阿仏房の死を受けて

                                                       

上原 專禄

1.

 文永8(1271)年の10月下旬から同11(1274)年3月まで、およそ2年半に 及ぶ日蓮の佐渡流罪中、かれの教化に浴して法華経信仰を獲得し、新しく日蓮の檀越になっていった嶋の人たちの中に、身延に入山してそこに止住するにいたった日蓮との間に濃密な師檀関係を持ちつづけた篤信の男女が幾人も存在する。定本172『こう人道殿御返事』・182『國府尼御前御書』などにみえる国府人道夫妻、定本178『一谷人道御書』・302『千日尼御前御返事』などにみえる一谷人道の妻、定本194・292・302・315・371などのいわゆる「阿仏房書」にみえる阿仏房とその妻千日尼、定本244『中興政所女房御返事』・254『中興人道御消息』にみえる中興人道夫妻、定本284『是日尼御書』にみえる是日尼ならびにその夫某などがそれである。これらの人たちについで信仰の厚薄、領解の濃淡を比較し、論定することはもとより不可能であるが、仮りにかれらの行実が師日蓮の信仰意識と生活心情へ及ぼしたインパクトの情況からするなら――前記の人々のうち国府人道夫妻と阿仏房夫妻との信行は相並んで他を圧倒する底のものであつた――と想像されよう。この二組の男女のうち阿仏房夫妻の場合は、夫婦の間に信仰のー致と信行の共同が存在しただけではなく、やがて「法華経の行者」として行動することになる子息藤九郎守綱を一家のうちに擁していた、という幸運に恵まれていたせいか、弘安の初頭――1278〜80年頃――には、阿仏房夫妻は身延の日蓮と佐渡在住の門弟たちとを結ぶ連絡者の役割を果たすまでになっていた。

 このように阿仏房夫妻は、佐渡における重要信者として立ち現われるにいたったが、かれらが日蓮の佐渡流罪中のどの時点において、どのような経過で入信したかは必ずしも明かではなく、その家系や社会的地位の如きも不詳という他はない。国府人道夫妻についても事情は同じである。

 ただ弘安元(1278)年7月28日付、千日尼あての日蓮書簡(定本302)『千日尼御前御返事』、真蹟現存)によって、それらの点につきわずかに片鱗が察知せられる。

 いったい日蓮のこの書簡は、身廷登詣を志した夫阿仏房に托して、女人成仏の法門につき示教を乞うた弘安元(128)年7月6日付の千日尼の書状にたいする返書であるが、そこで日蓮は、女人成仏を保障する唯一の経典――したがって悲母への報恩を可能にさせる唯一の経典――として法華経の功徳を熱情をこめて説いている。もしも千日尼あてのこの返書が、これだけの内容に尽きていたとすれば、そこに記されたことば日蓮の他の諸書においても見出さるところの、女人成仏義のたんなる説示に過ぎなかっただろう。しかし日蓮はこの返書において、女人成仏についでの示教をいわば導入部として、まさに女人成仏の法門にかかわって日蓮の身上にのしかかってきたドラスティックな事態についで記述の筆を進め、そのような事態の中で、またその事態のゆえに阿仏房夫妻の篤実で驚嘆すべき信仰行実が実証されていった経緯を感動をこめて書きつけている。阿仏房夫妻らの信仰行実の一端だけではなく、かれらの社会的地位がわずかながら示唆されるのは、実は日蓮のこのような筆の運びにおいてなのである。

 日蓮はこの返書においてまず、上記のように、女人成仏経としての法華経のカ用についで詳説する。その後を受けて日蓮は、まさに「悲母」への報思行として、「日本の一切の女人」に弥陀念仏を放棄させ、法華経の題目を唱えさせようとした己れの願行が、かえって念仏などに執着する女人たちの怨恨を買い、それらの女人の「讒言」に因って、結局は、佐渡に遠流されるにいたったのだとして、日本の女人一般を次のように告発する。

日本〔の〕ー切の女人等は我が心のをろかなるをぱ知〔ら〕ずして、我をたすくる日蓮をかたきとをもひ、大怨敵たる念彿者・禅・律・眞言師等を善知識とあやまてり。たすけとする日蓮かへりて大怨敵とをもわるゝゆえに、女人こぞりて国主に讒言して伊豆〔の〕国へながせし上、、叉佐渡〔の〕國へながされぬ。

 佐渡流罪への契因を女人の讒言にもとめた日蓮のこの告発に、どれほどの歴史的事実の裏づけがあるのか、という疑問は、歴史認識の問題として、十分検討されてよい。しかし日蓮の問題感覚をたしかめようとする当面の作業にとっては、まさしく女人成仏の信仰課題にかかわって、日蓮がここでみるような告発を行つている、という事実そのものが重要だろう。

いずれにしても、このような女人告発との鋭い対比において、次のような千日尼礼讃が行なわれていることに、私としては注意を払いたい。

而〔る〕に日蓮佐渡〔の〕國へ流されたりしかば彼國の守護等は國主の御計〔ひ〕に〔ひ〕て日蓮をあだむ。萬民は其命に随う。念彿者・禅・律・眞言師等は鎌倉よりもいかして此へわたらぬやう計〔る〕と申しつかわし、極欒寺の良観等は武蔵〔の〕前司殿〔=北條宣時〕の私の御教書を申〔し〕て、弟子に持〔た〕せて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計〔らひ〕はさてをきぬ、地頭々々等念彿者々々々等日蓮が庵室に昼夜に立〔ち〕そいてかよ()う人あるをまどわさんとせめしに、阿彿房にひつ()をしをわせ、夜中度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡〔の〕国に生〔れ〕かわりて有〔る〕か。

 流刑地佐渡における過酷な生存環境を伝えたこの一節に注意したうえで、重ねて『千日尼御前御返事』の全文を通読すると、女人成仏の法門に起筆されたこの書簡が、転じて女人告発の書となり、この一節にいたって女人礼讃の文へと更に転じていることに気がつく。生命を賭しての夜半の来問は阿仏房夫妻の共同信行を意味するわけであるのだが、「阿彿房にひつをしをわせ」という行文、「夜中に度々御わたりありし事」という指摘には、二人の共同動作における千日尼の主動的役割にたいする高い評価が合まれている、とみられるだろう。「只悲母の佐渡〔の〕國に生〔れ〕かわりて有〔る〕か」の結句にいたっては、ストレートな千日尼礼讃という他はない。要するに、独自の女人論上に千日尼の信行が位置づけられていることをわれわれは見出すのである。ところで、ここに記されれた阿仏房夫妻の深夜訪問は、日蓮佐渡流罪中のどの時点の、どの地点での出来事であろうか。2年半にわたる佐渡流罪にあたって日蓮は、文永8(1271)年10月着嶋の当初には、塚原の三昧堂に居させられ、翌文永9(1272)年夏のころまでに、石田の郷一谷に移され、おそらく一谷人道の邸内に止住した。

