聖訓一百題(第32)

 

堀 慈琳 謹講

 

相構ヘテ相構へテ自他ノ生死ハ知ラネドモ、御臨終ノ刻ミ生死ノ中間ニ日蓮必ズ迎イニ参リ侯ベシ。三世ノ諸仏ノ成道ハ、子丑ノヲハリ寅ノ刻ミノ成道也。仏法ノ住処鬼門ノ方ニ三国トモニ建ツナリ。此等ハ相承ノ法門ナルペシ。

(縮遺1843頁)

 

弘安二年四月に上野殿に賜はりし御返事の中の末段の一文でありますが、問答体にして申しませう。

問ふ、此聖文の要点は「生死の中間に迎いに行く」と云ふ事と、「諸仏の成道は丑寅の時」と云ふ事と、「丑寅の鬼門の方に鎮護国家の根本道場が建つ」と云ふ事の三点であって、又、此の生死の中間云ふのと、丑寅の時と云ふのと、鬼門と云ふ事が、密接の関係あるやうに思はれますが如何なものでせう。

答ふ、御尋ねの通りで大体は宣しうござります。

問ふ、然らば、今の一つ一つに就いて委しく御尋ね致しますから、御面倒でも例示教を仰ぎます。先づ「御臨終の刻み生死の中間に日蓮必ず迎いに参るべし」と仰せになってる「生死の中間」と云ひ、並に「迎いに参る」と云ふことは如何なる事実でせうか。御信者の死亡の時は、大聖人様が何処に御座しても、聞き付けて御出ましになるのでせうか。死人を迎へるなら、生と死との間よりも、死んでしまってからでも差支へないやうに思ひますが。

答ふ、肉体の事にばかり取ってはいけません。大聖人様は葬式屋でも、御坊でもありません。此は信仰の意識の事であります。「臨終正念は多年の行功にあり」と古来から云ってあるのが根本義でありますから、息を引取る間際になって周章ても追い付かぬ話ですが、何れ定心のない刹那々々に意識の散乱変動する荒凡夫の事でありますから、死際までも意の落着かぬ人々が多くあります。

 此死際の悪念邪念は、次生に大なる悪業を引くことになりますから、最後の一分時間が疎末になりません。此処の処を善く注意して看病するのが近き親族の義務、信心同士の責任、教導僧侶の本分でありますが、生活の等級に依りては、其程大事として綿密な看護が出来ぬ場合もあります。末期の水ぢやと云って形式的に吻を濡すことは忘れぬけれど、死に行く者に邪念を起させぬ各般の注意は届かぬ勝に思はれます。

 宗祖大聖人が直接に一々に死人の枕辺に座られぬでも、御弟子方が代理として出張せらるは「迎いに参るべし」と云ふ義にもなる。東京などの仏葬に迎僧と云ふものが、今に有るのは、此形式の残れるものである。精神の通ふ通はんば相互の関係如何にあるが、但し多分は形式一辺のものだかも知れぬ。

 大聖人様と其御信者とは多分に平素より、信仰の精神がピッタリと合ってる。何日死んでも迷ふやうな事はない。態と御導きを受けんでもよいかも知れぬが、其様な世話のやけぬ人は少かろう。殊に一般の世俗の通仏教の上で養はれた思想と云ふものは、中々厄介なものである。現代の如き世界上のあらゆる哲学科学上の知識が、我国に集注してるといふ。又、あらゆるの宗教の粋を集めてると云ふ我国であっても、其中の低級な思想、数の上から云へば十分の八、九は殆んど宗祖の鎌倉時代と似通うてをる。生死の移動にも、何か乗り物が入用と心得てるので、紫の雲が降りて来て、二十五菩薩が迎えに来れば極楽浄土に往生転地が出来るのと悦び、火の車が飛んで来て駆者の赤鬼青鬼が迎いに来れば、地獄に真逆に陥るのぢゃと悲しむ。何れにせよ「迎」と云ふ思想は一般であった。

 其であるから、此動かせない時代思想に応同する本仏大悲の御救ひの言説にも「御迎」と云ふ事が用ひらるる。或御書には「大白牛車」を取り出さるる。御経文は「唯一仏乗」の喩えに出されたのが、早速利用せらるると云ふ有様である。

 巳上は、今生の生を終りて未来の死に趣く其中間の事であるが、今一つ逆に取って考ふると、生死ではなく、死生の中間となる事である。此は一度死んでから更に生れ出づる、其中間である。此には初七日より七七日、又、百箇日なんど云ふ特殊の中間停留期間、即ち中有と云ふ意識の仮住居の有様の思想が、一般に理非もなく行はれてをる奇蹟の様な教界の事実である。此にも「迎」と云ふ語を用いて用ゐられん事はないが、死のみが御迎であって、此目出度新生の時には「御迎」と云ふ語を使用してをらぬ。現世礼讃生々活溌の思想から云ふと、何某は本仏の御迎いで誕生した。成長すれば仏界の為にも、国家の為にも尽くせる大人物となるであらうと祝福せねばならぬのに、一向其様な事を云はぬと云ふ事は、憤慨の至りである。厭世仏教未来憧憬の宗教には陰気な抹香くさい否な事ばかりあるが、千年二千年の間に作られたる風習で、俄には廃止せられぬのは、残念千万である。此様な事を云ふたら、大聖人様が生意気千万、し良い奴と、蔭で御賞美なさるかも知れぬ。

