今のいわゆる僧は古のいわゆる優婆塞なり
田中智学
寺院を整理する唯一の方案は、住職者の責任を重からしむるにあり。責任の重きをなすは、責任を長くかつ深からしむるにしかず。戒体道香清浄無染の古人をもって、今時の僧を解釈せんとするは、教機時国教法流布の前後を弁ぜざる、最も痴凱の浅見なり。末法の道徳は、五戒十善にあらず、三綱五常にあらず、四諦六度にあらず、性気にあらず、倫理にあらず、ただ一の信仰なり。すなわち本化下種の根本信なり、不惜身命の心地なり、護持正法の誓願なり。この心、身を持し、家を斉え、国を掩い、世を救う、徳教任運に存し、綱紀自然に挙がる。これ本門の妙戒なり、一切世善人道の大本なり。教行の進退と時機の差排に惑えるものは、僧侶の行儀を律するに、今日なお依然、正像過時の廃案をもってせんとす。あつく祖判を学はざるの罪なり。
また一類の論者あり、末法無戒に托し、経律を曲会して、しいて僧侶の内妻を弁護せんとす。これ「末法の僧」を知らずして、みだりに仏祖を誣解するなり。その意あるいはともに可ならんも、その義趣はともに非なり。予かつて三たび公衆の前にこれを論じ、なお明治二十年の頃、特に入蔵して筆を起こし、『仏教僧侶内妻論』三巻十六章九十四節の稿を構え、大いにこの事を論じて世の仏教家に問わんと志したり(総目および論稿載せて明治二十四年〈1891〉の『師予王雑誌』にあり)。しかれども許多の経論律儀は、けっして出家僧侶に内妻を許さず、肉と媱とは大小乗たがいに緩急ありといえども、いずれも非梵行として、これを賤しむ。舞文迎合何等の強弁を構うとも、出家にして肉妻の義ついに成ぜず、ゆえに予は時代の方面より研究して、末法における僧のついに出家ならざるを知れり。族姓を称し、官税を輙し、徴兵に応ず、いわゆる「兵奴之法」にして、事実すでに出家の資格を失せること論なし。これ時世のしからしむるところ、すなわち末法の末法たるゆえんなり。たといまれに一、二の出家的清僧あらんも、多くに約して論ずることあたわざれぱ、また少在属無のみ。大部分(むしろ全部分)は、出家の名と形とにおいて在家の実を行なえるなり。いわゆる僧の称は淡然として宗教家たるの意味にすぎず、よって鉄案を下して、一言にこれを決しおわる、いわく「今のいわゆる僧は古のいわゆる優婆塞なり」と。すでに優婆塞と定まらば、肉妻の苦論、すべて亀毛兎角ならんのみ。
予はここにおいて、妻帯制度のはたして末法的にして、また妙宗的なるを覚れり。聖祖の常認に訓えたまえる御在世一門の多く入道的なる、身延中山の妻帯制度なりし等、聖意のあるところ、宗門上古の天真爛漫たるを知れり。これによりてこれを看れば、宗団僧風の発達強固を計るは、「血族制度」の真にしてかつ妙なるに若かざるなり。門葉の繁殖、血統の伝持は、内護かたくして扶植すみやかなり。その血の栄えとともに宗門昌う。遺伝の性と愛族の心とは、たしかに信仰気節の上に、先天的美風を持するを得ん。
すなわち妻帯制度を主張するゆえんなり。妻帯によりて、はじめて子孫伝持の制、興る。
すなわち「世襲住職論」の要あるゆえんなり。これ門族護持のために!!寺院の良図のために!!宗門の強固のために!!
しかしてまた宗有財産の主権および管督法整斉のために!!