「立正安国論」と私

 

上原 專禄

 

きわ立った発想と内容

 私は子供のときから縁があって「立正安国論」に触れてはまいりましたものの、長く接しているというだけのことで、了解はいたって浅いのであります。けれども、とにかくどのように私はこれを読んできたか、そしてこれからもどのように読んでいこうとしてぃるか、ということをお話して、「立正安国論」の内容を知っていただこうと思うのであります。

いったい、ほかの高僧たちの語録とか仏典と、日蓮上人の「立正安国論」とを読みくらべてみると、いろいろな相違点があることにまず気がつきます。

たとえば、法然上人の「選択集」とか、道元禅師の「語録」のようなものとこれとでは、おなじ仏教者のものでありながら、どうしてこのように言われ得るのか、書かれ得るのか、と思われるくらい、発想も調子も、したがって内容もたいへんちがっています。

ことに「立正安国論」だけを通して見る日蓮という人は、稀代の悪口屋、稀代の批判家という印象を受けるのであって、およそ仏教という言葉の響きからくるものやさしさ、あるいはもののあわれといったものは影さえない、いかにも武断な論争者であるような感じを受けるのであります。その点で、日蓮という人はいろいろな誤解を招いており、仏教本来の精神をいっこうに解しない人ででもあるかのような印象を与えかねません。

しかし仏教本来の教え、または精神というものは、ある場合には非常に静かな、ゆったりとのびのびとしたものとして出てまいりますし、ある場合には急な流れが岩に当って激するようなはげしいひびきとなって出てまいります。そのようなあらわれ方の違いに着目しないで、仏教というものは本来物静かなやさしいものであるとだけ考えていると、それが全体として持ち得るさまざまな形を、つい見失うことにもなるのです。

なかでも「立正安国論」は日蓮のいきどおりが奔出したようなはげしさをもったもので、ほかの高僧の書かれたものになじんでいる目から見ると、これが仏典であろうか、と思われるくらいの、はげしいあらわれ方をしているのであります。だから、「立正安国論」のようなものは、ただそれとして読むまえに、日蓮上人の教義と信仰のなかで、また日蓮上人の六十年の生涯のなかで、いったいどういう位置をもっているのかということを、はじめに考えて見るのでなければ、とうてい理解できないと思うのであります。

ところが、ふつうには経典や高僧知識の書いた仏典を読むときは、それらがつくられたり、書かれたりした歴史的な意味は抜きにして、たまたま自分が持っているその当座の問題や、気持に、直接関連させて読むのだろうと思います。                 

もっとも経典や仏典に限らず、それがつくられた背景には、必ず歴史の流れがあり、歴史の要求があってのことだと思うのであります。けれども、歴史的な事情とか歴史的要求を越えて、つまりそれぞれの歴史と時代と社会とを越えて、どんな時代にも、直接訴えるなにものかを持っているからこそ、そのような読まれ方をするわけでもありましょう。

 

私たちと結びつくために

 それにしても、経典や仏典も、おのおのの歴史と社会のなかで作られていったものであることを考えないと、とかくその読み方は自分勝手なもの、自分の思いや気持にまかせたものになりやすいのであります。できることなら、それが書かれた歴史的諸条件を胸にたたんで拝見した方が、ちがった時代において、それらをどのように生かしていけばいいかということが、やや、客観性を持って言えるようになると思うのであります。

けれども、一方には、そうすればいいかもしれないけれども、それは手に及ばないことだという考え方もあり得るわけで、専門の宗団関係の人のなかにさえ、それらが教えてくださった通りを教えていけばいいのだという考え方があるようです。一つの歴史のなかで作られたものが、他の歴史のなかで生きているわれわれに訴えるのはなぜかという問題を考えさせないで、ただそのままを教えてきた人も、多いと思うのであります。

しかし、私だけの考え方かもわかりませんが、仏典を読むのは、ただありがたいという気持になるためだけに読むのではなくて、やはり私たちがそれらに触れることによって、このめんどうな歴史のなかで生きていく上のなにがしらの力を得たい、という気持があるからにほかならない。さらに言うならば、この私もまた、歴史をつくりだすものとして生きているという気持が土台にあればこそにほかならないと思うのであります。