 又、此外に、今一つ生死の中間がある。其は煩悩と菩提と迷と悟りの生死である。菩提が死して煩悩が生ずることと、悟りが死して迷ひが生ずることは、荒凡夫の常態である。菩提が生じて煩悩が死することと、悟りが生じて迷ひが死することは聖者の行ける道である。何れも其中間に、善悪仏魔の大作用を要する。此処にも仏力即ち「迎}と云ふ意は使用し得るるのである。

 已上は、肉体の上にせよ、意識の上にもせよ、共に人間の有する色心二法の上に就いての事であります。

 問ふ、人間の色心二法に生死のあること、信行者の心得べき事が能く分別りました。次には「三世ノ諸仏ノ成道ハ子丑ノ終リ寅ノ刻ミノ成道ナリ」とあります。此事が何だか理解ったやうで、判然しませぬ。御面倒序に少しばかり願びます。

 答ふ、此は時間に約して、陰陽死生の二法を示して、仏陀も此の時間を善用せられた事を示されたのでありますが、仏教、道教各種の学説が日本の通俗仏説となったものであります。子、丑、寅等の十二支は支那の暦法で、時間にも方位にも使用します。又、此等が又乾坤等の八卦とも連絡してをります。

 十二支を、時間に用ひますと、初めの子は夜半で、即ち現今の午前零時よりて、丑は二時より、寅は四時より、卯は六時より、辰は八時より、巳は十時より、午は十二時即ち正午に当ります。其から午後になり、未申等と二時間づつに割りて午後十二時満ちて、又、子の時で午前に移ります。

 此中に空気の死生陰陽を云ふと、子(午前零時より二時まで)丑(午前二時より四時まで)の時は陰気が次第に死し去って、寅(午前四時より六時まで)の陽気の発生に移ります。太陽が東天に出てんとして曙の光がポーツと指して来ます。世界が生き返ってくるのです。此陽気発生の時を仏成道時としてあり、経文にも「明星の出づる時廓然大悟」などと云ってある。

 明星と云ふのは大白金星の事で、暁に東天に出づる事があり、他の星より大きく見えますので別して明星と云はれ、宵に西天に出づるが宵の明星であり、今云ぶのは暁の明星であります。印度の暦法と支那の暦法が何云ふ関係を持ってるかは存じませぬが、如何の野蛮の原人種でも、明を善として喜び、暗を悪として悲しむ事は一様であります。其明白の一点が喜びの始め、陽気の発りの至って目出度時間であり、今の俗間でも尚寅の一天なんどと、殊に本年は寅の歳だと云ふので、寅の歳、寅の月、寅の元旦、寅の一大なんどと、悦びの声を立てた人が沢山ある位です。

 其処に陰気な妖怪変化悪魔外道は子丑の二時四時を限りに退散し、四時の始めから善神聖人仏陀の陽気となる理であります。其丑の三時五十九分と寅の四時との中間が大事大切なる時間とも云へます。本山に丑寅の勤行と云ふのが古来から有りますが、此の成仏の大義を取られたのであるのですが、其名ばかり知って謂はれを知らぬ御方もあらうと思ひます。

 問ふ、御庇様で、大分理解って参りました。丑寅の勤行に就いて腑に落ちぬ事がありますが、先づ御尋ねの順序を追ふて、「仏法ノ住処鬼門ノ方二三国トモ建ツナリ」とある鬼門の事、及び三国の事をお聞き申したい。

 答ふ、鬼門と云ふは支那の古説であります。『山海経』などに絵があったやうに思ひます。支那の東北の海中のある山に人に害をなす鬼神が集ってる為に、神をして守らせてある位だから、人間も此方角を麓末にして鬼神に怒られてはならぬとの思想が、仏教東漸巳前からの事であります。

 此鬼門を東北としてあるのに、十ニ支を以って此に充つるとき、子は正北で、午は正南で、卯が正東で、酉が正西である。其間位の東北隅は、丑と寅との中間に当たりますから、鬼門は正しく丑寅の間です。比を易の八卦に当てて、乾を正北とし、坤を正南にするやうに、東北の間位には、艮の宇を使って「ウシトラ」と読ませます。

 仏経には鬼門と云ふ事はありませぬが、支那に来ては、支那の惣てを仏教化する必要もあるので、時の帝都の東北に大仏刹を建てた事があると云ふ。其を日本での天台家の書(『七帖見聞』、『山門秘伝』等)に、天竺の霊鷲山は王舎城の丑寅であり、支那の天台山は咸陽宮の丑寅であり、日本の比叡山は平安城の丑寅であり、鎮護国家の道場であると云ふてある位で、尤も七百年前の古書なんどに方角に就いて確実な経緯は保証は出来ぬ。大見当であらうが、此が通説であるから、大聖人も其侭此に引用せられたのである。

