興風紀要 創刊号

 

 

はじめに

 

 今般、興風談所として、年に一度『興風紀要』を発行することになった。

  ことの起こりは、一年間の研学の成果を恥ずかしながら発表しようという単純なもので、今号は時局がら、在勤教師会の破折論文を収録することが中心となった。

  しかし、本来目的とするところは、富士大石寺法門を、宗内外の資料を幅広く見聞、解読、探求することによって、実証的に論証しようというものである。

  その一過程として、当家伝統法門の思想基盤になっている鎌倉、室町期の天台ならびに東大寺関係文書の解読を、数人の所員によって地道に進めている。おいおい研究論文と共に、宗学研鑽に資する生史料の紹介等を行っていく予定であり、読者諸氏には様々な御意見、御叱責を熱望する次第である。

 

  昭和56年10月           興風談所所員一同

 

 

 

目   次


 
◇ 事の法門について


      はじめに 


    1、事理の考え方


    2、事迷と理悟


    3、事迷の法門が教えてくれるもの


 
◇ 山内有志の御用教学に答う


      はじめに


    1、久遠と久遠元初の相違について


    2、法体における事理の混乱


    3、事の法体について


    4、事行の妙法蓮華経について


    5、日精上人の問題


    6、血脈義について


    7、謗法について


      終わりに


 
◇ 水島・尾林論文の稚説を破す


      はじめに


    1、水島論文について


    2、法水瀉瓶・師弟子の法門について


    3、法体・法門相承及び二箇相承


    4、尾林論文の破折にあたって


    5、誤れる本仏観について


    6、己心の法門について


    7、和光同塵・日蓮がたましひ等について


      拾遺及びまとめ



◇ 法体の広宣流布・化儀の広宣流布


     1、創価教学の問題点


     2、要法寺日辰について


     3、創価学会と日辰の類似点


     4、当家の折伏、広宣流布

 

 

 


 

 

事の法門について

 

はじめに 

 

創価学会の謗法行為をめぐって、宗内はいよいよ紛糾し、更に問題は社会全体に広がろうとしている。「雨の猛きを見て竜の大なるを知る」ごとく、創価学会問題が法門的にも、社会的にも、実に根深いものであることを知るのである。

  社会的不正は、それがいかに根深くとも、また、広範にして複雑なものであっても、今後社会問題として大きく発展し、民衆の力が必ずこれを解決するであろう。もちろん我々の努力なくしてはなしえぬことだが。

  しかし、法門の狂いは、我々宗門の者が責任を持って矯正していかなけれはならない。まして、社会的不正を含めて創価学会をめぐる諸間題は、ひとえに法門の狂いにその根源があることを考えれば、なおさら我々正信を目指す者の責務は重大であると言わなけれはならない。

  だが法門の狂いは、想像以上に根深く深刻である。我々には大胆な発想の転換と、大いなる法門の研鑽、そして血のにじむがごとき信心無二の仏道修行が要求されている。それなくして今日の問題は解決するはずもないし、また法門が宗内に甦ることはありえないことを銘記すべきである。   そもそも創価学会をめぐる諸問題は、ひとり創価学会独自の間題であると考えるのは問違いである。その端は少なくとも百年は遡って考えなければならない。

 明治維新によって日本は開国され、西洋の文明が輸入されはじめると、それまでの三百年の鎖国の反動か、日本人はそれをすべて「良い物」として珍重し、摂取していった。少々強引かもしれないが、一口に言えは西洋文明は物質中心の文明である。それに対して日本の文明は精神が中心となる。ながい伝統の中で培われた全く相反する文明を、一挙に輸入して消化しきれるはずがない。物質文明が急激に、しかも未消化のままどんどん導入されて出来あがったものは、チョンマゲに背広姿同様、全く奇妙な、根なし草のごとき社会であった。

 政治・経済から一般文化・宗教に至るまで、何一つこの物質文明の影響を受けぬものはない。そしてそれは、時の流れとともにいよいよ深く根強く浸透して、っいには独自の本質・伝統すらも見失うほどの影響となっていくのである。

 こういった社会の中で、当宗も決してその例外ではない。法門がいかなる影響を受け、いかなる狂いを生じたか。またそれならは狂いの生ずる以前の法門はいかん、ということを考えるのが本論の意図するところであるから、委しくは後述するとして、今一言をもってこれを言えは、内証己心を基調とした法門が、物質文明の影響によって次第に外相化していったということである。こうして出来あがった教学を一応明治教学と呼べは、この教 学はおのずから外相中心の教学である。三秘惣在であるはずの本門の戒壇が、単なる物体として独り歩きするいわゆる国立戒壇論や戒壇本尊真偽論争は、明治教学の中から出るべくして出た。

 宗門の正統も、民衆仏法たる大聖人の御内証を、師弟相寄って我らが内証に継ぐことから次第に形骸化して、貫主一人に法統連綿と継がれているということが、神話的に語られるようになった。小さな教団であった当時は、この変化がさほど気にならなかったし、一部を除いて社会からそれほど問題にもされなかった。

 しかし、たとえは血脈について言えば、今なお歴史的事実としての唯授一人血脈付法をもって当宗の正統を主張すれは、先に僧侶有志から発行された、創価学会から宗門への幻の質問状に見られるごとく、反旗を翻す者、あるいは始めから宗門を攻撃する者、そして真剣に事の真実を追求する者にとっては、あまりにも幼稚な、不完全な、歴史的事実を無視した、説得力を持たぬ正統であることを、どうしても認めなけれはならないのである。

 ともあれ、この外相中心と化した明治教学は、その後創価学会を生み、創価教学を生む温床となっていくのである。

 戦後の創価学会の急速な発展は、物不足から高度成長期、更にGNP世界第二位を誇るに至る日本の国情と、切り離して考えることはできない。

 戦後の深刻な物不足は、民衆を物への執着にかりたてた。人々は物を求めて、日夜汗を流した。物はすべての価値に優先した。それが戦後の日本の姿である。創価学会はこの機に乗じて人々に信仰を説いたのである。「この信心をやれは、裕福になれますよ」と。藁をもつかむ気持ちで、人々は創価学会に入会した。そして、確かに多くの会員が経済的に豊かになっていった。会員はそれを功徳と称し人間革命と称して更に折伏は展開され、会員はみるみる間にふくれていったのである。

 しかし、豊かになったのは決して創価学会員だけではなかった。日本全体が豊かになったのである。だが、既に管見的にしか物を見ることができない多くの会員は、己れ達だけが御本尊の功徳で豊かになったと信じたのである。むろん大聖人の仏法、日蓮正宗の信仰が、こんなところにあるはずはない。

 かくて日本の経済成長とともに創価学会は発展し、創価学会の発展にともなって、独特な創価教学は出来あがっていくのである。従来の明治教学はその法門的欠陥のゆえに、この勢いに乗じた創価教学に抗しきれず、ついに宗門全体が創価教学に覆われていく結果となる。否、覆われていくと言わんよりは、むしろ、もともと物質中心に成り立っていた宗門の明治教学が、創価学会の出現によって更に徹底されて、創価教学として昇華したと言うほうが適切かもしれない。ともあれ創価教学では、本尊も、戒壇も、題目も、信心も、功徳も、罰も、供養も、ありとあらゆるものが即物的に解釈された。

 そして今、この土壌の中で、本尊模刻を始めとする数々の謗法行為が、創価学会によってなされた。しかしこ れは、法門が外相(物質)中心の教学に陥ったときから、出るべくして出た行為であったと考えるべきであろう。

 我々が今日の創価学会問題を乗り越えて、真の日蓬正宗の法門を宗門に甦らせるためには、このところをよく理解して、我々自身の胸中にある今までの常識というものをいったん捨て去って、大いなる発想の転換をする必要がある。そして、それは、明治以降百年来の教学への決別を意味するのである。

 これから述べようとする「事の法門」は、当宗の立脚点・基盤を示すものであって、ここを正しく理解しなけれは、法門の道は一歩も先へ進まないと言っても埋言ではない。しかしこの事の法門が、「事」のもっ事相(現実物質)的意味と物質文明とが相侯って、本来の事の法門の在り方を百人十度誤解された形で今日理解されている。そしてこのことが今日の法門の狂いの元凶となっていると思われるのである。

 


 
1 事理の考え方 

 

 まず日寛上人の六巻抄第二文底秘沈抄を引用する。

 

 「修禅寺決に目わく、南岳大師一念三千の本尊を以って智者大師に付す、所謂絵像の十一面観音なり。頭上の面に十界の形像を図し、一念三千の体性を顕わす、……-…既に十界の形像を図し顕わす、応に是れ事の一念三千なるべきや。

 答う、之れを図し顕わすと難も猶お是れ理なり、故に知んぬ、理を事に顕わすことを。是の故に法体猶お是れ理なり、故に理の一念三千と各づくるなり。例せほ大師の口唱を仍お理行の題目と名づくるが如し。若し当流の意は事を事に顕す、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。

 問う、若し爾らは其の法体の事とは何ぞ。  答う、未だ曽って人に向かって此くの如き事を説かじ云云」


 この御文には、通常言われる事相と理念の事理と、法体そのものの事理とが具体的に挙げられている。つまり南岳大師が一念三千を事相に顕わして天台大師に付しているが、これは事の一念三千ではないのかという問いに対して、それは法体そのものが理であるから、それをいくら事相に顕わしても理の一念三千でしかない。たとえば、天台大師の口唱題目が理の法門を事相に顕わすがゆえに理行と一言うがごとしである。しかし、当宗は事の法門を事相に顕わすのである。法体が事であるから事の一念三千というのであって、事相に顕わせばすべて事であるというわけではないと仰せなのである。
 我々は、ともすれは、創価学会二代会長の「理とは設計図のような物で、事とは実際の建物である」旨の言葉に代表されるように、理と事を、抽象と具体、観念と実体としてのみとらえる傾向がある。しかし当宗の言うところの事とは、その意も含めて、もう一段深い意味を持つことを、この日寛上人の御文は教えられているのである。その一設深い事理とは、法体そのものに関する事理である。図示すれは左のごとくなる。


【当家】   

       ┌事(化儀) ★惣じては当宗は化儀化法とも事迷のところに宗旨を立つるなり (有師談諸聞書)  

 【法体】事 │                   

       └理(化法)


【台家】 

         ┌事(事相)  ★天台伝教と弘むる所の事の一念三千は悟中の事理に約す 故に理に属するなるべし (上行所伝三大秘法口決裏書)

【法体】理 │          

                └理(理論)

 


 
2 事迷と理悟(法体の事理) 

 

 それでは、法体の事理の相違とは何であるのか、また事の法門とは何であるのか。日寛上人が「人に向かって説かじ」と一応秘された所を明らかにしていくところに、今日の法門上の狂いを矯正するカギがあるのである。

 

 日有上人は有師談諸聞書に、

 

 「惣じて事と云ひ理と云ひ愚者と云ひ智者と云ひ断惑と云ひ未断惑と云ひ本と云ひ迹と云ひ在世と云ひ減後と云ふ、何れも迹門と云はば理なり智者なり悟なり善なり、能所共に此くの如く末法今時は本門の時なり、然る間事相の化儀の上に宗旨を立つる宗なり、去る間事なり愚者なり本門なり、」

「さて末法今時は悪心のみにして善心なし、師弟に三毒強盛の凡夫の師弟相対して、又余念なく妙法蓮華経を受持する処を即身成仏とも名字下種とも云はるゝなり、」 

「然れは修一円因の本困妙の処に当宗は宗旨を建立するなり、はや感一円果の処は外用垂迩なり智者なり理なり全く当宗の宗旨に非るなり。」


と述べられている。これを図示すると、


【事迷】                              【理悟】 

 ○愚者・悪心                           ○智者・善心

 ○未断惑・師弟共に三毒強盛                       ○断惑 

 ○本                               ○迹 

 ○減後                                 ○在世

    ○内証本地                               ○外用垂迹


ということになる。

 この図の示すとおり、一見して事迷とは、未断惑・愚者・師弟ともに三毒強盛と、衆生凡夫の上で物事が論ぜられる世界を示し、理悟の世界は、断惑・智者、いわゆる仏・智者の世界を表していることが解る。そして、その凡夫衆生の側が、本地内証・減後種本であり、仏の側が、外用垂迹・在世脱迹であるとしているのである。

  このことは、大聖人の諾法実相抄の、

 

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。然れは釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしに、さにては侯はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。」 

  というお言葉。また、三大秘法口決裏書の、

 

 「事の一念三千は迷中の事なり、其の故は妄情の十界即本有無作の覚体と云ふなり、迷情の事の外に覚悟の事無き者なり、之を以って彼を思ふに、天台伝教等弘むる所の事の一念三千は悟中の事理に約す故に理に属するなるべし。」 

  等の御文を拝すると更によく理解できるのである。ここで言う事迷の凡夫とは、迹仏・本果妙に対する本仏・本因妙を指すのであって、当然釈尊仏教の中での歴劫修行途上の凡夫とは異なる。譜法実相抄の御文は、この本困妙の凡夫こそ無作の三身にして本仏と一言われ、久遠脱益の仏は迹仏と説かれているのである。何故凡夫が本仏で、仏が迹仏なのかと一言えば、確かに本果第一番成道の釈尊は衆生のために三徳を発揮せられて済度されてきたが、その釈尊の悟りの根本を尋ねれば、それは森羅万法すなわち一切衆生そのものなのである。釈尊は我ら未断惑の一切衆生を如実に見て悟りを得たわけであるから、「返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり」ということになるのである。

 従って本果の仏教と本困の仏法との相違は釈尊の悟りを中心とした教えと、釈尊を悟らしめた凡夫(法)を中心とした教えとの相違であり、法体の事理(事迷と理悟)に約せば、衆生の辺に立って建立された仏法と、仏の辺に立って建立された仏教との相違を願わしているのである。事迷の所に法門を建立する当家は、理悟の仏教を貴族仏教・色相荘厳の仏教(外相中心)として退ぞけ、師弟ともに未断惑の一切衆生の世界こそ真の体にして無作三身であるとして、そこに真実の仏法の姿をとらえていくのである。

 しかしここで注意しなけれはならないことは、当家で言う凡夫本仏というのは、いわゆる室町期以降堕落した中古天台の理即本覚・凡夫即仏思想とは全く異なるということである。

 

有師談諸聞書に、

 

 「律師云く(天台)種子と云ふは理即本法の処が正種子にて之れ有り、全く名字の初心にて之れ無しと云云。 仰せに云く(日有上人云く)其れは智者の種子なり、其の故は理即とは一念の心即如来蔵理にて理なる間仏の意の種子なり、此の理即本法の種子を名字の初心にして師弟共に三毒強盛の凡夫にして又余念無く受け持つ処の名字の下種なり、理即は但種子の本法にて指し置きたるなり、理即にて下種の義は意得ざるなり、下種と云ふは師弟相対の義なり。」 

  と仰せのごとくである。

 理即本覚とは、本覚思想の極った形とされ、その言うところは凡夫そのままの姿が本仏であるとする思想である。日有上人はこれを、一見民衆の側に立った所談のようであるが、かえって仏の側の所談であると論破されている。すなわち、理即とは法を信ずる気持ちも、我が身に種子のあることすらも知らぬ者であれば、そこに種子があると言えるのは仏の所談としか言いようがない。凡夫ながら信を起こし、我が身に種子があることを認識するその当初を下種とするのが、真に民衆側に立った法門であり、本覚思想であるとされるのである。

 次に注意しなけれはならないことは、信を起こした凡夫は、妙法蓮華経の当体として、露を大海にあつらえ塵を大地に埋むがごとく、妙法の一分ではあるにしても、個人衆生が即本仏とは言えないということである。森羅万法すなわち本因の一切衆生は、それが一箇の本尊に昇華されてこそ本仏と称されるのである。当宗においては、未断惑の一切衆生・森羅万法を、未断惑の上行、即久遠元初の自受用報身の一身に収め、久遠名字の妙法蓮華経(日蓮が魂)として、これを本尊と拝していくのである。  以上事迷と理悟について簡略に述べたが、結局、当宗の基盤となる事迷の法門とは、 一、滅後末法の大聖人の仏法は、師弟ともに未断惑の衆生の世界に建立されていること(師弟の法門) 二、理悟の法門が、外用垂迹の法門であるのに対し、事迷の法門は内証本地においての法門であること(己心の法門) を示しているのである。 事迷と理悟の混乱、日寛上人のお言葉をかりれば、時節の混乱こそが、今日の法門の狂いの根元である。先の下種という一つの用語をとってみても、仏側からの言葉であるか、民衆側からの言葉であるかの相違で、根本的に意味が変ってくる。現在そのことにあまりに無頓着であることが、時節の混乱をまねく原因であると考えられる。民衆仏法を標傍する宗門の、事迷の辺からみた仏法辞典の作成が急務である。

 

 

3 事迷の法門が教えてくれるもの



 先に事迷の法門の本質は、師弟の法門と己心の法門であることを述べた。ここでは今日の諸問題をこの伝統法門に照らし、その問題点を指摘したいと思う。


(1) 師弟の法門に関連して

 

◆ 師弟一箇の本尊


 六巻抄に、


「我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや。謂わく、本門の大本尊是れなり。本門の大本尊其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖大是れなり。故に御相伝に云わく、中央の首題、左右の十界皆悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付給えり。又云わく、明星が池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり。又云わく、唱えられ給う処の七字は仏界なりヽ唱え奉る我等衆生は九界なりヽ是れ則ち真実の十界互具なり云云」

 という御文がある。


 我ら唱える本門の題目の正体が大御本尊であり、大御本尊の正体は大聖大の内証であるというのは常の所談である。しかし更にその大聖人の内証の正体が、その後の「御相伝に云く」から説かれていることに気づかなければならない。

 この御相伝に云くとは、「御本尊七箇相承」のことである。まず、三世印判日蓮体具と明星直見の本尊によって、大聖人の内証(鎌倉の人間日蓮と区別する)即自受用報身・久遠名字の妙法が本尊の体であることが述べられている。

そして、その次下の「又云わく」以降は「御本尊七箇相承」の、


「唱へられ給ふ処の七字は仏界なり、唱へ奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち四教の因果を打破って真の十界の因果を説き顕はす云云、此の時の我等は無作三身にして寂光土に住する実仏なり、出世の応仏は垂迹施権の権仏なり」

という御文を引用されて、仏界九界の十界互具に事寄せて、仏界九界師弟一箇の妙法を顕示されている。これは化儀抄の、


「師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向ふ所、中央の妙法なる故に、併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ則事行の妙法、事の即身成仏等云云」

との御文と同意である。


 そもそも、戒壇の大御本尊が、他の宗祖御図顕の御本尊と異なり、大聖人の御本懐とされるゆえんは、まさに師弟一箇の大御本尊たることにある。三師伝に、

 

「さて熱原の法華宗二人は頸を切られ畢ぬ、その時大聖人御感有って日興上人と御本尊にあそばすのみならず云云」

 とあるが、これは戒壇の大御本尊の御事である。大事なところは、大御本尊建立の起因が、最底下の衆生たる熱原法華衆の受持にあること(師弟一箇)、そして、大聖人お一人でなく日興上人と師弟相寄って建立されているということである。この師弟一箇こそが事迷の法門大聖人の仏法の真髄であって、戒壇の大御本尊・久遠名字の妙法の正体である。

 ゆえに大聖人の御本懐が戒壇の大御本尊建立にあることはもちろんであるが、この大御本尊建立を単に、物体としての本尊建立と解釈してはならないのである。

 聖人御難事に、


「………此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年(太歳巳卯)なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。」

 という御文がある。この御文によって熱原法難をめぐる戒壇の大御本尊が宗祖の本懐とするのだが、もし戒壇の大御本尊を即物的に拝するならば、この御文は弘安2年10月1日にお認めの御消息であるから、10月12日建立の大御本尊は本懐そのものではないということになる。

 ここに戒壇の大御本尊の拝し方の重要さがあるのである。先の三師伝の御文のごとく、熱原法難をめぐって、 大聖人とは一面識もない無智文盲の「愚痴の者ども」が、命をもって大聖人の御法門を受持したところに、大聖人は真の師弟一箇、己が本懐を認められたのである。かくて、日蓮日興師弟相寄って師弟一箇戒壇の大御本尊建立となったのである。佐渡始顕の本尊、万年救護の本尊等との相違は、まさに、師の本尊と、師弟一箇の本尊との相違であろう。そして師の本尊が即物的本尊であるに対して、戒壇の大御本尊は内証本尊と拝するところに、その本懐たるゆえんがある。総本山において永く秘仏として、御宝蔵に秘蔵されていたのは、これを他の一機一縁の本尊と区別し即物的に、偶像的に拝させることをさけるためであったろうと思われる。丑寅勤行の際の大御本尊遥拝の儀式、更に日達上人の「大御本尊は客殿の奥深く安置するという相伝があります」というお言葉等を合せ考えるとき、物にして物にあらず、体・用離れぬ甚深の意義を見いだすのである。

 この師弟一箇の大御本尊については、今後更に深く、具体的に研究されていくことが望まれる。それには、二箇相承や、本因妙抄・三師伝・化儀抄・六巻抄等が、単なる相承書・史伝書・教学書としてでなく、師弟の法門説いた法門書として理解することが必要である。それが、理悟の師の法門、色相の法門に対する、事迷師弟の門、己心の法門が宗門に甦える第一歩であろう。

 


◆ 法主について

 現在法主上人と言えば即歴代貫主を指すが、本宗古来の考え方からすれば、これは大きな誤りである。貫主を法主と呼称するようになったのは、、恐らく法門が即物的に狂い初めた明治ごろからと思われる。

 当宗における法主、つまり「法の主」は久遠元初自受用報身即大聖人の内証以外にはありえない。

本因妙抄には、


「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」

 と相伝され、また日興上人の御消息の中にも、


「御状法主聖人御神殿奉備進侯了」

とか、また、

 「………法主聖人の御宝前に奉備進侯了」


 と大聖人の御宝前、つまり、内証久遠元初自受用報身を法主と仰せになられている。現在のごとく、当代貫主が法主というならば、日興上人が法主ということになって、このように大聖人を法主聖人とされるはずがない。

 以後、室町期において、京都住本寺の僧で後に日有上人に師事したといわれる左京日教師の穆作抄に、宗祖内証とは別に、代々の貫主を法主と呼称する例を散見するが、それ以外、特に当宗御歴代にあっては、有師・寛師をはじめ歴代を法主と言う例はない。左京日教師は、恐らく、京都において真宗等によって通例化されていた貫主=法主という呼び方をそのまま、習慣として使ったものと思われる。もちろん師においても、大旨は、法主とは宗祖の内証という意味で使われている。

 いずれにしても、当宗古来の伝統では法主と貫主とは明確に区別されているのである。それは「法の主」すなわち師弟一箇の久遠名字の妙法以外に、「絶対」の存在を認めないということである。法主の御宝前に対し、不完全同士の貫主と衆議が互いに誠め合い助け合って御奉公し、師弟相対の中に法統を相続していくということを、法主と貫主の区別は物語っている。

 法門の狂いとともに、師弟観もいきなり貴族仏教をも越えて世間並みの師弟となって、貫主一人に異常に権力が集中していった。常に法主に対して弟子の立場をとってきた伝統が崩れて、貫主が即師の立場となる。それに相応するように貫主がいつの間にか法主と呼ばれるようになって、今日では貫主本仏を思わせるほどの状態に陥っている。これひとえに師弟の混乱のなせる術である。

 法門の狂い、師弟の混乱は一々に直していかなければならぬ。まずは歴代貫主を法主と呼ぶ下剋上を廃止することが急務であることを強く訴える。

 


◆ 唯授一人についで

 大聖人の仏法は、基本的に絶対的な平等観の上に立脚している。師弟ともに未断惑という法門の出発点がそれを証明している。

日有上人化儀抄の冒頭に、


「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか、」

 という御文がある。宗門にも社会的位置、更には一集団としての秩序は必要である。秩序とは、早い話が、上下の差別を明確にするということである。しかしそれは仮りの差別であって、法門上では絶対的な平等を説く。この化儀抄の御文もまず法門としての平等を説かれ、しかる後、秩序を保つ意味において、仮りの差別を示されているのである。

 考えてみると、当宗の化儀は、ことごとくこの平等観に立った事の法門にもとづいて出来ているようである。今は消滅してしまったが、貫主が毎年、月見・花見のときに稚児僧に給仕をする習慣があったが、これは上下の差別は現実としてあるが、法門の世界には貫主も小僧もないということを儀式をもって僧俗・世間に示していたものであろう。

 また、当宗の僧侶が着す袈裟・衣は、上貫主より下所化に至るまで、白五条の袈裟、薄墨の衣に統一されている。もっとも今日ではその統一制よりもランクが強調されて、上一人なぞは緋の衣顔まけの観があるが、ともあれこの白五条の袈裟、薄墨の衣は、また平等観を顕わしているのである。この平等観が色相荘厳の世間・貴族仏教に対して、誇るべき当宗の法門であり、化儀である。

 大聖人の御内証の前に、すべてが平等であるがゆえに、絶対的権力者は認められない。日興上人の遺誠置文には、絶対者を認めないという平等観が脈々としている。


  一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事。


  一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も当如敬仏の道理に任せ信敬を致すべき事。


  一、弘通の法師に於ては下輩たりと雖も老僧の思いを為すべき事。


  一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。


  一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事。


  一、衆議たりと雖も仏法に相違有らば貫首之を擢くべき事。


  一、難問答に巧みの行者に於ては先師の如く賞翫すべき事。


これらは訓誠と受け止める前に、事の法門を説いた法門書として受け止めるべきであろう。

 さて、近来この伝統が全く失われて、権力が一人に集中し、事の法門とは全く逆転した様相を呈している。これらの原因がひとえに師弟の混乱、時節の混乱にあることは先に指摘したところであるが、今、更に具体的に述べるならば、唯授一人の取り違えということであろう。

 日興上人の観念文に「南無法水瀉瓶唯我与我」とあるのを短絡的に歴代に置いて、歴代から歴代へと法水が一滴も漏らさず瀉瓶されていることが神話的に語られているが、これは宗史に照らしてみても、また法門の上からも随分おかしな話なのである。この「南無法水瀉瓶唯我与我」とは、先に師弟一節の本尊について述べたが、まさに師・日蓮大聖人と弟子・日興上人において師弟一箇の法門を顕現されたものと拝すべきで、これを安易に当宗の権威としての唯授一人にあてるべきではない。

 宗門には古来より、宗開三祖をもって宗祖の内証を顕わすという伝統がある。聞書拾遺に、


「仰に云く、開経に云く、諸仏の国主と此の夫人と和合して菩薩の子を生むと云へり。諸仏の国王とは高祖日蓮聖人なり、此の経の夫人とは日興上人也、菩薩の子とは日目上人是れなり、されば当門徒の信は此の心得大事也、………」

 とあるごとく、三祖一体のところに法水すなわち宗祖内証久遠名字の妙法を拝すのである。伝統的に三祖までを祖」と言い、四世以降を「世」と言うのは単なる習慣ではなくして、こうした法門的意味が含まれているものと思われる。


 ともかく、この三祖一体、師弟の法水を継ぐことが唯授一人血脈とすれば、法門的に言えば、信心無二に仏道修行の者はすべて唯授一人である。

化儀抄の、


「信と云ひ、血脈と云ひ。法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違ふべからざるな卜丿、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違ふ時は我等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、」

 との御文を、よくよく拝すべきである。
しかしながら、これをもって歴代の唯授一人を全く否定しているわけではない。

先の日興上人の遺誠置文にも、

 

「若輩なりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事」

 と平等の中の差別、つまり秩序は謳ってあるし、

また化儀抄にも、


「然れども竹に上下の節の有るがごとく其の位を乱せず僧俗の礼儀あるべきか」

 と説かれるとおり、現実として秩序は必要である。ゆえに唯授一人も対外的、あるいはまた宗内の秩序のために、時々の御法門を守る総大将として貫主に宛てられるのである。しかし、それは法門的な平等観を踏まえた仮りの姿、どちらかといえば世間に重きを置いた、差別の世界での唯授一人というべきであろう。


 もっともこの世間向けの外相の唯授一人においてすら、なお貫主一人にのみの唯授一人は歴史的に無理がある。日興上人の遺誠置文や日有上人化儀抄をもって考えれば、貫主と衆議の師弟の中に唯授一人を認めるべきであろう。


 つまり、本来の在り方は法門的な信心の内証血脈・唯授一人が最重要であって、宗旨分にあたる。その上で秩序のために外相(宗教分)としての唯授一人が貫主と衆議の相互関係の上に成り立って、最後に、結果的に象徴として貫主一人の嫡々付法・唯授一人が語られるのである。これが師弟とも未断惑の民衆仏法の最低限の差別である。

 現在ではそれが全く逆になって、何よりも貫主一人の唯授一人が最優先される。一度法門が狂いはじめ、中味がおろそかになってくると、盛んに権力指向が行われ、法門とは真反対の絶対的権威が異常に求められるのであろうか。はじめから権威を認める世間や貴族仏教は、それなりの整然とした秩序が出来ているが、当宗のごとく権威を認めぬ宗が一転権力指向がなされると、一つのブレーキもない、無節操な独裁的な権力が出来上がって、とにかく、唯授一人、唯授一人と、その権威によって他門に勝れることを説き、宗門僧俗を威圧するのは、慈悲によって他門にあたれぬほどに、また宗門の一秩序を保てぬほどに、法門が軽薄化しているからに他ならない。

 明治以前はこの権威としての唯授一人が、歴代上人のお言葉の中で、おどろくほど簡単にあつかわれているのも、本来の法門の上での信心の血脈、唯授一人が、しっかりしていたからであろう。但し、明治以前においても、法門に狂いのあるとき(寛永前後)は盛んに貫主唯授一人が謳われている。あまりに強調されている裏に、何か大変な事態の生じていたこと、つまり唯授一人によって威圧しなければならぬ事柄があったことを感じさせる。

