聖訓一百題(第31)


                            堀 慈琳 謹講


此覆・漏・
汙汙・雑ノ四ノ失ヲ離レテ候器ヲバ完器卜申シテ、全キ器ナリ。塹・堤漏ラザレバ水失ル事ナシ。信心ノ意全ケレバ、平等大恵ノ智水乾ク事ナシ。

(縮遺1930頁)


 『筒御器抄』とも、『秋元抄』とも申して、弘安3年正月に、下総の秋元大郎兵衛へ賜はりし御返状中の一節である。

 秋元殿より、筒状の食器30と平盞60とを送られたに対して、直に其器(食物)に寄せて四失の御法門を遊され、四失を離れたる完全な器椀が飲食物を盛るに適する如く、四失を去った完全な信行に、智水・法水が溜まるものであるとの意を明かに示された懇切の御書であるが、普通は此自行の細点への御注意の辺よりも、

悲哉、我等誹謗正法ノ国ニ生レテ、大苦ニハ値ハン事ヨ。設ヒ謗身ハ脱ルト云ヘドモ謗家謗国ノ失如何セン」云々

と云ふ謗人・謗家・謗国の大義を示される分が、最も『秋元抄』として知られてゐる。今は却って此の閑却せられ勝なる細目に亘れる所を故に謹講して、又、御文外かも知れぬが、多少の蛇足私見を加へて見やうと思ふ。

 先づ四失の通釈については、此御状の初に委しく御示しなされてあるから、少し長いけれりも、全文を其侭引くことにして、読みよいやうに句科を分けてをかう。

筒御器一具付三十並ニ盞付六十送り給ヒ候畢ヌ。御器卜申スハ「ウツハモノ」卜読ミ候。大地窪ケレバ水溜マル、青天浄ケレハ月澄メリ、月出デヌレバ水浄シ、雨降レバ草木昌へタリ。器ハ大地ノ窪キガ如シ、水溜ルハ池ニ水ノ入ルガ如シ、月ノ影ヲ浮ブルハ法華経ノ我等が身ニ入ラセ給フガ如シ

 初めの「筒御器」の一行は、秋元殿より御供養品の請取目録である。

 次の「御器卜申」の一行は、御器の訓み方である。

 次の「大地」等の下は、御器を大地に譬へたる上に、水溜りて月影を浮ぶるを以て法華経の我身に入らせ給ふが如しと結ばれたので、即ち人間即法器たることの一端を示されたものである。

器ニ四ノ失アリ。

一ニハ、覆卜申シテ伏ブケルナリ。又ハ覆ヘス。又ハ蓋ヲオホフナリ。

二ニハ、漏卜申シテ水漏ルナリ。 

三ニハ、卜申シテ汚レタルナリ。水浄ケレドモ糞ノ入リタル器ノ水ヲバ用ユル事ナシ。

四ニハ、雑ナリ。飯ニ或ハ糞、或ハ石或ハ沙、或ハ土ナンドヲ雑ヘヌレバ人食フ事ナシ

 此の四部は、御器の四失を顕はされてある。四失の事は、天台大師の『文句』の三に、結縁と云ふことが仏陀の教化を受け込む力の薄いことを説かれて、此の結縁衆は過去の善根浅うして覆・漏・・雑して、三恵(聞・思・修)生ぜざるが故に、現世に仏を見たてまつりて大法を聞いても、四悉の利益を受くることが出来ぬと云ってある。但し、結縁衆にあらざる当機の者にも、幾分此四失あることを免れぬ。

 又、器の失得につきては、ニ、三等、経釈の広略がある。『大涅槃経』の如きは、乳を盛る器を、完器、漏器、破器に分けて、此を譬として法器に合せて菩薩は完器、声聞は漏器、一闡提は破器としてある。吾等は如何様に補綴しても完器となるべく努力せねばならぬ。

器ハ我等ガ身心ヲ表ス。我等ガ心ハ器ノ如シ、ロモ器、耳モ器ナリ

 此御文は、食器は法器を表すことを示されたのである。口に仏徳を讃歎し、経文を読誦する。
耳に仏説を聞き、聖語を聴く。此が法の器であることを、簡単に示されてある。

法華経卜申ス仏ノ智恵ノ法水ヲ、我等ガ心ニ入レヌレバ、或ハ打チ返シ、或ハ耳ニ聞カジト、左右ノ手ヲニツノ耳ニ覆ヒ、或ハ口ニ唱ヘジト吐キ出シヌ。譬バ器ヲ覆スルガ如シ。
或ハ少シ信ズル様ナレドモ、又、悪縁ニ値フテ信心薄クナリ、或ハ打チ捨テ、或ハ信ズル日ハアレドモ捨ツル月モアリ。是ハ水ノ漏ルガ如シ。
或ハ法華経ヲ行ズル人ノ、一口ハ南無妙法蓮華経、一口ハ南無阿弥陀仏ナント申スハ、飯ニ糞ヲ雑へ、沙石ヲ入レタルガ如シ。法華経ノ文ニ、『但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈』等卜説クハ是也。世間ノ学匠ハ法華経ニ余行ヲ雑ヘテモ苦シカラズト思ヘリ。日蓮サコソ思ヒ候ヘドモ、経文ハ爾ガラス。譬ヘバ、后ノ大王ノ種子ヲ妊メルガ、又民卜嫁ゲバ、王種卜民種卜雑リテ、天ノ加護卜氏神ノ守護トニ被捨、其国破ルゝ縁トナル。父ニ人出来レバ、王ニモアラズ民ニモアラズ、人非人也。法華経ノ大事卜申スハ是也。種・熟・脱ノ法門ハ法華経ノ肝心ナリ。三世十方ノ仏ハ、必ズ妙法蓮華経ノ五字ヲ種トシテ仏ニ成リ給ヘリ。南無阿弥陀仏ハ仏種ニハアラズ、真言五戒等モ種トナラズ。能々此事ヲ習ヒ給フべシ。是ハ雑ナリ
。」