つまり、どうすればいくらかでも、それらを自分の生活のなかにこなしていくことができるかと、考えてくると、それらは間違いなく、歴史のなかでつくり出されたものであり、拝見している私たち自身も歴史のなかで生きている人間であるということを前提にしないと、私たちと結びつかないのではないか。そのように私が考えるのは、じっさい法華経や「立正安国論」を自分の胃のなかにいくらかでもこなそうと考えてきたその経過のなかから、やむを得ず思い至った読み方であって、これがどの程度まで一般化されていいかはわからない。すべてそのように読まなければならぬとなると、すくなくとも、伝統的な仏典や、経典の読み方と対立するような形にもなってくるかも知れない。といってそれを避けて、ただありかたいものとして、読めというだけだと、それらはほんとうに自分の身につかないことになってしまうのではないでしょうか。

すばらしいもの、立派なものというだけでは、概念的、抽象的理解におわって、結局は敬遠してしまうか、そうでなければ、狂信的にありがたがることになってしまう。

日蓮が提出している問題

  さて、この「立正安国論」は文応元年(1260年)日蓮が三十九歳のときに鎌倉で書かれたのでありますが、ここで注意しておきたいのは、「立正安国論」というものはあるグループをなす作品の代表作であって、それ以前に予備的な作品がいくつも書かれていることであります。そういうもののなかでおもなものとしては、「守護国家論」、「念仏者追放宣状事」、「災難対治抄」の三つをあげることができると思います。「守護国家論」は「立正安国論」を書くその前年の正元元年(1259年)三十八歳のときに書かれ、おなじ年に「念仏者追放宣状事]が書かれています。これは「追罰五編」とも略称していますが、念仏者を弾劾し、念仏者を排斥した、そういう先例を、いくつかあつめたもの。そして「災難対治抄」は文応元年に書かれているのですが、そのなかで日蓮は他宗の批判、なかんずく法然上人の書かれた「選択本願念仏集」の批判をやっている。そういう予備的な著作のあと、おなじ文応元年に「立正安国論」を書きました。

現在伝わっているものは、広・略二本あって、一つは京都の本圀寺に蔵されており、 一つは中山の法華経寺に伝わっている「立正安国論要本」という真蹟です。われわれがいっている「立正安国論」は、この法華経寺の要本のことでありますが、今も言ったように、「立正安国論」がどういう時代的背景のなかで書かれたかという問題を考えてみるためには、それの先駆をなすいくつかの論文が、すでにあったことを念頭においておく必要があるのです。

文応元年七月、日蓮は、宿屋左衛門西信を通して最明寺人道時頼にこの「立正安国論」を上申しております。つまり最明寺人道時頼に読んでもらいたいという考え方で、「立正安国論要本」を書いたわけであります。それから九年たったときに、もう一回「立正安国論」をめぐる大事件を日蓮が起さざるを得ないようなことになりました。それは、他国侵逼難といって、日本が外国から攻められる危険が起ってくる、という予言のようなものを、「立正安国論」のなかでしているわけですが、その予言が的中するような事態が起ってきたからであります。

それは、文水五年の閏正月十八日に、蒙古フビライの使者が国書を持ってやって来て、日本の政府と国交を求めたい、もし日本が国交をしない場合には蒙古としては考えるところがあるという威嚇をふくんだもので、今日でいえば修好条約の締結に圧力をかけたものです。そこで日蓮は、このチャンスにもう一回政府の要路者ならびに政府と結びついていると判断される鎌倉の有力な寺院に牒状を送りました。そして幕府のしかるべきところで、諸宗と法華との優劣の議論をしたい、対決をしたいということを申し入れると同時に、蒙古調伏の仕事は日蓮が当るべきであるという献策をしているのであります。

またその年の四月五日に、平左衛門尉頼綱の義理の父に当る人だといわれている、法鑒坊に対して手紙を書き、九年前に安国論を書かざるを得なかったわけと、今同の対決のこととを申し入れています。それを「安国論御勘由来」といって、短かいものですが、真蹟が残っていて、貴重な文献になっています。その申し入れに対しては直接の反応がなかったと見え、半年ばかりたった十月十一日に、十一人の政府の要路者、それから有力な寺院に対して、もう一度牒状を送っています。それは当時の執権北条時宗、宿屋左衛門西信、平左衛門尉頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、それから寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺であります。

