派の淵源は、開祖の仏性院日奥師が豊臣秀吉の主宰する千僧供養会の出仕を求められたのに対し、謗施不受の立場を貫き、出仕を敢然と拒否したことに始まります。その後も日奥師は、幕府側に加担することとなった身延派や京都の日蓮宗の諸山を向うにまわして論陣を張り、謗施不受を主張したために幕府から二度の流罪に処されました。とりわけ二度目は、日奥師すでに入寂の後であり、それは「死後の流罪」として今に語り継がれております。如何に幕府の師に対する憎悪が深かったか、思い知らされるのであります。他門ながら、その志は高潔で、不受の精神を生涯貫いた姿勢には、私たちも多く学ぶべきことがあります。本尊観など教義的にには不受不施派と異なる点もありますが、謗施供養を拒むことや、よこしまな権力者に対して強い姿勢で挑むことなど大いに共鳴すべきところでありましょう。

 千僧供養会の出仕云々は京都における出来事でしたから、受派と不受派の対立に大石寺は直接的な関係をもっていません。江戸時代に入っても受派不受派の対立は続き、寛永七年、すでにその頃、謗施(国主に関して)の供養を受けても止むなしとしていた身延久遠寺(受派)と不受不施の精神に立っていた池上本門寺(不受派)との間で論争が行なわれました。それを一般に〈身池対論〉といっています。受派と不受派の論点の相違は、受旅行路、飲水や天の三光、地の五穀これらのすべてが国主の供養である、不受派それらはこの世の中に共に生きる人間が当然享受すべきものである、との相違です。

 これらの〈受不受論争〉にも、直接、富士門流は関与していないようですが、冒頭の化儀抄の内容をみれば富士門では上代から不受派の主張を掲げていたことが分かります。

 身池対論は、幕府のお膳立てで行なわれた対決ですから、不受派である池上は全面敗北となり、主だった寺院は受派のものに、対論に挑んだ不受派の僧侶は流罪や遠島に処せられました。この時の受派の代表は身延の日暹という僧ですが、幕府の権威を借りて不受派を痛撃した余勢をようやく富士門流に向けて、身池対論の後、富士五山に質問状を発しました。日暹は、  

「寺領等は経釈の如く祖師の掟て国主御供養の旨身延の法理の如く御守り候や。但し御同心無きやの義・・・」(富要8−413)  

 と迫りました。もともと寺領や地子、その他この国にあるものはすべて国主のものにあらざるはなし、国主は供養として寺領を受けよと言われている、身延のように素直に受けて同心せよ、というのが日暹の富士五山に対する申し入れです。すなわち日暹は富士門に対して謗施供養を強要しました。

 富士五山は、先の不受派の壊滅的な痛手を目の当たりにしたばかりでしたから、慎重に言葉を選び、宗義を曲げずに、さらには日暹に言質を取られないように返答を作成しました。  

「地子寺領の仁恩と布施の信施とは大いに相違致し候か、若しその義に於いては今更評論に及ばず唯祖師先哲の法式急転なく相続侯。将又地子等の御恩の儀は先度も申し入れ候如く先規に任せ請納せしめ侯。布施等の義は古来の制法相替わる事無く侯……」(富要8−417)  

 寺領を供養として受けよ、という日暹の申し入れに対して富士五山は、寺領と布施には仁恩・供養の二筋の違いがある、当門流は古来の制法に何等変わることなく今後も運営していきます、と答えをはぐらかしました。質問状は確かに拝見しましたとは言いながら、幕府からの命を守るとは誓っていません。むろん、身延の主張を積極的に支持するようなこともありません。幕府の権力は絶大、それを思えば精一杯の抵抗と言えましょうか。

 日暹は富士五山の返答に満足せず、「去年より以来の度々御返書文体幽遠に相聞」答えの文体では、含蓄があり過ぎて意味が取れない――。「此の度は紛れ無き様に可軌と御報」せよ、と再三にわたって執拗に迫りました(富要8−418)。三、四通の往復書簡は伝わるものの、それ以上の文献は無く、この件がどのような結末をみたか今では分かりませんが、おそらくは数度のやり取りのうちに自然に沙汰止みになったのではないかと思います。

 幕府側からすれば、教団そのものを権力の支配下に置きたいので、供養として寺領やその他のものを寺院側に与えたい。謗施供養の強要は、ある種の屈辱を与えるとともに「幕府には逆らいません」という踏み絵的な役割を果たしました。それ故に謗施供養を受けないことは、幕府側からすれば教団を自在にコントロールできない不満と権力に対する反逆をいつ起すかという不安を同時に抱かせました。

 徳川幕府は、不受不施派を禁制宗教にして徹底的に弾圧しましたが、それについて富士門流も幕府からは相当に目を付けられていた存在のようです。事実、当時は大石寺と不受不施派を同一視する向きもありましたし、幕府の政策に対して大石寺もそれほど同調していないようでした。幕末まで、地方の法難も幾たびかでありましたし、大石寺そのものに対する幕府からの嫌疑も度々であったようです。もともと富士の立義は、権力側の論理とは水と油でしたから、幕府が要注意と思うのも致し方ないことかも知れません。権力者との対決の姿勢は大聖人、日興上人の振舞いの中にすでに明確に示されております。

 そこで不受不施派の説明はさておき、大聖人および上代の不受不施の考え方について申し述べます。

 

