聖訓一百題(第38)


堀 日亨 謹講


予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はずんば、且ら<世間普通の義を用ゆべきか。

  (縮遺1720頁『太田殿御返事』)

 歳改たまったる愛で度き正月に、朗らかな思想に成られたく成りたく考えて、此の御書の御文を標題に採ったは、太田左衛門尉の57の厄を法華経の信仰にて払ふべく、其為に「方便品」「寿量品」の二品を書き給ひて厄払ひの御守とせよ、厄歳などの思想は世間に行き亘れる通念であるから、暫く其迷信の邪竇を埋没せずして苦悶を法華経に誘導せられた大聖人の応病与薬の大良医の大慈の方術を鑚仰し奉つる為でもあり、現代の思想の過度期で統制せらるべきもなき東西新旧混乱の時に於ける吾宗門の能化・所化僧侶・信徒御一同の御参考に、少しでも為ってくるれば、強ちに徒労の贅筆でも無からうと思うて少々書き付けかゝつたが、多忙の身でもあり、身辺に各般の参考書を備へて無い不自由で、書き映えが為ぬ事は幾重にも御詫して、後日に補充をする考へである。

 先づ此の御抄の中心と見て取つた標題の短句を申し上ぐる前に、其前後の御文の要点だけも列挙せねば物足らぬ感じがするで、少し計り抄文を作らう。

「御状に云はく、『某、今年は五十七に罷り成り候へば、大厄の年かと覚え侯。何やらんして正月の下旬の頃より卯月の此頃に至り侯まで、身心に苦労多く出来侯。本より人身を受くる者は、必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべしと申しながら更に』云云。(1719頁巳上、太田殿より大聖人への御状の中心の文句である)。

御辺は今年は大厄と云云。(1720頁)

厄年の人の危き事は、少水に住む魚を鴟鵲なんどが伺ひ、燈の辺に住める夏の虫の火中に入らんとするが如く危うし。鬼神やゝもすれば此人の神を伺い悩まさんとす。神内と申す時は諸の神、身に在りて万事心に叶ふ。神外と申す時は諸の神、識の家を出でて万事を見聞するなり。

当年は、御辺は神外と申して諸神他国へ遊行すれば、慎んで除災得楽を祈り給ふべし。又、木性の人にて渡らせ給へば、今年は大厄なりとも春夏の程は何事か渡らせ給ふべき。

至門性経に云く『木は金に遇ふて抑揚し、火は水を得て光滅し、土は木に値うて時に痩せ、金は火に入りて消え失せ、水は土に遇うて行かず』等と云云。(1720頁)

指して引き申すべき経文にはあらざれども、

 此の下が即ち標題の御文である。此迄は太田殿の厄の事について其解釈を当時の普通一般の知識で為されてある。端的に云へば真実の仏の経文から来たものでなく、支那に入りて其国固有の道教と云ふ宗教と化合した五行陰陽説が、又日本に渡りて、猶、仏教と結びついて、一般の常識となってをるから、其を巧みに御使用なされた迄である事が、即標文の御意である。

 此より下は.法華経に依って厄払ひの御義を述べられて、最後に 「当年の大厄をば日蓮に任せ給へ」 と結ばれてある。此の点を味読せらるれば、私の愚話は殆んど蛇足であるかも知れぬ。

 但し、猶、後の御聖文を抄録して見る。

「然るに法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり。されば経に云はく『此経は則ちこれ閻浮提闇の人の病の良薬なり。若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん』等と云云。

又云はく『現世は安穏にして、後生は善処ならん』等云云。又云はく『諸余の怨敵、皆、悉く摧滅せん』等云云。

取り分け、奉つる御守りの方便品・寿量品、 〇 二品奉つり候。相構へ相構へて御身を離さず重ね包みて御所持有るべき者なり。(1721頁)

貴辺は日来は此等の法門に迷ひ給ひしかども、日蓮が法門を聞いて、 ○ 結句は身命よりも此経を大事と思し食す事、不思議が中の不思議なり。(1721頁)

本門正宗に至りて寿量品に説き顕し給へり。此一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給ひしなり。正法・像法に出でさせ給ひし論師・人師の中には此大事を知らず。唯、竜樹・天親こそ心の底に知らせ給ひしかども色にも出ださせ給はず。

天台大師は玄・文・止観に秘せんと思し召ししかども、末代の為にや止観十章、第七正観の章に至りて粗書かせ給ひたりしかども、薄葉に釈を設けて、さて止みぬ。 ○ 彼天台大師は迹化の衆なり。此日蓮は本化の一分なれば盛に本門の事の分を弘むべし。

