聖訓一百題(第36)



堀 日亨 謹講


 大正2年以来の『自然鳴』誌に「法話」として、信乗房の名を以って御経文と祖文と興師・目師の御文と14題を掲載しましたが、同誌が休刊になったので、私も休筆してをりましたが、『大日蓮』が発刊せられて数年の後、即ち大正6年の12月号より、更に「聖訓一百題」と改めて、相変らず愚筆を披露して、同15年8月号で第35回となりましたが、障る事多くして、100の3分の1で又休筆の止むなきに及びました。

 折角、一百の志願で書き続けたものを中絶するも本意ない事で、殊更余命幾何もなき老憊の身でありますから、巳前のやうに1題に2、3号を費すやうにせずに、却って1号に2、3題も盛り込むやうにして、早く終講にしたいと思います。

 壮年の意気は疾くに消耗して、深山の枯樹同然、何の風情もなき筆致をも厭はせられず御味読くだされたなら、幾分かの御信行の糧にならうかと存じます。

 

末法に入りて、今、日蓮が唱ふる所の題目は、前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。  

縮遣2053頁 『三大秘法抄』

 日蓮大聖人に依って唱へ始められた御題目、即ち法華経の経題に南無の2字を加へた南無妙法蓮華経は、大聖人の手作りではない。凡そ経文の題号を口唱する事は常例であるが、別して『法華経』の中では、「法華名者福不可量」等の文があるから、法華の受持の行には1巻1品1偈に限るのでなく、総要の題目を受持することは当然の事であるばかりでなく、寧ろ肝要の方法と云はねばならぬ。

 さりながら、仏号を唱ふると、経題を唱ふるとが、凡人の感情の上から人に親しみを持ち法に遠ざかり勝の点で、観音や、薬師や、弥陀の仏菩薩の名号を唱ふる事の一般的な割に、法華の経題を唱ふる事が普及しなかったのである。其の法を避けて人に親しむ傾向の中で、各国の仏教で、観音と弥陀とが他の仏菩薩を圧倒してをる形勢である。

 専念専唱で1仏1菩薩に絶待の信仰を持ち、決して他仏・他菩薩を礼拝せぬと云ふ信念ぶりの弥陀念仏は、唐の善導の余流を汲める日本の浄土各門家であるが、左様な絶待的の信唱でなくての弥陀念仏は支那・日本の各宗に汎濫してをる。天台一家の如き古今其人が多いが、法然上人が指斥する観念の念仏であり、主観の念仏である。指方立相の客観的のものでない。

 天台大師の四種三昧の中の阿弥陀の礼拝称名は、仮令、念々歩々弥陀に在りと後人が形容したからとて、善導・法然のそれではない。自家の一念三千観の主観の方便行に過ぎぬ。雑念乱想を払ふ器械に供する迄であるから、何仏・何菩薩でも差支へない。

 此辺から見て来ると、天台大師が法華の題目を唱へられたかの底意が肯かるゝ。故に各伝に明細に此事が記してあるのでない。臨終は石城の弥勒像の前で、法華経の題号と弥陀経の題名とを唱へられたと書かれた一伝あるのみのようだ。

 大師以後の其系統の人師に、此の唱題あることを知らぬが、日本の伝教大師に至っては、法華の唱題が判然して居るやうであるのみでない。天台大師が唱題せられた証拠の文献を引用せられてあるのは、各般の相伝の中の一つであらう。さすれば、天台大師の各伝には、大要を記して細密の点には触れなかったものとも見ゆる。

 又、観念観法巳外の方便行は蔑ろにして顧みなかった。偶に在りとすれば、流行の弥陀念仏の余波のみである。

 伝教大師の唐の貞元24年3月1日の「修禅寺相伝」の大要は、道邃和尚(妙楽大師の次ぎ)より、1に一心三観、2に一念三千、3に止観大旨、四に法華の深義を口伝せられた。其を自ら注記せられたのが『修禅寺決』である。其始の一心三観に教・行・証の三重ありて、又、各種に細註せられてある。其中に臨終の一心三観と云ふがありて、此下で御題目を唱へて断末魔の苦痛を払って出離の要行とする事が記るされてある。即ち、

「臨終ノ時、南無妙法蓮華経卜唱フレバ、妙法三力ノ功ニ由リテ速ニ菩薩ヲ成ジ、生死ノ身ヲ受ケザラシム。妙法ノ三力トハ、一ニハ法力、二ニハ仏力、三ニハ信力なり」

として、其法力を、釈迦仏の五百塵点劫以来の功徳を集めたるものが妙法であるから、妙法の御名を唱ふる行者は、三世諸仏の行願が身内に成就すると説いて、其例証の文に天台大師の日記を引いてある。其は即ち、