 この二年半のどの時点で阿仏房夫妻の深夜来問が行われたかについて推察を試みるには、阿仏房夫妻の信行とほとんど変らぬ行実のゆえに心をこめて日蓮が嘉賞した国府入道夫妻の場合を併せ考えるのが適当だろう。すなわち右の『千日尼御前御返事』に先きだつこと3年前、建治元(1275)年6月16日付、国府尼にあたえられた日蓮書簡(定本182『國府尼御前御書』、真蹟現存)には、次のような記事が見出される。

()日蓮は日本第一のゑせ()者なり。日蓮は父母・兄弟・師匠・同胞・上一人・下萬民ももれず、父母のかたきのごとく、謀反強盗にもすぐれて、人ごとにあだなすなり・・・。結句は國主より御勘気二度、一度は伊豆[]國、今度は佐渡の嶋なり。されば身命をつぐべきかつてもなし。形態を隠すべき藤の衣ももたず。北海の嶋にはなたれしかば、彼國の道俗は相州の男女よりもあだをなしき。野中にすてられて、雪にはだえをまじえ、くさをつみ()て命をさゝえたりき。   しかるに尼ごぜん拉に人道殿は彼の國に有〔る〕時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は國のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし國なれども、そりたるかみ()をうしろにひかれ、すゝむあし()もかへりしぞかし。

  国府尼あてのこの書簡からは、前掲の『千日尼御前御返事』の場合のような、独自の女人論的考察による鋭角的な事件評価や、いわば宗教社会学的分析視点に立った周到な情況認識は見出せない。その代わりに、この書簡は「身命をつぐべきかつてもな」く、「くさをつみて命をさゝえ」た流罪生活の窮状を、おそらくはリアルに描き出している。ところで、このような窮乏の生活はまさに塚原三昧堂嫡居の時期を特徴づけるものではなかっただろうか。もとより定本178『一谷人道御書』の一節には、「預りよりあづかる食は少し。付〔け〕る弟子は多くありしに、僅の飯の2口3口ありしを、或はおしき(折敷)に分け、或は手に入〔れ〕て食〔ひ〕しに」と記されているので、一谷止住の時期においても、特にその初期には、食物事情はやはり不良だつた、とみられよう。しかし「宅主」の好意と配慮とによって少なくと日蓮自身の事情はやがて改善されていった、と考えられる。そうだとすれば、『國府尼御前御書』に「人めををそれて夜中に食ををくり」と記されているのは、塚原三昧堂期のことと想像されることになる。一方、問題の『千日尼御前御返事』には、夜中の来聞にあたって阿仏房に背負わせた「ひつ」の内容についで記すところはない。しかし『國府尼御前御書』に準じて、「ひつ」の中味をやはり「食」と考えることが許されるだろう。そうだとすると、阿仏房夫妻の夜中来問もやはり塚原三昧堂に籠っていた日蓮に食事を供することを目的としていた、ということになる。いずれにしても、国府人道・阿仏房の二組の夫婦による必死の奉養は日蓮に終生忘れえぬ感銘を刻みつけた。そのことを物語るものが、二人の尼のそれぞれに与えられた上掲の二書に他ならない。

 ところで日蓮が深く感動したのは、佐渡謫居中に享受した二組の夫婦からの奉養だけでなかった。国府人道・阿仏房のそれぞれが幾度か身延山中に日蓮を訪ねたことをすべて尼たちの「さしつかわし」として、その感動を尼たちに云えることを日蓮は怠らなかった。まず国府人道の場合をみると、かれは文永12(1275)年の4月に身延の日蓮を訪問してしている。日蓮はその感激を同年4月12日付書簡(定本172『こう人道殿御返事』真蹟現存)に、「人の御心は定〔め〕なきものなれば、うつる心さだめなし。さどの國に候し時御信用ありしだにもふしぎにをぼえ候しに、これまで人道殿をつかわされし御心ざし、叉國もへだたり年月もかさなり候へば、たゆむ御心もやとうたがい候に、いよいよいろ()をあらわし、こう()をつませ給〔ふ〕事、但一生二生の事にはあらざるか」と書きつけている。前引、182『国府尼御前御書』に日蓮が「叉いつしかこれまでさしも大事なるわが夫を御つがい(使)にてつかわされて候。ゆめか、まぼろしか、尼ごぜんの御すがたをみまいらせ候はねども、心こそをぼへ侯」と記したのも、前記文永12年4月の国府人道の来訪についてである。国府入道は弘安元(1278)年7月にも身延登詣を企てた。このときは阿仏房と同道したのだが、農事の都合で途中から引き返している。一方阿仏房は、文永11(1274)年から弘安元(1278)年の間に三度も身延山中の日蓮を訪問している。そのことについて日蓮は、前掲の弘安元年7月28日の千日尼あて書簡の中、佐波流罪中のとき受けた奉養につき尼を礼讃した次下に、

「其上、人は見る眼〔の〕前には心ざし有〔り〕とも、さしはなれねれば、心はわすれずともさてこそ候に、去[ぬる]文永11年より今年弘安元年まではすでに5ケ年が間、此山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」

 と書き記している。

 以上のように、二人の尼に贈られた幾通かの日蓮書簡によって、国府入道・阿仏房両夫妻の信仰行実について観察してくると、この二組の夫婦の間に信仰実践のパラレリズムが存在することに気がつく。佐渡「謫居」の日蓮にたいする深夜の奉養、身延隠棲の日蓮への困難な来問、それらはたんに法華経信仰の表明であるだけではなく、日蓮という人間存在にたいする絶対帰依の実証でもあるだろう。そのような深い信仰実践において二組の夫婦の間に疑う余地のない相似性が認められる、というのは、いったい何を意味するのだろうか。そこには信仰実践における競争と協同ともいうべき、一種の宗教社会学的行動モデルの作動を認めることができるだろう。それと同時に、二組の夫婦の行実を受けとめようとする日蓮の側に、かれらの言動を一つの対として、理解し且つ評価しようとする主体的姿勢を想定することが可能のように思われる。

