聖訓一首題(第37)

 

堀 日亨 謹講


   事の即身成仏の法華宗を建立の時は、信謗を堅<分ちて、身□意の三業に少しも他宗の法に同ずべからず。 

 (日有上人『化儀抄』六十七条の初の文)

 

 有尊師の御条目の御文にある、身口意三業に亘る信心と、謗法との分別について、愚談を試みる積りであるが、今所引の冒頭の御文に次いで、其下の具文を掲ぐる事にする。

 「身業が謗法に同ぜざる姿は、法華宗の僧は必ず十徳の上に五条の袈裟を掛くべきなり。是則ち誹謗法華の人に、やがて法華宗と見えて結縁せしめんためなり。若し又、十徳計りにて其俗の差異無き時は、身業が謗法に同ずるにて有るべきなり。 (巳上身業)

念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば、口業が謗法に同ずる姿なり。 (巳上口業)

彼の折伏を心中に油断すれば、心業が謗法に同ずるなり。(巳上意業)

 念釈に及ばぬ程に明細なる御訓示であるが 文の長短繁簡から云へば、身業の方が明細で其も僧服の辺に止まってをる。此はまだ此の外の第五十条にも、

 「一里とも他行の時は、十徳を著るべし。裳付け衣(今の素絹衣)の侭にては然るべからず

 ○但し、十徳の上に必ず五条の袈裟を掛くべきなり」

等と殆んど重複と見ゆる程の御条文がある。

 有師、平常の御諫めにも、此の点に重きを置かれてあったので、南条日住が二箇条に跨がりて記録せられたものと見ゆる。其に付いて、其時代に此厳誡の必要があったもので、今日(現代)では全く空文で、何等の権威も無き贅則であると云って良からうか。

 又、意業の折伏のことが、余りにも簡単過ぎるやうに見ゆるは、如何にとも思はれんでもない。口業の折伏は、念仏無間等の御草創時代の侭で良からうか等と云ふやうな事に付いて、愚案を述べたいと思ってをる。

 先づ初めに、時代は抜きにして、国風を顧みずに、専ら純理論の方から身口意の信謗の軽重を考察して見ると、無論、第一に意業、第二に身業、第三に口業とすべきであらうと思ふ。否な、思ふなどでは無い、確然たる原則である。近い話ぢゃが、信行の関係が其出発の順序から云へば、無論、一念の信心発起して、種々の願行となるのである。

 唱題に付いて 「信は始め、行は終り」と、先師の御仰せの動かぬ定説である。中には信念無き行から、空虚なカラ題目の唱へてから不抜の信仰に入る事もあるが、其は順当ではない。或は有り得ると云ふだけの事である。世間に云ふ嘘から出た誠である定規にはならぬ。

 先づ平凡な例から見ても、正心誠意の人は、身口の作用よりも意志即ち精神なり腹なりが能く出来ている。其に反して邪心悪意の人は、反対に身や口やが非常に発達してをる。殊に曲辞詭弁あらゆるの偽瞞に長じてをる。其特能が耀やくことは一時である、永久でない。

 何れの時代でも、社界の為になり、人類を利益する人は、誠意から出発した身口の表現の巧妙であり、次は誠意のみで、身口の表現に巧みならざる人でもある。誠意無き信念無きの聡敏能弁は、寸時を僥倖するに過ぎぬよりも却って破綻の基となる。

 近代・古代の傑人を見れば、直ぐに暁かう。東郷大将は、遠山翁は、如何なる性格の人であったか括って云ふと、推摩の一目百雷の如しぢゃ、鶴の一声ぢゃ。世の末になるほど、真正直に深刻に信念を磨かうとする者は少い。行態弁口で無信をゴマかさうとする者が、何れの方面にも簇々と増して来る。内在せる信念は、人に誇り人に示す手段が無い。割をかけて表現せねば、物質上の利益も生ぜぬ、精神的の快感も得られぬ。ソコで重宝な口が作用き出す事になり、法螺虚言の連発となりて、身を荘り生活の足し前にする世相である。生活する為にヨリ善き生活を貪らんが為の生れ落ちるや否や、直ちに始めらるゝ虚偽の言動である。