 ともかく、日蓮正宗伝統の唯授一人血脈付法とは、うすいガラス容器の中の水を、そろそろと、恐る恐るおとさぬよう、こわさぬよう、ハレ物にさわるがごとく、密かに受け継がれるごときものではなく、しっかりと大地に根をおろし、民衆(師弟ともに未断惑の民衆である)の力強いパワーの中で、もまれ、ささえられ、守られるものなのである。

 

 


(2) 己心の法門に関連して


 序文において、現在の法門が、およそ即物的に解釈されるところに、今日の諸問題の生ずる原因があることを指摘した。ここでは、しからば即物的でない本来の法門(己心の法門)とはいったいどういうものか、また現実には己心の法門と平行して即物的側面があるわけであるから、その調和はいかに考えるべきであるか、ということを論じたい。

 


◆ 宗旨分と宗教分

 先に唯授一人について、宗旨分と宗教分という立て分けをしたが、ここでもう一度宗旨分・宗教分という考え方についてふれてみたいと思う。

 例えば、当宗は法門上においては、絶対的な平等を説く。しかし現実の問題として秩序(上下差別)は必要である。一見自己矛盾的な相反した考え方であるが、しかしこの双方が、うまく調和され両立されてこそ、当宗本来の伝統が発揮せられるものと思う。

 さて、今この双方や考え方に宗旨分と宗教分とを配するならば、法門上の平等観が宗旨分となり、そしてそれを踏まえた上での仮りの差別が宗教分にあたる。つまり、法門そのものに関するところを宗旨分と言い、それを踏まえてなお、現実問題として必要最低限の世間への妥協を宗教分と言うのである。

 世間即仏法といえば、世間イコール仏法と思いがちであるが、実はそうではなくてむしろ全く相反したものである。世間(及び貴族仏教)は色相を本とした色心不二であるし、仏法は内証己心を本として、色心不二を論ずる。この相反したものが、互いに助け合うところを世間即仏法というのである。

 ゆえに仏法はその本質をできる限り守ることが必要なのであって、いたずらに世間に同調すれば、かえって世間即仏法を崩すことになるのである。こういった意味を踏まえて、仏法(宗旨分)本来の本質を守りながら、全く反対の世間へ転廻させること、また社会の一員、社会の一集団としての位置・秩序を保つために、許される範囲の世間法との妥協、これが宗教分であり、また宗教分の必要なるゆえんでもある。

 しかし、日院上人が、


「所謂三聖の御内証違背無き様に善巧方便有らん者か」

 と言われるごとく、宗旨に照らし全く違背するもの、あるいは基調となるべき宗旨分と離れたところの宗教分は、宝処に至らぬ化城のごとく、全く無意味なものである。

 要は、宗旨分がしっかりと大地に根をはり、基本となり、根底となって、その上で宗教分があってこそ、双方の調和は存するのである。

 当宗には、「広宣流布」にしても「三秘」にしても宗旨分と宗教分の両意があって、古来より宗旨分を中心として双方の調和がとられてきた。しかし昨今は宗旨分がすっかり忘れられて、宗教分だけが独り歩きをしているようである。問題の深刻さはここにある。先に述べたごとく、これでは宝処に至らぬ化粧、つまり、まぼろしでしかない。

 宗旨分・宗教分ということは、当然広宣流布・三秘に限ったことではないが、とりあえず、最も重要と思われるこの二項によって、宗旨分と宗教分とはいかに調和されてきたか本来の在り方を探ってみると同時に、今日の法門上の欠陥を指摘したいと思う。

 


◆ 広宣流布

 近来の当宗の広宣流布観、つまり我々が広宣流布という言葉を聞いて即座に頭に思い浮かべるのは、キリスト教に説かれるユートピア的な、すべての人々が大聖人の仏法を信仰する世界である。これも広宣流布観の一面であるには違いないが、しかしこれをもって当宗伝統の広宣流布観のすべてが語られていると思うのは間違いである。結論から言えば、広宣流布にも宗旨分・宗教分があって、これはその宗教分にあたるのである。

 宗教分とは宗旨分という絶対的な基盤があってこそ意義のあるものであって、宗教分の独り歩きは絶対に許されない。なぜかならば、宗教分とはもともと色が中心の世間への妥協点であるがゆえに、全く不完全なものだからである。それが証拠に、今日これだけ、広宣流布、広宣流布と叫ばれているにもかかわらず、ではその広宣流布とはいったいどういう状態になったときを言うのかと問われた場合、こうこう、どうこうですと、はっきりと答えられる者はまずいないであろう。あるいは天皇が信仰をしたときと言い、あるいは日本の三分の一の人々が信仰をしたときと言い、あるいは大聖人の仏法が日本の国法となったときと言い、あるいは全人類が信仰をしたときと言い、しまいには宇宙全体がというような意見も出てくるであろう。宇宙が出てくればさすがにおかしな話と気づくであろうが、不完全という点においては、どれもこれも五十歩百歩である。一見具体的に見える色の世界とは、実は全く不完全なものであることを直視しなければならない。

 さてそれでは、宗旨分の広宣流布とはいったい何であろうか。

大聖人は祈祷経送状に、


「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就す可きなり。」

 と仰せになり、

日有上人は有師談諸聞書に、


「堂社僧坊は仏法に非ず又智慧才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず、………仍って信心無二にして筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり、」

 と仰せになり、日寛上人は歌会である人が、


 「開いては 只一輪も四方の春、次第次第に 次第次第に」

 という歌を詠んだのを批評されて、 「身子の成仏即一切衆生の成仏なり、今も即広宣流布なり、栴檀屈王の譬のごとし、されども前句に少し疎遠なるか」
と仰せになっている。

 大聖人は信心に退転なく身に詐親なく修行のところが広宣流布だと仰せられ、日有上人は信心無二にして仏道修行のところを広宣流布と仰せになられているのである。そして日寛上人がされた歌の批評は、梅一輪が開いたのを見て四方の春を知るように、法華経において舎利弗が一人、智解を捨てて信をもって成仏したとき、その信の中に一切衆生の成仏があり、そこに宗旨分の広宣流布がある。しかし、後句の次第次第は時の経過つまり宗教分をあらわしているゆえ、前句とは疎遠であると指摘されているのである。つまり、宗旨分の広宣流布とは、宗教分の広宣流布が外に開いていくに対し、内面・己心に収まるところの広宣流布である。


 一生成仏抄に、


「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清けけば土も清しとて、浄土と云ひ畿土と云ふも土に二の謳隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。」

 という御文は、まさに己心の広宜流布を言われたものであろう。


 この己心の広宣流布、すなわち宗旨分の広宣流布が当宗の基本的な広宣流布観であって、常にこれが主とならなければならない。その上で、永遠の目標として宗教分の広宣流布が語られるのである。

 しかしこれは、宗旨分であるということが確立されての上であって、決して表裏という対等の関係を言っているのではない。宗旨分か法門的に中心となっていかなければならない。
 日有上人のように、宗教分の広宣流布はあまり言われない御先師もおられる。比較的、宗教分の広宣流布が多く語られる場合も、宗旨分は言わなくとも当然のことどして把握されていたがゆえである。

 しかるに昨今においては、宗旨分と宗教分の調和はおろか、宗旨分の存在が全く無視されて、宗教分かさも宗旨分のごとくに扱われているようである。これは先にも述べたごとく、化城が独り歩きしているようなものであるから、法門的に言えば全く無意味なものであると言わなければならない。

 かつて創価学会が、広宣流布を、舎衛の三億の例を挙げながら、日本の三分の一の人々が信心をした状態と定義づけた。確固たる宗旨分が消えれば、それに替る宗教分に確固たる定義が必要となるのは当然である。その結果無理やりこじつけて作られたものが、この定義であった。これは、宗教分一本でいこうとしたとき、必然として起こる課題であった。この時、宗門として、宗旨分をキッと提示し、宗教分の広宣流布の存在意義を、すなわちそういった定義の必要のない永遠の目標であることを、説明してあげれなかったことが、今日の悲劇を生ずる原因となったのである。

 我々は本来の宗門伝統の広宣流布観を取りもどすために、広宣流布には宗旨分の広宣流布と宗教分の広宣流布のあることを、まずは知るところから始めなければならない。そして、この両者の調和が宗旨分を根底とし、中心とするところにあることを知るべきであろう。

 凡智をもって、政治革命・経済革命をかかげ、さもその向こうに広宜流布があるかのごとくに考えて策意をめぐらすことは愚かなことである。ましてや、いついつまでにと期限を定めて強引な布教を展開することは、当宗の法義に全く反したものであると言わなければならない。

 我々はもっともっと己心の広宜流布ということを考えなければならない。己心の広宣流布、宗旨分の広宣流布とは、信心に退転なく、身に詐親なく、信心無二に仏道修行するところに成ずるものである。そして、個人個人がこの信心に立って妙法を行じていくことが、ひいては永遠の目標たる宗教分の広宜流布に、知らず、一歩一歩近づいていくのである。

 


◆ 三大秘法

 近来、特に明治以降において、大聖人は建長5年に本門の題目を顕わされ、弘安2年に本門の本尊を顕わされ、残りの本門の戒壇については後世の弟子に託されたという三秘各別の説が支配的である。

 しかし伝教大師が学生式に、


「虚空不動戒、虚空不動定、虚空不動慧、三学倶に伝うるを名づけて妙法と云う」

 と言われ、また日寛上人が六巻抄において、


「凡そ戒定慧は仏家の軌則なり、是の故に須臾も相離るべからず」

 と仰せられるごとく、三学すなわち当家に約せば三大秘法は、倶に伝えられ、須臾も離れぬところにその本義がある。当然大聖人の仏法は三秘相即・円融無碍の仏法であって、現今言われるごとき、宗祖は三大秘法しか建立されていないとして、三秘を各別に論ずることは、大聖人の仏法は三大秘法(定恵)しか備わっておらぬ欠陥仏法であるということであって、全く宗祖を冒涜するものである。

 大聖人の仏法が三秘相即・円融無碍であればこそ、我々は荷受夜を受けたその日から、三秘同時に持ち奉るのである。もし、三秘が各別であって戒壇が無いとすれば、何故に「今身より仏身にいたるまで、爾前迹門の膀法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」と問い、「持ち奉るべし」と誓うのであろうか。三秘相即であるがゆえに、持ち奉ることができるのである。

 それでは、現今言われるところの未来・広宣流布の暁に戒壇を建立するという考え方が全くなかったのかといえば、決してそうではない。日寛上人の六巻抄文底秘沈抄第二等を拝せば、こういった考え方があったことは認めなければならない。しかしここで、先に述べた宗旨分と宗教分ということをもう一度思い出していただきたい。広宣流布に宗旨分・宗教分かあるように、ここでも宗旨分・宗教分があって、三秘総在の大法を宗旨分といい、三秘が各別に論ぜられ、未来に戒壇を建立するとする論は宗教分にあたる。この宗教分たる戒壇建立は、宗旨分たる三秘相即の義をわきまえてこそ、その上に存在しうる未来永劫の目標と考えなければならない。そしてこれも広宣流布と同様、安易な定義(国立だとか民衆立という)は慎まなければならない。あくまで未来永劫の目標として拝さなければならないのである。

三位日順師が心底抄に、


「戒壇の方面は地形に随うべし、国主信伏し造立の時至らば智臣大徳宜しく群議を成ずべし、兼日の治定は後難を招くに在り、寸尺高下注記すことあたわず」

 と言われたのも、結局のところはっきりとした定義は注記すべきではない、否できぬものだというのである。広宣流布の項で示したとおり、「物」と出たときは、一見具体的なようで、実は絶対的な定義が存在しない全く不完全なものなのである
 ゆえに古来、この宗教分の三秘各別の論理は決して独り歩きせず、常に三秘相即の宗旨分を踏まえた上で語られてきたのである。

 六巻抄においても、文底秘沈抄のごとく、一見三秘が各別に論ぜられる場合と、依義判文抄の後半以降のごとく三秘総在を論ぜられる場合とがある。日寛上人は当然この辺の調和(宗旨分が中心となるゆえに大部分が総在の説明に費されている)を考えられて、六巻抄すべてをもって御教示くださっているのであるが、今日ではその読みの浅さから、文底秘沈抄だけに力が入って、宗教分が独り歩きをしているようである。

 さて、この宗旨分(総在)と宗教分(各別)との調和を端的に示されているのが、依義判文抄の三大秘法開合の相である。先に依義判文抄の後半から宗旨分が説かれると述べたのは、まさにこの開合の相を示された以降ということである。

 三大秘法開合の相とは、読んで字のごとく、三大秘法を合する義と、開く義を示されたもので、まずは何故にこの両義が必要であるのかということを考えなければならない。

 結論からいえば、三秘を一大秘法に合し三秘相即を顕わすことは、宗旨分を示されているのであり、三秘を更に六箇に開くのは、三秘の「物」としての側面(宗教分)を、宗旨分たる宗祖己心三秘総在の一大秘法との調和のために示されたものと拝するのである。それは日寛上大が、この三大秘法の開合の相を示されるにあたって、例として引用されている高僧伝の、


「一心と万法の総体也、分って戒定恵となり、開いて六度となり散じて万行となる」

 という文とあわせ考えれば容易に理解できると思う。

 つまり、万法の総体たる大聖人の内証・事行の妙法蓮華経・三秘総在の大本尊こそが宗旨分であり、己心還滅門である。そしてこれは、三秘が一大秘法に合する姿である。

 しかし先に示したごとく、三秘がそれぞれに物体としての御本尊、あるいは建物としての戒壇堂、そして口唱の題目と、色(物質)の世界で各別に論ぜられることがある。これが己心の法門(宗旨分)の世間(差別)への最低限の妥協、すなわち宗教分である。そしてこの宗旨分と宗教分の調和が六箇に開することによって示されているのである。

 文底秘沈抄においては三秘が六箇に開かれて各別に論ぜられ、依義判文抄の三大秘法開合の相が示されてより以降は「三学倶伝」「三学は須臾も離れず」と、常に相即の立場より述べられていることを見逃してはならないのである。

 一時特に問題となっていた国立戒壇論も、明治以降の法門の狂いから生じた、明治教学の落し子である。上代言われるところの戒壇建立とは、宗旨分たる三秘総在の大御本尊・久遠名字の妙法蓮華経を踏まえた上での我ら僧俗に与えられた永遠の目標と解すべきである。大らかな上代の御先師の言葉をもって、やれ国立だ、やれ民衆立だと窮屈に定義づけようとすることは全く愚かなことである。これも宗旨分が消えて、宗教分をもって宗旨分と思い込んでしまった読みの浅さがもたらした悲劇である。

 大聖大の御法門の深さを読みとれず、いたずらに宗教分を追いまわせば、大聖人の仏法とは全く無縁な、暴力が生ずる。日本国立といえば、日本を乗っ取ることを考え、世界立といえば世界征覇を考えるのは、大聖人の御法門の何たるかを全く理解できぬからである。今後この戒壇建立が、永遠の目標であること、そして宗旨分を踏まえた上で存在し得る宗教分たることを確認するためにも、中途半端な定義はやめて、一閻浮提立とでもすべきであると考える。しかし本当の戒壇建立は、永遠の目標の広宣流布を真剣に目指し、仏道修行に励むところに己心の広宣流布があるように、一閻浮提立の戒壇建立を目指し、信心無二に三大秘法総在の大法を持ち奉るところに、我ら己心の仏国土に、建立されるのである。

 


◆ 折伏

 折伏とは「法華折伏破権門理」といって、権門の理、すなわち真実でないものに対して、妥協せず正していく行為である。現在折伏といえば短絡的に、一布教法としてのみとらえられがちであるが、決してそれに限定されず自他を含めて権門の理を正していくという、広い意味での信仰姿勢を示したものである。

日寛上人は、


「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思はずんば心が謗法に同ずる也ヽ口に折伏を言はずんば口が謗法に同ずる也ヽ手に珠数を持ちて本尊に向はずんば身が謗法に同ずる也、故に法華本門寿量文底下種事の一念三千南無妙法蓮華経と唱る時、身口意の三業に折伏を行ずる者也。是れ則身口意三業に法華を信ずる人也云云」

 と言われ、折伏とは基本的にはまず己れに向けるべきことを説かれている。つまり宗祖大聖人の仏法を心から信じ、本尊に向かい南無妙法蓮華経と唱え、虚心坦懐我が心の煩悩を見つめて、それに妥協せず、破折することこそが己れに対する折伏である。

 次に布教方法としての折伏は、宗祖が、


「日蓮は不軽の跡を紹継す」

 と言われたように、法華経常不軽菩薩品第三十に説かれる不軽菩薩の行をもってその手本とする。

 不軽品には、不軽菩薩が一切衆生を尊重し讃嘆して、値う人ごとに「私は深くあなた方を敬います。けっして軽慢いたしません。なぜかならばあなた方は正法を信じ菩薩の道を行じて必ず仏になるべき方々だからです」と言って手を合わせ礼拝し、衆人がかえっていぶかしがって石を投げ、杖木で打ってもなお、走り去って遠くより声高にこの言葉を繰り返したことが説かれている。

 巷間折伏という語には、非常に排他的・暴力的イメージが強いようであるが、本来は全く逆で、むしろ布教の結果己れに対する暴力が生じても、それを忍び耐えて、決して悪むことなく、なお正法を説く慈悲の行を折伏というのである。

 宗門の歴史を振り返れば、宗祖大聖人以来暴力を受けたことはあっても、一度として暴力を振るったことがないことを知るのである。いかなる暴力を受けても、巨大な権力におさえつけられても、それが間違いであれば妥協せず正義を主張する強さこそが折伏の本義である。強さが外に向けられて、実力行使の布教が行なわれるとすればヽそれは折伏ではなく宗教とは無縁な単なる暴力にすぎない。
 近来創価学会によって全国的に展開された折伏活動は、その暴力性が社会の問題となっている。しかし創価学会の折伏は先述のとおり教義の読みの浅さと、創価主国等にみられるような非仏法的な野望、そして会員の異常な現世利益指向(折伏の数が多ければ多いほど、多くの願いが叶うと徹底指導されている)とが相俟って出来上がった、学会独特な学会流折伏といえる。

 現在、当宗伝統の本来の折伏の意が、世間的にも、また当宗信徒の大部分である学会員においても、全く誤解された形で捉えられていることは。誠に残念なことである。宗門としての責任の重大なることを認識するとともに、本来の在り方を世間、また宗門に闡明することが急務であることを痛感する。

 

 

 

 

 


 

 

 

山内有志の御用教学に答う

 

 

はじめに


 過日、久保川師の論文に対して山内有師一同と称する論文が宗内に郵送されましたが、その中で本尊義及び血脈義に関し宗義違背の箇処が見受けられます。

 また山内有志論文は、久保川師の所論に対してあまりにも感情的になり、仏教用語を乱用し幼稚な言辞に終始しておりますが、ここに7項目にわたってその誤りを指摘し、以て当家本来の法門を述べてみたいと思います。

1、久遠と久遠元初の相違について


 山内有志云く、

                                           
「戒壇の大御本尊即久遠の本仏」


「日蓮大聖人も久遠の本仏と信じられまい云云」


 山内有志は戒壇本尊及び日蓮大聖人を久遠の本仏としていますが、これは一体如何なる論釈に依るのか、未だ曽て聞いたことがありません。戒壇本尊・日蓮大聖人とは久遠元初の本仏であって、決して久遠の本仏ではありません。恐らく山内有志も久遠元初という意味で用いているのでしょうが、それにしても初歩的なミスといえます。もう一度仏法用語の一からやりなおすべきでありましょう。

 そもそも久遠と久遠元初の相違が理解できていないことから生ずる誤りでありましょうが、久遠と久遠元初の相違は当家法門の大前提であって、これを混同している山内有志論文の程度も自ずと知れようというものです。


 日寛上人の末法相応抄には、


「問う、又日辰が記に云わく、一宗の本尊久遠元初の自受用身なり、久遠の言、本因本果に亘ると雖も、久遠元初の自受用身の言は但本果に限って本因に亘らず」

 と、これは要法寺広蔵日辰の説です。この意は久遠という場合、本因本果、即ち釈尊の因行果徳の双方に通ずることであり、久遠元初という時は、本果即ち久遠実成五百塵点劫に限るということであります。

 これに対して日寛上人は、


「又若し汎く久遠と言う則んば尚大通に通ず、何ぞただ本果に通ずるのみならん。若し久遠元初とは但本因名字に限って尚本因の初住に通ぜず、何に況んや本果に通ぜんをや」

 と答えています。ここで久遠という時には、広蔵日辰のいうように本因本果に通ずるのではなく、本果即ち五百塵点劫のみならず、而も三千塵点劫にも通ずとせられ、久遠元初とはただ本因名字に限るのであると云われているのであります。

 山内有志の「久遠の本仏即ち日蓮大聖人」なる語が如何なる意味を持っているか、この末法相応抄に照して明らかであります。若し久遠が本因、即ち五百塵点劫の当初にも通ずると云えば、要法寺日辰の久遠と何等変るところがありません。久遠とは三千塵点劫も含めて五百塵点劫、久遠元初とは五百塵点劫の当初、即ち久遠名字の時を云うのが当家所立の義であります。彼の山内有志には広蔵日辰と同じく時節の混乱があるようです。




2、法体における事理の混乱



 山内有志云く、


「唯心思想にかぶれし菅野師には御本尊を紙と思い本と思い、理の一念三千こそが最極無上と観られている様ある」


「理の一念三千と事の一念三千の違いは何処にあるのか、人法一箇とは何ぞや」

 御本尊を紙や板と思い込んでいるのは何も久保川師や菅野師ではありません。むしろ山内有志の方であります。

 久保川師や菅野師が破折したのは、山内有志等に代表される如き、御本尊や血脈を唯物次元でしかとらえることのできない現在の本尊観及び血脈観を破折したのであって、決して本来の本尊義、血脈義を否定しているものではありません。もしそのように見るのであれば見る方に問題があるのではないでしょうか。

 そもそも当家法門に於ける宗教分と宗旨分の違いが理解できていない処に、その誤りの根源があるように思われます。宗教分とは「教とは聖人下に被らしむるの言」という如く、既に存在する板曼荼羅に対する信仰及び修行の勧奨の意味を含めて本果、即ち下化衆生の意で、宗旨分とは戒壇の本尊のできあがるまでの過程、本尊の内容、所謂本因、即ち上求菩提に関することであります。これを図に示せば、


 宗旨分−本因修行、上求菩提、戒壇の本尊が成ずるまでの修行


 宗教分ー本果修行、下化衆生、板曼荼羅に対する信仰


 となります。久保川師や菅野師はこの宗旨分の話をしているのに対し、山内有志は宗教分を以て宗旨分を破折していますが、これは見当違いも甚しいといわねばなりません。久保川師は自受用報身如来の裏付けも無く、紙や板に刻された文字だけを独立させて戒壇の本尊であるというような唯物的思考に対して破折を加えたのであり、云わんとした処は五字七字の文字によって顕わさんとした自受用報身こそが戒壇の本尊であるということであります。

これが宗義違背と云うならば、それは大聖人、日興上人に背くことになります。大聖人は、

 

「草にも木にもなる寿量品の釈尊なり」

 と仰せです。これは草や本が文底寿量品の釈尊ということではありません。草にも本にも顕われる文底寿量品の釈尊という意味です。当然文底寿量品の釈尊、即ち久遠元初自受用報身が根本でなければなりません。久遠元初自受用報身の裏付けのない曼荼羅は畢竟本尊ではありません。

 しかも、山内有志はこの自受用報身を理の一念三千と下していますが、これは少々暴言ではないのでしょうか。

 久遠元初自受用報身とは、文底事の一念三千から詮じられた久遠名字の事行の妙法を人に約して自受用報身というのであり、法に約せば戒壇の本尊であります。この久遠元初自受用報身を否定するということは、戒壇の本尊をも否定することになり、これが宗義違背でなくてなんでありましょう。

 このような混乱は、台家に云う事理と当家所立の事理、即ち法体の事理の相違が理解されていないが故に起る
処の混乱であるように思われます。

日寛上人は本尊抄文段に、

 

「事理の名目はまさに法体に約すべし」

  と仰せです。理の一念三千、事の一念三千を論ずる時には、それが台当の法体の事理を論じているのである、ということを山内有志はまず知る必要があります。

法体の事理に於ける台当の相違とは、文底秘沈抄に云く、

 

「問う、修禅寺口決に云わく、南岳大師一念三千の本尊を以て智者大師に付す、所謂絵像の十一面観音也。頭上の面に十界の形像を図し、一念三千の体性を顕わす、乃至一面は一心の体性を顕わす云云。既に十界の形像を図し顕わす、応に是れ事の一念三千なるべきや。
答う、之れを図顕すと雖も猶是れ理なり、何んとなれば三千の体性、一心の体性を図顕する故なり。応に知るべし、体性は即ち是れ理なり、故に知んぬ、理を事に顕わすことを。是の故に法体猶是れ理なり、故に理の一念三千と名づくるなり。例せば大師の口唱を仍て理行の題目と名づくるが如きなり。若し当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。
問う、若し然らば其の法躰の事とは何。
答う、未だ曽て人に向って此くの如き事を説かじ云云」

  と、この文に於ける事理の説明は、山内有志の考えている眼にみえる物、即ち事相に顕われたものを事と云い、眼に映らぬもの、即ち理性を理と云うことを、そうではないと否定しているのであります。

 つまり、南岳大師が天台大師に付した絵像の十一面観音は一念三千を事相に顕わしたものであるから、これは事の一念三千ではないのかという問いに対して、それは法体そのものが理である以上、たとえそれを事相に顕わそうと、あくまで理の一念三千の範躊を出ない。しかし当家は法体そのものが事であって、これを事相に顕わす故に事の一念三千というのであり、事相に顕われたものを事と云い、顕われないものを理と云う訳ではないと日寛上人は仰せになっているのであります。山内有志は、眼にみえるもの即ち事、眼にみえないもの即ち理と短絡的に理解しているようですが、これは明らかに通途の事理の考え方と、法体の事理の考え方を混同しているとしか云いようがありません。

 それでは法体の事とはどのように把握したらよいのか、これについて日寛上人は文底秘沈抄には「人に向って説かじ」と秘されています。そこで山内有志の誤りを自覚していただく為にも、これについて明らかにしていきたい。

 まず開山日興上人はどのように示されておられるかと云えば、五重円記に、

 

「当流は観心の上に元意を立つ。其は上行所伝の妙法本門自行の要法是れなり。釈に云わく、此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり。本地とは元意と同じことなり。三世如来の師としたもう所、一仏不出現元意の大法に非ずや。此れを以て元意とは本因所修の法体なり。籤の十に云わく、今日は初成を以て一回日と為し、迹門は大通を以て元旨と為し、本門は本因を以て元旨と為すと。元旨と元意と同意なり」

 と仰せです。ここで法体の事とは「三世如来の師としたもう所、一仏不出現元意の大法、本因所修の法体」ということになるが、これは三世諸仏は何を修して仏になったか、即ち釈尊及び三世諸仏出生の故里(本地)とは一体何かと云えば、それは本因所修の法体であると示されているのであります。要するに法体の事とは、一言を以て云えば本因所修の法体ということであり、この本因所修の法体を故里、即ち本地とするが故に本果釈尊及び三世諸仏は垂迹・理となるの意であります。これを百六箇抄の一代応仏の本迹、即ち、「久遠下種・霊山得脱・妙法値遇の衆生を利せん為に、無作三身寂光浄土より三眼三智を以て九界を知見して迹を垂れ、権を施し、後に妙経を説く、故に今日の本迹共に迹とこれを得るものなり」の文で図示すると、



本地 寂光浄土の無作三身…本因所修の法体(事)



                     (法華経・本果)
垂迹 垂迹施権後説妙経…今日の本迹共に迹(理)

 ということになります。
 さて寂光浄土に居す無作三身と説明された本因所修の法体とはどのようなものであるかと云えば、

本因妙抄に云く、


「彼(天台)は正直の妙法の名を替えて一心三観と名づく、有りの儘の大法に非ざれば帯権の法に似たり」 

   と、この文によると釈尊仏教即ち天台の一念三千が何故帯権の法であるかというと、有りの儘の大法でないから であると説かれているのであります。逆を云えば、真実の妙法とは有りの儘の大法でなければならないことを説いていると云えます。
 無作三身の無作とは作らない、ありのままの意味ですが、釈尊及び三世諸仏はありのままの大法から出でて、ありのままでない造作しつくろった仏てあるが故に、これを垂迹と云い、ありのままの大法を以て当家では法体の事と云い、また文底事の一念三千、久遠名字の妙法と云うのであります。
 ところでありのままでない造作しつくろった仏とはどのようなことを指して云うのかといえば、仏とは覚者という意味の通り、全く煩悩がありません。つまり悟りだけの世界を意味しています。もともと悟りとは煩悩を断ずることによって得るものですが、しかし元来具していた煩悩が全くなくなって悟りだけになってしまえば、それはありのままでないつくろいの仏と云えるのであり、この仏を特に応仏昇進の自受用身と称するのであります。

 それではありのままの大法とは、如何なることを云うかといえば、「一切衆生悉有仏性」の涅槃経の経文の如く、一切衆生はその具している煩悩の中に必ずまた仏性をも蔵しています。仏はこの煩悩を歴劫修行によって断じてしまうのでありますが、無作の場合は煩悩を歴劫修行によって断ずるのてはなく、煩悩を具しながらその煩悩の中に菩提の性を見い出し、菩提として即座に体達していくのであります。このような成道を前の応仏昇進に対し、当位即妙不改本位の成道と云い、本位を改めること(煩悩を断じ尽すこと)なく、当位のまま即妙であるという意味です。そして前の応仏昇進の断惑を説く釈尊仏教を貴族仏教と云い、当位即妙不改本位未断惑の成道を説く法を民衆仏法と云います。貴族仏教とは何も釈尊が貴族出身てあるが故に貴族仏教と云うのてはなく、民衆所持のありのままの大法から出て、階段を登る如く煩悩を断し、悟りだけの世界、即ち民衆(一切衆生)とは天地の隔りのある造作された仏であるが故にこれを貴族仏教と云うのてあります。

