聖訓一百題 (第43)

堀日亨謹講

 

雪山の寒若鳥は寒苦に責められて、夜明けなば栖造らんと鳴くといへども、日出でぬれば、朝日の暖かなるに眠り忘れて、又栖を造らずして、一生虚<鳴<ことを得。一切衆生も亦復是の如し。  

(縮遺続集3頁。『新池抄』)

 

 古来、惰眠を誠むる好例に使ひ旧るされてある話しであるが、今、吾人の住所では、雪山のヒマラヤ山地とは気候風土を異にして居て、殊更、堆雪中の寒若鳥などの事は神話にでもありそうな、又御伽話しにでもありそうな事であるから、実際は科学的に持って来ては価値の無いやうな事のやうであるが、惰眠を誠むる、其惰眠の起るべき季節は是れからであるから、今此処に此の御文を掲ぐるのも無意味でない。殊に私のやうな眠り虫には自嘲にもなり、自警にもなるのである。

 先づ初に、『新池御書』と寒若鳥の雑解を眠気覚しの一助にしやう。此の弘安三年の『新池殿御書』は、普通の『録外御書』と、『三宝寺御書』と、『御書続集』とに編入せられてあるが、御正本は今はない。泰堂の『遺文禄』には、此を除き去った。『霊艮閣御遺文』(吾等が使用してをる)は、此『遺文禄』に依るが故に正集の方には無論編入してないが、続集の初に入れてある。

平易なる御親切なる信徒向の御文章であるから、古来皆々拝読して来たので、殊に末文の、「此僧を解悟の知識と憑み給ひて、恒に法門御たづね侯べし」等とあるへんは、吾御開山日興上人に御縁があるやうに思はるるので、何となく捨て難くもなって来る。

 次ぎに寒苦鳥と云ふ鳥の実体は、何と云ふものか。ヒマラヤ探検も、益々頂巌に至りエベレスト征服も出来た今日、未だ此鳥の事を聞かぬ。

 但し、自分の寡聞であるかも知れぬが、或は高峰で無くて、存外山麓に居るもので、博物学者の問題にならぬのかも知れぬ。

 我が国の仏法僧と云ふ鳥でさえ、単に深山名刹の側で、特別にブッポウソウと鳴くと云って、るのである。何となく深山仏教に有難味を付けたやうになってをるが、正体が明らかになったのは漸く近年の研究の結果である。形はコノハヅクと似てをるが、羽の色が異ふそうである。但し、ブッポウソウと鳴くのは却って、此のコノハヅクの方であると云ふ事である。此が確実なりとすれば、何れも名前替へすべき事になる。

 研究と云ふものは善し悪しで、何やら旧説が破れそうで、且又聞きやうでは外の言語にもなるとの事で、恰かも杜鴫の鳴声の聞取りに幾種あるやうに、「ホンゾンカケタカ」と聞くのは宗門人の耳に限るやうに思はるる。此様ナンセンスで信仰を助けやうとする時代でなく、随分むつかしい事になって来た。

 但し、然らば寒若鳥の正体如何と云ふに、先づ無学(博物上の知識)の自分には明らぬから、古人の伝説を取り次ぎするより外はない。叡山の『鷲林拾葉』と云ふ書の中に、一説として、寒若鳥の雌は寒苦身に逼まる夜明けなば巣を造らんと鳴くが、雄鳥は今目明目をも知れぬ無常の身ぢや何で巣なんどを造らうぞと鳴くと云ぶことを挙げてある。経論の古き依拠があるであらうけれども、其は云ってない。雌が造巣論者で、雄が無用論者であっても、又、雌が無用論者で、雄が造果論者であっても、結局、論者たるだけで造る事に及ばなかった。

 大聖人の此御書には、其要をとってあるやうであるけれども、又、御文面の通りの「朝日の暖かなるに眠り忘れて」と云ふ依典があったかも知れぬ。

 要するに、何れにしても、吾人の適例である。雌雄としても人間の夫婦の性格に此の如き対立はあり勝で、毎日の争論死ぬ迄尽きないのがあるとかと思へば、夫唱婦随で、亭主関白の位、甚だしきは暴君振りを徹底的に強行してる家庭も見ゆるが、矢張り巣は造らぬ。百年の計を為さぬ、永き未来の為の経営を為さぬのである。又、一心の中に、造る造らぬの思想が対立して、一生埒が明かぬ人もある。

 寒若鳥の実在は博物誌に載らずとも、中々に良き例証である。已上で、寒若鳥談は終りを告ぐる。大聖人は此の御書の次下に、

 「地獄に堕ちて炎に咽ぶ時は、願はくば、今度、人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し、後世菩提を助からんと願へども、偶ま人間に来る時は、名聞名利の風烈しく、仏道修行の燈は消えやすし。無益の事には財宝を尽すに惜しからず、仏法僧に少しの供養を為すには、是をものうく思ふこと是唯事にあらず。地獄の使のきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」と仰せになってをる。此こそ大聖人の未来までの御訓誠である。強ちに新池殿の御状にあるからとて、新池左衛門だけに限った悪癖の教訓ではない。当時、日本国民の上下一般の通弊である。当時に限らず、七百年の未来今日に至るまでも少しも変らぬ弊害である。

