現代タイ国における仏教の諸相
――制度と実践の狭間で
林 行夫
第1節 誤った「民衆仏教」
わが国でオーム真理教「事件」が発覚した1995年は、タイ国社会にとってのち(1997年7月)に崩壊するバブル経済が絶頂に達した年であり、同時に国民の9割以上が信奉する上座仏教(出家・持戒主義を重んじる小乗仏教)があらゆる階層のタイ国民の問で取りざたされる年となった。
この年、同国の知識人と庶民に支持を得ていた二人の高僧が、ともに姦淫の容疑でタイ国のサンガ(僧団)を去った。その一人、Y師のケースは前年より頻繁にタイ字紙の一面を飾って国民の注目を集め、サンガを揺るがせ続けていた。Y師は、流麗な説法でしられ、国内外に多数の信者をもつカリスマ的な僧侶である。信徒のなかには大学教員も多数いた。もう一人のL師は、民衆に親しみやすい瞑想を広めた僧侶としてしられ、また、貧しい山地民の子弟のために学校を建て、社会福祉に貢献していることでも著名であった。
Y師は女性信徒に、L師は自ら建てた学校に学ぶ少女から、それぞれ姦淫されたと訴えられた。二人の僧侶は、ともに潔白を主張したが、結果的に強制還俗させられた。L師のほうは還俗して沈黙を守っている。ところが、Y師は黄衣を緑衣にかえたのみで、僧侶とかわらぬ活動を続けた。そのため、官憲が追及するところとなるが、Y師は潔白を信じる在家信者のはからいもあって米国へ逃亡している。タイ国警察当局は米国に同師の捜索と強制送還を依頼しているが、一種の思想犯として了解する米国側では今日もこれに応じていない。
上座仏教の僧侶にとって女性との交接は戒律に触れる大罪であり、即還俗しなければならない。仏教国タイでは、たいへんなスキャンダルであるが、何年がおきには、この類の事件が思い出したように現れて取りざたされる国でもある。ところが、この年はセックス醜聞だけに終わらなかった。
二人の高僧の事件がメディアのトップ記事から姿を消すころ、今度は呪法でしられた沙弥(227条の戒律を守る僧侶と異なり110条だけを守る見習僧)Uが逮捕されれた。Uは、顔面から全身にかけてタトウを施した異様な風体と、効力あるお守りや呪具の造り手で著名であったが、死亡して間もない嬰児を黒焼きにしてつくるクメール古式の護符づくりの模様を収めたビデオが警察当局に漏れ、その嬰児の死体をどこから入手したかをめぐって、罪状をつきつけられたのである。
いずれの「事件」においても、タイの仏教僧団(サンガ)を代表する大長老会や宗教局の対応は遅く、公式見解がでるのに時間を要した。タイの今日のサンガは制度上は文部省宗教局傘下にあるが、名目上は自律した組織であることもある。したがって、師が属していた寺院を管轄する行政区僧長とか郡僧長の監督不行届を先に指摘するにとどまっていた。
一連の「事件」にたいして積極的に発言したのは、宗教局でもサンガでもなく、新聞、テレビ、ラジオをはじめとするメディアであった。街行く人びと、地方大学の学生をとらえ、「まともな」僧侶はタイ社会から激減した、昔の僧侶はもっと立派だった、この世の中でまた信じられるものがなくなった、という嘆き節を拾うにとどまらず、これらの事件は氷山の一角にすぎないとして、各界の識者の議論を流した。タイ字紙は、連日のように痛烈な批判と知識人の意見を掲載した。その論調は厳しい。呪符を作ったり、説法を聞きたいがために特定の僧侶に帰依するのは誤った仏教の実践である、程度の低い呪物崇拝こそが従来の「民衆仏教」の姿であった、と激しさを加えてゆく。さらに、一方で多くの在家信徒をひきつけて莫大な寄金を献上されている高僧が世間の拝金主義を偏っていると糾弾し、莫大な寄進を受けるカリスマ的な僧侶の多くは呪具を「販売」しているのも同然で、それは持戒する者の宗教ではなく「黄衣のビジネス」であるとその活動を椰楡した。さらに、ある識者は、現代のタイ社会には合理的な仏教の在り方が僧侶に求められており、特定の僧侶に帰依する誤った仏教の関わり方をやめて、仏法それ自体を帰依の対象とすべきである、とまで進言している〕。