 また貴族仏教を理・迹の法体、民衆仏法を事・本の法体というのは、釈尊、即ち貴族仏教の側から観るのではなく、民衆の側から貴族仏教を観て、これを理・迹と云い、自らを事・本と称するのであり、

諸法実相抄に云く、

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

 と仰せなのも全くこの理由によるのてあります。

 これまで法体の事理のとらえ方について述べてきましたが、以上のことを要約したのが三大秘法口決裏書です。
 云く、

「事の一念三千は迷中の事なり、其の故は妄情の十界即本有無作の覚体と云ふなり。迷情の事の外に覚悟の事無きなり、之を以て彼を思ふに、天台伝教等弘むる所の事の一念三千は悟中の事理に約す故に理に属するなるべし」

  と、要するに法体の事理を論ずる時には、事とは事迷(無作)、理とは理悟(有作)と分別するこどを教えて います。日有上人等の教示も全くこの分別であります。
 而るに山内有志は、久遠元初自受用報身如来を理の一念三千と下しているのでありますが、自受用報身が法体の事の一念三千を事に行じた処の法即人、人即法、人法一箇の自受用報身であるに対し、片や台家悟中の理の一念三千と既している。自受用報身を何故理の一念三千とするのか、まさに日寛上人の云われた時節の混乱そのものと云えるものです。

 ところで久保川師や菅野師が自受用報身の裏付けをもった戒壇の本尊を云わんとして、今の唯物次元に堕した本尊観を否定しているのに対し、本尊を紙や本と思い込んでしまっている唯物論者たる山内有志には、どうも唯心思想と映るらしい。前者が文底事の一念三千が更に昇華した久遠元初の自受用報身を論ずるに対し、山内有志は法体の事理の分別もつかないまま、理の一念三千と破しているのであるが、しかし両者の論じている次元にあまりの差がありすぎて、何とも始末におえない感がするのであります。

 そもそも山内有志は御本尊を板そのものと決めてかかって論じていますが、板曼荼羅を御本尊と決めて信仰すること自体、信仰者として決して悪い訳ではありません。けれどもそれだけならば何等信徒と変る処がありません。本来僧侶とは、その本尊ができあがる迄、即ち宗旨分をしっかりと把握した上で下化衆生に到るのが本分でありましょう。それさえも否定することは自らの立場そのものを否定することなのであります。しかし山内有志の論文にはいささかも宗旨分が見い出されません。このような宗旨分を把握しない僧侶が多くなったが故に、今日創価教学に引きづられながら、しかも何か謝っているのかもわからず、法門が改ザンされるような事態になったのであります。「天月を知らず、池月に実月の想いをなす猿の如き」は久保川師や菅野師ではなく、山内有志の方であると云わなければなりません。

 

 

3、事の法体について



 山内有志云く、


「戒壇の大御本尊を離れて久遠元初の自受用身如来を夢みるとは天月を知らず、池月に実月の想いをなす猿の如きて、全く日蓮正宗僧侶も地に堕ちたものてある。理の一念三千と事の一念三千の違いは何処にあるのか、人法一箇とは何ぞや」

 山内有志に法体の事理の分別が全くついていないことは前項て述べた如くてあります。山内有志は「戒壇の本尊を離れて久遠元初の自受用身如来」は語れないとしていますが、久遠元初の自受用報身を離れて戒壇の本尊は語れないのてあります。このように山内有志の説はすべてが本末顛倒になっており、本無今有の疑難を免れません。山内有志の混乱は文底三千から詮じられる久遠元初自受用報身、そしてその自受用報身が戒壇の本尊として昇華していく迄の過程が全く理解されていないが故の混乱てあります。


 前項に於いては、法体の事について、その考え方、とらえ方を述べたが、ここては文底三千の大法から詮じられる久遠元初自受用報身。即ち事の法体そのものについて考えてみたい。日寛上人は六巻抄の中、文底秘沈抄ては法体そのものについては「未だ曽て人に向って此くの如き事を説かじ」と云われ、それが示されるのは当流行事抄の唱題篇に於ててあります。

云く、


「我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや。謂わく本門の大本尊是れなり。本門の大本尊其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり。故に御相伝に云わく、中央の主題、左右の十界悉く日蓮なり、故に日蓮判と主付(ぬしづけ)給えり。又云わく、明星が池を見るに不思議なり日蓮が影今の大曼荼羅なり。又云わく、唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり、是れ則ち真実の十界互具なり云云」

 「当体義抄に云わく、

 

本門寿量の当体蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり云云」

「本因妙抄に云わく、天台云わく、刹那成道半偈成道云云、伝教云わく、仏界の智は九界を境と為し、九界の智は仏界を境と為す、境智互いに冥薫し凡聖常恒なり、此れを刹那成道と云い、三道即三徳と解すれば諸悪たちまち真善なり、是れを半偈成道と云う」

 と、これ等の文を説明すると、


 1 我等唱え奉る所の本門の題目の体とは何てあるかと云えば、それは本門の大御本尊である。


 2 本門の大御本尊の体とは何かと云えば、十界互具の蓮祖大聖人てある。


 3 十界互具の蓮祖大聖人とは、唱えられ給う処の七字の仏界(師)と唱え奉る我等衆生の九界(弟子)が境智冥合した十界互具の師弟一箇の処を指して、蓮祖大聖人と云うのてある。


 4 蓮祖大聖人とは、また本門寿量の当体蓮華仏のことてあり、本師宗祖と弟子檀那すべてを指して云うのてある。


 5 このような師弟一箇の蓮祖大聖人という当体蓮華仏とは、どのようにして成ずることがてきるかと云えば、師は弟子の蔵している妙法を境とし(仏界の智は九界を境と為し)、弟子は師の持っている妙法を境とし(九界の智は仏界を境と為す)、互為主伴して、更に全く師弟の差別のない師弟一箇した処に蓮祖大聖人という当体蓮華仏が成ずることがてきる。

 この当体蓮華仏を称して、久遠元初自受用報身蓮祖大聖人、また特に久遠名字の妙法とも云い、これが事の法体の正体てあります。戒壇の本尊とは、この久遠名字の妙法を事に行じて成ずるのてあり、久遠名字の妙法即ち自受用報身の裏付けのない本尊はありえないのてあります。山内有志の「戒壇の本尊を離れて自受用報身」は語れないという考え方に、今述べた処の自受用報身が理解されているとは到底思えないのてあります。

 

 

 

4、事行の妙法蓬華経について

 

 山内有志云く、 「なれば、ダイナマイト一本ですっとぶであろう日蓮大聖人も久遠の本仏とは信じられまい、哀れな事よ。なる程、成住壊空の四劫という仮諦の姿にのみ執しておられる御仁には、空仮中三諦円融した仏の無始無終は信じられまい」

  久保川師、菅野師、そして私達は当家本来の本仏日蓮大聖人や戒壇の本尊が決してダイナマイト一本ですっとぶとは思ってもいないし、云ってもいない。ただ山内有志が堕している唯物的本仏・本尊観を否定しているのであります。

   山内有志は「ならばダイナマイト一本ですっとぶであろう日蓮大聖人」と、菅野師を批判して表面は板曼茶羅の永遠不減をうたいながら、逆に自ら本仏・本尊がダイナマイ一本や、或いは成住壊空の理によって必ず滅することを認めています。本尊を偶像としてとらえている限り山内有志はこの理から免れることはできません。しかし本尊とは偶像ではありません。

観心本尊抄に云く、

 

「仏すでに過去にも滅せず未来にも生せず、所化以て同体なり、此れ即ち己心の三千具足、三種の世間なり」 

 と仰せの如く、本尊は決して生滅することがありません。何故か在らば仰せの如く、己心に建立される本尊であるが故であります。この己心の本仏・本尊を忘れ、外相一辺倒に執しているのが山内有志の説であり、また宗務院を筆頭に創価学会の実情です。

 では宗祖仰せの己心の本仏・本尊とはどのようなことを云うのであろうか。前に法体の事について、その考え方及び正体、即ち本因妙抄の「仏界の智は九界を境と為し、九界の智は仏界を境と為す」の文の如く、互為主伴して究竟た師弟一箇の処を蓮祖大聖人と云い、久遠名字の妙法であると述べた。

 さてこの久遠名字の妙法という法体が如何にして己心の本仏・本尊として昇華するかと云えば、

本因妙抄に云く、 

 

「文の底とは久遠名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり」

  とある如く、久遠名字の妙法を事に行ずる時、ここに事を事に行じた事行の妙法蓮華経が成ずる、これが三秘相即の一大秘法であり、この一大秘法を人に約すれば日蓮大聖人、久遠元初自受用報身と云い、法に約して戒壇の本尊と云うのであります。

 宗祖観心本尊抄に云く、

 

「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広くこれを行ぜず」

日興上人五重円記に云く、

 

「本門の元意の円とは事行の妙法蓮華経これなり」

又佐渡国法華講衆御返事に云く、

 

「なおなおこの法門は師弟子をただして仏になる法門なり」

日有上人化儀抄に云く、

 

「師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経なる故也」

「師弟相向う処中央の妙法なる故に、(中略)、是れ則ち事行の妙法、事の即身成仏等云云」

日寛上人文底秘沈抄に云く、

 

「事を事に行ずる故に事と云う」

  と、ここに列挙した事行の妙法こそ、「三大秘法相即の本尊」であります。しかも、事を事に行じた事行の妙法蓮華経とは、具体的には文に明らかな如く、師と弟子が糾しあい、冥薫することを意味しています。また事行の妙法五字について、

日興上人は特に五重円記に、

 

 「今当家の円宗は事行の妙法蓮華経宗也」

 と、当家を師弟一箇の事行の妙法蓮華経宗とまで仰せであります。

 この三秘相即の事行の妙法を、末法万年の手本として、一閻浮提に総与されたのが弘安二年の板本尊であって、板本尊そのものは成住壊空の四劫の理によって生滅することはあっても、それによって示された事行の妙法は永遠に生滅することがありません。これを空仮中三諦円融の本仏というのであって、この本仏はダイナマイナを以てしても、何を以てしても消減することはできない。「火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ」とは全くこの意であります。

 

 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までも流るべし」

 と報恩抄に仰せになった「日蓮が慈悲」とは、唯物に堕した本尊ではなく、永遠に減することのない三秘相即の本尊を似て、一閻浮提総与の慈悲というのであります。

 ところで山内有志は「これ信心の問題なれば是非もあるまい」と述べ、板本尊がいつかは滅することを暗に認めながら、一方で板本尊をして永遠不減のものと「何が何でも信じ切っていく」という姿勢を強調しています。自己矛盾の極みと思われますが、それにしてもこのような信は僧侶として、浅はかであるとしか云いようがありません。日寛上人は無疑日信について、

法華題目抄文段に弘決を引いて云く、

 

「云く、疑い過有りと雖も、然もすべからく思択すべし、自身に於いて決して疑ふべからず。師法の二は疑てすべからく暁らむべし。若し疑はずんば或は当に復た邪師邪法を雑るなるべし。故に応に疑い熟して善思之れを択ぶべし、疑を解の津と為すとは此の謂也。師法已に正ならば依法修行せよ、爾時三(師、法、自身)疑永く須く棄つべし」

 と仰せです。内容は、疑いは必ずしも良いことではないけれども、しかし自分自身に自己矛盾があってはよくないから、よくよく思惟すべきである。そして師と法の二つについては徹底的に糾明して、真実を体得すべきである。疑いは解脱の入り口であり、疑いぬいて結局疑いが尽き、全く疑いの入る余地がなくなってしまった時、そこに信が生まれる。この疑い無き処を信と云うのである、との意味であります。

 しかるに山内有志は、

 

 「但し、胸中一点の疑惑、不信、我慢が血脈の仏法に対して存するならば、いかに御書、六巻抄を熟読しようとも、天地顛倒の邪見に堕する云云」

 と云っています。日寛上人の仰せと真反対であると云わねばなりません。山内有志の云う信心が僧侶という立場にありながら、如何に浅はかな信であるか、法華題目抄文設に已に明らかであります。

 

 

5、日精上人の問題



 山内有志云く、

                             ご
 「"随宜論"というただ一編の書物によって、又真偽不明の記録によって、その時代の背景、大石寺を取りまく何の状況も加味せず、他門の者ならいざ知らず、その血脈の流れの中に生きる我々末弟が、『日精上人は謗法をした』と、軽々に云云すべき事てはないのてある。日精上人相承の事に云く、『当世相承の事、全く他家に於いて知らざる法門なり、大聖人より相伝の分は日興一人なり、之によって今において相伝絶えず云云』と」

 山内有志は、宗祖大聖人、日興上人以来の血脈は貫主一人から貫主一人だけのみにしか伝わらないということに固執しているのてありますが、宗教分の血脈観としては、それてもよいてしょう。けれども宗内に於いて真実宗旨分の血脈観を論義せんとしている時に、宗旨分即ち内証血脈を忘れ、宗教分即ち外相の血脈だけにとらわれて内証血脈を考えようとしない山内有志の説は如何ともしがたいものに見えます。

 山内有志が貫主一人から貫主一人への外相血脈だけが唯一絶対の血脈てあると固執すればする程、歴史的事実、或いは宗義逸脱の貫主の取り扱いに困り、事実をねじ曲げ、表面だけを取りつくろい、逆にその分、現実の貫主を大聖人の再誕以上に上げるような結果に陥いるのてあります。山内有志が陥いっている貫主無謬論が如何に事実を無視しているか、その具体例を挙げると、日精上人随宜論に云く、

 

 「当家に於いて古来より造仏読誦を制止すること年久し、爰に信心の檀越有りて、来って愚に問て云く、諸の門徒皆仏像を造立し一部を読誦す。富山の一家は何の意趣有りてか此の義を許さざるや、願くば其の意を示せ。愚之に語りて日く、聖人出世の本懐は三箇の秘法を弘通せんが為なり。造仏は即ち一箇の本尊なり。誰か之を作らざる。然るに今に至るまて造立せざることは聖人の在世に仏像を安置せざるか故なり。読誦は一段摂折時異るなり。是の故に誦経広略殊なると雖も共に以て読誦す」

 

 と云われて、造像読誦が大聖人の出世の本懐の一つてある事を示し、最後に次のように結んています。云く、


 「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲に因って門徒の真俗疑難を致す故、無慚無愧朦霧を期せんが為、廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。
                                                                                                                                                                                              寛永十戌年霜月吉日 日精花押」


 とあります。日精上人が何を云われているか、説明の必要はないかも知れませんが、ここて日精上人は法詔寺建立の翌年、釈迦仏を造立して安置した処、宗内の僧俗から批判が起こった、そこてその狭見を開く為にこの一巻を記したと云われているのてあります。

 云うまてもなく造像読誦論は当家の立義てはありません。この異流義を正統化しようとし、実際に造像を行なった日精上人に果して誤りがないといえるかどうか山内有志にはよく考えていただきたいものてあります。日因上人は、

「精師御所存は当家実義と大相違也」

  と云われ、又日亨上人も、


 「日精に至りては江戸に地盤を居へて、末寺を増設し、教勢を拡張するに乗して遂に造仏読誦を始め、全く当時の要山流たらしめたり、但し本山に其弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か、其れも四十年ならずして同き出身の日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し云云」


 と云われています。山内有志は血脈というものの外相だけにとらわれ、貫主絶対信仰に近いものがあるようですが、このような唯物的血脈観が如何に浅いか一目瞭然てあります。

 日精上人が自ら認めておられる如く、御自身が造像をされた時、大衆と信徒の中て日精上人の行き方に批判を加えた人々がいたようであります。これらの人々の存在が、後に日俊上人、日啓上人の頃に至って仏像を御宝前から下げる原動力になったのであります。この時、大聖人日興上人以来の内証血脈が日精上人に存したか、それとも日精上人を批判した大衆及び信徒の方へ流れたかは、その後の歴史が如実にこれを証明しています。即ち後に日永上人、日寛上人等によって富士本来の法門が宣揚され、逆に広蔵日辰以来、大石寺を傘下に入れんとした要法寺側に大石寺法門が侵透し、要法寺の末寺の中で大石寺に帰伏する末寺が相い次ぎ、時の要法寺三十三世日巻が造像読誦を破る僧は追放に処すという法令を再三出したにもかかわらず、この流れを止めることができないばかりか、却って要法寺大衆の反発を買い、とうとう三十四世日全の時には、


 「一、当山の化儀は天文法乱已来暫く諸山に準じ造仏並に黒衣等著用を致し来り侯処却って門流の本意を失ふの間、今般御堂再建の序に衆評せしめ、往昔の通り仏壇の体たらく相改め侯」


 と云わしめるに至ったのであります。つまり要法寺は天文法乱以後、造像読誦を宗是としてきたが、却って日興門流の本意を失なった為、この度御堂再建に当り、昔の如く、御本尊と御影を安置し、造像読誦を改めると云っており、こわはまさに大石寺法門に還ることを宣言しているのであります。

 このように要法寺の法門そのものを一変させてしまった直接の原因は、日永上人、日寛上人等の大石寺本来の法門の宣揚にあることは論をまちません。しかしその源流は、彼の日精上人の頃に要法寺流の造像読誦を批判し大石寺全体を造像読誦の悪弊にさらすことを許さなかった大石寺大衆及び信徒の存在によると云っても過言ではないでしょう。

 日寛上人の末法相応抄に見られる造像読誦に対する破折も、単に広蔵日辰に対する破折というより、むしろ当時大石寺門流の中に蔓延していた日精上人を筆頭とする要法寺教義の破折てあると考えなければなりません。このように考えるならば、日寛上人の末法相応抄の意味もより闡明になってくるのではないでしょうか。

 山内有志はただ貫主は絶対であり、貫主の云うことには何か何でも信伏随従しなければいけないと強調しています。しかし創価学会の謗法を謗法ではないと云い、逆に正信覚醒運動こそ貫主の意に従わないから謗法であると決めつけ、あまつさえ世間仏法の両面から誤りを指摘した六師に対し、暴力を以て答えた貫主のとこに正義があるのか甚だ疑わしいと云わざるを得ません。権力や暴力を以て、仏法を抑えることができないのは、要法寺日巻が自宗に大石寺法門が逆輸人され、大石寺帰伏の末寺が増えた時、法令を以てこれを抑えようとしても抑え切れず、結局要法寺そのものが造像読誦を捨てることになった過去の歴史が如実にそれを物語っていると思うのであります。

 現在の貫主、及び宗務院、内事部、そしてその権力に乗じて正信覚醒運動を邪義として吹聴している山内有志にはここの処をもう一度熟慮して、当家本来の法門を考えていただきたいと思うのであります。

 


 

6、血脈義について

 

山内有志云く、


 「『久保川論文に云く、興尊は血脈を伝える為の管を二本設けて、常時は法主の管によって流れているが、若し故障し詰ったような時は、自動的に大衆の管を使って流れるように万全の工夫をされているのでありまして云云』 と、久保川師よ!日興上人の、果た又、歴代どなたの御法主の説法に、その様な御指南があるのか。こういう新説を称して己義、邪義というのてある。馬鹿も休み休みにしてもらいたい。凡そ日蓮正宗と名乗るからには、その宗風に従いたまえ」

 山内有志は本尊もそうであるけれども、血脈もまた外相の血脈だけしか考えられないようであります。これも又、唯物的思考方法しか出来ない悲しい習性の所産であるが、本尊と同じく、血脈も又、宗教分、宗旨分、即ち外相と内証の両面があることを知る必要があるように思われます。久保川師の云わんとするのもここの処であり、これをいきなり貫主一人から一人への血脈否定と受け取る方こそ問題があると云わなければなりません。

 前項で述べた如く、彼の十七世日精上人が造像読誦論という要法寺教義を宗内に定着させんとして法詔寺及び他の数ヶ寺に造像を実行した時に、大石寺本来の不造不読を唱えたのは他ならぬ日精上人御自身が批判された「疑難を致す真俗」でありました。この時、大聖人日興上人以来の正統法門を守ったのは貫主であったか、それともそれに反対した大衆及び信徒であったかは申すまでもないことてあります。これが久保川師の云われた貫主以外のもう一本の管でなくして何でありましょう。

 而も山内有志の主張する血脈とは、貫主個人の所有物でなければならないという外相一辺倒に偏した血脈観ではどうにも説明のつかないことが、当家七百年の歴史の中には日精上人の問題も含めて幾つかあります。ここではその中の一例として、十二世日鎮上人と十三世日院上人の相承に関して、事実を明らかにしてみたいと思います。

 日鎮上人の事跡についでは、碓児貫主てあること、そして経済的後ろ立てのもととに大石寺境内を整備せられたこと等はよく知られている通りですが、全体的にはわからないことの方が多いと云えます。わかっていることは、長享2年(1488年)の本尊に20歳日鎮とあることと、家中抄及び大過去帳等の記述が同じ大永7年(1527年)寂ということだけです。この二つの事実から推すると、寂年の大永7年(1527年)は59歳ということになります。大過去帳はこの点59歳寂であるから信用できるとして、家中抄は71歳寂となっているのでありますが、これは前の二つの事実から推して信用しがたい。したがって富士年表に於いても大永7年59歳寂となっているのであります。

 さて日院上人は天正17年(1589年)72歳の寂であるから、生まれたのは永正15年(1518年)であり、日鎮上人が寂せられた大永7年(1527年)にはわずか10歳てす。日院上人も日鎮上人と同じく稚児貫主でありますが、その理由は大石寺逼迫による経済的理由によるのでありましょう。ともかく日院上人は日鎮上人から少なくとも10歳で付属を受けたことになります。現在の満年令でいえば9歳です。

 ところでその前年、つまり日院上人8歳の時、日鎮上人から大石寺惣衆檀那への付弟状が現存しております。


それには、


 「態一筆留申侯。仍良王殿之事幼少之御方に御座侯。雖然信心御志侯て、勢仁(成人)被致侯者、当寺の世間仏法共御渡、本末之僧俗共仰可被申侯。仍為後日之如件。
       大永6年9月5日         日鎮花押
       大石寺惣衆檀那御中                   」

 と示されています。わかりやすくいえば、この良王殿(日院上人)は幼ない方であるけれとも、信心の志ざしがあるから、成人した時には、大石寺の行政面、信仰面共に日院上人に渡され、宗内の僧俗一致して日院上人を中心に大石寺を守っていって下さい、と日鎮上人が仰せになっておられるのであります。つまり良王殿(日院上人)が成人するまでは大石寺の行政面、信仰面共に大石寺惣衆檀那て守るようにということであり、日鎮に上人御自ら相承を一時大衆及び信徒にゆだねています。日鎮上人のこのような行為は、山内有志が云うようなことからすると、己義邪義ということになってしまいますが、果しでそうてしょうか。久保川師の所説と山内有志の所説を比較すると、どうみても久保川師の説の方が大石寺本来の考え方のように思われて仕方ありません。

 更に山内有志は、


 「御法主上人一人おわさねば日蓮正宗は無い」

 と云っていますが、これにこだわりすぎると日鎮上人が寂せられ、日院上人が成人せられるまては日蓮正宗は無かったことになってしまいます。又、続家中抄によれば、


 「当山精師と大檀那日詔尊尼と隙を生じて精師富士を退去し江戸下谷常在寺に移住す、之れに依って当山無主 なり。時に将軍御代替わり御朱印改め有り、爾る処当山無住に就いて将に廃寺に及ばんとす、衆檀之れを嘆じ後住の事を日詔尊尼(敬台院)に請う。尊尼其の器を選びたもう。法詔寺現住日感云わく、舜公に如く者なし云々。仍て尊尼、師をして当山に入院せしめ給うなり」


 「然る処日精本寺再興ありて日精両(大石・法詔)寺住持たり、其後敬台院様の御意に背かれ両寺之を退出す。一、其の跡法詔寺には日感住持し大石寺無住にて一両年も相過ぎ侯由、御朱印改め有り無住の寺へ御朱印下され間敷きの由に付き、大石寺衆檀敬台院様へ相願い、日舜を指図に依って日感肝人りにて当山へ人院し、江戸へ下り精師に面謁し其の後御朱印頂戴す」


 と、これによると日精上人と敬台院との間に亀裂が生じ、日精上人が貫主職から降ろされ二年に旦って大石寺が無住てあったことが記されている。山内有志及び宗務院等が、貫主一人から貫主一人への御相承だけが当家唯一絶対の血脈であると固執すればする程、歴史はその矛盾をよく知っていて、私達にその真実を語りかけてくれるのであります。

 では当家には宗祖大聖人日興上人以来、正統門家としての血脈は存在しないのでありましょうか。否、私達はそのようなことは決してないと思っております。しかし山内有志の如く、血脈を唯物次元にとらえて外相だけを追い回し、’切れていない‘ ’切れていないと信じる‘と何回唱えてみても、久保川師の指摘する如く、このような血脈は既に述へて来たように過去にとうにも説明のつかないことが幾つかあり、その正統性を強調すればする程、矛盾の落し穴に陥いってしまうのであります。

 本来の血脈とは「内証仏法血脈相承」という如く、内証己心の世界の話しであって、唯物次元の話しではありません。外相血脈だけを追求すれば、確かに切れているとか切れていないとかの論議になるでありましょう。久保川師は外相血脈の神秘化に対し、その矛盾を投げかけ、真の内証血脈とはどのようなものであるかを云わんとしているのであって、これを己義、邪義と決めつけ、はた又、擯斥処分にして宗門から追放したことは、その論点の次元の低さに驚き、その暴力の論理にはただただあきれるばかりです。

 それでは当家本来の血脈とは一体どのように把握しなければならないのか、これについて考えてみたいと思います。山内有志は血脈と云うと、ただ貫主一人から貫主一人への所謂彼等が云う相伝だけしか考えられないようですが、日院上人より広蔵日辰への御報に云く、


 「匿無く本意の修行法水を乱さず師(今師・宗旨)口(金口・宗教)の両相承、三箇の秘法胸に当て、四聖涌現の刻を相待つ者なり」


と、また百六箇抄にも云く、


 「受持(宗旨)知識(宗教)相承を破らんが為に云云」

 と仰せの如く、血脈にも本尊と同じく宗教分、宗旨分の立て分けがあることを知らなければなりません。

 宗教分の血脈とは、外相の血脈相承のことであり、貫主一人から貫主一人への相伝のことを云い、宗旨分の血脈とは内証の血脈であり、日有上人の御文で云えば、


 「信と云い、血脈と云い、法水と云う事は同じ事なり。信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず」

 という血脈てあります。勿論ここに云う信とは疑い無きを信という、無疑日信の信のことを云い、今云う処の宗教分の血脈、宗旨分の血脈はまた総別の二義と同じ意味です。

 大石寺に要法寺出身の貫主が誕生する前の、最後の貫主てある十四世日主上人に次のような御文があります。

日興跡条々事示書に云く、


 「富十四ヶ寺の中に三ケ寺は遺状を以て相承被成候。是は惣付属分なり。大石寺は御本尊を以て遺状被成侯。是則別付属唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、従興師正応之御本尊法体御付属、例者上行薩埵定結要付属大導師、以得意如比御本尊肝要なり。従久遠今日霊山神力結要上行所伝之御付属、末法日蓮・日興・日目血脈付属全体不色替其僅なり。八通四通者総付属斉歟。当寺一紙三ケ条之付属遺状文証寿量品儀なり、御本尊者久遠以来未手懸付属也」


 と、これをわかりやすく要約すると、富十四箇寺の中で大石寺を除く三箇寺は付属状、切り紙相伝等の遺状を以て相承としている。これは総付属分(宗教分の血脈)である。大石寺は御本尊を以て相承とし、これは別付属(宗旨分の血脈)であり、即ち大聖人よりの本門戒壇の御本尊、日興上人よりの正応三年の譲座本尊(座替本尊)、この師弟一箇の本尊の法体を以て血脈とし、これを唯授一人と云う。八通、或いは四通という付属状、切り紙等の相伝書はいわば総付属に当り、当家に於ける一紙三ヶ条日興跡条々事という付属書は師弟一箇の本尊の文証て、法華経ていえば寿量品に相当するものであり、御本尊の法体付属こそが、内証真実の付属である、という意味です。山内有志は「当宗は相伝の宗旨」と強調しているけれども、日主上人の示書と比較すると、宗教分の範躊の血脈と云えるものであります。

 然らば日主上大仰せの日興上人よりの正応三年譲座本尊法体付属こそが宗旨分の血脈であるという、その譲座本尊法体とは何を云うのであろうか。

 前に法体の事を論じた処で、法体の事とは日寛上人当流行事抄に云く、


 「唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なりヽ是れ真実の十界互具」


 「仏界の智は九界を境と為し、九界の智は仏界を境と為す、境智互いに冥薫し凡聖常恒也」

等と仰せの如く、師弟相寄り、一箇して成じる処の久遠名字の妙法てあり、この久遠名字の妙法を事に行じた事行の妙法蓮華経が御本尊の正体であると説明したけれども、日主上人仰せの譲座本尊法体付属の意も、この師弟一箇の久遠名字の妙法の法体付属を以て宗旨分の血脈としているのてあります。宗祖大聖人が報恩抄に、


「日蓮が慈悲礦大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし」

 と仰せの「日蓮が慈悲礦大」とは、一閻浮提総与、即ち一切衆生に平等に流れている久遠名字の妙法、法体付属を指すのであり、この大聖人の慈悲を私達が覚知する時、所謂久遠名字の妙法を事に行ずる時、そこに血脈が流れ、これを内証血脈と云い、宗旨分の血脈と云うのです。久保川師が云う大衆の管とは、この師弟一箇の内証血脈のことを指しているのであり、勿論貫主もこの時は弟子の一分であって、日有上人仰せの如く、その総責任者、即ち手継ぎの師匠であります。この内証血脈は、外相血脈に空白期があろうとなかろうと関係なく、決して断絶することがありません。

 近来、血脈が貫主一人だけの所有物のように解釈されヽ貫主即今日蓮のように強調されていますが、これは明らかに誤りであると云わざるを得ません。貫主とは「人の志を仏聖人へ取り次ぎ申さん心中大切なり」と仰せの如く、大聖人へ御給仕申し上げ、且つ自余の大衆との取り次ぎ役です。日興上人は遺誠置文に、


「時の貫主たりと雖も己義を構えば之を用うべがらざる事」

 と遺誠されています。これは己義を構えて、手継ぎの師が全うできない貫主ならば、この貫主を大衆は用いてはならないという開山上人の御指南であって、この場合、貫主が己義を構えているか、いないかは、阿部日顕師が云うように貫主自身が決めるのではなく(阿部師が正統な貫主であるか否かは別問題として)、御法門即ち大聖人の御書、日興上人の御遺誠、日有上人、日寛上人の御指南に照らすことは云うまでもありません。

 さて、話を元にもどして、この内証血脈、つまり久遠名字の妙法を事に行ずるとは、具体的にはどのようなことをいうのかと云えば、


「この法門は師弟子をただして仏になる法門なり」


 と開山日興上人が仰せの如く、師弟子をただして成ずることがてきるのてあります。但し、この師弟子をただすとは、教学部長大村寿顕師流の「師・弟子をただす」というような貴族仏教的発想の師弟子をただすではありません。二十六箇条の、


  「時の貫主たりと雖も己義を構えば之を用うべがらざる事」


  「衆議たりと雖も仏法に相違有らば貫主之を擢くべき事」


 等に代表される、師が誤れば弟子が糾し、弟子が誤れば師が糾し、互為主伴して互いの心が冥薫し、師弟の差別がなくなり、一箇してそこに生まれた無疑日信の信の一字の中に、この内証血脈が流れていくのてあります。日有上人化儀抄に云く、


「我が弟子も此くの如く我に信を取るべし」

 又、


「信と云い、血脈と云い、法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからず、違わずんば血脈法水は違うべからず」

 等と仰せになられたその真意も、ここに存すると云えるのであります。

 日興上人が示された「師弟子をただす」とは、要するに三毒強盛の師弟が、互為主伴、本末究竟して無疑日信の信の一字を求めるという意味なのではないでしょうか。

 

 

7、謗法について



 山内有志云く、


 「真間釈迦仏供養抄に云く、


『釈迦御造仏の御事、無始曠劫より巳来、未だ顕われ有ざる己心の一念三千の仏を造り顕わし在すか、馳せ参りて拝み進らせ侯ばや云云』


 四条金吾釈迦仏供養事に云く、


『三界の主、教主釈尊一体三寸の本像、之を造立し奉る、檀那日眼女、現在は日々月々大小の難を払い、後生には必ず仏となるべし云云』と

 正信会諸師よ!

