『法華経』の信仰と研究  

 

上原 專禄  

 

 

  ちょうど昨日と今日(1958年5月24・5日)の2日間、弘法大師開宗1150年の行事が芝二本榎の高野山別院で行なわれております。そして昨日は、その記念講演が銀座の日本堂であったのでございますが、どういう都合ですか、私に講演の一端を受け持てということで、弘法大師のお話を少しばかりさせていただき、非常に大胆に私の弘法大師観について聞いていただきました。そういう厚かましい話ができましたのは、弘法大師については、私は全くの門外漢でございまして、偉大な人物だということは存じておりますけれども、弘法大師の教義、ことに教相はとにかくといたしまして、事相の点になりますと、門外漢の窺い知るべからざるものがあって、どうしてもその門に入らないとわからない。どうせ門外漢であるという気楽さが、大胆なことを申し上げる気持にさせたと思うのでございますが、日蓮聖人や法華経の話になりますと、そうはいかないのでございます。

と申しますのに、日蓮聖人についての領解が大いにあるわけでもございませんし、法華経について特に勉強したことがあるわけでもございませんので、素人であることは確かでありますが、私が法華経という経典に接しましたのは、もう今から50年以上前のことでございまして、法華経の手引をいただきましたのは、私が伊予の松山におりました当時の、ある日蓮宗の坊さんであったのであります。小学校の3年の時から法華経の真読のご指導をいただいて、今日まで50年以上を経過しております。今日まで50年と申しますと、半世紀でございますが、半世紀の間日蓮聖人につきましても、法華経につきましても、始終同じ厚みの関心を持ち続けて来たというわけにはまいらないので、時には大へん熱中したこともあり、時にはほとんど忘れてしまったようなこともございましたが、とにかく今日まで、法華経と日蓮聖人についての関心は細々と続いてまいりました。しかし近頃になればなるほど、細々ながらその密度が幾らかづつは高まって来ておるような感じがするのでございます。

そうなってまいりますと、昨日弘法大師について大胆に私の想像したところを申し上げたりいたしましたが、そういう工合に無責任なことをこの席で申し上げることはできたいような気持になっておるのでございます。と申しますのは、法華経の真読を教わりましたのは日蓮宗のさる坊さんでございますが、日蓮聖人の遺文を拝読するようになりましたのは、亡くなられました田中智学先生のご薫陶によるものでございまして、法華経は読んでおるだけではいけないのであって、色読しなければならない、ということを教えていただきました。日蓮聖人の遺文を拝見する場合にも、ただ文字の字面を読むだけではいけないのであって、色読したげればならないものだ、ということを子供の頃から教えられてまいりました。そこで、法華経をどう理解するか、日蓮聖人の遺文をどう理解するかという問題は、私がどれだげそれらを色読しておるかということとつながってくる。法華経というものは、こういうものであろう、日蓮聖人の思想はこういうものであろうということをいうだけでは、法華経や日蓮聖人を理解したことにはならないのだ、という子供の時分から教わりましたことが、いまだに耳にこびりついております。法華経や日蓮聖人について申し上げる時には、誰に対する責任でもありませんが、いささか自分自身に対する責任の重さを感ずるという状態でございます。

法華経も日蓮聖人の教えや信仰も今日から明日にかけての日本の中で活かされてゆかなげればならぬものでありましょうし、また私どもがそれを活かしてゆこうとする努力を通じて、それらが幾らかづつでも活きてゆくのだと、こういうふうに考えておるのでございます。先程はからずも、日教組がどうとか、勤務評定がどうとかいうお話がございましたが、それについて私なりに考えておりますことも、実は、日蓮聖人を今日どう活かしてゆくかということとのつながりで考えておるのでありまして、関係がないわけではありません。しかし今日は、そういうことを申し上げる積りは全然ございません。むしろ今日は日蓮聖人のお話よりは、法華経についてのお話を幾らかさせていただきたいと思うのでございます。