 若し、斯る生活に染まざる天真無垢な人あらば、如何なる境界にありても最大の幸福者であるべきぢゃが、実社界では却って馬鹿扱ひにされる。斯う云ふ悪世相の中の特異な信仰であり、自利的でなく利他的である。個人主義に善良であり、堅実であり、孝子であり、慈父であり、良妻であり、又忠臣である等のあらゆる美徳を、社界に世界に押し拡げやうと云ふ広宣流布の大願業を有する宗門であれば、其処に種々の工作が行はるべきは当然である。意業の折伏の大切なる事は、信念の正しく強くなる事に伴なふものであるから、此の御条文に特別に身口に対して高潮せられぬが、他の御条文に満ち満ちてをる無限に有り得る大聖人の御訓言に溢れてをるから、殊更に並べられなかっただけである。

 口業の折伏に、四箇の格言だけを云はれるのは、大聖の洪範を遵奉せられたのみで、此の外に揚言すべき格言が無いと云ふ訳ではない。

 況んや、六百有余年を隔てゝ、種々の変動を為したる吾国の宗教界、教育界、思想界に於ての害物は沢山にあるであらう。本宗の信念の上から、何れの新旧団体を批判し折伏するのも随意であるべきである。

 但し、身業折伏に於ては、応仁の大乱を中心にした日有上人の御時代と現代の比較はどうなるであらうか。各々の観点の径庭もあらうが、先づ愚見では髣髴たるものであらうと恩ふ。

 加之、世相が一般に自己を表現せんとする風習は猛烈なものである。其が団体の行動に於いて著しく目に立つ。信仰団体でも、遊覧団体でも、必ず団旗掲げて行く。期旗印の下に、斯の仲間を散らさず纏むると云ふ目的ばかりでは無いらしい。夫々自己等の存在を誇ると云ふ傾向は憧にある。

 但し、其れにしても、多人数共同の事であって、一人一個に関した事ではない。殊更、現代の風は各其の職分に安じて、其職服を公私に著用して、其を誇ると云ふ風が乏しいやうに見ゆる。各種の業務に又は官制に職服があっても、其職務を執る時間ばかり著用して、放課時間とも云ふべき時は弊履の如く此を捨て去る。著しく威厳ある法官の服の如きは法廷外には見られぬ。常に畏って威容を拝する事を得るのは海陸軍人の制服だけで、意から畏敬の念を生ずるのみである。

 此より思ひ巡らせば、僧侶の服と云ふのは殆んど街頭に見えない。盆の棚経の時は別であるが、又剃刀を当てた円顱も亦見る事を得なくなった。敢て袈裟衣が又ツルツルの頭のみが、済世利民を為すと限った訳でも無からうが、若し日有上人が現代に出現せられたら、何と仰せになるのであらうかと考へて見る。

 併し、此は直接の関係ではないが、先年(昭和十年以前)、再々九州地方に行った時に、春吉教会 (現立正寺) の重立つ御信者方の服装には畏って括目せざるを得なかった。鼠色の鶴の丸の紋のある羽織が揃ひで著用せられてあった。此は真実に結構な恩ひ付きであると感心していたが、動機が或いは本条の身業折伏の僧分の態を信徒に拡充せられたものではないかと思って、問ひ合せをしたが、強ちに主として左様の動機から来たのでない。団体旗などの一般風習に慊らぬ辺からも来てをる。又、或は左様の意味も或は含まれてあるやうである。

 兎も角、見やうに依っては幾分の折伏になる。口に於いての時と場合の折伏行は易いのであるが、動もすれば其れすら怠り勝ちである。
 有尊師が時代を参酌して、口業折伏の平常行の上に身業折伏を主張せられた事を恩ひみると、現代の吾宗門でも、身口意折伏の併行、殊に中古以来、単に他宗と風を殊にするとの上から行はれた些末の化儀の中に、其当時は存外有効であっても、現代では無意義の残物もあらう。

 先師の苦心を無にする理では無いが、時代を考慮して内服外出の僧服と共に、其の按排整理の必要があるでは無からうかと思ふのである。

 

『大日蓮』 昭和10年12月号

 

 

 

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