 つまり日蓮には、あるいは意識的に、あるいは無意識的に、この二組の男女の存作や行動を時には一括してとらえ、時には対比的にとらえる、という態度が認められるように思われるのである。そして、日蓮のその姿勢や態度が今度は二組の男女のそれぞれに反作用を及ぼしていって、かれらの信仰生活のあり方を規定してゆく、というような作用関係も見出されるようである。たとえば、「尼ごぜん並に入道殿は彼の國に有〔る〕時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は國のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり。」ときわめてインチームに記された例の182『國府尼御前御書』の添書に「阿佛房の尼ごぜんよりぜに三百文。同心なれば此文を二人して人によませてきこしめせ」と日蓮が注しているのは、二組の夫婦の行実を兼帯的なものとして日蓮が評価していることを示唆しでいる。また「去〔ぬる〕文永11年より今年弘安元年まではすでに5ケ年が間、此山中に候に、佐渡の國より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ」と書きつけた上掲の「千日尼御前御返事』の後段には、二組の夫婦の存在と行動を一括的に問題にした次のような記述を見出すのである。

抑〔も〕去年今年のありさまはいかにならせ給〔ひ〕ぬらむと、をぼつかなさに法華経にねんごろに申〔し〕候つれども、いまだいぶかしく候つるに、7月27日〔の〕申〔の〕時に阿佛房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにとまづといて候つれば、いまだやま()ず、こう入道殿は同道にて候つるが、〈わせ(早稻)はすでにちかづきぬ、こ()わなし、いかんがせん〉とてかへられ候つるとかたり候し時こそ、盲目の者〔の〕眼のあきたる、死〔し〕給〔へ〕る父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有〔る〕をゆめにて悦〔ぷ〕が、ごとし。

 ここに記されている阿仏房の、〔弘安元年〕7月27日の来訪が、その前段に書かれている文永11年より弘安元年までの5ケ年の間にかれによって実行された三度の身延登詣のうちの、第3次のものを指すのか、それとも第4次のものを意味するのか必ずしも明かでないが、その来訪が国府入道との共同の企てであったことは右の記述の通りである。しかし日蓮はそのことを承知してはいなかった。そこで阿仏房を身辺近く見つけ出した日蓮は、千日尼と国府入道との安否をたたみかけるように一気にたずねた。日蓮は二組の夫婦の動静を一連のものとして気づかっていたわけである。それにたいする阿仏房の返答の中には、両家の家庭事情の相違とかれらの社会的地位とを同時に示唆するいくらかの素材が含まれている。国府人道夫妻に子がなく、親だけがあったことは、すでに172『こう人道殿御返事』に語られている。

その故に日蓮は人道夫妻の老後のあり方についてまで懸念していた。弘安元年7月対面のとき、日蓮が国府入道の安否を阿仏房にたずねたのに対して、阿仏房は上掲のように「こう入道殿は同道にて候つるが、〈わせはすでにちかづきぬ。こ()わなし。いかんがせん〉とてかへられ候つる」と答えた。ここに引かれた国府入道の言葉は、たんに無子を嘆じたものではなく、国府入道本人に肩代わりして、あるいは本人を助けて農事労働を担当する働き手が一家の内に欠如していることを告げたものであり、これを受けて、阿仏房は、その故にせっかくの身延訪問の企ても途中で放棄されざるをえなかったのだ、として国府人道のために弁じたわけだ。この釈明の裏には、農事を一任しうる子息藤九郎守綱が存しているため、またもや日蓮に面接することのできた一身の果報を素直によろこぶ阿仏房の心が秘められていたことだろう。いずれにしてもこの一段は、国府入道、阿仏房のいずれもが、たんに一子の労働力の有無によって経営が大きく左右されるほどに小規模な農薬級営者であったことを告げている。日蓮の遺文には、直接にかれらを「田堵」あるいは「名主」と呼んでいる箇所は見出せないが、かれらを武士階層に属する小名主と想定することが十分可能である。

 

 

2.

  弘安元(1278)年7月27日、身延に日蓮を訪ねることのできた阿仏房がいつまで日蓮のもとに滞在し、いつ佐渡へ帰ったかは明かでない。また、佐渡に帰ってからの阿仏房の動静についても不詳である。ただ、その年の閏10月19日付として、平賀本で伝承せられている定木315『千日尼御前御返事』が日蓮の親撰であるとすれば、そこにみえる「佐渡の国より此國までは、山海を隔てて千里に及〔び〕候に、女人の御身として、法華経を志〔し〕ましますによりて年々に夫を御使いとして御訪〔ひ〕あり。定〔め〕て法華経・釈迦・多賓・十方の諸佛、其御心をしろしめすらん」の記事にしたがって、翌弘安2年夏に予定されている身延登詣をもう待ち望んでいる阿仏房の無事な姿を想像することができるだろう。しかし、この定本315には偽撰の疑いがある。いずれにしても阿仏房は、弘安2年夏に予定されていたでもあろう日蓮訪問の志を果たすことができなかった。弘安3年7月2日付、定木371「千日尼御返事』(真蹟現存)に「こぞの3月の21日にわかれにしが」と記されているように、阿仏房は弘安2(1279)年のこの日に死去した。『本化別頭佛祖統記』、『本化高祖年譜攷異』の類は、弘安元年7月における阿仏房の身延登詣を90歳のときと記しており、したがって没年を91歳と想定していることになるが、これらを立証しうる記事は、日蓮遺文の中には存在しない。やはり右の『千日尼御返事』によると、阿仏房の「舎利」は、弘安2年7月2日、子息藤九郎守綱が「頸に懸け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登て法華経の道場に此をおさめ」た。そのうえ守綱は翌弘安3(1280)年7月1日、またもや身延に登って故父の墓にまいった。その守綱がおそらくは帰嶋にあたって托されたものが、前記定本371の千日尼にあてられた日蓮書簡に他ならない。

