聖訓一百題(第30)


                             堀 慈琳 謹講


九十六種ノ外道ハ仏恵比丘ノ威儀ヨリヲコリ、日本国ノ謗法ハ、爾前ノ円卜法華ノ円トーツトイウ義ノ盛ナリシヨリ、コレハジマレリ。  

 『十章抄』(縮遺676頁)

 此御文は『十章抄』の中の一文である。題を『十章抄』と立てあれども、天台大師の『止観』の十章に就いてのみの御書ではない。『止観』に十章ありと書かれた御文を取って立題したのであらう。

 全抄の内容は、御弟子方に、他宗と問答の時の御注意の為に書かれたもので、比叡山の学僧等に漫りに共同妥協の風が流行して、乃祖の教義の中から其を証拠立つるやうの文句を取上ぐる。古天台の方から云へぱ、約部判よりも約教判を取る。別の五時は取らんで通の五時を取ると云ふ体たらく。日本天台の方から云へぱ、根本大師が台密禅戒の四宗を山上に立てられた精神を謬りて、其意楽に依りて密禅戒に堕すると云ふ不始末でる。況んや天台の念仏即ち止観の念仏を嫌って、浄土三部経の即ち善導の念仏に随喜する。

 此悪風潮を慨歎せられて、先づ此の弊害を払ふべき方法として四箇格言を唱へられた。其厳粛なる宣言が、即ち悪妥協の打破にあり、悪雷同の破壊にある。

 叡山の天台僧が、法相宗と行理の仏性を争ふ事に熱血を濺ぐ事は結構である。華厳宗と別同の一乗を争ふ事も殊勝の至りであるが、早くも密教の上では東寺・高野に冑を脱いで降参して、理同事勝の妥協で閉口してるのは沙汰の限りである。乃祖の北宗禅を不用物視してか、我山より出でゝ南宗禅を伝へたる栄西・道元一派に頭が上らぬは是亦沙汰の限りである。まだ其れ処ぢゃない。四種三昧の副行たる弥陀念仏から出発して正行に引き直さうとした大学匠の恵心僧都を出したのも何と云ふ不祥事であらう。空也・良念の特形の念仏はまだしも、法然の善導念仏主義、即ち止観の四種三昧の副行たる念仏を棄てゝ大胆にも天台無縁の新称名浄十念仏の発生に至っては何事ぞ。但し其初期の一百年位は必死の撲滅法を官憲の努力まで煩して百施十行したにも拘はらず、漸次に内部から堕落し始めて、遂には寧ろ随喜者のみ増して来た。宗祖大聖が御一代の内の叫び声の多かったのは念仏無間であらう。其程、浄土念仏の称名に、各宗より殊に天台一宗より雷同者妥協者が多かったのである。

 其依って然らしむる根本原理は、本抄の初に示されたる「此妙彼妙、妙義無殊」「初後仏恵、円頓義斉」「前三為麁、後一為妙」等の天台の約教釈から来てる。約教判は横に設けた理釈であるから、成るべく理の平等を主とする。此処に、如何なる低級の設教にも高級の妙理を包含する事を発顕するが其役目である。

 「此妙と彼妙と妙の義殊なる事無し」で、法華の妙も浄土三部経内の妙も同義である。法華の弥陀も観経の弥陀も共に無量寿であると云はるる。其云ふ根本原理から法華経と観経等とは同等であると思ひ煩らふのである。

 此病弊を、宗祖は随所に決裁せられてある。此抄も即ち其一であるから、此一抄だけを熟読せられただけでも、粗此事が御理解になる。

 但し、天台・伝教の底意は此等の理体同共の横の法門が本心でない。此上に約部釈とて竪に事釈を設けて、事相の等級差別をつけてある。即ち法華経は部に約すれぱ、爾前諸経の兼但対帯に非らざる純一無雑の円妙、爾前の八教に超越した超八の円教、爾前の妙は相待妙、法華の妙は絶待妙と云ふ。此が法華の尊極無上たる所である。