然るに是の如き大事の義理の籠らせ給ふ御経を書きて進らせ侯へば、弥よ信を取らせ給ふべし。 ○ 法華経の持者は教主釈尊の御子なれば、争か梵天・帝釈・日月・衆星も昼夜朝暮に守らせ給はぎるべきや。厄の年災難を払はん秘法には法華経に過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな。○当年の大厄をば日蓮に任せ給へ。釈迦・多宝・十方分身の諸仏の法華経の御約束の実不実は是にて量るべきなり。」 (1723頁)

 御本書は長篇であるから、如上の要文で大概の意は得らるゝ。此御文の中に付いて、大厄と云って何年目かづゝに、男女に分けて年を異にする事の、神内とか神外とかの事の、木性等の五行説は必ず仏説ではない。『至門性経』と云ふも仏経であるべきでない。若し仏説だとすれば例の偽経である。仏教と道教とが互に角逐せし支那の六朝或は唐時代に出来た、即ち翻訳で無くて支那製のものであると思ふ。

 我国の文明は、朝鮮・支那の輸入で開けたのであるから、宗教、道徳、文芸、政治、制度、精神的にも物質的にも多大の影響を受けてをる。其が現代の欧米の影響どころの騒ぎでない。

 其時に輸入せられた天文陰陽等の中に在る讖緯五行の説で、道教系であるけれども、既に支那で道仏混和の上に成立してるものが多いので、何れの時代でも教化階級の人は、其時代の思潮に逆らふ事をしないで順潮に帆を揚げて容易に布教の効果的ならん事を望むのである。其弊や文明を遮ぎり淑徳を汚がすかの道あっても、大概は黙過して、成るべく容易を楽ふのである。

 仏教に摂受と云へる方術が、粗此の方法に当る。妥協愉安を望まない徹頭徹尾正義正理に邁進するの正道は容易に行はれない。此れ大聖人の折伏主義であるが、其れすら現代の其法子法孫は其正しき方法を邪魔物に荷厄介にしてをる処に、動もすれば今所引の御文を盾にとって、自己のだらしない瞞著妥協の辞柄にしやうとしてをる。

 茲に於て、少こし此御文を解釈して見たいと思ふ。其は、四悉檀の運用と世間普通の義との両点である。

 四悉檀と云ふは、一に世界悉檀、二に為人悉檀、三に対治悉檀、四に第一義悉檀で、其一が其惣ての環境の思潮、風俗、習慣、法律、制度であること。其二が被教化者の思念持行であること。其三が邪正善悪迷悟を判然と区別して、強制的に邪を改め悪を止め迷を断たしむること。其四が直に絶対的正道を実行すること。

 其四の条件の下に、何れも満足に成就せしむるが四悉檀に功徳を成ずる方術である事は、定論である。

 併し、其四の上に、此四の方法に拘泥せずに、超悉檀と云ふ超越的の方法ありとするもの、又は、前の一二三は細別であり、第四は惣合的の結果でありとするものなれば、其等は今の用でない。

 今、此御書の如く、大聖人が太田殿の其時代の厄思想、現に当時の官の記録たる『東鏡』にもある如き、

「今年ハ太一定分ノ厄ニ当ラシメ給フ、厄ノ御祈ヲ行ハルベキノ由、助ノ法印珍誉勘へ申スナリ」

とある如く、乙若君の病気の為に四角四条の祭が行はれ、十壇の炎魔天供が行はれ、鶴岡八幡で『大般若経』 の転読があったりして、又、其上の厄払を為すべく珍誉法印が献言した寛元二年五月の記録である。

 陰陽師、神官、僧侶、共同しての事であるから、真言僧等が厄払に各種の方術を行ふたのが、龍樹菩薩以後の印度教との混淆宗教の遣方でもあり、又更に支那混製の方法でもあるものを応用したもので、陰陽道のやり方と大差は無かったもので、其を京都の朝廷でも公卿でも鎌倉の将軍でも執権でも公式に行はれて、其官制すら有ったものであるから、上の好む所下此に倣ふと云ふ理で無くとも、自然に一般の士庶の世界悉檀となった。

 其の鎌倉武士の一人としての太田左衛門尉が、今歳(弘安元年)は57であり、所謂大厄の年であるから、何か事故が無ければ善いがと心配してる時に、目出度き祥瑞の気分漲ぎる正月から身体もわるく心配事も絶えなかったで、遂には鷲目十貫文、太刀、品々添へて、即ち特に志を抽んでゝ厄払の御願をしたのである。此は当時の人情より推して当然の事である。

 攘災祈祷を専門とする陰陽師・真言師に持って行かずに、尤も御信者の事であるから、直に御帰依し奉る大聖人に御願ひしたのである。

 其れが当時一般の通念であるから、大厄の説明を八卦や神内や『至門性経』の五行の相生相剋を以て為されてあるが、其処には 「指シテ引キ申スベキ経文ニハアラザレドモ」 と御念釈遊ばされてる。最も世界悉檀を応用なされた形である。

