「大衆的インテリ」の未来像

 

 

上原 專禄

 

 いったい、知性とよばれているものは、総じて、歴史的現実というものにたいして、懐疑的であり、背反的であるものだろうか。とりわけ、歴史的現実としての政治現実にたいして、知性は常に背中をむけるものなのだろうか。このむずかしい問題は、一方では、知性とは何か、という問題に連なるだろうし、他方では、とくに知性において生きる個人なり集団なりは、どういうものなのだろうか、という問題に連なるだろう。

 こうした一連の問題について、これから考えてみたいのだが、問題のいとぐちをさぐるために、筆者自身の問題情況について、いくらか立ち入って報告することをゆるされたい。もとより筆者は、知性とは何か、について知悉しているものでもなければ、知性において生きてもきたし、それにおいていまも生きつつある人間だ、と公言できるものでもない。いわんや筆者は、日本のインテリゲンチャというものに属しているのか、いないのか、それも、自分自身では、はっきりとはいいにくい。しかし筆者は、一大学の教師として、戦前・戦中・戦後を通じて、読書を続け思索をし研究のようなものをやり、学生の指導といえばおこがましいが、学生の相談相手もつとめてきた。そして、知性とは何か、については、わからないことだらけだが、それだけに、知性とは何か、という問題を考え続けてもきた。その上、とくに戦後のことだが、書斎で本をよんだり、研究室で学生たちの相談相手になったりしているだけでは、どうもすまない感じになり、いくらか広い世間に出て、政治のあり方や、社会の動きにたいして、下手な発言もやってきた。そうこうしているうちに、世間のがわから、やれ「文化人」だの、やれ「インテリゲンチャ」だのと、レッテルのようなものを貼られるようになってきた。ただそれだけの、たわいもないなりゆきなのだから、筆者自身の問題情況などというものについて報告し、それを分析してみたところで、知性とは何か、というあの大きな問題を探るいとぐちに、どこまでなりうるものだろうか、疑問といえば、それも疑問だ。しかし、自分自身の問題情況にたいしてメスを入れるのでなければ、問題は、いつまでたっても空転を続けるだろう。少し裸になりすぎるかもしれないが、そこは読者の寛恕をねがうほかはあるまい。

 戦前・戦中の自分をふりかえってみると、私はていのよい「文人」のような生き方をしていた、といえるだろう。「文人」という言葉は、若い読者などの耳には熟しない言葉かもしれないが、「文人画」などというときの、その「文人」だ。大変古い言葉で、その観念の源流は、遠く中国の魏晋南北朝のころまで、さかのぼるものだろう。科挙といって、高級の役人になる試験をうけ、パスすれば、中央や地方の役人になり、つとめの方は面白くもなにもないから、古書をひもといたり、詩文を作ったり、絵を画いたりして、うさばらしをしている連中が、ザッと「文人」というものだっただろう。民衆を支配する政治機構の末端か何かに位して士大夫の社会層を形成しているわけだが、支配そのものに自覚的に参与している、とは限らない。もとより出世栄達は望むところだが、それに血道をあげている、というわけでもない。なかには、政治の要衝にいて、政治を動かす立場に立ったものもあるけれども、みながみな、そうした立場に立てるわけでもなく、政治のありかたや社会の動きにたいして積極的に働らきかけることなどは、まずまず断念して、ただ上品に、気楽に暮せば、それでよく、ありあまる時間を、前にいったように、読書や詩文・絵画の制作に費やしていたのが、「文人」の多くだっただろう。

 戦前・戦中の日本の読書階級―-このことばも、やはりあいまいなものだが――に属していた連中がみながみなまで、こうした中国流の「文人」だった、といおうとするものではない。それどころか、明治の読書階級といえば、自由民権の思想なり、富国強兵の主張なり、社会主義革命の意欲なり、一括していえば、むしろありあまる政治的意想によってつらぬかれていた、といえるだろう。大なり、小なり、明治の読書人は、いわば一種の「国士」だった、といってもよい。大正にはいってからも、こうした「国士」型の読書人が残存してはいた。しかし第一次世界大戦の過程で、日本の読書人の間には、一つの大きい変化があらわれてきた。日本の読書人は、一方では、「国士」としての意識をはなれて、政治や社会の近代的あり方を求めるようになり、他方では政治や社会の問題を越えて、人間や人生について考えるようになっていった。そして、前者からは、大正デモクラシー、と今日では呼ばれている政治思潮が、後者からは、大正ヒューマニズム、と名づけてよい生活理念が、形成されていった。私が、総じて読書や思索を意識的にやりはじめたのは、だいたい、このような時代思潮の中においてであっただろう。