《上代における不受不施》

 不受不施の根本となるものは大聖人の教え、あるいは振舞いの中にすでに示されているところです。

 例えば、佐渡流罪赦免の後、大聖人は幕府に召喚されて蒙古襲来の時期を尋ねられます。そして幕府より、鎮護国家、敵国調伏の祈祷をするならば「法光寺禅門、西御門の東郷入道の屋形の跡に坊作って帰依せん」(歴全1−267)と言われますが、大聖人はその施を敢然と拒否されました。執権の北条時宗や幕府権力を握る得宗御内人の平左衛門は法華不信の者であり、その命によって鎮護国家の祈祷を行なえば諸法に与同することになります。それは謗法者の依頼を受け入れて法施を与える結果となるので、「不施(謗法者に供養を施してはならない)」の精神から必ず避けなければならないことでした。また、「東郷入道の屋形の跡に」寺院を建立寄進しようという権力者の申し出は「不受(謗法者の供養を受けてはならない)」の精神から必ず退けなくてはならなかったのです。この一件に大聖人の不受不施の精神は明確に示されておりましょう。それがまた大いなる折伏の精神に通じております。

 そもそも、不受不施の教えとは、自己の信仰の純一無雑を目指すものです。一般的に考えてみても、謗施を受けることは、心を同じくしない人々から援助を受けることですから、様々な意味で常にそれらの人々から制約を受ける立場に立たされかねません。いざという時に発言や行動が制限される事態が起こり得るかも知れません。いずれにせよ信仰者として道を外す危険性がありましょう。また、謗法者に供養を施すことは、他の宗旨へ供養することですから、自ら信仰を二途にして、唯一無二であるべき法華の信仰を不純なものに財めるのであります。

 すなわち、自らの信仰を自立させるために、法華の信仰者は、不受不施の精神をぜひとも堅持しなければなりません。

 日興上人が身延在住の折りに波木井実長の謗法を許されず、ついには離山という最終的な方法を取られたことも、大聖人の教えを護るべくして護ったというほかはありません。波木井実長が南部郷の念仏塔供養の施についたことは、明らかに不施の精神を捨てたものであり、これを認めれば実長の信仰は二途になり、法華の純一な信仰は崩れたことになりましょう。さらに、その実長から日興上人が供養を受けるならば、今度は日興上人が謗施を受けたと指弾されても仕方ありません。実長の三島神社への参詣も諸施供養の過を犯していることは免れません。これらのことは皆、大聖人の教えに反する行為であったために日興上人は厳しく呵責しました。

 現在の他宗の学者の中には、このような厳格な日興上人の姿勢を狭量とみて、かえって実長の行動を援護、奨励した民部日向を「温和寛厚な」性格と評している人もおります。しかし、この論評は、大聖人の法門によって実長の謗法行為を照らしみる時、いかに的外れな見解であるかが知れるでしょう。先ほども言いましたように、日興上人は大聖人の法門を護るべくして、真執に護ったのであり、それは狭量や片意地からなされるような性質のものでありませんでした。

 また、五老僧が幕府の圧力に屈して「天台沙門」を名乗り、鎮護国家のために御祈祷をなしたことも、大聖人の法義に違背するものとして日興上人は破折されました。このことも、未だ法華信仰に至っていない幕府の権力者の命によって天台流の御祈祷をするわけですから、不受不施の精神に叶わないものでありました。これらの事柄を通じて理解できることは、不受不施の精神とはまさしく折伏精神の発揚に他ならないという事実であります。その観点からすれば、大石寺門流は京、鎌倉から離れた辺部なところに居を構えたとはいえ、不受不施精神を堅持し、大いに折伏行に精進していたと言えるものでしょう。否むしろ、日興上人が離山の後、四十代前半の壮年期にありながら、なぜ京鎌倉に向かうことなく荒れ地の大石原に居を構えられたのかこのことこそ、私たちは正面から考察しなければならないのかも知れません。

 日興上人の精神は、日有上人の聞書にもよく示されているところであり、富士門の上代は、常に不受不施の教えを確認しつつ弘通が進められていたようです。一例をあげれば物語聴聞抄に

「国王の御寺を勅願寺と号する也、将軍の寺をは祈願寺と号する也。京都において尼崎の慶林坊の寺にて候本能寺は祈願寺也。然らば将軍未だ宗旨に入らず謗法にてある間、寺号をなさるる時は只偏に彼の寺謗法の所也。此等に信をなさるる真俗一同必ず是れ大謗法也」(歴全1−220)  

 と日有上人は仰せられています。これは当時の京都において、八品日陰師の建立した寺院である本能寺が将軍直属の祈願寺を称していることへの日有上人の批判です。将軍が法華不信・未信であるにもかかわらず、謗施供養を受けて国家祈薦することは、大聖人の教えに背反するものです。

 大聖人、日興上人以来、折伏正意をもってのぞんでいた富士門では、日有上人の時代でも公武の権力者に対して媚びることなく厳格な態度を保持していましたが、京都に大伽藍を構えて弘通に精励した他門下の僧侶は、ともすると京都での弘通をしやすくするために公武の為政者に取り入って、祈願寺や勅願寺になることを望みました。

 実際、京都における他門下は、深く貴族と関わることによって教勢を拡大していきました。その流れは、やがて図らずも貴族出身の僧侶を多く生み出す結果となり、中には妙本寺(前身は日像の妙顕寺)の月明のように有力貴族の子息として生まれ、十八才で受戒を受け、二十六才権大僧都、二十八才権僧正に叙されるなど、破格な昇進を得るものが現われました。抄本寺において特別待遇を受け若くして貫首の地位に就いた月明は、時の将軍である足利義持に面謁した際、法華宗の宗義を問われて「鎮護国家の法門を申す」と答えたように、大聖人の教えを示さないばかりか、かえって権力に迎合することに終始したのでした。このことは、あまりに宗義に違背することであったため、彼の門流内でも問題となりましたが、この頃の京都では日蓮門下がこぞって祈願寺・勅願寺となることを夢としたような状態でしたから、一概に月明の癸言のみを責めるのは当たらないのかも知れません。とにかく日蓮門下全体が謗施不受の教えを省みず、それぞれに公武に接近し、あわよくば他門に抜きんでて祈願寺・勅願寺の印可を得ようと全精力を傾けていました。また同じような意味で、朝廷から僧都や僧正などの官位に叙せられることを名声栄誉と思い、月明のように権勢に迎合して昇叙を請い願うものまで出てきました。