 定本371の標題は、多くの刊本の場合と同じく、『千日尼御返事』とされているが、真蹟では宛名は「故阿佛房尼御前御返事」と書かれている。日蓮は無量の思いをこめて、「阿仏房尼」の上に「故」の一字を書き加えたことだろう。本文の全体は発想法のちがいにしたがって、自ら三つの部分にわけられるだろう。(1)第一段では、千日尼は夫との別離の悲しさに沈湎する女性であると同時に、故霊の行方に懸念する篤信の女人として表象されている。日蓮は、千日尼のそのような懸念を払拭しようとして、法華経方便第二にみえる「若有聞法者無一不成佛」十字の釈義を展開するが、阿仏房の「入寂光土」を千日尼に確信させるため一見異様の霊山往詣を開陳することをあえて辞さない。(2)しかし、そのような法門の説示をもってしても、夫との死別の悲しさに耐えかねている老婦を慰撫しえないことを洞察している日蓮は、第二段において、「死者」との共存の可能性について示唆を与えることになる。(3)しかし、そのような示唆をもってしても、孤独の寡婦のわびしさを解消させがたいことを心得てでもいるように、日蓮大は現世における何ほどかのよろこびを千日尼に指し示そうとして、「子は寶」として一子藤九郎守綱の健在をことさらにに強調する。文面にはもとより現われていないが、ここでは国府入道夫妻における無子のなげきが対比的に暗示せられているように思われる。全篇の通釈は、古注の他、茂田井教亨師の「日蓮聖人御消息文講話」所収「五、千日尼御返事」などにゆずり、以下、「死者」阿仏房への日蓮の想念が、亡夫阿仏房への千日尼の思慕に重ねられ、そこに、「死者」と「生者」との共存の思惟が任運のうちに日蓮の嚢の中で造出せられてゆき、やがてはそれが千日尼の心情の中へ溶解してゆくことになる、その間の経緯について少しく考えることにする。

 右に略述したように、日蓮はこの書簡の第一段において、法華経聴聞者の無条件的、無例外的成仏を高唱し、阿仏房の故霊の行方についての千日尼の不安と懸念とを一掃しよとする。すなわち日蓮は、本文に入ってすぐきま、

法華縦に云く、「若し法を聞く者あらば一として成佛せざること無し(若不聞法者無一不成佛)」云云。文字は十字にて候へども法華経を一句よみまいらせ候へば、釈迦如来の一代聖教をのこりなく讃〔む〕にて候なるぞ。故に妙楽大師云く、「若し法華を弘むるは、凡そ、一義を消するも皆一代を混じて共始末を窮めよ」等、

 と規定し、たとい十字の小包といえども釈迦一代聖教の全内容をそのうちに内包するところの、いわば小宇宙的法体として法華経の各句を評価する。そして、そのような評価方法に立って、まさしく「若不聞法者無一不成佛」の一句の意味内容を日蓮は次のように解明する。

されば此の経文をよみて見候へば、此の経をきく人は一人もかけず佛になると申〔す〕文なり、・・・提婆が三逆と羅喉羅が二百五十戒と同〔じ〕く佛になりぬ。妙荘厳王の邪見と舎利佛が正見と同〔じく〕授記をかをほれり。此〔れ〕即〔ち〕無一不成佛のゆへぞかし・・・大善も用〔ふる〕事なし。法華経に値〔は〕ずんばなにかせん。大悪も歎く事なかれ。一乗を修行せば提婆が跡をもつぎなん。此等〔は〕皆無一不成佛の紙文のむなしからざるゆへぞかし。

 右の二つの章句を比読すれば明らかなように、「若不聞法者無一不成佛」の十字は、前の場合には、全法華経の任意の一句として取り上げられ、その権威性が強調せられている。後の場合には、この十字は、法華経方便品第二におけるそれの原意――すなわち法華経以前の経々を聴聞したいわゆる七方便の士の悉皆成仏の賛――の基底をなすところの法華経聴聞の功徳にかかわる特定の勝句としてとらえられ、それの力用性が懇説せられている。もしもこの書簡の対合衆が千日尼のような感性的な女人ではなくて、たとえば富木常忍のような智教学にも明るい理知的な檀越であったとすれば、「開法成仏」にかかわってこれ以上説示を加える要はない、と日蓮は判断したことだろう。『始聞佛乗義』における日蓮の態度は、事実、そのようなものであった、と考えられる。しかし、故霊の行方を具象的に追求しているであろう千日尼の不安と懸念に思いをいたすと、日蓮は「開法成仏」の法門の一般的提示に止まることができなくなったようにみえる。そこで日蓮は、まさしく阿仏房故霊の「霊山往詣」の具象的相貌を可視的に描き出し、それによって千日尼の不安と懸念を感性的に解消させようとして、前引の「此等〔は〕皆無一不成佛の経文のむなしからざるがゆへぞかし」の終句の次下に、左のように書き加えることになった。

されば故阿佛房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑〔ふ〕とも、法華経の明鏡をもって共の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多宝佛の寶塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候。…故阿佛房一人を寂光の浄土に入〔れ〕給はすば諸佛は大苦に堕給うべし。ただをいて物を見よ々。佛のまことそら事は此処にて見奉[]べし

 総じて日蓮教学の上で、「成仏」の理念と「霊山往詣」のそれとのかかわりをどうとらえるべきかという問題は、故望月歓厚師が同師著『日蓮教学の研究』の第7章『日蓮聖人の往詣思想』で詳論しており、同師は両理念を「本質的には全同」と断じると同時に、日蓮による「霊山往詣」の勧進を「下機誘引のための教である」とみる見解を否定し、「霊山は実に聖人の信仰の世界である」として、「霊山往詣」理念の独自の重要性を強調した。右のように要約したかぎりでは、同師の所説は概して妥当であるが、研究方法の点で疑問があるうえ、所説の内容自体に来考の点が多く残されていることは、おそらくは同帥自身が意識していたところだろう。日蓮教学の基本問題の一つとして、両理念のそれぞれと両者の関係について考究することはもとよりここでの課題ではありえないが、いずれはそのよう教学問題へ迫るためにも、日蓮自信における「霊山往詣」のイメージ――そのイデーではない――を遺文の一つびとつについてたしかめてゆく作業が必要とされるだろう。そのような研究問題にもかかわって、右に掲げた一説を検討すると、そこにはどのような「霊山往詣」のイメージが見出だされるだろうか。

  日蓮は「故阿佛房の聖霊は今霊鷲山の山の中に多宝佛の寶塔の内に、東むきにをはすと」と書き記している。ここに述べられているのは、「霊山往詣」の行動そのものではなく、その行動によって到達した故霊の、「今」という時点における在り場所と在り方である。すなわち、それが存在する一般的な在り場所としては、「霊鷲山の山の中」というもの、が掲げられている。いうまでなく「霊鷲山」あるいは「霊山」とは、法華経序品の導入句に「是の如きを我聞きき。一時、佛王舎城の耆闍崛山の中に住したまひき」と記されている「耆闍崛山」の漢訳名に他ならず、法華経説法集会の所として挙げられている。日蓮が右の一節に「霊鷲山の山の中に」と書いたのは、本経に「耆闍崛山の中に」とあるのをそのまま襲用したものと解せられるが、この句は、法華経説法の集会に故阿仏房の聖霊が陪席していることをすでに示唆している。