「立正安国論」の成立の前後

 おなじ日、弟子檀越に対しては、こういうことを書き送っています。日蓮が九年前に書いた「立正安国論」での予言が的中した。予言の的中自体を喜ぶのではなく、的中を悲しむのだが、それにつけても政府や思想界、宗教界の長老たちは、依然として災難の由来についで無関心である。そういうことになっては日本の国が滅びることは必定だから、思い切って権門勢家に対して牒状を申し送り、近く対決しだいと考えている。そういうことをやったについてはお前たちにもいろいろな形で迫害が起るであろうが、そういう迫害はみなお前たちが、やがて仏道を成就する修行だとして受けとらなければならない。それについても、よくよく気をつけて無用の論争などをしないように、というものです。

が、これに対しても直接の反応はなかった。一方、翌文永六年になると、蒙古からかさねて国書を持って使者がやって来、武力威圧を通して日本との国交を求めました。日蓮の見るところでは、朝廷のなさるところも幕府のやるところも問題の核心を突いていない。そこでさらにこの文永六年に再度自分の考え方を方々に書き送っています。そのなかに、「立正安国論奥書」というのがあるのですが、これは有力な弟子に写してあたえた「立正安国論」の最後のところに、その制作理由を書いた文章のことをいいます。

 そういうものが背景になって、やがて日蓮に対する圧迫が加わってくるわけですが、文水八年に、ついに佐渡へ流されることになります。

それと関連して、すなわち「立正安国論奥書」が書かれたあと、日蓮自身が「立正安国論」をどう見ているかということを私たちが知る材料としては、文永六年、京都の三位房日行に対して与えた

「法門可申抄」と、文永七年十一月に四条金吾にあてた「四条金言殿御返事」、それから文永八年九月十二日、すなわち竜口法難の日に平左衛門尉にあてたといわれる「一昨日御書」といわれるものがあります。これらは文永五年から六年にかけての「立正安国論」をめぐる日蓮の新しい活動がどういう波紋をわき起したか、ということを知る材料にもなるものであります。

こう見てくると、「守護国家論」からはじまって「立正安国論要本」という形にまとめられたあの「立正安国論」の述作の前後と、文永五年から六年にかけての安国論をめぐる日蓮のあたらしい活動との二つのことがらが考えられるのであります。

いうまでもないことですが、「立正安国論」を日蓮がいかに重視しているかということは、あとの文永五年から六年にかけて、日蓮が非常な活動をやっていることからもわかるのです。

しかし、日蓮は「立正安国論」のほかにも幾らも論文や手紙を書いているので、たとえぱ、佐渡へ行ってからあとのことですが、「観心本尊抄」、「開目抄」、「報恩抄」のようなものを書いている。また一人一人の信者にあてた情の細やかな手紙を、たくさん書いています。

 

 

書かれた意味と文章構成

 そういうものを見、そして「立正安国論」を見ると、「立正安国論」は確かに日蓮の本質の一面をしめすものであるにはちがいないけれども、これだけで日蓮の全貌をうかがうことはとうていできない。ただ「立正安国論」は、書いてから九年、十年たって、またそれを掲げてその当時の政治権力者と思想界、宗教界の長老にいどんでいるもので、いわば、それを一つの武器として対決していった、そして、それが動機の一つになって佐渡へ流され、法華経の行者としての確信をいよいよ深めていくきっかけになった。そういうものですから、やはりこの「立正安国論」を抜きにしては、日蓮を考えることはとうていできないのですが、これだけで日蓮を知るわけにもいかない。

それにしても、「立正安国論」はほかの名僧知識の書かれたものとはずいぶん違っている。そこで、「立正安国論」の内容を、ここで少しばかり見る必要があると思います。文体は四六駢儷体とでもいうか、非常に美辞麗句を連ねた美文だといわれている。文章を練り、修辞を十分施したもので、旅客と主人との問答体として、九つの問答と、最後に主人に対して問答をしかけた旅客の了解の告白を加えて十段となっているものです。

旅客と称せられる架空の人物が、近年から近日に至るまで疫癘、天変、地夭が相ついで起って、死者が国の半ばを越えるような状態になっているが、そういう災難の原因や理由は一体どこにあるのか、またどうすればそういう災難がなくなるのかを主人に質問する形で、問答が始まっています。