法華経をどう見るかという問題は、法華経をどう色読するかという問題につながるわけでございまして、ただ経文を読んでおるだけでは、法華経の領解にはならないというふうに考えられることは先程申し上げた通りでございますが、そのように法華経の読み方を単に文字の上だけでなく、精神の上で、あるいは肉体の行動の上で、社会の働きの上で読んで来た方は、沢山あるわけでありまして、その中の最も優れた方が日蓮聖人だろうと思うのでございます。私たちは一方において、日蓮聖人の思想と宗教をどう今日から明日の日本の社会に活かすことができるだろうかという問題を考えると同時に、日蓮聖人め教義の骨格をなしておった法華経というものは、いったいどういうものかを考えますと、その法華経自体に法華経の礼賛の仕方が書かれておるわけでありまして、特に菩薩道の修行が力説されております。やはり法華経は文字を読むだけではなくて、色読しなければならぬものだということは、日蓮聖人の教えを待たなくても、法華経自体に書かれておるわげであります。

ところで私どものように、一方では、どうすれば法華経や日蓮聖人の宗教を現代に活かすことができるだろうかということを考えると同時に、他面では、西洋流の学問の端しくれを齧っておる人間といたしまして、法華経というものは文字の上で読んだだけでは駄目だということのほかに、文字の上だけというその文字というものが、なかなかむずかしいものだということも、同時に考えさせられるわげでございます。法華経を字面だけで読んではいけないということをよくいわれてまいりましたが、その字面を見ること自体が、決して容易ではないということを段々と悟るようにたってまいりました。ご承知のように日蓮聖人が法華経を読まれる場合には、天台大師の法華経の理解の仕方が、少なくともいちおうの出発点になっておるわけでございます。法華経については日蓮以前にインド・中国・日本の三国にわたって、法華経をどう実践するか、色読するかという問題の前に、法華経の文字の読み方について、いろいろの理解の仕方があったわけでございます。その中で特に天台の法華経の読み方が日蓮聖人の法華経理解の、到達点ではありませんが、出発点になっておる。そして天台の法華経理解の仕方を越えて、独自の色読の仕方を展開されてゆかれたのが日蓮聖人だろうと思うのでございます。

ところで、天台大師の法華経の読み方は『法華玄義』とか『法華文句』という書物にあるわげでございますが、法華経を一経三段あるいは二経六段というように、全体を三つの部分に分けて理解する方法、あるいは法華経を迹門と本門の二つに分けて、そのおのおのを序分、正宗分、流通分の三部分に分けて捉えてゆく方法、こういう一経三段とか二経六段とかの法華経の把握の方法というものが、天台によって確立されました。そういうように法華経全体を、二経六段でいいますと、迹門と本門に分けるわけですが、迹門の方は、序品から始まって安楽行品の終りまで、それから本門の方は、従地涌出品から始まって普賢菩薩勃発品で終る。これが迹門と本門である。そうして迹門の方をさらに序、正、流通に区別するわけですが、その序分は法華経の序品第一、正宗分にあたるところは方便品から人記品、流通分は法師品から安楽行品まで、こういう工合に分けまして、そこには――これも天台の理解の仕方ですが――、開三顕一の法門(三乗の権を開いて一乗の実を顕わす法門)が説かれておるというように天台は理解する。同時に涌出品から始まります本門につきましては、涌出品の前半が序分に当りまして、その後半から分別功徳品の前半まで正宗分で、分別功徳品の後半から普賢品までが流通分ということになります。これを近きを開き遠きを顕わす、すなわち開近顕遠の法門が説かれておると申すわけであります。

こういう法華経の読み方、これは、単に文字の字面をとっておるだけではもとよりないのですが、天台という方は、ご承知のようにその当時までに中国に渡ってまいりまして翻訳された仏典をある方法で体系化しようとしました。すなわち、釈尊出世の本懐がどこにあるかという、その真髄を見究めるという立場からいたしまして、仏典の全体について体系を与えようとし、その体系化の試みの中で、法華経を大義第一といいまして、一番の中心におく。その法華経の中でも、いまの二経六段の分け方からいいますと、本門の寿量品を中心に考えてゆく。つまりその当時中国に伝わってまいりました無数の仏典にある体系化を試みて、その体系化の中で、法華経の地位を明らかにしてゆくという一つの体系学を天台はやったと思うのでございます。

この天台の体系学というものは、先程も申しますように、日蓮によって受け入れられまして、そこからさらに出発するという構想がとられたわけだと思うのでありますが、実はそういうような仏教経典全体の天台的体系化、天台によるシステマティゼーションというものが、仏典把握の方法としてどういう意味を持つだろうかという問題が後世の私たちにはあるわけでございます。これは、直ぐに天台の法華理解の方法や、その体系化の仕方が正しいか正しくないかという議論をしようとしておるのではないのでありまして、およそ仏典を体系化する場合に天台のとった方法というものは、いったい何を意味するだろうか、それを取りあえず明かにしておこう、というのであります。

