混沌たる聖域  

山崎正和

 『平家物語』によると、平清盛は白河院の落胤であり、また同時に、叡山中興の祖といわれる慈恵僧正の生まれ変わりだという。その清盛が、武家政治の先駆者であり、貿易と銭の時代を開いた人物だと思うと、このエピソードはなにか象徴的であるようだ気もする。揺れ動く日本の中世を通じて、朝廷と比叡山は独特のあり方で、文化的な中心の位置を占めているからである。

 『平家物語』の著者といわれる信濃前司行長は、『徒然草』によると、訳あって学問を捨てて叡山に遁世した学僧であった。この行長を保護した慈鎮和尚(慈円)は、一芸あるものをば「下部まで召し」おいて、理解あるパトロンの役割を演じていたという。叡山は、国家公認の貴族的信仰の本山でありながら、雑多な文化人の集まる避難所でもあったらしい。精神世界の最大の権威の一つであって、しかもそれは、当時の社会のアウトローたちのよりどころですらあった。荒くれの僧兵が、白河院や清盛を悩ませたのは有名だが、のちには「人法興隆」などと叫んで、高利貸や山賊を働く悪僧も現われてきた。寺内でも秩序は必ずしも安定しておらず、朝廷と妥協した座主の明雲が、下層の堂衆のつるしあげを食ったという話も伝えられている。

 だが、そのようた混沌とした小世界のなかから、中世にはめざましい精神的産物が生まれている。浄土宗の法然も、法華宗の日蓮も、鎌倉仏教の二大開祖はともに延暦寺に学んでいる。彼らの画期的な新思想の背後には、叡山の豊かな知識の蓄積と、しかも雑然とした荒々しいエネルギの共存があった。また、国家的視野を持つ統治者の感覚と、なまなましい民衆の現実との接触が、あの全国民の救済をめざす強い自負心を生み出したといえる。日本の朝廷がしばしばそうであったように、中世の叡山は、いわば権威と革新が不思議な融合を見せる聖域であった。

 中世ということばはなにか静止的な印象を与えるが、日本の中世は、むしろ活発な流動の時代であった。任地を往復する武士があり、銭を持って諸国をめぐる商人があり、さらに念仏を唱えてさすらう僧俗の遁世者の群れがあった。一遍上人のひきいる時宗の徒はその典型であって、彼らはいっさいのきずなを捨てて、生涯を旅の空に果てることを理想とした。今日見られる能楽の舞台にも、いわゆる「諸国一見の僧」が現われて、当時のさすらいの僧のおもかげをとどめている。

 そしてこのようた流動のなかから、日本の伝統をいろどるさまざまな芸能が誕生した。『平家物語』を語り歩く琵琶法師の一団があり、町々を旅する職業的な連歌師の群れもあった。曲舞や延年舞の芸人も現われたし、世阿弥や観阿弥の能楽も、その始まりは寺や神社の境内をめぐる旅芸人の集団であった。

 さらにこの同じさすらい人の心から、『方丈記』や『徒然草』のような文学も生まれたといえる。旅の空で地方と中央の文化が交流し、貴族的な趣味と民衆のエネルギーが交錯した。そこには放浪の緊張があり、新鮮な見聞があり、失われた定着を象徴する王朝へのあこがれがあった。それらは互いに助け合って、旺盛な想像力を刺激する栄養源となって働いたのである。

 けれどもこうした流動は、けっして中心を欠いた単なる拡散ではなかったことを忘れてはならない。日本の民衆文化はつねに著しく貴族的なのであり、貴族文化はまたいち早く民衆的なものを吸収しようとした。叡山はその典型的な機能を果たしたわけだが、宮廷もまた同じ役割を示している。流動が激しければ激しいほど、そこには地理的にも、精神的にも、都という中心が大きな意味を持ったのである。

 後白河法皇が今様という俗謡の芸人を集めて、みずからも習い、『梁塵秘抄』と題する歌集を作ったことはよく知られている。逆に、貴族のサロンに始まった連歌はたちまち庶民にひろがって、寺院の庭にひとびとが楽しむ「花の下の連歌会」が流行した。『太平記』を読むと、東国の武士たちが攻城の余暇に、歌合わせや百服茶の風流に興じる姿が描かれている。そして、室町期に完成した世阿弥の能楽こそ、こうした貴族文化と民衆文化の結合を代表する華であった。そこには、王朝の優雅な伝統の復活があり、その時代の貴族的な禅宗の趣味の現われがある。

 しかし同時に、世阿弥は「衆人愛敬」ということばを忘れず、自分の芸がひろく大衆的な支持を受けるように努めている。いかにして都の高い趣味を満足させるかに苦心しながら、同時に「遠国田舎」の民衆を倦まさない工夫を凝らしている。世阿弥のめざしていたものは、まさに一つの美しい矛盾というほかないのだが、この矛盾こそ、中世社会のある生産的な流動と、その中心に立つ混沌たる都の姿を象徴しているといえるだろう。

(1)曲舞 語りを中心とした芸能で、室虻時代ごとに愛好された。観阿弥によって能に取り込まれたが、曲舞独自でも発展した。のち織田信長の「人生わずか五十年」というのは曲舞の一派幸若舞の一節である。

(2)延年舞中世寺院の芸能大会である「延年」で舞われたもので、能楽の形成に影響を与えた。

 

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