天変、地夭、飢饉、疫癘というのは、正嘉元年八月十七日に鎌倉に前後未曾有の大地震があつた。正元元年、二年には、暴風雨があり五穀が実らない、流行病がはやった、そのような状態の根元をなくすると同時に、それを直す方法も考えなければならないという問題を、問答体をかって、日蓮は提起しているわけであります。                        

もう一つは、こういうように現世に仏益がないのを見ると、後生の悟りについでも疑いが起るという、通仏教の、一般的な問題を提起しているのであります。これだけお寺があり、これだけ坊さんたちがいて、御祈祷などが行われている。これだけの仏教隆盛の状態ならばなんとかできそうであるにもかかわらず、ぜんぜんなにもできないのを見ると、現世利益の保障がないのみならず、後生の問題についても不安が起ってくる。その二つの面を日蓮は旅客を通して問題にしているわけであります。

 

法然の選択集をめぐって

日蓮は、その二つの問題についての文証を得る――経文の証拠をはっきりつかむ――ために、正元二年まで三年の間、岩本の実相寺にこもって大蔵経の閲覧をやっています。そうして、この間に「守護国家論」や「追罰五編」などがだんだんと書かれていくわけですが、「立正安国論」に至って一応十分の証拠があげられたという確信のもとに、今の二つの問題についで答えをしています。

答えの経過は略しますが、一口に言えば善神聖人が所を去って、日本の国にはいなくなり、悪鬼がその所を得て日本の中に入り込んでくるからそういう災難が起るのだ、ではなぜ善神聖人所を去ることになるかと言えば、それは正しい仏教が日本に行われなくなって邪法が行われているからだ、というのです。

それに対し、客をしてこう問わせる。

主人はそのようにいうけれども、今日における日本仏教の隆盛は、昔日にその比がないほどの盛んな状態である。堂塔伽藍は甍をつらね、また高僧知識は輩出している。それであるのにあえてあなたはそのようにいうか。

すると主人、すなわち日蓮は、あえていう。お前は現われただけのにぎやかさに幻惑されて、日本の今日の仏教がどうなっているかということを知らないのである。

では、どういう現実を見てそうおっしゃるのか、と客は聞く。

 そこで日蓮は開き直って、それは後鳥羽上皇のときに法然という人間がいて、「選択集」というものを著わした、そのために天台、真言その他一切の大乗の教えを捨閉閣抛して、ただ専修念仏の行を強調することになった、それによって朝野ともに叡山に対する信仰は稀薄になった、といっている。

なぜ法然の念仏義を邪宗というのですか、と客は問う。

それに対して日蓮は、法の深浅、権実、大小などを説きあかして、本来もろもろの大乗経典の一つにほかならない阿弥陀経を中心に、阿弥陀に問題をしぼったようなかっこうで、ほかの大乗経典の一切を捨閉閣抛してしまうということは、本末を転倒したやり方だ、その本末転倒のやり方があるから、また日本は乱れもするのだ、という。

ここでとくに法然上人の「選択集」をめぐる日蓮の論議が展開される。九年後には真言亡国、律国賊、念仏無間、禅天魔という四箇の格言が十一通御書のなかに出てくるのですが、この当時には四箇の格言はないので、とくに法然の「選択集」だけをとりあげ、日蓮は邪宗であると断じている。

日蓮の考え方からすると、仏教は釈迦の教えを中心として教義と信仰が形成されているのであるが、阿弥陀経は釈迦の説いた教えの一つにほかならない、それを中心としてほかの釈迦の教えの全体を捨ててしまうような状態は、釈迦教としての仏教本来のあり方としては許せないということになる。日蓮は仏教というものをとくに釈迦の教えだと考え、その釈迦の教えは経典のなかに説きあかされているとする。しかし経典のなかには深いものと浅いもの、権なるものと実なるものとがあると考える。そういうように釈迦中心、経典中心でありながら、かつ、仏教の全体をある構造のもとに把握していこうという、構造的把握の要求を持っているのであります。

もっとも叡山では、そういうことをいっている一派がすでにあったので、日蓮の新発明というわけではないが、日蓮はとくに自分の気持や気分を中心として、直感的に経典をとらえてはいけない、理論的構造的にとらえていかなければならぬという、客観主義の立場をとっているわけであります。