 『うるし千ばい、カニの足一本』てあれば、たとえそれが一宗弘通の初めであれ、日本一同阿弥陀仏を本尊とする中てあれ、時末法なれば謗法に違いなかろう。しからばそれを容認し賛歎された大聖人も与同罪、謗法というのてあろうか」

 山内有志には、ことここに至って前後不覚に陥いってしまったらしい。山内有志の説は、大聖人の真間釈迦仏供養抄、四条金吾釈迦仏供養事における釈迦仏造立の際の称歎を取り上げ、正信覚醒運動の僧俗の主張する謗法厳誠に対して、ならば大聖人も造仏を称歎しているのであるから、謗法てはないかということですが、これはどうみても開き直りとしか受け取れません。自分達の謗法与同を棚上げする為に、大聖人の造仏称歎の御書を悪用しているとしか思えないのであります。

 山内有志の引用した同じ御書を用いて、約三、四百年の昔、同じことを主張した人々がおります。今、二人ほど名を挙げれば、一人は要法寺広蔵日辰。云く、


 「問う、(日辰)云く、真間供養抄二十七に云く、釈迦御造仏の御事無始礦劫より已来未だ顕われ有ざる己心の一念三千の仏を造り顕わし在すか、馳せ参りて拝み進らせ候わばや、欲令衆生開仏知見乃至我実成仏已来は是れなり云云、又四条金吾釈迦仏供養抄二十八に云わく、御日記の中に釈迦仏の本像一体と云云、乃至此の仏は生身の仏にて御座候へ云云、又日眼女釈迦仏供養抄に云わく、三界の主、教主釈尊一体三寸の本像之れを造立し奉る、檀那日限女、現在には日々月々大小の難を払い、後生には必ず仏となるへし云云、此等の文如何」と。

 日辰の云う処は、宗祖の真間供養抄、四条金吾釈迦仏供養抄の文を挙げて、だから造仏は宗祖の本意に叶う、若し造仏が本意てないとすれば、宗祖は自語相違をきたしており、若し造仏が謗法と云うのならば、宗祖自身謗法ではないのか、と云うのてあります。もう一人は、十七世日精上人。随宜論に云く、

 

「又、大聖人御在世を案ずるに(釈迦仏の)御開眼度々なり。所謂真間釈迦仏供養抄、四条金吾釈迦仏供養抄、日眼女釈迦仏供養抄、本絵二像開眼等なり。(中略)問て云く、富山一家造仏を許すとなすや否や、若し之を許さば何か意ぞ造立せざらんや、若亦許さずんば上の諸文如何会用せんや」

 と。日精上人も広蔵日辰と全く同じことを論ぜられておりますが、山内有志の説は、これらの師と、何故か同じ次元のもとに宗祖を冒?しています。

 山内有志は、前に指摘した如く、久遠のとらえ方、法体の事理のとらえ方、そして御本尊を唯物的に考える偶像崇拝、更にこの釈迦仏造立称歎の問題、すへてが何故か要法寺教学と同し誤りをおかしています。思うに山内有志は、広蔵日辰や日精上人と同様に法門を外相の面だけにしかとらえることが出来ず、己心の世界を理解出来ない処にその根本原因があるようです。山内有志の宗祖与同罪の疑難に対して、私達の考えはさしひかえ、日寛上大の末法相応抄の文で答えたいと思います。云く、

 

 「答う、古来会して云わく、此れは是れ且く一機一縁の為なり、猶お継子一旦の寵愛の如し、(中略)、今謹んで案じて日わく、(釈迦仏は)本尊に非ずと雖も而も之を称歎したもうに略して三意有り、一には猶お是れ一宗弘通の初めなり、是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊となす、然るに彼の人々適釈尊を造立す、豈壹歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり。学者宜しく善く之れを思うべし」


終わりに

 以上、久保川師の論文に対する山内有志の疑難に対して、その誤りと、思想的基盤が要法寺流の外相を求める教学と酷似していることを述べ、以て誤りを指摘したが、全ては日寛上人仰せの「時節の混乱」に帰すると云えます。山内有志には、「汝早く信仰の寸心を改めて速かに実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり」の御金言を拝し、宗祖大聖人、開山日興上人仰せの師弟子の道をただして、本来の大石寺法門に帰り、本因修行を行じていただきたいと念願するものであります。

 尚、山内有志論文の後に、宗務院教学部の承認のもとに水島、尾林両師等による久保川師に対する感情むきだしの論文が出回っておりますが、引きつづいてこれらの論文についてもその誤りを指摘して行きたいと思っております。


                                            以 上

 

 

 

 

水島・尾林論文の稚説を破す(1)

 


はじめに


 正信会報6号並びに蓮華寺寺報「仏生」18号に、久保川法章師が「世界宗教への脱皮」と「究極の本尊」との論文を発表された。ところがそれらの所論に対して、宗内の水島公正師が「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」尾林広徳師が「『仏生』における本尊観を破す」を著わし、宗務院教学部がそれらをまとめて「久保川論文の妄説を破す」というものものしい論題を付して小冊子を刊行した。大村寿顕教学部長は、その発刊にあたって、久保川師の論を「師弟の道を踏みはずす倣慢不遜を邪義」ときめつけ、「異流邪説に惑わされて成仏への道を喪失することのをいよう」と訴え、宗内僧俗に広く冊子を配布した。

 一方、久保川師は宗務院による冊子刊行以前にすでに擯斥に処せられ、日蓮正宗の僧籍を失っており(地位保全提訴中)宗内にとどまっての反論は許されていない。その間、久保川師へ宗務院より「訓戒」なる文書があったらしいが、その内容も、「師の論文は戒壇の本尊、血脈否定だから異説を改め、懺悔せよ」との一方的且つ独善的をものらしい。師はその回答に「戒壇の本尊と血脈を否定しているものではない。追って委しく論じあいましょぅ」と述べ、その機会を待ったが次に釆たものは擯斥の通告であつた。

 思うに、師の主張は荒削りとはいえ、当家としての本尊・血脈観の本来あるべき姿を論じられたものである。それは現今行をわれている唯物的を思考法・傾向性を批判しているのであり、当家の本尊・血脈を否定したとは全くいえない。むしろ、論述に足りなかった部分があるぐらいである。

 宗務院が師の投げかけられた本尊・血脈論の根本課題を真面目に考究し、論争することなく安易に処分に走ったことは大いに遺憾である。宗務院刊行の 「久保川論文の妄説を破す」がその答えであるならば、処分の前に提出し、師へ詰問なり、破折なりするのが順序であろうし、そこに久保川師の弁明も可能になり、真意も明らかにされると思うのである。憶測と独断で一方的を解釈を下し、みせしめのように師一人を処分しても、宗門内外は釈然としをいばかりか、更に疑惑と混乱を招くのではをいかと危倶するものである。駄目を押すペく当局の印可を得て公表された水島・尾林両師の論文も全体的に甚だ低調で、久保川師の論文の読み損いや誤認が基となって作文されているようだ。

 とにかく、現在宗門の混迷は、宗旨の根幹たる血脈・本尊論が動揺している事に起因すると考え、今一度、両師の論文をも含めて、明治以降の血脈・本尊についての根本課題を論じてみたい。

 


水島論文について


 水島師は久保川師が指摘された歴史上の相承の断続について 「野干の吠うるごとく、何べん 『断絶した、断絶した』とくり返してみても、絶えていないものは絶えていをい」と強弁され、様々を資料をあげ一往の修復を試みている。しかし、久保川師の論の主眼は歴史上の相承を寸断することに目的があるわけではなく、当家相承の本来あるべき姿・法門からみた相承観を論ずるに目的があり、水島師の反論の大半が断絶の修復になってしまたことは聊さか的をはずし残念な感もする。現今の宗門では、歴史上の相承の断絶を埋めることが唯一の道であれば、それもいた仕方をいのであろうが水島論文には随分と無理な引用や、錯誤が相次いでいる。ここにおける論究の主眼も法門的を血脈相承観を提示するにあり、現象の上で断不断の論を展開するのは意図するところではないが、水島師の論が乱脈を極めているので、まず2、3を把えて歴史的考察をくわえることにする。



@鎮師から院師へ

 水島師は鎮師の行蹟と年齢が明確なのは、御本尊の脇書にある「長享2年、20歳日鎮」だけであるとしているが、もう一つの史料として大過去帳記載の「大永7年6月24日寂、59歳」があげられる。その傍証として家中抄に「大永七丁亥六月二十四日」の識語がみえる。しかし、同抄は行年を71歳としており、大過去帳の59歳と異りをみせている。寂年は共通しているが年齢が違うのである。どちらの年齢が正解かといえば、水島師もいう明確を史料、本尊脇書の「長享2年20歳日鎮」より逆算すれば、大永7年59歳と判明する。つまり大永7年71歳は史実と反しているのである。歴史的を眼をもってすれば家中抄の71歳は何かの誤記と判断し、大過去帳の記載並びに家中抄の寂年月日をとり、「大永7年6月24日寂、59歳」を史実とすべきであり、当然をがら富士年表も法主全書も大過去帳の記載にしたがっている。

 しかし一人水島師は、無理な71歳示寂をとりあげ、「日鎮上人の入滅時が大永七年ということも完全ではない」といい「家中抄の行年71歳説を用いれば寂滅時は天文八年となる」と続け、遂には「日院上人は22歳にして相承を日鎮上人より受けられたと拝すペき」と述べるに至っている。しかし、より確実なものを遠ぎけて、もっとも史実に遠く計算の合わない71歳だけを故意に取り上げて、歴史を築いても、それはただの作り話の域をでないものである。

 その誤った視点から更に、次の資料を解釈して益々深みにはまったようである。水島師は「しかも大永6年に日鎮上人が大石寺の惣衆及び檀那御中あての付弟状が現存している。それによると『仍良王殿之事幼少之御方に御座候。雖然信心御志候て、勢仁(成人)被致候者、当寺之世間仏法共御渡、本末之僧俗共仰可被申候』とあり、良王殿(後の日院上人)は幼少であるが成人された時には当時の世間仏法の全てを渡すゆえに本寺末寺の僧俗はこれを仰ぐべきことを記されている。即ちこの書状どおり日院上人は22歳にして相承を日鎮上人より受けられた」といわれ、付弟状を一つの決め手としている。しかし、史実にすべきは先の論述の通りであり、鎮師は付弟状の翌大永7年には示寂されており、その時院師は10歳にして、はるか成人には及ばない。

 水島師の付弟状解釈によれば、鎮師は院師が成人したら自ら、相承を渡すという。しかし現実には、院師10歳の時に鎮師は示寂されてしまった。この付弟状は何の意味もないものになったのだろうか。水島師の読みは正しいのだろうか。鎮師が院師の成人をまって相承を譲るならば、院師9歳の時に、本末の僧俗にわざわざそれを告げる必要がない様な気がする。ならば、この付弟状はどう読むべきなのであろうか。子細にみれば。

 『当時之世間仏法共御渡、本末之僧俗共仰』の一文は不自然ではなかろうか。これは鎮師自筆の書状であり、鎮師が院師に相承を御渡しすると自ら敬語を使われることなどあるまい。この一文は鎮師が主格になっていないのである。それでは誰か院師に御渡しするのかといえば、無論此の付弟状を戴いた対告衆、つまり大石寺惣衆及び檀那方である。主格が大石寺惣衆及び檀那方ならば、御渡しの語も理解できるし、鎮師がわざわざ付弟状を認めた理由もわかる。院師のその当時の年齢や鎮師の寂年等の歴史的事実も付弟状に照して何等異存はない。その上相承のあり方まで洞察できようというものである。

 久保川論文の史実の把え方は大筋正しく、「年表に依れば、13世日院上人は永正15年(1518)土佐に生れるとあり、12世日鎮上人は大永7年(1527)寂となっているから、此の時に院師は数え10歳である。家中抄に依ると日院上人は『13歳にして富士に登り当家を習学す』云云とあるから、日鎮上人は僅か10歳の、しかも在家の子供に相承したことになり、とても考えられない」誠にその通りで、とても考えられないことは行われず、鎮師よりの相承は一時大石寺惣衆が預ったのである。

 すなわち付弟状は、良王殿が(後の日院上人)幼少であり、只今直ちに相承するわけにはいかない故、大石寺惣衆に留め置く、良王殿が成人したならば、世出共の相承を惣衆から御渡し、以後は全国本末の僧俗ともに従っていきなさい。後日の為に記しおきます。と語っている。鎮師は大永6年にこの付弟状をあらわし、翌7年に示寂されるのであり、それ以後10数年近く惣衆が相承をお守りし、時いたって院師に御渡しした。何処にも相承の断続はなく、何の不都合もない。今流の相承の考え方が如何に愚かであるかをこの付弟状は示唆している。



 A17世日精上人について

 久保川論文の「日精上人は自ら造仏を行い一部読誦をしただけでなく、随宜論を著してその正当性を主張した」との指摘には何等異論をはさむ余地はない。そしてそれは31世因師がいわれるように「精師御所存は当家実義と大相違」であることは論をまたない。それがたとえ一宗を統率する貫主の言動であっても謗法は謗法であるといわざるを得ない。

 しかるを水島師は「日精上人は正式に登座せられた寛永14年以後、日舜上人に法を譲られるまでの9年間はむろんのこと、入滅までの47年間に造像を積極的に推奨されたという資料は全くない」といい、又「登座以前の末寺住職としての頃を指したものであろう」「御登座以前の資料しかない」と盛んに登座以前を強調され、登座以後の謗法はなかったと論を展開している。遂には何もなかったかのように「いわれなき罵詈讒謗でしかない」というに至る。水島師の論の展開は、ある定められた結論に読者を誘導せんが為、あらゆる方策を用いることに終始しており、とても歴史的事実の認証には程遠い。

 水島師の説によれば、精師は寛永9年1月に就師より相承を付属されたと一往記しているものの、正式には寛永14年の登座であるとしている。しかし、この寛永14年は、先に法を付した18世盈師が会津の実成寺へ病の為、退隠されるに及んで、精師が再び復帰され入山された年である。別段「相承を受けてから5年後に御登座されている」わけてもなければ「正式に登座せられた」ものでもない。あえて正式の語を使うのならば、寛永9年法詔寺における16世日就上人よりの相承に付すべきであろう。

 何故、正式という語を用いて事実の曲解が行なわれるのだろうか。それは、水島師も認められる造像読誦の書 「随宜論」が寛永10年に著わされていることから、どうしても正式に登座された年を寛永9年ではなく、同14年にとりたいという師の願望のあらわれなのである。「造像を積極的に推奨されたという資料は全くない」といわれるが、精師は正式に相承を受けたのち「随宜論」を著わし、堀上人のいうように「日精の如きは私権を利用せられる限り末寺に仏像を造立し云云」と、貫主の私権をつかって、力の及ぶ限り宗内に造像を推奨されたのである。しかし水島師の「それら末寺もその後40年も至らずして第22世日俊上人の頃には造仏は全て撤廃されたのである。まさに大石寺の正流が濁らなかったことを感謝すべきである」の言は誠にその通りで、日精上人の謗法をそのまま許さなかった全国本末の僧俗に大いに感謝するところであり、この視点から大保川論文を読めば、師も首肯できること大であると考える。

 また「むしろ御影堂には戒壇の御本尊を安置せられ」といって精師が造像一点張りではないかのように述ベているが、御影堂に戒壇本尊を安置するなどは当家の法門に叶わない異義なのである。本来、宝蔵に秘蔵されるベき戒壇本尊が、敬台院日詔の御影堂建立寄進によって御影堂安置を余儀なくされたとみるベきで、敬台院の権力の強さが仄見えるではないか。日精上人の造像問題は、自らの要法寺教学によるに違いないが、この混乱した時代を解明するには、敬台院日詔の絶大なる権力の背景のもとに精師がいたことを知らなければならない。それは古今に限らず、経済的富裕という世俗的な発展の代償に、次第に大石寺法門の影がうすくなったという歴史の証明でもある。

 水島師は量師の続家中抄の「諸堂を修理造営し、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す勲功莫大なり、頗る中興の祖というベきものか」をひかれ、精師を大石寺の興隆と宗門の振興に多大の功績を残された方と評している。しかし、それはそのまま敬台院日詔の権力の大きさを物語るものに過ぎないのではないだろうか。続けて同抄をみれば、「其の上法詔寺の御建立御法事毎度御用相勤む、然る所日精両寺住持たり、其の後敬台院様の御意に背かれ両寺之れを退出す」とある。法詔寺を兼務し、大石寺の貫主を勤められていた精師も、大檀那の敬台院日詔の御意に背いた為、両寺を退出させられる破目になる。大石寺の貫主も敬台院の前には風の前の塵だったのかもしれない。更に続家中抄は「其の跡法詔寺には日感住持し大石寺無住にて一両年も相過ぎ候由御朱印改め有り、無住の寺ヘ御朱印下され間敷の由に付き、大石寺衆檀敬台院様ヘ御願ひ日舜を指図に依って日感肝人にて当山ヘ入院し江戸へ下り精師に面謁し其の後御朱印頂戴す」と当時の状況を伝えている。精師が敬台院に退去させられてから、大石寺は無住になってしまい、時に将軍の御朱印改めも有り、まさに廃地にされんとする時、大石寺の衆檀は敬台院日詔に後住の事を御願いした。敬台院は、精師のあとに法詔寺の住持にすえた日感と相談し舜師を選びだし「師をして当山に入院せしめ」たという。

 大石寺の貫主を意に背いたといっては退去させ、更には次の貫主を選び出す程の権力をもつ敬台院。そのもとで要法寺教学をもって宗門の総てを変革しようとした精師。精師退出前後の法詔寺日感の役割、19世に敬台院と日感によって推挙された舜師の立場。当時の複雑に屈折した状況が目に浮ぶようでもある。そういえば、精師の兄弟子であり、精師より相承をうけた18世の盈師も、登座後、間もなしに宮谷に講義に行っている。貫主が本寺を離れて、当職の間中什門の檀林ヘ講義ヘ行くなどというのも一つの不思議ではあるまいか。盈師の心中には複雑なものがあったかもしれない。

 こういう状況下で、大檀那の権力や精師の造像に批判、反対し、更には舜師に不満の声をぶつける元からの大石寺僧衆があったことは容易に想像できるし、当然そう見なければ真実の歴史はあらわれない。精師の時などは僧衆ばかりか在家も相俟って貫主に対して不信、迷惑を募らせ、反駁したに違いない。そこに精師が随宜論を著わさねばならない理由があったのである。

 「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲に因って門徒の真俗疑難を致す故朦霧を散せんが為廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」しかし精師の思惑は40年後に挫折をみる。貫主に対して疑難をなした門徒真俗の下からの盛上りが、後に造像を撤廃する原動力となったのである。水島師のように法詔寺日感の書状をあげて、法主の論法を指摘した大衆など何処にもいないなどというのは権力者の側からみた歴史であり、到底真実の歴史とはいえない。抑、水島師が引用された法詔寺日感の書状には「日舜未だ御若年に候間寺檀定て軽々敷思召候はんかと笑止に存じ候、其の故は抑日蓮一宗御書判の趣きを以て一宗を弘め候事、諸寺一同の儀に候得共、別して大石寺事は、金口の相承と申す事候て是の相承を受くる人は学不学によらず生身の釈迦日蓮と(中略) 一山皆貫主の下知に随ひ貫主の座上を踏まざる事悉く信の一字の修行(中略)此の旨を相知り候上は如何様の僧貫主となるとも相承伝受候上は、生身釈迦日蓮たるベき」とあり、先の背景を思い合せて読めば成程と納得いくものである。

 この書状自体、法門を説かれたというより、宗内の混乱や大衆の批判を貫主の権威付けをすることによって制圧しようとする悪しき時代の産物ともいえる。水島師が久保川師をして「こういう人間には信の一字の大事など判るまいし」と述ベ、信の一字の修行が法詔寺日感と同様、貫主を信じるか信じないかに限定されてしまう事は、大石寺法門喪失の時代にきまってあらわれる異流邪説なのではなかろうか。精師がまた「当家甚深之相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かすこと之なく唯貫主一人の外は知る能わざるなり」と自らいわれるのも最近の日顕師の発言と軌を一にしており興味深い。あまり貫主絶対を打出すと精師の時代に次第に相似してくるから不思議である。後述するが、貫主即生身釈迦日蓮というのは勿論当家の教えではない。

 とにかく、本島師に「この日感師の書状を読んで恥しくないのか」と迫られても、一向恥しいとも思えず、かえって久保川師のいう「法主に反対した者が成仏した」という説にうなづけるものがある。水島師自身がいわれるように「いずれが正信かをよくよく考えてみる」しかあるまい。

 筆者は何も好きこのんで宗門700年の歴史の粗捜しをしているわけではない。現在の濁流を富士本来の清流に還す為には、我々は真実の宗門史に目をそむけず直視し、それを教訓にしなければならないのである。宗門史にとって、たしかに精師の時代は暗い時代には違いない。しかし、その暗い時代を無理に明るい時代だと主張するのは虚弱な子供のすることではないか。暗い時代を教訓として、常に現代に生かしてこそはじめてその時代を立派に伝燈の一部に加えることができるのではないかと考えるのである。
      ◇   ◇   ◇
 余談だが、水島師は相承に関して「仏法内証の仏智を伝授するに世間の年齢や体験等とはその次元を異にし」と論じ、会津の白虎隊の例をあげ15,6でも若くないといったり、「ふやけきった昭和元禄の人間像を以って較べようとすることはやめた方がよかろう」と忠告されている。しかし一方では日感の「日舜未だ御若年に候間」をすまして取り上げ、「日舜上人が35歳で御登座されたことを配慮されて」述べられていることに、少々苦笑させられる。南条時光殿が15歳の時に大聖人より賜った御真跡を40歳・50歳の現代人が簡単に読めるであるうか。ともいわれているが、これなどは、アメリカにいってアメリカ人の子供が英語を話すのを見て驚いているのとさ程替らず、混乱も極に達した感がする。

 また水島師は54頁に「久保川氏よ、『次上』なる珍妙な語は日本語にはない」と大段に振りかぎして大見栄をきられているが、これも師の読書範囲が狭いことから起こる悲劇に外ならない。自分の知らないものはこの世のものではないという姿勢は見上げたものだが、大変宜敷くない。「次上なる語」″は、れっきとした日本語であり、当家でも古来より使われている。師がこの方を「どなたと心得る」といわれた日寛上人も随所に使われている故。

 「次上」にあたるまて読書するのも一興であろう。また、水戸黄門ばりに、この方をどなたと心得る式て日寛上人を引き合いに出すのも、あまり良い心掛けとはいえない。寛師自身も喜こばれまい。あげるだけあげて権威でもって恫喝するような論調は、知らぬまに御自分もあがるだけあがっているのであり、今にも虎の威をかりた水島本仏が誕生しそうな勢いではないか。そんなことに精を出すより、まず御法門を道理のうえから立て、平明な文章であらわす訓練をすべきである。御先師を敬して遠ざければ、民衆との距離はいよいよ遠くなるばかりで、思いをよせる場を失なった民衆は、極端な権力仏教にただ苦悩し、平伏すのみではなかろうか。

 

 


 

 

水島・尾林論文の稚説を破す(2)



法水瀉瓶・師弟子の法門について



 最近の風潮として、貫主絶対無謬という説が宗門のいたるところで唱えられている。ある人は正信会諸師に対して「御法主上人猊下の膝下に懺悔滅罪されんことを心から祈る」といい、ある人は日顕上人をして「与等無きを仏と言ふ」「能見・能照・能分別」と讃歎され、ある人は有師の 「当宗の即身成仏の法門は師弟相対して少しも余念無き処を云うなり」の文を取違えて、猊下に絶対服従を強いるのである。のみをらず、猊下御自身も「仏法の大義・本義の上から間違いなし」といわれて、一分の誤ちをもお認めにならない。

 しかし、このようを無謬な絶対者を現世に設ける思想は、当家本来の思想ではなく、法門未熟より起るところの異流義といわねばならをい。これは師弟子の法門、宗旨分と宗教分、還滅門と涜転門の立分けに二重・三重の混乱を来した為に生じたものであり、その思想的土壌は浅薄な明治教学に求めることができよう。

 先号にて述べた通り、水島師も「信の一字の大事」を当代貫主にあてており、貫主信仰もここに極った感がする。これを一言すれば、日蓮が魂は歴代上人を瀉瓶して現貫主に至っており大聖人即ち貫主である、ここで大聖人と貫主の立場は顛倒し、本来大聖人への信仰が、貫主を信ずることこそ大聖人を信ずることであると説かれているのである。

 しかしながら、法水瀉瓶の語は現実に一器の水を一器に移し来たりて現貫主が法水の所持者であるという意味ではない。それは、普通、法水瀉瓶の如くにと使用されるように、大聖人の慈悲が何千年、何万年たっても色も変らず閻浮提に流れ一切衆生を潤すことを示された法門上の比喩である。現実の上で、貫主一人の法水が次の貫主へ移るといえば、何処がきれているとか、何時の器が壊れているとの指摘に抗しきれないことは前章にて述べた。また、理論的にも、その考えでいけば、実際に当職の貫主が次期貫主に法水を瀉瓶して隠尊になれば、隠尊は当然法水をもっていない事になり、何かの折に付属することなど出来る筈もない。隠尊が血脈の不断に備えるというのは矛盾になってしまうのだ。また今度のように法水を遷化の1年3ヵ月も前に瀉瓶してしまった日達上人が空の器のまま当職を勤められていたこともおかしいではないか。

 時折、内相承という言葉が使用されていた様だが、一体、内相承とは何だろう。譬喩していえば、内緒の相承の略なのか、内があれば外相承もあるのか、内証相承と外用相承(後述)ならば理解できるが、これとは意味を違えているし、素朴な疑問はつきないという所である。水島師の所説ばかりではなく、昨今の大日蓮の論調も血脈、法水と喧しいが、いずれも還滅門と流転門の立分け、整理がついておらず、法門の世界と現実の世界に迷惑しているようである。


 無量義経に

「法は譬えば水の能く垢穢を洗うに(中略)皆悉く能く諸有の垢穢を洗うが如く、其の法水も亦復是の如し。能く衆生の諸の煩悩の垢を洗うり」

とあり、法水は一切衆生の煩悩を洗い流し、菩提を顕わすものであるという。当家もまた経の意にのっとり、法水を仏の慈悲と把えている。すをわち、報恩抄の


 「日蓮が慈悲広大をこらば、南無妙法蓮華経は寓年の外未来までもながるべし。の御文を御本尊七箇相承に


 「水の流れ絶へざるは日蓮が慈悲広大の義なり」

と相伝しているのがそれである。当家では「水の流れ絶えざる日蓮の慈悲」を更に大石寺の伽藍に事相として顕わし、近年まで保ってきたのである。つまり戊亥の方より流れ来た水は客殿のところで明星が池になり、更に辰巳に向って一閻浮提に流れ去る、この寂光土の水の流れを法水と称するのである。そこに七箇相承の明星直見の本尊義がある。