 しかし法華経の説処は霊鷲山だけではない。法華経の説処・説会は二処・三会と称せられているように、最初の十品は霊鷲山で説かれ(前霊山会)、次に見宝塔品から嘱累品までの十二品は虚空を説処とし(虚空会)、最後の六品は再び霊鷲山で説かれた(後霊山会)、とされている。

 この点からすると、「霊鷲山の山の中に」と位置づけられている阿仏房の故霊は、前後霊山会のいずれかに参列しているようにみられるが、「多寶佛の寶塔の内に」と限定せられているところからすれば、故霊の在り場所は虚空会でなければならない。なぜなら多宝仏塔は虚空会の開始しとともに涌出し、その終りとともに東方宝浄世界へ還る、と法華経自体が記しているからである。こうして、日蓮指摘によると、故阿仏房の聖霊は多宝仏塔を主座とした虚空会に陪席していることになる。このように「霊鷲山の山の中に」と記されていながら、日蓮の念頭には虚空会が想起されているのは、右の一節だけではない。文永10(1273)年4月26日付、定本119『観心本尊抄副状』(真蹟現存)に「師弟共に霊山浄土に詣でて、三佛の顔貌を拝見したてまつらん」と記しているのも、右の一節と同巧である。すなわち、『副状』にいうところの、釈迦・多宝・十方諸仏の「三佛」が揃って、列座するのは、法華経の虚空会に限られている。したがって『副状』は、「霊山往詣」の名の下に、実は虚空会への参列を説くものといえる。これと同様に、故阿仏房の聖霊も虚空会に参列している、と日蓮は見るわけであるが、その虚空会には『副状』にいう「三佛」はもとより、本化の四菩薩はじめ、迹化・他方の大小諸菩薩も「雲閣月卿」のごとくに居ならんで釈尊の法華経説法を聴聞している華麗無比の大景観を、ここでも日蓮は想定していたことだろう。

 ところで、そのような虚空会に参列している故阿仏の聖霊が「多宝佛の寶塔の内に、東むきにをはすと」書かれているのは、何を意味するのか。日蓮の全遺文中、他に類例のないこの一句を消化することは実には容易ではない。いったい多宝如来の宝塔は右に触れたように、法華経の見宝塔品にいたってはじめて大地から涌出し、法華経を説きつつある釈迦如来の前に現われる。それが現われるとすぐさま、塔中の多宝如来は大音声をあげて釈迦如来の法華経説法を讃歎し、且つ所説の真実なることを証明する。そのうえ多宝如来は、釈迦如来が十方世界から呼び集めた分身諸仏の仰ぎみる中で、宝塔内の半座を釈迦如来に分かち与えて塔に請じ入れ、ここにいわゆる「二仏並座」が実現する。象徴性に富んだ法華経の中でも、見宝塔品に出現する多宝塔はとりわけ象徴的であるが、経は多宝塔の方位や向きについては黙して語らない。おそらくはそのことを無用の詮議と経自体は考えたのであったろう。しかし、時代の下った不空の『成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌』一巻になると、法華経法の修法における本尊としての曼茶羅制作に関して、多宝塔そのものの方位についても、釈迦・多宝二仏をはじめとする諸尊の座配についても、綿密きわまる指示が与えられている。すなわち『観智儀軌』は、「その壇三重にして當に中内院に八葉蓮華を畫くべし。華胎の上に於て窣覩波塔〔多寶塔〕を置く。その塔の中に於て釈迦牟尼如來・多寶如來の同座して座せるを畫け。塔門は西に開、く。蓮華八葉の上に於て東北隅より首と爲して右旋し、八大菩薩を布列安置す。…第三重院の東門に於て持國天王〔=凡名、提頭頼吨天王〕、南門に毘樓勒叉天王〔=漢名、増長天王〕を置き、西門に毘樓博叉天王〔=漢名、廣目天王〕を置き、北門に毘沙門天王〔=漢名、多聞大王〕を置くと規定しており、『威儀形式法経』にも類似の記載がある。これらの儀軌による曼茶羅制作が日本においても行なわれたことは、唐招提寺蔵「法華曼茶羅」、「阿裟縛抄」第三所収「法華曼茶羅」等の存在することによって証せられる。

 蜜教の修法において用いられる曼茶羅本尊と日蓮の図顕したそれとの間に平板な類同を想定したり、前者の後者への直線的影響を想像したりすることは、密教研究にとっても日蓮認識にとっても有益ではない。しかし、日蓮の教義と信仰における密教的要素については十分深い注意が払われるべきであろう。そのような観点に立って日蓮図顕の曼茶羅本尊を点検してゆくと、茂原藻原寺蔵にかかる、文永11(1274)年7月25日、身延山中図顕の一幅の大曼茶羅において、釈迦・多宝二仏をはじめ、列座の四聖六凡が七字の題目を中軸に西面していることが暗示されているのを見出す。そのことを示唆しているのは、右の藻原寺本における四大王の方位・座配が、多宝塔の西面を指定している『観智儀軌』ならびに『威儀形式法経』における四天王についての規定と全同であるという事実である。すなわち、藻原寺本曼茶羅には、向って右上隅に「東方持國天王」が、右旋して右下隅に「南方増長天王」が、左下隅に「西方廣目天王」が、最後に左上隅には「北方毘沙門天王」が、それぞれ方位を冠して畫かれているのである。「観智儀軌』等では、多宝塔が西面していることを前提として「東門に於て持国天王」等の規定が行なわれていることから類推すれば、四天王の方位の全同な藻原寺本大曼茶羅の二仏ならびに諸尊もまた西面しているものと想定して、日蓮は図顕している、といえるだろう。そしてこのような推定が許されるとすれば、四天王の方位が明記せられてはいない諸曼茶羅の場合にも、それの座配が藻原寺本と事実上一致しているかぎしり、やはり二仏・諸尊の西面を日蓮は想定していた、と考えてよかろう(『御本尊集』第11番、妙満寺本以下の多くの曼茶羅で広目天王と増長天王の座配が入れ持っているのは、「毘樓勒叉」を「広目」、「毘樓博叉」を「増長」と、日蓮がそれぞれ錯覚するにいたった結果であって、四天王の座配観そのものに変化が生じたためではあるまい)。もとより、日蓮の曼茶羅本尊は多宝塔を主座とした法華経虚空会そのものの素朴な再現を意味するものではない。したがって曼茶羅において二仏・諸尊の西面、が想定されていることは、虚空会において多宝塔が西面している、と日蓮が考えていたことの直接の証ではありえないだろう。しかし、日蓮の曼茶羅構成に、かれの虚空会像の投影を認めざるをえないとすれば、曼茶羅における二仏等を西向きとみる日蓮の考え方を介して、逆に虚空会における多宝塔の向きについての日蓮の見方を推定することも暴挙ではあるまい。