 大正ヒユーマニズムの主流をなした白樺派の人たちを、古い中国流の「文人」と同じようにみることは、もとより不当だろう。いわんや、大正デモクラシーの先駆者たち、たとえば吉野作造博士、福田徳三博士のような人たちを、「文人」などとよぶことは、とうていゆるされまい。それにもかかわらず、私が青年時代にそういう人たちのいうことをきき、かくものを読んだときの全体印象を、私の今日の感じ方で整理してみると、白樺派の人たちはもとより、吉野・福田博士のような人たちさえ、どこか「文人」的だった、といえそうだ。ヨーロッパの言葉や概念で語られてはいたが、歴史的現実としての政治のあり方や社会の動きと、ドロドロになってとりくみ、それと身体をはって対決していこう、というのではなく、高いところに立ってものをいう、といった態度で、そうした人たちはなかっただろうか。政治や社会の側から、みだりに口はしを入れることをゆるさない学問の領野があり、芸術の領域がある、その学問の領野において、学者は「永遠の真理」を発見するのにつとめ、その芸術の領域において芸術家は「永遠の美」を完成するのにつとめる。折にふれて、学者や研究者や作家も、政治や社会の問題について口をきくようなことがあったとしても、それは、一種の余技であり、一時のたわむれにほかならない。大正デモクラシーや大正ヒューマニズムをになった学者や芸術家たちを、こうかたづけてしまってよいかどうか、それは恐らく問題だろう。私にとってここで大切なことは、そうした人たちを、青年時代の私が、どういうものとして無意識のうちに、受け取っていたか、という点なのだ。

 いずれにしても、大正デモクラシーや大正ヒューマニズムの時代に私は読書をはじめ、研究のようなものを開始した。そして私は、大正デモクラシーや大正ヒューマニズム――と、その当時私が意識したところのもの――から、単に思想内容だけではなく、歴史的現実にたいする態度というものまでを、学びとったものらしい。もっと正確にいえば、大正デモクラシーや大正ヒューマニズムのにない手たちの、歴史的現実に対する基本的態度であるとして、私がその頃直感したところのものを、私自身が歴史的現実にたいする場合の基本的態度としていったわけだ。その基本的態度とは、まえにのべたように、歴史的現実にたいする「文人」的超越主義のそれ、にほかならない。私のように、性格的には、だいたいが内気で、子供のときからの「教養」の中には、仏教が大きい比重で含まれている平凡な青年が、大正デモクラシーや大正ヒューマニズムの、歴史的現実にたいする基本的態度を、古い中国風の「文人」的超然主義のようなものとして受けとった、としても、それは不思議ではあるまい。

歴史的現実にたいする、戦前における私の基本的態度としての「文人」的超然主義は、もとより近代ヨーロッパ的な外形をとった。今日も、自分ではそう考えているように、戦前も、歴史を研究しているものと、私は思いこんでいた。いったいやることがほかにも沢山あるだろうのに、どうして学問研究などを私はやろうとしたのだろうか。また、学問研究にもいろいろあるだろうのに、どうして歴史の研究を私はやろうとしたのだろうか。いろいろの契機や理由が、いっしょに働らいていた、と考えられるが、学問研究を看板にすれば、こと面倒な「俗事」などにはかかわらないですむだろう、というわがままな気持が、私を学問研究へと誘ったことを、私は打ち消すわけにはゆかない。そして歴史的現実そのものには一指もふれないで、しかも、歴史的現実を、そのいっさいのあり方と内容で、とらえることができるかもしれない、という多欲な思いが、私を歴史の研究へと導いていったことも、否定するわけにはいかないようだ。こんな勝手で、横着な気持が、よくもあったものだと私は考える。しかも、そうした横着が、思い上がっていた。そこで、明治・大正・昭和の、学者という学者がみなそうであったように、私も学問研究の範をヨーロッパに求めていった。歴史の研究をやる、ときまったからには、何がなんでも、ヨーロッパ近代歴史学の方法を身につけねばならない。そう考えた私は、型どおりに、史料批判をやり、それに即した実証的研究を重ねていった。そして、かっこうだけは、どうやら、ヨーロッパでの歴史研究者らしい生活態度が、身についてゆくようにも、自分では感ぜられた。