天台の体系化の試みの前提といたしましては、大乗小乗の経典はすべて釈尊金口の説法であって、それらは悉く釈尊がご自身でお説きになったものであるということが、前提になっておるわけでございます。阿含から始まって般若・法華・涅槃というように経過してゆくその仏典は、悉くお釈迦様が自分で説法をされたのだという考え方をとっております。本当に天台がそう考えておったかどうかわかりませんが、少なくとも『法華玄義』などに、諸経の体系化を試みる場合には、そういう考え方が前提になっでおる。ところが西洋学の考え方、19世紀の初頭以来、ヨーロッパ人が仏典を見るようになりました見方は、これと大変違うのでございます。釈尊自身がお話にたり、お説きになった経典は、ごく僅かなものであって、後の大部分の経典は、釈尊が亡くなられてから釈尊の真意がここにあるのだということを考えた人たちが、そのようた考え方に基づいて作ったものであって、釈尊が亡くなられてから、今日の阿含系統の経典が作り出され、それからずっと後になって大乗経典が作り出された。その大乗経典の中で、法華経はあまり古い方ではありません。法華経が作り出される前に般若系統の仏典が作られた。日本でよく読まれるものとして、般若経の他には維摩経がありますが、この般若経・維摩経などが、法華経の前に作られて、それから法華経が作られた。その後になって大日経などの密教経典が作り出された。だいたい、1200年の長い時期にわたって徐々に作り出されたものの全体が、いわゆる仏典であって、お釈迦様自身が自分の口で説かれたものはごく僅かであるというのです。つまり大乗経典の全体を引っくるめて、それを歴史的に作り出された、歴史的発展の所産であるというように考える。こういう考え方がヨーロッパ人によってなされたわけであります。

ヨーロッパ人が、経典についてそういう考え方をいたしますのは、何も仏典だけではございません。ヨーロッパ人にとってキリスト教の経典ともいうべき旧約聖書・新約聖書をどう文字の上で理解するか、その神学的意味を把握する前に、旧約新約両聖書の文献学的な研究が大切であるという考え方が、ルネサンス時分に出てまいりまして、だいたい16世紀頃から聖書に対する文献学的研究が段々と行なわれ、17世紀、18世紀、19世紀と、段々鋭い批判的研究がなされるようにたりました。これは序そのことですが、一昨年(1956年)でございますか、クラウスという人が『旧約聖書の歴史的・批判的研究の歴史』という立派な本を書きました。この本では、今までだいたいは知られておったわけですが、宗教改革以来今日に至るまで、ヨーロッパ各国の宗教界で旧約聖書の研究がどう展開されて来たかを通観しようとしております。つまりキリスト教徒としては、ことにルッターの場合に出てまいりますように、聖書に書かれておる以外のものは信じないとする。しかし聖書に書かれておる文字を信頼するという聖書主義の立場に徹底すればするほど、一方では、その聖書主義の信仰の立場と、それから他方では、ルネサンスのヒューマニズムの考えから始まりました文献学的・批判的研究というものとをどう調和させ、どう統一的に捉えるかという問題で、ヨーロッパ人は今日まで悩み続けて来ておるわけであります。そういう自分自身の問題として、ヨーロッパ人はキリスト教信仰の根拠であるところの聖書、それを一つの文献としてどう読むかという問題をめぐって文献学的研究が発達してまいりました。この文献学的研究の精神は、他の宗教の経典を読む場合にも、同じように適用されるべきものであるというふうに考えられたところから、フランス、ドイツ、イギリスなどの学者が、仏典の研究の場合にも、いわば聖書研究における文献学的批判の方法を応用することになりました。その研究方法が、明治初年以来日本に伝わってまいりまして、今日では、文献学的研究の立場から仏典を説もうとなさる学者や学僧たちが非常にたくさん出てこられました。

