菅義偉が明かした「首相在任時」の決断・葛藤・成果

 

官邸主導体制「私はうまくいったと思っている」

 

塩田 潮 : ノンフィクション作家・評論家

 

 

2020年9月14日から2021年10月4日まで、第99代総理大臣を務めた菅義偉(すが・よしひで)氏。体調不良を理由に辞任を表明した安倍晋三・元首相に代わって、安倍氏の懐刀だった官房長官から首相の座へと就いた。

在任中は新型コロナウイルス感染症との闘いに明け暮れた1年だった。未知のウイルスをどう抑え込んでいくか──。次々と手を打って収束したと思っても何度も繰り返される感染の大きな波にのみ込まれて、就任時に圧倒的に高かった内閣支持率は急降下。次期総裁選には出馬せず、任期満了とともに首相を退任した。

コロナ対策の舵取りにおいて政権への批判を前面で受け止めた一方で、菅・前首相は欧米諸国に対して出遅れていたワクチン接種を一気に進めて日本の接種率は世界でもトップクラスの8割近くまで向上。2021年秋から冬にかけて一時、新規感染者数は急減した。首相在任時には携帯電話料金の値下げやデジタル庁の創設、不妊治療の保険適用、カーボンニュートラルなどの政策を次々と打ち出し、その手腕を評価する声もある。

首相在任時とその前後をどう振り返り、いま何を思うのか。退任から3カ月余りの菅氏が独占インタビューに応じた。前後編にわたってお届けする。

 

「ワクチンをありがとう」政治家冥利に尽きた

塩田潮(以下、塩田):2021年10月31日の衆議院議員総選挙は首相退任の1カ月後の選挙でした。有権者の反応をどう受け止めましたか。

菅義偉・前首相(以下、菅):総理大臣が終わった直後の選挙でしたから、辞めた後は何をやるんだろうということで、期待感は当然、薄れていると思っていましたが、選挙での反応はまったく違っていました。街頭遊説でも、集まってくれた人がものすごく多かった。内閣をあげて新型コロナウイルスのワクチンを用意したことについて、「ワクチンを、ありがとう」とわざわざお礼を言いにきてくれた人が非常に多くいました。政治家冥利に尽きましたね。

塩田:首相就任は2020年9月でした。安倍晋三・元首相の突然の辞任の後、後継選出の自民党総裁選挙で政権を手にしましたが、首相に、という考えはどの時点で持ちましたか。

菅:正直に言うと、政権はやっぱり総理大臣を目指してきた人が担うべきだというのが自分の考え方でした。私は田舎から出てきて、地方議員の後、国会議員となった。将来は総理大臣に、と目指してきたかというと、そうではありませんでした。官房長官の仕事をやっている中で、コロナが襲った。総理大臣を、というのは、すべてはコロナ対策ですよ。

菅:安倍政権では、私は官房長官として、対コロナで最初の2020年1月の武漢からの邦人帰国、2月のクルーズ船での感染発生に始まって、ずっと指揮してきました。新型コロナというまさに国家の危機の中で、安倍総理退陣後のコロナ対応は、事情や問題点をよく知っている人が担わなければ、簡単には行かないだろうと思いました。

もう1つは経済です。コロナによって、2020年の4月〜6月期のGDP(国内総生産)成長率がマイナス28.1%と、戦後最大の下落となりました。

決心を固めたのはこの2つの要素でしたね。これはやらなければダメなのかな、という思いを持ちました。その中で、総理に、という話が出たということです。

塩田:安倍首相から「次を頼む」という話があったのですか。

菅:あうんの呼吸みたいな感じですね。

塩田:安倍首相の退陣表明は2020年の8月28日でした。

菅:私は、まだ先だと思っていましたけど……。ただ見ていて、大変だなという感じはありました。体力的に大変、ご苦労されていたと思いますね。

塩田:2020年9月の総裁選では、岸田文雄現首相(当時は自民党政務調査会長)と石破茂元幹事長を圧倒的得票差で制しました。ああいう結果を予想していましたか。

菅:できすぎだったんじゃないですか。コロナの問題がわかっているから、それでやってほしいという思いが自民党の皆さんにあったのではないかと思いますね。

 