 

日蓮における実証的方法

  そういう立場から法然の「選択集」を読むと、釈迦教としての仏教本来のあり方を否定したものと考えざるを得ない。けれども、そのように誤まった、いわば部分的なものを全体的なものと考える考え方、末梢的なものを本質的だと見誤まる考え方、客観的にとらえていかなければならぬものを主観的にとらえていこうという考え方が、なぜ日本における天変、地夭、飢饉、疾疫の根元になるのかという問題は、単に法華経の優位を、主張しただけのことでは解明されない。

つまり、法然の立場は、日蓮の目から見ると気分主義であり、ある意味では直観主義、主観主義である。親鸞になると、それがさらに徹底するわけですが、そのような立場は、日蓮の立場からすれば許されない。しかし、許されないにしても、いま言ったように、法念の「選択集」が流行するから飢饉、疾疫がおこのであるという結論は、法華経にも書いてない。

そこで岩本の実相寺に人って、日蓮が邪宗と考えた「選択集」のようなものの流行が、もろもろの国難を引き起す原因になるのだという証明を、いろいろの経文のなかから探し出すということになるのであります。

どこまでも日蓮のやり方は経典主義であり、その経典主義が極端な形までいっている、ある意味では一種の形式主義に陥っていると思うのですが、その見方で、仁王経とか、大集経とか、薬師経とかの大乗末期の経典を見ると、それらには、邪法が行われるときには善神聖人その所を去って災難がくるということが書かれている。そういう証拠がたくさん発見されるのであります。たとえば薬師経には七難というものが掲げられていて、それは人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変化の難、日月薄蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難ですが、そのなかで五つの難はすでに現われた、残っているのは国内の内乱と外国からの侵略の難だが、五つの難が実現したところを見ると、多分二つの難も近く現われるにちがいない。これは日蓮がいうのではなくて、お経文に書いてあるからそうなるにちがいない。

そういうふうに旅客に答え、法然の「選択集」とその門徒のあり方に対する批判を通して、一方ではそういう災難の根元を明らかにすると同時に、本来の仏教というものがどういうものであるかということを同時に明らかにした、つまり二つの問題に対して同時に答えているわけであります。

ついでながら申しますが、この当時は法然上人がなくなられてからもう何十年もたって、ちょうど親鸞上人が京都におられる時分であります。もう八十幾つかになっておられると思うのですが、日蓮上人の文章のなかに親鸞上人の名前は一回も上ってまいりません。おなじ浄土門の人ですが、法然の「選択集」だけが問題にされて、親鸞は問題にされていない。十一通御書のなかにも、建長寺の道隆(宋の人で建長寺の開山)、極楽寺の良観(今上人といわれた律宗の人)という人の批判はやっていても、道元についてはぜんぜん語っていない。

おなじ時代の人であるのに、なぜ触れていないのか。おそらくそこには、法然上人がなくなって五、六十年たった頃の、念仏者の実際の世俗的あり方の問題がひそんでいるわけですが、ただ日蓮の立場に立っていえば、許せない状態になっていると考えた、そのことのほうが大事であった。そこで「立正安国論」を書き、最明寺人道時頼に上申したのであります。

 

蒙古襲来にたいする献策

 おもしろいことには、北条家の人たちについては、日蓮はこころよく思っていなかったのですが、時頼だけは別で、時頼についではたいへんいい感じをもっていたと思える節々があるのです。時頼は三十幾つの若死にでしたが、日蓮は時頼の早くなくなったことを悲いんでいます。に日蓮は、人に対してかなり好ききらいの気持が強かったほうですが、それには理由があったわけで、単に感情的ではなかつたのでしょう。

ともあれ、「立正安国論」を時頼に上申したのですが、時頼は、それをとり上げませんでした。すくなくとも公式的には黙殺する形になったのです。

ところが、はじめに「安国論」を書いたときと、九年たってからとでは、問題のあり方が変ってきている。はじめに書いたときは、飢饉、疫癘、地震、暴風雨といった国内の不慮の根元を探り、その根元を取りのぞくためには邪法を禁じて正法を立てればいいという結論になったわけですが、九年たってからは、とくに蒙古の襲来を日本としてどう受けとめるかという問題になってきている。「立正安国論」が書かれたときには、法然上人の「選択集」だけが批判の対象にされていますが、九年後には真言亡国、律国賊、念仏無間、禅天魔という四つのテーゼが十一通御書のなかにはじめて書かれている。そういう展開がある。