 尤も方位説などは支那の本家の仏教家よりも日本の支店の仏教家の方が重んじた傾があるので、今でも其信仰が残ってるが、現代の科学では此等を迷信としてるが、濫用した迷信とならぬ処に、時間と共に此の空間の上にも、正理の根拠があるべきである。

 従来から云ひ旧した陰陽家五行家杯の説、及び此が俗化した迷想を駆逐して、更に正確な新学説が成立してをらぬ丈で、排斥せらるるのかも知れぬ。

 問ふ、方位の御説は何だか有難く拝聴が出来かねますが、『波木井御書』(縮遺2114頁)に、

「霊山ヘマシマシテ、艮ノ廊ニテ尋ネサセ給ヘ。必ズ待チ奉ルベク侯」とある此「艮の廊」と云ふ方位は何のことでせうか。前の御文に、

「此法華経ハ三途ノ河ニテハ船トナリ、死出ノ山ニテ八大白牛車トナリ」とあるから、御譬のやうにも思はれますが、艮が猶気にかかります。

 答ふ、無論、譬であります。印度の霊鷹山に丑寅の渡り殿など、あらう筈はありません。此丑寅の渡り殿と云ふのは、平安朝時代及其已後の家作には、寝殿即ち母屋が中央にあって、主人が居る。其れより東にも西にも廊下伝いで妻子の居る対の屋がある。其東の対の屋から主人の寝殿に行く道の廊下は母屋の東北にあるので、比を譬に取られたもの。或人は御本尊の上行菩薩の座位が中央南無妙法蓮華経日蓮の東北に当たる、菩薩位から仏位に導くべく待って居らるる。此れを艮の廊待つ、と云はれたのであらうと云はれたのは、善き思ひ付きである。

 宗祖大聖人に限らず、下化の上聖は、皆、時代思潮を善用して活仏教を布かれた。其時の事を深く考へされば随喜の涙は出でぬ事もある。人に約し、時に約し、処に約し丑寅を使用せられた御用意は周密なものであると、拝せねぱなりませぬ。

 問ふ、色々承って、上聖の御苦労の有難さが理解るやうに思ひますが、「此等ハ相承ノ法門ナリ」と仰せになっておる処の御文が、或は前に御尋ねしやうと思ってる御本山の丑寅の勤行の御事ではありますまいか。丑寅の勤行と云ふことは、如何にも神秘の籠った有難き御勤めと、聞いてをります。

然るに、アナタの仰せには、丑寅の時の肝要なる中間は午前四時とのやうに伺ひました。丑が二時より四時まで、寅が四時から六時までなら、長き勤行なら二時から始めて六時に終るやうになる筈、短き勤行なら三時過ぎから始めて五時に終るべきではありますまいか。尤も、春分・秋分・冬至・夏至の暁の時間の差があるので、四季画一にはなりますまいが、大概は右様であるべきであるのに、承れば、事実は午前零時過ぎから始まって二時間前に終ると云ふではありませか。此に疑ひがあります。若しや果して此が御相承の御法門なら、「習ひ失ふ」とか「伝持ノ者無キコト、木石ノ衣鉢ヲ帯持スルガ如シ」とか仰せられた轍を覆むでるのではありませんか。甚だ失礼ですが、要しく伺って安心したいと思びます。

 答ふ、随分厳しい御質問ですね。「此等ハ相承」云々と仰せになった相承の二文字が、台家等の相承だか、又は当家の相承だか、定まりません。又「此等」の二文字の中に、丑寅の勤行が入ってをるか、をらぬか、は存じません。丑寅の時の事は、必ず入るべきであらうと思びます。

 現時は勤行の時間が繰上げになって、殆んど「子丑の勤行」と云ってよい位でありますが、私の知ってる三十余年前には、全山に確実な時計のないほどの質朴な時代で、鶏鳴を相図に宝蔵番と一夜番とが交代して、御法主に御目覚を願ひて勤行が始まりました。約午前二時頃から五時過ぎ迄もかかったらうと思ひます。

 爾後、次第に、本番・助番、又は、宝蔵・一夜両番役の深夜長時の勤労を労われたる時の御法主の御情から次第に早目になって、現今の如く、時ならぬ様に推移したのではなからうか。

 其で、大法要の時などは、如何かすると午前三時から始まるのは偶には正時に帰るのかも知れぬ事があります。但し、時間では四季の不同がありますから、此は明星の出る時を中心にし、又は陰陽交替の気を取り、黎明を中心にすると云ふことが、肝要ではなからうかと思ふ。

 其に又、天拝と云ふ別座があります。此が又、夜半では甚だ不都合です。御本山も、足利時代には、天経と云ふ別所があって、其所で天の御経があり、或は御影拝の後に天経があった事もあります位ですから、天拝の時間すら厳格に留意せられたのであらうと思びます。

 何事でも昇沈差降はあり勝の事で、習ひ失ふたの、無仏持などと云ふ疑ひはサッパリと御取りなさるやうになさいませ。先師方への失礼にもなり、また御信行の妨にもならうと意得ます。

 

『大日蓮』大正15年2月号

 

 

 

 

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