偽僧侶事件を引用して、本物の僧侶の理想像を論じた面白い論文です。

 

偽僧侶」=過去に「偽僧侶」と題して週刊誌で問題として取り上げられたことがあった。それは葬儀社が宗教法人を買い取って、人を新聞公告等で募集し儀式作法を教えて「僧侶」とし、自社が執り行なう葬儀に僧侶として紹介し、布施として一般相場より安い金額を提示していたのである。またその金額が安価であったため、結構他の葬儀社からの依頼があったという。偽僧侶として問題になったのは、世間でいわれる既成仏教での出家修行をおこなっておらず、儀式作法のテクニックのみを教えられたにわか仕立ての僧侶であったからである。

 考えてみればおかしな話である。何をもって偽僧侶というのであろうか?問題として取り上げた週刊誌での結論とは、単に既成仏教の教団で出家修行をおこない、その認可があれば「本物」であるという認識になっていたのである。つまり、単に儀式作法のテクニックのみを覚えた即席僧侶であるために問題として取り上げられていたのである。

 この問題を具体的に掘り下げて考えてみるとどうであろうか? 教団の認可があれば僧侶となるのか。その認可を与える教団の歴史や組織、内容はさして問われないのか。問われるとしたら何を基準にするのか。出家修行の基準というものが仏教界で一定したものがあるのか。もしなければ出家修行について一般世間の側が云々する筋合いではないし、即席であろうとも、さして問題にする必要がないであろう。もし修行基準があるなら「本物」の修行基準というものは、在家である我々にとってはどのようなものであるのか。あるいは「本物の僧侶」より「偽僧侶」の方が儀式テクニックが上手であったとすれば、人々はどのような僧侶としての評価や判断を下すのか等々。疑問を呈していけば際限がないばかりか、明確な線引基準というものが判然としないのである。さらに「出家の動機はさまざまであり、その出家の形態もさまざまである。」という考え方が、一般的に認められていることを考えれば、典礼執行者としての偽僧侶と本物の僧侶の区別は意味がないことになる。これは僧侶イコール典礼執行者というイメージが一般化していることによるものであると同時に、民衆が既成仏教に救済を期待していないことの証拠でもあるといえよう。また昨今の宗門と学会との紛争が世間を騒がせ、恣意的ではあるが学会が僧侶を必要としない独目の路線を打ち出したことによって、結果として僧侶本来のあり方が社会的に問い直されつつあるといえる。

「僧侶」=法華経の理念を行じ弘めるには、世俗の価値観にとらわれず、自己の利益や立場よりも真理を重んじる姿勢が必要である。そうした真理を求める姿勢が出家本来のあり方であろう。出家者の価値、真の大乗菩薩僧としての面目も、そこにこそあると思う次第である。

  宗祖が法華経を以て凡夫成道の直法とされたのは、釈尊の真意つまり世俗生活の中にこそ真実があり成道がある、と説く唯一最高の経典であったが故である。真の大乗仏教のあり方を、一人の民衆として法華経に求めたのである。宗祖自身が法華経の信仰者としての道を歩まれ、その結論として凡夫成道の手本を身をもって示されたのである。

 私には宗祖の信念に僧侶としての、つまり大乗菩薩僧としての本質があると考えている。それは信仰者としての真撃な求道心、世俗の評価や価値観に埋没されない姿勢、そして人の苦しみや悲しみを我が身の事として心痛める優しい気持ちであると思う。そうした宗祖の姿は、御書を拝読すれば十分にうかがうことができる。宗祖の生涯は苦難の連続であった。それはあくまでも法華経の信仰を身で行じ、法華経の真実なることを主張したものであった。宗祖はその結果として法難に遣われたのであって、自説の正当性を誇らんとするために他宗を非難したのではない。それはむしろ主体性を放棄し現実生活から逃避することを勧め、物事の道理を無視した生き方を信仰として説く他宗のあり方に対する糾弾なのである。常に民衆の立場、弱者の立場で法華経の理念、いわば自由と平等と無限の可能性を主張されていると考えている。この主張は真理であり、時代や文化、風俗、習慣、地域と云った事柄に左右されない、誰しもが人間として真面目に考えれば首肯せざるを得ない自由観、平等親、慈愛観として表現されるものである。

 

 

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