つまり、清浄なる僧侶の不在、そして仏教の「真正なあり方」への問いは、人びとが自明のものとしてきた慣習的行為としての仏教、そしてバブル経済が推進する社会変化の複合的な関係を、メディアが白日の下に曝す事態を招来することになった。これまで、事件の主犯である僧侶のみならず、メディアがこのような形でタイ国仏教ないしサンガ全体を対象にその活動を公然と批判、進言することはなかった。そのような批判は、より直接的ではあったが、かつては国王が果たしていたことなのである。こうした事件は映像、活字、音声を通じて、仏教界のみならず、全国の仏教徒に衝撃を与えた。そして、メディアによる、かような「間違った」仏教実践の摘発と糾弾は、1999年に入った今日でも、姿形をかえて続いている。さらに、この批判は、タイ人エリートによるタイ仏教全体を客体化するものとなって、サンガからの離脱宣言をしながら禁欲的な活動を続け、最終的に1989年に強制還俗させられた僧侶Pとその一派の運動(サンディアソーク)からの総括を迫ることにもなった。彼らの活動は、いかに清廉なものであったかというかたちで遡及されてもいるのである。実践の倫理への問いは制度への懐疑へと連続している。
第2節
「タイ国仏教」の所在
現在、立憲君主制のタイ国では国民の95パーセントが上座仏教徒である。ここでは、仏教徒が少ない一部の地方を除けば、仏教は教養としての教え(教義)や組織的制度である以前に、仏教徒を自称する人びとの人生や日常生活に密着した慣習的実践の中心をなしている。還俗が容易なため出家は男性の人生儀礼のようにして行われてきたように、くらしのなかに生きる宗教である。その意味では、まったく日本的な意味での宗教ではない。1996年に改定された現行憲法も、以前のものと変わりなく国王が仏教徒であることを明記する。同国では長らく「宗教(satsana)」とは仏教のことであり、国家に内属する宗教とされてきたゆえんである。
しかし、その実践は、永世万古均質なものであり続けているわけではない。出家主義の東南アジア上座仏教は、逆説的にも世俗社会のあり方に呼応して今日にいたっている。ここに通底するのは、同一国内で仏教にとって大きく二種類の世俗社会が併存してきたことである。つまり、権力の中心とその外縁の世界である。首都と田舎とわけてよいかもしれない。東南アジア各地の歴史的王権が支配を正当化する首尾一貫した理念として仏教を用いる一方で、権力の中心の外縁にある人びとは、個々の生活世界を秩序づける慣習として多様な実践を創り上げてきた。同一のパーリ語経典と実践の理念を掲げる仏教は、他の世界宗教同様、国家、地域さらに担い手の所属する社会階層や歴史的経験が定位づける宗教でもあった。そして、個々の周縁地域でそれぞれに織りなされてきた多彩な実践が存在するが故に、国民国家と直結する制度としての仏教が挾立しえているのである。
日常生活レベルでタイ国民が実践する宗教内容は地域、民族ごとに異なっている。その実践の「場」が異なる例として山地民と平地民の対照がある。焼畑を生業とし文字をもたない人口が多数をしめる山地民世界では、精霊祭祀を基盤とする平等主義的な社会が築かれている。ここでは仏教以上にキリスト教化が進んでいる。他方、低地の水稲作社会では、階層化された今日の国家を構成する主要民族が仏教の担い手である。同時に、土着の精霊祭祀もみられる。交易関係を含む民族間の交渉・共存過程のなかで、低地民の精霊祭祀と仏教は、歴史的に異なる起源をもちながらも、実践レベルでは相互補完的に組み合わさっているという構造がみられる。
国内で多数派をなす平地の仏教徒社会では、来世をも含む近未来の境遇を向上させるための積徳行が実践の中核である。出家することも積徳行である。他方、仏教は教義レベルでは同一のパーリ語経典、同じ注釈書をもつという意味で均質な側面をもつ一方で、その教えや実践を文字によるというよりも口頭で継承してきた性格を色濃く残している。東北タイの悪霊祓い師は仏教在家戒を守り彼らが解釈するところの「仏法」の力で人びとに災禍を与える霊を除去する。この仏法は瞑想によって慰霊と同じように身体に入り込んで正しい指示を与える。出家経験をもつ年輩者から自分にあった知識を口移しで学び、食と性を主とするタブーを与えられている。このようにそれぞれの仏教徒の実践は、地方、民族ごとに変異に富んでいる。経典をもつ宗教でありながら、実践面ではオーラリティに根ざした多種多様な実践を、その広大な裾野にもっている。