 成仏の要旨、即ち宗旨・宗教たる三大秘法、及び教・機・時・国・教法流布の前後の五綱に障碍なき世間の道義習慣の方は、先づ先づ世間並に準じて世界の益を計らるゝのである。其を如何なる時代にも古今を一斉する経常の大道理と信じてはならぬ。

 其処で仰せの 「世間普通ノ義」 と云はるゝ御内容を能々検討せねばならぬ。即ち本要点の其二の研究である。世間普通の義と云はるゝ其世間並の語に付いて、700年前の世間と今の世間と果たして同一思潮であらうか。人情、風俗、政治、制度、宗教、文芸、経済等に於いて、別して宗教思想の通念に於いて、鎌倉時代と昭和の現代と格別の変化は無いであらうかと云ふ事を考へて見ると、此厄に於ける通念は、鎌倉より南北朝・戦国時代・徳川三百年の泰平時代に至るまで多少の変化はあつても、其侭持続してをるが、次第に官制に上流に知識階級に此思想習慣が滅亡して、或は下層の愚民の信ずる所であるから其侭に放置せよとか、気の毒であるから如何なる啓蒙運動をも起して迷信対治を為すべきであるとかの両途には分れて居るやうであるが、先々官制を以て大がかりな祈祷などは殆んど天下に跡を断つやうになつたやうである。

 其を又、明治御維新前後の内外各方面からの迷信対治物質文明の御疵で、多少の知識あるものは五行や厄などの迷信は無くなったやうであるが、知識の低級な部分は仮令生活に高貴な富贍な部類であっても、鎌倉又は王朝時代の通念が残りてをる。

 且又、一家の中でも、老人達に旧思想が多く、青年壮年に新知識が多いのは当然であるけれども、一家平和の上から成るべき孝子孝孫としては父老の迷信を強制的には折伏せぬのが又一般の美風となってをるから、動もすれば旧来一千年に亘る厄の思想などが取り払ひ切れぬ形である。

 殊に折伏を代表して直情径行たるべき吾正宗の僧俗の家庭にも、どうかすると此の残物が跋扈してをるが、此を御祖師様に託するのは無理であり、勿体なくも宗祖を毒するものであると云ふべきは、即ち「世間普通ノ義」なるものは700年間に大分変化して居るからである。

 現代の厄思想は、低級思想に止まってをる。万事、被指導的の老人愚人の上に残りてをる。仮令、員数は少からぬとしても、決して宗教上の思想上の指導階級に在る人には存在してをらぬ。仮令、50年100年の後に、此の厄介な愚想が絶滅せぬとしても盛り返して、王朝時代の如く、鎌倉又は戦国時代の如く、官衙の上に其云ふ役人が出来るものでない。

 其で、現代の世間並と云ふことは、厄などを信ぜぬ事と云ってよい。其に拘泥せぬ時代であると云っても殆んど差しつかへは無い。

 殊更、世界・為人・対治の三面を離れた第一義悉檀の理性一点張の上では、『涅槃経』の御文の如く、日に好日悪日あるべきでない、年に善年凶年あるべきでない。自分の果報や勉強の上で日々好日、年々善年であるべきである。況んや仏教の一般的の作用である。即ち外道の宗教に対し、又は無理解な思念を対治する方法では、苦を楽と開らき穢を浄と開らき、縛を脱と解し邪を正に導き、悲を喜に禍を福に転ぜしむるではないか。大聖人が熱原法難の徒に、

 「ヒダルシと思はゞ餓鬼道を教へよ、寒しと云はゞ八寒地獄を教へよ、恐ろしと云はゞ鷹に 遇へる雉、猫に遇へる鼠を他人と恩ふ事なかれ」

と励まされたやうな対拾の方法は、大小共に随処に行はれてある。

 吾曹宗徒は、大聖人の御真意、釈迦仏の御慈教の方を体得して、時代後れの思想に引ずられずに、日の善悪、年の吉凶、姓名の善悪などを顧慮するなく、又、此等の迷信に陥れる人を教導すべく苦心せねばならぬが、又一方、余りに物質的な新知識を以て、善良なる旧道徳を破壊する似而非インテリをも善導せねばならぬ。

 限りなき日月に、仮に正月なるものを設けて人心を新たにし、祥瑞を祝福すべく成された古聖の苦心に酬ふる為には、充分の善行徳功を積んで、心から朗かな御正月を送らねばならぬ。

 強いて苦しい生活を惣世間の御正月に均霑しやうとするのは余りに不甲斐なき状態である。

 願くば、正月を以て、外形的の寝正月又は酒正月としないで、一年の基点となるべく熱注したら、心身共に明朗にして諸の厄難は払はざるに寄り付かぬであらうと思ふ。

 


                              『大日蓮』昭和11年1月号

 

 

 

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