聖訓一百題(第44)


                           堀 日享謹講

日蓮を恋しくおはしませば、常に出づる日、夕べに出づる月を拝ませ給へ。何時となく日月に影を浮ぶる身なり。

(縮遺1523頁。『国府尼御前御返事』)

 

 付記

 此の御書は御真書が佐渡の阿仏房妙宣寺に現存するが、国府の尼(又は紺とも)御前への賜はりであるを、誤りて『千日尼御前御書』と立題せられてある。現今の版本には、此類の誤りが多い。其は当時の人が内容を精査せずに、手近の入文にて濫りに立題したるものと、後人が疎忽に立題したものとである。

 此御書は、阿仏房千日尼系統の妙宣寺に伝来したので、奥の名宛をも見ず、又前の「阿仏御房の尼御前より銭三百文云云の追って書きの御文を粗見して、千日尼へ賜はりしと速了したのである。

 其は既に其時代から阿仏房や千日尼の方が圧倒的に有名で、国府入道や国府の尼の方は影が薄うなった勢でもあらうが、元は佐渡の古寺院は何れも富士系で、阿仏房日得の曾孫・如寂房日満が幼年より日興上人の御許で修行せられて、北陸道法華の棟梁に補任さられ、阿仏の寺(妙宣寺)を以て北国の本山とせられたので、大聖人の御筆物は多く此寺に集められた縁に由って、国府尼御前への御状をも阿仏にて保管する事となったので、国府入道の寺が無かった理ではない。其は、今の阿仏房の直隣に世尊寺が厳然としてをる。上古は皆富士系であったのに、阿仏の寺が西山系から離れて身延に転派せし天正年代に、他の市之沢等も序でに富士を離れたものらしく、又離れられぬ程の本末の約束が堅固で無かったらしい。

 然れども、国府入道の世尊寺と、寂日坊日華上人の弟子であった大和房日性(本間重連の一門)の本光寺(黒木御所の側)とは北山末として残って居り、何れも相当巳上の重宝を保存して(本光寺の如きは大和房等が順徳院へ奉仕の縁由を以て国宝となれる観音像、又は御筆物を伝へてをる)居るが、佐渡巡拝者の足は、格別の宗宝をも持たぬ市之沢塚原(特別の旧蹟でもあるが)御松河原田等よりも寂しいようである。

 此等の事を委しく書きたいが、今は唯、国府尼御前への序に千日尼と間違へられぬ為に書いてをくのみである。

 掲げ奉る御書は、説明を要せぬ程に知れ亘ってをる顕著の御文である。六つかしい宗学に亘してお話しするよりも、美はしき人情の一片から絶対信にまで進入した径路だけ申し上ぐるさへ蛇足では無からうかと思ふ位であるが、例の私の性分で、少しばかり法門に進めるかも知れぬ事を許されたい。但し、トップは人情から切り始むる。巳に引文の次上の御書に、

「然るに尼御前並に入道殿は、彼の国に有る時は、人目を恐れて夜中に食を送り、或は国の責めをも憚からず身にも代らんとせし人々なり。(塚原の送食等は、専ら阿仏房・千日尼両人の篤志の如く、宗門史家は粗伝してをる)されば辛かりし国なれども、剃りたる髪を後に引かれ、進む足も退りしぞかし。いかなる過去の縁にてや有りけんと覚束なかりしに、又、何時しか此までさしも大事なる我夫を御使にて遣はされて候。夢か幻か、尼御前の御姿をば見まいらせ候はねども、心をば此に留めをぼへ候へ」

 国府入道の篤志は外の御書にもあるが、省略する。

 先づ御文の如く、別して大聖人の御意に深く印象せられたる絶待の信仰ぶりである。国府入道と阿仏房と、国府尼と千日尼とは佐渡の信者の双璧である。追て書きの御文の中にも、「同心なれば、此文を二人して人に読ませて聞こしめせ」と仰せになってる程の同志である。且又、住所も、国府に遠からぬ所に遠藤家が住んで居たであらう。

 巳上の人間の情誼の中の純なる美はしき聖僧尊敬と信者護念の大慈とで、一切は此御書の要解は尽きぬ事もないが、其れでは余りに俗界に窮局するやうである。

 其処で最末の御文、即ち今所掲の御文が大事の入神となり開眼となるので、野僧の冗筆も無意義に堕しはせぬものと思ふ。

 先づ「日蓮を恋しく云々」とは「自我偈」の経文の「咸皆懐恋慕而生渇仰心」と同意である。恋情の終極であり、浄化である。

 「日月に影を浮ぶる身」とは、影は姿形である。うかぶるも、うつすと同意である。「一念三千の鏡に自浮自影する」と云ふ事を日本天台も云ふが、理性に偏する事が多い。「日の鴉、月の兎」と云ふを世俗に云ってをる・日本の神話でも、印度の神話でも、其他各国のも大差はない。或はインドラの情で兎の献身的行為を月宮殿に移した。此等の浮ぶ、移すは、兎の自力ではない。神と云ふ無限大者が然かしてくれたのである。大聖人の「日月に影を浮ぶる」と同等に扱っては大変な失体になる。

 四条氏に対しても南条氏に対しても、其災を攘ひ、其病を除く為に日月天に申しつぐの御語が間々ある。観点の角度で日月天に御願ひしてとも、日月天に申し付けてとも観る事が出来る。

 釈迦牟尼仏と日天と日蓮とは内証同である。如来秘密の上の倶体倶用であるが、再往、此を外用の神通之力より眺むるとき、末法応化の御大任は釈迦仏でない、日天でない。唯、大聖人御一人の力用である。

 故に天拝の御文に、「生身妙覚自行の御利益」云々として、日月天独自の分は御自行であって、化他説法でない。而して天部の代表として外護の御大任に当らせ給ふのである。其を日月自行の昼夜の御照明の御当体に、内証同の自浮自影を遊ばす事を、山海万里遠隔の地に在る無知純信の老尼の法慰にもとて「常に出づる日、夕べに出づる月を拝ませ給へ」と御慈訓遊ばさるゝのであるが、強いて偏張すべき事ではないと思ふ。

『大日蓮』昭和11年7月号

 

 

 

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