「彼の池を見るに不思議なり日蓮が影今の大漫荼なり(中略)日興は浪の上にゆられて見へ給ひつろ処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり、仍つて本尊書写の事一向に日興之を書写し奉る可きこと。」

 客殿の奥深く在します姿形のない日蓮が魂(久遠元初の自受用身)は明星池にうつしてのみ初めて文字とあらわれる。それを日興上人が写しとって一幅の曼荼羅となるのであり、これが本尊書写である。戌亥から辰已に流れる水の流れと、客殿ー明星池ー本尊書写室の配置は今でもかすかながら、大石寺に根跡を留めている。ここにおける本尊書写が絶えざる水の流れにのって一閻浮提に流れ、一切衆生を潤すのであり、本尊書写は慈悲の一分といえる。

 法水が「日蓮が慈悲」であれば、その正体は末法の衆生を救済する大法であり、三秘相即の本尊であることは論を俟たない。そして瀉瓶とは書写に通じる故、法水瀉瓶とはそのまま本尊書写の竟にあたる。これが日興上人に法水瀉瓶の語が冠される所以である。本尊書写が日興上人御一人に許されると同様に、当然法水瀉瓶の語も日興上人御一人に限られる。歴代上人は日興上人の立場で、日興上人の如くに本尊書写されるのであり、つまりそれが法水瀉瓶如くであろ。日顕師は、在勤教師の御伺いに対して「大聖人の御心のままに書写する。師弟の立分けなどない」と力説しているが、それは間違いで日顕師は弟子の立場をよく弁えて、日興上人の如くに書写しなければならないのである。

 このように法水瀉瓶の語は本尊書写に通じ、日興上人の立場(弟子の分域)を明らかにされた法門上の要語である。徒らに外相に出して一器の水を一器に移したとすれば、源はもぬけの殼になり、実体は何も無く、本無今有の謗りを免れないことぐらい解らないのであろうか。そればかりか、開山上人はただ歴代上人の御一人に数えられるにとどまってしまい、法門上の意味は全く消失する。富士門流の意義も甚だ薄れる。開山上人の立場が消えゆくことは弟子分が判然としなくなることだから、師弟子の法門全体が危うくなることであろ。よくよく考えねばならない。

 余処にそれるが、師弟子の混乱が明らかなものに御本尊の賛文がある。在勤教師の「御本尊の賛文の二十余年と三十余年の差異は、師弟子の法門の顕われではないか」との問いに対して、日顕師は語気も荒く「そんな立分けはない。師弟子などといい加減なことをいうな、それはお前の法門か」といわれたが、御本尊七箇相承を子細にみれば、師弟の立分けがあるのは明白ではないか。日興上人の御状にも二千二百三十余年とあり、道師の御伝土代には宗祖伝に二千二百二十余年、開山伝には二千二百三十余年の大曼荼羅と記されている。更に開山伝の記載には「(三十余年と)図し給う御本尊に背く意は罪を無間に開く云云」とあり、丁寧に「図し」と道師がルビをふられていろ。寛師も二十余年と三十余年に相伝ありといわれている。日顕師も以前、立正大学宮崎英修氏を論難する時、二十余年と三十余年に関し「これらの区別も立分けもなく、滅茶滅茶に切り文を寄せ集めて、批難するのが、宮崎氏の病である。二十余年も三十余年もさながら蛙の鳴くごとく、意味も判らずに喚きたてる愚かさは、これでも学に志す人間かと疑われる」といわれている。先の在勤教師への発言とを考え合わせれば、立分けがあるのかないのか言を左右にしておられるので、納得のいかないところである。日顕師に何らかの立分けがあるのならば「意味も判らず喚きたてる」と人にいう前に御教示を願いたいものである。

 ともあれ、現在日顕師が宗開両祖の弟子分たることを忘失し、「法主に背いてあげる題目には功徳がない」などといって大聖人気取りでいることは師弟子の法門を立てる当家にとって、実に嘆かわしいことである。そればかりか周囲まで、師弟子の法門に迷惑して現在の貫主を絶対の師とするとは一体どういうことであろう。水島師に至っては久保川師の「我々の真実絶対の師は大聖人以外にない」との発言を取りあげて、堕地獄の因であるとまでいわれている。水島師は大聖人以外に真実絶対の師を一体何処に求めているのだろうか。我々にとって真実絶対の師は大聖大に決っているではないか。それとも水島師は日顕師に真実絶対の師を立てるとでもいうのであろうか。目を覆いたくなる顛倒に、驚天動地の思いである。

 惟うに、水島師は師弟子の法門を貫主と大衆とに限定し、現象世界に固定化してしまっだ様だが、当流深秘の法門が、そんな簡単な構成になっていると真剣に考えているのだろうか。師弟子といっても、日蓮・日興の師弟子もあれば、宗祖・開山に対する目師の師弟、宗開三祖の三祖一体と道師以下の師弟等、様々な師弟があるのである。しかも、その何れもが法門の上で戒壇の御本尊を詮顕する為の師弟子であり、まちがっても法門からはずれて、現象世界で師弟を把えるものではない。第一段階に混乱すればこそ、水島説は、現代では日顕師絶対の貫主信仰に陥ち入り、上代では「跡目相続の選挙を行って、果して日興上人が当選すると思っているのだろうか」などとおかしなことをいう破目になるのである。大体、跡目相続などという生々しい言葉は、もとより法門とは縁もゆかりもない。師弟子の法門が誤って外相にでれば、熾烈な権力争いになる事を水島師自身が証明しているのである。なる程、久保川師の言葉の一々を野心からおこるものとする考えは、自らの権力志向的な意識の反映なのかもしれない。

 勿論、当家は外相にでて流転の世界に師弟を立てるものではない。故に日蓮・日興・日目といっても、俗身をもった歴史上の人物をそのまま指すものとは限らず、法門をあらわす上の要語である場合がある。当然、その時は還滅門の所談である。流転・還滅を簡単に説明すれば、涅槃経に

                 流 転門  →  還滅門
 「諸行無常・是生滅法・生滅々已・寂滅為楽」との文があるように、世の中の現象は何一つ常住なものはなく、生死輪廻する生滅の法であり、すなわちこれを流転門というのである。しかし真実の楽(成道)は、生死流転する世界にはなく、生滅の法が更に滅し已った寂滅の世界に求めるぺきであり、これを還滅門というのである。
 たとえば、日蓮・日興の師弟といっても、流転門・還滅門の二様があるのであり、還滅門の日蓮・日興は法門の上で、当家宗旨の根本である久遠名字の妙法の体を明かされる師弟である。故に当家では、古来より師弟一箇の妙法と相伝せられているのであり、妙法といえば必ず師弟相寄って、はじめて成就するものなのである。有師の仰せに


「上行菩薩の御後身・日蓮大士は九界の頂上たる本果の仏界と顕われ、無辺行菩薩の再誕・日興は本因妙の九界と顕われ畢りぬ、(中略)師弟相対して受持斯経の化儀、信心の処を表したまふなり、十界事広しと云へども日蓮日興の師弟を以って結帰するなり。」

とあるのも、還滅門の所談であり、当家における妙法が法門の上で、日蓮日興の名をもって師弟一箇と決定される旨を説かれているのである。そして仏界・九界真実の
十界互具をもって妙法とし、その妙法が昇華して本尊と顕われるのである。

 当然のことながら、この師弟、仏界九界は、師(仏界)が上位、弟子(九界)が下位と固定化されたものではなく、無差別の中に仮りに差別が設けられた師弟であることに注意しなければならない。無差別の中で互いに師弟が入れ替って修行する。師の智は弟子を境となし、弟子の智は師を境となし、互いに切瑳琢磨して師弟一箇を成ずる時、それを久遠名字の妙法というのである。故に寛師は、六巻抄に伝教の

 

「仏界の智は九界を境となし、九界の智は仏界を境と為す、境智互に冥薫し凡聖常恒なり」

 の文を引かれ無差別の師弟の上に久遠名字の妙法を建立されている。当家では、この根本の師弟を把えて日蓮・日興と称したのであり当然文底の所談であれば還滅門に立つものであり、これを俗身をもった流転門の日蓮・日興と混同してはならない。

 久遠名字の妙法をあらわす日蓮・日興を第一の師弟とすれば、次にこの宗開両祖を師分にして、三祖目師が弟子分となって相向う第二の師弟があらわれる。すなわち目師の立場は、法門の上での衆生の登場をあらわし、日蓮(智父・日)、日興(境母・月)の間に生ずる師弟不二、境智冥合の一子であり、旧・月・星辰相寄って明星と現ずるのである。そこのところを有師は


「仰ニ云グ開経二云ク、諸仏ノ国王卜此ノ経ノ夫人卜和合シテ菩薩ノ子ヲ生ムト云ヘリ、諸仏ノ国王卜ハ高祖日蓮聖人ナリ、此ノ経ノ夫人卜ハ日興上人也、菩薩ノ子卜ハ日目上人是レナリ、サレハ当門徒ノ信ハ此ノ心得一大事也」

   といわれて、日蓮・日興のもと菩薩の子三祖目師が誕生して、当流の法門の綱格がなることを明かされている。
日興跡条々事に


「右日目は十五歳日興に値いて法華を信じてより以来七十三歳の老体に至る。敢えて違失の儀なし、十七歳日蓮聖人の所に詣で甲州身延山御存生七年の間常随給仕し」

と示されているのも、日蓮・日興を共に師とする目師の弟子分を明かされており、目師の登場によってはじめて当家の師弟子の法門が成立することがわかる。更に十四世主師に、日興跡条々事示書があり、それによれば、


「末法日蓮・日興・日目血脈付属全体不色替其僅なり。ー中略−当寺一紙三ヶ条(日興跡条々事)付属遺状文證寿量品儀なり」

 と記されており、この跡条々事は、法華経でいえば寿量品に相当して、師弟一箇の本尊を顕わす為の文證のようなものだといわれている。そして、その師弟一箇の本尊とは日蓮・日興・日目三祖の血脈付属の全体であると示されているようである。すなわち、宗開両祖を師とする弟子目師があらわれて再び師弟一箇を成じ、三祖一体となってはじめて当家の本尊といえる。故に主師は譲座本尊の示し書にも、右に「日興御判客殿御隠居」左に「日目授与之嫡子分嫡本座と記しており、中央首題の南無妙法蓮華経日蓮在御判と合っして三祖一体の本尊義をあらわされている。かくの如く、目師の出現によって三身が初めて整い、当家の本尊、師弟子の法門の構成がなされているのである。

 故に当家では、法門を構成する宗開三を、古来より三祖と称し、四世道師以下の歴代上人を世・代と呼称し、法門と現実の世界を明確に立て分けている。世・代は法門を現実世界で世々代々に亘って守り貫いていく意で、流転門をあらわしている。つまり三祖は、還滅門にて一即三と開し、三一即一と合っして、一におさまり、法主は一人であることをあらわし、歴代上人は四世より次第して五、六、七と数を追う流転門の世界であれば、貫主は六十六人を数えても可なのである。当然、法の主が六十何人も出現するなどという馬鹿げた話は許されない。その意味でも、歴代上人は法主ではなく、貫主と称するのが正当であろう。
 ここに三祖を師分とし、歴代貫主以下の大衆を弟子分とする三番目の師弟が生ずるのである。十三世院師が要法寺日辰御報に


「仰せに云く、諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ずと――中略――所詮、三聖の御内證違背無き様に善巧方便あらん者か。」

 と仰せになり、先の有師の日蓮智父・日興境母・三祖菩薩の子を引かれて三聖の内證といわれ、院師自らはその内證(師分)に違背せず行ずる弟子の立場を堅持されていることは、師弟子の法門からみて至極当然のことといわねばならない。因みに、この日辰御報は天文法乱で山門により洛外へ追放された要法寺日辰が、周囲の情勢の中で法門を改竄して再び洛中に教線を張り、その余勢を駆って大石寺をも傘下に入れんとした時の院師の返答である。三聖の内證にはずれて外へ向けられた折伏は、外見は折伏にみえても、かえってそれは摂受の行ではないか、宗旨分をよく弁えた上で、宗教分を展開しなさい、「三聖の御内證、違背無き様に善巧方便あらん者か」と、かなり高所・大所より院師が日辰の愚行を誡責している。

 更に同報の


「縦ひ此の如く、山林に斗薮し萬人に対せずとも義理に違背之れ無くんば折伏の題目と成り、普く諸人に対する談義なれども、廣の修行は摂受の行相となるべきか、是則ち大聖の仰せ云々」

 との御文は、富士門流の厳格な姿を教示されており、現今の我が宗門の行末まで案じられているようでもある。はたして学会流の折伏が、大聖の仰せに叶っていたか、現在の学会を擁護する宗務院が、義理に違背のない折伏の題目になっているか、再考の必要があろう。我々は現在の混迷を、ただ目先でとらえるのではなく、法門的な源点に遡って明らかにしなければならない。現状を皮相的にみて、問題の核心を忽せにしてしまえば、真実の安穏は永遠におとずれないであろう。

 却説、いま一度師弟子の法門を整理すれば、日蓮・日興の師弟は無差別の中で互為主伴して久遠名字の妙法を成就する根本の師弟である。次に、その宗開両祖の師弟をまとめて師分とした時、目師が法門の上での衆生、弟子分とあらわれ、ここに宗祖(日)(開山(月)、目師(星辰)が一体となって明星を現じる、この三祖の内諾こそ、当家の血脈・本尊の内容を示す師弟子の法門である。この法門の上に建立された三祖の内証を師分として、道師以下歴代上人及び自余の大衆全体が弟子となって、師弟一箇を成ずる時、大石寺法門としての戒壇本尊がはじめて誕生するのである。これは、ちょうど丑寅勤行の姿そのものであり、流転還滅同時のところでもある。これを指して事を事に行ずるというのである。現在は流転 ・還滅ただ入り乱れて、開山上人を飛び越して宗祖になりかわったり、四祖日道上人といったり、現実の世で無謬の仏様を演じたり、師弟子の法門の混乱ここに極れりといった様相を呈している。

 水島師も師弟子の法門を頭に入れて、佐渡国法華講衆御返事を拝読すれば、日顕師を絶対の師にするような邪義に陥らずにすんだのではないかと思う。同消息に


「すゑのでしどもが、たれはしやう人のぢきの御でしと申やからおほく候。これらの人々はうぼうにて候也。」

 とあるように、当家では直の御弟子は日興上人しかいないのであり、歴代上人は、開山上人の弟子にあたる。歴代の貫主がいきなり日興上人になりかわって直の御弟子ということを誠められている。故に歴代貫主の申状には


 「日蓮聖人弟子日興遺弟日道誠惶誠恐謹言」 

 
 「日蓮聖人弟子日興遺弟等謹言上」


 「日蓮聖人弟子日興遺弟日有誠惶誠恐謹言」

 とあって、歴代の貫主は日興上人の弟子分たることを明確に示されている。ここに富士門流の意義も鮮明になり、師弟子の法門の一端をも伺うことができる。歴代の貫主が、日興上人を飛び越すことは、法門の領域を侵す下剋 上であり、そこには必ず流転門、還滅門の混乱が介在し ている。混乱を整理して、同消息を法門的に解釈すれば、「し でしをただす」「しでしだにもちがい候へば」等の御文は、 貫主と大衆が宗開両祖の内証に叶うよう師弟子をただし て、つまり互為主伴して妙法を成就しなさいと読めるの である。
 当家に伝わる相伝書や様々な切紙は、見事に師弟子の 法門を今日に伝えている。それが真底理解できないのは、 ただ我々の学問修行がたりない故であるから、一層精進 しなければなるまい。わからないことを棚上げして上代 の法門が消え去っていくことは、甚だ御先師に申訳けな いことである。有師が


「若シモ世ノ末ニナラハ高祖ノ御時之事、仏法世間トモニ相違スル事モヤアラントテ日時上人ノ御時四帖見聞卜申ス抄ヲ書キ置キ給フ間我カ申ス事私ニアラス、上代ノ事ヲ不違申候。他門徒ノ趣ハ代々ノ意楽意楽ニ各々ニ建立候間上代ノ事ヲ御存知キク候間一向細工事ニ成り行キ候卜云云」


  と云われているように、当家の宗旨は「代々の意楽意楽 に各々に建立」されるものではない。時の貫主が、その 都度絶対者になるならば、意楽に法門の建立がなされる ことを免れえないであろうし、それはかえって他門下の 好むところなのである。ましてや「私に逆う者は非法の 衆だ」といって法になりかわってしまえば、すでにそれ は邪教の部類に入る。やはり、当家の貫主は「上代ノ事」 を違えずに伝える立場に徹し、三聖の内証を大衆と共に 守り貫く弟子分の立場にあってほしいものだ。

 


 

 

 

 

 

水島・尾林論文の稚説を破す(3)

 

 

法体・法門相承及び二箇相承



  水島論文については、これまでに歴史的相承の断続、次いで法水瀉瓶と師弟子の法門と、順を追って筆を進めてきたが、ここでは法体相承と法門相承を取り上げて一往の小結としたい。

 水島師の論が乱脈を極めていることは、今まで縷々指摘してきた通りだが、それらの誤謬の大筋は流転門・還滅門の混乱につきるといえる。還滅門に立てるべき法門を流転門に立て、それをそのまま現実生活にスライドさせてしまい、自らはその混乱にさえ気付かずにいるようである。  

  現今、法主と貫主の立分けができていないのも、その類である。前章にて説明した通り当家で法主といえば、三聖(三祖)の内讃即ち大聖人と心得るのであり、これはそのまま三秘所持の人として上行菩薩に通じるものであり、一宗を遥かに越え一閻浮提に無限の慈悲を流す、つまり時空を越えた存在が法主である。それに対して貫主は時空の制約の中で(つまり流転門) 一宗の統率者として法を守り貫く立場である。

 すなわち現在は、流転門の貫主が還滅門の所談であるべき法主をも名乗ってしまい、現実生活に根をおろしてしまったのである。近世まで貫主(もしくは貫首)の名称が使用されていたが、明治に入って宗教法人法の設立の際などに貫主の名称は消え、法主がかわりに使われるようになり、次第に還滅門が侵されるようになった。なかには、貫主とは管長職のことで、当宗では法主と管長は同一人物が併行して司るものと主張する人がいる。しかし、周知の通り管長職などというものは、上代は勿論、江戸・明治初期にもなく、近々に出来たものであり、信仰以外の世間法に准じて生れたものであるから、当然古来よりの貫主と立分けがなされなければならない。立分けが明確になされた上で、この貫主と管長の役割を同一人が為すことは、おなじ流転のご所談である故、可能なことなのである。これを一足飛びに、管長と貫主は同じことで、それが法主も兼るとなるならば、仏法に世間法を混じた上、更に流転・還滅に迷うという二重の混乱がそこにはみえる。今試みに、法主・貫主・管長の三者の関係を図示すれば、

 一見しておわかりのように、貫主と管長は仏法・世法の相違があるものの、ともに現身をもった流転の所談であるから、一平面上に論ずることも出来る。しかし法主と貫主は、流転門と還滅門の時節が定められており、切換えもなしに一平面上に法主と貫主を論ずるような混乱は許されない。わかりやすくいえば、現実に生きている或る特定の人を指して法主ということは、すでに流転・還滅の混乱であり、本来ありうべからざることが現在なされているのである。ましてや法主と管長ということになれば、距離がありすぎて、何とも始末におえない感がする。我々はまず仏法と世法の立分けを明確にし、更に仏法に入っては、流転、還滅の混乱に陥らないようにしなければならない。

 当家の相承を考える時も、物品の授受のような、世俗の遺産相続的考えをまず排除し、更に貫主の面に立つ相承と、法主の面に立つ相承、つまり、流転・還滅の相違を頭に入れて考え始めなければならない。例えば、身延・池上の二箇相承、今師と金口、受持と知識、別付と惣付、法体と法門等は、いずれも、流転・還滅、在世・滅後の立
分けを見ることができる。

 水島師は、法体・法門相承を解釈して、「何べんもいうが、唯授一人の血脈相承は別付属法体
相承であり、久保川氏のいう偏った『根本教義』は総付属法門相承のことであり、これを混同することは云
 云」「血脈相承の法水とは法体相承であり、法義とは法門相承である」と述べられ、法体別付・法門総付と分けてはいるものの、流転門という同一平面の上で論じられており、いずれも貫主の所持とされているようだ。特に「別付属法体相承は断絶せずして紹継せられ」ているといわれ、「久保川氏のいう偏った『根本教義』は総付属法門相承のこと」
と区別されている事を考え合せれば、久保川師の指摘された相承の断絶は法門相承の分野で、そちらは断絶もあるかもしれないが、法体相承に関しては断絶していないとの主張とも見受けられる。しかし、法体別付・法門総付のいずれをも流転門で考え、歴史の俎上にのせてしまえば、水島師の主張は例によって、自己矛盾に陥いることになる。法体別付・法門総付の二は同一平面で考えられるものではなく、流転・還滅の時の切換え、立分けが必要なのである。

 法体別付を還滅門、法門総付を流転門と考えた時、なる程、貫主から貫主への流転門はとぎれても、信の上に建立する還滅門の血脈は切れていないといえる。総別の二義といっても、双方ともに流転門の貫主に集中するということは、丁度、地下にあるべき文底の法門が地上にさらされて、大事の法門が失なわれることを意味するのではあるまいか。

 また総別を、別付属は貫主一人へ、総付属は大衆をも含む相承とする説があるが、これは総別を共に流転門で考えた上に、更に総別を逆さまに取り違えている。本来総付属は、流転門の世界を取り纏めて一人(貫主)に集約するとの意味で、貫主から貫主への相承を示している。別付属は特別というような意味ではなく、時節を換えて還滅門に立ち、一切衆生(貫主も含まれる)の内証に流れる血脈を指しているのである。

 当家に於いても、貫主から貫主への相承(総付属)を大切にするが、それは、根幹になる内鐙の法体付属(別付属)を確認した上で、推功有在した形でいわれるものであり、本番は勿論、還滅門の法体付属にある。即ち法体別付の相承とは、誰から誰へと順次に流れる姿形のある相承ではなく、一切衆生の内証に流れる法体そのものの相承でおり、信の上に覚知建立するものである。つまり別付とは内鐙をあらわし、有師はこの血脈を、


「信卜云ヒ血脈卜云と、法水卜云事ハ同シ事也。」(富要@−六四)

 といわれている。又、十四世の主師は日興跡条々事示書に、


「富士四ケ寺の中二三ケ寺者遺状ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付嘱分ナリ・大石寺者御本尊以テ遺状被成候。是則別付嘱唯誰一人意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、従興師正應之御本尊法體御付嘱」(歴代法主全書@−四五九)

 といわれているが、これも総付属と別付属の相違を明らかにされている。

 他の富士系の門下では、付属状や切り紙等の遺状を代々の貫主が相伝されているが、これは惣付属分といえる。大石寺においても、同様に歴代を通じて総付属分の相承もなされているが、当家の根本になる血脈相承は、戒壇本尊・譲座本尊の師弟一箇の本尊をもって法体別付の血脈とするものであり、その師弟一箇の本尊が衆生の己心に信の一字をもって建立された時を唯授一人というのである。この法体別付の相承は還滅門の所談であって、当然己心内鐙に成り立つもので、本尊といってもすでに特定の板や紙を指すのではなく、戒壇本尊・譲座本尊も、現実に安置された板曼荼羅は三聖の内諾を仮りに事相に顕わされたと拝すぺきである。詮ずるところ戒壇の本尊といえば、すでに滅後己心に顕わされるものであり、「客殿の奥深くまします」戒壇の本尊という相伝は、客殿の内奥、すなわち本来は内にあって姿形のないものをあらわされているのである。しかし現実には、客殿の中に御宝蔵を建てるのは無理なので一往客殿のすぐ裏に建立されているのである。故に近代まで、客殿では読経唱題といっても直接板曼荼羅を拝することなく、僧も俗も周囲から中央の鏡板に向いあうような座配になっていたのである。こう考えれば、丑寅勤行の際に必ず御宝蔵の戒壇本尊を遥拝する意義も鮮明になる。

 かくの如く、戒壇の本尊と譲座本尊は大変密接な関係にあるが、今の様に遥か彼方に戒壇本尊が外相を以って安置されてしまえば、己心内諾の法門といっても何やらピンと来ないのも至極当然なのかもしれない。古来より事相をみて内諾を探るべく御先師が相伝されたものを、現在は事相から内諾が大変解りずらいばかりか、事相を指して内諾だと強弁している。本尊も、宗祖が観心の本尊といわれているにもかかわらず、事相にあらわれたものに執着して、これこそ内諾だと騒いでいるのである。
 委しくは後述することになるが、戒壇本尊・譲座本尊・万年救護本尊は、それぞれ宝蔵・客殿・御堂にあって、その安置の方法や形式、また伽藍の配置によって内證を感得できるようになっていたのであり、徒らに偶像崇拝のみの材料にしてはならない。また本尊を唯物化し、歴代貫主の所持品として把えて、法体別付・法門総付共に日顕師に相承されているではないかという人がいるが、それは、仏法における宗旨・宗教のいずれからも離れた、世俗の遺産相続の話をしているのであり、それは管長としての権限の発揮であるから、信仰とは何ら関係がない。

 さて、今まで法門総付と法体別付の相承について述ベてきたが、要約すれば、法門総付は貫主から貫主へ相承され、法体の内容を明らかにする手掛りのようなものであり、流転門の所談であるから、700年の宗門史のなかには退廃したり、断絶するような事もあった。しかし、それは同時に、その都度貫主及び大衆が復興に全力を尽した700年ともいえる。

 法体別付は、「日蓮が慈悲」「法水」とあらわされたり、御本尊をもって相承とするといわれたように、宗祖の


「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は萬年の外未来までもながるベし」(全集329)

 との御意のままに、切れることのない内証の血脈相承である。一閻浮提総与、即ち一切衆生に具わっている久遠名字の妙法を指し、この妙法を信の上で覚知建立する時、血脈が流れるというのである。日寛上人が六巻抄に、


「種子を覚知するを作仏と名くるなり」(聖典815

といわれたのもこれであり、当然還滅門の所談である。

 かくのごとく相承は、流転還滅の立分けが明確にされなければならない。当家にいわれる相承を一往立分けて左に列記すれば、

 

とすることができる。惣別、法門法体については既述の通りである。

 受持・知識相承は百六箇抄にみえるところである。当家における受持とは、受持正行、受持即観心といわれる如く、内證己心の信の一字であり、それが衆生の己心のうえに建立されれば、それぞれ唯授一人の血脈といえる。知識相承とは、文字通り受持の正体とは何んぞやを教える知識であり、本因妙抄・百六箇抄その他の切紙、相伝等はすベて知識相承に入り、古来貫主より貫主へ伝えられたものである。


 金口・今師の相承は、十三世院師の日辰御報に


「師(今師)口(金口)の両相承、三箇の秘法胸にあて、四聖涌現の刻を相待つ者なり」(歴代法主全書@
−451)

 と見える。もともとこの相承は台家でよくいわれ、当家ではあまり数をみないが、やはり内容は、傅法次第を順次にみて流転門に相承をたてる金口相承と、逆次にみて還滅門にたてる今師相承の二様である。妙楽は、金口相承は前より後に向い、今師相承は後より前に向うと弘決に記しており、順逆の相違は、そのまま在世順縁流転門即ち外用、滅後逆縁還滅門即ち内諾をあらわしている。

 身延・池二の二箇相承にも同じく流転・還滅の立分けがあり、釈尊五十年の説教を流転門、日蓮一期弘法を還滅門とみることができる。

 この二箇相承は古来真蹟を紛失しており、写本をもって伝承されている。その写本に左京日教の類聚翰集私所
収のものと、要法寺日辰の書写にかかるものがあるが、二者の伝承は根本的な所に差異を見せており、甚だ興味深い。何故ならば、その根本的な差異のどちらをとるかによって、要法寺教学になるか、当家法門になるかの岐路にたたされているからである。全文は差控るが、記述の経過に従って両本の相違点を挙げれば、

 

となる。
 日辰本は、九月に日蓮一期の弘法を承けられ、寂滅時に釈尊五十年の説法を相承されているが、日教本は九月に釈尊五十年の説教、十月に日蓮一期の弘法となっている。釈尊の教えを文二教相と簡んで、文底観心の法門を立てる当家が、はじめに日蓮一期の弘法を承けてしまい、寂滅時に教相文上の釈尊の教えを相承されたなどとは文底家として承服できない。九月に日蓮一期弘法、十月に釈尊五十年説法というのは、釈尊を珍重する日辰の要法寺教学のあらわれであり、左京日教の説が富士門流古来のものであろう。日辰本の釈尊五十年の説法が、日教本では説教とされているのも、仏教(釈尊)と仏法(日蓮)、教法の相違がそのまま要法寺と当家の違いを顕わしている。内容からみても、釈尊五十年云云には久遠寺の別当職を譲られており、貫主としての流転門が示されている。故に日教本には「血脈次第日蓮日興」と、こちらに順序次第をかかげている。「日蓮一期弘法には血脈次第がなく日蓮在御判とあり、日蓮体具をあらわすか」しかし、日辰はこれも逆さまにしており、日蓮一期の弘法に「血脈次第日蓮日興」と順次流転をあらわし、釈尊五十年説法に「日蓮花押」を用いている。

 かくの如く二箇相承を拝する時、教相文上と観心文底、及び、流転・還滅の立分けがあることがわかる。その意味を鮮明にする為にも日辰本を捨てて、日教本をとらなくてはならない。釈尊五十年を主、日蓮一期を従とする要法寺の読みをそのまま当家が使用すれば法門が混乱することは、現状をみて一目瞭然である。

 当家は、まず釈尊の教え(流転門)をうけてその形骸を捨て去った文底に日蓮一期の弘法(還滅門)すなわち久遠名字の妙法をみるのであり、二箇相承は流転から還滅への切換えを教えているのである。日興上人が一度承けられた久遠寺の別当職を降りて、大石寺を開山するのも、当家が流転をとめて、還滅に立ち、外相を捨てて己心内證に法を建てる所以ではあるまいか。