 そこで法華経につきましては、亡くなられた本田義英博士や布施浩岳先生が昭和8・9年頃に特に法華経の成立の問題をお説きになり、また戦後法華経につきましては、両先生の他に、例えば横超慧目さんが『印度学仏教学研究』第2巻の1に『多宝塔思想の起源』という論文を書いておられます。これはたいへん面白い論文と思って拝見いたしました。それから、若い方でございますが、紀野一義さんが、『印度学仏教学研究』に書いておられますほか、『大乗仏教の成立史的研究』(宮本正尊博士編)の第5章第4節といたしまして、同じ紀野さんが法華経とウパニシャッドの関係を論証しようとしておられる。つまり昭和の中期から今日に至るまでに、本田義英先生の大きい業績を始め、戦後にも引き続きまして印度学仏教学の立場から、特に文献批判の方法を法華経の分析の上に適用しようとする非常に優れた研究が続々と出つつある。お読みになった方も多いと思いますので、私からの紹介は差し控えた方がかえって誤解がなくていいかと思いますげれども、例えば横超慧目さんは『多宝塔思想の起源』で、多宝塔の出現、ことに多宝塔で多宝如来と釈迦如来とが二仏並座という形をとられる原型は、いったいどこにあるかということを研究されまして、それは例えば『根本説一切有部毘奈耶雑事』の中にちょうど釈迦と摩詞般若との関係が書かれておるが、その説話が宝塔品における二仏並座の原型だと考えられる、という注目すべき研究を発表しておられます。また、前掲『大乗仏教の成立史的研究』中の第五章第四節の紀野さんの『法華経とチャーンドギャ・ウパニシャッド』も同様でございまして、特に涌出品、宝塔品の中に出てくるいろいろの説相の原型が、ウパニシャッドの一つでありますチャーンドギャ・ウパニシャッドの中にあるということを指摘しておられる。いずれも注目すべき研究でございます。また布施浩岳先生は、やはり最近の『印度学仏教学研究』の中で以前からお考えになりました法華経成立史以来の研究を要約されながら、そこにはお述べにならなかったような新しい見方も提示しておられます。私はたいへん有益に拝見したのでございます。

私が申し上げたいと思いますことは、そういう文献学的な研究によって法華経を捉えてゆこうとする方法というものが、私たちの法華経理解の上に、どういう意味を持つだろうかという問題なのでございます。つまり、ちょうどキリスト教の方では、16、7世紀以来、信仰と学問的研究との統一、あるいは統一的把握ということが、問題になって今日に及んでおるわげですが、現代の日本人にとっては、これはたんに日蓮宗だけに限った問題ではございませんが、その伝統的な信仰の問題とヨーロッパ風の学問の一つとしての文献学的研究とが、どう統一的に掴まれるであろうか、こういう問題があると同時に、その問題を考える場は、いったいどこで考えたらいいのか、という問題もある。ここにいう場と申しますのは、専門家が考えたらいいのか、在家の信者が考えたらいいのかという場ではないのでありまして、今日の活きた政治・社会の問題との関わり合いにおいて、信仰と学問との統一の問題が考えられる可能性があるのかたいのかという意味での場なのでございます。自分一人の信仰の上に、あるいは研究者としての立場から、そういう伝統的な信仰と、ヨーロッパ的な法華経の分析、あるいは文献学的把握の仕方とがどう関わるかというだけの話ではなくて、そういうことを問題にしておる当人自体が、いったいどういう問題情況の中におかれておるかを考える立場から、逆に信仰と学問との問題が考えられる可能性がないだろうかという点なのででざいます。私の申し上げることが、非常に唐突に聞こえるかも知れませんので、いささか解説をさせていただきます。

ヨーロッパのキリスト教信仰は、聖書に関する文献学的な批判がいかに鋭くたりましても、そのために衰えたとか微弱になったとかいうことは、少しもないと私は考えるのでございます。むしろそういうような学問的分析の研究が厳しくなり、学問的な証明が現われれば現われるほど、以前と違った形ではあるけれども、キリスト信仰というものは深まってくるというようには考えられないだろうか。明治以来の学者や学僧たちのなさっておることを拝見いたしますと、信仰の問題と学問研究の問題とをいちおう分けて、「これは学問の話じゃよ、信仰の方では別に考えなければならんのだが、新しい学問のやり方ですると、法華経はこう見られるのだ、」というような工合に、信仰と学問研究とを分けておいて、信仰は信仰の問題、学問は学問の問題として考える傾向が幾らか強かったのではあるまいかと思うのでございます。私自身は別に仏教学の専門家でもございませんし、また自分から進んで日蓮聖人についての信仰を本当に持っておるとも言われませんので、かえってその点は自由になるかと存じますが、どうして明治以来合目までの法華経研究――法華経だけではございま苦んで、それ以外の浄土三経の研究にしても、般若経の研究にしても同様だと思いますが――というもの、これは学問の話であって信仰の話ではない、という前提の下に学問研究をやっていて、信仰はそれとは関わりなしに、伝統的な考え方で進められる、という状態が私にはよくわからないのであります。これはいったい、どういうことなのだろうか。

