聖訓一百題 (第40)

堀 日亨 謹講

 

日蓮御房は師匠にては御座せども余りに剛はし。我等は柔かに法華経を弘むへしと云はんば、蛍火が日月を笑らひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海を蔑づり、烏鵠が鶯鳳を笑ふなるべし。      (縮遺834頁)

 

 何れの時代でも、正義の士は多く艱難と戦ふ。何れの国でも亦同じ事である。憂国の士の行く道には荊棘が横たはるのが常である。担々として長安に通ずる大道を居睡して春風に吹かれてたどり著くやうな事があるものでない。況んや、気の合った同志が歓語を交へて道中するやうな愉快はあるものでない。「此の道や行く人稀に秋の暮」と云ふ述懐は当然の事である。

 殊更、超世間的に、超宗派的に、世間出世間の頂上を闊歩する大聖人の三十年の行履は決し平安ではなかった。大難四箇度、身命懸の苦しみ、数知れざる随時随所、日々夜々の御苦労は却って自然の慰めで、寧ろ無ければ寂しい位に思し召されたのであらう。時空に充塞する無限大の御慈悲の所有者で在られる御仏には、動きなき御覚悟であらうけれども、其が弟子となり檀那となりて、随逐し奉る人々は、動もすれば辛抱の出来ぬ為に、煩悶に煩悶を重ねて、勿体ない事ながら、暫く信行の休養に陥いる事を心で深く御詫びして、退転する者も出来る。甚だしきに至っては、反教と引き換へに生活が楽になると云ふ甘酒に酔ひしれて、久遠の仏性を汚濁する逆徒も出来る。

 何れの世界でも、何れの時代でも、霊と肉との争ひは絶えぬ。信仰と生活の戦ひは、尽きるものでない。世智辛い時代でも、黄金時代でも、大した違ひのあるものでない。

 今、茲に掲げ申した大聖人の御金文は、文永九年三月、佐渡の御流罪地より、富木殿、四条殿、十郎入道殿、桟敷尼御前等の一統へ賜はった事は、首と尾との御記文で明らかであるが、骨子は矢張り末文たる此の金文にある。

 時代悪、人機悪、惣て好ましくもなき悪世相に盲従するな、妥協するな、敢然として、悪因、悪時を撃破して、悪魔の世界を攻略して、一寸でも一人でも、善国善時を拡げて、仏世界・寂光土を建設せよと、弟子檀那に激励せらるるのである。

 一体、激励とか、鼓舞とか云ふ事は、安全な地位にある有力なものから危険な地位にある無能力者に働きがくる注射であるのが普通であるが、此の龍の口・佐渡の大法難の苦杯を嘗められたのは大聖人が首で、弟子檀那は其十分の一の苦しみにも当らぬ。其に明くる年の三月として、半箇年を経過した鎌倉地方では、思ひ出話になってる位の平和さに引きかへて、佐渡では、まだ雪が融けぬ、食料も不足勝である、一般人民の眼も穏やかでない。其御留難重畳の御境界の中から、御自身の苦労を忘れて、平穏に近き鎌倉の弟子檀那を策励なさるのは、何たる剛気であらうぞ。又、御慈愛であらうぞ。刹那の愉悦に満足し勝ちな凡夫と、永遠の浄喜を悦ぶ大聖との区別が、余りにも顕露過ぎる。

 其は反教者が、此大法難の為に、沢山出来たのみでない。百難を凌いで信仰に繋がってる人々の中に、衷心大いに平かでないものが見ゆる。其の侭に放任してをくと、知らぬ間に苦難の荊棘道を避けて、退転の平坦道に走ることが見え透いてをる。

 其は現御文の前の方に、

「日蓮ヲ信ズルヤウナリシ者ドモガ、日蓮ガ期クナレバ疑ヲ超シテ、法華経ヲ捨ツルノミナ ラズ、却リテ日蓮ヲ教訓シテ、我賢シト思ハン僻人等ガ、念仏者ヨリモ久シク阿鼻地獄ニア ラン事、不便トモ申ス計リナシ」

と仰せになってをる。

  其が即ち大聖人門下の順世外道との誠めである。大聖人にとりては、小湊已来、二代の大恩人たる領家の尼御前(名越の大尼)の如きが是れである。信仰は止めたくない、一族とは離れたくないのヂレンマに引き繋がって煩悶の余り、願くは日蓮御房も少し御手柔かに送られたい。将軍、執権、頭人等の心也汲まれたい。さすれば、斯くまで厳酷な御仕置きにも及ばれまい。

 従って自分等も安穏に、一族に気がね無く信仰が出来ると云ふ注文が、弟子檀方の上下に起って来た。其れが竜の口の事前にも事後にもあったのであり、佐渡までも伝言せられたのである。

 其れで、「日蓮ヲ教訓シテ我賢シト思ハン僻人」等と一喝遊ばしたのである。竜の口已前の此僻人の名前が、沢山には文献に載ってない。御直書の方で古くは能登房、新くては少輔房、又は名越の大尼等である。少輔房の如き有為の龍象が御師匠様に軟派転向を勧めた事もあらう。名越の尼も、最少し柔らかにと口説かれた事もあらう。

 此御金文は、竜の口前後(直)にばかり関係深き御誡文とのみ思うてはならぬ。熱原法難では、大聖人の片腕とも頼まる三位房・大進房が反忠をして、念仏側の滝泉寺の爪牙となった。