 此位な事はチャンと判然りきってる癖に、多勢に圧せられて漫に雷同する、妥協するのは信行乾燥びた職業僧の悲しさかも知れぬ。此等の理義を惣括して、宗祖は本題の如く、

 「九十六種ノ外道ハ仏恵比丘ノ威儀ヨリヲコリ、日本国ノ謗法ハ爾前ノ円卜法華ノ円トーツト云フ義ノ盛ナリシヨリ、コレハジマレリ

と喝破せられたのである。此御文を百千遍捧読せらるれぱ、吾等が信行について百般の疑雲は自ら消散し光風霧月裡に寂光界に遊戯する事が出来るが、初信者の為に、老婆心を以て無用のやうぢやが、仏恵比丘の事と円体無殊の謗法の三義釈を試みて見せませう。

 九十六種の外道と云ふのは、仏教外の印度教の中に、種々な神に仕へ種々な修行を為す婆羅門の修行者が九十六派もあるやうになった時代がある。其の起源は、一人の仏恵と云ふ修行者の誤りから起ったのであると云って、今日本の真言・禅・律・念仏等の謗法は皆円体同の誤見より起ったのと同様であると云ふ先例に用ひられたのであるが、此例の方が余程馬鹿気た誤謬であるから、一層謗法者に気の毒にも思はれ、又、薬が効き過ぎるのである。

 其仏恵と云ふ坊さんが、山中の閑静な坊舎で修行をして居たので、篤志の信者がありて幾千万と云ふ頗る高価な袈裟を寄付してくれた。其を善からぬ猟師が見付けて慾心を起し、あの袈裟を売ったら莫大な黄金にならうと考へて、其坊さんごと引きさらって山奥に行った。其迄に闘争して身体に疵を負はされて、トウトウ袈裟は奪はれ、裸形にされて首に葛藤をつけて木の枝に繋がれた。

 此を通りかゝりの修行者が見て、ハテナ此坊さんは先刻までは美麗な袈裟を著て室内に安坐して居たが、今、自ら首を縊り丸裸になってる所を見ると、此は袈裟をかくる事も安坐する事も解脱の道でないと考へ直したものであらうと早合点して、先づ自分も丸裸で樹の枝にブラ下りて修行したら早く道を得られたやうと、早速、真似を始めた。此が裸形自懸外道の起源である。

 其から暫らくすると、此ブラ下りの坊さんが自然に正気がついて、散々苦心して拘くられた葛を解いて地に下りたが、何分身体が傷だらけで痛いから、其山中の赤土などを塗り付けて化膿を防いだ。樹の皮などを剥いで身躯を隠した。草を集めて結びつけて蚊や虻を払うて居た。此有様を見つけた修行者が、又、早合点をして、此が真の解脱の方法ぢやと思うて直に真似た。此が自然衣外道の起源である。

 それから日没になって、此坊さんが、谷川に下りて傷を洗って赤土を落とし、村落に下りて漸く牧牛人から古着を貰って頭にも身にも着た。此有様を真似たのが、一日に三度、身を洗ひ髪を被むる苦行外道である。

 其から此坊さんが洗った瘡に、蝿や蜂が付いて苦しむるから白土を塗って防いだ。此を真似て塗身外道が出来た。其から此坊さんが火を燃して身体を灸った。此を真似て灸身外道が出来た。

 其から此仏恵比丘が火に炙った傷が段々痛んで、如何しても辛抱がしきれんので、苦しまぎれに巌上から身を投げて自害した。其有様を見て、解説の道は巌上から身投げして死ぬより外にないと早合点して真似だしたのが、投巌外道の起源である。

 此等の種類が九十五六にもなって来たのも、仏恵比丘の狂態を知らずに真似た謬りであるとの事が、『止観の輔行伝』に出てをります。

 次に、御本文は三様に拝する事が出来る。又、斯く至深して拝する事が必要であらうと思ふ。其第一には、文面のまゝに見る権実対判である。宗祖所対の念仏・真言等を謗法者とすること。第二には、其文義を捜りて御門下の謬れる法門に擬って見る、即ち本迹対判である。第三に、文底の意を捜りて御門下の謬れる本尊等に擬って見る、即ち種脱対判である。特に此重に心血を濺ぎたい。此重大の謗法を誠告したいものである。