 日蓮が虚空会における多宝塔を西向きと考えていたことの、もう一つの傍証は健治2(1276)年7月21日付、定木223『報恩抄』(真蹟曽存)にみえる次の一節である。「月氏には教主釈尊、寶塔品にして、一切の佛をあつめさせ給〔ひ〕て大地の上に居せしめ、大日如来〔=多寶如来〕許〔り〕寶塔の中の南の下座にす()へ奉〔り〕て、教主釈尊は北の上座につかせ給〔ふ〕。此の大日如来は大日経〔の〕胎臓界の大日・金剛頂経〔の〕金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等〔と〕定〔め〕たる多寶佛の上座に教主釈尊居せさせ給〔ふ〕此〔れ〕法華経の行者なり。天竺かくのごとし」。ここには多宝如来にたいする釈迦如来の優越の見解が断乎として述べられているが、このような見方は多宝如来の優位を想定している『威儀形式法経』の所見と真向から対立する。この対立は当然曼茶羅上にも現われるはずであるが、事実、密経系の「法華曼茶羅」では、『阿裟縛抄』第三所収のそれが明示しているように、塔中の大日如来は北の半座を占め、釈迦如来は南の半座を占めているように図示されている。これに反して日蓮図顕の曼茶羅では、山中喜八郎居士編集『御本尊集』収録の全123幅中一つの例外もなく、釈迦如来は曼茶羅に向かって中央玄題の左側に、多宝如来はそれの右側に位置づけられている。ところで、曼茶羅に向って中央玄題の左側とは、二佛.諸尊が西向きであると想定した場合に、まさしく「北の上座」を意味することになリ、玄題の右側とは「南の下座」を指すことになる。このように『報恩抄』の一節もまた、日蓮が多宝塔を西向きと考えていた間接の証をなすものだろう。ところでここに、日蓮遺文への古注を検討すると、『報恩抄』のこの一節に見える多宝塔の向きにっいても注意が払われているのを発見する。すなわち、行学日朝(1422−1500)の『報恩抄私見聞』第2の1節、永正年間(1504−1521)に成った弘経寺日健の『御書鈔』の一節、安国日講(1626−1698)の『録内啓蒙』の一節などがそれであって、それらの何れもが多宝塔を西向きと見ている。しかし、これらの注者たちが多宝塔を西向きとしているのは、塔の現前した霊山、あるいはそこでの釈尊の説法位を、伝承のままにきわめて素朴に、東向きと見ていることの裏返しに過ぎず、多宝塔の向きについての日蓮白身の思考方法を独白に探ろうとした結果ではない。したがって、「霊山講堂」東向説の典拠を挙げようとした禅智院日好(1655−1734)の『録内扶老』における考証のごときは、ともかくも「文献学的」であったといえよう。

 古注の依るべきものがないままに、いささかの思弁を、弄して、日蓮が多宝塔を西向きと考えていただろうことの推定を右に試みた。ところで、このような推定に立つと、『千日尼御返事』中の「故阿佛房の聖霊は今…霊鷲山の山の中に多實佛の賓塔の内に、東むきにをはす」と日蓮が書いたことの意味はどのように理解されるだろうか。禅智院日好は『録内扶老』の別の場所で『千日尼御返事』にも付注しており、右の一文については「霊山の講堂東向也。其の堂へ参詣し玉ふ賓塔なる故賓塔は西向也。而して釈尊亦入塔し玉ひて二佛拉座し玉へば其の塔西向なる故二佛共に西に向玉ふ也。此塔に詣る阿佛房上人なる故又是れ東向にて二尊を拝する義知る可し。此の塔は即是れ寂光なる故寂光に詣る義也」と付釈している。しかしこれでは何かの方角を言いあてさせようとするパズルの解答のようなもので、そこには、『千日尼御返事』に阿仏房故霊の現時点における在り方をまさに右のように書き現わさざるをえなかった日蓮の心情や問題感覚への共感もなければ、その共感に即しての意味考察の試みもない、といわざるをえない。ところで、日蓮の心情や問題感覚への共感や味到は、いわば主観的・恣意的な心理解釈の方法によっては達成されうるものではなく、むしろ客観的・自己抑止的な文言解釈によってのみ実現されうるものであろう。そこで右の一文のうち、最初にまず、従來も注者が問題にしてきた「東むきにをはす」の一句の前にあらためて佇立していると、この一句は、虚空会の宝塔をめざした、わき眼もふらぬ一直線の「霊山往詣」のアクションを果たし終った阿仏房故霊が、現時点においてもなおそのままの姿勢をくずさず止住している姿を蓬髪させているものであることが、合点せられてくる。日蓮の脳裏には、二仏並座の多宝塔が西向きに空中に住在している、そのような宝塔像が刻みづけられている。その多宝塔をめざした阿仏房故霊の往詣行動であるの、だから、それが東方指向であったのは、日蓮の阿仏房像にとって当然である。しかし、多宝塔に達した現時点において故霊が「東むきにをはす」というのは、それが霊山往詣の姿勢をそのまま持ちつづけていることを意味している。その意味では、もはや「方向」が問題なのではなく、存在形態としての「持続」が問題なのである。日蓮はおそらく、このように問題が転換したことを十分心得たうえで、「東むきにをはす」という表現をとったのではあるまいか。しかし日蓮がなお且つ「東むきに」という表現を取りつづけたのには、もう一重深い理由があるように考えられる。禅智院日好にいたる注釈家たちは、霊山における釈尊の説法位を東向きと想定していた。このような一般的想定を日蓮自身も持っていたかどうかは不明であるが、釈迦・多宝二仏の並座した多宝塔を西向きと考えた日蓮は、並座のかたちで釈迦仏が塔内で続行した法華経説法――それは見宝塔品から嘱累品にいたる十二品で、いわゆる本迹二門にわたるものであるが、その中には日蓮が特に重視した全法華経中の眼目としての寿景品を中心とした一品二半が含まれている――も西向きで行われた、と考えていたことだろう。

 したがって阿仏房の故霊が「東むきにをはす」と書かれたのには、法華経本門の真髄を故霊が聴聞しつつあるのだ、という日蓮の意味措定が内包されていたことだろう。故霊はただ法華経一般を聴聞しつつあるのではない。釈尊が久遠実成・常在不滅として自分自身を開顕する、そのような法華経をこそ故霊は聴聞しつつあるのだ、という意味付与が、「東むきに」の表現に籠められていた、と解されるのではあるまいか。