タイ国の仏教が制度的に現在の様式を整えるのは、今世紀に入ってからのことである。政府当局が全国仏教寺院や出家者の趨勢に関する統計的資料をもち始めるのは1899年以降であり、寺院の建立規制や出家者の登録義務を定めた初のサンガ統制法は1902年にできた。それが全国に行き届いて実効力をもっまでに20年以上を経ている。今日教育省宗教局の傘下におかれているサンガは、組織的にもそれ以前ではほとんど中央当局が把握するものではなかったのである。仏教が国家の管理する制度となる過程の一世紀の間に、僧侶や沙弥が備えるべき教法や知識もまた標準化された。『公教要理』は基本的な教理の教科書としてうまれ、それに基づく国家試験も1911年に制定された。1938年には出家歴5年未満の新参比丘は試験を法的に義務づけられる。元来自律的な修行者集団であったサンガは、現行の1962年サンガ統治法によって、かつ勅命による法王の解任権も与えた。したがって今日のタイ社会でみる僧侶は、国家がその資格を与えている官許僧なのである。
このような国家権力によるサンガ統御システムは、近隣諸国においても、制度として大同小異タイ国に倣うかたちでとられてきた。そして、東南アジアの上座仏教文化圏にあって、植民地にも社会主義国にもならずに仏教王権を持続したタイ国のみが、その制度を継承発展させてきた。国別にみれば、僧侶寺院数の点ではミャンマーに次いでいるが、対外的な制度的安定性という点で、群を抜く。実際に、近隣のラオス、西南中国(雲南省)、カンボジア、にたいする仏教教育の面では、タイ国サンガは、絶大なる援助と協力を行っている。以下にみるように、国家に内属する宗教として創出されたタイ仏教は、60年代以降の開発の時代においてさらに僧俗共栄の新しい展開をみせてゆく。
ところで、サンガが法的に官僚機構の一部となった1932年から1935年にかけて、サンガ内部で僧位の拝命や管理体制に抗議する若手僧侶による運動が起っている。これは、絶対王制から立憲君主制への移行に付随した、サンガ組織の民主化を求めるという一面もあるが、それまでの人びとの生活世界にあってきわめて緩やかに自律性を保っていた仏教実践のあり方を顕在化させるものでもあった。事実、僧俗共栄を柱とするタイ国仏教は、知識の標準化を含む制度化過程のなかで、周縁地域の多様な仏教実践在排除の対象としたが、観法(止観・瞑想)や超自然的な仏教守護力の実践は統制しえなかった。
それらの知識は地域内ないし地域間での師弟関係や個人的紐帯を通じて継承されていたからである。さらにいえば、僧団の制度的布置は組織として整備されたが、在家信者の実践領域はその外部におかれるままになった。このような制度の隙間が、政治の周縁空間における地域、民族ごとの仏教を築く場となってきている。そこでは、仏教の知識とは文字に刻まれた経典や教書にはなく、僧侶が身体化したもの、僧俗が唱和する音のなかに見出されるという、オーラリティの文化に根ざす特徴が保持された。現代において、教理学習の興隆よりも、瞑想や自由な刷新運動へと実践が連続する素地はここにある。すなわち、タイ国仏教が生成する過程で、権力の中心と直結する仏教と生活世界に根ざす仏教とが拮抗するような構造が生じたのである。
タイ国の1960年代は、近隣諸国が社会主義化しようとする時代の流れに抗するかたちでの「開発」時代の幕明けである。サンガはこの時期に、政府の出先機関としての関係をもって活動している。1963年の仏教大学による「開発」支援活動を嚆矢として、宗教局や内務省公共福祉局は1965年に時の政情を左右する国境地帯の周辺山地民の開発、すなわち、国籍不定の居住者をタイ国民化するために、仏教を政治的教化の手段として利用した。この流れは、地域開発促進のために僧侶を訓練するプログラムヘと進展している。1966年、二仏教大学立案によるその計画には、@僧侶に宗教教育を施し地域開発に関する知識を付与し人びとのよりどころとしての僧侶の地位を保持する、A僧侶自身の地域開発参加を奨励し、開発計画の目的達成に協力する、Bタイ国民の団結を強め国家の安全保障をはかること、が記されている。いずれも実際に参加ないし派遣された僧侶は小規模であったが、公的活動として国家が認知した点に、国家に従属し国益に利する僧団という局面が表面化した。共産主義者は人ではないから殺傷しても仏教大罪にはふれない、と公言する高僧も現れた。政策に呼応する僧侶は、強制還俗させられることはない。