 当時の主だった僧侶の官位を記すと、今述べました月明の権僧正を始めとして、妙満寺開祖の日什は二位権少僧都、中山門流の日親は法印権大僧都、四条門流開祖の日像の跡を継いだ大覚妙実大僧正などの官位を与えられています。

 これらのことは、公武権力の集中する京都での弘通という複雑な立場を考慮に入れたとしても、大聖人の在世に三位房が公家より「尊成」の実名を得たことに関して大聖人より痛烈に叱責を受けたことを思えば、とても日蓮門下として認められるものではありません。

 そんな風潮を日有上人は、宗旨の根本を外した謗法行為として批判したのでしょう。下野阿闇梨聞書に  

「当門流に官は阿闍梨・寺号・山号・院号等の中には坊号計り名乗らる事は、当家は名字の初心に宗を建立の故に昇進も初心の阿闇梨号計り也。また寺・山・院・坊の中には坊号計り付く也。此れ皆、法華経の法位に階当する意也。また袈裟衣も初心の衣裳也」(歴全1−391)  

 と日有上人が仰せられたのは、名字初心に宗旨を建立している当門流の化儀を示したものに違いありませんが、それだけではなく、この言葉の背景にはおそらく京都における他門下の謗施不受を無視した放逸な寺門経営があったものと思われます。

 僧侶の位階は阿闍梨号まで、決して法華不信の公武の権力者に官位を請うようなことがあってはならない。祈願・勅願寺になることを望むこともいけません。名字初心を忘れずに坊号ばかりを付しておきなさい。袈裟衣などの法服も華美を競うような派手なものを着けず、薄墨の素絹五条を用いなさい、というのが日有上人の仰せであります。ここに僧侶の位階のこと、寺号のこと、袈裟衣のことなどが並べられていることを思えば、京都辺の他門流の姿が日有上人の視野に入っていたのであろう、と私は思うのです。  

「洛陽辺土の弘通者たち日々夜々弘通責伏あり。但し智慧の弘通なれば迹門也」(歴全1−283)  

 日有上人は、他門下が京都で我れ先にと功を焦り、為政者と与して自賛する姿を半ぜあきれた思いで眺めていたのかも知れません。「智慧の弘通」と言われたのは、法義上からみて天台宗に与同した弘通であったからでしょうが、その言葉の感覚からいっても、為政者に自分の教団を認めさせるために様々な方策を講じる方法を思わせます。折伏というより、むしろ摂受に甘んじていた弘通と言えましょうか。翻って、日有上人の言われる「愚者の折伏」「愚者の弘通」とは、愚直にあくまでも頑ななまでに日蓮聖人の教えを守り、ひたすら妙法受持の信行に励むことを連想させます。

 帝都弘通の先鞭をづけたといわれる四条門流の開祖日像にしても、3たび京都を追放され、それをもって折伏の手本のようにいわれますが、これとても妙顕寺を祈願寺、勅願寺として認めさせることが第一義として厳然とある以上、本来の大聖人の折伏行とはかけ離れたものであったと言わざるを得ません。日像の弘教は公武の権力者に接近し、京都での地歩を固めることにありましたから、それは叡山や諸宗を強く刺激することとなりました。その勢力争いとも言える喧騒の中で洛外追放の憂目を見たわけですから、真に大聖人の折伏行を受け継いだものではありません。後に妙顕寺は天皇の勅願寺となったり将軍の祈願寺になったりしますが、これらはいずれも他宗の諸大寺との同座でありますから謗法与同であります。坊地の寄進を受けたことなどは明らかに謗施供養を得たのであり、不受の精神は全く等閑視されていたといっても過言ではないでしょう。

 

《公界の道について》

 上述してきましたように不受不施の教えは、本来、大聖人の弟子として等しく遵守されなければならないことでしたが、京都に進出した各門流では公武権力に接触し、権威に迎合することが主となったので、そこでは謗施供養を受けることにさえ何等の抵抗を感じないまでになりました。それにともない化儀の上からも折伏行が退潮し、摂受的な色合いを帯びた化儀になっていきました。

 しかしながら富士門流の上代では、日興上人以来の折伏行の精神を堅持し、公武権力などからの謗施供養も受けずに純粋さを保持してきました。そこに本文のような他宗他門からの非難が行なわれるのでした。「富士門流では謗法の供養を受けないと言いながら、法華不信の者が作った道を歩き、橋を渡る、それほど謗施不受を言うのならば、道も歩くな、橋も渡るな」というのが他宗の言い分です。

 それに対して当家では、  

「公界ノ道ヲ行クニ謗施ト成ラザル也。野山ノ草木等又此ノ如シ」  

 と答えています。公界とは、私的な場所に対して公的な場所。もともと行路・橋梁は人々が共有する公(おおやけ)を旨とする場所です。私たち当家の信徒も年貢を納め、公事を務めていますから、それは当然享受して差し支えないものであります。ここに「公方の路」「公方の橋」と示されているのは、将軍や天皇などの為政者が管理する路や橋という意味ではなく、「公界の道」同様、公私の別を明確にするために「公方」の語を使われたものと思われます。よしんば、この「公方」が公武の権力者を指すものであったとしても、その道や橋は、あくまでも私的なものではなく、公的なものであったために権力者の自由にはならないものでありました。中世の世界では関渡津泊や行路・橋梁などの場は境界を表わすものとして、〈無縁の原理〉が働き、時の為政者であっても容易に支配することは出来ませんでした。