 ともかく、水島師のように法体・法門も、二箇相承も、何から何まで日顕上人、日顕上人では、取り付くしまもなければ、真面目な教義論争など望むべくもない。


「名聞名利は世事なり、仏法は自他の情執の尽きたるところ」(富要@−61

とは有師の仰せ、様々な現世の桎梏から離れて、法門は研鑽すべきでありましよう。

 

 


 

 

水島・尾林論文の稚説を破す(4)

 


 
尾林論文の破折にあたって



 本誌連載の拙文に対してか、最近『宗旨』『宗教』や 『流転』『還滅』という立分けは当家にはないと力説する人がいる。しかし、それは強引に過ぎる主張ではないだろうか。

 当家の法門はといえば、宗旨の三箇・宗教の五箇と答えるように、まずもって宗旨と宗教の相違を習わなくてはならない。日寛上人は六巻抄に(六巻抄――学林版P252)

「宗旨の三箇経文に分明なり、宗教の五箇の證文如何。(中略)答う、今略して要を取り應に其の相を示すべし、此の五義を以って宜しく三箇を弘むべし云云」

といわれている。即ち、宗旨とは三秘・法体に関する所談であり、宗教とは三秘を弘むる為の所談であるとされている。

 因みに、六巻抄は全体を通じて宗旨を明らめる法門書になっており、事の一念三千より三秘相即の本尊が詮顕されるまでを説かれている。故に、三重秘伝抄冒頭の開目抄の一念三千文底秘沈の文は、六巻全体に通じるものであり、それが当家の三秘相即の本尊とあらわれるのは第五当流行事抄、第六当家三衣抄までまたねばならない。日蓮正宗要義では六巻抄を第一より教判論・宗旨論・開合論・破折論・行法論・資具論等と各々配当しているが、全くのナンセンスであり、第六の「資具論」などは甚しい錯誤といわねばならない。また第二の「宗旨論」も見当違いである。むしろ、文底秘沈抄は六巻を通してみる時、六巻抄の初門、前段ともいえるべきものである。所謂、三秘は並べてあるものの、それらは相即の三秘ではなく、定戒慧と次第するところの各別の三秘であり、名目を掲げたに過ぎない。第三依義判文抄を戒として、第四を定、第五を慧となし、戒定慧と次第して、いよいよ三秘相即の本尊が説かれるのである。

 それはともかく、宗旨・宗教の立分けは、先の寛師の御文の如く、宗旨分が根本であり、宗教分が枝葉であることは論をまたない。その宗旨に関する血脈とは何ぞや、本尊とは何ぞやの論旨に対して、「創価学会の折伏でこんなに本尊が弘まったではないか」と全く頓珍漢な応待をしているのが現在の宗門であり、ここに宗旨・宗教の混乱が端的にあらわれている。尾林師も論文に 「末法万年に『絶えざらしめん』と建立せられた御本尊である。『絶えるはずがない』と確信し、なお『絶やしてはならない』と守護する事が我々の信心でなければならない」といわれているが、いまだよく問題の本質がのみ込めていないようである。また論文中に、受持即観心の語もみられるが、その受持が「本尊を持っているものに基本的に論法はない」という説や、本尊流布という言葉があらわす学会流受持とほとんど同意であり、寛師のいわれる受持即観心とは全く次元が違っている。尾林師自身は宗旨上の要語をつかって「宗旨の根本」を論じているつもりなのであろうが、内容がすっかり宗教分に入れ替ってしまっているのである。

 これらは正確にいえば、宗旨宗教の混乱というより宗教分が宗旨分を偽って登場し、いつしか宗旨分が消滅したのであるから、既に仏法の埓外にでてしまったといえる。何故なら、宗旨分とは宗教分の裏付けであり、宗旨分のない宗教などはありえないからである。宗旨分は裏付けというぐらいだから、本来面には出て来ない。文上に対する文底、脱に対しての種のようなもので、当家深秘の法門には悉く宗旨宗教の立分けが存する。

 本来は面にでない裏付け(宗旨分)の論義の際に、肉眼に写らないものを信じるのは事行ではなく、理の法門で観念論であると尾林師は反駁されているようだが、果してそれがまともな論理といえるであろうか。少なくとも寛師は尾林説を否定されている。

 今、宗旨と宗教を簡略に説明すれば、一本の木の地下の根茎と地上の枝葉に讐えることが出来る。

地下と地上合っして一本の木であり、一つの法門であるが、根本になるのは文字通り、地下の根茎の部分である。地上にでた枝葉はたしかに我が凡眼を楽しませてくれるが、それも実は地中深い凡眼に見えない根茎あっての話しであり、枝葉のない根はまだ考えられても、根のない枝葉などあり得ない。

 もっとも我慢偏執の人は、根は土を堀りおこせば肉眼に触れる、やはり根は凡眼に写るのだから、その讐えは当らないと反論するかもしれない。しかし宗祖が御書に
  「根露れぬれば枝かれ、源乾けば流れ謁く」


  「根深ければ枝しげし、源遠ければ流れながし」
            (曽谷入道等許御書・報恩抄)


と仰せのように、根を露わにすることは、枝を忽ちに枯すことであり、それはそのまま、仏法の消滅を意味する。根は地下にあって眼に触れ得ないからこそ根であり、地上にでて干されてしまえば既に根とはいえない。根に非ず、枝葉にも非ず、つまり宗旨宗教のどちらとも呼称できない佛法の外にでたものである。

 現状は更に重症で、地下の世界を信じられず、眼に見える地上の枝葉の世界をもって全体と錯覚している。これは説明の余地のない程、見事に世俗の流転にまで陥ち入ったといえる。即ち、流転還滅も地上の枝葉と地下の根茎にあてはめられる。

 地上の流転門は、その都度結果を追って果実を求め、地下の還滅門は、眼には見えないもののその果実を生みだす因の役割をしている。譬えは一本の木と少し違うが、頂度寛師が種脱の相違を米とモミをもって講義した如くである。云わく「研究教学書13巻観心本尊抄聞記」
  

「米如去年米今年直種スル也。如何、答同米也云白米喰也。末法人モミママ種スル也。故集解云ヌカ除実相米顕云是・在世意也。在世白米マイテ米ナルヘキ耶、皆クサル也J

 種と脱は法体において替らないとの疑難に対して、白米は流転門の脱・果として現実に人の食すものとなるが、しかし、種・因とはならない。そして実際には人の口に入らないアリノママのモミが種となるから、種・脱の法体そのものが異なると破折されている。つまり同じ米であっても、流転門の白米と還滅門のモミの混同を許されていない。

 同じように地上(流転門)と地下(還滅門)は合せて同じ一本の木には違いないが、「地上と地下の立分けはない」といえば法門は成り立だない。ましてや「凡眼にみえない地下の根茎などない」といえば、当家一流の宗旨・還滅・己心内證という世界をすべて自ら放棄したことになり、あわせて種脱の法門をも危うくしているのである。

 一体に「凡眼に写らない」ものは信じられないという発想自体、種脱を論じたり仏教を論じたりする遥か以前の幼稚なはなしであり、それは素朴な世間主義、快楽主義を基いにした外道の論義と指摘することが出来る。よく快楽主義は学会の専売の如く宗門内外より批判されているが、その思想的根拠は誤った本尊観にあるのではないかと考える。富士門流本来の真の本尊観を妄失してしまえば


「従使発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶お多し」 (弘決)


「此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱れば祈りとして叶わざるなく」 (本尊抄文段)

との妙楽や寛師の有難い御文も還って災いを生むことになろう。論よりは証拠で、創価学会という巨大な欲望集団を生ぜせしめる結果になったではないか。

 現在論義している様々な問題の多くも、皮相的に創価学会の社会的責任を追求するだけではなく、その根幹には、現在の本尊観に法門的欠陥が胚胎していたことを確認する必要がありはしないだろうか。何故ならば、一連の社会的問題は、順縁広布、化儀の折伏に代表されるような創価学会の誤った広宣流布観がもたらしたものであれば、それは本尊流布をたどって遂に根本の本尊観が問われるのは必然の帰結だからである。そして当家の本尊に、より通達している筈の出家の責任は、当然信徒より重いといわねばならない。

 さて、尾林師は「本門戒壇の御本尊に具足する広大無辺の功徳と。妙法不可思議の力用」を冒涜してはならなくいといわれているが、誰れが戒壇の御本尊を冒涜しているのだろうか。誰れも冒涜などしていないのである。当家の本尊のあるべきようを論じている人に「本尊を拝めば功徳がある」と説教されるのは、ただ道理にはずれているだけである。誤解を恐れずにいえば、今真面目に研鑽されるべきは、戒壇の御本尊とは何ぞやということではないだろうか。

 尾林師の説は、戒壇の本尊は眼に見える、自受用身は眼に見えない。眼に見えないものは理の上の法相だから、これを拝むことは出来ない、それよりも何よりも人法恒一 (これはあまりに唐突すぎるのだが)なのだから板こそ自受用身なのだ、と論じられている様である。しかし、これは大部分日寛上人の御指南とは違う。

 尾林師の説を、先の地下(還滅門)と地上(流転門)にあてはめれば、自受用身は凡眼に写らない故、理の上の法相で現実に信じることは出来ない、つまり還滅門はないに等しい。それよりも眼に見える戒壇の本尊(事の一念三千ともいわれている)が現実にあるのだからそれを拝むのを事行という。そして眼に見える板こそ自受用身だといってすべてを流転門、地上に出してしまったのである。

 尾林師は戒壇の御本尊を流転門で把えている故、肉眼に写ると信じてやまないようであるが、戒壇の本尊は還滅門の所談であり、本来信の上の建立であるから、肉眼に写るとか写らないとかの論義の外にある。また当家の自受用身を理の上の法相と拝するのは開山上人以来、未聞の珍説で私達は管見にして、その依拠を知らない。更には師のいう理の自受用身が何故、事の一念三千と人法恒一になったのかよくわからない。寛師は、自受用身と戒壇の本尊は確かに人法一箇ではあるが、ともに事の法門、還滅門のうえにて一箇であると説かれている。地下にあって本来露わにされるべき性質のものではない故、凡眼に触れる触れないにかかわらず、衆生の己心の上に信の一字をもって刹那に建立されるのである。勿論、当家では目に見えない地下は理で、眼に見える地上は事だという天台通途の事理はとらない。流転門を理、還滅門を事と立分ける故、自受用身も応仏昇進の自受用身は理で久遠元初自受用身は事である。

  『開目抄』の開目も尾林流では、肉眼をしっかり開いて本尊を見るというぐらいの解釈の格下げであり、寛師のいわれる膜に覆われた衆生の己心の目を開かしむる意とは格段の相違である。尾林師は、盲目の人の信仰はすべて観念に堕しているとでも思っているのだろうか。本当に肉眼を開けば本尊が見えるとでも思っているのだろうか。尾林師もひかれる


「盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る」

『沙羅四見の喩』は己心の法門を教えている。肉眼は文字と見るのが限界であり、更に盲目の人は現実には何も見ることが出来ない(流転門)。しかし、信の一字をもって己心の眼を開けば、そこに厳然と本尊が建立されるのである。少なくとも宗祖は、末法の衆生はすべて本未有善の盲目と定められている。

 奇しくも尾林師が「大御本尊の相貌は拝し得ても」といわれている通り、肉眼では大御本尊の相貌が見えるまでで、大御本尊そのものは拝しえない。やはり本尊は己心内證の目を開いた時、はじめて建立されるものである。


戒壇の本尊が御宝蔵に永く秘蔵されていたのも己心内證の当家の法門をあらわす為である。御書に(御講聞書)


「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり」


といわれるように、三秘相即の本尊とは、隠し、しまっておくという意味ではなく、もとより本地内證に蔵されているとの意である。我々の肉眼は、三秘相即の本尊を秘しているところの蔵は見えても、本尊そのものは見えないこと人間の「心の臓」を見るが如しである。心臓を取りいだせば肉眼をもって、その臓を見ることは出来る。しかし、心を見ることは出来ない。いくら臓を切り開いて心だけをみようとしても、遂に見ること能わずである。同様に宝蔵を開いてみても、心たる三大秘法の南無妙法蓮華経(戒壇の本尊)は本来みることができないのであり、今の様に、無理に戒壇の本尊だけを取出した様な形になれば、それはすでに三秘相即の究竟の本尊ではなく、三秘各別一機一縁の本尊ということになりはしないか。我々は臓をみて心のあることを知るように、宝蔵をみて、その内證に戒壇の本尊を拝するのであり、秘蔵されることによって始めて三秘相即といえるのである。その意味で、正本堂は”堂”であるより”蔵”であることを強調する必要がある。

 故に当家では七百年来、丑寅勤行の際に御戒壇様を遥拝していたのであり、遥拝は姿形のない還滅門、己心内證の信心をあらわす為の必然よりなされている。そして、この丑寅勤行こそ、当家の成仏の直道であることは、宗門人であれば誰れもが異論のないところである。

 しかし、現在はくる日もくる日も御目通りが勧められた為、大変遥拝の意義が薄くなり、かわって戒壇の御本尊は直拝するのが自然とまで思われている。これでは多分、衆生は成仏の場を錯覚することになろう。成仏と一般の願いごとは全く違うけれど、学会員がメモー杯の”お願い事”を御開扉の際に祈念しているのもわかるような気がする。

 いうまでもなく御開扉は、信徒のたっての願いにより、広宣流布まで秘蔵すべき本尊を非公式にお見せしているものである。すなわち御戒壇説法が必ず「願いにより・・・」と始まるように、衆生の機情に随って仮にお見せしているわけで、本来信行の場ではない。日寛上人は「世情に随順し、色相を荘厳し」た仏は虚仏であるといわれているが、戒壇の本尊もまた、地下(還滅門)にあってこそ真仏であり、地上(流転門)に出づれば、虚仏となりはしないだろうか。

 現在、戒壇の本尊の遥拝と直拝が、法門の上から何の立分けもなく執行されていることは、流転と還滅、随他意と随自意、各別と相即、虚仏と真仏等の立分けが悉く曖昧模糊としていることを意味し、そこに信心を二途にする恐れを見い出すことが出来る。まして今や、感覚的には直拝のみに覆われたようでもあり、問題は深刻なのではあるまいか。

 それは、あたかも地下にあるべき根茎が堀りおこされて、大衆の眼に触れている様なもので、人は「これが根茎だ」と騒ぐかもしれないが、地上にさらされているものは根茎とはいえないと先に述べた如くである。つまり真の戒壇の本尊とはいえないのである。戒壇の本尊は、還滅門にのみ建立されることを我々は再び銘記しなければならない。
 尾林師は、
  「げに恐しきかな。根本に論法背反の一念の存するところ、本門戒壇の大御本尊という宗旨の根本にかかわる信心、法義を誤まり、いかに正信を自称すれども、奸智は奸智、その人間の言う処、説く処、為す処、その全てが狂ってしまうのである。」
と論文の末尾で、自信満々講談風に述べられている。しかし、反対に師の論文の内容は、随所に自問自答するような戸惑いや悩みに苦吟する姿が見受けられる。これは 「宗旨の根本にかかわる信心・法義」に誤りを来しているからと考え、その誤りを指摘していくつもりである。また、この小論が少しでも富士法門にとって有意義なものになればと思うので拙文に誤謬や錯誤があれば、出来る限り反論を戴きたく伏して願うものである。
 また水島師は『結び』にて 「今後も、宗の内外を問わず久保川論文と同じような、正宗教義や、血脈相承ついて悪意を持った非難文書に対しては自分の力の及ぶ限りにおいて破折し、粉砕したいと思っている」
と記されている。私達は「正宗教義や、血脈相承について悪意をもった非難文書」を提出しているつもりは全くないが、水島師の所説とは真向から対立していることも事実なので師の「力の及ぶ限りにおいて破折し、粉砕」されることをまって、更に反論を加えたいと思う。


   註@三位日順の雑集に(研究書1-50

「一、戒定慧事、戒定慧下事仏法修行儀式也、定戒慧下説法儀式也」とある。つまり戒定慧とは本地自行をあらわし、定戒慧は垂迹逍化他をあらわす。随自意と随他意の違いは、そのまま宗旨分と宗教分の違いである。尚、檀林の初門である西谷名目においても戒定慧・定戒慧・慧定戒の次第について論述されている。


註A前号にて、釈尊の流転をとめて当家は還滅に法門をたてると述べたように、この流転還滅、宗旨宗教は釈尊仏教と当家の対比にもつかわれる。更に付言すれば、釈尊仏教は転門(宗教分)のなかに流転還滅(宗旨宗教)を論じ、当家では同じように流転還滅(宗旨宗教)といっても還滅門にそれをみている。つまり通途に、台家の事理を束ねて当家の理とし更に事を立つるが如く、釈尊仏教の宗旨宗教をともに当家の宗教分とみて更に、己心内鐙に宗旨を立てるのである。


 

水島・尾林論文の稚説を破す(5)

 

 

誤れる本仏観について

 尾林師は
 「消滅する御本尊が何で究竟の法体なるものかとの無知の暴言を吐くなら、入滅して荼毘に付される様な仏が、どうして久遠の本仏なるものかと言うことになりはしないか」
と述べられている。少々戸惑い気味ながらも誠に卒直な疑問で、この疑問を法義の上から晴らしていくことが、現今の本尊観・本仏観の誤りを糾す鍵になるかと思われる。残念ながら師は「大聖人は無始無終だが、御本尊は消滅するから久遠元初の自受用身ではないと言うならば、大聖人の本有常住、事の一念三千人法体一の御指南に背反する」と続けられて、当家の法門でいわれる大聖人の正体を尽きつめることなく、毘に付されると自らいいながら、鎌倉日蓮を強引且つ安易に本有常住の存在にしてしまった。そして全く唐突に、人法体一なのだから御本尊も永遠に消滅しないといっているが、これは誤りに誤りを重ねた論法である。

 師はまず鎌倉に生れた人間日蓮と、久遠元初自受用身たる日蓮大聖人との立分けが明確にされてないばかりか、かえって混同している、これ誤りの第一である。次いで、その誤りを延長させて、人法は体一であり、故に板曼荼羅の板も消滅しないという、これ誤りの第二である。そして遂に「いま論者は形あるものは必ず滅するという、凡夫の短見で戒壇の大御本尊を見ているが、これが凡夫の迷いである」というに至る。しかし、生住異滅を繰返す流転上の特定の物体(尾林師のいう戒壇本尊)を絶対と教唆するのは外道の教えに酷似しているのではあるまいか。戒壇の御本尊は絶えるはずもないが、板上に文字によって顕わされた板曼荼羅の、板そのものはいずれは消滅を余儀なくされる。絶えるはずのものを「絶える筈がない」と確信を強要をするのは、狂信のすすめではなかろうか。これが果して当家の本仏観・本尊観、正しい信仰といえるのだろうか。

 日寛上人と同じように、人法体一、自受用身、蓮祖大聖人等の法門要語を使われても、その内容が入替ってしまえば、当家の法門とは縁遠いものになろう。その中でも、鎌倉に生れた日蓮をそのまま元初自受用身に置きかえるという誤った本仏観が、様々な問題を引起している根本と考えられる。これは単に尾林師の説というものではなく、近年汎く宗内に蔓延する思想といえるもので、宗義を掲げたはずの『日蓮正宗要義』にさえ「貞応元年二月十六日末法の大導師本仏大聖人の誕生」との記述がみえる。

 これらは法門の内奥に入るべくもない初信の信徒に講話として「末法の本仏が貞応元年に誕生し、弘安五年に亡くなった」という時にのみ許されるべきであって、教義書や正鵠を期すべき批判論文において、こうした記述が許されようはずがない。

 思うに、これらの思想は本仏が生れたり、死んだり、俗身なみの生滅を繰返す流転門に立てられたことによって始まる。そして、これがひいては 「大聖人が大御本尊を残されて入滅された後は、誰が地涌の菩薩として広宣流布を進めて行くのか。ここに戸田前会長の、大聖人滅後七百年後の出現が重大な意昧をもってくる」 (池田大作)という大変な邪説を容認し、あまつさえ「創価学会が広宣流布した」という心得違いを生ぜしめ、更にはこれを積極的に擁護することにつながっている。つまり創価学会の考えでは、日蓮大聖人は鎌倉時代に入滅したのであって、御本尊を残されたけれども、あまり弘らなかった、これを仏勅をうけて出現し、仏語を虚妄ならざらしめたのが歴代会長である。というのであろう。そして、この考えの淵源をたどれば、先に述べた鎌倉に生れた人間日蓮と元初自受用身の立分けを知らずに、かえって同一視する宗門の誤った本仏観にゆきつくのである。

 一体に、この誤った本仏観は開目抄の「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐渡の国にいたりて」
の御金言を虚しくするもので、宗祖が凡身の迹を払って、己心内証に法門を建立せられた意義を妄失している。態態、宗祖が「頸はねられぬ」とまでいわれて外相を捨てられ、これからは「魂魄」 (己心内証)について法門を明すと教示されているにもかかわらず、未だに外相に執着しているのであり、それこそ「凡夫の短見」と責められよう。

 「師弟子の法門」の項にても触れたが、本仏日蓮大聖人とは時間と空間を超越した信心上の存在であって、これを歴史上の存在と混乱するのは愚かといわねばならない。

 たとえば釈尊にも、印度応誕の釈迦牟尼と法華経に顕われた久遠実成の釈尊、その他釈尊といっても、名は同じでその体は全く異なるぐらいのことは初学の者でも周知のことである。ことに当宗法門では、六種の釈尊を立てるのである。それと同様に、日蓮大聖人といっても、鎌倉時代の日蓮、上行再誕の日蓮、本仏日蓮等、それぞれ意義が違うのであり、日寛上人の記述に、蓮師、蓮祖聖人、蓮祖大聖人、南無日蓮大聖人等の立分けが伺えることを我々は充分意識しなければならない。

 御書にしても、一例をあげれば三大秘法抄に 「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として日蓮慥に教主大覚世尊より口決相承せしなり」といわれた場合の[日蓮]とは、歴史上の実在の人物でないことはいうまでもない。だからといって、この御文が真実ではないということには勿論ならない。つまり、鎌倉時代の人間である日蓮が、二千余年前に霊鷲山において釈尊から直接に面授口決したということは現実世界の話ではないし、科学的に真偽を論証する世界のことでもない。すなわち、これは「己心中所行法門」ということで、日蓮大聖人の己心内証の世界のこと、換言すれば日蓮大聖人の信心の世界のことなのである。

 抑、三大秘法抄は、全体己心内証をもって依義判文すべきであり、一部分を教条的に解釈すれば、法門全体を歪めることになるのは理の当然である。国立戒壇をめぐっての妙信講との対立も、宗門が勅宣並びに御教書は現代でいえば建築許可書に等しいとか、国主は主権在民だから国民の総意ですると応待すれば、妙信講と同じ土俵の流転門での言い争いになり、宗祖の本意からは離れるばかりである。同抄に宗祖が「三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず」といわれた如く、三秘は須臾も離れることなく、己心内証の還滅門におさまるべきものである。わざわざ己心の法門を流転門に引きずり出し、国土を流転門の日本国土に限定して国立の戒壇を建てても常住の浄土ならずしてまた消滅してしまうであろう。同じ国立でも宗祖の三秘の法門は日本国土ではなく仏国土にたてられているのである。そして仏国土とは一体何処に顕現するかといえば

  「若し心無んば而已、介爾も心あれば即ち三千を具す」

  「万法は己心に収まりて一塵もかけず」

  「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」

 と諸御書に仰せの如く、衆生の己心の上に信の一字を以って顕現されるのであり、現在いまだに考えられている現実社会にユートピアが現出するような戯論は宗祖の教えにはない妄想である。よく己心の法門を評して観念論だという人がいるが、それは大聖人の法門を観念論だと論難しているにかわらない。目に見えるものしか信じない唯物論者から見れば、宗祖の法門も成仏もみな観念論・唯心論ということになろう。「心こそ大切なれ」との宗祖の御妙判をなんと拝するのであろう。そのような不信のものは、今日、ただ今より観念文を、本尊の前に観念するのもやめるがよかろう。また、妙信講や学会流の王国建設風な広宣流布観と有師や寛師がいわれる己心の広宣流布と、どちらが実相に即しており、どちらが妄想の遊戯に堕しているか、再考するまでもない。どううがった見方をしても、
 「吹く風枝をならさず、雨壌を砕かず(中略)人法共に不老不死の理顕れ」とは、現実世界に起りうる現象ではなく、信仰者の信心の世界をあらわしている。

 これらのことを考えた上で、話を本筋に戻せば、「日蓮」といっても、鎌倉時代という現実の世界に生身の人間として時間的にも空間的に制約された有限的存在としての日蓮大聖人と、時空の制約を受けない本質的存在としての日蓮大聖人があることがわかる。日寛上人の本仏観も当然本質的存在、つまり元初自受用身の辺を把えて、たてられたものである。

 近年の本仏観の誤謬は、要法寺日辰流ともいえるもので、ちょうど末法相応抄における日寛上人の破折にあたる。すなわち日辰の問いは、

 「若し蓮祖を以って本尊とせば、左右に釈迦多宝を安置し、上行等脇士と為るべきなり、若し示らば名字の凡僧を以って中央に安置し左右は身皆金色の仏菩薩ならんや云云」

というもので、人間日蓮が本尊になるなら、その脇士が金色の釈迦多宝ではおかしいではないかと疑難を起している。それに対して寛師は

「御相伝に、本門の教主釈尊とは蓮祖聖人の御事なりと云うは、今の此の文の意は自受用身即一念三千を釈するが故なり、誰か蓮祖の左右に釈迦・多宝を安置すと言わんや」

と反詰されている。すなわち、当家は鎌倉の日蓮の御内証たる元初自受用身をもって本仏とするのであり、誰が鎌倉日蓮そのものをただちに本仏とするといいましたか、と日辰の愚難を退けられている。更に続けて

  「日辰如何ぞ但示同凡夫の辺を執して、本地自受用身の辺を抑止するや」

  「日辰但色相に執して真仏の想いを成す」

  「法蓮抄云く、愚人の正義に違うこと昔も今も異ならず、然れば則ち迷者の習い外相のみ貴んで内智を貴まず」

と述べられて、当家では日蓮大聖人の内証たる本地の辺をさしてのみ本尊・本仏というと指南されている。

 尾林師は「入滅して荼毘に付されるような仏がどうして久遠の本仏なるものかと言うことになりはしないか」と訴えられているが、本仏が入滅して荼毘にふされて消滅してしまうのであろうか。全く、尾林師は片方では板本尊が消滅しないと言ったり、三世常住のはずの本仏が荼毘にふされるといったり、混乱の極みというほかはない。

 本尊・本仏ともに消滅をこえた存在であることをまず落居すべきであろう。もともと当家は荼毘に付される鎌倉の俗身日蓮については本仏といわないのである。もっとも、尾林師の場合は俗身の日蓮に執するばかりか元初島受用身を否定されているのだから、驚きとしかいいようがない。久保川師の論文を破すにあたって、こともあろうに第一節に『元初の仏を拝まなければ功徳なしとの観念論を破す』との表題を掲げているのがそれである。我が眼を疑って何度も読み返してみたが、確かにそう書かれている。元初自受用身の否定は、そのまま本仏の否定である。七百遠忌を前に、本仏を否定した論文が、教学部長のお墨付きで宗務院から発行されたとなれば、そこには何か深い意味でもあるのだろうか。宗旨を改変して本仏不在では七百遠忌の意義もあるまいし、日興上人を開山と仰ぐ必要も、もはや見い出しづらいのではなかろうか。

 次に、尾林師の論に無理があるのは、説明のつかない自己矛盾を都合のよさそうな法門要語をもって乗りきろうとするところにあるのではないかと考える。「人法体一」や「久遠即末法」はその典型であろう。詳しくは次章に譲るが、人法体一の語も、流転にでた鎌倉日蓮と色相に出た戒壇本尊(板曼荼羅)が体一なのではなく、元初自受用身と色相にあらわれない秘蔵内証の戒壇本尊の辺をさしてのみ人法体一といえるのである。流転門には人法の勝劣があることは、寛師の六巻抄に委しく説かれるところであり、つまり尾林師の説くところに人法体一は成り立たない。

 ましてや現今の、人法の人に貫主をあてはめるような、流転門をもう一つはみ出した世界では人法勝劣は天地の如しである。

  「御本尊を持つものに基本的謗法はない」

  「しかし、私の指南に逆うものは謗法だ」

勿論、当家の人法ではないが、揶揄してとりあげれば、人法の勝劣明らかではなかろうか。

 とにもかくにも、流転というものは、とめどもなく輪廻するもので、末になればなるほど下劣になる。もともと流転門の久遠実成の釈尊を本仏とする身延や他門家などは、それなりのブレーキをもった上でことに臨んでいるようだが、当家のように文底が家は一歩間違えて己心内証を失えば、現在のように生き仏や権力集中の専横政治が罷り通ることになる。創価学会が池田大作を頂点として、副会長、本部長と漸々大B長にいたるまで、スケールを小さくした池田大作によって運営(会員の支配)されているのは、今宗門が貌下絶対を至上に各末寺が貌下の権威をカサにきて、信徒を隷属させているのによく似ている。やはり、誤った本仏観がそうさせるのであろうか。太田慈晃師の「正師に帰依する信心」をはじめとして、毎号続く大日蓮巻頭の貌下への礼讃、帰依は、かつて彼の福島源次郎氏が「師への帰命」を熱演されたことと何等変るところがない。現今、当家の教えはつまるところ貌下本仏で、正信覚醒運動が貌下本仏から離れたから私は運動をやめたといった人がいたが、宗創の上層幹部は一体で、しかも職業幹部と職業僧侶が各別に大作本仏と貌下本仏の”狂信のすすめ”を演じているのだから、純信な信徒はたまったものではない。