一方では、この国是としての開発が発揚される時期と前後して、まったく対照的な仏教実践の動きが都市近郊で認知され始めている【参考年表】。これらのなかには、今日も持続しているタマカーイの前身タンマ・ターヤート瞑想運動、三宝(仏・法・僧)に母の恩を加えて四宝帰依を説く集団(サッチャロークッタラ)が含まれる。1970年代以降、サンガからの離脱宣言をして新たな仏教集団を創始したり、三蔵経典の自己流の読み方をする僧侶に、多くの信者が集まる動きが顕著になっている。このような動きは、当時のタイ人よりも、第二次世界大戦以降同国に居留して調査研究するようになった欧米の人文・社会科学者たちの報告論文において、タイ・サンガを揺るがす「事件」としてセンセーショナルに紹介された。しかし、タイ全国にあっては、局地的な現象としてのみ捉えられる傾向が強かった。むしろ、当時のそれぞれの地域では、当然のことのようにして実践され、信者を集めていた、という点に留意すべきであろう。
第3節 実践の背後
冒頭にあげたL師は1995年8月18日に検挙された。訴えていた少女二人は身体検査され、姦通されていると証明され、公表された。師は18日朝に信者が運転するドイツ車ベンツで警察に乗りつけた。彼の弟子が年齢順に、そして同師の熱狂的な在家信者がとりまきのようにして続く。タイ語でサターとよばれる信者たちは、特定の僧侶に絶対的な畏敬の念を寄せている。強姦されたとの結果がでてもそれを認めず、世間のいう噂、醜聞はすべてが師を妬む者の仕業だという。L師の保釈金が200方バーツ(当時的800万円)とされたとき、即座にそれを用意した信者の一人がいる。彼は、自分の家財の一切合切を抵当にいれた。自分たちは、清廉なる仏教秩序にいて師を介して仏法を実践しているだけである、師を守らんとするのも当然の行いであると述べている。メディアは、この在家者をだまされた愚者として描くが、Y師やその他の例においても特定の個人僧への在家信者は、ゆるぎのない信仰心をもって行動する。
個々の寺院と個人僧の多様な活動は、これまでのところ、国策と連動するがゆえにサンガに包摂されたもの(冷戦時代の右翼僧、開発僧)、サンガの方針や国策と対時することで強制還俗させられたもの(フッパーサワン、サソティアソーク)という運命をたどっているが、権力の中心からすれば、黙認されている運動や個人僧も数多くある。それらは、多くの場合、現世利益的な効能をもたらす瞑想法や護符の制作者として知られている。在家信徒から多額の寄金を集め、僧侶のための病院を建てたり、身寄りのない子供たちの学校をつくるという社会福祉に貢献する活動によって、間接的に国家の利益をもたらすという僧俗共栄の論理をひきだしているケースである。
特定の運動や個人僧に帰依する在家の信者にとって、僧俗共栄の論理は果たしてほとんど重要なことではない。すべての動きに共通するのは、運動を共同体的なものにするという方向ではなく、個人的な経験をわかちあい、同じ救済財を求める人びとの個人的な繋がりというものである。そのような団体(たとえばタマカーイ)や個人僧には、莫大な金額の布施が集まる。「黄衣のビジネス」という仏教実践批判が常態化した今日にあってもなお、糾弾されない僧侶のひとりに、強力な呪符の製作でしられる全国区の僧侶、K師がいる。一日で参詣者数が一万、寄金が100万バーツ(約400万円)以上という霊験あらたかなる僧侶として知られる。国家主催の博覧会など、重要な催しものでのオープニングセレモニーには必ずといっていいほど招請されて、災禍を除去し、スムースな運営を祈念する役割を演じている。K師は自分のもとに集まった寄金を使って、僧侶の病院や社会福祉施設を建てている。国王とも懇意にしている。また、バーツが下落してタイ社会のバブル経済が崩壊してからは、首相にかえりざいたチュァン氏がK師のもとへおもむいて、タイ社会経済の動向についておうかがいをたてている。