学問研究が進んだ結果、法華経は釈尊が説いたものではない、あれは紀元前150年位からでき始めて、すっかりでき上がったのは紀元後二世紀の半ば頃であって、ことに最初の形は27品であって後に28品になったのだ、とかいうことが明らかにたることが、信仰を弱めるものででもあるかのような懸念の下に、学問と信仰との分離が行なわれて来ておるように、私には受け取れるのであります。果してそれでいいものだろうか、どういうわけで学問研究が信仰の問題と別だものだということになるのか。学問研究の結果、動揺するような信仰であるならば、そういう信仰は、およそ安っぽい信仰ではあるまいか。日蓮聖人が「智者に我が義破られずば用いじ」といわれまLたのは、何も文献学的研究のことではないと思いますげれども、理知的立場で法華経がヨーロッバ流に分析されると動揺するような法華経信仰というものは、いったいどんたものかという疑問が、私どものような者には、出てくるのでございます。むしろ文献学的研究の進展によって信仰そのものの深化が可能なのではないのか。それを皆様にお考えいただきたいと思うのでございますが、そういう法華経、あるいは法華経だけではなく他の仏典に関する文献学的研究というものを踏まえて、法華経信仰というものが深まっていくという問題が、皆様によってどう考えられるだろうか。それを一つ私の方からお教えをいただきたいと思うのでございます。日蓮聖人は、天台の体系化に基づいて法華経を捉えた。天台自身は、歴史的・発展的見方で仏典を見たのではなくて、一切の仏典を釈尊の生涯の中に圧縮して釈尊金口の説法として捉えるという方法に立って体系化――歴史的・発展的にではたく、非歴史的ないわば哲学的体系化――をやったのだ。そういう天台の方法の持っておる意味も考え、しかも法華経自体は数世紀の長い問のインドの社会と文化の中で作られたものだということを考えることが、法華経信仰を弱めるものか強めるものかという問題をお考えいただけると、非常に有難いと思うのでございます。

ところでこういう問題につきまして考えるのは、皆様のごめいめいなり、私なら私という個人なりが、考えるわけですが、それは自分の信仰を深めるとか、あるいは自分の領解を進めるとかいうような、いってみれば、めいめいの個人的目的のため、というように考えられましょう。しかし、そのような個人的な立場でこの問題は考えられるものかどうか。例えていえば自分の信仰が深まるとか深まらたいとか、領解が深まるとか深まらないとかということは、二義的なことである。大事なことは、法華経の思想、法華経の功用が具体的に発揮されるという側の方により重要な問題点があるのだ、こういう裏返しした考え方がいっそう重要ではないのか。いってみれば、自分自身の信仰が深まるとか、それで成仏が得られるということは、有難いことだが、場合によっては、自分の成仏などは、実はどうでもいいのであって、より重大なことは、法華経の考え方、あるいは日蓮聖人の考え方が現代に活かされるということなのだという発想から、法華経の文献学的研究、天台の文献学的研究、日蓮の文献学的研究というものをやってゆく必要があるのではないか、と考えるのでございます。もとより、文献学的・批判的研究というものが、一種の危険を持っておるということは、これはキリスト教の聖書研究の歴史の中でも、特に17世紀に一種のピュロニズムすなわち聖書の一切を否定する懐疑論者が出てまいりましたことで、わかります。その懐疑論が18世紀・19世紀に克服されて、現代にはそのようた懐疑論はないと思います。一面そういう懐疑論や批判のための批判が出てくる危険も十分承知しながら、なおかつ文献学的研究と、その進展に即した信仰の深化に努力すべきではないか。しかるに、学問の方は大衆の目には見えない書斎の中や研究室の中の問題であるとし、研究発表の時でも、信仰面は伝統的な形でやるべきだと言い添えたり、主張したりすることになると、信仰の発展とか、信仰が常に新しく生き返り生まれ替ってくる必要という問題がどうなるかということが起ってくると思うのであります。法華経にたいする信仰も、インドにおける法華信仰、中国における法華信仰、日本におけるそれがそれぞれ違っているうえ、日本の内部でも、奈良、鎌倉、それから今日と、その内容は非常に変わって来ておる。一方において懐疑的で否定的な危険が出てくる虞れもありますが、他方においては長い目で、いつも活きいきと、いつも清新なかたちで法華経の精神を広めてゆくことができるかという観点に立って、研究と信仰との統一的深化の仕事を私たちはやる必要があるように思うのでございます。自分の信仰が深まるとか領解が深まるとかいうことは大した問題ではないのであって、法華経の真意がそこに具現することの方が根本的に大事たことだということを只今くり返し申し上げましたが、それは次のような問題を考えるからでございます。