 さらに言うならば、これらの場は〈共有〉という概念を通り越して、〈無所有〉すなわち、誰のものでもない場としての意義をもっていたのかも知れません。日有上人が「野山ノ草木又此ノ如シ」と仰せられたように、道や橋などの境界は本来誰のものでもない海や山と同じような、あるいはそれに連なる扱いを受けていたのでしょう。「野山ノ草木」や海や山は、みんなのものと言うより、むしろ誰のものでもない、〈無所有〉という考え方が的を射ているように思われます。誰のものでもなければ、取り立てて「謗施供養」ということも成り立たない。「野山ノ草木」が引かれていることからも、富士門流の教えがこの辺りにあるように思えてなりません。法華経の思想である〈諸法実相〉も、山川草木から生きとし生けるものまて、森羅万象が十界各々にして宛然なるところを指すわけですから、〈無所有〉という考え方は、非常に仏教的とも言えましょう。

 最近は、日本中どの土地も隅々に至るまで管理され、すべては国か企業か個人の持ち物になっでしまっています。挙げ句のはてに都会では異様な地価高騰や地上げなどが問題になり、事実上、庶民が都会に家をもつなどということは不可能になりました。実に馬鹿げた世の中です。

 

《再び当家における平等観とは》

 往昔はと言えば、それも何千年も前というのではなく、たかだか150年ぐらい前でも、日本の国の中には個人や国の持ち物ではない土地がいくらでもありました。〈山窩〉といわれる山の民は、その誰のものでもない山間に仮小屋を作って移り住んだといいますし、川の民もまた川沿いに同様な生き方を身につけていました。先述しましたように、公界と言われる道や橋(これらはまた地域と地域を決する境であったので境界と言われた)は誰のものでもありませんでしたし、それに連なる〈無縁の原理〉をもつ空間が前近代の社会には大きな広がりをもっていました。そこに日有上人が「公界ノ道ヲ行クニ謗施ト成ラザル也」と主張された基盤があるのではないか、と私は思います。

 日有上人がたびたび用いられた「無縁」「公界」の語は、当家の絶対的な平等観を考察する時、あるいはまた本来的な世の中の在り方を求める時、欠くことのできないキーワードであると言えましょう。また、それに関する日有上人の仰せは、現代社会の矛盾や病巣を鋭く突いているように思えて興味深いものがあります。そこで次節に、現代社会では「無縁」や「公界」がどのように考えられ、取り扱われているか、日有上人の仰せに照らし合わせて、もう少し突っ込んだ議論をしてみたいと思います。

 

 

IV.       広宣流布の考え方

信者門徒ヨリ来ル一切ノ酒ヲハ當住持始メラルヘシ、只シ月見二度花見等計リ児ノ始 ラルル也。其ノ故ヘバ三世ノ諸仏高祖開山モ當住持ノ所ロニモヌケラレタル所ナルカ 故へニ、事ニ仏法ノ志ヲ高祖開山日目上人ノ受ケ給フ姿也。 (化儀抄、歴全1−343)  

 前節にて化儀抄の第25条を冒頭に掲げ、富士門流における謗施不受の思想について申し述べました。その際、第25条の「公界の道を行くに謗施と成らざる也。野山の草木等又此の如」の一文に注目して、「公界」とは私的な所有を離れて人々が共有するところ、あるいは更に進めて「無所有」本来誰のものでもないという意味を持っているのではないかと述べました。

 本文もそれに関連して掲げたものですが、本文の通釈、解説に入る前に前節の続きとして、もう少し「公界」および「無縁」について申し述べます。

 

《「無主」ということ》

 富士門流に伝わる古文書に限らず、一般の中世文書にも「公界」「無縁」の語は多く見出すことができます。この二つの語は、発生のルートも使われ方も違いますが、基底部分に多くの共通性が見られる実に面白い歴史用語です。その一つの大きな特徴として、世俗の主従関係などの諸縁を断ち切った「場所」、あるいは「人」という意味を持って使われる場合があります。例えば「人」で言えば、それらの人々を「公界往来人」「無縁者」と称することがあります。また「場所」として寺院を例にとれば、それらをして「公界寺」「無縁所」という言い方があります。いずれも、私的な所有を離れており、世俗の主従関係の成立しない人々であり地域であります。主人がいないのですから、これを「無主」の人々であり、地域であるとすることができましょう。

 もともと僧侶は「出家」というように、私的な親子の縁や主従の縁を断ち切って得道しますから世俗的な関係を自ら放棄したものであります。ゆえに僧侶が居住する寺院もまた本来的には「無主」の地域でなければなりません。

 しかし、寺院にはもともと「氏寺」と「無縁所(あるいは公界寺)」という二筋の流れがあり、「氏寺」は大名や領主と私的な関係をもった寺院でした。つまり「氏寺」は「無主」ではなく大名や領主を主人として、その子弟を寺院に迎え入れることによって寺門経営をしていきました。ゆえにこれらの寺院は、大名や領主の私的なものであります。翻って、「無縁所」は文字どおり世俗の主従の縁を切っていますから「無主」の立場をたもっております。大石寺はいずれに属するかと言えば、大名や領主を主人としない「無縁所」に属します。