K師の活動は在俗信徒を安易な「呪術主義」に走らせているのではないか、それは仏教ではないのではないかと詰問したタイ字誌(「ネーシャン」)があった。K師はこれにたいし、「誰がどのように考えようが俗人のほうからそれを必要としてやってくる。それだけのことである。必要なければ来ないし、自分も作らない」「見る者が『呪術』といえば『呪術』だし、仏教といえば仏教である」と応じている。K師はたとえ護符を得ることが目的であったとしても、「人びとは功徳をつみ、慈悲を得ている」という論理で語る。この論理は、一般の在俗信者が自ら寺院を建立したり修復したりする論理とかわらない。そこに寄進すれば、仏教はそれが維持される環境を整えることができる。すなわち、三宝の一つ「僧」にたいする貢献となる。寺院ではなくても、三宝が絡む施設へそれらの寄金はことごとく吸収される。要するに、呪具を求めてK師のもとへ詣でる人びとは、動機の点では新しい車や服を得て、消費主義者の心の安寧を欲する同時代人のものと変わらないのである。しかも、寄金は社会福祉向上のための資金となる。彼らの行為はK師自身がいうとおり仏教繁栄、仏教の社会的な貢献に直結する。護符を求める者が多いほど、仏教の社会的貢献が顕著になる。膨大な寄金を動員できる僧侶は、その支持者にとっては現世を豊かにする聖者でさえある。実際に、そのような僧侶は、信徒の個人的欲望を公共施設へと変換させて清浄化するフィルターのような役割を果たしているとさえいえる。このような、寄金が資金へと即座に展開されるところに、世俗と連動する現代タイ仏教の典型的な一面をみることができる。
現地のメディアは、タイ国仏教の「現在のありかた」に反省を促すとともに、一般在家信者の意見形成に大きな影響を与えていることは事実である。個人経営者的にビジネスを成功させた二人の僧侶の弾劾は、確かにメディアが狂った囚人と椰楡するような在家信者のいうように、まだみえない部分も含んでいるが、おおかたの人びとは「火のないところに煙りはたたない」という日常的倫理でもって事態を了解している。それは、醜聞に追従しているからではない。また、マスコミを権威あるものとして受け取っているからでもない。エリートではないおおかたの農民たちは、おそらく、そういう僧侶がいても不思議ではないことを経験的に知っているからである。僧侶もまた人間である、という世俗卓越主義をもつのは、こうしたタイ人たちである。すなわち、生きた僧侶のみを通じて自らの村落、地域の仏教実践を経験してきている人びとは、制度の裏も表もこんなものである、という達観した視座をもっている。「黄衣のビジネス」とは、まさに彼ら農民の(出家による)出世の一方法であったことを想起する必要があるだろう。仏教の存続を憂いて個人よりも制度こそが重要だ、とするエリートの論者と、現世に対時しながら生きる糧として実践を紡いできた人びととの問には、おおきな溝が広がる。それは、仏教をめぐる知識のあり方の相違でもある。現代タイ国仏教の現実は、まさにその狭間に立ち現れている。
第4節 結びにかえて
前世紀末に生まれた西欧社会科学の多くは、制度世界の変容に伴って人びとの経験の質が変化したという認識を前提に生まれた。この視座は、人びとが経験する「現在」よりも、かって存在した過去の社会をはるかに統合された伝統社会として対置する傾向をもつ。進化論の影響をうけ、社会を発展段
階的に捉えた初期の人類学が、同時代の現在に連なる人類の過去に遡及するための起点として「未開社会」を一種の祖型とみなしたことに似て、この種の見方は、特定の時代のただ中にいる観察者自身の社会を、伝統社会から分断された状況として捉えることを自明視させる。つまり、過去の社会を「失われたよき伝統」として疑問視しえない認識をつくりあげもする。昔のほうがよかった、と世代ごとに実感を伴う見方は、かって認識の範晴外にあった周縁の現象が顕在化したときに、それを近年の社会変化がもたらしたもの、ないし逸脱した現象として了解するような論法をとらせることが多いのも事実である。