 第一の他宗の謗法たる此御文の文上に顕はれたる円体同の謬見より来るものは御書の何れにもあるから茲には省略する。

 第二の謗法たる本文の義理を味うて擬律するものに、両向ある。円体同の権実不二今昔一致の傾向其侭を踏襲するのが、御門下の過半数が数百年謬伝し来りし本迹一致の邪見である。次に、御在世より多少の傾きありし天目・日弁等の本門偏重の邪見であって、全く此は左傾とも云へる。此を左傾と云へぱ、一致は右傾であらう。八品義・一品二半義等は、此等と比較すれぱ中庸を得たやうでも、其実は中心を逸してをるので、此等の過不及とも本迹対判の正意を失してゐるので、此等の法義も先づ謗法謬見とせにやならぬ。

 第三の本文の底意を以て推窮するとき、二尊四士・一尊四士、又は単立像、又は各界の形像を偏重して一幅の大漫荼羅を蔑ろにする如きもの、又は大漫荼羅と各界の形像とを等分に尊敬する如きものは円体同、本迹同の傾きに落ちてる嫌がある。況んや南無妙法蓮華経日蓮の中尊から拝し奉る時、殊更此感を深くするのである。

 六百余年後、漫然と凡情の奔逸する侭に作られたる各形の偶像に於いて、無相伝の侭写されたる各型の漫荼羅に於いて、何とも統一整理のつけやうもなく、つけやうともせずに、広本尊とか略本尊とか都合のよき名目で糊塗しやうとする人々の意底には、深く此御文の所破が予言せられてあるのではなからうか。

 況んや時の都合で出したり引き込めたりする体の唯世間迎合の御利口なやり口に、又、深く此破文を見るやうに思ふは如何にや。


                             『大日蓮』大正14年8月号


 円体同が謗法の根源であると云ふ御聖訓を、今少し敷衍して見たい。

 円体同の義は、悪平等に陥る傾向がある。少異を捨てゝ大同を取ると云ふ所にも悪平等の傾向が見ゆるが、世界の大勢は上滑りながらも昔から此傾向を取ってをる。精神生活よりも物質生活に重きを置く趨勢の上から来るのであらう。政治的に経済的に大合同を取らうとしてをる、其に妥協があり苟合がある。国家観念の乏しき政治家は、必ず此弊竇に陥る。信仰の体験なき行政者は宗教団体を経済的にのみ見てをる。其弊や経済を以て信仰を蹂躙しかねないのである。寺院の廃合を謀るのに、必ずしも経済を以て信仰を蹂躙すとは云へぬが、此傾向になるのは事実である。

 現今の仏教団体は50・60ありて、分裂が少し過ぎてる。中には大した分裂すべき意義が存在しないのもあらう。けれども此を十宗位に纏むる事は難事であらう。地方に散在する仏教寺院の貧弱なるものを統一整理する事は経済的には好都合であるが、信仰の左右が経済的にのみ出来るものでもなく、官憲の圧迫で治まるものでもない。現に郷村社の廃合にすら其関係人民の思想に悪影響ありとの声がある。

 けれども行政官の頭脳が経済に傾けるぱかりでなく、仏教各宗中の行政僧が、又此と類同の頭脳の持主であるかも知れぬ。濫りに併合を夢み統一を希ふの徒が、信仰を顧みず、少数脆弱の信念を抑圧して自宗の膨張のみ謀らん為に、寺院所属宗派制度の解放、即ち転宗転派離末本寺換の自由を希望するに至りては無慚の至りである。但し信念の迸しる所止むに止まれぬ転宗転派は純善清浄の行動であるが、此を口実にする者の発生を恐るべきである。