 これら両様の寺院は戦国期に入ると、ともに大名・領主によって種々な特権(公事、諸役などの免除、寺内での殺生や狼籍の禁断など)を保障されることになりますが、「氏寺」が大名・領主の人的なつながり、すなわち縁を通じて特権が与えられたのに対して、「無縁所」の場合は、その寺院が本来的に有していた無縁性を大名や領主が追認するという形態でありました。それは大石寺に伝わる今川義元、氏真(戦国期の駿河国領主)等の『判物』に、  

「前々の如く無縁所たるの条」(富要8−40)

「無縁所たるに依って」(富要8−38)  

 「彼の寺の事は無縁所たるの間」(富要8−41)と記されていることからも伺えます。今川氏はあくまでも先例に任せて、公事などの諸役を免除したり、寺内での狼籍や殺生を禁断する『判物』を出したのであり、それは裏を返せば大石寺は本来的に俗世間のあり方とは違った、いわば〈聖なる界〉であったとすることができましょう。俗世ならば、当然のように公事や諸役に従事しなければなりませんし、合戦の際には、あたりかまわず狼籍や殺生の場にもなりましょう。しかし「無縁所」や「公界寺」と称される寺院は、もともと本来的に俗世とは違った規範をもっています。「敵味方ノキライナキ公界寺」というような言い方があるように、俗世の合戦の敵味方もこの寺院に入れば瞬時に敵味方の関係を消滅します。「無縁所」や「公界寺」は、もとより合戦の舞台としてはならないというのが昔の人々の共通した認識だったのです。

 

《アジールー平和領域》

 これらの領域は学術用語で〈アジール〉と称されているものですが、その〈アジール〉の語源はギリシャ語の「不可侵」という意味の語にあるそうです。どのような権力の手によっても侵されない聖域、あるいは平和領域ともいうべきものが〈アジール〉なのでありましょう。

 ところでこのような〈アジール〉は、中世において「無縁所」や「公界寺」などの寺院に限ったものではありませんでした。関渡津泊といわれる通行の要所や道路、橋梁、市のたつ場所、墓所などは、みなくアジール〉として社会的な承認を得ていました。さらには山林や河原などのいわゆる山野河海もまた、神仏の司る地域として無縁性を保っていたのでした。これらの〈アジール〉は、中世を生きる人々にとって、人間が本来的に自由かつ同等な存在であることを確認する貴重な場でもありました。しかしながら一方において、主従、上下の関係を一瞬にして解き放してしまう無縁の原理を権力者はいつの時代にも嫌いましたから、あるいはそれを排斥したり、あるいは権力の中へとそれを取り込んでいきました。権力の象徴を「有縁」とすることができるならば、人類の歴史はまさしく「無縁」と「有縁」の相克の歴史であったと言い得るでしょう。そして時代を経るにしたがって次第に権力に圧迫された「無縁」は、現代ではあるいは変形し、あるいは極めて限定された形で存続を許されているといったところでしょうか。「不可侵」であったはずの〈アジール〉を彬力は容赦なく侵略し、自らもの元に管理することを求めて止まなかったのです。前節に、現代では無所有の土地など日本国中のどこを探してもないと述べましたのは、その端的な一例です。「無縁」の代表格である宗教が国家の統制下のもとですっかり飼い慣らされてしまっている現状も大いに考え直さなくてはならない問題であります。

 それではなぜ「無縁所」や「公界寺」がアジールとしての機能を発揮するのかと言えば、それは今も述べましたように、その地域が俗世ではなく宗教的な聖域であるからです。神仏の前では主人と下人という主従関係も瞬時に消え去ってしまいます。また、それらの地域はすでに神仏の魂が宿っていますので、合戦による狼籍や殺生も許されないのです。大名や領主と主従を結んではいませんから、むろん公事や諸役もありません。僧侶もまた、出家して仏に仕える身になっていますので、在俗の主従からは解き放された存在です。そこに僧侶の無縁性があるわけです。

 寺院の無縁性ということで、わかりやすい事例をあげれば、江戸時代の〈縁切り寺〉の話があります。ご承知のように〈縁切り寺〉とは、妻が夫との縁を断ち切るために寺院に駆け込み、数年を勤めあけて離婚を成立させるものです。これは当時、離婚の合法的な権利を持たなかった妻側からの具体的行動にもとづく離婚習慣ともいえるものでした。妻が寺院に駆け込むことによって夫婦関係が消滅するというような〈縁切り寺〉の背景には、もともと寺院が俗世界の諸縁をいっさい断ち切ってしまう無縁性を有していたことを指摘できましょう。中世においては、アジールとして不可侵性を幅広く機能させていた寺院が時代を経るにしたがって、江戸時代には夫婦間の縁の消滅というきわめて限定された形で存続したのであります。

 そのほか寺院には「走り入り」「駆け込み」等、世間で重科を犯した罪人が寺院に入ることによって助命を求める習慣が広く行なわれていました。これらは皆、寺院のもつ〈無縁の原理〉の働きから行なわれていた習慣と言えましょう。そして、これらのことが行なわれる大前提として、神仏の前には世俗の諸関係――主従も血縁も老若男女も僧俗も、はたまた罪人であるなしも消え去るという、きわめて宗教的な考え方が冥伏していると言えます。

 

《当家における〈無縁の思想〉》

 中世の「無縁所」や「公界寺」が共通して所持していた思想を富士門の上代の諸寺も本来的に兼ね備えていました。また法華講衆と称される富士門流の信徒も、いわば無縁の体現者として講中を構成し、それぞれの信心修行に励んでいました。

 まず法門的な意味合いで言えば、化儀抄の第1条に、  

「貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等也……信心の所は無作一仏即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同あるべからず」(歴全1−340)  