 しかし、内実はどんなものだっただろうか。5・15事件、2・26事件とたかまっていく日本ファシズムの動きにたいしては、大勢の日本人がそうだったように、私も内心はなはだ不安でもあり、不満でもあった。そして、事態が日中戦争、太平洋戦争へと発展していったときには、人を馬鹿にするにもほどがある、とふんがいもした。しかし、ただそれだけのことで、私はあった。政治というものは、本来、こうよりほかにはありようはないのだ。そうした「悟り」のようなものに立って、私は事態の推移を傍観していた。こうことが進んでしまっては、傍観しないで、何かをやりたい、または、何かをやるべきだ、と考えたとしても、恐らく私は、何もできなかっただろう。そういう事情もあるにはあったが、戦前・戦中を通しての、私の傍観者的態度というものは、あの「文人」的超然主義に深く根ざしていた、と私は判断する。何もできなかったからやらなかったのではなく、何もやらないでも許されるはずだ、という想念が、私を傍観者的地位に立たせていたのだ、と私は自分に判決を下しているのだ。

 「文人」的超然主義に終始した戦前・戦中の私が、敗戦そのものと戦後日本の「歩み」に媒介されて、どのように変化していったか、その変化のひとつひとつの動機と内容をここに述べたてることは筆者にとっては大きい負担だし、読者にとっては迷惑だろう。論旨を進めるのに必要なかぎりの大筋だけについていうと、歴史研究の専門家としての自分の無知にたいする自己批判、敗戦に打ちのめされた国民の一人としての自分にたいする自己省察、おもにこの二つの自己吟味を通路として、思索や観察の面でも、行動や生活の面でも、私は、生の歴史的現実と直接に触れあい、生の政治現実にたいして自分を直接に対応させるようになっていった。こうした変化が起ったとしても、戦前・戦中の私が、戦後になって、まったくの別人になってしまったのでないことは、いうまでもない。しかし、生の歴史的現実にたいして高踏的・超然的立場をとっていた私が、それと直接に触れあい、それにたいして直接に自分を対応させるようになっていったことは、研究と生活の両面にわたる基本的態度における、原理的変化を意味するに違いない。しかし、この原理的変化が、前に述べたように、歴史研究の専門家としての自分の無知にたいする自己批判、敗戦に打ちのめされた国民の一人としての自分にたいする自己省察、という二つの自己吟味を通路として、開始された点に、やはり「自分」というものをそれとして押し立て、「自分」というものを基軸として思索し、行動しようとする、個別的自我への粘着剤が認められる。個別的自我への粘着、それはもう「文人」的超然そのものではないだろう。しかし、それはまだまだ、「大衆」への自己解消からは、程遠いのだ。