 但し、此等の人々が、的面に仏罰を受けて非業な死に方で片づいたのが、逆則是順の道理で、却って反対に御味方を励ました。

 物事が斯く明確に罪福の勘定が出来ると結構であるが、大悪業が後世に持ち越して無間地獄入りとなると、提婆達多の如き状態にあらざる限りは示しがつかぬ。

 大聖人御滅後の五一の離叛、宗門の分裂は、各種の情実も在ったと云ふ人があっても、要は硬派と軟派との対立であった。大聖人の御方針通り、対外的にも対内的にも、神天上、不立像、他教破折の強義を立てて、非妥協的・非迎合的に官民に臨んだ日興上人の厳粛主義と、内に正義を懐くとも、外面は飽くまで叡山天台の笠を被ぶりで、布教の便宜を得やうとする妥協、迎合、順世の擬装を凝らした五人方の柔軟主義、御利口主義との、反目があった。

 尤も、富士方にも自然と硬軟があり、山に依り人に依りての加減がある。即興師門下の目尊(今の京都の要法寺の開山)如き、神天上を否定して、鎌倉方・五老方に同じた事もあり、又、釈迦仏十大弟子を立てた事もあると云ふ非富士流の行き方の人もあったやうに、五老方や中山系にも鍋冠日親の如き身を捨てての強折家もあり、鎌倉日利の如き隠れたる神天上、神否定家もある位だけれども、統計の上では中々に原始の法系が格別改まって居らぬやうであり、殊更、小教団で一騎当千の猛者計りの僧俗を有してをる側は別であるが、清濁併せ呑んで膨張し切った濁富の本山側では、一塵の富も減らしたくない。先師先聖の血で築き上げた法城は動かしたくない。其が、法子法孫の当然の任務である。其為には、如何に迎合・妥協・屈辱と云ふやうな状態に陥りて来ても、一寺一人も減らしたくないとの者へから起った受不施問題で、兎も角、祖宗の御主義に近い少数の不受不施門徒を迫害した長き歴史がある。

 現今では、其迫害側に廻って官憲に盲従し、又は煽動した本山の法子法孫達も、澄ました顔して不受不施問題は全く昨夢にかたづけて居らるるやうである。

 中には、テト薬が利き過ぎた気の毒であったやうである位に反省して居らる向きもあらうが、若し、将来に此と同じ傾向の利害問題、死活問題でも起って来やうものなら、直に御利口連の作戦が行はれて、比較的少数の正義者が圧迫せらるる事は、火を見るよりも明らかである。此が即ち七百年前に、「日蓮ヲ教訓シテ我賢シト思フ僻人等」の軟派の流れである。五老等の軟測派の人々の生々世々に生み広げたる汎日蓮宗の御僧俗であると見ても、差支へなからう。

 此精神が何処にも、何の時代にも、遠慮なく広がってくる。殊更、一般世間の事勿れ主義、事大主義、融合主義、混沌主義と共同して底止する所を知らぬ体で、富士の堅城にも入り込まぬとも限らぬ。

 大体、利口に都合よく強大な教団に成らうと云ふ、即ち汚れたる「何ヲ以テカ主義」の人々は此病菌に感染する事が早いから、太いに警戒すべき事である。今(昭和十一年)から三十年ばかり前に、統合間題が起った。吾が賢明なる時の管長も発起人であったが、吾が教団内では時の前管長始め、反対が多かったので、云ふに云はれぬ変体な立場に立たされたが、次第に有耶無耶に消滅したから、先づ災難も少なかったが、此の発起の御旨意は強ちに勢力糾合主義に計り起ったものでない。清浄な護法心からも来てると云ふことで、流石の当管長も思ふ侭にならぬ苦心を予に洩らされたが、斯う云ふ変体な事は容易に成立するものでない。樟の取りやうが悪いと、虻蜂取らず所の騒ぎでは無い。門下の信仰を傷つくるものである。

 併し目今でも、或る方面では此等の計画が起伏して居ると云ふ事であるが、何等の邪念もない野心もない、誠心誠意の計画ならば、耳を貸すに吝ならぬ辺もあらうが、浮薄なる徒に勢力糾合だけの御主義ならば、又大聖人の御嫌ひ遊ばす「我賢シト思フ」人達の順世的算段なら一顧にも価ひせぬものである。

重ねて思ふ。当文の御教訓は、尽未来際まで生きて居る厳乎たる鉄案である。

  斯く一気に書き異って標題を顧みれば、御文の中の解釈を付けねばならぬ処がある。

 其は左の四辞である。蟻塚は蟻の巣窟で、粘土で築き上げたもの、大なるは五六尺のものもある由である。華山は古き支那の中の五箇の名大山の中の一つであって、陳西省の東辺にあるもの。此の大嶽と五尺位の小塚とは比較にならぬ。日蓮が強義は華嶽の如し、彼の生賢人達の順世軟派は蟻塚の如しと仰せらるる。

 又、烏鵠は、世にありふれたカラス、カササギである。鸞鳳は支那で五百年千年に稀に出づる聖人・賢人の時に現はるる美大なる瑞鳥であるやうに、比較にならぬ。彼等は烏の如き与しきもの、吾は鳳の如き尊さもの、即ち共に其御主義がである。此と類する他の一言語を借りて元へば「燕雀何ゾ、鴻鵠ノ志ヲ知ランヤ」と云ふ同辺である。

 已上、贅語のやうであるが、無文の人の為に加へてをく。

 

  『大日蓮』 昭和11年3月号

 

 

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