 と示されたものが、〈無縁の原理〉をよく表わしているように私には思えます。富士門の寺院に一歩入れば、そこには人として貴いも賎しいもない、僧俗の差別もない、みな妙法蓮華経の当体であり同等の存在です。みな妙法蓮華経の当体であるとは当家の常寂光土を顕現したものでしょう。むろん社会的な地位や名誉、上下関係、いずれも役に立ちません。大石寺をはじめとする富士門の寺院は本来、現実の世の中に理想世界を描いたものであります。  

「大海に入りぬる水はみな鹹し、須彌山に近づく鳥は金色となるなり」(全集1536)  

 という御文のとおり、一分の信をもった人々の集まる寺院は常寂光土であり、そこに参集するものはみな妙法蓮華経として同等な人たちでなければなりません。

 ここで私見を述べるならば、第1条に限らず化儀抄は「公界」や「無縁」を志向する人々が、どのように共同体を運営していくのか、或いはもっと信仰的に言えば、どのように各人が修行し、成道を遂げていくのかを説いた手引書のようなものではないかと思います。化儀抄の中に、両親が当家の信仰であっても子供が当家の信仰をしない場合には親子の縁を切りなさい、親子の縁が切れなければ今度は住持が信徒である両親との縁を切りなさい(歴全1−244)、という仰せがあります。この条目は現代からすれば厳しすぎる印象がありますが、当時にあっては富士門流の僧俗として遵守しなければならない原則であったことでしょう。ここにも、基本的には親子の血縁関係と無縁なところに富士門流の信仰が立てられている意味を見出すことが可能です。

 「公界」とか「無縁」を支える基盤は、それぞれが自立した同等の一個の人間であることです。それは、ともすれば血縁関係や上下関係を大事にし過ぎる世の中の仕組みや秩序が極端な差別を生じさせるのに対して、対極的な位置にあると言えましょうか。「公界」とか「無縁」の原理とは、本源的に人は同等であることを教えたものに他なりません。元初本因に立ち還れば、人はおしなべて妙法蓮華経としての存在です。そのことを大聖人は観心本尊抄に、

「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裏み末代幼稚の頸に懸けしか給う」(全集254)

 と仰せられています。末代の凡夫である私たちの頸にはすでにして妙法蓮華経の珠が授けられている、すなわち信不信にかかわらず私たちは皆妙法蓮華経の当体であるという仰せです。富士門流の法門は言うまでもなく、そのことが根幹になって立てられています。順逆ともに救うのが当家の真骨頂とでも言えましょうか。

 そこで無縁の思想がよく表現されていると思われる富士門流の興味深い化儀や儀式を少し紹介してみたいと思います。

 

《稚児を先とする化儀》

 

 

 今まで述べてきましたように、当家の法門の根幹は「貴賎道俗の差別」や上下・主従の関係にとらわれない一味同心のところに立てられています。そのことに関連して化儀抄の第14条を冒頭に載せましたので、本文をまず簡略に通釈致します。

 当家の信徒が供養として持ち寄られた一切の御酒は、まず当職の住持が初めに戴きなさい。なぜならば、三世の諸仏、大聖人、日興上人の精神はすでに、当住持のところにおわしますので、住持が御酒を戴く姿はそのまま宗祖、開山、3祖上人が仏法の志しをお受けになられた姿だからであります。しかしなが月見と二度の花見の際には、通例に則らず稚児僧より御酒を始めるようにしなさい。

この項目の言わんとすることは、当住持のところに宗開三祖の精神が通じていることにありますが、実は私がここで注目したいのは「但し書」における「児ノ始メラルル也」の方なのです。信徒の持ち寄る供養の酒を当職の上人がまず頂戴する、このことも当家の法門から導き出された大切な化儀ですが、ある意味でこれは当家の中での秩序を重んじた通例のあり方を示したものと言えましょう。

 私たちが世間的な主従関係や血縁関係を断ち切って富士門の信仰に帰依することは先にも述べたことですが、しかし、門流内に入ればそこにはそこの秩序を保つための上位下位の関係や「しきたり」が必然的に存します。そこで、もう一度、当家の真骨頂を導き出すためには通常のあり方を見直さなくてはならない、当家の中での〈現実と理想〉というものを考えなくてはならないわけです。

 上位、下位を論ずれば、貫首は門流の一切を統べる立場にいるのですから最上位です。稚児僧はと言えば、一人前にほど遠い入門仕立てのホヤホヤですから最下位にいるといって過言ではありません。門流内の秩序を保っていくには、上下の混乱を避けなければなりませんから通常は何事も上位者を先としなければならないでしょう。しかし、富士門流の法門は本来、妙法蓮華経の前には一味同心でありますから誰が上で誰が下ということを問うものではありません。そこで月見と花見の年3度、通常の化儀を取らずして貫首よりも稚児僧を先として、その志を顕わしたのであります。当家には古来

 「稚児僧の中から閻浮提の座主である日目上人が出づる」という言伝えがあり、現在でも「この中に日目上人がいるかも知れないから小僧を大切にしなければならない」というような会話が日常的に交わされます。このことを当家の化儀として表わしたのが〈座替り法要〉の際の次の光景です。新しく貫首職に就任する僧侶は学頭職であることが慣例です。

「(学頭職)御駕へ乗せ奉り大玄関より客殿所化小僧の末座、ウスベリ半畳をしきおき其へ着座、太鼓にて御法主上人御出仕、方便世雄偈寿量品、而説偈言にて馨一つ入り法主より、先の蓮蔵坊学頭当山何世何上人是レへと仰せあって、御座を立ち内陣より隠居の席に就き玉ふ。学頭は所化小僧席の中を西へ行歩(足レニロ伝アリ)、内陣入口より御座に就き玉ひ云云」(『松寿院聞書』―惣本山御代々御遷化ノ時ノ事)  