しかし、生の歴史的現実と直接に触れあい、生の政治現実にたいして自分を直接に対応させるようれになっていった私の変化が、今もいうように、やはり自分本位の考え方に基づくものであったとしても、また、その限りでは、「大衆」への自己解消からは程遠いものであったとしても、生の歴史的現実味と直接に触れあい、生の政治現実と直接に対決を企ててゆくその過程と経験を通して、私は、だんだん「自己本位」の考え方を打ち消すようになっていったらしい。利己心がなくなっていったなどといっているのではない。みんなが忙しく立ち働いていても、自分だけはひまを得たいぐらいの利己心は、今の私にだってちゃんとある。私のいいたいのは、そんなことではなく、「自分」というものを個体的実存者のように思いこんだり、「社会」というものを離れて「個人」というものが存在し得る、などと思いつめたりすることは、幻影か錯覚以外の何ものでもあるまい、という考え方がはっきりしてきた、ということなのだ。「自分」というものについての私の考え方の変化は、多分、一方では、仏教哲学の存在論に支えられたものだったろうし、他方では社会科学的思惟方法によって裏づけられたものだったかもしれないが、もっと深いところでは、生の歴史的現実との接触そのもの、生の政治現実との対決そのものが、私の考え方―-いや、私の感じ方、統覚の仕方――を変えていったのだ、と思う。いずれにしても、私は、「自分」というものを、ひとえに「社会」において存在し、そこにおいて生きるものとして、自覚するようになっていったが、また、それと同時に私は、「自分」というものを、ほかならぬ「大衆」の一人として、意識するようになっていった。もとより、「社会」という概念、「大衆」という概念、それらの実体が、一挙に明らかにされたわけでは、決してない。現在でも、「社会」という概念、「大衆」という概念には、私にとって不明な点が多い。しかし、「自分」をその中に含んでいるだけではなく、「自分」そのものを成り立たせているところの「社会」として、私は、何よりもまず、「民族」と「人類」との二層の集団を感性的に自覚するようになった。また、この二層の集団における自分」の社会的あり方という問題側面から、私は、「自分」を「大衆」の一人として意識するようになった。そうした「大衆」とは、私にとっては、政治的にも、経済的にも、社会的にも、なんらの特権的地位にも立っていないところの「民衆」を意味するようだ。そのような「大衆」の一人としての意識を、私は、小商人の子どもとして生まれ、それとして育った「庶民」の生活感覚をよびさますことによって、自分の実感とすることができた。

こうして私は、戦前・戦中の「文人」的超然主義の立場から一転して、戦後は、「大衆」的現実主義とでも名づけられそうな立場に立つようになった。私は、戦争に敗けただけではなく、いつまた戦争に駆り立てられるかもしれない民族の、研究労働者、教育労働者の一人として自分を自覚するようになった。また、日本民族が戦争に駆り立てられたり、人類が戦争に播きこまれたりしてはたまらない、と痛感する一人の実利主義者になった。こうした大衆的実利の立場から、いつも緊張して、世界はどう動いているかに気を配ると同時に、戦争の原因や条件をちょっとでも取り除くことができそうなことや、平和の条件や前提にちょっとでもなりそうなことを、せっせとやってゆくべきだ、と考えるようになった。いうまでもないことだが、世界の動きにたいして、遺憾なく気が配られているわけではない。また、平和の諸条件をつくり出すのに、現実に勤勉なわけでもない。根がおろかでおまけに怠惰な性質なのだから、実際にやってきたことは、いくらもない。しかも、ひょっとしたら、やっても意味のないこと、やってはいけないこと、そうしたこともやったかもしれない。それにもかかわらず、意想においては、政治現実との対決を通して、日本の独立と世界の平和との諸条件をつくり出すべきだ、と考えるようになったのであり、独立問題と平和問題の在り方や動きを世界史的現実のうちに探り出すべきだ、と思うようになったのだ。そうした現在の私を、ひとはなんと呼ぶのかしらないが、「大衆的インテリ」という言葉があるなら、そんな言葉をつかってもらっても、自分としては、別に文句はない。

 ところで、戦前・戦中の「文人」的超然上義から、戦後、「大衆」的現実主義へと変わっていった私をなやましつづけてきたことが一つある。それは、むやみに忙しい、ということだ。いったい、忙しいとは、なんのことだろうか。消極的にいえば、手持の時間が少ないということだろうが、積極的にいえば、ペースもちがい、ことの大小軽重もちがい、性格や意味もちがう雑多な問題が、限られた手持時間の中に、順序も秩序もなしに割りこんでき、処置なり解決なりを迫ってくる現象をさすだろう。もとより、私がむやみに忙しくなったのは、「文人」的超然主義から「大衆」的現実主義へ移っていったその変化の、いわば論理的帰結なのであって、身から出た錆というものかもしれない。やはり研究や観察を本来の仕事だ、と考えてはいるのだが、ヨーロッパ近代歴史学のやり方をうのみにしてきた戦前・戦中の研究方法を生の歴史的現実における生の問題構造にかえりみて、考え直そうとする素朴な出発点に立っているのだから、研究や観察といったところで、軌道も何もできていない始末だ。だから、研究や観察もテンヤワンヤなのだが、研究方法を新しく考え出してゆくために、生の歴史的現実における生の問題構造に注意を向けるとなると、そこには、まったく無限の、おまけに動きに動く問題というものがいっぱいある。それだけでことですむなら、まだしも気楽だ。「大衆」的現実主義というものは、他方では生の歴史的現実としての政治現実に自分を直接に対応させることを命じ、それと直接に対決することを要請する。その命令に服従し、その要請に答えようとすると、実に大変なことになってしまう。現にこうした雑文を書いたり、講演に出かけたり、文化団体の会合に出席したり、署名運動の寸話をしたり、その他かぞえたてればきりがない。中には、親切な人がいて、いい加減にしときなさいよ、と私に忠告をしてくれる。