此三節の御文の第一は覆を明かされ、第ニは漏を明かされ、第三の長文は雑を明かされてあ汙る。何れも解説を要せぬほど明快平易の御文章であるが、汙の一字が省かれてあるのは、不審しき事である。此は大聖人卒爾の御失念であらうか。又は汙汙器を細説する要なきが故に、故と省かれたのであらうか。明瞭でないから、前々に仰せられた「三ニハ、卜申シテ汚レタルナリ。」云々との御文に依って、此を補足して見やう。

 と云ふことは、器其物が既に他物の為に汚穢されてゐて、何に洗ひ浄めても旧の清浄に復せぬ場合、又は今用ひんとする時に植物が容れられてあった場合(御書の意なり)には、其器は用に立たぬ。此譬を以って、吾人の機類に合はする時に、念仏、真言、禅、律等、邪法邪師汙の義が、其人の身心に普ねく奥深く入り込んで、何なる教も入り込む余地の無い程に、凝り固まってる人は器である。到底用に立たぬものである。

 此が、他の善き教への為に少々づゝ、固着せる汚れが取り除かるゝ時、次の雑と云ふ普通にある多くの機類と変化する。今でも昔(宗祖の御時代)でも雑の機類の人々が多いから、別して雑のことを委しく仰せになる。雑の機類が専ら弘教の対機であるのは、覆の機はテンデ聞かうとせぬので致し方がない。漏の機は、俗に云ふ笊耳で、何程幾度説き聞かせても底脱けで致し方がない。汗の機は先方が丸で穢れているから、此も先づ致し方がない。其処に雑の機類、即ち常に信仰が動揺してるもの、又は信仰がニ、三に雑駁になってるもの、と思ふても、格別の間違いはあるまい。

 「是ハ雑ナリ」と結ばれた其次下の御文が、即ち本題である。

 覆・漏・・雑の四失なき器が完全な御器である。此が『涅槃経』の完器である。大乗仏子たる菩薩の完全なる円満なる法器を指したもので、如何に末世の僧俗とても、信の上に於いてか、行の上に於いてか、学の上に於いてか、相即の上に於いてか、必ず完全の域に達することを心がけねばならぬ。自分はダメだと、自暴自棄して、進趣向上の念なきときは自然に堕在三途の縁を増すことになる。

 今、此本題の御文にも、亦、塹堤の譬喩を用いられてある。御器が既に譬喩であるのに、又塹堤を仮りて来られた大聖被下の御慈悲の心遣は細微な所にまで行亘ってをる。勿体なき事である。

 完器には水漏ることなし、汚るゝことなし、雑ることなし。蟻の穴一つなき完全な塹堤には、水が湛々と溜まりて漏り乾くことがない如く、信心の意が完全であれば、法華の平等大恵の即妙法蓮華経の智水法水、鎮に湛へて少しも乾くことがないと仰せになってをる。其の信心の意の完きと云ふことは、覆・漏・汙汙・雑の四失無き事である。雑りたり、汚れたり、漏れたりする事を防ぐには、多少の修行と学問の必要がある。知識と徳行とが欠けていたり無かったりする極々低級な人の信心を完うすると云ふことは、格別の天分性徳を持っている人でなくては中々に出来ぬ事である。そこで増上慢を起こしたり、懐疑を起したりして全たき信仰を得られぬ事が動ともすると起る。其を又教へ導く人が、不幸にして信心が不完全と来ては、信心の成長を阻害する事になる。けれども此が何やら始末がついて、格別の不都合もないと云ふ状態は、全く信心に対する本仏大悲の妙用の御庇である。

 師は凡師たることが大害にならぬ。弟子は悪侶であることも大害とならぬ。能化の師に四失の幾分かありて完器たりと云ふ能はざるも、所化の弟子が完器ならば智水法水は漏らすことなく、幾分溜ることになる。能化の師が完器であって満々たる法水を潅ぐも、所化の弟子が不完器であれば、其全分を受け止むる事が出来ぬ理合になるが、此は一往の見解で、多年長日の伝承には能所共に完器になることに至るものと再往は考へらるゝ。殊に本仏報身の大智は、信心に霊能を下し、本仏応身の大慈は行功に妙用を与へられて、任運に不完が完全に変質して行くべきものである。不断不退の信行の中には増上慢の道俗もなく、悪僧もなく悪俗もなく、仏法海に平安に游行すべきであると思ふ。丅

 但し、丂信心の要諦を失せば万事休矣である。願くば末法闘諍堅固の時代、正直に其時代相を実現することありとしても、其謬ひや君子にして、『涅槃経』に言へる如く声聞・縁覚の境界にあらざる菩薩のみ能く為す清浄の評論たることに帰せしめよと念願すること切なりである。

 世相日に月に険悪を増し、随所に起る人間苦の上から堪へ切れぬ謬ひも、護法信心の所で緩和して、御互に懺悔の資料となして、人格の完成に務めたきものである。若し又、護法信心の上に於いて、止むを得ぬ凡情を加味したる特別境界の評論あるに於いて、情熱の趣くところ、底止する所なきに於いても、法器完成の上に留意して反省の一歩を相互に着けたいものである。純理に対する現実の交互の謬ひ、法理と人和との衝突、此等菩薩の評論、君子の争ひたるに深く着目して、本仏大慈の照覧にも多少の面目を起すべきことを熟慮したいものである。


                             『大日蓮』大正15年1月号

 

 

(参考)秋元御書 現代語訳

 

 

 

 

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