問題の焦点が国際政治的な問題に移ってきたが、その問題にかけて真言亡国、つまり他の世界の教主たる大日如来を礼拝して、この娑婆世界の教主たる釈尊を尊敬しないという思想のなかに破国の思想がふくまれているという批判があって、真言が加わった。律宗などに対しては、今上人とかあるいは生上人といわれる極楽寺の良観上人において、その戒律の偽善性を見、そのことから律をはげしくせめた。禅になると、教外別伝といって、これも教主釈尊を無視したような教えで、邪道だと考え、天魔と名づけた。

日蓮としては、もう、いてもたってもいられないような状態、一般のその当時の坊さんたちからみれば、いわば問題意識過剰の気違い坊だと考えられたにちがいありませんけれども、日蓮自身の経歴とか性格とか勉強のしぶりからみると、どうしても日蓮が確立したいのは釈迦教としての仏教であり、それを経典の理論的構造の把握のなかに、しかも体験を通じて確証していくということであり、それが対内的、対外的な災難の根元をどうするかという問題と結びついで出てきたのであります。

 

今日の問題点の中の日蓮

 最後に、そういう歴史的なとらえ方を通して、しかもその歴史を越え、今日に通じる問題が日蓮によって提出されているのではないかと考えられるので、その点を申し上げてみたいと思います。

それは、キリスト教はキリスト教、イスラムはイスラムで、それぞれの信仰が現実の問題とどうかかわって確立されていくか、逆にいうと、キリスト教信仰なりイスラム信仰なりが、現実の世界の中で信者が行動する場合にどれくらいのエネルギーになっていくものだろうか、このような、宗教と政治、宗教と現実の問題である。仏教のほうにもやはりおなじ問題があると思われる。仏教とはなにか、仏教の悟りとはどういうものか。

普通いわれている言葉によると、釈迦自身が四諦十三因縁の法を体得して、八正道の実践を通して仏陀になった、後輩たるわれわれも及ばずながら釈迦を師正として、その実践のあとを実行していく、そのなかに仏道修行があリ、悟りがあるというように説かれていると思うのです。そういう悟りは、なによりも原始仏教のなかではとくに精神的なもの、内面的なものと考えられていると同時に、悟りというものは、じつに一人一人の悟りであって、四諦十二因縁の法を悟る、あるいは八正道を実践するその主体は、個人であると考えらていた。いってみれば個別主義的、理知主義的な世界認識、あるいは生活認識が仏教の悟りの内容だと思うのですが、その古代インドにおいてさえ、いわゆる原始仏教のなかから戒律を中心とした小乗仏教カができた。戒律もその悟りに至るためのもので、戒・定・慧といわれているのですか、戒はとくに小乗宗団では大事にされていたらしい。

しかしながら、たまたまそういう出世間的な仕方で悟りの道にいそしみ得るいわゆる選ばれた個人は、それで仏道に入れるかもしれないけれども、そのほかに仏道に入ろうにも入り得ない、世間を出て出世間的な生活をしたいと思ってもできない、したがってまだ悟りに到達し得ないー切衆生がある。そのー切衆生をそのままにしておいて、どうして個人の悟りぞやという問題が、大衆の問題として出てくる。教団の発展、教団の歴史からすると、一般民衆を仏教徒のなかへ抱えこんでいくことによって、新しい教団の成長をねがうという教団政策の問題が重視されなければならないわけですが、教理の上からすると、古い仏教はやはり個別主義的なインテリの悟りの宗教であったわけです。

 

日蓮はなにを強調したか

 それでは、一切衆生を救うところの、菩薩道を中心とした大乗仏教へと発展していくにはどうすベきか。この問題は古代インドにもあったわけで、そういう問題とかかわって、日本に輸入され伝わって来た仏教のなかにも、悟りとはどういうことかという問題が、やはりあったと偲う。禅宗の悟り、律宗の悟り、そういうものは、個別主義的なインテリの悟りには十分なり得るだろうが、苦の世界に沈湎している大衆を全体として救う方法ではないのではないか。