 このように貫首上人の御代替り法要では、新貫首は必ず所化小僧の末座に設けられた半畳の「薄縁」に着座し、現貫首の「蓮蔵坊学頭当山何世何上人是レへ」との導きにより、所化小僧席の中を通って「御座」に就くことになっております。「是レニロ伝アリ」――見事に、貫首上人=日日上人が所化小僧の中から誕生していると言えましょう。

 また、昭和初期の宗祖650遠忌の古絵葉書を見ると、御影堂に向かう行列の中に、貫首上人に先だってたくさんの着飾った稚児が練り歩いています。その晴れがましい姿は実に印象的なものです。このことも何らかの法門的な意義づけがあるのでしょうが、ともかくも当家において稚児が大切に育てられていたことを私たちは忘れてなりません。

 堀日亨師は化儀抄註解に、

「貫首は児の中より出づ、児は貫首の本因位なり、当住持の児を尊敬し玉ぶより年三回其儀を表現し給ふ」(富要1−145)

 と示されています。貫首といえども、その本因を尋ねれば畢寛、稚児僧の姿の中にしか見出すことは出来ません。ゆえに、貫首は尊敬の念をもって年に3回その志を顕わしたのだというのであります。

 さらに註解において「伝説に貫主が自ら下りて小僧の給仕を為さるる式日ありしとなり」(富要1−145)と記して、かって当家では貫首上人が自ら稚児僧のところに下って給仕をする式日があったことを伝えております。今に残されていないのは残念なことですが、これらのことは、みな本因が家の宗旨を守り伝えるための肝要な化儀であったと思うのであります。

 「児ノ始メラルル」日は365日のうちのたった3日がも知れませんが、それがかえって大きな支えとなって当家の本因の宗旨が守られているように私には思えるのです。365日「児ノ始メラルル」日になることは現実世界に有り得ないことです。通常は上位者が主体となって秩序は保たれてゆく、しかし秩序というものは実に危なっかしいもので、本因を忘れればそれはすでに砂上の楼閣に等しいものです。そこで日数にすればわずかなものですが、精神的には常に本因に立ち還ろうとする努力を惜しまない、それが稚児僧への給仕の化儀なのかも知れません。本因というものは大々的に表面に出してはなりませんが、わずかにほの見えて、しかも必ず無くしてはならないものなのであります。

 

《〈不開門開き〉の意義》

 もう一つ大石寺に伝わる興味深い年中行事を紹介します。それは、現在でも毎年の正月16日と8月16日に行なわれている〈不開門開き〉のことです。

 不開門とは別名を勅使門とも言いまして、広宣流布の暁に勅使が大石寺に詣でて、その門を開き国主を迎え入れる、それまでは「開かずの門」なので不開門と呼ばれています。また、その時には大石寺を本門寺と改称するという伝えもあって、現在でも本門寺改称と〈不開門開き〉はセットにされて問題を一層喧しくしています。このことに関しては私なりの意見もありますが、本題より少し外れますので、ここでは立ち入らないことにします。

 ここで問題にしたいのは、何故正月と8月の16日に〈不開門開き〉が行なわれてきたかという事実についてであります。江戸中期に記された「御本山年中行事聞書」には、正月16日の項に次のようにあります。

「卯ノ刻、万歳来ル。不開門開キ、太夫外ヨリ才蔵内ヨリ君モ堅固ニマシマスト云テ円ヲ開ク。禁中ノ御規式同意。夫ヨリ人テ御堂、天王堂、垂迹堂開ク、御下台所御上客殿広間等ニテ舞。(中略)今日餅ヲ焼、雑煮シテ御酒等、満山祝フ」

 この記述を読んだだけでも、この日が満山をあげてのお祝いであったことが彷佛とします。不開門が開かれ、三河万歳がその内と外でにこやかに挨拶する。次々と諸堂を堂参して賑やかに舞います。大勢の僧俗は楽しい心でそれを見守ったことでしょうし、お祝いのこ馳走にさぞかし舌鼓を打ったことと思います。

 不開門が開かれるのは広宣流布を意味しますから、その日は一切衆生がみな妙法蓮華経の当体となっているわけです。上下万民が、その日は誰が上でも下でもない一味同心となります。主従や血縁という世の中のシガラミからも解き放されて、妙法蓮華経の前でみなが同等の姿を見せるお祝いでもあります。これを祝わずにはおれない、といった心境でしょうか。

 むろん現実を見れば、それは違うという意見もありましょう。まだまだ妙法蓮華経を信じない人はいくらでもいるでしょうし、主従も地位の上下も厳然とあるのかも知れません。しかし、それは本当は仮の姿なのであって、本因のところではみな妙法蓮華経の当体であり、順逆ともに救われる衆生なのです。主従や上下というのも危ういもので、現実を見ればいかにも堅固にありそうですが、人間もとに戻せばみな同等です。その証拠に歴史を学べば、主従や上下は常に入れ替わり立ち替わりして変遷しています。定まって絶対に動きません、などというものは何一つないのであります。本源に立ち還って、もう一度一切衆生を見直してみる、こんなことが案外〈本因の宗旨〉というものなのかも知れません。

 とにもかくにも大石寺では正月と盆の2回、不開門を開いて広宣流布のお祝いをしています。そしてこれは、現在も毎年続けられていることです。さすがに三河万歳は来ませんが、門のところに莚が敷かれて勅使は迎えられ不開門は開かれます。この儀式も1年の内のたった2日だけですが、わずかなもの故に、尊く重要な儀式なのかも知れません。稚児僧への給仕と同じく、忘れては広らない元初本因を確認する日と言っても過言ではないでしょう。このことは当家の広宣流布を考えるとき私たちに重要な示唆を与えましょう。

