聖訓一百題(第23)



堀 慈琳謹講



 剣ナンドモ進マザル人ノ為二ハ用ル事ナシ。法華経ノ剣ハ信心ノケナゲナル人コソ用ル事ナレ。鬼ニ金棒タルペシ。(縮遺986頁)


 『経王殿御返事』の中の一文である。

 此御返事は短文ではあるが、此御文の外に「師子王ハ前三後一卜申シテ」等の御文も、又「日蓮ガ魂ヲ墨二染メ流シテ書キテ候ゾ」等の要文もあるので、熟読すべき御書である。

 「師子王」の御文も、「日蓮が魂」の御文も、他日、一題として講演することにします。

 此経王御前の事は、二通の御書があるだけで、此先の事が明瞭しませぬが、此前年(文永9年)の御書に宛名が四条金吾になってをるので、通途四条殿の女子と云ふ事で、此幼児の無難に成育するやうにとの御祈の御返事が、此御書等になっております。

 此御文の「剣」と云ふのは譬喩であるが正のものである、「鬼に金棒」と云ふ譬は副である。唯さなきだに強き鬼が金棒を手にすれぱ、一層強くなると云ふだけの事である。

 鬼と云ふのは、我国では色々な想像的の怪物であるが、字音は陰と云ふて、隠れたる鬼神(支那で云ふ)に名けたのが起源であるが、此処に云はるゝ鬼は、仏教の『十王経』などから出た阿防羅刹即ち地獄の罪人を取扱ふ獄卒の事で、顔は人であれど牙が出てる。頭は牛の如く角があり手も足も指には突がった爪がある。如何にも恐ろしそうな強さうな風体に作ってある。此が金サイ棒や利剣を以て、罪人どもを行使する様に云ひ、又は画いてある。

 御文の「鬼に金棒」は、此獄卒を取られたので、強きが上に、強いこと、即ち鬼と云ふものは自然に強い者であるが、此が又金棒を取ると一層強くなり、如何なる者も此に敵抗することが出来ぬ。

 此の譬は、『法華経』は「諸経中王最為第一」の御経であるから、最も勢力の強いものであるが、其御経を活用する人が強盛なる、熱烈なる信仰を以てするときは、御経の効能が更に一倍も二倍も強くなると云ふことの譬喩を副へられたものである。

 鬼に金棒、又は鬼に金サイ棒などの俚諺は中古からあるが、今でも盛んに用ひられてをるので、鬼に金棒、餓鬼に苧ガラなどの強弱の著しい対照的の俚諺も古くから出来てをる。但の一遍の譬にすぎぬから、此を拡充して考へてはならぬ。例へぱ、法華経が鬼で、信心が金棒とか、信仰が鬼で法華経が金棒であらうとかに考へ過ごしてはならぬ。

 惣じて譬喩と云ふものは、ホンの一部分だけの事を云ったものとをれぱ間違ひはない。全喩分喩と分ってあるけれども、全喩と云ふべきものは殆んど無い。分喩の中の広狭位なものだ。妙法と蓮華との法譬不分の所などは、別物だと思ふても差支へないと思ふ。

 剣と云ふものは、太刀刀と区別して云へぱ、古代の両刀の物を剣と云って、片刃の物を大刀刀と云ふやうであるが、必ずしも其様に峻別してのみ使用せず、刀剣共に一物の名の共用してをる。

 今、此処の剣と云はるゝのは、却って大刀の片刃の物で、鎌倉時代の一般の使用物である。法華経の剣と云はるゝのは、剣の喩がカナリ広くに亘ってをる。正を以って邪を切り払ふことは先づ第一の通義である。「元品ノ無明ヲ切ル大利剣」とも云ってある。法華の正覚の悟りを以て迷ひの根本を断ち伐ることである。