コロナ対策を最優先、ある意味でそれがすべて

塩田:政権担当の決意を固めたとき、首相としてこれだけは実現しなければ、と考えた目標はどんな点でしたか。

菅:はっきり意識したのは、コロナ対策を最優先で、ということです。ある意味で、それがすべてという状況ですね。

そのうえで、長年、自分が政治に携わってきた中で、これはやりたいと思ったテーマがありました。1つがカーボンニュートラルです。温室効果ガスの排出量と吸収量を均衡させ、将来的に全体として排出を実質的にゼロにするという問題です。世界全体の情勢を見ても、そろそろ日本も決断をしないとダメだと思っていました。

それから、デジタル庁の新設です。第1次安倍内閣で総務大臣を務めたときから、健康保険証や免許証とマイナンバーカードの一体化はできないのかとずっと言ってきました。「デジタルの時代」と言われて久しかったけど、遅々として進んでいなかったので、思い切って掲げました。もう1点、地方出身者ですので、地方の活性化は何としてもやりたい。その思いがありました。

塩田:政権は1年で終わりましたが、就任時、何年かの政権担当を想定して、長期的に取り組みたいと思っていたプランや構想はありましたか。

菅:私は緊急登板したようなものでしたから、何年やるというよりも、とにかくまずその場に対応しなければダメだと思いました。

塩田:史上最長の官房長官でしたが、首相として政治を見たとき、官房長官時代とは、景色が大きく違ったのではないかと思います。違いを感じたのはどんな点ですか。

菅:責任ですね。最終決定権者ですから、すべての責任を負う。そういう決意でなければ、決定もできません。そこがいちばん違ったと思います。

塩田:官房長官の時代、首相官邸主導体制を推進しました。首相となった後も同じスタイルを目指したのですか。

 

コロナ対策、役所の縦割りは問題があった

菅:そうです。縦割りの社会、仕組みで行うのは、もうできない時代だと思いました。とくにコロナ対策を進める場合、役所の縦割りは問題があった。

ワクチンは厚生労働省の所管と決まっていますから、それに口を出せない状況でした。だけど、実際は全国に1741ある市区町村がワクチン接種の実務を担います。この人たちは厚労省とは関係も薄い。中央省庁では、地方交付税の配分などを担当する総務省のほうが圧倒的に近い関係です。こういう点を踏まえて、総務省に自治体のワクチン接種の加速を指示しました。そうしなければ、ワクチン接種は思いどおりに進まなかったと思いますよ。

塩田:政権担当の1年間、首相官邸主導体制はうまく機能したと思っていますか。

菅:いろいろ言われていますけど、私はうまくいったと思っています。

塩田:コロナ来襲の約半年後に政権を引き継ぎました。首相就任の際、感染の拡大や収束など、コロナの今後について、どう見通していましたか。

菅:正直言って、確たるものはありませんでした。コロナという見えない相手の正体がつかみ切れていなかったからです。人流を少なくするとか、手を尽くしましたが、実際にどこまで効果があるか、つかみ切れない中で対策を講じなければなりません。そこがいちばん悩ましかったですね。

ですが、海外でも、ワクチンを打ち始めて2回目の接種が40%を超えると感染者が減少し、状況が変わってくるという情報が入っていました。それで、私も日本の接種率が43〜44%になったとき、会見で「明かりが見え始めた」と言いました。それと、重症化を防ぐ治療薬ができた。これがすさまじく効く。それで、そういう発言をしたんです。実際に、その後から感染者は減少し始めました。

菅:海外では、ロックダウンで都市間移動の封鎖、外出禁止、罰金というすさまじく厳しい措置を繰り返し取りましたが、それでも収束できなかった。日本は緊急事態宣言、まん延防止措置を講じました。感染を一時的に縮小させる効果はあると思いますが、根本から解決するのはなかなかです。そういう状況で明確になったのは、やはりワクチンでした。

治験をやっていて、とくにファイザーとモデルナはずば抜けて高い効果を示していました。ですから、ワクチンにすべてかけようと腹をくくりました。1日も早く、1人でも多くの人がワクチン接種することが、国民の命と暮らしを守るのに直結すると自分で確信して臨みました。