「久遠の本仏」の語は、以前在勤教師会の『山内有志の御用教学に答う』にて、元初と実成の差異を不明瞭にする誤りであると論じた。ここでは重複を避けるため、久遠元初の本仏として扱った。しかしながら、元初と実成の差異は依然として混雑されているようなので、追々論が及ぶものと思う。




 

 

水島・尾林論文の稚説を破す(6)

 

 

己心の法門について

 

 富士学林の際「己心の法門などと、いい加減なことをいう族がいる」と日顕上人がいわれたそうである。早瀬日慈師もそれらしい話をされたそうだが、当方には面と向って一言もなく、止むなく先般、総監及び教学部長宛に在勤教師会の「主張並びに要求書」を内容証明にして提出した。(七月二十三日本山着)
その末文の箇条に

 1,在勤教師会刊行の『事の法門について』 『山内有志の御用教学に答う』 『水島尾林論文の稚説を破す』について、宗務当局及び教学部の回答をなされるべきの事。

 1,大日蓮等にみられる貫主本仏を、当家の宗義として認めるのか否かの回答をなされるべきの事

 1,久保川師擯斥について、宗務当局の教学の不備なる点、それによって起る所の処分理由の曖昧なる点、更に処分に至る経過が正常な行政機関としての適切さを欠く点において同師の処分を撤回すべき事。

の三点を挙げ、宗務院の回答をまっているが、いまだに何の音沙汰もない。もっとも誤った路線をおし進めるには、答えられるべき筋の質問でもなく、「沈黙は金」とばかりにすましているのかもしれない。しかし、質問者のいないところで、勝手放題くさしてみても、犬の遠吠えのようなもので、姑息な感じはどうしても拭えない。

 また「己心の法門」が批難されるのも困る。これはなにも在勤教師会の新説でもなければ邪説でもない、大聖人御建立の法門であり、観心本尊抄をはじめとする諸御書を具さに見聞すれば如実にあらわれている。寛師の文段抄、六巻抄もまた然りである。それ程の暴言を吐くなら、まず寛師を論難し、大聖人を破折してから、在勤教師会へまわってもらっても遅くはあるまい。もし「己心の法門」をいわないのであれば、文底を強調する必要もないし、すでに事の法門も説明がつかない。戒壇本尊をもって他門に秀いでることも無理があろう。宗祖が何故観心の本尊といわれたか、何故十界互具の曼荼羅をもって本尊とされたか再考の必要がある。身延派のように久遠実成に宗旨をたて、一尊四士を本尊とする宗派ならともかく、当家はそれを文上と簡んで、文底に宗旨をたてるのである。十界互具の曼荼羅本尊は、つまり己心にたてられる本尊を図顕されたのであり、己心を失えば、当家の法門の綱格を失うことになろう。

 観心本尊抄冒頭に止観第五の一念三千の文を示されているのを、漫然と見過してはならない。

「此三千在一念心。若無心而已。介尓有心即具三千。乃至所以称為不可思議境。意在於此等云云」
「故序中云説己心中所行法門。良有以也」

 この一念三千の文が観心の本尊の依文であり、一念三千法門が「己心の法門」であることは論ずるまでもない。

 寛師はこれを文段抄に
「観心文云此三千在一念心等者、此一念三千本尊全無在余処外、但在我等衆生信心。中故云此三千在一念心也、若無信心不具一念三千本尊故云若無心而已也、(中略)宗祖所謂、此御本尊只信心二字収是也」

と説かれている。一言の説明の余地もないが今流の本尊観とは全く違っている。宗祖や寛師は究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にあると示されている。つまり流転門の相対の世界で考えられていた本尊が、還滅門に切換えられ、我が身にひき当てられた時、はじめて当家の本尊があらわれるというのである。本尊を

  「日蓮が身に当てて一期の大事」

  「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」

  「日興が身に宛て給わる」

といわれたのも、流転(理)から還滅(事)の切換えをあらわし、衆生の己心の上に信を以って澄得する本尊を明かされている。つまり当家では己心に法体の事を定めた上で、更に信不信をもって事行をあらわしている。これが「事を事に行ずる」といわれる所以であり、事の法門とは「己心の法門」の異名である。

 尾林論文では、事行をあくまで現実の行為、事象に執着して、題目を口唱するとか、本尊を事物に書き顕わすとかの天台の事理に陥った記述がみられたが、それを当家の事理と混同するのは間違いである。明文を挙げれば、寛師は本尊抄の講義のなかで次のように云われている。

 「サテ事行者天台如末法理十乗観事不能故題妙法口唱故事行云也、此日辰義不可也、今謂事行云久遠元初自受用報身宗祖色心全躰事云也、顕此本尊行此事故云事行也、是法体事也、行事也、故事行云也、未全謂事口唱手珠数行上御本尊事書顕故非云事行法躰事々行故事一念三千本尊云同勝手也、若日辰如云所行法躰理事行故事云返天台勝宗祖事行劣云歎」

 翻って尾林師は「久保川説によれば、究極の御本尊は凡眼に写らぬ大聖人の魂を拝むのだと言う。これでは法界の理の上の法相にとらわれる観念論であって、到底事を事に行ずる文底独一本門事の一念三千の仏法とは言い得ない」と述べられているから、全く日辰流といえるものだが、残念なことに、これは一人尾林師の説というものではなく、近年汎く宗内をおかって、宗門人の多くが事行の法門を誤解している。すなわち、天台通途の事理より一重たちいったところに当家でいう法体の事理が存することの分別がついていないのである。在勤教師会では、先に『事の法門について』を論じたが、今それを援用して、当家の法体の事理について説明してみたい。

(以下『事の法門について』)
 法体の事理の相違とは何であるのか、また事の法門とは何であるのか。日寛上人が「人に向かって説かじ」と一応秘された所を明らかにしていくところに、今日の法門上の狂いを矯正するカギがあるのである。

 日有上人は有師談諸聞書に

「惣じて事と云ひ理と云ひ愚者と云ひ智者と云ひ断惑と云ひ未断惑と云ひ本と云ひ差と云ひ在世と云ひ滅後と云ふ、何れも迹門と云はば理なり智者なり悟なり善なり、能所共に此くの如く末法今時は本門の時なり、然る間事相の化儀の上に宗旨を立つる宗なり、去る間事なり愚者なり本門なり」

「さて末法今時は悪心のみにして善心なし師弟共に三毒強盛の凡夫の師弟相対して、又余念なく妙法蓮華経を受持する処を即身成仏とも名字下種とも云はるるなり」

「然れば修一円因の本因妙の処に当宗は宗旨を建立するなり、はや感一円果の処は外用垂迹なり智者なり理なり全く当宗の宗旨に非るなり」

と述べられている。これを図示すると。 


   〔事迷〕                     〔理悟〕


○愚者・悪心                           ○智者・善心

○未断惑・師弟共に三毒強盛             ○断惑

○本                              ○迹

○滅後                             ○在世

○内証本地                             ○外用垂迹

ということになる。

 この図の示すとおり、一見して事迷とは、未断惑・愚者・師弟ともに三毒強盛と、衆生凡夫の上で物事が論ぜられる世界を示し、理悟の世界は、断惑・智者・いわゆる仏・智者の世界を表していることが解る。そして、その凡夫衆生の側が、本地内証・滅後種本であり、仏の側が、外用垂迹・在世脱迹であるとしているのである。

 このことは、大聖人の諸法実相抄の

 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしに、さにては候はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり」

というお言葉。また三大秘法口決裏書の

 「事の一念三千は迷中の事なり、其の故は妄情の十界即本有無作の覚体と云ふなり、迷情の事の外に覚悟の事無き者なり、之を以って彼を思ふに、天台伝教等弘むる所の事の一念三千は悟中の事理に約す故に理に属するなるべし」

等の御文を拝すると更によく理解できるのである。ここで言う事迷の凡夫とは、迹仏・本果妙に対する本仏・本因妙を指すのであって、当然釈尊仏教の中での歴劫修行途上の凡夫とは異なる。諸法実相抄の御文は、この本因妙の凡夫こそ無作の三身にして本仏と言われ、久遠脱益の仏は迹仏と説かれているのである。何故凡夫が本仏で仏が迹仏なのかといえば、確かに本果第一番成道の釈尊は衆生のために三徳を発揮せられて済度されてきたが、その釈尊の悟りの根本を尋ねれば、それは森羅万法すなわち一切衆生そのものなのである。釈尊は我ら未断惑の一切衆生を如実に見て悟りを得たわけであるから、「返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり」ということになるのである。

 従って本果の仏教と本因の仏法との相違は釈尊の悟りを中心とした教えと、釈尊を悟らしめた凡夫(法)を中心とした教えとの相違であり、法体の事理(事迷と理悟)に約せば衆生の辺に立って建立された仏法と、仏の辺に立って建立された仏教との相違を顕わしているのである。事迷のところに法門を建立する当家は、理悟の仏教を貴族仏教、色相荘厳の仏教(外相中心)として退ぞけ、師弟ともに未断惑の一切衆生の世界こそ真の体にして無作三身であるとして、そこに真実の仏法の姿をとらえていくのである。(以上『事の法門について』より)

 論述のとおり、宗祖は民衆仏法を標榜する為に、従来の色相像を排して曼荼羅本尊をもちいたのである。それが為に、宗祖は諸処に「仏滅後二千二百二十余年未曽有の大曼荼羅」と仰せになられたのであって、「未だ曽ってましまざず」とは、貴族仏教から民衆仏法への時節の転換である。

 実に十界曼荼羅は、旧来の事物に執し、色相を尊ぶ偶像崇拝を打破し、己心内護に証得する本尊を顕わさんが為のものだが、それがここ数十年来、色相の仏像以上に偶像的に崇拝されていることは、誠に不思議な現象といわねばならない。

 もう一つ、わかり易い例を挙げれば、寛師は本尊抄文段に、

  「問妙法蓮華経左右文字書顕仏菩薩等与色相荘厳造立仏菩薩等有何異耶」

と問いを設け、その答えを

  「種本脱益、天地雲泥也、謂文字書顕仏菩薩等本地自証妙法無作本有体徳也、(中略)色相荘厳造立仏菩薩等迹中化他形像也」

とされている。妙法五字の左右に文字をもって仏菩薩を顕わすのと、色相の仏菩薩をもって顕わすのでは、どう意味が異るかの設問に対して、文字は無作本有の体徳をあらわし、色相の造立は差中化他の形像に執することになると差異を示されている。つまり、これは本来かたちのない無作の体徳(己心の世界)を顕わす為には、形像よりも文字が適当であるというのであり、文字による十界曼荼羅は己心内護・観心の本尊を建立されんが為の必然より起っている。故に我々の凡眼に写る板曼荼羅・紙幅の曼荼羅は仮に事物に寄せて顕わされたと拝すべきであって、妙楽も弘決に 「三諦無形倶不可見、然即假法可寄事弁」といわれている。詮ずる所、空仮中の三諦は倶に形のないものであって、見ることができない。故に仮に事に寄せて弁えるというのである。

 撰時抄の文段に、「文底の謂れ」を知ってはじめて文底といえるとあるように、紙幅の曼荼羅も裏付けの己心内燈の本尊があって、初めて本尊といえるのであり、裏付け(謂れ)を消してしまえば、自然に文上・外相に出てしまい、観心の本尊とも、文底深秘ともいえなくなる。

 考えれば考える程、大石寺の法門は緻密にできている。御本尊も、宗旨の根本はあくまで一閻浮提総与の戒壇本尊であり、他の本尊は一機一縁と呼ばれるもので、宗教分ともいえるものである。寺院や家庭にある一機一縁の曼荼羅を我々は、じかに拝することができる、つまり直拝している。しかし、それは、すべて戒壇本尊の写しであるという、しからば、戒壇の本尊はと、根源を尋ぬれば宝蔵に秘蔵されており、我々の肉眼に触れえないようになっている。つまり遥拝するかたちをとっている。宗教分は一機一縁の曼荼羅に相対して、否応なく本果の修行の立場をとっているが、宗旨分は戒壇本尊が秘蔵されていることによって、本因修行があらわされている。これは自然に宗教分から宗旨分へ切換えがなされているのであり、これによって宗教分が生きてくるのである。すなわち、宗教分では行者と相対していた本尊が、宗旨分では実は、行者の外にあるものではなく、信を以って刹那に己心のうちに証得されると説かれるのである。これらのことは、宗祖の当鉢義抄、及び寛師の文段、六巻抄に深義が明かされているが、「己心云々」とそのあたりを陰で批難される方々には、そのまえに観心本尊抄を一読されることが望ましいと思われる。

 また、上行所伝三大秘法口決について、裏書のような不明瞭なものを引用するのは不都合だと批難する向きもあるようだが、これは当家の法門の何たるかを知らぬ為に起る珍言である。この三大秘法口決は、表書だけを取りあげれば、何も当家にだけ伝わる法門ではない。昭朗門下、もしくは八品門流にも本書と同一内容の記録を伝えている。内容からみても、表書は伝教の山家学生式の戒定慧、次いで神力品の教相に三大秘法の依文を求めたもので、そのままでは、当家として戴きづらいのではあるまいか。表書を理(文上)、裏書を事(文底)として、はじめて三大秘法口決は当家の法門の綱格にのってくるのであり、更には、学生式の戒定慧を本法、神力品の依文を流転門、裏書の戒定慧を還滅門と配せるようである。特に裏書は当家独歩の法門で、迷中の事理、悟中の事理、と法体の事理をあらわし、報身仮諦を説いて空仮の入替りを示されている。寛師も、その綱格にそって依義判文抄に

  「三大秘法口決に云く(中略)、口決に云く(中略)。

 裏書に云く(中略)秘すべし秘すべし」

と展開されている。

 とにかく、相伝書の類は、ただ書いてあるから使うというのではなく、よく内容を吟味し立分けを心得て、使わなければ他家と混雑することになろう。尾林師も口決の表書を引用されているが、やはり「書いてあるから使う」の口で、殆んど必然性のないところで、ただ漫然とひかれてぃる。もう一度、口決の表裏を一つの相伝書として考究することも、あながち無駄にはなるまいと思われる。

 二箇相承については、すでに法門的解釈を試みたが、当家に伝わる産湯記・三師伝・本門弘通事・日興跡条々事・本尊七ヶ口伝・有師聞書・化儀抄等は、文献学の俎上にのせて云々するまえに、一体これらの一々が何を伝えんとしたのか、内容を法門的に深く探究する必要がある。そこには身延等の他家には伝わらなかった珠玉の法門が埋っているのだから。

 

 

 

若知文底謂則三箇秘法経文顕然也、夫知与不知也、雲泥万理乎、若不知佛法謂佛法価是世法也、如名利僧等以佛法為渡世橋若知佛法謂世法即佛法也、深識世法即是佛法治世語言資生業等皆順正法是也、若不 知法華経謂 法華但是示前経 (中略)若不知又底謂文底働是熟脱 如諸門徒談三箇秘法是也、若知文底謂 熟脱即是。文底秘法也。          (研教書八―一四四)

 


 


水島・尾林論文の稚説を破す(7)


和光同塵・日蓮がたましひ等について

 尾林師の論文を破折するにあたって、順を追って、文々句々の是非を論ずることは困難である。それは師の論文が、ここの箇処が是で彼処が非であると指摘できない程、全体的な思想基盤に大きな心得違いをしているからである。ひとことで言えば、本因の宗旨と云いながら、実は知らないうちに本果的なものに宗旨を立ててしまっているのである。故に御書・相伝部・六巻抄等の多すぎる程の引用文も、ほとんど意味をなしてないばかりか、かえって論文全体に破綻をもたらす原因になっている。


例えば、

「一心は万法の総体なり総体は題目の五字なり」
「虚空不動戒、虚空不動定、虚空不動慧、三学倶に伝うるを名けて妙法と日う」
「所詮十界、三千、依正等をそなへずと云う事なし、乃至口決に云く草にも木にも成る仏なり云云。此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、経に云く如来秘密神通之力云云」
「当流深義の意に云く本門寿量文底の教主釈尊を本尊と為すべし、是れ則ち名字凡夫の当体本因妙の教主釈尊なり、戒壇題目亦かなり。謂く本門寿量文底の戒壇本門寿量文底の題目なり、故に開目抄に本門寿量文底秘沈と云うは是れなり」

 等の御文は、師の論旨には不適当な、引用すべきではない御文であり、心得違いさえしていなければ、むしろ己心の法門の依拠となるものである。また他の引用文の多くも、誤用や重複に終始し、これらの飾りのようなものを取り払えば、師の論文は何も一章から五章まで詳説されるようなものではない。端的に御利益主義の偶像崇拝とあらわれることは先ず間違いないところである。

 今回は最終回ということもあって、数少ない師の地の文より二、三の異義を簡単に指摘することにして、まとめに移りたい。

 先ず初めは、

 「元初本因の仏が和光同塵の大慈悲のもとに、今番出世の仏、末法下種の仏として御出現遊ばされた以上は」と述べられていることである。和光同塵とは、もともと応身的な拝し方で、色相の応仏が光を和らげて塵に同ずるのである。元初本因の仏とは「無作三身」「久遠名字の振舞」であれば、光を和らげることもない。今番出世の仏という表現もおかしい。たぶん元初本因から今番出世するのだろうが、これでは日蓮大聖人が元初本因からの垂迹であることを否定できないどころか、積極的に垂迹を肯定している。これを垂迹仏でなくす為に「文底の意において久遠即末法を立てる」からというのであろが、これは少しどころか大分無理なのではあるまいか。

 何故このような無理が行なわれるかといえば、久遠元初を久遠実成と同じ一つの時間線上において、元初は実成より遥か昔と規定するからである。身延派との論争でも、実成は無始無終だが、当家の元初は、それよりも遥か彼方の無始無終であるといえば、これは水掛け論というより、むしろ当家に分がないようである。この主張は元初と実成の違いが何の違いなのか全く理解できてないとごろから起るもので、本果の延長線上に本因をたてるから本因とは名目ばかりで実体がなく、名ばかりの元初に本果の仏(正確には本果ではなく、故に先に本果的なものと記した)を立てるような羽目に陥っている。つまり現今の本仏論は釈尊をそのまま宗祖に置換えようと作業しているに過ぎない。しかし、実成と元初を延長線上の時間の経過の中に考えているかぎり、釈尊の貴族仏教と宗祖の民衆仏法との立分けは永久につかないだろう。実成と元初とは、本果の仏の側の所談か、本因の衆生の側の所談かということを示す言葉なのであって、全くよって立つ場所が異なること明かしている。宗祖が諌暁八幡鈔に

「涅槃経云、一切衆生受異苦悉是如来一人苦等云云。日蓮云、一切衆生同一苦悉是日蓮一人苦と申スべし」

 と云われる所以もここにあり、異の苦と同一の苦は貴族仏教と民衆仏教の分かれ目である。まさしく「異の苦」とは色相の応仏の和光同塵の姿をあらわし、尾林師の説の如きは、元初本因といいながらも、釈尊仏教の範躊を一歩も出ていない愚に気付かずにいるのである。

 次に、
  「「日蓮がたましひ」とは、とりも直さず、久遠元初の自受用報身如来の魂であり」
といわれることについて。
  「日蓮がたましひ」は久遠元初の自受用報身如来そのものであり、自受用報身如来の魂ではない。これは屋上屋を架すような誤ちで、誤植とも思ったが、全体の論調を考えれば、やはり分別がついていないのであろう。当家では「日蓮がたましひ」を人に約せば元初自受用身、法に約せば事の一念三千(久遠名字妙法)とたてるのであり、そこに人法一箇もあるのである。ここでも尾林師は鎌倉の人間日蓮と元初自受用身に混乱がみられる為、「自受用報身如来の魂」という表現になったのではないかと思う。
 次に、

「三大秘法はいずれも、その本源は久遠元初の自受用無作の法体にあるのであり、本仏が元初ならば本尊も元初であり、題目も戒壇も全て久遠元初である。本因の境智行位は一体のものである。そして文底の意において「久遠即末法」を立てるのが、当家の相伝の仏法である」

 と述べられていることについて。
 これも一つのパターンなのだが、その意は、ごく簡単にいえば、「久遠即末法」なのだから久遠の昔の話はイコールで末法の今のことだというのであって、この時空の束縛のある現象世界に絶対を立てているのである。しかし、賢明な読者がすでにお気付きのように、末法にも当然順次にたてる末法と逆次にたてる末法の相違が存するのである。すなわち、釈尊仏教の正像末と順を追う歴史上の末法と滅後己心の上にたつ日蓮仏法でいう末法との相違である。周知の通り、宗祖の法門は開目鈔の発迹顕本をさかいに順次から逆次へ転換されているのであり、末法も、本尊抄、取要抄の末法などは滅後己心にたてられていることを知らねばならない。さすれば「久遠即末法」も自ずから解釈が変ってくるのであり、尾林師も徒らに現実肯定の為に躍起になる前に、法門としての探求が必要なことを認識して戴きたい。特にこの段の尾林師は「文底の意」とか「相伝の仏法」とかいわれているが、この使い方では無理を通す時や、または何だか意味の通じない時の為に「文底」や「相伝」の語があるみたいで、到底これでは他門を納得させることはできないだろうし、何やら気恥しさが先に立つというものではなかろうか。



  
拾遺及びまとめ

 宗門700年の歴史の中で、大局的にみて、法門的な危機を乗越え、立て直しがはかられた時期が2度ある。9世日有上人の頃と江戸中期の日永上人・日寛上人の頃である。

 日有上人は数多くの伝説によって語りつがれているが、明確な実像はいまだにはっきりしない。年令の90有余も不確かなら、著述が全くないことも一つの不思議だ。よそっても、よそっても尽きない飯鍋のことや、大石寺と大杉山を須臾に一飛来するという伝え、上人道のこと、仏滅賛文のない御本尊等、その他にもあり余る伝説、奇瑞が一体何をいおうとしているのか、何を伝えんとしているのかよくはわからない。現存している数多くの聞書も半分程の理解もされずに放置されているというのが現状であり、ただ口碑に日有上人は偉大な人と今に伝えられているのみである。

 そういう中で、おぼろげながら解ることは、有師の時期に、すでに自他門にかかわらず、法門的な大変な混乱が襲ってきていたという事実であろう。それが、かなり強烈なものであったことは聞書によくあらわれている。
すなわち、

「されば当門流に古は碩徳も多く御座し賢人達も多く有りしかば化儀法体共に自ら得意玉ひし間、加様の法門をば之を秘す也。今は化儀法体共に無くなる間秘す可しとて云はずんば仏法皆破る可き也、去る間此くの如く顕然に申す也云云」

「代既に末世に成り候へば法界の機にひかれて当宗も末世に成り候。其の故は古よりも信心弱く成り候。其の上謗法罪の沙汰事の外に緩く成り行き候。此れ即ち当宗の末世と覚え候難儀至極なりと云云」

 等と記されているのがそれである。家中抄日影伝に、有師の先代にあたる影師が、在家の油野浄蓮に血脈を授けた云云とあるのも、伝うべき人材がいなかったというよりも、混乱がひどく、大石寺法門が瀕死の状態にあったことを示されているような気がする。次代を担った有師が、この悲惨な状態を、上代に立ち還り、大石寺法門の極意を尋ねることによって法門的立て直しをはかったのであり、その姿勢は、

「若しも世の末にならは高祖の御時之事、仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候。他門徒の趣は代々の意楽意楽に各々に建立候間上代の事を御存知なく候間一向細工事に成り行き候と云云」

 の御文がよくあらわしているところである。しからば大石寺法門の極意とは何であるかといえば、化儀抄、聞書を具さにみれば、師弟子の法門、事迷の法門であることは容易に理解できる。また、その逆説として当時の混乱が、師弟子の法門、事迷の法門の誤解、妄失により起っていることも推測できる。

 なかには「化儀抄は古くて現代では通用しない化儀もある」とアッサリ切捨てる人もいるが、実は「化儀抄」という題は近年付されたもので、本書は一通りの「化儀」を説明されたのではなく、師弟子や事迷の法門を教示された法門書とみるべきである。

 そしてまた、本書の各項や聞書に述べられる師弟子や事迷の法門は、現在では名のみあって実が無く、意味もわからず、ただ権威権力によって我田引水されており、それがまた有師の時代と同じように、現在の混乱の最大要因になっているのだから、我々は実のところをよく思惟し、あらゆる方面から大石寺法門を実証する必要がある。恐らく、有師にまつわる様々な伝説も、大石寺法門と無縁ではあるまいと思われるが、遺憾ながら現状では明確に記せない。

 ともかく、我々にとって大切なことは、有師のいわれていることが「我か申す事、私にあらす」で上代の事迷の法門をかたり、師弟子の法門を説かれているのだから、「化儀抄」や「聞書」の不明部分が説き明かされれば、宗開両祖の思想的基盤、日興門流の宗風の幾分かでも明白にされるという期待をもって、丹念に学問修行することであろう。

 24世日永上人、26世日寛上人の時代も法門の混乱、そして復興という点から、有師の時代と同じように説明できる。有師の時より資料も多く、時代も下っているので混乱の内容も幾分か明確にされている。

 慶長頃の15世昌師より23世の啓師まで、大石寺は要法寺から横滑り的に貫主を迎えていたが、9代100年もの間には、本来の大石寺法門は次第に要法寺教学によって塗りかえられていった。勿論、大石寺側が何の抵抗もなしに安閑としていたわけではなく、時代の趨勢として、万やむなきに至ったというべきであるが、やはり宗門史のなかでは、暗い時代と言わざるを得ない。

 昌師への相承が、大石寺惣衆にとって、あまり良いことでなかったことは、双方に異例の御相承受授証なるものが存在することによっても知れる。昌師の登座後、種種な突きあげがあったらしく、問題が引き続き起る様なら、貫主職をおりたいという様な昌師の書状もある。

 かくの如く、不穏な問題を含んでスタートした要法寺からの貫主も就師、精師と続くうちに富裕な経済力も手伝ってか、次第に、大石寺は要法寺色に塗りかえられていった。精師の時などは、大石寺法門は無惨にも要法寺教学によって蹂躙されたといっても過言ではない。当家古来の法門を無視して、貫主が公式に色相像の造立と一部読誦を主張したのであり、その時の混乱ぶりは本書67頁に論述したとおりである。精師は大石寺僧俗の反発を、異様に血脈相承を高調し、教義的にも随宜論等をものすることによって鎮圧につとめたが、おもうにまかせず、一握りの僧俗は屈服しなかったようである。

 しかし、本格的に大石寺法門復興の先鞭がつけられたのは24世日永上人の頃と思われる。永師には著述が伝わらないので、法門的なことは今一つ鮮明にならないが、要法寺9代の歴代が永師によって途切れたこと、永師自身が富士上野の出身であること、日寛上人の師匠であることなどは、大石寺法門復興の先導役をなされたであろうことを、裏付けるに充分である。そして永師滅後、師の薫陶をうけた日寛上人が六巻抄等をあらわし、要法寺教学を一掃し、大石寺法門を体系化されたことは、存知の通りである。

 一般に.六巻抄第四の末法相応抄は、広蔵日辰対破の書とされているが、日辰は寛師より約200年も前の人物であり、これは日辰個人への破折というより、当時宗内に蔓延していた造像・読誦論義を日辰の名を付して破折したと理解する方が筋が通る。

 また、六巻抄全体も、旧来より対外的なものとして把えられがちであるが、実は宗内の法門的混迷を一朝のもとに解決せんが為に述されたのであり、第一の序の

「此れは是れ偏えに令法久住の為なり、末弟等深く吾が意を察にせよ云云」

 の御文を深く洞察しなければならない。

 もっとも、六巻抄の威力は宗内の要法寺教学を一掃するのみならず、次第に、京都要法寺の本末にも影響し、時の要法寺貫主日誉が強制的な法令を発して、大石寺へ転向せんとする末寺を引きとめねばならぬ程になったのであり、ここに大石寺と要法寺との大勢は全く逆転するに至った。これは、まさしく、法門の大切さを後世の我々に教示されたものともいえよう。

 しかし、その六巻抄に説れた大石寺法門とは何かといえば、我々はあまりに安易に考えており、毛筋ほどの理解もしていないのではないだろうか。今までの六巻抄の解釈は、あまりに文々句々にとらわれて、大綱の法門を見失っている様な気がする。室町期に有師が大石寺法門を復興させたように、寛師もまた、六巻抄に、事迷の法門、師弟子の法門をあらわそうとしたのではないだろうか。六巻抄の真意を掴むことが、どれ程現今の混迷を救うことになるか、そこには測り知れないものがある。

 今、700遠忌をまえにして、宗門に第3の危機が襲っている。それは過去2回にもまして大きな法門的危機ではないだろうか。これを一言でいえば、明治以来の欧米思想を無批判に取り入れた結果、内証己心を基調とした法門が唯物志向の影響をうけて、次第にうすれ、そしていまや、完全に外相化してしまったといえるのである。もちろん、欧米思想の影響に関しては、世間一般にもいえることだが、精神世界に重きを置く仏教界では、なおのこと打撃は大きい。就中、己心内証を旨とする当家のような民衆仏法は生命を断れたと同じである。ことに創価学会が現出してからの宗門の異常な経済的発展は、自ら僧侶を痴呆化させ、大石寺法門をなきものにした。我々は一日も早く、眼前にひろがる砂上の楼閣のような繁栄から目を覚し、真実の大石寺法門を求めて研鑽しなければならない。

 今、我々の置かれている立場は、決して寛師の時代でもなければ、永師の時代でもない。それ以前の動乱の時代なのであり、表面の華やかさをよそに一握りの僧俗が真に大石寺を慕って、正義の法門を求め、訴えた時代なのである。我々が今後、その自覚にたって地道な法門の研鑽をすれば、必ずや解決の光明を見いだずことができるであろう。

 闇が深くなればなる程、夜明けは近い。

 

 

 


 

 

法体の広宣流布・化儀の広宣流布

 