法的、経済的、政治的な制度の変容に伴うタイ国の上座仏教徒の実践も、1970年代以降はこのような論法で語られていることが多い。伝統からの逸脱――新しい仏教実践の台頭――という現象は、変化する社会のただ中にあるタイ国仏教の実践を映しているという語り口である。その論調は、大同小異かってあった一枚岩的で均質なタイ国仏教のあり方が大きく変化し、個人宗教的なもの、カルト的、オカルト的な要素が突出してきた、という点で共通する。このような見方は、上座仏教文化圏にかぎっても、ひとりタイだけのものではない。スリランカの上座仏教と社会変化を取り扱ったゴンブリッジとオベーセーカラの共著にもうかがえる。しかし、そのような言説をとる者は、伝統的で、統一されていた上座仏教、ないし仏教徒の社会と一体化していた実践の内容が何であるかを問うことがない。そこには、個人的印象と実感以外のいかなる根拠もないのである。タイ国の仏教に限らず、現代世界における宗教の位相を捉える際に抜け落ちるのは、個々の生活世界におけるそれぞれの宗教実践の位置づけにたいする視点である。分析概念としての宗教という通念からでは、実践の根づきの局面に触れることができない。その結果、いたずらに自己の依ってたつ職業世界や自文化中心的な観点から表層的な宗教の世俗化、ないし新宗教運動の拡散とグローバル化をとなえるばかりとなる。
現代のタイ国仏教におこっているのは、グローバリゼーションによる実践の多様化というととではなく、従来個々の生活世界のなかで展開されてきた多様な実践の顕在化という事態である。それぞれの地域では当然のように行われてきた多種多彩な実践は、特定地域の住民の関係性のなかで絶えず新陳代謝を繰り返すように展開されてきた。この一世紀にわたって国家が与えてきた制度的なオーソドキシーは、国外的には隣接する国々に揺るがぬ一枚岩的な上座仏教の伝統を保持してきた準「国教」を顕示しつつあるが、まさにその事実ゆえにこそ、国内で顕わになった多様な実践の前で硬直化したものとして現れている。理想の「タイ国仏教」の唱道は、むしろ今日メディアが肩代わりしているという構図がみられるのであるが、出在家の峻別を建前としながらも、世俗至上主義を特色としてきたタイ国仏教の実践持続の様相がそこにもみえる。タイ国仏教は、過去にもまして複合的な実践形態を産出する途上にある。
国家が誇示する永遠の仏教(制度)と個々の生活世界に織り込まれた具体の実践を、互いに矛盾するものとみるか、あるいは相補共存するものとみるのかについて、メディアが議論をもちだす日も近いかもしれない。1997年の憲法改正時に、仏教を国教として憲法に明記すべきであるという議論が一部の僧侶から起こったときに、メディアや知識人がこぞって否定的な見解を掲載し、結局は実現しなかったことがその予兆のひとつである。
一方で、為政者やエリートではない人びとには、国家や知識人が定義し標準化しようとする「正当なる仏教」は、自分たちの実践と直接関わらない範囲においては、成る程と聞いておけばよいものという、相対的な見方が連綿と持続している。受容せざるをえない国策にたいしては、面従腹背の論理で処理される。人びとのこうした二枚腰の仏教にたいする実践態度は、ある意味では、変転する政治権力者に保護されながら、世俗法からは自律する組織を標梯してきたサンガのあり方と軌を一にするものといえるだろう。
注
参考年表 タイ仏教僧団(サンガ)の制度整備と実践変化の指標
※中央集権的国民国家の建設と仏教僧団(サンガ)の統轄※
1893 王立寺院ポーウォンニウェート寺内にマハーマタット仏教学院創設→ワチラヤーン親王によるサンガの制度改革へ(1945年に大学昇格)
1896 マハーチュラーロシコン仏教学院創設(1947年に大学へ)
1898 「地方教育の整備に関する布告」発布→全国の寺院、僧侶を王権の統一的支配下におくことを表明した公文書
1899 初の全国寺院実態調査。初の統計報告 「寺院
2473、僧侶
15194、見習僧
1177、寺子
15803」
1902 「サンガ統治法」制定公布――1898年布告を法制化――
■1908
東北地方のウドン州に初適用