 しかし、『千日尼御返事』における問題の一節を消化するためには、たんに「東むきにをはす」の一句について考察するだけでは不十分であり、従来ほとんど顧みられたことのない上の一句「多寶佛の寶塔の内に」の意味についても考究する必要がある。そこで山川智応博士虔修『日蓮聖人御眞跡』弘安第二部によって真蹟を検討すると、『故阿佛房尼御前御返事』第九紙の最後の二行にわたって記されている「多寶佛の寶塔の内に」の「内に」は、もと「中」と書かれた上に、墨つぎをして重ね書きにされたものであることがわかる。つまり日蓮は、はじめに「中」と書き、すぐ後でそれを「内に」と書き改めたのである。このことは、「内に」の用語が日蓮によって意識的・自覚的に選択せられたものであうことを示唆する。その選択とは、すぐ上に書かれた「霊鷲山の山の中に」の句に現われた「中に」が重出することを避ける、という用話法上の配慮を意味するだろうが、もう二つには「外」にたいして「内」を明示しようとする構文上の意図を意味するだろう。いずれにしても「寶塔の内に」の句に注意を払って、阿仏房故霊の在り方についての日蓮の見解を考察すると、日蓮は宝塔そのものにたいして東向きの座位を取る故霊を想像していろのではなく、故霊を宝塔の内部に在るものと見た上で、二仏にたいして東向きに位置している故雪像をここに描き出しているのであることがわかる。いうまでもなく法華経の説相からすれば、見宝塔品に初出する多宝塔は、高さ五百由旬、縦広二百五十由旬の広大な七宝塔ではあるが、その内部を占めるものははじめ全身の多宝如来のみであり、後には釈迦如来を加えて二如来のみが塔中に並座しているに過ぎず、十方分身の諸仏のごときも、いわば聖所としての塔の外、宝樹下の座が指定されているだけである。従地涌出品にいたって娑婆世界の三千大千世界から涌出した上行等の四菩薩を導師とする菩薩たちも、多宝塔中の二世尊に作礼し終って後、虚空に在住するのみであって、これら諸菩薩が塔中に在るという発想はない。日蓮は、その従地涌出品にはじまる八品における本尊の形貌を『観心本尊抄』(真蹟現存)に説いて「其の本尊の體たらく、本師の裟婆の上に寶塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼佛・多寶佛、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文珠・彌勒等は四菩薩の眷属として末座に居し…」と記している。さらに日蓮は『報恩抄』の末尾に近く「三大秘法」を説き「一つ〔に〕は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂寶塔の内の釈迦・多寶、外の諸佛並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」と記している。本尊の形貌として日蓮の掲げるところは、両抄で相違しているが、宝塔の内に釈迦・多宝二仏のみを配する点は両抄に共通している。いずれにしても、法華経そのものにおける宝塔像も、日蓮の本尊論上における宝塔像も、塔内には釈迦・多宝の二仏のみが配位されていて、余者の参入あるいは在位は認められていない。それにもかかわらず『千日尼御返事』においてあへて日蓮が「されば故阿佛房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑〔ふ〕とも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて候へば、霊鷲山の山の中に多寶佛の寶塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」と断言したのは、いったい何を意味するのだろうか。

 右に見たように虚空会は華麗であると同時に森厳であり、二仏並座の多宝塔はその虚空会の儀式的中心として至高至尊の聖所のごとき施設をなしている、と日蓮自身も想定していた、といえよう。しかるに、そのような多宝塔の内側に、一介の在俗の入道に過ぎぬ阿仏房の聖霊が止住していることを、この『千日尼御返事』において日蓮が断言するにいたったのは、そこに宝塔観の変化がいわば突如として起ったことを意味するのだろうか。おそらくはそうではあるまい。日蓮の多宝塔観そのものに原理的変化が生じたのではなく、ただ、亡夫阿仏房の聖霊の行力につき不安と懸念をいだいて悶々としている千日尼を、いかにもあわれと見る日蓮の心情が、阿仏房成仏のいわば事証として多宝塔内止住の阿仏房像をあえて日蓮に形成させ、それを千日尼に伝達させたのではなかっただろうか。しかし、こう考えるのは、日蓮を心情主義のオポチュニストとして措定するに等しいのではあるまいか。いや、そうではあるまい。他の場合にも死者というものを、「死者」としての存在を持続してゆく個性的実存としてとらえる日蓮は、阿仏房の場合にも――いや、阿仏房の場合であればこそ、いっそう濃密に、――そのような個性的実存として「死者」阿仏房を表象せざるをえない立場に立つ。そして「死者」阿仏房を個性的実存として表象するとき、日蓮は、感動と感激なしには想起することのできぬ「生者」阿仏房像を必然的にモデルとする。日蓮は、佐渡遠流中、櫃を負うて深夜に日蓮を慰問した阿仏房の懸命の行動を、今日只今の出来事のように心情に刻みつけている。日蓮は、身延隠棲の日蓮を「一千里の山海」をふみわけて幾度も訪ねてきた阿仏房の誠実な姿を今日只今の姿として脳裏に深く刻みつけている。2年以前の弘安元年の夏のことだが、日蓮は阿仏房の来訪を待ちかねていた。期待に遣わず、阿仏房は身延の山中に現われた。そのときの感激を前節に掲げた定本302『千日尼御前御返事』に日蓮は「7月27日〔の〕申〔の〕時に阿佛房を見つけて、尼ごぜんはいかに、こう入道殿はいかにとまづといて候つれば、いまだやま()ず、こう入道殿は同道にて候つるが、わせはすでにちかづきぬ、こわなし、いかんせんとてかへられ侯つるとかたり候し時こそ、盲目の者〔の〕眼のあきたる、死〔し〕給〔へ〕る父母の閻魔宮より御をとづれの夢の内に有〔る〕をゆめにて悦〔ぶ〕がごとし」と書きつけている。息せききって千日尼・国府入道の安否をたずねる日蓮の息遣いが聞こえるようだ。「阿佛房を見つけて」というのは、草庵の内外のどこでの出来事であるのか不明であるが、あるいは草庵の縁側、戸外などでのことであったかも知れない。そうだとしすれば、一安堵した日蓮は「さあ、此方へお入り」と阿仏房を草庵内に請じ入れて、話をつづけていったことだろう。そのときの阿仏房の謹直で柔和な姿が日蓮の眼にやきついており、それが「死者」阿仏房の形貌になってゆく。故阿仏房の聖霊は、かつて「生者」阿仏房が佐渡塚原の三味堂をめざし、身延の草庵をめざしてただ一筋に訪ねてきたしように、今度は霊山をめざして、わき目もふらずに訪ねていったことだろう。聖霊のゆきついたところは、虚空会の多宝塔の前だった。十方分身の諸仏だけではなく、もう上行等の四菩薩も出現して釈迦如来に隷従している壮麗な情景にも圧倒されることなく聖霊は、宝塔の前に「東むきに」佇立して二尊をうやうかしく拝礼した。そのとき塔の内から「さあ、此方へお入り」という声がかけられた。日蓮にたいして、従順であったにように、如来にたいして質直柔軟な聖霊は、なんのおそれろところもなく、多宝塔内に分け入った。かつて「生者」阿仏房が膝を接して日蓮の法話に聞き入ったしように、今度は「死者」阿仏房が釈迦・多宝二尊の膝下で釈迦仏の説法を聴聞している。こうして「故阿佛房の聖霊は今…多寶佛の寶塔の内に、東むきにをはす」といえるのだ。日蓮は、このように考えていったわけだろう。思うに、これらの思考過程の全体は、まさしく「死者」阿仏房にたいする日蓮の切々たる愛の具象化に他ならないだろう。しかし、この聖霊像を千日尼に伝達するとき、日蓮は自己の心情を語ることを避け、「人は疑〔ふ〕とも、法華経の明鏡をもって其の影をうかべて侯へば、霊鷲山の山の中に多寶佛の寶塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」と書き、聖霊像の客観的根拠とそれへの自己の確信を表明する方法をとったのだ、と見られよう。いずれにしても多宝塔は日蓮にとっては至高至尊の聖所を意味しただろうが、大衆を排除してよせつけぬ禁域のごときものではなかったのである。しかるに、日蓮のこのような性格の多宝塔観とは全く異質の多宝塔像が、建治2(1276)年3月13日などに系けられた定本209『阿佛房御書』と名づけられた一書に伝えられている。「今阿沸上人の一身は地水火風空の五大なり。此五大は題目の五字也。然れば阿佛房さながら寶塔、寶塔さながら阿佛房、此より外の才覚無益なり…」などと記されているのがそれである。しかし、五大思想を強調し、数法相配釈に立って阿仏房と宝塔との相即を主張するこの一書は、上に考察してきた『千日尼御返事』の一節に着想した後人による偽撰という他はない。