 戦後、創価学会が一貫して使ってきた言葉に、「広宣流布」「折伏」がある。初めは、学会復興のために利用していたが、後に政治参加と同時に、広宣流布が、大目標となっていく。聖教新聞、大白蓮華等では、現在でも、学会は広宣流布遂行の団体である、と謳っているが、学会の捉える広宣流布とはどういうものであるのか。更に、その広宣流布観が如何なる誤りのもとに生まれた考え方であるか。次いで、当家、伝統法門の広宣流布とは何であるか、に就いて論じてみたいと思う。

 以下、四章に分けて述べることとする。



1、創価教学の問題点

 創価学会が日蓮正宗信徒として存立する基盤は、広宣流布に邁進しているという自覚にある。しかし、その広宣流布とは、一期弘法抄、及び三大秘法抄に示された戒壇についての御文を短絡して、即座に現実の広宣流布に結びつけた考え方である。広宣流布を現実の理想郷として捉え、本門事の戒壇も、その広宣流布の暁に建立されるものとし、更には、仏国土建設という折伏闘争の最終ゴールとして捉えられてきたのである。

 当初は、一般信徒にとって、遠い夢の如きであった広宣流布が、創価学会の勢力拡張のための目標として利用され、折伏を、そこに至るための手段として、会員の増加がはかられた。その途中に、政治への参加もなされたのである。

 「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある」

 「広布の終点は、国立戒壇建立である」

等と、広宣流布、国立戒壇建立が明確な目的として、全会員に打ち出されたのである。と同時に、こうした政治活動の教学的裏付け作業が行なわれ、機関誌を用いて浸透をはかっていった。

 抑も、創価学会では、
 「大聖人の出世の本懐は、三大秘法の建立にあり、建長五年に題目を唱えはじめられ、弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊の御建立につきるのである」

 という解釈である。つまり、大聖人は諸御書中に三大秘法を説き示されたが、実際には本門の題目と、本門の本尊の建立までで、本門戒壇建立は、未来に遺命されている、というものである。全く皮相的なうけとり方であるが、学会はこの遺命(仏意仏勅)を得、今また信教の自由という時代的な利を得て、広宣流布に邁進する団体である、というのである。ともあれ、二大秘法が既に建立され、広宣流布の暁に残りの戒壇建立と解する出発点に、学会路線が誤り、今日の混乱をひき起こす原因があったとも云えよう。

 正本堂は、こうした解釈の延長線上に建てられたものである。それは、「ついに日蓮大聖人出世の本懐であられる戒壇の大御本尊を御安置する"事の戒壇堂"ーー正本堂を見事に建立した」と明言し、正本堂建立直後、広宣流布の碑が全国あちこちに作られたのである。

 こうした広宣流布に至る手段として、折伏が用いられる。学会では折伏を「破折屈伏の義」と意味付けている。

 すなわち折伏は、相手の邪宗邪義を折り、正法に帰伏せしめる実践行為なのである。末法は本未有善の機根であるから、強いて謗法を責め、信心に服させる折伏、という解し方である。こうした余りにも単純な捉え方であったため、世間において実力行使の布教が行なわれ、暴力的イメージを与えてしまったのである。

 以上述べてきた学会流の広宣流布観、折伏観の教学的根拠は、一体どこにあるのか。それはどうやち本尊抄文段のようである。

「文に云はく、当に知るべし此の四菩薩等文、問ふ、応に四菩薩折伏を現ずる時聖僧と成りと云ふべし、即ち蓮祖の如し、何ぞ賢王と云ふ耶、答ふ、折伏に二義有り、一には法体の折伏、謂はく法華折伏破権門理の如し、蓮祖の修行是れ也、二には化儀の折伏、謂はく、涅槃経に云はく、正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剱弓箭鉾槊を持つべし等云云、仙予国王等是れ也、今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以って仍摂受と名づくる、或は復兼ねて順縁広布の時を判ずる歟云云」

 これは、寛師が、観心本尊抄中「当に知るべし此の四菩薩云云」の文について釈されている部分である。学会では、この文章をそのまま寛師の説であるとしているが、ここに問題がある。

 学会では、大聖人が一代を通じてなされた折伏の成果とは、数十人、せいぜい数百人に過ぎないとし、数百万世帯を抱える学会と比べ、大聖人は法華折伏破権門理の法体の折伏であると断定する。それに対し学会は、折伏成果の増加は、順縁広布の時を得たればこその出来事とし、刀剱弓箭鉾槊を政治活動を含むあらゆる文化活動に置き換え、世帯数を数量的に増やして、順縁広布を迎える、と解釈したのである。大聖人の法体の折伏は、法体の広宣流布、逆縁広布であり、学会の化儀の折伏は、化儀の広宣流布、順縁広布の実現となる。そこでは、創価学会会長が賢王となり、民主主義の現代にあって、不開門を開けるのは、総講頭である会長である、と結びつけられてくる。

 しかし、文段抄を子細にみるならば、決してそのような展開にはならない。即ち、文段抄の「四菩薩が折伏を現ずる時は、蓮祖の如く聖僧となるべきである。何故に賢王と言うのか」との問い以下答えの「折伏に二義有り……・・仙予国王等是れ也」までは、要法寺日辰の所説の引用だからである。更に「今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以って仍摂受と名づくる」とは、日辰の文に対する寛師の解説であり、寛師の考えは、「或は復兼ねて順縁広布の時を判ずる歟云云」の僅か数字である。

 学会は、この日辰の説を寛師の説と勘違いして、ここに学会の折伏基盤をおき、学会こそが化儀の折伏を行じているとしているのであるが、いかにも学会らしい初歩的なミスである。全てを寛師の文とした 創価教学によって敷かれてきた折伏の道が、自ら曲がるのは当然である。


註@ 国立戒壇の「国立」の語は、その後、公明党を結成し、衆議院に進出する際、党のイメージダウンを恐れて、使われなくなったが、名称が「本門事の戒壇」と、当家古来の名称になっただけで、内容は、依然世間の中で捉えられたままであった。
註A 正本堂は初めから戒壇堂という解釈ではなかった。当初は、広宣流布の時を待つまでの一伽藍にすなかったが、戒壇の大御本尊在す所、即戒壇なりと結びつけ、広宣流布も、舎衛の三億の強引な定義付けを以って、近未来の事とし、正本堂建立即広宣流布としたのである。

 

2、要法寺日辰について

 先に創価学会の過ちの根源が、本尊抄文段の読み違い、即ち寛師の考えでなく、日辰の考えであると述べたが、そのことをはっきりさせるために、先ず要法寺日辰の教学の特徴、とりわけ広布観を述べてみようと思う。

 日辰は尊師建立の京上行院と、尊師の弟子日大開山の住本寺の両寺を一寺にした要法寺の実質初代の貫首である。後世、富士門流の教学振興の雄として、保田妙本寺日我と共に「東我酉辰」と併称されている。日辰の著述については、「毎日八十枚欠くる日なし」と健筆ぶりを伝えられ、古来、等身の著があったと云われている。そうした日辰の生涯で注目すべきは、日辰自身、初めは不造像不読誦論者であったのが、途中で造像読誦論者に変わったこと、その転換の要因が、京都に於ける天文法乱にあること、である。

 日辰は23の時、住本寺衆徒の教育機関の講師をつとめている。これは春秋の二回、それぞれ90日間位を単位とし、夏と云われるものである。この夏を終えて秋、京都をあとに、西山本門寺に向かい、日辰より10歳年長の日心に私淑する。富士門流の教学研讃が目的であった。西山日心は、当然、富士の伝統教義である不造像不読誦論者であったし、日辰もそのままに受容し、京都に帰ってからも、不造像不読誦を弘めるのである。

 扨て、当時の京の様相は、まさに日蓮宗隆盛の期であった。「法華宗の繁昌は、耳目を驚かすものなり」とか、「天文元年のころ、京都に日蓮宗繁昌して、毎月二ヶ寺か三ヶ寺宛、寺院出来し、京中大方題目の巷に」と伝えられる。多少の誇張を割り引いたにしても、日蓮宗21ヶ本山は、当時洛中と呼ばれた地域に位置し、中には堀をもつ寺もあり、寺域もさることながら、京都町衆への影響力も大きかったと思われる。

 天文5年(1536)に起こった天文法乱は、洛中に勢力をもつ日蓮宗と、叡山天台宗との信仰上の対立を背景としている。先ず、叡山の僧と、日蓮宗徒の問答が引き金となり、言い負かされた叡山側が、日頃の日蓮宗繁昌の様にたまりかね、武力をもって、洛中の日蓮宗寺院を攻撃した。僧が武器を持ち、闘静を事としたことは、南都北嶺の僧兵に代表されるが、その後、南北朝の社会不安のため、諸宗の間にも、刀杖を帯する風が生じ、武力をたくわえていた。

 日蓮宗に於いても同様であった。寛正7年(1466)に結ばれた日蓮宗洛中諸本山和睦の盟約には、

 「一、異体同心の意を以って折伏弘通を専らにす可き事」

 「一、法理に就いて強弱の両篇有りと雖も、強義を以って正と為す可き事」

 とあり、折伏精神は、刀杖の風と相俟って、増々昂揚したものと考えられる。こうした強義の風潮が、武力保持や、実力で敵と相対峙するに至ることは、容易に想像されるところである。

 天文法乱は、結局、洛中の半分以上を焼かれた日蓮宗側の退出に終わる。21ヶ本山全て焼失の日蓮宗は、洛中から堺に逃れた。その2ケ月後に、幕府は、日蓮宗徒の洛内外徘徊を禁止し、6年後に、帰洛勅許が出されたとはいえ、15ヶ寺の再興の途についたのは、天文15年のことであった。
 帰洛に至る迄の間、堺の日蓮宗は、諸檀那を経て、幕府、公卿に対して、様々な働きかけをする。しかし、帰洛にあたり、最も慎重に対処しなければならなかったのは、叡山であった。天文法乱は、叡山と日蓮宗の武力のぶつかり合いであるが、日蓮宗の武力蓄えには、強義の折伏等の教義上の根拠があったためである。即ち、強義の折伏によって、信徒数の急激な増加が生じ、故に叡山との対立が生まれ、その結果、求めるのは法力にとどまらず、現実の武力になってしまったからである。従って、日蓮宗が堺より帰洛するには、教義上の、主として折伏義の改変が必要であった。しかも、その改変は、天台宗に受け容れられ、幕府にも認められる教義であり、他宗との法義上の対立を押え、再び武力を求めることのないような教義にすることであった。そうしなければ、京に叡山がある限り、日蓮宗の帰洛は、難しかったのである。

 一方、日辰は、西山日心の教導により、不造不読論者であったのが、この天文法乱の翌年、造読論者へと一変する。日辰の著によれば、西山本門寺から京に着いて以来、不造不読の法門を弘めていたが、周囲との論義によって、富士の法門である不造不読の論を停止し、仏前に於て、改悔したとある。造読論に限って云えば、この教義の変換は、日興上人のもとより、日昭等の鎌倉方に走る、というべきもので、日興上人が五老僧に対し、天台の末弟と責められたるに相通ずるものである。日辰の教義改変は、当時の逼迫した状況が、日蓮宗全体の死活問題であったことを物語っている。日辰は京都で活きるため、教義を全面的に変更した。それは富士門に流れる「要を取る」仏法から、世間受けのする広略の教義への転換であった。造像論、読誦論は、こうした背景から生じたものである。それにともなって、折伏観、広布観も変化しているのである。

 当家の折伏と、日辰の折伏との相違は、日院上人の「要法寺日辰御報」に明らかである。

「縦ひ此の如く山林に斗薮し万人に対せずとも、義理に違背之れ無くんば折伏の題目と成り、普く諸人に対する談義なれども広の修行は摂受の行相となるべきか、是則も大聖の仰せ云云」

 つまり、当家の折伏とは、正法正義を寸分違わず持つ事であり、たとえ国家の圧力があったとしても、それに従わぬ要中が要の修行である。しかし日辰は今、それを許されない立場にある。と同時に、折伏の語は伝統的に捨てる訳にもいかない。そこで日辰は、折伏を国王、つまり権力者に譲ったのである。国王の意に従ったところの折伏、これが権力に公認される折伏である。そして僧たる自分達は、一切国主にさからうことのない摂受とし、日辰は見事にこの時代を生きのびるのである。それどころか、要法寺は以前にもまして、大いに発展するのである。しかし、これはもとより当家の法門とは真反対の、むしろ釈尊仏教そのものの教義であって、日院上人は、これを、

「閻浮未曽有の無類の勝山亦葷きこと無く、洛水の処に信仰之れ無き事は謂つべし悖真悖礼と、然りと雖も暫く方便の行ならば、終に広流の正導師に帰せらる者か」

と、大聖人の法門を方便によって覆い隠すことにより、徒らに勢力のみを拡大していった日辰を厳しく喝破されたのである。

 日辰の観心本尊抄見聞は、如上の改変後の書である。今、寛師の文段抄と、日辰の該当する文を比較してみれば、次の通りとなる。

 

 

(寛師)
  観心本尊抄文段
文に云はく、当に知るべし此の四菩薩等、
 問ふ、応に四菩薩折伏を現ずる時聖僧と成りと云ふべし、即ち蓮祖の如し、何ぞ賢王と云ふ耶、

答ふ、折伏に二義有り、
 一には法体の折伏、謂はく法華折伏破権門理の如し、蓮祖の修行是れ也、
二には化儀の折伏、謂はく涅槃経に云はく正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剱弓箭鉾架を持つべし等云云、仙予国王等是れ也、

今化儀の折伏に望み法体の折伏を以って仍摂受と名づくる也、
或は復兼ねて順縁広布の時を判ずる歟云云、

 

 

(日辰)
 観心本尊抄見聞

問ふ、此の文は顛倒す、応に四大菩薩折伏を現ずる時は僧と成り摂受を行ずる時王と成ると云ふべし、今何ぞ此の義に違背する乎、
答ふ、折伏に於いて二有り、
一には法体の折伏、法華の余経を破るが如く蓮祖
是れを行じたまふ、
二は化儀の折伏、涅槃経の如し、涅槃経の第三に正法を護持する者は五戒を修せず威儀を修せず応に刀剱弓箭鉾架を持ち清浄持戒の比丘を護るべし
以上、略して弘十に涅槃経を引くが如く也、又は仙予断命等是れ也、


 これによると、寛師は、日辰を引用しつつ、僅かに問の文に「即ち蓮祖の如し」と、加えているに過ぎない。更に寛師は引用のあとに、「今は、化儀の折伏に対して、人聖人の法体の折伏は、摂受と名付けられる」と、日辰の意を解説し、最後に、「或は復兼ねて順縁広布の時を判ずる歟云云」と、意見を述べられるにとどまるのである。

 当時の人石寺は、すでに造像にはじまる要法寺流の教義に侵されており、永師、寛師は、人石寺伝統法門をとりもどそうとしていた。その作業の最中、寛師は、眼前の相手である要法寺の文を、そのまま引用すると考えられるであろうか。まして、要法寺では開山上人の再来と尊崇される日辰が、当の相手である。寛師の立場は、あくまでも当家伝統法門の再興にあり、それには、まず要法寺教学、即ち日辰の教学を破すことであった。となれば、寛師は、文段抄では日辰の文を引用しているだけ、ということになるのである。

 次に、日辰の本尊抄見聞によって、忠実に順逆の広布を示せば、次頁のようになる。即ち日辰は、人聖人の法体の折伏は末法の始め五百年に限るのであり、逆縁の広布は終った、我々の時代は順縁広布の時であり、折伏は


逆 縁 広 布

末法の始め五百年 
蓮祖の折伏(法体の折伏)

法華折伏破権門理

 

順 縁 広 布

末法の始め五百年以後

在家(権力者)の折伏(化儀の折伏)

涅槃経「持刀剱・・・」



在家(権力者)が行ない、僧侶は摂受を行なう。この在家の折伏を化儀の折伏といい、これに比すれば、宗祖の折伏も、猶摂受にとどまるというのである。つまり日辰は、宗祖が天台を像法過時と退けられたように、宗祖を末法五百年の過時と下したようである。尤も、相手が人聖人ゆえ、そこまで強弁も出来ず、

「若し第一(逆縁広布)第二(順縁広布)広布の次第を論ぜば、第一の逆縁の広布は勝れ、第二の広布は劣る也、勝るとは、地涌の況滅度後の人難勝るる也、又第二の広布勝れ、第一の広布劣れり、何となれば、順縁り広布蓮祖の御本意なるが故也、再往は強いて勝劣ある可からざる也」

といわれ、当家にも非ず、身延にも非ずという訳のわからないところに落着いている。

 しかし、日辰や学会が云うように、人聖人の時代は終った、サアー我々の順縁広布の時代が来たということが、果して許されるのだろうか。これは当家の一言摂尽の妙法、受持正行をないがしろにする邪説になりはしないだろうか。なぜならば、日辰は更に法華取要抄の文を引いて、「門弟の順縁は一部を読むべし」と、妙法五字を捨てて、一経読誦を勧めているからである。是等はすべて、我々の時代が順縁広布だと錯覚するところから始まっている。対して寛師は、日辰の法華取要抄解釈に次のように答えている。

「即ち初心成仏抄の意に同じ。彼の文に云わく、当世の人は何と無くとも法華経に背く失に依って地獄に落ちん事疑い無し、故に兎も角も法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏に成るべし、謗ぜん者も毒鼓の縁と成って仏に成るべきなり云云。取要抄の意弥以って分明なり、更に門弟の順縁一部を読むべきの意無し、何んぞ曲げて私情に会するや」

 即ち、寛師は時によって各々の人が、我々の時代が順縁広布だというのは間違いで、常に末法は逆縁の広布の時であると、明確に破折されている。また日辰が、順縁広布に涅槃経を配しているのに対し、寛師の講義を聴聞された東師や忠師が、涅槃経を逆縁広布に配していることも、これによって頷ける。有師が化儀抄の数ヶ条に、「涅槃経の刀杖」を記されているのも、偏えに、末法は逆縁広布であることを顕さんとしているのである。


 これによって寛師が、日辰の説を、

「或は復兼ねて順縁広布の時を判ずる歟云云」

 といわれた意義も鮮明になろう。今末法は逆縁広布に限るが、日辰がいうような順縁広布が現実の上にあるのならば、こういう解釈もよかろう、と寛師はいかれている。勿論、当家はこのような順縁広布はとらない。


                                                  
3、創価学会と日辰の類似点



 前の2章では、創価教学で捉えられてきた折伏観、広宣流布観の誤りを述べ、その誤りの根源が、本尊抄文段の誤読にあることを指摘した。更に、文段の該当部分が日辰の文であることから、日辰の思想背景にふれ、最後に、学会、日辰共に、当家伝統法門に非ざることを論じた。ここでは、両者の教義上の考え方の共通点を挙げ、その類似性を述べることとする。

 創価学会と日辰の考え方の大きな共通点は、宗祖の拝し方に顕著である。即ち、学会、日辰共、大聖人を宗祖としてはいるか、自分達の時代と、宗祖存生の時代と分けて考えている事である。それは、宗祖の時代と我々(学会、日辰)の時代は異なり、宗祖の折伏には限界があり、今には通用しないという考え方である。尤も、自らを宗祖と切り離し、宗祖の時と、今の時とは全く違うとしなければ、その数量的発展はなかったであろう。

 日辰は、宗祖と自分達の時代の相違を表明して宗祖の折状を捨て、京都で生き延び、一方学会は、文段の文が日辰のものと知ってか知らずか、学会にとって誠に都合のよいものと飛びつき、勢力拡張を日指して大いに利用してきた。その結果、日辰は大法印の位を受けて、当時の幕府、朝廷かち容認され、学会は巨大な組織の力を利用して、衆生の成道とは全く関係のない政治への進出、つまり、世俗の権威づくりを図り、その権威が社会で容認されるように、文化活動、平和運動がなされた。池田大作氏は、「宗祖は一代限り、学会は万代」と云い、日辰も、宗祖在世を含む末法五百年と、日辰以後の末法万年とを区切り、宗祖を鎌倉時代に閉じ込めようとしている。その日的は、宗祖を鎌倉時代に押し込めて、今は自分達の代である、宗祖の代は遥か昔に過き去り、現在には当らないと強調するためである。日辰はその為に、宗祖の折伏を在家賢王に譲って、日辰自身は巧みに摂受となり、権力に媚を売って、寺院の世俗的繁栄をはかるのである。とは云え、日蓮門下であるから、あからさまに摂受とは名乗れず、折伏の中に法体の折伏、化儀の折伏と分別し、宗祖は法体の折伏という摂受、在家賢王は化儀の折伏とあてはめ、化儀の折伏たる順縁広布が、宗祖の本意と主張するのである。日辰は、末法万年は在家賢王の化儀の折伏の時節として、僧の折伏を在家賢王に譲ったことになる。

 学会は、日辰から賢王に譲られた折伏を、そのまま受け取った形になる。宗教団体として存在する以上、教義的裏付けは必要であり、化儀の折伏による順縁広布が宗祖の遺命ともなれば、学会の存在は宗祖が必要としていたこと、と証明するものとなる。実際、学会の強調するところは、宗祖の御遺命たる化儀の広宣流布(順縁広布)を実現するための団体である、ということであって、様々な社会との軋諜も、この大日標の前には些細な出来事か、或いは法難と言い換えられて、相手を敵視する。学会の敵は、直ちに大聖人の敵であるとして、正法破壊者とされ、化儀の広布をはばむ者として、敵対視するだけのことである。学会内で、今や順縁広布の時と盛んに吹聴しても、それは、当家の伝統法門とは、全く似て非なるものである。
 こうした宗祖を切り離して考える学会、日辰の内容を図にしてみると、凡そ次のようになる。

学会の考え方

宗祖

一代限り

法体の折伏(摂受)

逆縁広布(法体の広宣流布)

学会

万代

化儀の折伏(折伏)

順縁広布(化儀の広宣流布)

日辰の考え方

宗祖

末法五百年

法体の折伏(摂受)

逆縁広布

学会

末法万年

化儀の折伏(折伏)

順縁広布


 この図で一目瞭然のように、学会、日辰の思想内容は、全く同じといえる。異なる点は、日辰は僧、学会は俗というそれぞれの立場だけであり、宗祖を法体の折伏、逆縁広布と配し、それ以後は、万代、或は万年に且って化儀の折伏、順縁広布の時であるというのは、軌を一にしている。ただ日辰は、化儀の折伏、順縁広布を在家賢王に譲って、日辰自身は宗祖と共に摂受におさまるが、学会はそれに対して、自分達こそ化儀の折伏を推進する団体であるとして、宗祖を完全に越えているのである。この点、学会は、日辰よりも更に一重立ち入った誤りを犯していると云えよう。

 


4、当家の折伏、広宣流布


 前章にて、学会と日辰の思想上の類似点が明らかとなったが、それに対して、当家で云うところの折伏、広宣流布に就いて述べることとする。まず、それには、当家伝統法門の考え方の基盤を明確にしておく必要がある。

 既に、在勤教師会で出した「事の法門について」にて説明されてあるように、当家は、師弟共に未断惑の衆生の世界、即ち事迷の所に法門を建立している。釈尊仏教を理悟と退け、当家仏法を事迷に建立、と定めるその間には、仏の世界より衆生の世界への時の切り換えがなされているのである。理悟の世界は外用垂迩の世界として釈尊の利益を蒙むるに対し、事迷の世界は内証本地の世界として、未断惑の師弟が一箇して、仏道を成じていく従って、当家で云うところの折伏、広宣流布は、釈尊仏教から切り変わった民衆仏法にたてられる折伏、広布であって、有師、寛師をはじめ御歴代は、釈尊仏教の在世、流転門とは一線を画して、滅後、還滅門の話としてなされている。

 大石寺に御真蹟を蔵する諌暁八幡抄に、

「涅槃経に云はく、一切衆生異の苦を受くるは、悉く是れ如来一人の苦なり等云云、日蓮云はく、一切衆生の同一苦は、悉く是れ日蓮一人の苦と申すべし」

とあるように、釈迦如来が一切衆生の苦を異の苦とする有差別の世界に居すのに対し、宗祖は一切衆生の苦を同一の苦とする無差別の世界、即ち、共に未断惑の一切衆生の世界に居している。この二つの世界は、そのまま謗法者のいない世界、つまり順縁の世界と、全てが謗法者の世界、つまり釈尊に対する逆縁の世界の違いとなる。

このことは、

「仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益 此れなり」

の文に至り、末法は釈尊の利益では救われぬ世であって、偏に不軽菩薩の折伏修行の利益の世となり、釈尊仏教の世から一変している。

 宗祖が「日蓮は不軽の跡を紹継す」と仰せられ、日興上人が「末法の修行」と受け止められたのは、宗祖の修行、そのまま末法弘通の姿、折伏修行の姿であるとされたに他ならない。威音王仏の末法の不軽の姿こそ、宗祖が見習われた折伏の姿であり、宗祖は杖木の打擲を受けながらも、生涯通して貫かれた姿である。

 なるほど一見すれば、宗祖の姿と不軽菩薩の姿とでは違うであろう。宗祖の一生は、大難四ヶ度、小難数知れずという迫害の一生である。不軽菩薩は「我深敬汝等」の二十四字を唱える但行礼拝である。外相のみを見るならば、宗祖は人々を礼拝して回ったというのはない。宗祖が紹継したのは礼拝行ではなく、同じ末法(威音王仏と釈尊)にあって、法華を持つ姿を紹継されたのである。四菩薩造立抄の、

「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は、日蓮が如くにし侯へ」

の文をそのままに受け取り、当時と同じ生活をする者はなく、そこには法華折伏破権門理の姿を学ぶ。同様に、不軽菩薩にも、宗祖と同じく折伏の信仰姿勢を学ぶのである。

 宗祖には、日辰のように京都還住のための法義改変など勿論なく、又、学会のように数的拡大を日指して、都合のよい教義歪曲などあろう筈もなく、只管法華折伏破権門理を通された。法華折伏破権門理とは、。権門の理、即ち真実でないものに対して、妥協せず正していく行為である。院師が、

「縦ひ此の如く山林に斗薮し万人に対せずとも義理に違背之れ無くんば折伏の題目と成り ・・・・・・ 」

と日辰に返答されていることや、寛師が、

「他に教える如く自ら修行する」

と自行の辺を仰せられているのは、自行としての折伏、蓮興目三祖の内証の義理に違背なきよう、己れに向ける折伏の姿を指して云われているのである。

 第2章にて、日辰が化儀の折伏、順縁広布に涅槃経の「持刀剱………」を配しているのに対し、寛師の本尊抄講義の聴講者である東師、忠師等が、逆縁広布に涅槃経を配している違いについてふれた。また有師が、化儀抄に「涅槃経の刀杖」を記されていることを考えあわせてみても、当家の刀杖とは、他に向ける刀杖ではなく、己れに向ける刀杖と考えるべきである。とすれば、

「1、出仕の時きは大刀を一つ中間に持たす可し、折伏修行の化儀なるが故へ也」

という大刀も、護衛、警固のためというよりも、内証仏法の相続のため、義理に違背せぬよう己れへの折伏を、
事相に表した姿と考えられるのではなかろうか。

もともと、当家は眼に見えない内証仏法を主張する。内証、眼に見えないとは、即ち己心の所談だからであって、折伏も又然りである。これを眼で判別できる外相に取り出して、これが折伏の本義であると云うならば、それは流転の世界での展開で、徒らに成果主義に突き進んでいくのは明らかである。

 次に、当家に於ける広宣流布も、折伏と同様、己心の所談である。寛師が、

「問ふ、今時は已に如来の滅後二千六百余年也、後五百歳の時已に過きたり、然るに爾前の諸経未だ隠没せず、仍諸国に盛んなり、法華の三箇未だ流布せず、但吾が一門のみ也、如来の玄鑑虚の如し、無虚妄の説徒らなるに似たり如何、答ふ、利生の有無を以って隠没流布を知る可き也、何ぞ必ずしも多少に拘らん耶」

と、利生の有無を以って流布を知るべきであると云われるように、数量で云云される余地のない所に当家の広宣流布をたてる。政治革命、経済革命をかかげ、そのむこう側に広宣流布があるかの如くに思うのは、愚かなことである。

 東師、忠師の本尊抄聴聞の記に、

「逆縁広布の時は涅槃経の如く刀杖を帯する也」

と寛師の意を記され、更に寛師御自身も、

「当流漸々流布す、一葉落る時皆秋を知る、一華開ける日天下の春なり、壹広宣流布に非ず耶、況んや逆縁に約せば日本国中広宣流布なり、況んや如来の金言は大海塩の時を差へざるが如し、春の後に夏来るが如く、秋毫も差ふこと無し、若し爾らば終には上一人より下万民に至るまで一同に他事を捨てて、皆南無妙法蓮華経と唱ふ可し、順縁広布何ぞ之を疑ふ須けんや、時を待つ可き耳云云」

と云われている。つまり、当家は還滅門にたてる逆縁広布(法華折伏破権門理、持刀杖)を本真目とし、三聖の内証を違えざる折伏の宗なのである。寛師の仰せの一華とは、衆生の中の一人ではなしに、一切衆生を摂めたところの一華である。この己心に収まる還滅門の広宣流布が、当家伝統法門の広宣流布で、これに対して、一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人と、数を追って外に開いていく流転門の中で、上一人より下万民の全て妙法を信受するその時が、順縁広布である。当家に於いては、一応流転門に永遠の日標として順縁広布を置くものの、本義還滅門としては、現在も、又未来も逆縁広布であって、三聖の師の種をつぐ弟子として、寛師の仰せのように、己心の折伏、逆縁広布を成していがねばならない。

 

寛  師

学 会 ・ 日 辰

流転門

順縁広布

広宣流布  化儀の折伏、在家賢王

     (涅槃経、持刀杖…)

 

 

逆縁広布  法体の折伏、宗祖の妙法弘通

 

環滅門

逆縁広布

不軽の行 (涅槃経、持刀杖…)

 

 



 

 

 

 

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