 現代では、未来の堕地獄と云ふ痛棒が少し効能が薄うなったやうであるけれども、今日の労苦は明目の快楽であり、乃至、青年壮年時の辛労は老年時の逸楽である位の、善因善果、悪因悪果の通例の因果の原則は、仏教が教へずとも、世間一般の各種の教育の上の常理であるから、如何なる低能の人でも知り切ってをる事ぢゃが、此れすら実行の上には容易ならぬ事で、通俗生活の上で惣ての人々が、雪山の寒若鳥ならぬは甚だ少ない。

 但し、明日の快楽、老後の逸楽、一家の安穏は、各人の欲する処に相違ないが、此を遂行する為に一歩一歩地盤を固く踏み固めて行かうとする苦行者は少ない。一階二階を造る事を嫌ふて、直に高層なる三階に住居せんことを望む者ばかり、万一を僥倖するやうな一握千金の夢ばかり見てをる世間である。遂には浮世三分五厘の考へに堕して、一寸先は闇だ。先先、今日を楽しめ明日の事は明日の事だ。吾死んだ後の妻子は、妻子自ら何とかするだらうと云ふやうな、寒若鳥の雄とトントンの者への人が多い。現在目前に経験する今日知れ切った因果の事すら苦労を厭ふが故に、惰気満々たるが故に、因果の原則を無視して知らず知らず良からぬ夢ばかりを見んとしてをる。

 宗教と看板を掲げてをる者は、如何なる教でも、今日一旦主義ではない。通俗よりも責任観念、道徳義務が悠久なるべきであるが、動もすれば世間に順じて、其過程を短かくせんとするからでもあらうが、成るべく未来を云はぬやうにするのがある。又、仏教の各々如き三世因果の圏内にあり乍ら、未来の世界を云はずに程遠慮気味の傾向が見ゆるやに思ふ。此等は自立を忘れて順世的であり阿世主義で、一日を生ひ延びやうとする猾滑策である。行き詰まりと唱へて、大聖人の喝破せられて、廃残の邪教なる事を反省せずして、何を以てか余命を永続せん為の規定せられた圏外の事業で補うてあるものが多い。定まりたる本分の外に、余業に没頭するとき、巳に規定の大業は破潰せられたのである。中心既に傾きかけた家には、必ずしも烈風を待たずして崩壊する。宗運否塞したる所は、必ず内外の妨難に堪へられぬ。

 支那仏教の衰へたるも、印度仏教の変形したるのも此に外ならぬ。行詰るものは行詰らせよ、潰ゆるものは潰へしめよ。敢えて他の事を以て比を支ふるの要あらんやである。

 時代をくれの過時仏教等の行き詰まるのは当然である。其が各自の本分其宗祖・開山の立義を第二第三に閑却せしめて、他の一時凌ぎの方法で頻りに十字街頭に進出し、ジャーナリスト

の波に乗って、満帆に風を孕めて得々たりとも、其は花火線香の一瞬時の光景である。形態下物質的の祉会事業を兼業して、大に社会奉仕の実績を挙げたりと讃賞せらるるとも、其宗命に何の関係があらう。

 新戒律運動を起して、従来の在家五戒の中に無き喫煙を禁ずるとか、カフェー入りを禁ずるとか、身分不相応の衣食住の贅沢を禁ずるとか、歌舞音曲の観聴を禁ずる(此は旧戒律にあるが、在家ではない)とか、社交ダンスを禁ずるとか、此等の新しき戒律を設けても、若し厳則であっては却って社会の禍となる。何と工作しても、運命の尽きたる廃残的の旧仏教は、社会面より消えて無くなるが良い。此は大聖人の七百年前よりの御警告の意味であって、此等に対しては却って寒若鳥の惰眠の総動員を希望する。而して一日も早く新真仏教と交代せよである。

 併し乍ら、吾等の本因仏教徒こそは寒若鳥であってはならぬ。行き詰りは人にあって、法には無い。若し行き詰りと見ゆるのは、家学に信仰に実行に惰眠を食りて、一般の大衆に嫌厭せられて行詰りを来たしたものである。其を却って杜界の方に塗り付けて、仏教の中心を離れたるかの如き余興ものを借りて、以って一時を糊塗せんとする如きは卑怯千万である。

 或る教団では、宗門に格別の関係も無き名士のオンパレードを以て群衆を釣らうとする如き傾向あるは、残念千万の事である。

 但し、其は付帯の余興とあらば先づ差支へもなからうが、却って其れが大看板たるに於ては大々的不都合で、宗祖・開山を冒涜するものである。不真面目の興行師同然である。

 吾宗門には、斯の如き醜面を呈せざるは、吾等の誇りである。宗義中心、信仰中核に厳住して、心中に寒若鳥の寸跡無からしめん事、是れ実に吾曹が宗祖大聖人への御報恩の一分であり、又、兼ねて国恩に酬ひ衆民へ奉仕するの肝要である。

 

『大日蓮』昭和11年6月号

 

 

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