川澄語録

 

以下に、僧侶について書かれたコメントをピックアップしてみました。

大石寺僧侶への期待が大きいせいか、厳しい指摘が散見され、私個人としても身に沁みて感じ入っております。

供養について

今の宗門の在り方から冷たさのみが横溢するのは何故であろうか。高橋粛道師が寛師のものを引いて僧侶への供養を求めているのは不要なことではなかろうか。供養とは報賽の意味を持っているもので僧侶の側から要求すべきものではないようである。僧侶は俗慾を最も恥づべきものではなかろうか。それを説くのは法花のようであり、今はウラボン経による故に富裕をほこるようになったのであろうか。餓鬼道でも満足出来ないので遂に地獄を持ち出しているようである。そこに解尺の恐ろしさがある。

出家して

出家して、即ち家を捨てて僧の修行に入った人に、何故二十億という豪壮な私邸の必要がいるのであろうか。まずは宗祖の許可證を示すべきではなかろうか。いかにアベさんが口達者でも、詭弁を弄して許可を得ることは不可能なのではなかろうか。その豪邸の陰にはいかに大勢の人等のないていることであろうか。

問答について

自宗の法門について僧侶が不信の輩である職人に追い込められて、悪口雑言のみをもって答える程無慚なことはない。無学の故がわかれば大いに学に励んで、法義をもって打ち勝つべきである。何時何処でも相手を折伏出来る者こそ学匠であり、これを巧於難問答の行者というのである。追いつめられて、あわてて他宗のものを読みはじめてみても、問答は既に終っているのである。昔から問答は即問即答である。三年も過ぎて答えが返って来るようでは、とても問答とはいえない。御尊師以って如何となすか。

徳を積む

主師親の三徳は、己心の法門を説くためには必ず必要なのである。そこに本仏も本因の本尊も成じる。その故に尊敬すべきものといわれているのである。いくら折伏をしてみても広宣流布を唱えても、到底今いうような広宣流布の日があるようには思えない。既に宗祖の処でその条件は厳重に定められているのである。正信会の面々もまず徳を積むことを考えなければならない。折伏は必ず徳をもってその成果を見るべきものである。漢皇三尺の剣、坐にして天下を制する程の徳が必要である。そのような僧が何人いるであろうか。その徳を養うために学もいれば修行もいる。今は何によってこれを充足しているのであろうか。

無学について

学はいらないということを文上でよみ過ぎたために、今そのつけが廻ってきているのである。自宗の法門が自らの力で答えられないようになってくると、教学も信者へ任せ切りにしなければならない。学はいらないという語をいい調子に利用されたような感じである。長い年季が入っているために、簡単には取り返せない。そのようなものが今の宗門を取り巻いているのである。そこで一つ攻め立てると信者に依存するか天台学によるかということになる。その時天台学を選んだのであるが、これも学はいらないと決めた後遺症なのかもしれない。
 教学は信者の掌握下にあると見たのはひが目であろうか。教学は僧侶が守るべきものであるが、今は充分には守り切れないようである。学はいらないという語を文底で読み直すことは出来ないのであろうか。信者が教学を手掛ける必要のない程僧侶は学に励むべしとは読めないであろうか。今までも教学については信者が主導権を持っていたようであるが、信者が主導権を持てば信者が強くなるのは理の当然である。あまり信者に教学の依存はしないことである。正信会が明治教学を守ろうとする中には、何となし眼を閉じて悲壮感の中に飛びこんでゆくようなものを感じさせる。しかし、それは一向に信者に幸を与えるものでないことは、半世紀前を振り返ってみれば理解出来ることである。今それを正信会が繰り返そうとしているのは、余り賢明な方法とはいえない

取次ぎ役

六巻抄の第五に説かれる一言摂尽の題目とは宗祖から与えられるべき珠玉なのである。それさえも筆者が言い始めるまで書き出された以後、その語を取り出すまでの事例は皆無であったようである。それを受けて第六の当家三衣抄は始めて成り立つもののようである。そのもとにあるものは久遠元初の己心であり、それこそ本法そのもののようである。その上に成り立っているのが文底秘沈の己心の一念三千法門であることは、いうまでもなく天の庶民に下された慈悲そのものである。その取りたて役をされているのが本仏ということのようである。そこに始めて慈悲が存在し得るもののようである。その取り次ぎ役をするのが僧侶ということではなかろうか。その意味ではその者共は勤労奉仕でよいのではなかろうか。

常々の修行

流転門から還滅門に至る間は、常々の修行により法を受持することによって僧としての摂受を守り、これによって信者の不足を補いながら、師弟一箇の成道を遂げるのが真の伝統の法門といえるものと確信してをる。

折伏

以前にも書いた事があるが、文段抄は、安国論以外は何れも一念三千に関わる御書のみで占められている。若し「此四菩薩」等の文を僧侶自身について見る時、本来正法を弘持すべき僧侶としてどのように折伏を行じるかといえば、安国論の折伏のごとく、それを自身に振り向けて一念三千法門を明らめることにある。摂受を成じるための折伏、文段抄の構成はそのようなことを指示されているのではなかろうか。内に充実するものがあれば、その徳は自ら他に向って成じることにもなる。

摂受

折伏は俗を表し、摂受は僧を表す。俗は弟子であり、僧は師である。共に凡俗が本体である。弟子は理即、師は名字即、この師弟一ケした処に法華経の極意を見ようとするのが文底法門であるというように自分では考えてをる。そこに師弟子の法門の根深さがある。この師弟子の法門というのは、法華経の文の底の法門、上行所伝の法門と考えざるを得ないものがある。即ち師の名字即、弟子の理即に絞られた法門である

折伏教化

師弟共に愚悪の凡夫の処にこの法門を具現すれば己心の法門である。折伏教化共に徳化である。それは、そのまま僧侶と信者の間にも具現すべきものであるが、今は僧と俗との距離が出来すぎている。そこに仏法から仏教への転化があり、反って救うべき者が救われる立場になり、色々と秘策を練られるとき、法門も暴走を起すことにもなる。基本線は常に仏法に居なければならない。

 

 

宗祖への報恩

宗教人として自らを責め、内容を豊かにするためにもっともっと勉強してもらいたい。それが修行である。僧侶が題目を唱えることを自慢すること自体笑うべきである。勉強して蓄えが豊かになれば、それは徳である。そこには無言の徳化がある。いくらドンチャン騒ぎをしても、それは徳につながるものではない。反って心を貧困にさせるまでゝある。無言で人を教化出来る徳の蓄積こそ、宗祖への報恩の第一歩である。

 

 

 

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