聖訓一百題(第27)


                       堀 慈琳 謹講

                                                                                                                                                                  天晴地明 識法華者 可得世法欺          縮遺949頁 『観心本尊抄』


 問ふ、此の『本尊抄』の末文の「天晴地明」と云ふのと、「法華世法」と云ふのは、何となく譬と法との形に見えます。其は「天晴」と云ふことは「法華を識る」と云ふ譬で、「地明」と云ふことは「世法を得る」と云ふ譬と見て差支へないでせうかか。

、御尋の通りであります。法華の真理を識るが故に、恰かも一点の曇りなき晴天のやうな明智になるのである。其明晃々たる知識を以てすれば、如何なる境地も其侭誤りなく観とおすことが出来る姿を云はるゝのであります。
 『撰時抄』の御文に、

仏眼ヲ借ッテ時機ヲ考へヨ、仏日ヲ以テ国土ヲ照ラセ

と仰せになってをる。其下の句の「仏日を以て国土を照らせ」と云はるゝのが、文句は少し異ってゐても、全く同意味になります。

 其は現代の吾人の智恵は、中々に磨き出す事が容易でない。自分の力では如何に苦しんでも、完全至上にはなり得ない。老眼の眼鏡を借らねば明かに物体を見得ない如く、又は快き肉眼でも、遠方や微細の物は望遠鏡や顕微鏡を借らねば明瞭と見得られぬやうに、仏智仏眼を借らねば世相の真実は見得られぬ。

 尤も世相の表面は常識でも明に見ることが出来る。農村の地主と小作との争議の原因でも結果でも、工場の資本家と従業員の争議の原因結果も、各自治団体の紛擾も、立法府の党派と主義の争ひも、ずっと大きくなって国際間の経緯も、一通りは常識で以て判断推理する事が出来るが、又、此が天晴地明と云ふやうに判然と識了する事が出来ることもあるけれども、何か底に底があるやうで、普通の知識では世相の根基になってる所の変遷推移がのみこめぬ所があるやうに思はれます。

 斯う云ふ所には、是非とも常識巳上の深くて大なる見識を以て来にゃ始末がわるい事があるやうです。先見の明だの深刻の智だなと云はるゝ背後には、必ず何者かゞ潜んで居ると云っても差支へないと思ふ。此が即ち「仏眼を借る」とか「仏日を用ゆる」とか「法華を識る」とか云ふのと何がしかの関係を持ってゐるのであらうと思ひます。

 、大体の事は分暁りましたが、御文の「法華ヲ識ル」と云ふ事と「世法ヲ得ル」と云ふ事は、委しく切実に言へば如何云ふことになりますか聞かせて下さい。

 答ふ、広く云ふと、「法華ヲ識ル」と云ふことは、宗教の五箇、即ち教を知り、機を知り、時を知り、国を知り、教法流布の前後を知ると云ふ事になりますが、手取り早く云ふときは、末法即ち現代の宗教は日蓮大聖人を至上の人格者として其唱へ出し給ふ所の南無妙法蓮華経の五字七字を、吾等を救済し給ふ御声と信じ奉る事で足りるのであります。

 次に、「世法ヲ得ル」と云ふことは、国家の治乱興廃、人智の進退、人情の厚薄、生活の浄穢等を要領よく得る事でありますが、手取り早く最も要領を得ることは、天変地夭、飢饉疫病等は国家救済の大偉人の出現すべき瑞相であると信ずるのであります。

 、「法華ヲ識ル」と云ふことよりも「世法ヲ得ル」と云ふことが、大聖人出現の瑞相として日本国の天変地夭等を見ると云ふには、世法と云ふ文字の御扱ひが大に無理ではなからうかと思はれますが、畢寛愚想でありませうか。

 、なかなか愚想ではありませぬ。直に「世法」とのみ云ふことに囚はれて考へますれば、誰れしも爾か思はれますが、此処の世法と云ふのは、少し考を高処大処に置いて掛からねばなりませぬ。大体、宗祖大聖人の御教への要諦は、広汎な世法世相を超越したる処にありますので、殊に此御文の出処が『観心本尊抄』で、末法今時の国民国家救護の大本尊出現の理由と事実とを示さるゝのでありますから、次上の御文に伝教大師の『秀句』の御釈を御引きなされて、

此釈ニ闘諍ノ時卜云々。今ノ自界叛逆西海侵逼ノ二難ヲ指スナリ。此時地涌千界出現シテ、本門ノ釈尊ヲ脇士トシテ一閻浮提第一ノ本尊ヲ此国ニ立ツべシ

此ヲ以テ、之ヲ惟フニ、正像ニナキ大地震大彗星等出来ス。此等ハ金翅鳥修羅竜神等ノ動変ニ非ズ。偏ニ四大菩薩ヲ出現セシムベキ先兆カ

と仰せになって、其下に、「天晴地明、法華世法」 の法譬の要句が列ねてあるのですから、無論、此文の 「世法」 と云ふのは、自界叛逆・他国侵逼・地震・彗星等の世法世相を要約せられたのであること疑ひもなく、古来、自門・他門共通の解釈であります。

 、御庇さまで分りましたが、「法華ヲ識ル」等について、要点ばかりでなく、広・略・要とも、順序よく列べて、お示しは出来ますまいか。

 、承知しました。法華の開顕は、広く各般に亘るべきものであります。又、此開顕をしますれば、広く世界の益を得ることになります。強ちに深秘第五重の城郭にのみ閉じ籠りて、用心堅固の鎖国閉門のみが能ではありますまいから、少し拡げ方だけをしますから、此によりて何処にも応用せられたい。

其前に一口申し上げました教、機、時、国等の宗教の五箇という法門を応用すべきであります。内外、大小等の次第開会の事は此には簡略して、直に治世、語言、資生産業の法華迹門の開会から始めますと、俗諦の惣ての生活の作法が、法華迹門の真実真諦の法則と相応するやうになるのが、迹門の天晴識法華で、此妙智妙用に陶冶せらるゝ俗間の生活の事業は、万事が清浄真実になります。

但し、法華の鉗鎚に上らぬ銑鉄や、法華の浄池に濾過せられぬ濁水は、此外であります。法華に背く反理の生活は、開会は出来ませんと云ふことになります。

 次に、三千世界を更に更に拡張したる尽十方法界を一仏国土と開会する法華本門の識法華天晴の妙智妙用によりて得る所の世法は、無限大の理想の世界であって、或は今日の吾等が遊履し得る世界ではないかも知れぬ。

次に、実現国土に還元して、我日本国より始まる法華本因下種の識法華天晴の実智実用によりて得る所の地明の世法は現実其侭の寂光界であって、現代吾等の一日半刻も離るゝことが出来ぬ、天晴地明法華世法一如の人国であります。此人国を育てあげて寂光仏土とするのが、宗祖大聖の三世不断の御念願であり、又、吾等の念願でなけねばならぬ。

 けれども、此念願の道程は、険悪であり、妨害が多い。『治病抄』に、

但シ法華経ノ本門ヲバ、法華経ノ行者ニツケテ除キ奉ル。結句ハ勝負ヲ決ツセザラム外ハ此災難止ミ難カルべシ

と仰せになってをる。「法華経ノ本門」と云ふのは理想の本門でなく、現実の本門、即ち下種本因の本門であります。

 願くば、総ての現実界を、麁、悪、虚妄の仮りの宿りなんどゝ卑怯な見方をせずに、妙、善、真実の出発点として、此が永遠の我が本宅と考へて惣ての行動を取らるべき事を熱望いたします。


                               『大日蓮』大正十四年四月号

 

 

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