ところで、わからないのは、どの辺がよい頃合いか、ということだ。「雑用」と「本用」とのけじめが、私にははっきりしないし、「加減」を計る物差しも、私にはない。そういうものがあれば、大変便利だから、どこかで売っていたら買いたいものだ、と考えているが、そんな物差しを売っている店はどこにもなさそうだ。世界史的現実と直接に取り組むべきだ、と考えたからには、どこまでもそれと取り組んでゆくべきであって、もうここらでよかろう、などとはいえない道理だ。そこで、むやみに忙しい、という現象が起ってくる。前にもいったように、身から出た錆でもあれば、好きなのだから仕方はあるまい、ということでもあろう。しかし、忙しさに閉口しているのも一つの事実で、それが私一人だけの状態ではなく、およそ「大衆的インテリ」の現状だ、とすれば、それはもう一つの大きい問題であるだろう。「大衆的インテリ」の中には、私などより、もっともっと忙しい人たちも大勢いるだろう。また、その中には、いくら忙しくても、いっこう平気な人もいるだろうが、忙しさに心身を疲れさせて、閉口している人も、大勢あるようだ。ところで、こうした現状が一つの大きい問題であるのは、忙しさが「大衆的インテリ」の心身を疲れさせている、という事実そのものではない、と思う。もしも、疲れている、という事実そのものが問題であるのなら、休息をとればよく、その休息を邪魔だてしようとする個人や集団があったら、どなり散らせばよい。私も近頃は、どなりつけてやりたいことがいろいろあるが、実際にはあまりどなりつけないのは、そんなことではどうともならない問題が外のところにあると考えるからだ。その問題というのは、「大衆的インテリ」のほんとうの職分は、いったいどういうものか、という問題であり、また、どうすれば、「大衆的インテリ」はそのほんとうの職分を果たせるようになるだろうか、という問題である。

最初に、「大衆的インテリ」のほんとうの職分は何か、という問題について、考えて見よう。「大衆的インテリ」とは、私自身の自覚の内容からいえば、「大衆としてのインテリ」の意味であり、「大衆」の一人として、歴史的現実を感じとり、それについて考え、それとの対決において生きる「インテリ」の意味だ。「インテリ」が、こういうものである以上、「インテリ」は、「大衆」のうちに自分を没入させ、自分を解消させてしまうわけだ。しかし、「インテリ」が「大衆」のうちに自分を完全に、全幅的に解消させてしまうその瞬間に、「インテリ」は自分の「インテリ性」を喪失してしまわないだろうか。そうなったとしても、「インテリ」自体にとっては結構だろう。しかし、そうした現象が起った場合には、「大衆」のがわに損失が生じるだろう。私はここで「損失」という言葉を使ったが、それは問題情況を実利主義の立場で考えているからだ。つまり、「インテリ性」を喪失した「インテリ」を抱えこんだところで、「大衆」はなんの利益も得られず、荷厄介になるだけのことだ、と私はいいたいのだ。これに反して、「インテリ」が「大衆としてのインテリ」ではなく、「インテリとしての大衆」を自分たちの仲間に迎え入れることができるなら、「大衆」の力は、それによって強められるだろう。これは、見やすい道理だが、このあたりまえの道理に立っていうなら、「大衆的インテリ」のほんとうの職分は、「大衆としてのインテリ」であることのうちには存せず、「インテリとしての大衆」であることのうちに存することにならざるを得ない。この関係を否定するものがあったら、それは、問題を「大衆」のがわからではなく、たかだか「インテリ」のがわから考えるものだ、といわねばなるまい。ところで、「大衆としてのインテリ」ではなく、「インテリとしての大衆」というものは、具体的には、どういう職分を果たすべきものだろうか。「大衆」のおかれている歴史的・政治的問題情況にかえりみて、特に三つの職分が挙げられねばなるまい、と私は考える。