 多宝塔内に止住して、釈迦牟尼如来の説法に聞き入っている故阿仏房の聖霊の浄福の姿をいきいきと描出することによって、日蓮は、故聖仏の有無、それの行方を思い定めている千日尼の焦慮と不安一掃することができたことだろう。しかし日蓮は、そのよう説示によっては夫との別離の悲しさに打ちひしがれている老婦千日尼の嘆きをおし鎮めることのできないことを先刻見通していた。千日尼のわびしさは、かっては信仰を競い合い、奉養を助け合ってきた国府人道夫妻が今なお打ち揃っているのを見るにつけ、いっそう耐へがたいものになっていることを先刻見抜いていた。そのような千日尼のわびしきを慰撫するには、千日尼の嘆きのリズムに日蓮白身が共鳴してゆき、その共鳴の足取りを一つひとつ克明に嘆きの主に報告してゆく他はない、と日蓮は考えた。『千日尼御返事』中「さては」にはじまる第二段は、千日尼のわびしさを戦力競々と跡づけようとする日蓮自身の心のふるえとゆれを表明したもの、とみられよう。だから、ここでは、山川智応博十峻修『日蓮聖人御眞跡』弘安部第二所取の真蹟写真を成本として、この一段を左に掲出するだけにしておこう。

さては、をとこははしら()のことし、女はなかわ()のことレ。をとこは足のごとし、女人は身のごとし。をとこは羽のごとし、女はみ()のごとし。羽とみと、べちべちになりなば、なにをもんてかとぶべき。はしらたうれなば、なかば地に堕〔ち〕なん。いえにをとこなけれぼ、人のたましゐなきがごとし。くうじ(公事)をばたれにかいゐあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき。一日二日たがいしをだにも、をぼつかなしとをもいしに、こぞの三月の廿一日にわかれにしが、こぞもまちくらせどんみゆる事なし。今年もすでに七つきになりぬ。たといわれこそ來らずどん、いかにをとづれはなかるらん。ちりし花も又さきぬ。をちし菓も又なりぬ。春の風もかわらず。秋のけしきもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本のごとくなかるらむ。月は入〔り〕て又いでぬ。雲はきへて又來る。この人の出でてかへらぬ事こそ、天もうらめしく、地もなげかしく候へとこそをぼすらめ。いそぎいそぎ法華経をらうれう(粮料)とたのみまいらせ給(ひ)て、りやうぜん浄土へまいらせ給〔ひ〕て、みまいらせさせ給〔ふ〕べし。

 生き残った千日尼への同情と日蓮自身の傷心が分かちがたく結びついているこの一段にいたっては、解説めいたことをすべて避けたいが、「いそぎいそぎ法華経を」以下の最後の一節については、一言領解を記しておかねばなるまい。日蓮は千日尼のわびしさを跡づけることによって千日尼を慰撫する方法をとってはきたが、そのような共感共鳴の告白も結局は千日尼のわびしきを払拭しうる所以ではないことに、日蓮ははたと気づいた。そのとき日蓮はたちまち身をひるがえして教導者の立場に立ち、法華経をメディアとしての霊山往詣を千日尼に勧進するにいたった。このような勧進は、「生者」千日尼を実はすでに「死者」千日尼として遇するにいたったことを意味するであろう。しかし日蓮が、事実においてなお「生者」であるところの千日尼にあえて霊山往詣を勧説したのは、実は必ずしも往詣そのことを志求せるためではなく、往詣によって可能ときれるはずの、霊山浄上における故阿仏房との再会、そこでの「共存・共生」を希求させるためであっただろう。しかし霊山浄上における「共存・共生」は、もはや「生者」と「死者」との共存共同ではありえないのであり、先に往詣した者、後から立ちいたった者も、ひとしく「死者」たる境涯におけるそれを意味するはずである。新しく帰寂した一霊のために、霊山浄土への「引導」を如来に祈請し、霊山往詣の確信を新霊に付与してこれに訣別する儀式的行為と告文とを「教訣」と呼ぶとすれば、日蓮は「生者」千日尼にたいしてすでに、微妙の「教訣」を与えたのだ、ということになるだろう。

1973・8.10

 

 

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