■1924
地方全域に同法の適用完了。寺院の登録義務初稼働
1925ラーマ7世王即位(最後の絶対君主)。新タイ語版『三蔵』全45巻の刊行
※立憲君主制以降のサンガとその周辺※
1932
人民党による「立憲革命」(6.24)
―絶対君主制終息。タイ史上初の憲法
サンガ内部に若手僧侶の造反運動発生
9月→サンガの管理体制に対する反対運動を組織
1935 2月→若手僧侶によるサンガ行政の民主化要求
1938 出家歴5年未満の新参僧侶に教法試験nakthamの受験法的に義務づけ
1941 「サンガ統治法」制定→サンガ統治組織が国家統治方式に対応
1946 タイ、国名をシャムからタイヘ。6月9日ラーマ9世現国王即位
1949 7月→在来派マハーニカイと改革派タマユットの確執表面化
(ピブン首相時/政府への要請=「介入」前史)
頭陀行・瞑想の高僧、マン師没(翌年葬儀)
■ 1957女性修行者メーチー・ミエン、クムクラポークをサラブリに創設
■ 1958チャー師ワット・ノーンパボン最初の支所をウボンに創設
1982年(チャー師の療養生活)まで50の支所が東北部を中心に展闘
病後の5ー6年間で30増加、1992年現在国内に82支所
海外には連合王国2、オーストラリア1
1960 「サンガ動向にかんする総理府声明文」
1962 「サンガ統治法(現行)」=国家権力の介入/勅命による法王解任権
※「開発」の時代と僧侶の参与※
1963 仏教大学による「開発」協力活動開始
1965 PT(プラ・タンマトゥート)[宗教局立案]
PC(プラ・タンマチャリク)[内務省公共福祉局立案]
(北西部山地民のタイ化政策の一環)…仏教大学直接無関係
1966 (PT仏教サンガに移管)→二仏教大学による「地域開発促進のための僧侶訓練計画」
目的
(1)僧侶に宗教教育を施し、地域開発に関する知識を与え、民衆の依拠としての僧侶の地位を保持せしめる
(2)僧侶の地域開発参加奨励、開発計画の目的達成に協力
(3)タイ国民の団結強め国家安全をはかること
・・派遣先は主にウドン、チェンマイ、ウボン地方
1966年からふたつの計画が実行され247人の僧侶が参加。三次計画に入った
1973年頃には対象地区は地方からバンコク=トンブリに
■ 1975サッチャ・ロークッタラ、クムクラボークより分派・結成
※メディアにのる個人増・顕在化する多様な仏教への帰依と実践※
1966 スチャート・コーソンギティウォン(〜82年)/サムナックプーサワン
1972 タンマ・ターヤート/→タンマカーイの創設。首都近郊中心に瞑想運動
1973 プラ・ぺーン・テートパンヨーがサラブリ県にサッチャロークッタラ創設
(1989年現在東北部中心に)
1975 反共僧プラ・キティウトー「共産主義者の殺害は悪行ではない」
プッタ・タート/大乗仏教の影響、インテリ瞑想僧
1976
プラ・アナン/反・反伝統主義者
プラ・ポーティラック(1973:出家証明書返納僧団離脱宣言)サンティアソーク
1980 地方開発政策と「開発僧」
1989 プラ・ボーティラックを強制還俗。サンディアソーク事実上の解散
1994 相次ぐ高名な僧侶のセックス・スキャンダル続く
1995
ヤントラ、パーワナーブットー師、姦淫容疑による還俗。前者は米国亡命呪術沙彌の還俗
「黄衣のビジネス」論争とクー師
注=■=地方レベルでの動き
マハーチュラーロンコーン仏教学院(後に大学)はタイ国最初の国立大学チュラーロンコーン大学とは別。後者は1917年創立。タマサート大学は1933年に創立
[女性と仏教実践]
1957 台湾で大乗仏教の比丘尼として得度した女性タイに尼僧中心の寺院開設
(タイでは上座部とはみなされず、大乗仏教寺院の扱い)
1962 タイ・メーチー協会設立(王妃プロジェクト)
メーチー内の規律の徹底と社会奉仕活動。バンコクのワット・ボーウォンニウェート内マハーマタット仏教大学に本部事務所を置き、支部(サムナック・チー)が中部地方中心に15か所
1972
ルーイ県で女性「超能力者」プーウィセード。1974年に弥勒を自称。母恩を重視1980年代〜在俗男女仮出家(チー・ブラーム)儀礼の地方開催の増加