こういう問題が鎌倉仏教の場合の問題である。法然や親鸞という方々の考え方のなかにもそれが強いので、日蓮とは違った仕方で、救われなければならないはずの大衆を、仏教において救うのにはどうしたらよいのか、という問題があったわけです。

それに対し法然的、親鸞的解決の方法と日蓮的解決の方法とがあったと見なければならないのですが、日蓮は、その苦しみを観念的には考えない。抽象化させないで、現実の苦しみをそのまま苦しみとして見る一種の庶民的苦悩観を出発点として、その苦悩の根元をどうすれば払いのけることができるかということに問題を集約されました。

現世に対して保障ができないような仏教なら、後世安堵ということも疑問になってくるではないか。仏教の実力あるいは効果は、現世においてリアルな苦しみがなくなっていくことを一つの証拠として保障されるという考え方です。この考え方は道元禅師のなかにもある。道元と日蓮とはずいぶんちがっているのですが「正法眼蔵」には国中が乱れたり安穏でないのは悪法が世間にはびこっており、善神がところを去っているのでそうなるのであって、正法が行われればおのずから国土は安穏になってくるということが出ている。だから日蓮だけの思想ではない。ただ日蓮はそれをと<に強調した。

その際日蓮は大衆の現世の災難とか苦難を、それこそ苦しみの実体だというふうに考え、観念化させていない。観念化したかっこうでとらえると、それは法華の立場においては声聞縁覚の、いわば二乗の、観念に立つインテリ的な苦難把屋ということになるであろう。が、菩薩道の立場から大衆の苦しみを見ると、それは心の悩みなどというような、なまやさしいものではなくて、現実に流行病で人が死ぬ、暴風雨で吹き飛ばされてしまって五穀が実らない、また蒙古の軍勢が攻め寄せてきて日本の民衆が殺される、そのようなことが、現実の苦しみであるはずで、それをなくさねばならない。こうして日蓮の場合は、いわば大衆的発想による苦難の把握と救済であった。

それでは、日蓮は国家主義になりはしないか。そういう疑問が出てくるかもしれないが、日蓮自身は、そうはならない。つまり、立正安国ということは、法華信仰の正しいことの一つの証拠に他ならないのであって、仏者本来の立場からすれば、それによって仏道にはいりうる一つの証拠に他ならないわけだからです。しかしここに、国土に対する仏教信仰の一つのあり方がある。たとえば、蒙古襲来というようなことで国土が破壊されると考えた場合、どのような仏教か正しいか、どのような信仰が正しいかという観念的議論がいくらさかんであっても、そんなことは仏教興隆の証拠でもなんでもない。現実認識の立場において国土が大切にされ、そして国土が安穏になっていく、そういうことを一つの証拠として、そのような安穏にさせていける力をもっているものとして、法華経信仰の正しさが実証されなければならない、というのが日蓮の立場です。

 

たぐいまれな仏教の方法

これは、「立正安国論」を掲げての日蓮の闘いであったのです。当時の権力者、それと結ぶ学界・思想界のすべての権威を向うにまわしての闘いであった、しかも理論的には十分に勝てるという確信をもった、また勝たなければ法華経信仰は確立しないう気持であった、そのようなぎりぎりの状態のなかでの闘いを通して、日蓮は日本の仏教史のなかでもたぐいまれな仏教のあり方を見せてくれたのだと思われます。歴史的なあるいは政治的な問題情況と、仏教者はどのように取り組むのかとう問題のなかに、正しい仏教信仰が確立されていく道を、日蓮は考えたのであって、単なる悟りとか生とか成仏とかいうものを問題にしたのではなかった。

仏教といえば、この私がどう悟るか、この私がどう往生するか、ということだけが問題のように、私たちインテリとしては考えがちです。そういう一種の独善主義を、日蓮特有の仕方で徹底的に破って、それを実際の闘いのなかで実践してった。すくなくとも私などの心の隅っこにしつこく残ってる独善主義を警戒してくれるものとしては、非常にありがたいものであります。「立正安国論」の私のとらえ方や評価の仕方は、専門家の立場からはずいぶんおかしと思うのですが、私はそれだからこそ、かえって長い間一種の親しみを覚えると同時に、これからも多分生きてる間じゅう、私にとっては、はげましの書物になるのではないかと思ってるのであります。

 

1959・2・14講演

 

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