 八十八使・八十一品の見思の惑ひ、無量無辺の塵沙の惑ひ、四十二品の無明の惑ひが、知識の等級に連れ、人格の向上に伴ひて、種々に様を替へて、如何なる時、如何なる場合にも、善事業の邪魔となり妨害となる。此を除くの方法が仏教の中にも数千万あるけれども、最後の四十二品目の元品の無明、即ち惣ての迷ひの根幹となる奴は、どうしても取り払ふ事が出来ぬ。此を法華経の神通之力で取り除くる。此に法華経に、他経不共の特殊の大威力がある。

 末法当今の法華経は、一部八巻六万九千余字のものではない、法華経本門寿量の下種本因妙の御本尊と御題目とである。此の御漫荼羅に向ひ奉って、御題目を誠心に唱へ奉る事に万事が解決する。元品の無明すら解除することを得る。況して、其以下の少病少悩は何の事でもないが、定業は致し方あるまいけれども、定業能転の経文があるから、不退転の不自惜身命の信行を励まぱ、心願成就せぬ事はあるまい。

 此の経王御前も、幼児至って虚弱な人と見ゆるで、其父の心願の有様が能く文の上に顕れてをる。願業と云ふものは、自分の事には直接であるから、功罪共に速やかであるけれども、吾子なりとも自ら願心の起らぬ幼児に仕向くるには、即ち父より回向の義になるので、間接であるから並大抵では行かぬと覚悟せねぱならぬ。

 其処で法華経の剣、即ち御漫荼羅御題目の剣と云ふものは、「進マザル人ノタメニハ用ユルコトナシ」で、忌々ながら剣を抜き放ちては、悪敵を伐り捨つる事は出来ない所でない。此方が正宗の名刀を振りかぶっても、却って鈍刀を提げた悪敵に切り殺さるゝ事にもなる。名刀を名人が進んで使用するとき、骨を切っても碍へがないほどのアザヤカサである。法華経の名剣を其経相応の行者が、時は今なりとイラッテ大上段に振りかぶって切ってかゝる時には、如何なる悪魔も、悪病も、頑迷も、立ち所に、真向唐竹割胴切袈裟掛、自由自在に片付いてしまふ。けれども如何なる勇者でも、気の進まぬ時にはダメであり、却って後れを取るやうな事もある。そこで「法華経ノ剣ハ信心ノケナゲナル人コソ用ユル事ナレ」と仰せられてある。

 信心に幾種類もある。知識の程度の上からも徳行の素養の上からも、境遇違順の上からも分るゝが、進退強弱の四つは何れにも付いて廻る。「ケナゲ」と云ふ言葉は、通例より一歩立ち勝りてをる事である。即ち殊勝なる、神妙なる、勇健なる精神と行為とを持つ事であって、火の信仰の盛衰を無くして熱の永続するもの、水の信仰の沈滞を無くして不怠の永続することを属件として所有する信仰であらねぱならぬ。進退の中では精進不退であり、強弱の中では強盛であるべき事が、即ちケナゲである。

 人類の為にも、国家の為にも、社会の為にも、自己の為にも真剣であり、緊急であるべきが信心である。其間隙あるとき怠慢を生ずる。此処に、小にして御漫荼羅大聖人の御慈悲にはずるゝ、大にしては本尊守護の神々の顕冥の罰を受けて、精神的には無明煩悩に跋扈跳梁せられて遣る瀬も無くなる。物質的には身体に申分が絶へず、生活は日月に左前になるのは当然の事である。

 願はくは吾人共に、常恒不退に勇健の信心に住して、自在に法華経の名剣を自己の為にも国家の為にも使ひ廻はして現当の福祉を謀り、外からも鬼に金棒のやうに恐れられし様にありたいものである。が、又一つは狂児に刃物を持たすと云ふやうな誇りを受けぬやうに、余り低級な非常識な剣は振り廻さぬ様、御互に念頭に懸けませう。


                             『大日蓮』大正13年9月号

 

 

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