今日の人類、あるいは今日の日本人がおかれておる歴史的問題というものの厳しさ、それが具体的にはどういうものかということを一つびとつここで申し上げる必要はありませんが、原水爆による人類破滅の危機という問題が事実出て来ておる。そういう状態の中で、私たちは法華経をどう信ずるかという問題を考えなければならぬのであって、そういう歴史的な問題と関係なしに法華経の有難さはどこにあるかということを研究するのでは、法華経をどう捉えるにしろ、本当に法華経を活かそうとする所以ではなかろう。つまり自分の安心が確立するとか、あるいは自分の成仏の保証が得られるとかいうことは、それ自体結構でございますけれども、自分自身が成仏をしておる中に、人類全体が滅びてしまうとか、日本人全体がどうかなるということでは、個人の成仏などということはほとんど意味がない。それ自体は大事なものではあるが、より大事なことが他にもたくさんある。そういう「危機」これはキリスト教の言葉で、仏教関係の者が使うのは借用だ、と思うのでありますが――、その危機に、日本人の信仰として法華経の問題を考えて見ると、自分自身の信仰が深まるとか領解が進むとかいうことは、大した問題ではたいと思われると同時に、法華経が現実に活かされてゆくことが根本的に大事だ、と考えられる。出発点は法華経をどう実行するか、法華経をどう会得するか、それも自己満足的な仕方で会得するのではなくて、今日の問題情況の厳しさにちょうど見合ったような、そういう客観的な意味を持つような法華経の会得が行なわれるにはどうすれほいいか、という問題だと思うのであります。