塩田:ワクチンは、日本の場合、開発技術も生産拠点もなく、すべて海外依存です。

菅:まずファイザーの確保でした。2021年4月の訪米では、もちろんアメリカのジョー・バイデン大統領との首脳会談などで日米間のさまざまな問題の解決について話し合いましたが、私の大きな使命のもう1つは、ファイザーを5000万回分、2021年9月までに確保することでした。それは非常にうまくいった。事前にいろいろな人が対応して、最後にファイザーのトップとの電話交渉で確約を取りつけました。そこが1つのポイントですね。

帰国後、5月7日に記者会見で「1日平均100万回以上、打ちます。65歳以上の人は7月いっぱいで2回接種を打ち終えます」と思い切って宣言しました。そのとおりに打ち始め、結果的に6月が110万回、7月が150万回まで行った。ところが、8月分が足りなくて、穴が空きそうになった。ある意味で、大きなピンチだったんです。

 

ファイザーCEOを迎賓館に招いて

菅:ちょうどそのとき、東京オリンピックの開会式で、ファイザーのCEOのアルバート・ブーラさんが日本に来ていました。私はそれを知っていたので、「朝食を」と赤坂の迎賓館に招待した。基本的に迎賓館を使うのは国家元首で、お客様として民間人を招待するのは初めてです。河野太郎ワクチン担当相も一緒でした。

迎賓館の和風別館には、庭があります。素晴らしい樹木と池があり、鯉が泳いでいます。招待されると、大抵の人が池の鯉にえさまきをやります。アメリカのドナルド・トランプ大統領が来たときも、当時の安倍総理と一緒にえさをまいた。

ブーラさんはそのシーンをテレビのニュース番組か何かで見て記憶にあり、「あ、これですか」と、えらく興奮していました。そこで、えさをまいてもらい、心からおもてなしさせていただいた。結果として700万回分のワクチンを前倒ししてもらった。それで8月分が間に合ったから、目標どおり11月で希望する方の接種を終えることができたんです。やはりトップ同士の信頼関係が重要だと思っています。

塩田:コロナ未収束の緊急事態宣言下にもかかわらず、東京オリンピックとパラリンピックの予定どおりの開催を決断し、全日程を終えました。国民の間では反対論も少なくなかったのですが、再延期や中止は考えなかったのですか。

菅:オリンピックは、東京が手を挙げ、国も一緒になって招致活動を行い、招致したのです。開催について大きな責任があると私は思っていました。問題はコロナの感染状況です。コロナをコントロールできる状況であれば、オリンピックはやるべきで、日本が総力を挙げれば、コロナのコントロールはきちんとした形でできると思っていました。

安全安心の大会を実現するために、IOC(国際オリンピック委員会)にも、派遣する人数は最小限にしてほしい、と言いました。選手団や関係者が18万人、日本に来る予定でしたが、実際は5万3000人でした。同時に、入国の際、水際できちっと止められる検査体制を作る。選手村での対応を含め、最悪の事態のにはならないだろうと冷静に計算していました。

併せて、無観客という判断を下しました。選手たちのことを考えると非常につらい決断でしたが、緊急事態宣言下ではやむをえない判断でした。しかし、世界で40億人超がテレビとインターネットでオリンピック、パラリンピックを見るという話を聞いていました。それが判断の有力な材料ともなりました。

 

共生社会の実現、心のバリアフリーを発信できた

塩田:コロナ危機の中でのオリンピック開催は、日本にとって、あるいは世界にとって、どういう意味があったと受け止めていますか。

菅:コロナ禍でみんな内向きになっているとき、選手の皆さんが長年にわたって練習を積み重ねてきたパフォーマンスを発揮した。パラリンピックでは、障害があっても、努力すればできるんだという力を見て、日本はもちろん、世界の多くの人々が感動とか夢とか希望を見いだすことができたと私は思っています。障害のある人もない人も助け合い、支え合っていく共生社会の実現、心のバリアフリーを、日本から世界に向けて発信することができたのでは、と思いますね。

世界がパンデミックという中での大会でしたが、結果として、心配された事態はほとんどありませんでした。オリンピックには社会を前に進める見えない力があると思います。本当に開催してよかったと思っています。

後編:菅義偉「国民の皆さんに伝え切れていなかった」(1月16日配信)

 

 

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