 吾人は、仏聯の効蹟を見聞する事が少ない。各宗協会の昔より今日に至るまで、各宗撰りぬきの俊党を聚めて多額の費目を使ってゐるに拘はらず、然れども又此を解散すべしと云ふ声の大なる事をも聞かぬは不可思議の事である。日蓮宗各教団の統合事件一たび成らんとして壊れかけた。二たび成らんとして都合よく墓どらぬ。けれども此を破壊すべしと云ふ声の大なるを聞かぬは、又、摩訂不思議である。爰に何となく大同妥協の魔の手が、各教団の行政僧を指揮するのでなからうか。或は信念乏しき分裂小教団が、寧ろ経済上より大教団に抱擁せられて楽々と浮世を渡る事を夢みをり乍らも、伝統の執情に拘られて左やせん右やせんと、煮えきらぬ悩みに、進みもせず退きも出来ぬ状態が、今日の統合の有様ではなからうか。真面目なる信仰問題・教義問題・本尊問題等を抹額上段に振りかぶり得る教団が幾何あらうか。

 此を主張し得る御僧が幾人あらうか。虚勢を抜きにして身命を堵してかゝり得る人が、実に世界の大勢は恐ろしいものである。合同へ合同へ小異を捨てゝ大同へと磁針の北を指すやうな趨勢は恐ろしいものである。円体同の悪平等・理平等の叫びは恐ろしいものである。

 日蓮各教団の中の人格者、活動家、模範的管長との聞え高き本多顕本管長の如き、三十余年前には謗法厳誠の要項を何故に綱要より削除したかと云ふので、各宗協会を相手取りて法庭に争ふた程の強硬さであった、見上げ申した法華魂であったが、爾来社会に接触することの多くなるにつけて、云ふ所の教義が何となく膨張て来た。緊粛せる日蓮味が乏しくなって、一般仏教に接近しかけ来たとの事である。さうなくては公演の便宜を欠くからであらう。法華経と云ふ城郭に籠もり祖書と云ふ本丸にぱかりたてこもりては、発展の途が開けぬと云ふ嫌ひもあったらうが、此が遂には知らず知らず印度出現の釈迦本仏論にまで逆転して、自己等が編製したる顕本法華宗の宗綱にまで背きても釈迦本尊論を主張するに至ったとの事を聞くは、全く事実であらうかと、己が耳目を疑はざるを得ぬ程の不思議である。

 清水梁山と云ふ偉大な宗学者も、此等の傾向に順応したとも思へぬが、天皇本尊論を為せし事に鑑みれぱ、其中に何となしに国家に迎合せし義味があるやうにも見ゆる。

 其に此等の人は、熱心な日蓮教団統合論者なりし事を聞く。本多氏の如きは、或は日蓮門下の統合より進んで、仏教各宗を釈迦仏の下に混淆せんの底意あるではなからうかと危まるゝ。円体同、円仏同、一大円仏と云ふ空漠な理想の下に、無礙の風光を出現する積もりかも知れぬが、事実は空想通りには運ぶものでないこと確実であるけれども、空想の実現も亦無きにしもあらずである。

 余り古き事でもないが、仏教研究家のゴルトン夫人が発起して、景教碑を模造して高野山上に建てた。景教碑は支那の唐の代に基督教が支那に伝播した時の其碑文であるが、基督教が衰滅した時、此碑も埋もれた。其を発掘して、其を又特志の人が模造して珍重した。ゴルトン夫人の如き、仏陀教も基督教も同味のものである。殊に、真言宗の義は、最も此を同味にする可能性があるとの考えであらう。又、真言宗の人も、元祖が印度教から仏教に転化して、印度の儀式までも輸入した龍猛菩薩を頂くだけ其辺は中々開けたものだ。無限の抱容性も混沌性も具へてをる。基督主義の関西大学と高野大学と再々交換教授をやった。其結果の善悪は聞かぬが、此等融合混揉の可能性を持つ宗門であると思ふ。