 日寛上人は当家の広宣流布に逆縁の広布と順縁の広布の二筋を示されました。

「当流漸々流布す、一葉落る時皆秋を知る、一葉開ける日天下の春なり、豈広宣流布に非ずや。況んや逆縁に約せば日本国中広宣流布なり。況んや如来の全言は大海の鹹の時を差へざるが如し。春の後に夏来るが如く秋毫も差ふこと無し、若し爾らば終には上一人より下万民に至るまで一同に他事を捨てて、みな南無妙法蓮華経と唱ふべし、順縁広布何ぞ之を疑ふべけんや、時を待つべきのみ云云」(研教8−45)

 このように当家の法門は順逆ともに救うところかち立てられています。日寛上人の仰せには、まず逆縁の広布を確認した上で順縁の広布を信じて疑わない姿勢が示されています。年二回の〈不開門開き〉が逆縁の広布を顕わしていることは疑いないと私は思います。

 近年、この逆縁の広宣流布の意義が失われてしまったがために、様々な問題が噴出することになりました。それは、あたかも土台を忘れて建物を立てるに似て、積み上げては崩れ、崩れてはまた積み上げるという広布観でありました。

 ことを順縁の広布に振れば、はたして有為転変の世の中において日本国中の人々を一人も漏らさず日蓮正宗の信徒にすることが可能なことかどうか。まして、世界中あるいは閻浮提ということにでもなれば、目標としてはともかくも現実的には誇大妄想と言わざるを得ないでしょう。よしんば仮定として、一人残らず日蓮正宗の信徒となったとしても、それがはたして広宣流布の達成でしょうか。そうなって初めて私たちは成仏を遂げるのでしょうか。やはり、その時になっても私たちの一人一人の信心の中にしか成仏はないのであります。広宣流布も成仏も私たち一人一人の信仰心の中に必ず成就,するものなのであって、それはつまり逆縁の世界を忘れては成り立たないものなのであります。近年の宗門や創価学会が目指した広宣流布は、員数の増加の中でしか捉えられていませんでしたから、「舎衛の三億」を持ち出して三分の一でもいいではないか、もしくは国会議員を増やして議決をもって広宣流布を達成しようとする愚かな論も行なわれたのでした。

 もう少し私たちが冷静になって当家の広宣流布を考えれば、こんなことは回避できたたのかも知れません。また最近の本門寺改称と〈不開門開き〉の騒ぎも、現実にタイムテーブルを作って、ここまできたら不開門を開き、本門寺と改称するなどということになれば、本来の大石寺法門から外れることになろうと私は思っています。

 ところで話を年二回の〈不開門開き〉に戻しますが、この正月16日と8月16日の日付を聞いて、「藪入り」を思い出された方がいるかも知れません。「藪入り」とは、丁稚となって商家に仕えている奉公人が主人から暇をもらう年二回の休日のことです。それが正月とお盆の16日なのです。正月とお盆の16日は、俗に言う「地獄の釜の蓋が開く日」――世の中に一人の罪人もいなくなる日です。みな同等に一個の人間として喜びを分かち合います。日頃、主人に束縛されている奉公人も、その日ばかりは主従の縁から解き放され天下晴れて自由を満喫する日です。つまり、この「藪入り」の2日は〈無縁の原理〉が働いている日と言えましょう。

 何故その日を「藪入り」というのか従来では不明でありましたが、最近の研究でそれが初山の日を祝う「山入り」からきていることが明らかにされました。「山入り」には、山の神の祭日として祭礼が行なわれていましたが、その日は昔では特別な時問的意味をもっていたようです。戦国期における合戦の際でも、その日は休戦となり敵味方の区別なく祭礼を祝うことが専らであったのです。

 また、「山に入る」という行為も、先ほど述べたように山自体にアジールとしての性格がすでにあり、俗世間の権力の及ばない世界に入るといった意味を持っていました。つまり「山に入る」行為自体が俗世間の諸縁を断ち切り、日常的な秩序から宗教的な秩序への転換を意味していたわけです

 これらのことも富士門で行なわれてきた年2回の〈不開門開き〉にオーバーラップさせて考えると実に興味深いものがあります。

 「罪人がいなくなる」「主従の縁が切れる」「敵味方の区別がなくなる」等、いずれも広宣流布の姿を顕わしていると言えなくもありません。何よりも年2回という回数に本因らしさが出ていて面白いように思われます。現実にこんな世の中が365日、現出するとも思われませんが、年に2回ぐらい私たちが理想とする常寂光土が顕現して、皆でお祝い申し上げる。はなはだ一方的ではありますが「どなたさんも御目出度う御座います」という一瞬があっても私は罰など当たらないと思っています。それが広宣流布だと言い切ってどこか悪いのだろうか、と私は思うのです。

 日常的な秩序から宗教的な秩序へと転換していく、これは第一段階として信仰への帰依を意味するでしょう。しかし、いずれの門流に帰依するにせよ、その門流にはまた門流独自の日常的な秩序があります。富士門流では貫首が上位にあり、稚児僧が下位にあることも門流内の日常的な秩序です。また、順縁の広布を目指すことも日常的にはごく普通のことと言えましょう。しかし、それらはまた、もう少し奥深いところにある法門によって支えられているわけです。むしろ門流内の日常的な秩序逆次に転換させたところに富士の立義の生命線が潜んでいることを私たちは学んでいかなければならないでしょう。

 

 

 

 

 

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