こういう問題になってまいりますと、直ぐ危機の問題と結びつくとはいえませんけれども、明治以来、岡倉天心だとが強調しました「アジアは一つだ」という考え方、この岡倉天心以来の日本人の持っておるアジア観である「アジアは一つだ」ということの意味を、どう現代に活かしてゆくかという問題が考え合わされてまいります。岡倉天心の考え方には、古い面と新しく活かし得る面との両方が含まれておるように思うのでありますが、例えば法華経――これは確かに日蓮宗の信仰からすれば、釈尊・天台・日蓮とったがるわげでありますが――は、古代インドの社会と文化の作り出した立派な文化財である。インド人はいかに優れ、いかに大らかな、いかに高い思想や感情を持っておるか、ということをこれほどはっきり示した文献は他には少ない。この法華経を作り出したインド人が現代とのような意識や精神において生きておるだろうか。なるほど法華経そのままの形では、今日のインドでは伝承されていないかも知れませんけれども、法華経の精神が今日のインドにおいて、どういう形で、法華経という名前を挙げないで活かされておるか、という問題もある、と思います。つまりインドでは法華経は死んでしまったように普通考えられておるが、果してそうだろうか、というような問題もございましょう。また天台などによって尊重された法華経が、中国ではどうなっておるのだろうか。法華経の理解や信仰というものを媒介にして、そこに少なくともインドと中国と日本との関連性があると同時に、そこには法華経の理解の仕方において、例えば竜樹の法華経観、天台や中国の坊さんたちの法華経観、日蓮聖人の法華経観の間には相当の開きがあるわけで、インドの文化財をそれぞれの国でどういう工合に受け取り、どう活かしていったかという問題もある。ところが私たちはインドを何か非常に遠い国だというふうに思い込んでしまった。その点またヨーロッパとの比較をいたしますと、今日のドイツ人、フランス人、イギリス人、あるいはその他の国ぐにの人の場合でも、現代のヨーロッパ人の中にはユダヤの精神、ギリシアの精神が活きておる。つまりユダヤであるとかギリシアであるとかいうのは、遠い過去のものではなくて、今日のヨーロッパ人の血となり肉となり、少なくともその文化の源流になっている。そして大事なことには、文化の源がそういう所にあるというはっきりした自覚と意識が現代のヨーロッパ人にはあるのであります。私たちには、そういう意識が非常に稀薄である。確かに日蓮、天台、釈尊という系譜が伝えられておりますが、それは細々とした線であって、古代のインド文化の全体を日本人の魂の淵源である、あるいは少なくとも一つの源流であるという考えによって、インドと日本とを結ぶ構想が、私たちには稀薄なのではたいだろうか。学者は知っておるのですげれども、日本人の生活感情の中には、今日のイギリス人、フランス人、ドイツ人がギリシアやユダヤのことを身近に感じ、その共通の思想や精神の源流の上に、ヨーロッパ全体の統一性が意識せられておるのに匹敵するようだ構造が、存在しないのではないか。アジアは一つといっても、アジアの一体性とかアジアの関連性とかいうものの精神的な基盤なり文化的な帰趨なりをどこに求めるかという問題が実は未解決のままになっている。私たちは確かに仏教を学んだり信仰したりして生きて来ておるのだが、それは他たらぬ古代インドの所産です。その古代インドからは、いろいろなものが流れ出たわげですが、古代インドの文化はたんに今日のインド人の古代文化であるばかりでなく、ある意味では、われわれ日本人の古代文化でもあるのだ。同じようたことがある限られた意味においてではあるが、今日の中国人や他のアジア人についても何ほどかは言える。古代インドというものを、今日のアジ7人の文化や思想の一つの源流として生きいきと自覚し合うことが可能だとすれば、アジアの一体性も単に今日の政治の問題として独立という問題を共通に持っておるというだけではなく、その歴史的・文化的な基盤ができることにたる。自分の信仰をどう深めるかという、細ぼそとした個人間題から出てゆきますと、自分、日蓮聖人、天台大師、それから釈尊というふうに、ずっといってしまうわけでありますが、実は自分の信仰が深まるか深まらないかはあとの話で、大事なことは法華経の精神が実現することだ、というように考えてまいりますと、法華経を中核としたインドの古代文化の全体というものが、重視せられてくる。それは学者だけが研究上問題にすべきものではなくて、いわばアジア人全体の文化の、少たくとも一つの源流として重視せられてくる。ちょうど今日のヨーロッパ人は、ヨーロッパ世界の中で、いろいろの分裂があるにもかかわらずギリシア、ユダヤ、ローマの古代を自分たちの共通の古代と考えることによって一つの統一性を意識しておるのに見合ったような関係が、アジアの方にもできてくるのではないか。どうしてわれわれは釈尊一人を重く見て、釈尊を生み出したインドを重く見ないのか。逆にいえば釈尊が作り出したインドでもあるわけですが、そういうことをどうして身近に感じないのか。ヨーロッパ人がギリシア、ユダヤ、ローマを自分の身の内に感じ、そうすることによってヨーロッパの統一がなされて来たということは、中世以来、古代文芸を大切に保存し、それを常に復活させてきた、その努力に基づくわけです。ルネサンス以来の文献学的研究、すなわちその言葉の意味しておる実体は何かということを明らかにしてゆく文献学的研究が非常に盛んになって、それを通して今日のヨーロッパ人はギリシア、ローマ、ユダヤというものを二千年以前のものとは考えないで、身の内に活きておるものとして感じ取っておる。私たちはインドや中国の古代を、そういう工合には感じない。西欧文化をどう認識するか、それとのかかわりで自分の思想をどう構成するかという、そちらの方の関心があり過ぎて、手近かのもっと大事なものを忘れておるように思うのでございます。そういう点からすると、法華経を古代インドの文化と歴史の中に位置づけ、同時にそのような位置づけの中で、私たちに全体として非常に近いものとして古代インドを感じ取るようにしてゆくと同時に、古代インドとのつながりあるものとして現代インドを理解し、現在のインド人と日本人とが、魂と思想の共通性ということで結びつくことも考えてゆくべきではないだろうか、と思うのでございます。

 戦後の法華経の研究におけるいろいろな方法の立派な業績を拝見するにつけまして、私のように専門の学者ではありませんが、子供の時から法華経を読んで来まして、法華経をどうすれば自分の身の内に摂取することができるか、しかも目分の信仰を深めるという角度だけからでなくて、この現代にどう法華経を活かすことができるかという問題を考えている者として、今のような所感を申し上げさせていただいたのでございます。

 

――1958・5・24講演――  

 

 

 

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