 そうかとすると、念仏専修弥陀称名一点張の浄土宗の半身たる東京の増上寺と、直指人心・不立文字の無礙虚通の曹洞禅宗の半身たる鶴見の総持寺とが提携して布教に当らうと云ふ事である。尤も始めは雙方の貫主の性格が其狭き限られた宗旨離れした辺から起ったのであらうが、事務員にも門中にも異論のない事は珍である。禅宗の方は此等の事は常茶飯事であらうが、信仰主義の浄土宗では奇想天外の事である。尤も内面の信仰問題には互いに触れずにとの事であるけれども、或は此成績が好けれぱ、遂には称名念仏に禅味が入り、坐禅にも念仏を加味する事になりはしないか。現に禅宗に其念仏主義者があり、浄土宗に見仏主義者がある位なれぱ、両宗の混沌は今一歩の事であらうと思ふ。

 天台宗の比叡山の如法堂の法要から、天台宗の本山では臨済禅宗の一角と了解が出来て、頗る乗気で、山上の大講堂でも解放して禅僧の結制に提供しやうとの意気組であるとの事を聞く。此は確に其可能性があるべきである。根本大師は北宗禅を伝持せられた。臨済禅の元祖栄西は、山門から出て渡唐して南宗禅を伝へ来たので、無縁でない。況んや天台の止観は円頓禅である。達磨の其も頓禅であるべきである。然るに、一は法華の教を借り、一は円覚・楞伽の教を借るの差異の上に、真言密印を加ふるの大差ありとも、今時の人々は果して乃祖の教義に執着せらるゝ程にはあるましと思ふ。

 此よりも真言各派の合同も如何。然し乍ら大同は集まり易いが、小異は亦散り易い傾向もなきにあらず。

 けれども滔々たる目下の大勢は奈辺まで混沌に帰すべきや、大に考ふべき重大事ではなからか。印度仏教の滅亡は、仏教と婆羅門教の混揉に依ると聞いてをる。仏教が印度教に依りて密教化したる事が嘴矢であらう。清浄なる小乗仏教が、錫蘭に残り緬甸に残り暹羅に残る等は地理の関係であらう。釈迦の像が見る見る内に「ビシュヌ」の像に変造せられたのは、何たる悲惨事であらう。けれども曽つて「一切世間の外道の経書は皆是仏説なり」と叫びしものが、逆転して「一切の仏菩薩の善論は皆梵より出づ」とも「一切の仏菩薩はビシュヌ、シバの応現なり」と云はれたまでぢや。

 歴史は繰り返すと云ふ。此印度の変相が日本に再現したら何とせう。印度人の如く一切無礙万法不可得と無名相とすましてゐれぱ、何の心配もない。此境地に立脚して見るとき、仏教が印度教に変転しやうが、基督教と仏教とも合糅しやうが、天台宗と禅宗とが合同しやうが、日蓮各教団が混一して不得要領宗とならうが、更に一進展して解体的に何教に併呑せられやうが、要は其時代々々の民衆心理に迎合して、其民衆を幾分精神的安楽境に善導すれぱ、其で吾能事了れりと、涼しい顔をしてをらるゝ事になる。平等、理、無碍、無所得、妥協、混沌の御利益は大したものである。果ては家を捨て国を解いて、広い世界に気散じのジプシイの生活を送る。西は夕やけ、東は夜あけの極光の下でも自由である。

 コンナ思想が普偏したらどんなものであらうと、思ふただけでも肌に粟を生ずる。さり乍ら、古往今来、此の思想の起るべ教理が何教にも絶へぬ所に、形を変へて日々夜々に外境より侵入してくるから、たまったものぢやない。

 爰に、吾人は本題とする

  「日本国ノ謗法ハ爾前ノ円卜法華ノ円卜一ツト云フ義ノ盛ナリシヨリ、コレハジマレリ」との宗祖の聖訓を敷衍して、現今の仏教界、殊に日蓮門下より各宗教の上に、各思想界の上に、果ては我が国家の上にまで推しひろげて考へて見んとしたのである。



                              『大日蓮』大正14年9月号

 

 

 

 

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