「智者大師、毎日行法ノ日記ニ云ク、読涌シ奉ルー切経ノ惣要毎日一万反ト、玄師ノ伝ニ云ク、一切経ノ惣要トハ謂ク妙法蓮華経ノ五字ナリト」

の文である。其から第三の止観大旨の下で、有相行を云ふ時、

「二ニ、有相行ニ於テ礼拝ノ行ヲ用フ。和尚、深秘ノ行法ノ伝ニ云ク、十界ノ形像ヲ図絵シテ十処ニ之ヲ安ズ。一像ニ向フ毎ニ各一百反礼拝ヲ行ズベシ。口ニハ南無妙法蓮華経卜唱フべシ。心ニハ念ズべシ。若シ地獄ノ像ニ向ハンニハ、彼ノ猛火ノ当体即空即仮即中ナリト。乃至、仏像ニ向フノ時モ、彼ノ体即三諦ナリト観ズべシ。昼一時、夜一時、此行ヲ修スべシ。大師、来世ノ鈍機ノ為ニ密ニ此ノ法要ヲ授ク」

等とある。此は日常の礼拝口唱であって、前の臨終時のみの所作とは違ふ。

 然るに支那にても、日本にても、此化儀が厳重に天台家に行はれたるを見聞せぬのは、或は此秘伝は、秘より秘に隠密せられて世に出なかったものと見ゆる。即ち、闇から闇に消えて無くなったのであらう。

 俗に叡山では、朝題目の夕念仏などと云ってるが、古今、押し通した一般の通儀では無い。又、大聖人の比叡御遊学の時に此の行風があったか、一向、御書にも又御直門の筆にも上ってをらぬ。漸ぐ行法日記の要文が伝へられている。御書の中の『当体義抄』の末文に、

「南岳大師ノ法華儀法ニ云ク、南無妙法蓮華経文。天台大師ノ云ク、南無平等大恵一乗妙法蓮華経文。又云ク、稽首妙法蓮華経云々。又帰命妙法蓮華経云々。伝教大師ノ最後臨終ノ十生願ノ記ニ云ク、南無妙法蓮華経云々」

とあるだけで、共についての細目は外にも示してない。

 現今では逸書もあるから、尚更明からぬが、要するに『修禅寺相伝私註』の如き明瞭の記は無からうと思ふ。殊に伝教大師の諸文の中で、法華を中心にし妙法蓮華経を根基としたものは沢山あるが、昼一度夜一度に一首反礼拝して御題目を唱へよといふ天台の化儀を書いたものは更に無い。

 但し、相伝の内容価値の評論は暫く置いて、畢寛するに、天台・伝教の唱題は絶待ではない、真剣ではない。一念三千・一心三観の方が絶待であって、主であつて、真剣であって、其を達成する方便道に、手段に利用せられたまでの御題目である。仮令、其れまでに穿ち見ずとも、自信の辺を他に奨励せられた事は更々ない事であるから、天台・伝教の法華の御題目口唱は順逆共に少しの影響を世間にも一千の門下にも及ぼしてない。一口に云へば、如何様に真摯に唱へられたとて、単に自行の題目に過ぎぬのである。此辺の要点を取って、

「今、日蓮ガ唱フル所ノ題目ハ前代ニ異り、自行化他ニ亘リテ南無妙法蓮華経」

と本題の如く仰せになった理である。

 無論、前代と云はるゝのは天台・伝教であるが、「自行化他に亘ると云ふ亘りやう」と「異なりと云ふ異り様」について、次ぎに解説を試みよう。(以下次号)


                            『大日蓮』昭和十年十月号



 前代に異なりと仰せらるゝは、竜樹・天親(印度)、南岳・天台(支那)、伝教(日本)等の往古の論師・人師の唱へられた理行の題目に異なりて事行の題目であること、又、其れが理行即自行の為であったに異なりて、化他に亘る、否、化他を主としたる五字七字の御題目であると云ふ事は『三大秘法抄』の御文面に明瞭であるからは、何等の疑点もないやうであるが、少しく考察を加へて見ると、其処には其れ以外に異なり様が有るべきでは無いかと思はるゝのである。

 其れと云ふのは、若し天台・伝教の両大師にせよ、又其末徒にせよ、天台法華宗の侭で、大聖人様の唱へ始められた題目と外形だけは少しも変らぬ御題目を唱へて、此を化他行にまで弘められたならば、宗祖の御出現の必要は無かったであらうか。まだ其上に宗祖に先だちて上行菩薩末法出現と名乗りて、折伏行を起して刀杖の難に遇った者があったならば、大聖の出現は無意義となるであらうか。