第一は、日本民族が当然もたねばならないはずの現代認識において「大衆」に先駆する、という職分だ。「先駆する」などというのは生意気ではあるまいか、などというのは、それこそ「インテリ」のコンプレックスというものなのであって、「インテリとしての大衆」なら、そんなコンプレックスはないはずだ。政治と経済、社会と文化、科学と技術の諸面を尽くし、それも、世界と日本にわたる現代の歴史的動向を、比重をつけて知的に捉えることは、当り前の労働者や農民などの、とうていよくするところではあるまい。「インテリ」にとっても、そうした知的作業は容易でないのだが、「インテリ」がそれをやらないなら、いったい誰がその仕事をやるのだろうか。

第二は、「大衆」としての日本の国民が、当然やるべきこと、意欲すること、そういうことと日本の国民がやり得ることとの関係について、見通しをたてる、という職分だ。もとよりこうした職分には、日本の国民が当然やるべきことを、先取的に感じ取り、それを日本の国民に指摘する、という職分が含まれている。

 第三は、研究者・芸術家・教育者・ジャーナリストなどとしての専門家的活動を通して、新しい国民文化の創造に参与する、という職分だ。新しい国民文化創造の一般的主体は、もとより国民そのものであるのだが、「インテリ」は、まさに専門家として、新しい国民文化創造の先陣的役割を果たさねばなるまい。

 「大衆的インテリ」の社会的職分として期待されるところは、ざっとこういうものだろうが、現在の日本では、こうした職分は「大衆的インテリ」によって十分果たされている、とはとうていいえない。それどころか「大衆的インテリ」の多くは、前に述べたように、押し寄せてくる人心の現実問題のために忙殺されており、第一から第三までに掲げたような職分の遂行を怠けがちになっている。そのことは私の場合について、私自身がいちばん承知しているのだが、そうした事態を、私自身のために残念だ、とは必ずしも考えない。戦前・戦中の「文人」的情感が、まだまだこころの中に一種の蒸留のようなかたちで残っているかもしれないが、それはざっと清算されたはずだ。それでも閑暇を求める気持があるのは、いわば太古来の庶民感情のしからしめるところだ、と考えている。だから、学者としての仕事に没頭できないのは、私個人にとっては、道楽がさしてもらえぬぐらいの遺憾にすぎないのだが、「大衆」の立場に立ち、「国民」の意識に立っていうなら、私などが雑用に追い回わされているのは、はなはだ不経済というべきだろう。何を思い上がった、という批判もあろうが、思い上がっているのでもなんでもない。農民は畑を耕しているのがよく、労働者は機械を動かしているのがよく、本読みは本を読んでいるのがよい、というだけの話なのだ。本を読むといったところで、道楽をしたい、といっているのではない。いくらかは本式に、世間の役に立ちたいと、願っているだけのことだ。

そこで最後に出てくる問題は、どうすれば、「大衆的インテリ」がそのほんとうの職分を果たせるようになるだろうか、という問題だ。この問題は、何が「大衆灼インテリ」の職分遂行を阻害しているか、という問題に連なるだろう。そして、この後の問題に答えるためには、現代日本の歴史的・政治的問題情況の全体について分析を行なう必要があるだろう。しかし、問題の焦点を「大衆」の主体的あり方にしぼっていうなら、日本の「大衆」というものが、まだまだ自律的でもなければ、まだまだ知性的でもない点を、ここに思いきって強調しなければならない、と私は考える。日本の「大衆」を、甘えん坊で、おまけに頭がわるい、といっているみたいで、少しどぎつく聞えるだろうが、「大衆」のほんとうの利益というものを考えると、こうしたにくまれ口をききたくもなる。しかし、その代償として、当分私は、自分の多忙さについて、不平めいたことをいわないことにする。

 

1957・2・10

 

 

 

もどる