 伝教大師の仏の紀年には両様あって、大師自身時代が末法に当るの一説にも相当するから、大師若くば其三、四代の内に、即ち慈覚・智証が翻然として上行菩薩思想に没入して、真言に走らずに本因上行に驀進したならば、如何であったらうかと考へざるを得ないのである。

 世間の各仏教(日蓮宗団以外)では、動もすれば大聖人をして伝教の復古者であるやうに見てをる。全日蓮宗団が漸くに上行思想にまで進展して来て、本仏思想などは富士の手作りのやうに思ってる時代であるから、各教団(権迹門)一の浅薄な観察は止むを得ない趨勢であらう。

 以上の疑団を解決して大聖人の御正義を顕揚するには、三代秘法の研究に立ち入りて、題目第一義と本尊第一義主義との分解を示す事の止むを得ぬに至るであらうと思ふ。現全日蓮各教団の分野は、題目主義が横溢してるやうに思ふ。尤も此は初心は題目に漸く進んで来たものと見て、僧俗の多数は初級の信行であるから、修行の細目、本尊の広略正否を云為する域に達せぬと見るべきであるとも云はヾ云へるが、其れでは到達すべき境域に入った後信の僧俗は何人なりやと云ふとき、殆んど明答は得られまい。

 斯のやうな汎日蓮義、単題目主義の上に引き当てゝ見るときの前代に異る題目と云ふのは、大聖人に依りて唱へられぬでも、伝教大師や慈覚大師に依りて折伏的に、献身的に、色読的に唱へられた題目でも何の異りも無い事になるのでは無からうか。日蓮大聖人御当身の題目でなくて、釈迦仏の題目を仏使として大聖人が唱へらるゝものと定めて居る(一般の日蓮宗では)位であるから、伝教でも慈覚でも仏使に相違あるまいと思ふ。

 此の題目主義の上から見るときの「前代と異なりの異なり様」は至って簡単であって、自行と化他と、理行と事行との反転のみで、少しも題目の本質にはふれてをらぬ単に題目の応用のみの差であるから、大聖人でなくとも何人でも良い事になる。略図にして見れば、先づ、

 

 ざっと斯様になり、日蓮大聖人に代ゆるに何人を以てしても良い、同じく仏使であるからである。

 若し此の様な観念の上には、大聖人は粗末に扱はれて釈迦仏に重点を置かるゝ日蓮宗となるから、三大秘法も題目正意、本尊戒壇方便となる。現に近代までは、汎日蓮宗に戒壇に付て勅建事壇を認めなかったが、田中居士一団の強論に刺激せられて富士戒壇が光って来たので、遅蒔ながら最近に身延戒壇まで主張せられて来た状態であるが、前顕の釈尊圏内の題目の方は其侭であるから、未だ戒壇本尊絶待とは大分の距離があるやうで、茲に大に甘酒進上して幼稚の歩武を誘導せずばなるまいかと思ふ。

 大聖人が根本大師の門人でなく、日蓮宗が叡山の天台宗の付属でなくば、教義の上に特頭の光明を顕彰せねばなるまい。其れが本尊絶待主義である。三大秘法、三箇惣在の本尊唯一主義であり、教祖即久遠の本仏と云ふ信念の上に立脚せにゃならぬ。此時始めて大聖人の題目が前代に異なる事が明瞭になる。其れは此題目は釈尊の所有でない、日蓮の所有である。日蓮は釈尊の末法の遣弟ではない。却って内証久遠本仏である。本因妙の題目を所有する当然の教主である。此の意に依りて略図を作れば、前とは大なる異りやうを見るのである。


異なりと仰せになる『三大秘法抄』の御文の上面だけでは如何にも大聖人の御深意が伺はれぬので、『御義口伝』等の御文や開山巳来継承の宗義の上から聊か宣明を加へたのみである。猶、自行と化他と上求泉と下化との交渉の細密は、此には略する事にした。

                        『大日蓮』昭和10年11月号



田中智学 (文久元(1861)年生れ。昭和十四(1939)年寂。79歳)
 明治3年、日蓮宗で得度するが、明治12年に離宗し還俗した。その後、蓮華会を起こし、立正安国会を創し、大正3年、国柱会を創立した。明治44年8月、三保・最勝閣で夏期講習会を開き、席上、国体観念のもと富士山を本門戒壇の霊地に擬した。この田中智学の活動は日蓮門下に多くの影響を残した

 

 

 

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